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品質とは(本当は)何だろうか - (2) 応答

先日、あるプロジェクト・マネジメント関係の研究に目を通していたら、要件定義段階における「顧客要求の品質」という表現に出会って、ちょっと驚いた。周知の通り、IT系プロジェクトにおける要件定義とは、顧客のもつ『要求』を引き出し明確化するプロセスのことを言う。ここで作成される要件定義書が、その後のシステム設計の基礎となっていく訳だ。ところが、この顧客の提示してくる要求内容が、しばしば曖昧模糊としており、また部門や担当者の間で相矛盾していたりする。受託側としては非常に悩ましい問題で、たしかに、これ自体がプロジェクトの成否を左右すると言っても過言ではない。

そこでこの発表者は、要求工学やIEEE standard 830: "Recommended Practice for Software Requirements Specifications" などを引用しつつ、正当性・明瞭性・完全性・一貫性・追跡可能性などを、要求仕様が満たすべき『品質特性』と呼び、それを満たす程度を『要求の品質』と考えたらしい。もちろん、この人の言いたいことはわたしも分かる。とくに一部の顧客が、それこそ「不当・不明瞭・部分的かつ矛盾した要求」を後出しジャンケンのように次々と繰り出してくるときには、「なんて品質の低い要求だ!」と言いたくなるし、あるいはISO 9000の品質保証コンサルが、“こんな品質の要求を出したらダメですよ、お客さん”と諭してくれたら、さぞや気が晴れるだろう、とも想像する。

しかし、このような物言いはJISやISOの思想には合致しないのだ。なにしろ品質とは「本来備わっている特性の集まりが、要求事項を満たす程度」なのだから、要求そのものの品質を議論すること自体が、ISOの枠組みを超えてしまう。現行のISO 9000では顧客重視が第一原則であり、要求とは顧客から来るもの(自社組織が勝手に想定し押しつけるものではない)と読み取れる。そもそもISOの定義によれば、要求事項(Requirement)とは、「明示されている、通常暗黙のうちに了解されている、または義務として要求されているニーズもしくは期待。」ということになっているのである(3.1.2節)。だから『顧客要求の品質』の議論は、いわば“メタ品質”ということになってしまう。

(ところで、上記の要求事項の定義文章は、なんだか日本語としてちょっと分かりにくい。正確には、「明示されているか、あるいは通常暗黙のうちに了解されているか、または義務として要求されている、ニーズもしくは期待)と補って読むべきであろう。JIS制定委員の人たちは、日本語の品質について少しは考えなかったのだろうか?)

ともあれ、わたし達が顧客要求の「質」を論じたくなるのは事実である。また、上記のような顧客にあたったら、それこそ「質のわるい客だぜ!」と嘆くだろう(質という漢字は「たち」と訓読みする)。それはいったい何故だろうか。

前回、コンビニで売っている60Wの電球と100Wの電球を例に、「100Wの方が60Wより品質が高い」という物言いを普通はしない、と述べた。また同じ型の自動車で、1600ccの車種の方が1300ccより「品質が高い」とは言わないとも書いた。たしかに両者は重要な特性が違い、だから価格も違う。なのにわたし達は、品質の差違ではなく、「仕様が違う」と認識するのである。

そのポイントは実は、「明示」にある。電球のワット数も自動車の排気量も、主要な性能特性(仕様)としてメーカー側から「明示」されている。これは、顧客の側から義務として要求される事柄についても、同様に当てはまる。ステンレスを使え、と指定された機械部品に、もし腐食しやすい通常の炭素鋼を使ったら、それは「品質が低い」のではなく、もはや「不適合(non-conformance)」なのである。QualityのLow-Highではなく、ゼロの問題になってしまう。契約で明示された義務を怠ったからである。

つまり、逆に言うならば、わたし達が品質の高低・よしあしを問題にするときは、「明示されない暗黙の期待」を満たす程度、について論じるのである。「1300ccクラスの車なのに、この足回りの加速性はどうだ!」と感心するとき、わたし達は期待したよりも高品質だな、と感じる。ところが100W用と明示された電球を、100Wのソケットにつけてちゃんと点灯しても、それは当たり前だ。明示された特性は、合致するのが当たり前である。たまに合致しなければ欠陥で、そこにはYesかNoしかない。品質の高低が大事になるのは、「明示されない期待」の時だけなのである。

あるいは、「一応は言葉で明示されているけれども、数値的に検証不可能な特性」も、品質の高低で語られる。その良い例は、前回挙げた化粧品である。“お肌が若返る”といった効能書きは、個々の消費者にとっては事実上、検証が不可能である。こうした商品に対しては、品質の高低という、ある意味ひどく感覚的な言葉でしか語れない。

そこでもう一度、設計の品質という問題に戻ってみよう。品質管理論では、「前向き品質」(forward quality)と「後ろ向き品質」(backward quality)という言葉が使われることがある。そして設計行為などの品質は「前向き品質」とよび、製造段階での品質を「後ろ向き品質」と呼ぶ。あるいは、このかわりに、「魅力的品質」と「当たり前品質」と呼ぶこともある。設計で作り込むのは主に魅力的品質で、製造で実現するのは当たり前品質という訳だ。

設計図に明示された事項を、製造が実現するのは“当たり前だ”と、皆が考えている(少なくとも日本では)。「製造部門は設計図どおりに作ること!」などという標語を、大きな文字で掲示している工場はない。製造の当たり前とは、つまり、製造に対する明示されない暗黙の期待である。そして当たり前品質の特徴は、「それが欠落しているときにのみ論じられ、合致しているときは意識されない」ことにある。だから不良や欠陥の発生(当たり前品質の欠落)が、工場の品質管理の主な仕事なのだ。

だが設計の成果物のレビューは、そうはいかない。設計とは、要求事項や仕様を、部品やソフトの「機能と構造」に変換し、製造可能な仕組みに落とし込む作業だからである。明示された要件定義書がある場合は、もちろん組み込まれていなくてはならない(設計における「当たり前品質」)。しかし明示されていない期待についても、それを想定し、考慮に入れる必要がある。ここが設計の「魅力的品質」の部分である。

顧客がすでに明示したもの、それは魅力ではない。顧客が自分でうまく表現できないもの、でも実際に現前したら価値あると感じるもの、それが魅力なのである。たとえば「魅力ある異性」とは、まさにそんな存在ではないか。

日本の品質管理は、戦後の復興期における、統計的品質管理手法のアメリカからの輸入ではじまった。それは高度成長期に普及し、日本的な現場の小集団活動と結びついて、TQC活動となった。'80年代はまさに品質管理全盛の時代だったと言っていい。品質はすなわち利益に結びついた。ところが'90年前後のバブル景気時代から、しだいにTQCは色あせてくる。かわりに入ってきたのは、英国発のISO 9000の品質保証思想であった。ここで、品質とはペーパーワークである、という誤解が広く受けいれられた。

つづく「失われた20年」の不況の時代は、工場切り捨てと海外移転の時代だ。この時代、日本企業が本当に必要としたのは『前向き品質』『魅力的品質』を創出する仕組みだったはずだ。だが、そのためには品質の遂行主体を、工場の品質管理課から、営業も企画も技術も巻き込んだクロス・ファンクショナルな体制に移す必要があった。わたしの知る限り、このような思想を持って進んだ企業はきわめて少ない。

それでも、前向き品質をなんとか確保したいと願う技術者は多いだろう。そのためには、どうしたらよいか。一番良いのは、創造性のある人間を揃えて自由度を与えることだが、それは決して簡単ではない。そこで、次善の策として、「前向き品質を後ろ向き品質に変換する」ことを考える。つまり、意識されざる・表現されざる特性を、まずは言葉で表現するのである。具体的には、上にあげたような、正当性・明瞭性・完全性・一貫性・追跡可能性など“メタ品質特性”を「設計思想」の形でドキュメント化し、意識化するのである。もちろん、設計の途上では、完全性や一貫性を阻害するコストとのトレードオフ要素が沢山出てくる。それに対しても、優先順位の考え方を明確化する。

設計の品質を上げたければ、「設計思想」(design philosophy)を固めることが、結局は必須の条件なのである。おかしなことに、わたしたちは「思想」という言葉に対して身構える習性をもっている。だが、この苦境を乗り越えたかったら、もう一度、原点にかえって思想と格闘するしかなさそうである。
by Tomoichi_Sato | 2012-04-24 23:56 | サプライチェーン | Comments(0)

品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い

わたしのつれあいは長い間、あるフランス製の化粧品を愛用していた。日本でも売っている店はあるのだが、少ないし、値段も高い。だから海外出張に出たときは、かえりに免税店でその会社の製品を買うのが習慣になっていた。化粧品は用途と色と型式で複雑なラインナップになっているから、出がけに手渡されたメモを頼りに、読みにくいフランス語表記の製品を店頭から探し出すのが、わたしの任務だった。

ところがあるときから、その依頼がぱたりと来なくなった。つれあいに理由をたずねると、“なんだか最近、あそこの製品って品質が落ちたのよ。ブラシとか安物でペナペナになってきたし、パフのケースもすぐガタが来ちゃう。きっと中国生産とかでコストを下げて来てるんじゃないかしら”--という答えだった。でも、仮にそうだとしても、化粧品自体の性能に変わりはあったのかい、と聞き返したが、“そんなとこで手を抜く会社の製品が信用できると思う?”と、あきれた顔をされるだけだった。

化粧品に『性能』という概念が当てはまるものなのか、わたしはよく知らない。当てはまらないのかもしれない。あれほど多くの女性達が(一部は男性も)、あれほどの情熱と金銭をかけて選ぶ商品に、客観的な性能指標がないというのも不思議な気がする。まあ、きっと、そう思うわたしの方がおかしいにちがいない。ただし、化粧品の性能は論じられなくても、『品質』なら語ることができそうだ。このフランスの化粧品メーカーは、品質が問題で、長年の顧客を一人、失った訳だ。では彼らは、社内の品質管理部門や品質保証体制をきちっとすれば、この問題を解決できただろうか? なんだか疑問に思える。でも、だとすれば、そもそも品質管理とか品質保証とかは、何の役に立つのだろうか。

ちょっと別の話をしよう。設計の品質はどうやって確保あるいは改善したらよいのか? --この難しいテーマをめぐって、ある会社のエンジニアリング部門に招かれて、講演をしたことがある。もう10年前のことだ。精一杯準備してのぞんだつもりだが、残念ながら上出来な講演だったとは言い難い。引き受けてからずっと考え続けても、「十分レビューする」くらいの事しか思いつけなかったのだ。相手の担当の方には、申し訳ない気持ちが今も残っている。でも、設計の品質とは何なのか? 製造の品質とは何が本質的に違うのか?

それから何年か経った後、別のある顧客の工場を見学させてもらった。偶然にもそこは、かつてわたしが講演をした会社が設計・建設したものだった。ディスクリート系の工場である。加工機械や測定器や自動搬送機械がずらりと並んで、整然とした連続処理を行う立派なシステムだ。しかし、その工場の立ち上げ時にはトラブル続出で、相当苦労した、と顧客の担当の方は言われた。機械も設計し直し・作り直しが多く、納期は遅れ、結局かなり赤字プロジェクトだったろう、と。わたしは機械エンジニアではないから、個別のマシンの設計の良しあしはわからないが、たしかに全体のレイアウトや、搬送のバッファーの置き方など、システム全体で観ると疑問な点がいくつかある。あの講演の題が「設計の品質」だったのは分かる気がした。

品質とは何かについて、もちろんJISやISOに定義はいろいろある。現在のJIS Q 9000:2006『品質マネジメントシステム』では、こうだ:「品質(quality)とは、本来備わっている特性の集まりが、要求事項(requirement)を満たす程度」。これは元々ISO 9000規格の翻訳だから、ここではあえて原語をカッコに入れて並記した。また、日本オリジナルの規格であるJIS Q 9005:2005『質マネジメントシステム』では、「質とは、ニーズまたは期待を満たす能力に関する特性の全体」となっている。

ちなみに後者では、「品質」から“品”の文字が抜けて「」になっている点に注意してほしい。理由は、「品質」ではモノの質のみを表す感じが強い点を嫌ったためだ、と聞いた。たしかに「物品」や「製品」などの言葉を見ると“品=Goods” と感じるかもしれない。だが、品という漢字は元々、「品格」「上品」などのように、クラスが上だという意味も持っていたはずだ。まあここらあたりは言葉の好みかもしれないが。

さて、上記のJISの定義によると、品質とは特性が顧客の要求またはニーズを満たす程度だ、となる。ところで、顧客が商品やサービスに求める最も重要な要求・期待とは、いうまでもなく『価格』である。できる限り低価格であること、あるいはせめてリーズナブルな価格であること、を第一に望まない顧客はいないだろう。それでは、“価格とは品質の一要素だ”と言うべきだろうか? 価格決定は品質管理部が決めるべきなのか? もちろん、価格は品質特性の一部などと考える専門家は誰もいないだろう。

では、顧客が価格に次いで要求・期待する『納期』はどうだろう。短納期であることは高品質を意味するだろうか? --これも、なんだか違う気がする。納期遅れ問題の解決に、品質保証部が取り組むという話もついぞ聞いたことがない。短納期が品質の重要な一部だという事になったら、さぞやスケジューラ・ベンダーも商売が伸びてうれしいだろうが、そうなりそうな気づかいは今のところ無い。納期は品質に含まれないのである。

もちろん、JISやISOの規格屋さんは、こう指摘するかもしれない。「価格や納期は、対象に“本来備わっている特性”ではない。製造や販売の都合で、後付けで決まる特性だ」と。たしかに、ISOの文章はそう慎重にもそう記述している。

だったら、『性能』はどうだろうか? これこそ、顧客が望み、かつ要求する主要な特性ではないか。しかも販売部門や製造部門が恣意的に付与する特性でもない。すなわち、品質の中核である、と。

すると、こうなる:わたし達は例えば、同じ車種でも、1300ccのエンジンを搭載した車より、1600ccのものを搭載した車の方が、「品質が高い」と認識する、と。これは本当だろうか? あるいは、100Wの電球は、60Wの電球より「品質が良い」。そんな言い方を、わたし達はするだろうか? 品質管理の仕事は、より高性能な製品を出すことにあるのだろうか? はっきり言って、こうした差は「性能が良い」状態であって、「品質が良い」のとは違うことがわかる。そういう言葉づかいを、わたし達はしない。性能は品質の一部ではないのだ。

それじゃあ、『素材』はどうだ? いくらなんでも、素材こそ品質の重要な要素であるはずだ。--では、あなたが「綿100%」の表示のついた外国製衣服を買ってきて、実はポリエステル混紡だったと知ったら、低品質をなげくだろうか。“詐欺だ!不良品だ!”と怒るのではないか? もしステンレス鋼を指定したポンプに炭素鋼が使われていたら、エンジ会社はメーカに突き返し再製作を要求するだろう。「重大な不適合だ」と言って。決して「もっと品質を上げろよ」とは言うまい。

では、硬度や透過性や摩擦係数などの『性状』はどうだ? あるいは耐久性や賞味期限や保証年数などは? ・・もう賢い読者の皆さんは帰結を想像できただろう。もう一度、100Wと60Wの電球を思い出してほしい。両者の違いを品質の差と誰が思うだろうか。どんな特性項目であれ、それがユーザの主要な要求事項であり、価格に密接に関係し、かつメーカが表示・保証するものである限り、それはもう「品質が高い・低い」を評価する対象ではなくなるのだ。100Wの電球は、100W仕様であるだけだ。そこにあるのは、「合格」あるいは「不合格(欠陥)」の判断でしかない。なるほど、生産者の側からすると、不合格品の比率を下げること、あるいは不合格品を間違って出荷させないことは、品質管理部門の課題だろう。しかし、購入者の立場からは、買った電球が使えればそれでいい。100Wだから高品質、などと評価したりはしないのだ。

かくして、品質という言葉をめぐってさまざまな特性を吟味してきたが、引き算の結果、おどろいたことに何も残らないことになった。わたし達は『品質』を議論したがるが、これは実体のない中空の概念だ、と。したがって、「設計の品質」を論じるなども無意味なこと--なのだろうか? わたし達の議論は、一体どこで道に迷ってしまったのだろうか? 

次回は、この問題にまったく別の角度から答えを与えてみたい。

(この項つづく)
by Tomoichi_Sato | 2012-04-18 23:29 | サプライチェーン | Comments(0)

書評: 「源実朝」 吉本隆明

筑摩書房から出ていた『日本詩人選』の一冊。吉本隆明は批評家として、また反体制的思想家としてカリスマ的人気を一時は誇っていた人だが、わたしは若い頃の詩人としての仕事が一番良いと感じる。もともと詩人的資質をもって生まれた人で、東工大の応用化学を出ているといっても、あまり理科系的な文章を書く人ではない。

その詩人としての彼が、鎌倉幕府の三代将軍として生まれ、若くして暗殺された天才的歌人の詩論を書くのである。面白くないはずがない。古書店でたまたま見つけた本書であるが、集中して一気に読んでしまった。

実朝の兄、二代将軍源頼家はかれが物心つくころに伊豆修善寺で惨殺される。それも、かれを擁立した北条時政の刺客の手によってである。愚管抄や吾妻鏡の文章を引用しながら、吉本はこう書く。「頼家の殺されかたからかんがえて、じぶんだけは別ものだとおもえるような条件はなにひとつなかったはずである。」(p.12)

それにしても、実朝たち兄弟はなぜ、執権である北条氏に一旦は将軍位につけられながら、後に捨てるように殺されなければならなかったか。吉本はまず、鎌倉幕府という奇妙な<制度>の構造分析からはじめる。鎌倉幕府は律令制の日本における国家内国家ともいうべき位相にあった。ところで、その「関東武門の固有制度ではどうしても血縁よりも惣領制のほうが重かった。(中略)この<惣領>は世襲ではなくて、一族一門のうち器量優れたものに<惣領>の指名によって継承される慣例がおこなわれていた。そして<惣領>は武力権と一門の祭祀権をあわせもつものであった」(p.37)は卓見であろう。惣領の支配が血縁の外にあるため、ともすると親子兄弟が互いにせめぎ殺戮し合う不安定性を内包していた。これを抑えるに、上位律令制の権威とのインタフェースとして源家の貴種性が当初は重要だった。しかし北条氏がライバルを次々と滅ぼし、鎌倉体制が安定化して行くにつれて、武家層は独自の倫理をつくりはじめ、やがて貴種は不要に、むしろ邪魔になっていくのである。

北条氏の飾りであることを自覚していた実朝が、我意を押し通したわずかな一つが、京都から貴族の娘を嫁迎えしたことである。当時、まだ「<一族>や<家門>の重さにくらべれば、<家族>はまだ比べものにならぬほど低い位置しかなかった。家父長家族が成立していたともいえず、また、妻女は実家の<族>に属しているといってよかった」(p.92)状態である。実朝という文学青年は、そのような境遇に生まれてしまったのだ。

吉本隆明はさらに、<和歌>とよばれる詩形式に論を進める。万葉の東歌「筑波嶺のをてもこてもに守部すゑ 母い守れども魂ぞあひにける」等は、上句と下句が明確に区切れ、かつ上句は下句を引き出すための隠喩(それ自体に強い意味はない)の形をしている。これは、対になった人々による掛けあいの和唱の場の即興のように生まれるもので、和歌の初原のあたりに近い、と彼は推測する。実朝の

 しら雪のふるの山なる杉村の すぐる程なき年のくれかな

などはこうした万葉調の古形を保持している。しかし

 秋ちかくなるしるしにや玉すだれ 小簾(こす)の間とほし風の涼しさ
 くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に 日の入るときの空にぞありける

などは、(単純な叙景だから)(万葉に類似の本歌があるから)というだけで「万葉調」と断ずるにははるかに遠いのである。事実、和歌は古今集の時代に入って明確に変容し、「雪のうちに春はきにけり鶯の 凍れる涙いまやとくらむ」のような<象徴>の地平にうつっていく。

 梅の花さけるさかりをめのまへに すぐせる宿は春ぞすくなき
 我が袖に香をだにのこせ梅の花 あかでちりぬる忘れがたみに

こうして並べてみると、実朝の歌が独特な心をもっていることがよくわかる。和歌はさらに『後拾遺集』で変容する。俗語の大胆な導入とともに、「詩的な<規範>のたががゆるんで、<象徴>性が崩壊しはじめたことを意味している」(p.197)と吉本は断ずる。いわばJ-POPの歌詞のように、平明だが単純な歌になるのである。「個々の詩人の感性に基礎をおくために、(中略)<景物>はほかにどんな習俗や伝承にしたがうものでもない」(p.198)ことになってゆく。和唱の場の共同体は不要となったのである。

こうしてとうとう和歌は新古今の岸辺にたどり着く。「吉野山花のふるさとあと絶えて むなしき枝に春風ぞふく」(藤原良経)「花は散りその色となくながむれば むなしき空に春雨ぞふる」(式子内親王)--こうした秀歌は、すでに目の前の景色とは何の関係もなく、すべて詩人の繊細な心の内にあるものを、技巧的な形で彫塑したものである。

 このねぬる朝けの風にかほるなり 軒ばの梅の春のはつ花
 吹く風は涼しくもあるかおのづから 山の蝉鳴きて秋は来にけり

十三歳で将軍職となって以来、実朝は鎌倉幕府の<象徴>的な頭領にすぎず、ただ祭祀権のみを履行する人形であった。かれが晩年望んだことは、宋に渡ることと、京都の律令王権から位階の昇進を得ることだけであった。そして二十七歳のとき、かれはとうとう右大臣に任ぜられる。その上は太政大臣しかなく、そうなると彼を取り除くことは困難になる。実朝が就任の拝賀のために鶴岡八幡宮に出たとき、だから彼を守る役目のはずの北条義時は「体調」を理由にそこに参列せず、かわりに兄頼家の子・公暁が暗殺者として木陰で待ち構えていたのであった。そうした顛末を、彼は何年も何年も前から、ある意味で心の中では見通していたともいえよう。

 神といひ仏といふも世の中の 人のこころのほかのものかは
 うつつとも夢ともしらぬ世にしあれば 有りとてありと頼むべき身か
 萩の花暮々までもありつるが 月出てみるになきがはかなき

ところで、吉本が指摘しなかったことで、一つ気がついたことがある。それは、歌人実朝は非常に耳の良い人だった、ということである。たとえば百人一首にとられた有名な

 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも

は、たしかに吉本の言うように不安定な将軍職にうえにいるじぶんの<心>をあらわしていよう。ただ、それはこの歌の「な」「も」の音の繰り返す不安なリズムの上に、あやうく揺れてきしむ音が示しているのである。あるいはまた、もっとも有名な

 大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

うっかり武家風だとか勇壮だとか誤解され、また詩人のひどく孤独な心が暗示されているようにも感じられるこの歌は、しかし下句の音をたどっていくと、まさに磯を打つ大波の低音の轟きが次第に周波数の高いしぶきに変わっていくさまを、見事に音自体で表象している。まさに、<和歌>という形式の中にこめられた、見事な<音楽>だった。そのような奏者を若いうちに失う事態こそ、日本における和歌の頂点の終わりを暗示していたのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-04-14 21:22 | 書評 | Comments(0)

運・不運は存在するか - または、組織のレジリエンシーについて

今回は『運・不運』ということについて考えてみたい。わたしは人前でリスク・マネジメントの話をするとき、受講者に「あなたは運・不運があると思いますか?」という質問からはじめることが多い。「無い」と答えるのは20代の若い人で、中高年はたいてい「ある」と答えると、以前、書いた。若いうちは自分に自信があるが、歳をとるにつれ思いもよらぬ出来事に見舞われるからだ、と考えてきた。

ところが先日、ある大学の3年生にこの問いを発したところ、過半数の学生が「ある」と答えたので愕然とした。むろん、昨年のようなひどい災害のあとでは、無理もないのかもしれない。しかし、皆がそう答えた一つの理由は、就職活動の経験にあったらしい。なにか割り切れない、理不尽さを感じたのだろう。また就活の時期に前後して、「勝ち組・負け組」といった言葉も出てくる。そう言いたくなる気持ちも、少しは分かる気がする。だが、ちょっと待ってほしい。運・不運というのは、本当に存在するのだろうか?

少し回り道になるが、いったん別の話をさせてもらう。わたしは昨年まで何年間か、会社でPMOの仕事をしてきた。毎月、プロマネさん達が出してくるマンスリー・レポートを読むのも、仕事のうちである。プロジェクトの状況について文章による報告があり、さらに計数的なメトリクスが並んでいる。これを、第三者的な立場から客観的に読み解いて分析し、リスクやトラブルがないか見ていくのである。まあ、スポーツの世界でいえばスコアラーのようなものだ。自分ではボールを触りはしないが、全体の局面や、過去の他の事例との比較から、多少の助言をしたりする。

そうして毎月レポートをたくさん読んでいるうちに、気がついたことがあった。それは、プロジェクトは二種類にほぼ分かれるという事である。一つはうまくいっている案件で、毎月見事に前進していて、ちょっとした障害もうまく切り抜けていく。読んでいて安心である。ところが、うまくいかないプロジェクトもある。問題が山また山のごとく次々発生して、納期も予算もどんどんまずい方向に行く。担当する人たちの苦労を思い、毎月、読むたびにこちらも溜息が出てくる。

どんなプロジェクトも大体この二種類に分かれていき、いったんプラス方向に行くとずっと上昇し、逆にマイナスに行くとどんどん坂を転げ落ちていく。そして、不思議なことに、中間がないのである。つまり、ある月は良くて別の月はまずい、という種類のプロジェクトはまず存在しないのだった。いわば原点の回りを振動し、小刻みにプラスとマイナスを小刻みに行き来する種類が無いのだ。

プラスに行くかマイナスに落ちるかが、プロマネの能力だけで決まるとは、わたしには思えなかった。もっと外的な要因、たとえば見積や契約で出だしからミスった、顧客がひどく気むずかしい上に何も決めない人たちだった、などの要件によって、あるいは企業買収や災害など思わぬきっかけで、それまで中立状態だったプロジェクトが負の方向に傾いてしまう。それとは逆に、うまく好条件で受注できた案件は、予算に余裕があって、トラブルの予兆が見えたら先回りして対策が打てる。多少の費用を先行投資することで、将来のリスクをヘッジできるのだ。必要なマンパワーを投入できるので、仕事のクオリティもいい。だからより良い状況で仕事をリードすることができる。

つまり、どうやら制御理論的に言うと、プロジェクトは一般に不安定なもので、一方向に動いていく傾向が強いらしい。その理由は、プロジェクトに本質的に不確定性があるからだろう。不確実なときには、打てる手の範囲が広い方が有利だ。つまり予算があれば有利なのだ。予算が足りないと、打つ手が自ずから狭まっていく。その結果、さらに不利になっていく。こうして、ポジティブ・フィードバックがかかるのだ。そして初期条件や外乱などの結果として、プラスかマイナスか方向が決まっていく。

しかし、だとすると、やっかいな問題が一つ出てくる。プロジェクト・マネージャーの能力はどう計るべきか、という問題だ。明らかに、仕事の結果(採算の数字)だけで能力を判断するのは不合理だ。それは、どんな案件にアサインされたかで、かなり決まってしまうと思われた。不利な条件で受注したプロジェクトに任命されたプロマネは赤字拡大の結果を叱責され、有利な仕事にアサインされた者はたくさん稼いだと賞賛される。それでは、運が良かった者を誉め、運がわるかった者を罰するのと同じではないか。つまり運・不運を計っているにすぎない。でも、そもそも運・不運とは何だろうか?

考えているうちに気がついたことがある。それは、問題が生じたときに、プロジェクト組織がどう対応するかであった。プロジェクト・チームによっては、外部からの攪乱はすぐに抑えこみ、内部は情報が透過的で、プロマネが隅々まできちんと把握している。一方、別のチームでは、外乱が内部で増幅され、しかも内部もバラバラでノイズを発している。わたしは前者のような組織を『ダンパー』、後者を『アンプリファイヤー』とひそかに名付けることにした。

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そして言うまでもなく、ダンパーの方がトラブルへの対応能力が強いのだった。自転車にたとえれば、ひどい山道でも転ばずに運転する能力といえようか。アンプリファイヤーの方は、ちょっとした小石にも躓いて倒れてしまう。

つまり、運・不運というのは、こういう事だ。次の不等式:

 外乱 > 対応能力

が成立するようなとき、人は「運・不運」を意識するものらしい。

逆に言えば、われわれが運・不運の奴隷になりたくなければ、『対応能力』を大きくするしかない。その対応能力の上限とは、いわば組織の“降伏点”=それ以上の力がかかるとバネが復元できなくなる点を示している。あるいは、組織の『レジリエンシー』(抵抗力)と呼んでもいいだろう。レジリエンシーの範囲内ならば、外乱は押さえ込むことができ、プロジェクトは安定して進むことができる。そしてプロジェクト・マネージャーの能力とは、すなわち、組織のレジリエンシーの大きさによって測るべきなのである。

ところで、もう一つだけつけ加えることがある。勝負事や競争の中では、このライバルのレジリエンシーを、意図的にくじく戦術があるのだ。これは学生時代、マージャンをやっていたときに、あるクレヴァーな先輩に聞いた話だが、その人は4人で卓を囲むときに、早い段階で誰かに狙いをつけて「落とす」ことにしているという。つまり、その相手の邪魔をして、つまらぬミスを誘うのである。そうして相手が気分を害してクサればしめたものだ。マージャンは運・不運の要素が比較的強いゲームだ。そして、クサった者はなぜか運がつかない。4人のうち一人が落ちれば、自分はそれだけ有利に勝負を進めることができる、というのである。

なんだかあまりフェアなやり方には聞こえないが、まあ、一理はある。クサると運がつかないのは、気分的に落ち込んで適切な判断ができなくなるからであろう。つまり、競争相手のレジリエンシーを砕いてしまう戦術なのである。

わたしが「勝ち組・負け組」という言葉を好まないのは、この理由による。この言葉は、じつは「負け」と感じている人々の気分を阻害して、レジリエンシーを砕く機能があるからである。こうして、この言葉は、人々の二極分化を固定化する方向に作用する。困ったことに、この社会には賃金の二極分化を好ましいと計算する者たちも、一定数、存在するのだ。

わたしはこの世に、偶然の片寄りがある程度つづいて起こることは否定しない。人生は有限で、自分の能力だってかなりの限界がある。そしてわれわれの社会は、どうにも不確実で制御不安定だ。それでもわたし達には、もって生まれたレジリエンシーがあるのである。それをお互いに砕き合う愚は、避けた方がいい。自分達の小さな翼で、なんとか自力で飛び続けなければならない。それが、あの災害を生き延びた者の義務だと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-04-09 23:54 | リスク・マネジメント | Comments(1)

心の中でヘリコプターに乗れ


社会に出てからそれなりの時間が経つが、若い頃に思っていたことで、実は幻想だったなと感じることが一つある。それは、“能力が上がれば、あるいは出世すれば、悩みは減るはずだ”、という考え方である。これは言いかえれば、自分は若いから(あるいは地位が下だから)悩みが多いんだ、との理屈になる。仕事が難しいのは、まだ駆け出しで能力が足らないからだ、だからベテランになれば楽に仕事ができる。やりたいことができぬストレスに悩むのは、自分に許された権限範囲が小さすぎるからだ--そんな風に、以前は考えていた。

しかし、押しも押されもせぬ立派なチューネンになってみて分かったのは、むしろ年を経るほど悩み事は多く、責任に比例して肩の荷も増え、毎日つく溜息の回数も多くなるという事情だった。就職は人生の一大事だったが、仕事を学ぶのはもっと大変で、中間管理職になると軋轢はより面倒で、仕事はちっとも減らないのに体力だけは確実に落ちていく。もちろん、単にわたしが愚かで心配性なだけだ、という可能性もある。他の人は、毎日もっと陽気に生き、充実感をもって仕事をし、問題などどこ吹く風、と過ごしているのかもしれない。でも、だとしたら、酒の場では誰も仕事の愚痴などこぼさず、書店には問題解決の本など並ばず、新聞の身の上相談はあがったりで、GDPはロケットのように成長していかなければヘンだ。

「『問題』とは、自分達が(意識的であれ無意識にであれ)期待していた状況と、現実との間に生じるギャップのことを指す」--前にもこう書いた。期待と現実にギャップがあるときは、なんとかして埋めたいと誰もが思う。机の横の立ち話や会議室や酒場で議論になるのは、そういった問題解決の方法についてである。解決法が明白なら、誰も悩みはしない。実行すればいいだけだ。でも、明白でないから、議論になる。そして、なかなか決まらない。あるいは決まっても、納得して従いづらい。これが『悩みのある』状況である。

仕事上の問題解決について、議論が別れてなかなか決まらない理由は、いくつかある。まず、そもそも、何が問題か分からないときだ。なんだかどこかおかしいと感じるのだが、何がどうおかしいのか、問題自体が同定できていない場合。あるいは、問題が複雑すぎて(大きすぎて)手に負えない、と感じられるときも同じだろう。以前、問題解決プロセスを5段階に分けて説明したことがあったが(「問題解決のための二つのキーワード: 抽象化と類推」)、その用語で言うなら、これらは原因分析段階での論争だ。アーリー・ステージでの議論だと言ってもいい。

しかし実際には、問題は同定されたものの、解決策を決める段階で論争になる方が、はるかに多い。たとえば、情報が不足して現状が正確につかめない。ないし、現状は分かるが未来が不確実で予測しがたい場合。また、制約条件がきつすぎて実行可能解がない場合。さらにやっかいなのは、解決の結果について評価軸が複数あって、トレードオフのために優先がつけられない場合だろうか。

仕事上でこうした困難に直面したとき、かつて先輩から教えてもらった教訓がある。それは「心の中で、ヘリコプターに乗れ」というものだった。プロマネに必要なのは、ヘリに乗る能力=Helicopter Capabilityだ、との言葉も聞いた。どうやら元は、ある米国企業のトップ・マネジメントが教えてくれた言葉らしい。

ヘリコプターに乗るとは、どういう意味か。それは、問題を起こしている戦場(Battle field)と同じ地平、同じ目線で考えないで、もっとはるか上空から考えろ、という意味だった。ヘリに乗って、ずっと上から問題を眺める。そのとき、問題の局地戦だけではなく、仕事の全体像、当面の目的地、地形や敵味方の戦力の配置、そして遙か向こうにかすんでいるビジネスの成功地点(=ゴール)、などが見えてくるはずだ。その大きなパースペクティブの中で、あらためて目の前の問題の位置づけを考え直す。そうすると、局地戦で打破するのか、いったん引き下がって精力を増員してから正面突破するのか、それとも迂回するのか、そもそも目の前にいるのは本当の敵なのか、といったことが見えてくる。

心の中でヘリコプターに乗ると、先に挙げたような論争の状況はどう見えてくるだろうか? たとえば、何が問題か分からない、問題が大きすぎて(複雑すぎて)手に負えない、というとき。それは、問題に対する視点が近すぎる(近視眼的すぎる)ときに生じる。だから、後ろに大きく引いて見ると、問題の構図が見えてくるかもしれない。

情報が不足して現状がつかめない、あるいは現状は分かるが未来が不確実で予測しがたい、というときはどうだろうか? 問題を遠くから見るというのは、細部を忘れて『抽象化』して考える事である。抽象化できれば、地表で似たような図柄を別に見つけることも可能なはずである。つまり、抽象化と類推の手法を効かせることができるようになる。そもそも、技術者という人種は、“細部に近寄って見る”ことが好きだ。事象を細かく観測し分析したがる。そして技術論の局面でものごとを解決しようとする。そのためにデータを取りたがる。それも、より正確なデータを、より大量に取る。そのうち、事象は数字の藪の中に隠れてしまって訳が分からなくなる。技術論で解決するより、味方の人数を倍に増やしたり、思い切って高価な道具を使ったりする方が効果的だったりする事もあるのに。

制約条件がきつすぎて実行可能解がない、というのはどうだろう? これなどまさに、大局観をもち、制約条件を取り払って考えることが有効だ。というのも、『制約条件』は自分が心の中で暗黙のうちに設定しているものが殆どだからだ。期限どおりに終わらない、と悩んでプロマネに相談したら、なあに隣のタスクも遅れているから、お前の仕事は後1週間は遅れても大差はないんだ、と言われたりする。企業組織は縦割りの壁があるから、その壁を「ハードな制約条件」だと感じがちだ。しかし、もっと上の立場から見ると、分担はとりあえずのもので、最終的に仕事がまとまればよい、だから部署間のインタフェースは「ソフトな制約条件」だという事が、実際よくある。

そして、解決策に対する評価尺度が複数あってトレードオフが生じるときは、どうだろう。安全性を優先すべきかコストを優先すべきか。納期を優先すべきかリスクを重く見るべきか。デザインはクールでハードなものか、それとも暖かく柔らかなものか。こうした論争はえてして一番やっかいだ。というのは、“信念”あるいは“好み”のために、妥協ができない人が案外多いからだ。

まあ、事柄が政治や宗教などの領域ならば、簡単に譲れないのもわかる。しかしビジネス上の判断で、あまり自分の価値観に固執するのは、ちょっと大人げないと言えるだろう。しかし、「あんたは子どもだ」などと言ったら文字通り喧嘩になる。そういうときに、視点をずっと上にあげて、遠くの目標を(再)確認することは役に立つ。というのは、価値観の相違を、共通の大目的のために吸収する効能があるからである。それにビジネスでは、「当座の手段」だったはずのものが、いつのまにか「目的」にすり替わっていることがよくある。これは遠くの目標を再確認することで、解消できるからだ。

この『ヘリコプター技法』を使うときは、できれば目をつむって、本当に心の中でヘリコプターに乗って上空に舞い上がるイメージを持った方がいいように感じる。人間の心は微妙なもので、イメージすることで、それなりに感じ方が変わってくるからだ。

先日上梓した「“JIT生産”から卒業するための本」で、わたしは『上司の上司の立場になって考えてみよう』と書いた。それもまた一種のヘリコプター体験である。自分の上司の立場になってみる、では、二階に上がった程度で、あまり視野は広がらない。でも、自分の「上司の上司」の立場になったと想像すると、ずいぶん視野が広がるはずなのである。

このようにヘリコプター能力はとても役立つものなのだが、一つだけ必要な条件がある。それは、目をつぶって心の中で瞑想できるだけの、時間と場所である。あなたは、自分の机の前に座って、目を閉じてじっと考える勇気はおありだろうか? 勇気があっても、それをする時間はお持ちだろうか。問題解決に一番必要なもの--それは「考え事ができる時間」なのだから。
by Tomoichi_Sato | 2012-04-02 22:29 | 考えるヒント | Comments(0)