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映画評:「鬼に訊け-宮大工 西岡常一の遺言」

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監督:山崎佑次、撮影:多田修平、プロデューサー:植草信和 
出演: 西岡常一、西岡太郎、石井浩司ほか

法隆寺の「昭和の大修理」の棟梁を務め、晩年は薬師寺の白鳳伽藍復興工事などを指揮した、伝説的な宮大工・西岡常一。本映画は、氏の晩年のインタビューを中心に再構成したドキュメンタリーである。法隆寺の頭領の家に三代目として、生まれながらに宮大工の道を歩むことになった氏の生涯を追いながら、木工の美しさ、木造建築工事のおもしろさ、そして仕事への厳しさを、わたし達観客は見て学ぶことになる。

それにしても、日本の木工の美しさ、そして古い建築技法の知恵の深さはどうだろう。棟梁家に伝わる『法隆寺宮大工「口伝」』によれば、建物の南側には、山の南側に生えた木を使い、北側には、山の北側斜面の木を使え、という。それが木材本来の持つ、自然な性質を最大限に活かすことになるからだと言う。そのために宮本氏は、祖父の命令で農学校に進むことになる。自然は土をつくり、土は木を生やすから、大工はまず土から学べ、という意図だったらしい。

西岡氏は「千年もつ建物」の視野で考える。それだけの年月を耐える建物のためには、樹齢千年ちかい檜がいる。ところが戦後、単相化し荒れていく日本の山林には、もはやそれだけの檜がない。そこで台湾の山奥まで、材木を得るために何度か足を運ぶのである。そして、その木のいのちを繋いでいく技術を弟子達に徹底的に仕込むのである。

木を削るかんなにしても、わざわざ両刃の鉋(まるで槍の穂先のように見える)を作る。それも、現代の鉄ではよく切れないから、わざわざ古代釘を鋳直し、鍛えて作らせるのである。

映像としての見所は、その材木を切り、削って、表面を仕上げ、さらにそれを組み上げていく一連のシーンにある。その美しさ、見事さは息をのむほどだ。しかし、現場を見た西岡は、「大事なことは大工たちの気持ちが揃っていることだ。そうすれば仕事は無駄なくきちんと流れていく」という。そのように、働く人の心をまとめて引っ張っていくことが、棟梁という名のプロジェクト・マネージャーにとって大事な仕事なのである。

実際、弟子の一人はインタビューで、棟梁のどういうところが好きだったかという質問に対し、「ブレないところだ」と答える。これが一番大切な、しかし、一番難しいところだろう。大工は施主に雇われている職人である。にもかかわらず、建物のためには、どんな注文をつけられても曲げるべきでない筋、つまり「設計思想」があるのだろう。そこに対して、決してブレない。これは言うほど楽なことではないはずだ。西岡氏は60歳を過ぎてから、三代続いた棟梁であるにもかかわらず、法隆寺を辞して薬師寺に移る。映画はそのあたりの事情についてさらりとしか説明しないが、寺と何らかの摩擦があったことが想像される。

いや、薬師寺でもまた、建築の委員である大学の先生方とぶつかる。彼らは、木造伽藍の内部に、防火のために鉄骨とコンクリートのシェルターを組み入れるよう指示するのだ。西岡氏は結局はそれに従わざるを得なかったようだが、「コンクリートの寿命は100年程度と聞きます。100年たったら、あの内部だけどうやって建て替えるつもりなんでしょうか?」と答えている。

この人が「鬼」であるのは、結局、仕事に対する責任(それは「御仏に対する責任感」であるが)の強さによるのだろう。それがあるから、自分の配下の大工たちにも、ブレずに命令を下せるのである。たかだか自分のプライドや利益とかではなく、1000年後に対する使命としての責任感。そういう希有な心がけを持った人の顔、ある意味とても穏やかな顔を、観ることができる優れた映画である。
by Tomoichi_Sato | 2012-03-30 23:56 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

設計思想(Design Philosophy)とは何か

Kさん、久しぶりにメールありがとうございました。お元気とのこと、何よりです。ご活躍中の様子が、行間からあふれていました。生産管理の現業をかかえた上に、新規システム導入プロジェクトのメンバーの一員としてアサインされたとは、たしかに大変だろうとお察ししますが、それだけKさんが周囲から期待され一目置かれていることの証左だと思います。

ところで、Kさんからメールをいただくたびに、難しい宿題を投げられたように感じるのですが、今回は格別です。『設計思想に関して』のご質問とは! なるほど、たしかに新しい基幹業務システムを考える出発点として、“その設計思想はどうあるべきか”を問うのは、とてもオーソドックスかつ当然の発想と思います。自分達が製品を設計開発するときも、成功した製品には明確な設計思想があった。だから、プロジェクトを成功させたければ、当然システムにも設計思想がなくてはならないはずではないか。--設計部門出身のKさんはそう考えられた。ですが、その「当然」がちっとも当然たりえないところに、わたし達の社会の根本問題がある訳です。

メールの文章を拝読したところ、ご質問は二点あるようです。わたしの業界の場合には、設計思想を話題にすることがあるのかどうか。そして、そもそも設計思想とは何を規定すべきものなのか、と。

まず最初の質問からお答えしますと、はい、たしかにわたしの本業=プラント・エンジニアリングの世界でも「設計思想」はあります。設計思想のことを英語でDesign Philosophyといいますが、プラントの世界では文字通り"Design Philosophy"というタイトルの文書を、基本設計の最初の段階で作ります。そして、(基本設計が固まった後に)入札が行われる場合も、それは仕様書の一部として位置づけられ、以後の詳細設計や調達など全ての作業に適用されます。ただこれは、ほぼ海外の顧客向けのプロジェクトの場合のみです。少なくとも自分の経験では、純粋に国内のお客さま相手の仕事で、設計思想が議論になったケースはありません。

では、その"Design Philosophy"とは何を規定したものなのか。じつはプラントの場合、Design Philosophyは何種類も作ります。Start-up Philosophyだとか、Maintenance Philosophyだとか、Shut-down Philosophyだとか。なんだか“思想だらけ”に見えるしょうが、事実です。こうしたPhilosophy文書は、別段格調高い文章ばかりという訳ではないのですが、プラントのライフサイクルを通して生き続けます。そしてプロジェクトの途上で設計上の論争が発生したとき、必要ならばDesign Philosophyに立ち返って、「ここにこう規定してあるじゃないですか。貴方の要求は、これに沿っていません。だから、どうしても変更せよと言うのなら、追加を払ってください」といった決着の基準になるのです。

では、どのような時に論争が起きるのか。たとえば、多重化の要求です。運転上の安全性のために、ここの機器やケーブルを多重化して冗長構成にしろ、との要望はよくあります。ですが当然、投資額は余計にかかります。運用保守の手間も増える。一括請負契約だったら利益に直接関わる問題です。このようなとき、その程度までクリティカルな部分を冗長化すべきか、Design Philosophyが規定していれば、無駄な論争で時間を失う事が避けられます。『クリティカルの度合い』を誰がどう決めるかも書いてあれば万全です。

あるいは、運転に対する反応の俊敏性と、運転の長期安定性のどちらをとるか、といった問題もよく起こります。車の設計で言えば軽量性と高速安定性みたいなものです。あるいは保守のしやすさと、コンパクト性の相反。さらに緊急シャットダウンの時に、何からどう優先して落としていくのか。危険物質や高温高圧を扱うプラントでは、この優先順位によって設計がずいぶん変わってしまいます。

つまり、設計思想(Design Philosophy)の文書とは、第一義的には、設計を決めるときに相反条件があって、あちらを立てればこちらが立たず、というトレードオフが生じる際の、判断の優先順位を決めたものである、とわたしは考えています。

もともと設計とは、目的とする『機能』をはたすべき『構造』を決める行為です。ところが、どんな製品・システム・サービスにおいても、求められる機能要件ならびに評価項目は、複数あるのが普通です。しかもそれらは、しばしば互いにトレードオフの関係にあるのです。また、空間的な形状・構造を考える際には、いろいろな選択の余地(自由度)があります。こうした、多数の自由度を持つ設計において、その方向付けをするガイドラインとなる方針、あるいはコンフリクトが発生したときに、優先順位を強く明確に決めたポリシーが、設計思想です。

いいかえるなら、設計思想とは価値観の表明に他なりません。とくに、トレードオフが生じる前に、「何を捨てるか」を決めるものなのです。価値観は自然科学や法則からは生まれません。だから思想の形で提起される必要があるのでしょう。これがKさんの第二の質問へのお答えだと思います。

トレードオフ問題は、特定の状況に付随して生じがちです。そのため、設計思想はしばしば「シナリオ」の形になります。プラントの場合だったら、Start-upとかShut-downとか、状況別に作成される訳です。では、情報システムの場合はどうか。もちろん、Start-up/Shut-down/Back-up/Archiving/Maintenanceなど運用的状況の他に、拡張やリリースアップなどもシナリオの対象でしょう。アクセス性とセキュリティの相反なども考えておく必要がありそうです。

この設計思想にまつわる誤解で、よくあるのが『設計条件』との違いです。設計条件とは、設計の境界条件あるいは環境条件を与えるものです。設置場所はどこで広さはどれくらいか、気温・湿度はどれくらいか、建物の床加重は、外部電源容量は、利用者数は、等々。これらは測定ないし想定の結果として、数字の列挙で示されるもので、「思想」ではありません。想定はある意味、思想の表現結果ですから、「想定外でした」という言葉は、“それは無いという設計思想でした”(あるいは“設計思想が無い状態でした”)を示している訳です。

ところで設計思想は、言葉で文書にしなければならないのでしょうか? わたしは必ずしもそうとは思いません。ただし、西洋人の感覚では、明確に文章に表現されて他者に伝わるものでなければ、思想とは認めないでしょうね。言葉にはならないが、リーダーやキーパーソンの間でなんとなく無言のうちに共有され、以心伝心で皆に広まっていく・・などというものを、彼らは「思想」とはよびますまい(強いて言えば、「文化」とか「習慣」と呼ぶでしょうが、これが製品毎に変わるとしたらちょっとヘンです)。まして、詳細設計段階で数十人から数百人が関わるプロジェクトの場合、以心伝心は、はなはだ頼りない伝達手段ではあります。

ある製品や仕組みやサービスに設計思想があるかどうか、外から分かるでしょうか? たぶん、ある程度は感じ取られると思います。それは、設計の「いさぎよさ」であり、あるいは「首尾一貫性」に表れるはずです。むろん、視覚的には直接見えない場合もあるでしょう(情報システムなどはその良い例です)。しかし、一貫した設計思想の元でつくられたシステムは、ユーザーから見て、構造や機能やインタフェースにGuess(推測)がききやすいはずです。

何年か前にKさんにお会いしたとき、わたしがまだHP-200LXという旧型のPDAを使い続けていることを覚えておられるでしょうか? あの製品は、明確な設計思想で作られた代表的製品だったと思います。携帯可能で、キーボードをそなえ、市販の単三乾電池で1ヶ月動く。そのかわり液晶はモノクロでバックライト無し、無線通信機能も無し。GUIも無し。それでも、わたしはあれを2台購入し、両方が壊れるまで10年以上も使い続けました。ですが、GUIをのせた後継機種は買いませんでした。設計思想に不透明さを感じたからです。

思想を持った製品は、ユーザの「好き嫌い」が強く出ることが、たぶんもう一つの特徴なのでしょう。逆に言えば、あらゆることに優等生的で八方美人な製品には、思想を感じられないのです。だから、設計思想とは、ある意味で『戦略』にも似ています。戦略とは賭けである、無駄な戦いを略すことである、と前にも書きましたが、それはつまり「何を捨てるか決める」ことだからです。

思想がなくても人は生きていけます。でも、混迷を打破して人をリードする力強さは、生まれ得ません。どうかKさんには、皆が納得のいくシステムの設計思想を作り上げていただきたいと願う次第です。
by Tomoichi_Sato | 2012-03-26 21:48 | 考えるヒント | Comments(0)

哀しい工場。

もう何年か前のことになるが、金融機関系の経営コンサルタントの知人から依頼されて、小さな工場を見に行ったことがある。知人は経営面の数字を見て提案の骨子を作ろうとしていたが、製造現場にもいろいろ問題がありそうだと感じたらしい。ただ化学系の工場は不得意なので、プラントもよく知っているわたしに手伝ってほしい、とのことだった。年商数十億の小規模工場なので、わが勤務先の仕事につながる可能性は少ないかとも思ったが、出かけることにした。

住宅地にほど近い県道沿いに、その工場はあった。敷地内に数棟の工場建屋がたっている。その一棟の中にある事務室にわたし達は通された。副工場長や製造課の方々から、まずどんな製品を作っているのか、どんな工程から製造されるかの概要を教えてもらい、それから工場を一巡りする。これはどこの工場を見学する際も同じである。ただ、そのときの「一巡り」の順路が、最初のポイントになる。工場全体の分かりやすい配置図があって、工程の順番どおりに見せられるかどうか。複数の製品ファミリーがある場合(日本の製造業はどこも多品種少量生産を強いられるため、たいていそうなる)、製品別にブロック化されているのか、それとも設備・工程別か。また上下階はどう使い分けるか。こうした点に、生産マネジメントの設計思想が現れるからだ。

残念ながら、この工場の設備配置はばらばらで、製造の動線があちこちで交錯していた。土地代の高い日本の工場はどこも、多層階の建物の中に設備・装置をおしこめなくてはならない。化学工場は工程間が密結合で、配管がメインの輸送手段だから、装置のレイアウトが経済性に大きく響く。だがここはたぶん、業容拡大期になりゆきで建物を増設し、製品種類の拡大とともに装置を入れやすい場所に据え付けた、という感じだ。しかしもっと驚いたのは、製造作業環境だった。製品性状にきびしいはずのファイン・ケミカル材料を、蓋のない攪拌槽の中で作っている。しかも部屋を気密にし空調をコントロールしている訳でもないので、窓から埃が飛びこんできてもおかしくない。品質問題はありませんか、と聞くと、「それが悩みなんです」との答えがかえってきた。

品質もさることながら、労働安全面も相当なものだった。無機化学で、個体や粉体、強酸などを扱う工場なのに、作業台の高さと搬送台車の高さが合っていない。人がかがんで手で持ち上げている。あれでは腰が辛そうだし、こぼす危険性だってある。中でも一番驚いたのは、強酸性流体の配管が、人の行き来する場所の真上を、ろくな支持もトレーもなしに通っていたことである。配管材の摩耗で中身がリークしたらどうするのか? 今どき、21世紀の日本にこんな工場がまだあるなんて信じられない。見学を終えて事務室に戻ったとき、思わずため息をついてしまった。

まあ、建物の配置自体は変えようがないにしても、物流動線を整理し、空調もきちんとし、適切な装置や治具を考案すれば、多少時間とお金はかかるだろうが、おそらく生産性は10%近く上がるにちがいない。比例して製造コストも下がり、利益もまた出てくるだろう。化学会社出身の、自営コンサルタントの先輩を紹介して、少し地道にやってもらうことにしようか。そう考えて、見学後の質疑応答にのぞんだ。

製品種類や需要の動向、従業員数などの話がすんで、わたしに順番が回ってきたとき、いつもの質問をした。「代表的な製品の製造リードタイムを教えてください。それと、原材料・中間品・製品の在庫量はそれぞれどれくらいありますか?」

いうまでもないことだが、製造リードタイムと在庫量は表裏の関係にある。受注生産の会社では(中小下請製造業はほぼ全て繰返し受注生産型である)、顧客がリーズナブルな納期を与えてくれる限り、基本的に製品在庫はゼロになる。『リーズナブル』とは、製造リードタイムよりも長い納期、との意味だ。仕込みから仕上げまで1週間かかる製品を、電話で「明日持ってこい」という顧客ばかりが相手なら、最低でも1週分の製品在庫を持たなければ、商売はやっていかれない。では、納期を1週間くれる顧客ばかりなら在庫ゼロになるかというと、そうではない。多品種を切り替えて作っている場合は、注文が来ても装置が空いていないことも多いからだ。でも、1週間で製造できる製品の在庫が、2ヶ月分も3ヶ月分もあるとしたら、何かがおかしいことになる(たぶんロットサイズが大きすぎるのだ)。

また原材料在庫について言えば、原材料の手配から納入までのリードタイム分は、常備しておくのが基本である(そうしなければ途中で品切れが生じる)。ただ、たまにしか使わず、納入が早い原材料は常備せずに都度の手配で良い。何を常備し、何を都度手配にするか。原料でおいておくのか途中まで加工して中間品としておくのか。ロットサイズをどうするのか。こうした事項には、需要(販売)の『読み』と生産の『決断』が必要になる。つまり、ちょっと大げさに思われるかもしれないが、リードタイムと在庫量を質問することは、生産マネジメントの基本方針を問う事なのである。

ところで、この会社の回答は、「在庫量と原料価格についてはお答えできません」だった。それは親会社からの指示らしかった。親会社は専門商社で、できた製品の営業・販売も受けもっている。ここは製造子会社で、言われたモノだけを言われたとおり作っているのだ。そればかりではなく、重要な原材料(貴金属の一種)の購買も親会社が取りしきっているらしい。相場商品だから秘密、という訳なのだろう。

しかし、原価構成が大まかにでも分からなくては、コンサルティングはやりようがない。コンサルティングとはつまり、問題解決の手伝いであり、問題の優先順位の整理だからだ。本案件は結局、仕事にはならなかった。

一般に、日本の製造業の苦境を批判する人は、まず経営者の資質を問題にすることが多い。つまり、"Who"の問題である。それから、魅力ある製品を開発できないことを指摘する。"What"の問題である。しかし、わたしには、あの実直そうな副工場長の人材の問題だとは思えなかった。あの人は、親会社から派遣されたトップの指示どおり動いているだけだ。同時に、この会社はそれなりにファイン製品を開発している。技術開発部門には、大卒の良い人材を一応つぎ込んでいるのだろう。WhoやWhatの問題ではない。評論家たちの製造業への批判は、あとは立地、つまり"Where"の問題だろうか。こんなに円高では海外に出るしかないはずだ、と。でも、この会社の顧客はすべて国内であり、安い輸入品と競争させられているのでもない。

Who(経営者)もWhat(新製品)もWhere(立地)も、かなりマクロな問題である。しかし、たいていの工場の中核問題は、生産マネジメントというミッド・スケールにある(『問題はミッドスケールのシステムで生じる』参照)。それは、ものをどう作るかという"How"の問題である。どう作るかと言っても、製造手順やレシピのことを指しているのではない。どう需要を予測し、何をどれだけ手配し、いつ、どれくらいのロットサイズで作り、どこにどうやって運び保管するのか、という問題だ。このHowの上手下手だけで、原価は5%くらい変わるだろう。何よりも、Volatileな需要の変動に対する追随性や安定性が向上する。ただなりゆきでモノを作っていても製造業は一応なりたつが、外部環境が変化したらひとたまりもない。

ただ、こうしたミッド・スケールの構造と能力は、直接は見えにくく、測りにくい。それは最終結果として、リードタイムや在庫量、あるいは労働災害統計や離職率といった数値にあらわれてくるのみである。工場を見学するとき、これら数値が大事なのはそのためだ。

昨年の震災の時、この工場は大丈夫だったのだろうか。働いている人たちの頭の上から危険な液体が降り注いだりしなかっただろうか? 操業停止するような大きなダメージは受けなかっただろうか。働いている人たちはみな、真面目そうな方ばかりだった。危険な職場とはいえ、急に仕事がなくなったらもっと困るだろう。わたしが他所でこんな心配をしても、何の役にも立たないことは知っている。しかし、経営者がミッド・スケールのマネジメント構造を等閑視し、「新製品」や「相場」や「リーダーの人材」だけが利益の源泉であると信じている企業なら、そこが工場であろうとなかろうと、じつは誰もが同じ問題に直面しているのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-03-18 19:05 | 工場計画論 | Comments(0)

書評:「エル・スール」 アデライダ・ガルシア=モラレス著

エル・スール (Amazon.com)


ビクトル・エリセ監督の『エル・スール』は、わたしの最も好きな映画の一つだ。画面全体に漂うみずみずしい詩情、小さな娘の目から見た、魔術師めいた父親の不思議さ(イタリアの名優オメロ・アントヌッティが好演している)、スペインの静かな激しさを描いて、強い印象を残す。本書はその原作小説であり、かつエリセ監督の元・夫人が著者ときいて、興味深く手にとった。

ところで、比較的短いこの小説を読んで驚いた。小説としてはとても緊密に、よくできている。だが、映画とまったく印象が違うのだ。原作と映画が違うのはよくある話だが(そして事実、主人公の女の子の名前も違う)、ここではストーリーやキャラクターの問題を言っているのではない。父と娘の距離感が、微妙に、しかし決定的に違うのだ。この小説では、娘はつねに父親に対して奇妙な違和感を抱いている。それが物語を回転させる原動力となっている。ところが、映画の方は、お父さんべったりに描かれるのだ。それは初聖体のお祝い(これはカトリック社会では子どもが一人前になる重要な通過儀礼だ)で、父と娘が踊る"En El Mundo"(「世界中で」)の美しいシーンに象徴されている。ところが小説では、そんな風に一体感をもっていない。かわりに、父の孤独と苦悩に謎を感じて、近寄りがたく思っている。

その謎は、やがて南部(エル・スール)の街セビーリャを訪れて、ようやく解けることになる。ここで、いわば別れた自分の半身と再開し、それを通じてやっと、亡き父とも和解しようと心が解かれるのだ。タイトルの意味はここにある。娘の側の、いわば成長の物語が本小説の主軸なのである。映画が娘の目を借りつつ、父を主題に描いていたのとは、非常に対照的になっている。映画では、(おそらく予算の関係で)このセビーリャのシーンの撮影ができず、それ故にやや唐突に、娘が突き放されたような形で結末を迎える。

同じ登場人物、同じタイトル、同じ地方の景色でありながら、小説と映画はこれほどまでに異なっている。著者とエリセ監督が結局別れることになったのは、このような解釈のすれ違いがあったからかもしれない。もちろん、どちらも素晴らしい作品ではある。ただ、片方は男が苦悩を描き、他方は女性が成長を語るのだ。
by Tomoichi_Sato | 2012-03-15 23:59 | 書評 | Comments(0)

ゾウの戦略・ネズミの戦略

先日、コンサルティング会社の方の訪問を受けた。日本の化学産業の課題について、エンジニアリング会社の視点から意見を聞きたいのだという。難しいテーマだが、何かヒントになることくらいは言えるかもしれないと思い、同僚と一緒にヒアリングを受けることにした。

相手は若くて優秀そうなコンサルタントの方が2名だった。まず先方が、自分達の考える仮説です、と前置きして、見解を述べられた。日本の化学会社は、いわゆる汎用化学品の大量生産から、機能性材料や医薬・農薬原材料などの高付加価値な化学品の生産にシフトしている、という。さらに、国内の限られた市場から脱して、海外展開する方向に向かっている。だから、これからは海外で高付加価値製品を作る化学プラントを建てていくだろう、との仮説をたてています、という。

ここで知らない方に注釈しておくと、化学業界では、汎用化学品をバルク・ケミカル、高付加価値の化学品をファイン・ケミカルと呼ぶ習慣である。言葉自体に現れているように、前者はバルキー(大量)であり、石油ナフサなどから製造する。後者は精密ないし細かい品目の製品であり、前者を原料として作る。たとえて言うなら、化学業界は一本の樹のようなもので、太い幹はバルク・ケミカルに相当し、それらが次第に細く枝分かれしていき、枝の先にファイン・ケミカルという花や実をつけると思えばよい。

このコンサルタント氏の仮説は、材木をつくる商売から、花や実を売る商売に、業界がシフトしつつある、というものだ。そこまではわたしも同意だった。似た分析をして、数年前に学会で講演したりもした。また、化学会社が生産の海外展開を考えているというのも、その通りだろう。しかし、だから海外にファイン・ケミカルのプラントを作りたがっていると言えるのか。A→Bはわかるし、B→Cも同意しても良いが、だからA→C、とビジネス戦略の世界で単純に推論できるものだろうか? 

わたしは少し疑問を感じて、質問した。「バルキーな汎用品は、体積のわりに単価が低いから、輸送費がかからないように需要地の近くで生産する、というのなら分かります。しかしファイン・ケミカル製品はずっと高価で、量は少ないのです。輸送費は問題にならないのだから、日本で高品質なものを作って輸出していてもよさそうじゃないですか?」

相手は自動車産業などの例を挙げながら、日本製造業の海外展開の流れについて力説した。たしかに機能性樹脂のうち、自動車向けの材料は、現地生産せざるを得ないだろう。なにしろ顧客は納期にうるさい自動車業界である。しかし、それ以外のファイン・ケミカル品は現地生産の必要があるのだろうか。わたしはもう少し質問した。「もし、その仮説が本当ならば、先行する米国や欧州の巨大化学会社も、アジアその他にファインの工場ばかりをたくさん持っているはずですが、事実でしょうか? そもそも、バルクを切り捨てて、ファインだけで生きている化学メジャーなんて存在しますか?」

しかし、向こうも逆に聞き返してきた。「ファインは高収益で、バルクは儲かりにくいはずなのに、なぜバルクを抱え続けるのでしょう?」--わたしは理由を探して、少し言葉に詰まった。すると、同僚が助け船を出してくれた。「ファイン・ケミカルの市場はvolatilityが高いので、それだけに頼るとリスキーだからでしょう。」

Volatilityの元の意味は『揮発性』だが、マーケットについて言うときは価格や需要の変動の激しさを言う。機能性材料など特殊品の世界は、価格よりも仕様の競争になる。とくに電子材料の世界は、「シリコン・サイクル」に似た需要の激しいアップダウンが起きやすい。たとえば携帯電話用の導電性樹脂を開発したとしても、その携帯が半年後に世代交代して売れなくなってしまえば、需要激減である。ファイン・ケミカル品は、良い用途が見つかれば、急成長する。量も少なくてすむから、プラント設備を新設する必要はない。マーケットに追随するのは早いが、すたれるのも早いのだ。

それにくらべて、エチレンやプロピレンやパラキシレンに代表されるバルク品の世界は、大規模な製造プラントが必要とされる。建設するだけで2年も3年もかかる。ただ大資本が必要だから、他社は急には参入しにくい。マーケットの需要も比較的安定している。たしかに汎用品は価格勝負だ。利幅も小さい。それでも、安定して量がさばけることは、ビジネス上のメリットでもあるのだ。

わたしは生態学における「r戦略」と「K戦略」のことを思い出した。この用語は、生物の個体数の増加を表すロジスティック関数の、二つのパラメーターrとKからとられている。rは成長の早さを表していて、r戦略をとる生物は、「早く子孫を作る戦略」に賭けている。早く成体になるために体は小さくていい。一度に多くの子を産卵する。チャンスがあれば、さっと増えていく。いわば『ネズミの戦略』である。ファイン・ケミカル品によるビジネスは、このr戦略を思わせる。そのかわり、環境が厳しくなると、小さな体の個体は生き延びることが難しい。

K戦略とは逆に、個体が多少の環境変動にも絶えて生き延びることを狙っている。だから必然的に、体は大きくなる。いわば『ゾウの戦略』である。むろん大量の資源(食料)を必要とする。バルク・ケミカル品はK戦略と言っていいだろう。ただし成体になるまでに長い時間がかかるし、一度に生む子どもの数も限られている。だから急に数が増えたりはできない。安定志向だが、ネズミよりは絶滅しにくいのである。

そして、世界の大手化学会社を見る限り、この二種類の戦略をミックスして、適度なバランスを保っているように思えてならない。どちらかに偏りすぎると、環境変化に適応できなかったり、絶滅しやすかったりするのだ。<高付加価値化>、<海外展開>のトレンドだけを足し算して考える訳にはいかない。くだんのコンサルタント氏たちは、だから「もう一度、検討し直してみます」と言って、帰って行かれた。

不思議なことに、ゾウの頑健性(Robustness)とネズミの敏捷性(Agility)の両方を、完全な形で兼ねそなえた生き物はいない。これは生物というもの、あるいは一般的にシステムというものが本質的にもっている矛盾なのかもしれない。二つの目的関数、あるいは生存のための評価尺度があり、前者は積分的、後者は微分的な性質であるとき、両者の間にはトレードオフの関係が生じるらしい。

である以上、わたし達は『戦略』を語るとき、それがr戦略(早さ)なのかK戦略(安定)なのかを、つねに自覚しておく必要がある。企業は幸い、複数の製品や事業分野をポートフォリオとして組み合わせて持つことができる。その中で戦略のミックスを試みることも可能だ。ただ、その中の個別の決断については、自分が今どちらを優先して、どちらを犠牲にしているかを意識しておくべきなのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-03-12 23:56 | ビジネス | Comments(0)

進捗率にはいろいろな定義が可能である

IT業界の人からときどき聞く発言の一つに、「ITプロジェクトではクリティカル・パス法なんか使えない」という主張がある。わたしはスケジューリングとかタイム・マネジメントの分野で長く仕事をしてきたが、こういう主張をIT分野以外できいた覚えがない。IT業界人は知的な人が多いと思うが、自分達の仕事を“特殊な仕事”だと考える傾向も強いように思われる。無論ある意味では特殊な分野かもしれないが、だとしても1日の作業のあとに2日の作業をした場合、合計3日かかるのは、どんな仕事でも共通ではないか。なぜIT業界の人だけ、“ウチの分野は1+2=3の算数が成立しない”といった意味のことを言いたがるのか? 当初はとても不思議に感じた。

しかし、話しあっていく内に、次第にIT系の人たちの抱える不満、ないし問題がすこしずつ分かるようになってきた。クリティカル・パス法はいうまでもなく、プロジェクト全体を複数のアクティビティにブレークダウン(WBS化)し、各アクティビティの期間と順序依存関係をもとに、全体の工期を推定する手法である。これ自体は非常に論理的な、いわば算法の世界だから、不服を申し立てる人はいない。問題は、そのアクティビティ所要期間の見積にあるのである。10日間のアクティビティA(たとえば設計)の後に20日間のアクティビティB(たとえば実装)をやった場合、全体で30日かかる、と、そこまではいい。難しいのは、設計が本当に10日で終わるのかどうか計画時点で誰も自信を持って見積もれないし、スタートして5日後に設計進捗率=50%になってもちゃんと10日で終わるか不明だし、9日目になって前提条件がひっくり返り「さらに10日かかる」状態になるかもしれない、という点だ。こうした不確実性があるから、「PERT/CPMなんか使えない」という不満が出てくるという事らしい。

ここでの問題を解きほぐすと、実は三種類の別の悩みが混じっていることが分かる。第一は、そもそも計画時点で期間見積をすることが難しいという点。第二に、途中の進捗状況から完了の『見込み日』を推定することが困難である、という点。そして第三が、途中でリワーク(手戻り)によるリスクがある点である。このサイトでは、第一の期間見積の精度向上については「マイルストーンは中点で測れ」ですでに論じたし、第三のスケジュール・リスクについては「時間のムダとり--スケジュールのサバを切り捨てる」でも書いている。そこで、今回は二番目の『進捗率』の信頼性問題について考えてみよう。

情報処理技術者試験に「プロジェクトマネージャ」がある事は、IT業界のかたならご存じだろう。経済産業省の認定資格である。その2004年度の秋季に、進捗率に関するこんな問題があった(以下、筆者が一部改変して引用):

- 10本のプログラムからなるシステムを完成させるプロジェクトがある。1本のプログラムを完成させるには1人月の工数がかかると見積もられた。
- 各プログラムの開発作業は、設計(20%)→コーディング(50%)→テスト(30%)のプロセスからなると推定された。
- 作業開始から15日たった時点で進捗状況を調べたら下記のとおりだった。現時点での進捗率を求めよ
      完了数(本) 予定工数(人月) 実績工数(人月)
 設計      10    2.0      2.5
 コーディング   6    3.0      4.0
 テスト      3    0.9      1.5

なかなか面白い問題である。読者諸兄だったら、どう考えられるだろうか?

問題文には書いていないが、この10本のプログラムは、互いにまったく独立で、相互に連関はなく、作業は完全に平行に進める事ができるらしい(そんなプロジェクトばっかりだったら誰も苦労しないさ、というような批判は置いておく)。

進捗率の計算としては、ぱっと考えて三種類の方法がありそうだ。
(1)完成数基準。最後まで完成した本数の比率を、進捗率とする。つまり
  3/10=30%
(2)予定工数基準。問題文に工数見積の情報があるのだから、きっとこれを使うのだろう。すでに完了した作業の予定工数から計算する。
 (2.0+3.0+0.9)/10=59%
(3)実績工数基準。いや、すでに消費した実績工数のデータで計算すべきだろう。
 (2.5+4.0+1.5)/10=70%

あいにく当時の経産省系の試験はすべて、正解が公開されなかった。だから出題者がどれを念頭においたのかは分からないが、ここで推理してみよう。

念のためにいうが、進捗には、さまざまな定義が可能である。これは決め事の問題であって、その点では原価管理に似ている。同じ会社の同じ製品といえど、いろいろな原価の計算が可能である。原価にただ一つの正解は無い。進捗率も同じだ。しかし少なくとも、合理的な算定方法として合意できることが条件であろう。

完成数基準の計算:3/10=30%、はどうだろうか。これはこれで単純至極な定義であり、問題はないように思える。しかし進捗管理の目的は、「この仕事はいつ終わるのか」を知る事であった。15日目に進捗率30%ならば、完成まで50日かかる計算だから、あと35日必要と言えるだろうか? そうではなさそうである。そもそも、もしこの仕事が理想的な並列で進んだとしたら、ずっと完成本数=0で、最終日にいきなり10本完了、ということになる。横軸に時間、縦軸に進捗率をとってグラフを描いたら、ずっとゼロ%のままで、最終日に100%になる。このようなグラフを用いて、進捗管理(すなわち完了の予測)ができるだろうか? 完成数基準の進捗率はシンプルで分かりやすいが、こうしたケースでは進捗管理には向かないのである。

では、実績工数基準はどうか。この手法の問題点は、すでにお気づきのかたも多いだろう。もし仮に、現在までに9人月かかったとすると、進捗率は90%ということになる。12人月かかったら、120%進捗(?)になってしまう。これは明らかに不合理である。「予算消化率で進捗率は測れない」のであった。

だとしたら、消去法で、『予定工数基準』がこの問題の正解らしいと分かる。でも、なぜこれが正解なのか? それは、“進捗はあとどれくらい仕事が残っているか”で測るのが原則だからである。現時点で、残っている作業の工数は、コーディングが4本、テストが7本であった。ということは、2+2.1=4.1(人月)、すなわち全体の41%の仕事が残っている訳だ。だから進捗率59%が正解なのである。ちなみに、この計算方法は、全部で30個のサブ・アクティビティ単位における完成数基準で、重みづけに計画工数をつかったものだと説明することができる。そして、これこそ、アーンドバリュー・マネジメント・システム(EVMS)の考え方そのものであった。この問題は、だからEVMSの理解を問うのが目的だったらしい(EVMSで完了までの期間をどう推計するかについては、長くなるので別の機会に述べよう)。

進捗率とか原価という概念は、案外危険な概念である。それは数字で示されて、分かったような気になりやすい。しかし、これらは人為的な尺度であって、いろいろな測り方ができ、目的に応じて使い分けなければいけない。間違った使い方をすれば、かえってミスリードなだけである。精度を議論するなら、その定義に立ち返って議論しなければならない。よく「製造業や建設業はモノが出来ていくから、進捗が目に見える」などと言う人がいるが、ことはそれほど単純ではない事を知るべきである。

そして、もう一点。アクティビティの期間にばらつきがあり、推定にリスクがともなう現象は別にIT業界だけに限ったことではない。リスクの無いプロジェクトなどというものはない。これは共通の問題であり、共通の知恵が使えるのである。もちろんITプロジェクトだけはリスクが極端に大きいのだ、と言えば言えよう。でも、だとしたら、PERT/CPMを批判するだけでなく、それに代わる定量的な理論と手法を、なんとかして考案すべきであろう。そして、IT業界の人たちには、それをできるだけの知性と能力があると期待したいのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-03-04 23:48 | 時間管理術 | Comments(0)