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進捗管理とは何か?

「進捗(しんちょく)管理」は広く使われている用語だが、じつはかなり誤解されている仕事でもある。製造業の基本はQCD(Q=品質、C=コスト、D=納期)であり、それぞれをきちんと管理していかなければいけない。Qを対象とするのが品質管理であり、Cが原価管理(コスト管理)で、Dつまり納期を守るために進捗をきちんとコントロールすることが、進捗管理の任務である、と。まあそこまでは良いだろう。

ところが、この『進捗』なる概念がくせ者なのである。これほど誤解されやすいものはないのだが、わたしがそう言うと、不思議そうな顔をする人もいる。作業がどこまで進んだか、それが進捗ではないか。とてもシンプルだ--そう思う人は、次の例を考えてみていただきたい。

これは国策である「北海道開発プロジェクト」にまつわる話である。ご存じないかたも多いだろうから解説しておくが、戦後まだ間もない昭和25年に『北海道開発法』という法律が制定された。食糧増産ならびに人口問題の解決に寄与するため、未開の沃野である北海道の大地を農業化しようという壮大な構想を実現する法律である。この法律に従って、北海道開発庁(当時)ができ、昭和27年に「第一次北海道開発五カ年計画」なる計画書を策定した。内容は、農業・畜産奨励・土壌開発(機械力による客土)・道路・河川・港湾整備・・・と多岐にわたり、予算は国費だけで800億円であった。半世紀以上前の金額だから、現在でいえば軽く1兆円を超えるだろう。

(余談だが、この『第一次五カ年計画』という用語を聞くたびに、わたしは“まるで社会主義国みたいだなあ”という感じをいだく。旧ソ連や中国などはこの種の五カ年計画が大好きであったが、日本の官庁も実はそうなのだ。北海道開発だけではなく、たとえば「科学技術基本計画」だとか「海洋基本計画」だとか、いろいろな種類のものが現在も多数動いている。「日本は世界でもっとも成功した社会主義国だ」とかつて中国人に揶揄された言葉も思い出す。そしてまた、官僚主義の病弊に悩む点まで共通だ)

さて、当時、北大に中谷宇吉郎という物理学者がいた。氷雪の研究者として有名だがエッセイストとしても知られている。この中谷教授は、北海道開発五カ年計画の最終年となる昭和32年4月に、雑誌・文藝春秋に「北海道開発に消えた八百億円 - われわれの税金をドブに捨てた事業の全貌」というショッキングなタイトルの論文を発表する。この論文の中で、人口増加・食糧増産・農家戸数の増加について詳しく統計数字を分析し、「いずれも達成率ゼロ」であった、と断定したのである。

この論文が出たおかげで、霞ヶ関の北海道開発庁は上を下への大騒動になった、と聞く(そう、この役所の長官は東京の霞ヶ関にいたのである)。そして、開発庁の高官によって、翌月の文藝春秋誌にすぐ反論が掲載される。いわく、
「開発計画は順調に進展している」
「なぜなら、過去の年度で、われわれは順調に予算を消化してきたからだ」--

この論争、どこが行きちがっているかお分かりだろうか? 中谷宇吉郎先生は、目標にどれだけ近づいたかを問うたのに対し、北海道開発庁の反論の方は、“過去にどれだけ頑張ってきたのか”を答えているからである。彼らが怠惰だった、何もしなかった、といえば、それは嘘だろう。とくに現場の人々は努力していたにちがいない。しかし、努力はしても、それが実を結ばなかったのである。では、このような場合、進捗はいくらなのか?

一つはっきり分かることがある。それは、予算消化率=進捗率、ではないという事である。進捗率とは、達成の度合いでなければならない。いいかえれば進捗とは、どれだけ仕事をしたか、で量ってはいけない。「あと仕事がどれだけ残っているか」で量るべきなのである。

進捗管理の目的とは何か。それは『進捗』を「誰かに報告する」ためのものだろうか。そう考えてしまうから、そして、“進捗が上がらないとサボっていると非難される(かもしれない)”と信じるから、進捗管理がねじ曲がるのである。

進捗管理の一番大事な目的は、「この仕事はいつ終わるか」を予測することである。「終わるまでに時間はあと何日かかるのか」「費用はあとどれだけかかるのか」「リソースはあとどれだけ必要なのか」を見つめるために、進捗をはかるのだ。過去に費やした努力も費用も、汗も涙も、直接は関係ない。それは過去の領域に属することがらだ。進捗管理は未来志向の営為なのである。過去の出費や時間を記録する唯一最大の理由は、これまでのトレンドや生産性を知って、今後の予測の参考にすることにある。

たとえていうならば、あなたが知らない街でタクシーに乗っていて、目的地までの進捗を知りたかったら、料金メーターだけを見つめていてもはじまらない。それは過去に走った距離を示すに過ぎない。目指す地点まで、あとどれくらい距離があるかを知るべきなのである。

あるいは、10日分の仕事があったとして、現在、5日経ったからといって、進捗率を単純に「50%」と考えてはいけない。仕事はあと何日分残っているのか、いつ終わりそうなのか、を考えるべきなのだ。あと8日分かかりそうならば、進捗率はあいにく20%ということになる。仮にもし、あと5日分のところまできていたとしても、例えば次の日、顧客の気まぐれや上流側の設計変更のおかげで、実はあと7日かかりそうだ、という状況になったらどうするか。その場合は、「残念ながら今日は進捗率30%まで戻りました」と報告すべきである。

「進捗がマイナスになるような報告なんて許さない」と上司や顧客が言ったらどうするか(そういう残念な人はけっこう多い)。その場合は、“あなたは事実を直視する勇気のない人だな”などと、心の内で思ったりしてはいけない(きっと顔に出るから)。かわりに、「ゴールが遠のいたので、進捗は50%のままです。ただ、そのために生産性が当初予定より下がってしまいました」と答えるべきだ(=現在仕事の半分が残っている建前で、あと7日かかるのだから、この先の生産性は5/7=71%くらいになる計算だ)。もちろん、そんなヘンな計算をするよりも、事実は事実として記録する方が、次回以降の参考になる。事実を直視しなければ、きっとまた同じ失敗を重ねるだろう。どちらがいいか、落ち着いて考えれば分かることだ。

話を戻すと、このような形で進捗をとらえたら、それを工程表に記録(アップデーティング)していく。その方法については前回「イナズマ線と二重線 -- 工程表のアップデーティングとは何か」に書いたばかりだから、ここには繰り返さないけれども、元々の予定線と、現実とを比較する訳だ。

まとめると、進捗管理とは次のような作業になる。
(1)作業の現状を把握する
(2)完了までの残りの作業量/作業期間を推定する
(3)工程表をアップデートして、予定と現実を比較する
(4)予実の乖離問題が見つかった場合は、是正策を講じる
この(1)~(4)のサイクルを、定期的に、全部が完了するまで繰り返すのが『進捗管理』である。英語で言うと、"Progress Control" (あるいは"Schedule Control"とよぶ場合もある)。

管理といっても、ManagementではなくControlの領域に属することに注意してほしい。そしてコントロールの出発点は、事実認識である。もちろん事実の中には一般に、良いことも、そうでないこともある。だから、都合のわるい事実認識を拒む官僚主義は、進捗コントロールの最大の障害なのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-02-26 18:41 | 時間管理術 | Comments(1)

イナズマ線と二重線 -- 工程表のアップデーティングとは何か

先日、拙著『時間管理術 (日経文庫)』を読みました、とおっしゃる方にお会いした。まことにありがたいことだ。ところで、その方が「一番勉強になったのは、スケジュールの工程表の上にイナズマ線を引くことでした、これで進捗の状況を見える化するというのは知恵ですね」と言われたので、こっちの方がかえってびっくりしてしまった。ほめられたからではない。この方の会社では、工程表を一度作成したら、それをそのまま、何の追記もアップデートもせずにずっと使い続けるのか、と思ったからである。

念のため書くと、先方は日本人なら誰もが知る一流企業で、業界ではトップ3に入る会社だし(ただしエンジニアリングや製造業ではなくサービス業だが)、その方だって立派な学歴と経験をお持ちだ。そして、プロジェクト的な、非定型的業務にずっと従事されている。だから意外だったのだ。

工程表は、航海士にとっての海図に似ている。工程表もつくらずにプロジェクトをはじめるのは、海図を持たずに航海に出るようなものだ。この方の会社は少なくとも、きちんと工程表をつくって仕事を進めておられる。ただ、どうやらそれを、そのまま最後までアップデートしないまま、使い続けるらしい。ちょうど、海図をもって航海に出るが、その海図に自船の現在位置や進路・速度を一切記入しない航海士のようなものだ。そもそも、工程表のアップデーティングという概念自体をご存じなかったらしい。

工程表というのは、単なる静的な図表ではない。ここでいう「静的」とは、一度作成されたら、基本的にそれで完成しそのまま参照され続ける種類の文書や情報を指す。たとえば契約書・発注書だとか、プロジェクトCharterなどは静的な文書である。他方、必要に応じて、適時改訂されていくべき種類の文書や情報は「動的」なカテゴリーに属する。プログラムのソースコードや詳細設計書などは典型的に「動的」なものだ。一度作成しただけで完了することは、まず無い。レビューや承認やテストや最終納品のたびに、内容が改訂され次第に最終形に近づいていく。

工程表もこのような意味で「動的」な図表なのである。ただし工程表は、必要時の「改訂」ではなく、定期的に「追記・更新」されていく点で、設計書などとは異なっている。ちょうど海図に船の位置と速度を毎日書き込んでいくように、スケジュールの現状を追記していく。これを『アップデーティング』と呼ぶわけだが、海図と違うのは、船の位置は一点で示されるが、プロジェクトの場合WBSのそれぞれのアクティビティ毎に位置を示す必要があることだ。いわば、プロジェクト工程表とは、船団全体を表示した海図のようなものなのである。

この工程表における現在位置と速度の代表的な表示方法が「イナズマ線」表記だ。これはガントチャート上に、ある時点における進み具合を示す縦線を書き込む方法である。各アクティビティの進捗度に応じて、50%進捗ならば横線のちょうど半分の位置の点を、70%進捗なら7/10の位置の点を選んで、縦につなげていくと、稲妻状の折れ線ができあがる。すでに完了したアクティビティは、単にまっすぐに縦線を引っ張る。すると、予定以上に進んでいるアクティビティは、右側に出っ張り、遅れているものは左側に引っ込むから、どこが進んでどこが遅れているかすぐに目で見て分かる長所がある。

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プロジェクトでは、定期的に工程表にイナズマ線を追記していく。プロジェクト全体のスパンに応じて適切な間隔(毎週とか毎月とか)で書いていくわけだ。そうすると、工程表のガントチャート(横線中心)に、次第に縦線が加わっていって、格子状になっていく。プロジェクト最後になってふり返ると、どこが遅れどこがうまく進んだかを、マクロに見てぱっと判断できる利点がある。

スケジュールのアップデーティングには、もう一つ「二重線」と呼ばれる記法もある。これは、ガントチャートの各アクティビティに、計画線と実績線の2本の線を上下に重ねて引いて表現する方式だ。計画線は、着手予定日から完了予定日までを線で結び、実績線は、実際の着手日から実際の完了日までを結ぶ。ただし本日時点でもまだ完了していないタスクは、継続を示す短い点線を右に書くか、あるいは完了見込日までの横線にする(わたしはこの方が好きだ)。見込日(Forecast date)とは、「現状のままでゆくと、終了日はこの日付になる」と予測/判断された結果である。

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二つの方法には一長一短がある。イナズマ線は進捗のマクロな傾向が見やすいが、遅れたアクティビティが実際にいつ着手したのか分かりにくい。二重線の方は実績をつかまえるには便利だが、定期的に書き加えても経過が分かりにくい。ただ、いずれの場合でも、出発時点での元の計画との対比を主要な目的としている点は共通だ。プロジェクトはなかなか計画通りには進まない。それは経験的事実である。だからこそ、工程表を静的な情報として捉えずに、定期的にアップデートして予実対比していく必要があるのである。

ところが、「見込み日」の概念を知らない企業は世の中に多い。そうした会社では、現実を予想するために、計画のベースライン自体をどんどん変更してしまう。設計の着手が遅れたら、設計の予定日付も変えていく。しかし、この調子で計画を毎日変更していったら、最後に振り返って見たとき、実績は常に計画と一致していたことになる。これで本当に進捗管理といえるのだろうか? 計画のベースラインとは、めったなことでは変えないのが、プロフェッショナルのやり方なのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-02-19 22:47 | 時間管理術 | Comments(3)

コストのものさし ~その表面と本質

先日、TKK セミナーというところで依頼されて在庫管理の話をする機会があった。少人数だが熱心な受講者の人達と一緒に懇親会で話す事ができ、楽しい時間を持てた。その中で出た話の一つに、ある方が若い頃勤めていた会社でボールペンのまで管理しているというエピソードがあった。その会社ではボールペンを使いきると、資材のセクションはまで歩いて行って、ボールペンの芯だけ補充してもらったという。ペンの外側は、まだ使い続けられる。全部捨てるより芯だけ取り替えた方が安いのだ。

随分と節約した話だ、と皆が感心した。だが、私はこれを聞いて少し疑問に思った。たとえ今から20年以上前の話としても、当時の大卒社員の給料から考えて、人件費は平均で時間単価1,800円くらいにはなっただろう。つまり1分30円である。3分も歩けば、その人件費はボールペンの芯よりも高くついてしまうだろう。これでほんとに会社全体として節約になっているのか。

こうしたことは、落ちついて考えれば、誰でも分かるはずのことである。それなのに、なぜかくも奇妙なコスト管理が会社に横行するのか。

「それは資材部門が部分最適で動いているからさ」といった理由づけは、一応可能だろう。だが、結論を急ぐ前に、もう一つのエピソードを紹介しよう。わたしが以前所属していた部署の上司は、月末の金曜日5時になると、部員全員に号令をかけて仕事の手を止めさせた。止めて何をさせるかというと、「書類整理の時間だ」と宣言するのである。部員は全員、(その場にいないものを除き)自分の机の周りにある書類を整理しなければならない。

整理といっても、その中心作業は「捨てる」ことだった。ただし机の上にあちこち散乱している書類は、ほとんど全てが遂行中の仕事に関するものばかり。だから手元に「仮置き」しているのだ。捨てられるものではない。でも仮置きが増えてくると、次第にどの書類をどこに置いたか分からなくなってくる。使うときに探したり、へたをすればもう一度印刷したりしなければならない。それでも机上に「仮置き」してしまうのはなぜか。それは、ファイリングの手間が面倒くさいから、というよりも、ファイリングしたいけれど、ファイルにそのスペースがもう無いため、机に置くことが多いから、なのだ。駐車場が一杯のため、“ちょっと路上駐車”という訳である。そして路上駐車の車の列があふれてくると、こんどは肝心の仕事の「中心道路」で交通渋滞が起きてくる。仕事と都市の交通事情は、よく似ているのだった。

この問題は、だから「駐車場が満杯」という状況をなんとかしない限り、解決しない。そのために、ファイルを開けて、古い・もう不要になった書類を、捨てるべきなのだ。これが上司の指示の要点だった。そして駐車場(つまりファイルのスペース)に余裕ができると、机上に仮置きしていた書類をきちんとしまおう、という気持ちの余裕が生まれる。目的別に整理できれば、余計な探し物の時間を浪費せずにすむ。

それにしても、なぜ、月1回、強制的作業なのか。各人の自主性にまかせればいいではないか。そう思うかもしれない(わたしも当時はそう思った)。しかし、わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。受注ビジネスの仕事をしている。つまり客先の要求に追われる日々なのだ。しかも自分の勤務時間はプロジェクト別・WBS別にタイムシートで記録し、その「稼働率」で管理される。顧客向けのライン業務が優先し、そうでない仕事(書類整理なんかその典型だ)は後回しにされる。稼働率100%、すべて顧客向けの仕事をしていれば誇らしい、そういうマインドセットになりがちだ。

上司はそこを、あえて止めさせたのだ。稼働率を下げてもいいから、身の回りを整理しろ。それを命じないと、半年でも、1年でも、整理しないまま書類の山が増えていく。それが見た目に見苦しい、というよりも、それで実は目に見えぬ能率低下がおきてくる。それを止めたのである。月に1,2時間ならせいぜい稼働率1%の低下に過ぎない。それよりも探すべき書類がすぐ出てくる方がいい。

稼働率というのは恐ろしい指標である。稼働率とは、プロジェクトに従事している時間(顧客に対してChargeableなMan-Hour)の全体に対する比率で定義される。ところで、顧客要求に関連した書類を探し回っている時間は、稼働時間だと認識されている。書類が10秒で出てきても、15分探し回っても、どちらも稼働時間だ。前者の方が能率がいいことは誰にもわかるだろう。ところが、おかしなことに、後者の方が自分の全体の稼働時間が長くなるから、稼働率は上がるのだ。稼働率100%といったって、その内容を吟味しない限り、本当に誉めるべきかどうかは分からない。低能率で稼働100%の人と、高能率で稼働率50%で残業もせずにさっさと帰ってしまう人の、どちらが賢いか。

稼働率管理は、製造業では機械に対して適用される。これを人に対して適用するやり方は、建設業会計からはじまったらしい。そしてエンジニアリング業界や、IT(ソフトウェア)業界まで拡がった。原価を決める際に、年初に社員・常勤協力会社員の人件費(コスト)総額と稼働率を想定し、標準の時間単価を計算する。実際の仕事では、各プロジェクトごとに稼働した時間をタイムシートで記録して、その時間に標準単価をかけた金額が、個別人件費原価として計上される。そして年度末に、実際の稼働率を調べて、当初の想定と違う場合は原価差額を調整する。この方式に従うと、会社全体の稼働率が高いほど、人件費の原価(稼働時間あたり)は安くなる。だから稼働率向上を管理目標にしたくなるのである。

でも、よく考えてみよう。残業の多少の増減を無視して考えるなら、雇っている社員・常勤協力会社員の数は年間を通じて、ほぼ一定である。つまり人件費の総額は固定費なのだ。稼働率が50%でも、75%でも、会社から出ていく全体のお金は変わらない。稼働率を使った標準原価方式は、この固定費を、各プロジェクトあたりの変動費として擬似的に割り当てるための便法に過ぎない。変動費として賦課できなかった分は、間接費(不稼働損)として落ちるだけである。会社の利益(スループット)=収入-支出で、人件費支出の総額は変わらないのだから、利益を上げたければより収入を上げることが先決である。むしろ高能率化で稼働率は下げて、同じ期間内にできる仕事の量を増やした方が良い。だから月末の書類整理は、とても理にかなっているのだ。

わたし達は見かけ上のコスト管理に踊らされている。お金の世界は数字で分かりやすい(ように思える)。だが、その数字の奥にあるロジックは見落としがちである。とくに、人件費は注意が必要である。エンジニアの人件費を上記のように個別原価で管理している会社では、時間数だけでなく、その内容(能率)に注意しなければ意味がない。書類探しに終わる1日は、稼働時間かもしれないが何の付加価値も生まない1日である。他方、エンジニアはすべて販管費扱いの会社も多いが、そうした企業では、人の時間(の浪費)はそもそもコストとして意識されない。

では、最初のボールペンの例では、本来どうすべきだっただろうか。いちいちエンジニアに芯を取りに行かせるくらいだったら、ボールペンの芯を各部署に少しずつストックしておき、使い切ったらその場ですぐ取り替えられるようにする方がいい。そして資材部門は、定期的に各部を回って、消費された分の芯だけを補充して行くのだ。いわば、富山の薬売り方式である。在庫管理の用語でいえば、定数補充だ。もちろん、ボールペンの芯だけを対象とするのではなく、オフィスの事務消耗品全部を対象にする。補充の作業は、単純労働だからパートにやらせてもいい。わざわざ給料の高い大卒社員が往復の時間を無駄にするよりも、ずっと安くつく。使用者と補充者を分業することも、在庫管理の定石の一つだ。

コストを見たら、その表面だけでなく中身も見る力を育てるべきだ。一番大事なのは、人の時間を含む全体像を理解することだ。これ自体は、その気になれば格別難しいことでも何でもない。高度な理論も数式も不要だ。難しいのは、わたし達の頭の中にある慣習的な「思考の枠組み」をとりはらう努力なのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-02-12 11:36 | ビジネス | Comments(0)

耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い

先日、PM学会の報告を読んでいたら、秋季研究発表大会でなんと「論語」に関するキーノート・スピーチがあり、その場で参加者全員による論語の素読を行った、と書いてあった。たしかに「人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり」とか「徳は孤ならず、必ず隣あり」とか、論語はなかなか良いことが書いてある(と、いまさらわたしが指摘するのもおかしいが)。その報告には、最後に質問として、「論語の意味が分からなくても、素読をすると心に響くのはなぜか」との問いが発せられた、とある。これは、なかなか意味深長なことだと思われる。

私たちは言語の意味が正確にわからないにもかかわらず、なぜか心の内に何かを感じる経験をすることがある。好ましいと思ったり、感心したりする。論語以外でも、般若心経など仏教のお経もそうだろう。日本仏教では不思議なことにお経を直接日本語訳にせず、中国語に翻訳したものを、古い日本風の奇妙な発音で音読することになっている。聞いてるだけでは誰も意味がわからない。それでも皆納得して聞いているのである。さらに別の例を挙げるなら、カトリック教会は20世紀の半ばまで、ミサで唱える通常のお祈りの文句はすべてラテン語で唱えるしきたりだった。それでも信者たちは敬虔な気持ちで頭を垂れていたはずだ。

なあに、それは宗教だから、聞く前からありがたいと思っているのさ、と反論されるかもしれない。それでは、自分がよく聴き取れない外国語の歌を聞いて、好きになったことはないだろうか。意味のわからぬ音を、口真似して歌ったことはないだろうか。言葉の機能は意味を伝えることにある。にもかかわらず、わたしたちは言葉の意味だけに反応する訳ではない。なぜ、わたしたちは意味がぼんやりとしか分からない音の並びに、感情を動かされるのだろうか。

それは、そこに声とリズムがあるからであろう。わたしたちは、声とリズムに身体の内側が反応するように、できている。声とリズムとは、即ち、呼吸する息だ。私たち人類は集団生活をする動物として、他者の息を感じとり同調する本能を持っているのかもしれない。

このことは、逆に自分に対するインパクトを強める方法として使うことができる。つまり、何かを心に刻みたかったらそれを声に出して言ってみるのである。言葉や文章をよく記憶したければ、自分の声に出して言ってみる。

私は大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるとき、プロジェクトの三大制約要因として、スコープ、コスト、スケジュールのいわゆる「鉄の三角形」を説明してみるのだが、当然ながらこんな抽象概念は学生の頭の中をするすると右から左に抜けていってしまう。そこであえて皆に大きな声で「スコープ、コスト、スケジュール」と三回くらい大声で復唱させてみる。彼らは(僕らは中学生じゃないよ)という顔つきをするのだが、ミニテストで調べてみると、明らかに頭に残るのである。いずれ卒業して仕事につき、何年かしたのちに、ふと「そうか。この三つはつながっていやがる!」と体得する日がくるかもしれない。

音が先にあってそれが言葉になり、言葉がやがて体感になる。順序が逆のようだが、私たちは本当はこうして学んでいくのである。何か身につけるためには、それをからだの動きと感情的な体験として、繰り返し繰り返しやらなければならない。よく使うたとえだが、逆上がりの方法を本でよんだからといって、それで逆上がりが出来るようになるだろうか。目で読んで覚えただけでは、ひととき頭の中にとどまるだけだ。

もう一つ別の例を出そう。「指差し確認」というのをご存知だろうか。工場の製造現場や物流現場などで、目の前にあるものを手で指差し、声に出して呼んで確認する。電車の車掌さんが駅で声を出しながら確認しているの見た人もいるだろう。信号よし、ドアよし、と言った具合だ。ある西洋人が製造現場でこれを見て、人間をロボットのように扱っていると批評したことがあった。だがそれは間違っていると思う。本当にロボットならば指差し確認などいらない。人間だからこそ、手を振り声に出す必要があるのだ。

私はこれを日常生活でも使っている。みなさんは家を出た後で、さてドアをちゃんと閉めたか、鍵は閉めたか、ガスの火は消したか、不安になったことはないだろうか。私は家をでる時に、「正面の窓よし、左の窓良し、電気よし、ガスよし」、と指差し確認をして出かけることにしている。これは余計な不安を減らすためにとても有効な方法だと思う。耳は眼よりも聡く、からだは頭よりも賢いのだ。

私たち日本人は、西洋近代文明に準じた教育を受け、西洋近代文明を真似してビジネスを回している。もちろん、西洋文明には優れた特質や美点がたくさんあるからそうしている訳だ。ただ西洋近代文明にはひとつだけ困った点がある。それは、頭でっかち、という事である。言葉を重んじて、からだを軽く見る事である。身体は精神に従い、精神とは言葉であると、彼らはなぜか強く信じている。

確かにある局面ではそうだろう。私は自分の意志でからだを動かし、自分の言葉で考えを述べる。しかし意思によらず行なってる事だって沢山あるのだ。例えば誰か、自分の意思で心臓の鼓動をいったん止めてみたり、あるいは胃腸の動きを早くしたりする事ができるだろうか。あるいは誰か、意識的に眠ろうとすることができるだろうか。そもそも眠っている間は、自分の意識などないわけである。人は自分自身のからだでさえ、自分の意識や合理性だけで動かす事はできない。

身体というのはある意味正直である。眠くなれば眠り、眠りが足りれば目覚める。腹が減れば何か食べるが、満ち足りたらその先は食べたくなくなる。身体的な欲求というものには自ずから限度があるのである。

困った事に精神的な欲求には限度がない。かつて養老孟司は、金銭欲とは欲望に関する欲望であると喝破した。何かを所有したいという物的欲求は、それを手に入れれば一応収まる。しかし金銭はあらゆるものを手に入れるための手段だから、金銭欲には際限がなくなるのである。すべての人が己れの欲望に従って行動すれば、市場の見えざる手を通じて、世界はより効率的になるはずだ、という今日のグローバリズムの思想に比べれば、身体はなんと慎ましく、かしこいことか。

わたしは、「頭が良い」と言われるよりも、「賢い人だ」と言われたいと思う。賢さとは、単に頭脳だけの事ではない。身体と精神がちゃんとバランスをとって、統一されている状態を指している。そうなって初めて、人は欲望の奴隷の状態から脱出できるのだろう。もちろん、わたし自身にとって、賢さへの道はまだまだ遠い(頭はだんだんわるくなりつつあるが)。ただ、そのためには、わたしはからだの声にもっと耳を澄ます必要がある、と感じるのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-02-05 23:18 | 考えるヒント | Comments(0)