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契約社会がリーダーシップを必要とする理由

ずいぶん前だが、わたしの好きな米国のマンガ"Dilbert"で、こんな話があった(Dilbertはハイテク企業の馬鹿馬鹿しさを皮肉った新聞連載マンガである)。主人公Dilbertの会社に、ERP導入コンサルが雇われてやってくる。彼はヘラヘラした頼りない男(というか巨大なネズミ)だが、ロクな経験もないのに腹が立つほど高い報酬を得ている。

そのコンサル氏、導入プランを説明しながら、「・・さて、この段階で古いレガシー・システムをシャットダウンし、新システムの稼働に切り替える」と言う。主人公Dilbertは、「待った。新システムがうまく動かなかったらどうするんです?」と、当然の質問をする。するとコンサルは「えーと」と言いながら書類をチェックして、「大丈夫。システムが動かなくても、ぼくの報酬には影響がないから」と、すまして答える。何のことはない、彼は雇用契約書をチェックしていたのである。それを聞いてDilbertも「俺もだ。」と答えるオチになっている。

米国の企業では、契約がすべてである。企業間が契約で動くだけではない。会社対個人の間も契約関係になっている。『雇用契約』は、日本では単なる法律上の概念だが、米国では実体であり、何か判断が必要な場合はそこに立ち返ることになっている。これは昨日今日できあがったことではない。その証拠に、1930年代の古いマルクス兄弟の映画でも、興行師グルーチョが、チンピラ役のチコを雇うときに「雇用契約書」を取りだして、二人でその契約の退屈な部分を削除しながら、紙を短冊のようにずたずたにしていく、というギャグがあった。

契約書の実質的な中核は、権利と義務の関係である。もう少し分かりやすく言うと、「果たすべき責任範囲」(Scope)と、得られる「報酬」がワンセットになっている。両者は等式で結ばれてバランスしており、片方が増えたらもう片方も増える、と皆が理解している。だから、地位が偉くなればなるほど仕事が忙しくなる。「米国企業では上の人間ほどよく働く」と言われるゆえんだ。契約型の組織においては、地位は権利(報酬)と義務(責任範囲)をむすぶ方程式の媒介項なのである。

このような組織では、誰もが雇用契約書で規定された仕事のScopeを気にする。仕事のScopeを、部門別・地位別に具体的に記述した書類は、Job Description(「職務記述書」)と呼ばれる。Job Descriptionは職種別に細かく多数用意される。わたしは中小企業診断士の資格を取る勉強をしたときに、人事管理の教科書ではじめて「職務記述書」の概念を学んだが、実物がないためにどういうものなのかうまく想像できなかった。わたしの勤務先に限らず、日本企業では一般に職務記述書が存在しない。無くてもなぜかうまく組織が回っているので、誰も必要としない。しかし、このような組織は、「自分の責任に際限がない」状況なので、英米人には理解しにくいようだ。

ただし、この雇用の方程式を逆に見ると、自分の仕事の範囲(能力範囲)を増やさない限り、報酬も上がらないことになる(いわゆる毎年のベースアップは別として)。わたしの研究室の先輩がハーバードで先生をしていたとき、研究室で雇っていた助手の人たちに、「言われた仕事だけやるのではなく、自分でやるべき事を考えてPlanを作って行動しなさい」と教育指導したところ、たしかに研究室のパフォーマンスは上がったのだが、翌年の査定時に彼らが皆、「自分はPlanningの仕事もするようになったのだから、その分、昇級してほしい」と要求してきて参った、という話を聞いたことがある。仕事ができるようになれば、scopeが拡がり、報酬も上がる。これが彼らの感覚なのだ。

これをつきつめていくと、自分の給料を飛躍的に上げたかったら、大学や専門訓練校に通い直し、新しい能力と資格を得て、別のポジションにありつくべし、という事になる。当然、転職も増えることになる。米国は流動性の高い社会なので、資格が個人の能力の品質保証をする最大の手段になる。こうして資格もどんどん増えていくわけだ(PMIを思うべし)。学校とはすべて自動車教習所のようなものであって、一定の学費を投資し、努力すれば資格(すなわち給与アップ)がついてくる。その最上クラスがビジネススクールとMBAだ、という教育観が生まれるわけである。

組織の話に戻るが、部署別地位別に細かく職務が決められており、それを組合せ積み上げることで組織ができあがる、という発想は、いわば自動車のような機械に似ている。機械はたくさんの部品から成り立っており、部品一つ一つに設計図面・仕様書がある。では、その機械を動かすのは誰なのか。機械部品を静的に組み上げただけでは、一方向に動くだけである。速度を変えたり、方向を決めたりするのは誰なのか。

それが「リーダー」であり経営者なのだ、というのが米国流の概念である。意思決定も問題解決も、すべてトップによって行われる(べきだ)と考える。そのためにはすべての情報をトップに透過的に集中しなければならない。各部門は、定められた職務(Scope)ならびに業務手順(Work Procedure)で動くようにする。そして上意下達で機敏に動く。これが組織の理想となる。軍隊みたいだが、つまり軍隊が組織の手本なのである。

いいかえれば、組織は二種類の人間から構成されるわけだ。リーダーと、部分品として働くその他大勢の人間。両者は別物である。部分品は、まさに部品であって、取り替えがきく。取替やすいように、きちんと職務記述書で規定して雇用契約する。代替可能性があるということは、つまりコモディティ(汎用品)であって、給与は比較的安くてすむことを意味する。一方、リーダーは取り替えがきかない。だから米国企業のトップは法外な報酬を得るようになっていく。

ところで、よく考えてみてほしい。あなたが英米の社会に生まれついたら、リーダーと部品と、どちらになりたいと思うか。リーダーに決まっているだろう。ぼくは一生こつこつ働く部品でいいよ、という人は少ない。(そういえば、英国ロックバンドPink Floydのヒット曲に"Another Brick in the Wall"というのがあった。あれこそ、自分は壁を構成するレンガの一個に過ぎない、という気分を表したタイトルだ)。

すると、どういうことになるか。リーダーの特徴は、自分の意見を持ち、自己主張があり、自信があることだ。つまり、組織の中のあらゆる階層の人間が、リーダーシップを発揮すべく、あれこれと自由に発想し主張したがる組織が生まれる。『部品』の枠内に収まりたがらぬ人間が増えるわけだ。実際、米国企業ではトップが不在になったり弱体化すると、マネジメント層がバラバラに勝手に動き始める。放っておけば組織の温度とエントロピーが高まっていく。これを押さえつけるために、ますます組織のコントロールを厳しくすることになる。職務記述書は厚くなりルールは厳格になる。つまり組織の「圧力」が高くなるのである。そして一層、トップの「リーダーシップ」は強くなる。

かくして、強力な本社機構と、Noは言えるがYesとは言えない中間管理層、そして顧客より上を気にする一般職員が増えていく。大企業病の発生である。大企業病を治そうとして、ますますリーダーシップが求められる。そもそもリーダーと部品の二極分化が原因だったのに。

誰も言わない事だが、ここであえて指摘しておく。20世紀の中盤まで、このような組織内圧力のビンのふたの役割をしていたものが社会にあった。それは、米国における「人種」、英国における「階級」である。有色人種に生まれたら、労働者階級に生まれたら、もう上には行けない。黒人や下層階級だから安心して部品扱いしていたのである。彼ら大多数の人間は、自分らしさを求めたければ、職場ではなく別のところで(それはスポーツだったり音楽だったり宗教だったりするわけだが)探すしかなかった。

そのような社会感覚は、'70年代を境に崩れつつある。無論、まだ厳然と残ってはいるが、もはや南部のプランテーションで黒人奴隷を使っていた時代には戻れないのだ。奴隷だった一人一人が、自分も能力を得てリーダーシップを発揮したい、と主張しはじめた。とうとう大統領まで黒人になった(オバマ氏は正確には黒人と白人のハーフだが、米国では誰もが彼を黒人と見ている)。

米国流の組織形態は考え直さなければならない時期にきている。と同時に、「リーダー+部品」型組織での、リーダーシップのインフレーションについても、再考が必要である。むろん、これらはすぐに簡単に変わるものではないだろう。とりあえず、わたし達は、日本型組織との違いにまず自覚的になるべきである。そうでないかぎり、わたし達は英米(に限らず契約社会)にある企業と協業したり、使いこなしたりすることがうまくできないからだ。
by Tomoichi_Sato | 2012-01-29 20:25 | ビジネス | Comments(0)

シェールガス革命と、見えない地政学的地殻変動

技術というものは競争と進歩の世界だとみな信じているが、案外古臭い慣習がいつまでも残ったりするものである。例えば石油の値段は1バレルあたり何ドルという言い方をよくするが、このバレルという単位はその昔石油を入れるのに使った樽の大きさから来ており、1キロリットルが約6バレルに相当する。そして石油工学の分野ではいまだにこのバレルという単位を計算にも使用している。私なども1日20万バレルの処理能力を持つ蒸留装置と言われた方が、tonやキロリットルなどの単位で言われるよりも、ピンとくる。

ちなみに天然ガスの世界では体積を測るときに立方メートルではなく、立法フィートという単位を用いる習慣になっている。実際にプラントの設計をするためのシミュレーターは、SI単位系ばかりではなく、この種の旧弊な単位系もちゃんと取り扱えるようになっている。

しかし上には上があるもので、この種の単位の中でも飛び抜けて馬鹿げたものは「BTU」と呼ばれるものではないかと私は思う。BTUはBritish Thermal Unitの略で、熱量を測る単位である。これは1立方フィートの水の温度を、華氏1°Fだけ上げるのに必要な熱量と定義されている。困ったことに天然ガスの値段は、このBTUで取引されることになっている。というのも天然ガスの組成は産出される場所によって少しずつ異なるので、体積や重さではなく、燃焼熱によってはかることになっているからだ。100万BTUあたり$5とか$10といったふうに値段を表示するのである。

さて、石油取引の業界ではWTIの価格を代表的な指標に使ったりしているが、天然ガスのスポット取引でこれに相当するのがHenry Hubと呼ばれる指標である。この天然ガスのスポット価格は昨年以来、どんどんと価格が低下して、とうとう100万BTUあたり3ドルをきるところまで来てしまった。

ご承知のとおり日本は天然ガスにかなりエネルギーを依存している。特に昨年の福島原発事故以来、今やほんの数基を除いてほとんどの原発が止まっている。その埋め合わせをしているのが火力発電所であり、特にLNG 火力である。だとしたら天然ガスのスポット価格下落は日本にとって、ありがたいことに思えるかもしれない。

ところが違うのである。昨年日本はLNGの輸入量を大幅に増やしたが、それは非常に高くついた買い物であった。

なぜか。それは日本が輸入している天然ガスの価格が、多くの場合石油の価格に連動しているからである。石油の値段は逆に昨年の間どんどん高騰し、とうとう1バレルあたり100ドルを超えてしまった。それに比例して日本の輸入した天然ガスの価格も高くなったのである。これは日本の電力会社など大口ユーザーが資源国との間で結んでいる長期契約のあり方に起因している。契約書に、ガス価格は石油に連動すると書いてあるのだ。電力会社は総括原価方式を採っているため、燃料が値上がりしても電力価格に転嫁できるだろうが、困るのは我々末端のユーザーである。

それにしても、石油の価格が上がっているというのに、なぜ天然ガスの価格は下がっていくのか。その理由は過去数年間の間に急速に進んできた資源エネルギー分野での、目に見えない革命のせいである。その名前をシェールガスという。シェールガスは地層の頁岩(シェール)層から採取される天然ガスで、従来は利用できなかったが、最近の採掘技術の進歩によって新たに利用可能となった資源である。非在来型天然ガス資源とも呼ばれる。

このシェールガスは、アメリカ、カナダ、中国、インド、ポーランドなどの国で大量に存在することがわかってきた。その量は膨大なもので、一説には、現在の消費量で換算しても200年分以上あると言われている。残念なことに、日本にはほとんど見つからない。北米での開発が最近は特に活発である。またガスと同様に、この地層に含まれる油の採取も可能になってきた。

私が学生だったころ、石油の埋蔵量はあと30年だと言われた。この数字は石油価格の上昇とともに増えたり減ったりしていたが、2000年代に入ると「ピークオイル説」が言われるようになった。つまり石油の産出量は、もはや人類の歴史において、ピークを越えて、後は減るばかりだというのである。ところがそれから10年もたたぬうちに、この非在来型資源の発見によって、埋蔵量の数字は大きく塗り替わることになった。昨年12月にカタールで開催された世界石油会議に於いても、多くのエネルギー専門家はピークオイル説の終焉を声高らかに宣言した。

こうして天然ガス生産量の増大に伴い、価格は下がってきている。だが、それだけではない。この世界には一つの重大な地殻変動が起きているのだ。上にあげたシェールガスの産出国は、いずれも中東以外の地域であることに注意してほしい。特に北米、欧州などの先進国に天然ガス資源が多い。現在アメリカ天然ガスの輸入国だが、近い将来は輸出国になると言われている。石油会社や化学会社は、もう暑い思いをして不便な中東に資源を探しに行かなくても良くなるのだ。

これはすなわち、中東世界の影響力低下、地盤沈下を意味している。今は石油の首根っこを押さえられているから、先進国も中東諸国の意向を無視できない。ホルムズ海峡を封鎖する可能性があれば、原油価格も跳ね上がる。しかし今後は、そうならないかもしれない。列強の介入が中東地域の分断を生んできたことは事実だから、欧米の干渉が薄れれば、この地にも少しは平和が戻るのかもしれない。あるいは逆に内輪もめがひどくなるかもしれない。確実なことは、この地に米国の軍隊のプレゼンスが減ることだ。彼らの関心は、もっぱらアジア太平洋地域における中国との覇権争いになるだろう。

小さな技術的進歩が、大きな社会的変化を生むことは時々ある。TCP/IPネットワークや電子メールだってその一例だろう。シェールガスの採取技術も、その一つなのかもしれない。無論、たとえたくさん見つかったと言っても、石油や天然ガスが有限であることに変わりはない。使えば、いつかは無くなる。わたし達は、いつか行き止まりになる文明ではなく、持続できる社会のために、もう少しだけ技術を工夫すべきではないだろうか。それが技術の面白さというものなのだ。
by Tomoichi_Sato | 2012-01-20 23:59 | ビジネス | Comments(0)

中東について私が知っている2、3の事項

イランを巡る緊張が高まっている。欧米諸国はイランの核開発疑惑に対して制裁措置を発動すると脅かしており、一方、イランの方は石油を禁輸されるならば、ホルムズ海峡を封鎖すると言っている。ご存知の通りペルシャ湾はホルムズ海峡の細い出口を通じてインド洋とつながっている。サウジアラビアやイラクやクウェートやカタールのなどいわゆる湾岸諸国の石油の大部分は、このホルムズ海峡というボトルネックを通して運び出される。日本もかなりの量の石油を中東湾岸地域に依存しているから、万が一ここが封鎖されれた場合、エネルギーの輸入はかなりストップしてしまう。

果たして本当にイランはホルムズ海峡を実力封鎖するだろうか。私はその可能性は少ないと思っている。これはいわば伝家の宝刀、抜いてしまえばおしまいで、あとは力ずくの切り合いだけだ。実はこのところ何年間も、米英は毎年春になると決まってイランに対して挑発行為を行ってきた。イランも一旦は反発するのだが、最後は自制して武力衝突を回避してきた。危機は大体年末あたりに発生して、なぜか4月頃になると収束する。それを過ぎると気候が暑くなりすぎて、軍事行動に向かなくなるからだと言われている。暑すぎて兵隊を動かせないというのはいかにも欧米人の発想だろう。私の勤務先のように年がら年中、中東で建設工事をしている会社にとっては信じがたい言い分である。

それはともかく、最近面白い新聞記事を見かけた。UAEが内陸にパイプラインを引いてホルムズ海峡を通らずに石油をインド洋に運ぶルートを作ったというのだ。日量150万バレルの輸送能力を持っている。頑張れば180万バレル送れるはずだとも言っている。150万バレルでは日本一国で輸入している量にも満たないが、イランのおどしに対するリスク回避策としては面白い。開通するのは6月で、さらにそこから運転調整で数ヶ月必要だが、EUもイランの石油の禁輸措置までには、交渉のために半年間の猶予期間を置くと言い出しているから、あるいは間に合うかもしれない。

ほとんどの日本人にとって中東というのは遥か海の彼方のエキソチックな世界で、あまり理解しがたいと思われているに違いない。中東について私が知っていることは限られているが、それでも飲み込んでおくべき二三の事柄がある。

第1に、中東世界はアラブイラントルコという、三つの異なる文化圏から成り立っている。立派な教育を受けた人でも、イランはアラブの一部だと思っている人がいるが、これは例えて言うなら日本が中国の一部だと思っているようなものだ。両者は全く別のものである。確かに日本は漢字や儒教を中国から受け入れた。イランもまたアラビアの文字やイスラム教をアラブから受け入れた。しかし日本語は中国語とは違うように、イラン(ペルシャ)文化とアラブ文化とは別のものである。

アラブ世界とはある意味たしかに中国に似ている。ほぼ同じ言語を話す人々が、広大な地域に住んでいる。実際にはかなり方言が違うが、古典的な書き言葉は共通である。そして古典教育を大切にしている。しかし覚えておくべき第2のことは、アラブ人たちは実はお互いにけっこう仲が良くない、ということだ。だから団結して一つの国を作れずにいる。たぶんお互いに自己主張が強すぎるのだろう。欧米の列強はこの点につけいって、アラブ諸国を石油の利権の為に分断して支配しようとしてきた。これに対する貧しい人たちの反発が、イスラム原理主義の形をとるのである。

そして覚えておくべき第3のことは、中東の人たちは割と日本が好きだということである。これはわたしの狭い経験の中のことだから、必ずしも当たっていないかもしれないが、特にトルコではこちらが恥ずかしくなるくらい親日的な人に会うことがある。これはわたしたち自身というよりも、わたし達の父祖のおかげなのだ。中東は欧米に支配された歴史を持つ。欧米の文明の憧れもあるが、反発もあるのだ。その欧米に一矢報いた日本という国に、漠然とした期待感を抱いている。

しかし実際の中東では、日本人のプレゼンスが極めて少なく、代わりに目立つのは韓国人や中国人ばかりだ。今のわたし達はひどく内向きな人々だと思われている。外交面も、いっこうに独自性が見えない。英米とも、中国とも、ロシアとも一定の距離を置いて、中東と自分なりの共益関係を結べれば、今よりもずっと尊敬されるだろうに。日本が中東の石油ガスに依存しているだけに、いっそう残念なことだ。

もっとも、石油という戦略的資源を占有することで、世界に地政学的な影響力を行使してきた中東世界も、最近いささかパワーが地盤沈下しそうなことが起きている。それは政治的な「アラブの春」の動きよりも、実際には地域に大きな影響を与えるかもしれない。本当はそのことについて述べようと思っていたのだが、いつもの癖で前置きが長くなりすぎた。その出来事については、稿を改めてまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2012-01-13 23:56 | ビジネス | Comments(0)

2年後の日本を予測する

久しぶりに恩師の家に皆で集まった。その時あがった話題の一つが、2年後の日本はどうなっているかということだった。いわば未来予測である。この種のマクロの未来予測はなかなか難しい。考えるべき事柄やパラメータが多岐にわたって、どれに焦点を当てるかが問題だからだ。そもそも、未来は科学的に予測できるものなのだろうか?

誰もが気になるのは景気の動向だろう。電力価格の高騰による製造業の海外移転と空洞化を心配した人もいた。原発の事故を念頭においてのことだったかもしれない。しかしわたしは疑わしいと思った。というのも、一般に製造業の製造原価において、電力料金の占める比率はかなり小さいからだ。化学プラントなどのように電力消費の大きい産業は、すでに自ら発電装置をつくるなどして自衛している。

もしも製造業の空洞化が進行するとしたら、それはむしろ円高のためだろう。過去10年間の工場の海外移転はもっぱらこの理由によるものだった。では、この円高は今後2年間で少しは解消されるだろうか。相場の予測は難しいが、逆にこう問い直してみてもいい。今後2年間で主要な基軸通貨であるドルとユーロは大きく上がるだろうか?

残念ながら今の状況を見る限り、難しいと思われる。現在のユーロの問題は、過去10年間のバブルのつけを払っているわけだ。その後始末はおそらく1年や2年ではきれいに終わるまい。一方、米国はどうか。確かに米国経済はいまだに世界一の規模を誇っているが、すでに国債の格付けはAAAから転落し、その歩みはもはや活力よりも威厳を示すものでしかない。ドルの価値が急上昇する事態は、いささか考えにくいようだ。つまり、今後2年間で、(たとえば中国の人民元が上がることはありうるだろうが)ドルやユーロが急上昇して大きく円安に動くことは、残念ながらないだろうと思われる。

それでは製造業の空洞化はますます進行し、日本経済の活力はもっと損なわれるのだろうか。それはいささか早計に過ぎる。日本のGDPに占める製造業の比率は、今や2割以下に過ぎないからだ。

製造業というのは「モノ」の形で付加価値を得る産業のことである。モノはストックしたり、海を越えて運んだりすることができる。ところがサービス業は違う。このサイトでも繰り返し述べたように、サービス業というのはリソースを提供して付加価値を作る産業だ。リソースというのは人的資源だったり物的資源だったりするが、どちらも現場性の強いものである。サービスの特徴は在庫が利かないことで、つくり出した現場で消費するしかない。いいかえるならば、サービスというのは海外で作って国内に持ち込むことが難しいものなのだ。だから現在の日本経済の主軸である第三次産業が空洞化することはほぼありえないだろう。

念のために言うが、日本経済が低調といっても、それは家計と中小零細企業が苦しいのであって、大企業の内部留保は意外にもかなりの水準を保っている。問題はそうした大企業がため込んだ何10兆円ものお金を、国内に再投資しないことである。国内に工場を作ったり、店舗を作ったりすれば必然的に雇用を生む。それをしないで海外に投資したり(鉱物資源の場合などは仕方がないが)、外国債券を買ったりしているから、国内の景気が上向かないのである。景気が良くないために国内外の投資を手控える。その結果ますます仕事が生まれなくなり、消費が落ち込む。一種のダウンスパイラルだ。

それにしても、製造業が雇用の吸収力を失いつつある現在、若い人はどこに働き口を見つけたらいいだろうか。この1、2年で目立つ傾向は農業への回帰である。大学の農学部への受験者が急増しているし、アグリビジネスの関心も高い。この傾向は今後も当面続くに違いない。広大な耕作放棄地があり、農業法人の組織化も高まっている。日本にはまだ古臭い規制や組織や利権だ残っているため、若い人たちが参入し、成功するまでにはまだ多少の時間がかかるだろうが。

農業と同じように、職人的な手仕事への回帰の流れも続くに違いない。日本の各種専門学校は世界的にみても、実はかなり高い水準の教育をしている。さらに大学を出たって手工業の仕事についてもいいじゃないかと思う人が増えている。私もそう思う。工場で高い品質を支えてきた高卒の人たちがいなくなる代わりに、より高い教育を受けた人たちが旋盤を回すようになるのだ。大量生産から個別生産への変化に、ちょうど付合している。誰もがネクタイを締めてホワイトカラーを目指す時代は終わりになるのだろう。

もちろん、こうしたことはすべて、人々や組織が合理的に振る舞ったら、という前提に立った予測である。問題はその前提が成り立つかどうかだ。

というのは2012年の現在、世界は政治の季節に入っているからだ。アラブの春に始まる中東世界の混乱、欧州ユーロ圏における分裂の危機、そしてアメリカの大統領選挙。東アジアでも朝鮮半島に軋みの音が聞こえる。

政治の季節というのは、人々が党派に分かれて権力争いをする時である。言い換えるならば、人々が目的合理性よりも感情に動かされる時代である。日本もこの調子で失業率が高くなっていけば、政治的な感情の波にのまれていくだろう。おそらく現在の二大政党制の枠組みは破綻して、ポピュリズムが政治の中心を牛耳ることになるかもしれれない。そうなれば、政策は安定よりもドラマティックな変化を志向し、改善よりも破壊的な出直しが好まれるであろう。あまり楽しい予想ではないが、そうなる可能性は十分にある。

それを防ぐにはどうしたら良いか。意外に思われるかもしれないが、そのためには皆が、リスクのある将来を予見することである。長らく私たちの社会は、安定志向で動いていた。安定志向=『安全第一主義』は、リスキーな未来予測を回避する思考方法である。結果として、多くの組織では変化のためのチャンスに見過ごしてきてしまった。現在の沈滞と混沌は安定志向がもたらしたものだ。

あるべき姿を予見してそこから逸脱する可能性をリスクとして考える。リスクの裏側には、チャンスがある。チャンスにかけて決断する。そしてその決断が正しかったことを証明できるように努力するのである。これが未来予測の実践的な効果だ。

あるべき姿を考えるためには価値観が必要になる。だから未来予測は科学ではありえない。未来は予測するのではなく作り出すべきものだ。それは、マネジメント的な技術なのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-01-09 22:48 | 考えるヒント | Comments(0)

書評: 2011年に読んだ本 ベスト3

皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。

このところ多忙で、あまり書評が読んだものに追いつかずにおります。そこで、昨年1年間に読んだ中で、もっとも感銘を受けたベスト3を、短評をつけてここに掲げる次第です。
いずれも三つ星です。

★★★ リアル・シンデレラ 姫野カオルコ
リアル・シンデレラ (Amazon.com)
2011/02/12 読了

最近、いやこの10年間に読んだ中でもっとも優れた小説。読んで本当に良かった。姫野カオルコという作家は誤解されやすい人だが、じつは知的で誠実なモラリストだと前から思っている。本書は、その彼女が個人的にもっとも辛かった時期に書かれたようだが、小説には苦難の片鱗も感じさせない。昭和時代の地方都市を舞台にした、ごく普通の人々による、魂の浄化の物語である。強くお薦めする。

★★★ 137 - 物理学者派売りの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 アーサー・I・ミラー
137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 (Amazon.com)
2011/06/17

著者は(有名な劇作家とは別人で)イギリスの物理学者・科学史家。ヴォルフガング・パウリは20世紀現代科学における知的巨人の一人だが、非常に謎めいた人でもある。パウリの排他律原理、ニュートリノの予言、そしてCPT対称性定理など、彼の輝かしき業績を無視して現代の物理学は語れないが、ユダヤ人キリスト教徒として生まれた彼の魂の彷徨は誰も知らなかった。その迷いからの導き手になったのは、意外にも同時代のスイスの心理学者ユングであった。著者は残された手紙や文献を丹念に追いかけて、この二人の互いの影響をさぐり、パウリが生涯をかけて追いかけた微細構造乗数「137」への執念を描く。良書である。

★★★ わたしの名は「紅」 オルハン・パムク
わたしの名は「紅」 (Amazon.com)
2011/07/24

現代トルコ文学のトップ・ランナーであり、2006年度ノーベル賞受賞作家であるオルハン・パムクの代表作。最盛期を過ぎつつある16世紀のオスマン・トルコを舞台に、イスラム細密画家たちの間で起きる謎の連続殺人事件を追う。細密画をめぐり、イスラム原理主義(この当時からあったのだ)の脅迫と、西欧美術からの影響の桎梏に引き裂かれる魂の悲劇を、著者は共感を込めつつ緻密に描く。それにしても作家の想像力とはここまでの拡がりを持ちうるのか。トルコの枠を超えて、まさに現代文学の最先端である。
by Tomoichi_Sato | 2012-01-04 12:25 | 書評 | Comments(0)