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書評:「算法少女」

算法少女 遠藤 寛子・著 (ちくま学芸文庫)


江戸時代に出版された和算の書物「算法少女」をもとに、史実に忠実なかたちで創作された小説。神田に住む町医者の娘・千葉あきは、父の指導で算法(数学)の才能を開花させ、やがて、自身も算法家である久留米藩主・有馬公に見いだされるが・・。

元の和算書『算法少女』は1775年の出版である。江戸中期、すでに社会は安定し、逆に固定化されて、数学は発達しつつも純粋な知的趣味の対象となっていた。そしてまた、流派と家元制度にしばられ、まるで盆栽のような狭く偏った育ち方を強いられた時代でもあった。一方では、数学を、金銭を数える技術として卑しむ風潮もあった。

こうした中で、物語の後半に登場する本多利明という算法家が、数学は世の中が発展していくための基礎である、という新しい考え方を主人公あきに教える。それは、算法を『壺中の天』の楽しみ(つまり現実から逃避するオタク的知的娯楽)と考える、あきの父とはまったく異なった思想である。こうして物語は、新しい世の中の、明け方に希望を託すかたちで終わる。読み終わった後で、ほっとする感情を読者に残す小説である。わずかであるが、算法の問題ものっていて、答えが書かれていない分、読者が自分で考える楽しみもある。挿絵も良い。

こうした『理系好み』の、しかし歴史と文学に根ざした小説が、インターネットの「復刊ドットコム」のリクエストに応えて文庫で出版される点をみると、私たちの世の中もまだ多少は捨てたものではないと感じる。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-29 18:00 | 書評 | Comments(0)

マネジメントを専業化する分岐点のスケール

スケジューリング学会は人数的にはこぢんまりした規模だが、親密な雰囲気のある学会である。元々は'90年代頃から機械学会やOR学会、経営工学会、計測自動制御学会など複数の学会の間で、共通領域として「スケジューリング」の重要性が浮かび上がり、共同でシンポジウムを開催したことがきっかけとなって生まれた学会である。わたしも10年ほど前、『革新的生産スケジューリング入門』を上梓した頃から参加しはじめたが、今年から「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」を立ち上げ、主査となった関係もあって、いろいろお手伝いする機会が多くなっている。

その学会の年1回の大会(上記の経緯から「スケジューリング・シンポジウム」という名称をつづけている)は、この3連休に大阪工業大学で開催された。今回は研究部会のイベントとして、パネル・ディスカッションを企画し、学会長である静岡大学の八巻直一教授と、以前からの知人である日本IBMの論客・中村実氏にパネラーを引き受けていただいた。テーマは主に“プロジェクトの価値と評価”をめぐってであったが、会場から活発な質問が出て、有意義な意見交換ができた。

ところで、そのパネル・ディスカッションの最後の方に出た質問で、デザインレビューやフェーズ毎のゲートやレポーティングなど、プロジェクトに関わる管理のオーバーヘッドが大きくなる傾向をどう考えるか、との質問があった。これはちょうど、管理過剰の問題について悩んできたわたしにとって、ちょうど痛いところをつかれる問いかけだった。八巻先生はISO 9000に代表されるPDCAサイクルの病(一度制度化されると自己目的化して、数年後には改善効果がないまま運用されるようになる)について言及され、中村さんはプロマネがレビュー対策やPMO対策みたいなものに走る傾向を批判的に紹介された。

この問いについて、わたしが答えたのはこうだった:エンジニアリング業界では、Man-Hour(以下MHと略す)のタイムシートはWBSコード別に記録することになっている。その中には「プロジェクト・マネジメント」という種別のコードもある。これが、プロジェクト全体で消費したMHの中で占める比率を分析してみると(対象は中規模以上のプロジェクト)ところ、ばらつきはあっても、ほとんどはある範囲内(10%内外)に納まるのが通例である。逆に言えば、ジョブ毎にいろいろ特性や事情の違いはあっても、もしマネジメントに20%以上の時間を割いていたら、それはとりすぎと判断すべきだろう、と。

ところで帰り道、これを逆に考えたらどうだろう、と思ってみた。つまり、プロジェクト・マネジメントという機能が、独立した専門職を必要とするようになるのは、どんな条件なのか。

上に述べたとおり、マネジメントに割く時間は、全体のMHの約10%、多い場合でもせいぜい15%程度だろう。となると、約100人月の仕事(たとえば平均8名×12ヶ月程度)で、10-15人月分だ。つまり、最初から最後まで1人のプロジェクト・マネージャーが専任でマネジメント業務をやっても引き合うサイズとは、これが分岐点であろう。それ以下の仕事の場合、たとえば30人月(5人がかりで半年間)のプロジェクトだったら、3-4人月がマネジメント業務だから、全期間を通じて専任のプロマネをおく余裕はない。当然、プロマネも一部は自分の手を動かして仕事をしなければならない。

もっとも、同じ100人月でも、33人が3ヶ月働くプロジェクトの場合(仮にそんな仕事がありうるとしてだが)、プロマネ1人だけでは足りず、サブとしてあと2名程度がコーディネーション兼雑用係として必要になる勘定だ。まあ、33人の人間が同時並行して働くチームのお守りをするとなると、その程度の手間はかかるに違いない。つまり、プロジェクト・マネジメント・チーム(PMT)の出現である。

一般論として、平均N人の人間がMヶ月間働くプロジェクトでは、MN/10程度のマネジメント業務が付加的に発生する。これはすなわち、一月当たりN/10(人月)のマネジメント業務量だ。もしN>10(つまり組織の規模が10人以上)ならば、プロマネに専任者が必要になる。それ以下だったら、マネージャーは直接業務との兼業になるだろう。

むろん、実際のマンニングは、このようなN人×Mヶ月といった、長方形の配員になることはまずあり得ない。ふつう、最初は少人数でスタートし、ピーク時には大勢を抱え、また終結時には少人数に戻るというパターンを取る。ピーク時の人数は、全期間の平均人数の2倍以上になるのが常だ。そういう意味では、プロマネさんだって初期にはマネジメント専業ではなく、ある程度、設計など実作業に首を突っ込むはずだし、そうでなければ良いリーディングはできないとも言える。またピーク時にはプロマネ1人では足りず、PMTの形になる。ちなみにエンジニアリング業界では、たいていのプロジェクトはPMT組織をもち、組織的な調整と階層的意思決定をしていく。

先進的なITや宇宙開発など、技術的に高度で複雑な分野ならばマネジメントは難しいから、もっと比率も高くなるはずだ、という見解もあろう。それも一理ある。だが、例えばもっとずっと単純な力仕事的な業務だったら、マネジメントの比率はずっと低くて済むだろうか? エンジニアリング会社の工事管理などの経験から見ると、必ずしもそうでもない。つねに10%かかるとは言わないが、これが2-3%で済むかというと、決してそんなことはないのである。結局、頭脳労働だろうが肉体労働だろうが、人間集団を率いて動かしていく時には、それなりのマネジメントの手数がかかる証左なのだろう。

では、プロジェクトの規模が大きくなれば幾何級数的にマネジメントの手間も増えていくのか? エンジニアリング・プロジェクトの経験から見ると、不思議なことに、必ずしもそうはならない。マネジメントMHの比率は高まるが、少なくとも冪乗で増えていくような傾向は見られないのである。これは結局、PMT以外のプロジェクト実働チーム側もまた、階層構造化されて、その中で情報伝達や指示やローカルな判断・問題解決がなされていくからであろう。

そういう意味で、仕事の組織とは、生物の体組織とよく似ていると思う。最初(仕事が小さなうち)は、似たような細胞が、ほぼ同等の機能をはたしている。しかしある程度、規模が大きくなると、それぞれが果たす種々の機能が次第に分化して、専門職集団が生まれる。こうして、臓器や、筋骨系や循環系、そして神経系が進化してきた。マネジメント専門職の集団(PMT)というのは、神経系の一種だと思えばいい。全体の調整やら同期をとり、情報を伝達・蓄積するのが神経系の役割である。神経系もさらに成長すると中枢と周縁に分化するが、すべてのことが中枢に伝わり処理される訳ではなく、無意識の内に、ローカルに処理されることも多い。こうして、中枢系が水ぶくれすることを防いでいるのである。

わたし達の組織も生物に習って、適時、権限を委譲して、マネジメント系を軽くすることを考えないと、脳が重すぎて歩けない生き物になってしまう。人間の頭は体重の1割くらいあると思うが、どうみても筋骨系的には、これが限度であろう。それでも、ヘンな姿勢を続けているとてきめん、筋肉や循環に影響が出てきてしまう。パソコンに向かってこんな文章を書き続けているから、おかげで今日も肩が凝るのだ。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-25 22:26 | ビジネス | Comments(0)

「良い会議」?

"Well, this was a good meeting." -- そう、Ray氏は言った。工場の片隅に置いた粗末なテーブルに手をついて立ち上がりながら。ところは米国テキサス州ヒューストン市の郊外、とある制御システム・メーカーの組立工場の中である。われわれ、つまり日米のエンジニアリング会社2社の技術者4人は、工場立会い検査に行った先の場所を借りて、別の案件で2時間ほどの打合せを終えたところだった。

Good meeting? そもそもミーティングにGoodもBadもあるのだろうか? Ray氏が自分の車でオフィスに帰り、われわれが工場検査立会の続きにとりかかった後も、その疑問は頭を離れなかった。仕事の打合せはこれまで数限りなく出ている。その中で、本日の打合せが他と異なる点はとくになかったように思う。目的を確認し、条件や事実関係を明らかにして整理し、対応策を考え、お互いのアクション項目を取り決めた。それだけだ。そもそも、打合の良し悪しを評価する習慣が、わたしにはない。

社会人になって初めて出た、客先との本格的な打合せは、今でもよく覚えている。わたしの部門が、顧客である某電力会社から一種の技術検討調査を請け負って、その中間報告について行ったのだ。わたしはタンク・タンカー・シミュレーションによる在庫計画と、全体の経済性分析を手伝っていた。中心になって説明したのはリーダー格の先輩で、新入社員のわたしは細部の確認程度の受け答えをしただけだ。あとは何もせずにじっと問答を聞いていた。

しかし帰ってから、わたしはそのリーダーに厳しく叱られた。なぜなら、わたしがメモを取っていなかったからだ。打合をしたら、必ず打合覚書を書く。そこには出席者と日次・場所と議題・議論の内容を記し、アクション項目と分担を定める。さらに客先に見せて内容を確認してもらい、承認印を押してもらう。決して“言った、言わない”の争いの種を残さない。それが受注ビジネスの仕事の基本なのに、なぜお前はメモも取らずにボーっと聞いていたんだ! 打合覚書のドラフトはお前が全部書け。そう言い渡されて、私は必死に問答の内容を思いだし、覚書のブランクフォームを埋めなければならなかった。

プロジェクト・マネジメントにおける文書主義の原則を、新米のうちに叩き込まれたのは、私にとっては良い教訓だった。電話で客先と重要なことを話したら、それも必ず「電話連絡確認書」に書くように。そうも教え込まれた(まだ電子メールなどというものが普及していない石器時代の話である。今だったら必ず確認メールを書いて送れ、といわれるだろう)。

それにしても、なぜ我々は仕事で打合を必要とするのだろうか。指図と報告の紙のやりとりだけで、なぜ仕事は完結しないのだろうか。初めから文書だけで仕事をすれば、いちいち会話のやりとりを思いだして書き留める面倒をせずにすむのに。

その理由は、紙を通じた我々のコミュニケーション能力に限界があるからだ。価格交渉のことを考えてみて欲しい。手紙のやりとりだけでは、いつまでたっても平行線が縮まらない可能性がある。打合の場で互いを拘束して、なんとか結論を出すべく努力する。互いの知恵と感情を駆使してかけひきをする。ネゴシエーションとは、合意できる妥協案という解決を共同で探すための場なのである。そして、なんとか解決できたという安堵感を共有する。人間は感情を共有するためにフェイス・ツー・フェイスのミーティングを必要とするらしい。

もう一つの理由は、認識の共有だろう。毎週行なう進捗ミーティングなどがそれにあたる。目的を確認し、状況を報告し合い、問題点をみつけて、仮説を共有する。人間は誰しも、自分のコンテキスト(文脈)の中でしか物事を認識しない。複数の人間が集まると、その文脈の偏りが少しは修正されるのだ。多面的にものごとをとらえることができるようになるのである。

だとすると、打合とは、認識を共有し、問題を解決できるめどが立ったとき、その機能を十全に果たすと考えることができる。さらに、そこで前向きな良い感情を共有できれば、より実りある会議だったと言えるだろう。そういうのが、『良い会議』なのだ。

良くない会議とは、その反対のミーティングだ。目的が不明で、報告はゆがめられ、認識は平行線、アクション項目は決まらず、問題は未解決のまま先送りで、互いに悪感情だけが残る。こんな会議は人生のムダだ。ただ一回しかない時間の浪費である。

あのときRay氏がGood meetingと呼んだのは、だとすれば正しかったのだ。そのあと我々4人は太平洋の両側に戻って、互いに並行作業を進めなければならない状況にあった。しかし、認識を共有でき、アクションと分担が明確ならば、共同作業はベクトルが合う。そう、会議には、たしかに評価の尺度がある。ならばミーティングを持つごとに、良い会議だったかどうか、いつも自分でチェックしておくべきなのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-21 19:00 | ビジネス | Comments(0)

失敗の無限ループから抜け出すマジックナンバー「5」

物事はなかなか自分の願うとおりには行かない--これは、たいていの人に共通の感覚だろう。「よかれ」と思ってやったことであれ、自信に満ちた賭けであれ、結果に裏切られるのはしばしばだ。気張って受けた試験は落ち、やっと得た職場は退屈で、意中の人には見事にふられ、生まれた子どもの性別は期待に反し、買った株や宝くじでも儲けたためしがない。これが普通の人生で、全ての賭に勝ち続けている人にはまだ、お目にかかったことがない。それでもわたし達は「次には良いことがあるかもしれない」という希望をかかえて、おぼつかない道を歩いていくのだ。

もっとも、負けず嫌いの人や夢を強く抱く人の中には、同じ失敗の無限ループにはまりこんでしまう場合がある。そこで『ストップ・ロス・オーダー』という撤退のための知恵が必要になるのだが、にもかかわらず、経済学でいう埋没コストの原理を持ち込むと、かえってループから抜け出すことができなくなってしまうことを、前回書いた。

このことを分かりやすく説明するために、こんな賭けの例を考えてほしい。ここに白と黒の碁石を入れた袋がある。あなたは、100円払うと、袋の中から碁石を1個、取り出すことができる。そしてもし、それが白石だったら、300円をもらうことができる。もし、黒石だったら何ももらえない。この賭けは、黒が出続けている間は何度でもトライできるが、白が出たら賞金が出て、その回でおしまいになる。ちなみに、取りだした石は袋に戻さないが、袋は十分大きいので、何が出ようと次の確率にはまず影響しない。

さて、あなたはトライしてみるが、1回目はあいにく黒だった。2回目は・・残念ながら2回目も黒だった、としよう。すでに200円使ったことになる。あなたは、もう一度この賭けにトライするだろうか? あるいは、こう訊ねてもいい。あなたは、最大で何度までこの賭けを続けるだろうか? この先を読む前に、ちょっと考えてみてほしい。

ふつうは3回目くらいから、逡巡する人が出始める。4回、あるは5回でやめる人が多いが、10回という人もいて、わたしが聞いた中で最大は20回(!)という人がいた。この人は国際的に活躍しているビジネスマンで、さすがリスク・テイカーなんだなあ、と感心した。

この問いが難しいのは、実際に袋の中に入っている碁石の白と黒の比率が分からないからだ。普通だったら半々のはずのに、「当たったら300円」という賞金の出し方が怪しい。そう考える人も多いだろう。でも、それは胴元が必ず勝つ不正な賭けをやっているのでは、と疑うからで、胴元だって本当は知らないのかもしれない。

実際の比率がわからない場合、確率を考えるとしたら、場合の数が二つなのだから、他に根拠がない限り50%ずつと仮定するのが素直なやり方である。必要な費用Cが100、勝った場合の収入Sが300、失敗のリスク確率rが0.5だから、賭けの期待値は、(1-r)S - C = 300 x 0.5 - 100 = 50円のプラスということになる。あなたはすでに200円使ってしまった。でも、次の賭けの期待値は50円だ。だから3回目もトライして、200円のロスを少しでも解消したいと思うだろう。うまく白が出れば、差し引き200円儲かるから、いままでの分がチャラになる。でも、全く同じ論理で、n回続けて黒をひいても、n+1回目に賭けるのが合理的、ということになる。これが、無限ループの泥沼の理由だ。間違ってほしくないのだが、人は頭がわるいからというよりも、むしろ合理的だから同じような失敗を何度も繰り返すのである。

では、どうしたら良いのか。経済学におけるストップ・ロス・オーダーの研究から、何かヒントが見つかるのではないかと考えて、調べてみた。しかし、一応それなりに手を尽くして調べてみたつもりだが、あいにくはっきりした指針になるような論文は何も見つからなかった(むろん、わたしは経済学の専門家ではないから、有名な研究をすっぽり見落としている可能性もある。もし“それにはこの定理を使えば良いんだよ”と教えていただける専門の方がおられたら、ぜひご連絡いただきたい)。

しかたがないので、自分で考えることにした。上に述べたリワークのパラドックスを解消するためには、失敗のリスク確率rを、過去続けて失敗した経験に基づいて見直すしかないはずである。といっても、これを説明するとなると情報量基準だとか最尤モデルだとかの話をしなくてはならない。読者の皆さんはくわしい数式は興味がないだろうから、得られた結果だけ書こう。その答えはマジックナンバー「5」だ。もしあなたが、成功も失敗も半々だと信じる賭けに5回続けて失敗したら、もう、その確率は五分五分ではないと考え直した方がいい。その場合、成功の確率は、最善でも1/6以下と見るべきである。

先の碁石の賭けでいうならば、もし5回続けて黒をひいたら、もう黒と白の比率は半々ではないと考えるべきだ。白は、よくても6個に1個しかない。だとすると、次の回の期待値は、300 x (1/6) - 100 = -50 だから、もう手を出すべきではない。撤退の時期なのだ。

この考え方は、広く使える。何であれ、自分が五分五分と考えている期待が、5回続けて裏切られたら、確率はもう五分五分よりかなり低い(17%以下)と思った方がいい。むろんそれでも、成功時収入Sと費用Cの比が、S/C > 6 だったら、まだ続けてもよい。でも、その場合でも、使った費用の総額がSを超えた段階で、撤退するのをお勧めする。

前々回に書いた電車の例についていえば、わたしはこう考えた。「停止してしまった電車の運行は、15分くらいで半分は再開するようだ。だったら、15分 x 5 = 1時間15分は、このまま電車に座って復旧を待とう。それでも見込がなければ、別の手段を探すことに決める」 そして、その通りに実行した。結果がどうだったかよりも、こう決めたことで気持ちの落ち着きを取り戻せた事が、とても重要だったのだ。

ちなみに「15分で再開が半々」というのは、無論、主観的なものである。それでもいいのだ。そもそもわたし達が人生で直面する賭けのほとんどは、ただ一度のことで、「主観確率」しか立てようがない。それでも、繰り返し試行した結果としての「統計的確率」とどちらが説明力が強いかを比較検証することができる(数式的なことに興味のある方は、佐藤知一:「製品開発プロジェクトにおける継続と撤退の合理的基準」化学工学会第74年会発表(2009)を参照されたい)。

このマジックナンバーが気に入らない方は、ご自分で別の基準を立てることをお勧めする。それがどのような基準であれ、とにかく線引きをすることが大事なのだ。なぜなら、タイムリーな自発的撤退こそ、じつは「現実から学ぶ」ための最良の契機だからである。そして、だからこそ、難しい。でも、撤退をしなければ、どうなるか。その結果をわたし達は、あちこちの閑古鳥の鳴く地方空港を見て知っている。そして、どんな赤字の責任からも逃れ、うまく立ち回って昇進や栄転した人たちを。彼らは、一番大事な「学び」の機会を、社会から奪ってしまったのだ。

先日、ある小さな集まりに呼ばれていろいろお話しをした時、「佐藤さんがこれまでやって一番楽しかったプロジェクトは何ですか?」とたずねられた。そんな質問は考えた事もなかったが、これまで関わった百以上のプロジェクトの中から、その時まっ先に思い出したのは、ある国内向けの仕事と、南米での仕事の二つだった。どちらも10年以上前のものだが、そんなに楽しかったのかというと、じつはやっていた時は苦しくてならなかった。どちらも納期に遅れて客先には迷惑をかけ、片方では盛大な赤字を出して会社にも迷惑をかけた。

しかし、辛かった思い出も年月が経てば忘れる。いつまでも忘れないのは、そのプロジェクトで学んだことだ。度重なる失敗と思いもよらぬ外乱で、自分は優秀だとの思い込みは微塵に砕けたけれど、そのかわり痛い思いをした分、学ぶものも大きかった。それはその後の自分を変える契機にもなった。だから今では良い経験だったと思うのだ。全てに成功する人間はいない。ならばせめて、失敗から上手く学べるようになるためにも、きちんとした「撤退学」をつくるべきだと信じるのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-15 22:33 | リスク・マネジメント | Comments(1)

講演のお知らせ(その2):日時訂正

日本プロジェクト・マネジメント協会(PMAJ)の第154回例会のお知らせで、ケアレスなミスにより日程が間違っていました。ここに訂正させていただきます。大変失礼いたしました。

1 日本プロジェクトマネジメント協会: 第154回例会
 「トラブルを乗り越える - イシュー・マネジメントの理論と実際」 (90分)

2011年9月22日(木) 午後7時~
場所:日本プロジェクトマネジメント協会 CYDビル(新橋)

ご興味のある方のご来聴をお待ちしております。


佐藤 知一
by Tomoichi_Sato | 2011-09-14 00:14 | ビジネス | Comments(0)

講演のお知らせ(その2)

9月から10月にかけて、さらに2件の講演をいたします。

1 日本プロジェクトマネジメント協会: 第154回例会
 「トラブルを乗り越える - イシュー・マネジメントの理論と実際」 (90分)

2011年9月22日(木) 午後7時~
場所:日本プロジェクトマネジメント協会 CYDビル(新橋)

内容:プロジェクトの遂行段階は問題解決の連続であり、問題事象(イシュー)への適切な対応がプロジェクト目標達成の鍵となる。一般に、リスクへの対処はPreventive(予防的)解決とAdaptive(適応的)解決を組み合わせる必要がある。しかし英米のリスクマネジメントはPreventive偏重の傾向がある。本講演では、著者が現実に経験したイシューの例を取りながら、Adaptiveな対応戦略の重要性について考える。そこにおいて大事なことは問題への「気づき」である。また、技術的解決とマネジメント的解決の違いを考え、あわせて危機的問題に対する三つの定石について解説する。

2 PMI日本支部: PM Festa 2011
 「海外プロジェクトとプログラム・マネジメントの勘所
  ~ リスク戦略を考える ~


  2011年10月10日(月・祝)
  場所:日本教育会館(千代田区)

  内容:日本企業の海外プロジェクトにおけるトラブルを見かけることが多い。背後には海外事業におけるリスク戦略の欠落があるらしい。戦略欠落の理由は、「プロジェクト問題構造への無理解」「責任原則とコンテキスト・レベルの誤解」「曖昧な目標設定」の三要素が組織内にあるためだろう。さらに根底には『安全第一主義』=リスク回避中心の組織文化がありそうだ。
本講演では、Risk-based Approach =『新現実主義』の立場に立って、Adaptiveなリスク対応能力の重要性を理解し、あわせて契約問題への対処法などについて解説します。そして、マネジメントにおいて必須の「成功基準の策定」を考えます。


今回のPMAJ例会(トラブル解決), PM Festa(リスク戦略)、そして先日お知らせしたPMI法人スポンサー連絡会(問題の早期発見)と、なぜか互いに関連性があるテーマをお話しすることになりました。それぞれポイントは違いますが、考え方は共通です。
より多くの方にご来聴いただければ幸いです。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-11 17:32 | ビジネス | Comments(0)

埋没コストの原理、または撤退の判断はなぜ難しいか

前回は、落雷で止まってしまった電車の中で、再開を待ち続けるか別のルートを探しに行くべきか、という状況に絡めて「ストップ・ロス・オーダー」という概念を紹介した(「ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵」参照)。じつは、この言葉を知ったのは古いけれども、別に株式投資やFXをやる訳でもないわたしにとって、しばらくは縁の薄い概念だった。あらためてこの問題を本気で調べ始めるようになったのは、プロジェクトの撤退判断、すなわち『Go or no-go問題』を考えるようになってからである。

エンジニアリングや受託開発のSIerなど、受注型プロジェクトに主に従事している会社にとっては、プロジェクトの中断撤退判断など、通常は問題にならない。赤字を出そうが納期に遅れようが、歯を食いしばって何とか最後の納品までたどりつくのが当然の事だ、とみな信じている。なぜなら、納品できなければ支払も得られないからだ。仮に今、予算を100として実績コストは150使ってしまっていたとしても、なんとか納品して100の収入を得られれば、赤字は50にとどまる。これを、途中でバンザイしてしまって撤退したら、150全部が自分の持ち出しになってしまう勘定だ。いや、それ以前に、継続的なつきあいを大事にする日本の商慣習では、途中で逃げてしまったりしたら以後永久にその顧客から(下手をすればその業界全体から)出入り禁止になるだろう。

『Go or no-go問題』が大事になるのは、自発型のプロジェクト、とくに新製品開発のような、大きなコストがかかり、かつ失敗確率の高いプロジェクトである。医薬品企業においては、その業績自体が製品開発段階での『Go or no-go問題』の上手な判断に依存している、との研究もある(書評「不確実性のマネジメント」参照)。

もっと別の例を挙げれば、公共事業として行われる社会インフラ関連プロジェクトもそうだ。国内に数多く作られた地方空港、あるいは、一昨年来問題となっているダム建設プロジェクトなどである。一般にこの種の公共投資事業は長い年数がかかり、その間に経済環境等が変わってしまって、期待した効果が上がりそうもなくなることが、しばしばある。だが『no-go』の再判断が重要であるにもかかわらず、官僚機構の中では誰も、いったん走り出したプロジェクトを止められない。こうしてただでさえ不況なのに、さらに国や地方の借金が積み上がっていく。

『Go or no-go』の判断がうまくできないのは、“プログラム・マネジメントの不在”に根本的な責任がある。プログラムはプロジェクトの上位概念であり、プロジェクトの発進や、プロマネの任命や権限委譲、そして継続判断などはプログラム・マネージャーの責任だからだ。ただし、そのようなマネジメント・システムを整備する場合、継続と撤退の基準はどう決めるのが適当なのか、という問題が相変わらず残る。仮にあなたが、問題プロジェクトを配下に抱えるプログラム・マネージャーだったとしよう。あなたは、何を基準にプロジェクトの『Go or no-go』を決めるのか? たとえば、予算が倍以上かかったら中止に決める、という案もあろう。でも、長くて暗いプロジェクトという名のトンネルの先に、かなりバラ色の光が見えているとしても、それでもあなたは無慈悲に中止をプロマネに命令できるだろうか。しかも、これまでそれだけの予算追加をあなたが承認(あるいは黙認)してきたことを認めた上で?

不振なプロジェクト/プログラムからの撤退はなぜ難しいか。その理由は主に三つある。まず第一に、これまでそれを進めてきた組織や人のメンツがある。華々しく出航してきてしまったのに、いまさらどの顔しておめおめ港に戻れるか、という感情的な理由。むろん、撤退後の譴責や処分も考えるにちがいない。とはいえ、さらに航海を続けて、もっと被害を広げたら、責任はさらに大きくなってしまうだろう。だから、実際にはメンツは継続と撤退の両面に働きかけると考えていい。

撤退が困難な第二の理由は、未来のバラ色の見込みを変えにくいことだ。何度失敗しても、くじけずに夢に取り組む。そうしたことを、わたし達の社会はずっと賞賛してきた。気合いと根性さえあれば、必ず難問は解決できる。わたしはほとんど未見だが、有名な「プロジェクトX」という番組も、この種の事例をTVで次から次へと紹介し続けたようだ(余談だが、あの番組はプロジェクト・マネジメント理論の専門家の間では『プロジェクト×(バツ)』と呼ばれていたらしい。計画も方法論もリスク対策も抜きのまま、リーダーの根性&成功ストーリーに仕立てる例が多かったからだという)。ともあれ、“失敗にくじけず夢を見続ける”ことが、“見通しを途中で冷静に見直す”ことに優先される習慣がこうして形成されてきた。

そして三番目の理由が、過去のこれまで投入した努力にひきずられる、という事である。すでにこれだけの金と労力をつぎ込んだんだ。撤退したら全てパー、水の泡になるじゃないか。これはもう戦略的投資だ、後へは引けぬ。使ったお金を活かすには、事業に成功するしかない、という訳だ。もし失敗したら、ROIを低下させたといって株主にも責め立てられるだろう・・・

使ってしまったお金に対して、一種の資産価値ないし執着を感じる。このような判断上の矛盾をさけるためには、『埋没コストの原理』という考え方が必要になる。

『埋没コストの原理』とは、すでに使ってしまったコストは、現時点での判断に組み入れるべきではない、という経済学上の原理である。もはや過去という時代に埋没したコストは忘れて、この先の事だけを見て判断する。過去の苦難も(栄光も)忘れて、冷静に現在と将来を考えろ。これが経済学の要請である(たいていの経済学の要請と同様に、ふつうの人間には従うことが難しいが)。ともあれ、この原理に立てば第三の理由は回避できる、はずである。

ところが。この『埋没コストの原理』を認めると、逆に困った矛盾が生じてしまうのだ。今、プロジェクトがある技術的困難に直面したと考えてほしい。そうした時、たいていのプロマネがとる方法は、直前のステップに一歩戻って、代替手段を探すことだ。すなわち、リワークである。もし成熟した技術分野なら、失敗の原因を分析して取り除けば、先に進める。もし、まだ不確実性の高い分野なら、あるいは本質的に試行錯誤的なアクティビティならば、ともあれほぼ等価と考えられる試行を繰り返すだろう。Aという材料でダメなら、Bの材料で試してみる。BもダメならCと、竹フィラメントにたどり着いた発明王エジソンが百回以上も試したように、試行のループを繰り返すだろう。

そして、埋没コストの原理に従うならば、一歩前の原点に戻った際、それまで使ったコストは忘れていい。となると、考えるべきファクターは、成功した時の期待利益Sと、再度の試行に必要なコストC、そして失敗するリスク確率rである。それがもし

 (1 - r)S - C > 0

の条件を満たしているなら、プロジェクトは進む価値があるはずだ。いま、上の条件を満たしたとしよう。そして再試行する。ところが、また失敗してしまった。出発点に戻って、もう一度リワークしようか考えてみる。ところが前回の失敗コストは忘れていいことになっている。次回のコストCも、期待利益Sも、そして(等価な代替手段なのだから)リスク確率rも、前回と同じままである。だから、上の条件式はまた成立してしまう。そして、再々試行に進むことになる・・・

これが、プロジェクトが泥沼の無限ループに陥っていく状況なのである。判断者が合理的で、すべてを数字で判断し、かつ経済学の『埋没コストの原理』に従うと、かえって撤退の判断ができなくなっていく。たとえプロジェクトを全て自分の手金でやっていて、財布の底をついたとしても、まだ誰かに金を借りてでも続けようとするだろう。適正なストップ・ロス・オーダーなど、存在しないことになる。これをわたしは、「リワークのパラドックス」と呼んでいる。

「リワークのパラドックス」が生じる根本原因は何だろうか。それは、上記の第二の理由、つまりバラ色の見通しを捨てられないことにある。でも、誰もが一度失敗しただけで諦めていたら、技術に進歩も何もなかったことは明白である。だとしたら、何度繰り返し失敗したら、手を引くべきなのだろうか? じつは、答えがあるのである。次回は、その「マジックナンバー」について述べる。

(この項もう一度続く)
by Tomoichi_Sato | 2011-09-08 22:34 | リスク・マネジメント | Comments(0)

ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵

渋谷から東横線の各駅停車に乗った。たしか都内での研究会か何かの帰りだったと思う。ふだんは急行か特急に乗るのだが、その夜は何だかくたびれていたので、多少すいていた各停で座って帰ろうと思ったのだ。ところで、渋谷では穏やかな夜空だったのに、電車が5つめの都立大学駅に着く頃から、雷とともに急に激しい雨が降り始めてきた。折りたたみの小さな傘しか持っていない。でも、初夏の夕立だろう、いずれすぐやむにちがいない、と高をくくっていた。

しかし、電車は都立大の駅に停車したまま、ちっとも動き出さない。ホームに降り注ぐ雨は、しぶきとなって開け放たれたままのドアから車内にも吹き込んでくるようになった。しばらくしてから車内アナウンスで、「信号系統への落雷のために、全線がストップしております。復旧作業中ですが、まだしばらく時間がかかる見込です」という。外は相変わらずのひどい雨が続いている。ほんの通り雨という感じではなさそうだった。時計は9時半を回っていたように思う。さて、どうするか。

わたしの家は横浜近くの各駅停車の駅が最寄りだ。ちゃんと電車が動き出せば、30分足らずで着く。このまま座って帰れるのが一番良い。しかし、復旧の見込は不明だという。他のルートに乗り換えたいところだが、あいにく乗換駅でもない。せめてもう一つ隣の自由が丘駅までたどり着いていたら大井町線に乗り換えてJRに出られるのに、と思ったが、どうしようもない。あいにく手元不如意でタクシーという手段は考えられなかった(それに、こんな天気の時はタクシーはつかまらない)。

首都圏のロジスティックス事情に詳しい方ばかりではないだろうから、念のために書くと、東京方面から横浜に行くルートは5本ある。東急東横線と、JR(京浜東北線・東海道線・横須賀線)、京浜急行線だ。東横線は渋谷から、他の4ルートはすべて品川から横浜に向けて走っている。渋谷と品川は山手線でつながっている。正確に言うと、この他に日比谷線(中目黒発)と湘南新宿ラインの一部(恵比寿・大崎発)があるが、これらは途中からそれぞれ東横線と横須賀線に乗り入れている。

考えられる唯一の代替案は、今、ここで駅をおりて、バスを探し、渋谷か目黒か品川か、とにかく東京方面の他の線の駅に戻る事だ。ただし、バスがこの時刻に走っているかは定かでなく、戻ったとしても、JRや京急が動いている保証はない。困った事に、こういう時に限ってiPhoneは電池切れである。状況を知る手立てがないのだ。だが、この雨が単なる夕立ではなく、南関東を突如襲った集中豪雨だという感じは強まってきた。

もう一度、整理しよう。このまま乗り続けるか、それとも降りて別の可能性を探索するか。二つに一つだ。あなたなら、どうするだろうか? 続きを読む前に、ちょっと考えてみてほしい。

わたし達が直面する意思決定は、ほとんどの場合、不確実な状況下で行わなければならない。しかも、限られたリソースしかない局面でだ。それでも、明るい見通しのある選択肢からの決断だったら、まだ楽しめる。休暇は海に行こうか山に行こうか。天気や混み具合の不確実性はあるが、どちらを選んでも、多少はプラスだろうと感じられる。

難しいのは、ネガティブな選択肢からの決断である。それも、選択肢の中に「現状のまま」というのが入っている時が最も難しい。今のままではじり貧に思える。でも、代替案の中にも確実性はない。今よりひどくなって、「フライパンから火の中へ」飛びこんでしまう可能性もある。こういう時に、わたし達はどう決断したらよいのだろうか。

ストップ・ロス・オーダー』という言葉をわたしが知ったのは、デール・カーネギーの著書「道は開ける」の中だった。彼は「悩みに歯止めを設けよう」という章で、あらゆる賭けをする際に、あらかじめ「歯止め」をかけておくことを推奨している。ストップ・ロス・オーダーは元々、相場師の用語で、$50で株を買う時、(たとえば)$45のストップ・ロス点を設定しておく。そして株価が$45を切ったらすぐに売却し損切りするのである。彼はこの考え方を他の悩み事にも応用するよう勧める。

たとえば、時間にルーズな友人と一緒に昼食をとる約束をしたとする。彼は、友人を待つ時のストップ・ロス時間を10分に設定するのである。そして「君が10分以上遅れたら、昼食の約束はなしにして帰るよ」、と相手に告げるのである。

このストップ・ロス・オーダーがなぜ優れた知恵かと言うと、撤退という難問に、即断すべき基準を作ってくれるからである。意思決定の時、一番いけないのは、何も決断せずにずるずると先延ばしにしていく事だ。それは損失を広げていくばかりではない、何よりも自分の心理的エネルギーを消耗させ奪っていくのである。そうなると、ちゃんとした判断さえできなくなっていく。ストップ・ロス基準があれば、継続であれ、撤退であれ、"Go or no-go"をタイムリーに決断できる。そして決めたら、それが結果として正解となるよう、努力する。こうすれば、心的エネルギーをプラスの方向に使う事ができる。

その夜、わたしがとった決断は、こうだった。「まず、1時間15分は、この電車に座って、信号系統の復旧を待つ。それでも動く見込がない場合は、外に出て他の手段を探す。」そして、本を読みながら10時45分過ぎまでじっと待った。そして、まだ復旧のアナウンスがないので席を立ち、小さな傘を差して駅から近くの国道まで歩いた。そして幸い、恵比寿行きのバスを見つけて飛び乗った。JRの駅に着いたのは11時20分頃だったろうか。案の定、湘南新宿線は止まっていたが、京浜東北は動いていた。山手線で品川まで回り、なんとか横浜に戻ったのだった。ちなみに東横線が復旧したのは夜の1時近かった事を、後になってニュースで知った。

だが勘違いしないでほしい。結果がオーライだったから、わたしの決断が正しかった、と言っているのではない。ある方針を決めて、それで動けた事が良かったのだ。もし結果が失敗だったら、それが何回も続いたら、ストップ・ロスの基準を見直せばいいのである。それが『学び』というものではないか。どんな決断の場合でもそうだが、一度きりの結果で良否を評価するのは愚かだろう。それは1打席だけ見てバッターの能力を評価するようなものだ。

では、そのストップ・ロス基準はどのように決めるべきか? たとえば、わたしはなぜ、1時間15分という中途半端な数値を設定したのか? それについては、長くなったので、機会を改めてまた書こう。いつもわたしは余談が多くて長くなりすぎる。ここらへんでストップしておくのが、読みやすさの点でもいいと思うのだ(笑)。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-03 14:05 | リスク・マネジメント | Comments(0)