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書評: 「不確実性のマネジメント」 桑嶋健一

不確実性のマネジメント - 新薬創出のR&Dの「解」

医薬品の中には、1gあたりの価格が宝石よりも高いものもある。画期的な新薬の開発にうまく成功すれば、一品目だけで数年から十数年にもわたって、製薬企業の収益を支えることができる。まさに宝物である。

そのような画期的医薬品の代表例の一つが、三共(現・第一三共)の高脂血症治療薬「メバロチン」であった。1991年から2003年まで、13年間にわたって日本の医療用医薬品の売上高トップの座を維持した。しかし、本書によれば、メバロチンの開発は計画の線に沿って進展したプロジェクトではなかった。'73年にコレステロール合成阻害作用を持つリード化合物が発券されていたが、マウスによる動物実験ではまったく効果が出なかったという。しかし、飲み屋での偶然の出会いから、別の動物の非公認実験の協力者を得て活路を見いだし、'81年からは前臨床試験、そして'84年から人による臨床試験が始まる。認可を得て販売開始したのは'89年で、ここまでに16年の歳月がかかっている。また臨床実験では通常、数十億円の費用がかかる。

このように偶然や運が大きく作用する医薬品開発プロジェクトは、どのようにマネジメントされているのか。これが本書の研究テーマである。著者は筑波大の助教授(出版当時)で経営学者であるが、比較的読みやすく書かれている。

新薬開発の成功確率は、2006年の業界団体調査によれば、約1万2000分の1である。まさに一攫千金の宝探しと言っていいい。製薬企業のマネージャーの中には「医薬品の研究開発はマネジメントできない」という人さえいる。にもかかわらず、著者の調査による比較では、日本の製薬企業の間における新薬開発の生産性(成功率)に関し、歴然とした差が見られるのである。その差はいったいどこから来るのか?

「粘り強い研究が画期的な成功につながる」というストーリーは、しばしば聞かれる。しかしこれでは、逆に言えば「いつまでもプロジェクトを止められない」問題も生じる。

著者は、新薬プロジェクトを、上流(探索段階)と下流(開発段階)に分けて考察する。そして、継続か打ち切りかの「go or no-goの判断」が最重要である、との仮説にたどり着く。ところで、臨床試験段階に入ったプロジェクトは、すべて厚生労働省に申請して始める事が義務づけられている。すなわち、医薬品業界は、新製品開発プロジェクトの公的な統計が存在する、きわめて珍しい業界なのである(殆どの業界では、すべて秘密裏に進むために失敗統計が公表されない)。著者はこれを利用し、「生存時間解析」という手法を用いて、主要10社のデータを分析比較する。

その結果わかったのは、フェーズ2と呼ばれる有効性試験の途中で、明確に絞り込む事が最も効率がよいらしい、との事だった。そして、10社の中で最も成績の良い武田薬品は、まさにこのパターンの戦略にしたがっているのである。(余計な話だが、わたしはこの桑嶋氏のデータに対して、リスク確率に基づいたプロジェクト価値分析を行って、フェーズ2成功の価値貢献が最大である事を、2010年のスケジューリング学会で報告した)

本書の後半1/3は、優れた製品開発マネジメントの産業間比較にむけられる。そして、「市場ニーズの多様性」と「製品構造の複雑性」という2軸での整理による藤本・安本モデルをもちいた分析が行われる。

本書の主要な主張は、不確実性と運に大きく支配される製品開発においても、組織によるマネジメントはあり得るし、有効でもあるという事にある。その鍵は、意志決定と、勇気ある中断撤退にある。本書の副題が、「新薬創出のためのR&Dの『解』」であることにも示されるように、製品開発マネジメントとリスクについて興味ある人々にとって必見の書物である。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-30 23:28 | 書評 | Comments(0)

新任リーダー学・超入門(4) 測れないものはマネジメントできない

Sさん。前回は、仕事の指示に最低限必要な4つの情報についてお知らせしました。それは「アウトプット」・「インプット」・「リソース」・「完了条件」の4つでした。今回はそれとは別の角度から、リーダーとして理解しておくべき事を書きたいと思います。

Sさんは、Action Listという道具をご存じですか。これはプロジェクト・チーム内で共有する、一種のTo Doリストです。プロジェクトで、必要なActionが発生したら、期限と担当者を決めてリストに記入します。そして、毎週の定例ミーティングなどでステータスを追いかけるのです。「課題管理表」という名前で、顧客と共有する使い方をしているところもあるでしょう。呼び方は会社により様々です。Action Listは典型的には、以下のような表になっています。

番号  アクション内容       記入日   期限    担当者  ステータス
---------------------------------------
12  マニュアル制作会社に連絡  7月17日 8月30日  佐藤  完了
13  C社に開発機を貸し出す   8月11日 9月10日  田中  -
14  営業部長にタイミングを相談 8月18日 9月15日  中村  -
・・・   ・・・          ・・・       ・・・
・・・   ・・・          ・・・       ・・・

これ自体は変哲もない道具ですし、広く使われています。ただ、このAction Listを見るたびに、わたしは思い出すことがあります。あるIT系企業のX社と共同で製品開発プロジェクトをやっていた時のことです。X社側は体制をかためるために、新たに一人、経験者を雇ってソフト開発チームのリーダーにすることにしました。Kさんというのが、彼の名前です。30代だったでしょうか。前は準大手のSIerにいて、X社に転職してきたそうです。

Kさんの初仕事は、週次のミーティングで挙がった作業項目をAction Listにまとめる仕事でした。ところが、数日後にメールで送られてきたAction Listを見て、思わずわたしは部下と顔を見合わせため息をついてしまいました。その表は、Microsoft Wordの表機能で作られていたのです。

「ダメですね。これじゃ、使えないや。」わたしの部下は気短に言い捨てました。
「うん。・・ちょっと、うまくないかもね。」と、わたし。

なぜそう思ったか、おわかりでしょうか。Action Listは、わたし達が想定していた事と、現実の要求事項の間のギャップを調整するための道具です。だからプロマネやリーダーは、毎日これを眺めて暮らすことになります。その時、Action項目は全体でいくつあり、その中で未完了の項目はどれくらいあるのか、また一番期限に遅れているのはどれか、誰が一番多く抱えているのか、などを必ず気にかけるはずなのです。

ところが、Wordの表では、こうした数の分析がすぐにはできません。ということは、このK氏は、そうした見方に気を回したことが一度も無かったらしい事を暗示しています。普通だったら、こうした表はExcelその他、データ処理のしやすい道具で作るでしょう。

Actionの中には重いのも軽いのもあるのに、単純に数なんかかぞえる意味なんかあるのか? そう反論する人もときにいます。でも、そういう人だって、お宅は何人家族ですかと聞かれて、“大人も赤ん坊もいるのに、そんな質問に意味はない”とは答えますまい。日本の経済成長率はOECDの順序で何番目か、という質問に、“大国も小国もあるのにナンセンス”と言うでしょうか。

もしActionの手数に違いがあるというのなら、ABCとか松竹梅でもいいから、重みをつけて加重計算すれば良いだけです。問題は、自分のプロジェクトの状態やパフォーマンスについて、数値化しようという意識が少しでもあるかどうかなのです。

数字はいつも見ているさ、だって予算もスケジュールも工数も、しょっちゅう確認しているし、上からうるさく言われるじゃないか--K氏だって、聞けばこう反論してきたかもしれません。ところで、それは顧客や上司から要求されるから見ていたのでしょうか。要求がなくても、自分から測ったでしょうか。

測れないものはマネジメントできません。何かの状況をつかみたかったら、そして向上させたかったら、それを測るためのモノサシと基準が必要です。「あと少しです」「頑張っています」「出来は良いですよ」--こうした『言葉による形容』では、主観による比較から抜け出せず、検討しても決着がつきません。何かをどうにかしたかったら、改善や変革をしたかったら、対象を数字で測る習慣をつけるべきです。測りにくい対象でも、多少強引にでも数値化するマインドこそ、マネジメント・テクノロジー化への第一歩なのです。

そして、どのような時にはどのモノサシを選ぶべきか、その精度はどの程度の粗さか、それで何を見たいのか、つねに意識していかなければなりません。

K氏は残念ながら、一月ちょっとでその会社を辞めていきました。穏和な性格で頭もそれなりにいい人です。上司との折り合いその他、いろいろ事情もあったのだとは推察しました。彼は辞めていく時、わたしにだけメールを送ってきました(別の会社だから、かえって言いやすかったのかもしれません)。その中で彼は、憤懣やるかたないという調子で、「私の仕事は、工程表をつくるという事だったというのです!」と書いていました。

しかし、「当たり前じゃないですか。それが貴方の仕事ですよ」というのが、読んだわたしの感想でした。SE上がりのK氏は、開発プロジェクトのリーディングを、設計の指導か何かのように考えていたのでしょう。工程表作りなど、本筋とは無縁な管理的雑用だと。でも、それは勘違いです。それはちょうど、映画の助監督に採用された人が、現場の段取りやキャストとの調整をわきにおいて、脚本のストーリーばかりに首をつっこむようなものです。デザイン(What)とマネジメント(How)は別物であって、小さなプロジェクトではチーフ・デザイナー自身がリーダーを兼務することもありますが、それは脚本兼監督みたいなもの。デザイナー=リーダーが、本来の姿だと思うのは誤解です。

工程表作りは、立派なHowのプランニングです。そして、現実のスケジュールがプランからどれだけずれているかを測って監視していく。遅れたら原因の問題をつきとめ解決していく。これがリーダーに求められるマネジメントの仕事です。Sさんも、これから自分が仕事をリーディングしていかれる際は、「何をもってこの仕事のパフォーマンスを測ろうか」という視点を心にとめておかれるよう、おすすめいたします。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-26 23:07 | プロジェクト・マネジメント | Comments(1)

書評:「見えないものと見えるもの」 石川准

見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学


本書は、医学書院「ケアをひらく」シリーズの一冊である。著者は気鋭の社会学者で、私の旧知の友人でもある。全盲でありながら、彼はこの浩瀚な書物をわずか2ヶ月で書き上げた、とあとがきにある。そのせいか、この本はいわゆる専門書よりもエッセイに近いスピード感もあって、とても読みやすい。

私は「感情労働」という概念を、この本ではじめて本格的に知った。感情は人間という生物に生まれつき組み込まれたセンサーであるが、自由にオンにしたりオフにしたりできる装置ではない。そこで適切に感じるように(適切さの範囲は社会が「感情規則」というルールとして暗黙に定めている)、自分をコントロールする必要が出てくる。これを感情管理というらしいが、職務として求められる感情管理を、『感情労働』と呼ぶのである。

19世紀の工場労働者が肉体を酷使されたように、感情が商品となることが定着した今日、ある種の労働者たちは感情を酷使されている。その代表例は接客業や役者である。しかし、著者が本書で主題とするのはナース(看護師)たちである。なぜなら看護師たちは、専門職の労働者でありながら、同時に過酷な感情労働を裏側で要求されるからだ。

高度な感情管理を要求する社会では、本物の感情が希少価値をおびてくる。その行き着く果てでおこる感情労働の破綻は、人間を暴力的にさえする。そこでアシストと社交、さらに感情公共性と脱社交という概念をもちい、「高度に文明化された社会」、あるいは配慮の平等な社会、という青写真を提出する。

本書ではまた、オープンソース活動のプロジェクトが金銭的報酬系ではなく『評判ゲーム』によって駆動されていると指摘し、評判ゲームにより駆動される贈与文化は、じつは高品質で創造的な共同作業を促す最適な方法かもしれない、と考察する。他にも、セクシュアリティの脱規格化や、ネットオークションの奇妙な魅力、地域通貨など、人と人をつなぐ様々な仕組みとあり方について体験や対談も交えて分析していく。

本書に述べられているのは、損得と目的合理性で人間を規定した非協力ゲーム理論の、いわば対極にあるもの、すなわち感情を持つ存在としての人間社会のあり方である。今日の経済社会にあって、障碍者をふくむ誰もが自由につつがなく暮らせる条件を模索する、読みやすいが極めて野心的な著作だといえるだろう。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-23 23:36 | 書評 | Comments(0)

知識労働、肉体労働、そして『感情労働』

「経済のソフト化」が言われ、「サービス・サイエンス」という新学問が提唱される今日においても、肝心な「サービス」の定義や中身はなかなか定まらない。なぜ、サービスをめぐる議論はかくも混乱するのか。前回も書いたとおり、サービス業とは「リソース提供ビジネス」であり、物質的なリソースあるいは人間系リソースの利用権・占有権を売るビジネスだ。通信インフラや鉄道輸送などの物質的リソースについての機能は、工学的に明確なはずである。また人間系リソースの提供にしても、知識労働(弁護士や通訳など)ないし肉体労働(整体師や溶接工やら)の役割は明瞭なはずであり、多くは資格制度も付随している。

それなのに、なぜかしばしば、ノードストローム(米国の高級百貨店=物販業)やディスニーランドや銀座の高級マダムの接客術みたいな要素が、サービスをめぐる議論の俎上にのせられる。お客様の「おもてなし」や、要望への「気づきの心」が声高に求められるのはなぜなのか。

そこには従来見過ごされていた、あるきわめて重大な種類の労働が関わっているからである。それは『感情労働』である。

感情労働という概念は、'70年代アメリカにおいてConstructivismと呼ばれる社会学研究の中で提唱された(Constructivismは「社会構成主義」ないし「社会構築主義」と訳される)。口火を切ったのはホックシールドいう学者で、その仕事は『管理される心―感情が商品になるとき』という著書にまとめられている。感情はふつう、それが喜びであれ悲しみであれ、私生活において適切に表出し、互いに贈り合うことで、人間関係を円滑に成り立たせる機能を持つ。つまり、感情とはプライベートな社会関係において必要不可欠な資源(リソース)なのである。ところが現代社会では、この感情が商品化され、仕事の領域でも使われる。サービス業の従事者は、その仕事の一環として感情を制御することや、顧客に「感情の贈り物」を提供することを求められる。これが「感情労働」である。

ホックシールドが研究対象とした一例は、航空会社のフライト・アテンダントだった。業務としてひんぱんに感情操作を求められるこの職種では、労働強化は労働者の情緒障害と自己疎外を招く、とホックシールドは警告した。彼女の研究に続いて、ショット、ケンパーなど気鋭の社会学者達が、感情の社会学とも言うべきこの分野に入ってくる(ここらへんの事情については、中川伸俊氏の「社会構築主義と感情の社会学」という論文-以前はネットで公開されていたが現在はリンク切れになっている-によって勉強させてもらった)。

ところで、何でわたしがConstructivismなどを調べているかというと、プロジェクト・マネジメント研究に関係するからである。毎年夏に欧州の主立ったPM研究者が集まるEDEN PM Seminarという会議があり(今年もちょうど今週、仏Lilleで開催中)、3年前にそこで知ったからだった。欧州のPM研究は、方法論を徹底的にやるのが特徴であるらしい。日本の、実務的だがある意味ナイーブなPM研究との違いには、心底驚いた。ただ単にアンケート調査やケース・スタディをしてみたらこういう結果になりました、というだけでは研究として相手にされない。いかなる理論的枠組みで、なぜこのような方法をとったのかが、厳しく問われるのだ。そこに登場するのがConstructivismやPositivismやCritical Theoryといった理論で、様々なプロジェクト(それ自体は各々ただ一度限りの社会現象である)を、どう把握し分析するかの導きとなる。

話を元に戻すが、感情は人間が「生まれつき自然に」持つのではなく、社会的に訓練され構成されるものである、というのがConstructivismの立場だ。そして、社会的場面に応じて、適切に感情を表出/制御するべく、人々を動かしていく(たとえば社長による深刻な訓話の最中に笑い出したりしない、といったように)。これを社会の『感情規則』と呼ぶ。

そして、世の中には、感情を相手に応じて制御しなければならないタイプの労働がある。これが感情労働なのである。ホックシールドはフライト・アテンダントを研究したが、その著書の翻訳者である石川准氏は、看護師の感情労働を例に挙げている(わたしの長年の友人である彼は、全盲の社会学者であり、また天才的プログラマーでもある)。たしかにナースの仕事は、知識労働もあり肉体労働でもあるが、同時に絶え間ない感情制御を伴う労働でもある。看護師たちは感情を酷使されている。と石川氏は言う。ちなみに看護師には喫煙者が多いと言われているが、喫煙の害を誰よりもよく知っているはずの彼女たちが喫煙に向かうのは、このような仕事のストレスが生むのかもしれない。

感情労働には、感情を抑える仕事と感情をつくる仕事の両方が混じっている。これを職業的に求められる職種は、CAやナースだけではない。たとえば、俳優もそうだ。そして、あらゆる業種をまたいで、広く感情労働が必要な職種がある。営業職だ。

セールスの現場はまさに、感情労働のかたまりである。相手にあわせ、相手を不快にせず、しかも相手を自分に都合良く誘導しなくてはならない。そのために必要な感情の制御はかなり高度なスキルであるし、またそのことが営業マンの消耗とストレスの原因ともなっている。

セールスマンの感情労働を見事に描いたマンガに、業田良家の「ゴーダ哲学堂」がある。「オレってまるで、ロボットじゃん」と、その登場人物は言う。実際彼の姿はスーツを着たロボット風に描かれている。理不尽な客のワガママにぶつかると、彼は「感情制御装置」のキーパネルをとりだし、『笑』のスイッチを押しては「ハッハッハッハッ。冗談きついなぁ店長さん。」と笑顔を作り、『哀』を押して「かんべんしてくださいよ~~。」と泣き落としにかかるのである。ただ、『怒』のボタンはひどく小さく、押しにくいようにできている。そして、「感情全テノボタンヲ、強ク激シク、毎日ツカワナケレバイケナイ」と独白するのである。

以前「新しい販売マネジメント思想こそ、競争力再生の要点である」に書いたように、現代日本の成熟市場においては、営業とは顧客ニーズの創出と供給側のコントロールを同時に行う“きわめて高いインテリジェンスを求められる仕事”になっている。それに加えて、この感情労働だ。今日の競争力のかなりの部分が営業にあるにもかかわらず、これをリードする思想は成熟していない。その理由は、「感情労働」という知識労働でも肉体労働でもないあたらしいカテゴリーの概念を、きちんと認識していないためである。概念がないから、教育訓練の方法論もない。パフォーマンスの尺度もない。これで販売をマネジメントできる訳はない。

そして、もう一つ、感情労働が重要な役割を占める職種がある。それがプロジェクト・マネージャー職だ。わがままな顧客と感情をすり合わせ、疲弊したチーム員を慰撫し、居丈高なくせに不安そうな上司には、信頼感を持たせる。これら感情を素早く切り替えて表出し、なおかつ計画やら報告やらにも気を配らなければならない。プロマネが世にも大変な職種である理由は、このような感情労働のレイヤーが、他者にも自分にも見えていない(だからその報償も得られない)ことにあるのではないか。

わたしは、知識労働も肉体労働も感情労働も、別に上下や貴賤はないと考えている。社会学者達は「商品化される心」というタイトルからみて、感情労働にネガティブな視線をなげかける傾向があるようだが、どんな労働だって、それが過重で無報酬だったら、人を壊してしまうと思う。一定のニーズが社会の中にあるのだから、感情労働にもちゃんとした地位を与えればいい。感情労働に問題があるとしたら、人がそれを認識しないまま、当然のサーヴィス(無料)として「感情」のリソースを浪費してしまう点にある。プロマネ達がみんな疲弊してしまわないためにも、マネジメント業務の中に感情労働のスキルと価値があることを、皆もっときちんと意識すべきだと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-19 23:36 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

講演のお知らせ(2件)

9月から10月にかけて、3〜4回ほど講演の機会をいただきました。
直近で決まっているのは次の2件です。関西での講演もありますので、ご興味のある方のご来場をお待ちしております。


1 PMI日本支部 9月度 法人スポンサー連絡会
 「大規模プロジェクトにおける問題発生の構造と“気づき”について  - PMOの立場から」 (40分)
 9月14日(水)午後
 場所:株式会社三菱総合研究所 4階大会議室

内容: エンジニアリング会社の遂行する海外プロジェクトにおいて、問題発生の早期把握は死活的に重要である。問題の発見と報告は、担当者・PM・PMOの3つのレベルで重層的に行われるが、「責任感ゆえの抱え込み」「心理学的なジョハリの窓」などが障壁となることもある。プロジェクト問題発生の構造と機序を解説し、“気づき”と“見通し”のある組織運営への課題について取り組みを述べる。

2 スケジューリング・シンポジウム2011 (スケジューリング学会主催)
 「リスク確率に基づくプロジェクト価値評価 - その理論と応用」 (120分)
 9月24日(土)午後
 場所:大阪工業大学

内容: DCF法のNPVに代表される従来のプロジェクト評価手法は、計画時点での静的な評価が中心であり、かつプロジェクトを内部構造を持たぬ「点」のように扱ってきた。演者は数年前より、プロジェクトの内部構造を反映した動的評価方法として、リスク基準プロジェクト価値(RPV)による分析フレームワークを提案してきた。本講演ではRPVの意義と計算法を説明し、さらにプロジェクトに最適予算が存在することとその求解法、評価精度の検討、ならびにプロジェクト・ネットワークの最適設計などについて解説する。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-16 23:18 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

サービスとは何か(そして、サイエンスの対象たり得るのだろうか?)

サービス・サイエンス」という言葉は、2005年頃に米国IBMが声高に提唱したのがきっかけとなり、日本でも急速に浸透しつつある。こうした海外の新概念の流行にとても敏感な霞ヶ関のエリートたちも、すぐさま研究会やら政策提言やらをとりまとめて、時代のリードと予算確保に余念がないらしい。たしかに、以前「ヒノモト家の人々 - マクロ経済学的素描」でも書いたように、流通サービス業は日本のGDPの約45%にあたる220兆円を稼ぎ出す基幹産業で、実は製造業よりもずっと経済への貢献が大きい。だからサービス・サイエンスで経済の活性化を、という願望もあながち的外れではないだろう。

米IBMのアルマデン研究所が先頭を切って進めている、この新学問は、正式にはSSME(Service Sience, Management and Engineering)と名付けられている。単にサービスの科学だけではなく工学でもあり管理でもあるという訳だ。とはいえ、この学問の対象とする範囲がどこからどこまでを指すべきか、という基本問題についても議論百出で、出発点からして混沌状態らしい。まだ、教科書を開いて「これが正解です」と勉強できる段階には、とうてい達していないようだ。

優秀なる研究者達が世界中でかくも百家争鳴の問題に対して、わたしごときがスパッと解決を提供できる、などとうぬぼれている訳では無論ない。ただ、いつものように、わたし自身は整合的な言葉づかいをしたいと思っていて、少なくともこのサイトの中では、その整合性を通したいと考えている。そこで、「サービス」に関する自己流の定義を、ここに着そうと思う。その定義とは、こうだ:

サービスとは、(ユーザの期待に合致した機能を持つ)リソースの提供である。それを有償とするか無償とするかは、提供者のビジネスモデルに従う。

リソースが何を意味するかについては、このサイトでも最近くりかえし書いた。世の中には、売り買いの対象にできる物事が三種類ある。マテリアル、サービス、そしてデータ/情報だ。そして『サービス業』とは、リソースを販売・提供して利益を得るビジネスを呼ぶ言葉だ。ちなみに、マテリアルの販売を主たる利益源とするビジネスは製造業(ないし流通業)であり、データ/情報の販売で成り立つのが情報産業である。

ちょっとここで、練習問題をやってみよう。たとえば、自家用車のメーカーは製造業だ。自動車のディーラーは流通業。どちらもマテリアルの販売で利益を上げる。では、自動車修理工場は?

修理工場では、たしかにパーツの販売代金も利益源だ。だが、主たる利益は定期点検/保全修理という「作業」によっている。作業の販売とは?  それは「組織的に熟練した工員の作業時間」というリソースの提供に他ならない。つまり、自動車修理工場はサービス業なのである。

もう一つ練習問題を。TV会社はどの業種か?  彼らは「情報」を売っている(正確に言うと情報に付随する広告枠をスポンサーに売って、収入を得て放送している)から、情報産業である。じゃあ出版社は?  彼らは、「書籍」というマテリアルを販売しているから、実は製造業なのである。書籍の価値は、たしかにそのコンテンツのもつ情報に依存している。しかし、現在の出版社は、それを(簡単には複製しにくい)紙の印刷物というモノの形で販売することでビジネス・モデルを成り立たせている。もし彼らが、電子出版に全面的に移行すれば、その時はじめて情報産業になれるだろう。

では、Microsoftなどのパッケージ・ソフトウェアの会社は?  じつは、パッケージソフトは、CD-ROMなどのメディアを売っている(所有権を移転している)のではない。ソフトの使用権に対価を得ているだけなのである(だからPCソフトは中古屋に転売できない)。つまり、ソフトウェアという機能を持つリソースの使用権が主たる利益源となっている、サービス業だということがわかる。

また、電話会社なども同様に、通信回線という種類のリソースを提供して収益を得るビジネスだ。このように、普通はまとめて「情報産業」とか「情報サービス業」と呼ばれたりする放送・出版・ソフトウェア業界などは、じつは別々の利潤形態になっているのである。

ソフトウェアや通信などを見ても分かるように、リソースは人的なものとは限らない。言いかえるならサービス業は、人的サービス業と、非人的リソース提供業に分類できる。当然、サービスのレベルや品質の規定の仕方も違うし、維持や向上のために必要な要件も異なる。『サービス・サイエンス』を標榜するなら、まずこうした区分からはじめるのが適当ではないだろうか。

その昔、まだモノが貴重で人件費は安かった時代は、通常のビジネスは「モノを売って、人的サービスは無償でつける」が普通だった(サービスは無料の代名詞だった)。しかし21世紀の今日、すでに主従は逆転して、モノはただ同然でも有償サービスで儲けるビジネス・モデルがひろく普及した。それがサービス業の隆盛を招いたのであろう。

サービス業の収入の基本は、「リソースの数量×使用期間×単価」による課金のチャージである。無論、実際の料金体系は値引きを含めて様々なバリエーションを設定できるが、逆に言うと、この式のような販売価格の設定をしている業態は、実はリソース提供のサービス業ではないかと疑っても良い。たとえば、お金を貸して期間で利息をとる金融業は、サービス業の一種であると解釈できる。あるいは、人数と期間と人月単価で見積もりを出すSIerも、(成果物を伴う一括請負契約の枠ははめられているが)SE・プログラマという人的リソース提供サービス業の性格を持っている。

そして、サービス事業者側のマネジメントとは、リソースの維持と保守、ならびに機能の改善であることがわかる。リソースの「機能」とは、それをもちいて利用者が何かの行為をする、あるいは利用者の状態が変化する事を指す。電話回線ならば通信という行為であり、運送ならば荷物の場所の移動であり、医療ならば利用者自身の治癒回復である。だからサービス事業者は、これら機能を明確に規定して、そのレベルの向上に努めることが求められるのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-11 20:58 | ビジネス | Comments(0)

マテリアル、サービス、そして情報 ー 売り買いの対象は三種類に分類できる

生産管理やサプライチェーン・マネジメントの世界で、BOM(部品表)や品目コードのことを論じるとき、基本となるのは「マテリアル」という概念である。ところが、いざ正面切って「マテリアルとは何か」と問うてみると、案外きちんと答えられる人は少ない。

BOMが「部品表」ならば、マテリアルは「部品」じゃないか、と思うかもしれないが、それは早計だ。なぜなら、BOMは持っているけれども、部品などというものは使わない、という業界がじつは多数存在する。たとえば、製鉄業。そこにあるのは鉄鉱石や石炭などの「原料」「材料」である。石油精製、化学、医薬品、飲料・食品、ガラス、プラスチック成形、などの業界にもBOMはあるが「部品」という言葉は使わない。似た例はまだある。繊維、アパレル、製紙、紙器、印刷・出版・・などなど。こうした業界では素材や資材はあるが部品はない。

では、「原料・材料・部品・素材・資材・・等々をまとめて、マテリアルと呼ぶ」と定義したらどうなのか。いや、それではまだ足りないものがある。それは、「製品」だ。サプライチェーンの中を流れて行くマテリアルは、サプライヤーにとって製品であるものが、ユーザにとって部品になる。つまり、製品と部品の区別は絶対ではない。同一の会社内においてさえ、両者の区別が絶対でないことは、サービスパーツの取引を思いだしてもらえれば分かるだろう。「製品」とは売り買いの対象になるかどうかの区別でしかない。

それでは、「サプライチェーンの中で流通の対象となるものがマテリアルである」と定義したら完璧だろうか。残念ながら、これでもダメなのだ。これは、ちょっとでも調達系のシステム構築にたずさわったことのある人ならば分かる。製造業における購買の対象がモノだけだと考えてはいけない。たとえば、外注加工というのは「モノ」なのだろうか? 加工の注文書を発行するためには、購買品目マスタに「外注」なるモノを登録すべきなのだろうか? じつは、大昔のSAP R/3などはそういうマスタ構成になっていた。それで矛盾がいろいろと生まれて、「サービス」がマスタとして区別されるようになった。

我々が商業的取引において売り買いする物事は、じつは3種類の基本的カテゴリーに分類できる。それは、マテリアル、サービス、情報/データ、の3種類だ。これらは、次のような特性をもっている。

(1)マテリアル:物的な実在性を持っている。在庫できる(資産となりうる)。取引は、所有権の売買の形をとる。八百屋に行ってリンゴを買うのは、マテリアルの取引である。

(2)サービス :物的な実在性はない。したがって在庫もできない。サービスとは、何らかの機能をもつリソース(資源)の占有使用権を取り引きする形である。リソースは人の場合と物的な場合とがある。床屋に行って髪を切ってもらったり、ホテルの部屋に泊まったりするのは、サービスを買っているのだ。無論、通信回線というリソースを提供するのも、サービス業という種類のビジネスである

(3)情報/データ:物的な実在性はない。情報は非定型で人間に意味をもたらすものであり、データとは形式化された記号の並びである(そこから意味をくみ取るのは人間の側の作業)。情報・データは資産の一種ではあるが、他人に渡しても自分の手元に残る性質があるため、在庫という概念には意味がない。新聞や音楽CDを買うのは、媒体としての紙やディスクというモノを買っているように見えるが、じつは非占有的な使用許諾権(アクセス権)を買っているのである。

こうした多様さにめげて(?)、IT業界ではしばしばマテリアルの語を避けて、"item master"、「品目マスタ」なる用語が使われる。しかし、これは抽象化の結果と言うよりも、抽象化の不足がもたらした状況かもしれない。

マテリアルとは、物的な実在性を持ち、在庫可能で、所有権の対象となるようなものをいう。この点を、サービス・情報/データと比較し、きちんと区別して認識すべきである。さもないと、部品マスタに「外注」や「指示伝票」を登録するような混乱が待っているだろう。マテリアルの概念はあらゆる生産管理の基礎である。基礎が定まっていない上に、いかに美しい管理システムの体系を構築しようとも、それは危ないのだ。
by tomoichi_sato | 2011-08-08 22:41 | サプライチェーン | Comments(0)

所要時間の見積り--時間と期間の差

スケジュール計画立案の中心は、時間の見積だ。これから行なわなくてはならないタスク(課業)の所要時間をどう見積もるか。この正確さが、計画全体の信頼性を決めるといっても過言ではない。

タスクの時間見積には、一点見積と、三点見積法がある。一点見積とは、文字通り、作業時間を一点で見積もる方法だ。たとえば、「外部インタフェース設計」というタスクがあったとして、その作業時間は3週間、というたった一つの値を、いきなり見積もる。それが過去のデータを整理して求めた値だろうと、あるいは経験者が“エイヤー”で決めた値であろうと、最初から一点で答えを求める方法が、一点見積だ。生産計画手法としてのMRPが、BOM(部品表)に付随してもっている標準リードタイムは、その典型だ。

それに対して、三点見積法は、確率的変動に基礎をおいている。同じ作業を繰り返し行なっても、所要時間にはいろいろな幅がでる。そこで、所要時間の「最善値(=最短期間)」「最悪値(=最長期間)」「最頻値(=その期間でおわる頻度が最も高い値)」の三種類の数字を見積もる。そして、
 推定所要時間=(最善値+最悪値+4×最頻値)÷6
という式によって、所要時間を求める。

三点見積法は、PERTの歴史とともに生まれた。その背景には、所要時間はさまざまな外的要因によって変動するため、確率的にしか定まらないという思想がある。しかも、その変動の形は、平均値のまわりに対象に分布する正規分布ではなく、プラス側(右側)にダラ下がりとなる、非対称な分布だろうと考える。その一つのモデルとしてベータ分布を用いると、上記の式が得られるのである。

しかし、この二種類の時間見積法には、ともに欠点がある。それは、総所要期間と純作業時間の区別が十分にされていない点だ。

総所要期間(elapsed time)とは何か。それは、タスクにとりかかってから、それが完了するまでの、全体の期間だ。「総所要期間=終了時刻-開始時刻」と定義してもよい。一方、純作業時間(duration)とは、作業者がそのタスクを完遂するために、本当にそれにかかわっている時間だ。前者は後者よりも、通常長い。総所要期間≧純作業時間となるのが普通だ。

それでは、なぜその両者に差が出るのか。プロジェクト・マネジメントの教科書的ガイドブック「PMBOK Guide」では、コンクリートの養生作業を例にとって、実質2日間のdurationで終わるはずの作業も、金曜日に始めたら週末の二日間の休日のために月曜日いっぱいかかり、実質4日間のelapsed timeになるかもしれない、などと説明する。これは、カレンダー日数と、終業日数の違いから来る、単純な例だ。

しかし、差異の本当の原因は、じつは作業者のマルチ・タスキングから来ることが多い。作業者が複数のプロジェクトのタスクに従事しているとき、おのおののタスクに着手から完了までつねに没頭できるケースはまれである。往々にして、別のプロジェクトの用件の邪魔が入り、作業を中断したりスイッチしなければならない。このために、総所要期間≧純作業時間となるのである。

かりに一歩譲って、マルチタスクによる割り込みや時間の分散がなく、担当者がつねに一時に一つのプロジェクト・タスクに従事したとしても、総所要期間≧純作業時間 となる場合がある。それは、その担当者の決済箱にたくさんのタスクが入ってきて、処理待ちの行列を作っているときである。

これはちょうど、大病院は3時間待ち・3分治療だ、という皮肉と同じ現象である。一人一人の患者に対する医師の作業時間は3分だ。決して複数の患者をマルチタスク的に並行して診ているわけではない。しかし、大勢の待ち行列のために、患者の側から見ると作業期間は3時間になってしまう。

プロジェクトにもこれと同様の事象がおこる。特定の繁忙部署やボトルネック工程の前には、長い行列ができている。PERT/CPMの弱点は、ここだ。クリティカル・パスは純作業時間ではなく、総作業期間の長さで決まる。しかし、この例のような状況では、一つのプロジェクトの中だけを見ても、クリティカル・パスは定まらない。かといって、『平均滞留率』のような曖昧な指標にたよるのも、ありがたくなかろう。

プロジェクト・スケジューリングにも、複数のプロジェクトを同時に計画し、うまく優先順位法や山崩しのできるツールが求められているのは、このためなのである。もっともその場合でも、プロジェクト間のトレードオフは、計画者の判断が必要になるのであるが。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-03 23:22 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)