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書評:「新薬はこうして生まれる」 森田桂・著

新薬はこうして生まれる―研究者社長が明かす開発秘話

著者は武田薬品工業の元・会長、それも研究畑出身で初の会社トップになった人の自伝だ。どこにも明確には書かれていないが、日経の「私の履歴書」の連載執筆に加筆したものだろうか。

医薬品業界は巨額の研究開発投資を要する業界として知られる。一つの新薬が生まれるまでに「10年の歳月と100億円の資金が必要」と言われる(最近は1,000億円とも)。しかも、10年というのは前臨床試験に入った後のことであって、本書を読むと創薬研究から10年では短すぎる、という。おまけに成功率は非常に低い。お金と時間がかかって、失敗リスク確率の大きな事業を、どのように舵取りするのか。マネジメント・テクノロジーの観点からきわめて興味深い分野である。

にもかかわらず、(というか、むしろ「だから当然」と言うべきかもしれないが)この新薬開発マネジメントに関する説得力のある論者は少ない。わたしは数年前に、経営工学会の雑誌「経営システム」で、『R&Dの経営工学』という特集を発案して責任編集したことがあるが、医薬品分野での研究方法論を具体的に語れる産業界の現役マネージャーを見つけるのに苦労した。本書はその後に読んだが、あのとき、この著者に頼むことができたらと感じた(無論、大物過ぎてとても無理だったろうが)。

たとえば、著者はこう書く。

「研究所という組織が大きくなればなるほど、研究目標は個々の研究者ごとに具体化され、効率の向上が要求され、加えて予算面からの締め付けが加えられる結果、まっ先に研究管理という大義名分の槍玉に上げられて犠牲となるのが、独創性を追求しようとする研究者である。私はかねがね、このタイプの研究者のことを『タイプT』、すなわち『スリル追求型』と呼んでいた。(中略)『タイプT研究者を窒息させるような組織を作るな』と機会あるたびに言い続けてきた。」(p.18)

あなたの勤務先では、『タイプT』の人は生きやすいだろうか? あるいは、著者はこうも書く。

「研究者が壁にぶち当たったときの悩みは深刻である。それは妻子に言えることでないのはもちろんのこと、友人の助けを期待することもできず、自分の力で切り開く以外に道はないのであり、そのためには時間がかかる。これらのことを無視して『研究の効率化』とか『研究評価の客観性』などという大義名分を振りかざして研究者を『役立たず呼ばわり』するような環境には、独創性の高い研究者は安住できないのである。」(p.101-102)

研究者社長らしく、本書の構成は、自伝の各章がそれぞれ薬で代表される。「パダン」「クロモマイシン」「アリナミン」といった具合である。また、20世紀の医薬品開発の流れを概観して、ペニシリンに代表される抗生物質の時代(30年代まで)→利尿剤・血糖降下剤の時代(40年代)→副腎皮質ステロイド(50年代)→向精神薬トランキライザー(60年代)→抗潰瘍薬シメチジン(70年代)→遺伝子工学技術とインターフェロン(80年代)→抗コレステロール薬(90年代)、と追いかけていくのも面白く、勉強になる。20世紀の医薬品の歴史はドイツ中心にはじまり、フランス・英国を経て、戦後はアメリカが中心となる。著者も米国のCenter fo Excellenceとして名高いNIHに留学するのである。

それにしても、著者は戦後の日本の学会について、こう指摘することも忘れない。

「(終戦直後の応用化学では)アメリカから輸入されはじめたプラスチックや合成繊維など新物質の講義が行われていた。世界の学会ではすでに認知されていることであっても、『本邦で初めて』であれば、新しい知識として受け入れられてきた。このことは、その後の日本の化学工業の発展には有害とさえなった。というのは、新製品や新技術を国内に紹介する能力に長じた学者が重用される傾向を助長し、ひいては独創性を重視する研究本来の姿を損なうことになった、と私は考える。」(p.57)

著者はやがて、研究所から本社に呼び戻され、一時は企画部門のマネジメントをする。この当時、武田薬品では中央研究所(学問分野別組織)とは別に550人規模の「医薬研究所」(研究プロジェクト組織)を作っており、本社の後は医薬研究所長として赴任する。つまり、R&Dのプロジェクト・マネジメントを動かす立場になった訳だ。当然ながら、科学的興味だけでなく、ニーズ中心で仕事を見ることになる。ところが、そうしてみるといろいろな不都合な点が分かってくる。

「アメリカでも日本でも、その他多くの国においても、病気を未然に防ぐという名目で薬としての承認を得ることができるのはワクチンに限られている。肥満という症状がいかに『万病のもと』であると主張しても、抗肥満作用だけで薬としての効能を取得することはできない。」(p.204)

医薬品行政は、典型的な規制業界の上に君臨する行政である。製薬企業は自社の製品の正価さえ、自分では決められない。発売も製造もすべて役所の許認可がいる。そのかわり、新薬の権利は一定期間守られ、利益を独占することができる(ジェネリックなど後発医薬品が許されるのは原則その期間が過ぎてからだ)。その結果、日本の多くの業界において保護行政の結果生じた事態に、医薬品業界も陥ることになる。国際競争力の低下と、成熟市場での急激な統廃合だ。

「国による新薬許可基準では、日本の施設で行われる動物実験や病院での試験臨床成績の添付を厳しく義務づけていたので、欧米の製薬企業の多くは日本企業をパートナーとして合弁事業を創立して参入するしか方法がなかった。その結果、日本の製薬企業は国内では保護され、その裏返しに海外進出が遅れることになった」(p.225)

(医薬品卸の統廃合は)「メーカーにとっては対岸の火事なのだろうか。答えは明白に『ノー』である。日本の医薬品メーカーの数もなんとしても多すぎる。一部上場の企業の数も30社に余るというのは、世界でも例を見ない。」(p.277)

本書は、醤油屋の息子に生まれ、大学で生化学を勉強した優秀な研究者が、敗戦直後から50年間、日本最大の医薬品メーカーで働いてきた記録である。それはまことに、昭和初年生まれの人らしい回想録であり、かつ医薬品産業の自叙伝でもある。戦後の半世紀の間に、何がどう変わり、どう進歩し、またどう停滞していくことになったのかが、科学者らしい正確で客観的な観点で書かれている。医薬品開発や産業史に興味を持つすべての人に勧められる良書である。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-27 22:03 | 書評 | Comments(2)

農業に日本の未来を読み取る

埼玉県北部の岡部という町に行って、「埼玉産直センター」の見学をしてきた。文字通り、農産物の産地直送を扱う団体である。農事組合法人という法人格を持ち、県北一帯の227生産者(=つまり農家)が組合員となっている。主な産物はミニトマト、トマト、苺、キュウリ、小松菜、ネギなど。組合員の畑で穫れた野菜を集荷して、仕分けし(一部加工して)納入先に発送する。主な納入先は北日本の生協と、一部スーパー、チェーンストアである。年商26億円で、国内でも有数の規模を持つ農事法人だ。法人化して、もう30年近くになる。

産直センターの施設それ自体をみると、製造業における物流センターと同じように見える。倉庫(野菜のため冷蔵倉庫)があり、仕分けとパッキングの作業場があり、出荷ヤードがある。主力のミニトマトの等級別仕分けとパッキングは機械化されており、自動ラインが2ライン並んでいる。ラインに金属探知機が組み込まれているのが珍しい。ミニトマトはそのまま生食するので、万が一にも金属片(ホチキスのかけらなど)が入り込まないようにしたのだそうだ。あとは手作業による仕分けとパッキングである。出荷トラックは1日約20台程度で、入荷は各生産者が自分で持ち込んでくる。

年商を組合員数で単純に割ると、一人1,100万円以上になる。農業の原価率はよく知らないが、まあまあの収入ではないだろうか。このあたりは生産者一人あたり農地のかなり狭い地域だから、ハウス園芸ものが多いとはいえ、生業として成り立つ数字だろう。それよりも大事なのは、収入に安定性があることだ。組合では年に2回、各生産者との間で作付面積・品種と出荷時期・価格の取り決めを事前に行う。「昔は一日働いて100円にもならない日があった。それではとてもやりきれない。価格に見通しが立つなら、やる気も起きてくる。農業を続けていけるような仕組みにしようとの願いで、ここまで続けてきた。」と専務理事の山口さんは言われる。

それが可能になった理由は、生協や大手チェーンなどと直接、(卸売市場を通さずに)年次契約してきたからだ。集荷し選果・出荷するだけなら農協と変わらない。違う点は、青果市場という価格変動の大きな流通メカニズムに委ねない点だ。ついでに言うと、産直で出荷すれば、農産物はすぐに現金化できる。ところが農協を通すと、お米の場合は、なんと代金回収が3年後だという。古米という名の在庫があるからだ。

こうした農業事情は、すべて受け売りである。わたし自身は都市近郊育ちで、農業のことなど何も知らない。ただし診断士仲間の河野先生に頼まれて、2年ほど前から「農商工連携」の人材育成事業というセミナーをちょっとだけ手伝っている。講師としてプロジェクト・マネジメントの勘所を、初心者向けに説明する役割を受け持っているのだ。それでも、管理技術=マネジメント・テクノロジーというものは良くしたもので、分野を問わず応用が利く。

とはいえ門前の小僧がちょっとずつ農業にまつわる話を聞き、見聞などをするうちに、わたし達の社会の基盤であるはずの第一次産業がいかにねじくれた構造になっているかを知るようになった。上に書いた「一日働いて100円にもならない」が典型である。何も農地が狭いとか日照りが続いたとかではない。市場経済に押されてそうなるのだ。“豊作貧乏”などはその典型かも知れない。沢山働くと、かつ天候がよいと、マイナスになって自分に降りかかってくる。これで「農業を引き継ぐ若者が居ない。近頃の若者は・・」などと嘆いてみても、まったく無意味ではないか。若者のこころざしの問題ではない。

このような矛盾が起きる理由は何か。わたしのような第三者の目から見ると、はっきりしているように思える。サプライチェーンが歪んでいるのである。サプライチェーンの需要と供給を一致させるマネジメントの仕組みが歪んでいる。需給にギャップがある場合、そのままでは在庫か価格が調整機能を果たすことになる。ところが農作物(青果類)は基本的に在庫がきかない。冷蔵しておけるのはほんの数日間で、あとは価値が無くなってしまう。そのために、価格のみが数量調整の歯車になる。だからちょっとした需要の変動が価格の乱高下につながる。お米の場合は在庫がきくが、こちらは国策で価格を高めにしてしまっている。だから在庫が無尽蔵に増えていってしまう。

したがって必要なのは、中期的な需給の計画と、短期的な調整機能である。これがサプライチェーン・マネジメントの中核なのだが、このような発想が従来の農業政策には全く欠けていたのだろう。かわりにあったのは、奇妙な補助金的発想である。休耕田など、仕事を休むと補償金がもらえる。そうこうしているうちに、農業を継ぐものがどんどん減っていき、後に残ったのは広大な耕作放棄地である。

河野先生の観察によると、面白いことに、産業誘致策の成功した県には、ちゃんと農地が残っているのだそうだ。理由は、息子世代が家にいるからだ(自分の家に田畑があれば、兼業でだって少しは続けようという気になる)。一方、産業のない県では耕作放棄地がやたらと目につく。それが特に目立つのは、原発立地県であるという。原発があると県や自治体にはお金が落ちるが、結局農業のためには活きてこない。過疎対策で誘致したのに、かえって過疎を生むのだ、ということらしい。

しかし、農業統計の数字をよく見てみると、じつは農地の集約化がこの5年くらいで急速に進んできていることがわかる。それを可能にしたのが農業法人だ。法人経営というと、なんだか大企業が農業の世界に入ってきて儲け主義で云々、というステロタイプな印象を持つ人もいるようだが、主役はあくまで農業従事者である。冒頭に挙げた埼玉産直センターなどは、その一つの例であろう。生産者が中心になって、法人体制を作る。さらに、遊休農地を有償で借り上げて、生産効率を上げるところも増えている。跡継ぎが居ないが、先祖から受け継いだ農地を荒れさせるくらいなら、人に貸した方がなんぼかましだ、と思う人たちが当然いる。そうした法人はまた、日本の製造業などの技術や知恵を学ぶ意欲も高い。

というわけで、農商工連携のセミナーを、今年も手伝うことになったのである。ちなみに「農業分野の生産性向上のためのIT・IEプロジェクトマネジメント研修」というのが今年のタイトルだ。興味のおありの方は、河野経営研究所の募集ホームページをのぞいてみてほしい。申込期限はもう直前だが、無料である。なぜ無料かというと、農商工連携というのは、経産省の補助金事業だからだ。なぜ農業なのに経産省!? と不思議に思うかもしれない。でも、経産省はTPPによる「第二の開国」をねらっているから、日本の農業にも強くなってほしいという意図(下心?)があるのである。

日本の農業をここまでおかしくしてしまったのは、政治家と役人(農水省)の無定見・無策だったのだろう。護送船団的な補助政策と、厳しい参入規制。そして奇妙な序列意識と、プロダクト・アウトの発想。日本が昭和時代に作り上げたシステムは、どの業界もすべてこれだ。無論その裏側には、民間の横並び体質と過当競争もあっただろう。農業の場合、『貧農史観』も尾を引いていたのかもしれない。しかし、このような保護政策のおかげで、温室育ちの野菜のように、環境変化に耐えられない産業があちこちにできてしまった。回復するためには、妙な序列意識は忘れて、サプライチェーンの構成者が対等な立場で協力し、全体で協働していけるような仕組みをつくるしかない。

「TPPで日本の農業は滅びる!」という意見も多い。でも、TPPがあったって大丈夫、今の農業の流れをみると、きっと負けないはず、というのが河野先生の持論である。わたし、もそうであってほしいと思うし、それだけのポテンシャルを日本人は持っていると信じている。ご存じだろうか? この2,3年、農業系学科への大学志望者が急増しているのだ。東京農工大学では、農学部の入試レベルがとうとう工学部を抜いてしまった。若い人たちが、農業に新しい希望を持っている。その希望をつぶさずに育てるのが、わたしたち大人の使命だと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-23 08:49 | サプライチェーン | Comments(0)

需要は出荷量からわかるか

生産計画の出発点は、需要情報だ。需要の数字があり、手元の在庫の数字があって、はじめてどれだけ生産によって供給すべきか、計算することができる。

それなのに、たいていの生産管理の本には、需要とは何なのかを、はっきりと書いていない。生産管理のパッケージはというと、どこからともなく需要の数字が忽然と現れて、入力すれば良いかのようにできている。

しかし、需要の数字は何をもとに誰がどう決めたらよいのか。多くの製造業では、販売(営業)部門と生産(工場)部門にお互い不信感があり、営業部が言ってきた需要予測の数値を、生産計画担当者が適度に変えて、計画のベースにしたりしている。そして言い訳していわく、「営業の予測は楽観的すぎる」「納期が甘すぎる」「販売目標の号令にすぎず、現実的とは思えない」等々。

しかし仮に、このような組織論的な問題がなかったとしても、予測のベースとなるのは何か、という疑問は残る。過去の販売傾向を分析すれば予測のベースとなるはずだ、というのが普通の答えだろう。もしそうだとしたら、出荷実績を見ればいいことになる。販売管理システムから過去の出荷指示データを引っ張り出して分析すれば、実需の推移が分かるはずだ、と。果たして本当だろうか?

答えから言うと、それは間違いだ。出荷実績データを見ても、需要を表わしてはいないのである。なぜか? たとえば、ある出荷は、客先の要望する納期に10日遅れて出荷されていたのたかもしれない。あるいは、別の出荷は、客先の望んだ品目が欠品だったので、代替品を納めたのかもしれない。つまり、出荷実績というのは、実は『供給の最終的実績』を表わしているにすぎないのである。

需要の本来の内容を見たければ、もっとさかのぼって、実績ではなく要望の側を知る必要がある。では、それは営業担当者が最初に入力した受注情報だろうか? いや、そうとも言い切れぬ。なぜなら、その入力の前に受注をめぐる客先との交渉があって、本来の客先希望納期からすでにずらされていたり、品目が代替されている可能性があるからだ。

では、その情報はどこにあるのか。私が働くエンジニアリング業界などは、引合いの最初に調達要求書(Purchase Requisition)を作ってベンダーの営業担当者に渡すから、これが需要情報の本来の中身を示している、と言えるだろう。しかし、これは買い物のほとんどが注文生産品、というプラント業界の特殊性によっている部分が大きい。標準品のカタログ買いの世界では、調達要求書を毎回作ったりはしない。まして、末端消費者の買う見込生産品の世界では言うに及ばずだ。八百屋に野菜を買いに行くのに、調達要求書をもっていく人がどこにいるだろう?

需要情報とは、本来こうした性格のものであることを計画者は知るべきだろう。予測が不確実、云々を議論する以前に、直近の需要実績を知ることすら、きわめて難しいのだ。だからこそ、そこには意志決定のプロセスが不可避なのであり、計画の技術が必要なのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-20 19:51 | サプライチェーン | Comments(1)

書評:「完全な真空」 スタニスワフ・レム

完全な真空 (文学の冒険シリーズ) スタニスワフ・レム

うーむ、素晴らしい。現代ポーランドを代表する作家・レムの、知的創造力の広大さを示す傑作だ。レムはSF作家として出発したが、70年代以降はむしろ文明批評家としての活躍が目立つ。1971年に出版された本書は、そのターニング・ポイントを示しているといってもいい。

本書は、実在しない、架空の本に対する書評集である。無人島に漂着した男が空想の中で召使いや侍女をつくりあげ、しまいには想像上の群衆で島が満員になってしまうという皮肉な小説や、南米奥地にナチス親衛隊将校が作り上げた奇怪なフランス風王国の宮廷物語など、空想的な小説本が多いが、これはまあ「レム自身が書こうとして書けなかったSF」の風刺だといっても良い。

しかし、人間誕生の確率を算定しようとする学者の抱腹絶倒な論文や、ゲームの理論によって宇宙の発生と物理法則の成長を説明するノーベル賞受賞学者の講演「新しい宇宙創造説」などの本は、いかにも医大出身で技術畑のキャリアを持つレムらしい、理科系的な構想である。また、架空の本の著者も、ドイツ人ありフランス人ありイタリア人あり米国人ありで、それぞれの文化の特色を示すような内容となっており、その配列や対比も面白い。

本書は文学と言うべきか、はたまたノンフィクションと形容すべきか、あるいはSFの趣向の一種と断ずるべきか、その位置づけもまた人々を困惑させる。きわめて機知に富んだ、楽しい書物と言うべきだろう。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-16 23:14 | 書評 | Comments(0)

新任リーダー学・超入門(2) マネジメントとリーダーシップというコトバに気をつけよう!

Sさん、丁寧なご返事ありがとうございます。おっしゃるとおり今日の企業は、規模の大小を問わず、設計・製造工程のいろいろな部分を外注に頼っていますね。だから、新人の頃から「人を使う」立場で動かざるを得ない--Sさんのお言葉を借りれば、“技術を極めることを最初から半分あきらめざるを得ない技術者”である訳です。じゃあ最初から「人を使う」マネジメント職として育ててくれるかというと、そうでもない。とても中途半端な育て方じゃないかと憤懣をもたれるのも、当然かもしれません。

前回の『新任リーダー学・超入門』にも書きました通り、「リーダーシップ」というのは、くせ者の言葉です。そして最近流行りつつある「マネジメント」も同じくらい危ない言葉でしょうね。サン=テグジュペリの「星の王子さま」には、たしか“言葉とは誤解を生み出すもと”だ、といったセリフがあると思うのですが、とくに外国生まれの言葉には気をつけた方がいいのです。スパゲッティの話を聞いて、ああ、それはうどんのことなんだな、と素敵に滑稽な理解をしてしまう可能性がよくあるからです。

日本語のマネジメントが英語のManagementとどう対応し、そしてどう違うか、ご存じですか? 「マネジメント」によく似た日本語には「経営」と「管理」があります(いずれも「する」をつけて動詞としても使います)。一方、英語におけるManagementの近親語というと、Administration, Controlが思い浮かびます(これらも動詞の名詞形です)が、そちらの区別はご存じですか?

英語の方から先に説明しましょう。Management, Administration, Controlはいずれも「管理」とも訳されることが多いのですが、その意味はずいぶん違います。Manageという動詞には、“暴れ馬を乗りこなす”といった語感がともないます。"I can manage."には、何とかやり遂げてみるよ、といった意気込み、苦心、あるいはリスクなどを連想します。一方、Controlは「制御」とも訳されるように、より精確さが伴います。だからControlは道具や機械といった無生物を対象に使うことが多いのです。"I can control."には安心感の響きがするのですね。"I can control my car."は車の運転の自信のほどを示します。これが"I can manage my car."だと、君の車は暴れ馬みたいに言うことを聞かないのか、と思われます。

だからI can control my job.とI can manage my job.では、全然意味が違うのですね。その差は、リスク感覚や意志決定の有無です。入国審査は英語でPassport controlといいますが、パスポートを一つ一つ参照して規定を満たしているか確認し、記録をつける行為がcontrolです。個別の担当官には入国を「リスクテークして決定する」権限はないので、Passport managementではありません。あるいは、Sさんもご存じの制御理論の概念を借りれば、control業務はfeedback制御の範囲内であり、manage業務はfeed forward制御やモデル予測制御の次元である、と言えるかも知れません。

じゃあAdministrationはというと、日本企業でたとえるなら「総務」の仕事に近い。働く環境を保つための諸処の雑用を含む仕事です。「行政官」の仕事と言ってもいい。だったら経営学修士をなぜMBA = Master of Business Administrationと呼ぶのか? Business Administrationこそ「経営」ではないのか--こうした疑問がわくかも知れません。答えはYesでもありNoでもあります。MBAという名のコースが米国で初めて設置されたのは1908年のハーバード大学でしたが、これは一種の妥協的な命名で、当時の総長は「醜い呼称」だと言いました。

というわけで、整理するとこうなります:

(1) Management やっかいな対象を、先読みとリスクテークしながら、動かすこと
(2) Control 主に無生物を対象に、決まった基準に合うよう、御すること
(3) Administration 働く環境を保つために、手続きどおり記録しサポートすること

さて。日本語の「経営」「管理」に目を向けてみると、ここには明らかに地位に相応する区別があります。経営者と言えば、役員以上です。一方、課長も係長も中間「管理」職です。社長の仕事と課長の仕事には、質的な違いがありますよね? でも、両者の仕事の区別は、(不思議なことに)英語では表現できません。社長の仕事もmanagement、課長の仕事もmanagementです。英語でなんとか「経営者の仕事」を表現しようとすると、functions of the executiveなどと言う必要があります。

だんだんと、スパゲッティとうどんの違いが見えてきましたか。英語のManagementは、人に仕事をしてもらうための間接的業務のうち、リスクと意志決定を伴う部分を指します。日本語のマネジメントには、そういう含意は無いかわり、人の上に立つ地位の意識がある。たとえばドラッカーのような経営学者がmanagementという場合、経営者の業務のうち、manageする機能を意味している。ところがこれが翻訳されたとたん、うっかりすると「管理者の権能」全般として受け止められかねない。機能と権能。誤解にご注意、です。

わたしがこうして言葉にこだわる理由は、お互いに分かったつもりで誤解することを避けたいからです。わたしが何をどう定義しようと、世間の人たちの言葉の使い方を規制できるわけではありません。ただ、自分の書く文章においては、少なくとも一貫した整合性のある言語を選びたいのです。

では、リーダーシップの方に話を進めましょう。Leadershipは英米人の大好きな単語です。にもかかわらず、冷静に訊ねてみると、その正確な定義は誰もまだ下せないようです。皆がLeadershipを信じている。でも、誰も言葉で明確に述べることはできない。不思議だと思いませんか。

リーダーLeaderとは、同種の職能集団、あるいは対等な個人集団における牽引役、手本です。これは前回もご説明しました。Leaderは民族移動や西部開拓のようなときには、必須です。ゲルマン系諸民族や、米国人がLeadershipを好きな理由は分かりますね。むろん変化の少ない環境でも、リーダーは必要です。それは、後進の若い人たちへの手本として、人間の成長のために重要な役目を果たします。

ついでに言うと、英米では、リーダーは手本となり、権威(つまりフォロワーからの尊敬)によって人を引っ張る英雄、というイメージがあります。これに対して、マネジメントとは尻を叩くもの、権力と金とルールで(つまり恐怖で)人を追い立てるもの、という感覚がある。

この「英雄」の神話的でロマンティックなイメージこそ、じつは英語のLeadership概念の中心にあるものです。英雄である以上、皆の目標にはなるが、現実はあちこちに居るはずはない。わたし達の社会には100万人以上の業務リーダーがいるはずです。でも、この国に100万人もヒーローがいると思いますか? だから、職場の「リーダー」が皆、英雄的「リーダーシップ」を発揮する、というのはありそうもない話です。

では、その100万人のリーダーは何を発揮すべきなのか? こたえは英語的な意味における「マネジメント」だ、ということになりますね。マネジメントはロマンティックでなく、もっと散文的な仕事、でもこの世のあちこちで実際に必要な仕事なのです。滅多に見られぬものではなくどこにでもあるもの、目覚ましいものではなく目立たぬもの--それがマネジメントです。なんだかSさんの勇ましい勤労意欲を阻害しているような気もしますが、これがわたしの現実認識です。

この国の昨今の情勢をみていると、わたし達は「強いリーダー」「神話的リーダー」を求めているようです。震災、原発事故、そして復興を巡る政財界のすったもんだで、トップの首をすげ替える議論ばかりがはびこっています。○○じゃあダメだ、××はどうか・・こうして1年足らずで毎回追い立てる。今や日本では、リーダーは「消耗品」であり、使い捨ての「消費財」になってしまった観があります。どうしてこうなるかと言えば、仕事の成否はリーダーの人格で決まる、という信念が漠然と広まっているからでしょう。

わたし達にいま本当に考えるべき問題は、「誰がやるか」ではなく、「何をやるべきか」です。つまり、リーダーシップの議論ではなく、マネジメントの議論です。Sさんには地位や人名ではなく、ぜひ仕事の中身に集中して、頭脳を使ってほしいと願う次第です。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-13 21:32 | ビジネス | Comments(1)

書評:「ビジネス脳はどうつくるか」 今北純一・著

ビジネス脳はどうつくるか

今北氏は長年フランスで働き、ルノー公団やエア・リキード社のエグゼクティブを経た後、現在はコーポレート・ヴァリュー・アソシエイツという欧州コンサルティング会社のパートナーの地位にある。毎月、日本とフランスの間を往復されているわけだから、航空会社にとっては上得意にあたる。乗り込むと、キャビンアテンダントがつつとやってきて、「今北様、いつもご利用ありがとうございます」と挨拶してくれる身分だ。

ところが、食事の時間になると毎回、献立の好みを聞かれる、という。今北氏は機内ではつねに、食事をパスしてワインを一杯とチーズの盛り合わせだけで過ごす習慣なのに、彼女らはそのことに気がつかないのだ。あるいは、たとえ気づいても、そうした情報を申し送りする仕組みが欠けているのかもしれない。いずれにせよ、表面的な顧客満足はみたそうとしても、本当のニーズがどこにあるのかを推し量る想像力に欠けたまま、ビジネスをやっているわけだ。

本書のテーマは、そうした想像力をどう涵養するか、である。そのための手段の一つとして、「顧客のさらに顧客に会って、ニーズを知れ」という。鉄鉱石を産出する会社は、直接顧客の製鉄メーカーの言うことだけをきいていてはダメだ。製鉄メーカーの顧客である(たとえば)自動車メーカーのニーズや動きを注視していく必要があるし、それができれば需要の将来の動きを想像することができるようになる。

今北氏は顧客の潜在需要の底にある「絶対需要」を探知する想像力を、『左岸からの発想』と名付ける(パリを知らない人にはわかりにくいが、あの街はセーヌ右岸と左岸に分かれており、右岸は商業とビジネスの地域である。つまり右岸は大企業の押しつけ論理の発想を象徴している)。しかし今日のマネジメント層は、むしろ想像力を枯らしてしまう方向に動かされているようにも見える。そうした意味で、知的刺激に満ちた本である。ただし、この本のタイトルは(編集者がつけたらしいが)なんだかちょっと誤解を与えそうな気もするのだが。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-09 21:24 | 書評 | Comments(0)

「責任」には三つの意味がある

震災の後の4月に、知人たちと話していた時のこと。話題はおのずから福島原発の事故処理のことになった。原因は何か、どうクールダウン処理すべきか、また地域への被害をどうするか。そのうち、一人がこう発言した。「東京電力は法規則どおり原発を建てて運転し、地震後も政府の指示どおり対応したんだから、全責任を負えというのは無理がある。」

しかし当然ながら反論・異論も相次いで、議論はホットになっていった。政府(省庁)の過去の責任はどうか。あるいは政治(閣僚)の責任の軽重はどうあるべきか、いや、そもそも電力会社の過失はどこにあったのか、等々。ただ、話しているうちに、当の発言者の論点は、地域への賠償問題だということがはっきりしてきた。国も共同責任で補償すべきか、プラントのメーカーは責任がないのか、ということだ。すると、この分野に詳しい同僚が一言、「原子力賠償制度は無過失責任ですよ。」と発言した。

無過失責任とは何か。それは過失であることが証明されなくても、賠償の責任を負うということだ、と彼は説明した。より正確には無過失賠償責任とも呼ぶ。原子力賠償の制度は世界的に、「無過失責任、電力事業者への責任集中」という原則で成り立っているのだそうだ。日本は国際条約には加盟していないが、国内法制度は同じ原理でできている。だから、今回の事故に限っては、被害者側が電力会社の過失を立証しなくても(実際問題としてそんなことは機密の壁に守られてほぼ不可能だ)、とにかく一社で全部を賠償しなくてはならないのである。

結局、この説明で議論はあっさり終わりになってしまった。むろん、電力会社の資金はどう調達するのかとか、それだけの支払能力が無かった場合はどうするのか、という法的技術的問題は残る。だが法律上の責任範囲は明確なのだった。

わたしたちの議論が紛糾したのは、『責任』という言葉が何を指すかが、人により文脈によりバラバラだったこためである。ちょうどこのころ、当の電力会社のトップが、「原発事故を沈静化するまで職務を全うするのが私の責任」というような発言をしていて、責任論議はさらに錯綜したのだった。だが、そもそも責任とはいったい何なのか。責任をとるとは、いったいどのような行為のことを指すべきなのか? ちょうど『リスク』という用語にまつわる多義性と同様に、責任という概念も、法学・経営学・哲学・倫理学などが入りみだれて、分かりにくい。そこで、少しばかり整理してみよう。

責任という語には、じつは三通りの意味がある。それは、責任の理由や、責任の大小ではなく、その「果たし方」についての区別である。

そもそも責任とは、ふつう何か困った問題が発生した時に問われるものである。「責任ある地位」という風に、ポジティブな文脈で使われることも、もちろんある。しかし、“彼は責任を問われて昇進した”といった用法はあり得ない。ポジティブな事象においては、普通、責任の代わりに貢献とか功績という語を用いる。貢献と責任は対になる概念だ。

もう一つ。責任とは、ふつう意志ともセットで使われる。当事者に、それなりの裁量範囲や自由意志があった際にのみ、責任を問われるのである。ただ言われたことをやっただけの人には、たいして責任はないはずだ。

もっとも、じゃあ意図せざる過失には責任がないのか、というと、そうではない。過失には「注意義務を怠った」という一種の意志があったと考えられるからだ。そもそも人間は完全ではなく、間違いをする存在である。だから、二重チェックやフェイルセーフといった仕組みを仕事に組み込んでおく必要がある。ある一担当者の単純な過失が、重大な事故を引き起こしたとしたら、それはそのような不完全な仕組みを設計して放置したことに対して、責任が問われるのである。

そして責任とは、問題が生じた際に、その問題を解決するために払うべき代償について、行為の当事者に対し義務づける概念である。その代償の払い方が、三種類ある。まず、失敗した行為を正しくやり直すこと(影響を与えた状況を復旧する作業も含む)。次に、その問題を招いたことに関して、処分・批判を甘受し、場合によっては地位や体面を失うこと。最後に、損害賠償など法的な義務を果たすことである。

これらの三種類の責任概念は、英語ではそれぞれ別の言葉で表される。それが、Responsibility, Accountability, Liabilityである。どの語も、-ability, すなわち『能力』であることを示す語であるのは注目すべきだろう。

Responsibilityとは、仕事の遂行に対する責任概念で、つまり仕事が途中で問題を起こして、思ったようにうまくはいかなくても、最後まで我慢してやり遂げる(その余分な労力と精神的苦痛は自分が引き受ける)こと、ならびにその能力を意味している。

Accountabilityは、「説明責任」とも訳される。この語が日本で知られるようになったのはそれほど古いことではない。この10年程度であろうか。Accountableとは、対外的な義務を引き受けるという語感がある。誰が訳したかは知らないが、「説明責任」とは苦心の訳語であろう。とはいえ、“国会であれだけ弁明したのだから、某々大臣は説明責任を果たした”などといった使われ方をみると、なんだか「説明という仕事の義務」みたいに誤解されている面もあるようだ。そうではなく、Accountabilityは、地位や体面という代償を払うべきことを意味している。だからむしろ「面目責任」と訳してはどうだろうか?

Responsibilityが、どちらかというと業務担当者レベルでの「責任の果たし方」であるのに対して、Accountabilityは監督義務を怠った、あるいは間違った判断・命令を下してしまった、という事実への、管理職レベルでの「責任の果たし方」を指している。そして、Liabilityは法的な賠償等の「責任の果たし方」である。(ただしWikipedia英語版などを見ても分かるように、英語圏においても上記3単語は明確に区別せずに使われることがある。責任という概念は、それだけ奥が深くてややこしい)

ともあれ、以上をまとめると、次のように言えるだろう。

遂行責任 Responsibility :仕事を最後までやり遂げる(労力と苦痛を引き受ける)こと

面目責任 Accountability :問題の原因を作ったことを認め、立場・面目の低下を甘受すること

賠償責任 Liability :他者にかけた迷惑を金銭等で償うこと

こうして整理してみると、大きな事故を起こした企業が、まちがった操作をした作業者だけを処分し、トップは“問題を収集するのが自分の責任”と公言したら、どこがどう間違っているか明確だろう。作業者には復旧作業の遂行責任があり、経営者には事態への面目責任があるのだ。そして、かりにそのトップが会社を辞めたとしても、企業は賠償責任を逃れない。--といった具合に、これら責任概念の区別を飲み込んだ上で議論できれば、もう少しかみ合った実りある議論も可能になるのではないだろうか。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-06 22:41 | リスク・マネジメント | Comments(0)

MESとは何か

MESはManufacturing Execution Systemの略で、IT業界に多い3文字略語の一つである。日本語では『製造実行システム』という訳語が当てられているが、実際にはMESという呼び方をされることが多い(なお、英語の発音はエム・イー・エスと読む方が正しく、“メス”という読み方では通用しにくいので注意)。かつ、製造実行システムという訳語はかなり無理して言葉をあてた感じが強く、製造業の現実においては『製造管理システム』ないし『工程管理システム』などと呼んだ方が分かりやすいだろう。

MESという用語・概念は、ある意味、製造業における“ミッシング・リンク”として、実態よりも後になって現れた。私は2000年に、中村実氏らとともに「MES入門」(工業調査会・刊)の共著に参加したが、執筆段階ではまだ我が国ではなじみの薄い概念だった。基幹業務システムERPは、すでに多くの人が知っていた。一方、現場の制御システムもかなり普及し発展中だった。しかし、基幹業務系と制御系を結びつける働きをする現場システム群は、ある程度存在感を示しつつも、確とした呼び名がないため、十分な認知を受けていなかったと言っていい。

MESの概念は、'90年代に米国の調査会社であるAMR Research社が提唱したものが原型となっている。AMR Research(現在はGartner社が買収)は、その報告書の中で、製造業の管理レイヤーを、
(1)計画層(Planning Layer)
(2)実行層(Execution Layer)
(3)制御層(Control Layer)
の3つに分類する有名な『3層モデル』を提案した。これは現実を理解するための一種の概念モデルである。

そして、これら3層をそれぞれ受け持つ仕組みとして、
(1)基幹情報システムERP(Enterprise Resource Planning)
(2)製造実行システムMES(Manufacturing Execution System)
(3)制御システムPLC(Program Logic Controler)またはDCS(Distributed Control System)
を挙げた。MES(製造実行システム)という名は、ここで初めて現れたのである。それまでは位置づけが不明確なため、CIM(Computer Integrated Manufacturing)とか現場系システムと呼ばれていたものが、ここで初めて、あるカテゴリーの商品として認知されたのである。

さて、MESの機能とは何か。これについては、標準化団体MESAのリストアップした「11の標準機能」が有名であるが、私はあえて別の説明をしたい。

企業の生産活動においては常に指示と報告という2つの情報の流れがいきかっている。指示情報はこれからすべき仕事についての上からの流れであり、報告情報は今なされたことについての下からの流れである。一方、企業活動にはPlan-Do-See=計画・実行・評価という管理のサイクルがある。Doの部分は好みによっては制御に置き換えてもいい。すなわち、計画を実行につなげるための情報が指示情報であり、また実行を評価に戻すための情報が報告情報(進捗情報)であると考えることができる。
(以下の図は等幅フォントで見てください)

     +ーーーーーーーーーーー+
管理者  | 計画     評価 |
(本社)  +ーーーーーーーーーーー+
        |       ^
        |      |
      指示情報     報告情報
        |      |
        V      |
     +ーーーーーーーーーーー+
実行者  |   実行(制御)  |
(工場)  +ーーーーーーーーーーー+

ところが、工場の中にも管理者とショップフロアの実行責任者がおり、両者の間で同じような計画・実行・評価というサイクルが成り立っていることがわかる。スケールダウンされた相似形、いわばネストをなしているわけだ。

     +ーーーーーーーーーーー+
管理者  | 計画     評価 |
(本社)  +ーーーーーーーーーーー+
        |       ^
        |      |
      指示情報     報告情報
        |      |
        V      |
     +ーーーーーーーーーーー+
工場   |     実行    |
管理者  | (計画   評価) |
     +ーーーーーーーーーーー+
          |     ^
          |    |
        指示情報  報告情報
          |     |
          v    |
     +ーーーーーーーーーーー+
実行者  |   実行(制御)  |
(ショップ)+ーーーーーーーーーーー+

本社から見ると工場管理者(工場のホワイトカラー層)が工場を代表して実行しているように見える。だが、実際には工場管理者は計画と評価を行い、ショップフロアの実行責任者が製造実施しているわけである。本社からの指示情報は、工場管理者の計画作業を通して初めて、より詳細なショップフロアへの指示情報になる。同様にショップからの報告情報は、工場の他の報告情報と総合され、管理者の評価作業を経て初めて本社に対する報告情報になる。本社と工場管理者のふたつの管理サイクルの違いは、時間刻みの違い、すなわち管理対象のもつ時定数の違いである。

このように考えてみると、MESとは工場管理者レベルの業務を支援するためのシステムだ、と考える方が真実に近いだろう。

そして、これがゆえにMESにまつわる困った事情も生まれてくる。困った事情とは、すなわち、システムとしてのMESの導入やお守りをする部署が定まらないという問題である。本社の情報システム部門は、そんな製造現場の、機械油にまみれたような泥臭いシステムには手を出したくない。かといって工場に情報部門を持つ企業は少ない。いきおい、生産技術部とか製造部とかが片手間で運用する、ということになりがちなのである。

そもそもMESが生まれてきた背景には、製造機械のインテリジェント化がある。機械加工の自働化といえば古くからNCなどがあったが、それ以外の加工装置類もシーケンサーの発達のおかげで、それなりに柔軟な制御ロジックならびに通信インタフェースを持ちうるようになってきた。そこで、それまでは点状に孤立した機械群から成り立っていた工場のショップフロアを、協調し制御できる技術基盤ができてきたのである。もっともこれはディスクリート産業の話で、プロセス産業ではすでに'80年代後半からDCSによる集中制御が当たり前となっていた。

また、加工装置中心のライン生産とは異なる、人間による組立生産工程においても、中間部品やワークをバーコード/RFIDでリアルタイムに追いかけていく、POP(Point of Production)と呼ばれるシステムが広まってきた。さらに、上位からきた生産指示情報(最終製品レベルでの生産オーダー)をショップへの製造指示情報(部品・材料レベル+工程レベルでの製造指図)にかみ砕くための仕組みである工場スケジューラ(APS)も普及してきた。

こうした流れが一つに合わさって、MESというシステム群が生まれたのである。ただし、製造現場というものは個別性が強い。また、ディスクリート型生産とプロセス型生産の間には、非常に大きなギャップがある。こうした個別性の壁があるため、MESはどの産業にもフィットするような、強力な汎用型パッケージ商品があらわれにくいという特性がある。今後も、製造現場のさらなる付加価値生産性向上をねらうためには、工場管理者レベルでの合理化は避けて通れない。従来の枠組みをこえた、次世代のMESが期待されるゆえんである。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-02 22:38 | サプライチェーン | Comments(0)