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書評:「持続不可能性」 サイモン・レヴィン著

持続不可能性―環境保全のための複雑系理論入門

原題は"Fragile Dominion"。『はかない住み処』の意味である。本書は、京都賞を受賞した数理生態学の大家S. Levinが、一般人向けに書いた(珍しく数式が一つも出てこない)生態学の集成である。

著者レヴィンの主たる業績は、空間生態学にある。従来は生物相の時間的遷移を扱う学問だった生態学に、空間分布とスケールの意味概念を計量的に持ち込んだ。彼の論文"The Problems of Scales and Patterns in Ecology"は'90年代を通して生態学で最も広く引用された論文だと言われている。私は'80年代の後半に、米国東西センターの環境政策研究所にいて、生態学におけるスケールアップ問題を研究しており、このときの縁でレヴィン博士の知己を得ることができた。

さて、本書でレヴィン博士は、地球の生態系を「複雑適応系」だと定義している。『複雑系』の概念は、サンタフェ研究所が中心となって'90年代に発展し広く普及したが、レヴィン博士はこの思潮に一役買っているらしい。生態系を機能と構造から考える、というのが米国の生態学の主流だが、ここに「目的論」の観点を密輸入する傾向が、以前からあった。彼はこれを警戒して、「エコシステムの生成は適応の結果であって、合目的な意志が働いている訳ではない」と繰り返し主張している。

長い年月をかけて織り上げられた、この地球のエコシステムは、しかし人間活動と欲望のために危機にさらされている。これが、原題『はかない住み処』の問題意識であった。彼は生態学(生物進化学を含む)の発展経緯と視点を丁寧に記述して、生物多様性とエコシステムのパターンが、生物の局所的な適応戦略から発生してくることを説明する。エコシステムを、安定性と自己修復性を持つ実体的な概念(つまり“生き物”)ではなく、パターンとして理解する著者の立場は非常に明瞭で、説得力に富んでいる。

しかし、レヴィン博士のこのような研究のアプローチは、どこかで適応と進化の「ゲーム理論」的な生物観をもたらす危険性をはらんでいる。それは、彼の活躍してきたアメリカの知的風土においては、とても自然なものだったのかもしれない。じじつ、京都賞の受賞記念講演で、レヴィン博士は「囚人のジレンマ」の例を引き、生物行動のモラルの発生を突き止めたい、と言っていた。生物界には、「利他的」としか言いようのない、不思議な現象が時々ある。それを、めぐりめぐって最終的には自己や自種の適応可能性を高めるから、という視点から説明しようという、いかにもネオ・ダーウィニズム的な研究アプローチである。

しかし、本当にそういう説明ですべてが納得できるのだろうか。進化ゲーム理論やネオ・ダーウィニズムには、競争原理はあれども、協働原理は存在しようがない。前提条件から排除されているからだ。

素人の私が、直感だけに頼って発言しても、何の意味もないことは重々承知している。ただ、本書の結論にある環境管理のための8つの提言の、奇妙なインパクトの弱さは、レヴィン博士を含むアメリカ現代科学が見過ごしてきた、協働原理の欠落によってもたらされたものではないか。彼の知性と、ユーモアに満ちた人柄に敬意を持つからこそ、この点についてあらためて考えてみてほしいのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-29 18:21 | 書評 | Comments(0)

今はまだ鎮魂の歌をうたえ

大阪での所用の帰り、ちょっとだけ時間が余ったので京都で途中下車した。夕方だったがまだ新緑が日に映えて美しい。枝垂れ桜や八重の花も少し残っていて、その色の対比も心地よかった。八坂神社から知恩院にまわり、国宝の三門を拝観。お上りさんをしたわけだ。

その知恩院の前には大きな張り紙があり、「法然上人の八百年大遠忌法要を、震災のためにやむなく九月に延期する」と大書してあった。八百年大遠忌だから、法然という人は1211年に没したことになる。12世紀の終わりから13世紀初頭にかけて活躍した人なのだ、と思った。

12世紀ルネッサンスという言葉がある。西欧世界は、十字軍をきっかけにイスラム文明に触れ、そこを経由して古典ギリシャ時代の哲学や文化を輸入し学んだ。その刺激から生まれた一種の新しい文化の潮流を指す。明けて13世紀は、アッシジの聖フランシスコらが活躍する宗教の刷新時代になる。西欧史と日本史は面白いことに並行関係が成立していて、12世紀の日本は新しい武家風の文化が台頭し、13世紀になると鎌倉仏教が隆盛する。

それにしても、800年も経ってまだ記憶され法要が営まれるとは、偉大な影響力である。まあ一つの宗派を作った宗教家だから、と言えるかもしれない。では、他の宗教ではどうなのか。たとえば、キリストの命日はいつだか、ご存じだろうか。誕生日は「クリスマス」として世界中で有名だが、キリスト教徒は、教祖の命日は祈念し瞑目したりはしないのか。

いや、ちゃんとするのである。先週(22日)の金曜日が、その日だった。これを聖金曜日(英語でGood Friday)と呼び、斎戒すべき『受難の日』と定められている。祭日になっているキリスト教国も少なくない。それなのに、なぜ有名ではないのか? その理由は、毎年、日にちが変わるからだろうと思われる。この聖金曜日は、実はイースター(復活祭)の二日前の金曜日と決まっている。そう、24日の日曜日はイースターだったのである。そしてイースターは、「春分の日の後、最初の満月の次の日曜日」という、太陽暦と月歴を付き混ぜた複雑な定義のため、毎年変わる移動祝祭日になっているのだ。

復活祭は、キリスト教において最大の祝日だが、春の再来を喜ぶお祭りでもある(少なくとも北半球では)。教祖の命日のすぐ二日後に復活のお祭りとは、ずいぶん斎戒の期間が短いと感じられるかも知れない。でも、それは違う。実は復活祭からさかのぼること6週間半前に「灰の水曜日」という日があって、そこから復活祭までは、キリストの受難を悼む禁欲の期間(「四旬節」)と定められている。西洋の古い習慣では、肉食を絶って魚を食べることになる。だから四旬節に入る直前に、謝肉祭(カーニバル)が行われるのである。

この四旬節は47日間続く。これは日本の仏教で命日から服喪する期間の「四十九日」とほぼ同じで、偶然とはいえ不思議である。あるいは、人間の感情が落ち着くまでの期間が、それくらいかかるのかも知れない。

宗教現象というのはつねに興味深い、不思議なものだ。高等生物の中には仲間の「死」を認識するものもあるが、追悼をするのは人間だけである。遠くネアンデルタール人も、仲間の埋葬にあたって、花を捧げていたらしい。というのも、人骨の遺跡の近くに大量に花粉が見つかったからである。遠く去った仲間に花を捧げる、というのは、アーリントン墓地や無名戦士の墓に詣でた外国元首なども従う儀式であるが、どうやらわたし達人類の文化的遺伝子に刻み込まれた行動パターンらしい。

なぜ人は鎮魂の儀式を必要とするのか。それは簡単には答えられない問いである。著名な精神医学者の土居健朗は、たしか「『甘え』雑稿」の中だったと思うが、なぜ人は誰かの通夜などで「お悔やみ申し上げます」というのか、と問うていた。そして自分がその言葉を受けとる立場になった時、残された者が故人に対し“ああすればよかった”“もっとこうしてあげればよかった”と後悔し、『悔やむ』からなのだ、と気づいたという。つまり、自分達がいかに不完全な仕方でしか、人を大切にし愛することができなかったかを悟る時の言葉なのだ。そして残された者が、互いに助け合いながら生き続けていこう、と確かめるために、ああした儀式が必要なのかも知れない。

あの恐ろしい3.11の震災の日から、もうじき7週間経つ。わたし達の故郷は、大きく傷ついた。いや、実はもう、だいぶん前から傷んでいたのだ。その最も弱い部分を、災害が襲った。日本が変わってしまった日、と感じたのはわたしだけではあるまい。

これだけ深く傷ついたら、癒えて立ち直るまでには相当の時間が必要である。まず、心の中で引き裂かれた感情が静まって、ほつれが戻り、断線が再びつながるための時間がいる。それまでは、まずは静かに、追悼と鎮魂の期間をすごすべきではないのか。

元気を出そう、一日も早い復興を、とメディアは繰り返す。それは真心から出た言葉だろう。だが、わたしには何だか性急なメッセージに聞こえるのである。動物だって、傷ついたら、動き回らず、ものも食べず、じっとうずくまっている。それが動物の本能的知恵だ。動物も人間も、活動の時期と、休息の時期がある。24時間元気でいたいと思うのは浅知恵な願いだ。

わたしは酒食や娯楽まで何でも自粛しろ、と言っているのではない。追善供養の席では、みな飲食して、故人の遺徳をたたえるではないか。ただ、方や自粛する、方や復興を急ぎ消費の落ち込みを憂う、それを同時に行うのは矛盾はないかと感じるのだ。復興を叫ぶ声の後ろには、「復興需要」をあてこんだ産業界のそろばんの音さえ混じっているように聞こえる。一日も早く以前の日常を復旧させたい、地震と津波と原発と計画停電にゆさぶられた日々を忘れたい、との感情は理解する。だが、それくらいならば、四十九日の間はきちんと喪に服し、それからゆっくりと日常生活に復帰するという、古いしきたりの方がずっとメリハリがあると思う。

わたし達はたぶんまだ十分、追悼ができていないのだ。素人コーラスがわたしの休日のささやかな趣味だが、今期の曲目を決める時、鎮魂の歌を1曲入れるべきだと思った。お金による寄付だけでなく、歌うたいならば声で気持ちを捧げることも、ありではないか。

なんだか古くさい、馬鹿げたことを書いているような気もする。でも、自分たちがあの災害で生き残ったのは、偶然に過ぎない。生き残った者が真っ先にすべきことは、去った仲間を悼むことではないか。そうして、受け渡された生の意味について、もう一度考えるべきなのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-27 00:01 | 考えるヒント | Comments(1)

安全と危険の境目をはかる

先日、作業現場の安全に関連して「度数率」という概念を紹介したが(「安全第一とはどういう意味か」参照)、これに多少似た概念で「事故率」という尺度がある。こちらは交通輸送などで使われる数字で、一人(あるいは1台)移動距離あたりの事故発生数である。たとえば国交省の統計によれば、国内の全道路における自動車の走行台・キロあたりの「死傷事故率」は現在100件/億台キロ前後である。言いかえると、自動車で100万キロ走行すると、平均約1回死傷事故に巻き込まれる可能性があることになる。

一方、航空機についての事故率は、輸送実績1億人キロあたりの死亡乗客数=0.04人という数字がある。台と人という単位系の違いがあるが、自動車1台に乗る平均人数は知れているから、両者を比較すると、自動車よりも飛行機の方がはるかに「安全」である、ということになる。実際、わたしの知るアメリカ人は北米と東南アジアを頻繁に往復する仕事で、通算100万マイル以上も飛び回っているが、“車で通勤するよりずっと安全だ”と自分に言い聞かせて乗っているといっていた。

もっとも、“自分に言い聞かせて”というあたりがミソで、彼だって何となく不安を感じるのである(時差等で肉体的にしんどいのもあるだろうが)。ここらへんが、安全に対する人間の感覚の微妙さを表していると思う。車を運転すれば、事故の可能性がある。それは承知だが、だからといってマイカー通勤やドライブ、あるいはタクシー利用を危険視する人はそんなに多くない。自動車の利便性が高いからである。

では、ある日、上品な身なりの黒い服を着た見知らぬ紳士がやってきて、「恐縮ですが、ちょっと車に同乗して10kmほど走っていただけませんか。同乗するだけで、別に運転は必要ありません。私どもの用意したプロの運転手がおりますので安全は請け合います。」と言われたら、あなたならどうするだろうか? あなたにはとりたてて、出かけたい場所も用事もない。でも相手は「10km走行して事故に遭う確率は、10万分の1しかありませんから」と慇懃に詰め寄ってくるとしたら?

OKと答える人の数は、少ないだろう。謝礼が出れば、多少は違うかも知れない。千円位くれるというなら、行ってもいいとは思う。でも相手が「直接の謝礼はお出しできませんが、あなたの行為は社会を巡りめぐって、あなたにプラスとして返ってきますから」というような説明だったら--わたしだったらお断りだ。メリットがあまりにも迂遠すぎるからである。

安全とは何だろうか。じつは、『安全』にはISOで決めた国際的な定義がある。それは
 「受け入れ不可能なリスクがないこと」(ISO/IEC Guide 51)
である。

この定義を知ると、消費者運動などでよく見る『絶対安全』という言葉は、ちょっとおかしな概念に思えてくる。それは一切のリスクをゼロにしろと言う要求であり、ちょうど絶対零度に物体を冷やせと言うようなものだ。逆に言えば、ISOは「受入可能なレベルのリスク」に抑えていることを「安全」と呼ぶのである。消費者運動のお嫌いな方など、これを知って、そら見たことか、運動家連中の言うことは完璧な間違いだ、と思われるかも知れない。

だが、ちょっと待ってほしい。ならばISOは「リスク」については、どう定義しているのか。調べてみると、不思議ことが分かる。ISO 31000に、その名も「リスクマネジメント」という規格があり、その定義は、

 「リスク:目的に対する不確かさの影響」effect of uncertainty on objectives

だという。これを、上記の安全の定義に代入すると、どうなるか。
「安全とは、受け入れ不可能な、目的に対する不確かさの影響がないこと」
になるが、これで意味の分かる人はいるだろうか? ISOは何を考えているのか?

じつは、ISOにはリスクの定義が複数、存在するのである。たとえば、「国際規格等における『リスク』の定義について」という資料は、今や話題の原子力安全・保安院が6年前に作成したものだが、4種類のISO/JISの定義を列挙している。その中で、上記の「安全」の規格に対応するのはISO/IEC Guide 51:1999であり、

 ・ リスクの定義 :危害の発生確率と危害のひどさの組合せ

と引用されている。

簡単に言うと、ISOは安全工学や環境学などに関連した分野では、危害とか危険などのマイナスの意味で長年「リスク」を使ってきた。ところが最近になって、(主に経済学や金融工学の影響だと想像されるが)プラスもマイナスも含めた不確実性のことを「リスク」と呼ぶようになったのである。わたしが以前「リスクという言葉自体がリスキーである」で書いたように、非対称型の概念から、対称型の概念に変わってきている。

ただし、そもそもISOの定義はいずれも、マネジメント・システムの体系の中で使われている点に注意してほしい。つまり各単語には意味空間が定められているのだ。だから、ISOに定義がある場合でも、ワン・センテンスだけをとりだして、「これが世界標準であり正解である」と思い込むのは危険なのである。それはいつの間にか思考停止の道具になってしまう。そもそも、マネジメントの問題には一般に正解なんか無い。

そこで、安全の定義にもどろう。上記をまとめると「安全とは、受け入れ不可能な危害の発生確率と影響度がないこと」になる。だが、疑問はまだ残る。誰にとって「受入可能」なのか? 判断する人と、判断基準は何だろうか?

答えははっきりしている。「リスクを受け入れ可能かどうか」は、その行為・目的の与える便益や価値を基準にして決めるのである。誰が決めるかというと、ISOは「マネジメントシステム」であって、その主体(通常は企業組織)が決めることになる。組織が価値を受け取り、また危険にもさらされる訳だから。え? 勝手に決めるのは本社なのに、危険にさらされるのは、その事も知らされていない現場の作業員(あるいは下請け)だろうって? もしそうなら、それはマネジメント・システムとして機能していないことになる。なぜならシステムというのは組織の構成員全員にちゃんと説明して、ちゃんと理解し従うことに合意した上で成立・維持するものだからである。

自分に何の具体的便益もないまま、リスク(危害の確率や影響度)にさらされた場合は、それを「受け入れる」かどうかは、本人の意志で決めることになる。何の便益も無しに「車に同乗して10km走って下さい」という要望には、お応えしかねる、という返事になるはずだ。受け入れなくても当然だろう。これが危険物質などの場合でも、身体や健康に「影響のない量」だから「安全である」とはならないのだ。

学生の時、放射線の安全な許容量は、科学的ではなく社会的に決められた値だ、と知った時の驚きはまだ覚えている。そして、通常の人よりも原子力関係の仕事に従事する人の許容量がずっと高いのも、奇異に感じた。だが、安全とはリスクと便益を天秤にかけて決められるものなのだ。便益や価値が、科学ではなく社会や各人の主観で決まるものである以上、それは当然のことだ。たばこは健康によくないが、吸う人は気分的な便益があるから吸っている。一方、益もないのに副流煙を吸わされる傍の人にとっては、迷惑以外の何者でもない。

困ったことにわたし達の社会は、巨大で複雑な文明社会である。ある所に便益をもたらすはずの文明の道具が、離れた別のところでは危険の原因になったりする。便益も危険も同じ当事者・組織ならば話は分かりやすい。しかし、それが離れていると、その間で話し合って決めるしか無くなる。その話し合いは、厄介で時間のかかる代物である。そこで、何か社会的な目安になる線引きや拠り所を求めたくなる。だが、危険度の基準はしょせん目安であることを忘れるべきではない。「絶対安全」を求める人々も、「基準以下だから文句を言うな」という人々も、ともに価値判断を回避している点では同じである。安全と危険との線引きに正解は無い。最終的な判断は、自分でするしかないのだ。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-21 22:56 | リスク・マネジメント | Comments(0)

『正解のない問題』を考える能力

次の問題は、ある理系の大学入試問題である。回答者は、3問の内いずれかを選び、それについて論文を記述しなければならない。制限時間=4時間。字数制限無し。

 (問1)言語は思考を裏切るか?

 (問2)不可能事を望むことは非合理か?

 (問3)実験のほかに真実を立証する方法はあるか?

あなただったら、どう回答するだろうか。ちょっと考えてみていただきたい。

じつはこの問題、日本の大学ではなくフランスの「バカロレア」baccalaureatの過去問題から引用した。バカロレアは高校卒業時の大学進学検定試験のようなもので、毎年6月に行われる。日本のセンター試験に該当する、と言えなくもない(だいぶん違うが)。そして、上の問題は「哲学」科目の出題である。そう。大学進学試験には国語、数学、地理、歴史、第1外国語、体育と並んで哲学が必修科目なのである。

ちなみに2010年度は全国で642,253人が受けて、受験者の86%が最終的にバカロレアに合格し、これは同じ年に生まれた全体数の65.6%に相当する、のだそうだ(「パリの郊外暮らし」 より孫引き)。

バカロレアは基本的にすべて論述問題である。上記の哲学に関して言えば、自分の感覚で好き勝手なことを書いていい訳ではない。まず、論理的で首尾一貫した論述であることが求められる。結論は肯定でも否定でもよいが、まず問題とされているテーマを明確に定義し、できれば哲学の歴史的な議論を踏まえ、対立する論点を正確に論じた上で、最後に自分の結論を書くことが期待される。さらに関連する思想家の主張を引用したりすれば、上出来だそうである。そして、このような試験では「携帯を使ったカンニング」など不可能だし、意味がない。震災前の古き良き時代、世間が一番騒いでいたのは某有名大学のカンニング事件だったが、あれは短くて正解のある問題だからこそ可能だった出来事なのである。

哲学は重要な受験科目のひとつだから、フランスで教育を受ける者は、高校でこの種の思考訓練を徹底的に受けている訳だ。このような教育を経て、論説の達者となった連中と、論理的主張の訓練など殆どない普通の日本の大学を出た人間が、国際会議や商談等で議論や交渉をしても、なかなか辛いものがあるのは分かっていただけるだろう。

誤解しないでほしいのだが、わたしはフランスが素晴らしくて日本が劣っているとか、日本の大学入試もバカロレアを見習え、といった主張をしたいのではない。両者がずいぶん違っていることに、まず単純に驚き、感心しているのである。国同士の優劣の比較は皆の興味をひく話題だが、わたしはむしろ個性と差の方に関心がある(たまたまフランスで若干の間、働いた経験はあるが、わたしはフランス崇拝趣味はない)。

日本とフランスの大学入試問題の違いは、二つの国が、若者の知的能力に何を求めているかの差を、端的に反映していると思う。日本のセンター試験はすべてマークシート方式である。これは大量の受験者を、効率よく正確に短時間で評価し点数化する必要性から出ている。と同時に、出題者の用意した選択肢という枠の中で、正解と不正解を明確に切り分ける能力を受験生に求めている訳である。

したがって、日本では記憶力ならびに条件反射的な判断力を持つ若者が有利だし、有名大学に合格して「頭が良い」と世間から太鼓判を押されることになる。物覚えが良く種々の知識や解法パターンを記憶することに抵抗のない子の方が、自分がじっくりと納得できるまでものを覚えられない子よりも、受験勉強に向いている。さらに言うなら、出題者が“何を答えさせたがっているか”を瞬時にかぎ分ける能力も重要である。

いや各大学の独自試験では記述式問題も出されるし、後期試験では小論文と面接のみの大学もあるではないか、と反論されるかもしれない。そのとおりだ。しかし、日本の論述問題とは、具体的にどのような知的能力を問うものだろうか。論文試験と言われてわたしがすぐ思い出す典型は、司法試験と、情報処理技術者試験である。司法試験の論文試験について、以前、法学部出の友人から聞いた話では、「出題意図に添って、必須のキーワードを、期待される順番で盛り込んだ文章を書くこと」が合格回答のポイントであるという。つまり、出題意図のフレームワークの中で、記憶した知識を体系にしたがってつなぎ出すことが求められる。

高度情報処理技術者試験については、「プロジェクトマネージャ」の参考書を10年近く編著で出していたので、よく知っている。いわゆる午後II論文問題は、制限時間2時間で、約4,000字の論文を書くことが要求される。つまり、毎秒1文字のスピードで論文を書かなければならない。当然、その場で考えている時間など殆どない。だから事前対策として、自分が経験したプロジェクトを題材に、「品質管理」の面から聞かれたらこう書こう、「要員管理」で出題されたらああ書こう、「プロジェクト計画」の観点ならば、といった具合に、いくつかの切り口で整理しておく。そして実際にその論文を書いてみるのである。2,3回やると、書くべき事を反射的に「体で覚えて」いる状態になる。そうして試験に臨むのだ。

言いかえるならば、日本の論文問題は、出題のフレームワークの中で、正解(ないしそれに準じた知識)を、効率的に記憶から取り出す能力を測っている場合が多い。そのために時間をかけ根気よく繰り返し学習する。これは無論、立派な知的能力である。ただしそれは、世の中が比較的予見可能な、つまり安定した右肩上がりの時代に有用な能力と言えるだろう。

これに対しバカロレアの論文問題では、出題者は、知識もさることながら、整合性のある論理展開能力を、まず求めている。哲学にみるとおり、出題は「正解のない問題」である。そのかわりバカロレア方式では、採点は手間がかかるし、主観ももぐり込みやすい。だから毎年6千人以上の判定委員と10万人以上の採点者(及び口頭試問試験官)が動員されるという。それだけの国費(受験は無料である)を使いながらも続けている事は、フランス人が無駄な議論好きのおしゃべりだという「国民性」だけで説明すべきではない。漠とした状況下でも論理性と一貫性のある思考が必要だ、という知的能力への社会的期待がそこにあるのだろう。少なくとも、彼らの求める知性の尺度には、カンニングがもぐり込む隙間はあまりないのだ。

もっと単純化して対比すると、フランスが評価する頭の良さとは、真っ白なキャンバスに見事な絵を描く知的能力で、日本の求める頭の良さはジグソーパズルを素早く解く能力だ、と言えなくもない。わたしの好きな用語で言うならば、フランス型知性は『自由度』の大きな抽象的問題に向いており、日本型知性は、自由度は小さいが複雑な問題に向いている、という印象である。正解のある、具体的な問題に。

だが、わたし達の社会は(むろん立派な社会だが)「正解」をあまりにも求めすぎる、と最近つとに感じている。様々な問題にぶつかるたびに、どこかに正解を探し求め、受け入れようとやっきになる。「頭の良い」人たちは、どこからか格好良いキーワードを仕入れて、問題の根を切り分けてみせる。正解のある問題は、考えずとも“右へならえ”が効きやすい、という特徴がある。でも、ある場所で役に立った方法が、別の状況で正解となる条件について、しばしば無頓着である。生産改善だ、じゃあトヨタのカンバン方式を導入するのが正解だ--そんな単純な話じゃありませんよ、と「あなたの会社にトヨタ生産方式が向かない五つの理由」みたいなエントリをいくら書いても、世間は馬耳東風だ。そのあげく巨大な問題にぶち当たって、「想定外でした」という。その想定のフレームワークは、誰が決めたのだろうか? 

自分達の知的能力を高めるにはどうしたら良いか--これは典型的な「正解のない問題」である。だから、“日本もバカロレアの哲学の問題を導入すればいい”という答えは失格だと、すぐ分かる。世の中には正解のない問題はいくらでもあるのだ。そもそも、自分はどういう人間なのか。自分は何がしたいのか。自分はなぜアイツのことが好きなのか。それなのになぜ、アイツは自分を好いてくれないのか。そもそも自分の人生にはどういう意味があるのか・・。こうした問題は、若いうちだけでなく、中年になってからも、繰り返し襲ってくる。むしろ若いうちに、これら正解のない問題を自分で悩む経験を積んだ方が、大人になってから想定外の問題にも耐えられるようになるのではないか。

「ずっと昔に学校を卒業したのに、ときどき試験問題に苦しむ夢を見る人は、自分が考えるべき大事な問題を無意識の内に回避している可能性がある」、と心理学者は言う。無意識が夢を通して、その事に警告を発しているのだという。わたし達の社会が『入学試験』にひどく敏感なのを見るたび、“われわれの繁栄にはどういう意味があるのか”という正解のない問題を、わたし達がずっと回避してきたのではないか、と疑わしく思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-18 22:48 | 考えるヒント | Comments(2)

「ITって、何?」 第18問 日本はIT先進国なの、それとも遅れているの?(3/3)

--それはね、結局、人の問題になってしまう。工場をどうするかではなくて、人をどうするか。つまり文字通り、教育だね。

「そうなの? だったら、日本なんてアメリカ以上に教育レベルは高いんじゃないの?」

--はてね。むやみにアメリカを礼賛したくなんかないけど。でも日本のそれは、はたして、事実に対し多面的かつ客観的にアプローチする方法の教育だろうか? あるいは新しいパラダイムを産み出せるような独創性をそだてる教育だろうか? 情報の価値を認識できる、あるいは物事の進め方をシステマティックに分析できるような教育だろうか?
 正解の知識がどこか天から降ってきて、それをひたすら覚えるだけの、訓古学を試される科挙の制度みたいなものじゃなかったろうか。

「でも、あなたのいう、『システマティック』って何よ? システム・エンジニアならみんなシステム的に考えられるってわけ?」

--いやいや、とんでもない。IT屋がみなシステム分析の方法論を身につけているなら、この国の産業はこんなに混沌状態になってはいないはずさ。ぼくのいうシステム分析の能力というのはね、人間系に対する洞察と、機械系の論理との間をバランスできる思考方法だ。いいかえれば、人間が必要な情報と、機械のあつかえるデータやロジックとの関係をうまく定義できる能力。

「なんだかかっこよく聞こえるけれど、抽象的だわ。そもそもシステムって言葉自体がよくわからないわよね。」

--『システム』という言葉はね、多義語なんだ。元々の意味は「系統」を意味していた。家系図みたいな系統だね。複数の構成員が集まって一つのファミリーをなす、という。

「それなら、英語でいえば太陽系だってsolar systemだわ。日本語で『ソーラー・システム』っていうと、なんだか屋根の上の太陽熱でお風呂を沸かす装置みたいに聞こえるけれど。」

--そうだね。そういう装置のことを指す場合もある。それから、「明朗会計システム」みたいに、手順や方式を表すときもある。でも、もう少し一般化していうと、複数の要素同士が機能を持ちながら有機的に連携して、全体としてある目的を達成する仕組みのことをシステムいう。

「だから太陽熱湯沸かし器は立派なシステムである、と。そうなの?」

--まあね。でも、その中に情報と判断の仕組みが入っているかどうかが大きな分かれ目だ。湯沸かし器にはたぶんそれはない。このカーナビにはそれがある。

「コンピュータが入っているかって事?」

--端的にはね。でも、別にデジタルでなくアナログの計装制御みたいなものでもいいのさ。湯沸かし器に温度センサーがついていて、それでポンプの駆動や弁の開閉をコントロールしてお湯の温度を一定に保っているのなら、それも立派な情報と判断の仕組みだ。初歩的だけどね。とにかく、情報と判断が入るような系は、だんだんシステム・エンジニアの仕事の対象になっていく。そして日本人は、こういう目的の明確な道具を作る、ハードウェアの設計はとてもうまい。

「あれ? 日本人はシステム作りの能力が低いという話じゃなかったの?」

--そうだよ。ところでさ、「会社」ってのはシステムだと思う?

「ええっ? さあー。いろいろな部署が機能を分担しながら一緒に仕事をしていくんだから、システムなんじゃない?」

--目的は何さ?

「そりゃ、民間企業ならお金儲けでしょ?」

--そうだね、最終的には。つまり、営利企業というのは、人間達と、工場などの機械・設備などが一体になって、ある目的を果たそうと機能しているわけだ。その中にはとうぜん情報の流れと判断がある。ね? 社長とかはその判断のためにいる。
 ところで、この人間系も含んだシステム、いや人間系を中心としたシステム、これを設計するのはむずかしい。人間と機械と両方を知らなければならないからだ。むしろ人間の方をより知っている必要がある。人間の持つ論理、性質、感情、ルール、コミュニケーション・・こうしたものを深く理解していなければ、企業の仕組み、ビジネスのプロセスをエンジニアリングすることなんておぼつかない。
 こういう仕事のできる人のことをシステム・アナリストという。

「アナリスト・・分析家ってわけ? 精神分析家みたいな?」

--分析だけでなく処方箋を書けなけりゃいけない。企業の持つ目的だとか、それを実現するための戦略とかに沿った形で、情報システムの機能要件を決めていく。そして人間系における仕事の流れを同時に提案していく。
 残念ながら日本ではこのシステム・アナリストが足りない。そもそもシステム・アナリストという言葉がほとんど知られていないのが、日本の現状ではある。

「わたしも初めてきいたもん。それってあなた一人の勝手な言葉づかいじゃないの?」

--システム・アナリストという言葉は確立した用語さ。まあ肩書きはどうであれ、本来はどの組織にも、アナリストの職能を持った人間がいなくてはいけない。そうでなければ、その組織には自分の仕事を改良する能力がない、ということだからね。

「そういう職種って、プログラマーの人がなるの?」

--全然ちがいます。それはものすごく広くはびこっている誤解だ。プログラマーはコンピュータの内部の仕組みを考えるのが商売。コンピュータが好きで、そういう職人仕事に適した人がなる。システム・エンジニアは情報システムの設計が商売で、これもどちらかというと計算機の方に顔が向いている。
 ところがシステム・アナリストは人間の方に顔を向けなければいけない。コンピュータが好きで、コンピュータの論理しか知らない人間はアナリストには向かないんだ。

「コンピュータが好きな人しかIT屋さんはつとまらないかと思っていたわ。」

--これまで日本ではしばしば、プログラマー→システム・エンジニア→システム・アナリストという風にキャリアを積んで年功序列で出世するもんだと皆が思っていた。でも、こんな奇妙な進化論があるだろうか。プログラマはいわば腕のいい大工さ。でも大工が仕事を続けていれば建築士になるだろうか。

「じゃ、アナリスト、つまり一級建築士の方が、大工さんのプログラマーより偉いと言いたいの?」

--偉いとか高級だとか、そんなこといってるんじゃないよ! まちがえないでほしい。アメリカでは下手なアナリストより高給取りのプログラマーは珍しくない。職種が違うといってるんだ。だから必要な教育も資質も違う。

「ふうん。IT屋さんにも、そんなにいろんな職種があるんだ。」

--その認識が足りないために最近よくある喜劇はね、企業が情報部門を分社化してITエンジニアを全員子会社か何かに追い出してしまうんだ。アナリストも含めてね。ところが、しばらく経つと、自社内の仕事の合理化を検討するためにアナリスト的な人がまた生まれてくる。それが目に付きはじめると、また人員削減と称して、またアナリストを追い出す羽目になる。これをいつまでも繰り返す。ほんとは喜劇だか悲劇だか分からないけどね。
 今どき情報システムなしに組織なんて成り立たないんだから、社内アナリストも必要なのさ。それなのにプログラマーと同一視して外から雇えばいいと思っているんだ。ちょっと話がそれたけど。

「ねえ、そういうアナリストになる人はやっぱり理科系出身なの?」

--文系理系は関係ない。人間系の洞察が一番のスキルだからね。そもそも、入試の時の得意科目で人間を二種類に分けたって意味ないじゃないか。ようは問題をマクロにとらえる能力、部分と全体の関係を理解する能力があるかどうかだ。人間様の情報を、機械のロジックとデータにどうモデル化できるか、そのセンスが問題なんだ。

「データのモデル・・それって、あなたがさっきのインターチェンジでえんえん説明してくれたことでしょう? 結局なんだかよく分からなかったけれど、とっても乱暴な単純化だってことだけは感じたわ。」

--乱暴といわずに“割り切り”といってほしいね。

「いいわよ、割り切りでも。でもね、ああいうアングロサクソン的な割り切りで、切り捨てられてしまうものが情報にはあまりにも多くないかしら? あなたはITが西洋哲学の子どもだ、って威張っていたけれど、あんなイデアとか唯名論みたいな物差しで日本を測ったら、遅れて見えるのは当然だわ。
 あなたは定型化がとってもお好みのようだけど、わたしは携帯の親指メールでコミュニケーションをとるのも立派なITだと思う。それとか、TVゲームとか。」

--たしかに、ゲーム機のハードとソフトだけは、日本が世界でもっとも先進的といってもいい唯一の分野ではあるな。でもまあ、我々の長所は長所としておいてだね、あちらの良い点も学ばなきゃ。

「それじゃダメなのよ! そうやって長所はおいて短所を補い、万遍なく点を取って秀才になろうとするから、日本人ていつもお利口なお馬鹿さんになっていくのよ。」

--おやおや、だったらどうしろと言うんだ。親指の訓練でもしろってか!?

「人と違っていたらね、その違いを伸ばすのよ。日本が西洋と違っていたら、そのちがう点を育てなきゃ。そうでなかったら、どうして個性が伸びるのよ? 個性と個性がぶつかって、磨きあってこそ、あなたのほしがる『独創性』が初めて手にはいるのじゃないかしら。」


              (この話の登場人物はすべて架空のものです)
by Tomoichi_Sato | 2011-04-15 22:46 | ITって、何? | Comments(0)

「ITって、何?」 第18問 日本はIT先進国なの、それとも遅れているの?(2/3)

「買い手の側のレベルをうまく計れる物差しってないものかしら。たとえばほら、会社がITにたいして出費しているエンゲル係数みたいなもので。」

--出費といっても経費と投資とがあるけれど、それを単純に合計していいのかという問題がまずある。それに、さっきもいったとおり、妙に独占的な規制があるために出費がかさむ場合はかえって不公平だ。

「それなら、電子メールの普及率なんてどう? あ、これは携帯電話の分が入ってくるから問題かしら・・」

--うん。電子メールの普及率だと、たぶん日本は世界一だと思う。それは悪いことではないだろう。でもね、道を歩きながら親指一本でメールを打ってりゃIT先進国なのか?
 前にも同じ事を言ったけれど、オフィスでPCを配っても、みんながワープロとメールと表計算ばかりで、定型化されていないデータの卵みたいなのがあちこちのハードディスクに散らばっている状態って、決してIT化されているとは言えないと思う。

「お、久しぶりに出たわね、『定型化』」

--ちゃかさないでまじめに聞いてくれよ。営業マン一人一人にノートPCを配ってるけれど電子メールだけに使っている会社とさ、端末数は少ないけれど全製品の在庫数が正確にわかる会社と、どっちのITが進んでいるか、考えてみてほしい。

「後の会社の方だ、とあなたは言いたい訳ね。」

--そう。なぜなら客観的な事実認識に秀でているからだ。どんなにメールをばんばんやりとりしても、そこに曖昧な情報が行き交うだけだったら、あまりIT的とは言えない。ぼくにとってITってのは、このカーナビと同じ、事実のための道具だからさ。

「そしたら、社会における『カーナビ普及率』みたいなものが物差しになるんじゃないの? もちろんこれは喩えで言っているんだけど。」

--そういう、ツールの普及率だけに注目していてはダメなんだ。ツールの背後にあるものをみなくちゃ、本当のレベルは分からない。

「背後にあるものって、何よ?」

--このカーナビが動くためには何が必要か。これってどう働いているか知ってるかい? カーナビの基本はね、GPS=Global Positioning Systemといって、通信衛星をつかって自分の今いる場所を瞬時に計算する技術なんだ。これはもともと米国の軍事技術の応用だった。

「軍事技術がカーナビの背後霊だったわけね。」

--でも、それだけじゃない。もっと大事なものがある。それは、地図が完全に電子データ化されていることだ。地図のデータがなければ、自分がどこにいるか分かっても、道案内には何の役にも立たない。そうだろ?
 では、完全な地図のデータとはどうやってできるか? そのためには、まず自分の国の中がきちんと、小さな縮尺のレベルまで正確に測量されていなければならない。

「それって国土地理院とかがやっているんじゃないの?」

--そう。その点で日本はまあ合格だ。世界には、自国の詳細な測量ができていない国がじつはたくさんある。領土問題という障害もあるのかもしれないけれど、まず政府がそうしたことに意識をもつかどうかが問題だ。
 次に測量結果が電子化されているかどうか、そしてそれが一般に公開されているかどうかだ。

「一般に公開、ねえ。日本ってここらへんからあやしくなってくるのよね・・」

--日本では地形図データは完全に公開されている。しかし、まだ次がある。住居表示が正確で、地図上に表現されているかどうかだ。目的地の住所が地図上でマッピングできなければ、カーナビにはならない。

「そんなの当たり前じゃない。・・え? ・・・ちょっと待ってよ。」

--じつは日本では、都市部をのぞいては、『字』の表示のまま、町丁目の境界線が曖昧なところがたくさん残っている。そもそも、地番の付け方が都市部でさえずいぶんぐちゃぐちゃだ。宅配便のお兄さんから、近所の住所を聞かれたことはないかい? タクシーで、町の名前と丁目をいえば正確につれていってくれるだろうか?

「そうよね・・。えーと、欧米だとね、住所って通りに面してついているの。知っているでしょ? 何々通りの何番、という具合に。だから、タクシーに乗って正確な住所をいえば絶対間違わずにたどり着けるのよ。通りさえ分かれば、番号は着実に順番通りになっているから。日本って、丁目の中を区割りして行くから番号が分かりにくいのよねえ。」

--欧米が線のシステムだとしたら日本は面のシステムなんだろうね。

「だからね、外国からお客さんが来たときに困るのよ。タクシーで住所をいっても役に立たないから。東京のタクシーなんか、もうとっくの昔になくなっちゃっている旧町名で言わなきゃならなかったりして、いったい何なのよ、もう! って感じだわ。・・でも、何の話だった?」

--IT

「・・IT、かあ。なんだかあなたの言いたいことが少し分かってきたような気がするわ。」

--カーナビという機械をいくらたくさん工場で作ってばらまいても、それだけじゃ事実認識の道具にはならないことがわかるだろ? 事実を認識するためには、事実の側に、認識しやすくするための仕組みが必要なんだ。番号をふり、定型化して、データに加工しやすくするための工夫。情報を公開し共有しようというモチベーション。対象を正確に観測する努力。それに計算機技術が相まって、はじめて意味のあるITになるのさ。

「なんだか批評される側から批評する側になって、急に強気になったわね。」

--そりゃどうも。でも、こういった消費者側のレベルを、単一の指標で計ることの難しさはわかっただろ? データの定型化が進んでいないせいでIT導入によけいお金がかかったとしても、それはレベルの高さではなくて低さをあらわしているんだ。ちょうど地盤が軟弱なところに建物を建てるようなもので、坪当たりの単価が高いからといって、ゴージャスで先進的な建物とは限らない、ってことさ。

「そうね。そういうことなら、でき上がった建物の広さや価値を比べるべきで、それにかかった費用を比べるべきじゃないわ。また費用と価値の議論になっちゃったけど。」

--まあITってには「目にみえない建物」だから、その価値の評価となると不動産鑑定士よりもなお難しい仕事になるだろうな。おまけにその建物たるや、建てたとたんに陳腐化がはじまって、ものすごいスピードで減価消却していかなきゃならない。へたをすりゃ「過消却」で古いIT資産はマイナスの資産価値になっちまう。つまり負債だ。ほんとに難しいね。

「それを国別に比べるとなると、なおさらね。」

--うん。日本はね、いろいろな大規模情報システムをかなり早くから作ってきてはいる。たとえば旧国鉄の座席予約システムなんて世界レベルでもすごいしろものだった。日本全体でシステム構築に投下した資産はかなりの量さ。だからITの大国だとは言ってもいい。しかし、世界が今、その進歩のスピードに舌を巻いているか? 否だね。大国ではあるがもはや先進国ではない。

「そういうことって政治家の人達はわかっているのかしら。」

--もちろんわかっていないだろ。そうか。君にそう言われてはじめて、日本のIT政策のどこが変なのか気がついたよ。ようするに今までの政策のほとんどは、IT産業対策、つまり「作る側」を助ける政策だったんだ。

「ふうん。でも、ありそうな話ね、日本なら。」

--まあ、30年前の、文字通りコンピュータ産業の幼年時代ならそれも意味はあっただろう。海の向こうにはIBMをはじめとする巨人たちがいて、それに日本市場を席捲されないように、国内のメーカーを助けて、しかもIBMの互換機路線をとらせた。一種の温室政策だね。まだひ弱な国内産業の芽を北風から守ろうというんだ。

「木が育ってたくさん実を結ぶようになったのに、あいかわらず温室政策の考え方がつづいたのね。」

--分岐増殖で新しい枝が生えて来ると、いちいちご丁寧に温室作ってかこったり、温室間で縄張争いしたり・・。あるところから先はね、君のいうように、消費者側をこんどは育てるべきだったろう。生産者側を保護して安価な商品を供給させるのではなく、消費者側を賢くして良い製品を選ばせるように仕向ければよかった。そうすれば競争原理が働いて、たぶん自動的に価格は下がって行く。

「でも、使う側を育てる政策ってどんなものかしら? 作る側なら、補助金で工場を立派にするとか、目にみえて分かりやすいでしょうけれど。」

--それはさ、うーん・・それはね。結局、人の問題になってしまう。工場をどうするかではなくて、人をどうするか。つまり文字通り、教育だね。

(この項つづく)
by Tomoichi_Sato | 2011-04-12 22:07 | ITって、何? | Comments(0)

「ITって、何?」 第18問 日本はIT先進国なの、それとも遅れているの?(1/3)

 << IT大国だが先進国ではない >>

「それにしても、日本はITの創造性に欠けている、って本当なの? 日本はIT先進国なのかしら、それとも遅れているのかしら。なんだか両方の説をきくわよね。」

--うーん。最近の海外の評価を見ると、決して世界でもアジアでもトップではないようだね。

「そうなの? じゃ、どこがトップなの?」

--まあ世界のトップはアメリカだと、誰もが認めるんじゃないかな。2番目が日本だと、かつては皆が思っていた。しかし90年代、とくに後半くらいに日本はその座から滑り落ちてしまったようだ。

「“失われた20年”ね。こんなところでも失っていたんだ。」

--最近では、アメリカの次に話題になるのは、なぜか北欧が多い。フィンランドなんかインターネットの普及ではアメリカをずっと前から追い越していた。ドイツもERPパッケージでかなり株を上げたね。
 それで、最近のアジアのIT産業はどうか、って話になると、これが日本をすっ飛ばして中国か韓国・シンガポールなんかの話題になりがちだね。なんだか悔しい気もするけどさ。でも中国や台湾は今や世界のパソコン工場なんだから、しかたない。

「ふうん。それで最近は政治家のおじさん達もIT、アイテー、でうるさいのね。ああいう人たちって、日本は中国とか韓国とかに追い抜かされたなんて聞くと、頭に血が上りそうだもん。」

--ただね。そういう議論てさ、ぼくは抽象的すぎると思うんだ。だって、方向を言わなければ「先進的」かどうかわからないだろ? 東に向かっているのか、南に向かうべきなのか言わないまま、あのランナーはこのランナーの先をいっているだの追い抜いただの、議論してもしかたがないじゃないか。

「ってことは、何か物差しをとって比べるべきなのね。でも、どんな指標があるのかしら?」

--そこなんだなよな、問題は。じつは、ぼくにもぴったり来る指標がすぐには思いつかないんだ。
 たとえばね、昔だったら、その国の計算機の生産高で比べれば良かった。でも、これは、IT=コンピュータ・ハードウェアの時代の感覚だ。ITの世界の歴史では、一貫してハードの価格の比率はソフトの価格の比率に比べて下がり続けている。こんな感覚で今時議論しても意味がない。果たして中国・台湾みたいにパソコンを低価格で作りつづけていりゃあ先進的といえるのか? ぼくにはとっても疑問だね。
 むしろ、その国の中で、情報サービス産業が全体としてどれだけ売り上げているか、あるいは対GDP比でどうかを比べることのほうが有意義だろう。これだと日本はけっこういいはずだ。

「だったら、それで比べればいいじゃない。」

--ところがね、輸出入を計算に入れようとすると、急にむずかしくなる。というのは、ソフトウェアはモノではなくサービス商品にくくられるから、たとえば実物経済のような輸出入の勘定にはひっかからないんだ。

「ふーん。じゃあ、ほかに何かないのかしら。」

--思いつくことはいくつかあるんだ。たとえば、インターネットの普及率とか、あるいはデジタル通信サービス事業者の売上とか。でも、これも今ひとつだ。

「どうして?」

--たとえばね、通信の規制緩和が進まないためにデータ通信の費用が大きい国があったとしてさ(これはちょっと前までの日本のことだけれど)、それは果たして先進性をあらわしているのか? 大いに疑問じゃないか。

「じゃあ、パソコンの普及率とかは?」

--それも90年代の中頃は一人一台かどうかが騒がれたころによく使われたけれど、ぼくは単純にすぎると思う。ホワイトカラーの職場はいいけれど、工場や現場業務のブルーカラーの多い組織はどうするんだ。トラックの運転台に1台ずつPCを置くわけにもいかないだろ。こういう、ハードウェアの普及率だとか、あるいはハードウェアの生産高でその国のITのレベルを計ろうというのは間違っていると思う。

「あなたって、コンピュータが仕事のわりには、ぜんぜんハードに肩入れしないのね。純粋にソフト屋さんみたい。」

--別にハードウェアを軽視しているわけじゃない。でもね、さっきもいったようにハードウェアの金額的な比重を考えると、それを指標にITの先進性を計られることには抵抗がある。
 さっきから言っているように、そもそもIT産業の発展は分岐増殖型のパターンにしたがっているんだ。だからハードウェアからソフトウェアが分化し、さらに基本ソフトと応用ソフト、通信ソフトとどんどん分化してきているわけだ。だから、どれかの業種にピントをあてた単一の指標で日本のITのレベルを計られ、批評されたんではたまったものではない、というのがぼくの感覚なんだ。

「・・ふーん。わかったわ、問題が。」

--?? 問題って、何が? 日本が先進的かってこと?

「ちがうわよ。あなたが指標を選ぶのに苦労している理由よ。何かうまい指標をぱっと見つけて、それで計れば日本のIT産業もけっこういい位置に来ている、っていうことを証明したいんじゃないの?」

--そんな下心はないつもりだけどね。

「下心とか何とかじゃないのよ、たぶん。ただ、あなたの言った指標って、みんなITの売り手側の指標じゃない? それはあなたがIT産業に属しているから自然にそういう見方をしてしまうんだわ。」

--売り手側、ねえ。まあ、たしかに社内向けではあるが、売り手側の目で見ていることはたしかだな。

「そうでしょ? だって、“社内にはITの価値が分かるやつが少ない”、って、さっきも吠えていたばっかりじゃないの。自分は供給者として優秀な能力を持っているのに、消費者側が馬鹿だから先進的になりきれない、っていうのがあなたの潜在的フラストレーションなのよ、きっと。
 でもね。ある国がITに関して先進的かどうかって、その国のIT産業がたくさん稼いでいるかどうかで決めていいものかしら? もっと消費者サイドで見なければいけないんじゃない?」

--そうかなあ。

「だってね。えーと、たとえば・・ほら、ピカソやダリやミロはスペイン人だったじゃない。」

--?? いったい何の話だい?

「それからシャガールはベラルーシ出身、モンドリアンはオランダ人だったわ。その一方で、フランスの画家はセザンヌとマチス以降は、言っちゃ悪いけれど小粒な人が多いの。だからといって、この20世紀前半の美術史を考えた場合、スペインの方がフランスより先進的だったと言えると思う?」

--・・はあ?

「でも、この人達はみんなフランスで活躍したのよ。なぜって、そこには彼らの絵を評価して買ってくれる需要があったからだわ。買い手の目が良かったからこそ、今でもフランスの美術館には20世紀初頭の近代絵画がたくさん残っているの。まあ、戦後はアメリカが現代美術の最大の買い手になっちゃったけど。だからね、先進性をいうなら、作り手じゃなくて買い手の側を考えなきゃだめなんだわ。」

--なんだかその例はへんてこな気がするけれど、まあ、君の言いたいことは何となく分かる。しかしね、買い手の側を評価するとなると日本のITの評点はぐっと低くなりそうな予感がして、どうもいやだな。

「買い手の側のレベルをうまく計れる物差しってないものかしら。たとえばほら、会社がITにたいして出費しているエンゲル係数みたいなもので。」

(この項つづく)
by Tomoichi_Sato | 2011-04-10 12:56 | ITって、何? | Comments(0)

リスクにつけるクスリ

暮色の深まるヒューストンのショッピング・センター。夕食を取ろうと立ち寄った、その駐車場で、わたしは反対車線から来る車に気づかずに左折し、接触事故を起こしてしまった。1997年の秋のことだ。わたしのレンタカーと相手の車の後部ドアが破損したが、幸い相手は怪我もなく無事だったし、その証拠に、すぐさま車を降りてわたしに罵りかかってきた。原因は明らかに、わたしの前方不注意だ。事故検証に来た警官も、わたしにそういった(念のために書くが、実話である)。

ところで、あなたはレンタカー契約書の裏面に書き込まれた、虫眼鏡サイズの細かい文字の文章を必死に読んだ経験があるだろうか? その夜のわたしはそうだった。レンタカー会社に事故を報告すると、彼らは、わたしの契約には賠償責任保険はついていなかった、と説明したのだ。“Full coverage”といって借りたじゃないか! と抗議しても、申し訳ないが契約書を読め、という態度だ。

そして、わたしはそこで、リスク管理の最初の原則を学んだのだ。

教訓1:外国で取り引きするときは、契約書を必ず読め

知らなかったのだが、じつはその当時、保険会社とテキサス州政府は係争状態にあった。料率が高すぎると言う批判に対して保険会社たちが耳を貸さないため、州政府は半年間、レンタカーの自賠責保険の引き受けを停止させたのだ。そんなこととは露知らぬ外国人のわたしは、その保険の空白状態に、ものの見事に落ち込んでしまったわけだった。

所持するコーポレート・カードの旅行者保険も、自動車賠償責任だけは除外されていた。アメリカの賠償責任は天井知らずだから、そんなものを組み入れるほど保険会社は甘くない。そもそも損害保険は見え透いた危険に対してのみ可能なのであって、大地震とか、戦争とか、異常気象とか、本当に大きなリスクに対しては引き受けてくれないのだ。

教訓2:保険会社は、あなたの必要とするときに、あなたを守ってくれるとは限らない

このときは、勤務先の米国子会社がかけていた保険で、からくも救われた。物損で約20万円の示談額が提示されたという報告を受け、わたしは安心してその事件を忘れることができた。

ところが、この事件にはまだ続きがあった。ちょうどその2年後、横浜の自宅に、テキサスの裁判所から分厚い封書が郵便で届いた。開けてみると、YOU HAVE BEEN SUEDと、わざわざ大文字で書かれている。書状は、わたしに対して、事故の後遺症による心身両面の損害と収入低下を保証せよという、100万ドル(約1億円)の賠償請求の訴状であった。事故の相手方は、保険会社の提示額を不満とし、時効になる2年間が切れる直前に、わたしと勤務先米国子会社を相手取って、訴訟を起こしてきたのだ。

それからの数ヶ月間は、まさに悪夢だった。米国側で弁護士を捜さねばならない。裁判所からは召喚状が来ている。出頭するかわりに、英文で宣誓供述書を作成し、日本の公証人にサインをもらう必要がある。しかも外国の裁判で有効な供述書とするためには、驚いたことに、霞ヶ関の法務省まで判子を、単なる判子を、押してもらいに行かなければならないのだ(わたしが釧路や熊本の住人だったらどうするのか?)。いや、そもそも、夕食に立ち寄ったときの事故は、業務上の行為として、会社は連帯で責任を負ってくれるのだろうか・・

残念ながら、米国は訴訟天国である。たしかに、事故を起こしたすぐ後に、米国子会社の人に相手方の名前を告げると、“それに似た名前のうるさい弁護士を聞いたことがあるけれど、まさか親戚じゃないだろうねえ、もしそうなら、かなり面倒なことになる”と言っていたのだ。しかも、彼らは金のとれそうなところを狙い撃ちにすることを心得ている。

この訴訟にしても、わたしの勤務先子会社と連名にしたのは、実はその方が賠償額をたくさん払う能力があるからなのだ。本当に責任があるかどうかは問題ではなく、事象のほんの一端でも関わっていれば、連名で訴えるに限る。これを、米国では、Deep Pocket Theoryという。


教訓3:大きな組織に“よらば大樹の陰”で寄り添っているせいで、逆に狙われることがある

この裁判は、結局1年半かかって終結した。相手側は決して和解に応じようとはしなかった。しかし、事故が不調の原因であるという医学的証拠も、相手は提出できなかった。判決は百数十万円の賠償である。この金額は、弁護士費用ともども、子会社の保険がカバーした。

米国には、他人を恐喝することが金持ちになる早道だ、と考えている人々が一定数いる。全部の米国人がそうだ、などと言うつもりはむろんない。わたしだって、信頼すべき、立派な米国の友人が、十指に余るほどいる(一番の親友は、退役海軍大佐だ)。

しかし、この事件を境に、わたしの米国観は変わってしまった。いや、たぶん、それ以前から少しずつ変わりはじめていたのだろう。わたしはかつてほど単純に、アメリカのオープンで実利的で率直なところが好きになれなくなってきた。そのかわり、強欲で、理不尽で、傲慢で、相手が弱いと見れば徹底的にエゴを通そうとする姿ばかりが目に付くようになった。そして、世の中は、ラフで、殺伐とした、リスクの多い場所として自分の前に広がっているのだった。

この話は、ここで終わりにしてもいい。リスクに対処することが下手な1エンジニアの、繰り言めいた教訓話である。

しかし、もう一つだけ教訓めいた話を、蛇足ながらつけ加えたい。先月の18日、まだ震災と原発事故の余波の中で日本があえいでいたとき、外電で一つの奇妙なニュースが入ってきたのに気づいた人はいただろうか。北アフリカの産油国をめぐって国連安保理決議が通り、米国を含む6カ国の連合軍が空爆をはじめるというのである。でも奇妙だったのは、空爆の開始ではない。その日を境目に、ニューヨーク市場の株価が上昇をはじめたことであった。

ちょうどこの日から8年前、2003年の3月18日は、中東の産油国イラクをめぐる国連安保理の交渉が決裂して、世界がはっきり戦争に踏み出した日だった。このときも実は、米国をはじめ諸国の株式市場が上がったのだった。これは何を意味するのだろうか? たぶん米国の資本市場の投資家たちは、不確実な状況にいて待つよりも、リスク・ポジションが明確になる異常事態の方が、より有難いと考えたのだ。

だから、険呑な小さき世界に住むわれわれ庶民にとって、リスク・マネジメントに対する最大の教訓は、こうなるのかもしれない:

教訓4:世界の投資家たちは不確実な平和よりも、戦争による賭けを好む。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-07 22:41 | リスク・マネジメント | Comments(1)

安全第一とはどういう意味か

ある時、友人がやってきて「車を2,3日貸してくれないか」という。小規模な引越をしたいので車が入り用なのだという。レンタカー代ほどではないが借り賃も払うから、といって謝礼を菓子折と一緒に置いていった。

さて、数日たって友人が返しに来た車を見て驚いた。フェンダーから左のボディにかけてへこみが入り、サイドミラーも折れている。どうして、と聞いたら「左折時に不注意で障害物に引っかけてしまって」という。そして、「すまんすまん。でも、車両保険には入っているんだろ? たいしたことはないから、すぐ直るよ。事故は一定の確率で起きるもんなんだ。」・・そんな風に友人が言ったら、あなたなら、何と答えるだろう?

「いや、車なんか大丈夫。それより君に怪我がなければ、何よりですよ。」こう答えられるほど、寛大な度量はわたしには、無い。たぶん頭に来て、「馬鹿野郎! 人の車を事故っておいて、その言いぐさは何だ。確かに保険にゃ入ってるが、修理の間は使えなくなるじゃないか。お前の顔なんて二度と見たくもない!」と叫ぶだろう。そんな気がする。かりにわたしがビジネスでレンタカー屋を営んでいても、修理期間中の機会損失は保険では埋め切れない。面と向かって怒鳴りはしないだろうが、態度のわるい客には二度と貸したくないと思うだろう。

逆に、友人が使い終わって返しにきた時、きれいに洗車して見違えるようになった上、ガソリンは満タン返し、さらにオイルまで交換していてくれていたらどうだろう。無論、実際には走行距離の分だけは使って減耗している理屈だが、それでも、貸した時より立派になって返されたら、わるい気はしない。気持ちの良い友人だから、また何かあったら手伝ってやろうと思うはずだ。借りたものは、傷つけずにきれいに返す--これは社会の常識である。前よりもよくなった状態で返す、というなら信用すべき立派な態度であろう。

ところで、話はやや飛ぶが、皆さんは「度数率」という言葉をご存じだろうか? 労働災害統計の基本的な尺度で、労働時間100万時間あたりの事故災害発生率である。一人の年間労働時間はだいたい2,000時間程度だから、いいかえると500人規模の事業所で年間何人ケガをするか、を示す(作業が原因の病気も含む)。2009年度は製造業で3.8、運輸業で5.4くらいだ(「労働災害動向調査」による)。赤チンつければ済む不休災害が3割程度入っているから、職場を離れざるを得ない事故はもう少し減る。なお、海外ではOSHA方式の度数率を使い、こちらは20万時間あたりの傷病発生数で測る。

労働安全・衛生・環境の保全をあわせて、英語でHSE (Health, Safety & Environment) Managementと呼ぶ。会社のマネジメントの程度は、このHSEのレベルを見ると、ある程度わかる。わたしが生まれて初めて海外のプラント建設現場に赴任した時、最初に教えられたのが、このHSEであった。安全教育を受けないと、建設サイトには一歩も踏み入れられない(現場用の靴も支給されない)。毎朝の定例ミーティングは、Safetyの報告からはじまる。"Safety first"とはそういう意味だと、初めて学んだ。わたしが現場の道路を、暑くて防護眼鏡を外したまま歩いてると、客先(米国系石油メジャー)の年配のエンジニアから、「メガネをかけて下さい! オネガイシマス!」と呼び止められ注意された。ステップや階段に一歩でも足をかけて上がる時は、安全帯(フック付きのベルト)を体に掛けていなければいけない。そうした厳しいルールが、うるさいほど徹底されていた。

それはなぜか。わたしが建設部の先輩から聞いた説明は、こうだ。「実際の力仕事をしている職人やワーカーは、貧しい地方の村々からろくな教育も受けずに出てきて、家族を養うためにここで働いている。働けなくなったら、その日から家族皆が困る。だから一人でも怪我をせずに、現場から無事帰してやることが俺達のつとめだ。できれば、少しでもスキルを上げて帰してやれれば、もっといい。」そしてこうも言った。「度数率は目標じゃない、結果だ。誰も怪我させないことが、目標なんだ。」

ちなみに、下請け会社が事故を起こしたら、その記録は発注元の度数率に入るか、入らないか? 答えは「入る」である。なぜなら現場全体の安全管理責任は、発注元に残るからである。「権限や作業は委譲できるが、責任は委譲できない」が原則だからだ。わたしの勤務先はホワイトカラーのエンジニアばかりで労働者は一人もいないが、度数率統計があるのはそのためである。

そこで、冒頭のたとえ話を思い出してほしい。友人にとって、借りた車は「リソース」であった。リソースの定義は、すでに何回か書いたが、もう一度繰り返す。『作業に必要で、作業中は占有され、終わったら解放される』のがリソースであり、人や道具や設備機械や作業スペースなどを指す。使い終わったりソースは、返さなければならない。つまり、リソースとは借り物なのである。他部署から借りるか、他社から有償で借りるか、社会から無償で借りるか、いろいろな形態はありうるが、とにかく返さなければならない。

そして、返す時には無傷で返す、のが原則である。だから、Human Resourceとして動員した労働者は、全員を無傷でかえさなければならない。これが『安全第一』の本来の意味なのだ。労働者だけでなく、建設機械であれ、工具であれ、勝手に傷つけてはいけない。作業にスペースを使ったら、返す時には“立つ鳥跡を濁さず”で、環境を汚さずに戻す。借り賃や保険料を払っているから良い、というものではない。駐車場だって、借りたら代金を払うではないか。限りある資源を借りたら有償なのは当たり前だ。また保険は、損害のお金は払ってくれるが、失われた時間や能力は補填してくれない。

では自社の社員だったら怪我しても良いのか? とんでもない。自分の部下は自分の持ち物ではない。その証拠に、会社はわたしの同意を得ずに勝手に部下をつけ加えたり奪ったりするではないか。部下は会社から借りているのである。だから、自分の仕事のために部下の安全や健康を損なうことは、許されない。

そういう許されない事をし続けたら、どうなるか。答えは簡単だ。わたしは「信用を失う」のである(冒頭の友人の例のように)。信用はいったん失ったら、まず戻ってこない。そして信用できない人間には、たとえ金を払うと本人が言っても、だれも何も貸さなくなるだろう。リソースが無ければ、仕事ができなくなる。これが『安全第一』の原則を理解しなかった帰結である。

安全第一とは、借りたリソースは可能な限り無傷で返せ、という意味である。それなのに、“我が身の安全が第一”といった逆立ちの理解が、今の世間では通用しすぎているように思う。わたしはこうした態度を「安全第一主義」と呼んで、区別するようにしている。安全第一のまともな理解は、大学では教えられない。だから今の状況は、企業内教育(の不在)が招いた結果なのだろう。

この話を、どこかTVで報道される遠い所の工事現場の話だと思わないでほしい。度数率統計の対象にはなっていないかもしれないが、オフィスだろうがどこだろうが、原則は同じである。わたし達はいつの間にか、“お金で何でも解決できる”という考え方に染まりかけている。しかし、お金が活きて使えるのは、自分に社会的な信用がある限りにおいてである。そしてその信用とは、「自分は何を借りているか」に自覚的な人だけが保てるのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-03 22:24 | リスク・マネジメント | Comments(0)