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戦略的プロジェクトとリスク・プレミアムの原理

プロジェクトと戦略という言葉は、切っても切れない関係にある。戦略が何を意味するかについては諸説あるが、少なくとも戦略的に何事かを行うことは、同じ業務をルーチン的に繰り返すのとは違った側面を持っているはずである。つまり、特定の目的を持つ、時限的な営為なのだ。ということは、戦略がプロジェクトを生み出すケースは非常に多いわけだ。

ところで、プロジェクトとは失敗のリスクをともなう事業である。このことは、すでに何回も書いた。そして、戦略とは仮説に基づく一種の賭けであって、裏目に出る可能性もあることも前回書いた(「戦略シンドロームと改善病」参照)。では企業が、戦略的なプロジェクトに対して投資する資金は、どのように保証するのか? いいかえるなら、企業の投資行動に対する「保証料」(リスクのコスト)はいくらが妥当なのか。タダで賭けはできない。虎の子を賭けに使うなら、それに伴う見えない費用がある。今回は、それについて簡単に考えてみたい。

--ある日、小学生の息子がやってきて、「お父さん、お金を1,000円、貸してくれない?」ときく。何に使うかを質問してみると、何やらゲームキャラクターのカードを買うとクジを引けて、珍しい景品がもらえるのだという。景品が当たったら、それを友達に2,000円で売る約束ができているらしい。つまり、1,000円は息子にとって一種の投資なのである。うまくすれば、2,000円の収入を得るという寸法だ。

ただし、必ずクジが当たるとは限らない。ネットで調べてみると、どうやら当たりの比率を7割程度に設定しているらしい。わたしは息子の投資に、1,000円を貸すべきだろうか?

この息子の投資事業が失敗するリスク確率は30%である。そこで、事業の期待値を計算してみると、
 (1-0.3) x 2000 - 1000 = 400 (円)   ・・・(1)
とプラスになる。だから、投資の価値はありそうである。

しかし、ここでふと、息子に対して、「お金を借りると利子がかかる」ということを教えてもいいと思いつく。それでは、自分はいったいいくらの利子を息子に課すべきであろうか。もともとわたしの自己資金なのだから利子ゼロでも良いのだが、ちょっと考えてみよう。

かりに利子率をRとしてみる。息子がクジにあたったら、得た収入から、貸した元金の他にさらに1,000・R円を返してもらえる。その確率は70%である。一方、息子に1,000円を貸しても、クジが外れたら、息子は他に蓄えがあるわけではないから、借りを返済できなくなる。つまり、1,000円の融資額を失う場合の期待値は、失敗のリスク確率30%を乗じて、-300円である。

すると、貸し手としてのわたし自身のキャッシュフロー期待値が、マイナスにならないためには、
 (0.7)・1000・R - 300 >= 0
でなければならないはずだ。すなわち、利子率Rは
 R >= 300/700 = 0.429    ・・・(2)
これが、わたしが損をしないための条件である。結構高い。

つまり、わたしは(いや、たとえ誰であろうと)息子の事業にお金を貸す場合、1,000・R = 429 円以上の利子をつけないと、損をすることが分かる。その理由は、小学生の息子に担保能力がないからである。

さて、今度は息子の側に立ってみよう。この事業投資の期待値は400円だ。だが、利子を429円も課されてはマイナスになってしまう。したがって、残念ながらこのプロジェクトは成立しないのである。

一般に、失敗すれば全額を失うような投資額Cに対して、利子率Rを決める場合、プロジェクト失敗のリスク確率をrとすると、
 (1-r) RC >= rC   ・・・(3)
が成り立たなければ、その費用を融資するものは居ないだろう。このとき、プロジェクトの期待値は
 (1-r)S - (1+R)C >= 0    ・・・(4)
となっている必要がある。式(3)より、最低利子率Rは、
 R = r/(1-r)    ・・・(5)
という、きわめて単純な基準が得られる。たとえば、リスク確率r = 20%なら、最低利子率Rは 0.2/(1-0.2) = 25%になる。rが10%なら、Rは11.1%である。

なお、式(5)は投資額Cも収入Sも関係がなく、リスク確率rのみで決まることに注意してほしい。おまけに、利子とはいうものの、時間の項は出てこない。このプロジェクトが完了して収入を得るまでの時間は1日かもしれないし1年かもしれない。だが、それが成功裏に終わったら、元本Cを返済するのみならず、RCの金額を貸し手に払うのである。なぜなら、貸し手はその資金運用の自由度を下げて「失敗のリスクにさらしてくれた」からである。

経済学によると、利子とはマクロな資金市場における需給バランスと金融政策によって決まることになっている。そして、式(5)で現される項は、普通“リスク・プレミアム”と呼ばれる。お金を貸す場合は、通常の金利をベースにして、そこにリスク・プレミアムを上乗せして貸せ、と言われている。

しかしわたしは、実は式(5)の項こそが「利子」というものの本来的な起源ではないかと考えている。利子とは、失敗のリスク確率によって定まるのである。そこでこれを、これを「無担保投資の利子率の原理」と呼ぶことにしたい。

ご存じの通り、近世までのキリスト教、そしてイスラム教では現代でも、利息を取ることを禁じている。なぜなら、「お金がお金を生み出すのは自然法に反し、不正だから」という訳である。こうした宗教的テーゼには同調しないとしても、『利息』というものに対してなんとなく漠然とした違和感を感じている人は、現代でも多いのではないか。実はわたしも、長らくそう感じていた。

しかし、上記の(5)式に気がついたとき、目の前の霧が少し晴れたような気がした。別に金貸しの肩を持って、その仲間に入ろうという訳ではない。ただ、プロジェクトにリスクが不可避的に付随することは事実だ。そして、貸し手がそのリスクに対して中立であろうとするならば、最小限の利子が必要となるのは理論的必然だからである。

では、ある部門が戦略的な賭けを行って投資する場合の「貸し手」とは誰か。それはもちろんその企業自体である。そして、企業のトップ自身が投資を決める場合の「貸し手」とは、株主である。したがって、投資を行う部門は、直接の利得以外に(5)式に定められる金額を、企業・株主に対して負っていると考えられる。

なお、もし実行主体に担保がある、あるいは、プロジェクトの失敗時にも残存価値がある場合は、条件式(5)は少し緩和される。失敗時の担保価値(残存価値)の投資額Cに対する比率をαとすると、
 (1-r)RC >= rC - αC の条件より、
 R = r(1-α)/(1-r)   ・・・(6)
となる。たとえば、α=0.9 (担保価値は貸し金の90%)だったら、Rは式(5)の値の1/10になる。だから、住宅ローンのように十全な担保を設定できる貸し手は、あまりリスク・プレミアムRの評価に頭を使う必要がない。同じように、従来の日本の銀行融資は、もっぱら担保主義であった。だから、市場金利をベースに商談を決められたし、だからこそリスク評価の能力がさっぱり向上しなかったのだとも言えよう。

もっとも、上記の話を、ある一流企業の技術部門の人たちに説明したら、「そもそも失敗中断するかもしれない事業に会社が投資するなんてあり得ない」という反論があった。なるほど、そうかもしれない。しかし、その会社でも、結果がゼロになるかもしれない「賭け」に似た投資的行動が定常的に行われている部門が、二つあるはずなのだ。

その一つは、「研究開発」である。研究開発は、未知なる結果を探求して行われる活動だ。必ず成功するとは誰もわからない。

いや、かりにその企業にR&D部門が無いとしても、ほぼすべての会社に、最低もう一つ、定常的に失敗のリスクをともなう営為を繰り返す部署がある。それは「営業」である。営業はさまざまな案件を追うのが仕事だが、いつでも競争に勝って受注できるとは限らない。では、営業におけるコストとリスクのバランスは、どう考えるべきなのか? これについては、項をあらためて、また書こう。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-31 22:03 | リスク・マネジメント | Comments(0)

「ITって、何?」 第5問 全角と半角は何がちがうの?

<< 文字コードと情報量の話 >>

「でもちょっと待ってよ。選択肢がデータの最小単位だとかおっしゃるけれど、請求書の金額は何かの選択じゃあないわ。好きにとれるもの。」

--もしそれが3桁の数字なら、ゼロから999までの千種類の選択肢から一つを選んだものだ。

「そんなの答えになってないわよ! 請求書の桁数なんて実際は上限はないもの。あったらうちの家計は大助かりだけれど。」

--たしかに上限はないさ。だけど、それが金額の数字である限り、数字が何個か並んだものだろ? 万は5桁、億なら9桁、兆なら13桁だけど、無限に数が並ぶってことはないわな。

「それで?」

--それが答えさ。金額の数は、桁ごとに区切っていくと、結局0から9まで10個ある数字の選択肢のうちどれかを選んだものが並んでいるわけだ。数値データはだから選択肢の並びなのさ。ただし実際にはそんな一桁ずつ区切ったりせずに、7桁とか14桁でのまとまりで二進数に変換してしまうけれどね。いずれにしても数値はつねに定型化されたデータの最小要素だといえる。

「二進数・・とうとう出たわね、二進数!」

--まあ二進数の話なんかしたくなかったんだけどねえ、行きがかり上・・。二進数表現なんて計算機のまるきり内部の話で、それこそITの利用者にとっては関係ないことさ。ガソリンエンジンのピストンの構造が、車のドライバーにほとんど関係ないように。
 でもまあ、もののついでだから説明すると、ふつう計算機は二進数を8桁ずつ区切って処理する。これを1バイトというんだ。1バイトは2の8乗で256通りの選択肢を意味する。
 
「何バイトとかって、文字の数のことじゃなかったの? てっきりそうかと思ってた。」

--文字の数といってもいい。どうしてかというと、アルファベット1文字をあらわすのに1バイトを必要とするからだ。文字は256通りの選択肢の一つなんだ。

「アルファベットは26文字しかないわよ、英語の場合。一桁ちがうんじゃないの?」

--でも大文字と小文字がある。これで52種類。それに数字が0から9まで。ほかにカンマやピリオド、セミコロンや$マーク等々が必要だし、それにタブだとか改行だとか(タイプライターにもあったけど)、それ自体は文字にはならない位置決めのための「制御記号」ってのも含めると100種類以上になる。

「でも256にはずいぶん間があるわ。」

--そうだね。それで、空いているすき間に、欧米系だと仏語のアクサンやドイツ語のウムラウトなんかを埋め込んでいる。日本だとそのスペースに半角のカタカナを割り当てていることが多い。

「ひらがなは?」

--コンピュータの世界には半角のひらがなは原則として存在しない。実はひらがなまで入れると256種類ではおさまらなくなっちゃうんだ。

「ねえそうだ、前から聞こうと思っていたんだけれど、ワープロにはどうして半角と全角ってあるの? あれって横幅以外に何かちがうの?」

--とってもいい質問だ。あれは漢字のせいなんだよ。漢字はとても256種類の選択肢ではおさまらない。そこで日本人は1バイトの倍、つまり二進数で16桁のまとまりで一つの文字をあらわすという選択肢のセットを考えた。

「256の倍って言うと、えーと、512種類? それじゃ入らないわよ。何千もあるんだから。」

--いや、256種類と256種類の組合せだから、256×256で6万5千以上の選択肢になる。これだったら漢字もひらがなも英数字も余裕で全部はいる。
 それでね、いわゆる全角の文字というのは、この6万4千種類のメニューから選んだ文字を指すんだ。一方、半角の文字というのは、256種類のメニューから選んだ文字ということになる。こういう文字の選択メニューのことを「文字セット」とよぶ。
 半角文字は1バイトであらわすことができるけれど、全角の文字は一つの文字をあらわすのに2バイト必要になる。だからこういう文字セットのことを「2バイト文字」といったりする。日本語だとか中国語だとか韓国語なんかは文字数が多いから、言葉を表すのに2バイト文字を使う。英語とかヨーロッパ系の言葉はほとんど1バイト文字ですむ。
 
「でも、それがどうして字の大きさと関係あるの?」

--うーん、それはねえ、ある意味じゃ偶然なんだ。コンピュータは米国で発達した。横1行にアルファベット80文字という画面をずっと使っていた。アルファベットは縦長の形をしている。ところで漢字はわりと真四角だろう? そこで、漢字の大きさをアルファベットの2文字分にすると、だいたい釣り合いがとれた。こうすると1行が40文字になって、これまたなぜか原稿用紙の升目の数の倍だからちょうどきりがいい。
 そこで、漢字やひらがなの文字の大きさをアルファベットの2文字分にして、これを全角と呼び、アルファベットや数字を半角と呼ぶことが定着した。

「ふんふん。」

--もっとも、初期のワープロとちがい、現代のワープロは文字フォントの大きさを好きに変えられるから、あまり全角とか半角とか言う意味はなくなってきている。でも習慣的に1バイト文字と2バイト文字を半角・全角というのが続いているんだ。

「ふーん、じゃあバイト数と文字の数はやっぱり関係があるのね。でも、それで少し分かったわ。世の中にはアルファベット用の、えーと、『文字セット』だったっけ? それと、漢字用の文字セットがあって、それで世界中が通信できるのね。」

--えーとね、その理解は7割正解だけれど3割はちがう。じつはアルファベットの文字セットは国ごとに少しずついろいろとちがう。漢字なんてもっと全然ちがう。それどころか日本には同じ漢字仮名まじりの文字のためにJISとシフトJISとEUCという3種類の全然ちがう文字セットが並立していた。

「似たような文字のメニューが何種類もあるの? ばっかじゃない?」

--人類は馬鹿なんだよ。実際には国ごとに違うどころかコンピュータ・メーカごとに違ったり、それを標準化しようとする動きがまた複数あったりした。それを解消するために、ユニコードと呼ばれる万国共通の巨大な単一文字セットを、主要IT企業が中心になって定め、インターネットとWebの普及と歩調を合わせる形で広がってきた。でも、まだ文字領域が足りないだのバージョン間で互換性がないだの、悩みは続いている。まあこの世界は未だにバベルの塔崩壊の余震の中にいるようなものだね。

「じゃあもしかして、文字化けってのも・・」

--ご明察。文字のコード体系、つまり選択肢のメニュー構成の違いが起こすトラブルなのさ。

(つづく)
by Tomoichi_Sato | 2010-10-27 23:06 | ITって、何? | Comments(0)

戦略シンドロームと改善病

もう何年も前になるが、「生産革新フォーラム」で診断士仲間と長野まで工場見学に行ったことがある。自動車関係の電装部品を作っている会社だった。そこではトヨタ系の指導を受けてジャスト・イン・タイム生産を心がけ、さまざまのカイゼンと工夫を製造現場でしていた。U字型レイアウトのセル生産ラインでは、女性工員が混流・一個流しの部品をてきぱきさばいていて、手際の良さに驚かされるとともに、歩幅や部品を取る手の位置まで最適化した機械配置に感心した。

その会社では、納入先からの指図はカンバンで受け取り、そして部品購入先への指示もまたカンバンで行う。工場ではカンバンを受け取ったら、それを指示棚に「差立て」する。棚は時間帯別になっていて、職長が順番にそれを実行していく。このとき、あえて同種の部品のカンバンは時間帯をばらして置いていく。4枚あったら、9時・11時・14時・16時、という風に置くのである。トヨタ生産方式の基本である『平準化』のためだ。各現場もシングル段取りを徹底しており、異なる種類の部品が来てもすぐに対応できるようになっている。「ウチの会社には、スケジューリングをして“自分は仕事をしました”などと勘違いする人間はいません!」と、現場の責任者は胸を張った。スケジューリングなどという間接作業を無用にすること。それが目標とする姿なのだ。

感心する気持ちで帰路についたが、帰る列車の中で診断士仲間と議論になった。実は、その会社は2年続けて赤字だったのだ。それを私は調べずに、知らぬままうっかり見学に来てしまった。工場を見学する前に、その企業の業態・概要を知り、財務諸表をあらかじめ調べるのは、中小企業診断士としてある意味、基本である。それを怠っていたわけだ。仲間の議論は当然ながら、「なぜこの会社は赤字なのか」であった。資産を売却し、希望退職まで募って、それでも損益計算書は好転していなかった。

発注元からの単価切り下げがきつすぎるのか、製品開発に遅れたのか、間接部門が多すぎるのか、はたまた本業以外で失敗したのか--議論は尽きなかった。いずれにせよ、経営上の戦略に問題があったこと間違いない。「現場改善だけでは、戦略の間違いを修正できない」、そんな意見の声が強かった。こうした事情は、現場の壁に掛かった種々の改善スローガンだけ見ていても、分からないのだった。

その時わたしはふと、自分がずっと以前、東京駅で見た光景を思い出していた。'90年代の前半だったろうか、まだバブル経済の余熱が世の中に少しは漂っていた時代だ。東京駅丸の内出口の近くに、小さな書店があった。まだ駆け出しだったわたしは、その書店に立ち寄ろうとして、入口近くで老人とビジネスマンが会話しているのを耳にした。人の良さそうな老人は、田舎から出てきた風情だった。一方、相手は30代半ば過ぎだろうか、小太りだが紺色のスーツを着て、いかにも丸の内のビジネスマンらしかった。

その老人は、書店でなにか通好みの時代小説のような本を探したかったらしい。だが、あいにく見つからなかった。そんな本がありそうな書店ではないのは、わたしにも分かった。そのビジネスマンは老人に向かって、「そんな本はこの本屋にはありませんよ。」と言っていたのだ。さらに彼は、奇妙に甲高い声で、追加説明した。「もし私がこの書店の経営者なら、そんな戦略は立てませんよ。ここはビジネス街だから、企業人向けの本を集中して置く戦略を立てます。そして、とくに・・・」説明を受けていた老人は、すまなそうに、でもありがた迷惑な顔つきで、そのご高説を拝聴している風だった。

バブル時代の東京のビジネスマンやOLは、滑稽だった。わたしも似たようなものだったから、良く覚えている。ただ、見知らぬ老人に向かって、本屋の店頭で声高に『戦略』を語る姿は、あまりに奇妙だったので印象に強く残った。たかだか本屋の仕入れについて、なぜこの人は、戦略論のイロハみたいな事を叫んでいるのだろうか。会社で自分の優秀さをアピールし損なったのだろうか。あるいは今朝出がけに奥さんと喧嘩でもしたのだろうか。わたしはその『戦略』という言葉にまつわる滑稽さを、つくづく感じた。

というのも、その少し前、わたしは新規事業の展開に関するメモを書いて上司に提出したところだったからだ。その上司は、新入社員のわたしに仕事を教えてくれた厳しい人だった(「わたしが新入社員の時に学んだこと」参照)。わたしの企画書を見て、上司は「“戦略”なんて言葉は大げさだから、全部取れ。かわりに、必要な箇所だけ、事業展開の“シナリオ”と書け」と言われたのだった。(素人ほど戦略を語りたがり、プランに酔う)と、その目は語っていた。わたしは少し不満だった。しかし、本屋の店頭でのやりとりを聞いた後は、もう戦略という言葉を一切使わなくなった。たしかに、大げさなのだ。

バブル時代は、『戦略』という言葉もバブル現象を起こした時代だった。あちこちの会議室や喫茶店やバーで皆が戦略を語った。戦略の名の下に海外の不動産やら企業やらを買収しまくった時期だ。たかだか買い物の、どこが戦略なのか。金額が大きくなっただけで、なぜ戦略と言えるのか。それだったら主婦だって八百屋で大根購入の戦略があることになる。戦略と言うからには、買ったものを活かして使い切ることを言うべきではないのか。

そもそも戦略とは、戦争の用語である。戦争用語を平気でビジネスで使うようになったのは、古いことではあるまい。例によって米国で、'60年代にアンゾフが戦略論を語り始めたのを嚆矢とし、とくに'85年のポーターの「競争優位の戦略」で火がついた。だがポーターは差別化戦略等、その具体的内容については記したが、そもそも“戦略とは何か”については定義しなかった。実際問題、戦略の定義はかなりいろいろあって(たとえばWikipediaを見よ)、理解しようと思っても頭がくらくらしてくる。

にもかかわらず、わたしにも解ったことが一つだけある。それは、「すべての局面で同じように勝とうと努力するのは、戦略が無い状態である」ということだ。戦略がある人の行動は、必ず、一見損をするように見える部分がある。最初は損をするように見えて先々で得を取るとか、ある方向は捨てて別の得意とする方向だけに集中するとか、どこか深い考えを感じさせるのである。個別の勝敗で、一喜一憂したりしない。無論、結果が当たるかどうかは、その人の戦略実行力と、状況の偶然的な巡り合わせによる。損だけして得が取れないリスクもある。つまり、戦略というのは一種の賭けなのだ。

経営戦略というのは、企業におけるハイレベルな賭けであり、そこには勝機に関する仮説がある。その仮説を、組織構成員の皆が共有しているかどうかが鍵である。一貫性のある、まともな組織はそれができる。普通の組織では、それができない。部門単位で、あるいは個人個人で、ばらばらな仮説の元に行動してしまう。その結果、エントロピーばかりが大きくなって、方向性のある仕事ができない。

では改善とは何か? 御本家トヨタの人に聞いてみればわかるが、カイゼンというのは会社に「方針管理」というものがあって、初めて機能するのである。方針がないのに、カイゼンはない。なぜなら、どちらの方向に走ればいいのか判らない時には、進歩も改善も測りようがないからである。その「方針」とはつまり、ハイレベルな戦略に他ならない。そしてカイゼンは、方針実行における問題解決の手法なのである。

というわけで、話は主題に戻る。改善では戦略の間違いを修正できない。まして戦略の不在を補うこともできない。もちろん、改善なしには戦略の実行もおぼつくまい。

にもかかわらず、私たちの社会では、戦略と改善の両者は、統合されずにバラバラの状態にある。本社の企画マン達は戦略ばかりを論じ、現場の作業者達は改善ばかりを実施する。本社と現場の距離は開くばかりである。御本家トヨタでさえ、「作りすぎのムダ」は現場ポスターにいやというほど書いてあるのに、米国に無駄な工場を作りすぎて、リーマンショックで惨めな転落を味わった。戦略ばかりが肥大化しすぎていたらしい。

物事をマクロな視点とミクロな視点で両方見るのは、かくも難しい。だからといって、両者が離ればなれで良いはずはない。戦略ばかり語って実行できぬ「戦略シンドローム」、そして改善ばかり熱中してマクロを見ぬ「改善病」は、私たちの社会の業病だ。ミクロからマクロまで自在にスケールアップできる視座の能力、これこそが今、最も求められているものなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-24 23:10 | ビジネス | Comments(0)

「ITって、何?」 質問4 定型と非定型はどこがちがうの?

<< 「セミIT」と選択肢の話 >>

「ねえ、そうすると、情報技術がいま説明してくれたようなものなら、利用者はもうデータの事は気にかけなくてもいいわけね?」

--とんでもない。その逆さ。
 もちろん、データの事は気にかけずともITを利用する事はできる。たとえば女子高生の携帯メールみたいにね。一対一の情報糸電話だったらそれでも結構。
 でもね、もしも情報技術をもっと上の次元で、うまく利用したければ、自分の情報をいかに機械の扱いやすい定型化した形式に持ち込めるか、が鍵となるわけだ。そしてまた、データから意味のある情報をくみ取るスキルがもう一つの鍵となる。
 人間は情報をデータの形にして機械に処理させ、機械のもつデータから情報を取り出す。このサイクルをうまくつくることこそ、IT利用の最大の勘どころなんだ。

「なんだかまだ話が抽象的でよく分からないわね。“自分の情報をいかに機械の扱いやすい定型化した形式に持ち込めるか”なんておっしゃるけど、それって具体的にはどういうこと。手書きの原稿はやめて全部キーボードから入力しろ、ってこと?」

--そうじゃないんだ。それって、ある意味では典型的な勘違いで、うちの会社の幹部なんかもよくそんなことを言ってるけど、それはちがう。
 データってのは、計算機の中に格納されているだけじゃダメなんだ。効率よく探し出せなければデータとはいえない。パソコンの中に、ワープロのファイルが山ほどあちこちのディレクトリの下にちらばっているけれど、いちいち中身を開けてみないと何がなんだか分からなくなってしまったものがほとんど、なんて状態じゃ、それはデータの用をなさない。こういうのは、ぼくは「セミIT」とでも呼ぶべきだと思う。

「セミIT?」

--データに関する理解が足りないまま、情報技術をほんの表層だけつかっている状態さ。本当にデータの力を生かしきる使い方をしていない。同じお金を計算機にかけながら、実際にはその半分の価値も引き出していない「セミIT」型利用者が多すぎる。

「じゃその、セミITから、フルITだか本格派ITだかなんだかのユーザに進化するにはどうすればいいの? せっかく機械が人間に歩みよって自由な情報を扱ってくれるようになったのに、ユーザの方から不自由なデータをさわれ、っていうわけ?」

--いや、それは少しちがう。自由と不自由、というとどうも価値判断めいてしまう。
 ぼくが言いたいのは、データは定型だが情報は非定型だ、ということ。そして情報は、非定型なる人間の世界に属している。人間さまはひじょうにフレキシブルだからね。その非定型な情報をいかに形式化するかがITのポイントなんだ。定型と非定型の区別はIT理解の中核をなす。この違いは分かるね?

「そんなの知ってるわ。あなたの毎朝の髪型は不定型で、私の髪型が定型。まったく頭ぐらいきちんととかしてから出社してほしいわ。」

--あのね、漫才やってるんじゃないんだよ。ぼくの時間単価は外販すると高いんだから。それを君だけのために使ってあげてるんだ。

「それはまた失礼しましたわ、先生。後で請求書とかくるんじゃないでしょうね?」

--もしお支払いいただけるんでしたら、請求させていただくのはやぶさかじゃありませんが。
 でもね、たとえば請求書一つを例にとってみても、手書きの請求伝票で送るのと、ワープロの手紙で「二百万円おしはらいください」と書いて送るのと、どっちがIT化に近いと思う?

「それはもちろんワープロの方でしょう?」

--そう思うでしょ。ところがちがう。ぼくらIT屋の目から見ると、手書きの請求伝票の方がずっとコンピュータのデータに持ち込みやすい。なぜなら請求書は形式が完全に決まっているからね。宛先があり、日にちがあり、品目と数量と金額が一行ごとにあって、最後に合計と振込先がある。どこをみればどの項目か迷うことがない。
 しかし、ワープロのファイルを開いてみて、文章(つまりテキスト)の中から「にひゃくまんえん」という数値をつかまえるのは容易じゃない。書く人により、書くたびにいろんなスタイルでまちまちの場所にでてくる可能盛が大だからね。
 つまり、手書き伝票は定型化されているからデータだけれど、ワープロのファイルは非定型だからデータではない。ここがポイントだ。

「罫線があって表になっている、ってこと?」

--いや、そうじゃない。どう説明したらいいのかな。
 たとえばね、請求書が何枚も何枚もあったとしよう。その合計金額を計算しなくちゃならない。手書き伝票ならまとめて順にめくっていって、決まった欄の数字を電卓でたたくだけだ。教えてやれば小学生でもできるね。これが「定型化されている」ことのメリットだ。
 でもワープロのファイルを一つ一つ開けていって、合計の金額を知るためには、中身の文章を一応読んで内容を判断しなければできない。これはかなり高度な知的作業だ。ちょっと小学生には頼みたくない。文章は非定型だからさ。

「ふうん、少し分かってきたわ。高度な知的判断を必要とするようなものを非定型情報というのね。」

--ごく単純で機械的な作業で処理できるようなものを定型的という。もちろんそのためには誰かがはじめにその形式をうまく考えて定義してやる必要はあるよね。しかしその形式化をおろそかにすると、データとしての取扱いの難しい、非定型な情報ばかりが行き交うことになる。

「だからさっきの『セミIT』になっちゃうのね。ふーん。」

--ぼくはセミIT自体が悪いとは思っていない。それは皆が入りやすい玄関みたいなものでね。昔みたいに大型計算機しかなかった時代よりずっと取っつきやすい。でも、なまじセミITを使って“これでITが分かった”と錯覚してしまう人は多いんだ。理解のレベルがそこでとまってしまうから、かえって本当のIT化のブレーキになりやすい。

「ねえ、だったら、仕事がどれくらいセミIT化にとどまってるか、なんて調べると面白いかもね。」

--そうだな、ある組織の『セミIT化度』みたいなのを計るには、そこで電子化されている帳票類がどこまで克明に紙の帳票をまねているかを調べてみるといいかもしれない。

「どうして?」

--セミITな人たちはね、ワープロや表計算なんかのITツールを、もっぱら『清書用の道具』としてとらえる傾向が強い。だから帳票類を電子化するときも、罫線や図形を神業的に駆使して、紙と見た目そっくりにすることに命をかける。その結果、たいていは入力も面倒、データとしての再利用にもひどく不便、てなものになってしまう。それどころか、管理職経由で電子メールで送ればすむものを、わざわざプリントアウトして判子をつくことを強制したりする。こういう病はあちこちではびこっている。
 なにしろ、日本では各人のスキルないし職人芸的判断に任せている部分が大きくて、仕事の流れが定型化していないところが多い。みんなが高度な知的判断をしなけりゃならなくなってしまう訳さ。だからITに乗せるにはけっこう苦労する。
 逆に、たとえばアメリカ社会なんか、人種や階層がかなりはっきり別れていて、単純労働は低賃金労働者にまかせてる。まかせるためには、形式化を徹底し、はっきりとした帳票や仕事の手順をあらかじめ管理者が決めておいて、あとは問答無用で働かせる仕組みになっている。
 
「そうねえ、たしかに力仕事なんてたいてい黒人の人がやってるわね。あれって言っちゃ悪いけれど奴隷制の延長みたいなもんかしら。」

--それは言い過ぎじゃないのかな。だけど、ああいう社会はIT化にのせやすい。仕事が定型化されているからね。
 もちろん日本だって形をきちんと決めて、アルバイトだろうがパートのおばさんだろうが単純労働として処理できるようにしている企業も多いから、人種や文化の問題ではないはずさ。ま、これは余談だけど。

「あら、どうかしら。昔、ウーマン・イズ・ア・ニガー・オヴ・ザ・ワールド、なんて歌がジョン・レノンにたしかあったわよねえ。『女は世界の奴隷か』。あなたの“パートのおばさんでもできる”なんて台詞を聞くとつい思っちゃうわ。」

--う、失言の段はひらにお許しを願うとして・・。
 話をITにもどすと、定型化の究極の姿は選択肢なんだ。
 
「選択肢?」

--うん。複数の選択肢から一つを選ぶ。決められたメニューにある選択肢以外は許されない。これがデータのもっとも単純化された、最小限の要素の形、つまりまあアトム(原子)みたいなものだと思ってほしい。
 たとえば、住所録ならば、性別は男か女か、とか、住所はどこの都道府県か、とか。こういうことは選択肢に決まった範囲があって、そのメニュー以外にはあり得ない。仕事の請求書だって、たとえばメーカーならば自社の製品カタログのどれかを売っているわけだしね。

「食べ物のメニューだったらハンバーグステーキかオムライスか、焼き方はレアかミディアムかウェルダンか・・。ははーん、なるほど、だからファミリーレストランって、あの手に持ってる小さな端末で全部注文を処理できちゃうのね?」

--ご明察。ファミレスじゃ、メニューにない特別料理なんて作ってくれないからね。だからああいう業務はIT化しやすい。

「どの選択肢も、ちっともおいしくないけれど。」

--それはITとは別問題。でも、お客さんの好みに合わせた好き勝手を許してくれないところは、たしかに味気ない。定型化すると味気なくなっちゃう面はある。

「非定型な情報が入り込まないから、っていうことね。」

--そのとおりです。そして、定型化されたデータとは、この選択肢の“アトム”が数珠つなぎになったものだ、と理解してほしいんだ。

(つづく)
by tomoichi_sato | 2010-10-20 23:22 | ITって、何? | Comments(0)

人材のサプライチェーンを正すには

夏休みのある日のこと。予備校から帰ってきた息子が、ニコニコしている。理由を聞くと、「今日、予備校で『実験屋台』を見てきた」という。予備校の広い部屋に、いくつか実験用の机を屋台のように置いて、それぞれの種類の物理・化学・生物などの実験を講師がやってみせるイベントらしい。むろん生徒も好きな実験屋台で、自分で手を出して触ることができる。「炎色反応が、あんなキレイな青や緑の光を出すなんて、すごい!」と素直に感動したらしい。

さらに聞くと、驚くべき事が分かった。息子は高校の3年間、一度も理科の実験というのをしていない、というのだ。物理も化学も生物も、である。息子の通った高校は、特別な進学校ではない。平均的な生徒の通う、ごく平凡な私立高校だ。それなりの規模があり、一応の施設もそろっている。実験室だって、ちゃんとあったはずだ。でも、一度も実験はさせてもらえなかったという。あるとき、生物の教師に実験のない理由をたずねたら、答えは、「人数も多いし、費用もかかる。教科書で読めば分かるはずだから」だった。

実験をしないで科学の教育が可能だと思っている高校の姿勢に、驚くよりも、あきれた。およそ誰だって、五感にふれる体験無しで、身につくものなど無い。単なる言葉による知識など、時間とともにすぐ忘れられていくからだ。英語も国語も社会もしかりだが、理科では何よりそれが必要である。わたし自身は不器用だから中学から大学院まで、実験には難儀したが、それが不要だと考えたことはなかった。自分で苦心して取ったことのないデータは、分析できない。その数字の意味が、体でピンとこないからだ。生徒が理系に進むか進まないかの問題ではない。いやしくも理科が必修科目である限り、それを「分かる」ためには実験が必須なのである。

3年間まったく実験がないなどと分かったら、父母会に出て学校にクレームをいうべきだったか、と考えている内に、逆のことに気がついた。もし、わたしと同じ意見の人が多かったら、とっくに学校は対応していたはずだ。ということは、むしろ実験を無駄だと考え、もっと教科書での講義を望む父母の声が強かったということではないか。実験で事故や怪我をされるのを高校側が恐れたのかもしれぬ。事実、そうでなければ、なぜ実験室も持たぬ予備校がわざわざ、『実験屋台』などというイベントをひらくことになるだろうか?

わたしの息子は、典型的な「ゆとり教育」の世代である。この、教科内容の30%を削減した「ゆとり教育」なるものは、世の中ではかなり辛らつな批判を浴びている。ただ、知識教育偏重の詰め込みを排するという意図の元に行われた「ゆとり教育」がもたらしたものは、父母としての当事者から見ると、明らかに逆の結果であった。子供たちが学校と塾で過ごす合計時間は増え、進学競争はむしろ激化・低年齢化した。小学生が塾通いのため家族と一緒に夕食をとる事ができない状況は、明らかに異常である。

なぜこうなってしまったのか。幼児教育→小学校→中学→高校→大学→とつづく教育システムは、人材のサプライチェーンだと言っていい。サプライチェーンにおいて、このように「意図と逆のことが起こる」場合、その背後にはかならず、『局所最適』の発想がある。

「ゆとり教育」の最も根本的な誤認は、教科内容の量を削減すれば、教育にゆとりができる、と教育者側が考えた事だ。教育というものが教師と生徒だけの閉じたシステムなら、正しいだろう。親たちは、だが、そうは考えなかった。“良い大学”や“良い高校”に自分の子供を入れることが教育の目的であり、そのためには、同年代の競争に勝たなければならない。学校教育の内容が減るなら、その分を塾で補わせなければならない、というのが親たちの発想だった。中学の公的教育が頼りにならないなら、私立中学に入れねばならないと大勢が信じた。

こうして、小学生の「夜の塾通い」が蔓延するようになった。年端のいかない子供に夜間生活を強いて、遊びの時間を奪うのは、正常な発達をさまたげる--というような私の意見は、たぶん少数派だったろう。息子の小学校の教師は、「塾での勉強に差し支えるから」という父母に配慮して、学校で出す宿題を減らしたほどだ。昼の学校は添え物で、夜の塾の教育がメインの座を占める雰囲気が漂いはじめた。

その結果どうなったのか? 学力が下がったのか上がったのか、論議は実はまだ決着していない。はっきりしているのは、子供の時間に「ゆとり」が無くなったことである。著書『時間管理術』でもこのサイトでも何回も書いたが、“ゆとり時間”は考えるための時間として必要である。時間管理の目的は、一見、何もしていない無駄に見える時間--落ち着いて考えるための時間--を作り出すためにある。日々に追われると、考えることができなくなる。試験問題を睨んで「考える」のは、正解という枠内での思考ゲームに過ぎぬ。本当に大事なのは、正解のない自分の生き方について、考える事ではないか。そして10代というのは、まさにそれが一番重要な時期ではなかったか。

教育というものを「PDCAサイクル」「顧客満足」など、ビジネスの語調で語るのが最近の流行りである。だが、加工時間を3割減らしました、だから工場内にゆとりが生まれました、というのはサプライチェーンを知らぬ経営者だ。あまりに発想がプロダクト・アウトである。工場での作業は、製品に対してマーケットが求める機能や品質によって決まる。つまり、需要側の品質要望によって決まるのである。では学校における品質要望とは何か。それは「上の学校の受験に合格する」ことだ、と多くの父母達は信じている。教育を改善するなら、まずこの要求自体の品質を改善しなければならない。ここをそのままにして、加工作業だけ削減できると思うのは愚かである。

だが、話はこれだけでは終わらない。なぜ、親たちはそんなにまでして一流といわれる高等教育を子供に望むのか? なぜ「一流大学」に入れたがるのか。

それは、日本社会が「学歴」という奇妙な人材品質保証制度(Qualification)で、今だに動いていると信じられているからである。この品質制度は、定期的な更新登録も研修教育もない。18歳のある日、入試問題に対してグッドなパフォーマンスを示せれば、その後一生ついて回るのである。その試験は、知識を主に問うものだ(だから体験など不要だと思って、高校は実験をやめてしまう)。そして現実、多くの企業が、出身大学名によって採用のスクリーニングをしている、といわれる。大学名を伏せて募集しても、秀才型の志望者を採用してしまう例があったほどだ。

(私たちの社会における、試験ならびに採用制度の背後には、中国の科挙を無意識に見習った影響があるのではないか、とわたしは疑っている。試験が知識重視であること、合格者が社会のトップとして登用され生涯優遇されることなど、いかにも似ている。そもそも「秀才」という言葉自体、科挙の用語だった)

結局、私たちの社会の教育をダメにしているのは、学歴というレッテルで人を登用する官庁や企業なのである。産業界の一員として、わたしにもその責任の一端はある。だから、再度言おう。教育を良くしたかったら、まず実社会の側が、入学歴でなく、能力とパフォーマンスで人を採用・評価する仕組みを作らなくてはいけない。18歳の一時点ではなく、その後の継続的な努力と体験を含む学習が、良い処遇の条件にならなくてはいけない。文科省がゆとりのない教育を正したかったら、真っ先にやるべきことは、意味不明な中央官僚の「キャリア」システムを捨てて自己改革することだったはずである。

サプライチェーンというのは、求められるアウトプットから、その機能と構造が決まる。サプライチェーンの側が自分だけの発想で、勝手に「最適化」をしても、それが需要側に受け入れられなかったら、代替サプライチェーンが発達するだけだ。なぜなら、最適性とは、目的関数に対して使う言葉だからだ。目的関数とは何か。それは、使用者とアウトプットとの関係で決まる価値属性なのである。


関連エントリ:
「『わかる』ことと『知る』こと」
→「組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾
by Tomoichi_Sato | 2010-10-16 15:43 | 考えるヒント | Comments(4)

「ITって、何?」質問3: 情報技術という言葉はどこからきたの?

<<データの処理から情報の技術へ>>


「ちょっとまって。それじゃあなぜ、「情報技術」とかいう言葉があるの? これってIT=Information Technologyの訳でしょ。今の話じゃ、コンピュータで扱えるのはデータだけなんだから、情報技術なんて言葉はおかしいってことにならない? それに、「情報通信」という言葉もあるけれど、これは何なのかしら?」

--じつはこのITという言葉には多少の歴史がある。
 コンピュータ技術一般のことを、昔は「Data Processing(DP)」=データ処理、と呼んでいた。それが今ではIT=情報技術といっている。最近ではICT=情報通信技術という用語も広まっている。この言葉の変化の中に、情報の処理技術に関する進化が端的にあらわれているんだ。
 コンピュータはもともと弾道計算のために開発されたものだった。
 
「ダンドーケーサンって?」

--大砲をどういう向きで撃つと、弾がどこまで飛んでいくかを計算すること。空気抵抗を考えるとけっこう難しい計算になって数式じゃきれいに解けない。手計算でもかなり無理があるので、第二次大戦中に電気回路を使って計算する機械が発明された。これが計算機のはじまり。これはもう、純然たる計算だけの機械だ。
 これとは別に、米国の国勢調査統計を機械的に処理するため、パンチ・カード式ファイリング・システムの技術が米国で発明されていた。この技術なんかが加味されて、いまの電子計算機システムの原型ができた。すなわち、計算と文字列の入出力処理を中心とした仕組みだ。
 コンピュータがあらわれてから長い間、正確にいえば1940年代半ばから1980年代の半ば頃まで、コンピュータが扱えるデータはもっぱらテキストだけだった。
 
「ちょっとまって。そこでいっつも引っかかるのよねえ。あなたの言う「テキスト」って何よ。別に教科書のことじゃないんでしょう?」
 
--ITの世界で「テキスト」というのは、アルファベットの文字と数字だけからなる表現のこと。絵とか図とかではない、ただひたすら文字と数字が順に並んでいくものをテキストという。

「コンマとかピリオドもないの?」

--その種の、普通のタイプライターにあるような、よくつかう記号は文字の仲間にふくむ。ただし、文字の大きさとか字体のバリエーションとかはない。だから昔のタイプライターだけでつくった文書なんかが典型的なテキストだ。図表のない本もテキストだといってもいい。

「アルファベットの文字と数字だけって言うと、漢字やかなが混じっていてもだめ?」

--以前はNOだったけど、今はOKというのが答えだね。だけど今は話がややこしくなるから、とりあえず英語圏での話題にしておこう。
 ともかく、70年代までのコンピュータは、入力はタイプライタふうの端末機から行い、出力もラインプリンタかビデオの画面に英数字が表の形で並ぶ、無味乾燥なテキストだけの世界だった。それと、紙に印刷したときの1行の文字数は80桁か132桁と、これも決まっていた。これはパンチカードの技術から来たらしい。
 こういったわけで、計算機といえば数値計算か、あるいはもっぱら国勢調査みたいな表と集計値の用途が主だった。つまり意味的には中立なデータの世界だね。
 だからこのころはずっと、「データ処理技術」と呼ばれていた。電子的に処理するので、EDP = Electronic Data Processingという略語もよく使われた。

「それがどうして情報技術になったの?」

--このテキストの世界に「ワードプロセッサ」という技術があらわれて、ようやく少し「情報」らしさが入るようになった。

「なるほど! 事務所の先輩達の話によると、ワープロがはやりだしたのは80年代らしいわね。最初はPCじゃなくて専用機だったって。」

--初期のワープロは、あつかえる文字種は1種類だけだったし、せいぜい下線や太字がでるていどだった。それでもずいぶん便利なものとして普及した。
 ワープロで書くレターや報告書は、たしかに文字ばかりでできている。そういう意味では相変わらずテキストの世界だ。けれど、1行の字数の決まった時刻表のような窮屈な形式ではなく、改行や字下げや右寄せといった自由な、人間に読みやすい、「不定型な」テキストを扱える。そこが大きなちがいだった。

「不定形?」

--型にはめられていない、ってことさ。普通の文章は長さもまちまちで、ワン・センテンスちょっきり80文字というような枠には収まらないだろ?
 ワードプロセッサの技術の中核は、不定型なテキストを、コンピュータで処理可能なように内部で定型化の枠組みをはめる手法だ。人間の見た目には不定型な情報でも、コンピュータ内部では定型化されたデータである--これがワープロという技術の実現したことですな。ワープロは人間の不定型な情報とコンピュータの定型化されたデータを相互に変換し、橋渡しする技術なんだ。

「はあ。」

--その後、80年代のグラフィック端末の発展、記憶容量の爆発的進歩、90年代のマルチメディア技術・通信技術の進歩、といった要素を背景に、この「情報とデータの橋渡し」はおおきな進化、ほとんど革命的といっていい進化を遂げた。かなや漢字はもちろん、文字の大きさやフォント(つまり文字形のデザインだね)がいろいろ選べるようになり、図表や絵もはり込めるようになった。今じゃワープロで作る報告書もテキスト部分と図表が混在するのは当たり前、デジカメの写真をPCの画面に貼り付けたり、PCでビデオ映像を編集するのもなにも珍しくないだろ?
 その結果、人間の見た目にとっては、コンピュータは情報そのものを取り扱っているように見えるようになってきた。しかし、内部的な仕組みとしては、相変わらず定型化されたデータの機械的処理をしているだけで、べつだん機械が自分で判断したり意味をくみ取ったりできるようになったわけではない。人間が意味をくみ取りやすい形にデータを表現することが上手になったにすぎないのさ。

「機械が人間にすりよった訳ね。」

--まあね。でも、内部の仕組みが、定型化されたデータだけを扱える、という本質は何もかわっていない。

「じゃ情報通信っていうことばは?」

--情報通信って言葉はマスメディアが好きでよく使ってきたけど、曖昧すぎて、正直言うとぼくは好かない。情報&通信の意味だったり、ITないしICTの同義語として使われる事も多い。通信の分野でいわれるときは、まあデータ通信の上で情報を配信する仕組みを意味するんだろう。
 通信の世界は永い事、電気通信とデータ通信とに分かれていた。昔の黒電話は電気通信と呼ばれる技術だ。受話器のマイクがしゃべる音声を電気の強弱に変えて、交換機経由で電線をつなげて相手側のスピーカーを鳴らす。この間はずっと電流で、いってみれば糸電話と本質は変わらない。

「糸電話!」

--途中にデータが介在しないからさ。つまり

  人間→(情報)→→(情報)→人間
 
という構図だ。情報は電流の強弱で直接伝えられた。
 一方、データ通信とは主にコンピュータが端末と信号をやり取りするのに使われていた。二つの世界はまったくばらばらだった。
 ところが、データ通信が高速化し、電話の技術がデジタル化すると両者はだんだん融合していった。音声信号をデータに変えて送ることが実用的になった。日本の今の電話は、糸電話とは全然ちがう。まず、電話局間の幹線は皆デジタル回線になっている。局の交換機は、あれはじつは全部コンピュータなんだ。
 それに最近の電話機もまた、携帯も留守電もFAXもみなじっさいはコンピュータなのさ。今じゃ電気はせいぜい局から各家庭までの電話線の一部分に残っているだけだ。これだってADSLや光ケーブルなどデジタル媒体にどんどん置きかえられてきているけれど。
 つまり今や、

  人間→(情報)↓              ↑(情報)→人間
           ↓(データ)→→(データ)↑

という構造になっている。情報は一度、定型化されたデータの小さなブロックにかえられて運ばれ、また情報の形に組み立てられて人間に届けられる。データ通信の上で情報を配信する、っていったのはそういう意味さ。

「でも途中でデータに変わるからって、本質的には糸電話と同じじゃない? 一対一で話している以上は。」

--とんでもない。データってのは蓄積できる。検索加工転送も瞬時にできる。雑音や劣化の心配も少ない。これがデータの特徴さ。電気や糸の振動じゃそうはいかない。

「たしかに、声はテレコにも蓄積できるけど、検索には不向きね。」

--音声だけじゃない、静止画像も、ビデオも、まあ要するに人間が目と耳をつかって受けとる情報の生な形を、定型化したデータのフォーマットにする技術や規格が、この10年間に発達した。おまけにデータ通信の速度が速くなってリアルタイムに送ることができるようになってきた。
 そういう意味では、別に電話同士にかぎらず、インターネットでも同じなんだけど、複数のコンピュータ同士が高速にデータをやり取りできるようになったので、情報と通信の垣根がなくなってどんどん相互乗り入れしはじめている。
 だからこそ、利用者の目には情報そのものを扱うように見えながら、その底辺では機械がデータの形で処理しているという、いわゆる「情報技術」が生まれたのさ。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-13 22:54 | ITって、何? | Comments(0)

お知らせ:国際学会「ProMAC 2010」で発表します

今週、幕張で開催されるプロジェクト・マネジメント関係の国際学会「ProMAC 2010 Tokyo」において、10月14日(木)午後に、

  "Risk-based Project Value: Analysis on Budget Overrun and Progress Measurement"

のタイトルで講演発表を行います(英語)。
ご興味のある方は、よろしくご来聴ください。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-12 07:36 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

リスクとは(本当は)何を指すべきか

何年前だったか、梅雨になってもいっこうに雨が降らず、カラカラに晴れた日が続いたことがあった(このごろ毎年異常気象なのでいつのことだったか覚えきれぬ^^;)。陽光はまぶしく空が抜けるように青く、湿度も低くて、さながらカリフォルニアの気候のようだった。「空梅雨って、こんなに素晴らしい天気だったんですね。」と若い人たちは言った。たしかに、こんな6月だったら、英語で言うJune Brideという言葉の輝かしさも分かるような気がした。せっかくの結婚衣装が雨に濡れては、『晴れの日』ではなくなってしまう。

結婚式を待ち望む人にとっては、雨はありがたくないものだ。ところで同じ時、年寄り達は、毎日晴れていることを心配した。「梅雨に十分雨が降らないと、田んぼの稲が育たない」という。もう工業社会になって何十年もたつのに、いまだに生活の中心であるかのように稲作の心配をする。伝統的思考は、文化の中にかくも深く組み込まれている。

「雨」という事象が、ある人たちにとってはリスクであり、他の人たちにとっては「雨が降らない」ことがリスクになる。これは、リスクというものが、誰にも共通の客観的事象として存在するものではない事を示している。

医学・環境学系の議論では普通、リスクはマイナスの影響の可能性を意味する。工学系も、ほぼそれに準じた使い方だ。一方、金融学系では、リスクとは不確実性を意味し、結果はプラスにもマイナスにも(ほぼ均等なチャンスで)なり得ると考える。わたしは前者を「非対称型」リスク、後者を「対称型」リスク定義と名付けている。

では、ビジネスにおいてはどうか。生産管理・品質管理分野では通常、非対称型でリスクを捉える。品質欠陥とか在庫切れとか。一方プロジェクト・マネジメントの分野では、PMBOK Guideは対称型で用語を定義している。会計や法務・コンプライアンス部門では非対称型、財務部門は対称型だろうか。おかげで、「リスク」という言葉自体に理解のブレが生じて、ミス・コミュニケーションのリスクが生じるわけだ(←この文での『リスク』は、非対称型の使い方をしている点に注意)。

このブレを無くし、みなに共通なリスクの認識を定義する方法はないだろうか? それが、あるのだ。非常に単純なことだ。すなわち、リスクの反対概念を明示するのである。リスクの反対概念とは、リスクの無い、目指すべき「理想状態」のことである。

医学・環境学系においては、「安全/健康」が理想状態である。ここからの逸脱を、リスクと捉える。一方、金融工学では、(なぜかは知らないけれども)「確実」が理想であるらしい。だから、不確実な変動をリスクと認識する。問題は、こうした『理想状態』を、皆が無意識に前提して議論してきたことにある。だから、リスクを論じる際には、まず、「あるべき理想状態」を規定する。そして、そこからの逸脱の可能性を論じるべきなのである。

わたしの提案するリスクの定義とは、このようなものだ:
「目指すべき目標値ないし理想状態から逸脱する可能性があり、かつ、その影響をリアルタイムに回避・抑制できないような事象(群)を、リスクと呼ぶ」

この定義の特徴は、主体が目指すべき理想を持っていることを前提とする点だ。その理想が『確実性』であるか『安全性』であるかは問わない。それは主体の価値判断に任されるべきことである。この定義は、だから、医学・環境学系の用法も、金融工学の用法も、いずれも内包している。「理想」という言葉が気恥ずかしかったら、「実現できる最善」でも良い。目標とする最善の状態・値をまず示す。それからの逸脱の可能性を検討する。

今日、ビジネスの現場で理想などという言葉を口にすると、青臭いと非難されかねない(そのくせ、ERP導入プロジェクトなどでは、To-Beモデルなどと言うへんてこな英語を平気で使う)。半世紀前には人を導いた「自由豁達にして愉快なる理想工場の建設」という起業理念も、その後継者達は忘れたがっているかのようだ(関連記事)。なげかわしい事ではないか。今やむしろ、理想を語るのを避けたいがため、そのかわりに皆リスク・マネジメントを論じるのではないかとさえ感じられる。あるべき姿を考えることが、ビジネスを引っ張っていく第一歩だと思うのだが。

もちろん、理想や最善と言っても、それはぎりぎり実現可能なものでなければならない。100mを5秒で走れとか、いや0秒が理想だ、などと主張して、そこからの逸脱をリスク呼ばわりするのは愚かである。仕掛在庫ゼロ!とか、製造コストゼロ!という『理想』をかかげるのは、マネジメントの目標として現実性がないばかりか、間違ってもいる。

ちなみにわたしは、「コスト超過」や「納期遅れ」などを、誰にも共通の普遍的リスクとして前提することに反対である。万人に適用可能な共通の目標などは無い。品質のためには費用はいとわないプロジェクトや、技術的ブレークスルーを実現するため納期はあえて設定しないプロジェクトだって、考えられるからだ。コストや納期がプロジェクト目標でなければ、そこからの逸脱はリスクにはならない。多くのリスク論は、自分の無意識な前提から出発するため、この点を誤解している。

リスクが「可能性」であることも重要だが、「影響」の大小もポイントである。以前別のところにも書いたので繰り返しになるが、リスクの大きさは、

            可能性×影響度
リスクの大きさ = ---------
             対応能力

で数式的に現すことができる。主体の能力が問われるのである。このことによって、「××さんがプロマネだって!? それじゃ、プロマネ自身がプロジェクトの最大のリスクだな」といった表現の意味が理解できよう。分母の対応能力が小さければ、どんな些細なリスク因子も巨大な結果を引き起こすだろう。

むろん、対応能力というのは、リスク事象の影響をリアルタイムに回避・抑制できる能力を指す。「リアルタイム」の定義は長くなるから別に項をあらためて書くことにするが、瞬時に避けられるものはリスクではないのである。自動車を40km/hで運転しているとき、前方を車いすで横断しようとしている老人に気がついたとしても、これはリスクではない。車いすの移動よりも、車のハンドルやブレーキを使って避ける方が確実に早いからである。しかし、子供が飛び出してくるのは、リスクである。瞬時によけきれるかどうか微妙だからだ。また、相手が車いすの老人の場合でも、道が暗がりで街灯もない場合、やはり認知するまでに時間がかかるから、これもリスクとなるはずである。

ということで、このようにリスクを定義し直すことが、リスクに関わる誤解をふせぐ一番の方法だとわたしは考えている。もちろん、わたしがこんなホームページの片隅で何を定義しようが、それが明日から世の中にすぐに広まるものでないことは承知している。では、なぜ今さら「定義」するのか。それは、少なくとも、わたしのこのサイト内では、整合性の取れた議論をしていきたいからである。そして、リスク・マネジメントに関心のある読者諸賢も、上記の「目指すべき目標値・理想状態」を今一度思い起こして、ご自分の仕事のリスクを再点検されることをおすすめする次第である。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-10 12:41 | リスク・マネジメント | Comments(0)

「ITって、何?」質問2: ITを理解している人を見分けるにはどうしたらいいの?

< データと情報の違い >


「じゃあ、次の質問、いきます。
ITを理解している人を見分けるにはどうしたらいいの?」

--それはいい質問だね。見分ける方法か・・。
 そうだな、こういうふうに訊ねてみるといいかもしれない。『データと情報はどこがちがうか?』
 この質問にはっきり答えられる人はITの本質について洞察をもっている人だ。逆に、いかにパソコンにくわしくても、この質問の意味が分からない人は、ITの意義を理解できていないと思った方がいい。
 
「データと情報? それって何がちがうの? 同じものかと思ってた。」

--たいていの人は「データ」と「情報」という二つの言葉を、あまり区別せずにつかってる。専門書ですら、ときにはあいまいにしている。しかし、ITを理解する上では、この両者ははっきりと区別する必要があるんだ。
 「情報」とは、人間にとって意味をもたらすものさ。人間の話す言葉、書く言葉は意味を伝達するために発達した。
 これは逆の例を取ってみればわかるだろう。君がもし誰かから手紙をもらったとして、それが翻訳家の君でさえ全く知らない言語で書かれていたら、それに何の意味があると思う? ラブレターなのか? 脅迫状なのか? 招待状かはたまた予言書か? 意味が分からないものは、情報の役割をはたさないんだ。

「じゃ、データって何?」

--「データ」とは何か。データとは、数字や文字の規格化・定型化された並びのことなんだ。『規格化』・『定型化』の意味についてはおいおい説明するけど、いまはとりあえず「表のようにきちんと並んだ」というふうに理解しておいてほしい。

「なんか抽象的でよく分からないわ。例をあげてみてくれない?」

--たとえば、新聞の株式欄はデータだ。会社名と、株価の数字が整然と表になって並んでいる。駅の時刻表や電話帳もデータだ。野球のスコアブックもデータだね。

「スコアブックなんてコンピュータに入れておくものなの?」

--データというものは、必ずしもコンピュータの中に格納されていなくてもいい、ってことに注意してほしい。「あの野球監督はデータにもとづいて作戦を立てる」といったとき、そのデータは過去のスコアブックの集積を指しているので、それがパソコンに入っているかどうかは本質じゃない。その監督が単なる人情や勘だけで指示を出しているわけではない、ということをいっているのだから。
 ちなみに定型化され規格化されたデータをコンピュータに格納したものを、「データベース」とよぶ。

「わたし、数字のことをデータって呼ぶのかと思ってた。」

--データはべつに数字が並んでいる必要はない。文字だけでもデータなんだ。だから住所録や学校の卒業名簿だってデータさ。
 それと、図書館の蔵書カードなんか、カードがたくさん並んでいるだけで、全体が一枚の表の形にまとまっているわけではないけれど、それでもデータだ。1枚に書くべきことが決まっていて、それがきちんと並べられているからね。倉庫の入出庫台帳なんかもデータですな。

「ちょっと待ってよ、新聞の株式欄は『情報』じゃないの? ある株が上がったか下がったか、どの会社が今、注目株か。これはみな『意味』そのものなんだから、さっきの定義にしたがえばデータではなくて情報のはずじゃないかしら。」

--その答えはイエスでもありノーでもあります。というのは、数字の羅列から意味をくみ出すのは、人間の側の精神の働きにあるからね。ある株価の動きに君は意味を感じるが、別の人はその株価には無関心で、他の数字に意味を見いだすかもしれない。
 これは、証券アナリストが出す「今注目の株はこれ!」というレポートが、不特定多数の人に対してほぼ同じ意味を伝える「情報」そのものであることに対比して考えるとわかるとおもう。株式欄の数字自体は、受け取る人の意味づけに対して中立なものなんだ。

「なんだかまだごまかされているような気がするわ。人間の精神の働きが意味を汲み上げるって、どういうことよ。急にドイツ観念哲学の講義の時間になったみたい。」

--かりにいま、6月から9月までの毎日のビール消費量と、その日の気温との関係を日付順にならべて表をつくったとする。これはデータだ。ところで、そのデータを、横軸に気温・縦軸にビール消費量をとってプロットすると、こんな風に点が並んだとする(手でホッケースティックのような右肩上がりの図を描く)。図をよく見ると、消費量は気温がある点、具体的にいうと28℃あたりを超えるとぐっと上向きになることがわかる。
 しかし、これは人間が視覚的にデータから意味を読みとる力をもっているからこそ、わかることなんだ。コンピュータは、表の形になっていようが、グラフの形で表現されていようが、そこから自動的に意味をくみ取るようなまねはできない。
 つまり、「データ」とは中立な(いいかえれば無味乾燥な)もので、そこから意味を引きだして「情報」にするのは人間の認識力そのものなのさ。

「ふーん、それで?」

--ところで、ここから先が大事なんだけれど、コンピュータの中に格納して処理できるのはデータだけだ。機械にできるのは、定型化された数字や文字の並びをあれこれと加工することなんだ。意味は人間の側の働きだから、コンピュータは「情報」を取り扱うことはできません。
 これがデータと情報のちがいさ。そして、この両者の関係が分からない人は、ITがわからないといえるとぼくは思う。

<参考 JISにおける用語定義>

情報:事実、事象、事物、過程、着想等の対象物に関して知り得た事であって、概念を含み、一定の文脈中で特定の意味を持つもの

データ:情報の表現であって、伝達解釈又は処理に適するように形式化され、再度情報として解釈できるもの。(備考 データに対する処理は人間が行っても良いし、自動的手段で行っても良い)
by Tomoichi_Sato | 2010-10-07 03:23 | ITって、何? | Comments(0)

リスクという言葉自体がリスキーである

ビジネスにおけるリスクを語る際、非常に厄介な事実が一つある。それは、「リスク」という語の定義がうまく定まっていないことだ。Aという人の語るリスクと、Bという人の受け取るリスクが同じ物事を指しているとは限らない。いや、違うことを言っている可能性の方がずっと高い。各人の理解にブレ(不確実性)がある。リスクについて語ることは、それ自体がすでにリスキーな事なのだ。

たとえば、人に「最近遭遇したリスク事象の例を挙げてください」と質問したとしよう。たいていの場合、返ってくる答えは「発注先が納期を一月半も遅らせてきたんです」とか「先月自転車で事故りまして」といったものだ。これらは実際に起きてしまったトラブル事象、すなわち『issue』(問題)である。リスクという語は、本来は起きる前の可能性を指す概念のはずである。だから、「発注先の手際がまずくて納期に遅れそうになり、気を揉みました」とか「自転車のブレーキ不調でヒヤリとしました」という事象が本来の答えであるべきだろう。どこかに概念のいき違いがあるのだ。

こういうときに、近頃の人が頼りにしたがるのがWikipediaである。しかし、この稿を書いている2010年9月現在で、日本語版Wikipediaの「リスク」を見ても、各方面からの寄せ集め的な解説しか載っておらず、(書いた人には申し訳ないが)正直なんだかよく分からなくなる。英語版Wikipediaの"RISK"の方はもう少し立派にまとまっており、定義definitionのセクションには積分の数式まで登場してなかなか楽しめる(知的余裕のある人には)。でも、よく読むと「リスクという語にはいろいろな定義があり得る」と書いてあり、100%決定打とはなっていない。

じゃあ、学問的定義は? ところがリスクに関連する学会も、日本リスク研究学会(安全・環境系の人が多い?)・日本リスクマネジメント学会(経済学系でなぜか関西中心?)・リスクマネジメント協会(保険・法務の人脈が強い?)と複数存在している。そして、それぞれが資格制度や検定試験も行っているようだ。海外に目を向けると、米国に本部を持つThe Society of Risk Analysis (SRA)、Risk and Insurance Management Society (RIMS)などの国際的組織がある。とにかく「リスク業界」は百花繚乱なのである。リスクというテーマが、ビジネスの分野でもアカデミックの世界でも、めしのタネとして大勢の人を養っている事実に驚嘆すべきであろう。

電力中研の田邉朋行氏は、東大工学部での「社会技術としての化学技術」という講義シリーズの中で、種々のリスク定義におけるブレと共通点を解説しておられる(じつはわたしも同じシリーズでプロジェクト・マネジメントの講師を務めている)。これが実にうまくまとめられているので紹介すると、保険と金融という、隣接した業界においても「リスク」の概念は全く違っているのだという。

たとえば、保険実務においては、「ハザード」hazard、「ペリル」peril、そして「リスク」riskという言葉を使い分けている。たとえば“道にバナナの皮が落ちている”という事象発生の原因状況をハザードと呼び、“すべって転ぶ”という損害をもたらす事象をペリル、そして“けがをして入院”という結果としての損失をリスクと呼ぶ。あるいは、電線の絶縁不良はハザード、漏電がペリル、そして火災がリスク、という訳である。人はしばしば漏電も火災もごったまぜにしてリスクと呼ぶが、保険業界においては、事象の内部構造を三段階に分けて認識するわけである。

(念のためにいうと、火災が起きてしまったという事象はリスクではなく、結果である。火災が起きるかもしれない、という可能性をリスクと呼ぶわけだ)

ところが、金融業界における「リスク」の使い方は、まったく違っている。飛んでいる飛行機からパラシュート無しで飛び降りた場合、ほぼ確実に死亡する。だから、普通だったらリスクは非常に大きいと思うだろう。ところが金融工学では、リスクはほぼゼロと考える。ただ、リターンがマイナス無限大だ、と解釈するのである。金融理論では、リスクとは結果に対する不確実性を意味するからだ。

田邉氏の「技術リスク意思決定と法システム」によると、医療・環境学系でもリスクの定義はまちまちらしい。たとえばダイオキシンを論じる場合、物質としての毒性の強さと、その人の健康への影響度(これは濃度や摂取量によって決まる)をきちんと区別して論じないケースがある、という。

ただ、こうしていろいろな定義を並べて考えてみると、どうやらリスク概念には大きく分けると二種類あることがわかる。それは、保険業界・環境学などのように、望ましくないマイナス事象の可能性をリスクと呼ぶ分野と、金融理論に見られるように、マイナスの結果(脅威)だけでなくプラスの結果(好機)も含めてリスクと呼ぶ分野、との二種類だ。わたしは前者を「非対称型」、後者を「対称型」リスク概念と名付けて区別している。

では、一般的なビジネスの現場ではどうか? 生産管理や品質管理では、リスクはふつう非対称型の概念である。納期遅れや、在庫切れや、品質劣化をリスクと考える。ところが、プロジェクト・マネジメントの分野では、PMBOK Guideは明確に対称型のリスク概念で書かれている。これはやや不思議に感じられるが、あるいは標準制定の途上で、金融学系の人々の影響が強かったのかもしれない。

それにしても、なぜ対称型と非対称型の二つの見方が出てくるのか? それは、それぞれの分野におけるリスクの反対概念を考えてみると理解できる。医療・環境学では、「リスクの無い状態」とは、『安全』である。保険や法務や情報セキュリティなどの分野でも、理想は『安全』である。ところが、金融分野では、「リスクの無い状態」は『確実』を意味するのだ。かくして、無意識の内に、安全を考えるのか、確実を求めるのかで、リスクに対する態度は分かれる。その結果、両者の間でコミュニケーションは確実に混乱するのだろう(笑)。

それでは、ビジネスの現場におけるリスクは、どう定義するのが良いのか。だが、いつものくせで、寄り道がまた長くなりすぎたようだ。続きは、また書こう。

(この項つづく
by Tomoichi_Sato | 2010-10-02 22:45 | リスク・マネジメント | Comments(0)