<   2010年 09月 ( 11 )   > この月の画像一覧

「ITって、何?」質問1: どうして、誰もITって何かをちゃんと説明してくれないの?

<専門家と一般人のギャップについて>

--ITって何、か。それが一言で答えられるくらいなら、研修の講義をどうするか悩んだりしないよ。

「じゃあ、何言なら答えられるの。何時間とか、何日もかかるわけ?」

--そりゃあ、もちろん相手のレベルによりけりさ。一をきいて十を知る人なら1時間もあれば本質は洞察できると思うけど、そんな人ばかりじゃないし。本当は、大学の教養課程あたりで、じっくりと1年間かけてみんなに教えるのを必修にすればいいんだけどね。

「でも、その1年の間に進歩して変わっちゃうんでしょう?」

--だから、それは教え方しだいさ。計算機という機械の構造や、表計算ソフトみたいなパッケージ・ソフトの使い方を教えていたら、たしかに1年で古くなってしまう。本当に大事なのは、情報というものとどうつきあうか、その考え方を身につけることだ。そういうスキルは、古びない。

「じゃ、その考え方を教えてよ。」

--もちろん教えて上げたいけれども、どういう順番で全体像を説明すればいいか、まだまとまらないんだ。

「ほんとうは自分でも分かっていないんでしょ。人に教えられないのは自分が分かっていない証拠よ。」

--何を失敬な。君こそ、何がわからなくて何を知りたいんだ。

「何が分からないか自分でも分かんないからこそ、こうやって聞いているんじゃない! ・・なんだかひどくギャップがあるみたいね、わたし達。」

--うーん・・じゃ、こうしよう。『二十の扉』方式でいく。君は自分がITについて疑問に思っていることをぼくに聞く。ぼくはそれに答える。二十問くらいやれば、たぶん全体像に近づけるだろう。

「何でも聞いていいのね?」

--いいよ。ただしそのかわり、一つ条件を付けさせてくれ。

「なあに、条件って。」

--決して、『・・って何?という質問をしないこと。英語で言えばWhat is...?という質問はなし。Whoとか、Howとか、Whyとか、Whereの質問だけにして欲しい。

「どうして?」

--Whatの質問をすると、結局ツールや仕組みの説明になってしまいがちだからさ。今の世間に氾濫しているITの説明書で一番問題なのは、計算機のハードやソフトといったツールの中身の説明ばかりしていることだろう。これはみなWhatにたいする解説にすぎない。

「そうかしら。でもそれでなにが問題なの? ITを理解するって、そういうこととはちがうのかしら。」

--ちがう。ITを理解するというのは、それが何の役に立つのか、それを使うと何ができるのか、それを使いこなすためにはどんな工夫が、なぜ必要なのか、そうしたことを理解することだと思う。
 たとえば、鉄道と機関車しかなかった時代に、自動車なる発明品が現れたときのことを考えてみたらいい。鉄道しか知らない人に、自動車の意義を理解してもらうためには、何が大事か。けっしてエンジンの機械工学的説明をすることじゃないはずだ。では、ハンドルとブレーキの扱い方か? そうでもない。皆がみな、自動車の運転手になるわけじゃないからね。
 では、自動車の意義とは何か。
 これまでは線路のしかれているルート上の、駅という決まった場所に、決められた時刻表にしたがってしか輸送できなかった人や貨物を、多少の道さえあれば自由なルートで好きな時間に運ぶことを可能にする。それが自動車だろ? 人と街のあり方を変えるだけではない。通勤も旅行もずっと便利になる。公共交通や運送業は大きく変貌する。自動車産業という新しいビジネスも生まれる。個人のレジャーも変わるだろう。

「はあ。」

--そのかわり、あちこちに道路を整備しなければならない。都市計画も練り直さなけりゃならない。交通信号や運転免許の制度も必要だ。鉄と石油エネルギーへの依存度が大きくなってしまう。自動車を理解するってのは、そうしたこと全体を洞察できるようになることじゃないだろか。「自動車って、何?」という質問に答えるとは、そういうことなんだ。
 ITも同じさ。ITがあることで、自分の仕事や生活や世の中の仕組みにどんなインパクトがでてくるのか。Whatの質問に仕組み論で答えるだけでは、そうした大事な観点が隠されてしまうと、ぼくは思ってる。

「でも、メカニズムのことだって少しは知っておかないと、理解できないわ。」

--じゃあ君は、自動車のメカニズムについて、何を知っている? 運転免許の講習で聞いたごく簡単な話だけだろう。キャブレターって何か? それを知らなくても運転はできる。TVの原理は知らなくても、TVを見ることはできる。作ったり修理したりする人にはなれないけれど、上手な使い方は理解できる。そうだろ? 
 Whatの話題って、モノの構造の話だ。でも、構造にかんする知識をいくら仕入れても、それがどんな目的のためにどういう機能を発揮できるかを考えるのにはあまり役に立たない。

「ふーん・・じゃ、いいわ。Whatは無しね。それでは、第一問、いきます。
どうして、誰もITって何かをちゃんと私に説明してくれないの?

--おいおい、何だその質問! それじゃ「ITって何?」と聞いているのと同じじゃないか。

「あら、全然ちがうわよ。Whyの質問だからちゃんとルールは守っているもの。それに私は世の中にきちんとした説明がないことの理由をまず知りたいの。これだけITが普及しているのに。おかしいわ」

--うーん。その質問は二段階で考えなけりゃいけないだろうな。まず、ITとは何かを説明できる人が世の中にどれだけいるか、って問題。つぎに、その説明があったとしても、君自身に届かない理由は何か、ってこと。
 第一の問題についていえば、世の中にはITの全貌をすべて知っている人なんていないと思う。

「そうかしら。」

--ITの領域は広大な上に、現在もものすごい速度でひろがりつつある。だから、その全領域に精通している人なんて事実上いない。IT屋さんは専門分化しているからね。各々自分の得意な専門領域から見たITの話だけをするものだから、葦の髄から天井覗く、みたいなことになってしまう。

「よしの髄、だって。・・古いわねえ、そんな喩え。いまどき新人研修じゃぜったい通用しないわよ。ストローを通して外の景色を見る、くらいにしておいたら?」

--じゃ、それでもいいけど、とにかく全部をすべて知っている人はいないのさ。

「でも、全部のことをくまなく知らなくても、概論的な説明は可能だと思うの。たとえば大学の先生なんてそういうの得意そうじゃない?」

--大学の先生たちに適任者がいるかっていうと、疑問だなあ。ITの最新の話題は実業界がもっぱらリードしていて、そうしたものは学会に出てこないことが多い。大学にも情報科学や情報工学という講座があるけれど、こまったことにアカデミックな世界とビジネスの世界はかなり断絶感がある。この国じゃ人材の産
学交流も少ないし。

「じゃ、実業の世界の人はどうなの?」

--こちらはね、あまり概論をしゃべる人がいないのさ。なんといっても専門分化することで競争を生きぬいているわけだから。専門的な話題に関しては、無料の解説や宣伝、有料のセミナーもある。しかしそういうのは、業界に無縁な君のようなごく普通の生活者には届きようがないし、その意味もないでしょ?
 そもそもIT屋さんは「語らない」人が多い。専門家同士になるとやたら冗舌になるくせに、一般人相手となると、はなからコミュニケーションをあきらめているところがある。広い意味では口べたな性格なのかもしれない。
 その一方で、経済評論家みたいにやたらとITに冗舌な人達もいる。本屋にあふれているIT解説書はもっぱらこの種の人たちの書いたものだ。でも、彼らはITの生み出す効能にはすごく関心をもっているけれど、あまり本質はわかっていないみたいだね。表層だけの事象を捉えて、先進企業ではこうだアメリカではああだとおしゃべりしている。結局、口数の多い素人と口べたな専門家ばかりで、ギャップがひろがったままなんだと思う。

「もしかしてIT屋さん達は、みんなを無知蒙昧な状態においておいた方が儲かるって思っているんじゃない? 『わたし作る人・ぼく食べる人』、みたいに役割固定をねらって」

--まさか! それは邪推だよ。実際のところ、『つくる側』としては『使う側』がもっとよく分かってくれたら楽なのに、と感じることの方が多い。なんていうか、ほら、このカーナビみたいなものさ。たいていの人は、使って慣れてみて、はじめてどれほど便利なものか分かる。でも使う前は“そんなもの不要だ”と頑張る人が多くて、説得に苦労する。
 カーナビの前はオートマチック・トランスミッションもそうだった。高いし燃費も応答性も悪い、とか食わずぎらいの反論はいくらでもあった。でも今じゃ市場に出回っている車の9割はAT車じゃないのかな。
 ITだって買う前にその利便性と値段とリスクとのバランスがわかる人が増えてくれた方がずっとありがたい。

「じゃ、なぜわかる説明がないのかしら。」

--たぶん、ITがわからないという人は、さっき君自身が言ったとおり、自分がどこが本当にわからないかを言えないんだろう。つまり適切な質問ができないから説明がすれ違いになるんだね。
 まったく未知の新しい事を説明するんだから、たとえ話をうまく使えるといいのかもな。そう、たとえていうならね、ITというのはデータを媒介とした情報のロジスティックスの仕組みだと思えばいい。それと、ITづくりの世界は建築の世界に良く似ていると思う。この二つの比喩は、これから何回も使わせてもらうかもな。

「ロジスティックスって、兵站とか物流ってこと? なんだかよくわからないわね、あなたの説明も。あと19問でほんとにちゃんと分かるようにしてよ、お願いだから。」

--あー。まかせるあるよ。インディアン嘘つかない。


(つづく)
by Tomoichi_Sato | 2010-09-29 22:41 | ITって、何? | Comments(0)

見えるリスクと見えないリスク

PMBOK Guideによると、プロジェクトとは「特定の製品またはサービスを創出するための時限的営為」である、と定義されている(A project is a temporary endeavor undertaken to create a unique product or service)。正直に言うと、PMBOK Guideは最近「教科書」として過剰に絶対視され過ぎていると私は思うのだが、冒頭にあるこのプロジェクトの定義も、若干の違和感を感じる部分である。なぜなら、この定義には『リスク』の語が欠けているからだ。

プロジェクトとは、リスクを伴う、時限的営為である。プロジェクトにはリスクがつきものだ。私の同僚には、「プロジェクト・マネジメントはリスク・マネジメントにつきる」とまで断言する人もいる。たしかに、一度限りの営為であっても、リスクの全くない仕事、たとえば飲み会の相談など、誰もプロジェクトとは呼ばないだろう。

PMBOK Guideはそれでも、1章を割いてリスク・マネジメントを論じ、プロジェクト管理の9領域の一つと説明している。また最近はリスク管理論の出版も増えつつあり、通信講座の電話勧誘までかかってくる始末だ。

ところで、私は現在のリスク・マネジメント論には、不満を持っている。PMBOK Guideを含めて、通常の解説では、リスクを洗いだし、それを定量/定性評価して、どう抑え込むかばかりが論じられる。そして、前半をリスク・プランニング、後半をリスク・コントロールと名付け、コントロールの手法として回避・軽減・保有・転嫁(移転)があるが、このための金銭的用意をリスク・ファイナンスという、という風に続いていく。

だが、はたしてこれで良いのだろうか? リスク移転とはすなわち保険による対処に他ならないのだが、プロジェクトのリスクは本当に保険屋がかぶってくれるのだろうか?

私が思うに、実はリスクには3種類ある:
(1) 予測され、計数化されたリスク
(2) 予測されたリスク
(3) 思いもよらない潜在的なリスク

プロジェクトにおいて実際に問題となるのは、プロマネが一番神経をすり減らすのは、圧倒的に(3)ではないだろうか?(なお、ここではidentifyという英語によい訳語がないので、「予測」としている)

ふつうのリスク管理の教科書では、(2)をどう(1)にするかという問題ばかり、詳しく説明されている。しかし、そもそも私の実務感覚では、予測されたら、それだけでリスクは半分減ったような気がする。お化けが出てから、それを枯れ尾花と見極めるのはたやすいので、怖いのはどんなお化けが出るかわからないからなのだ。この「怖さ」は、定量化されていないにもかかわらず、プロマネやチーム員の心的エネルギーを、確実に消耗させていく。

保有と転嫁について言えば、保有すれば自分に被害がかかる可能性があるのだから、転嫁の方が良いように思える。でも、ふつう転嫁にはお金がかかる(だから保険屋は商売として成り立つのだ)。まして、保険は間接損害はカバーしてくれない。35年以上前のことだが、、私の勤務先は海難事故で会社が傾きかけたことがあったらしい。アルジェリアの建設現場に送る巨大な機器の輸送船が、海に沈んだのだ。損害保険は無論かけてあった。だが、それは沈んだ機器の再製造費用は出してくれるが、機材の到着遅れによるプロジェクト全体の納期遅れについてはカバーしてくれない。保険は失った時間は返してくれないのだ。プロマネの悩みを完全に救ってくれるような保険など存在しないのである。

リスクを保有する場合は、プロジェクト実行予算の上で、予備費用をもっておく必要がある。予備費用は、予期されたリスク(見えるリスク)に対するアロウアンスと、予期できぬ(見えない)リスクに対するコンティンジェンシーに分類できる。つまり、いずれにしてもリスク・ファイナンスとは、お金で持つか現物で持つかの違いでしかないのである。

こうして見ると、ふつうのリスク・マネジメント論には、ひとつの大きな欠落があることがわかる。それは、見えないリスクが現実化して障害事象が起こってしまったら、どう対処するかというイシュー・マネジメントの方針論が欠けていることだ。発生防止は王道だ。しかし発生後の対策も必須である。

交通事故というリスクを考える時に、車の衝突安全性を上げる工夫や、運転技術を向上させる方策だけを論じるだけでは十分とは言えない。車の改造や運転講習会もいいだろう。しかし通勤途上で事故にあったら、どこの誰にどう連絡するか、決めておくことも必要なのだ。プロジェクトで何か起きたら(そして大概なにか起きるのだ)、それを誰が誰に報告してどう判断するかを考えておかねばならない。

以前、「サプライチェーンのリスク・マネジメント」に書いたように、リスク低減策は冗長性・多重化を要求するので、プロジェクトのコストダウンの要求とはかみ合わない。サプライヤーの絞り込み、人的リソースのミニマム化、などはすべて相反する。スリム化しすぎたプロジェクト組織では、変動に対処する自由度がなさすぎるのだ。

リスク・マネジメントにとっては、自由度がもっとも重要である。自由度がなければ、現場で代替手段を判断できない。プロジェクト計画における自由度の大事さを、もっと広く認識してもらうよう努めて行かねばならないだろう。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-26 21:48 | リスク・マネジメント | Comments(0)

「ITって、何?」 第0回 疑問のはじまり


「ねえ。すごい渋滞ね。」

--そうだね。

「せっかくのあなたのカーナビも、残念だけどこれじゃほとんど役に立たないわね。あなたの実家まで、あと何時間ぐらいかかるのかしら。」

--うーん、何時間かなあ。スムーズに流れても2時間近くはかかるから。

「カーナビって、そういうことはわからないの? 道順を教えてくれるだけじゃなくて、これからどれくらいかかるか、とか。」

--これは友達のもらいので、3年くらい前の機種だから、そこまではできないんだ。この先の道のりが何キロあるかはわかるけど。最近のやつだと、高速道路の渋滞情報のシステムと通信できるから、どこからどこまで渋滞してるか、もっと速くいける別ルートはないか、とか計算して教えてくれるんだけど。
 でももう高速に乗っちゃったんだから、あとは流れで行くしかないよ。

「3年前のものなのに、もう古いの? すごいわね、カーナビの進歩って。」

--そうだね。まあIT関係のものって日進月歩だから。

「あなたもついていくのが大変ね。コンピュータの仕事なんかしてるばっかりに。3年後くらいにはもう会社からお払い箱になっていたりして。ふふ。」

--よしてくれよ。そうでなくても頭が痛いのに。

「どうしたの。夕べ、ビールでも飲み過ぎた?」

--そうじゃなくて、今度の新人研修のことだよ。IT関係の部分はぼくが講義を受け持つことになっているんだけど、何をどう話すべきか悩んでるんだ。あまりに進歩が早いからね。カーナビじゃないけど、具体的なシステムについての話をしても、すぐに陳腐化しちゃうんだ。そりゃシステム部門配属の人間だけを相手にするんだったら、いいよ。所詮ぼくらシステム屋は毎日最新情報を勉強して追いつくのが仕事の一部なんだから。
 でも、受講生の大半は製造とか営業とかの配属だし、みんな素人だからね。素人相手にそういうツールの細かい話をしてもしかたないんじゃないか、って思うんだ。
 
「ふーん。でも運転中は考え事はやめてね。そうでなくてもあなたはぼんやり屋さんなんだから。」

--こんな渋滞でどこに注意を向けろっていうんだ。

「どうしてそんな人たちまでコンピュータの講義を受けなくちゃならないの?」

--それはさ。今ぼくらの会社では基幹業務はみんな情報システムの上にのっているんだ。みんな端末を使えなければ仕事にならない。いや、それだけじゃなくて、これからの仕事のあり方を変えていくためには、ITへの理解は欠かせないんだ。度胸と根性だけじゃ、これからの競争には勝てない。

「キーボードの使い方とか、教えるわけ?」

--馬鹿言うなよ。集合研修じゃそこまで面倒見てられないし、今時そんなこと知らないやつもいないだろう。そうじゃなくて、もっと根幹の、ITというものへの理解を深めてもらう必要があるんだ。だけど、これが難しくてね。
 ITって今じゃはやり言葉で、みんなIT、ITって言うけれど、本質がわかってる人は少ないね。
 
「あなたの会社のえらい人も、きっとそうなんでしょう?」

--ご明察。でも無関心ではいられない時代だからね。

「わたしのところも、けっこう最近みんなITがどうのこうの、って話が多いわね。うちの翻訳事務所なんてPCでワープロ使うのが関の山だったのに、ソフトウェアの権利関係がどうの、ビジネスモデル特許がどうので、得意先の弁理士や弁護士の先生たち、頭を悩ましているもの。」

--わかる気がする。法律なんて所詮この世界のスピードに追いついていないし。

「わたしだってちゃんと分かりたいわ。分からないまま自分が振り回されるのは嫌だもの。他人のご高説を鵜呑みにするのも、いや。
 どお、まだこの渋滞じゃ時間もたっぷりあるみたいだし、せっかくだから、わたしがあなたの講義の聞き役になってあげる。」

彼女は顔をこちらに向けると、目をじっと見つめて、言った。

「ねえ、ITって、何?」


(この稿つづく)
by Tomoichi_Sato | 2010-09-23 22:12 | ITって、何? | Comments(0)

「ITって、何?」掲載にあたって

これから何回かに分けて掲載する「ITって、何?」という話は、わたしが数年前に書きためて、一部の方に公開した原稿です。IT(情報技術)というものの意味と意義を、使い手の側に分かってもらうことを意図して、この対話編をつくりました。今の時点からみると若干古い部分もあるとは思いますが、技術論が主眼ではないので、まだ多くは通用すると信じます。

当時も今も、ITに関しては、作り手のための技術的情報はあふれていますが、使い手との間の意識のギャップはむしろ広がるばかりという気がします。本屋にいけばIT関連コーナーに本が平積みされていますが、そのほとんどは内部の仕組みを解説した技術論か、有名企業の成功事例を紹介した経済評論ばかり。いわば、園芸の本をあけたら、種と、みのった果実の話だけしかない状態です。ユーザが知りたいのはその中間の話、木の姿かたちと性質、育て方なのに。

また政府の政策やメディアの論調などをみても、IT産業論はいまだに、コンピュータという名前の電子機器や通信ネットワークのインフラを提供する企業の育成支援が主眼で、それにソフトウェア開発業界の強化が付け加わる程度です。つまり、供給者サイドの政策ばかりで、使用者サイドの視点が足りていません。この溝を埋めない限り、本当の意味でITの価値が日本社会に受け入れられることはないでしょう。使用者側の意識と理解が高まらないと、IT業界は苦境から脱せないばかりか、一般企業における真の競争力も高まらないのです。

・・まあ、そこまで大げさなことは言わないにせよ、私たちが日常で接するITという道具について、この小さなストーリーが、読者の方にとって多少なりとも考え直すきっかけとなれれば、幸いです。

週1回のペースで掲載していく予定ですので、よろしければ、どうかおつきあいください。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-23 22:02 | ITって、何? | Comments(0)

組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾

日本がバブル経済絶頂期だった1990年頃、一つの社会的な地殻変動が静かに進行していた。それが人口ピラミッドの変化で、三角形から釣り鐘型にはっきり移行した。年功序列制による組織ピラミッドとの相似則がこの時点で崩れはじめたにもかかわらず、企業は給与制度の小手先の変更や非正規労働形態へのシフトなどで対応しようとした。本来うまくやれば、実務経験も深く専門知識も持つプロフェッショナルを多数抱えた、きわめて先進的な社会に日本が変貌できるチャンスだった。にもかかわらず、それをふいにして、管理層ばかり肥大した機能不全な企業群が出現してしまった、という事情を前回書いた

これに関連して、もう一つ思い出すことがある。たしか浜松で行われたスケジューリング学会シンポジウムでのことだったから、もう8,9年も前のことか。宿舎での懇親会で、ある経営コンサルティング会社の方が、日本を代表する映像音響機器メーカーを例に、こんなことを言われたのだった。「S社の人事部門が、就職志望学生の履歴書からあえて大学名を削除したことがあるんですよ。真の実力ベースの採用を目指したんですね。ところが、採用決定後、ふたを開けてみると、上位採用者には東大卒がずらりと並んだそうです。」

このコンサルは、結局、優秀な大学を出た人間は大学名を伏せても優秀だ、とおっしゃりたかったらしい。しかし、わたしの印象は違った。“それはつまり、人事採用担当部が、そつのない秀才型の人間を好んで選ぶようになっている、ということだ。”--そして、S社から転職してきた隣の部の後輩の顔を思い出しながら、こう考えた。“人事がそんな状態では、こりゃあS社の将来は危ないぞ・・”

むろん、これは単なる伝聞である。事実とは全く相違しているのかもしれない。そうであってほしい。大学名など見ず、ほんとに実力のある人間を採用し続けているのだと思いたい。

わたし自身は、絵に描いたような『愛社精神』とはおよそ無縁な人間だ。しかし、自分の勤務先について、一つだけ自慢しても良いかな、と思うことがある。それは、わたしの会社は大学を出ていなくても社長になれる、と言うことである。事実、今から二代前の社長は高専卒だった。偶然ながら、わたしが入社したときの社長も高専卒だった。日経平均225社の中でも、大卒以外の社長はかなり少数だろう。でも、エンジニアというのは、学歴ではなく、その腕前が全てなのだ。その証左として、大卒でなくてもトップになれる事実を、わたしはちょっぴり誇りに感じた。

実際、高専卒の人は(わたしが出会った限り)ほとんどみな努力家でまともだった。あるとき、「高専卒の人ってたしかに優秀ですよね」と、飲み会の席で部長に言ったら、あとでその部長も高専卒だったと聞いて赤面したこともある。そういうわけで、わたしは他人の学歴について興味がないし、事実、部下の出身大学名も知らない。ただ専攻した学科はむろん聞く。機械屋なのか、化工屋なのか、はたまた土木屋なのかは大いに重要だからだ。

話を戻すが、1990年に起きた、もう一つの地殻変動的現象があった。それは、高卒者・大卒者の数の逆転である。'80年代までは、高卒者の方が多かった。しかし今日では、高校卒からの大学進学者は53%を超えている(出典:総務省統計局ホームページ )。大学進学者は戦後ほぼ一貫して増え続け、他方、高卒での就職は'80年以降、どんどん減ってきている。
e0058447_19132577.gif


なぜか。答えは誰でも知っている。大卒の方が得だからだ。高卒で就職して、工員や店員になっても、たいした賃金はもらえない。いや、それ以上に、高卒では上にあがれないのだ。高卒で部長になれるトヨタのような会社は例外で、重厚長大産業など多くの伝統ある企業では、今日でも「高卒は課長どまり」の不文律がある。高卒はブルーカラーであり、それを統括し管理するのが大卒のホワイトカラーである。なぜ大卒は管理できるのか? それは、高等教育により専門知識を身につけているから、という訳だ。

それどころか、わたしの勤務先では今日、技術系はほとんど修士卒をとっていて、高専卒はおろか大卒さえろくに採用していない(ですよね、人事部長様?)。わたし自身も修士卒だ。これは技術系の内容が高度化しすぎて、教育年数が長くなってしまった影響だろう。学部卒はいわば「仮免」で、修士を出てやっと「一種免許」、という感覚なのだ。

官庁系や、官庁に準じる企業などでは、さらに「キャリア」と「ノンキャリア」の区別があることもご存じだろう。「キャリア組」というのは、優秀なる大学を卒業し、栄えある試験にパスして任命された少数の人たちで、彼らは最初から幹部候補生である。20代の終わりには、若くして所長だの署長だのといった地位に就く。ノンキャリアは、どんなに現場の実務でながくcarrierを積もうとも、幹部には昇格できない。

そう。組織における管理階層は、じつは学歴のピラミッドでもあった。最上層には、一部の学歴エリートがおり、その下には大卒のホワイトカラー、さらにその下には高卒のブルーカラー、という構造である。それぞれの階層の中は、さらに「年功序列」制によって支配されている。

この構造は、大学進学者が高卒就業者を上回った'90年初頭以来、崩れてきてしまった。学歴の三角形と管理階層の三角形の間の「相似則」が、成立しなくなった。高い技能を持つ工場の熟練工が、どんなにメディアで持ち上げられても、生涯賃金の点で不利な職工になり手が無くなってしまったのである。おかげで、最近では、日本の現場力は危機的な状況に陥りつつある。産業で使う大型・高速の回転機械は、いまだ韓国の追随を許さず、日本と欧州の独壇場である。にもかかわらず、優秀な溶接工が払底しているおかげで、注文を受けても国内で製造できぬ事態にいたりつつあるのだ。

それでは、どうしたらいいのか? 国が進める「ものつくり大学」のように、一部の優秀な技能工に高等教育を授けることが解決策なのか?

わたしは、まったく逆の解決策があると考えている。それは、「大卒者が高度な職人を目指すこと」である。大卒や院卒の人間は、なぜ紙とパソコンだけを道具とする抽象的な仕事ばかりに限られるのか? 具体的なモノや自分の手先・五感に関わる仕事をしてもいいではないか。

事実、ある機械メーカーでは、数年前から、大卒・院卒を製造現場に入れ、NC旋盤だのマシニングセンターのオペレーションを任せているという。その結果、面白いことに、大卒者は短期間のうちに技量を現すばかりでなく、前後工程の調整・とりまとめなど、従来は工程管理者が立ち入って手配しなければならなかった仕事を、現場側が作業区内で解決できるようになったという。それはやはり、高等教育によって得た広い視野が助けになっているのだろう。

むろん、このような施策が受け入れられるためには、等級・給与制度の改革、労働組合の説得など、多数の障害が待ち受けている。つねに成功するとは限らぬ。しかし、今後も増えるばかりの大卒者に、ホワイトカラーの「管理の仕事」だけを期待するのは、不自然である。1人のブルーカラーを、2人のホワイトカラーが「管理」するのは明らかにおかしいからだ。現在は不況のため、大卒者の就職率は危機的状況だが、かりに景気が少し戻ったとしても、すでに学歴ピラミッドの構造的不均衡はとりかえしがつかないのだ。

ちなみに、産業機械の業界で、欧州(具体的に言うとドイツとイタリアだが)にまだ競争力がある理由は、明瞭だ。この二つの国は、『職人芸』が生きていて、社会的に尊敬されているのである。ドイツのマイスター制度はよく知られているが、イタリアにもディプロマ制がある。逆にフランスの職人制度は'70年代には衰退に入っていて、人類学者レヴィ=ストロースが嘆いていた。

近年、私たちの国では農業や漁業、あるいは手工業の職人の仕事に興味を持つ若い人が増えてきている。すでに農業志望者の数は急増中だ(農業人口自体は激減しているのに!)。ここにはブルーカラーからの転職も多く含まれているが、従来ならばホワイトカラー候補者だった人もたくさんいる。「高度な教育を受けた若い職人」という、歴史上例を見ないリソースを多数有する社会となれば、国際的にもまったく別の将来像が見えてくるのではないだろうか。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-19 19:21 | 考えるヒント | Comments(2)

組織のピラミッドはなぜ崩壊したか


 手にならす夏の扇と思へども ただ秋風のすみかなりけり   藤原良経

夏の盛りに、ふと秋の予兆を感じとれる詩人の「気づき」は、まことに素晴らしい。ふつう私たちは、過ぎてしまってから「そういえばあの時が・・」という形で気づくのだ。真っ盛りにいるときは、なんだかその季節が永遠に続くように錯覚する。とくに、ことが経済やお金、つまり私たちの『願望』に関わるときは、そうである。

1990年といえば、日本はバブル経済の絶頂期であった。「どちらを向いても景気の良い話ばかりである」と経済評論家は書いた。日本の地価も株価もスカイロケットのように上昇し、“世界中の人々が最先端都市・東京を一目見ようと集まって来ている”と青山あたりのカフェバーでビジネスマン達が得意気に叫んでいた。その年に、変化の予兆を気づいた人はとても少なかったにちがいない。

どんな変化か? それは、人口ピラミッドの構造変化である。次のグラフを見ていただきたい(出典:総務省統計局ホームページ )。まず、1950年(昭和25年)のグラフだ。非常に単純な、三角形のプラミッド型をしていることがわかると思う。終戦直後、まだ日本が敗戦の傷から癒えようとしている時代だ。
e0058447_0511026.gif


一方、現在はどうか。2番目のグラフが、2010年のデータだ。全くピラミッド型をしていないのが分かると思う。ちょっと遠目で見ると、まるで男女が背中合わせに顔をそむけあっているかのように見える。若年人口は、年を追うごとにどんどん減っている。高齢者比率が、とても高い。
e0058447_0512337.gif


では、いつからこのような形に変わってしまったのか。それが1990年なのである。グラフを10年ごとに追いかけてみると、'80年頃までは、からくも「ピラミッド」的だったことが分かる。日本が高度成長をしていた時代は、すなわち、年齢の順に人口が減っていく社会であった。
e0058447_0513248.gif


そして、この人口のピラミッドはちょうど、企業や官公庁などにおける組織の「管理のピラミッド」と相似形だったのだ。組織は三角形で、頂点にトップマネジメントがおり、上層部に役員、中間層にミドルの管理職、そして一般労働者層の順に、人数が増えていく。役員は複数の部長を統括し、部長は複数課長を統括し、課長の下には課員が大勢いる--そうしたスタイルが普通だった。

この人口ピラミッドと組織階層ピラミッドの相似則を保証するものが、『年功序列制』であった。組織における年功序列制と前例主義とが、伝統的マネジメント思想、すなわち安全第一主義に同じ根を持つことは、「リスクに対する新しいアプローチ」にも書いたとおりだ。高度成長期というのは、多少の景気の波はあれどずっと“成長し続けた”時代だから、二つのピラミッドの相似則は、同じアプローチで拡大路線を進み続けるには最適だったわけだ。

この相似則は、1990年頃を境にして、崩れていく。'90年代は、「部下を持たない管理職」が増えていった時代だ。私自身も'90年代に中間管理職の職位になったが、何年間も部下はゼロだった。“いったい誰を管理するんだ?”--それが私たちの共通の疑問だった。全社員の中の平社員と管理職社員の比率も、じりじりと1対1に近づいていった。そもそも、社員の平均年齢自体が上がっていったのだ。

このようなことを背景として、仕事の上での変化が生じた。組織間の「斜めのコミュニケーション」が増えたのだ。上司や先輩を飛ばして、別の部門の管理職と直接、仕事のやりとりをする。古き良き時代には、部門間のやりとりは必ず部門長を通すのが、ルールだった。でも、だんだんと守られなくなったのだ。なぜなら、管理職ばかりが増えて、実務をやる若手の人間が相対的に減ってきたからだ。おまけに、'90年代に入って、新規分野だ新技術だと、複数部門をまたぐ仕事がどんどん増えていった。かくして、管理職は大勢いるのに、ノーチェックの文書は逆に増加した。これで、仕事の品質が保てたら、奇跡である。

誰のせいでこうなったのか? --誰のせいでもない、私たち自身が望んだことなのだ。長生きしたいと、皆が望んだ。衛生的な社会にしたいと、皆が努力した。高度な教育を受けて知的な職業に就きたいと、大勢が考えた。その結果、長寿社会が到来し、結婚年齢が上がり、出産率は低下した。人口ピラミッドの構造変化は、皆の夢が結実した結果ではないか。それは、予見されるべきことだったのである。

年功序列制の崩壊に直面して、企業のとった行動は、人事制度の改革だった。人事部門は競って、「成果主義」と「年棒制」の導入に走った。その陰で、じつは人件費抑制も隠れたねらいの一つだった

だが、その効果が上がらなかったことは、皆が知っている。会社の人事制度は変えたが、目標管理に用いるモノサシは変えなかったからだ。相変わらず、大量見込生産時代の「売上高」「市場シェア」「製造原価低減」「稼働率」重視で、それを目標管理と成果主義に組み込んだだけだった。時代が求める、個別受注生産・短納期化へのシフトや、付加価値生産性の向上は二の次だった。

その結果として、売上も利益も低下した。この問題を新製品の多数投入で乗り切ろうとしたから、オーバーヘッド(販売管理費)は上がるばかりだ。そして、組織内に自社の「高コスト体質」をなじる声が蔓延した。その先には、早期退職制度があり(でも大事な人がまっ先に辞めた)、非正規労働者への傾斜、アウトソーシング、そしてオフショア分業の進行が続いていった。企業はいわば頭を残しして、手足や胴体を切っていった訳である。

私たちはどこで間違えたのだろうか。一つには、人事制度という狭い枠の中で、局所最適を考えたことにあるだろう。だが問題は、マネジメントの思想と位置づけにある。マネジメント(職務)と地位(職位)を混同してしまったのだ。そして経験値(年功)とも。それこそが年功序列制の最大の弊害だった。

では、経験値のある人は、管理職になるかわりに、何になるべきだったのか? 答えは「プロフェッショナル」Professional、である。この言葉を私は、知的で専門的な独立型職業という英語本来の意味で使っている。自分の専門の経験知に基づき、税務や会計や保険労務のプロフェッショナルになる、あるいは技術屋なら、米国でいうProfessional EngineerやAnalystになる--それこそまさに、シニアなベテラン達にふさわしい位置づけではないか。

そして企業は、社内外の相談に乗り問題解決に力を貸す自立した「プロフェッショナル」の職種を確立し、自社内で、あるいは社会において、積極的に利用するべきであった。Professional Serviceの質と量で、その人の処遇や評価を決めるべきであった。

だが現実はそうではなかった。私たちの社会は大勢の自立したプロフェッショナルを得るかわりに、組織体制にしがみつくことで保身をはかる、ピラミッドの中上層を大量に抱えることになった。かくて、存続だけが自己目的化した組織が出来上がった。いいかえれば、「決めない人々」の組織となったのだ。世の中はどんどん変化していく。なのに、誰も何も決められず、何もかえられない組織に。

こうして、組織は機能不全に陥っていったのだった。だが、加えてにもう一つ、要因があったように思われる。このことについては、稿をあらためて、また書こう。

(この項つづく)
by Tomoichi_Sato | 2010-09-16 00:53 | 考えるヒント | Comments(0)

マネジメントのX理論とY理論

イギリスから来た同僚たちと飲んでいたら、たまたまスポーツの話になった。「スポーツには階級がある」と彼らの一人はいう。「たとえば、ホッケーはミドル・クラスのスポーツだ。」と彼は続ける(英国の話なのでアイスホッケーではなくて、グラウンド・ホッケーである)。「なぜならば、ホッケーは長くて硬いスティックを使う。こんなものをローアー・クラスの連中に持たせたら、殴り合って大変な騒ぎになる。」

無論、ジョークである。しかし、“イギリスにはClass systemがある”という彼の発言は、本当だろう。階級制度は緩んだとはいえ、まだ厳然とそこにある。欧州は、多かれ少なかれ、似た状況だ。

それで思いだしたのは「きかんしゃトーマス」の、シーンだった。子供が小さかった頃、このTV番組を一緒によく見た。イギリス製の人形アニメで、蒸気機関車のトーマスが主人公になっている。ある回では、機関車仲間のジェームズが、たくさんの貨車を引いて下り坂で脱線し、ひどい目に遭う。貨車達がおもしろ半分に押したり引いたりして騒いだからだ。この番組では、貨車達は常にガラがわるく、自分勝手で、真面目に働こうという気などさらさらない。それを機関車が何とか束ねて、仕事を仕上げるのだ。

「きかんしゃトーマス」を見ていて、つくづく階級制度の見方を思い知らされた。物語の世界には、一番上にトップハムハット卿という鉄道の経営者がいて、その下に真面目な機関車たちがおり、彼らはトーマスやヘンリーといった名前で呼ばれている。そして一番下には、不真面目な大勢の貨車達がおり、彼らは名前もない『その他大勢』である。これはちょうど、英国におけるアッパー、ミドル、ローアーの階級に対応しているらしい。そして、観客である私は、主人公の機関車たちに感情移入する(それは何も、「機関車」Engineが、自分の職業であるEngineerと近親の言葉だから、という訳ばかりではない)。ミドルの使命は、経営者の指示に従って、不埒な労働者をたばねることにある。だが、どのようにしてか?

近代的なマネジメントというのは、イギリス人の発明である。彼らは産業革命と帝国時代をリードし続けて、巨大な軍事力と政治力を維持し続けた。もっともその最盛期は第1次大戦までで、その跡目はアメリカが受け継ぐこととなった。そして20世紀を通して、マネジメントの思想に最も影響力を持ったのはアメリカの経営学であった。

その米国経営学は、今からちょうど100年前、テイラーの科学的管理法にはじまった。テイラーは、肉体労働者の作業をストップウォッチで分析し、どのような動作と休憩の組合せが最も生産性を上げるかを研究した。ところが、'30年代の後半頃から、経営学の風向きが変わる。テイラー流の客観主義から、「モチベーション論」を中心とした主観主義に移っていくのである。

その中心的役割を果たした一人が、D・マグレガーであった。彼は1960年に有名な「X理論とY理論」のモデルを提唱する。

X理論とは何か。それは、「人間は本来怠け者である」という考え方から生まれる経営理論である。平均的な人間は、無責任で、命令されることを好む、とする。そこから、人をマネジメントするためには法とルール、命令と懲罰が必要だ、との発想が出てくる。「きかんしゃトーマス」たちが、貨車に対して感じたことがこれである。そして、法とルールとは、被雇用者各人に対して、業務の責任範囲を明確化し明文化し、雇用契約書で縛ることにつながっていく。職務記述書も、この流れから生まれる。

それに対して、Y理論とは、「人間は仕事を通じた目標達成や自己実現の欲求をも持っている存在である」と考える。そこから、個人の欲求や目標を企業目標に合致させるような目標管理・自己管理の手法が生まれる。また、個人の創造性や工夫を、誰もが活かせる環境を作るべきだ、との方針が出てくる。「現代企業では、従業員の知的能力はほんの一部しか生かされていない。」とマグレガーは書く。彼の主著のタイトルが『企業の人間的側面』であったことは象徴的だ。

X理論からY理論へのシフトを主張したマグレガーの思想は、著名な経営コンサルタント、トム・ピーターズなどにも影響を及ぼしているといわれる。しかし、'70年代ごろから次第に、米国の経営学は客観主義へと揺り戻しが起きてくる。そして、ポートフォリオ理論やオプション価格理論など、ミクロ経済学からの流入が強まっていく。「金融工学」の誕生である。その中で、マグレガーのY理論は次第に忘れられていく。従業員は次第に、いつでも好きなときに交換可能な、お金で買える部品のように扱われるようになっていった。

米国の経営学の思潮がこのように主観と客観の間を行きつ戻りつしている背景には、米国の産業の発展形態もあるのだろう。つまり、20世紀初頭の「モノがお金を生む」時代があり、そこから「人がお金を生む」時代に移る。しかし、やがて「お金がお金を生む」金融資本主義に推移していったのだ。それに応じるように、経営学の主たる対象も変わってきたのだろう。ただし、これまでの経緯を見ていると、一世代30年強を単位に変化してきたから、そろそろまた次の世代にうつるときなのかもしれない。

いずれにせよ、もともと英国でX理論的マネジメントが幅をきかせてきた理由は、おそらく階級制度にあった。労働者階級に生まれついた人間は、滅多にそこから這い上がれない。したがって、働くことに意欲も持ち得ない。モラルも高くならない。だから規則と懲罰で縛るという発想である。また、米国では、(前にも書いたように)奴隷労働によるプランテーション経営の遺風が、いまだかすかに漂っている。人種を分断する壁があり、おまけに社会的流動性も高い。こうしたことが、X理論的なマネジメントを助長させていったのだと思われる。

それでは、私たちの社会はどうなのか。過去20年近い不況の間に、マネジメントの思考はX理論にどんどん接近していった。しかし日本には、英米のような階級制度や人種構造があったのか? 否である。それならば、なぜ英米のマネジメント流儀だけを今さら真似るのか? 歴史を見ないで思考だけを真似る習慣、土壌を見ないで果実だけを輸入する風習からは、もう卒業していい時ではないだろうか。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-11 21:56 | ビジネス | Comments(1)

スケジューリングシンポジウム2010: お礼

おかげさまで、スケジューリングシンポジウム2010は二日間にわたり、成功裏に終了いたしました。
小生の担当した「プロジェクト・マネジメント」も、優れた事例報告や研究発表のおかげで活発なディスカッションができました。オーガナイザとしてうれしい限りです。

大勢の方のご来聴に心から感謝いたします。

佐藤知一
by Tomoichi_Sato | 2010-09-11 21:49 | ビジネス | Comments(1)

頭の良いおバカさんたち

歌を歌いながら、頭の中で数を数えられますか? --誰かにそう聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか。

ノーベル賞物理学者のファインマンは、これができたという。なかなか面白い資質だ。そう思いながら、ためしに自分もトライしてみたら、一応不器用ながらもできることに気がついた。だからといって、私がファインマンなみに頭が良いわけではない。第一、私は高等数学が苦手だ。

その理由はなぜかというと、頭の中での代入操作が下手だからだ。頭の中にひとつの記号を保持しておいて、それを別の記号で連続して置き換えていくような『演繹』的操作ができない。数式の展開や、複雑なプロットのミステリーはとまどうばかり。囲碁将棋などでは「3手先を読む」こともできないので、人に勝てたためしがない。私が好きなのは、『帰納』的に情報を集約することで、「それは要するにこうでしょ?」と乱暴な断定をして、人をあきれさせるのが得意技である。

ついでにいうと、私は年々歳々、記憶力の減衰を実感している。とくに、短期記憶が弱い。意味のない記号列や、単語だけの記憶力が弱いので、ひどいときには同僚宛の電話の伝言を受けて、受話器を置いた瞬間に相手の名前を忘れていたりする。“なんて頭がわるいんだ”と自分でもあきれる。聞いている最中に紙にメモしないと、頭に残らないのだ。

世界史の年号暗記なども学生時代からひどく不得意である。そもそも、理解しないものごとを暗記することができないのだ。ただし、長期の記憶、それもエピソードや五感や情動に裏打ちされた記憶は、それなりに頭の中に残る。

だが、そもそも「頭が良い」とは、どのようなことを意味しているのだろうか? 心理学者のC・G・ユングは人間の心理的な類型を、『思考型』『感情型』『直感型』『感覚型』の4種類に大別した。どうやらここに大きなヒントがあるようだ。元のドイツ語と日本語の訳語(漢語)の対応が良くないので、わかりにくいが、思考型の人間は言語的な論理性を中心に演繹的にものを考える傾向があり、直感型は非言語的なパターン認識能力によって帰納的にものを判断するのが得意であるらしい。私は明らかに直感型に属するようだ。つまり、思いつき型、である。これは私の家族も同僚も苦笑しながら同意してくれると思う。

私のような直感型の人間にとって、筆記試験のための勉強とは、暗記でも論理性のトレーニングでもない。「出題者はこの種の問題でどいういう答えを求めているのか?」を推測するための、パターンの検出こそが試験勉強なのだった。出題者は受験者の論理能力とか、記憶力とかを、たぶん測るつもりでいるのだろう。しかし、私は、他人のモノサシを検出する能力を磨くことで、試験をくぐり抜けてきた。

日本では、記憶力の良い人、勉強がよくできる人を指して、「頭が良い」と評することが多い。しかし、こうしてみると、頭のよしあしの方向というものは、いろいろあるのだ。それはちょうど、身体能力といっても、いろいろあるようなものだ。目が良い、足が速い、動作が俊敏である、力が強い・・頭が良いという性質は、こうしたことと同列のことでしかない。

かつて狩猟と採集の時代には、目が良いことや足が速いことは、とても生存に有利だったにちがいない。農耕の時代には、力が強いことが大事だったはずだ。手工業の職人の時代なら、手先が器用である、とか。どの能力が幅を利かせるかは、その時代の生活様式によって決まる。

ポスト工業時代の現代は、「頭の良い」人たちがいろいろと幅を利かせる時代である。試験勉強がお上手で、良い大学を出て高学歴を誇る人たちは、自分たちが赤の他人に命令する天賦の権利を持つ、ひとかどの人間であると考えちがいをするらしい。そして、若くしてキャリア職やマネージャー職について、采配を振るうことになる。お勉強上手の人たちは、「わかる」ことと「知る」ことの違いを気にかけない。そんなことに煩わされていたら、よくわかりもしない事象について、本社から末端現場に指示を出せなくなってしまう。

“日本を代表する自動車の2大メーカーのうち、片方の企業は一時、まったく東大出の人間を採用しなかった。もう一方の企業は、東大出をどんどん採用し続けた。その結果はどうだ。会社としての実力は完全に差がついてしまったではないか”--そんな話を昔、父親から聞いた記憶がある。真偽のほどは定かではない。しかし、後者の企業はプレゼン上手な人が出世する、というような噂を聞くと、さもありなん、と思ってしまう。

お勉強上手なだけの「頭の良い」人達の話を、あまり鵜呑みにしない方がいいと思う。自分の頭のよさを証明するために生きているような人が多いから、自分のロジックに酔う。狭いスコープの中で自分の論理性をひけらかすのに忙しくて、マクロな視点から問題を捉えることを怠る。モノサシを疑えないのだ。

大事なことは、賢くなることだ。私はこの言葉を、頭が良い、とは別の、人格を含めた意味で使っている。両者は、無関係の属性だ。大した教育は受けていなくても賢い人は賢い。頭が良くておバカな人も多い。頭のいい人は与えられた問題を解く。しかし、賢い人はより適切な問題を提示する

私は、少しは賢くなりたいと思う。そして、こいつが難しいのだ。頭の良さは、大学で学べば少しは磨かれる。しかし賢さは大学では学べない。そもそも、教えたり教えられたりできることではないのだから。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-08 22:54 | 考えるヒント | Comments(0)

サプライチェーンのリスク・マネジメント

何年か前、国内で工場の事故・火災があいついだことがあった。新日鉄の製鉄所で爆発事故があったと思ったら、すぐにブリジストンの工場でも火災が発生し、かと思うと今度は地震が引きがねとなって出光興産の製油所のタンクが火を噴く、といったぐあいだ。さらに新日本石油の製油所まで出火があった(これは幸い短時間で鎮火したが)。

その時、たぶん出すだろうな、と思ったら案の定、経済産業省は工場の安全体制について指示だか通達だかを出した。問題が起こったら、あわてて指示を出す。問題が起こらない限り、何の確認も質問も出さない。お役人というのは、前もって問題を予知しリスクに対処するという、プリベンティブ・メンテナンス(予防保全)やリスク・マネジメントの考え方が、さっぱり身に付いていないところらしい。

この新日鉄とブリジストンの工場の火災事故に関しては、トヨタが自動車生産量を見直す羽目になった、というのでニュースになった。大規模な爆発事故が起こったのに、有害物質拡散の事実確認や近隣住民への影響をさておいて、自動車メーカーの生産量を心配するとは、ずいぶんこの国のメディアは報道スタンスが歪んでいるな、と思う。が、それはさておき、この日本のサプライチェーン・マネジメントの模範生である自動車メーカーの困惑は、想像以上だったろう。

じつは、リスク・マネジメントで必要とされる方策は、一般にサプライチェーン・マネジメントが教える戦略と、真っ向から対立する。そのことに多くの人は気がついていないようだ。そして、両者を同時に満足できる原則とはどのようなものか--これが今回のテーマだ。

サプライチェーン・マネジメントの参考書では、だいたい、次のような戦略が推奨されている:
(1)不要な在庫を削減し、在庫量をサプライチェーン全体にわたって最小化すること
(2)サプライヤーの数を絞り込み、安価で継続的な供給が実現できるようアライアンスを組むこと
(3)需要と供給を機敏に同期化できるよう、計画と意思決定権限を集中化すること

ところで、供給活動において、リスク・マネジメントの見地から必要とされる方策は、どのようなものだろうか。リスクというものは、それが小さな故障であれ、ディザスターと呼ぶしかないような大規模な災害であろうと、正確には予見しがたい事象の可能性を指す(規模の大小というのは、それを計るものの立場で決まるわけで、絶対的な基準があるわけではない)。

サプライチェーンというのは、物的供給のためのシステムである。サプライヤーからメーカーを通り、販売者から最終消費者へと、商品を受け渡す仕組みである。それを動かすのは需要情報や指示情報だ。そこにおける予期せぬ外乱とは、すなわち、供給経路が遅延ないし遮断されたり、ストックが物理的損害を受けたり、情報が隔絶したりする事象を指す。

したがって供給システムが、予期せぬ外乱や遮断に対して、安定性を保つためにとれる手段は、基本的に二つしかない。それは、どこかに変動を吸収できる余分なバッファーをもうけるか、あるいは供給経路を冗長化するか、である。つまり、言いかえれば、在庫をもつか、さもなくばサプライヤーを複数用意するか、なのである。上記の(1)と(2)の要請と、真っ向から対立することが、これでおわかりだろう。

さらに、物的供給経路ではなく、情報経路が遮断されるリスクに対しては、意思決定権限をローカルな単位に分散して、中央からの指示が無くても自律的に行動を続けられるようにするしかない。つまり、(3)の要請に背くわけだ。

こう考えていくと、サプライチェーンのリスク・マネジメントがいかに矛盾に満ちたものであるか、理解できると思う。それでは、この二律背反を解く原理や方法はないのだろうか。じつは、あるのだ。それも、思いがけないところにヒントがある。

それは、通信工学である。通信路における情報伝達速度の向上と、耐ノイズ性の向上との矛盾は、サプライチェーンの悩みとよく似た問題である。そして、通信工学(情報工学)の教える方策は、こうだ。
(1)まず、通信電文を効率よく符号化して、可能な限り無駄を省いて圧縮する。
(2)次に、意図して冗長性をつけ加える。ただし、その冗長性は、受信側がノイズを除去できるようなロジックにしたがって、つけ加えなければならない。
この手法は、シリアル通信におけるチェック・ディジットからATM通信に至るまで広く応用されて、成功を収めている。

われわれがサプライチェーンの問題に取り組むときも、方針は同じだ。
(1)まず、冗長性を省く。不要な在庫や過剰な供給経路を発見して、すべて排除すること
(2)つぎに、意図して冗長性を付け加える。つまり、脆弱性の予見される部分に、バックアップ的なサプライヤーや、変動を吸収するためのバッファー在庫をおく。「良い在庫・わるい在庫」で述べたように、“出来ちゃった在庫”ではなく“意図した在庫”は善なのである。

このような手順を行なえば、サプライチェーンのスリム化とリスク管理のバランスをとることができる。英語のことわざに、『すべての卵を一つの籠に入れてはいけない』というのがあるが、分散化がリスク管理の基本である。意図した在庫とルートの分散化こそ、サプライチェーンの強靱さを守るのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-04 18:43 | サプライチェーン | Comments(0)