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お知らせ:「スケジューリングシンポジウム2010」で講演発表します

日本中のスケジューリング分野の専門家・研究者・実務家が年1回集う、「スケジューリングシンポジウム」(主催:スケジューリング学会)をご存じでしょうか? 今年は第10周年記念として、「スケジューリングシンポジウム2010」が、きたる9月10日(金)・11日(土)、千代田区の法政大学で開催されます。
今回はわたしがオーガナイザとして「プロジェクト・マネジメント」のセッションを企画しています(11日14:30~)。

講演者とタイトルは次の通りです。

リスク確率に基づく新しいプロジェクト評価の理論的枠組みについて
 ○佐藤 知一(日揮(株))

エンジニアリング・プロジェクトにおける機器資材調達マネジメント
 ○橋野 秀紀(東洋エンジニアリング株式会社)

CCPMの受託型ITプロジェクトにおける導入事例
 ○岡村 孝彦(株式会社NTTデータ)

個別受注生産型の大型産業機械における工程計画システムの適用事例
 ○木村 早帆(株式会社 荏原製作所)

ご興味がある方はぜひご来場ください。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-31 00:16 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評 「バーナード 経営者の役割」 飯野春樹・編

バーナード経営者の役割 (有斐閣新書 D 35)

経営学の教科書などを読むと、バーナードの「経営者の役割」は古典として位置づけられている。経営学は20世紀に入ってから形作られた学問で、テイラーの「科学的管理法」、ファヨールの「管理過程論」、それらに少し遅れる形で1938年のバーナードの組織理論が三大基礎と言えるだろう。この3人とも、学者でなく実務家だったのは注目に値する。技師長テイラーの理論はIE(Industrial Engineering)としてフォード・システムの大量生産に組み入れられ、アメリカ産業の発展に大いに貢献したし、仏の資本家ファヨールのライン-スタッフ機能やマネジメントをプロセスとしてとらえる思考法は、現在の企業経営の中心にある。

これに対して、ニュージャージー・ベル電話会社の社長だったチェスター・バーナードの斬新な人間観とシステム・アプローチによって生み出された組織論は、ノーベル経済学賞を受賞したサイモンの理論に引き継がれているとはいえ、現在では忘れられかけているようにも思える。これはなぜだろうか。

バーナードは、『組織』を構成する三要件として、「共通目的」「協働意識」そして「コミュニケーション」を挙げる。このどれか一つでも欠けたら、組織にはならない。たとえば市町村など地域の住民には、行動における「共通目的」がない。予備校に集まる生徒達には「協働意識」がない。だからこれらは組織とは言えないのである。逆に、会社であれ、役所やボランティア団体であれ、この三要件が成立すれば「組織」であり、そこにはバーナードの経営理論を適用することが可能なのである。

バーナードの理論の基礎には、人間論がある。人間は自由意志と責任を具備した存在だと彼は考え、「個人には目的があるということ、あるいはそうと信じること、および個人に制約があるという経験から、その目的を達成し、制約を克服するために協働が生じる」と彼は書く。つまりここには、経済学が看過した『協働論』があるのである(伝統的「経済人」モデルからは競争論しか出てこない)。

さらに彼は「協働システム」の概念を発明し(これはシステム工学などの現れるはるか前だった)、公式組織という抽象的分析の枠組みを構築していく。管理者の諸機能は、この組織をベースに導かれるのである。たとえば組織の能率とは、そのシステムの均衡を維持するに足りるだけの有効な誘因を提供する能力である。いいかえれば、個人にとって有形無形の利益が得られるほど、働く意欲も高まるわけだ。これは当たり前のように見えるが、目に見える金銭的インセンティブと罰則だけで人を動かそうとする今日的な大企業経営と、いかに隔たっていることか。

そもそも米国のビジネス文化を考える際には、あの国の産業がプランテーションから立ち上がったことを理解した方がいい。米国式のマネジメントは、だから、奴隷を使うプランテーション経営に少し似ている。アメと鞭で労働者を収奪し、使い物にならなくなったら別のと取り替える、という思想がどこかに残っている。こうした風土で、「組織は道徳的制度であり、管理は権限中心から責任中心に移行すべきである」と主張したバーナードの卓見は際だっている。

それでは、なぜ今日バーナードは忘れられつつあるのだろうか。それは、経営学が「人の理論」から「お金の理論」にシフトしたことと関係がある。バーナードの時代、株式は無論あったが、社会が富を生み出す源泉は主に工業の労働であった。今日では、端末でのクリックが巨富を生む金融業の時代である。産業の主従が逆転してしまった。金貸しに協働の理論は要らない。しかし、そうした夢がリーマン・ショックとともに泡とはじけてしまった今、彼の理論は再び重要性を取り戻すにちがいない。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-27 23:25 | 書評 | Comments(3)

欠品という名のリスクを減らすには

一ヶ月ほど前になるが、大手自動車会社N社の生産ラインが、部品納入が間に合わないために数日間ストップする、とのニュースが新聞などを賑わした。問題の電子部品(エンジンの燃料噴射制御ユニット)を納入していたのは、これも大手製造業H社である。H社は大慌てでユニットの中核部品(カスタムIC)を追加手配して、なんとか間に合わせようと必死になっている、との話だった。H社がカスタムICを購入している先は欧州半導体製造企業であった。なのでメディアの論評は、H社の海外調達のあり方に向かったようだった。

この話は、ちょうどその頃に実施した工場見学ツアーのバスの中でも話題になった。この工場見学は、慶応大学管理工学科と生産革新フォーラム(通称『MIF研』)の共同主催によるツアーで、日本を代表する工作機械メーカーA社を訪問にいくところだった。このときの工場見学はとても興味深いものだったが、その内容についてはまた別途書くことにしよう。元の話題に戻ると、N社対H社の問題は、巷間言われているようにサプライヤーH社側に原因があるのではなく、調達元のN社側に原因があるのではないか、というのがMIF研の先輩達の憶測であった。もっと言えば、N社の内示量と実際の引取量に大きな差があったのではないか、という推理である。

自動車産業のサプライチェーンが、自動車会社(つまり最終組立工程と販売網を有するメーカー)を中心とした、一点集中型の構造になっていることは周知のことと思う。一点集中型というのは、計画立案を行うポイントが自動車会社のみにあって、系列サプライヤー企業の生産は、自動車会社の車両生産計画に合わせて制御されるからだ。部品は、最終組立工程に対して、ジャスト・イン・タイムで納入されることを求められる。

そのためのツールが、かんばん方式(あ、N社の場合はこの言葉を使ってはいけないのだった。でも内容はほぼ同じだが)と、先行内示である。自動車会社は、翌月・翌々月における部品の調達見込数量を、あらかじめ部品メーカーに対して「内示」の形で示す。そして、当月の実際の納入は「引取かんばん」で直近に確定する。引取かんばんを受け取った部品メーカー(最近は受け渡しは電子化されているが)は、あらかじめ定められた時間単位のリードタイムどおりに、その数量を生産しておさめなければならない。遅れてはいけないのはもちろんだが、早すぎる納入も許されない。これがジャスト・イン・タイム(JIT)生産方式である。

では、万が一、部品の納入が遅れてしまったらどうなるのか。その場合、最終組立ラインが即座に停止するかというと、そうはならない。自動車会社の側で、必要最小限の部品在庫を持っているのが普通だからだ。その在庫量は、数時間分から、せいぜい数日分程度だ。だから、1週間以上の納入遅れが生じたら、まずライン停止につながると思った方がいい。いったん部品欠品による組立ライン停止となれば、巨額の間接損害のリスクが生じる。だから部品サプライヤーは必死になって「供給義務」を守ることになっている。

さて。問題は需要に変動が生じた場合、どうなるかだ。部品サプライヤーを指導するJIT生産方式のコンサルタント達はふつう、“神様じゃないんだから誰も先の需要なんて正確には予測できない。だから、どんな注文(かんばんによる納入指示)が来ても対応できるように、生産方式を作り上げる必要がある”と主張する。そのためには、ロット数を減らして一個流しを追求し、シングル段取りによって段取り替えロスタイムを極小化し、さらにセル生産により生産能力の自由な増減を可能にしろ、という主旨の現場改善を進めるわけである。

ところで、どのような現場カイゼンを積み上げたとしても、各メーカーには、対応可能な生産変動は無限にはならない。ある上限が存在するはずなのである。その上限を超えるような需要変動(納入指示の急な増減)が生じたら、どうするか。

そこで「内示」が頼りになってくるのである。引取かんばんというのは、実際には発注書ではなく、分納指示書に相当する、と考えられている。つまり、内示書に今月は合計10万個と書かれており、今日受け取ったかんばんでは2万個を納入しろとなっている場合、あと8万個の納入指示が来るのだろうな、と想像できる(もしその日以前に何も納入していなければ)。逆に言うと、部品サプライヤー側では、日単位の急な増減には対応しきれなくても、内示によって月単位での目安量がわかっていれば、その分だけあらかじめ平準化生産して準備・対応すればいいことになる。

ただ、たとえば月間内示が合計10万本と言っていたのに、ある日突然5万本納入しろと言われ、数日もたたぬうちにこんどは7万本ほしいと言われたら、どうするか。月間内示量と、実際の引取量合計にひどい差が出る場合、もはや対応能力を超えてしまうわけだ。そして、これは複数の自動車会社に共通して部品をおさめているメーカーの経営者から直接聞いた話だが、「愛知向け以外の内示は、差が大きくてあてにならない」のだそうだ。愛知向け(某トップ企業)だけは、ほぼ1割内外の差で内示と実績が合致するという。MIF研の先輩達が疑ったのも、N社が出した内示が現実とひどく乖離していたのではないか、という状況なのである(無論これは憶測であって、真相は全く別のところにあるのか見知れないが)。

繰り返すが、欠品というのは生産にとっても販売にとって大きなリスクである。大きな需要変動はそのリスク源である。そして、『リスク・マネジメントは本当に可能か』(2010/08/10)にも書いたとおり、

       可能性×影響度
リスク = ---------
        対応能力

なのである。言いかえれば、部品サプライヤーにとって、

 需要変動の幅 < 対応能力

ならば、このリスクは吸収できる。逆に

 需要変動の幅 >= 対応能力

だったら、もはやリスクは吸収できなくなる。いいかえれば、自動車会社はリスクを部品サプライヤーに転嫁できなくなる。そして、「内示」の正確性は、この「対応能力」を向上させる非常に大きな因子なのである。

リスクというものは、それが外因性のものである場合(需要変動は典型的に外因性だが)、それ自体を無くすことはできない。ただ、対応能力を高めて「吸収」し無化することは可能だ。そして、そのためには中期的な予測(ここでは「内示」)が、その対応能力向上の切り札なのである。そして自動車業界で、予測・計画に責任を持っている唯一のポイントは、自動車メーカーなのだった。いや、たとえどの業種のメーカーであれ、欠品のリスクはとりたくない、でも部品在庫というリスクも回避したい、と思うなら、自社のサプライチェーンが有する対応能力の幅を、正確に把握するしかないのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-24 23:19 | サプライチェーン | Comments(0)

良い在庫・悪い在庫

忘れもしないが、社会人になって初めてやった仕事は、LNGタンクの容量計算だった。プラントのタンク容量というのは化学工学的計算で決めるのだろうと思っていた私に、与えられたのは意外にも乱数シミュレーション・ツールだった。今ならPC上のダイナミック・シミュレータを使うところだが、当時はまだホストコンピュータ上で動く手作りプログラムだった。

LNG、すなわち液化天然ガスは、産出国で液化したものをLNGタンカーという極低温・高圧に耐える特殊な船に積んで、日本などの消費地に輸送する。このタンカーは数台が定期的に産地と消費地を往復するのだが、気候条件などでどうしても積み出しスケジュールに変動が出る。この変動を吸収できるだけの製品在庫量=すなわちタンク容量を求めるのが私の仕事だったのだ。

ここで私はごく初歩的なな法則を学んだ。製品の在庫量は、プラントだけの都合では決められない、ということだ。供給側が連続生産で、引取り側が不連続(タンカーという単位のバッチ引取り)である限り、そこには製品タンクがなくてはならないのだ。

ところで、シミュレーションを繰り返していくうちに、製品タンクの容量は船の到着時間の変動などよりも、もっとずっと大きな要素で決まってしまうことに私は気がついた。それはプラントの定期保守による生産ダウンだった。LNGプラントは定期的に一部をシャットダウンして、点検保守が必要になる。その間、生産量が落ち込むのに、引き取り側はおかまいなしに製品を運び出していってしまうのだ(これは長期販売契約の性質上やむをえない)。

定期保守は、あらかじめスケジュールが決まっていて、変動の入り込む余地は少ない。しかし、マクロな意味での生産と消費のギャップは、製品タンク内の容量で調整するしかないのだ。これは業態から必然的に導き出される法則で、だれかがメンテナンス不要・金属疲労ゼロの大規模コンプレッサーでも発明してくれない限り、逃れようがない。

この時以来、私は、在庫が悪で在庫ゼロが善だ、というような公式を無条件では信じなくなった。たしかに、在庫は需要と供給のギャップの結果として生じる。そして在庫には保管費用や在庫金利がかかる。だから、生産を需要に極力同期化して、在庫を減らし、ただ不可測の変動を吸収できるよう必要最小限の安全在庫だけを持て、と生産管理学は教える。

しかし、業種と製品によっては、生産と消費を完全に同期化することなど不可能なのだ。生産は連続で消費はロット単位だったり、生産は通年で可能だが消費は季節性があったり、生産は大量だが消費は小口にわける必要があったり、需給にギャップが生じるシチュエーションはいくらでもありうる。そういうケースでは、製品在庫は「必要として」現れてくる。

私は、在庫量のレベルを見て、良い・悪いの基準をあてはめるのは、おかしいと考えている。在庫を判断するとしたら、それが意図しておかれた「計画在庫」なのか、意図せずに結果として生み出された「出来ちゃった在庫」なのかの、区別だけだ。明確な意図があれば、目的合理性から判断は可能だ。そして、何も意図がない混沌の中で出来ちゃった結果については、その是非を議論すること自体ナンセンスだと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-21 11:46 | サプライチェーン | Comments(0)

技術力とは何か?

「おーい、この間買ってきた鷹の爪、こっちの入れ物かい?」
「そうよ。あ、それ結構辛いから気をつけて!」
「わかった。・・あれ、でも丸ごと1本入れても、ちっとも辛くならないよ。どうしてかな。」
「あ、たいていのはあんまり辛くないの。でも、たまに、とびきり辛いのが混じってるのよ。」
「そ、それじゃ“結構辛い”ことにはならないじゃない。」
「でも、ときどき、ほんとにとびきり辛いんだから!」・・・

たまに「とびきり辛い」のと、たいていが「まあ辛い」のと、どちらが本当に『辛い』唐辛子だと言えるだろうか?

別の話題。今度はコーヒーの話である。私がかつてフランス企業に駐在して仕事をしていたことは前にも書いたと思う。その会社は立派なキャンティーンを持っていて、みな昼食はそこに食べに行く。さらに食堂の外には、コーヒーを飲んでおしゃべりするためのたまり場がある。そこも会社経営で、とても安くエスプレッソが飲める。フランスの常として、単純作業はたいてい有色人種の労働者がやっているわけで、そのカフェでエスプレッソをいれるのも、二人の黒人のおばさんが交替でやっていた。

ところが同僚のH君がある日、不思議なことに気がついた。同じコーヒーなのに、片方のおばさんがいれた方が、もう一人のおばさんよりも美味しいというのだ。そういわれて注意して飲んでみると、たしかに太めのおばさんのコーヒーの方が、やせたおばさんより美味しい。これはとても奇妙なことだった。なぜなら、二人は同じエスプレッソ・マシーンでいれているからだ。コーヒーの粉をだって、同じ仕入れに決まっている。あとは小さな容器に粉を入れて蒸気の出口にセットし、それをデミタスカップで受けるだけである。どこにも技量や個人差が入り込むすき間はなさそうに思える。なのに確実に味が違うのだ。

後日この話を、ある光学機械メーカーのOBの方にしたところ、「いや、自動化された機械でも、オペレータによって出来上がりの品質が違うことはしばしば起きる」と教えられた。樹脂材料を箱形装置にいれて加熱変成するだけの自動化工程であっても、その時の材料の性状、その日の気温や湿度、そして昇温時間や加圧時間等々、微妙なセッティングによって結果の品質が変わってくると言う。そして、熟練したオペレータは、その結果にばらつきがなく安定しているのだ。「すごいんですね。」と私が感心すると、その方は「工場にいるベテランのレンズ職人になると、球面を手で撫でただけで、ミクロン単位の歪みを言い当てますよ」と答えた。

『技術』という言葉を使うとき、世間の人は、このようなミクロン単位を手で感知するプロの職人芸を連想するか、または、高度に先端的な自動化マシンのようなものを想起するらしい。ある人が、トヨタの人に向かって、「きっと御社ではすごいプロの職人さんが大勢いらっしゃるんでしょうねえ。」とたずねた。聞いた方はごく無邪気に質問したのだろう。しかし、自動車会社の人の答えは「NO」だった。「個人的な技能に頼るような工程は設計しません」というのが回答なのだ。

技術』と『技能』という言葉は、ときに混同して使われるが、別の概念である。技能は人に属する。手でミクロン単位を感じ取る職人芸は、技能である。技能は、適性と、長年の修練によって身につけられる。技能は、簡単に人に渡したり譲ったりすることができない。だから、ベテランの技能に頼る工程は、そのベテラン職人が何かの都合でいなくなったりすると、とたんに機能しなくなる。

他方、技術とは、その成果を万人に移転可能なものである。属人的な技能に頼らず、誰がやっても均質な結果を得られるようにする方法、それを技術と呼ぶ。文字を美しく書くのは技能である。一方、活字を乗せたタイプライターの発明は、技術である。それによって誰もが、均質な、非個性的な、美しい文字を打つことができるようになる。

無論、タイプライターでも、打つ人によってスピードも違うし、字の濃さの均質性も異なる。自動化された技術の道具を使うにあたっても、そこには多少の技能が左右する要素があるのだ。ちょうど食堂のエスプレッソ・マシーンのように。しかし、技術はなるべくそのような技能の左右する領域を減らすように、進展していく。技術は、誰もが達成できる、均質性を追求する。技術は文明の申し子だからだ。たまに「とびきり辛い」のではなく、どれもが「それなりに辛い」が目標なのである。

ときどき、メディアや官庁などが技術政策を語るとき、この点を誤解しているのではないかと感じるときがある。彼らは「先端技術」と言ったワーディングが、とても好きだ。その方が新鮮でかっこよく、ニュースバリューもある。ニュースバリューとはすなわち特異性、珍しさを意味する。だが、技術に関する判断基準は、技術全体にも適用される。ある組織や社会に「技術力がある」とは、たまに「とびきり先端的」ではなく、だれもが「それなりに技術を持つ」ことを指すのだ。建物の塔の高さではなく、建物全体のボリュームと安定性。そこを見なければならない。一握りの突飛な天才ではなく、大勢の技術者の百花繚乱の豊かさ、多様性。そこから生まれる、組合せの創造性--こうしたことこそ、技術力の母体である。技術力とは個人ではなく、組織の能力なのだ。

世間で時折提案される、特殊な理系エリート教育のような仕組みに、わたしが批判的なのもこのためである。欧米やら、あるいは韓国やらで、そうした仕掛けが役に立つように見えることもあるのだろう。だが、たまに「とびきり優秀」な人間を作るために、ボリュームゾーンに属するほとんどの学生を疎外していって、良い結果が得られるようにはわたしは思えない。すでに、この国の教育制度は、「それなりのレベル」をだれもが達成することに失敗しつつあるではないか。大学生レベルが降下中なのに、企業だけレベルが上がる訳がない。『技術立国ニッポン』の将来を明るいものにするために、もう一度考え直すべき時であろう。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-17 23:21 | ビジネス | Comments(0)

書評 「確率的発想法」 小島寛之

確率的発想法~数学を日常に活かす (小島寛之著 NHKブックス)


積年の蒙を開かれる本、とはこういう書をいうのだろう。天気予報で今日の降水確率が40%とは、何を意味するのか。かつ、この40%という予報が当たる確率は何%なのか。そういった疑問を感じた人は多いだろう。そんな疑問に対して、サイコロの目の数を場合分けする学校数学の確率論の知識は、たいした助けにはならない。

世の中にはそもそも、一回限りの出来事があまりにも多い。これに対して、フィッシャー流の統計的推定を使うのは居心地がわるい。そこで見なおされてきたのが、「主観確率」を基礎におくベイズ推計である。本書の前半は、この両者をおさらいすることで費やされる。

後半は、数学の世界から、「リスク」を軸にした理論経済学の世界に飛び出す。そこには主観的な判断に満ちた意志決定理論の沃野が広がっている。そして、人々は確率も分からない不確実性よりも、確率が分かっている不確実性の方を(たとえ等価であっても)好む、というエルズバーグのパラドックス実験にはじまり、足しても1にならない非加法性確率や、コモン・ノレッジの分析、ロールズの格差原理、中西準子の環境リスク・ベネフィット論への批判へとつづき、最後に「過去に向かっての確率論」への展望でしめくくられる。

本書はたぶん、自由市場経済至上派の人々には気に入られまい。厚生経済学、とくにロールズなどの思想的影響が色濃い。彼らは社会的不公正の問題から、情緒的側面を取り外し、あえて数学的アプローチだけで迫ろうというスタンスを持っている。そこで用いられるのが、知識の非対称性と不確実性(リスク)への考察である。著者の問題意識もこの線にそっている。おかげで、リスク判断と主観確率の関係についてもずいぶん勉強になった。タイトルはちょっとだけミスリーディングだが、お薦めできる良書である。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-14 00:31 | 書評 | Comments(0)

リスク・マネジメントは本当に可能か

ときどき人前で、プロジェクトのリスク・マネジメントについてお話しする機会がある(事業リスク・マネジメント、というテーマ名のこともあるが)。そういうとき、私が真っ先に聴衆の方にたずねる質問が二つある。最初の質問は、

「あなたは、リスク・マネジメントが本当に可能だと思いますか?」

という問いかけだ。そして、こう補足する。「マネジメントとは、自分がある程度知っている対象を、自分の目的のために動かして利用することを言いますね。ところで『リスク』とは、自分がよく知らない、予見しがたい事象を指す言葉です。では、自分が知らないものをちゃんとマネジメントできると、皆さんは信じますか? リスク・マネジメントという言葉は、言語矛盾だと思いませんか。ならば、リスク・マネジメントとは、一体何をマネジメントすればいいのでしょう?」

ちょっと虚を突かれた感じの聴衆の方に対して、次に放つ質問は、こうだ。

「では、皆さんは、運不運が存在すると思いますか?」

反応はいろいろだが、おおむね、“人生には運・不運はあると思う”との回答が返ってくる。“いや、運・不運なんて信じない”と答えた方は、これまでたった二人しかおられなかった。そのお二人とも、まだ20代そこそこの若さであったことを考えると、たいていの人は、ある程度の年齢になると、運不運はあるかもしれないな、と感じるということなのだろう。

それにしても、『運・不運』とは、いったい何のことを指しているのだろうか。

サイコロをころがしたら、出た目は偶数だった。ところが次にころがしたら、今度は奇数の目が出た--こんなことは、別段だれも運不運だなどと思わない。単に、ごくありふれた偶然性がそこにあるだけだ。サイコロの博打で、最初は丁の目にかけて勝ち、次は半で敗れた。これだって、別に騒ぐほどのことではあるまい。そういう状態を指して、“人生には運不運があるよな”、などと誰も感慨にふけったりはしない。では、どのような事態を指して、人は運不運がある、と感じるのか。

たとえば、自転車に乗っていたと想像してほしい。ちょっと横風が吹いてくる。あるいは、前方で年配のご婦人が不注意にふらふら歩いている。こうした事象はありがちで、とくに驚くほどのことではない。風向きに応じてバランスを取ったり、歩行者をよけて走ったりするだけだ。十分、対処できる事象である。自動制御理論風にいえば、自転車という「システム」を運転するために、足ペダルの「動力」や、ハンドルの向きなどの「制御要素」をインプットする。システムの入力に多少の「外乱」(風や前方障害物)があっても、安定化制御をつづける能力を私たちは持っているのである。

ところで、この外乱が通常よりもずっと強いものだったら、どうだろう。あるいは、ずっと継続して続いたら。たとえば、急に風速30mの横風を連続して受けたら、倒れずに走るのは上級者だけだ。ご婦人でなく小学生が、さっと物陰から飛び出したら、よけるのはかなり困難だろう。入ってきた外乱が、安定制御可能な上限を超えているのである。

私たちは、普段の生活においては、仕事上でもプライベートでも、それなりに繰り返し性のある安定した営為を続けている。天候や健康や渋滞や反目など、多少の外乱はあっても、対抗したり回避したり受け流したりして、生活を続けていける。しかし、自分の制御可能な限界を超えた、大きな事象がふりかかって、期待した状態から大きく外れてしまうことがある。勤務先が倒産したり、恋人にふられたり、受かるはずの試験に落ちたり、といった状況に陥ると、「これは不運だ」と人は思うのである。逆に他人が、思わぬ昇進を上司から勝ち取ったり、偶然うまい仕事のチャンスに恵まれるのを見ると、「あいつは運が良い」と思ったりする。

かくして、職を失うと同時に恋人にも去られる人間がいるかたわら、丁度うまく回ってきた仕事で楽に成功して昇進する者も居る。こうして、「幸運」や「不運」が片寄って連続して現れるとき、運不運はあるな、という感慨が生まれてくるのである。

おかしなことに、サイコロをふってみても、同じ目が何度も続けて出ることがある。純粋なランダムさではなく、中心からずれたかたよりが連続して生じることを、不思議と私たちは観測するのだ。これを称して、運不運と私たちは呼ぶ。

でも、ちょっと考えてみてほしい。私たちの住むこの世界が、ホワイトノイズ的な完全なランダム性の支配する場所だったら、私たちは耐えられるだろうか? 放映終了後のテレビスクリーンの画像のように、一切何のとりとめも脈絡もない、そんな予測不能な事態に私たちは耐えることが出来ない。

また逆に、一切が全て厳密な因果律の法則性にしたがう世界はどうだろう。それは、すべてが運命のように決まった、完全に予測可能な世界だ。そんな宿命論の下で、私たちは正気を保てるとは思えない。

つまり、私たちは、連続性がありながら、ちょっとランダム、という状態が一番居心地がよいのだ。ある程度の予測可能性がある。でもサプライズもある。つまりリスクもある。それが私たちの望む状態なのだ。

さてそれで。リスク・マネジメントという言葉は、それ自体が言語矛盾だ、と最初に書いた。では、何をマネジメントすべきなのか?

リスク・マネジメントに対する大きな誤解に、ときどき出会う。「リスク・マネジメントをすればリスクが減る、無くなる」という誤解だ。賭けたって良いが、そんな事ありはしない。私たちはどんなに手を尽くしたって、明日台風が日本に進路を向けることを防げはしないのだ。リスク・マネジメントとは失敗しない方法ではない

また、リスク・マネジメント=危ないことに手を出さないこと、という誤解も多い。それは嘘だ。たしかに、何もしなければ、失敗もしない。しかし、ゴーイング・コンサーンである企業において「何もしない」はあり得ない。それは昨日と同じことを今日もやる、という意味である。それは消極的ながら一つの決断であって、とうぜんリスクをともなう。もし「環境変化に対して何もしない」のだとしたら、その方針自体がもはや、最大のリスクである。

リスクとは何か。その定義はさまざまだが、リスクの大きさを数式的に表現するならば、次のようになるだろう:

       可能性×影響度
リスク = ---------
        対応能力

おわかりだろうか。リスクの大きさは、その可能性(生起確率)と、影響度の積に比例し、対応能力に反比例する。だがリスク事象の生起確率は、低減できる場合もあるが、コントロールできない場合の方が多い。台風の進路のように。

ということは、私たちのなすべき方策は、「影響度」を小さくするか、ないしは「対応能力」を大きくするしかないのである。これがリスク・マネジメントの本質なのだ。

私たちは未知なるリスクそれ自体をマネジメントすることは、できない。私たちができるのは、リスクへのふるまい方をマネジメントすることなのである。それをどう学ぶべきかについて、これから数回に分けてノートを書いていきたいと思う。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-10 23:56 | リスク・マネジメント | Comments(0)

要求は定義可能か

SONYの「ウォークマン」は1970年代の後半に初めて発売された。電池駆動で、ステレオ・カセットテープで、ポケットに入りそうなくらいに小さかった(でも実際にはそこまで小さくなかったので、ストラップで肩から下げるか腰のベルトに通して使ったが)。テープなのに録音はできずに再生専用、そして、スピーカはなく軽量ヘッドフォンのみで聴く方式だ。

こんな偏った機能を持つ奇妙な機械は、それまで誰も考えたことがなかった。風変わりなこのオーディオ機器は、実際には既存の技術だけを組み合わせて作られたものだった。が、市場に現れてから、はじめは徐々に、しかし次第に爆発的に売れるようになり、最終的にそれは新しい一つの音響機器のジャンルの代名詞になった。

私は要求定義の仕事に向かうごとに、このウォークマンのことを思い出す。私も普及しはじめた頃に買って、すぐに気に入った。もともと音楽が大好きな人間なのだ。とはいえ、“持って歩ける個人用音楽環境”というものが、どれほど自分の風景を変えてみせるものか。それは体験してみるまでは分からなかった。私はそのような道具を求め、欲していた。そう、『要求』していたのだ。しかし、自分で実際に手に入れるまでは、自分の『要求』の中身を具体的に定義することができなかったことも、確かなのである。

システム開発の仕事は、知っての通り、アナリストによる『要求定義』の作業からはじまる。エンドユーザの要求事項を分析し、どのような機能を持つシステムが必要かを、客観的に定義してみる作業だ。しかし、はたして、要求定義は本当に可能だろうか?

こんなことをいうのも、ERPパッケージをベースにしてしか発想しない「業務コンサルタント」が、あちこちでAs isとTo beを振り回してフィット&ギャップ分析をやる光景が、この5年、いや10年くらい前から定着してしまったからだ。

ユーザの要件を定義し、それがパッケージの提供できる機能範囲とどう重なり、どうずれるかを判断する。それがフィット&ギャップだ。そして、パッケージでカバーできない要求は、あきらめるか(これを彼らは「BPR」と呼ぶ)、別の方法で回り道をして実現するか(「ワークアラウンド」)、さもなくばプログラムを追加開発するか(アドオン)、どれかを選ぶことになる。

なるほど、けっこうだ。だが、ユーザが要求するものを実現し提供することが、システム・ベンダーの役割だという無言の前提が、そこにはある。しかし、ユーザが求めている(と言っている)モノは、本当にユーザが必要としているものなのだろうか。ユーザはそれほど、自分が何を必要としているのか正しく認識できるのだろうか。

ウォークマン出現以前の人たちは、ラジカセや携帯できるテープデッキを買っていた。それが自分たちのほしいものだと思っていたのだ。しかし、本当に何がほしかったのかは、それが具体的な姿をとって目の前に現れてみるまでは、いや、それどころか自分で実際に使ってみるまでは、分かっていなかったのだ。

システム・アナリストやコンサルタントの仕事とは、機能のメニューをユーザに見せて、その中からほしいもの選ばせることで終わっていいのだろうか? それはパッケージという釈迦の掌の上で踊っているだけではないか。ファミリーレストランのウェイトレスと、どこに違いがあるというのだろう。

有能なアナリストとは、ユーザが「ほしい」と言ったものではなく、ユーザが真に必要としているものを提示できる人でなければならない。しばしば顧客は、自分が本当に欲しいものを知らない。要求と必要は、実はちがうのだ。

たとえば、自分は'70年代はじめの人間に向かって、「ウォークマン」を要求定義できるだろうか。相手はその価値を、実物経験抜きで、理解できるだろうか。新しいジャンルを創造するような仕事は、顧客の意識の中に浮かんでいる要求を分析するだけでは決して出てこないことを、私たちは覚えておいた方がいいと思う。ウォークマンを定義することとは、つまり新しいウォークマンを発明することなのだ。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-06 23:01 | ビジネス | Comments(0)

バッファー・マネジメントとは何か

プロジェクトの計画作業は大きく二段階に分かれる。前半はスコープ定義で、プロジェクトを構成するアクティビティを洗い出し、達成すべき仕事の範囲全体を網羅しカバーする。このアクティビティを階層的に構成して整理番号を付番したものがWBSである。後半は、各アクティビティに必要なリソース・時間・コストを見積り、アクティビティの順序(論理的関係)にしたがって、ロジック・ネットワークを作成する。これがプロジェクトのタイム・テーブル(工程表)のベースとなる。これがスケジューリングである。

プロジェクトを表すアクティビティ・ロジック・ネットワークの始点から終点までを結ぶさまざまな経路のうち、最長のものをクリティカル・パスと呼ぶことはよく知られている。プロジェクト全体の所要期間(工期)は、クリティカル・パスよりも短くすることはできない。ここまではまあ、ある意味で基本である。

さて、プロジェクトの期限ないし納期設定を考える時、そこに自由度がある場合と、外部から制約条件として与えられる場合がある。受注ビジネスの中で生きている人は、「納期とは客先から与えられた制約条件だ」と考えることが多いだろう。契約によっては、納期遅延に対してペナルティ条項がついていることもある。そうでなくとも、納期に遅れたら信用を失い、次の受注機会には不利になる、と考えられる。

一方、新製品開発のように、自社が発案した自発型プロジェクトでは、納期はある程度、自ら設定できる。なお、英語では自発型プロジェクトをInternal Project、受注型プロジェクトをExternal Projectと呼んで区別する。ただし、自発型であっても、新製品の納期が展示会やフェアーなどの期日にしばられることはある。あるいは、対外発表の時期が、上からぽーんと鶴の一声のように下りてくることもあろう。いずれにせよ、自発型の場合、納期に多少の自由度があるケースが多い。

さて、自分が納期を設定できるときは、クリティカル・パスの長さで決めるべきだろうか。たとえば、クリティカル・パスの長さが120日ならば、納期は120日と宣言して良いだろうか。答えは、NOである。なぜなら、クリティカル・パスの長さとは、プロジェクトが達成可能な『最短の期間』だからだ。計画段階ですべてを見通すことはできない。いろいろと予期せぬ事やらミスやらが、途中で生じてくるものである。こうした外乱・内乱(?)によって、スケジュールというのは常に遅れていく可能性がある。そこで、クリティカル・パス長に、最小限の適切な余裕日数を加えて、納期を設定する方が安全である。この、意図して追加した余裕日数のことを、「バッファー」と呼ぶ。

余裕日数としての「バッファー」と、PERT/CPM技法でいう「フロート日数」は、ときどき混乱して使われるので、注意が必要である。PERT/CPMのフロートは、そのアクティビティが遅延したときに、プロジェクト全体の工期に影響を与えるまでの日数を言う。フロートが5日とは、そのアクティビティが5日以上遅れたら、プロジェクトの納期が遅れてしまう事を意味する(フロートにはFree FloatとTotal Floatの二種類があるが、説明は省く)。そして、クリティカル・パス上のアクティビティはすべてフロート=0日である。フロートとは個々のアクティビティに付随する属性値だと理解してほしい。

これに対してバッファーとは、特定のアクティビティにぶら下がる性質のものではない。あくまで、全体のプロジェクト・マネジメントの観点から、意図して置かれるものである。「時間のムダとり--スケジュールのサバを切り捨てる」(2009/12/07)でも説明したとおり、適正なスケジューリングにおいては、(1)アクティビティ所要期間の冗長な部分をみつける、(2)それを捨てる(正味分のみにする)、(3)プロジェクト全体に必要最小限の冗長性を付け加える、という、ちょうど情報理論と類似した手続きを行う。このステップ(3)がバッファーなのである。バッファーは生産管理で言う、意図した在庫配置に相当する。

それでは、このバッファーを、アクティビティ・ネットワークのどこに配置すべきなのか。たとえば全体工程120日のプロジェクトに15日のバッファーを追加するとして、それはどこに置くべきか。細かく分割して、すべてのアクティビティに公平に配分したら、という考え方もあり得よう。いや、クリティカル・パス上のアクティビティだけに個別配分する、という案もある。だが、これらはあまりおすすめできない。前にも書いたが、バッファーには加法性が成り立たず、1日のバッファーを15個持つよりも、15日のバッファーを一箇所にまとめておく方が、ずっと安全なのだ。

じゃあ、まとめて最初か最後に置くのはどうか? 最初にバッファーを置く、というのは、言いかえると、プロジェクトがスタートしてから15日間は、何の作業にも着手しない、ということになる。これではバッファーとしての意味がない。したがって、プロジェクトの最後にまとめて置く、というのが正解となる。これを、「プロジェクト・バッファー」とも呼ぶ。

さて、プロジェクトを遂行していく上で生じるさまざまな遅れにより、このプロジェクト・バッファーは次第に消費されていく運命にある。そこで、プロマネは残りのバッファー日数をウォッチして、あと何日までなら納期に影響がでないか、常に見ていくことをお勧めする。このように、計画段階で上手にバッファーを配置設定し、実行段階でそれをウォッチし続けることを、CCPM技法では「バッファー・マネジメント」と呼んでいる。

この目的のために実行段階でしばしば使用されるツールとして、横軸にプロジェクトの経過日数(割合)をとり、縦軸にバッファー日数の消費(比率)をとって定期的にプロットする手法(バッファー・トレンド・グラフ)がある。理想的に言うならば、プロジェクトの進行割合に比例して、バッファー日数が消費されていく、という形になる。開始後40日たったらバッファーは5日消費され、開始後80日では10日消費されている、という具合だから、プロットされた点は斜めの直線になるだろう。しかし、現実はなかなかそうはいかず、ジグザグの線になる。

グラフ上で点が上の方に来る状態は、プロジェクトの進行に対してフロートの消費が著しく大きいことを意味している。そこで、グラフに原点を通る2本の線を書いて、プロット・エリアを3つに分け、下からグリーン・イエロー・レッドに分けることがよく行われる。信号の色である。プロットされた点が下の方、つまりグリーン・ゾーンなら安全、中間のイエローなら注意、上の方のレッドなら危険、という訳である。

このようにCCPM技法では、プロマネが個別のアクティビティ全てを進捗管理するなど無駄な労力であって、クリティカル・アクティビティとバッファー日数だけをきちんとコントロールしておき、あとの精神的余力は他の重要な事に取っておくべきだと考える。そうはいっても全体の進捗率計算が必要だ
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が、この「プロマネの注意は重要な事だけに向けるべき」というのは、とても良い提案だと私は思っている。

(なお、フロートのあるパスにおけるバッファーの置き方や、受注型で納期が外から与えられる場合のバッファーの考え方、さらに納期要求が実行可能期間より短いときにはどうすべきか、など関連する問題もあるが、長くなってしまったのでまた稿をあらためて書くことにしたい)

関連エントリ:
時間のムダとり--スケジュールのサバを切り捨てる
早期着手かジャストインタイムか
by Tomoichi_Sato | 2010-08-04 00:14 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)