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買い物の流儀と法則

デパートの売り子を見ていると、“この仕事はシステム・アナリストに似ているな”と、よく思う。上手な売り子は、お客が来て商品をあれこれ見ては悩み、あれにしようか、これにしようかと考えるのを、しばらく任せておく。そして、客が自分に似合いそうもない服を選び始めると、控えめに、だがはっきりと、「お客様には、こちらがお似合いじゃありませんか」と口をはさむ。お顔の色が映えるとか、体つきにしっくりなじむとか。そして、客がそれなりに納得して買い物できるように、うまく誘導していく。必ずしも高価な商品をすすめるとは限らない。

上手な売り手というのは、単に客が「欲しい」というものをすすめるのではなく、客が「必要としている」ものを見分ける力を持っている。そして、“こちらの方がシックですよ”などと相手がその気になるよう表現する能力もある。「これは、自分が選んだのだ」そう信じれば、顧客満足もみたされよう。これこそまさに、システム・アナリストが備えるべき能力と等しいではないか。

しかし、これを逆の方角から表現すると、『客は自分が必要とするものが何かを知らない』ということになる。ことに、日本のお客はそうだ。なんとなく、漠然と「スーツでも買おうか」と買い物に来る。心の中にあるのは、買いたい商品のイメージではなく、買いたい商品のカテゴリーにすぎない。これが(たとえば)フランスあたりのデパートやブティックだと、客は自分の欲しい商品のイメージを、非常に明確に持って買い物に来る。ハイネック・スタイルのセーターで、毛糸は太め、色は明るい青で・・といった具合だ。買い物は探し物であり、より自分のイメージにマッチしたもので、なおかつより安いものを探すのだ(彼らはケチなので価格はきっちり交渉する)。

してみると、買い物の流儀には二種類あるらしい。自分が何を欲しいのか自覚せずに、売り手の提案にゆだねる買い方が一つ。さもなければ、自分が欲しいものを明確にして、売り手には価格努力のみを求める買い方の、二種類だ。それでは、どちらがより賢い買い方だろうか?

なんとなく、自分が欲しいものを明確にして、安く買い物をする方が、賢そうに思えるかもしれない。実際のところ、本当にモノを安く買いたかったら、複数の売り手から価格の見積もりを取って、競争させるのが定石だ。そして価格をきちんと比較するためには、欲しいモノの仕様がはっきりしていなければならない。オレンジと林檎の値段を比較してもしょうがないからだ。

売り手から見積が上がってきたら、その商品の詳細について吟味して、はたして自分が欲しいと指定した仕様に合致しているかを、質問して明確にしていく。要求からずれているところは訂正させ、また、相手があえて代替案を提示してきたときは、それを評価する。発注の前に行なうこの作業を、クラリフィケーション(Clarification)と呼ぶ。これが横文字で、対応する日本語がないところを見ても、われわれ日本の文化はどうやら調達の流儀や原則をきちんと教える場がないらしい。

むろん、売り手の方の知識が買い手よりもまさっている場合は、提案に任せる買い方も理があるだろう。寿司屋で言えば「おまかせ」というやつだ(自分の要求仕様で選ぶのは「おこのみ」である)。売り手が信頼できる場合は、「おまかせ」でも無駄を省けて安い買い物ができることも多い。そして、どうやらわが国では、昔はずっとこの流儀で買い物をしてきたものらしい。

にもかかわらず最近は、不況のご時世のせいか、はたまた欧米風スタイルに影響されたのか、自分の頭の中は依然として「おまかせ」流なのに、競争見積で安いモノを調達しようと考える企業をしばしば見かける。どこかで、調達の根本を誤解しているようだ。

調達の根本原則とは何か。それは、買い手の要求するモノやサービスの仕様と、売り手の供給できるモノやサービスの性状との間の、マッピング作業に他ならない。両者が一致したところで、その取引が合意され、対価を支払う約束がなされる。要求仕様と供給性状のギャップが小さいほど、価値は高くなる。そして、供給者に代替性が高いほど(つまり売り手の競争が激しいほど)価格は低くなる傾向がある。

自分が何を欲しいのか正確に知らないのに、一番安いのを買いたいと思うのは虫が良すぎる。何が欲しいのか、何がフィットするのかを知るのは、一つの価値だ。調達という専門職の価値とは、このマッピングをいかに上手に行なうか、に存する。「賢い消費者」という言葉がひと頃はやったが、企業がもっと賢い買い手にならない限り、この構造不況からはなかなか簡単には抜けだせないことだろう。


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by Tomoichi_Sato | 2010-07-29 22:12 | サプライチェーン | Comments(0)

あなたの上司はなぜバカなのか? - 矛盾したルールにしばられる

その日、私は駐在先企業のキャンティーンで、一人で昼食をたべていた。何年か前のことだ。回りにはボソボソと、聞き取りにくいフランス語の響きが満ちている。その中にふと英語の音が聞こえたので、つい耳を傾けてしまった。鋭角な英語の音は、仏語の靄の中を通り抜けてくる。ちょうど穏やかな満ち潮の入江に磯が屹立するように。話の雰囲気からすると、一人は英国人、もう一人は米国人らしい。お互いは知りあいではなく、たまたま出張先のこのフランス企業で顔を合わせたにすぎないようだった。

「近頃は、出張の待遇がきつくなったよな。忙しい日程で、疲れるよ。」
そう一方が言えば、他方も同調する。
「ああ。まったくこの頃のボスときたら、二言目には、Bottom line, bottom line, だ。金のことばかりで、技術のことは二の次だ。」
「うちもだよ。昔はこんなじゃなかったのにな・・。」

エンジニア同士の話は、どこの国でもよく似た愚痴になるな、と思いながら聞いた。Bottom lineというのは、おそらく'90年代頃からビジネスの世界で流行りだした熟語で、ようは利益のことだ。案件の収支を計算するとき、こんな表をつくる。

  売上高
- 材料購入費
- 外注費
- 人件費
- 出張旅費等の経費
---------------------
  (利益)

利益は表の一番下の行に来るから、bottom lineというらしい。ここから転じて、結果とか結論のようにも使われる。

その日のすこし前、私はプロジェクトの同僚たちと、電子商取引サイトの技術的な問題について議論していた。参加していたのは、開発マネージャーのR、プロジェクト・マネージャーのJ-P、技術系バイヤーのPhとJ、オペレーション・マネージャーの私だ。日本人の同僚のH君もいたかもしれない。問題を吟味して、考えられる解決策のオプションを3つに絞り込んだ。その上でプロマネのJ-Pは(彼は辣腕だが他人の意見も一応聞くタイプなので)、技術的可能性、信頼性、ユーザの使いやすさ、変更の影響範囲、そして費用の5項目から、それぞれ評価し投票して、一番良い案を決めよう、と言い出した。出張中のディレクターB氏が戻ってきたら、それを提案して裁可を得るのだ。

黒板に3×5で15項目の評価を書き出した後で、ふと気づいて私が言った。「これって、3番目が一番安いな。だとしたら、B氏は3番目を選ぶに決まってるよ。だって、彼はお金しか見ないもの。」--この一言で全員が白けたような眼を私に向けた。事実かも知れないが、だとしたらこの議論の始末はどうしてくれるんだ。皆がそう感じたにちがいない・・。私は一人で黙々と昼食のお肉を噛みながら、それを思い出していた。

私は別段、ディレクターのB氏を嫌っているわけでもないし、馬鹿だと思っているわけでもない。むしろ率直にいうと、彼とはウマが合う。文系出身で、50歳過ぎで、典型的な保守系フランス人だが、頭は良いし、世の中をよく見ている。ただ、経営者から彼に課せられた採算収支への期待値が厳しすぎるので、物事にあてがうモノサシは一つしかあり得ないのだった。

マネジメントとは何だろうか。この問いを、すでに何度かここに書いている。マネジメントとは、ゴールを達成するために、人に働いてもらうことだ。自分で手を動かすことは、マネジメントの範疇には入れない。では、良いマネジメントとは何なのか。

それを考えるには、ダメなマネジメントというものを想起してみればいい。決めない、気づかない、学ばない、見通さない、人を(命令や強制以外では)動かせない--これらが、ダメな上司の典型だろう。サラリーマンの酒場の話題とくれば半分以上が上司やライバルの品定めだが、まあ上司が良い採点をされることは滅多にない。でも、あらゆる職場が、そんなにも無能な上司であふれかえっているとしたら、世の中はどうして成り立っているのか?

それはもちろん、仕事の需要と仕組みがあるからだ。とくに需要が右肩上がりの時は、どんなマネジメント上のチョンボでも、色の白いは七難隠す、みたいに隠してくれる。決めなくてもリスクは小さいので大丈夫、気づかなくても変化はないので大丈夫、学ばなくても見通さなくても、明日は昨日の拡大延長だから大丈夫。仕事は縦割り組織の中で完結するから、部下だけ動かしていれば大丈夫。そして、部下は勝手に動いてくれる。なぜなら、目の前の需要が仕事をどんどんつくり出してくれるからだ。在庫が増えようが原価が上がろうが、bottom lineの利益が出続ける限り、だれも叱責されない。

こうしたことは、市場がピークを迎え右肩下がりになってくると成立しない。前にも書いたが、ある製造部長は、生産担当役員からは「工場原価を下げるためにもっと在庫を削減しろ」と命令され、営業部門からは「夏の商戦を迎える前にどんどん製品を作りだめしておいてくれ」と要求されて、頭を抱えていた。市場環境の変化はこのように、モノサシの間の軋みとして現れがちなのだ。矛盾する二つのモノサシを当てられたら、誰だって身動きできなくなる。

あなたの上司がもしバカに見えたら、どう考えるべきか。もしかしたらその上司は本当に、個人的に無能なのかもしれない。そして、私の部下だって無論、私のことをそう思っているに決まっている(笑)。でも、もしかしたらその上司は、相矛盾する複数のモノサシをあてがわれて困っているのではないか、あるいは会社の与えるモノサシの間の優先順位が狂っているのではないかと、疑ってみてもいい。たとえば、どんな時もコストが最優先の尺度だ、といった“Bottom Line症候群”のように。そうだとすると、その無能な上司のかわりに、自分がボスの地位に立った時も、同じように部下から無能に見える可能性が高いだろう。

マネジメントに問題があるとき、それを上司個人の属人的な特性だけで説明するのは簡単だ。しかし、それは私たちの眼を問題の本質からそらせてしまう。Aをやっても非難され、Aをやらなくても非難される状況では、誰もが無能に見えるしかない。

組織のヒエラルキーの中で上に位置する者ほど、異なる複数業務の情報を得る立場にある。製造部長は加工と組立と品管の状況を知り得る。事業部長は販売と製造と技術の状況を知り得る。なんらかの問題が起きたとき、現場の担当者はその解決案を考えるだろう。しかし、加工工程での解決案が、品管工程に影響する可能性がある場合は、どうするか。その場合は、製造部長に案を持ち上げて、製造全体の視点から比較評価してもらう必要がある。製造部長は、自部門の目標と制約から見て最適な案を選定するはずだ。このようにマネジメントの階層とは、情報収集と問題解決の階層でもある。

ところが、自部門を評価する基準が複数あって、優先順位が決まっていなかったら、あるいはトレードオフ関係にあったらどうするか。どの答えを出しても、必ず誰かに非難されることになる。アクセルとブレーキを同時に踏んだら自動車だってトラブるように。

あるいは、技術的長期的なファクターを無視して、目先の費用だけで判断することを強いられるのかも知れない。すなわち現実の複雑な事象に対する評価尺度の優先順位が、あまりに単調化しているのだ。いずれの場合も、組織が抱えるルールが、現実と矛盾していることを示している。

中間管理職がバカに見える時は、気をつけた方がいい。会社の『仕組み』、組織を動かす目標尺度のシステムがバグっている可能性が高いからである。そういう時に、自分もバカにならない方法は、たった一つしかない。それは、与えられた尺度の中だけでベストな「正解」を他所に探すのではなく、今よりも広い視野で、あるべきルールの体系を自分の頭で考えてみることなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-25 12:39 | 考えるヒント | Comments(3)

自分自身を予約する

個人の時間管理においては、スケジュールとTo Do Listの統合が一番の課題である。グループウェアとか、パーソナル・スケジューラなどのソフトでも、たいていこの二つの機能は揃えているが、画面は別々にある。ところで、私の同僚は、この問題に、ちょっと風変わりだが、見事な解決をつけていることを、最近知った。

私の課題をもう一度述べておこう。私は基本的に、会社でやるべき仕事のTo Do Listを、一元管理している。また、自分の予定はすべて、グループウェアのカレンダーに入力している。そして、朝、会社の席に座ったら、まずその日にやるべきアクション項目をTo Do Listから拾い出して優先順位をつけておき、また打合や来客などのイベント的な予定を確認する。

問題なのは、この二つのデータが別々に存在していることだ。両者は同じグループウェアに登録しているが、二種類の画面を行ったり来たりしなければならない。とはいえ、To Doという、納期がキーになるデータ項目と、イベントという開始・終了日時が決まっているデータ項目とは、そもそも構造がちがうのだから、これは致し方のないことだと、ずっと思っていた。

しかし、もっと困るのは、私のカレンダーを誰かがのぞいたとき、予定が入っていないと「ああ、佐藤君はこの日は空いているんだな」と思われてしまうことである。じつは、その日はTo Doがたくさんあって多忙かもしれないのに、である。

ところで、くだんの私の同僚は、実に意外な方法でこの問題を解決している。彼はプロジェクト屋だから、とうぜんTo Do Listを毎日抱えているわけだが、自分のカレンダーに、To Do Listの作業項目を、時間枠をとって書き込んでしまうのである。たとえば、「10:00-12:00 マンスリー・レポートを書く」といった具合である。To Doが増えて仕事が多忙になれば、当然カレンダーはどんどん埋まっていく。だから、勝手に他人が予定をのぞいて「彼はこの日はひまそうだから会議を入れよう」などと出来なくなるのだ。まさにコロンブスの卵である。

彼はこの方法を、「自分で自分を予約するのです」と説明していた。たしかにグループウェアには、会議室や機材などの資源を予約する機能がある。この類比で言えば、彼は自分自身の労働時間という資源を予約しているのである。

自己予約することによって、必然的に、そのTo Doのアクション項目が、どの程度の作業時間を要するのかについても、真剣に見積もることになる。また、あとでタイムシートをつける際にも、カレンダーをさかのぼって参照すれば、どの仕事に何時間働いたか、すぐに分かるという仕掛けだ。実に合理的である。

この彼の知恵は、資源の予約とは何か、という問題をあらためて私に考えさせるきっかけとなった。たとえば製造資源の予約という行為である。生産スケジューリングとは、ある意味で資源の予約と確定に他ならない。また、生産予定の予約は、ATP管理すなわち生産座席予約システムともつながっていく。しかし、目に見える機械資源の予約はある意味でわかりやすい。

むずかしいのは、目に見えにくい知的労働力の資源の予約と確定である。私は最近、ホワイトカラーの生産性向上とは、結局、自己管理能力のレベルアップにつきるのではないかと感じてきている。だとすれば、彼のような「自分自身の予約」は、奇抜に見えるけれど極めて良い方法ではないかと考えている次第である。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-22 23:56 | 時間管理術 | Comments(3)

時計の針を進めておいてはいけない

あるとき、ビジネス雑誌の編集者の方に、「スキマ時間の活用法」というテーマでインタビューを受けた。日常生活や仕事の上で、10分とか20分、ふと時間ができてしまうことがある。電車での移動時に乗り換え待ちになるとか、アポイント先を訪問したら、思ったより早く終わってしまって、次の予定まで空きが出てしまうときなどである。こうした余裕時間をどう活用するべきか、時間管理術の観点から伺いたい、という質問であった。たとえば外国語の単語学習に充てるとか、メールをチェックするとか、次の訪問先の株価動向をネットで調べるとか、そんな感じの答えを期待されていたようだ。

私は、自分であらかじめ確保した集中できる時間と、外部からイベント・ドリブン的に与えられる時間では、その「質」が違うことを説明し、また自分だったらまずTo Doリストの見直し時間に充てるだろう、と答えた上で、逆に問い返した。「あなたは、本当にそんな小さなスキマまで埋めつくすような時間管理をしたいですか?」

その編集者は笑って、ノーですね、と言われた。実際そこまで几帳面に、あるいは追い立てられるようにして、時間を無駄なく使いたいものなのか、自分でも本音では分からない、とのことなのだ(でも、多分こうしたニッチ時間のマネジメントみたいな記事は読者の興味を少しは引くだろうと想定されたのだろう)。

聞いていて、つい、時計の針を5分か10分、進めておく習慣のことを連想した。腕時計や、家庭の居間の時計の針を、余裕を持つためにちょっとだけ進めておく人は、しばしばいる。だが、私はこのような「時間管理」の習慣には賛成しないし、にもそう書いた。

時計を進めておいてはいけない、という主張は、もともと父の教えだった。時計は時間を計測する計器である。「計器はつねに正確でなくてはいけない」というのが、技術屋だった父の思想であった。体温計を考えてみろ。体温計は正確でなくてはならない。それを、健康のためと称して、体温計が0.5℃くらい高めに表示するよう設定する奴がいたら愚かだ。これが根本にあった考え方だった。

余裕時間のことを、スケジューリング理論ではフロート、ないしバッファーと呼ぶ。もともとフロートとは、あるタスク(アクティビティ)の、期限日までの差を指す。期限までの日数が日で、タスクの作業所要日数が日であるとき、フロート=N-mで表される。フロートは大きければ大きいほど着手の余裕がある(着手日の「自由度」が大きい、という)。フロートがゼロの場合は、本日すぐに着手しなければ間に合わない。

フロートは未知の変動要因(リスク事象)に対応できる能力を確保しておくために必要とされる。私たちは先のことを完全に見通すことはできない。外部から急な飛び込みがあるかも知れないし、自分の側で急に不都合ややり直しが生じるかも知れない。こうした要因のために、現実は計画からしばしばずれていく。それでも、フロート(余裕日数)を持っていれば、こうした変動要因に対応することができるのである。

そして、スケジューリング理論の成果の一つは、フロート日数には加法性が効かない、という法則の発見である。フロートは、まとめて確保した方が、小さく分割して取っておくよりも有効なのである。1日分のフロートを確保いる状態は、2時間分のフロートを12個ばらばらに持っているよりも、ずっと計画からの変動に耐えうるのである。この理由を説明するには多少の数学的知識がいるが、分散には加法性が成り立つが標準偏差は1/2乗則が効いてくる、と言えば少しは想像がつくだろうか。細切れにしたフロートは役に立たない、と言いかえてもいい。それゆえ、フロートをどこにどう配置しておくのが良いのか、という議論が出てくる(これをバッファー・マネジメントとも呼ぶ)

そして、だからこそ私は、時計の針を進めて5分や10分と言った小さな余裕時間をちょこちょことる習慣に賛同できないのである。それよりもあらかじめきちんと時間の使い方を計画しておき、その中にまとまった「使途未定のバッファー時間」を取っておく方が、ずっと有効である。

そこで、スキマ時間の活用の話に戻る。--本当にスキマを埋め尽くしたいですか? とたずねられて、答えに逡巡する人は、たぶん時間管理というものを誤解しているのである。時間管理の目的は、時間に吝嗇になることではない。5分、10分といった時間を節約して、いったい何に活かすのか? インドの文人(ガンジーだったかも知れない)がイギリスの学校を訪問していた時、校長室に「たった今、100m走で従来記録を0.1秒縮める新記録が出ました!」と興奮した知らせが飛びこんできた。するとインド人は「その節約した0.1秒を、その学生さんは何に使うんですか?」とたずねた、という。それと同じことだ。

時間管理の目的は何か。それは、考える時間を作ることなのである。追われている毎日の中では確保しがたい、落ち着いて考える時間を作ること。言いかえれば、傍目には、「何もしていない時間」とみえる時間を作ることだ。私たちには、じっくり考えたいことがいろいろある。新製品のアイデアかも知れないし、ビジネスの行く末かも知れないし、あるいは自分自身の身の振り方かも知れない。だからもし、「使途未定の時間」を幸運にも使わずにすんで、まとまった時間が残ったら、それは是非、考えることに使いたいのだ。そして人間が考え事に集中するためには、最低15分くらいは要る。そのためには、5分や10分の細切れでは足りないのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-19 22:18 | 時間管理術 | Comments(0)

計画とスケジューリングの区別

計画=予測+意志決定」だ、と以前「計画作業の中心とは」で書いた。それでは、その『意志決定』の具体的な中身とは何か。

それは、簡単に言うと、計画対象となる系の目標値を定め、それを実現するような政策変数を、制約条件下で決めることである。え? ちっとも簡単でない? 言いかえると、可能な選択肢の中から、自分が望ましい結果を得られそうな組合せを決めることだ。これを計画における意志決定という。

例を挙げよう。旅行の計画を立てるとしようか。たとえば週末にふらっと札幌に遊びに行きたいと考えたとする(あなたが札幌に住んでいないとしての話だが)。移動手段は何にしようか。自動車、鉄道、飛行機・・可能な手段の中で、「札幌に行く」という目的を達成できるものを選ぶわけだ。制約条件は、たとえば所要時間とか費用とかだろう。そして、鉄道と決めたら、こんどは時刻表と相談して適当な列車を選ぶ。

宿にかんしても同様だ。気安い友人宅があればそれも良し、なければ数あるホテルや宿泊施設の中から適当なものを選ばなくてはならない。そのときも財布の中身という制約条件と相談になる。そして適度な価格帯のリストの中から考えることになる。この、可能な選択肢の幅広さを『自由度』とよぶことを覚えておいてほしい。『自由度』は計画におけるキー概念の一つだ。

さて列車が決まり、宿が決まると、あとは何を見て回ろうか、という話になる。こうして、次第に旅行のイメージは具体的な、「旅行計画」とよぶにふさわしいものになっていく。可能な選択肢の中から、自分が望ましい結果を得られそうな組合せを決める意志決定を行なったからだ。

この旅行計画において、「移動手段を選ぶ」ことは「週末、札幌に行って遊ぶ」という目的を実現するために、必要な課題の一つである。「宿を決める」も同様だ。このように、目的達成に必要な課題をタスクと呼ぶ(プロジェクト・マネジメント理論では「アクティビティ」と呼ばれることも多い)。計画立案という行為においてはつまり、目的達成に必要な「タスクを洗いだす」(英語でいえばIdentify tasks)というサブ問題を、まず最初に考える。

次に、「タスクにリソースをわりあてる」というサブ問題が来る。『札幌まで移動する』というタスクに対するリソースとして、自動車/鉄道/飛行機というリソースの中から、予算の制約の中で適当なものを選んだ。

そして、時刻表を見て列車を選び、出発時刻や到着時刻を決めることは、「タイムテーブルを作成する」に相当する。これがいわゆる狭義の『スケジューリング』問題である。

以上をまとめると、計画立案における意志決定とは、以下の三つのサブ問題を解く作業に他ならない。
(1)必要なタスクを洗いだす(Identify tasks)
(2)タスクにリソースをわりあてる(Assign resources to tasks)
(3)時間表を作成する(Create timetable)

いいかえれば、スケジューリングとは計画立案のサブ問題であることが分かる。

この3ステップは、個人の旅行計画のみならず、プロジェクト計画から生産計画、販売計画、在庫計画などにすべて共通である。

もっとも、計画問題の性質によっては、いずれかのサブ問題が不要なこともある。たとえば野球チームの監督が決める配員計画などは、ポジションという名前のタスクにひとつづつ担当者を振り分けて終わり、である。これには時間表作成のサブ問題がない。また、リソースの選択肢がなければ、リソースわりあての問題がない、などだ。スケジューリングとは、本質的には(3)のステップが不可欠な計画問題を相手にする仕事なのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-15 00:04 | 時間管理術 | Comments(0)

マネジメントにはテクノロジーがある

拙著「時間管理術」(日経文庫)にも書いたことだが、私は毎朝、会社の席に着くと、会議等の予定とTo Doリストを確認し、一日の時間の使い方を決めることにしている。ほんの5分程度の作業である。そして、一日の仕事の終わりには、朝決めたその日の予定作業表に実績時間を記入し、日誌に転記して(必要ならば)ごく手短なメモをつける。ほんの10分足らずのことであるが、これを日課にしている。

計画や、記録分析は、Plan-Do-Seeの一環である。これらがあってはじめて仕事のマネジメント・サイクルが完結する。すなわち、朝の段取りも夕方の日誌も、小さくても自分自身の仕事のマネジメント業務だと言える。

ところで、あるとき仕事上の大先輩と、議論になったことがある。その大先輩も一日の作業予定表を朝作る習慣なのだが、それは会社に来る前に(家で)作成しているし、皆もそうすべきだという。私のように会社に来てから定時の中でやるのは、間違っている。なぜならそうした作業は、仕事を始める前に済ませておくべき事だから、という訳だ。

私はその先輩の主張にはいささか不満だった。その日の段取りは定時の前にするべきか、また片付け・記帳・道具研ぎは定時の後でするべきか、職場によってまちまちなことは知っている。定時の間は直接、プロダクトを生産する仕事に当てるべきだという主張も、理解できないわけではない。たしかに私のように計画や記録を定時の中でやると、稼働率は、わずかであるが低下する。

しかし、その論法を延長していくと、どうなるだろうか。以前、好川哲人氏の文章の中で、「プロジェクトの工程表を作る仕事は時間外でやれ」とプロマネに命じているIT企業のことを読んだ記憶がある。プロジェクト・スケジューリングの作業は、システムを開発する業務には直接貢献しない、間接業務である。だから定時外に残業してやれ、というのがその会社の論理らしい(残業代を払うのかどうかは不明)。大先輩の主張は、これと同じ論理にたどり着かないだろうか。そうすると、私の会社のプロマネさんたちは皆、定時外にすべての仕事をやらなければならなくなってしまう。

考えてみると、マネジメントとは本来、「余計な仕事」であって、組織全体の稼働率を下げるものであると言ってもいい。ではなぜ、それでもマネジメントは必要なのか。そこに意義があるとすればいったい何なのか?

それは、複数の人間が働く際の、「全体の生産性を上げる」「全体の有用性を確保する(正しい方向に機敏に進む)」「組織の安定性を維持する」からだ。そのために計画があり、監視とコントロールがあり、分析評価と改善がある。かりにマネジメントに全体の1割の時間を割いたとしても、そのおかげで組織の生産性が2割以上アップすれば、十分元が取れることになる。生産性が2割向上、というとちょっと信じがたいかもしれない。だが、無駄な作業や、やり直しによるリワークや、手待ち・セットアップ変更等による時間のロスは、うっかりすればすぐ2割以上発生するものだ。だから別段、おかしな数字ではない。

それでは、マネジメント自体の質、その上手下手は、どこで決まるのだろうか。「マネジメント自体の生産性、有用性、安定性」はどうしたら確保できるのか。「豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ」で戯画的に描いた違いは、どうしたら克服できるのか。

能力のある人間をマネジメントの職におけばいい、と普通は考える。技術力のある人間をおくべきか、それとも経験のある年長者が良いか。いや、リーダーシップのある者こそ重要だ--判断基準ははさまざまだが、「誰にやらせるかが大事」という点では意見が一致するようだ。だが、私の意見は異なる。

マネジメントの質を確保するためには、マネジメントの「技術」をまず学ぶべきではないか、というのが私の主張である。技術とは、個人差に依存せず、誰がやっても70点から80点の結果を出せるようなプロセスと道具を言う。それはたとえば、To Doリストであり、ガントチャートであり、クリティカル・パス、WBS、活動基準原価、優先順位法、リスク登録簿、等々の技法・ツールに結実している。つまり、マネジメントにはテクノロジーがあるのである。

残念ながら、今日の日本において、こうした技術は学校では(たぶん)習わない。理工系の教育において重視されている技術とは、電気工学・機械工学・材料工学などなど、対象分野固有の科学法則を応用するテクノロジーである。これらを総称して「固有技術」という。これに対して、上記マネジメントのテクノロジーを、「管理技術」と呼ぶ。管理技術は固有技術と異なり、特定の分野や業種にかかわらず汎用的に適用できるのだ。マネジメント・テクノロジー(とくに計画系の技術)こそ、このサイトの主要なテーマである。だが、多くの大学では、「固有技術」と「管理技術」という概念の違いさえ、ろくに教えぬままである。

マネジメントは、いうまでもなく「人を動かす」「人に働いてもらう」ことである。それは会社の管理職だけの仕事ではない。あなたが家族に何かを買ってきてもらうよう頼んだら、それも「マネジメント」である。あなたが顧客に何かデータをまとめて提示するよう依頼したら、あなたはマネジメントをしているのだ。そして、人が人を動かす行為である以上、そこには必ず、属人的な、ヒューマン・ファクターが入り込むだろう。だが、だからといって、マネジメントにテクノロジーがあり得ない、という事にはならない。知的な技術スキル(ハードスキル)と、人的なスキル(ソフトスキル)は、車の両輪なのだ。

そして、マネジメント専業の人間が必要かどうかは、仕事のスケールに依存する。小さな、ほんの数人が数週間かけてやる程度の仕事なら、マネジメント業務は片手間で済む。大きな仕事になればなるほど、その量は増えて、フルタイムでマネジメント専業の人間を必要としてくる。だが、その場合でも、マネジメントはあくまで「役割」である。上下関係ではないのだ。

マネジメント論をややこしくする原因は、それが役割と機能であることを忘れて、「人の上に立つ」「人を導く」といった概念に多くの人が心を奪われるからである。人間は社会的動物で、その集団の中の位階に対して、強い競争心を持って生まれてきている。だれがお山の大将になるか、ボスザルの地位を得るかで争い合う。だが、地位と、マネジメントの職能を混同するべきではない。地位は、マネジメントの技術レベルを保証するものではないからだ。

私が、プロジェクト・マネジメントにリーダーシップ論はいらない、とくりかえし述べているのも、この理由による。別に、プロマネにリーダーシップが一切要らない、と言っているのでは無いので誤解しないでいただきたい。あれば、あるに超したことはない。ただし、その前に、マネージャーには、マネジメント・テクノロジーを身につけておいてほしいのである。リーダーシップは、かなり属人的な、もって生まれた資質の部分がある。もしリーダーシップがマネージャーの唯一最大の要件だということになると、テクノロジーなどどこかに吹き飛んでしまう。だが、どんなに気合いと根性をこめても、クリティカル・パスよりもずっと短い納期でプロジェクトを終わらせることは、原理的に不可能である。

今日の閉塞した世の中では、一種の『リーダー待望論』のような空気が漂っている。それがリーダーシップ論の根底にあるのかも知れない。だれかすばらしい人格のリーダーが出てくれば、魔法のようにすべての悩みを解決してくれる--そんな無意識の期待が、世に渦巻いているかのようだ。だが魔法のようなリーダーが、そういるはずもない。一人に期待しては、すぐに失望し、またもう一人に希望を託しては、すぐに裏切られた気持ちになる。こうして、驚くべきスピードで、「キャラクター」たちが消費されていくことになる。そうでなければ、なぜこの国は1年も経たずに次から次へとトップの人間を取り替えていくのか?

マネジメントには魔法使いも銀の弾丸もない。もうディズニーランドのような夢からは覚めるべきだ。そして、もう一度、自分の足で「テクノロジー」を探しに出かけるべき時なのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-11 23:12 | ビジネス | Comments(0)

書評:「戯曲 アインシュタインの秘密」 C・F・カールソン著 桂愛景訳

戯曲 アインシュタインの秘密 (叢書 知性の華)

これは素晴らしい。本書は翻訳書の体裁をとっているが、じつは科学史家・唐木田健一氏の変名による、戯曲形式の独特な科学論である。

アインシュタインは今では20世紀の天才の代表と言われているが、彼が初期の研究業績である光量子やブラウン運動の論文を発表したときは、ベルンの特許庁職員だった。大学に残りたかったのだが、優秀でなかったため職が得られなかったのだ。また彼は後にノーベル賞を受賞するが、相対論の業績に対するものではなかった。それは周囲のアカデミズムが愚昧だったためなのか? 必ずしも、それだけではない。そこには革命的な新理論の危うさ、科学と政治との関わり、そして科学者の地位を支える基盤、という問題点がある。本書はそれらの論点を、三幕ものの戯曲して、それぞれアインシュタインと共同研究者との対話の形で明らかにしていく。

とくに、第一幕での対話で、コペルニクスの地動説やドルトンの原子論という、いわゆる物理学史における革命的な理論が、登場時にはいかに強引かつ不正確だったかを克明に示す部分は、読む人間にとって新鮮な驚きを与えてくれる(観測事実を正確に表すという意味では、その前のプトレマイオス修正天動説の方がずっと精密だった)。この事実を語るのが、プロシア科学アカデミーから「相対論はユダヤ的」として攻撃を受けている最中のアインシュタイン自身である、というのがこの戯曲の趣向である。

ところで、アインシュタインの対話の相手は、第一幕はデービッドという大学院生、第二幕は実在の科学者インフェルトだが、第三幕は東洋人の科学者ヨッシュ・ヤンノートという正体不明の人物である。科学者という身分自体を問い直す、このヤンノートとは、実は「磁力と重力の発見」の著者・山本義隆氏のことではないだろうか。著者と同年代で、東大物理学科随一の俊英とうたわれながら、東大全共闘の委員長として安田講堂を戦い、アカデミズムにも俗世間にも背を向けて去った、あの山本義隆氏である。だとすれば本書は、制度的科学のあり方自体を問い直す、メタサイエンティスト唐木田健一氏の真骨頂である、といえよう。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-08 22:13 | 書評 | Comments(0)

Twitterはじめました

tomoichi_sato
です(何の変哲もないアカウントだな^^;)
まだ使い方習得中ですが。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-05 22:34 | ビジネス | Comments(0)

豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ

暑い日の昼下がり。豹たちがサバンナの樹の下で会議を開いている。

「おい。全員そろったか。」
「大体、そろいました。ただ、ジミーの奴が、遅れています。来る途中、灰色ウサギを見かけたとか言って、横道それて追いかけてきました。」
「またかよ、あいつは。つまんねぇ小物狙いするんじゃねえって、あれほど言ったのに。」
「あとは全員来ています。」
「よし。スタッフ・ミーティングを始めよう。乾期ももうそろそろ終わりだ。この頃だいぶん獲物も減ってきている。暑さで体力も消耗してる。だが、もう少しの辛抱だ。雨期になればガゼルの群れが川を渡って戻ってくるだろう。いいか! ここが勝負どこだ。」
「へい!」
「あいつら、大群になって川を渡る。そうすりゃワニも近寄りにくいからだ。だが、中には必ずガキを連れた奴らがいる。足手まといで、川を渡るのも遅くなる。狙い目はそこだ。渡りきって岸に上がる頃にはヘトヘトになってるはずだ。そこを樹上から一気に襲うんだ。」
「わかりました。」
「--ハァ、ハァ、遅れてすいません。」
「ジミーか。どうだったよ、戦果は?」
「いやあ、ウサギの奴、すばしっこくて。20分も追いかけましたが、最後は見失っちゃいました。」
「ざまぁねぇな。いいか。俺たちゃ、誇り高い豹だ! サバンナの勇者だぞ。大物を狙え。風下から、音を立てずに、一気にやるんだ。おいジミー、爪を見せてみろ。」
「・・へい。」
「何だこのヘボ爪は。木の幹で爪を磨くんだ! いいか、スピードと爪の鋭さが、仕事のカギだ。俺は一度しか言わねえぞ。お前たちも良く覚えておけ。じゃ、今日はこれで終わりにする」
「あの、リーダー。」
「何だ。」
本社から、地区の今期の実績と、来期の目標を数値で挙げろって、指示が来てますが。」
「ちっ、本社の奴らと来たら! 自分じゃ何一つしねぇくせに、いちいち偉そうに言いやがる。今期の戦果ぁ? そんなもんいちいち覚えてられるか、しゃらくせえ。」
「でも何か答えませんと。」
「じゃあお前が適当に答えておけ。来期の目標も『ガゼルをたんまり』とでもな。あいつら、現場で走り回ったこともないくせに、数値目標だと? そんなもんお天道様だって知りゃあしねえさ。狩猟の仕事ってものには波があるんだ。」
「まったくです。」
「過去のことなんかいくらほじくり返したって、獲物が増える訳じゃない。俺たち豹はな、未来志向の生き物なんだ。誰かに“昨晩はどちらにいらしたの?”と聞かれても、“さあ。昔のことは忘れたぜ”--こう答えるんだ。」
「リーダー、それって『カサブランカ』のハンフリー・ボガードの台詞じゃ」
「馬鹿。古典からの引用、ってのを知らねえのか。教養のねえ奴らだ。この仕事、運がよけりゃ、大物にありつける。うまく仕留めたら、たらふく食って、あとはぐっすり眠るのよ。眠って、夢の中で、次の狩りの獲物のことを想う。これが俺たち豹の、未来計画ってもんなんだ。」・・・

同じ日の午後。狼たちが、岩の上で車座に這いつくばって、会議をしている。

「おい。全員そろったか。」
「ジョンがケガで休んでる以外は、皆そろいました。」
「よし。スタッフ・ミーティングを始める。議題は、今日と明日の狩りの配員だ。」
「はいっ。」
「乾期ももうそろそろ終わりだ。今年の乾期は長かったから、草を食い尽くした草食動物たちが、水を求めて上流の台地に移動してきているはずだ。お前たちも何か兆候を見なかったか?」
「そういえば、水牛と共生しているホロン鳥を、最近見かけました。」
「どこで何羽? もっと正確に言え。」
「一昨日、西側の台地で2羽。それから、昨日、南の森の入口でも3羽。」「こっちでも、二つ岩の上を4,5羽飛ぶのを今朝見ました。」
「よし。明らかに増えているな。良い知らせだ。他の者も、見たら正確に報告するんだ。やつらは数頭から数十頭で、まとまって行動する。だが、こういう移動時はしばしば、はぐれ野牛が出るもんだ。これを狙おう。」
「ラジャー。」
「西の台地の谷筋を狙う。皆で散開して、はぐれ野牛を探す。見つけたら、すぐに遠吠えで仲間を集める。1分以内に集まれるような距離を保て。野牛は警戒心が強い。すぐに近づかずに、遠巻きに包囲するんだ。いつもの隊形でいく。わかったな!」
「はっ。」
「7~8匹で相手を囲う。お前とお前、斜め後ろから威嚇して、野牛を谷の奥に追い詰めろ。両サイドは若手にやらせよう。ロン。フロントはお前に任せる。うまく相手を誘導しろよ。獲物が疲れて行き詰まったところを、俺がタイミングを決めて背後から飛びかかる。そしたら皆で一斉に攻撃だ。だが野牛は力が強いから気をつけろよ。とくに問題は角だ。去年、ビルが命を落としたのを覚えているだろ。」
「ハイ。」
「あのときのLessons Learnedは、うかつに野牛の顔の前に飛び出るなと言うことだ。低い位置から、後ろ足と首筋を攻撃する。今日はこれから、その練習に当てる。」
「あの、リーダー。」
「何だ。」
本社から、地区の今期の実績と、来期の目標を数値で挙げろって、指示が来てますが。」
「乾期の成績は、大型動物17頭、中型動物24頭、小型85頭、だったと思う。木の幹に牙で数を記録してあるから、一応確認してくれ。来期は、中型を30頭以上に増やして、大物への依存率を下げたい。そのためにも、もっと走るトレーニングが必要だ。だが気候変動で獲物が減るリスクはあるな。その場合のフォールバック・プランとしては、川向こうの地区と協力して、ガゼルの群れを狙うことも考えよう。」
「わかりました。そう報告しておきます。」
「いいか。俺たちの仕事はチームワークが命だ。抜け駆けは禁物だ。いつも言ってるから、耳にタコだろうが、あえて繰り返す。連絡を良くしろ。そして、経験したことは必ず覚えて、次に活かすんだ。」・・・


--あなたの組織は、豹のタイプだろうか、それとも狼だろうか? 組織のマネジメントには、いろいろなスタイルがある。おなじ会社の中でも、部門によって違うこともあるだろう。だが、この違いは、必ずしもリーダーの個人的資質だけで決まるものではないことに注意してほしい。

両者の一番の差は、「時間」の概念の差に現れる。あるいは、「記憶」と「予測」への固執と言ってもいい。

『猫の額』という言葉があるように、ネコ科の動物は前頭葉が小さい。これはどうやら、時間的な展望を持たずに暮らしていることを示すらしい。ネコは常に“今を生きる”タイプの動物なのだ。彼らは過去にとらわれず、未来のことを事細かく見通したりしない。獲物が目の前にあれば、一気に襲う。彼らは半夜行性の狩人で、とくに夜は視界が狭いので逃げられると追えない。その場で勝負をつけるしかないのだ。必然的に個人プレーで行動することになる(ネコは個人主義者だ)。そして成果は、個人的スキルと、獲物への遭遇機会とに大きく依存する。だから先など見通しても意味がないと言うことになる。

これに対してイヌ科の動物は集団で狩りをする(だから「一匹狼」は生存率が低い)。役割に応じた分業と、総合的判断に長けており、吠えによるコミュニケーションも発達している。社会的順位をつねに意識しており、獲物を食べる順序も厳格に決まっているという。相互扶助的だが、ある意味で軍隊的な息苦しい社会とも言える。ただ、組織的な仕事の成果は、個人のスキルにはあまり依存しないので、安定する。狩りが下手なものがいても、そこそこの結果が得られるのだ(豹の組織における成果は、個人の成果の合計にしかならない)。

どちらのやり方がベターなかは、仕事の特性によって決まると言っていい。ただし、一つだけ確実なことがある。もし、大勢で大きな仕事をしたかったら、狼型のやり方になるのは必然なのだ。つまり猫は会社に向かないのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-04 22:02 | ビジネス | Comments(0)

“猫型プロジェクト”のマネジメント法

世の中のプロジェクトには二種類あることをご存じだろうか? プロジェクトといえば、最初にスコープをきちっと決めて計画を立て、プロジェクトマネージャが強力なリーダーシップを発揮し、チーム員をぐいぐい引っぱって進めていく・・・そんな風にすべきだとPMの教科書類には書いてあるし、私も参考書にそう書いてきた。そのために、EVMSだCPMだという技法もあるのだ、と。

たしかに、マスター・スケジュールも立てず、クリティカル・パスの何たるかも知らないでプロジェクトを始めるのは、海図も持たず舵取りの仕方も知らないまま船出をするようなものだ。これで無事に航海して目的地にたどりつけたら奇跡だろう。とはいえ、世の中には、そんな事例がいくらでもあるのも事実である(とくに某○○業界では・・)。

しかし、百戦錬磨のプロマネをもってしても、PMBOK Guideに書かれているような近代的技法の数々を適用しても、さっぱり成功しないプロジェクトというのも、実は存在する。スコープは不確定で、スケジュールは“可及的速やかに”とされており、予算の大枠は存在するが、細目を決めがたい・・・そんな種類のプロジェクトも、確かにある。たとえば、新しいカテゴリーの新製品を作るような仕事や、博覧会の展示パビリオンを作るような仕事がそれである。

ある米国のプロジェクトマネジメント・コンサルタントは、こうした種類のプロジェクトを“猫型プロジェクト”と呼んで区別することを提案している。PMBOK Guide風の伝統的なこわもての管理手法は、この種のプロジェクトには全く向かない、と言う。それは、猫に対して犬のしつけを強要するようなもので、相手はこちらの言うことを聞くどころか、そっぽを向いて去っていってしまう。

米国PMIが制定したPMBOK Guideは、どちらかというとスコープがかなり明確で、かつプロジェクトの内容が物量で規定されるようなタイプのプロジェクトを念頭に書いている。いってみれば一括請負型プロジェクトである。こうしたプロジェクトは、計画上の自由度が少ないが、管理対象の物量が多いため、計数管理手法と軍隊型のリーダーシップに向いている。これは“犬型プロジェクト”だ

しかし、猫型プロジェクトは性格が全く異なる。猫型プロジェクトは基本的に自由度が非常に大きいので、計画や予測より発明の要素が強い。白いキャンバスに絵を書くようなものだ。始めた時点では、どこにたどり着くか、プロマネを含めて誰もよく分からないのだ。ここには命令の原則は通用しない。猫は呼んでも来ないし命令も聞かない。自分の気ままな思いつきで行動する。どこに行くか分からない。猫のように気ままなのだ。

猫型プロジェクトの難しさは、自由度が大きい条件下で、発想をどう育てるかという難しさである。そこに必要な手法は、軍隊式チームワークではなく、思いつきを生み出すためのコミュニティ・マネジメントであるという。そして、そのための手法の一つとして、『ジャーナル』を発行することを進めている。英語のJournalはもともと、語源的には“日々の”というニュアンスがある。毎日起きることを、時系列的に、ないしは日誌的に編集したものがジャーナルの原型である。そして、こういう仕事に従事する人を「ジャーナリスト」とよぶ。

このコンサルタントの処方箋はつまり、プロジェクトの中で毎日起きている出来事やアイデアやインプットなどを、関わるチームの全員にできるだけ毎日、伝えて共有することを勧めているわけだ。まあ最近では、それに向いたTwitterだのSNSだのといった仕組みが発達している。こうした情報共有系を活用して、なるべく皆のベクトルを一つに合わせてシナジーを生み出すことがコツなのだろう。

PMBOK Guideは、プロジェクト・マネジメントの世界に標準的な概念やプロセスを確立したという意味では、まことに画期的なものである。その功績は誰も否定しない。しかし、PMBOK Guideには「プロジェクトの分類学」が欠けているという不満をずっと私は感じている。プロジェクトには大規模なものも小規模なものもあり、受託型のものも自発的なものもある。そして、スコープが明確でハードな「犬型」と、目標も曖昧模糊としたソフトな「猫型」がある。これらは、みな適したマネジメント手法が違うのである。

にもかかわらず、“誰にもフィットするワンサイズ衣料品”のような解を、PMBOK Guideは提供しようとする。そうしたソリューションがあるかのような信念ないし誤解をふりまいている。そして、読む側もみな、自分をその衣服の型紙に合わせようと、肩をすくめたり首を伸ばしたりしているのではないか。だが思い出してもらいたい。PMBOK Guideを'80年代の終わりに着手した人たちは、米国の防衛宇宙産業とエンジニアリング産業が中心だった。彼らのビジネスは、巨大で、複雑で、スコープが明確に定義されていて、請負型で遂行するタイプのプロジェクトだったのだ。そうしたバイアスは、伏流する地下水のように、あの『標準書』のあちこちににじみ出している。

多くのプロジェクトマネジメントの解説書は、どうもPMBOK Guide的プロジェクト観に偏りすぎていると、私は思う。プロジェクトの世界は多様なのだ。その多様さを、そのまま活かせるようなマネジメント力こそが、求められていると言うべきだろう。


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by Tomoichi_Sato | 2010-07-01 21:29 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)