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安物買いの時間失い

QCD」は製造業の基本的目標だと言われている。これはいうまでもなく、Quality(品質)、 Cost(コスト)、Delivery(納期)の3つの尺度の頭文字である。高品質で低価格、かつ短納期な製品作りが、製造業の主要目標とされることに異論のある人は少ないと思われる。ちなみにプロジェクト・マネジメントの分野では、Quality-Cost-Timeの3つの制約を、Iron Triangle=「鉄の三角形」とも呼ぶ(QualityのかわりにScopeを入れることもあるが、プロジェクトでは品質を担保するための作業はすべてスコープに含めるからである)。

ところで、これら3つの目標尺度は、互いに独立に達成可能とは限らず、トレードオフの関係がしばしば生じる。たとえば高品質な製品を目指すためには購入部品や製造工程に余計なコストがかかる。逆にコストダウンを目指すとなると、安価な材料や短時間での加工仕上げなどに頼ることになる。その結果、品質は劣化する。

「安物買いの銭失い」という古くからある諺は、この間の事情を示しているわけだ。傘を買うとき、つい安価なものを買ってしまい、あっという間に骨が曲がって壊れてしまった--そんな経験をした人もいるだろう。「だって他のものの半値だったんだ」「そんなこと言ったって、また買わなきゃならないなら結局同じじゃない。それに傘って捨てるときすごく面倒なのよ!」・・こういう問答は、安物買いの陥る結果をよく示している。

ところで、コストも下げる、かつ必要な品質も守る、そう決めた時に、第3の要素であるDelivery(納期)とのトレードオフ関係が生まれてくることは、しばしば忘れられがちだ。極力コストダウンをはかろうとするあまり、余計な時間を消費してしまう。このことを私は「安物買いの時間失い」と呼ぶことにしている。

以前、欧米の石油メジャー顧客とのチーム・ビルディングのことを書いたが(「ぼくらに英語は分からない」参照)、その時かれらが真っ先に注意したのも、この問題だった。あのチーム・ビルディング・セッションでは、顧客とエンジニアリング会社の私たちが、互いに対する「期待」(expectation)をまず表明しあった。そのとき顧客側が第1条としてあげてきた文言が、"Don't sacrifice time for costs"であったことは今でも忘れない。彼らは、我々元請け業者が、資機材を安く購入しようとして、ベンダーと延々ネゴシエーションに時間を使い、納期を守れなくなることを何より危惧したのである。

残念ながらそれから1年後に、危惧の一部は思わぬ形で現実となった。複雑な機械を発注した欧州企業が、出荷前に倒産してしまったのである。プラント関連業界が不況のまっただ中にあった時期のことだ。仕方なくそのベンダーの設計図面や購入した部材を引き取って、別の日本企業に途中から作り直してもらう騒ぎになった。お金も余計にかかったが、何よりプロジェクト・スケジュール上のインパクトを抑えるために必死のリカバリーが要求された。

QCDの3要素のうち、コストは、どの企業でも原価管理で厳しくコントロールしている。品質も、品質管理部門が目を光らせているはずだ。ところが、困ったことに、たいていの企業では、スケジュールや納期を集中してウォッチしている部門が無い。工程管理のセクションはあるかもしれないが、それは普通、部材が工場に届き、製造段階に入ってからの現場コントロールが責任範囲である。外部からの購入部品・材料の納期は、資材調達部門が責任を持って見ることになる。設計から資材手配までの期間は、こんどは設計部門の管掌というのが普通だ。つまり、全体を通して見ている機能がないのである。

全体納期=設計期間+調達期間+製造期間、なんだから、それぞれの段階を各部が責任を持って見れば、それで十分じゃないか、との意見もあるかもしれない。これまでの製造業は、たいていそういう論理を無意識の前提として動いてきた。機能分業による縦割り組織では、そうせざるを得ないとの事情もあろう。

しかしその場合、、コストと納期のトレードオフ問題が起きたら、誰が意志決定をするのか。「設計コストを低く抑えるためには、一部の詳細図面作業を外注したいが、そうすると2週間ほど余計に時間がかかる」といったシチュエーションで、方向性を決めるのは誰なのか。そして、その時の判断基準は? 「中国から鋳物を買えば4割安いが、納期は1ヶ月近く長い」とき、製造工程で吸収しきれぬ遅延のリスクは、誰がかかえるのか? あるいは、既存ベンダーの発注価格が下がってこないので、海外の新規サプライヤーを探して価格交渉をしたいが、許される期間は何週間か、だれが決めるのか。

いつでもQCDをすべて最適に満たせる解があるとは限らない。もしトレードオフ問題が生じたら、その案件のQCDの全体像を知る人間しか、適切な判断はできないだろう。QとCを把握する部門はすでに一応ある。だとしたら、D(納期)情報を、どこかに一元化する仕組みが必要になるはずだ。とくに量産型工場でなく、個別性の高い多品種型受注生産の工場であればあるほど、そういう仕組みの必要性が高い。

複数の評価尺度にトレードオフ関係が生じた時、その間の優先順位を規定する基準のことを、ポリシーpolicyと呼ぶ。困ったことに、多くの企業では、このポリシーが明文化されておらず、あるいは状況に対応してポリシーを決定する人や役職も定まっていない。そこで、何となく“空気を読んで”暗黙の合意形成をはかるか、あるいはQ>C>Dというような一律のポリシーを無意識に適用することになっていしまう(ま、たいていはC≫Q>Dかな)。

D(納期)は、製造業における重要な非価格競争力の一つである。「コストダウン症候群」におちいりがちな日本企業が、“安物買いの時間失い”のジレンマに早く気づいて、適正でタイムリーな判断を都度、下せるようになることを願うばかりである。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-27 15:06 | サプライチェーン | Comments(1)

工場計画論(6) ディスクリートとプロセス--製造業の分類学

何年も前のことになるが、電子調達のサイトの仕事をしていたときに気づいたことがある。それは、「物品が先か、仕様が先か」という問題だ。ちょっと抽象的で、分かりにくい問題設定だとは思う。というのは、まずモノが現実の中に存在していて、それに属性がある、という風に、たいていの生産管理や販売管理のシステムでは考えている。そして、それを表現するために、「品目マスタ」とか「マテリアル・マスタ」という技術データ管理のマスタファイル(データベース)を実装しているのが普通だからだ。

ところが、いざ調達管理の分野に関わってみると、奇妙なことに気づく。いわゆる電子商取引のためのサイト(Amazon.comみたいな)には、電子カタログの機能が必須である。カタログを開けて、消費者がほしい商品を注文する、みたいな仕組みだ。ところが、こうした仕組みは、本だとか家電製品、化粧品だとかいった見込生産の消費財には、まあ適しているが、生産財の世界に踏み込むと、とたんにうまくいかなくなるのだ。

たとえば、コンデンサだとかフランジだとかいった、工業規格で決まっている汎用品は、まだしも製品カタログの仕組みに載せることができる。ただしカタログ数がやたら膨大になるきらいはある(『工場見学ほど面白いものはない - K歯車工業に学ぶ 』参照のこと)。しかし、これがケーブルだとかシートだとかいった「切り売り」する材料の場合、さらに工業用ガスや燃料油といった液状製品になると、次第に始末に負えなくなる。こうした製品は、三つのやっかいな特性を持っている。第一に、規格がブロードで、特性にいろいろな幅があること。第二に、異なる製品を簡単に混合できてしまうこと。そして第三に、購入量によってボトルやボンベといった荷姿が変わることだ。

生産財の調達はB2B(Business to Business=企業対企業)取引で行われる。多くの場合は、ユーザすなわち購入者が、細かな仕様(特性上の要求事項、たとえば純度だの発火点だの粘性など)を指定する。つまり、同じような品目に見えても、顧客の用途によっては適合したりしなかったりして区別が必要になるのである。それでは、性状の異なる製品をタンクの中でまぜちゃったらどうなるのか? おまけに、(ミネラルウォーターを見れば分かるように)1リットルと5リットルでは、まったく別の容器に入っている。これらは、同じ製品なのか、別の製品なのか? もし「同じ」だとしたら、“じゃあ今日は12リットル持ってきてくれ”と注文を受けたとき、どう引当するのか? もし「違う」ならば、“5リットルが在庫にないときは、たとえ1リットルが5本あっても、欠品状態になる”という状況が出現しないか? 

こうした問題を解決するためには、頭の中を切り替える必要がある。売り手の作った「製品のカタログ」があるのではなくて、買い手のほしい「仕様のカタログ」があるのだ、という発想をすべきなのだ。このことに気づいたとき、はじめて私は、ディスクリート系のマテリアル・マネジメントと、プロセス系のそれに、根本的な違いがあるのを理解したのである。

工場を分類する方法はいくつかあるが、その代表的な区分の一つが、「ディスクリート型」と「プロセス型」である。ディスクリート型とは、自動車工場や電子製品工場など、いわゆる組立加工型の工場である。プロセス型とは、化学プラントとか製油所といった、反応と合成を主体とする工場である。だが、その両者の最大の違いは何かというと、非常に単純なこと、すなわち「扱う主要な原材料・製品が固体か流体か」にある。固体ならば、ディスクリート、流体ならばプロセス型になる。

固体と液体なんて相対的なものじゃないか、液も冷やせば固体になるんだし--そう思う人もいるだろう。だが、固体になったら混ざらないのだ。混ざらないということは、属性が固定されるということである。赤ワインと水を混ぜれば、その比率によって透明から赤まで、連続的に好きな色がすぐに作れる。何かマテリアルの種類を特定したければ、その色によって特定するしかない。つまり、固体は「モノに仕様が付属する」のに対し、流体は「仕様がモノを特定する」のである。

ほかにも、固体と流体とでは、ハンドリング上、異なる点がいろいろある。
(1)サイズ(ロットサイズ): 固体ではほぼ決まっているが、流体では決め方は無数に可能
(2)中間在庫: 固体はいつでもストック可能だが、流体はタンク等の特殊設備が必要
(3)製造装置の連続運転: 固体では稼働・休止は自由(モノを自由に置けるため)だが、流体では連続運転が原則(止めるにはパイプの中の流体も全部どこかにはき出す必要がある)
(4)搬送設備: 固体ではAGV等、複雑だが必須ではないのにたいし、流体は配管+ポンプで輸送するため、単純だが必須になる

こうした性質は、工場のプランニング、レイアウト、在庫計画、入出荷計画、生産計画とスケジューリングなど、さまざまの面で根本的な差違を生む。簡単に言うなら、プロセス型の工場は、機械装置間が密結合されているシステムになっている。Aという工程から運び出された流体は、(そこらへんに積んでおく訳にはいかないから)すぐさま下流工程のBに、配管とポンプで輸送する必要がある。両者は、別々に運転するわけにはいかない。だから、制御も集中型になる。

これに対して、ディスクリート型工場は、粗結合のシステムと言えるだろう。加工機械をフロアにぽんぽんと適当に配置しても、それなりに工場としては機能する。なぜなら、A工程で生み出された仕掛品は、すぐB工程に持ち込まずとも、そこらへんに好きに積んでおくことが可能だからだ。

このような特性の違いは、すなわち工場設計論の違いをも生んでいる。プロセス型の工場では、全体が統合されたシステムであるから、システム・エンジニアが基本設計を行う(正確に言うと、プロセス・システム・エンジニアという職種がある)。そして、最初から最適化を念頭において設計していく。これに対して、私がこれまで見聞きした範囲では、ディスクリート型の工場は、システム・エンジニアという職種自体が確立しておらず(IT技術者とは別)、個別の工程が局所最適風につくられてしまう傾向が強いように感じられた。

さて、幸か不幸か、日本の製造業の花形業界(自動車・電機とその周辺)はディスクリート型である。そのためか、日本の工場を見ると、どうも局所最適・粗結合、つまりあちこちにアンバランスと無駄のある設計に気づくことが多い。あそことか、こことかを改善すれば、5%くらいは生産性が上がるだろうになあ、と傍目では思うのだが、ご当人達はベストの努力を尽くしていると信じている(局所最適型のエンジニアはだいたい、そうなりがちである)。

企業では5%生産性が上がったら(あるいは原価が下がったら)、かなり劇的に収益が向上するものだ。せっかくのそのチャンスを、活かせず無駄にするのは惜しいことである。だからといって、ディスクリート型の工場をプロセス型に転換するわけにはいかない(工場の構造は、主要工程の科学技術的制約によって決まるからだ)。でも、せめて、密構造の全体システム設計の視点を持ってほしいものだと、機会があるごとに感じるのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-23 23:08 | 工場計画論 | Comments(0)

役割(Role)としてのプロジェクト・マネージャー

世の中には、名刺に書きやすい資格と、そうでない資格がある。『弁護士』だとか『医学博士』だとかは、名刺に書くと箔がつくし、押し出しもきく。『技術士』や『不動産鑑定士』はそれよりやや専門的で地味な印象だが、その道の人は誰もが知るプロフェッショナルである。これに比べて、『漢字検定1級』とか『囲碁5段』とかは、知識レベルの深さでも資格取得の難易度の点でもひけをとらないはずだが、なぜか名刺に書く人は少ない。不公平なことである。

私が持っている(そして参考書も書いていた)『プロジェクトマネージャ』というのもまた、名刺に書きにくい資格だ。なぜなら、この名称では、取得資格なんだか社内組織上の職位を表わしているんだか、区別がつかないからだ。げんに私も名刺には記していない。

せっかく資格を取っても名刺に載せられないとさびしいので、もう少し注釈をつけて書こうかと考える向きもあろう。すると、『経済産業省認定 情報処理技術者プロジェクトマネージャ』ということになるが、ずいぶん長くて場所ふさぎだ。おまけに名刺交換の時に、自己紹介の目的にいささか不便である。
「初めまして。じつは私は経済産業省認定情報処理技術者プロジェクトマネージャでして」
「ほう。あなたは経済産業省認定情報処理技術者プロジェクトマネージャの資格をお持ちですか。そういえば、昨日も別の経済産業省認定情報処理技術者プロジェクトマネージャの女性にお会いしましたが、この方がなかなか美人でしてな・・」
これでは、いつまでたっても話の本題に入れそうもない。

世の中に『社長』とか『課長』とかいう名前の資格制度があったらおかしい。それなのに、情報処理試験制度がこのような名称を選んだのは、想像するに、二つ理由がある。まず、プロジェクト・マネージャーが専門職であるという認識があったのだろう。たしかにある意味ではそうだ。マネジメントが専門職なのか管理職(総合職)なのかは、議論の余地があるはずだが。

もう一つは、プロジェクトが時限的な営為である以上、PMもまたパーマネントな(永続的な)職位ではあり得ないはず、という理解があったのではないか。社長や課長は、永続的な職位である。個人単位ではいつかはその職を去るだろうが、管理対象はゴーイング・コンサーンを旨とする企業組織である。何かの目的を完遂したら解散、というプロジェクト組織とは異なる。

おそらく、この2点に、従来型の企業組織がプロジェクト・マネージャーという職業を位置づける際の居心地のわるさ、困難さが集約されているように思う。PMとは職位(=地位・特権)なのか、職種(=専門性)なのか? また永続的な部門の管理者なのか、それとも部門長に管理される者なのか? そもそも、若いPMは、自分より先輩の専門職チーム員に、指示を出す権利があるのか?

こうした混乱は、プロジェクト組織の本質を理解していないから起こる。じつはPMとは職位でもなく職種でもなく、役割(Role)なのだ。役者が劇で役割を演じる、あるいはサッカーでアシストとシュートの役割を分担するように、プロジェクトという限られた目的の中で、最終的な意志決定の責任をになう「役割を負っている」のがPMなのである。プロジェクトが終わって、PMの任を降りたら、つぎは誰か別のPMの下で、別の「役割」につくかもしれない。それはPCM(プロジェクト・コントロール・マネージャー)やEM(エンジニアリング・マネージャー)という「役割」かもしれない。

プロジェクト・マネジメントは専門技能である。この点はいくら強調しても強調しすぎることはない。しかし、たしかに(2年も3年も続く巨大プロジェクトは例外として)PMという一時的な役割を職位のごとく名刺に書くのは、おかしい。それならば、専門技能の持ち主である人々を、どう呼ぶべきなのか。

私の勤務するエンジニアリング業界では、『プロジェクト・エンジニア』と呼んでいるが、ちょっとそっけない職種名称だ。PMIの"Project Management Professional"(PMP)とか、PMCCの"Project Management Specialist"(PMS)などの名称の方が、ずっと気がきいている。

だが名称はどうあれ、この『プロジェクト・エンジニア』は、PMになるための主要なキャリア・パスだ。最初は雑用じみた調整役からはじめて、しだいにEMだとかPCMを経験し、やがてはPMの役割を担えるようになっていく。私は、(たとえば)プログラマ→SE→リーダー→PMといった、固有技術の専門職が経験とともに、いつのまにかマネジメント職に「超進化」するような、よくある不可思議な進化論にはどうしてもなじめないのである。できればより多くの業界において、名称はどうあれ、プロジェクト・マネジメントの専門職種性が認知され、適切な「役割」を与えられるようになっていくことを、私は切に望んでいる。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-20 23:23 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

「たのしい科学」が私をつくった

少し前のことだが、高田馬場の「仮説社」という小さな出版社で行われた、ある上映会に参加した。「たのしい科学」という、60年代初頭に製作された、科学教育のための短編映画集だ。そのなかから、「粘土」「やきもの」「ガラスの性質」そして(90年代に製作された短編)「水蒸気」を観た。

上映会には制作者の牧さんという方が出席されて、ところどころ解説を入れられた。フィルムはいずれも1巻ものの貴重な(古い)プリントで、 16mmの映写機でうつされた。

「たのしい科学」は、岩波映画社の製作で、最初は日本TVでシリーズ放映され、のちに東京12チャンネルが開局したときに全部再放送したという。ぼくは小学生のころ、この「たのしい科学」が好きで、なんだか自分の記憶の中では毎日観ていたような気がする。

中でも、「二本足のコマは立たない」「光の正体」「地震」などは今でもその中のシーンをいくつかはっきりと覚えている。一本足の地球ゴマはちゃんと立つのに、足を二本(二股)にしたとたん、地球ゴマはすぐ倒れてしまうのだ。なぜかショッキングなそのシーンは強いインパクトがあった。ナレーションの女性アナウンサーの声もまだ記憶に印象が残っている。

どれも15分の短編で、白黒だが、今観ても面白い。まず、シナリオがじつに良くできている。視点の提起のしかたもいいし、例にインサートされるショットも気が利いている。音楽もまたすばらしい。このころの映画の録音は一発勝負で、「お皿」と呼ばれるLPレコードから該当箇所を、ぴったりの位置に手で針を落としてとったのだという。照明もいいし、撮影もきれいだ。つまり、その頃の日本映画界の高度な職人芸が完全に詰まっているということだ。

しかし、それより何より、こういうシリーズの短編が制作され、TV放映されたという事実に、あらためて時代の違いを感じざるを得ない。科学というものは、好奇心を刺激する、なにかワクワクするようなもの、しかし大げさでもわざとらしくもない、つまり『楽しい』ものだったのだ。いまのぼくが、かろうじてエンジニアの端くれでありつづけているのも、小学生のころ毎晩TVで「たのしい科学」をみてワクワクしていたことと、無縁ではない。

いま、このシリーズの数十本は、子どもの理科教育に携わる先生方有志の努力で、一応DVDセットとして販売されている。それはそれで貴重な取り組みだと思うのだが、本当だったら、TVで放映してほしいと思う。時代錯誤なことを言ってるのは承知の上だ。

ぼくは、昨今言われている「理科系志望者の減少をなんとかするために云々」といった議論が、じつは大嫌いだ。産業社会の都合のために、使いやすい兵隊や下士官を量産したいという意図が見え見えだからだ。そんな企業のご都合主義的論理など、ぜんぶ捨ててしまえばいい。科学が好きになる理由はたった一つ、それが「楽しい」からだ。それで十分ではないか。一番大事なそのことを忘れて、『ものづくり日本』だの『センター・オブ・エクセレンス』だのといった戯言ばかりをもてあそぶ大人たちを、ぼくの中の小学生は憎むのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-17 22:08 | 考えるヒント | Comments(3)

進捗を把握する3つの方法

言葉の通じぬ、見知らぬ土地でタクシーに乗った。こちらの告げた目的地を、運転手は分かったんだか分からないんだか曖昧な態度のまま、車を発進させる。しばらく乗ったところでやはり不安になり、「もう半分くらいは進んだのかな?」と口にしてみる。すると、隣に乗っていた若い後輩が気楽そうに答えた。「もう、2/3くらいまで来ていますよ。」「なんでわかるの?」「だって、メーター見てください。空港からだいたい30ユーロくらいって、言われたじゃないですか。もう20ユーロ分、走ってますもん。」

進捗を把握するのは、簡単なように見えて、案外むずかしい。それは、私たちが『進捗とは何か』を、本当には良く理解していないからだ--こう言ったら驚かれるだろうか。無論、このタクシーの例のように、目的地に向かっているかどうか分からないときに、メーターだけ見て進捗を測るのが無意味な事は、誰でも分かるだろう。では、次の例はどうだろうか。

まだ戦後間もない昭和25年、国会で「北海道開発法」が成立した。敗戦で海外の植民地をすべて失った日本に、ただ一つ残されていた未開の沃野が、じつは北海道だったのだ。この法律に伴って、「北海道開発庁」という役所が設立される。その北海道開発庁が中心となって、2年後の昭和27年に、北海道開発の『第一次五カ年計画』が開始する(余談だが、五カ年計画という名称はなんだか社会主義国を連想させる)。

その『第一次五カ年計画』は、農業・畜産奨励・土壌開発(機械力による客土)・道路・河川・港湾整備・・・を含む壮大な国家的プロジェクトであった。予算は、国費だけで800億円。半世紀以上前の金額だから、現在に直せば1兆円を超えるだろう。

ところで、それから5年経った昭和32年に、著名な物理学者でエッセイストでもある中谷宇吉郎博士(当時北大教授だった)が、文藝春秋に爆弾論文を発表する。「北海道開発に消えた八百億円 - われわれの税金をドブに捨てた事業の全貌」(昭和32年4月号)という、きわめてショッキングなタイトルのその論文で、中谷先生は、人口・農業統計などの数字を詳細に調べ、「人口増加・食糧増産・農家戸数の増加は、・・・いずれも達成率0であった」と断ずるのである。

この論文のおかげで、北海道開発庁は上を下への大騒ぎになったらしい。北海道開発庁(なぜかこのお役所の主要機能は霞ヶ関にあった)では、翌月、さっそく文藝春秋誌に反論を掲載する。開発庁の高官が書いたこの論文には、「開発計画は順調に進展している」と書かれている。なぜなら、「過去の年度で順調に予算を消化してきたからだ」・・・。

この論法が、タクシーに乗った後輩社員と同じく、おかしいのに気づかれただろうか。過去にどれだけお金を使って事業を進めて来ようが、目標に一歩も近づいていなかったら、進捗はゼロである。タクシー・メーターをいくらにらんでも、進捗が分からないように。

たしかに開発庁だって努力はしてきたにちがいない。そのこと自体について、異論はない。だが、進捗と、過去の努力は関係がないのだ。なぜなら、進捗とは、これまでどれだけ仕事をしたかではなく、「これから先、どれだけ仕事が残っているか」で測るべきものだからである。

それなのに、進捗の議論となると、タクシー・メーターを見ることばかりに集中するきらいが、ときどきある。メーターをどれだけ精度良くしようが、リアルタイムで1円単位まで測ろうが、それは(コスト管理には資するかもしれないが)進捗管理には関係ないのである。

あるいは、「使った費用」のかわりに「使った時間」で測りたがる誤解も、後を絶たない。10日間でおわるはずの仕事がある。今、8日目だ。だから進捗は8割です--これが間違いであることも、説明の要はないと思う。こんな論法が通用するのなら、9日目は9割、10日目には10割になる。10日目でも仕事が終わらなくて、11日目に突入したら、進捗は何割になるのか。11割か?

これが馬鹿げていることは、考えてみれば誰にも分かる(はずだ)。だから、実際の進み具合は、担当者にたずねてみるしかない。かくして、プロジェクト・マネージャーは週次ミーティングでチーム員や関係者を集めて、各人に「どこまで進みました?」と訪ねたりする。プロマネはその答えを持って机に戻り、Excelの計算表か何かに数字を入れて全体の進捗率を計算する。有名なプロジェクト・マネジメント・ソフトウェアにもたいてい、『Progress %』を入力する機能がついている。まあ、一番ポピュラーなやり方であろう。

だが、こうした問答で返ってくる進捗率が、“タクシー・メーター的な進捗率”でないという保証は何もない。さらに担当者のサバ読みなども紛れ込みやすい。だから、「」で質問する方法は、私自身はあまりお勧めしない。

では、何で測るべきなのか? もし進捗を定量的に測りたいのだったら、やるべきことははっきりしている。「残りの仕事量」を定量化することである。それを、全体像と比べて、あと何割残っているかを計算する。だが、これは繰返し性の高い業務では可能だが、個別性の高いプロジェクト的業務では、決してたやすくない。

そのことを理解した上で、次に思いつく方法は、率の代わりに、各人に『残日数』(完了まであと何日かかるか)を申告させる方法であろう。「これが進捗管理の唯一正しい方法だ!」と力説される大学の先生に、あるセミナーでお目にかかったこともある。でも、はたしてそうだろうか。これが進捗管理として信頼できるためには、各担当者が、残日数について信頼に足る見積能力を持っている、という前提がある。これは、成熟度の高い組織ではあり得るかもしれないが、すべての会社に当てはまるとは、到底言えない。だって、プロマネ自身、上司に同じ質問をたずねられたとき、希望的観測を述べたりすることもあるではないか。

これと同様の方法として、『完了見込日』を答えさせる方法もあるが、問題点はよく似ている。仕事にはまり込んでいる担当者に、客観的状況把握を期待するのは難しいと、私は思う。もしやるのなら、むしろ各担当者をマネージしているリーダーか、あるいはPMOに、完了見込日を推測させる方がベターかもしれない。しかしこうなると、「上は俺たちのいうことを信用していないのか」との感情的反発もあり得るし、手間もかかるという何点があるだろう。

残る、第3の方法がある。それは、「マイルストーン」を活用する手法である。プロジェクトのプロセスを計画時点で検討し、要所要所にマイルストーンを(できればそのクリティカル・パス上に)配置する。そして、そのマイルストーンに、進捗率を当てはめるのである。その率は、EVMSで用いるようなコスト基準(残るアクティビティのコストの比率)でも良いし、あるいは別の何らかの基準で決めても良い。とにかく関係者全員が、各マイルストーンについて、ある程度納得し合意できる進捗率を、定めておく。そして、そこを通過した時点で、“何%を達成”と公表するのである。

もしプロジェクトが大きければ、それを各アクティビティについても定義しておく。設計書作成のアクティビティならば、「設計条件の整理」→「設計計算」→「図面の作成」→「設計書本文の作成」→「検討・承認」といった、標準的な内部プロセスがあるはずである。それぞれに対して、内部進捗率を10%・30%・60%・80%・90%・100%といった具合に取り決めておく(組織内部で合意する)。そして、週次ミーティングで質問するときは、「何%か」を聞くかわりに、「今どこのステップか」をたずねるのである。これならば、回答者の主観やサバ読みを、少しは排除しやすい。

いずれにせよ、繰返し業務と違って、プロジェクトは個別性が高い。これはすなわち、見通しにリスクが伴っており、「終わってみないと本当はどれだけの仕事量だったか分からない」ことを意味している。すなわち、プロジェクト的な進捗管理には、かならずリスクに伴う精度の問題が付随することを忘れるべきではない。この問題には「正解」は存在しないのだ。あるのは、「納得感を持てる」方法のみなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-13 18:44 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

稼動率で管理してはいけない

エンジニアリング・プロジェクトの一環として工場計画を立案するとき、「稼働率最大」という目標を満たすように工場側から要求されることが、しばしばある。面白いことに、「稼働率を下げて仕事を楽にしてくれ」などとは決して言われない。つねに忙しくすることを求められるのだ(少なくとも日本では)。

生産スケジューリングを最適化問題としてとらえる場合にも、往々にして、この稼働率アップが目的関数にもぐり込んでくる。しかし、ここでもう一度私は、声を大にして言いたい。
「稼働率アップを目標にしてはいけない!」

そもそも工場の稼働率とは何だろうか。ごく単純に定式化するならば、“設備リソースの実稼働時間を、利用可能な時間総数で割って求められる比率”だ。

稼働率で管理する、とは、稼働率がいかに100%という限界に近づいているかで、工場のパフォーマンスを計る考え方である。機械設備の特性上、フル稼働に近ければ近いほどロスや不良率が下がり、生産効率が良くなるはずだ--これが稼働率管理の背景にある。また、前回の「もう一度、付加価値とは何か?」も書いたとおり、減価償却を時間ベースで生産原価に配賦する場合も、稼働率が上がればそれだけ製造原価が下がる勘定になる。

しかし、よく考えてみてほしい。もしも、同じ製品100個を2人の作業者が担当して、一人は1時間で首尾良く作り、他方は2時間かけて不手際に作った場合とで比べると、後者の方がその設備の稼働率が高くなるのだ。しかし、誰がどう見ても、前者の方が優れている。かりに残りの1時間は遊んでいたとしても、である。

さらに、稼働率計算にはワナがある。見込み生産で動いている業種では、工場がフル稼働して見かけ上は景気良く動いていても、実は製品在庫がどこか遠くの見えない倉庫に積み上がっていくだけ、という可能性がある。会社全体では、生産を売上につなげて初めて利潤が生じるのだから、稼働率による管理は工場だけの「局所最適化」になるおそれが高い。

TOC理論を学んだ方なら、ここで「工場のボトルネック工程での稼働率最大化ならば全体最適にマッチする」とおっしゃるかもしれない。いえいえ、必ずしも、しからず、です。TOCで求めるのはサプライチェーンのスループット最大化であり、それが工場のボトルネック工程での稼働率最大化にイコールとなるためには、さまざまな留保条件が付くことを忘れてはいけない。端的には、さきほどの100個の製品の例を考えてみればわかる。

それでは、無用な在庫が存在しないはずの完全受注生産や、在庫が理論的にありえないサービス業などの業態(典型的には受託開発のソフトウェア・ハウスなど)ならば、稼働率管理に意味が出てくるだろうか。

ここでも、答えはNOである。なぜならば、完全受注生産の業態においては、全体稼働率は仕事の受注量の従属関数にすぎないからだ。独立変数である受注量を見過ごしたまま、従属関数だけ向上させようとするのは、愚の骨頂である。その結果は、予算として与えられた作業時間のいたずらな消費、タイムシート上の「調整」(=嘘)、低能率の看過など、さまざまな望ましくない副作用をもたらす。

では、どうして「稼働率管理」が我が国でメジャーであり続けているのだろうか。それは、「高度成長期の見込生産の考え方」にフィットするからである。高度成長期の見込生産とは、すなわち、大量生産・薄利多売の論理である。そこでは、次のようなことが要請されてきた。

・工場は、大量・高速の生産ラインを持つほど、コストダウンがはかれる
・工場は、高価な製造設備の稼働率を最大限に高めるべきである
・工場は、省人化をはかり、労務費は極力抑えることが望ましい
・工場は、大量仕入れによって材料費単価を下げるべきである

・営業部門は、販売数量を上げ、市場シェアをとることを第一優先とすべきである
・営業部門は、したがって受注(売上)高を目標値とする
・営業部門は、販売機会のロスをなくすために、製品在庫をもち欠品を避けるべきである

まとめると、工場は「コスト」「稼働率」で、営業部門は「売上高」「サービス率」で管理すべきである・・・ということになる。だが、これは需要が旺盛で、つくればそれなりに売れた時代の思考法だ。需要が収縮して不況下の今日、大量生産・薄利多売が成功する分野は、かなり限られている。

にもかかわらず、会社の経営システムの根幹にある目標概念は、事業が変化しても無意識のうちに保存され、生き続けている。「特別な我が社」にも書いたことだが、今や日本の製造業が抱えている共通の問題点とは、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ことにあるのだ。

間違った評価尺度で生産組織を管理してはいけない。それは企業組織全体のあり方をゆがめてしまう。そして、稼働率管理はその最たるものの一つなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-09 22:48 | ビジネス | Comments(4)

もう一度、付加価値とは何か?

経済産業省が先頃、「韓国室」という部署をつくったらしい(関連記事)。昨年、UAEの原子力発電所の商談で負けて以来、日本の産業界は急にお隣の国の存在感を意識しはじめた様子だ(まさかオリンピックのフィギュアスケートに勝てなかったからじゃないとは思うが)。私たちはとにかく何であれ海の向こうの流行りものには弱いらしく、いまやサムソンに学べだの、ガラパゴス化で世界の孤児になるだの、メディアはかまびすしい。中には韓国に負けないために日本も財閥を再結成せよだとか、徴兵制をしいて若者を鍛え直せとか、真顔でいう方もおられるらしい(自分で実際に兵役を経験した人など、今や経済評論家にもほとんどいないと思うのだが)。

伝統的に日本の産業界は欧米に顔を向けてきた。基礎技術は欧米から輸入し、お得意の改良をほどこして、製品をまた欧米市場に輸出する。アジア・中東・中南米等はどちらかというと、原油原材料の輸入や部品加工のための足場という扱いだった。このような世界地図の歪みに早く気がついた企業だけは、肌色が白くない人達も、顧客として(またライバルとして)応対してきた。だが、多くの企業は『新興国』という単語が新聞を賑わすまで、世界の変化に鈍感だったと言っていい。

東アジアが競争力を増してきた現在、多くのビジネスマンの頭の中にあるキーワードは、「高付加価値化」であるらしい。価格競争力では、相手に勝てない。なんとなれば日本は人件費も土地代も材料費も物流費も高いからだ。おまけに(なぜだか)円レートまで高い。そこで、お得意の技術力を活かし、高機能・高付加価値の製品を開発して勝負すべし、という結論になるらしい。

でも、ちょっと待ってほしい。高付加価値って、何のことだかみな理解しておられるのだろうか。

いま、かりに文房具業界に私が勤務しているとしよう。私の部署は万年筆やボールペンなど筆記用具を製造し販売している。安いものでは、1本100円のボールペン、高いものでは1本1万円の高級万年筆だ。ちなみに、ボールペンの材料購入費は1本あたり30円、万年筆は材料購入費が6,000円になっている。さて、どちらがより高付加価値だろうか?

こういう質問の出し方をすると、賢明なる読者の方は一瞬警戒して、「ふつう万年筆の方が高付加価値と思うが、コイツはいつものごとく裏のある問題を出してきているんじゃないか?」などと疑われるかもしれない。そして、「じつはボールペンが正解だろう」と考えられるかもしれない。

答えは、万年筆でも、ボールペンでもない。「正解は、わからない」である。なぜなら、それぞれの製品が、何本売れているのかが不明だからだ。

付加価値(粗付加価値)とは、「売上高-外部購入費」で定義される。いま、私の会社は、製造工程はすべて自社内でやっているとしよう(外注費はゼロだ)。そして、万年筆は年産1万本、ボールペンの方は年産100万本だと仮定する。すると、簡単な計算で、

万年筆の生む付加価値=(10,000-6,000)× 1万本=4千万円/年
ボールペンの生む付加価値=(100-30)× 100万本=7千万円/年

という結果になる。ボールペンの方が、万年筆よりも大きな付加価値を生むのだ。むろん、この比較は、製品それぞれの生産本数の大小に依存する。いや、正しくは「販売本数」の大小に依存するわけだ。

とにかく私の会社は、ここで生み出された付加価値の中から、人件費、生産設備の減価償却費、販売経費、その他間接費等を払っていかなければならない。人件費は付加価値の中から捻出するしかないことを忘れないでほしい。高級万年筆製造に必要な高度な職人作業の賃金であれ、ボールペン製造機のパネルの操作オペレータであれ、給料の元はそこにしかないのだ。

では、この二つから、どのような結論を引き出したらいいのだろうか。アジアとの競争に打ち勝つために高付加価値製品にシフトすべきだとしたら、万年筆は捨ててボールペンに「経営資源を集中」すべきなのだろうか? いや、それは早計である。問題は、それぞれの製品の市場の大きさはどの程度で、自社の競争力の源泉はどこにあるのか、にある。それを忘れて、単に付加価値だけで判断してはいけない。

もし私の会社が、価格の安さしか取り柄のない製品ばかりを作っていて、かつアジアの競争相手の製品が、“安かろう悪かろう”で攻めてくるのだとしたら、品質で差別化するのも一つの手段である(もっとも、品質では直に追いついてくると思うが)。でも、納期や品揃えの的確さ、アフターサービスの柔軟性などで競争すべきかもしれない。あるいは、もしかしたら、万年筆の市場で得た付加価値を原資にして、ボールペンでの価格競争にそなえるという戦略もあるかもしれない。とにかく、競争力の源泉を間違えずに理解して対応すれば、販売数量は減らないだろうし、結果として付加価値も落ちないだろう。

世間の誤解は、「高付加価値製品」=「高価な商品」という点にある。単価で比較すれば、そう思えるだろう。しかしビジネスは、いくつ売ってナンボの世界である。1個1000円もする高価な日本産リンゴが、上海の高級スーパーマーケットで売れている、というニュースを見て、“やっぱり農業もこれからは高付加価値化が”などとコメントするのは、早計に過ぎる。たしかに、そういう行き方もあるだろう。だが、リンゴのクラス別販売数量を見れば、それはニッチな戦略であることがわかる。そうでない平凡なリンゴも、世の中では大きな需要があるからだ。

日本企業は、国内市場の赤字を、海外への輸出利益で補っているのに対し、韓国企業は国内で設けた分を海外で安く輸出するのに使っている。だから海外市場で日本製品は高価なのに韓国製品は安価なのだ、という説明がある。私自身は、どこまでこの説明が正しいのかは分からない。しかし、企業においては、複数の製品がつくり出す付加価値を、どこに再配分するかがマネジメント上の重要な戦略である。なぜなら、付加価値こそが経営資源の源泉だからだ。そして、前回の書評「コストダウンが会社をだめにする」でも引用したように、国レベルでも付加価値こそ経済の源泉なのである。できるならば、より多くの人が、このことを理解されることを望むばかりだ。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-06 19:04 | ビジネス | Comments(0)

書評 「コストダウンが会社をダメにする」 本間峰一

コストダウンが会社をダメにする 本間峰一著

副題は「スループットで全体最適」。著者は、みずほ総合研究所(株)の主席コンサルタントである。金融系のシンクタンクだが、主に中堅企業の経営改善分野を得意としている。

「企業が生き残るためには徹底的なコストダウンに邁進するしかない」というのが、今日の日本企業における主要なテーゼである。そのためには、経費節減・給与カット・外注化・海外調達・海外生産等をどんどん進めるべし、さもなければ企業は不況のどん底で赤字にあえぐしかないだろう--そんな合意が産業界で成立しているかのようだ。

ところが、経営の指示の下、会社ぐるみでコストダウンに邁進した結果、儲かるどころかかえって減益になってしまう例が少なくない、と著者は言う。なにも、無理なコストダウンのための製品偽装、などといった違法行為の話ではない。適法な範囲で努力に励んだ結果、かえって業績が落ちてしまうのである。いったい何が起きているのか?

たとえば、「社内単価(時間賃率)と外注会社の見積単価を比べたら、外注の方が安かったから外注に出しました」という機械メーカーD社のケース。単純に考えれば合理的に見える。D社は工場を建てなおしたばかりなのだが、それまで工場内で行っていた機械加工の設備をなくして組み立て専門の工場とした。加工工程は外注の方が安かったからだ。しかしふたを開けてみると大幅赤字状態に陥ってしまったという。

なぜこうなったか。それは、社内単価(コスト)の計算に問題があるのだ。原価は会計部門が計算方式を決めるが、普通そこには人件費以外に間接費用・本社費用などの固定経費が『配賦』されて乗ってくる。これらは一種の仮のコストである。加工工程をやめても、その分は組立工程の直接労働時間に全部、再配賦されるだけで、どこかに消えて行きはしない。だから、社内単価を外部購入単価とは単純に比較できないのだ(計算のベースが違う)。だが、ライン部門の人は、いや経営者層でさえ、原価計算書のロジックまで突っ込んで理解せずに、数字だけで議論しがちだ。その結果、自社が加工で稼いでいた儲けの大部分を社外に出してしまう、といった間違った決断を下してしまうのである。

似たようなことは、ソフトウェア業界でもしばしば起こる、という。大手SI業者の人月単価は150万~200万円が珍しくない。しかし別にSEが高給を貰っているわけではなく、経営者管理職など膨大な間接要員の固定費が上乗せされているのだ。中小ソフトハウスは間接部門がほとんど無いので、人月単価はSEの給料に近づき、100万円以下になる。だからといって、大手業者が受注したプロジェクトの現業のほとんどを外注に回してしまったら、その会社が得る差額=付加価値額はひどく薄くなるに決まっている。そして、どの会社も、その付加価値額の中から、社員の給与や設備など固定費を支払っていくのである。付加価値が小さくなれば、赤字になるに決まっている。

どうしてこんな間違いが起こるのか。それは、「賃率」や「製造単価」といったコスト要素が、固定した値だと思うからだ。実はこれらコスト要素は、会社全体の仕事量の関数なのである。たとえば、減価償却費が年200万円の装置があるとしよう。工場がフル操業なら、年に2,000時間稼働する。つまり加工時間1時間あたり、1千円が製造単価に乗せられる。ところが工場が50%程度しか受注量がなかったら、どうなるか。実働1,000時間である。ということは、時間あたり2千円が原価に乗せられることになる。売れなければ売れないほど、原価が高くなる計算なのである。

だから、誤解を避けるためには、固定費は固定費である、という単純な原則を再認識する必要がある。賃率や単価といった変動費風の見かけに計算し直すから、誤解が生まれる。これを避けるための単純で切れ味の良い管理手法が、本書のいう「スループット」によるマネジメントなのである。

受注額(販売金額)から、外注費や材料購入費など外部に支払う費用を差し引いた金額を、「スループット」と呼ぶ。この用語は、TOC理論で有名なゴールドラット博士の提唱した用語だが、流通業で『粗利』、製造業では『粗付加価値』と呼ばれてきた指標とほぼ同等だ。だから、落ち着いて考えれば、特に目新しくもないし突飛な手法でもない。

にもかかわらず、コンサルタントとして提案をすると、大きな抵抗にあうことが多いと著者はいう。それは、残念ながら経営者やスタッフが、伝統的原価計算を頑固に無批判に信じ込み、木を見て森を見ない状態に陥っているからだ。「コストダウン」の語が、思考停止用語になっている。これを“値下げボケ”というらしい。こうして人件費の削減や、下請け企業に無理な価格を指し値することや、無理な海外生産がはやる。しかも、「コストダウンできるようになったから、これからは値引きして売れる」という営業戦略を展開するものだから、せっかく得たはずの利益も無くなってしまう。これが、昨今の電機業界で起きた現象だったのである。

スループット・マネジメントについては、これまで実務につかえる良い解説書がなかった。本書はその意味で、製造業のみならずサービス業や流通業などにも、とても参考になる。しかし、本書の一番面白いところは、最終章かもしれない。ここで著者は、GDP(国内総生産)とは、じつは「日本全体の付加価値総額」(つまりスループットの総和)になることを説明する。ということは、安易に海外生産に依存していくと、その分だけ日本のGDPは減少していくことを意味する。一部の企業が利益を出しても、日本全体の景況が沈滞していく理由はここにある。そこで著者は、スループット・マネジメントの立場から、日本全体のGDPを増やすための4つの処方箋を提案する。個別の企業経営のみならず、日本の経済全体について問題意識を持つすべての人にお勧めしたい良書である。
by Tomoichi_Sato | 2010-06-02 23:39 | 書評 | Comments(1)