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サプライチェーンのための販売プロセス管理とは

販売目標と生産計画の不一致が、サプライチェーンの歯車のかみ合わぬ根本原因だ。前回、「生産計画の前にすべきこと」でそう書いた。そもそも、目標は計画ではない。計画はその通り実行されるのが当然だと、誰もが思う。これに対して、たいていの目標は達成できたら上出来だ。目標は背伸びした(ストレッチ)数字を設定するのがふつうだからだ。このため、製造部門の生産計画担当者は、営業部門の出す目標数字をてきとうに「割り引いて」計画を立てるようになる。このズレをなんとか正す必要がある。そこで今回は、販売の計画について少し考えてみよう。

多くの企業では、営業マンに対して販売目標や販売ノルマを与えている。これは金額ベースで、かつ(ふつうは)売上高を指標としている。営業マンはなるべく多く売りたい。また欠品による販売機会損失を最小にしたい。だから、「見積金額はできるかぎり安く」「製品在庫は出来るだけ多く」したい。これが営業と製造の争いの種になるのは周知の通りだ。営業部門と製造部門との間は、『製品在庫』という壁が仕切になって、相手が見えなくなってしまう。逆にいうと、製品在庫の存在が、一つの企業内で、販売目標と生産計画をそれぞれ独立に(バラバラに)立案することを可能にしているとも言える。

ところで、計画と目標のもう一つの違いは、計画は具体的なプロセスに詳細に展開できることだ。生産計画ならば、基準生産計画(MPS = Master Production Schedule)があり、それを部品展開して製造スケジュールや購買手配計画や要員計画に落しこんでいくことが可能だ。一方、販売目標はどうか。「頑張れ」という根性論以外、あまりプロセスが無いのが実態ではないか。

とすると必要なのは、販売目標ではなく「販売計画」と、それを実現するための具体的プロセス・方法論を確立することだ。それは何だろうか?

販売促進の方法論というと、広告や価格キャンペーン、チャネル政策などをすぐ思いつくかもしれない。たしかにそれもあるが、これらマーケティング活動の効果は、なかなか数字で推定しにくい。生産計画のためには、具体的な製品ファミリ別の数量(売上金額ではなく)が必要なのだ。。

数字ベースに根拠を与えてくれる一つの方法は、『需要予測』のプロセスを組み入れることだ。需要予測の具体的な精度を上げる確実な方法も存在する。ただし、需要予測という方法は、見込み生産の業態でないと適用できない。個別受注生産では利用できない。

見込み生産でも個別受注生産でも共通して使える方法とは、「営業案件のプロセス管理」である。あるいは「パイプライン管理」と呼ぶこともある。これは、全営業マンが抱えている案件をリスト化し、それぞれの進捗ステージ(初回訪問/商品説明/引合い/見積提出済み/クロージングなど)と、対象製品の数量・金額と受注確度を評価した上で、全体の受注量を見通す方法だ。

これに類する作業は、たいていの製造業では半期に一回か、あるいは月ごとに行なっているはずだ。しかし、各担当者の憶測やら希望的観測やらがおりまじって、その精度はけっして高くない。理由は簡単で、各販売員の抱えている案件情報が、マネージャーからリアルタイムに見えていないからだ。「受注しました」という結果報告か、あとは言い訳代わりの販売日報しか情報は上がってこない。

つまり、適切な「販売計画」立案のためには、営業情報のリアルタイムな可視化が必要なのだ。販売結果の報告ではなく、刻一刻と変わりつつある、販売途上の状況の可視化だ。これができれば、おのずから「営業案件のプロセス管理」ないし「パイプライン管理」の精度が上がってくる。販売計画の精度や達成率も高くなる。むろん、個別案件で重要なものや問題になりそうなものは、マネージャーが適切な指示を与えていく。これが(本来の意味での)販売管理であろう。

今日、多くの企業で生産計画に無駄が多かったり、サプライチェーンにきしみが生じたりしている原因の大半は、製造側や物流側ではなく、営業側のプロセス管理が貧弱なことに起因しているのだろうと、最近は考えるようになった。個人プレーや根性営業だけでは、もはやダメなのだ。優秀な営業マンはときどきいるが、優秀な営業マネジメントは日本企業には滅多に見かけないように思う。サプライチェーンの問題が、供給側ばかりに起因すると考えるのは片手落ちではないか。正しい販売計画の方法論こそが、じつは生産・物流の効率を上げることにつながるはずなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-30 13:40 | サプライチェーン | Comments(0)

生産計画の前にすべきこと

“需要は誰も予測できない”とは、よく聞く言葉だ。もちろん、ある意味では真実であろう。市場においては何が起こるか分からない。ライバル企業が思いもよらぬ新製品を出してきたり、円高で輸入品が安くなったり、法規制が変わったり、消費傾向が別の分野に移ったり、冷夏で思惑がはずれたり、何が起こるか分からない。神様ならぬ身で、需要を予測できると考えるのは思い上がりであろう。たしかにその通りだ。

ここから話の矛先はしばしば、生産計画への疑念や攻撃にうつることが多い。需要などしょせん予測できやしないのだから、計画など立ててどうするのか。それよりも、受注生産を基本とするべきではないか。そして、売れた分だけ補充生産すればよい--こんな風に、三段論法は続いていく。これが名高い『計画はずし』の論理である。ジャスト・イン・タイム系のコンサルタントが、よくこうした指導をしたがる。

この論法を採用すると、困るのは材料手配である。引取りカンバンで材料をサプライヤーから持ってくるとしても、月次総量の内示は誰が決めるのか。内示無しで「使った分だけ精算」が通用するのは、一部の業種だけであろう。もし原材料費を抑えたければ、あらかじめ購買計画を立てて、きちんと仕入先の平準化を考える必要がある。さもなければ工場倉庫は原料在庫の山であふれてしまう。労務費だって、事前手配ができなければ結局高くつく。

そういう訳で、工場はやはり生産計画を必要とする。この計画は誰が立てるのか? 当然、工場側の誰かだろう。なぜなら、本社営業部門は“需要は誰も予測できない”というテーゼで動いているからだ。もっとも、「需要予測不可能論」のときでも、営業部門は販売目標を立てるかもしれない。たいていの会社では、営業マンは販売ノルマで駆り立てているはずだ。

だとしたら、営業の販売目標を参考にして、工場が生産計画を立てれば良いではないか--そう考える人もいるだろう。しかし、もしこれが経営管理の試験問題ならば、私はあいにく落第点しかつけられない。なぜか。目標は計画ではないからだ。

目標というものの性質は、大学受験を見れば分かる。第一志望校は目標だろう。しかし、それは達成できるとは限らない。達成できればラッキーなのだ。自分の実力よりも少し上を目指す、これが「目標」の意味なのだ。営業目標も同じで、実力よりも上をねらって設定する。これをストレッチ目標と呼ぶ。

したがって、営業目標どおりに生産計画を立てたら、作りすぎで製品在庫過剰になる。これを知っているから、たいていの工場では、営業目標を自分なりに割り引いて、生産計画を立てる。

そして、これこそ、製造業における諸問題の根元なのだ。なぜなら、同じ会社なのに、営業と生産が違う数字で動いているからだ。片や、今月は140個売ろうと考えている。片や、今月は100個作ればいいと考えている。生産計画は販売目標と違って、ふつうそのとおり実現する。そのとき、実際には120個の注文がとれたら、どうなるのか。20個分の不足と納期遅れは、誰が責任をとるのか。むろん、どちらも責任はとれまい。では140個作ればよかったのか。そのとき、無駄にできた20個の在庫は、誰が責任を持つのか?

どうみても、営業側・生産側いずれかのみの責任ではではない。課題と責任を自覚することは改善の出発点である。責任がないということは、改善もできないということだ。こうして混沌は野放し状態になっていく。

生産側が営業側と数字を共有していなかったら、生産計画など絵に描いた餅だ。今月のこの週は、この数字で行こう。両者でそう合意することが、生産計画の前提なのである。その前提をすっ飛ばしている会社は、あまりにも多い。いやいや、我が社は月次生販会議で確認しています。そう答える会社もあるかもしれぬ。だが、1ヶ月間の計画を変更せずに進められる会社に、私はまだお目にかかったことがない。追加変更はほぼ毎日、確認は月1回。そんなものを合意と呼べるのか。

製造業のサプライチェーン・マネジメントの最大の問題は、生産と販売がかみ合っていないことだ。その問題は、営業情報を生産側が共有できていないことに発している。生産計画の前にすべきことは、営業情報の共有なのである。では、営業情報の共有とは何か。販売結果の共有ではない。刻一刻と変わりつつある、販売途上の状況の共有だ。では、いかにしてそれが可能となるか。長くなってきたので、この問題は項を改めてまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-26 23:07 | サプライチェーン | Comments(0)

日本メーカの生き残る途 - 元ソニー取締役・金辰吉氏の講演から

金辰吉氏と言えば、ソニー中村研究所専務、ソニー・グローバル生産革新部門長を歴任されたのち、独立して、現在は㈱ワークセルコンサルティング代表取締役を務められる著名な論客である。また、'90年代における日本企業復活の原動力となった『セル生産方式』の命名者としても、よく知られている。その金氏が、先日の日本経営工学会春季大会で「日本メーカの生き残る途」と題した特別講演をされ、とても興味深い内容だったので、ここにその聞き書きを記しておきたい。

金氏とは以前、経営工学会の特別委員会で何度か同席させていただいたこともあるが、きわめて率直かつユーモアあふれる物言いをされる方だという印象がある。むろん、ここに記すことは私自身が聴衆として書きとったメモの内容であって、金氏の本来の発表原稿や主張と差違があるとしたら、その責は私にある。

金氏の講演は、何枚かの新聞の切り抜きから始まった。まずは直近の経済新聞から、「日本の電機業界大手8社の利益の合計は、(なんと)ヤマダ電機1社の合計よりも低い」という事実の紹介である。8社には無論、ソニーやパナソニックや東芝やNECなどが含まれている。日本の電機業界トップが韓国のサムソン電子に利益額で追い抜かれた云々が、世間では「大問題」として議論されているが、とんでもない。日本の流通業1社にさえ、束になっても追いつかないのだ。この事実は電気電子製品分野における、メーカー(供給側)とチェーン店(販売側)の力関係の逆転を、象徴している。

ついで金氏は、もっと目立たない、小さな産業紙の記事をあげる。中国上海ちかくの、ある電子製品工場で、この1年間に何人もの若い女子社員が自殺しているという記事である。その会社は台湾資本の会社で、EMS(受託製造)業をビジネスとしている。ソニーやAppleなどの製品を、受託して作っている企業である。“若い女子社員”というのは、つまり農村から出稼ぎに来た低賃金の「女工」のことだ。その彼女らが、なぜか職場で追い詰められて、次々に命を落としている。この背後には、何があるのか?

そして3番目の記事は、ソニーに関する外電だ。欧州スロバキアのニトラにある工場を、ソニーがEMS業者に売却したというニュースである。そのニトラ工場とは、ソニーが欧州における製造拠点とすべく計画し、他ならぬ金氏が自ら立ち上げに関与した、巨大工場であった。その工場を、建設してわずか3年後に、受託製造業者に売却したのだ。

電機業界には、「スマイルカーブ」という不思議な概念、ないし信念がある。製品の企画→設計→製造→販売→サービス、という一連の流れを横軸にとって、それが生み出す利益を縦軸に取ると、両側が高くて、真ん中の「製造」が一番低くなるカーブを描く、という(下に凸のカーブを、笑っている口の形になぞらえて『スマイルカーブ』と呼ぶのだ)。製造は一番儲からない。だから外部に委託する--そういう論理だか迷信だかにしたがって、日米のセットメーカーは我先に、EMSに工場を売却してきた。

ところで--と金氏は聴衆に問う--スロバキアの工場の売却先は、例の台湾のEMS業者だが、現地で働いている労働者は、無論スロバキア人ばかりだ。まさか全員を中国人に入れ替えるわけにはいかない。そのスロバキア人はソニーが現地で雇った人たちだ。では、EMS業者は、その工場で、どうやって利益を出そうというのか? 皆さんは、どう思われます? 金氏は会場を見回してから言う。仕入れの部品代も物流費も急に変わるわけがない。ならば、スロバキア人たちの給料を下げるしかないはずでしょう?

それが行き着く先は、例の上海の工場の記事が暗示しているのかもしれない。いや、それはもうすでに、日本で起こっているのだ。12年連続、年間3万人の自殺者が出ている国。その中でも多いのが、東北3県だ(金氏は東北出身)。

我々の時代は、2008年に大きな節目を超えたのではないか、と金氏は言う。電気自動車や太陽電池が急速に脚光を浴びて、『化石燃料大量消費時代』はいつか終わりになると、皆が感じ始めた。また、アメリカ型のマネジメント思想を『グローバル・スタンダード』だと皆に押しつける時代も、リーマン・ショックとともに終演に近づいている。

日本国内を、『グローバル・スタンダード』的思想で塗りつぶそうとした張本人の一人として、金氏は経済学者・中谷巌氏の名前を挙げる。中谷教授はいわゆる構造改革路線のブレーンでもあったが、'99年にはソニーの社外取締役にも就任している。そして、そのころからソニー社内は、妙な新自由主義がはびこる組織になっていった、という。(中谷氏は最近、以前の自分の考えは間違っていたと認める著書を出している)。

金氏の言う『グローバル・スタンダード』的な思想とは、“お金さえ儲かればそれで良い”とする思想である。それは、昔の日本人が持っていた商道徳の感覚、すなわち“ご先祖様が見ている”という無言の感覚とは無縁のものである。ご先祖様とは、会社で言えば創立者だ。そして、ソニーの創立者の理念とは、

「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由豁達にして愉快なる理想工場の建設」

ではなかったか。では、その理念を守っている企業はどこにあるのか。女工が次々と飛び降りる工場は、別の会社だから無関係なのか。

金氏は早稲田大学の工業経営学の出身である。研究室の研究テーマは、IE=Industrial Engineeringだった。具体的には、工場の生産性と人間性をともに高める方策の探求だ。IEは米国のテイラーが「科学的管理法」という著書で確立してからちょうど今年で100年になる。そのテイラーの管理法はフォードに応用されて20世紀の大量生産型工場の技術的基盤になるのだが、一つだけテイラーが失敗したことがある。それは、出来高給による労働者の意欲アップだった。

人の意欲はお金では買えない」--これは、近代の経営学や経営工学が数々の実験を通して発見してきた事実である。お金というのは、生き延びるための必要事項だが、それだけで人をより高いところまで動かせるものではない。マズローの欲求5段階説を持ち出すまでもなく、人には「尊重されたい」「自己実現したい」という、高次の欲求がある。これを満たす労働環境でなければ、本当の意欲は続かないのだ。

労働者の人間性を活かす一つの基準として、工業経営学が提起したのは、「作業時間内に、自由に休憩できる」という、単純な指標だった。これが満たされないと、仕事の能率は有意に下がる。だが、100人の労働者からなるベルトコンベヤー・ラインでは、一人が抜けても、システム全体のパフォーマンスに影響するのだ。では、どうしたら良いのか?

そこで出てくるのが、「セル生産方式」なのである。比較的小さな自己完結的工程からなるこの方式について、ここでは詳しく述べないが、少なくともセル生産には働く者の自由度がある。自分で休みたいときに休み、また働きたいときに働いても、自分の成果が変わるだけで、他のセルには何の影響もあたえない。自由度とフレキシビリティ--これがセル生産方式のメリットだと、普通は喧伝される。

だが、セル生産方式で一番重要なことは、働いている労働者の人間性を少しでも尊重できる点にあるのだ。これが金氏の最大の論点である。労働者を、単なる「コスト」として、取り替えのきく「部品」として見るのではなく、一個の人間として遇すること。人間性の向上と生産性の向上がともに目標であること。これが日本メーカの生き残る途ではないかというのである。

現在、日本にいる5400万人の就業人口のうち、約1/3は非正規従業員である、と言われる。非正規従業員は、同じ工場で同じように働きながら、食堂でも休憩所でも、社員とは口をきかないことが多い。それが、私たちの社会の現状なのである。ここに、まともな「意欲」が存在するだろうか。それが日本社会のあるべき姿だろうか。人を人として遇することが、当たり前になる日を目指しつつ、金氏は今日もセル生産方式とカイゼンを説いて回っているのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-23 21:04 | ビジネス | Comments(6)

書評:「日本の弓術」 オイゲン・ヘリゲル

日本の弓術 (岩波文庫)

これは最近読んだ中でかなり衝撃を受けた本だ。ごく薄っぺらい岩波文庫で、しかもヘリゲルの講演録の部分はその半分、数十頁しかない。

しかし、哲学者で日本に数年間を過ごしたヘリゲルが、1936年にベルリンの聴衆を前に語った内容は、じつに驚くべきものだった。東北帝国大学に招聘された彼は、以前からドイツ中世の神秘主義に傾倒しながらも、その肝心の部分を実感できずにいた。そこで、日本で禅の精神に触れることを願い、弓道の師範について入門する。

ところが、阿波という師範は、彼に不思議なことを言う。弓を引くときに力を入れてはならない。丹田で息を吸え。意思を持って矢を放ってはいけない。的を見てねらって射てはならない・・・。これらはいずれも、西洋人の徹底して合理的・論理的思考からは理解できない、矛盾した指示であった。

ヘリゲルが師範に、無心で射ることは不可能だというと、師範は「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。」と指摘する。彼は「無になってしまわなければいけないと言われるが、それではだれが射るのですか」ときく(何と西洋人的な質問だろう!)。すると師範の答えは、「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったら、あなたにはもう師匠がいらなくなる。経験してからでなければ理解のできないことに、どんな知識や口真似も、何の役に立とう。」というのである。

こうした禅問答をのりこえ、さまざまな迷いを経た後、師範が全くの暗闇で的を精確に2回続けて射るのを見てからは、彼は一切の疑問を捨てて、阿波師範にしたがう。そして5年の後、彼はたしかに「無になり」、「射られる」ことを会得する。免許皆伝、5段となった彼は、師から愛用の弓を記念に譲られて日本を離れるのである。

この無心の体験こそ、日本文化の底流に流れ、ドイツ人も(そして現代の我々日本人も)近寄りがたい核心である。そこに近づくには近代精神は邪魔となる。意識して眠ろうとするようなものだからであろう。私自身も、これがどのような体験なのか、まことに想像しがたい。しかし、そこには確かに真実なことがあるらしい、いや、あるはずである、という確信を、本書を読んで強くした。そこに至る努力をせずに、いかなる知識を連ねても「何の役に立とう」。これはまことに、人間精神の神秘的な深さに関心のある全ての人が読むべき本である。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-18 22:53 | 書評 | Comments(0)

経営工学会論文賞を受賞しました

お知らせ:

5月15日(土)に開催された日本経営工学会春季大会で、昨年発表した学術論文
Risk-based Project Value Analysis: A New Theoretical Framework for Project Management』 日本経営工学会論文誌 Vol. 59, No. 6, pp.437-442 (2009)
によって、2009年度の経営工学会論文賞を受賞しました。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-16 23:35 | プロジェクト・マネジメント | Comments(2)

モノを買うのか、機能を買うのか

フランスの北東部にエペルネという街がある。特急の乗換駅で、葡萄畑に囲まれた田園地帯の小さな都市だ。ところで、あまり知られていないことだが、このエペルネは首都パリを追い抜いて、住民の平均所得が全仏で一番高い、豊かな街なのである。

なぜこんな田舎の町が豊かなのか。それは、このエペルネが、シャンパーニュ地方の中心の一つであり、モエ・エ・シャンドンをはじめとするシャンパンの有力ブランドのメーカーを多数抱えているからだ。

シャンパン工場は見学するとなかなか面白い。瓶内発酵をさせるため、貯蔵庫は岩盤をくりぬいた半地下にあって、温度・湿度の変化を避けている。しかも、BOM(部品表)の観点から見ると興味深いことに、シャンパンは製品の一部を、次の年度の製品仕込みのための原料に使っている。BOMにリサイクルがある、「Q型」の構造をしているのだ。これは毎年の品質を一定に保つための知恵である。

法律で決めた産地呼称制限によって、シャンパーニュ地方の限られた葡萄畑から作られる発泡性ワインだけがシャンパンと名乗ることを許されている。発泡性のワインはフランスに限らずイタリアにもスペインにもあって珍しくないが、シャンパンだけが特別に珍重され、値段が高い。買い手がそこに「価値」を見いだすからだろう。だが、それはどのような価値なのか。味? 香り? 品質への信頼感、それとも希少性?

話は急に飛ぶが、かつてIntel社が新型のCPUを発売したとき、数値演算コプロセッサを内蔵したタイプと、内蔵しないものと、二種類を同時に売り出したことがある。昔の話だ。しかし、非内蔵型というのは、実はコプロの回路パターンは焼き付けてありながら、単にその機能を呼び出す部分を殺して売っていたことを、後になって知った。それを聞いて、なんだかひどくアンフェアな、買い手をばかにした商売の仕方だと感じた。むろん、そうした方が、二種類のパターンを別々に開発するより、安上がりなことは理屈では分かるのだが。

いったい、モノの値段というのは、どうやって決まるのか。買い手から見た価値のあり場所はどこにあるのか。私はそのことを、ずっと考えている。

シャンパーニュ地方では、葡萄が大豊作になり、収穫量が出来すぎると、あえて収穫せずに捨てておくという。そうやって、シャンパンが供給過剰になり、価格が低落するのを防いでいるのだ。彼らの高収入は、必要とあらば高品質な原料さえ捨ててしまうことで成り立っているらしい。大人の知恵、というべきなのだろう。しかし、その話を聞いて感じる居心地の悪さは、IntelのCPU生産方法を知ったときの奇妙な憤りに、どこかで通じている。

BOM/部品表入門」を書いたとき、私はあえて、『マテリアルとは何か?』という問いを最初の部分に置いた。それは、自分に対する問いかけでもあった。マテリアルとは、物質的な実在があり、在庫可能で、所有権を売買し移転できる性質のものだ。そこがサービスや情報とちがう。しかし、それではマテリアルの値段とは、何で決まるのか? 百グラム何円という単価は、誰が定めるのか。

マテリアルの価値を定めるのは消費者であり、単価はその需要量と販売者の供給量のバランスから決まる。そして消費者にとっての価値とは、そのマテリアルの品質に依存する。--これが経済学の教科書的な回答にちがいない。(ここには製造原価という項目がないことに注意してほしい。製造原価は供給曲線の形に影響を与えるだけで、販売価格には間接的な効果しかないのだ)

では、品質とは何か。それは、顧客満足で測られる、というのが現代品質管理の考え方らしい。製品というマテリアルの品質は、
 製品品質=g(構造属性群,材質属性群,機能属性群・・)
という式で表現されると、以前書いた。しかし、よく考えてみると、3種類の属性群は平等ではない。明らかに機能が優先するのだ。

なぜなら、車を買うときのことを考えてほしい。かりに、ブレーキオイルの配管系統にごく小さなピンホールがあったとする。構造や材質は、ほぼ完全に他の車と同等だ。でも、ブレーキは機能しない。そんな車を、あなたはお金を払って買うだろうか?

機能とはマテリアル固有の属性ではなく、マテリアルと使用目的との関係である。このことは明記しておいた方がよい。「移動する」という自動車の主要目的を果たせない製品には価値がない。むろん、コレクターで、所有陳列しておくだけが目的の買い手にとっては、構造(外見)だけでも価値はあろう。目的は、必ずしも一つではない。だが、複数の目的があり、複数の機能尺度があるときに、いくつかの製品を比較評価する総合尺度は、合理的(無矛盾)には構成し得ないのだ(これについては、別に稿をあらためて書こう)。これは、消費者の好みが、本質的に多様であることを意味している。

こう考えてみると、実はわれわれはモノに仮託した諸機能への期待を買っていることがわかる。機能自身は買えない。所有権を移転できないし、占有権も許諾できない。だからモノを買うのだ。ところが、われわれの社会の法律や商慣習や経営論理は、ほとんどがモノの売買を機軸にしてできあがっている。経済学は、購買行為が「合理的」であることを前提にできあがっている。だから、あちこちでねじれが生じるのだ。

シャンパンの主要な目的は、味わって酔うこと、では多分ないのだ。稀少で高価な製品の封を切る特別な瞬間を味わう、雰囲気への期待が目的なのだ。エペルネのシャンパンメーカーたちは、そう信じているにちがいない。そうでなければ、価格を維持するために、太陽の恵みを犠牲にしたりするはずがない。それは経済原則には合致するだろう。だが、それははたして商品文化の名に値するのだろうか。消費者の求めるものは、本質的に多様だ。売り手のお仕着せによる価値づけは、どこかに矛盾を内蔵していると私には思えるのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-14 23:14 | 考えるヒント | Comments(0)

R先生との対話(つづき) - トラブルの根本原因をつかむ

トラブル事例からのLessons & Learnsを蓄積しようとしても、技術系ナレッジは多く集まるがマネジメント系の知見が出てきにくいのはなぜか--私の質問に対して、R先生は話を続ける。

「トラブル事象が起きた。そこから何かの教訓を学ぼうとする。これ自体は健全なことだ。誰でも、どんな組織でも失敗は経験する。組織に知性があるとすれば、それは自分の経験から学ぼうとする態度だからな。ところが、君はここで勘違いをしている。たとえば、何か例を挙げて説明しようか。最近のよく知られた問題事象を挙げてみたまえ。」

--そうですね、たとえばメキシコ湾で発生した油田の事故はどうでしょう。日本ではあまり報道されていないようですが、深海から原油を掘り出す海上基地(リグ)が爆発して沈没、原油が流出している事故です。4月20日に事故が起きて以来、2週間ですでに100万リッター近い原油が海底から漏出したと言われています。リグはルイジアナの100Km沖合ですが、海表面を油膜が拡がって、すでに沿岸に漂着被害が及んでいるようで、おそらく過去で最もひどい原油流出事故になるでしょう。

「なるほど。原因や対策は分かっているのかな。持ち主は誰だね?」

--Deepsea Horizonというのが石油掘削基地の名前ですが、油井の所有者は英国のブリティッシュ・ペトロリアム(BP)です。この移動式基地は米国企業が設計して、韓国の造船所で製造されたらしいですね。元の爆発炎上の原因はまだよく分かっていません。BPは、何でも、水深1,500mの海底の原油漏出箇所をふさぐために、100トンの重さの『』を上からかぶせる工事をするつもりのようです。しかし、たとえうまくいったとしても、環境被害も経済的損失も甚大でしょう。

「そう。そこでだ。君ならこの事故のLessons & Learnsはどう書くね?」

--え。だって、まだ問題解決の途中でしょう。今は書けませんよ。何か解決法を書くとしたら、漏出防止用の『箱』を、常時一つは会社で用意しておけ、ということぐらいでしょうか。BPは手元になかったので、あわてて作らせたようですが・・・。

「君はそれが解決法だと考えるのか。それは解決じゃない、『応急措置』というんだ。破損漏洩が起きました、カバーをかけて漏出を止めました--そんなのは、転んでケガをしました、赤チンを塗って絆創膏を貼りましょう。だから救急箱を必ず一つ家庭に用意しておくべきです、と言っているにすぎない。それは問題解決ではない。何かトラブル事象が起きたら、対応策は二種類必要だ。被害を食い止め、現状を可能な限り沈静化する『応急措置』と、そのトラブルを繰り返さないために真の原因を除去する『再発防止』の二種類だ。いうまでもなく、教訓としては後者の方がずっと重要なことは分かるね。」

--はい。

「では、その流出事故の真の原因は何かな。」

--それはまだ分かっていません。油井管の材料欠陥か、操作のミスか、海底気象の急変か、あるいは設備の保全が十分でなかったのか・・。

「むろん、現場をきちんと調べないうちは判断できんね。だが、かりに運転員の操作のミスだったことが分かったと仮定しよう。その場合の再発防止策は?」

--それは、えーと、そうですね、運転マニュアルにしっかり明記する、運転員の教育訓練をきちんとする、といった対策が必要です。

「おや。“しっかり”だの“きっちり”だの、余計な形容詞をつけて何か言ったつもりか、君は? 内容の定義もない、何の意味もない、無駄な装飾語を使って、対策を述べてはだめだ。」R先生は私を睨んだ。「そいつらを省くと、マニュアルに書く、運転員の教育訓練をする、そういう事になるな。そんな当たり前のことを、天下の石油メジャーが忘れたと本当に思ってるのか。じゃあ聞くが、オペレーターがちょっと操作を間違えただけで、大事故になるような設備で良いと思うのか?」

--・・・そうですね。考え足らずでした。

「大いに足らんね。人間はミスをするものだ。機材も摩耗するものだ。天候も変動するものだ。それがいちいち事故の原因になっていたら、現代文明など存在できるはずがない。『ミスをしました』が原因だと報告が来たら、なぜ、ミスをさせないためのフールプルーフ(ポカよけ)が無かったのか、あるいは、なぜミスの結果を封じ込めるフェイルセーフが作動しなかったのか、をむしろ問うべきだ。」

--それで思い出しましたが、今回の事故に関連して、BPは昨年のアセスメント報告書の中で、原油漏出の可能性を想定していなかった、という記事がありました。あれほどHSE(Health, Safety & Environment)に厳しいBPとは思えないことですが・・・。

「なるほどな。それこそが典型的な『マネジメント要因』なんだ。リスクのシナリオを想定していなかった。だから、適切なフェイルセーフを用意できていなかった。そこでトラブル事象が連鎖的に拡大してしまった。
 元のきっかけは、配管の金属疲労か、つまらぬ操作ミスか、水温の急変か、そんな些細な技術要因だったろう。それは、個別には、技術的な対策ができる。しかし、技術領域での対策を適切に行わせる仕事は、マネジメントの仕事だ。つまり、トラブル事象というのは、必ず技術要因とマネジメント要因とが重なって生じるんだ。あのタイタニック号が、なぜあれほどの被害を出したのか、前に教えてあげたことを覚えているかな。」

--世界最大の“不沈船”だから、という思い込みのために救命用避難ボートを削減して、乗客人数の分だけ用意していなかったからですね。

「そうだ。氷山に接触して、リベットが剥落したなどということは、きっかけでしかない。本来、船というのは、防水壁で浸水区画を遮断すれば、沈没はまぬがれるんだ。しかし、上等客室の居住性を優先するあまり、防水壁を喫水線の上まで立てていなかった。だから沈没した。でも万が一沈没しても、救命ボートが乗客定員分あれば、人の命は救えたはずだ。それが起きたのは、“不沈船”という驕りによって、二重三重のフェイルセーフを全部無意味にしてしまったからだ。
 氷山にしたって、出港時からすでに北大西洋に警告は出ていたんだ。だが、世界一の航路記録を樹立しようとあせった会社が、無理に出航させ、夜間も全速航海していた。どれもこれも、マネジメント要因だ。これだけ危険な環境を自分でこしらえておいて、氷山が事故の原因だった、いや当時の造船施工技術が未熟だった、などと言うのは愚かだ。」
 
--マネジメントが、技術的危険性を増幅したということですか。

「いいかい。小さなトラブルは、いつでも起きうる。問題は、それを抑え込めるか増幅してしまうかの違いだ。その違いは、マネジメントのあり方から来るんだ。小さなトラブルはたいていの場合、技術的に対処できる種類のものだ。だが、適切な対処を怠れば、雪だるま状にすぐ大きな問題に膨れあがって、暴れはじめる。」

--たしかに、最近世間を騒がせた、いくつかのメーカーの品質問題やら偽装騒ぎなんかも、経営側の対処がまずくて、問題を膨らませていましたね。あるいは、ソフトにバグが見つかった場合、それをすぐ認めてユーザに知らせれば小さなトラブルですむものを、かえって無視して騒動になったりします。

「逆に言うなら、小さなトラブルとは、それ自体が一種の『アラート』なのだ。アラートに気づくのも、見て見ぬふりをするのも、マネジメントの態度しだいさ。
 君の勘違いとはね、トラブルの原因分析をすれば、技術起因のものとマネジメント起因のものとに分類できるはずだ、という思い込みだ。両者は必ずワンセットになっている。原因分析をするときは、そこまで掘り下げなかったら、嘘だ。」

--ふうむ。そうすると、「なぜなぜ5回」のような掘り下げが必要ですか。

「はっきり言うと、『なぜなぜ5回』は素人がやると変な方向に行きがちなので、あまり勧めない。ほら、何でもすぐ“政治がわるい”“社会がわるい”と言いたがる手合いが、よくいるだろ。あれと同じだ。うっかりすると、経営者がダメだから、不況のせいだから、という結論になってしまう。これは、根本原因とは言えんのだよ。」

--じゃあ、何が根本原因なのですか。

根本原因というのは、事象の合理的な主原因であり、かつ、当事者にとってマネジメント可能なものを指すのだ。マネジメント可能、というのが大事だ。経営者のレベルとか、経済不況とかは、マネージできんだろ。
 トラブルが起きたとする。現象を調べてみる。すると操作ミスが引き金になっていた。だが、操作ミスを防止するフェイルセーフが働かなかった。なぜ働かないのか? わざとオフにしていたのか、壊れていていざというとき効かなかったのか、元からつけていなかったのか? --こういう風に、さかのぼっていかなければダメだ。きちんとたどれば、たいていは、マネージ可能な仕組みか教育の問題に行き当たる。そいつが根本原因だ。
 世間でよくあるトラブルの分析というのは、すぐに個人の資質を原因にしたがる。ミスの多い人だったとか、スキルが低かったとか。マネジメントの問題でも、リーダーシップが足りないとかなんとか。しかし人間の資質なんて急に変わらない。スーパーマンでなければ務まらないような仕事だとしたら、それは仕事の仕組み自体が間違っているのだ。」
 
--はい。

「17世紀だったか18世紀だったかに、ロンドンで大火があった。それ以降、英国では都市の防火・耐火政策が進んだ。一方、ほぼ同じ頃、江戸でも有名な大火事があった。江戸幕府は何をしたと思う? 火元の人間を、厳罰に処することにしたのだ。どちらが有効な対策か、わかるだろう? そして、どちらがトラブルに本当に学んだかも。」
by Tomoichi_Sato | 2010-05-11 23:18 | ビジネス | Comments(0)

R先生との対話 - トラブルから『学ぶ』とはどういうことか

久しぶりにまたコンサルティングと人生の大先輩、R先生のところを訪ねた。ちょうど庭に花が陽光を浴びる季節である。

--このところPMO(Project Management Office)部門で、社内のプロマネさん達のコンサルのような支援のようなウォッチャーのような、自分でも判然としない仕事を主にしているのですが、最近とみに疑問に感じることがありまして。

「自分の仕事もよくわからん君がお目付役とは、そりゃプロマネ達も大変だろう。」

--そういわれると返す言葉もないんですが・・PMOってのは、ナレッジ・マネジメントというか、L&L(Lessons & Learns)を蓄積共有して、業務のプロセスを改善していく事が大事な機能の一つです。PMBOK Guide風に言えば、“組織のプロセス資産”を高める仕事です。そのL&Lに関連する疑問なんですが。

「アメリカ人の好きそうな概念だな。彼らは知識さえ持てば何でも乗り越えられると無邪気に信じてる。まあいい。それで疑問とは?」

--社内の規定では、プロジェクト・マネージャーは毎月、定型のレポートを上げることになっています。それ以外に、遂行途上でさまざまなトラブルにぶつかった際は、緊急性に鑑みて『アラート情報』を作成し発信することになっています。A4・1枚に入るような単純なフォーマットですが、こういう問題事象に遭遇した、現在これこれの対応処置をしている、似た状況下で同じ轍を踏まないよう、しかじかの防御策をとられたい。そんな内容になってます。ジョブが落ち着いたら、これをブラッシュアップしてL&Lとして正式に登録する仕組みです。

「別にそれはそれでいいんじゃないか。ちゃんと仕組みとして回りさえすれば。」

--そうなんですが、一つ気になることがあります。現在までに登録されたL&Lのデータベースを分析してみると、技術的なトラブル対策は多いのですが、マネジメント系のL&Lがいやに少ないのです。こういう金属材料の適用に気をつけろ、某国の法規ではこういう仕様の要求がある、輸送のミスで部材がバラバラになった、埋設管の設計で注意する点・・・テクニカルな知見は多い。なのに、プロジェクト・マネジメント業務そのものの教訓が少ないのです。引き渡しの契約条件でこうネゴすべし、下請けの倒産を避けるためこう手を打て、とか、無いわけではないのですが、圧倒的に少ない。専門機能部門の改善には役だっても、これじゃあプロマネの改善に結びつかないのです。

「君のところは、たしかマトリクス型の組織だったな? 設計専門部の他に、マネジメント部門がある訳か。」

--そうです。私の勤務先では、プロジェクト・エンジニアという名前のマネジメント専門職種が属する部門があって、その部門の、身分的には別に管理職でもない若手社員が、はるか年上の他部門のベテラン社員を使う、ということも珍しくありません。だからこそ、私みたいなPMOの職種が必要になるんです。

「そうか。ところで、最初に確認しておくが、仕事の教訓というのは(それをL&Lと呼ぼうが何と呼ぼうが勝手だが)、別にトラブル事例だけに学ぶべきものではない。むしろ、成功例からも学ぶべきなのだよ。そんな『アラート』とやらでは、うまくいっている事例の報告は上がってこないだろう? 片手落ちではないかな。」

--うーん、たしかに。

「上手なマネジメントというのは、トラブルが起きる前に未然に防ぐものだ。だから、プロジェクトに波風は立たない。静かに、スムーズに進んでいる仕事を、君は十分注意してウォッチしているかね? そっちの方が、ずっと教訓は多いんだ。なのに、問題事象や解決ばかりに皆の注意が向くようでは、自分でトラブルの種をまいて大騒ぎで刈り取る“問題児”の方が、かえって会社員としては目立って得をしかねまい。」

--おっしゃることはもっともだと思います。でも、だとすると、マネジメント系の教訓の種は、どうやったらもっとうまく拾えるのでしょうか? 形式化されたナレッジが無いと、いつまでたっても属人的スキル・ベースのマネジメントから進化できません。

「君は二つほど勘違いをしているよ。一つ目の勘違いは、大事なトラブルは緊急性の『アラート』で拾えると思い込んでいるところ。もう一つは、技術的トラブル事象とマネジメントとをバラバラに考えていることだ。」

--どういうことでしょうか。

「トラブルというものは、リスクが具現化して生じるものだ。リスクは知っているよね。リスクはトラブル事象そのものではなくて、それが生じる可能性のことだ。君のところでは、プロジェクト開始時点に、きちんとリスク・アセスメントはやっているかね?」

--そりゃ無論、やっていますよ。関係者全員がリスク・アイテムを総ざらえして、生起確率と影響度のマトリクスで評価して、リスク登録簿を作ります。登録簿は毎月アップデートすることを義務づけています。

「そうか。それで、リスクというのは、既知のリスク未知のリスクにまず分けられる。君の言う登録簿なるものに書き込んだものは、みんな既知のリスクだ。未知のリスクに対応するためには、用途を限定しないコンティンジェンシー・リザーブ(予備費)がプロマネに必要になる。」

--それも制度化しています。

「まあ急がずに聞きなさい。リスクはさらに、外部リスク内部リスクとに分類される。組織の外からやってくる事象と、内部で発生するリスクだ。為替変動だの、下請けの倒産だの、輸送中の事故だのは外部リスクだ。設計のチョンボ、情報伝達の不正確、メンバー同士の相互不信なんかが内部リスクだ。さて、緊急性の高いのは、どっちのリスクが具現化したトラブルだと思う?」

--う・・外部リスクですか。

「そうだ。たいていの外部リスクは、いきなりやってきて、皆の頭の上で炸裂する。誰もがそれに気がつく。ところがね、内部リスクは必ずしもそうじゃない。設計にミスがあったって、すぐその場では表面化しない。製作を経て、テストをくぐり抜けて、ようやく気がつく。コミュニケーションのミス、相互不信なんかも同様。こうしたリスクは、じわじわとしか具現化してこないから、気づきにくい。しかし、ボディーブローのように、確実にプロジェクトの志気やエネルギーを奪っていく。こっちの方がある意味、ずっと怖いのだ。君んところだけじゃないよ、製造業だってサービス業だって、同じように内部リスクは気づきにくい。
 さて、マネジメントに起因するリスクは、外部リスクか内部リスクか?」

--内部リスクですね・・そうか。

「そのとおり。『アラート』のような緊急通報型の仕組みを使っていたら、マネジメント自体に起因するボディーブロー型の内部リスクは、なかなか捕まえられないに決まっている。だから、そのためには別の仕組みが必要なんだ。では、君の第二の勘違いに行こうか。」

(この項つづく)
by Tomoichi_Sato | 2010-05-07 23:40 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

ぼくらに英語は分からない

何年も前のことだが、私はある米国系石油メジャーとのプロジェクトのために、チーム・ビルディングの会場に向かっていた。春の季節で、朝はまだ寒かった記憶がある。プロジェクトの開始にあたり、発注側(顧客)と受注側(我々)のキーパーソンが集まって、丸1日のセッションを行うことが顧客の要求だった。そのためにわざわざ、専門のファシリテーターまで米国から呼んでいた(そういう種類の専門家があの国には居るのだ)。そして、米国流のチーム・ビルディングがどんなものなのか、私はそこで初めて知ることになった。

参加者の7割以上は日本人だったが、使用言語は英語だった。プロジェクトの公式言語は英語を用いる、と契約書に規定されている以上、当然である。その専門家がまず、チーム・ビルディングの意義と進め方を説明した後、二人一組でペアをつくることになった。ペアは必ず発注側と受注側から一名ずつの組合せになっている。そして10分ずつ使って、互いに自己紹介をし、また、このプロジェクトに対する自分なりの期待Expectationを相手に説明した。その後、各人は、参加者全員に向かって、自分の相方の「自己紹介」と「期待」を、代わって説明する、という風に進んだ。これで、とにかく初顔合わせの相手側にも、一人だけは名前や出自や期待を知っているパートナーができたわけだ。

その後、昼食をはさんで午後一杯かけ、このプロジェクトに対するコミットメント・ステートメントCommitment statementを共同で作ることになった。プロジェクトのチャレンジすべき目標を挙げて、皆でそれに向けて邁進しよう、との意図である。まず全体を4班に分け、各班で素案を作る。ついで2班ずつ組になって互いの案をすり合わせ、最後に全員で一つの文章、いわば「共同決意宣言」にまとめるのである。このステートメントは、大きな紙に拡大コピーして、プロジェクト・オフィスの要所要所の壁に貼ること、と言われた。

ところが、この「コミットメント」とはいったい何を意味するのか、という声が日本人側から上がり、議論はけっこう紛糾した。これは『約束』なのだろうか。すでに厳しい契約に縛られているのに、これ以上、余計な義務を背負い込みたくない、というのが受注側のいつわらざる本音だった。いや、commitはpromiseではない、と専門家は言う。だとしたら、いったい何なのか。

Commitという英語はむつかしい。それは、何かに向けて関わる・責任を引き受ける、といったニュアンスの言葉である。と同時に、そこには強い人間関係への含意がある。おまけに、犯罪だとか自殺だとかにもcommitを使う。分かりにくい概念である。後日、ある知人が、「Promiseというのが婚約だとしたら、commitというのは二人で一線を越えてしまうことだ」と、いささか不穏当なたとえで説明してくれたが、後に引けない一歩を踏み出す、という感じをある程度は伝えている。とはいえ、この説明でも、コミットされた人たちの集団がなぜCommittee(委員会)の意味になるのかは、今ひとつ納得しがたい。

とにかく、Commitment statementは義務づけられた約束ではなく、取り組む目標である、との合意がなされて、作業は先に進んだ。

つぎに宣言文の討議の中で問題になったのは、契約書の扱いである。顧客の米国企業側は契約書の厳密な履行を求めた。われわれ請負側の日本企業は、「柔軟な運用」を欲した。議論はかなり並行線をたどったが、最後に私の側にいたある米国人が、「契約の文言ではなく精神で」(Not by the letter but by the spirit of the contract)と提案したら、すんなり合意された。気のきいた言い回しだとは思ったが、なぜそれでぴたりと議論が収束したのか、私には今ひとつ合点がいかなかった。

とにかく、このチーム・ビルディングは無事終わった。ところで、その後ずっと経ってから、偶然、この文句は新約聖書にあるパウロの手紙の中の引用であることを知った。使徒パウロは、人間を救うのは(旧いユダヤ教の)律法の字句letterではなく、聖霊spiritの恩寵である、と主張していたのだ。そして、このテーゼは、「契約社会」と呼ばれる彼ら欧米人の考え方の底流を規定しているのである。だからあの宣言文は見事な助け船になりえたのだ。

それにしても、letterとspiritのわずか2語に、それだけの含意があるなどと、普通の仕事の中でどうして知り得ようか。だがビジネス英語の表層を掘っていくと、いきなり宗教だの価値観だのに関係する概念の鉱脈にぶつかって驚くことがあるのだ。

もう一つ、例をあげようか。プロジェクト・マネジメント論の中で、マトリクス型組織の功罪という問題がある。マトリクス型のプロジェクト組織は、現代の経営学においては最も先進的な形態だと考えられている。そこにおいては、機能部署の指示系統とプロジェクト別の指示系統が二重に存在する。しかし、古典的名著「人月の神話」を書いたBrooks Jr.はこれを強く批判して、『人は誰も二人の主人に仕えることはできない』と主張する。とはいえ、これで本当に反論になっているのだろうか?

この文句も実は、新約聖書からの引用になっている。人は誰も、「神とお金という二つの主人に」同時に仕えることはできない--これが本来の意味である。確かに、この2種類の主人は相反する価値を体現している。 Brooksの主張は、ここまで読み込めば、強いインパクトを持つ反論であることが理解できる。そして、ごくふつうのアメリカ人ならば(たとえ滅多に教会なんか行かない現代人でも)、「二人の主人に仕える」と言われれば、すぐにこの文句の意味にピンとくるのだ。

一説によれば、英会話の学習というのは、約700時間を費やせば一人前になれるという。1日1時間として、ほぼ2年間である。まあ、そんなものかもしれないな、と私も思う。しかし、それでトレーニングできるのは、せいぜい読み書き聞き話す、枝葉の技術である。一番大事な「文化を理解する」という能力については、実はほとんど、これでよいという際限がない。

「文明とは人間に利便性を提供し、文化とは人間にアイデンティティを与えるための仕組みである」という定義が私は好きだ。もし文化が個人の自己同一性や意義を保つためのシステムであるならば、その主要なサブシステムである言語は、当然ながら社会的な価値観に複雑に絡み合っているはずだ。ビジネス英語というものは、それを技術やお金儲けなどの役に立てるべく、ほんの表層を利用している道具立てにすぎない。むろん、それで十分役に立つ範囲も多い。しかし、大きなビジネスで、利害関係も込み入ってくると、とたんに契約や慣習や法務が関わってくる。そこまで行かずとも、ビジネスの相手と少しでも個人的に深く知り合おうとすると、好みや価値観がからんでくる。そうすると必ず、異文化の摩擦が生じてくるのだ。

我々が英語を使うのは、英語が世界で一番知的で素晴らしい言語だからではない。とりあえず、歴史的経緯から、それしか現実に選びようがないから使っているだけだ。ところが困ったことに、英米人にとって英語は母語である。英語は彼らの文化に深く組み込まれて発達してきた。おまけに彼らは、東洋人との文化的距離には困惑すれども、(長年の力関係の差もあって)理解しようという努力をあまり払う気がない。

そうした障壁を乗り越える際に、(たとえば)TOEICの点数で測れるような英語の知識やスキルだけでは、けっして十分とはいえない。しょせんTOEICはペーパーテストであり、受験対策も可能だ。本当に重要なのは、「異文化を理解する」能力であるはずだ。複雑な異文化というシステムを、複雑なまま理解するためのスキル。だが、私自身、大学でも職場でも、それを教わった記憶がない。すべて手探りのまま進んできた。だから、英語を何十年使ってきても、ちっとも“分かった”気がしないのである。

いや、きっと「分かった」と思ってしまってはいけないのだろう。ネイティブでない者がビジネス英語を学ぶとは、たぶんそういう事なのだ。無知を自覚することこそ、理解への原動力なのだから。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-04 22:09 | ビジネス | Comments(3)

わたしが新入社員の時に学んだこと

紅海を見下ろすホテルのレストランで、私たちは食事していた。相手はサウジアラビア有数の財閥企業のBusiness Development担当ディレクターだ。いわゆるアラブ風の白い民族衣装ではなく、ふつうの背広にネクタイの服装をしている。年齢は、たぶん私と同年代か、少し若いかもしれない。しかし財閥トップの信任の厚い彼は、もうすぐ役員のポストに手が届くだろう。

戒律厳しいサウジの食卓では、けっして酒は供されない。それでも、一緒に食事をするというのは、知り合ったばかりの人間同士がうちとけるには最良の手段の一つだ。デザートを食べ、食後のお茶やコーヒーを飲む頃には、出自を含めていろいろなことを話し合うようになっていた。

レバノン出身の彼は、きわめてきれいで立派な英語を話す。イギリスの大学を出て、英国企業に就職し、さらにMBAを取得して別の会社のポストを得た。結局、11年間イギリスに住んだという。それから、サウジの財閥企業に引き抜かれ、経済成長著しい中東に戻ってくる。そこで頭角を現して、今のポジションまでたどりついた。彼と少しでも話せば、とても頭の回転の速い、優秀な人物であることは分かる。そして、他国人であっても有能ならば、引き立てて使う度量を経営者の側ももっている。

その彼が、社員の研修に関して面白いことを言い出した。たしか、日本企業に若手社員を研修派遣に出した経験に関連する話題のときだった。彼は、「ビジネスマンの基礎能力は、大学教育や資格ではなく、最初に就職した職場の3年間で決まる」と言ったのだ。「入社した最初の職場で、きびしくdisciplineを仕込まれて学んだ人間は、その先どんな会社どんな職場に行っても、仕事ができるようになる。逆に、どんなに頭が良くて学業が優秀でも、最初にだらしない職場に入ってしまうと、その先は伸びなくなる。そう思いませんか?」--さまざまな部下達のことを思い出しながら、彼はいうのだ。

たしかに、そうかもしれない。不思議なことに、土地や文化や言語はいかに違っても、同じビジネスの世界では、人々は似た傾向や習慣やエートスを持つようになる。私が近年ぼんやりと感じていたことを、彼が明確にずばり表現してくれたので、とても驚いた。

たぶん、彼自身が最初に働いた英国企業も、きちんとした立派な職場だったのだろう。だからこそ、紳士的で正確、かつ事実本位で意志決定の早い、今日の彼が出来上がったにちがいない。それでは、私が新入社員だったころ、何を学んだのだろうか?

わたしが「新入社員」だったころ、最初についた先輩は、とても仕事に厳しい人だった。私が最初に学んだことは、『チェックする』ことだった。指示されて計算書やら図面やら報告書やらを作成し、その人に提出する。すると、中身を見る前に、私の顔をじっとにらんで、「チェックしたのか」と言うのだ。

「チェックしました」と答えると、「どうチェックしたんだ?」と聞き返される。「書いた後、読み直しました。」というと、「馬鹿!」と怒鳴られた。「お前は自分の書いたものが合ってるかどうか、読んだだけで分かるほどいつ偉くなったんだ!? 計算は合ってるのか聞いてるんだ!」

しかたなく席に戻って、計算を確認して、もう一度その先輩のところに提出に行く。「計算もチェックしました。」と言い添えて。すると、再度「どうチェックした?」と聞き返される。「同じ計算をやり直して、合ってることを確認しました。」と私が答えたら、さっきよりもっとすごい勢いで「馬鹿者!!」と言われた。

「同じことを繰り返して、自分の計算の間違いが見つかるわけがないだろう。そんなもんチェックとは言わん。前提とか手順がおかしくないか、どうして分かる? 分からんだろうが。」

「でも、そうしたら、どうやってチェックしたらいいんですか?」

「いいか。手順通りに計算したんだったら、それはいわば『縦』の流れだ。そういう時は、『横』に比較するんだ。自分が3 ケースの計算をしたら、その結果を横に並べて、本当に大小関係や差額がまともになっているかを見ろ。1ケースしかやってないんなら、先月、別のケースで ○○が計算書を作ってるから、それと比べろ。いいか、自分でチェックしないものを俺にも客にも絶対出すな! 本当に合ってるか確認するまで、2回でも3回でもチェックしろ!」

再度自分の席に戻って横に比較してみると、くやしいことに、たしかに3ケース目だけ結果がおかしい。自分はミスしやすい、粗忽な人間であることを思い知らされた。念入りにチェックしていると、今度は提出期限に間に合わなくなる。しかたなしに、作業の時間を見積もるときは、チェックする時間も考慮に入れるようになっていった。おかげで、私の仕事の品質は、すこしは向上したとは思う。しかし先輩に毎回言われる「チェックしたか!」の声は耳の奥にこびりついて、家に帰っても寝床で歯ぎしりした。

その先輩には、その他にもいろいろなことを教えられた。客先や上流部門から渡された条件、そして自分が作成した計算は、かならず紙に出した。それは、色マーカーで、線を引くためだ。なぜ線を引くのか? それは、後になって、その条件や結果を自分が「読んだ」「確認した」ことを確かめ直せるようにするためだった。つまり理解や確認作業を色マーカーで「見える化」するのである。そして、その紙は穴を開けてファイルする。いつでも、作業工程を遡って、どこまで正しくどこで間違ったのかを、トレースできるようにする。なぜなら、人間は(とくに自分は)ミスをおかしやすい生き物だからだ。

打合せをしたら打合せメモを書く、ということも教わった。「打合せの席で俺が一所懸命お客に説明しているのに、ふと横を振り向いたら、お前は何もメモせずぼーっとしてる。お前に給料なんかいらん。払うだけ無駄だ!」と怒られた。打合せの前にはアジェンダ(議題)を用意しておき、打合せの最初に出席者に配布する、というのも教わった。議題はかならず番号をつける(「●とか →とかの記号じゃ、議論が途中で脇道にそれたとき、何番目の議題に戻るか、すぐ言えないだろ!」)というのも教わった。

工程表を引く、ということも、To Doリストをつける、ということも、見よう見まねで学んだ。仕事を他の人に頼む場合、その結果をもらう時は、自分から相手のところに出向くのが礼儀だ、というのも学んだ。今にして思えば、当たり前すぎるほど当たり前のビジネス・マナーだが、そんなことは大学教育までは誰も教えてくれなかったのだ。

信用をいったん失ったら、まず戻ってこない。それが「チェック」をうるさく言った先輩の根底にあった考え方だ。客にミスを見つけられたら、その客からは二度と信頼されない。仕事ももらえないかもしれない。自分の信用を失うだけではなく、会社の信用を失うのだ。設計部門で働く以上、それは身につけるべき最低限の訓練(Discipline)であった。

習慣は、一度では身につかない。たぶん、2年や3年はかかる。だから最初の3年間が大事なのだ。そのとき、厳しい先輩にきちんと仕事を仕込まれるかどうかが、自分のビジネスマンとしてのその後を決める。アラブ出身の外人社員として、保守的な英国社会で実務に揉まれたに違いない、そのディレクターの穏和な笑顔を見ながら、私はあらためて新入社員の時のDisciplineの意味を考えたのだった。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-01 14:10 | ビジネス | Comments(11)