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書評 「天才数学者はこう賭ける」 ウィリアム・パウンドストーン

天才数学者はこう賭ける―誰も語らなかった株とギャンブルの話


日本語の副題は「誰も語らなかった株とギャンブルの話」だが、原題は"Fortune's Formula: The untold Story of the Scientific Betting System that Beat the Casino and Wall Street"、すなわち「幸運の方程式 - 誰も語らなかった、カジノとウォール街に勝つ科学的賭け方の話」である。原題にいう幸運の方程式とは、『Kellyの基準』といわれる式で、賭の確率的エッジ(分)を知っている者が、手元資金に対してどうかけるのが最適かを示した理論である。この理論を提案したケリーは通信科学者で、この式は「資産の増加速度の最大値=エッジ情報の通信速度」という形で表記した。

本書は、わずか40歳で夭折したベル研の俊英ジョン・L・ケリーの発見が中心にはなっているが、しかし物語的には天才的な賭け師ともいうべき2人、すなわち通信理論の創始者クロード・シャノンと数学者エドワード・ソープ(後にファンドを創設し大成功した)の伝記を主軸に、さらにノーベル賞経済学者サミュエルソン、ニューヨーク連邦検事(後に市長)ジュリアーニ、電信初期のギャングたち、カジノ経営者たち、ファンド・マネージャーたちなど一癖もふた癖もある連中の逸話を配した、バロック的な構成である。これだけ様々な登場人物と広範な学術領域をカバーして、まとまりのある理科系的ルポルタージュを作り上げる著者パウンドストーンの力量には脱帽である(彼の著書では、以前『ライフゲイムの宇宙 Recursive Universe』という本を読んで、非常に面白かった記憶がある)。

ケリー基準とは、確率的な賭を繰り返し行う場合に、自分の持つエッジと、世間一般のオッズの比率の分だけ、自分の持ち金から賭けろ、という式である。エッジは期待値を掛け金で割った値で、オッズは配当金を掛け金で割った数から1を引いた値だ。自分の得ている情報と、世間一般の知っていることに差がない場合は、掛け金はゼロになる。

ケリーの公式はきちんと証明されているにもかかわらず、現在の経済学からはなぜか異端扱いされている。その理由はサミュエルソン教授による執拗な攻撃のせいだ。彼はなんと、ケリー基準の支持者を論難するための論文を、すべて1音節の英単語だけで書いた(これは日本語で言えばひらがなだけで論文を書くようなもので、相手の知能程度はそのレベルだと暗示しているわけだ)。なぜ彼がかくも執拗にケリー基準を嫌うのか不明だが、本書にあるようにケリー基準は対数効用説によく合致するという理由かもしれない。

しかし、本書のもっとも衝撃的な部分は、そんなところではない。第1章と最終章は、米国を陰で動かした賭博者たちの群像にささげられている。第1章では、八百長競馬と電信で大儲けしたマフィアたち犯罪者集団。初期の通信産業は、闇賭博の資金から大いに利益を得て成長したのだった。そして、賭博業界は通信業の恩恵にあずかった。皮肉なことに、その金は現在の米国メディア界にかなり流れ込んでいる。そして、その連中はまた、純真な数学者ソープの出資者でもあった。

そして最終章では、ヘッジファンドを率いる金融家集団が描かれる。この章を読んだ者は誰でも、人はファンド・マネージャーを目指すべきだと思うだろう。他人から集めた金で大博打を打ち、勝てば自分も分け前をもらう。だが、負けても金など返す必要はないのだ。さっさと店をたたんで、アフリカに野生動物写真でも撮りに行けばいい。まことに、これほど良い商売はない。そして、彼らが世界最大の経済国の金融政策を動かしているのであるから。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-26 22:39 | 書評 | Comments(0)

律速過程とは何か

アイスランドの火山噴火の影響で、大混乱に陥っていた欧州の航空ネットワークが、ようやく復旧にむかっているようだ。職場の同僚や知人にも、このためにずいぶん予定をくるわされた人が出た。

遠方への旅行のスケジュールを立てるとき、移動手段の内でおそらく最初に決めるのは飛行機の便だろう。空港への電車の切符をそれより先に手配するという人は少ないと思う。その理由は、飛行機の方が電車やバスなど近郊の移動手段より、通常は選択肢の幅がずっと少ないからである。1日に数便しか飛ばない飛行機の方が、1時間に何本も走っている電車より「自由度」が少ないのである。したがって旅行全体のプランは、希望する日に飛行機がとれるかどうかに、かなり依存する。

以前、JALのフライト・アテンダントのサービスの質について皮肉を書いたことがあるが(「JALに乗るおじさんの日記」2010/02/27)、本当のことをいうと、航空会社のサービスを比較する際は、地上職員の質の方がはるかに重要だ。なぜなら、飛行機というのは自由度が小さい上に、しばしば気象その他の理由で遅れたり欠航したりしがちであるからだ。そうしたトラブルに見舞われて、あてにしていた便に乗れないとわかったとき、スムーズに予定変更できるかどうかが、旅行では重要なのである。地上係員の気が利かないと、トラブルもアナウンスが遅れるし、代替手段も得られないことが多い。

だから私は、地上職員の対応がしっかりしている航空会社だったら、多少機材が古くて小さくても、我慢して選ぶようにしている。それに比べれば、アテンダントが美人かどうかなど、まったく取るに足りないどうでもいい項目だ。

旅行のスケジュールにおける飛行機のような存在を、「律速過程」とよぶ。律速過程というのはもともと化学の用語で、反応が複数の過程を経て進む場合に、その中で一番速度の遅い(時間のかかる)反応を呼ぶ。その過程が全体の反応速度を律するので、「律速」と呼ぶのである。ふつう私たちが複数の手段を組みあわせて計画を作るときには、その中で一番ネックとなる律速過程の工程に焦点を合わせて、スケジュールを組む。ネックというのは、時間的に長くかかるとか、自由度が少ない上に代替手段がないとか、リスク確率が高くてなかなか期待どおりにいかないとか、そういった問題のあるものだ。

そして、律速過程の前には時間的な余裕をおくことで、プラン全体を予期せぬ出来事から守れ、というのがスケジューリングの大原則だ。飛行機の場合には、十分余裕を持って空港に着くようにするわけである。

ネックとなる律速過程は、プランを立てる上での自由度が少ない。つまり、いいかえると自由度とは、私たちが予期せぬ出来事に対応できる余裕・能力を意味している。そして私たちは経験的に、自由度を最大限確保するようにスケジューリングすることを身につけているのである。もう少し公式化するならば、「自由度が最小の律速過程を見いだせ。律速過程よりも上流ではフォワード、下流ではバックワードでスケジューリングせよ」という原則で表すことができる。これを律速過程中心のスケジューリングと呼ぶ。

律速段階には時間的余裕を持ってたどり着くようにするべきである。この余裕を、『保護バッファー』という。律速段階の「あばれ」から全体スケジュールを保護するためのものだからで、これは期間として確保する場合と、逆に在庫として確保しておく場合がある。ただし、保護バッファーのコントロールに十分な経験とスキルのある場合は、上流側もバックワードで計画してもかまわない。

では、工程が非常に多数あって、それらの間に順序関係や依存関係があったりなかったりしたら、どうしたらよいだろうか? 人の直感や経験知だけでは、律速段階を見つけてコントロールするのは難しい。そして、現代スケジューリング理論と、その嫡子であるAPS(先進的スケジューラ)こそ、まさにこうした問いに答えるための道具なのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-22 22:49 | サプライチェーン | Comments(0)

資格はユーザーのためにある

資格認定制度というのは、サービス業の品質保証のために存在しているはずだ、と前回書いた。そして、品質保証であるからには、何らかの研修・更新制度が組み込まれていなければならない、と。

今の情報処理技術者制度には、これが欠けている。私は、(今でこそ足を洗ったが)10年以上にわたり「プロジェクトマネージャ合格完全対策」などの受験参考書を編集・執筆してきた。だから、これら資格の有用性を広めたい立場の人間として、そのことを残念に思っている。そして事実、試験実施機関の統計資料で見ても、受験者数は斬減傾向にある。それでも毎年、多くの受験者があるが、それはあいにく、この資格が社会で通用しているからではない。企業のITエンジニア教育の一種の代替物として機能してきたからだ。

むろん、試験で得られる情報処理の資格というのは、勉強の結果を示すに過ぎない。まあ、言ってみれば「漢字検定」と同類だ。まして、技術革新の激しいITの世界で、研修・更新制度がなければ、それは品質保証の役にも立たない。お勉強が上手でした、ということの証明でしかないわけで、ほとんど大学の学歴のようなものだ。だとしたら、こんな資格を得ても、それが仕事を確保する助けになると期待する方がおかしいといえるだろう。

ところで、仕事の確保という点からみると、資格制度には2種類あることが分かる。資格を持っていなければ、業務に従事できないと法律で定められたもの(例:運転免許・医師・弁護士・会計士など)と、そうした強制力がないものの2種類である。情報処理技術者や中小企業診断士は後者の例である。

アドバイザリーおよび代行業の性格を持っている仕事は、もともと、法的な強制になじまない。当事者本人が自己責任で行える範囲であれば、第三者に頼る必要がないからだ。これは、医師などの仕事とは本質的にちがう。診断・処置・手術・投薬といった医療行為は、患者の代行ではない。本人ができないことをやっている。だからとうぜん資格は必須だろう。

つまり、一般に「コンサルタント資格」は、ユーザ(需要者)側の支持がなければ成立しないのである。資格とは誰のためのものか? それは、そのサービスを利用するユーザーのためのものなのだ。

税理士や不動産鑑定士などは、この需要者の支持があるから成立している。こうした固有技術や特殊知識を必要とする仕事は、法的規制がゆるくても、需要と供給の関係がバランスしている限り、資格認定の意義がある。

そのことは、アメリカでの資格のことを考えてみればよくわかる。国土が広く、人の流動性が高い移民の国アメリカでは、人材は基本的に『プッシュ型』ないし『モジュラー型』で育成供給される。言いかえれば、ビジネスで接触する相手は基本的に「どこの馬の骨」かわからないことが前提だ。だからこそ、各種の専門資格が、個人の信頼性の裏書きになるのである(企業の名刺で仕事ができる、どこかの社会とは大違いだ)。

こうしたアメリカのような社会では、資格が実質を保証しているかどうかを、ユーザー側が常に厳しくチェックしている。資格制度はサービスの品質保証だと書いたが、逆に、資格を持つ人たちの仕事の質によって、資格自体の意義が計られることを忘れてはならない。資格を持っている人間がまともな仕事をしなければ、その個人のみならず、資格自体の信頼性に疑問符がつくのだ。資格制度を支えるのは、決して『お上が与えた権威』などではなく、ユーザーの評価である。

日本の資格制度をめぐる議論では、しばしばこの点が忘れられているように思う。多くの人が、医師や弁護士などのような、ギルドにもとづく資格制度のイメージから、のがれ切れていない。そして、需要者側ではなく、供給者側の品質基準でものを考えたがる。行政も、あいかわらずサプライサイドに立った古い発想で、供給者の後押し政策ばかりを進める傾向がある。しかし、需要の無いところに、官が資格制度の権威付けをして供給をつくろう(儲けよう)とするのは愚かだ。資格周辺の教育市場で儲けようと鵜の目鷹の目でねらっている連中に格好の機会を提供するだけになってしまうだろう。

近年創設された「ITコーディネータ」などは、いちおう研修・更新制度はそなえている。しかし、それが実需に根ざして成立した資格であるのか、それとも需要を創造しようとして作り出されたものなのか、議論は分かれるだろう。むろん、良質の供給が需要を作り出すという場合だってある。しかし、そのためには、その資格を得た人間が、ひとしく品質の良い仕事をする必要がある。それが問われるのは、これからだ。

何もかも不足しているこの日本で、資格制度だけは有り余っている。もう、思想やパラダイムのない資格はいらない。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-19 21:50 | ビジネス | Comments(1)

誰のための資格?

私は中小企業診断士だ。会社員としての名刺にも、そう書いている。中小企業診断士は今のところ一応、経営コンサルティングにかんする、唯一の国家認定資格である。

むろん、だからといって、中小企業診断士でなければ経営コンサルタントを名乗れない、とか、診断士以外がコンサルティングをやるのはおかしい、などという人はいない。資格は資格、仕事は仕事。みなそう考えている。

ついでにいうと、私は「情報処理プロジェクトマネージャ」という資格も持っている。しかし、こちらの方は名刺には刷っていない。この資格を書くことは、ちょっとだけ心理的抵抗が、私にはある。ちなみに、この資格はかつての「特種情報処理技術者」の後継資格だ。「特種」を名刺の肩書きに使っていた人はたくさんいたし、同等の資格であるシステム・アナリストやアプリケーション・エンジニアを名刺に書く人も少なくないだろう。なのに、なぜプロマネだけは使いにくいのか。

とりあえずの理由としては、『プロマネは組織内の役割名称であるから』と答えることになる。現実組織ではプロマネでない人間が、名刺に資格とはいえプロマネと書いたら、もらった方は混乱する。もしも、この資格の名称が「プロジェクト・エンジニア」だったら、私はもっと抵抗感なく名刺に使えただろう。

“プロジェクト・エンジニアって、いったい何のことだ?”という疑問については、いずれ別の機会に説明することとして、いまは飛ばしておく。いま問題にしたいのは、資格が仕事内容を保証しないのだとしたら、専門家の資格認定制度は誰のためにあるのだろうか? という問題だ。いや、もっと露骨に言うならば、最近のITコーディネータやPMP(Project Management Professional)といった資格は本当に役にたつのか? という疑問だ。ちなみに私はPMPも持っており、一応名刺には書いてある。

そもそも、資格認定制度というのは、サービス業の品質保証のために存在していると考えられる。とくに、サービス業の中でも、生命や物損の危険のある作業は、品質要求がきびしい。これは運転免許制度を考えるとよくわかるだろう。車の運転は安全性を要求される。したがって訓練と認定が必要とされる。資格がなければ、その行為はできない。

ところで、品質を維持する目的ならば、そこにはかならず研修と更新制度があるはずである(運転免許制度のように)。そうでなければ、サービス品質の証明にはならないからだ。

こう考えてみると、世の中には奇妙な資格、しかも社会的には非常に重要な資格があることがわかるだろう。それは医師弁護士だ。どちらも人の生命と財産にかかわる、重要な資格である。厳格で難しい試験をパスしなければならない。資格がなければ、これら業務にたずさわることは法的に許されない。そして資格は多くの場合、高収入に直結すると信じられてきた。

しかし、この両者とも、更新制度が存在しない。一度資格を取ってしまうと、半永久的に維持していくことができる。これでどうやってサービスの品質を保証するのか?

じつをいうと、この二つの資格は、典型的にギルドとしての資格なのである。上記の品質保証の建前とはうらはらに、実は日本の資格制度は、ギルドを特許し保護するために成立しているものが多い。

ギルドとは何か。ギルドとは一種の組合であって、そこに参加しない者はその仕事に就くことを許されない。医師会や弁護士会はそうした、職業の共通利益を目的とする団体としての意味を持っている。弁護士会をはずれると、資格があっても活動できない。いいかえると、ギルドは供給を制限することで、単価を維持(品質を、ではなく)しているわけである。もっとも、ふつうギルドは徒弟制度をしいているため、研修に対してもある程度の役割は担っている。ただ、研修は法制度上で規定されておらず、そのギルド団体にまかされてしまっているのだ。

(この項つづく)
by Tomoichi_Sato | 2010-04-16 23:30 | ビジネス | Comments(0)

桜の園、または道具としての組織論について

またや見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙 (藤原俊成)

古典歌人達が、「しづ心なく花の散るらん」とか「花にもの思う春は経にけり」と歌うとき、その「花」は桜のことを指すというのが約束だった。ただしそれは、薄緑の若葉とともに花を咲かせる山桜である。平安時代や鎌倉初期には、今で言うソメイヨシノはまだ無かったからだ。

サクランボは桜の樹になる果実のはずだが、桜の名所をどれだけ歩いても、初夏にサクランボを見つけることはない。それはソメイヨシノが交配でつくられた不稔性の桜だからだ。花は咲いても実は結ばないのである。この木は、基本的に接ぎ木で増やすので、遺伝的に言うならば、すべて同一である。そのため性質も均一で、一斉に花が咲いて一斉に散る。桜の木が一本だけ生えている姿は儚なげな情緒が漂うのに、たくさん並んでいるときは、かすかに不穏さのようなものを感じるのは、もしかしたらクローンの集団だからなのかもしれない。

接ぎ木とか挿し木といった繁殖法を見ると、植物というのは本当に不思議な生き物だと、ときどき思う。ジャガイモにトマトを接ぎ木して、地下と地上に別々の実りをもたらすことさえ、やろうと思えばできる。接ぎ木は、明らかに別の個体同士の接合なのに、一つの生き物にインテグレートされるのである。ゆっくり時間はかかるが、まさに「すり合わせ型」だ。

これに比べると、動物というのは構造がはっきりしている。蝶であれクジラであれ、羽が何枚とかヒレが一対とか構成が明確で、ブレがない。勝手に個体同士が接合することもない。人間ならば眼が2個、口は一つで、心臓が一個で腎臓は2個、足は2本といった具合に、「部品表」を書くことができる。各部品の機能は明確に決まっている。むろん血液や体液のやりとり、神経系や内分泌系の情報交換、温度や圧力の環境管理など、さまざまに複雑なインタフェースで他とつながっているが、部品と見なすことは可能だろう。

西洋人は対象を分析してこまかく分解していき、それで物事を理解し把握するアプローチが得意である。西洋医学の行き着く先が、部品としての臓器の移植や再生交換に至るのは当然かもしれない。彼らは身体というものを、モジュール構造のモノとして見たがる。だから故障したり古くなったりしたら、新品と取り替えるべきだとの発想にいくのだろう。つまり、体の器官というのは、道具なのである。だが、誰にとっての道具なのか。

彼らの身体観は、その延長としての「組織」観に無意識につながっているのではないかと感じるときがある。いつだったか、外資系の、若くて優秀な経営コンサルタントが、企業の組織に関する混線しがちな議論に割って入って、「でも組織形態は、経営目的を達するための道具じゃないですか!」と発言し、それを聞いた周りの人達が一瞬、しんと静まるという光景があった。会社員は皆、組織論が大好きである。誰もが自分の組織や立場を守ろうとする。次第次第に組織自体が自己目的化する。それを、「道具にすぎない」と断定する冷静さに、目を覚まされた思いをするのだろう。

M・ポーター流の『専門化』による競争戦略の行き着く先が、“個別機能に特化した組織がモジュールのように組み合わさって、新しい全体性を持ちうる組織アーキテクチャー”だと、前回書いた(「専門化と総合 - 組織戦略の二つの方法」 2010/04/06)。企業というのは、その業態に合わせて、だいたい似たような機能組織を持つようになる。人事部とか財務部とか資材部、物流部、技術部、製造部、情報システム部といった風に。これらの機能部門が、会社組織を成り立たせる「部品」である訳だ。そうなると、陳腐化した部品、機能の低下した非効率な部品ははずして、新しく高機能な、かつランニング・コストの小さな部品に取り替えよう、との発想に至るのも必然である。

この流れにしたがって起きた現象が、アウトソーシングであった。物流機能の3PLへの移管、情報システム部門の独立化や売却、福利厚生の外部利用化などは、その典型である。それに続いて起こっているのが、工場の製造子会社化、ならびにEMS(製造受託会社)への移管であろう。“うちの工場は高コスト体質でかなわん。海外の安い会社に作らせたらいいやないか”という訳である。こうして「グローバル化推進」のかけ声とともに、中国生産がブームになり、インドネシアやベトナム生産がその後を追うことになった。設計(とくに詳細設計)を外部に出すことも広まりつつある。

しかし、本当にこれら機能部門はアウトソース可能なのだろうか。私が提起しているのは、「アウトソースすべきかどうか」の是非論ではなく、「可能かどうか」の技術論である。欧米流のモジュール型組織アーキテクチャーが可能であるための条件は、はっきりしている。それは『個別機能のインタフェースが明確に規定され標準化されている』ことだ。そうでなければ、それはモジュールにはならない。標準インタフェースが存在しなければ、それは「すり合わせ型」部品だと考えられる。

そこで、読者諸賢に一つ質問したい。皆さんは、現在たずさわっておられる職務について、職務記述書(Job description)をお持ちだろうか? また、現在の業務について、ワーク・パッケージのインプット・アウトプット・使用ツール等を規定した定義書は、お持ちだろうか。

私自身の経験でいえば、フランスの企業との合弁事業で働いていたとき、人を新たに雇う場合は職務記述書の作成が、まず第一に要求された。だが、日本の本社では職務記述書など見たことがない。私の勤務先はエンジニアリング会社なので、さすがにWBSとワーク・パッケージの標準は一応規定している。が、プロジェクトごとに例外も多い。中間管理職としての日々の業務は、その例外との戦いみたいなものだ。

ISO9000の品質マネジメントシステムを持っている企業は、業務フローの記述をまとめているはずだが、その規定は運用上の裁量範囲(いいかえれば曖昧さ)を残している場合が多い。つまり、日本企業の実態としては、「すり合わせ型」の組織アーキテクチャーが主流なのではないか。

こうしたすり合わせ型の組織で、ある機能部門だけをモジュール部品として交換しようとしたら、どうなるか。機能不全の、木に竹を接ぐ結果になるのは火を見るより明らかである。にもかかわらず、こうした『組織戦略』が流行しているのは、欧米流のマネジメント思想を、自分の立脚する環境を見ずに、直輸入して実行しようとするからであろう。

それは、働く個々人についても同様である。製造部門の直庸を派遣工に取り替える。設計者も外注に切り替える。満足な職務記述書も用意せずに。その結果、従来は現場の工夫で押さえ込んでいた問題が、つぎつぎに表面化してくる。管理スタッフの負荷がどんどん増えていく。

だったら職務記述書や業務標準定義書を充実していけばいい--これは一つの解決方向であろう。ただし、組織のアーキテクチャーは、製品アーキテクチャーや、サプライチェーンの方向性と、微妙に、しかし密接に関連していることを思い出してほしい。すり合わせ型の製品アーキテクチャーは、プル型のリーンな供給指示に結びついており、モジュラー型製品は在庫をもつプッシュ型供給指示が便利である。では、個別仕様部品の多い、すり合わせ型製品で、設計や購買の業務標準定義書を簡単にかけるだろうか。書くためには、バリエーション・リダクションやGT化といった、相当高度な工夫が必要なはずである。

組織は経営の道具にすぎない、というテーゼは明瞭で、分かりやすい。専門化にもとづく組織アーキテクチャーは、何となくカッコいい。だが、分かりやすさや格好良さだけで、複雑な物事を決めることはできない。周りがみんなそうするから、といって行動するのでは、実を結ぶことのない桜の園のクローン集団と同じになってしまう。まして何も捨てない「総合」型組織アーキテクチャーで道具論を振り回したら、滑稽なだけではないか。

私は「すり合わせ型」が良いか「モジュラー型」が良いか、二者択一の議論をするつもりはない。あるいは、組織論には第三の道を探るべきなのかもしれない。そもそも、会社を構成する人々は、会社の道具だろうか。そして私の身体は私の道具だろうか? それを考える基準とは「何か」を、もう一度問いたいのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-12 23:12 | ビジネス | Comments(0)

脳のなかの幽霊 V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

この本は(古書で手に入れたが)、最近読んだ中のベストの一つだろう。これほど面白く、しかも強烈な刺激を与えてくれる本は少ない。ラマチャンドランはインド生まれで英米で活躍している神経科医だが、この本は脳や神経の仕組みだけでなく、自己とは何か、外界と知覚とは何か、実在とは何か、といった哲学の問題まで真っ正面に切り込んでいく。それがまた多数の臨床事例をともなっているから、きわめてスリリングなのである。

この本は最初に、幻肢の問題から始まる。手を切断された患者が、失われた手の指などがまだあるように感じる現象である。あるように感じるだけではなく、ときにはそれがひどく痛んだりする。しかし、存在しもしない幻の指先の痛みを、医者はどうやったらなおせるだろうか?

ところが、おどろいたことに著者は、あることをきっかけに、実験と推理をくり返して、とうとう幻肢の感覚の正体をつかむ。そして、きわめて巧みな治療法を考案して、本当に幻肢痛をなおしてしまうのだ。この章だけでも、非常によくできた推理小説のように面白い。

しかし、それだけではない。この本の中には、およそ常人では想像もできないような、奇妙な神経医学的症状がつぎつぎと紹介される。自分の左腕を、自分の兄の腕だと主張する男性。視野の右側が全く見えていないにもかかわらず、その異常に気づかぬ女性(彼女は顔の左側だけ化粧をして平然としている)。視覚を失っているにもかかわらず、完全に正確に穴に物体を通すことのできる若者(彼は知覚しているのに認識できないのだ)。

こうした奇妙な症状のオンパレードは--なんだか今日の日本企業が陥っている知覚異常をふと連想させるが、それはさておき--自己を正常と信じている我々を、当惑せずにはおかない。しかし、著者は慎重に一つずつ謎を解きほぐし、人間の脳と神経の意外な振る舞いを見いだしていく。

そして最後に、著者は「意識」の場所として、脳の前頭葉ではなく側頭葉である、という意外な推論を導き出す。その背後には、ヒンズー教の信念、すなわち自我は人間の主人ではなく幻であり、それをすてて宇宙と合一することが悟りである、との考え方がある(ラマチャンドラン自身は科学を経て、その伝統的思考に再度出会ったようだ)。本書はきわめて挑戦的な、脳と意識をめぐる臨床調査と思惟の記録なのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-09 22:52 | 書評 | Comments(3)

専門化と総合 - 組織戦略の二つの方法

もう10年以上前のことだが、SAP社の開催するユーザ・コンファレンス「SAPPHIREジャパン」が、横浜のみなとみらいで開催された時、マイケル・ポーター教授の講演を聴きにいったことがある。ご存じと思うが、ポーターは「競争優位戦略」とか「バリューチェーン」の概念提唱で有名な経営学者である。

その講演でポーター教授は、日本企業と韓国企業を、よく似た欠点を持つ、と言って叱った。わが国では昨今、官民を挙げて日本企業と韓国企業との優劣比較がお盛んだが、彼の目には、両者は共通に見えたのだ。

その共通の欠点とは何か。それは「総合」という名前の、切り捨て戦略の無さである--そう、ポーター教授は断じた。これが、両国企業の安定した成長を阻害しているのだ、と。

彼の主張を理解するためには、その前に少し知っておくべき事項がある。彼の学説の依って立つ根拠である。そもそもポーターは、経済学の若き俊英として出発した。彼の若き頃、経済学は完全自由市場における理論的性質について、さかんに研究していた。それによると、市場が完全競争の状態に近いほど市場成果が良くなる、と考えられている。つまり、売り手と買い手が多数存在し、参入が自由に行われ、取引される商品が均質で、取引主体が情報を完全に有している状態では、資源配分が「効率的」に行われることが証明される。経済学で「効率的」というのは、いいかえれば売り手(企業)が過剰な利益を占有できず、消費者に還元されている状態をいう。

経営学の研究分野に進出したポーターは、この証明を逆手にとって、考えた。企業が収益性を安定的に高めるためには、完全競争の市場を避ける必要がある。「効率的な」市場ではなく、あまり競争のない市場や、あるいは競争程度の低い状況を創出するべきである--彼はそう議論を進めた。逆転の発想である。

ポーターによると、市場の競争状態は、(1)新規参入、(2)代替品の脅威、(3)買い手の交渉力、(4)売り手の交渉力、(5)既存企業間の競争程度、によって規定される。そして、競争状態が分かると、その産業に属する企業の平均的な収益率が予測できる。さらに彼は、企業が競争優位な立場に立つための一般的戦略として、
・コストリーダーシップ戦略
・差別化戦略
・集中戦略
の3つをあげるのである。しかし、この話は「企業戦略論」の教科書や入門書にいくらでも書いてあるので、ここでは深入りしない。

こうした理論を説明するかわりに、ポーター教授は、見事な戦略を実行している企業の例を講演であげた。忘れもしない。そのとき彼があげたのは、IKEAと、Neutrogenaと、Southwest Airlinesであった。

IKEAについては、どんなビジネスモデルの企業か、すでに知っている人が多いだろう。ニュートロジーナは、無香料・無添加の石鹸で女性に知られた企業である。ニュートロジーナは肌に対する刺激がとても少ない。その特徴を、同社は、皮膚科の専門医にサンプル試供品を無料で配布する事によって、消費者に知らせた。肌荒れに悩む女性に、皮膚科の医師が“試しにしばらく使ってみたら”といって渡す。その効果を知った患者は、それをずっと使い続ける。こうして、ニュートロジーナ社は、ドラッグストアの店頭に山積みされる石鹸の安売り競争に巻き込まれることなく、自社の価格を維持し続けたのである。

Southwest航空を知っている日本人は少ないかもしれない。だが、巨大航空会社がひしめく米国航空産業において、同社は特別の地位を占めている。Southwestは、中小規模の都市を結んで飛んでいる。大都市では、わざわざサブの小さな空港に就航する。日本でたとえていえば、千歳空港ではなく札幌丘珠空港に飛んでいるようなものだ。

Southwestは、原則として手荷物だけで、スーツケースなどの荷物預かり(check-in)サービスをしない。そのおかげで、旅客はすっと空港に行って、すっと乗り降りできる。また飛行機も定時に離発着できる。機が遅れたり、時間変更したりするときの最大の問題が、あずけた荷物だからである。

Southwestはまた、どこの路線でも、極力同じ種類・同じサイズの機体を運行する。路線によってジャンボを飛ばしたり747にしたりといった使い分けをしない。これは、機体のメンテナンスや、いざというときの機体繰りを簡単にするためである。

こうしてSouthwestは、顧客満足を確保しながら、できるかぎり他の航空会社との競争に巻き込まれないようにしてきた。だから同社だけは、長い間安定して利益を稼ぎ続ける事ができたのだ。収益を上げたければ、価格競争は避けろ。誰もが参入する、利幅の薄いムダな事業は捨てて、集中しろ。競争を避けるところに、競争戦略はある。これが、ポーター教授の説明であった。

ひるがえって、日韓の企業はどうか。この二つの国では、企業が大きくなればなるほど、「総合」と称していろいろな市場に手を広げる。その結果、どこに特色がありどんな哲学があるのか不明な大企業ばかりになっていく。何も捨てない。「何かを選ぶとは、それ以外のすべてを捨てる事だ」とポーターはいう。したがって、何も捨てない企業には、何の戦略もないのだ、と彼は断定する。

彼の講演を聴いた帰り道、歩きながら考えた。たしかに指摘は当たってる。○○建設とか、○○重工とか、○○電子、○○製作所といった企業名(空欄は好きな漢字やハングルで埋めてください)を想起させる。そして、くやしいことに、自分の勤務先も『総合エンジニアリング』を標榜しているのだった。

捨てる事には、勇気がいる。撤退には、事実とてもエネルギーがかかる。だから、難しい。とはいえ、何にでも手を出したがる「総合」志向は、また同時に、捨てられない、賭をできない、リスクをテークできない「三ない」思考でもある。戦略や仮説をもてない。したがって、「決めない人々」で社内はあふれかえる事になる。総合企業が沢山ある社会では、皆が同じ事業に参入したがる。だから必然的に過当競争に向かっていく。

もちろんアメリカにだって総合巨大企業は沢山あり、大儲けしたり大損したりしている。そんなことはポーターも百も承知だ。だが、彼はたぶんSouthwestのような、ビジネスモデルの設計思想が明確で、はっきりした戦略に賭けるタイプの企業が好きなのだろう。設計思想とは見切りだ、と以前このサイトにも書いた。何もかも製品に詰め込む事はできない。だから、何を取って何を捨てるかが、設計の思想なのだ。

ポーターの論理に従うと、必然的に組織は専門化の方向に向かう。何でもできる、何でもやりたがる総合化の組織ではなく、これだけしかしない、これだけは誰にも負けない、そういう組織に。そして、そういう個別機能に特化した組織がモジュールのように組み合わさって、新しい全体性を持ちうるというのが、この論理の先に待ち構えている組織アーキテクチャーだということになる。

こうして、専門化と総合という二つの方法は、「プッシュとプルというサプライチェーンの二つの方法」や、「モジュラーとすり合わせ(インテグラル)という、製品アーキテクチャーの二つの方法」につながっていく。だが、いつものくせで、長くなりすぎたようだ。この話の続きは、稿をあらためて、また書こう。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-06 22:51 | ビジネス | Comments(0)

モノサシを疑え

企業の最終的ゴールはお金をたくさん儲けることだ。入社式で新入社員に美辞麗句をならべて何を訓示したにせよ、経営者はみな内心そう思っている。“そのために諸君の若い力が必要なのだ、頑張って欲しい”、と。

頑張ることの意義を、疑う人は少ない。この国では、自分の属する組織や場のために頑張ることは美しいと思われている。そうでなければ、なぜあんなに高校野球が好きなのか。若者は素晴らしい、なぜならつねに一生懸命だから、というわけだ。

では、会社で頑張るとはどういうことか。お金儲けという目標のために、組織が全力を尽くすこと。それはすなわち、各人がおのおのの持ち場で最大限の努力をはらうことだ。そのために、各部門で目標となるモノサシが与えられている。利益とはすなわち売上マイナス原価である。したがって、営業は売上の増大をはかり、工場は製造原価を低減しろ、と求められる。物流部門は物流コストを低減しろ。調達部門は安価なサプライヤーから買え。あるいは安価な外注先に製造委託しろ。設計部門は新製品投入までの時間を極力短くしろ。IT部門は運用保守コストを削減しろ・・・。

各部門に利益最大化のための尺度が与えられ、期間ごとの成果がもとめられる水準に達したかどうかで、人事評価や部門評価が決められる。こうして、すべての部門が『頑張る』ことを求められる。

その結果、何が起こったか。

営業部門はシェア拡大のために、低価格競争に走った。工場は生産効率を求めて、設備能力の許す限り大ロットで生産した。人員削減のためにロボットや高価な自動化設備を導入し、機械の稼働率を最大限に上げるようスケジューリングした。調達部門は下請けを限界までたたいてJIT納品を強制し、それでも足りないと、安価なメーカーを求めて中国から海外調達に乗り出した。企画開発部はますます数多くの新製品を作りだし、手間のかかる詳細設計は廉価な協力会社やサプライヤーなど外部に投げるようになった。

物流部門は子会社化され、単価を切り下げられ、“物流で儲けてはいけない”とされた。それでも足りなければ、3PLに委託され、人員ごと移管された。情報システム部門もよく似た運命をたどった。ERPパッケージを入れ、アウトソースして間接人員削減をせまられた。人事部は成果主義を導入して、高齢社員から順に削減していった。

そのおかげで、企業の収益は上がり、日本経済は復活したか? --それは我々の知るとおりだ。

利益率を無視した拡販で、企業は体力を消耗した。工場には製品・半製品がうずたかく積み上がり、それなのに物流部門は欠品で悲鳴を上げている。作りやすいものばかりを大ロットで作った結果だ。需給が合わないので、生産計画担当部門は寝る間もなくなり、現場は度重なる指示変更や設計変更にうんざりしている。しかも中国ベンダーからの部品は通関でトラブって1ヶ月も来ない。

設計部門も丸投げのために技術が空洞化し始め、製造現場が作りにくい特注部品は増えるばかり。ベテランの熟練工を首にしたおかげで、品質レベルは下がる一方だ。労災も頻発するようになった。

ITで効率化どころか、摩訶不思議な社内ルールや例外処理で、せっかくのパッケージがカスタマイズの山となり、予算超過でプロジェクトが立ち往生している。

そして全員が全員、頑張ることに疲弊している。どこまで頑張っても、利益にも給料にもロクに反映されてこないからだ。設計も製造も間接部門も、いつ人員対象の削減になるかとおびえている。効率を上げれば人が余って首を切られる。しかし効率が悪ければ、部門全体が外注されてしまう。自分の足元を掘り崩す仕事に、熱中するのはむずかしい。

どうしてこうなってしまったのか。それは、企業全体の目標を、部分目標に分解可能だと、皆が信じていたからだ。そして皆が、自分自身にあてられた尺度で頑張ることの意義を、誰も疑わなかったからだ。

利益=売上-原価 だとしても、それを売上目標と原価目標に分解したら、なぜ売上と原価を、それぞれ独立にマネージ可能だと思うのか。新製品で売上を伸ばせば原価率は上がるし、少品種大量生産で製造原価を落とせば、多様な顧客ニーズを満たす売上は達成できまい。運動会の綱引きならば、一人でも力を抜けば全体の力が落ちる。しかし、販売と製造、設計と物流は足し算では動いていない。全体のダイナミクスは連動しており、頑張るべき部分と、手を抜いて様子だけ見ていればいい部分は、そのときどきで動的に移っていく。それを決めるのが戦略なのだ。なぜなら、(かつて引いた知人の言葉を借りれば)『戦略とは無駄な戦いを略くこと』だからだ。

各人がつねに持ち場で頑張れば良い結果を生む、という考え方は迷信だ。それは戦略の不在を意味している。頑張りという主観だけで人間を評価するのは間違いだ。それは各人から戦局を判断する力を奪っていく。部門を固定した尺度で動かすのは誤りだ。選ぶべき尺度を戦略によって変えなければ、組織のエネルギーは部門間のコンフリクトに消えてしまうだろう。

新入社員諸君。自分が自分自身の主人になって自由に考えたいか? だったら、まず自分にあてられているモノサシを疑おう。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-02 22:56 | ビジネス | Comments(0)