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JALに乗るおじさんの日記 - あるいは、サービスの質を考える

私は家に、2008年11月づけの、大変貴重な新聞「コリエレ・デラ・セーラ」紙の記事を持っている。コリエレ・デラ・セーラは、イタリアを代表する日刊紙だ。この日の一面記事は、「アリタリア航空の売却再建に合意」である。なぜこれが貴重かというと、実はこの紙面を、私は当のアリタリア航空の機上で受け取ったからである。これから乗り込もうとする飛行機の会社が倒産し、従業員は浮き足立っている、そんな機内に足を踏み入れるのは大変スリリングな体験であった。

同じような経験は繰り返すものらしい。

先月、中東出張の途上で久しぶりにJALの国際線ビジネスクラスに乗った。いつものsafety instructionの放送が終わると、客室乗務員の女性が前列に神妙な顔つきで並んで立った。そして「皆様も新聞報道等でご案内の通り、弊社は・・・皆様にご心配をおかけした事をお詫びし・・・サービスのさらなる向上につとめる所存で・・」という趣旨の機内アナウンスが流れ、女性たちが一斉にお辞儀して頭を下げたのである。まあ、じつに日本企業らしい光景だとは思う。アリタリアの乗務員は、恐縮はしても頭なんか下げなかったし。

成田からソウル・仁川空港までの短い機内だったが、座っているうちになぜか次第に、不思議さ、ないし違和感のようなものを感じはじめた。どうしてこの会社の乗務員のサービスは、どこか微妙に「ずれて」いるのだろうか。たとえば、機内の夕食は、飲み物のサービスの後、何も聞かずにいきなり和食のお弁当が配られてくる。なるほど、上品な箱に入った立派なお弁当だ。献立も念入りで、味付けも美味しい。でも、なぜ食事のメニューには選択肢が無いのだろう。どんな格安便のエコノミーに乗っても、"beef or chicken?"くらいのチョイスは聞いてくるのに。ぼくが洋食より和食を好むかどうか、外見だけで分かるのだろうか。あるいはエビ蟹を食べないユダヤ教徒や豚肉を食べないイスラム教徒でないと、どうして知ったのか。

JALの国際線には2年前も乗ったが、フィリピンへの往復は規定によりエコノミークラスだった。そのときは、こんな違和感は感じなかった。こうしたことはむしろ、サービスの手厚い(はずの)ビジネスに乗ったから気づいたのだろう。機内に乗り込んで着席すると、チーフ・アテンダントが「佐藤様、本日はご利用ありがとうございます」と挨拶に来る。その顔に浮かべた営業笑いも、なんだか不思議だった。

飲み物には一応選択肢があるのに、肝心の夕食のメニューには選択肢が無いのはなぜなのか。考えたり観察したりしているうちに、だんだん気がついてきた。この人達は、顧客の要求や望みにどう対応するか、ではなく、自分達の頭の中にある『型』を念入りに磨き上げ極めることがサービスだと思っているのではないだろうか。自分の頭の外に出ること、相手の悩みや要望の全体を想像し、またその言葉を素直に「聞く」ことこそ、サービスの原点だと思うのだが。

周知の通り、アメリカのレストランでステーキを頼むと、「焼き方はrare? well-done? つけあわせはマッシュポテト? フレンチフライ? サラダのドレッシングはoil&vinegor? French? Italian? Southern Island?」と何でもかんでも聞いてくる。彼らは、顧客に選択肢を与えることこそサービスだと心得ているのだ。そんなことより、もうちょっと上手に料理してよ、と思ったりもする。ところが、フランスのビストロでビフテックを注文すると、彼らはほとんど何も聞かずに、料理を持ってくる。焼き加減はア・ポワン(ちょうど)で、付け合わせはフリット(フライドポテト)。サラダは、たとえばオンディーブのサラダならクルミ入りのオーロラ・ソースという具合で、すべて定石が決まっている。そのかわり、まあそこそこ美味しい。これが彼らのサービスなのだ。

寿司屋風に言えば、アメリカ人は「お好み」派で、フランスは「おまかせ」派だ。これはちょうど、米英のエンジニアリング会社がコスト・プラス・フィー(実費償還)契約のプロジェクトを好み、仏伊のエンジ会社がランプ・サム(一括請負)契約をうまく料理する傾向に、ちょうど合致する。でも、フランスのビストロの客が、定石をわざとはずした要望を口に出せば、もちろん彼らは顧客の意志に従う。すべての顧客は好みも意志も持っている。それが西洋人の前提なのだ。

ひるがえって、JALはどうだろう。あの会社は、“黙って、最上の物(と自分が信じるもの)を提供する”ことがサービスだと心得ているらしい。プロダクト・アウト--極端に言えば、一種の一方通行である。そして、私たち日本の企業はどうだろう。「おまかせ」での仕事を好む“寡黙な大工さん”が身上ではないだろうか。だとしたら、いつの間にかJALが競争力を失っていった轍を、私たちも踏んでいないだろうか。

そして、自分が現在かかわっているプロジェクトの仕事を思い出してみる。中東で大規模プラントを計画中の顧客連合に対する、Project Management Serviceという契約形態だ。顧客の側に立って、悩みや要望の全体を想像し、それを具現化することが求められている。にもかかわらず、つねに無意識のうちに、「そんな要求を聞いたら後が大変だ」「そんな短納期でできる訳がない」「この構成の方が良いに決まっている」という大工さん根性が顔を出す。

製造業の会社だって、この話に無縁ではあるまい。昨今の製造業は製造部門の子会社化や海外生産が進み、自分では製造現場を持たなくなっている。“ものづくり企業”を自認しつつ、実態はどんどんサービス業化しつつあるのだ(いまや業種分類など、企業の「本籍地」を示しているにすぎない)。そんな風にサービス業に近づいた企業が顧客に届けるバリューとは、自社の優れた製品や技術を提供することだろうか、それとも顧客の声や意志を聞くことなのだろうか。

中東からの帰りの機内では、映画「ハゲタカ」を見た。映画作品としての水準はともあれ、“日本企業にはまだ技術がある”という信念ないし思い込みを、皆が繰り返していたのがひどく印象に残っている。たしかに、ある特定の数字を極めることにかけては、日本企業の技術者達はみな優秀だし、懸命だ。だが、その数字(尺度)を、顧客の要望の全体系の中で位置づけて吟味し、何を捨て何を活かすかを考えて実践することこそ、技術ではないのか。そこには想像力(構想力)と、「賭け」が必要なはずである。--などと偉そうなことを、雲の上で考えてみたのだった。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-27 18:27 | ビジネス | Comments(2)

「わかる」ことと「知る」こと

学んで時に之を習う。また喜ばしからずや。朋あり、遠方より来る。また楽しからずや。人知らずして温(いきどお)らず。また君子ならずや--これは「論語」の冒頭、学而篇第一におかれている子(先生、つまり孔子)の言葉だ。

「勉強した後、適当な時期にこれをおさらいする、いかにも心嬉しいことだね。同学の志が遠いところからも訪ねてくる、いかにも楽しいことだね。人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも君子だね(凡人にはできないことだから)。」 金谷治氏の訳注をたよりに書き直せば、こんなところか。

孔子は「学ぶ」と「習う」を区別して使っている。学ぶ、は知識として覚えること。これに対して、習う、は自分で繰返し経験して修得することを意味している。つまり、「知る」ことと「わかる」ことだと言ってもいい。

三千年以上も前の人には自明だった、この区別が、現代の人にはわからなくなっているらしい。そう思うようになったのは、最近の経営書ブームの影響を見てからのことだ。

その端的な例が、プロジェクト・マネジメントのPMBOK Guideである。米国Project Management Institute (PMI)が長い時間をかけて完成させた本書は、タイトル"A Guide to Project Management Body of Knowledge"が示すように、「基本的知識へのガイド」である。この中にはたとえば、アーンドバリュー・マネジメント・システム(EVMS)手法の基礎的な記述がある。そこで、これを読んだ人は、PMやEVAの知識を得ることができる。つまり、「知っている」状態に達するだけ、のはずである。

ところが、面白いことに、世の中にはPMBOK Guideを読んだ、あるいはPMPのペーパー・テストに合格した、だから自分はEVMSが「わかってる」と思いこんでいる人が、けっこういるらしいのだ。不思議なことである。そんな人の前で、「アーンドバリュー・マネジメント・システムの落とし穴」に書いたような議論を始めると、目を白黒させたりする。

どんな技法も、実務で何度か使って、自分で痛い思いもしてみて、はじめて利点と限界を理解できる--これが技術屋としての普通の態度ではなかったか。いつから管理のための手法だけは畳水練で修得できることになったのか。

もう一つ例をあげよう。ERPのビジネスが発達して以来、日本でも欧米に劣らず『コンサルタント』が急増した。このコンサル諸子、実際には特定アプリケーションの設定方法を(ごく狭い業務範囲に関してのみ)「知っている」だけにすぎないのだが、なぜかビジネス領域を「わかっている」と自認しておられる方が少なくないらしい。無論、ちょっとでも現場業務に関するリアルなことをつっこんで質問されると、すぐぼろが出てしまう。だから顧客側も賢くなって、“SEにすぎない人間に業務コンサルの単価が払えるか”と値切り、単価デフレ現象を加速させているようである。

英語のTOEICも似たような所がある。俺はTOEICが900何点だから英語はよく分かっている、という御仁が多いようだ。しかし、私の感覚でいえば、 TOEIC 900点など、囲碁にたとえれば、ようやくアマの初段といったところ。プロ(つまりNativeの人たち)とは天と地ほどの開きがあるのだ。しょせんあれは試験である。点を取るためのテクニックだって存在して、参考書も出ている。そんなことを「知った」からといって、言語という巨大な文化のサブシステムを「わかった」と、なぜ言えるのか。だから私などいつも、「ぼくらに英語はわからない」と言い続けている。

鉄棒の逆上がりの仕方をスライドで見て知っても、それで逆上がりが実際にできるようになるわけではない。小学生にとってさえ自明な真理が、なぜいい年をした大人にわからないのか? 

答えは、たぶん、われわれの社会から職人仕事が衰退していることと、関係がある。職人は、仕事は自分で身につけるものだ、と信じていた。「知る」ことと「わかる」こととの間には、気の遠くなるほどの距離があるのだ。しかし今や、いかなる仕事であれ、文章と記号と画像情報系で伝達可能である、という信念が広まっている。どうも、大学でお勉強ばかり上手にしてきた人たちが、ホワイトカラーの中に増えすぎたのだとしか思えない。

昔読んだ田辺聖子の小説の中で、障害児を持つ母親が、他人からその苦労を聞かれ、

「分かる人には説明しなくても分かる、分からない人には説明しても分からない。」

という意味のことを答えた場面があって、今でも忘れられない。逆説めいているが、正論だ。「わかっていない」という自己認識があって、はじめて「わかろう」とする努力が始まるのだ。「そんなことは知っている」と思った地点からは、何の前進もありえない。無知の知とは、おそらくそういう意味なのだろう。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-24 23:57 | 考えるヒント | Comments(0)

超入門・問題解決力 - 問題とは何か、課題とはどう違うか

Kさん、おたより楽しく読ませていただきました。この混沌とした時世に、それでも何か光るブレイクスルーが(あるいは、お言葉を借りれば「ブレイクスルーの予感が」)感じられるのは、何より心強いことです。

確かに、私たちの生きている時代は、課題だらけです。日本は『経済一流、政治三流』などと威張っていられたのは過去のこと。お偉方の頭の中では、いまでも産業技術では世界トップと思われているのかもしれませんが、実務家の日々の仕事で見えてくる姿は、だいぶん擦り切れてくたびれかけた「超一流」、品質も技術も物流も販売も、困難をかかえて制度疲労しているように思えます。

それでも、日本の製造業を訪問するたびに感じるのは、そこに働く人たちの優秀さと誠実さでしょう。この底力をうまく活かせれば、まだいろいろな可能性があるのだなと、御社のチャレンジを見て思います。ただ、そこでいつも障害となるのは、組織のマネジメント力の弱さ、意志決定の遅さ、そしてKさんのおっしゃる「問題解決力」の不足でしょう。

これは、縦割りの機能型組織だけで業務を回してきた製造業が、新しいことに挑戦する時に、典型的に現れるようです。各人、持ち場で最善を尽くす--それは得意です。しかし複数部門にまたがる課題が発生した時は、それを解決できないまま、「様子見」と「判断の先送り」だけで時間を浪費してしまう。Kさんが、新サービスの上市期間(Time to Market)について、アジアのライバル企業に先を越されないかと心配されている理由は、この点にあると思います。

それを乗り越えるために、「課題管理表」をつくり、関係者間で共有されるというアイデアには、私も賛成です。解決しなければならない項目をはっきりさせて、皆で共通認識すること。そして解決のオーナーシップ(つまり担当者)を決めて、期待すべき解決の期日を設定し、対策と最新状況を表に書くこと。これはまさにプロジェクト・マネジメントの第一歩であり、機能型組織の壁を越えたクロス・ファンクショナルな取り組みの開始だとも言えるでしょう。

ただ--Kさんには「またか」と言われそうですが--私には一点、気になることがあります。Kさんは「問題」と表現されたり「課題」とおっしゃったりしておられますが、課題と問題はどこが違うか、ご存じですか? この二つは、違うのです。なので、課題解決と問題解決には、別の方法が必要なのです。

「問題とは何か」--まあ、こんな変な問題を言い出すのは、私ぐらいかもしれません(笑)。課題とは問題を、ちょっとかっこつけて言い直しただけだ。現場で「問題」と泥くさく呼ぶことを、役員会議室の中では「課題」と称する。そんな風に思っている人も、多いと想像します。ですが、試しに英語でどういうか、考えてみてください。問題は"issue"とか、"problem"ですよね。では、課題は? "assignment"とか"challenge"、ないし"task"になるでしょう。「解決する」はsolveとかresolveですが、課題解決を"assignment solutions"とは、まず言いません(これではまるで数学の宿題の解答みたいです)。

課題とは、能動的なものです。“あるべき姿”を思い描いて、現実をそこに向かって変えていくためのポイント--これが課題です。コンサルタント風の言い方をすると、"To-be"と"As-is"の間のギャップを詰めていく作業が「課題」なのですね。これを解決するためには、まず“あるべき理想像”を明らかにしなければなりません。つまり非常に意識的で自覚した活動だ、ということがお分かりいただけると思います。

ところが、「問題」は違います。問題とは、(意識的にであれ無意識であれ)“期待していた状況”と、現実の状況のギャップを指します。「今期の売上げが問題だ」という時、それは「今期の売上げは期待していたほどは上がりそうもない」という悩みを指すわけです。客先が品質にクレームしてきた--これは、“客先はクレームしない”という無意識の期待、当然こうだろうという「思い込み」がつくり出した問題なのです。

ということは、どうなるでしょうか。問題は、外から割り込んでくる障害で、受動的なものだと皆が考えている。しかし、本当は、無意識に持っていた「期待の質」がつくり出したものなのです。だから、一つつぶしても、きっとまた別の問題が浮かび上がってきます。なぜなら、「期待の質」が変わっていないからです。そして、最も困る期待とは、「何も変化しないはずだ」という期待なのです。

日本が一人あたり GDPで中国に抜かれるのが問題だ、と言う人は、無意識に、日本は当然2位であり続けるはずだ、と信じている。どうしてそう信じられるのか、私には分かりません。それよりは、日本で雇用が十分生まれるには、どの程度のDGPで「あるべき」なのかを考えた方が、生産的なように思えます。失業問題は、たしかに「問題」です。まともな人は、まともに暮らせるべきだ、というのは当然の期待ですから。

Kさん。『問題解決力』に類する本は、書店に行って企画広告やビジネス書のコーナーにいけば、いくらでも見つかります。私は、そこに書いてあるような手法論を、いまさらご説明しようとは思いません。問題解決に本当に必要なのは、どのような視点・視野から問題を設定したのか、というスタンスです。たいていの場合、問題設定のスタンス自体を間違えている。

典型的な例が、トレードオフに関連する問題です。在庫は減らしたい。でもリードタイムは短縮したい。二つの漠然とした期待があるが、その間にトレードオフが生じているのです。こういう時、部門の都合でどちらかの問題だけを「解決」するのは簡単です。でも、もしかしたら、部品消費量を見直すサイクルを半期から月単位に短縮する、ということが「あるべき姿」なのかもしれません。だとしたら、目の前の問題解決は、ちっとも課題解決に近づいていないのです。

優秀な人ほど、自分の得意とする技術領域に持ち込んで「問題」を解決しようとする傾向があります。製造コストが問題だというと、機械屋は設計で、システム屋はソフトウェアで、物流マンはマテハンで解決したがる。しかし、本当に製造コストが問題なのか? 製造コストが低ければ販売競争に勝てるはずという、無意識の期待の方がまちがっていないのか? あるべき姿は、本当は何なのか--そのための課題を、最初にきちんと設定していたのか・・・

問題は生まれてくるもの。課題は生み出すものです。Kさんの課題管理表は現在のところ、英語で言えばIssue Tracking List(問題管理表)にとどまっているようです。これが真の意味の「課題管理表」になって、取り組まれている新サービスが一日も早く市場に出てこられることを心から「期待」しております。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-21 19:12 | 考えるヒント | Comments(0)

アーンドバリュー・マネジメント・システム(EVMS)の落とし穴

最近、IT業界のみならず製造業でもプロジェクト・マネジメントに新たな関心が集まっている。米国PMIの旗振りで、日本でもPMP(Project Management Professional)の資格試験が行なわれるようになったことが一つの要因だろう。が、おそらく製造業の製品ライフサイクルが短くなって、プロジェクトの概念を持ち込まないと製品開発から製造販売までのプロセスをスピーディに回せなくなってきたことが、大きな原因ではないか。

そのプロジェクト・マネジメントの分野では、このところアーンドバリュー・マネジメント・システム(EVMS)の手法が急速に浸透してきているようである。コストとスケジュールの両方を一度に予実管理できる手法として、注目を集めているし、資格試験などでもちょうど知識を問いやすい部分でもある。

EVMSでは、以下の三つの指標を用いて、コストとスケジュールを計測する:
(1) PV = Planned Value (以前の用語ではBCWS = Budgeted Cost of Work Scheduled)
(2) AC = Actual Cost (ないしACWP = Actual Cost of Work Performed)
(3) EV = Earned Value (ないしBCWP = Budgeted Cost of Work Performed)

目新しいのは、(3)のEV(ないしBCWP)である。(1)のPCと(2)のACは自明の指標であり、従来はこの二つだけで予実管理をしていた。しかしプロジェクトの進行途中で、PV < ACという集計結果が出ても、それがコスト超過を示しているのか、それとも予想以上に作業が進捗しているためなのか、判別できないという問題があった。そこにEVを持ち込むと、ここまでの進捗ではこれだけの費用が見込まれていたはずだった、という数字が判るので、コスト変動と進捗偏差を区別することができ、結果を正しく分析できるようになるのである。

アーンドバリューによる分析は、このように素晴らしい手法である。が、同時に重大な問題点をかかえていることは、必ずしも認識されていないように思う。問題点は、私の見るところ、大きく三つある。

まず第一に、予算 Budget が明確なプロジェクトでなければ利用できないこと。これは自明のようだが、たしかに制約である。スコープが契約で明確に規定された『XXシステム構築プロジェクト』を、一括請負で率いているときは、EVに何の曇りもない。しかし、あなたが仮に製薬会社の研究所で、これから何年かかるか判らない新薬開発プロジェクトをやっているとしたら。あるいは、本社で『意識改革プロジェクト』なる漠然としたテーマを総務本部長から与えられたら、どうだろうか? 

世の中のほとんどのプロジェクトは、最初はスコープを規定するフェーズからスタートする。そして、このフェーズだけで数ヶ月も、へたをすれば1年以上もかかるのである。この間ずっと、EVMSは進捗報告に、無力だ。

第二の問題点は、もっとずっと深刻である。EVMSでは、全てのタスク(アクティビティ)にコストを配布してそれを積算する。その結果、クリティカル・パス上に乗っているタスクも、そうでない雑多なタスクも、すべてコスト配分の重みで評価される。したがって、クリティカル・パスが遅れていても、他の多数のタスクが予定よりも進行していれば、プロジェクト全体は滞りなく進んでいるかのように見えるのである。重大なスケジュールのリスクを見逃しかねないのだ。

いや、そればかりか、請負業者の場合は、この性質を逆に利用して、顧客へのレポートを粉飾することができる訳だ。プロジェクト全体は遅れているのに、どうでもいいアクティビティだけを急がせて、進捗率を稼ぐことができてしまう・・・

最後の問題点は、EVMSではマイルストーンに重みを賦課するのが難しいことだ。進捗はタスクの出費だけで評価される。だが、それのどこが問題なのか?

それは、たとえば「基本設計完了」というマイルストーンを考えてみればわかる。プロジェクトマネージャにとって、基本設計をユーザと開発チームとが承認することは、きわめて大きな意味を持つ。これによって、今後の不確定性とリスクをかなり減少できるのだ。心理的には、25%とか30%の達成感がある。

しかし、大きなプロジェクトになればなるほど、それ以降の構築/製造フェーズでの費用割合が大きくなる。相対的に、基本設計段階でのBudgeted Costは25%どころか、ずっと小さな比率しか持てなくなってしまう。基本設計完了で、進捗が7%だとか言われて、あなたは満足だろうか?

どうしてこのような不合理が生まれるのか。それは、皮肉なことに、アーンドバリューがコストしか計っていないからである。実は、全てのタスクは、コスト(原価)とは別に、それがもたらすバリュー(価値)を持っている。ふつう、設計は大きな付加価値の源泉である。同時に、基本設計の完成は、プロジェクトが難しいリスクを一つ乗り越えたことを意味している。だから、基本設計のバリューは、そのコストに比べてずっと大きいのだ。そして、だからこそ、人はそこに大きなマイルストーンを認めるのだ。

EVMSをこれから導入しようという人は、これらの問題点を十分理解した上で、賢明な使用法を見いだされるよう望みたい。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-17 23:21 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

一点集中型アプローチの限界

以前、「ムツゴロウさん」こと畑正憲氏の作った、子ども向けビデオの「動物大好き」シリーズを子供と一緒に見ていたら、面白いエピソードが出てきた。犬と猫の、対象物への関心のあり方が、こんなに違う、という話だ。

まず、道ばたの雑草“ネコジャラシ”を一本ひっこぬいて、穂先を猫の目の前にぶらぶらさせてやる。猫はすぐ前足でそれをつかもうとして、じゃれてくる。誰でもやったことがあるだろう。畑正憲によると、猫は、目の前に興味ある物体があると、ただそれだけにすべての関心と注意を集中させる性質を持っている。その他のものには見向きもしなくなる。そして、その穂先にだけ手を出そうとする。

一方、犬は全く違う。畑正憲は同じネコジャラシを、犬の鼻先にぶらぶらさせてみる。犬もそれに興味を持って、手(前足)を出したりするが、しばらくすると少し後ろに下がって、全体をじっと見る。そして、今度は、穂先ではなく、彼が手でもっている茎の方を口でくわえて、ぱっと奪いとってしまうのだ。

畑正憲いわく、「犬は興味の対象を手に入れるための、総合的判断がうまい」。穂先がダメなら、その形状を見て、茎をくわえることを考える。それでもダメなら、今度は飼い主の畑正憲に甘えて、「ちょうだい。」というポーズをするだろう、という。

これを見ていて、なんだかこの2種類のアプローチは、人間の思考パターンの分類にも使えるなあ、と思った。一点集中型(“猫型”)と、総合判断型(“犬型”)のアプローチ。対象物へのアプローチにかんする二つのタイプは、人間の二種類のタイプを表しているようで、面白い。たとえば、アメリカ人と日本人である。

アメリカ人と仕事でつきあってみると、彼らはかなり徹底して、分業的・組織的にターゲットにせまるやり方をする。ターゲットの性質や構造をいろいろな角度から分析して、それを達成するにはどうするか、計画する。そして、その計画通りいくように役割分担と指示系統を決め、現実が計画から少しずれようとも、あらかじめ線を引いたとおりに、なかば強引に物量で攻めていく。いかにも“犬型”の総合判断によるアプローチだ。

もともと犬の祖先の狼は、集団で狩りをする生物だ。彼らは獲物との空間的距離を計りながら、計画的・分業的に追いつめていく方法をとる。こうしたやり方は、十分な配員さえできれば、個人個人の技量の差があっても、そこそこのレベルで結果を得ることができる利点を持っている。そのかわり、現実が計画からかけ離れてしまっても、フィードバックが効きにくい(アジアの小国とはじめてしまった戦争が泥沼に陥っても、彼らはすぐに軌道修正できない)。MRPによる生産管理みたいではないか。

一方、日本人は、そもそもあまり計画を信用しない(製造業の中には、「計画はずし」などということを指導するコンサルまで実在する・・)。対象物があったら、その動きをじっと見て、身をかがめながら待ち、あるタイミングがきたら全力でそれに突撃する。そして後先考えずに、しゃにむに追いかける、という訳である。まさに“猫型”の、一点集中型のやり方ではないか。

一点集中型アプローチの利点は、動く対象に向かって、臨機応変に追随できること(フレキシビリティ)だ。猫はもともと、森の中で小動物を捕獲して生きている、半夜行性の生物だ。一点集中はそのために必要な特性だった。じっさい、計画の立てにくい不定型な仕事は、日本人の方がうまくマネジメントできるような気もする。しかし、このやり方は、個人個人の能力にかなり依存する弱点がある。

無論、こうした比較は、ある程度強引にパターン化して描写している。実際には米国人だって一点集中になることもあるし、日本人だって総合的判断を行なう。しかし、全般の傾向としては、このようにふるまうよう、学校でも社会の中でも構成員を訓練しているのではないか。日本の教育システムにおける入試制度なども、『一点集中』の代表例のようだ。

日本人集団を見ると、一点集中主義は、集団全体で同じ方向に顔を向ける、一種のブーム現象をうみだす。若い女性のファッションにおける流行だけではない。産業界でも同様で、ERPが良いとなれば猫も杓子もERP導入、中国生産だとなれば皆がなだれをうって大陸入りを果たそうとする。ERP導入や中国生産で成功する条件や手順を、「構造的・総合的」に分析してとり組もう、官民や業界が分業して戦略的に達成しよう、などという“犬型”アプローチはあまり聞かない。

もう一つの例は、日本のマス・メディアの報道の仕方だろう。英文紙「Japan Times」の投書欄などを読めば、よく外国人(主に英米人)が、“日本のメディアはなぜ同じ話題ばかり取りあげ続けるのか”という批判を投書している。たしかに、芸能人覚醒剤スキャンダルならそのニュースだけを何日間も報道し続け、新型インフルエンザ問題となれば連日その問題ばかり議論する。しまいにはいいかげん、視聴者の方がその話題に飽きてきてしまう。

なぜそうなるかというと、理由があるのだ。もともとマス・メディアは、どれだけ多くの視聴者を獲得できるかで競争する。もし今、A・B・C・Dの4種類のトピックがあり、視聴者の関心が、4:3:2:1割ずつあったとしよう。すると、いずれのメディアのチャネルも、最大の関心をとれるAの話題を選択しようとする。このため、結果としては、すべてのチャネルが同じ話題Aを報道することになってしまう。その上、各チャネルは猫型メンタリティにしたがって、同じ話題を継続的に集中して報道したがる。つまり、マス・メディアは本質的に、一点集中になりやすい存在なのだ(メディアの選択肢が多い米国や、民放TVが少ない英国では、チャネルは専門分化しているため、この現象がおきにくい)。

一点集中と総合判断は、どちらも利点と短所を持つ。その両方を、うまく使い分けていければ、一番賢いやり方だろうと思える。しかし、我々の社会では、文化の傾向として「一点集中」を選びがちなのに加えて、マス・メディア本来の性質がそれに輪をかける危険性を孕んでいる。そのことを我々は、どんな社会的問題を考える際にも、忘れるべきではない。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-13 18:29 | 考えるヒント | Comments(0)

工場計画論(4) 4つの生産形態

前回は、「製品(の在庫)をどこに置くか」という話題をかいた。今回は、「原料や部品の在庫はどこに置くべきか」という話を書く。

あれっ? タイトルと話の中身が違うじゃないか--そう思われた方もあるかもしれない。『生産形態』ってのは、すなわち受注生産か見込生産か、という分類だろ? 

だが、これでいいのである。生産形態とは、「在庫を何の形で、どこに用意しておくのか」という問題に対する対処方法の種別に、一対一で対応しているからだ。

議論に入る前にまず、理解しておいてほしいことがある。生産システムとは「需要情報というインプットを、製品というモノ(あるいは製品に実現された付加価値)に変換してアウトプットする仕組み」を指す、という基本概念である。工場設計論とは、すなわち生産システムの設計論に他ならない。

その上で、「見込生産」からおさらいをしておこう。見込生産とは何か。それは、製品需要を“見込んで”生産する形態である。JISは、生産者が、市場の需要を見越して企画・設計した製品を生産し、不特定な顧客を対象として市場に出荷する形態、と規定している。ここで重要なポイントは「需要の見込み(demand forecast)」、「自社設計の製品」、そして「不特定顧客」である。

見込生産は、実需が発生する前に、製品を作ってしまう。必然的に、「製品在庫」が生まれる。この在庫は、まだ特定の出荷先に紐づけされていない(未引当在庫)状態にある。不特定顧客向けなのだ。需要に応じて、その製品在庫の中から引き当てて顧客に納入していく。見込生産を英語でMTS=Make to Stockというのは、この理由による。Forecast Productionなどとはいわない点に注意してほしい。

日本語の「見込」というのは、なかなかフレキシブルで含蓄の深い言葉である。英語に直すとForecastだが、forecastには「予測」という語も対応する。予測の方が科学的で客観的な語感がある。しかし「見込」というと、なんとなく人間の判断がこもった匂いもするではないか。計画=予測+意志決定、という式から考えると、見込は予測より計画の側に近い。

これに対して、受注生産とは、顧客が定めた仕様の製品を生産者が生産する形態、とJISは規定する。だが、これを読んで、あれっ?と感じなかっただろうか。見込生産の定義と対称型になっていない。「不特定顧客」や「需要の見込み」はどこへ行ったのか。完全を期すならば、特定な顧客を対象に、確定した需要に応じて、顧客の要求・設計した製品を生産し出荷する形態、としなければおかしいではないか。

そう。実はここに、日本の生産管理思想の混乱した点が見えるのだ。たとえば、考えてみてほしい。年に数台しか売れない、ごく特殊な仕様の超高級スポーツカーがあったとする。これをディーラーに買いに行くと、“注文をいただいてから工場で生産にかかりますので、あと3ヶ月半お待ちいただくことになります”と言われる。これは受注生産なのか見込生産なのか? JISの定義では、どちらにも当たらない。

受注生産を英語では、MTO=Make to Orderと呼ぶ。こちらの方が直接的で分かりやすい。注文に応じて生産する。だから超高級スポーツカーはMTOである。あるいは、あなたは海運王で、豪華客船を一隻造ってくれ、と造船会社に注文する。すると2年後に、それは堂々とドックから進水式を挙げるだろう。こちらは、あなたの要求に応じて、生産者が設計したものだ。これも受注生産のはずである。

実は、受注生産は、その設計行為が注文後の作業に含まれるかどうかで、2種類に分かれるのである。すでに出来上がっている設計にもとづいて、単に確定した需要(=注文)に応じて生産に取りかかるタイプを、「繰返し受注生産」とよぶ。超高級スポーツカーは、これである。

一方、顧客の要求仕様にもとづいて、個別に設計してから作る、豪華客船のようなタイプを、「個別受注生産」と呼ぶ。「個別受注生産」を別名、「受注設計生産」とも呼ぶ。英語ではETO=Engineer to Orderである。プラントなどで用いる圧縮機・冷凍機など産業機械類も、多くはこの種類にあたる。

ちなみに自動車部品や電子材料などは、「繰返し受注生産」である。これらは基本的に顧客指定の仕様品である。日本では、自動車産業や電機産業が製造業の花形だと思われており、そのサプライヤーに位置する部品メーカーが多い。JISが受注生産を「顧客が定めた仕様」と規定したのは、おそらくこの影響ではないだろうか。

そもそも、「生産システム」に関する冒頭の定義を思い出してほしい。インプットとしての需要情報の起点は、必ず顧客なのだ。需要情報には、数量や時期のみならず、「どんな仕様で」も含まれる。これを明確に図面でもらうか、暗黙のうちに自分で企画するか、設計主体の差は、その違いでしかない。

だが、この際だからはっきり言っておくが、日本の場合、自動車部品や電子部品メーカーのほとんどは、需要数量に関しても、確定した受注などもらっていない。あるのは「翌月内示」と「引き取りかんばん」なのである。「かんばん」は一種の分納の仕組みであって、発注書ではない。内示の数字と引取量の合計は、一致する保証など無い。だから、自動車部品メーカーというのは、「顧客の定める仕様の製品」を「需要を見込んで」製造し、うっかり作りすぎてしまった分は在庫として自ら抱えるしかない立場なのだ。作ったものは特定顧客用だから、転売もきかない。これを「受注生産」と呼ぶべきなのかどうか、多少疑問さえ感じる。

それでも、顧客指定品の「繰返し受注生産」の場合、需要はかなり見込みが立つ。そこで、生産者側も材料手配などの準備が事前にできる。したがって「繰返し受注生産」では、部品原材料の形で在庫を持っておいて、需要に応じて製造する形態になる。見込生産のように、製品在庫を持つ必要が無い分だけ、過剰在庫のリスクは少ない。ただ、受注から納入までのリードタイムの中に加工組立の製造が入るため、少し納期が長くなる。

「個別受注生産」では、設計自体が事前に済んでいないのだから、もはや在庫は持ちようがない。注文を受けてから魚を釣りに行く、気の長い料理屋の状態である。在庫リスクは最小だが、納入リードタイムは最大となる。

そして、工場を計画する時は、どこにどのような量と種類のストックを置くのかが、非常に大きなポイントとなる。だから、これまでくどくどと、サプライチェーンや在庫や生産形態の話をしてきたのである。

ところで、「見込生産」「繰返し受注生産」「個別受注生産」は、在庫リスクと納入リードタイムのトレードオフ関係が成立していることが分かる。では、ちょうどいい最適なバランス点はないのか、という疑問も出てくるだろう。これに対する一つの答えが、まだ説明していない4番目の生産形態=「受注組立生産」なのである。だが、また例によって長くなりすぎた。「受注組立生産」についてはまた別の機会に取り上げることにしたい。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-09 23:37 | 工場計画論 | Comments(0)

計画作業の中心とは

計画の本質は何か--毎日の仕事として計画立案作業にたずさわっている人でも、あらためてこう問われると、なかなか答えにくいものだ。生産計画をはじめ、販売計画・輸送計画・在庫計画・調達計画・外注委託計画・等々、製造業でつくられる計画の種類は非常に多い。製造業とはまさに「計画だらけ」で動いている業種だとも言える。

そんなの製造業でなくても当たり前じゃないか、無計画・なりゆきまかせでいい商売なんてあるわけない、とお思いだろうか。では、免許の代書屋や消防士や漁師が「本日の業務計画」を立てている姿を想像してみるといい。何となくおかしな気がしないだろうか? もう少しふつうの企業の例をあげるならば、たとえば請負の中小土建屋だったらどうだろう。入札の勝敗が分からない時に、どんな計画を立てられるのか。

むろん、こうした職業の人たちだって、仕事の見通しというものは持っているだろうし、その日その時の道具立てや道筋を考えているだろう。漁師だったら、どの程度の水揚げを達成したいか、そのためにはどういう仕掛けを用意してどこの海を回ればいいか、判断しているはずだ。入札だって、どういう業者と組んで、どんな価格で攻めるべきか考えている。ただし、こうした判断はいわば「目標」の設定と「戦略」の選択であって、「計画」という言葉を使うと、なぜかちぐはぐな感じを受ける。

なぜならば、計画とは、ある程度確実に予見される将来にかんする意志決定だからだ。逆にいうと、変動しやすい外部環境に依存するタイプの仕事、その環境の予測に主軸がおかれるような判断は、「計画」という言葉になじみにくい。天気予報のアナウンサーが、『明日の天気の計画は、晴ときどき曇りです』といったら、誰だって変だと思うだろう。消防士は『明日の計画は火事2件です』とは言うまい。

だとすると、製造業はなぜ「計画だらけ」なのかも分かる。製造業には工場がある。製品を持っている。倉庫と、設備と、工員と、資材業者をかかえている。こうしたもの全ては、天気のように毎日くるくると変わるものではない。つまり、とても先が読みやすいのだ。また、意志決定によって変えられる範囲もおのずから定まっている。予見可能性と、意志決定範囲がバランスしているとき、それは「計画」の名にふさわしいものになる。

計画立案作業の中心には、「予測」と「意志決定」の二つの柱がある。私は著書「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」の中で、これを表すために、

計画立案=予測+意志決定

という等式風の表現をしてみた。そして、意志決定の範囲(=自由度)が、予測の変動範囲を凌駕するとき、それは「実行可能な計画」となる。(逆の場合、すなわち予見のぶれが大きすぎて、どんな意志決定でも追いつきそうにないとき、その計画は「絵に描いた餅」になる)。

計画を持たず、環境の変動に対して成り行きで追随するような業務形態は、主体性の乏しい、受動的reactiveなやり方だ。こういった無計画な「成り行き管理」を脱して、計画重視の業務形態にかえていくこと。すなわち、受動的な生産管理から能動的proactiveな生産管理へと移行すること。そのために、計画能力を向上させ、必要ならばAPSなどのツールを導入すること。それが今の製造業に必要なことなのだと、私は信じている。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-05 23:41 | サプライチェーン | Comments(0)

韓国・中国との競合を考える ~PMAJ新春セミナーの話題から

先週の1月30日、日本プロジェクトマネジメント協会(PMAJ)の『新春セミナー』に招かれ、パネル・ディスカッションに参加した。「プロジェクトマネジメント最前線の状況と近未来」という、自分にとっては大きすぎるテーマでのパネルだったが、一応好評のうちに終えられたと思う。他のパネラー(Panasonic、竹中工務店、富士通など)の方の発表力に負うところも大きかったのだろう。

パネルでは幾人の方から興味深い質問をいただいた。その一つは、「今後、日本のPMはグローバル化が必須だろうが、10年後の成功をかちえるためにこの2、3年でしておくべき課題は何だと思うか」という問いかけだった。こんな問いには他に適任がおられるだろうが、海外売上比率90%以上のエンジニアリング会社勤務だから、私にお鉢が回ってきたのだろう。とっさに思いついた答えはこんなものだった:

「語学力の問題は、心配していません。これは各個人の努力でどうにでもなる問題です。海外ジョブでは異文化摩擦の問題も生じるでしょうが、それもいくつか経験すれば慣れると思います。私が気になるのは、そのもっと奥にある問題、つまり企業対企業の、責任範囲とか権利義務関係とか、そういった事柄に対する感覚・慣習の違いに、マネジメント層が気づいていないらしい点です。これは最近いくつかの企業の例を見聞きして感じたことで、あるいは思い過ごしかもしれませんが。

海外プロジェクトにおける企業間の界面は、いわば透明だが硬い樹脂でできている、『ハードな界面』みたいなものです。これに対して、日本国内の企業間は、半透明で柔らかい『すり合わせ型の界面』で、お互いに長いつきあいと、多少の貸し借りやナニワ節の通じるウェットな関係です。これに慣れた者が、互いを峻別する透明でハードな界面に気づかず正面からぶつかってしまうと、壁に投げられた卵みたいにつぶれやすい。そこで、自分を守るための法務・商務を含めたマネジメント・テクノロジーが必要になってきます(また、ハードな界面は同時に自分を守る盾にもなります)。

これは“リスク・マネジメント”の一部だと言えば言えるのでしょうが、自分が知らないこと、「無知」や「未知」へは対処する方法がありません。日本は'90年代一杯までは輸出型で強い立場でしたが、これからは外需中心で受注型海外ビジネスがメインになってくるはずです。だとしたら、この2、3年のうちに、異質な界面を意識してきちんと仕掛けを作り上げる必要があります。これさえうまくやれば、日本企業は基本的にポテンシャルがありますから、十分海外でも成功できると思います。」--というようなお答えをしたと記憶している。

もう一つ海外プロジェクトに関連して出てきた質問は、(まあ昨今の時勢から見て当然の問題意識だろうが)「韓国企業や中国企業との競合はどの業界でも厳しさを増しているが、彼らの強みは何だと思うか?」との問いだった。私自身は、中国企業とはオフショア開発の形でつき合ったことがあるが、韓国企業とは一緒にやった経験がない。だから、自分の見聞きした範囲内で想像すると、という断りつきでこう申し上げた:

「韓国企業と我々とどこが違うのかは私も十分は承知していない。ウォン安円高のせいで彼らに価格競争力があるのだ、という意見があるが、もはやエンジニア・クラスでは時間単価にはほとんど違いがない(韓国の方が高かったりする)。だから、これは説明になっていないと思う。

もしどこかに差があるとすれば、それは“決断に要する時間が短い”ということかもしれない。彼らは我々より、物事を決めるスピードが速いように見受けられる。少し前に、中国系アメリカ人のコンサルタントに言われた言葉が、『日本企業はStep decisionができない』だった。つまり、すぱっと決断できない。ぐずぐず、ゆっくりとしか変われない。

リスク・マネジメントという概念は普及したが、いつの間にかそれは時間をかけてリスクを回避するためだけの方法論になっていて、リスク・テークするためのリスク・マネジメントはされていないように感じられる。そこが心配な点だ。」--と、こんな感じでお答えした。

なお、あえて話題には出さなかったが、昨年12月に、中東アブダビで2兆円を超す原子力発電所の競争入札があり、韓国勢が日米企業群やフランス勢をおさえて勝利したばかりだった。これを見れば、韓国企業は数年以内にかなり先端的な技術力・マネジメント力でも肩を並べてくるだろう。エンジニア・クラスの「能力」だけではもう差がつかなくなるのは必定である。

これに対して、中国企業は、まだプロジェクト・マネジメントの組織的能力の点で差があるように感じられる。個人個人の力量は、とくに優秀なクラスの技術者は、大したものだ(そして優秀な人材がまたいくらでもいるのである)。しかし、各人が自分のテリトリーの中だけで最大限、力を発揮しても、縦横がきちんとあっていなければプロジェクトは成立しない。この点が、『砂の民』と揶揄される中国人にとっての課題なのかもしれない。

とはいえ、今日、中国でプロジェクト・マネジメントの学科や専攻科を持つ大学・大学院は110校以上ある。これに対し、日本ではいまだわずか1大学のみ(千葉工業大学)である。このままでは、中国にも追いつき追い越される可能性がある。もっと日本の大学にも頑張ってもらいたいところである。

最後に、マトリクス型組織と人材育成に関する質問があった。ジェネラリストとしてのプロジェクト人材をどう育てるか、またそのモチベーションは、という問いかけである。プロジェクトに関する組織形態には、ファンクショナル組織・タスクフォース組織・マトリクス型組織の3種類があるのはよく知られている。エンジニアリング会社はそのうち、「強いマトリクス型組織」をとっている数少ない業界の一つであるから、こうした質問になったのだろう。質問された方は製造業系のIT企業だったので、こんな風にお答えした:

「強いマトリクス型組織というのは、固有技術を専門とした機能部門と、管理技術を主体としたプロジェクト部門という二つの柱を持っています。そして後者の部門は、プロマネ見習い・兼・雑用係であるところの『プロジェクト・エンジニア』という職種の人で成り立っています。彼らはジェネラリストですが、固有技術を全く知らない者が管理だけできるわけはない。だから、必ず一度は設計なり現場なり機能部門にローテーションして、専門性を磨くキャリア・パスを考えます。

それでも、プロジェクト・エンジニア全員がプロマネになれる訳でもありません。だから今、我々はプロジェクト・マネジメントという業務をもう少しWork Breakdownして、コスト・エンジニアリングだとかスケジュール・コントロールといった専門機能に分解し、それぞれ専門家を育成することも取り組んでいます。

そもそもマトリクス型組織は、理想的な点ばかりではありません。一人の人間に上司とプロマネの“二人のボス”ができてしまう。この二人が同じ意見ならokですが、見解が食い違ったら目も当てられません。そのとき、どちらの指示に従うか。私の勤務先をはじめ、エンジ会社というのはだいたい、『プロジェクトに最終的な責任を持つのはプロマネだから、その指示に従う』という風に行動します。自分の意見がプロマネと違っていたら、一応主張はするでしょう。しかしプロマネが「俺が責任とるから、右を向け」と言ったら、とにかく右を向く。これが基本的な態度です。

そういう意味では、私はプロジェクトを方向付け、成り立たせていく上で、従う側の『フォロアーシップ』が非常に大切だと思っています。よく、プロマネの『リーダーシップ』ばかりが強調されるきらいがありますが、私は『フォロアーシップ』との両輪がそろわないと、プロジェクト組織としては機能しないと思っています。製造業では一般に、機能部門長が非常に強い権限を持ちます。その中で『フォロアーシップ』をどう確保するかが、カギになるのではないでしょうか」--とまあ、言葉はこんなに流暢ではなかったかもしれないが、お話ししたように思う。

こう書くと私一人がしゃべっていたみたいに聞こえるが、各講演者とも非常に面白いお話が聞けて、その後の懇親会でもずいぶん勉強させていただいた。こうした業種を超えたイベントを持ち得ることこそ、日本のPMの世界の一番の強みなのかもしれない。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-03 00:20 | プロジェクト・マネジメント | Comments(1)