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書評:「MBAが会社を滅ぼす」 H・ミンツバーグ著

「MBAが会社を滅ぼす」 --マネジャーの正しい育て方
ヘンリー・ミンツバーグ著 (日経BP社)


カナダ・マギル大教授のミンツバーグは、経営学の大御所であるが、また異端の経営学者でもある。彼を有名にしたのは「マネージャーの仕事」という研究で、実際の企業の管理者のやっているワークは、経営学の教科書が想定していることと大幅に違っている、との事実を明らかにした。

その彼は、現代のMBAのあり方に疑問をもち、ビジネススクールで教えるのをやめ、この数年間は自らが中心になって「IMPM」という新しい企業マネージャー向けの教育カリキュラムを組織実践するようになった。本書はその彼の考えを述べたもので、前半は現代のMBA批判、後半はIMPMの思想を書いている。全体として学術書の体裁をとっているが、後半は自分の発案であり客観的にかくのは難しい、と率直に認めている。

ただしその分、前半の現代MBA論は広範多岐にわたって調査事実をつみ上げ、総合的批判となっている。歴史、教育内容、教育方法、受講者層、受講動機、企業内での処遇にわたって功罪を論じ、問題点多し、と結論する。

ミンツバーグの批判の根幹は、こうである。マネジメントの成功は、アートとクラフトとサイエンスがそろったときに生まれる。アートは構想力、クラフトは職人的スキル、サイエンスは分析力のシンボルである。しかし、実務経験の浅い数年の若い学生の集まるビジネススクールでは、結局サイエンスだけを身につけることになる。ハーバード型のケースメソッド教育も、スタンフォード型の理論中心教育も、実際にマネージャーをつくる役には立たない。その結果、“MBAになってビジネス世界で追越し車線に移りたい”と野心を持つ若い人間を、分析偏重の『計算型』かアーティスト気取りの『ヒーロー型』マネージャーにしてしまう。こうした連中が、米国だけで10年間に100万人も世に出されるのだ。

その結果生まれた現象は何か。米国大企業のトップの4割はMBAだ。しかし経営者としてのMBAたちの成績簿は、決してよくない。その理由は細々とした雑事を切り捨て、現場を無視して、解決策の方程式を振り回しすぎる点にあった、とミンツバーグは事例分析を通して示す。

それでは、良いマネージャーを育てるには、どうしたらよいのか。マネジメントの根幹には「人を動かす」ことがある。本書の後半は、より実務経験の深い受講者を対象にした、分散的かつ多文化的なプログラムによるIMPM教育の思想について述べている。私自身、このコースには非常に興味を持った。これが理想で最善の教育のあり方かどうかはすぐに結論できないが、ミンツバーグらの試みは、あきらかに経営学者が教壇から教えるよりも、ミドルマネージャーたちが相互に触発研鑽しあえる仕組みを作とうとしている点に特徴がある。

訳書のタイトルは攻撃的だが、原題の"Managers not MBA"は、もっと建設的だ。彼の建設的な提案を、我々の社会はどう遇するべきなのか、もっと考える必要があるだろう。日本が、米国流の計算型ビジネスに浸食され尽くす前に。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-29 23:41 | 書評 | Comments(0)

読者諸賢! これがマネージャーの仕事だ

1月。誰もがおめでたい正月気分の残る中、マネージャーは多忙な仕事を始める。会社を出て、新年の得意先回りに出かけるのだ。本年もよろしくお願いします。昨年はお世話になり、とくに某の件ではいろいろご迷惑もおかけしましたが、今年は気を引き締めて進めますので、是非またよろしくお願いいたします。営業部員も同行するが、品質トラブルで嫌みを言われるのは技術屋の方だ。いずれにせよこの不況の中、一社でも顧客を逃したら今期の目標達成はあり得ない。もっとも訪問先の2人に1人は、業界の新年会に出かけていて不在だが。それでも名刺を置いてくるのが大事な仕事だ。

2月。昨年から続いていた仕事が製作段階に入って火を吹いた。基本設計にミスがあったのだ。誰が設計書をチェックしたんだ! と叫びたい声をぐっと飲み込む。後ろ向きのことを言っても仕方がない。部下の責任はいずれ自分の責任だ。とにかく人を追加する算段を考えなければならない。といっても人材は慢性的に不足している。別のジョブから引きはがして入れるしかあるまい。そうなるとあちらの納期に影響するが、その時は客先に頭を下げにいくしかないだろうな。

3月。年度決算の締めである。なんとか今期の数字は達成しないと自分のキャリアが危ない。下請けに繰り返し催促の電話を入れて、必要な機材をそろえる必要がある。とにかく31日の深夜12時までに出荷すれば売上は立つのだ。いざとなったら、出荷所の時計を11時55分に止めてでも、今期中の納品を達成したい。事業部内も大忙しなのに、加えて、今期の部下の人事評定をしなければならない。面談する暇さえないというのに。それより自分の評価が心配なのだが。

4月。新入社員が入ってくる。自分の部署にも久しぶりに配属がある。さて、ところで何をどう教育したものか。とにかく仕事の中身が5年前10年前とはすっかり変わっているのだ。今や仕事の大半は外注管理だ。しかし技術を知らないと上手な管理はできない。やはり一から設計を教えないとダメだろうな。とはいえ、その教育資料も作成しなくては。

5月。連休明けからようやくエンジンがフル回転しはじめる。去年の連休はシステム移行のトラブルで半分以上は出社だったが、今年は休めて良かった。ただし新規受注がさっぱりだ。展示会に力を入れて顧客を呼び込むしかあるまい。

6月。株主総会に続く組織改定の人事が気になる。でも自分の足下ではジョブの納期遅延が発生しそうだ。やはり2月に人を抜いたのがきいたらしい。おまけに海外の外注工程のトラブルで、納入されても使い物にならない。至急作り直させるか、あるいはこちらで引き取って改造するか。検討の結果引き取ることにしたが、また人を追加投入することになる。それでも足りずに、自分でも久しぶりに詳細設計書を書くハメになった。おお、でもまだ腕前は衰えていないな。

7月。トラブル解決に大勢の部下を投入したおかげで、新規受注活動に手が回らなくなった。このままでは上期の受注高を確保できない。仕方なく、自分が営業活動を手伝うことになる。しかし、そうなると外出や出張が増えて、ますます受注ジョブの遂行管理が手薄になるのだが、電子メールでなんとか報告を出させてしのぐしかない。

8月。・・・いや、もうよそう。この調子で1年書いてみても、たぶん同じパターンの繰り返しになる。トラブルの火消し→人の投入→新規活動の停滞→四半期毎の管理事務→チェックの手薄化→トラブルの発生、というダウン・スパイラルの繰り返しだ。マネージャー本人は、必死で働いている。たぶん、残業代のつく部下よりも、時間的にはずっと働いているかもしれない。ということは、マネージャーの時間単価は、じつは実務担当者よりもずっと安いのだろう。

だが、このマネージャーはマネジメントなど何もしていないことに注意してほしい。マネジメントとは何か? それは人を動かして目標を達成することだ。字義通り読めば、たしかに部下を動かして受注した仕事をこなしているから、マネジメントしていると言えるように思える。しかし、マネジメントの仕事とは、先読みと組織化とリスクテークにあるのだ。このマネージャーは、いつ仕事の、技術の、あるいは業界の先読みをしただろうか。ひたすら外的事象に追われて、それに対応していただけではないのか?

マネジメントの仕事とは、変化する内部外部の環境に応じて、能動的に、自分と部下達の目標を作ったり、仕事のやり方を変えたりすることにある。それはちょうど、動物におけるの機能のようなものだ。自分から動いて、食物を探してとったり、外敵を避けたり、より良い環境を目指して移動したりする。その推測や判断や指示をするために脳はある。受動的に環境に適応するだけなら植物と同じだ。植物には脳はいらない。だから外的事象に対応するだけなら、植物的マネージャーだということになる。草食系ですらない。

「トラブルの火消し→人の投入→」にはじまるダウン・スパイラルのかわりに、マネージャーが作るべきサイクルはどのようなものか。それは、「環境変化の先読み→仮説を立てて計画→受注ジョブは無事に進行→人を新規活動に投入できる→新しい仕事が増える→人が増やせる→自分が火消しに飛び回らずに済むので考える時間ができる→環境変化の先読み」・・・という上昇のスパイラルである。

むろん、上述のマネージャー氏にだって、同情すべき点が無いわけではない。人をぎりぎりまで減らされているのも、やたら外注せざるを得ないのも、海外サプライヤーをつかうのも、自分が決めたと言うより「コストダウン第一優先」の会社方針がさせた事なのだろう。これは近年の日本の製造業では広く見られる現象だ。

それでも、このマネージャーは「自分はマネジメントしている」ときっと信じているだろう。なぜか? だって、名刺にマネージャーだとか課長だとか、そう肩書きがあるじゃないか。中間管理職の仕事がマネジメントでないとすれば、いったい誰がマネジメントしているのか? 部長だって、事業部長だって、火消しと定期的管理事務と営業支援活動が仕事の殆どじゃないのか。いや、常務だって、社長だって、どこが違うというのだ。

そう。だとすれば、そもそもその会社にはマネジメントは存在していないのである。マネジメントが存在しなくても、会社はいちおう(しばらくは)存続していける。それが機能部門から成り立つ組織というものなのだ。「しばらく」というのは、つまり、外部環境に変化がない間は、という意味だ。あるいは、変化があったとしても、それまでの蓄積があれば、累積損失が資産総額を上回らない間は、という意味である。なんだか業績が思わしくない、と思ってふたを開けてみたら、もう債務超過でした、という大企業の例を私たちはつい最近も見ている。その会社の人たちが働いてなかった、などという事はけっしてあり得ない。みな必死で働いていたのだ。だが、マネジメントが存在しない組織では、どんなに働いても、それはみな経済のエントロピーの中に消えていってしまうのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-26 03:38 | ビジネス | Comments(0)

書評 「旭山動物園の奇跡」

旭山動物園の奇跡


旭山動物園は、北海道旭川市にある動物園である。近年、急速に有名になり、首都圏からもツアーの目的地になっている。私も札幌から行って見たことがあるが、たしかに工夫があって、面白い。あまりお金はかけていないが、しかし動物をいかに興味深く見せるかについて、皆が知恵を出し合ってつくりあげた動物園という感じが受け取れる。

たとえば、ヒョウのようなネコ科の肉食獣は、半夜行性のため昼間はほとんど寝ているだけのことが多い。そこで、檻の下から寝ている姿を見上げることができるケージを作って、普段は見られない角度から見せるように工夫している。有名なホッキョクグマのケージそのほか、『見せる化』の知恵と工夫が素晴らしいのである。

本書は、この旭山動物園が、平凡な地方の小動物園からいかに変革を遂げて、今日の姿になったかをつづったドキュメンタリーである。とはいえ、その変革に至る道は平凡ではなかった。とくに平成に入ってからは、風評被害もあわせて入場者が激減し、10年近くもつづく「長い冬の時代」を経験する。

そもそも旭山動物園は日本最北で気候は厳しく、また本州から遠いため人口圏が小さい。赤字続きだから低予算でスター的な動物もいない。白クマ、ペンギン、アザラシ、チンパンジー、ニホンザルなど地味な動物がほとんどだ。もしも全国の動物園が一つのチェーン会社だったら、本社の経営企画部は真っ先に廃止売却を決めるだろう。マーケティングのプロの目から見たら、どう考えても「負け犬」の領分としか見えないからだ。

それが今や入場者数は上野動物園を抜いて、日本一になった。それは数々のアイデアの功績で、その内容は本書に詳しく書いてある。しかし、こうしたアイデアはいつ、どうして生まれたのか。それは、「長い冬の時代」に、“でも、動物園はこうあるべきだ”という『あるべき論』の哲学を従業員全員が練り上げ、あたため続けたことで生まれたのだ。

だから、きびしい逆境の時こそ、知恵と希望を捨ててはいけない、という教訓がここにはある。ひどく守りにくい教訓ではある。だが、哲学をもつ組織には、未来は必ずやってくる。この動物園が見せてくれた一番の展示物は、そうした人間たちの姿なのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-23 23:56 | 書評 | Comments(0)

ワーク・パッケージとは何か

WBSの最下位のアクティビティを、「ワーク・パッケージ」とよぶことは、プロジェクト・マネジメントをちょっとでも勉強した人は知っていると思う。いうまでもないが、WBSとは、プロジェクトのスコープ(仕事の範囲)を、アクティビティに階層的に分解し、それに整理番号を付番したものである。

『プロジェクト』という業務は、それ自体では大きくて漠然として理解もハンドリングもしにくい。そこで、それをコントロール可能な小単位まで分解するのである。“大きすぎる問題は、小さな部分問題に分解して片付けろ”というのは、欧米人の得意とする発想であり戦略である。非常に分析的なアプローチと言えよう。

プロジェクトを、複数のアクティビティに分解する作業は、ある意味で、地図の上のぼんやりした領域を、そのカバーする市区町村によって数え上げる作業にも似ている。「この病院のサービスする地域」と問われて、○○区、××区、△△市某町・・とリストアップしてみると、だいたいのその姿が見えてくる。同様に、プロジェクトがカバーすべき活動範囲を、アクティビティ・リストに作ってみる。それが、プロジェクトの姿(スコープ)の『可視化』の第一歩である。

アクティビティ・リストは、ふつう、次のような表になる。

(1) アクティビティ1、(作業内容の説明)、担当者=誰々、期日=○月×日
(2) アクティビティ2、(作業内容の説明)、担当者=某々、期日=○月△日
  ・・・・・・・   ・・・     ・・・     ・・・

このようなアクティビティ・リストを作成して、その表をもとに各作業の分担を決め進捗を追いかける--これは、もっとも原始的なプロジェクト・マネジメントのあり方である。まさに、イロハのイだろう。アクティビティ・リストも作らない(作れない)ようでは、「プロジェクトをマネジメントしている」とは言えまい。

さて、ところでこのようなフラットなリストのままでは、いろいろと運用上の不便が生じる。たとえば、「基本設計」というアクティビティを進めていくうちに、「移行段階の運用設計」というような、より細かな作業の必要性が急に浮かび上がってきたりする。この両者は、並列にならべるのは何だか落ち着かない。一種の包含関係にあるからだ。では、どうすべきか?

答えは、アクティビティを階層化すればいいのである。アクティビティの下位概念として、サブ・アクティビティを考える。「移行段階の運用設計」は「基本設計」の下位にあたるアクティビティである、といった風にである。言いかえるならば、アクティビティというのはプロジェクトと同様に、さらにアクティビティに分解できると考えるのである。アクティビティは自己相似的だ、とも解釈できよう。

こうして、プロジェクトの全体範囲を表すための階層的アクティビティの構造が定義できる。これがWBSである。ちょうど、「当病院のサービス・エリア」をより明確に示すために、市よりも下の町丁目レベルで数え上げをするようなものである。

ついでにいうと、このとき、アクティビティの整理番号は必須である。社員に従業員番号があるように、プロジェクトにおけるコントロールの対象は、何であれ重複のない整理番号をつける。こんな事はある意味、英米においては常識以前の問題であって、だから誰もわざわざPMBOK Guideになんか明記しないのである。

さて、そのようにプロジェクトを階層的にアクティビティに分解した結果を見た時、その最下位のレベルをワーク・パッケージと呼ぶわけである。地図が市町村・町丁目によって空白も重複もなく敷き詰められているように、プロジェクトの範囲は、ワーク・パッケージの総計になっている。

そして、各ワーク・パッケージにはそれぞれ、コストと、所要期間と、必要なリソースの情報が付随しているはずである。ワーク・パッケージのコストを集計すると、プロジェクト全体のコストになる。そしてコスト情報には、予定のコスト(予算)と実際のコスト(実績)が存在する。すなわち、ワーク・パッケージの意義とは、コスト・期間・リソースを集計し予実対比するためのアトムなのである。

このように考えると、ワーク・パッケージの『粒度』=大きさが重要であることが分かってくる。あるアクティビティは3ヶ月かかり、別のアクティビティは1日で終わる、というようなばらつきがある場合は、「粒度がそろっていない」と考えられる。粒度を適当にそろえる努力をしないと、コストや時間をコントロールしていく時の、集計の精度や意義が落ちていくのである。

じつは、ここがワーク・パッケージ作成の一番のポイントだと言っていい。というのは、アクティビティは(やろうとおもえば)いくらでも再分割していけるからだ。技術者は妙に律儀なところがあって、細かくすればするほど、“管理の精度が上がる”と信じたがる傾向がある。しかし、細かくしすぎると、むしろモニタリングやレポーティングの手間ばかりが増えて、管理のための管理に陥ってしまう。

たとえば、以前あるERPプロジェクトのWBSを見せてもらったことがあるのだが、全体納期は1年以上かかる大事業なのに、半日で終わりそうなアクティビティをたくさんWBSに書き込んでいる。そんなレベルまで、ほんとにプロマネさんはいちいち追いかけるんですか、と問いただしたくなる。私から見ると、それはワーク・パッケージというよりも、実装チェックリストの各項目のように思えたからである。

アクティビティ分解は、ある適切なレベルまでにとどめておく。そして、それ以下については、『デイリー・タスク』と見なして、各担当者にコントロールを委任しておく。これが、本来のあり方である。

そう考えてみると、ワーク・パッケージとは、「固有技術」と「プロジェクト・マネジメント」の境界面を示す、とも解釈できる。ワーク・パッケージよりも下部(内部)には、プロマネはもはや立ち入らない。そこはもはや、担当者による固有技術の世界なのである。PMの仕事とは、そこよりも上位の領域、すなわちプロジェクトのワーク・パッケージへの切り分け、その論理的な順序関係づけ、予算や所要期間の設定、リワークやフォールバックへの準備、そしてコンティンジェンシー・リザーブやプロジェクト・バッファーの設定などであろう。そここそが、管理技術としての「マネジメント」の範囲だと考えられるのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-20 23:56 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

「英語」の向こう側

先日、あるメーカーの方から、「エンジニアリング会社では英語能力の問題にどう取り組んでいるのか」という質問を頂戴した。指示と情報のやりとりだけで品質を管理しなければならないエンジニアリング業界においては、品質問題は技術者の教育と切り離すことができない、という話題に関連してでてきた質問だった。

日本のメーカーは、製造を海外に委託したり、工場を別会社化したりして、しだいにファブレス化・商社化の道を歩んでいる。必然的に海外とのやりとりが多くなって、外国語のコミュニケーションの問題に直面しているのだろう。そして現代においてはたいていの国で、便宜上の道具として英語が幅をきかせている。

私の勤務先自体では、TOEICの試験制度を利用して、研修の奨励や人事評価に結びつけている。TOEICがある点数以上になるまでは毎年の受験が義務づけられるし、また中間管理職のある等級に昇格するための条件にもTOEICの点数が用いられる。実際のところ国内の仕事しかしていない人にまで、この条件を押しつけるのは酷ではないかと個人的には思うのだが、会社の人事ルールというのは例外をあまりつくりたがらない。

しかし、外国人とのコミュニケーションで本当に大事なことは、TOEICの試験ではかれる能力よりも、一つ先の次元に横たわっている、と私は思う。それは、異文化への理解という能力だ--そんな風に、その方には答えた。

これだけでは少しわかりにくいと思うので、例をあげよう。数年前のことだが、米国のオイル・メジャーとのプロジェクトが始まったばかりのことだった。ある基本設計に関する技術的議論の中で、我々の側のだれかが、"Yes, but it is difficult."と答えた。すると、客先の米国人の一人が、こう言うのだ:「ぼくは前のプロジェクトでも日本企業と仕事をしたから判るんだが、日本人が"it is difficult"というときは、『それは出来ません』という意味なんだよな。」

打合はおかげで暗礁に乗り上げることなく、先に進むことが出来た。客先の米国人の一人が、異文化を理解する能力を、少しばかり持ち合わせていてくれたからだ。しかし、逆にいうならば、そういうシチュエーションでは、わが同僚は

"No. It is impossible."

と言うべきだったのだ。

NO と言えない日本、じゃないけれど、日本人は"Yes but" peopleだ。つねに"Yes, but..."と言ってしまう。日本のコミュニケーションのルールでは、何かを頼まれて「いえ、そんなことは出来ません」というと角が立ってしまう。「はあ、でもそれはちょっと難しいですね・・」と言って、相手の察しを待つ。しかし、英米人の世界は理がまさっている。Yesはyes、noはnoで、先に進んでいく。対話で感情的になってはいけないのだし、それで気を悪くするからうんぬんで、論理の道筋を曲げてはいけない、と彼らは考えている。

残念ながら、こうした事柄に対する理解は、かならずしもTOEICだけではうまく計れない。それに、外人相手はいつも同じとは限らないのだ。たとえば、フランス人と議論するときには、これではうまくない。"No, but you can work around this way.."と説明する方がよい。フランス人は、"no but" peopleだからだ。彼らは、『相手にも感情がある』ということを常に前提して会話をしている。おまけにラテン系の文化では、お互いのプライドを尊重し、相手のメンツをつぶさぬよう気をつけるからだ。

英語は英会話学校で学ぶことができる。英語は道具としてトレーニングで身につけることができるはずだ、と多くの人が信じている。それに反対はしない。しかし、他者の文化を理解し尊重することの方が、もっと重要なのだ。その相手が欧米であろうとアジアであろうと同じことだ。あいにく、エンジニアの教育の中には、そうした『異文化理解』の訓練が全く欠けている。したがって、自分の中に、そうした欠落があることを意識することが、まず外国人とのコミュニケーション能力を向上させる、最も重要な第一歩なのだ。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-15 22:45 | 考えるヒント | Comments(0)

工場計画論(3) 製品をどこに置くか

製造業とは、『ものづくり』をビジネスとする企業である。たいていの人は、そう信じている。そして、“ものづくりこそ日本の産業の真髄だ”、“製造業よ甦れ”みたいなスローガンがこの10年来、叫ばれてきた。日本経済が再び成長力を取り戻すには、やはりものづくりの生産性を上げることが重要だ、そんな主張を経済通から聞くことも多い。

でも、はたして本当なのだろうか。知人の経営コンサルタントから来た年初の挨拶メールの中に、「商社化しつつある日本の製造業を・・」という興味深い表現があった。たしかに、この10年間で、日本の製造業の姿は(その看板や見かけとは違い)ずいぶん変化してしまったと感じることがある。

その変化は、製品在庫をどこに置くか、という問題に端的に表れている。一般消費財を例に取ろうか。たとえば、あなたが衣料品を通販で注文するとする。その製品は、どこから送られてくると思われるだろうか? 多くの場合、静岡とか、あるいは北陸などから発送されてくるにちがいない。--そこが繊維製品の産地だから? 違う。そこに、製品在庫を置いてあるからだ。なぜなら、荷揚げに適した港があるからである。

国内で一般消費財を作っている場合、人口の多い大都市圏が、主要な流通販売先となる。したがって、メーカーの製品在庫は、大都市圏に近い工場で作ってせっせと販社に回すか、あるいは工場が遠隔地の場合は、大都市の物流倉庫に積み上げておくことになる。さらに日本製品の輸出が好調だった時代は、工業地帯に付属する港湾、つまり東京港や大阪港などから貨物を出荷する。こうして、大都市圏と、工業地帯と、陸運・海運の拠点は、ほぼ一致することになる。だから日本は都市に人口も何もかもが集中していったのである。

ところが今や日本は、部品材料も最終消費財も、アジア各国から大量に輸入する国になっている。では輸入貨物はどこに陸揚げするのがよいだろうか。まさか全国の大都市に順に寄港して、少しずつ荷揚げする、などという非効率なことはできまい。どこか一ヶ所に陸揚げして、いったん物流センターに保管し、必要に応じて配送する方が合理的である。

そこで浮上してきたのが(たとえば)静岡県西部だ。清水港という24時間対応の国際貨物港がある。東名高速など陸路も充実している。そして土地代も人件費も安い(いまどき誰が土地代の高い大都市に倉庫を借りたがるだろうか?)。本州の中央に位置して、東京・名古屋・大阪など工業地帯・消費地への配送にも便利である。

こうして、新幹線に乗っていると、新富士から静岡・掛川・浜松までの沿線で、のどかで風光明媚な田園地帯に並ぶ近代的な物流センターや流通加工施設を見ることができる。この地域は今や、実は日本の製品在庫のメッカであり、サプライチェーンの一大ハブなのである。そしてそれは、日本の製造業が海外生産に大幅に頼っていることと関係がある。

そもそも、ご存じかもしれないが、「アパレルメーカー」と呼ばれる会社は、製造業と思われているかもしれないが、実質は流通業であって『ものづくり企業』ではない。こうした企業は、製品のデザインと、販売と、(場合に応じて)材料生地等の購入支給を行う。誰に支給するのかって? 「縫製工場」に対してである。実際の縫い物仕事(つまり組立加工と同等の「ものづくり」)は、中小零細の縫製業者に下請けで作らせる、これが衣料品世界の構造である。

そして縫製工程は、極めて労働集約型の産業である。だから早くから、人件費の安い東アジアに外注先をシフトさせていった。台湾、香港、中国、ベトナム・・・といった国々である。まあ日本国内より縫製の仕上がりが多少野暮ったく、雑になるが、仕方がない。それより「安さが大事だ」と流通側は考えたのである。かくして、今やスーパーの衣料品から高級ブランドの製品まで、のきなみタグに「中国製」と書いてある時代が出現した。

つまりアパレルメーカーは早い話が、製品企画と仕入れ販売のみを行っている「商社」なのだ。そしてこの構造は、他の業界にも急速に広がっている。あなたが手にして飲んでいる飲料、それも東南アジアで製造充填されたものかもしれない。あなたが読んでいる文庫本、それもアジアで組み版され印刷されたものだろう。かりにそれらが国内で製造されたものだとしても、もう製品在庫は静岡や北陸の物流センターに送られ、集中管理されるのだ。だったら、工場をわざわざ大都市圏の近くに持つ必要はないではないか?

こういう訳で、日本の工場立地はある意味、二極分化を起こしつつあるように思われる。製品が複雑で研究開発のスピードが重要な場合は、「研究開発型工場」として大都市圏に戻りつつあり、一方、製品が単純で製造技術が確立してしまったものは、どんどんと都市圏から離れていく。無論、それは製品の数量や、重量あたりの単価によっても異なる。いずれにせよ、今日の工場計画は、サプライチェーン(物流拠点)の配置論をはずしては、考えられない段階に突入したのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-12 22:46 | 工場計画論 | Comments(0)

パネルディスカッション「プロジェクトマネジメント最前線」出席のお知らせ

お知らせ:

来る1月30日(土)全電通ホールで開催される、日本プロジェクトマネジメント協会主催の『新春セミナー』において、
 パネルディスカッション 「プロジェクトマネジメント最前線の状況と近未来」
にパネラーとして出席します。

ご興味のある方は、よろしくご来聴ください。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-11 23:20 | Comments(0)

二重貨幣を空想する

昔、「自治の東大、自由の京大」という言葉があったそうだ。戦後しばらくの事である。これは東西二つの大学の文化・校風の違いを表しているともいえる。が、同時に、京都には自治が無く、東京には自由がない、という意味にも解釈できただろう。

この言葉の真偽はともかく、日本が東西で何かと違っているのは事実である。60年安保で国中が政治的に沸騰していたころ、反体制側の人の中には、どうしても日米安保条約を政府が強行するならば、大阪に勢力を結集して「人民議会」をうちたて、東京政府の無効を宣言すればいいと主張した人たちがいたらしい。

私はときどき、このプランが実現されていたら世の中はどんなになっていただろうかと空想することがある。日本が糸魚川・静岡構造線のあたりで東西に分断され、別々の国になっている。東日本には親米的な政府が富国強兵・中央集権の武断政治を布いており、西日本には議論好きな多党制の親大陸的な政府が連邦的運営を行なっている。そんな気がする。もともと、中世初期から室町時代にかけて、事実日本には東西二つの権力が共存していた歴史を持つのだ。そうなってもあまり不思議はない。

国家権力を樹立したら、誰でもまずやるのが法律の制定と独自通貨の発行である。東が円のままならば、西側は『』でも使うか。東西の交易はどうしたって不可避だから、次第に双方に相手方の通貨が出回るようになるだろう。ヨーロッパでも国境近くの人々は、財布の中に複数の通貨をまぜて持っていることが多い。

こういう状態になったときに、私の頭に浮かぶ疑問は、こうだ:東西の通貨で、それぞれ買えるものと買えないものがあるとしたら、それは何か? 

たとえば灘の生一本は円では買えないし、信州のそばは両では買えまい。むろん、これぐらいならば別段人生に異常はないが、それだけではすむまい。米は東の方が産地が多いから、西では値段が高くなろう。工業製品はどうか。鉄や石油はどうせ資源を海外から輸入に頼っているから差はあるまいが、精密機械・電機の主力工場の位置などを考えると、西日本はやや不利である。セメント、紙などもそうだ。

一方、学芸、娯楽、教養の面になると関西の方が有利である。ノーベル賞授賞者数ではまさっている。書画や芸能の質も高い。日本画など円ではあまり買えなくなるだろう。こうしてみると、東日本は文明、西日本は文化に強いという傾向が、二つの通貨制のもとでは明確になりそうだ。なお、ここでは「人間に利便を与えるものを文明と呼び、人間にアイデンティティを与えるものを文化と呼ぶ」という言い方に従っている。

さて、ここで空想はもう一段飛躍する。文明用の通貨と、文化用の通貨が区別されて、両者が交換できなかったら、社会はどんな風になるだろうか。たとえば、会社からの給料は通貨が二本だてになる。労働生産性に応じた分は文明通貨で支払われ、他方、知的成果や教育費や責任のストレス・長時間労働などにたいする補償の手当は、文化通貨で支払われる。そんな風になったらどうだろうか。いま、両者はあいまいにされたまま、まぜこぜに支払われている訳だ。自分の給料の内、どちらの支給額が多くなるだろうか。

無意味な空想だ、と思われるだろうか。しかし、これは現実に小規模には起こっているのだ。「コミュニティ通貨」という形で、である。コミュニティ通貨というのは、地域社会において、自分が奉仕して貢献したボランティア活動の時間をためておいて、一種の貯金にできる制度だ。ただし、この「貯金」は、やはりボランティア的な仕事に対してしか使えない。たとえば老齢時の介助や介護、啓蒙やレクリエーション活動、といったたぐいのサービスにのみ、ひきかえ可能なのだ。

こうしてみると、オープン・ソフトウェア運動やインターネットというものが、「もうひとつの通貨」にいかに類似しているかに気付く。LinuxやApacheは無料である。しかしソフトウェアの世界では、大きな価値が、ある。これは、文明世界の鉄やセメント用の価値とは、たぶん少しばかり別のものなのだ。オープンソフトが、既存の会計原則の上ではどうにも扱いにくい鬼っ子であるというのも、まことに無理のないことなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-07 23:10 | 考えるヒント | Comments(0)

時間の中に生きる

久しぶりに、自著『時間管理術』を読み直してみた。古い友人から、「偶然手に取ってみたら案外面白かった」とメールをもらったからだ。そして、おかしなことだが、自分でも案外面白かった(笑)。この本を書いてから3年経つが、中心となるアイデアや技法は無論すべて覚えているものの、ストーリーづくりや話法はけっこう忘れていたからだ。まあ、本の著者なんて案外こんなものである。

自分が読んだら面白いだろうなと感じるような本を書きたい、といつも思っている。共著・編著を含めたら1ダース以上の本を出してきたが、うまく書けたかどうかは、時間をおいて読み直してみるとよく分かる。時間をはさむと、自分はいつも少しだけ他人になるからだ。

私たちは忘れる能力を持っている。嫌なことも、良いことも忘れていく。もちろん、私たちは記憶し続ける能力だって持ち合わせている。それがあるから、一人の人格として継続性を持ちうるのだ。もし一晩寝て起きるたびに、直近の過去のことを一切忘れていたら、私たちはアイデンティティ=自分が誰であるか、を持ち得ないだろう。そんなSFじみた世界では誰も、魂の不滅、なんて宗教的な問題は考えるまい。自分が誰なのか、考える手がかりもないのだから。記憶の連続性こそ私たちの自我の骨格を形作っている。まれに脳の損傷などで長期記憶をもてない人が医学的記録に出てくるが、こうした人も、若い頃の記憶だけは保っていて、だから人格として成立しているのである。

しかし、すべての出来事をずっと記憶し続ける能力があったら、どうなるか。便利だと思う反面、つらい体験や恥ずかしい失敗もすべてリアルに覚え続けているのは、かなり苦痛だろう。なにより、すべての過去が強弱なく同等にならんでいる心的世界では、個性や特徴も生まれてこないにちがいない。記憶の濃淡やめりはりがあって、はじめて意見や好みも出来上がるのである。記憶の濃淡とはつまり、大事なことを覚え、大事でないことは適度に忘れることを意味する。適度な記憶の連続性と、適度に忘れる能力。こうして私たちは自分をとりまく世界に構造や意味を与え、適応していく柔軟性を獲得するのだ。

『時間管理術』のエピローグでは、自分のキャリア・パスのスケジューリングについて悩む若い質問者を登場させた。仕事を続けてキャリアを磨きたい。しかし留学してもっと勉強もしてみたい。留学がキャリアの断絶を意味するなら、早いうちが良いのかもっと後が良いのか、という問いかけである。女性ならばさらに、出産や介護といった事象もキャリアの蓄積に対するリスクとなりうる(この部分の記述は、日経文庫の編集者が慎重を期して、周囲の女性に問題ないかどうかレビューをしてもらった)。

これに対して、タイム・マネジメントの解説役であるY氏(主人公S君の叔父で、引退したコンサルタント)は、こう答える。「それを決めるためには、仕事の面から見た人生の目標と、自分に与えられた時間や境遇の制約を考えなくてはなりません」--これは無論、タイム・マネジメントの一般的な方程式である。その“与えられた時間”をイメージするために、彼は『人生時計』を紹介する。

『人生時計』というのは、0歳の誕生が朝6時に相当し、10歳が朝の8時、20歳が午前10時という風に、10年を2時間刻みで換算した時計である。45歳が、人生の午後3時を示し、90歳で、深夜零時にいたる。1年が12分、1月が1分、12時間でほぼ1秒に相当する。今、自分の年齢が何時何分にあたるかを考え、引退までの時間の長さと、キャリア・パスを考えてみるのである。何十年もの時間を想像するのはむずかしいが、時計の文字盤ならばイメージがわく。そして1、2年のキャリア中断は、10分か20分ほど席を外す程度にしか相当しないのだから、あせらずに大局から計画を立てなさい、とY氏は説明するのである。

この人生時計は一応私の創案だが、似たようなことを考えた人は他にもいると思う。『時間管理術』を読んだ人から、「ギクリとしました」と感想をもらうこともあった。たいてい私たちは、こうした大局観を忘れているからである。なぜ忘れるのか。それは「忘れる能力」のためではない。実は忙しすぎて、考える時間がないからである。仕事も確かに大事だろうが、自分のキャリア・パスを考えることはもっとずっと重要なはずである。それなのに私たちは毎日、“緊急だが重要でないこと”に追われて、“緊急でないが重要なこと”を考えるゆとりをとれなくなっている。

時間管理術の最終的な目的は、考える時間を確保することにある。考えている時間とは、傍から見ると、「何もしていないように見える時間」である。現代社会にビルトインされている様々な“時間どろぼう”(ミヒャエル・エンデの小説「モモ」の登場人物)が、私たちの考える時間を、片端から奪っていってしまうのだ。

私たちは時々立ち止まって、手を休めて、考える必要がある。そういう意味のことを、「静寂の価値」でも、「エントロピーを下げる」でも、「パンのみに生きるにあらず」でも、私は本サイトで折にふれて繰り返してきたように思う。でも、もう一度書こう。私たちには、考える時間が必要なのだ。

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by Tomoichi_Sato | 2010-01-03 23:56 | 時間管理術 | Comments(0)