<   2009年 12月 ( 6 )   > この月の画像一覧

クリスマス・メッセージ--「学び」と「気づき」と「見通し」のある社会を

Merry Christmas !

Lessons Learned”という言葉をはじめて聞いたのは10年ちょっと前のことだったろうか。米国系メジャーオイルのためにプロジェクトをしていたころだ。ちょうど私が責任者として担当していたMES関連のサブ・プロジェクトが完了した時に、相手側の責任者が、「じゃあ、君が帰国する前に、Lessons Learnedをまとめておこうじゃないか」と言ってミーティングに呼ばれたのである。

ミーティングの場では、客先側と、私たちエンジニアリング会社側とで、それぞれ良かったと思う点、失敗だったと思う点などを、ざっくばらんに挙げることになった。まずかった点は、次の機会にはどうするべきかについても、一緒に考えた。客と受注側では立場も見解も異なるわけだが、まあプロジェクトが終わる頃は一応リラックスして話もできる。そこから、次回への教訓を汲み上げて、リストにまとめて文書化しておこう、というのが彼らの言うLessons Learnedであった(Lessons & Learnsという場合もあり、略してLLとも呼ぶ)。

米国の大企業には腹の立つ点も少なくないが、感心するところもいくつかある。知識や情報を文書化するのを面倒くさがらない点は、その一つだ。おかげで文書が山のようにできあがるが、それをインデックスをつけて体系的にファイリングしていく。情報処理の基本的スキルが、しっかりしているのである。だからこそ、業務もITに乗せやすいわけで、その点は自分たちとはずいぶん違うと感じる。

私の知っている日本企業はどこも真面目で製品もきっちりしているが、情報の蓄積・ファイリングとなると自前で体系を持っているところはあまり知らない。設計書・指図書とか発注書といった指示帳票は、さすがに小まめに作るが、仕事の最中に得られた様々な「ふりかえり型」の知識や教訓は、不定型なメールか会議での発言の形で発せられるだけで、それは風のように消えていってしまう。情報のフローはあるが、ストックにならないのである。「気づき」が“ぼやき”にしかならない。過去は過去として水に流して、未来だけを指向している--よく言えば、そういう態度であろう。だがそれは、経験に学ばない態度と言うこともできる。

学び」とはいったい何だろうか。こんな問いを考えるのは、最近大学でも学生達に教えるようになったからかもしれない。かりに、授業は熱心に聞くがぜんぜんノートをとらない(あるいはノートを持っていない)学生がいたら、学ぶ姿勢に問題があるといえるだろう。過去を決して振り返らず、前だけ見て進む人は、本当は学びには向かない。学びとは、新しい知識を得ることだけでは成り立たないからだ。少なくとも、時に立ち止まって手を休め、自分が得たはずの知識を、くりかえし反芻し消化して、はじめて自分のものになるのである。それは、鉄棒の逆上がりの方法を一度聞いただけで、鉄棒ができるようになる訳ではないのと同じだ。

年の瀬になると、私たちは「忘年会」という行事に精を出す。“今年一年の労苦は忘れて、また来年フレッシュな気持ちでやりましょう”との趣旨だ。それにしても、「忘れること」に私たちは随分のエネルギーをつぎこむ社会だな、と感じてしまう。同じ行事は英語ではYear-end partyだろうが、そこには「忘れる」という意味は全くない。中国や韓国ではどうか知らないが、欧米では“何かを記念する(memorial)ためのパーティ”はあっても“忘れるためのパーティ”というのは非常に考えにくい。彼らのエネルギーは、もっぱら過去の教訓を(それが良い体験であれ辛い体験であれ)覚え続けておくことにつぎ込まれる。

人間の脳は、いやな体験の記憶をなるべく底に隠すように働く。だから、過去のことを覚え続けておくことは、辛いことでもある。しかし、それを乗りこえて初めて、「大人」になれるのだという認識がそこにはあるのだろう。過去の「気づき」を学ぶことで、ようやく未来に対する「見通し」が自分のものになるのだ。

世界の多くの場所で、ひととき皆が手を休めて、来し方行く末を想う季節に入った。私たちも、今年一年気づいたことをゆっくりと思い起こして学びなおし、来るべき新しい季節を見通せるようになりたい。そのために、どうか地上が平和でありますように。
by Tomoichi_Sato | 2009-12-25 23:39 | Comments(0)

R先生との対話 -- 競争力はどこにあるのか


また、R先生のお宅にお邪魔している。先生はなかば引退された経営コンサルタントで、人生の大先輩でもある。

--今年の初めに、先生が『今回の不況は100年に一度などと言われているが、半年で終わる』と予想されるのを聞いた時は、正直驚きでした。こういっては何ですが、たしかに日本以外、とくにアジアでは、半年でほぼ抜け出しました。でも、日本だけは依然としてひどい状況です。何が原因だと思われますか。

「君は私の言葉を正しく聞いていないね。私は、『適切に対応できれば半年で抜けられる』と言ったんだ。“終わる”と“抜ける”では全くちがう。終わる、じゃ台風か何かの自然現象が通り抜けるのを待つみたいで、主体性が無いだろう? 適切に対応できれば、抜ける。好況不況は一種の企業の同調現象だ。あなた任せで横並びでは抜け出せないんだ。」

--じゃあ、日本企業にとって適切な対応とはどんなものだったのでしょうか。

「ほら。すぐにそうやって“正解”を聞きたがる。自分の頭で考えなさい。企業のシチュエーションは個別にみな違うのに、他人が与えた同じ“正解”に群がっていたら、同調現象のダウンスパイラルが強まるばっかりだろう? 『汝自身を知れ』--これが最大の処方箋だ。自分の強みを知る。それを伸ばす努力をする。そして、自分の身の丈にあったサステイナブルなビジネスをするべきだ。」

--でも、何かヒントはいただけませんか。

「じゃあ逆にたずねるが、君の勤務先の強みは何か、説明してみたまえ。一応利益は出しているんだろう? その競争力の源泉は何だ。」

--それが実は、自分でもよく分からないのです。少なくとも、価格競争力じゃありません。最近は韓国企業の追い上げが厳しく、円高ウォン安もあって平場の闘いでは負けてしまいます。技術力の差も詰められてきています。」

R先生は大げさにため息をついた。
「君みたいな中間管理職を抱える経営者には同情するよ。自分達の強みが分からなかったら、強みを伸ばす方法だって分かるわけが無いじゃないか。自分達がなぜ、顧客に選ばれているか。この点をじつは、たいていの日本企業はちゃんと理解していない。自分達の製品が良いからだとか、技術力が高いからだとか。こういうのは技術屋のプロダクト・アウト型の錯覚だ。あるいは逆に、価格が高い点が自社の弱点だ、などとすぐ言いたがる。これは、安けりゃ売れるはずだ、というダメな営業マンの言い訳にすぎない。同じ製品をどれだけ高く売るかが、営業の才覚だろう? 客の言い値で売るだけだったら、営業なんか別に不要だ。」

--じゃあ、何が強みなのでしょうか。

フレキシビリティ製品の安定性だよ、一般には。君のところが具体的にどうかは知らないけど、日本企業は一般にフレキシビリティに優れていて、客のわがままについてきてくれる。納期だとか、仕様だとか、ロット数だとか。そして製品の質が安定している。アメリカや中国の企業からモノを買ってみたまえ。技術が高かったり、価格が安かったりするが、そのかわり自分達の都合は一切曲げない。彼らはいわばプッシュ型なんだ。それにひきかえ、日本の企業はプル型というか、顧客とのすり合わせ能力で生きている。」

--なるほど、たしかに。でも、その『すり合わせ』が故に、設計も工場も変更だらけで、生産性が上がりません。検査も全品やれば手間がかかります。どうしても高コスト体質になってしまいます。

「だからその分、高く売るべきなんだよ。私の知っている限り、収益をきちんと上げている日本企業はみな、商売もしたたかだ。フレキシブルに、良い品を安定して供給するが、がっちりお客からお金ももらって、取りはぐれたりしない。だから成り立っている。フレキシビリティが商品であり、価値の源泉であることを知っているからだ。もちろん、安値のところとムダな競争はしない。」

--安いものがほしい、という顧客は、出来合いの商品を買ってくれ、という訳ですね。

ムダな闘いを避けることこそ、マネジメントの最大の仕事なんだ。戦略とは戦いを略すことだからね。失注のコストほど、見えにくいが大きなコストはない。」

--うーん。でも、なぜ日本の製造業はフレキシビリティと品質の安定性に優れているのですか?

「それを知るためには、日本の産業史を理解しなけりゃならん。日本の産業革命は19世紀半ば、明治維新以降のことだ。すでに欧米列強は植民地をアジアのすぐ近くまで広げてきた。歴史の教科書でならっただろ。」

--はあ。

「そこで政府は急速な富国強兵政策をとった。すなわち、製鉄所をつくり、軍艦を建造し、港湾を整備し、鉱石や石炭を運ぶために鉄道を引いた。工場を電化し、電話線も全国にひいた。こういう仕事は官需で、ほとんどみな民間企業が請け負った。つまり、現在名前をよく知られている日本の大企業、○○重工、××建設、△△造船といった企業は、自前の才覚と経営努力だけで成長したのではなく、富国強兵と官需で育ったのだよ。官需なるが故に、支払は良いが、わがままで、品質にうるさい。そこで、彼らもそれにつきあうだけの能力を持つ必要があったし、同じ事を下請けにも要求したんだ。」

--じゃあ、官需がずっと続いている限り、問題ないはずですね。

「そうはいかん。道路だって空港だって電線だって、もうすでに飽和状態に近い。鉄鋼も石油も、もう供給過剰気味だが、それは成長の結果なのだから、当たり前だ。それなのに財政出動だ景気対策だといって、誰も通らない道路を造り続けるから、借金が増えるばかりで経済が上向かないんだ。もう立派な能力を持っているんだから、従来とは別の道を切り開くべきだ。つまらぬ安値競争だの派遣切りだのにうつつを抜かすかわりにね。」

--ムダな闘いをしない、というお話は分かりますが、そうすると、たとえば不利な新規分野や海外分野などから手を引くことも含めるんですね。

「ダメだと分かった事業をやめることは失敗ではない。ダメな事業を見栄張って続けることこそ、失敗なのだ。やめることの方が、勇気も努力もいる。それをやることこそ、マネジメントの仕事ではないか。」

--選択と集中、ということですか。

「やめる対象には、既存の本業も入っていることを忘れないでくれ。『選択と集中』という言葉はしばしば、かつての本業の成功体験にしがみついて、新たなチャレンジから手を引くことの言い訳に使われる。決断をしないことの言い訳だな。」

--手厳しいですね。

「もう、残されている時間は少ない。このままずるずると土俵を割っていったら、遠からぬうちに三流国に転落するよ。日本企業のマネジメントの最大の問題は、決断が遅すぎることだ。決めないリスクより、決めるリスクをとれ。それこそがただ一つ、生き残る道なのだ。」
by Tomoichi_Sato | 2009-12-18 23:57 | ビジネス | Comments(3)

本サイトの訪問者が20万人を超えました

大勢の方に読んでいただき、うれしく思っています。
これからも、私なりに面白いと感じる話題を提供しつづけるつもりです。

今後ともよろしく。
by Tomoichi_Sato | 2009-12-17 00:04 | ビジネス | Comments(0)

システムが崩壊するとき

先日、ずいぶん久しぶりに、諏訪湖のそばを通った。車で通り過ぎただけで、岸辺に立ちよることはできなかったが、湖面には昔より人の親しむ気配があった。

諏訪湖は私にはなつかしい場所だ。私は大学院時代、生態系シミュレーションの研究をしており、諏訪湖はその主な対象だった。80年代の初頭のころ、信州大学理学部に付設されている臨湖実験所に、実験調査とフィールドワークのために何度か滞在したことがある。モーターボートを借りて、水質や底泥のサンプルをとるために湖の中をぐるぐると回ったものだ。

諏訪湖のまわりは、長野、いや日本の中でも、かなり古くから開けた地方だった。すでに古代、出雲の植民地として、奈良などと同じ時期に住民の定着と農耕が始まったとされている。諏訪地方は山間の盆地で、湖は広くて平坦、最深部の深さでも6mない。だから見かけは直径3km以上の大きさとはいえ、水量は多くない。それでも、天竜川の源として、周囲の耕地を潤し、また冬のワカサギをはじめ、豊かな漁獲で地域を養ってきた。

その諏訪湖はしかし近年になると、長らく水質汚染に悩んでいた。汚染といっても、特定の企業が有害な廃液を流しこんだためではない。そういうタイプの公害問題は、いちおう70年代の後半には社会の意識も進んだために、落ち着いていた。

80年代以降の水質問題は、ある意味でもっと深刻で困難なものだ。それは、湖の生態系自体がバランスを崩してしまい、淡水性の赤潮(「水の華」と呼ばれる)が発生して魚類が死滅する現象だった。私の研究テーマは、観測データの分析と実験、そして計算機シミュレーションを通して、赤潮発生の原因を探り、対策を考えることだった。そして、私たちが突き止めたその原因は、驚くべきものだった。それは、湖にそそぎ込む栄養分が多すぎて、生態系が正のフィードバック、つまり無限ループに陥ったためだったのだ。

湖の生態系は、単純化して説明すると、水中の無機栄養分と日光を元に植物プランクトンが成長し、それが増えると補食者の動物プランクトンが発生し、さらに動物プランクトンを餌に魚類が育つ。そして魚類の死骸は水中や底泥のバクテリアが無機質に分解し、さらに底生動物がそれを片づける、というリサイクル(物質循環)の構造になっている。どれかが増えすぎると、捕食者や分解者が現れてブレーキをかけ、全体のバランスをとるように、生態系というシステムはきわめて巧妙に出来ている。これは負のフィードバック・システムだと考えることができる。

ところが、このシステムには処理可能な容量の限界があった。私たちの研究室は、化学工学的な手法を用いて物質の収支を計算し、夏以外の通常の季節では、河川から諏訪湖に流れ込む無機栄養塩(とくに燐)は底泥に吸着されていくことを推定した。植物の必須栄養素は窒素・燐酸・カリ、と中学校で習ったと思うが、ふつうの湖沼水中では窒素とカリはふんだんにあり、希少な燐酸が植物生育のスピードを決める。

ところが、調べてみると夏の諏訪湖では奇妙なことが起こっている。水深の浅い諏訪湖では、表層近くの水は温められて軽くなり、底層に近い冷たい水と混じりにくい、成層化現象が始まる。この状態で無機栄養分が過剰に流れ込むと、それを肥料にした植物プランクトン(とくに藍藻類)は、光の豊富な表層でさかんに成長する。藍藻が水面を覆うと、光が水中に届きにくくなるばかりか、光合成で生成する酸素をみな水面から逃がしてしまう。すると、次第に水中は酸素不足になってくる。藍藻類の死骸が低層水に沈降してくると、バクテリアはただでさえ少ない酸素をつかって、死骸を分解しようとする。

こうして、低層水から溶存酸素が払底してくると、驚くべき事が起こる。それまで燐を吸着してくれていた底泥から、無機還元反応によって燐が溶出してくるのだ。放出された燐は水中を拡散して、ますます表層の藍藻を増殖させることになる・・・。酸素の払底で水中の魚も底生動物も死滅して、湖はひたすら黄緑色の植物プランクトンだけに覆われていってしまう。

これが淡水性赤潮の発生原因だった。本来は自己バランスを保っている生態系のシステムが、多すぎる栄養をそそぎ込まれると、勝手に自己崩壊していくのだ。これを「富栄養化現象」と呼ぶ。そこには、誰も悪役はいない。誰かを指弾するとしたら、それは諏訪湖のまわりに住み着いて、農地にせっせと肥料をまくすべての人間だ。肥料は雨水とともに河川に流れ出し、湖にそそぎ込む。だが、湖がその栄養分を処理して魚類を養ってくれる能力には、限界があったのだ。

ここからどのような教訓を引きだすか、それは自由だ。多すぎる栄養は生態系のバランスのためにはならない。多すぎる情報も、人間の心のバランスを崩すかもしれない、あるいは、多すぎる富は企業や社会を変質させてしまうかもしれない・・。

忘れないでほしいのは、湖の生態系自体が無くなったわけではないと言うことだ。存在はしている。しかし、それはあまりにも単相で単調であり、もはや人間に益を与えてくれない。多様性こそが豊かさの鍵なのだ。

長野県は長い年月と多くの費用をかけて、諏訪湖の水質を改善しようと苦心を続けてきた。しかし、悪化させた年月よりも、改善にかかる年月はずっと長い。システムを分析する人は、このことを決して忘れてはいけないのである。
by Tomoichi_Sato | 2009-12-15 22:49 | 考えるヒント | Comments(0)

時間のムダとり--スケジュールのサバを切り捨てる

締切(納期)のある仕事をする時には、できるだけ早く着手するべきか、あるいはぎりぎり間に合うタイミング(ジャスト・イン・タイム)に着手するのが正しいのか。その答えは、スケジューリングが何を主目標とするかによって違う、と前回書いた。もし顧客が納期遅れを嫌うのみならず、予定より早く納品されることも好まないような場合、あるいは、自社内の仕掛在庫や作りすぎのムダを極小化したい場合は、ギリギリのタイミングで作るのが正しい。しかし、早く出荷すればするほど競争に有利な場合や、成果物が情報のように保管場所をとらず材料の仕入れも無い場合などは、最早着手が望ましい、ということになる。つまり、ケース・バイ・ケースなのである。

「正しい答えはどれか?」という問いをビジネスで出された場合、あわてて答えを出さずに、まず、“正しいとは、誰にとって(あるいは、どのモノサシにとって)の話だろうか?”と逆に自問すべきである。私たちは学校時代から「正解はどれですか」という出題に慣れすぎている。正解がただ一つだけあると、みな思い込みがちだ。だが、ふつうの社会には、望ましい答えが場面に応じて複数ある。なぜなら、企業活動はさまざまなトレードオフ関係で満ちているからだ。「短期的利益 vs. 長期的安定性」はその一例だし、「在庫低減・対・リードタイム短縮」もそうだ。いや、複雑な協働システムでは、トレードオフが本質的に付随すると言ってもいい。隠れたトレードオフを見抜けるかどうかが、マネジメントの能力として問われている。

そうしたトレードオフを見逃す危険性は、「納期設定」という行為自身にも内在している。他者に早く仕事をしてもらうためには、納期を示して合意する必要がある。しかし、いったん納期の合意ができてしまうと、その相手は納期に間に合うようにギリギリまで着手しないようになる。納期より前に完了する可能性は逆に減ってしまう。これを『学生シンドローム』と呼ぶわけである。だからといって、納期無しで仕事を依頼したら、いつまでたっても完了しない可能性がでてくるだろう。

学生シンドロームが生じるのは、(スケジューリング理論の用語でいうと)フロート日数を持つアクティビティに限られる、とも前回書いた。フロートとは余裕日数のことである。納期マイナス作業期間、と考えても良い。しかし、正確にいうと、もう一つのケースがある。それは、作業期間自体に余裕が隠されている場合である。「サバを読む」と俗に言うが、合意された賞味作業期間の中に、サバ(ムダ)が入ってる。そのようなケースは、アクティビティの作業期間に大きな幅(ばらつき)があるときに起きやすい。

もともと、どんなアクティビティでも、必要な正味作業期間にはばらつきがある。それが3週間±1日、といった程度の幅なら、かなりばらつきが小さいと言えよう。しかし、最短で1日、最長で3週間、平均で1週間、といった状態だと、必要な期間の読みが難しい。このようなときに、サバが入り込むのだ。納期を約束する側に立てば、平均で1週間と言っても、ときには2週とか3週かかることもあるのを知っている。3週間かかるケースは全体の 10%くらいだとしても、「作業の納期はいつにしますか」と聞かれたら、「3週間後」と答えたくなるだろう。平均値は1週間なのに。

もちろん、平均値の1週間を納期で約束してしまったら、どうなるか。2回に1回は、納期に遅れる可能性があるわけだ(正確に言うと、平均値ではなくメディアン=50パーセンタイル値で、半々となる)。いずれにしても、それではメンツ丸つぶれである。そこで、安全確実な90パーセンタイル値の3週間をオファーすることになるのである。こうして、平均すると2週間のアイドルタイムが、プロジェクトの中に発生してしまう。

どうしてこうなるのか。根本原因は、企業内において「納期遅れは罰せられるのに、納期より早く完了しても報酬が与えられない」という事にある。すなわち、納期確約についての評価が非対称で、遵守時の報酬体系が無いからなのである。これは外注や購買においてもしばしば同じだ。

ということは、もし仕事を早く進めたいなら、「早く終えたら得をする」という環境や約束をつくることが大事だとわかる。と同時に、納期を決める時は、安全確実な90%値ではなく、平均の50%値をもとに基準を設定すべきなのである。とうぜん「遅れたら罰する」方は、少し弱める必要がある。

90%値と50%値の関係は、ばらつきの分布の形に依存するので、一概には言えない。分布の統計を取って変動係数(σ/μ)が分かれば少しは判断の参考になるし、あるいは最小値・最大値・平均値の組でもいい。ただ、90%値は50%値の3倍程度になりがちだ、と考える人も多い。

このことを根拠に、プロジェクトの納期設定のあり方に全く新しい思想を持ち込んだのが、TOC理論の創始者ゴールドラット博士だ。彼は、クリティカル・パスに属するアクティビティの所要期間は、すべて50%値で設定しろ、と主張する。むろん、そんなことをすれば、プロジェクト全体が納期を達成しない確率が50%になってしまう。そこで、彼は適正な日数分をプロジェクト末尾において、「プロジェクト・バッファー」とし、これで納期達成率を上げるべきだ、と主張する。

そのバッファー日数であるが、通常の90%値で計算した納期(たとえば10ヶ月だったとしよう)から、50%値で計算した納期(こちらは4ヶ月だとする)を引いた差の半分をとれ、というのが彼の提案である。この例では(10-4)÷2=3ヶ月である。で、結局、全体では4+3=7ヶ月の工程とするのである。これがTOC理論で言う「クリティカル・チェーン・プロジェクト・マネジメント」(CCPM)の根幹のアイデアである。

ゴールドラット博士の思想を、私流に言いかえると、次のような手順になる。

(1)冗長な部分をみつける
(2)それを捨てる(正味分のみにする)
(3)必要最小限の冗長性を付け加える

これは、実は情報理論やデータ通信で行っている技法と全く同じだということがおわかりだろうか。情報から冗長な部分を見いだし、それを取り去る(情報圧縮)。そして最小限の冗長性をあえて付加する。これは外乱・ノイズから情報を守るための技術なのである。

同じ考え方は工程(スケジュール)にも、そしてコストにもつかえる。というか、使わなくてはならない。これが、マネジメント・テクノロジーというものの典型的な姿なのである。
by Tomoichi_Sato | 2009-12-11 21:44 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

決めない人々

請負契約の仕事を長年やっていると、プロジェクトの成功・不成功はかなりの程度まで、顧客の性格に左右されるなあ、という感想を持つようになる。性格と呼ぶのは不正確かもしれない。個人個人の人柄の問題というよりも、顧客が組織文化として持っている性質である。それは端的には、「タイムリーに決断できる」か、「なかなか決断できない」か、という違いだ。

なかなか決断してくれない顧客に当たると、大変である。プロジェクトでは判断に迷うケースがいくらでも出てくるからだ。どんな設計も完全ではないし、市場の環境条件は変化するし、ユーザニーズも変わるし、法規制だって変わりうる。「ライバルが革新的な技術を出してきた」「現状を調べてみたら昔の設計図とかなり違っていた」「製品の販売予測が計画当初よりも弱気になってきた」「エンドユーザが操作法の変更に強く抵抗している」・・・『では、どうするべきか?』というのが、プロジェクト遂行途上で突き当たる問題だ。

ところが、“決めない顧客” に当たると、NOとは言うがYESとは言わない。問題は決断されないまま、時間だけが過ぎて行く。どんどん納期のタイムリミットが近づいてくるのだ。しかたなく、「これで行きましょうよ」と提案を作り、良かれと思って仕事を進める。そうすると、後になって「やっぱりやめて、あっちにしてくれ。」と言われる。コストもスケジュールも大きなインパクトを受ける。

決めない人々には、共通する3つの性質がある。(1)まず、現状から変化するようなリスクに異様に敏感である。だから、リスクのある決断での自分の責任を極力回避したがる。(2)つぎに、部門間で言うことが違う。各部署が、きわめて部分最適化されていて、自分に都合のいいことだけしかOKしない。(3)しかも、この種の客先にかぎって、決して追加を認めたがらない。

不思議なことに、決める人か決めない人かは、ほとんど会社の体質によって定まっており、個人の性格には依らない。企業の中で、「決めない人」が一人いたら、他の人もだいたい「決めない人々」だと思ってよい。まあ、たまに例外がいて、その決断力のある人だけが有能だったりするケースもあることはあるが、同じ会社の社員というのは、ほとんど同じだと思った方がよい。なぜ、そうなるのだろうか? 

その理由は簡単だ。「決めない人々」の働く会社には、決断の基準となる『仮説』が共有されていないからだ。以前、「仮説検証のトレーニング」にも書いたとおり、戦略とは組織レベルで仮説を共有することだ。「市場はこうしたニーズを持っているはずだ。この製品にはこうした利点がある。だからこんな作り方や売り方をすべきだ・・。」 仮説とはすなわち、賭けである。賭けである以上、当たりはずれがあり、リスクがある。だが、それは会社レベルで選び取られたリスクなのだ。

そもそも会社とは、なんらかの目的を共有した組織であるはずだ。目的があれば、そのための戦略がある。そこには必ず、仮説と賭けがある。逆にいうならば、「決める力」とは、その組織がなんらかの仮説を背後に共有していることを示している。つまり、その会社は、ものの見方に一貫性があるのだ。

そして、悲しい事ながら、一貫性ほど日本の企業に乏しいものはない。あるのは思いつきと行き当たりばったり・・と言えば厳しすぎるかもしれない。しかし工場が営業の販売予測を信用せず、設計部門が購買部門の経験から学ばない会社は、枚挙にいとまがない。

こうした会社は、存続だけが自己目的となっている。現状維持が目的だから、変化するリスクは排除されねばならない。仮説がないから、決断もない。何か前例のないことをやろうとする者は、減点主義によって罰せられる。こうした企業に跋扈するのは、前例重視とと部分最適のルールである。部門ごとの独善と言いかえるべきかもしれない。

決めない人々を顧客に持つことは不幸だ。だが、決めない人々自身も、ある意味では不幸だ。なぜなら、変化に頑強に抵抗することは、急激な絶滅に至る最良の近道となっているからだ。
by Tomoichi_Sato | 2009-12-06 23:39 | 考えるヒント | Comments(1)