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書評:「まぐれ」 ナシーム・ニコラス・タレブ著 (★★★)

まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか
ナシーム・ニコラス・タレブ著  望月衛 訳

私の信頼する人が「面白い」といっていたので読んでみたところ、たしかに非常に面白かった。原題は"Fooled by Randomness"、副題は『投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』。経済活動における偶然の果たす役割について、非常に幅広い視点から論じた高級エッセイである。著者はレバノン出身で金融業界のトレーダー、同時に大学でも不確実性の科学を教えている。帯の文句には「ウォール街のプロが顧客に最も読ませたくない本!」とあるが、その通りかもしれない。

この本は、リスクに関する考察である。そして、リスクに対して思い上がった人間達の愚かさを痛烈に批判した本でもある。著者はそれを、身をもって業界の中で体験している。著者は博士号を持ち、MBAでもあるのだが、そうした高級な教育やキャリアが、人間の傲慢さを(矯正するどころか)増長させていることを、くりかえし指摘する。

経済活動や金融市場におけるランダム性というと、価格のランダムウォーク現象のことを書いているのかな、と思いがちだが、それは違う。投資家が完全な情報を有しており、適切に予想された証券の価格は正規分布的なランダムウォークをたどる、というのは経済学者サミュエルソンが1965年に証明した有名な定理であり、その後の金融理論の基盤となった。この定理は市場価格の平均値と変動の幅を予測することが可能だ、と主張する。しかし、それが本当なら、なぜ金融界はあれほどひどい乱高下やショックをしばしば経験するのか。なぜ標準偏差の10倍もの変動が1日に起きたりするのか(理論によれば10の24乗年に一度しか起きない頻度のはずなのに)。

タレブの中心テーゼは、明確だ。この世の事象には、予測しがたいランダム性がある。すくなくとも、今の標準理論では予測しがたい偶然性が。そして、もし確率的なランダム性があるのならば、一度や二度の短期的な結果で、ビジネス戦略のパフォーマンスを評価するのはおかしい。わずかなサンプル数で、成功の秘訣を理解したと思うのは馬鹿げている。そうしたおかしな事に気づかずにうぬぼれている奴は、すべからく愚かだ--国や歴史を超えて該博な例証をあげつつ、彼はそうした愚者たちを冷笑するのである。“まぐれに浮かれてる”と。

彼はその例として、『伝説の』投資家ジム・ロジャーズの発言を引用する。「私はオプションは買わない。SECの調査によれば、オプションは90%の割合で損のまま行使期限が切れている。オプションを買うのは貧乏人への近道だ」--この論理の、どこがおかしいかお分かりだろうか?

オプションを買うと90%が損になるとしても、損をしなかった10%の時に、どれだけ儲かるかを考えないと、この論理には意味が無くなる。著者タレブは'87年の大暴落(ブラックマンデー)の時に大儲けして、トレーダーとして名をあげた。彼は、希にしか起きないが振れ幅の大きな(=非対称なゆらぎの)仮説に賭ける人間なのである。

逆に彼が賢者として挙げる例は、確率論の中核を理解して、リスクにそなえる人々である。たとえば彼が仲間のローズと一緒に夕食をとり、勘定をどちらが払うか、硬貨を投げて決めたという。タレブが負けて支払をすませたとき、ローズはありがとうと言いかけて突然口をつぐみ、こう言ったのだ:「ぼくも確率論的には半分支払ったぞ」。

これこそ、まさにリスクに対する、正しい態度である。予測しがたいランダムな事象がある。だが、確率を想定する。そして、確率を織り込んで期待値を(あるいは期待コストを)自分で抱えるのである。そして、個別の結果には一喜一憂しない。誰かのせいにしたりもしない。それがプロとしてのプライドなのである。「武運つたなく処刑される時は、せめて一番上等の上着を着て、尊厳を保て。そして自分が、運命の女神の単なる奴隷ではないことを示すべきだ」--これが著者タレブのテーゼである。

このような性格は、レバノン人が20世紀にたどってきた運命を考えると、少しは理解しやすくなるかもしれない。中東の宝石と呼ばれ、すぐれた知的文化と伝統を誇りながら、大国同士のチェスの駒として内戦に巻き込まれた、地中海東岸の小国。彼らの多くは運命に翻弄され、故国を脱出し、ただ己の知恵と才覚のみを武器に、湾岸諸国や欧米で生き抜いてきているのだ。

望月衛の翻訳は、著者の装飾と気取りの多い英語を、なんとか分かりやすい日本語にしようと努力している。Controled experiment(対照つき実験)を「制御された実験」などと訳すところは文系の人かな、とも思えるが、文系理系の枠を超えた本書を、興味深い本にまとめ上げている。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-29 18:33 | 書評 | Comments(1)

早期着手かジャストインタイムか

期日を決めた督促には、副作用がある。それが『学生シンドローム』と呼ばれる現象である、と前回書いた。学生シンドロームとは、期日ぎりぎりになるまでタスク(アクティビティ)に着手しないで放っておきがちになる、人間の性(さが)みたいな事象である。

もう一つ、人間には悲しい性がある。それは、怒られるのが恐いためにサバを読みがち、という傾向である(・・どうでもいいが、この「性(さが)」って言葉をくりかえし使っていると、なんだか昼のメロドラマの解説みたいになってくるな)。

期日を約束しても、それを守れないと、相手に(そしてたぶん上司にも)怒られる。怒られたら、うれしくない。今度の査定に響くかもしれない。だったら遅れなければいいだろ!、というのは上司の側の論理である。現実にはいろいろな割り込みやトラブルや掛けもち仕事があるじゃないですか。だったら、10日で終わりそうな仕事でも、「20日かかります」とサバを読んで申告しておけばいいか。そうだ、そうしておこう・・

こうして、異なる部署間の期日の約束事には、しばしば余裕日数(サバ)が入り込んでくる。期日は依頼する側が一方的に決められないしきたりだ(当然だが)。タスクを請け負う側の都合や自己申告にあわせる必要がある。

ほぼ同じ種類のタスクを繰り返した場合でも、着手から完了までの所要期間には、いろいろな幅(ばらつき)が出てくるものだ。なぜ、タスクの所要期間に幅が出るのか。理由はさまざまである。ほかとの掛け持ち仕事(マルチタスキング)のために、一部の時間しかさけない、というのが最もありがちな理由であろう。急な割り込み、というのもよくある話だ。必要なインプットの情報や材料の到着が予定より遅れる(上流側の遅れの影響を受けた)、というケースだってある。というわけで、ホワイトカラーの仕事というのは、工場で部品を旋盤で削る仕事と違って、数量×単位時間あたり生産性=所要期間、みたいなスケジューラ的計算は成り立たないのである。と、広く信じられている。

さて、そこで問題です。作りすぎのムダを排除する「ジャストインタイム」(JIT)については、このサイトの読者なら誰もが聞いて知っておられると思う。JIT生産では、作りすぎによる在庫のムダをさけるため、必要な時になるまで作らない。つまり、ぎりぎりまで待って着手することを良しとしている。

その一方で、できることは先に着手するべし(「今日できることを明日に延ばさない」)というポリシーも、よく耳にする。じっさい、『学生シンドローム』を避けるには、後回しにするな、可能ならすぐ着手すべし、と主張したくなる。この二つの指針は、どちらが正しいのか?

この問いかけは、拙著「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」でも書いた問題である(第1章『いつ宿題をやるか--最早着手と最遅着手』参照)。スケジューリング理論では、EPST(Earliest Possible Start Time:最近ではESとも略す)とLPST(Latest Possible Start Time:LSとも略す)という二つの重要な概念があるが、前者は「着手可能になった時点ですぐに」、後者は「納期に遅れずに済むぎりぎりの時点で」仕事を始める日時、をそれぞれ指すのである。だから、上の問いかけは、こう言い直すこともできる:仕事はLPSTで着手するのが正しいのか、EPSTで着手するのが正しいのか?

この問題が生じるのは、EPSTとLPSTの日時が異なるからだ。EPST=LPSTならば、どちらかを選ぶ意味はなくなってしまう。ではEPST=LPSTとなる状況とは? それは、クリティカル・パスに乗っているアクティビティである。あるいは、ボトルネック工程にある作業である。これらのタスクでは、上記の問題に悩んでいる余裕はない。最速で仕事をするしかないからだ(ジャストインタイムが徹底している工場では、ほぼ全ての工程がボトルネックに同期化されるよう設計されている)。

問題は、EPST≠LPSTとなる場合である。LPST-EPSTのことを『フロート日数』と呼ぶわけだが、つまりフロート日数のある仕事はどちらが正しいか、ということになる。で、どちらだろうか?

こうした質問を受けたら、反射的に考えるべき事がある。それは、“「正しさ」とは、何のモノサシで測るかによってちがう”、ということだ。

もし「仕掛り在庫低減」がモノサシの場合、当然ながら最遅着手(JIT生産)が正しい答えである。ただし、これできちんと仕事を回していくためには、当然ながら所要期間のばらつきをかなり小さくできている、という前提条件がついている。それなりの作業習熟度(成熟度)が要求されるのである。

逆に、一刻も早く製品ないし成果物を出荷することがモノサシの場合、当然ながら最早着手が正しい答えになる。そして、各タスクは可能なかぎり早く完了させる。完了したら、すぐ次のタスクにバトンタッチさせる。実際には早く終わったのに、報告しないでおくようなことはさせない(なぜそんな事が起きるかといえば、「サバを読んで期日を約束しておいたため、現実は早く終わったのだが、ここで正直に報告すると、次回から短い期日を約束させられるだろう」などと憶測する“頭の良い”人たちが出てくるからだ)。

ついでにいうと、納期遵守が受注後の唯一のモノサシの場合も、最早着手が正解ということになる。これは、じつは顧客に怒られたくない営業部門の場合の論理である。その結果、仕掛り在庫という社内のコスト=利益率低下は不問にされるわけだ。営業部門の目標は売上高であって、利益率は工場の責任である、と考えているような組織では、こうして「早く早く」のかけ声が社内を駆け巡る、という状態になりがちなのである。

ということで、つい寄り道をして、ゴールドラット博士の「画期的な解決法」について書くつもりが、今回もまた書けなかったようだ。続きはまた、ということで。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-23 10:35 | 時間管理術 | Comments(1)

『BOM/部品表入門』 重刷のお知らせ

お知らせ:

『BOM/部品表入門BOM/部品表入門
 (佐藤知一・山崎誠著、日本能率協会マネジメントセンター刊)

が好評につき、重版になりました(第5刷)。
よろしければ、ぜひ書店でお手にとってご覧下さい。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-19 04:32 | サプライチェーン | Comments(0)

期日つき督促の矛盾と『学生シンドローム』

督促』というのは嫌われる言葉だ。される側にとってはうるさいばかりか迷惑千万に感じられ、する側だって楽しくない。この言葉を『催促』と言いかえてみても、もちろん同じだ。鬱陶しいものであることに変わりはない。

「督促する」を英語ではexpediteという。ところで、私の働くエンジニアリング業界には、Expeditorという専門職種がある。日本語に直訳すれば、「督促者」だが、この恐ろしげな名前の人たちは何をする人たちなのだろうか。まさか鞭を持ってオフィス内を歩き回り、人を後ろから怒鳴りつけるのだろうか。

実際には、エクスペダイターは、外注先の工場を定期訪問し、その進捗状況をコントロールする仕事をしている。日本語での名称も、「工程管理」という、もっと受け入れやすい穏和な(?)肩書きをつかう。

エンジニアリング会社は、客先のために工場を設計し、機械や資材を調達し、建設工事を管理することが仕事である。そして、工場に使う産業機械や資材はほとんどが個別仕様による発注品だ。作るメーカーの側から見れば、設計作業を伴う個別受注生産品(英語で言えばETO=Engineer to Order)ばかりである。こうした品目は、受注したらひょいと製品倉庫の棚から出して発送するような見込生産品と違い、納期が長くかかる。いや、標準納期すら存在せず、毎回、受注のたびに個別に納期を設定せざるを得ない。

しかも、受注してからすぐに工場で作り始めるわけではなく、まず設計部門で設計し、外形や重量や機能構成を「承認図」の形でまとめて、いったん発注者に提出し、承認を得る必要がある。それから部品表(BOM)と製作図面の出図にうつる。これだけで2,3ヶ月はあっという間に経ってしまうのが普通だ。部品表にしたがい、主要材料を手配し、納入されるのを待つ。工場側の生産計画にスケジュールを載せる。それからやっと、工場で材料を刻みはじめるのである。さらに組立があり、出荷前性能検査があり、塗装梱包されてようやく出荷となる。

これだけのプロセスを経て進む作業である。まさか発注書を切ったあとは目をつぶって待っていれば、納期の日に、目の前に自動的に製品が忽然と現れる、などと期待する方がどうかしている。ましてエンジニアリング会社の調達先の7割以上が海外メーカーである。Amazon.comで本を1冊買うのとは訳が違うのだ。

そこでExpeditor=工程管理の専門家の必要が出てくる。彼らは、発注先の工場を定期的に訪問する。そして、設計工程や生産工程が予定通り進んでいるかをモニターするのである。メーカーの設計部門が必要とする仕様書や技術図書の最新版が、全てそろっているかどうか(しばしばエンジ会社から営業部門に渡してもタイムリーに技術部門に渡っていかない)、技術上の懸案事項が残っていないか、主要部材は発注したか、工場はちゃんと製造能力に余裕を持っているか、検査要領の手はずは整っているか、等々をくりかえし確認するのである。

このプロセスはある意味で、外注先ではなく社内の他部門に仕事を依頼した時も、同じはずである。製造依頼ばかりとは限らない、設計の依頼でも、なんらかの検討の依頼でも同じである。スケジュール通り仕事を進めたければ、相手側の内部の進捗についても、モニターしていく必要がある。そして問題が発生していれば、タイムリーにそれを検知し、都度解決していかなければならない。むしろ、同じ社内であるほど、「発注書」や「契約書」が存在しないだけに、気をつけなければいけないはずだ。

ということは、社内の他部門に対しても、工程管理の仕事が必須ということになる。しかし、他部署の内部プロセスに口を差し挟むのは、現実にはなかなか困難である。そこで、妥協案として、依頼事項に提出期限をつける、という方法が普通は採用される。この日までにやって下さいね、よろしく、と頼むわけだ。

しかし、この方法には一つ、大きな欠点がある。それは、期限を自分の都合だけでは決められないことだ。相手側の事情も含めて、社内調整が必要になる。こちらは月末までにほしい。でも、相手は他の通常業務もあるので、来月中旬でないと約束できない、等々といった話し合いである。

そして、いったん両者の間で期限が合意されたら、成果物はその期日より前に届けられる可能性は極めて低くなるのが、現実だ。なぜなら、そこに『学生シンドローム』が働き始めるからだ。

学生シンドロームとは、小説『ザ・ゴール』の著者で、制約理論(TOC)の創始者であるエリヤフ・ゴールドラット博士が言い出した言葉である。彼は、夏休み最後の日にならないと宿題に手をつけない学生達を引き合いに出して、人はいったん将来の期日を与えられると、すぐにそのタスクに着手しないで、ぎりぎりまで後回しにしがちである、という。それでも期日に間に合えばいいじゃないか、と依頼を受ける側としては当然思うだろう。しかし、いったん期日を設定してしまうと、学生シンドロームのために、それより前に仕事が終わる可能性は極めて小さくなるのである。

期限にはもう一つ問題がある、とゴールドラット博士はいう。期限を設定する時に、依頼を受ける側は、約束をほぼ守れるように、それとなく期間にサバを読んで長く言いがちになる点である。2週間でたぶんできるな、と内心思っても、それを万が一守れなかったら責められる、じゃあ4週間といっておけば安心だろう、となる。

かくして、社内で複数部門を巻き込んだ仕事(つまりプロジェクト型の仕事)をやろうとすると、あちこちに水増しされた社内期日が設定され、全体工程が長くなってしまう結果になるのである。部分的な期限をつけたが故に、全体が長くなる矛盾が生じるのだ。

では、この問題を解決するにはどうしたらいいか。彼はそこで、あっと驚く解決策を提示する。だが、長くなってしまったので、続きはまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-15 15:59 | 時間管理術 | Comments(0)

仮説検証のトレーニング

学生のころ、阿佐田哲也の麻雀小説が好きだった。博打にも無頼にも縁遠い存在だった自分だからこそ、そうした世界に憧れを持ったのかもしれない。しかし、阿佐田哲也という人は情感と理性に絶妙なバランスを持った人で、その小説にはときどき非常に理論的な戦略解説がはさまれていた。

いまでもよく覚えているのは「茶木先生」という名前の音楽教師が出てくる短編で、この人はヴァイオリン・ケースをかかえながら、下手の横好きで雀荘に通ってくるのだ。勘に頼った彼の打ち方を見て、阿佐田哲也の分身である主人公が、いう。『麻雀は一回の結果だけ見て判断の良し悪しは言えない。長い平均で見て55対45の確率があるならば、55の方に賭ける。たとえある局面ではそれが裏目に出ても、腐らずに打ち続けることを学ばなければならない。それがフォームというものだ。』

麻雀自体はひどく運に左右される不確実性の高いゲームだが、そこにセオリーとフォームという概念を持ち込んだ点が、阿佐田哲也の天才だった。一回一回の結果論で評価せず、長期的な仮説(戦略)を持って行動する。それをフォームとして身につけ、一喜一憂の感情に流されぬよう集中力を持つ。それがプロなのだという。カッコいいではないか。

私はエンジニアとなる教育を受けて工学部を卒業し、勤め人になった。なってわかったことは、給料をもらってもプロになった訳ではない、ということだ。大学ではいろいろと結構な理論を学ぶ。会社でそれを設計に用いる--そんなことは誰でもできることだ。そのうち賢いコンピュータ・プログラムがでてくれば、機械が代行してしまう(事実、工学計算も製図も、かなりの部分がそうなった)。

では、人間がやるべきこと、プロのエンジニアがやるべきことは何なのか。それは、不確実性への対応なのだ。計算条件の中にある、曖昧さや将来予測の不確実性をどう判断するか。たとえば工場のキャパシティを決めるときに、市場はまだ成長するのか飽和に向かうのか、特定の商品が伸びるのか多品種化が進むのか、その判断によって設計は大きく変わる。もう少しミクロなレベルでも、この機械は頻繁に稼働・停止を繰返すことになるのか連続安定運転となるのか、このラインの搬送量は季節的ピーク値をどこまで見越すべきか・・想定すべき不確実性はいくらでもある。

ある程度、長期的な見通し(戦略)を持ち、行動上は細部にいたるまでそれに従う。これがフォームであるはずだ。行動の結果を学び、それを見通しに反映していく。言いかえれば、戦略的行動とは、仮説検証の継続に他ならない。そして、フォームとして身につけるためには、繰り返しによるトレーニングが必須だ。そのためには、自分の判断の中にある「仮説」に自覚的でなければならない。勘も度胸も、むろんプロとしては重要だろう。しかし中心に仮説と検証の精神がなければ、経験としての蓄積にならないのだ。

仮説検証という言葉は一時期、なぜか流行った。このために、ときどき奇妙な理解をしている人にお目にかかる。たとえば、生産計画が仮説で、生産実績が検証である、という風な。とんでもない誤解だ。生産計画の中に込められた、不確実性に対する判断基準、それが仮説なのである。この製品は伸び盛りで、まだ継続して注文があるかもしれない、だから来旬も受注可能なように、あの機械は少し稼働に余裕を持たせておこう--これが仮説なのだ。

次の旬には注文が無くて、機械稼働率を下げてしまうかもしれない。では仮説は間違いだったのか? だが、それは一度限りの結果だ。結果論にこだわって一喜一憂してはいけない。それではイーペーコーにこだわった茶木先生と同じレベルになってしまう。もう少し推移を見届けてから検証する必要がある。それがフォームなのだ。

いまでも私はときどき、自分がプロといえるのかどうか、自問する。世間的には、そうだと思われているし、そうでなければ困る。だが、私は毎回の結果だけ見て、一喜一憂してないか。『自分のフォーム』といえるものを身につけているか。その中心には、どんな仮説のリストを持っているのか。そして、私の所属している集団は、はたして「プロの集団」という名にふさわしい組織なのか。私の自問自答は、まだ終わらない。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-11 23:53 | ビジネス | Comments(0)

工場計画論(2) グローバル展開のゆくえ

電車にゆられながら吊り広告を見ていると、宣伝というのはつくづく一般消費者の欲望を刺激することで成り立っているものだな、と感じる。あれは素敵だ、これは面白そう、こんな心配はありませんか? こんな夢はどうでしょう--そういう風に、広告はできている。だから、その気になって広告をよく観察すると、“普通の人々”が何に対して欲望を感じているのかが、逆に分かってくる。

欧米などに比べると、日本の電車は際だって広告の量が多い。最近は電車の外側まで広告で塗りたくっている。まさに『欲望という名前の電車』が街中を走っているわけだ。その車内広告の中でも、くりかえしくりかえし登場するのが、英会話教室のPRだろう。それだけ、「英会話ができるようになったらカッコいい」と望んでいる人が多いわけだ。まあ、パリの郊外電車の中でも英会話教室の広告を見かけたことがあるから、あそこの国の人だって内心は“英語がしゃべれたらカッコいい”と思っているのかもしれない。

日本では、「英語がしゃべれること」と『国際化』という言葉は、同じコインの両面のように考えられてきた。外国=欧米=英語、という風に、思考回路の中でショートしたみたいに連想がつながっている。とくに年配の人の中では、その傾向が強いかもしれぬ。日本企業では、“国際畑”を歩いたキャリア、というと何となくエリート・コースのように聞こえる。

その国際畑とは何か。それは十中八九、海外営業部門を意味する。日本の製造業の海外展開というのはパターンがあって、それはまず製品の輸出からはじまる。大昔なら生糸、昔は繊維製品、そして現代は自動車や家電が輸出の主役だ。どれもみな、大量見込生産品であることに注意してほしい。それらは高品質で、かつフェアな価格だから売れてきた('85年以前は円も安かったから、フェアどころか低価格だった)。買い手はお金を持っている欧米先進国が中心だった。

輸出の場合、最初は商社経由で、現地の販売代理店が売っていた。セールスというのは、つねに現地密着型でないとできない職種だ。そのうち販売額がかなり大きくなると、相手先企業と提携して、合弁の会社(海外子会社)を設立することになる。主な仕事は販売とサポートである。セールスマンやセールスレップを雇い入れ、それを管理するのが支社に派遣された海外営業部門の人たちの役割だった。

そのうちに、現地のローカルなニーズにあった製品がほしい、という声が高くなってくる。だから、営業企画部門を海外でも持つようになる。本格的製品開発までは無理でも、簡単なローカライズくらいならやれるような体制になっていく。物流倉庫もいる。そして機械製品なら、保守のためのサービスセンターも持つようになる。

さて、ここまでのところ、まったく「工場」という単語が出てこなかった点に注意してほしい。あくまでも、日本企業のグローバル展開というのは、『プロダクト・アウト型』なのである。欧米志向、営業主導、見込生産品--これが“国際化”の正体だった。

では、この間、工場の人たちは何をしていたのか。技術畑の人間にとって、昔は「技術導入」の形で海外とのつながりが多少あった。しかし日本企業の技術開発力が上がるにつれて、(一部業種を除けば)ライセンス生産は減ってくる。しだいに『純国産型』の生産体系になってきた。

そして、バブル崩壊である。不況で、モノが売れなくなった。すでにバブル経済の時代に、工場は都市近郊から地方に追いやられていた。そこに、「原価低減」の重圧が本社からかかってくる。売れないのは価格が高いせいだ、うちの工場は高コスト体質で困る。これでは価格破壊の時代に生き残れない--こう考える人が本社では多かったらしい。バブル時代には、「もっと高付加価値な」(つまり豪華で単価の高い)製品を開発しろ! と叫んでいた同じ人たちが、手のひらを返したように、もっと安くて売れるものを作れ! と命じるようになった。

ここでちょっと、考えてみてほしい。高度成長期が終わって、市場も技術も成熟期に入ると、世の中の平衡点は供給過剰側にシフトしている。力を持つのは、最終消費者だ。そして、それに近い、小売業者である。それまでのプロダクト・アウト型の大量生産販売体制は、マーケット・イン型の、小口受注短納期型の生産販売体制に移行しなければならなかった。そうしなければ、販売機会の損失が増大するのだ。だから、販売と開発と生産は、より密な連携が必要になり、すぐ近くにいることが望まれたはずだ。

なのに、日本の製造業の現実は、そういう風には進行しなかった。国内需要減を海外輸出で補うことがテーマになった。だが、すぐ背後からは韓国・台湾など中進国が低価格を武器に追いかけてきた。だったら、人件費も材料費も安いアジアに生産をシフトするのが、頭の良いやり方だ、という通念が生まれた。アジアでものづくりをして、欧米に輸出する。それを日本が企画・管理する。それが「グローバル展開のあるべき姿だ」というイメージが広まり、大企業だろうが中堅・中小だろうが、自社のサプライチェーンの質や量も考えずに(といったら失礼かもしれないが)中国に工場を移転し、かくて「中国を世界の生産工場に」するために貢献したのである。

この間、忘れられていたことが一つある。それは、中進国やアジア諸国を「輸出先の市場として考えること」である。国際化とは欧米進出だ、という固定観念がまだ残っていたのだろうか。国際営業畑は欧米に顔を向け、生産畑はアジア諸国の方を向く、という奇妙な分裂状態がいまだに続いているのである。

2000年代も半ば頃になって、はじめて「製造業の国内回帰」ということが言われるようになった。軽々しく工場を海外移転したが、失敗例が意識されるようになったのである。それはある意味、当然だろう。見込大量生産時代の意識を残したまま、むしろその地理的な距離を広げた上で、マーケット・インの時代に対応しようとしても、簡単にいくとは考えにくい。工場の立地は、サプライチェーンの形と量と性質によって決める--この原則に、もう一度立ち返るべき時が来たのである。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-07 17:33 | 工場計画論 | Comments(0)

『大規模中小企業』

「いやあ、ウチは中小企業ですから、そこらへんは・・」「あそこはさ、しょせん中小企業だから、社長が一言いえば・・」--よく、人はそんな言い方をする。一種の漠然とした形容詞として、身軽さと不安定さとの入り混じったイメージで使うようだ。

ところで、普通の人は知らないだろうが、じつは「中小企業」には法律的な定義がある。『中小企業基本法』なる法律があって(1963年制定・1999年改訂)、その中で「中小企業とは以下の基準を満たすものである」と定められているのだ。その基準は、資本金と従業員数ではかられる。

業 種      資本金      労働者数
(1)小売業   5千万円以下 50人以下
(2)サービス業 5千万円以下 100人以下
(3)卸売業   1億円以下   100人以下
(4)それ以外の業種(製造業等) 3億円以下 300人以下

この法律的定義によると、常時雇用する労働者数が51人いるスーパーマーケットは、すでに大企業だ(少なくとも中小企業ではない)、ということになる。なかなか意外ではある。基準が業種別なのも、建設業が明示されていないのも、たいていの人には驚きだろう。たいていの人、どころか、経営者だって知らない人がほとんどだ。

しかし、知らないのは無理もない。どこかに資格審査がある訳でもない。「おめでとうございます! あなたの会社は中小企業の基準に合格しました!」と、だれかが免状を渡してくれるわけでもない。日本には『中小企業庁』という、まず誰も知らない役所が経産省の下にあって、そこの中小企業支援施策(猫の目のように毎年変わる)の適用を受ける資格ができるのが、法律的に中小企業であることの唯一のメリットなのだ。

ところで、法律的行政的永田町霞ヶ関的世界観をはなれて、中小企業的であることの意味を考え直してみると、もう少し別の視界が開けてくる。じつは、世間には規模は大きくても、中小企業的な経営の企業はたくさんあるのだ。

中小企業的な経営といわれたら、人は何をイメージするだろうか。ワンマン社長の恣意的な経営? なるほど。明文化されていない業務手順や過酷な労働環境? そうかもしれない。優秀な人材の不足? ふむふむ。情報化への立ち後れ? そのとおりだ。そして、こうした特徴は、人も知る有名な上場企業・大企業にも、じつは見いだされる。コンサルティングの仕事を続けていると、企業規模だけは大きいくせに、経営手法が中小企業の域を出ない会社によく巡り会うのだ。私はこのような会社を、内心「大規模中小企業」と呼んでいる。

大規模中小企業の特徴--それは、働いている人々の中には、けっこう優秀な人やまともな人がいるのに、会社全体としては一貫性のない、前近代的な意志決定プロセスをふむことだ。営業と企画と製造と研究とが、それぞれ勝手にバラバラなことを言う。視点がタコツボ化していて、各人が局所最適しか考えない。ノーという権限はあるのに、イエスという権限がない。だから整合性のとれた情報化が進められない。

結局、大規模中小企業とは、戦略に一貫性がないのだ。戦略とは組織が持つ仮説を意味する。つまり、組織レベルで仮説を共有できていないのが、大規模中小企業なのである。

本物の中小企業ならば、社長が自分で戦略を決め、命令を下すから、一応の一貫性はある。社員数が200人以下ならば、社長が全社員の顔と名前と性格を覚えていられるから、近代的な労務管理手法はなくても、希少な人材は活かされるだろう。しかし、なまじ大規模に水膨れしてしまった中小企業は、もはやこうした長所を失ってしまっている。一代でたたき上げた創業者の目的意識は消え失せて、組織の存続だけが自己目的化している。一貫性を持つ大企業は、この国には本当に少ない。

大企業こそ、注意が必要だ。大企業こそ、外部の支援を必要としている。支援とは、冷静な眼だ。コンサルタントの存在意義とは、そこにしかあるまい。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-02 23:07 | ビジネス | Comments(0)