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超入門・ビジネス英語


Kさん。お久しぶりです。それにしても、今度のご質問には驚きました。EMS・受託生産の交渉について、というメールの表題から、てっきりまた生産管理に関する問題かと思いきや、何と英語についてのお悩みとは。

しかも、えー、率直に申し上げて、「ビジネス英語の上達法」なんて私の方が知りたいくらいですよ。仕事柄、私は毎日英語をしゃべり、英語の仕様書やレターを書いたりしていますが、自分ではけっして英語がうまいと思ったことはありませんし、仕事に十分なレベルに達したと考えたこともありません。

しかし、ご質問の主旨は痛いほどよく分かります。じつは、貴メールは、出張先のサウジアラビアのホテルで受け取りました(通信事情のため、ご返事は帰国後になりましたが)。それも、英語によるプレゼンテーションや交渉の能力の低さに、自分ながらイライラしながら宿に戻ったところだったからです。むろん、私のシチュエーションと、Kさんの状況は全くちがうとは思います。が、ここでは自省を込めて、私が知っている範囲のことをお話ししましょう。

ただ、具体的な語法のあれこれをお話ししても、きりがありませんので、ここでは英語を勉強するにあたって了解しておくべき原則、「メタ勉強法」とでもいうべき4つの原則をご紹介したいと思います。

まず、私自身の体験から申しますが、英語が一番うまくなったのは、会話学校でもなく、旅行や研修でもなく、直接ネイティブの相手とビジネスをするようになったときです。このとき、すでに30代の後半になっていました(ですから、別に外国語は20代でなければダメ、とあきらめる必要はないと思います)。とにかく言語において、必要は上達の母です。

ことに大事な条件として、「相手がネイティブであること」かつ「ビジネスの交渉が伴うこと」があげられます。英米人のNative speakerは、一般に容赦がありません。英語で場に参加した以上、英語ができるはずだ、という前提に立っています(当然ですが)。おまけにネイティブの人は、外国語として英語を話す人々に比べ、圧倒的に表現力の豊穣さがあります。ついて行くのも大変ですが、学ぶ点も多い。極言すれば、Non-native同志で英語をいくら話していても、ほとんど上達は望めない、とさえ思います。

くわえて大事な点が、「ビジネスの交渉」であること。つまり、一言でも聞き漏らしたり言い間違えたりすれば、すぐにしっぺ返しがきて、その結果が自分の立場や評定にまで影響すること。こうなると真剣さが違います。外国語の習得においては、どれだけ集中してその言語情報を身に浴びるか、いわばその集中被曝量累積値がものをいうのです。ところが、たとえば旅行とか研修とか留学とかでは、相手も理解を手助けしてくれるし、自分の給料に響く真剣さも足りません。まして、ガールフレンドとつきあうなんて何の語学の足しにもならないでしょう。言葉なんか分からなくたって通じ合う世界ですから。

そうはいっても、素振りも満足にできない初心者に、いきなり日本刀を持たせて真剣勝負の場に出すわけにはいきません。本人は困るでしょうし、会社としてはもっと困るでしょう。「素振り道場」としての会話学校の意義はそれなりに大きいと思います。ただ、その時、誰にならうかが重要になります。

一番いいのは、言語教育のスキルを持ったネイティブに習うことです。何しろ本物ですし、言語の深さが違います。それがかなわないのであれば、自分の方法論を持った、非ネイティブの英語教育家に習うべきです。外国人が英語を学ぶ際に、どこが間違えやすいのか、ハードルはどこか、一家言を持つ人々です。

おすすめできないのは、中途半端に上手な人に習うことです。失礼ですが、メールの文面を拝見する限り、号令をかけた副工場長さんという方はこのタイプに入りそうですね。米国のビジネススクールに留学し、TOEIC 900点、だそうですが、正直、中途半端です。ビジネス交渉の経験はお持ちとしても、教育は素人でしょう。また私の経験では、TOEIC 900点など、囲碁でいえばせいぜいアマチュア初段といった程度です。TOEICは便利な尺度ですが、しょせんペーパーテストで対策も可能ですし、事実、対策本も出回っています。ネイティブ(こちらはプロの棋士だと思ってください)との差はあまりにも大きい。レベルとしてはすぐ近くに見えても、両者の間には深い谷間があって、やすやすとは超えられないのです。

というわけで、英語習得の第一の原則です:
ネイティブに学べ。それができなければ、方法論を持つ語学教師に学べ。

次なる原則--それは、英語という言語の位置づけについてです。まず、英語というのは、やや複雑な背景を持つ印欧語族の一つであって、たまたま現在は世界中で幅をきかせているけれども、他のさまざま言語とは優劣はあれども対等である、ということを理解してください。

複雑な背景というのは、ケルト的古層の上にゲルマン(ゴート)語の体系がのり、その上にラテン(ノルマン)語の語彙が入る、といった歴史が生んだ結果です。おかげで、同じ「海」を指す名詞がSeaで、形容詞がMarineという、素人には判じ物のような統語体系が出来上がりました(前者はゲルマン、後者はラテン語源です)。文法は接続法や格語尾が退化して、それを助動詞や前置詞・冠詞で補うという状況。しかも綴りと発音の関係もきわめて複雑、というわけで、けっして初学者にとって学びやすい言葉ではありません。

にもかかわらず英語がここまで世界に影響力を持ったのは、英語それ自身が持つ優れた性能というよりも、19世紀には英国が、20世紀には米国が圧倒的経済力と軍事力で世界を支配したからです(同じ理由で、今世紀後半には世界中の人が中国語を話すようになっているかもしれませんが)。

そして、それだけの優越性を持っていますが、英語は他の言語(例えば日本語)とは『対等』です。ちょうど、同じレースに出場する選手は、力に差はあれども対等なように。この、“優劣はあれども対等”という感覚は、英語の根底にある重要なキーでして、ビジネスの交渉の場をはじめとして、至る所に顔を出します。

対等である以上、誰もが意志を主張はできる。そこで最初から卑屈になる必要はない。だが、勝負の結果は優劣で決まる。これが英語の論理です。あらゆるものに和と序列を求めたがる日本語の感覚とは、いかに違うか、注意してください。下手な英語で主張するくらいなら、日本語で堂々と主張すればいい--そういう意見だって、ある意味成り立ちます。逆に、英語の土俵に乗る以上は、対等な相手として、容赦なく扱われる。その中間はないことに、注意してください。

第二の原則は、したがって、こうなります:
英語は複雑な背景をもつ、込み入った体系の言語だが、他の言語と優劣はあれども対等である。

(この項つづく)
by Tomoichi_Sato | 2009-07-26 23:55 | 考えるヒント | Comments(0)

パフォーマンス基準時間の概念

オフショア開発が米国のIT業界で広まりはじめたのは、いまから10年ほど前のことだったと思う。当時私は、米国の制御システム・インテグレータをつかって、メジャーオイル向けに工場のDCSとMESを納入する仕事をしていた。私のグループはMESを担当し、隣の部の同僚たちはDCSを担当して、それぞれ仕様をとりまとめ、同じ米国のインテグレータに詳細設計と実装をさせるやり方をした。発注先のインテグレータは、MESの方は米国内のサブベンダーをつかってとりまとめ、一方DCSの制御ソフトはインドの子会社をつかって開発していた。とはいえ、彼らにとってもインドのリソースを使うのは初めての挑戦だったらしく、おかげで納期の面でも品質の面でもかなり苦労をさせられた。

その2,3年後、私はフランスの会社と共同で電子調達サイトの仕事をしていた。こちらの方は、米国の最大手ERPベンダーが基本テクノロジーの提供者だった。シリコンバレーの本社で相手のディレクターと何度か話し合ったが、彼が「インドをつかえ。」としきりに強調していたのが印象に残っている。ちょうど米国のITバブルが崩壊した直後で、米国に出稼ぎに来ていたインド人技術者がかなり本国に帰っていた時期だったと思う。同じころ、我々の会社も、社内システムを作るために、インドのIT企業をつかってオフショア開発をはじめていた。ちなみに、'90年代後半にはすでに、エンジニアリング業界ではプラントの詳細設計業務をアジアの子会社にやらせるようになっていた。

それからさらに3年後、私は中国に子会社をもつ日本のIT企業と一緒に、システム開発のプロジェクトを進めることになった。日本企業の間で中国でのオフショア開発がブームになり始めたのは、ちょうどその頃ではなかったか。中国人はチーフ・クラスでもなかなか英語が通じず通訳・翻訳経由となるので閉口したが、近くて時差がほぼないため会議がやりやすい(あるいは現地に乗り込みやすい)というのはメリットだった。

オフショア開発やオフショア設計にはいろいろなパターンがある。が、発注形態の面で見ると、大きく2種類に分けられる。一括発注(ランプサム契約)と、工数精算(マンパワー・サプライ契約)だ。海外のSIerに仕様を与えて、できた製品を受け取るのは、前者のやり方だ。海外子会社に設計や実装段階の仕事を分業させる場合は、後者の形態が多い。最初の事例でいうと、我々から米国SIerへの発注は前者の形態で、そのSIerからインド子会社への分業は後者にあたる。両者の最大の違いは、マネジメントの責任、とくに工数管理の責任が、発注側にあるのか受注側にあるのか、にある。

一括発注の場合は、いうまでもなく、工数管理の責任は受注者側にある。最初に、仕様と金額と納期を決めたら、あとは品質をみたす製品を納期通りにおさめる責任は相手側にある。見積を間違えて大勢を追加投入するハメになっても、受注側は自己負担するしかない(発注側に仕様変更等の不手際がない限り)。この点、受注側にしっかりとしたマネジメント能力がありさえすれば、一括発注はある意味で気楽だと言えるだろう。発注者にとって大事なのは、相手のマネジメント能力を評価する力だ、ということになる。

一方、工数精算の場合は、マンパワーの追加投入の事態が生じたとき、責任は主に発注者側にあると考えられ、追加費用をはらう義務が生じる--受注者側によほどの非効率がない限り。そう。そしていつもトラブルの種になりがちなのは、この効率の問題なのである。

マンパワーの効率とは何だろうか。それはすなわち、人時あたりの生産性である。同じ仕事を、Aさんがやったら1時間かかり、B君がやったら3時間かかる、としよう。このとき、AさんはBさんの3倍の生産性があることになる。

生産性とは、(前にも書いたが)次の式で定義される(等幅フォントで見てください)。
       産出量
 生産性=-----
       投入量

同じ産出量(成果物)に対して、投入する人時が3倍になったら、生産性は1/3になる。きわめてシンプルな式である。

では、海外子会社に分業で仕事をさせるとき、必要な人時はどう見積もるのか? 当然、生産性の概念が必要になる。このとき、日本の親会社でやれば 500人時ですむはずの仕事を、その子会社でやるときは、生産性が(たとえば)0.5だったら1,000人時の工数がかかるだろう、という計算になる。この上さらに、子会社の進捗コントロールやコミュニケーションのために、親会社側で必要になる「マネジメント工数」が加算される。それでも、『給料の高い日本人』を使うよりはずっと安い、浮いた時間はもっと高度に知的な作業につかえる、という計算が成り立つ場合、海外との分業を選んでいるはず、なのだと思う。

これが成り立つためには、二つの仕組みが必要だ。まず、子会社の生産性の測定方法。そして、「日本の親会社でやったらxx人日かかる」という、工数見積の基準である。これをパフォーマンス基準時間の概念と私は呼んでいる。

IT業界では、SEやプログラマの生産性は人によって3倍以上も違う、という話をよく聞く。この業界の人が好きな話題らしい。そうかもしれないな、と私も思う。ただ、その個人別生産性の具体的な数表を、私は一度も目にしたことがない。ウチの会社では、生産性の個人差は最大4.7倍もありました、というような定量的な話をついぞ聞かないのである。まあ、これは私の見聞の範囲が限られているからかもしれない。たいていのまともな会社は生産性についてきちんと測定していて、ただ社外秘だから出せないだけなのだろう。

ところで、基準となる工数見積の方は、どうだろうか。上の式を見てほしい。これを計算するためには、産出量(作業量)を測る尺度=BOQが必要である。産出量がこれこれで、基準生産性がこの値だから、基準工数は何人時になる、という計算になる。これは、実装だとかテストといった「力仕事」の場合、計算しやすい。だが詳細設計やデザインの場合、標準プロセスを確立するなど、それなりの工夫が必要である。

そして、よく見かける間違いは、作業量推定にマンニング計算を用いてしまうことだろう。マンニングというのは、縦に職種、横に週や月の並んだ表を作って、“だいたいこの時期は何人が必要になるはずだから~”と数字を入れ込んで人時を集計する方法である。これでは、工数見積の基準として工数をとっていることになってしまう。マンニング計算は体制表のチェックには有用だが、見積の根拠にはならない。工数を作業量と生産性に分解する。工数自体は仕様で決まるため、簡単には変えられない。だが、生産性は向上させることができ、それが競争力の源泉となる。これが原則である。

こんな当たり前のことをわざわざ書いているのは、『生産性』という概念が、製造現場を離れると、忘れられやすいからである。デザインは非定型的な仕事なので見積もれません、みたいな主張が、すぐ現れてくる。だが、見積もれない仕事に、企業は給料を払える訳はない。もし競争力を向上したいのなら、多少強引にでも時間と生産性を測るべきなのだ。測れないものは、カイゼンできないからである。
by Tomoichi_Sato | 2009-07-19 13:16 | プロジェクト・マネジメント | Comments(1)

マネジメントと管理はどこが違うか

ゴールドラットの小説「ザ・ゴール」といえば、全世界で300万部を売ったベストセラーで、TOC(制約理論)のバイブルのような本である。「ラブストーリーの形をした生産管理の教科書」という、この奇妙な本は、日本でも2001年に翻訳が出て以来、ロングセラーを続けている。

ところで、このストーリーの中に、工場のコントローラーという人が出てくる。これは日本ではあまり見かけぬ、なじみのない職種だ。翻訳すれば「工場管理者」になってしまうが、和訳本ではどうなっているのだろうか。ちなみに、主人公のアレックスはPlant Managerであり、これも直訳すれば「工場管理者」だが、実際には「工場長」である。

つまり、米国の企業では一つの工場に二種類の管理者がいることになる。ということは、二種類の別々の管理の仕組みが存在する--そういうことだろうか?

もちろん違う。小説を読めば分かるが、工場長は一応コントローラーの上役と位置付けられている。ただし両者は明らかに別の職能であって、工場長と副工場長のように同じ職能の中での上下関係をしめしているのではない。マネジメントとコントロールは、あきらかに違う概念なのだ。

似たような例は、プロジェクトの世界にもある。わたしの属しているエンジニアリング業界はプロジェクト中心の業態だ。ここにも、「プロジェクト・マネージャー」の下に別職能としての「プロジェクト・コントロール」が所属する。これも、両者を「プロジェクト管理」と訳してしまうと、わけがわからなくなる。

なぜ英語にはこんな区別が存在するのか。なぜその違いに日本人は鈍感なのか? これを理解するためには、日本語で「管理」という言葉に対応する英単語が、
- Management
- Control
- Administration
の3種類あることを知る必要がある。

英語でI can manage.というと、「わたしが管理する。」ではなく、「何とかやり遂げるよ。」というニュアンスになる。それはうまく行く保証のない、けっこう大変なことなのだ。Manageすべき対象には予期しがたい部分があって、どこかに、暴れ馬を乗りこなすようなイメージがある。あるいは、航海に出る船長のような。

それに比べて、I can control.はもっと精密さを感じる。日本語で「制御」とか「統率」にちかい。なすべきことは計画で決まっていて、それをきちんと達成する。現実の状態を把握して、計画と実際に差があったらそれを正して行く、そんな感じだ。

ではmanageよりcontrolの方が管理水準が上なのかというと、そんなことはない。ふつうcontrolの対象は通常manageよりも小さく、御せる範囲にある。たとえていうと、controlは船の航海士の仕事にあたる。船長が決めた方針通りに、海図にひかれた航路をとっていく。

両者の大きな違いは、manageには最初に大きな「計画」をたてたり、組織や仕組みを作る「組織化」の仕事が含まれているのに、controlにはそれがないことだ(狭い近未来の範囲では多少重なるが)。また、不測の事態に対してリスク・テークしたり、あらかじめ手を打ったりすることも少ない。大方針を決めて、リスクの責任を取るのはmanageする船長の側なのだ。

もう少しエンジニアに分かりやすいたとえでいうならば、「Controlは フィードバック制御、Manageはフィード・フォワード制御」ということになろうか。先読みができなければマネジメントとは言わない。

このような観点から、自分の身の回りで「管理」と呼ばれている仕事を見直してみるといい。先読みし、リスクをとっているかどうか。それとも単なる記録と状況報告が主な役割となっていないかどうか。前者はマネジメントの名に値するが後者はコントロールにすぎない。生産管理・コスト管理・労務管理・在庫管理・・・検討すべき対象には事欠かないはずだ。

情報技術の分野でいえば、「○○マネジメント・システム」とか、 「××管理レポート」などが再検討の対象だ。入力されたデータを、単に記録し適度に集計してプリントアウトするだけの仕組みだったら、それは「○○状況レポーティング・プログラム」と呼ぶのがふさわしい。
正しい名前を与えることが、正しい事実認識の第一歩なのだから。
by Tomoichi_Sato | 2009-07-15 22:40 | ビジネス | Comments(4)

「良いデザイン」の工数は見積ることができるか

目の前に広げられたのは、30数枚に及ぶスケッチの紙だった。我々の顧客が打合せを終えて帰った後で、そのグラフィック・デザイナーの人が見せてくれたのだ。CI(コーポレート・アイデンティティ)の世界では、かなり名前を知られた人である。彼が顧客に見せたのは、3つのデザイン案だけだったはずだ。ダイナミックでポップなもの、端正で清潔なもの、柔らかで明るいものの3つで、ずいぶん違う印象の候補案を用意してくれていたのに感心したばかりだった。でも、その裏側には10倍以上の半製品があったのだ。

その人は、候補の3案に至るまでの案出しとデザイン展開の結果を何枚もめくって見せながら、どのような発想から出発して、どうバリエーションをつくり、それからどう最終成果物に結びつけたのか、素人の私にたいして簡単に説明してくれた。私は完璧に驚いてしまった。ひらめきから生まれるものとばかり思っていたグラフィック・デザインが、じつはとてもシステマティックな、かつ時間をつぎ込んだ作業の結果、生まれてくるのを知ったからである。

CIデザインの中心には、いわゆるロゴ・マークの設計がある。私は視覚デザインについては全くの素人だが、それでもいろいろな企業のロゴ・マークには出来不出来があるのに気づく。もう少しマイルドな言い方をすれば、個性的な美を感じさせるものから、限りなく無難な印象のものまで幅がある。ただ、ロゴ・マークのデザインが難しいのは、そこに大きな自由度があるからだ。たとえば配電盤の中の結線図を作成するのだって、デザインといえば同じくデザインだが、こちらは答えの自由度が小さい。定石や手順が決まっていて、それに従えば出来上がる定型的な作業だ。しかし、グラフィック・デザインは明らかに非定型的な、創造的な仕事に思える。

その日まで私は、こうした創造的なデザインというものは、デザイナーが宙をにらみながら、ある瞬間にふと閃いたアイデアにもとづいて制作するものだ、と単純に思い込んでいた。言いかえると、良いデザインが生まれるかどうかは、その場の運だと考えていたわけだ。今日にも閃くかもしれず、半年後も思いつかないかもしれない。つまり、「いつまでにできますか」などという質問には答えられないことになる。

ところが、この人のプロセスを見ると、集中した思考に費やす時間が、明らかにデザインの質を決めているのが分かる。むろん、不連続な閃きだってあるだろう。持ち前のセンスの良否もある。だが、デザインという、いかにも不定形に見える仕事の成果が、実は費やした時間の長さにほぼ比例するのだという発見に、ひどく衝撃を受けたのだ。

不定型な仕事とは何だろうか。それは、答えの見えない、解き方の分からない、個別的で自由度の高い仕事だといっていい。そして大学教育を受けたホワイトカラーに専ら任せられる仕事でもある。新製品の企画を立てるとか、展示会に出展するとか、原価改善に取り組むとか、こうしたことはすべて非定型的な仕事、事務作業や力仕事とはちがう特別な知的作業だと考えられている。こうした創造的な仕事とは、効率だけが求められる職種とは違った世界があるはずだ、と。

このような思考はまた、フレックス勤務とか、裁量労働制とか、年俸制とかいった、勤務時間にしばられない給与報酬制度とむすびつく。自分はタイムカードで働くのではない、成果で評価されるのだ、と。

ところで、そのデザイナーに仕事のプロセスを見せてもらった時以来、私は考え方が変わってしまった。「不定型な仕事だから、どれだけ時間がかかるかは分からない」という言い方をしないようになった。そればかりか、他人のそういう発言も、単純には鵜呑みにしないようになった。そして設計や計画やデザインの質が低いのは、時間を費やせなかったせいではないかと疑うようになった。

デザイナー以外にも、不定型な仕事をしている人には何人も出会った。音楽家、映画監督、映像展示プロデューサー、建築家といった、事務作業や力仕事とはほど遠い業務に従事する人たちだ。こうした職種の人たちの多くは、成果物で報酬を得ている。しかし、よく聞いてみると、この人たちもたいてい、仕事に費やす時間や工数をかなり正確に見積もっているのだ。それどころか、報酬額が自分に必要な工数の分に足りないときは、どこを押さえてどこで手を抜けばいいかさえ、ちゃんと計算している。自分の評判を下げない程度に、質をキープする知恵である。いかにもプロフェッショナルである。

課長に「秋に開かれる展示会でアピール力の高い内容を考えろ」と命じられたとき、「でも閃きは半年後に来るかもしれないので期限は確約できません」とは答えられないのが勤め人である。なるほど非定型的な仕事ではある。だが、かかる時間は見積もれる。見積もることのできる能力が要求される。これを、『スケジュール・マインド』とよぶ。コスト・マインドと並んで、プロとしての能力の要件の一つである。

自分の仕事は創造的だ、特別だ、という思い込みは、ある意味で「特別な我が社」という思い込みに通じている。ベタな工数見積や効率化活動の対象外だ、ほおっといてくれ--そんな感覚が、そこにはないだろうか。だが、そんなことはないのである。「非定型的な仕事」の多くは、特定の成果物や結果を生み出すための、一度限りの営為だ。これはまさしく、PMBOK Guideにいうプロジェクトの定義="a temporary endeavor undertaken to create a unique product, service, or result" に、ぴったり当てはまるではないか。

つまり、非定型と思われている仕事の大半は、じつはプロジェクトなのだ。定常業務の仕組みや職制を残しながら、個別で部門横断的なプロジェクトに(そうとは意識せぬまま)取り組んでいることが、今日のホワイトカラーの生産性の低さを生んでいる。「特別」意識を持つ製造業の問題に、いかに似ていることか。

そして、プロジェクト的な仕事には、明確にマネジメント・テクノロジーが存在するのである。たとえば、工数見積に必要となるのが、パフォーマンス基準時間の概念である。長くなったので、これについては、稿をあらためてまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2009-07-10 23:41 | 時間管理術 | Comments(0)

特別な我が社

生産システムづくりのようなコンサルタントの仕事をしていると、つくづく面白いと思うことがある。仕事柄、さまざまな企業を訪問して話を聞くわけだが、訪れる会社はどこも、「自分のところの業務はひどく特殊だ、ウチは特別な会社だ」とおっしゃるのである。どの会社もどの会社も、“これこれの理由でウチはよその会社とちがう” と主張される。

いわく、「ウチの業種の製品は鮮度管理が非常にきびしいから」「ウチの製品はお客様の生命に直接かかわるものだから供給の責任があって」「ウチの業種は可燃物を大量に取り扱うので消防法のこうるさい設備検査が必要で」「ウチの業界はものすごい多品種少量で、かつ製品のライフサイクルがめちゃくちゃ短いから」「徹底したカンバン方式で工場を回しているから」「完全受注生産でリードタイムが長いから」「小さく高価で壊れやすいから」「場所ふさぎなのにひどく安価だから」etc...

“というわけで、外部の方には我々の問題の難しさはご理解いただけにくいでしょうねえ・・”と続く。

そして結論はというと、
「だから平均的な製造業向けにつくられた生産システムの考え方では、ウチの仕事はうまく取り扱えない」
という風に誘導されるのだ。特殊性を強調されたあげく、ほとんど判で押したかのように、同じ結論にたどり着くところが面白い。

そんなことはないのである。

この仕事をやってみるとわかるのだが、日本の製造業が抱えている問題点というのは驚くほど共通性が高いのだ。それは、非常に圧縮した形で表現するならば、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということになる。だから調達から販売までのサプライチェーンのあちこちで、プルとプッシュが混在しているのである。

したがって、解決の手法も一つの事例できちんと確立してしまえば、あとはかなり応用が利く。若いコンサルタントでも、見習いで3社の事例をやってみたら、4社目からは中核の問題を自分で見つけることができるようになる(むろん、応用問題を解くにはその業種の個別知識と、人を動かし説得できるだけの知恵がいるから、経験もなしにすぐに独り立ちできるわけではないが)。

「パーキンソンの法則」で有名な経営学者C・N・パーキンソンは、「コンサルタントの仕事はミツバチに似ている」と言っている。花から花へ、花粉を運ぶ蜜蜂のように、コンサルタントはある会社で見つけた知恵を別の会社に運んでそこに植え付ける訳である。自分自身では花粉を作り出したりしない(知恵を生み出したりしない)点が面白い。こう書くと怒り出す人もいるだろうが、かなりの程度、真実に近い。

個別性・特殊性の強調は、なんとなく日本の文化に根ざしているのかな、とも思う。丸山真男が『日本の思想』で分析して見せたように、日本では「理論信仰」と「実感信仰」が表うらの関係で支え合っている。外国から直輸入した公式的理論によって現実をばっさりと切ってしまうような風潮と、逆にその防御として、個別の事象・実感をならべたてて共通論理をいっさい否定してしまう態度。まるで「パッケージに業務を合わせろ」「いや業務に合わせてすべてカスタマイズしろ」という水掛け論を聞いているかのようではないか。

面白いことに、私のつきあった範囲では、欧米の会社からはあまりこういう「ウチは特殊だから」論は出てこない。それも当然だろう。彼らはそもそも、みずからの独自性を前提として生きている。一人一人に個性がある、というところから思考は出発する。その上で、個別の事物を包含するイデアが存在する、というのが西欧の哲学だからだ。

哲学抜きで特殊論にしがみつく国には、ただ“諸行無常”の風が吹くだけかもしれない。
by Tomoichi_Sato | 2009-07-06 22:52 | ビジネス | Comments(1)

NUMMIは終わった


新聞によれば、米ゼネラル・モーターズは6月29日、New Unitec Motor Manufacturing Inc.=略称NUMMIから手を引くと公表した。倒産したGMは資産を「新生GM」社に引き継ぐ予定だが、NUMMIの工場はその中には計上されない、という。現在NUMMIの工場で生産されているPontiac Vibeは、8月をもって製造を停止する。運営上のパートナーであるトヨタは先月、事業継続を期待すると言っていた。しかし、今や"General Motors"ならぬ"Govenment Motors"となったGMにとって、もはやNUMMIは資産ではなく負債である、ということなのだろう。

NUMMI(ヌンミないしヌーミ)は、1984年にGMとトヨタが最初の提携事業として、50対50ではじめたJoint Ventureである。カリフォルニアのFremontに工場を持つ自動車製造会社、というより、元GMのFremont工場を、新しい提携事業の実験場所にした、という表現の方が正しいのかもしれない。'80年代は、日米貿易摩擦が自動車市場で火花を散らしていた時代であった。

アメリカの製造業が絶頂を極めたのは1950年代だったのかもしれない。「GMの利益はアメリカの利益」という有名な言葉がそれを一種、象徴している。GMはアルフレッド・スローンが経営者となった30年代から成長した。事業部制・複数ブランド・オートローン(金融つき販売)などはみな、スローンが発明したものだ。MITのビジネス・スクールは、彼の名前をつけてスローン・スクールと呼ばれている。

そのアメリカの製造業が空洞化をはじめたのは、1970年代のことだろう。最初は、衣料品・繊維産業だった。日米繊維協定で日本側が「自主的」に対米輸出を規制することを約束。当時、米国の繊維製品輸入の7割を日本製が占めていた。だがそのころの『メード・イン・ジャパン』のイメージは、まだ“安かろう悪かろう”の印象を引きずっていた。しかし、つづけてオイルショックが起きる。ガソリンの値段も高騰し、大型車の維持費に辟易したアメリカの消費者たちは、デザインは平凡だが燃費が安く品質も安定している日本車に目を向けるようになった。そう、このころ、ようやく「日本製の品質」のブランド価値が上がって競争力が出てきたのである。

だが、米国の財界人・経営者たちが当時、日本の製造業の競争力をどう見ていたかというと、「ひどく安い給料で長時間労働をいとわない労働者たちを使って、モノマネ製品を作っているのだから、アンフェアなくらい安いのは当然だ」といった見方が支配的だった。奴らの製品に競争力があるのは、ひどく安い賃金のおかげ--まるで、現代の某国の経営者たちが、隣の中国製造業を見下していうセリフにそっくりではないか。はたして、その競争力の源泉は低賃金だけなのか。大連市の地元の中堅企業はもうNCとCADを主軸に使いこなしているのに、日系企業は相変わらず労働集約的な生産方式だったことを視察で見て以来、そんな単純な批評は信じないようになった。が、NUMMIの話に戻ろう。

トヨタがGMから買い取ったときのFremontの工場は、全米でもっともローテクで、かつ生産性も全米最低の工場だった。安価な海外製品に対抗するには、高付加価値な製品の開発と、工場設備のハイテク化だ--そう米国の経営者たちは信じていた。だから、こんな古くさい工場はまっさきに切り捨て・売却の対象にあげられた。そして、日米自動車摩擦の緩和をめざすトヨタが、共同事業の「実験の場」として選ぶことになった。

事業を始めるにあたっての最初の課題は、全米自動車労組UAWとの協定だった(実際にはGM側がやったとも言われている)。UAWは最近では、労働者の高賃金の元凶として、ビッグ3の破綻の原因のように言われているが、上に述べたように私は「低賃金=競争力」説には疑問を持っている。まあ、それはともかく、日本企業はどんな工場を造るのだろうかと興味津々だった(はずの)GMの目の前で、トヨタはかんばん方式をはじめとする、あっと驚く合理化の実践を次々見せていった。

まず、トヨタは訓練された小さなチームで自立的運営するような工場体制を作っていった。「連続した流れ」を実現するような工場レイアウトとし、また問題が起きたとき作業者の判断によるラインストップを可能にした。といっても、(この先はトヨタ自動車社友・黒沼惠氏の講演からの聞き書きになるのだが)「ラインを実際に止めるようになるまで半年かかった」という。とにかく自動車工場の主軸である最終組立ラインを、現場作業者が勝手に止めるなどと言うことは、米国流トップダウン経営の下では常識外のことだったのである。

そもそも、トラブル発生時にラインを止めるのは、上流側で起きた問題を下流側が検知して即座に解決・改善するためである。しかし、(UAWの労組組織を見ても分かるとおり)米国の職場は専門分業化が徹底している。分業化社会では、上流の改善作業は自分のscopeではないのである。他方、トヨタ流の思想の中心には、問題点の顕在化と改善こそが仕事である(「問題ないのは最大の問題」)との考え方が強い。180度逆なのである。

また、ホワイトカラーの役割は、「指示」ではなく「支援」だ、というのも180度反対であろう。そもそも米国の製造現場には、どこかにうっすらと奴隷制農園経営のセンスが残っている。労働者の黒人と、ホワイトカラーの白人という図式は少しずつ崩れてはきたが、それでも大学出の技術者は計画と指示をし、高卒の労働者は一生言われたとおり働くだけで、どんなに頑張っても職長止まり、という階級社会が当然のこととされている。ここで、主人公は労働者側で、大卒はヘルパーにすぎない、などというイデオロギーが入ってきたのである。

しかし、その結果は明瞭だった。全米一のローテク工場NUMMIが生産性最大となった、生産性と品質は過去の2倍に上がった。何より、ドラッグ、アルコール中毒がなくなり、無断欠勤がなくなる効果があった。つまり、労働者は人間扱いされれば、人間らしく意欲をもてるのである。おそらくこれが一番良かったことなのではないか。少なくとも、当時のトヨタは、工場運営にあたって、「生産性」の短期的追求だけではなく、生産システムの長期的「安定性」(継続性)を同時に実現しようという意気込みがあったのである。

NUMMIの実験を見た米国財界人の中には、日本製造業の強さは低賃金だけではないのかもしれない、と気づく人が出てきた。そうした見方をスローガンとしてまとめたのが、MITの"Lean Production"論である。これが80年代終わりのことである。

それから20年近く経った。「金融業のネタとして製造業をやっていた」GMはついに倒産し、70年以上続いた世界一の座をトヨタに譲ることになった。NUMMIからも手を引く、という。NUMMIは終わり、日米自動車摩擦の一つの時代も終わった。それでは、トヨタはNUMMIでカローラを作り続けるのだろうか。最近の同社のコメントを読むと、どうも撤退戦略の可能性も探っているようだ。なぜなら、すでに北米には生産拠点が明らかに過剰だからだ。

それにしても、トヨタは果たして、世界一の座について、本当にうれしいのだろうか? 私がこんなことを書くのは、べつにトヨタが今、苦境にあるからではない。たとえ1年前だって、同じことを書いたと思う。私の無謀な推論によれば、トヨタはフロントランナーの背中を見て走り続けたかったのではないかという気がするのだ。フロントに出て、真正面から風を受けながら、走るべき方向を自分で決めて走り続けるのは、苦手なのではないか--そういう気がする。いや、トヨタだけでない。勤勉な東洋の企業は、大なり小なり、目標があってはじめて走れるのだ。優秀なる韓国のサムスン電子が、やはり世界トップ企業にはなり得ないように。

トヨタの今の苦境は、北米市場に投資しすぎたことが原因と言われている。あの会社がなぜ、米国にピックアップ・トラックの工場などを持たなければならないのか、たしかに疑問も感じる。あれだけ現場カイゼンでは力を見せたのに、過剰投資には無力だった。そう。戦略レベルの失敗は、戦術の成功だけでは取り戻せないのである。
by Tomoichi_Sato | 2009-07-01 23:44 | サプライチェーン | Comments(0)