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人時は金なり


今でもよく覚えているが、新入社員のとき集合研修に参加していたら、ある講師がこう語った。「われわれエンジニアリング会社は、時間で勝負している。一人1時間働くと、7,500円という単価がかかる(注:金額は当時)。だから、君たち100人を相手に1時間半こうして話をするということは、会社は100万円以上のお金を使っている訳だ。だから、この講義の時間はそれだけの価値あるものにしなくちゃならない。」

あとで知ることになったのだが、1時間7,500円というのは平均の売値(Price)であって、人件費原価(Cost)ではない。もちろん、自分達がそんな高い時給をもらえるわけでもなかった。なのにその先輩が「100万円以上のお金を使っている」と説明したのは、つまり顧客に売ればそれだけの収入の可能性があるのに、あえて教育研修に振り向けている機会損失コストのことを言っていたわけだ。

機会損失というのは、分からない人にはちょっと分かりにくい。これは“釣り逃した大魚の代金”みたいなものだからだ。財務諸表のどこを探しても出てこない。でも、たとえば今、宝くじの一等の当たり券を持っているとしよう。購入代金は300円だった。つまり原価は300円である。でも、当たりくじは3億円に換金できる。さて、もしこの当たりくじをゴミ箱に、ぽいと捨ててしまったら、自分はいくら損をしたことになるだろう? 300円か、それとも3億円か?

手取りで時給1,000円にもみたぬ当時の新入社員であっても、たとえば設計マニュアル通りに熱交換器のデータシートを記入したり計算ソフトを回したりすれば、そのプロダクトについて石油メジャーは1時間7,500円相当の金額を支払ってくれた(時間数が適正で結果が正確である限り)。それがある意味で欧米流の人時の考え方なのだった。プロフェッショナル・サービスに対しては、時間コストが付随する。そして、それは売り手側にとっては機会損失で測られる。かんじんの講義の内容は忘れたが、今でもそのことだけは身にしみて忘れない。

さて、1時間7,500円ということは、1日8時間働くと6万円である。もしあなたが、自分の作成した役員会用の資料の図表のデザインや文言のあれこれについて、小心な上司からあれこれ注文をつけられて、修正作業に1日半かかったら、10万円がすっ飛ぶ勘定である。またこれを1分あたりに換算すると、毎分125円である。ケータイの通話料なんかより、ずっと高い。貴方が誰かに自分の携帯を貸してあげて、相手が使った後もずっと回線をつなぎっぱなしだったら、かなり腹が立つだろう。だとしたら、自分が意味のない会議やら挨拶やらにずっとつきあわされたら、(たとえそれが自分の上司でも)抗議するべきなのだ。

いや、もっというと、秒単位に換算すると、1秒2円以上だ。ということは、お辞儀したらすぐ5円、あくびしてもすぐ5円が失われる。もし1円玉を床に落としても、かがんでそれを拾ったりしたら、もう10円がとこは使ってしまう。ということは、1円玉を落としても、拾ってはいけないということだ。

そんなのはエンジニアリング会社の特殊な事情さ、と貴方はおっしゃるだろうか? じつは、そうでもないのだ。人日や人月でプロジェクトを受注しているIT業界の人はよく知っているはずだが、人時7,500円はそれほど高い金額ではない。月160時間労働だとしても、人月120万円だ。この程度の単価をSEにたいして請求する企業はざらにある。

しかしその一方で、まったく逆の感覚をもつ組織も少なくない。それは、ホワイトカラーのマンパワー(マンナワー)に対して、何のコスト意識もない会社だ。つい最近、頼まれてある製造業で、プロジェクト・マネジメントに関する簡単なレクチャーをした。そこで例によって目的・ゴール・目標の定義や、プロジェクトCHARTER(憲章)の作成などを説明したのだが、いざプロジェクトの概略予算を書いてもらうと、その中に一切自社内の人時コストが含まれていないのだ。技術部門や企画部門の人間は、いくら使おうと、タダであるという感覚が身に染みついているらしい。

その会社は繰返し受注生産が中心の会社なので、技術部や企画部の人件費は「販売管理費」の中に入っている。だから、いくら使ってもタダだ(文句を言われない)という感覚になるらしい。まあ、個別受注生産でない限り、タイムシートで記録した作業時間を案件別に振り分けることなど困難だから、この会社のような感覚が蔓延するのも分からぬではない。

しかし、だとすると、なぜ製造現場では時間分析を執拗に実施して、労働者が半歩でも余計に歩く動作まで切り詰めたがるのかが、分からない。それも、今や現場の大半は派遣労働者で、たいして高い単価ではない。1秒切り詰めたって、1円にもなるまい。そのかたわら、大卒の技術者が本社で、上司に説明するパワーポイントの字体の大きさをめぐって1時間も2時間も残業しているのか。現場と比べてアンバランスではないか。

マンパワー(マンナワー)はお金である。だから、オフィスワークについても、出来高と、生産性を明確に定義して、測定できるようにする必要がある。いや、少なくとも、人時を浪費したら、それはお金の浪費であるという感覚を持つ必要がある。不況だ不況だといって仕入れ先や外注先をたたく前に、もっとやるべきことがあるはずなのである。
by Tomoichi_Sato | 2009-06-24 23:28 | 時間管理術 | Comments(0)

目標、計画、ターゲット(3)-共通言語をつくろう

日本が目指す、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出削減の中期目標が先週、政府から公表された。西暦2020年には、2005年比15%減(1990年比8%減)」とすると決まったらしい。例によって、賛否両論さまざまな意見が出されている。達成可能なのかどうか、経済への影響はどうか、そもそも本当に二酸化炭素が問題なのか、等々。しかし、ニュースをみたところ、この『目標』というがどういう性格のものなのか、コミットされたものなのか(言いかえれば達成できなかったときはどう決着をつけるのか)、それとも交渉の場での最初の「出し値」にすぎないのか、といった分析は手薄に感じられた。

『目標』を与えられれば、あとは“頑張る”だけ。その目標値が達成可能なのか、また値を測るそのモノサシが本当に適切なのか、ということはすぐに置き忘れられてしまう。これが、受験勉強社会を育ってきた私たちの、共通した習性のようだ。日本人を動かすのは、ある意味で簡単なのかもしれない。モノサシをとりだして、他人や他者や他国と比べればいい。あとは自動的に走り出す。

これまで、予測、目標、計画など、いくつかの言葉をとりあげてきた。ここで、説明を少し整理しよう。

赤字の地方空港や有料道の建設は、客観的な需要予測にもとづいて決められた、とお役人たちは説明する。しかし、こうした「予測」は科学的・客観的なこじつけであって、先に政治的結論ありきではないか、とたいていの人は疑っている。

純粋に客観的な予測なんてない。

予測は、現状の観測データと、過去の実績データと、仮説(複数)から導き出される。つまり、
 「予測=データ+仮説」
である。もし仮説を明確に列挙し、複数ケースを平等に並記するのなら、それは「予測」といってもいい。しかし、何かの数字を一点見積しているのなら、それはもう意志決定の入った「計画」である。

ところで、社会での活動には、一般に次の公式が成り立つといっていい。
 結果(成果)=外部環境+内部努力
これは大学受験から生産・販売、そしてプロジェクトの切り盛りまで、たいていは成立する。そして、
 外部環境の変動>>内部努力範囲 なら「予測」といい、
 外部環境の変動<<内部努力範囲 なら「計画」という
のが普通の言葉使いだろう。しかし、両者の差は相対的なものにすぎない。

もし企業が「需要予測」という言葉を好んで使うのだとしたら、需要(販売数量)とは天から与えられるもので、営業部門の努力ではいかんともしがたい、との世界観を表現している訳である。つまり極端に言えば、営業は無能力です、と意思表明していることになる(笑)。逆に工場が今月の「生産予測は」と言ったら・・たしかに工場は無能力だ、と思われるだろう。

さて、ここで、内部努力=目標の高さに比例する、という法則(迷信?)を持ち込むから、話がややこしくなる。実現可能性はおかまいなしに目標値が設定され、その一人歩きがはじまる。仮説のない目標や計画のことを、別名、「絵に描いた餅」とよぶ。ここから生まれるのが精神主義的「号令」というやつである。

そこで、目的・ゴール・目標、という最初の回に書いた定義を思い出してほしい。およそ人間の組織は、かならず共通目的をもつ。ただしそれは、遠いところにある。おそらく抽象的で、数字では測りにくい(測れない)ものだ。一方、
 「ゴール=当面、実現をめざす行為(ないし状態)」
である。じゃあ、目標とは何だったか。
 「目標=そのゴール達成の成功・不成功を検証するモノサシ」
なのだ。達成のための内部努力、そして「仮説検証」のモノサシでもある。だから、客観的に測れる(検証できる)ようにする必要がある。

こう考えてみると、『今期販売目標=50億円』というような標語が、それだけではいかに無内容か、わかるだろう。「今期は製品ファミリーの充実により、既存顧客のリピート確保をめざす(ゴール)。既存の顧客ベースによる更新需要は100億円程度と推定されるから(仮説)、その50%獲得で50億円をめざす(目標)」--こう展開してみると、目標は金額自体よりも、リピート率の方が本質だとわかる。また、需要の瞬間蒸発といった、外部環境の変動による影響を除外して、自分の内部努力のレベルを検証できるのである。

また、目標と計画の区別も自明だろう。計画値は金額ではなく「品目・数量」をベースにする。それが、営業と生産と物流の「共通言語」だからだ(個別受注生産の場合などは、品目・数量の代わりに作業・期間が適当かもしれない)。ここに、努力目標やらサバ読みやらを紛れ込ませてはいけない。

この点を明確に区別するため、別の用語を用いたほうがいい。そこで『ターゲット値(ストレッチ目標値)』という言葉を提案したい。これは通常努力に加えて、さらなる改善努力を促すために設定される目標値を示すものだ。

ターゲット値は、数量や金額ベースで立ててもいいが、スループット(付加価値額)や生産性を尺度にする方がいい。こうすれば、計画と目標の二重帳簿に悩まされずにすむ。計画は100台。そのときの付加価値額の計画値は1台120万円、でも目標は150万円とする(つまり計1億5千万を売上-材料費で生み出す)、という風に。営業は計画数量を「より高く」売り、生産は計画数量を「より安く」作る。あるいは「より早く」作る。これにより付加価値生産性を上げ、生産余力を生み出すのである。

 ターゲット値(付加価値額)=平均的付加価値額+改善努力のための仮説分
 ターゲット値(生産性)=平均的生産性-ムダ・サバ

(言うまでもないが、欠品率だとか納期など小さい方が良い尺度の場合は、ターゲット=計画の目標値-改善努力マージン、になる)

では、営業と生産の間での計画の共有・対話はどうするのか。そのために、双方が確約可能な「基準計画」(Committed Plan)を作るのである。

 基準計画=ターゲット生産性ベースの計画+必要最小限のゆとり(自由度)

自由度は、リスクや外乱に対応するためのマネジメントの余地(Contingency Reserve)である。これを持たないツンツルテンの計画は、予期しない出来事がちょっとでも起きると達成不能になる。だから基準計画にはつかえない。むろん、ゆとりがダブダブになっても逆に困る。だから「必要最小限のゆとり」なのである。

このことは、通信理論や情報理論を知っている人には喩えで説明した方がかえって分かりやすいかもしれない。通信符号化の手法では、まず対象の情報源から、冗長性をすべて抜き取って圧縮する。その上で、必要最小限の冗長性をあえてつけ加えることで、通信路の雑音から情報を守るのである。あるいは、在庫理論で言えば、不要な「できちゃった在庫」はすべて圧縮して、必要最小限の「バッファー在庫」だけ必要箇所に準備する、と言おうか。

こうして出来上がった基準計画は、共通言語として社内でつかえるし、かつ各部門での努力のターゲットも設定できる。計画期間が完了したら、目標と実績を比べて仮説検証もできる。こうして、意味不明な二重帳簿や混乱がなくなるはずなのである。それで、二酸化炭素15%削減というのは、どの目標なのですか、総理殿?
by Tomoichi_Sato | 2009-06-16 23:46 | 考えるヒント | Comments(0)

「経営システム」誌特集号『R&Dの経営工学』発刊のお知らせ

日本経営工学会「経営システム」誌 2009年6月号の特集号『R&Dの経営工学』を責任編集しました。
ヤマハ専務・加藤博万氏、iTiDコンサルティング取締役・荒木克文氏、日本経済新聞アジア部長・後藤康浩氏、メタサイエンティスト・唐木田健一氏ら、気鋭の論文を掲載しています。どうぞご覧ください(一般書店でも取り寄せ可能です)。
by Tomoichi_Sato | 2009-06-15 23:06 | ビジネス | Comments(0)

計画の二重帳簿はなぜ発生するか - 目標、計画、ターゲット(2)

休みをとって、愛媛から本四架橋を通って広島まで抜ける旅行をした。のんびり鉄道とバスを乗り継いでいったのだが、幸い天候に恵まれ、とくに瀬戸内の風光の美しさには感激した。青く穏やかな海の上に、大小の島が浮かび、新緑が陽光を浴びて静かに佇んでいる。さすが「しまなみ海道」と名付けられるだけあって、良い景色だった。高速バスだとあっという間に通り抜けるだけだが、それだけではもったいない場所だと思う。

この本四架橋ルートは複数の異なる構造の橋からなっていて、シビル・エンジニアリングの観点からも興味が尽きない。また、このルートを決める際のプロジェクト・マネジメントの苦労も十分想像できた。ただ、それにしても最後に広島空港に乗り継ぐまでが遠くて閉口した。あんな山の上にわざわざ空港を作るのは、まあ科学技術の勝利かもしれぬが、科学技術の無駄な勝利というのもあるのだな、というはなはだ失礼な感想をもった。

本四架橋や東京湾横断アクアラインが巨額の赤字を抱えているのは、よく知られた事実だ。広島空港の場合は知らぬが、最近また増え続けている地方空港(先週も静岡に開港したが)も赤字が多い。用地買収の長期化、材料費の高騰、政治の横やり等、いろいろなリスク要因はあるのだろう。だが、一番の問題として指摘され続けているのは、「事業計画の見通しがそもそも甘い」ということだ。

「地方有料道、6割が赤字 76%が需要予測下回る」という記事を、『ファイナンシャルプランナーのニュースチェック』というブログが転載解説している。「06年度の交通量が計画に達しなかったのは125路線中95路線。50%に満たなかったのは28路線に及んだ」という。中でもワースト3位の長良川右岸有料道路、常陸那珂有料道路、福島空港道路は、実際の交通量が計画の20%にも満たない。こうなると、そもそも「計画」って何なの? という当然の疑問がわいてくる。

「明日の天気は晴れを計画します」と気象庁が言ったら、可笑しいと誰もが思うだろう。「今日の交通事故数は、計画では2件です」と警視庁は言うまい。カツオ漁師は明日の水揚げ量を計画するだろうか。でも漁師だって、交通警官だって、何らかの見通しの上で毎日の仕事の「計画」を立てているのだ。

計画=予測+意志決定」である、という式を、前にもこのサイトで書いた。今回は、この式をもう少し因数分解してみたい。まず、「予測」の方であるが、そもそも人間であるかぎり完全な予測というものは不可能である。そこで、さまざまな前提条件と近似を積み上げて、数値予測を行うことになる。それは、単に一つの部品を旋盤で加工するための所要時間、といった単純な予測でさえ、そうなのだ。自社内の行為でさえ、いくつかの条件(平均的な習熟度の作業員がやって、材料鋳物には不良が無く、かつ標準加工手順にしたがえば、etc.)を積み上げて、やっと「40分かかるでしょう」という答えが出てくる。

よく、「MRPは実現不可能な生産計画を作ってしまうが、APSは実行可能な正確なスケジュールを生成してくれる」というようなことを主張する人もいるが、これは正しくない。APSの出す答えもまた、スケジュールの一種の近似にすぎないからだ。単に、予測精度の違いということなのである。

ましてこれが、自分でコントロールしがたい、外部環境に大きく左右される現象ならばなおさらである。需要予測がその代表例だ。「需要計画」などと言う人間が少ないのは、自分の努力によって制御しがたい事象だと、皆が認識している(かつての共産主義国家での計画経済は別だが)からだろう。

そして、こうした外部事象の予測においては、必ず前提条件を明らかにした上で、複数の前提での予測結果を並列に記述すべきなのである。これを「感度解析」とか「ケーススタディ」と呼ぶのはご存じだろう。前提条件はいろいろな仮定の仕方がある。そこで、こういう前提なら100だが、ああいう仮定をおけば120、という風に数字を並記するのが、由緒正しい『予測』の仕事のやり方なのである。

では、上の式における「意志決定」とはどういう行為か? それは、この複数の仮定を比較し、評価した上で、その中で一番適切なものを選択し、これを「今回の計画における仮説」と宣言する行為なのである。繰り返すが、計画における意志決定とは、仮説を選び取ることに他ならない。先のことは分からない。だから『仮説』なのである(「仮説検証のトレーニング」 2004/11/06参照)。前期はA製品が低調だった、しかし東アジアの需要動向を見ていると、今年前半には需要は底を打つ、だからAラインは生産余力を残しておいた方がいい・・こうした決定が、「仮説を選び取る」意志決定なのである。

仮説である以上、あたらない可能性もある。“はずれるかもしれない仮説に賭けるのか! それなら確実な戦略を選ぶべきだ”という主張は、一見もっともだが、実は愚かだ。「確実な」将来というのは、あり得ない。確実な戦略といわれるものの多くは、じつは「過去しばらくあたっていただけの戦略」にすぎない。もしかするとそれは、“変化を拒絶する”という最低の戦略なのかもしれない。

さて、現実の企業組織において困ることは、この「仮説」の好みが、部署により立場によって異なることだ。営業部は「もっと低価格なB製品なら多少売れるかもしれない」、企画部は「新しい技術をいれた新製品Cならヒットの可能性がある」、製造部は「製品Aが一番原価低減の余地があるから良いのではないか」・・とバラバラになるのだ。そしてお互いに、自分の好みの仮説に基づいて予測を立てて行動する。“営業は10万個売れると言っている。でもあれは予測ではなく努力目標にすぎない。それを信じて10万個分の部品を手配したら、在庫増で上から怒られる。だったら5万個を仕入れて後は様子を見よう・・”こうして計画の二重帳簿がはじまるのだ。

私の見聞きしてきた経験の範囲から言うと、競争力の高い(したたかな)企業は、皆が同じ一つの仮説を共有して動いている。しかし、そうではない大多数の「普通の企業」は、その規模の大小にかかわらず、皆がバラバラの仮説で動いているのである。いや、そういった企業では、仮説が仮説と意識されないまま、各人の「経験知」として、真実であるかのように流通している。かくて、営業部が立てた販売計画とは別の数字を元に、工場が生産計画を立てる、という(しばしば見かける)事態が出現する。あるいは、プロジェクト的なビジネスにおいても、営業とプロマネと設計技術と品質管理が、互いに別々の思惑で動く状態を生じさせるのである。

このようなバラバラな状態をただす方法は何か。それは、一見逆説的に聞こえるかもしれないが、意図的に計画の中に「幅」と「目標」を持ち込むことなのである。

(この項もう一度続く)
by Tomoichi_Sato | 2009-06-09 23:16 | 考えるヒント | Comments(0)

目標、計画、ターゲット

先日、機会があって東大工学部の学生たちにプロジェクト・マネジメントの講義をした。わずか2コマ・計3時間の講義でどれだけのことを伝えられたかは定かではないが、アンケートを見る限り、少なくとも「マネジメントには技術(テクノロジー)があり、理工学的なアプローチが可能である」という事実は、興味を持って理解してくれたようだ。WBSだとかクリティカル・パスだとか、ごく初歩的なことがらを演習してみて、それを強く感じたらしい。

このことは、あの大学に経営工学や管理工学といった理系のマネジメント学科が存在しないことを思い合わせると、とくに貴重なことのように思われる。東大の理工系を卒業する人は、マネジメントについて何も教わらぬまま社会に出て、人に指示を出す職業に就いてしまう可能性が高いからだ。日本のいろいろな組織が、確とした指針も方法論もないまま、リーダー層のセンスや勘や経験だけで動かされることになる一因かもしれぬ。

それにしても、学生さんたちの回答を見ていて気がついたことが一つある。それは、「目標」というものに関する誤解、ないし理解不足である。この講義で私は、“自分が現在かかわっているプロジェクト(ないし近い将来かかわるであろうプロジェクト)を例にとり、その『使命(ゴール)』と『目的』と『目標』を言葉で書きなさい”という演習を出してみた。ミッション・プロファイリングの初歩である。

ゴールと目的と目標は、混同して使われることが多い。そこで、あらかじめ講義の中で、次のように説明した。(1)ゴールはそれを達成すればプロジェクトを終えることのできる完了条件である。(2)目的はそのプロジェクトを発案し進めるに至った背景ないし意図であり、ふつうゴールより広い視野でとらえる。(3)目標はそのプロジェクトが成功したかどうかを判定するためのモノサシである。目的と目標はまぎらわしい言葉だが、「今年の販売目標は100億円」とは言っても、「今年の販売目的は100億円」などとは言わないことを思えば、違いを理解できるだろう。

ここまで説明してあるのだから、この演習問題はじつに簡単なはずである。たとえば「卒論研究」というプロジェクトをとったとしよう。その使命(ゴール)は「○○をテーマとした卒業論文を書いて提出する」であり、目的には「○○を研究して明らかにすること、ならびに無事に卒業すること」があげられるはずだ。そのための目標値としては、「少なくとも卒論発表で及第点をとる(ような内容にしあげる)」ことをあげなくてはならない。

ところが不思議なことに、『目標』のところに「実験器具の使い方を習得すること」とか「○○理論の文献調査で理解を深めること」などと書いてくる人がいる。これらは、すべて目的を達成するための手段・道具でしかない。どうも、手段と目標を混同しているらしいのだ。いかに実験器具を操るのが上達しようが、発表審査で落第したら、その卒論プロジェクトは失敗である。

しかし、おかしなことに、企業人を相手に同じ演習をやっても、同様に目標と手段を混同した答えが、しばしば返ってくる。人も知る立派な企業のエリート社員たちが、「目標」を正しく立てられないのだ。これはいったい、どうした現象なのだろうか?

もう一度書くが、目標とは、そのプロジェクトが成功したかどうかを判定するための、客観的に検証可能な基準である。なぜ検証するのか? それは、失敗であれ成功であれ、そこから、次のプロジェクトの成功のために「学び」を汲み上げるためだ。これは自分で経験から学び取り、自分で改善するための契機なのである。だから、目標は自分で設定しなければダメなのだ。それも、努力すれば実現できる程度に「実行可能な」ターゲットの目標値を。また主観的・定性的な目標では不十分で、はっきり誰でも測れて合意できるものでなければ役に立たない。

プロジェクトとかプログラムといった営為では、最初の目的・目標設定が非常に大事である。こんなことはマネジメントのはじめの一歩で、今更言うまでもないはずだ。しかし、どうやら「先進国に追いつけ・追い越せ」で長らくやってきた我々の社会は、この目標の自己設定がへたらしい。目標は誰かから与えられるもので、自分で考えるものではないのだ。大学に入るのは学んで賢くなるため(=目的)だったはずなのに、いつのまにか入学が自己目的化し、入試の点数で何点以上という目標がふって降りてくる。本当にこの試験勉強で自分が賢くなれるのかは、もう問わない。

「ERP導入プロジェクトをスタートさせます。目的は基幹システムの近代化で、ゴールは会計・販売・物流機能の全社展開です。」--ここまではたいていの会社できちんと宣言する。しかし、目標は? 売上増加、あるいは在庫削減、あるいはシステム運営費の削減? それが達成できたかどうか、いつ誰が判定するのか。ほんとうにERPを入れたら売上は伸びるのか? 売上増を達成できなかったら、それをどう教訓として活かすのか。こうした点は曖昧なまま、いつのまにかプロジェクトは終わってしまい、疲労困憊したチームメンバーと、現場のぶつぶついう不満やつぶやきが残るだけ、というケースを見かけないだろうか。

・・と、本当はここまでが話の導入部分で、これから『計画』と目標の二重帳簿について議論するつもりだった。だが、いつものくせで、少し長くなりすぎた。この問題については、また稿をあらためて書くことにしよう。
by Tomoichi_Sato | 2009-06-02 23:01 | 考えるヒント | Comments(0)