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なぜ工場を海外に移転するのか?

また海外の工場建設現場に来ている。今週、HPの更新が遅れたのはそのせいだ。私の勤務先はエンジニアリング会社で、仕事の8割は海外の顧客向けである。ただし今回のプロジェクトはめずらしく、日本企業が客先になっている。海外に工場を建設する仕事の手伝いである。

日本企業と海外企業(とくに欧米のメジャーな企業)では、同じ業種に属していても、客先として見た場合、まったく性格が異なる。企業間のつきあい方の根本が違うのだ。この話はまた別の時に書くが、その背後には「契約」というものに対する態度の違いがあるのだろう。

さて、日本企業の海外進出には二つのパターンがある。売り手として外に出るか、作り手として外に出るかだ。売り手として外に出る、とはすなわち製品を輸出して海外に販売チャネルを構築する行き方である。高度成長期とはまさにこれが始まった時期だった。安価で、良質な商品を作る。それが海外でも注目される。まず商社経由で輸出をはじめる。それから、海外に販売代理店をみつける。さらに量が拡大したら、現地法人を設立・拡充する。そして海外向け仕様の製品を作り始める・・

こういうケースでは、海外事業に携わるのは主に営業・マーケティング部門だ。また、商品の種類としては、当然ながら量産型製品(とくに見込み生産品)が中心になる。相手先は欧米先進国からはじまる。だから海外事業部門、というとカッコいいイメージがする。輸出先は、しかし次第に中進国にも広まっていく。

営業・セールスという仕事は現地性の強い職種である。その土地、その相手に近いところにいなくては“商売にならない”。当然、その国の人間を営業マンとして必要とする。日本人は管理者として支店にいるだけで、少数だ。だからこうしたパターンの企業では、ごく一部の人々(ふつうエリートコースと目される人々)だけが海外勤務を経験する。それも、せいせい米国か西欧のみの経験である。日本側では、相変わらず日本的発想の日本人たちが大勢をしめる。世界的ブランドの『グローバル企業』であっても、真にグローバルな視点を持つ者が、本社でも工場でもごく少数なのは、このためだ。

さて、もう一つの海外進出パターンは作り手としての進出、すなわち海外工場展開である。これはさらに「引きずられ型」と自主進出型に分かれる。前者は、大手メーカーの海外工場進出に引きずられる形で、部品サプライヤーが協力工場を出す形である。実態は「しかたなしに」が多い。これに対して自主進出型は自分の意志で海外に工場を求める。では、なぜ工場を海外に移転するのか。逆に言うならば、なぜ日本に工場を持たないのだろうか?

原料の産地に近いから、というのは一つの理由に違いない。素材産業で原料に大きく依存する金属や基礎化学などは、わざわざ輸送費をかけて原料を日本に運ぶより現地で製造(粗製)する方が合理的だ。最初に書いたように、私は今いわゆる東南アジアの僻地にいるが、これは金属精錬プラントを鉱山の近くに建設するプロジェクトのためである。

これとはちょうど逆に、消費地に近いから海外工場をつくる、という理由もあろう。安価な大量消費財は日本から運んでいたら、らちがあかない。現地で作って、現地で売る。これも一つの行き方である。この場合、日本市場は日本で作ることになるはずである。

しかし、製品が基礎素材でもなく安価な画一的消費財でもない場合は、どうなのか。顧客の好みがうるさく、製品仕様がさまざまで(あるいは個別受注生産で)、それなりに製造技術を要し、品質も高い製品。つまり、日本のたいていの製造業がつくっている商品の場合は、どうなのか。上にあげた二つの例、素材や大量消費財は、いずれも低付加価値の商品であることに注意してほしい。すなわち、日本企業が得意とする高付加価値の商品は、どこで作るのがよいのか?

答えは、はっきりしている。日本で作るのがよいのだ。なぜなら、そこが顧客市場にも技術開発の場所にも近いからだ。すなわち、コア・コンピタンスの競争の地に近いからだ。金属産業に例をとろうか。日本の鉄鋼メーカーはどこで鉄を作っているのか? 新日鐵やJFEはすべての製鉄所を鉄鉱石原産国に移転してしまったか? そんなことはない。相変わらず日本で作っている。そのわけは、鉄鋼製品は受注生産だからである。仕様にも品質にも納期にもうるさい自動車産業や建設産業を相手に、mm単位の精度で量産した製品を日単位で出荷する。こんな芸当は、アジアの工場からのんびり船で運んでいてはおぼつかない。だから先ほど、「粗製」と書いたのだ。最終製品までは、とても奥地ではできない。するべきでもない。

大衆消費財の場合も、日本の気まぐれな消費者とわがままなチェーンストアにきめ細かく対応するには、日本で小刻みな小ロットで生産する方がいい。多品種で季節性の大きな商品を見込みで作っていたら、製品在庫をしまう倉庫はいくらあっても足りなくなってしまう。

では海外市場向けの製品だったらどうか? これだって、高付加価値であるからには、技術開発を製造にすぐ反映できる場所に工場があった方が、物流費の多少の削減よりも効果が大きいに決まっている(シャープがなぜ1兆円もかけて堺に新たに液晶TV工場を建設するのか考えてみるといい)。

個別受注生産の場合も、設計技術者と工場が近い方が有利である。設計技術者を欧米各国にばらまけるほど大量に抱えている企業ならいざしらず(そんなもったいないリソースの使い方をしている企業は欧米にだって滅多にない)、普通は一カ所に集中した方が技術蓄積の面でも有利である。だったら、日本企業の場合、その場所は日本しかあるまい。

'90年代の不況以来、日本では工場の海外移転が大はやりだった。そのほとんどの場合は“製造コストが安い(だろう)から”という、いたく単純な理由である。移転先はアジア、それも中国が多かった。念のためにいうと、製造原価は、原材料費と労務費と経費からなりたつ。このうち、労務費比率が圧倒的におおきく、かつ資本装備率の低い場合にのみ、このコストダウンの皮算用は成立するのである。原材料の値段は、今日では万国共通だ。どこかの国に行けば極端に樹脂や鋼材が安い、などということはありえない。製造機械装置の値段だって、ほとんど同じだ。だから、差が出るとしたら労務費しかないのである。それも、品質や不良在庫のリスクと引き替えの、低賃金である。

2年ほど前から、ようやくこの風潮に反省が起こり、「製造業の日本回帰」などといわれるようになった。冷静に考えれば当たり前のことが、海外移転ブームに加熱した当時は、なぜか気づかれなかった。たしかに米国の製造業は'80年代に海外移転・空洞化が始まった。日本は米国の後を追っただけ、という人もいるかもしれない。しかし米国企業は圧倒的に大量見込生産中心であることを忘れないでほしい。プル型のお好きな日本が、プッシュ型生産の権化である米国企業のまねをしてどうするのだ。

では、日本の中ならば、どこに立地すべきか。もう長くなったので、この話の続きはまた別の機会に書こう。ただ、一つだけ指摘しておきたい。一番困るのは、日本の経営学あるいは経営思想に、真の工場立地論がないことだ。工場は手段である。しかし、必須の手段だ。その最重要な手段の立つべき位置について、誰も真剣に考えていないという状況ほど嘆かわしいことがあるだろうか?
by Tomoichi_Sato | 2008-06-22 13:58 | ビジネス | Comments(1)

究極の管理学とは何か

最近、知り合いの東大教授から面白いことを聞いた。「東大には、なぜか管理学系の学科がないのです。」と、この先生は言う。「たとえば工学部には管理工学科とか経営工学科といった学科がありません。経済学部には一応、経営学科がありますが、実質的には経済学科とは垣根が低く、一体に近いようです。工学系大学院にMOT(Management of Technology)を意識した『技術経営戦略学』が最近設置されたのが、唯一それに近い存在でしょうか。」

つまり、日本の最高峰と世間で言われている学府は、どうも「管理」を学問や教育の対象とは考えていない、ということらしいのだ。京大についても、Wikipediaで調べてみると「経営管理大学院」はあるが、これもつい最近(2006年)に設置されたばかりである。事情は東西でよく似たようなものらしい。こういう話は、生産管理だとかプロジェクト・マネジメントだとかで飯を食っている(つもりの)私にとって、ずいぶん気になることである。

ちなみに、私は現在たまたま、日本経営工学会誌「経営システム」の編集委員をしている。その関係上、大学で経営工学を教えている先生方と接する機会も多い。そこで耳にするのは、“文部科学省が科学研究費を配分する際に、経営工学が重点研究分野に選ばれることはまず期待できない”という話だった。

では、文科省が研究分野として期待しているのは何か。それは、ナノテクノロジーだとか万能細胞だとか先端機能性材料といった分野である。いいかえると、すべて「固有技術」の研究だ。“ものづくりニッポン”などと言いながら、われらが政府の重点政策にはものづくりの「管理技術」の研究や普及活動は、決して登場しない。MOTが唯一認知されている理由は、それが研究・開発のマネージを目指しているからだ。素晴らしい製品開発さえできれば、あとはいつのまにか工場で大量効率生産できるものと、皆が考えているらしい。

この国では、マネジメントに『技術』はないし、「管理技術」なる概念は認知すらされていない--こう考えると、いろいろなことが急に明らかになってくる。たとえば、技術なら、人から人へ伝承可能だし、科学的アプローチで向上することもありうる。でも管理は技術でないから、マネジメントの上手下手はまったく属人的なものだ、という信念が生まれる。したがって、生まれつき優秀だとか(これはつまり18歳のときに大学受験が上手だったという意味だが)、人生経験が豊富だとか、あるいは良い家柄の出身だ(=人を使うすべを若いころから見て学んできた)とか、そういうことが管理上手の物差しになる、はずである。だからこの国は学歴偏重と年功序列と同族経営が大好きなのだ。なるほど、なるほど。

あるいは、マネジメントとは社長とか部長とかいった地位に付随する権能である、という信念もありえよう。人に命令することが管理だと思い込んでいるのだ。“プロジェクトが上手くいかないのは、自分に人事権をくれない会社がいけないのだ”と信じ込むプロジェクト・マネージャーと同類だろう(「役割(Role)としてのプロジェクト・マネージャー」参照のこと)。それですむのなら、クリティカル・パスだとかWBSだとかいった技法は何もいらない。なるほど、巨大企業の情報プロジェクトが、軒並み火を噴くわけである。

もっとも、あるいは日本はもっと別の信念で動いている可能性もある。それは、「管理技術とはすなわち法律のことである」という考えだ。最高学府の法学部出身者が、中央官庁や政府や主要産業の枢要な地位を占めていく。そして一般大衆の従うべき方針を決定する。これが最適な管理の姿である、という思想が有力なような気がしてきた。この「一般大衆」の中には、あなたや私のような、理工学に従事するエンジニアも含まれる。法学は諸学の王である以上、どんな専門分野にも指令を出せるのだ。いや、そうだ、そうに違いない。その証拠に、日本の経済政策を決めているのは経済学ではなく、法学部出だ(ためしに過去50年間の日銀総裁の学歴を見るといい)。

工場やプロジェクトは多くの人とモノがかかわりあう巨大なシステムであり、固有の因果律や法則性があるから、それを効率的に運転していくには理論に裏打ちされた技術が必要だ。これを管理技術とよぶ。--これは経営工学に携わるものの共通な信念だ(むろん、マネジメントの本質には「人を動かす」という面があるから、技術論だけですべてがカバーされるわけではないが)。なのに、クリティカル・パスだとか部品表だとかいった、大学の3年生で教わる技法も知らない人々が、現実の企業を動かして「管理」している。それを不思議とも思わない学術政策が、国を動かしている。

法律こそ、究極の管理手法である、というのはつまり、掟と刑罰で人を動かしていくのがもっとも効率が良い、との思想である。ここには、「管理」と「権力」の混同がある。おそらく、科挙を生み出した中国の古代思想とどこかで通低しているのだろう。そして、この思想は、理工学出身者の頭の中にも無意識に浸透していて、「管理技術」という概念が生まれるのを阻んでいるのだ。私たちがこの古代思想と早く決別しない限り、私たちの社会は混沌と低迷から抜け出すことはできないだろう。
by Tomoichi_Sato | 2008-06-11 22:53 | 考えるヒント | Comments(2)

プロジェクト・マネジメントは組織としての能力である

プロジェクト・マネジメントという言葉は、この10年間でずいぶん普及した。それと同時に、誤認識や誤解もある意味で増えたと思う。そのひとつが、リーダーシップとの混同だろう。そもそも会社によっては、そもそもプロマネと呼ばずにプロジェクト・リーダーと呼ぶところもある(IT系企業に多いような気がする)。リーダーとは課長ないし係長相当の役職を示しているに過ぎないのだが、「リーダー」という言葉からリーダーシップを連想するのは、ほんのひとまたぎの距離だ。

ここから、プロジェクトの失敗はリーダーシップの欠如に原因する、という判断が生まれてくる。そうなると、“じゃあ、有能なリーダーをもってくれば解決する”、あるいは“リーダーシップの強い人物を任命すれば成功する”との短絡した結論が出てくる。リーダーシップ論だけではプロジェクトの失敗は救えない、という話は前にも書いたので、ここでは繰り返さないが(「プロジェクト・マネジメントにリーダーシップ論は要らない 2007/07/09」参照)、日本のIT産業には、なんだか英雄待望論みたいな気分が漂っているらしい。

もともと、「マネジメント」managementという概念自体が、日本人にとってわかりにくい。それなのに、“わかりにくい”という事態が意識されていないので、もっと始末に終えないのだ。たとえば「サプライチェーン」という言葉をだったら、対応する日本語がないから、“何じゃそりゃ?”とたいていの人間は思う。分かりにくさが意識されるから、誰しもよく理解しようと注意が働く。でも、「マネジメント」は“管理”とか“経営”という日本語が堂々と(?)ひかえていて、読めば分かったような気がする。そして、管理者の「人間力」の問題なのだな、などと思われてしまう。

実際は、プロジェクト・マネジメントの能力は、マネージャー個人だけの能力ではなくて、組織としての能力である。この点が理解されないので、議論がいつも空回りしてしまうのだ。プロジェクト・マネジメント能力には、上位構造・中位構造・下部構造の三階層がある。そしてこれらはピラミッド状になっている。頂点に位置するのは、PM個人の能力であり、具体的にはハード・スキルとソフト・スキルからなっている。

しかし、上位構造としてのPM個人の能力は、じつは中位構造によって支えられている。中位構造は、「プロジェクト遂行標準・手順書」「プロジェクト・マネジメント・ソフトウェア(ツール)」「過去の実績データベース」の3要素からなっている。そして、これら中位構造は、下部構造としての「組織体制・権限関係」の上に成り立っているのだ。図にすると、次のような関係である。

いいかえると、プロジェクトに向いた適切な組織体制や権限委譲の仕組みがないと、プロジェクト標準やPMソフトや実績データが構築されないし、こうした道具立てがなければ、いかに優秀なプロマネといえど、実力を発揮しようがないのだ。優秀なプロマネを社外から引き抜いてくればOK、あるいは最新機能のPMソフトウェアを買ってくればOK、なんて簡単な話ではない。ここでいう中位構造・下部構造とはすなわち、PMBOK Guideの「組織のプロセス資産」の中身なのである。

プロジェクトを中心としたビジネスを成長させる原動力は、最近の経営学の流行の言葉で言えば『能力構築競争』である。そして、組織の能力をはかるベンチマークが必要なのであろう。この種のものとしては、PMIの開発したOPM3があるが、これはちょっと大掛かりすぎる。CMMIはIT業界向けだが少し方向性が違う。もう少し簡便な、かつ業界をまたいで使えるものが必要だと私は考えている。こうしたモノサシがポピュラーになれば、なにせ横並びがお好きなこの国のことだから、あっという間に広がるだろうに。
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by Tomoichi_Sato | 2008-06-02 22:54 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)