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プラント業界のリスク・オーバービュー

プラント資機材の値上がりがはじまったのは、2003年の中頃だったと思う。最初はステンレス鋼の品薄だったのだが、みるみるうちに価格が急騰し、年が明けてもおさまるばかりか、勢いはますます激しくなった。品種もステンレスや合金材から、炭素鋼の値上げに波及していき、2005年は高止まりのうちに暮れた。2006年はニッケルや基礎化学材料も上げた。納期も長くなった。そのため、この時期にうっかりした見積を出して受注したメーカーやエンジニアリング会社は、ずいぶん影響をうけることになったはずだ。

プロジェクトのリスク・マネジメントは、まず計画段階でリスク分析表を作成し、方針を決めてコントロールしていくやり方が基本だ。リスク分析表には、考えられうるリスク項目を列挙し、その影響度を定量化し、かつその発生確率を想定して、重要度と対策をきめていく。こうしたことはプロジェクト・マネージャーの常識であって、誰でも必ずやらなくてはならない。リスク分析もせずにスタートするのは、天気予報も見ず、傘も持たずにピクニックにでかけるようなものだ。

しかし、それだけで十分なのだろうか。フランク・ナイトというアメリカの経済学者は、「企業活動を左右する真に重要な要因は、発生確率が予測できないような不確実性にある」と考え、確率が予測できる「リスク」と、確率が予測できない「真の不確実性」を区別すべきだと主張した。これは、不確実性や結果のばらつきをリスクだと定義する、たいていの経営学や金融工学の見解と真っ向からぶつかる。

2003年の当初に、資機材が5割も上がると想定できたプロマネは、ほとんどいなかっただろう。たいていのプロマネは、自分のつくるべきものについて、技術的・組織的・採算的リスクはよくわきまえている。しかし、資機材市場の高騰のように、すべてのプロジェクトに横断的な事象までは、とうてい予見できない。こうしたリスクを察知するためには、PMOだとかコントロールセンターだとかいった、高見からみる(オーバービュー)組織が必要なのだ。だが、それでもなかなか予見は難しい。

プラント・建設業界の資機材がなぜ高騰したのか。なぜ需給がタイトになったのか。それには大きく二つの理由が考えられる。一つは中国であり、もう一つは中東である。2008年オリンピックにむけて猛スピードで突進しはじめた隣の大国は、その旺盛な食欲で東アジア市場の資材をどんどん飲み込んだ(『チャイナ・シンドローム(2) 中国が買い占める世界のエネルギー資源』、タイム・コンサルタントの日誌から 2004/06/13参照)。中央政権が多少のブレーキを試みたが、それではぜんぜん止まらない。

ちなみに、最近、米国のEnergy Information Administrationは年報の中で、世界のエネルギー消費は現在から2030年までの間に、57%も増加するだろうというショッキングな予測を出した。中国は2020年代には、アメリカを追い越して、世界最大のエネルギー消費国になるという。当然ながら、中国を含む発展途上国のCO2の排出量も増大して、先進国をしのぐことになる。

いま、日本国内では石油製油所の改造工事が盛んだが、これも中国が影響している。製油所の装置構成をかえて、ガソリンや灯油といった薄利の消費財をつくる工場から、プロピレンのような化学原料を製造する工場にかえつつあるのだ。その化学品の行く先も中国である。

その中国は今や、あきらかな株バブルの中にいる。今年の初め頃、いったん株価が下げて全世界に波及したが、まだ過熱状態の中にいる。北京オリンピックまで本当にもつのか、疑問に思う人も増えてきた。ゆるやかに減速着陸してくれればいいが、あの国でそんな高度な制御が可能なのかどうか。クラッシュ・ランディングになったときの影響は、ステンレス高騰どころの騒ぎではあるまい。

もう一つの要因は中東のバブルである。これはもともと、原油価格がずっと高止まりしていることに起因している。そのため、中東産油国に大量のオイルマネーが流れ込むことになった。ExxonMobilやShellの好業績をみると、欧米の石油企業だけがもうけているかに見えるが、じつは世界市場におけるオイルメジャーの支配力はかなり下がっており、原油の利益の大半は産油国の国営石油会社に入るかたちになった。

とはいえ、いくら中東にオイルマネーが流れ込んだといっても、最近のプラント資機材の値上がりは投資事業計画に影を投げかけはじめた。すでに、延期やキャンセルになったプロジェクトも出始めている。

加えて、中東にも大きな不確実性がある。イラン問題だ。今年に入ってからずっと、米英は明らかにイラン攻撃を考えている。4月には英軍が領海侵犯を口実に露骨な挑発を行なったが、イランは賢くも(狡猾にも?)それに乗らなかったので、いったんは戦争の危機は去ったかに見えた。しかし、最近再び米国は空母をペルシャ湾に送り、大規模な演習を行なっている。トルコやパキスタン国境付近でも、イランと事を構えるべく多数を動員している。

その直接の背景には、イランの核燃料濃縮問題があるが、このままイランを放置しておくと中東でのプレゼンスが大きくなりすぎ、アラブ諸国が脅威と感じている現実がある。こうした情勢は日本のマスコミではなかなか分からないが、プラント業界に身をおくものとして、当然ながらイラン情勢については懸念をもってニュースをウォッチしてきた。たとえば東京財団の佐々木研究員による「中東TODAY」などを読むと、現地における緊張感がつたわってくる。まさにかつて、イラク戦争がはじまる前に、『海の向こうで戦争がはじまる』(「考えるヒント」2002/12/05)で書いたときとそっくりである。

こうして考えてみると、プラント業界の活況は、薄氷の上でたき火を焚いている宴のような状況だ。みなが賢明に振る舞って、何事も起こらずに好況が続くことを、切に望んでいる。しかし、どんな不確実性についても、いちおう考慮しなければならないのが、我々の因果な仕事なのである。
by Tomoichi_Sato | 2007-05-30 00:55 | ビジネス | Comments(0)

ITは組織形態をかえるか

Kさん。メールをいただいたのに、ご返事が遅れて申し訳ありません。ITは組織形態をかえるか、というご質問ですが、ちょっと考えはじめてみたところ、意外に奥の深い問題なのに気付き、どうご返事しようか迷っていたのです。私自身、まだ頭の中で完全に答えが整理しきれたとはいえません。

この問題が難しいのは、「組織の変化」を考える際に、それが構造の変化なのか機能の変化なのかを区別する必要があるからです。企業組織に限らず、どんな仕組みであれ、それが目的に対してはたすべき機能があり、その機能を実現するために諸要素を組み合わせて構造をもたせます。組織を論じるとき、ふつうの人はすぐ「組織図」を連想しますが、これは目に見える構造の面をあらわしているだけです。しかし、構造は機能とあわせて、しかも現実の制約条件の下でみないと、正しく理解できません。

ちょっとわかりにくいと思いますので、例を挙げましょう。A社は全国に販売網をもつ、耐久消費財とサービス部品のメーカーです。組織は営業部門、物流部門、生産部門といった縦割り型です。ところでA社では少し前に、サプライチェーン・マネジメントの実現のために生産システムの改革を行ないました。ここは、全国各地の営業所・デポで製品在庫や部品在庫を持っています。以前は、営業所単位で販売動向と在庫量を見て、出荷依頼を工場に対して行なう形でした。

ところが、各営業所の在庫をオンラインで結ぶとともに、A社では営業の出荷依頼業務自体をやめてしまいました。かわりに物流部門が毎週、オンラインで各営業所の在庫量を見て、ある定数から減った分だけ補充輸送するようにかえたのです。工場としては、各地からバラバラに出荷依頼(=生産指示)がくるかわりに、ある程度まとめられた形で物流部門から依頼が来るので、計画がやりやすくなりました。それも在庫が切れる前に前向きにアクションできるので、緊急オーダーが少なくなったのです。物流部門も、いくつかの補充品種の混載などを考える余地が出てきました。

さて、この会社はITで組織が変わったと言えるでしょうか? 組織図上は、何もかわっていません。しかし、機能的には大きくかわりました。営業部門から補充手配業務を減らしたことは、『使用者と補充者の分業』(「コンサルタントの日誌から」 2007/02/12)の観点からいうと、はっきりと進歩です。

そればかりではありません。物流部門は、以前はただ「言われたとおりのことをする」だけの部門でした。しかし、(1)NOという権限が無く、(2)成功して当たり前で失敗すると怒られ、かつ(3)付加価値がないから外注化でコストを下げるだけ、と思われている部署で、だれが喜んで働けるでしょうか。それが、少しながら采配の自由度をもつ部署に生まれ変わったのです。

組織論は、勤め人の最大の関心事でしょう。それは自分の評価と直結しています。できれば大きな部門の、上の階層になって、花形として責任ある仕事をしたい。みな、そう思っています。だから組織図の方ばかりに目がいく。機能はどうあるべきか、という話には、なかなかならない。なっても、自分のささやかな権限を少しでも拡大したい、という方向にばかり願望は向かいます。

Kさん。あなたが「ITは組織をかえるか」という問題を立てられたとき、その底には、“今の組織はかえるべきだ”という潜在的な意識があったことと思います。しかし、現状のどこに問題があるのか。それは機能の問題なのか構造の問題なのか。かえるとしたら、何の理由で、何を目的にかえるべきなのか。そこが大事です。まさか、栄達や権力がほしいから、という理由ではありますまい。

組織をかえると言うとき、たいていの人はフラット型を空想します。ますますピラミッド型に、管理階層を高くする方向にかわってほしいという人は、めったにお目にかかったことがありません(本社の上の方の人は別として)。

しかし注意すべきなのは、ITが組織のフラット化をもたらすか、というような問題の立て方をしないことです。「組織のフラット化」は、ビジネス・ジャーナリズムが外資系の高級経営コンサルと一緒に、一種のマジック・ワードとして宣伝したおかげで、それ自体が目的化したきらいがあります。「二大政党制」だの「国際化」だのと同じ、是非の議論が忘れられた思考停止用語と化しているので、気を付けなければなりません。

ITの発達はほぼ確実に、中央集権化をうみます。これまで地方や現場が自律性をもてたのは、状況が本社からすぐ見えなかったからです。組織のトポロジーは、指示命令形態と情報伝達速度によって決まります。情報と意思決定の関係がこれを左右するからです。そして、意思決定(権限)範囲は、原則的には「責任」の範囲(これをスコープと呼ぶ)に対応するわけです。

Kさん。私は、すべての企業に共通な、理想的組織像など存在しないと考えています。ITが、その理想像を「ベスト・プラクティスとして」提供してくれる、などと思わないことです。まず目的があり、必要な機能がある。そして制約条件を満たすように、構造を決めていく--これが「設計」というものではないですか。ならば、制度設計も同じです。エンジニアならおわかりでしょう。どうか、その視点を忘れないでください。
by Tomoichi_Sato | 2007-05-21 23:21 | サプライチェーン | Comments(0)

プロマネのハードスキルとソフトスキル

「ハードスキル」と「ソフトスキル」という用語をはじめてきいたのは、2003年のことだったと思う。米国で参加した会議におけるPMコンサルタントの講演で、この区別を知った。プロジェクト・マネジメントに携わる人間のスキルを、「ハード」と「ソフト」に二分する思考方法は、そのときまで私の中には無かった。

米国の思考法は、つくづく「分けていく」思考法だな、と思う。分類し、分析し、分業する。全体を部分に細分化して、それぞれの特徴・特性を多面的に把握する。そして目的合理性の見地から、それらを使い分け、組み合わせていく。だから道具立ては専門分化したツールの集合体になる。PMBOK Guideの構成を思い出してほしい。まるでゴルフバッグに入ったクラブの束みたいだ。あるいはナイフとフォークを何本も並べるフルコースの食事のようだ。(これに対し日本人は最初から最後まで一膳の箸だけですませる。最小限の道具だけで何でもできるよう、自分の側があらゆるスキルを駆使するのが日本のスタイルだろう)

さて、そのスキルだが、プロジェクト・マネジメントの理論や手法やツールなど、形式化された知識を使いこなせる能力、これを「ハードスキル」とよぶ。一方、問題解決や交渉やモチベーションアップなど、非定型な(主に対人的な)技能を「ソフトスキル」という。

当然ながら、良いプロジェクト・マネージャーには、この双方のスキルが必要である。では、これらはどう習得すべきか? 習得の面からいうと、両者は全く異なる。ハードスキルは本や座学で学べる。しかしソフトスキルは、持って生まれたセンスを経験の蓄積の中でみがいていくしかない。前者はコンピュータなどの仕組みに乗せやすいが、後者はなかなか仕組みにのせにくい、といってもいい。

と、こう書いていくと、“だからソフトスキルを充実させる方が重要な課題で・・”とつながりそうに思えるかもしれない。しかし、私は今のところ逆だと考えている。ソフトスキルは、部下を持ち中間管理職の立場になったら、誰でもその必要性に気づく。プロジェクト的職種だろうが、そうでなかろうが、あまり関係がない。だから世の中の本屋には、リーダーシップ論や人心掌握術や処世訓があふれかえっているのだ。だれもがこの問題について悩んでいる。つまり、だれもがこの問題を認識している訳だ。

ところが、プロジェクト・マネジメントのハードスキルに関しては、その存在すら知らない管理者がいまだに圧倒的に多い。問題を認識していなければ、改善の対策などあるわけがない。さすがにIT系企業ではCMMiだとかPMBOK GuideだとかITILだとか、毎年あの手この手でおどかされているから、うすうすその存在については気がついている。しかし、それ以外の業種・職種ではどうだろうか。製造・生産技術・研究開発・マーケティング・経営企画・サービス・・・あらゆる分野で非定型な「プロジェクト」は存在する。中には企業の短期・中期の命運を左右する大きなプロジェクトもある。にもかかわらず、こうした世界のプロマネたちは、「プロジェクト管理に理論がある」という基本的なことさえ知らずに仕事をしているかもしれないのだ。まるで、海図も測量器具も知らずに航海に出る船長のように。怖ろしいではないか。

たとえば、12ヶ月スケジュールのプロジェクトがあったとしよう。今、開始してから3ヶ月たった。当初の計画では、現時点までに600万円の出費が予想されていた。ところで、実際の出費は500万円だった。このとき、「このプロジェクトはコストを予定内におさえているから安心だな」とプロマネが判断したら・・それは決定的に間違っている。プロジェクトのコスト管理は、定常業務と同じような予実対比で見てはいけない。これがアーンドバリュー分析(EVMS)の教えである。

EVMSに限らず、WBSコード、アロウアンス、クリティカル・パス、トータルフロート、TRM、マイルストーン、ドキュメント・インデックス・・・これらプロジェクト管理の基本的な理論や手法はみな、ハードスキルの範囲だ(とはいえ、適当に選び出したこれら用語がすべてカタカナの外来語であるということ自体が、この国のビジネス文化を象徴しているなあ)。

幸い、ハードスキルは短期間で一通りの知識を学べる。学んだ知識を実践力にかえていくためには繰り返し練習が必要だが、その機会は実務にいくらでもころがっている。だからこちらの方が優先課題だ、と私は言うのである。そのためにはまず、プロマネ、ならびにその上にいる上級管理職が、ハードスキルの存在を知らなければならない。

私の知っている米国人は長らく金融関係でシステム開発にたずさわっていたが、中年になってからこうした理論を学び、「あと10年早くこれを学んでいたら、あれほど苦労せずにすんだのに!」と痛感したという。彼はのちに、独立してPMコンサルタントとなり、こうした知識の普及活動に従事することで、大勢の人が自分と同じような無駄な苦労を避けられるように貢献している。

前回、私は『だれのための生産管理?』(「タイム・コンサルタントの日誌から」2007/05/06)で、人間不在の管理論を強く非難した。しかし、今回はまったく逆のことをあえて書いている。人間論を排除したPM論が必要なのだ。リーダーシップ論も人格論も部下の掌握術も、いらない。まず、ハードスキルを学ぶべし!
by Tomoichi_Sato | 2007-05-14 22:00 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

誰のための生産管理?

「佐藤さん。もし3億円の宝くじがあたったら、どんな仕事を選びます?」 ソフトウェア会社の親しい営業マンが、私にたずねてきた。客先からの帰り道、一緒にローカルな電車に乗っているときだ。え、3億円当たったらどんなものを買うか、じゃなくて? 何だか質問がおかしくない? 思わず、そう聞き返した。しかし、聞き間違えではなかったらしい。彼はこう答えた。

「今は私、ソフトウェアの営業をしている訳ですが、学校を出る頃は、どんな仕事に就こうかいろいろ迷ったわけです。収入と、仕事の内容と、労働条件と、就業地と、いろんな条件を天秤にかけて、多少の成り行きもあって今の仕事になりました。で、もし3億円当たったら、(親兄弟に多少配っても)あとは、今の自分の生涯賃金の残りの分、あるわけですね。贅沢さえしなければ、食べる心配は無くなります。

でも、そのとき、毎日何もせずにだらだらしていたら、自分がダメになると思うんですね。そこで、あらためて仕事を選び直すとして、でも最大の制約条件である賃金の多寡を、もう考えなくてもいいんですから、だとしたら何がいいかな、なんて時々思うんです。」

今、食べる心配が無くなったら、どんな職業を選び直したいか。それは気軽に聞こえながら、ずいぶん本質的な問いだった。いや、それよりもっと心を打たれたのは、『毎日遊んでいたら自分がダメになる。だから働かなくちゃいけない』と考える、彼の市民的倫理の誠実さだった。この人はずいぶん信頼できる、まともな人だな。そう、思った。たしかに、働くことは、人間がちゃんと生きていくために必要なことだ。かつて、精神を健康に保つ秘訣をたずねられたフロイトは、「働くことと愛すること」と答えたという。

それでは、工場で、来る日も来る日も似たような仕事を、それもキツくてキレイでもない仕事を続けていく労働者にとって、働くことの意義は何だろうか。代償としての賃金だろうか。たしかに、それが最大の目的ではあろう。しかし、それだけで人間は仕事を続けるだろうか。人が働くのは、多少なりともそれが好きであり、かつ、それが自分の精神的満足につながるからである。仕事がなぜ満足につながるかのか。人間は(不思議なことに)「だれか他者に求められる」ことを必要としており、仕事はその製品やサービスなどの成果を通じて、だれかの求めにフィットすることを示すものだからだ。それが付加価値というものの源泉なのである。

ちょうど1年前、『生産管理とは何か』(「生産計画とスケジューリングの用語集」2006/5/07)で私は、“生産管理とは、『生産システム』の円滑な運用のために必要とされる間接業務の全てを指す”と書いた。これをもっとわかりやすいように敷衍しよう。それは、こうだ。「付加価値を生み出す直接作業を、サポートするための間接作業すべてが、生産管理である」、と。

付加価値を生み出す直接作業、とは何か。それは、部品や材料を加工し組み立てる作業だ。ならびに、製品を工場から消費者の元に運ぶ作業である。それ以外はすべて間接作業だ。治具をセットしたりバイトを研ぐのも間接作業、部品を倉庫から配膳するのも間接作業、機械設備の保全も間接作業。差立や生産指図をつくるのも、生産計画やスケジューリングをたてるのも、設計図を引くのも、すべて間接作業である。工場の管理職として朝礼で訓示を垂れたりするのは間接業務の最たるものだ。

こうした間接作業が不要だ、などと言っているのではない。バイトがなければ旋盤はひけない。部品が製造ラインにこなければ組立はできない。だが、こうした仕事はすべて、直接作業を「支える」ためにあるものだ。プレイヤーではなく、サポーターである。主役はあくまで製造部にいる労働者であって、あとの物流課や資材課はそれを下で支えている。その下にはさらに、生産管理課や生産技術課や設計課などの技術屋がいる。その下には管理職が、そして一番下の縁の下に、「工場長」がいるのだ。こうして、工場組織図のピラミッドとはまったく上下が逆の、逆三角形型のピラミッドが見えてくる。これが、生産システムというものの姿なのだ。

さて、それで。プレイヤーとして最上辺にいるはずの、製造課の労働者の働くヨロコビとして、いったい何が差し出されているのか。賃金だろうか。尊敬だろうか。正社員としての身分の安定だろうか? かれらが宝くじにあたったとき、それでも選び直す仕事だろうか?

トヨタ生産方式を導入すると称して、脱コンベヤライン・一人屋台生産の方式が広まりはじめたとき、多くの生産管理者は「これで生産量に応じたフレキシブルな配員が可能になる」といって評価した。生産技術者は省スペースに安堵した。これらはお金に換算できることだ。もう少し労務管理よりの人間は、立ち仕事が腰痛や腕肩の故障を減らすことを喜んだ。これもまあ、お金にかかわる問題だ。

しかし、「これで働く人間のモチベーションアップにつながる」という面をトップに評価する人は、決して多くなかったように思う。なぜモチベーションアップか。それは、自分の責任範囲が一つの製品全体に及ぶようになるからだ。それが働く人間の喜びではないだろうか。ただし、これは組立工程だから言えることで、加工や成形工程となると、製品への関わりは部分的にとどまらざるを得ない。こうした作業区の直接工には、人間としての最低限のシビル・ミニマムとして、何が配慮されているか。それが生産管理の中心課題ではないのか。

「シビル・ミニマム」という言葉は、もう死語に近い。『パンのみに生きるにあらず』(「コンサルタントの日誌から」2002/2/08)にも書いたとおり、企業は利益目的の経済合理性がテーゼであるにもかかわらず、仕事に魅力がないと続かないという、非合理性を合わせ持っている。会社というもののもつ、根本的な矛盾である。フロイトの言う「働くことと愛すること」を、直接工がどう仕事で感じられるか。そのことを忘れた生産管理は、人間不在の管理論、根と肥料を忘れた農業のようなものだ。

え? あなたの会社では、すでに現場は全員、派遣になっている? 低コスト化のためにEMS(受託製造会社)に売却した? おかげで利益が上がって株価も上昇した、と。なるほど、おめでとう。すでにあなたの会社は根っこを失った「切り花」の状態だ。根を捨ててポータビリティを獲得したわけだ。美しく咲いている間に、資本市場というマーケットで、禿げ鷹ファンドに切り売りされる日も遠くないだろう。
by Tomoichi_Sato | 2007-05-06 10:40 | サプライチェーン | Comments(0)