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赤信号をわたる国

知人が長い休暇を利用して、シベリア鉄道経由でヨーロッパに旅行した。シベリアを鉄道で横断して欧州に行くには、片道だけで7日間くらいかかるという。たぶんシベリア鉄道とは、それに乗ること自体が半分目的みたいなものなのだろう。列車の上でひたすら時間を無為に(有為に?)すごす点が贅沢なのだ。

帰国後の彼に感想をたずねたら、「ドイツ・フランスまで足をのばして、レンタカーで回ってきましたが、佐藤さん、フランスってのは危険な国ですね。」という。どうして?とききかえすと、「だって、あそこの国じゃみんな、赤信号でも道を渡るじゃないですか。危なくってしょうがないですよ。まったく、基本的な交通マナーも守らない。マナーが最低の国です。」というのが彼の答えだった。

そうなのだろうか。私もあそこの国に1年近く暮らしたが、幸いあまり危ない目にあった記憶がない。むしろ最近の日本の方が怖いくらいだ。しかし、彼のいいたいことはわかる。フランスでは、横断歩道の信号が赤でも、歩行者は平気でわたっていく。むろん、わたる前に、いちおう自分の目で左右は確認する。だが車が少ない、あるいは自分の足で渡りきれる、と判断したら、皆どんどん横断してしまう。自己責任でリスクテークしている、というわけだ。彼らにいわせれば、“車が一台も来ないのに赤信号で止まって待っているドイツ人はアホだ”ということになる(この両国は、お互いを馬鹿にする表現には事かかない)。

ところで、念のために統計データを調べてみると、交通事故の年間犠牲者数は日本の方がフランスより多い。ただし人口も2倍ちがうわけだから、確率でいうとフランスの方が高いのは事実だ。それでも、歩行中の事故被害にかぎって比べると、日本の方が明らかに分がわるい。赤信号をわたる国の歩行者は、轢かれる確率が日本より少ないのだった。いったい、なぜだろうか?

理由は、簡単である。あの国では、自動車の方がとまるのだ。運転する側から見ると、道路では青信号であっても、いつ人が渡ろうとしてとびだしてくるか、わからない。いきおい、歩行者のいる道では慎重になる。高速道路では気がちがったみたいに飛ばす彼らも、街なかでは安全運転せざるを得ない。だから歩行中の事故が少ないのだった。そして(ここが大事なところなのだが)、“車は止まるべきもの”と信じているから、歩行者は赤信号でも渡るのである。

逆に、日本の車は青信号では減速しない。なぜなら、歩行者は赤信号を渡らないものだという社会的な合意事項(暗黙の前提)があるからだ。日本で、赤信号を『自己責任』で毎回渡っていた日には、命がいくつあっても足りるまい。

もうおわかりだろうが、フランスと日本では、交通システムの中で、ゆずり合いのバランス点がちがうのだ。日本では歩行者が我慢し、フランスでは自動車が我慢する。これを、歩行者という一断面だけで切って、「マナーの良しあし」で比較するのはまちがっている。

ちなみに、以前紹介したイギリス風の『ラウンドアバウト』(ロータリー交差点)も、フランスには時々存在する。そしてこいつは、十分危険である。嘘だと思ったら、ためしに凱旋門の周囲をめぐるエトワールのロータリーを、あるいて渡ってみればいい。ただしその前に十分な生命保険をかけておくことをおすすめする。フランスのロータリーでは、運転者は自分の行き先の道にでることに忙しく、歩行者には注意を払っていないからだ。

交通システムは、人間と機械(自動車)と設備(道路・信号機)がつくる、典型的な多目的システムである。その中では、互いの目的を達するための相互調整(交通整理)が必要になる。調整ためには、多少のゆとり=自由度(バッファー)の存在が、システムにおいて必須となる。それが道のゆずり合いであり、あるいは車間距離である。

では、交通システムにおけるマナーとは何だろうか? それは、システムの中で自由度やバッファーを置く場所についての、無言のルールである。あるいは、暗黙の合意事項だといってもいい。そして、マナー違反とは、システムの中にリザーブされている自由度を、勝手に消費してしまうことなのだ。安定した、すぐれたシステムは、大多数の長期的な利益のために自由度を確保しておくという暗黙知を、その内部に持っている。それを個人が短期的な利益のために蕩尽しないこと、すなわち長期的利益のために短期的利益を抑制することが、「マナー」と呼ばれるものの中身である。

最近の日本の交差点では、自動車が黄信号でも赤信号でも渡りきろうとして突入してくるのをしばしば見かける。それも案外、年輩のドライバーが多い。彼らは、長年親しんだ暗黙知をどこに置き忘れたのだろうか? 社会がリザーブしている自由度を、自分の短期的利益(それもほんの数十秒の利益)のために使おうと、いつ心がわりしたのか? 

長い不況のトンネルを抜けて、日本は景気が上向きになったと言われる。しかし、その好況の中で、目前の短気利益志向がどんどん進行しているのかもしれない。私たちの社会システムは、すでに自由度を失って、きしむ音をたてはじめていないだろうか。この国の社会全体が、赤信号を渡りはじめていないだろうか? これが自分一人の杞憂であることを、私は切に願っている。
by Tomoichi_Sato | 2007-02-25 21:53 | 考えるヒント | Comments(0)

使用者と補充者の分業

ずいぶん以前のことになるが、病院の中の調査を少し手伝ったことがある。目的は物品管理と物流動線の合理化だった。プラント・エンジニアリング会社に勤めているくせに、なぜかプラント以外の分野にしばしばかかわる巡り合わせになっているらしい。しかし、工場で用いるIE(Industrial Engineering、日本語では経営工学と呼ばれることが多い)の手法を病院内業務に用いて調べると、いろいろと面白いことがわかってくる。

その一つは、ナースの業務時間の分析である。知ってのとおり、ナースの仕事は忙しい。しかし、その中身を調べてみると、じつはベッドサイドで患者に接している看護の時間は、決して比率が高くない。それ以外に、ナースセンターにおけるさまざまな業務の時間が多く、しかもその内容をいろいろと調べてみると、申し送りや看護記録の記帳以外に、伝票書きなど雑用ともいうべきクラリカル・ワークやモノ探しの時間がばかにならないのだった。

医療の現場では、医薬品以外にも衛生材料やディスポと呼ばれる使い捨て材料、リネンなどさまざまな物品が行き交っている。いわゆる多品種少量のモノの流れである。そうしたものの多くは、ナースセンターに「現場在庫」として保管され、使用され、補充されている仕組みになっている。

そして、たいていの日本の中堅規模以下の工場と同じように、その現場在庫の管理レベルは、決して高くない。まず、在庫量が把握できていない。いや、それ以前に、モノがどこにあるか場所が決まっておらず、いちいち探さなくてはならない。見当たらないと、払出し伝票を書いて、薬局や中央材料室にもらいにいく。当然、毎回少し多めにもらってくる。使用残がでたら、ナースセンターに余剰としてストックしておき、次回にそなえるわけだ。しかし、もらってきた担当者が勝手気ままな場所におくから、シフトがかわると別の担当者は見つけられない。そこでまた払出し伝票を書いて薬局に受け取りに行く。こうして、ただでさえ狭いナースセンターは雑多な在庫品であふれかえり、しかも気づかぬ内に使用期限が過ぎてしまったりする・・。

こうした状況下で、しばしば病院の経営者は、高価な薬剤の在庫管理がいいかげんになっていることを問題視する。しかし、我々の見たところ、もっと大きな問題があるのだった。それは、ナースの時間管理上の問題、すなわち、「直接時間比率の減少」である。本来、ベッドサイドで直接、患者の看護をすることがナースの最大の仕事であるはずだ。しかし、ナースの勤務時間が、そうした直接作業とは関係のない、伝票書きだの薬局までの往復などといった間接作業についやされてしまう。これは、看護レベルの確実な低下をもたらしているにちがいない。

それでは、どうすべきか。こと物品管理に関する限り、われわれの答えは明快である。工場と同じことをすればよろしい。それは、「使用者と補充者の分業」であった。

たとえば、自動車工場を見学した人ならご存じのように、組立ラインの近くには、組立作業に必要とする多種多様な部品が、棚や箱に整理され、あるいはセット組みされて並んでいる。組立作業の従事者は、そこから部品をとって使用する。そして、ラインサイドの部品が足りなくなると、組立工とは別に、補充係の担当者が間髪を入れずに補充する仕組みとなっているのだ。だから、組立工がモノ探しだとか伝票書きだとかで直接時間を減らさずにすむ。彼らは、組立作業だけに専念できるようになっている。

物品の種類や量が増えるにしたがって、使用者と補充者を分業させるのは、最初にふれたIEの定石である。病院において、われわれの設計した解決策も、これに準じたものだった。まず、ナースセンターに物品管理に適した機能的な棚とトレーを配置する。その中に、どの物品をいくつ配備すべきか、使用実績データを分析して(ま、これが大変なのだが)決める。そして、補充作業は中央材料室の責任とする。

ナースセンターの現場在庫の在庫管理は、「定数補充」とよばれる方式がもっとも適している。これも工場と同じだ。定数補充とは、定期・不定量発注による補充だ。もっと平たくいうと、担当者が週に1~2回巡回して、トレーやボックス内の物品の残数を調べて記録する。そして、消費して足りなくなった分だけ、そこに補充するのである。在庫定数が20個だとして、今日調べたら、12個残っている(つまり前回の補充日から8個使用したわけだ)。そうしたら、8個補充して、20個に戻してやる。7個消費だったら、7個補充してやる。つねに、ナースセンターの現場在庫は一定数を確保して、品切れにならないようにするのである。あるいは、フルに物品の詰まったトレーやボックスをあらかじめ運んできて、トレーやボックスごと交換してしまい、補充詰め合わせ作業は中央材料室に持ち帰ってからやってもいい(混み合って狭いナースセンターでやるより効率的だ)。

そして、機能的な現場保管の仕組みというのは、基本的にこうしたものなのだ。これは、たとえていうならばコンビニの飲料が並んでいる冷ケース(冷蔵庫)のようなものである。買い物客はドアを開けて手前から商品を取り出し、レジに持って行く。客が使用者である。店員は、冷ケースの裏側から商品を補充する。さらにいいことは、コンビニの冷蔵庫は入れる側と出す側が分かれているため、先入れ・先出し原則が守られることだ。だから、賞味期限切れのリスクが少なくなる。

これに対し、従来の在庫管理とは、家庭の冷蔵庫のようなものだった。自分が買ってきて補充し、自分で使用する。少量の場合は、これでもよかろう。しかし、最近の家庭用冷蔵庫は容量が増えてきている。中に何と何があって、いつが賞味期限で、どれをいつ使う予定かなど、当の主婦も覚えきれなくなっているのではないか。だから、家庭でも、もしかしたら冷蔵庫の仕組みを変えていく必要があるのかもしれない。

じつは、このような定数補充方式は、わが国でははるか昔からあった。「VMIとウォールマートと富山の薬売り」(2006/10/20)でも書いたとおり、いわゆる富山の薬売り方式がそれである。しかし、そのメリットや、成立条件については、あまり正確な分析がなされてこなかったように思われる。もう一度いうが、いちばん重要なことは、使用者の直接作業時間比率が向上することなのである。在庫管理は、それ自体が自己目的化してはいけない。どれだけエンドユーザ(病院ならば患者さん)に対する付加価値生産性の向上に資するかで、判断すべきなのである。
by Tomoichi_Sato | 2007-02-13 22:55 | サプライチェーン | Comments(0)

なぜ信号機が必要か

イギリスの都市近郊を車で走ったことがある人ならご存じだろうが、あの国には「ラウンドアバウト」なる交差点形式がある。「ロータリー」ともいうが、日本のロータリーはふつう駅前くらいにしかなく、そこは車が周回する場所というより、タクシーやバスが停車して乗客の乗り降りをさせる所というイメージだ。ところが英国のラウンドアバウトは通常の交差点に近い機能を持っている。四方からの道路が一点で交差して十字路をつくるかわりに、5-10m半径の円環路に接続している。そして車の流れは一方向(あの国は左側通行だから時計回り)にのみ進むことが許されている。

ラウンドアバウトに入った車は、必ずその流れにのって進み、自分がいきたい方向の道から円環の外にでるルールになっている。この交通システム(?)の特徴は二つあり、(1)車は止まらずに円環の流れにそって自分のいきたい方向にいける、(2)したがって信号機は必要ない、というしくみである。自由かつ闊達なるこの仕組みがイギリス人はたいそう自慢らしく、彼らの支配地域だった中東などでも、よく見かける。

たしかに、いったんなれてしまえば、これはなかなか良い仕組みだとわかる。円環路の流れに合流したり分岐したりするところは若干の運転スキルが必要だが、これにも優先の決まりがあり、危険なことはない。いかにも、紳士の国らしい大人のしきたりであるな、と感じたりする。なにより、誰にも命令指示されることなく、かつ自分が希望する方向を選べる点が、いかにも自律分散・民主的ではないか。

ところで数年前、中東で新聞を広げていたら、「トヨタ・ロータリーをつぶして、信号機を設置します」というニュースをみつけた。このロータリーは別にトヨタがつくったわけではなく、同社の大きな宣伝ポストが近くに立っていたからつけられた市民の愛称だったらしい。その親しまれたロータリーをつぶして、信号のある交差点に改造する工事をするという。数日間は交通が遮断されるから、記事になったのだろう。

では、なぜこのように素晴らしいシステムであるロータリーをつぶして、渋滞と喧噪の象徴である信号機を導入するのか。中東がイギリス支配に反抗する政治的象徴なのか? それとも民主主義など眼中にない首長国の陰謀なのか? --むろん、そんなことではない(と思う)。記事によれば、彼らの理由説明は、きわめて単純なものだった。それは、「交通量の増大」である。

英国郊外の美しい(場所によっては多少醜い)街並みを走っているときには気づかなかったが、ラウンドアバウトは、車の交通量があまり多くないときのみ、快適に機能するものなのだった。入ってくる交通量がある一点を超えて増大すると、円環の流れに合流することができずに左折待ちの車の列がだんだん増えてくる。待ち行列の理論をご存じの方ならわかるはずだが、到着する車の頻度がロータリーの円環路の最大流量に近づくにつれて、この列は加速度的に長くなっていく。つまり、ひどい渋滞現象をひきおこすのだ。こうなると、とても非能率な民主主義社会が出現する。

信号機つきの十字路は、これを指示命令方式で遮断する。そして、縦横の流れを交互にせき止めて、減速せずに通過できる直線的な流れをつくりだす。道の通行を半分の時間は止めてしまうのだから、信号はたしかに(ミクロな視点では)運転者の敵であり、道路の輸送能力をかなり減らすことになる。しかし、交差は地理的にどうしても生じるものだ。そして、信号機つき十字路は、自由闊達なラウンドアバウトよりも、さばける交通量の上限が大きいのだ。

それでも、交通量の増大とともに、信号機つき十字路もいつか限界に達することがあるだろう。そのときはどうするか? ご存じの方もあろうが、複数の信号を系統的に制御して、流れの遮断を同期化してやるのである。大きな国道沿いに(不幸にも)住んでいる人はこの事実を経験的に知っているはずだ。

さて、私は何を言おうとしているのだろうか? これまで読んでこられた方は、もううすうす気がついておられると思う。生産管理やサプライチェーン・マネジメントにおいて、集中管理と協調分散のいずれが良いかという議論が時々ある。しかし、こうした論点を単なる「あれかこれか」のドグマとして論じても、仕方がないということだ。私は、『質量転化の法則』、あるいは(自分の好きな用語で言えば)『スケールアップの法則』の信奉者である。量にしたがって、システムは質を変えるべきだと信じている。

設計の指示系統は混乱し、工場は材料や仕掛品であふれ、誰もが毎日の仕事に追われて改善どころの騒ぎではないような職場があったら、それはたぶん、車が増えすぎたロータリーなのだ。量の増大に質の変化が追いついていない、いや変化の必要性に気づいていない、ということを示している。そこには、信号機が必要である。信号機があるのに混乱しているのだとしたら、そこには信号管制システムが必要なのだ。

信号機は、マネジメントでなく、コントロール(管制)をするだけだ。プロジェクトとか生産とかを論じると、すぐマネジメントだの人材だのの話になるのが最近の傾向のようだが、私はその前に考えるべき事があると思う。それはコントロールなのだ。

プロジェクト・マネジメントではなく、まずプロジェクト・コントロールを。生産管理ではなく、生産コントロールを! 
by Tomoichi_Sato | 2007-02-09 00:06 | 考えるヒント | Comments(0)