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「マイナス在庫」の意味

サプライチェーンにおける在庫問題を考えるとき、だれしも一番違和感を感じるのは『マイナス在庫』という用語に突き当たったときではないか。「マイナス在庫を許すべきか、どうか」というような問題で、大のおとなが議論をたたかわすのは、奇妙な光景といえなくもない。だって許すも許さないも、在庫の量なんてマイナスになりようがないはずではないか。

たしかに、在庫量を「倉庫にある現物の量」と理解すれば、ゼロになることはあっても、マイナスになるはずなど無い。しかし、在庫の話は、そう単純ではないのだ。なぜなら、そこには二つの要素、帳簿在庫と引当の概念がかかわっているからだ。

まず帳簿在庫の話からしよう。これは理論在庫とも言う。“帳簿在庫”とは“実棚在庫”と対比される概念である。実棚在庫(現物在庫)は文字通り、倉庫の棚の上に実際にある数量だ。これに対し、理論在庫の方は、帳簿上の入庫と出庫の差し引きから、「現在これだけの数量があるはず」と計算された結果である。先月のおわりに、部品Xは2個あった。今月、さらに3個、サプライヤーから仕入れた。しかしすでにこれまで4個、製造に使用した。だから、

 理論在庫=前期末の在庫量+供給量-使用量
 
で、つごう2+3-4=1個残っているはずだ、と考える。ところが、たまにおかしな事が起こる。たとえば、「じつは今週さらに製造ミスで2個よけいに使用しました」という報告が追加で上がってきたりするのだ。なぜ!? そうしたら在庫量は2+3-4-2=マイナス1個になってしまうではないか。あなたはあわてて倉庫に確認に行く。すると棚にはまだ現物が2個残っていて、あなたは狐につままれたような気分になる。

こうなるケースのほとんどは、「前期末の在庫量」が正しくなかったためだ。ほんとうは、前期末には4個残っていたのだろう。上の式の表記はじつは不十分で、「前期末の理論在庫量」とすべきだ。そして、理論在庫(帳簿在庫)は実棚在庫とは必ずしも一致しない。これがいかに一致するかは、在庫精度という尺度で測る。そして両者を一致させるために、定期的に棚卸を行なうわけである。

むろん、これ以外に、供給量や使用量の数字に誤差があって、帳簿上のマイナス在庫が生じるケースもある。たとえば材料の使用量は製造ラインで機械がリアルタイムにカウントして行くが、補充による供給量は手書き伝票の転記入力で1日遅れる、などというのはよくある話だ。こうなると、その1日間は理論在庫がマイナスになってしまう。

マイナス在庫が発生する第二の要因は、『引当』である。引当とは、“今後消費する予定です”という、一種の予約行為だと思えばよい。予約であるから、現物としてはあいかわらず棚の上にある。しかし、見かけ上は12個あっても、そのうち8個は、すでに来週の生産に使う予定かもしれない。したがって、「未引当在庫」は4個という事になる。ところが、何か緊急の事態が起こって、棚の上から部品を10個出庫して、使用にまわしてしまった。このとき、現物は2個、棚の上に残っているが、未引当在庫はマイナス2個、ということになってしまう。このままでは、来週の生産に支障がでることになる。

在庫品のコントロールをコンピュータ・システムでやっているとき、もしマイナス在庫を許さなかったら、どうなるだろうか(コンピュータは帳簿の一種であり、その中の在庫数値は理論在庫量であることに注意してほしい)。そうすると、目の前に現物があっても、製造に使用できないという事態が生じる。と同時に、未引当在庫にマイナスを許したら、どうなるか。すると、製造予定を無視して出庫できることになるから、製造現場が欠品で混乱することになる。どちらもうまくないようだ。

このような矛盾が起こる根本の理由は、在庫という量を1点で、すなわち現時点で考えているためだ。じつは「引当」という行為は、その中に『未来の在庫使用』を考えている。すなわち、時間軸を伴う未来在庫の概念を内包しているのである。

在庫は時間で計るべきだ、と「時間を在庫する」(タイム・コンサルタントの日誌から、2006/12/12)で書いた。かりに在庫を数量で計る場合でも、それは時間軸に沿った数量として考える必要がある。先ほどの例でも、もしかしたら来週頭にはさらに3個、補充される予定かもしれない。だとしたら、べつに10個出庫しても、来週の生産には困らないのだ。このように、マイナス在庫の問題は、時間の視点から考えてみて、はじめて正しい方針が決められるのである。
by Tomoichi_Sato | 2007-01-27 23:26 | サプライチェーン | Comments(0)

タイム・マネジメントの心得

イベント・ドリブン」(event driven)という形容の句をご存じだろうか。外部から飛び込んできた出来事を起点にして動くような仕事の仕方、あるいは外部に振り回されるような状態を指す言葉だ。『割込み駆動型』とも訳す。もともとはコンピュータのソフトウェア工学で生まれた用語である。ユーザによるキーボード入力やマウスのクリックやメールの到着などを、出来事(イベント)と考え、それぞれに対応する処理を設計する技法だ。

たとえばコールセンターのような仕事は、典型的なイベント・ドリブン業務である。顧客からの電話がかかってきたことを起点に、仕事がはじまる。なすべき特定のタスクを、あらかじめ自分自身が抱えているわけではない。銀行窓口をはじめ、窓口業務にはこうしたスタイルが多い。

これと対極にあるのが、「スケジュール・ドリブン」な仕事のスタイルである。あらかじめ決めた計画通り、時間表にそって進めていく。なんだか模範的受験生の生活みたいだが、多くの会社では、年次計画があり、月間目標があり、週次定例会議や日程表で仕事を動かしていくのだから、基本的にはスケジュール・ドリブンを理想としているわけだ。

たいていの技術者は、この両者が入り混じった生活をしている。計画に従い、設計作業を進めていると、上司から調べものを命じられたり、顧客からクレームの電話が飛び込んできて、しばらくその対応に追われる。一段落すると設計の図面に戻る。しかし次の日には定例進捗会議で、別のことを優先してやれと命じられる、といった具合だ。

エンジニアが自分自身の時間のマネジメント、あるいはパーソナル・スケジューリングをするにあたっての基本は、日誌をつけることだ。その目的は、自分の時間の使い方の事実を把握することにある。たいていの人は、事実を知らぬまま、忙しい忙しいと感覚だけで言っている。しかし、その忙しさの中身は、イベント・ドリブンな仕事の忙しさなのか、それともスケジュール・ドリブンな仕事の忙しさだろうか。両者はどれくらいの比率で入り混じっているか、自分はすぐに答えられるだろうか?

じつは、「忙しさ」の感覚の大半は、イベント・ドリブンな仕事から来る。スケジュールに沿って仕事を進めているときは、たとえ時間的には忙しくても、前に進んでいる達成感がある。これに対して、他人からの割込み駆動型で動かされているときは、自分で自分の時間の使い方を決められないもどかしさがある。どうしても、被害者意識のようなものが出てくる。かりに勤務時間が同じだとしても、心理的に追われている気分になるのだ。

それでは、どうしたら良いのか? 配置転換をのぞむしかないのか? いや、そんなことはない。答えは簡単である。それは、イベント・ドリブン型で発生したタスクを、日々の自分のスケジュールの中に入れてしまえばいいのだ。

これには、二つの意味がある。まず第一に、イベント・ドリブンな仕事のために、自分の時間を一定比率、空けておく。例えば私の場合、経験的に25%くらい割込み型に仕事の時間をとられる。ということは、その日や週にやらなければならない、前から決まっていた仕事があったとしても、1日6時間、週に30 時間分以上は、スケジュールに予定してはいけないということだ(実際には定例のミーティング等もあるから、スケジュール可能な時間数はもっと少ない)。かりに50時間くらいかかりそうなタスクだったら、うーん、こりゃ半月は期間が必要だな、と考えるわけである。このように、割込み時間比率をスケジュールに繰り入れるのが、第一の意味である。

そして、第二の意味は、タスクがその場ですぐ解決できないような、時間のかかるものであった場合、それをTo Doリストに、期日とともに書き込むのである。To Doリストは毎日見なおして、その日の時間の使い方を決めるためのベースだ。To Doリストに書き込まれた仕事は、すでにスケジュール・ドリブンな枠の中に収まっている。むろん、割込み仕事の中には緊急性が高くて、他の仕事の手を全部止めてかかりきりにならなければいけないものも時にはある。だが、いつもというわけではない。飛び込みではあるが、期日に余裕のあるタスクは、スケジュールに組み込んでしまえばいいのだ。これが二番目の意味である。

このようなことを実施するためには、To Doリストと日誌を一体化した運用が必要になる。これについては近著『時間管理術』の中に述べたのでくわしく説明はしないが、この両者がタイム・マネジメントに必須の心得であることは、ぜひ記憶に留めておいてほしい。
by Tomoichi_Sato | 2007-01-16 22:49 | 時間管理術 | Comments(0)

変わりたいですか?

新年にあたって、たいていの人は、今年はこうしたいとか、ああなってほしいなどと考える。新年の誓いと期待とは、昨年までの自分のあり方から、何らかの『変化』を望む気持ちのあらわれだ。

G・ワインバーグは、機知にあふれた著書「技術コンサルタントの秘密」の中で、“コンサルタントとは人々にたいし、彼らの要請にもとづいて変化を及ぼす仕事をする人”だと書いている。これは報酬の有無にかかわらず成り立つ、うまい定義だ。クライアントは何かを変えたい、もっとうまくやりたい、変化したい、と望んで、その要請をコンサルタントにぶつける。コンサルタントはクライアントの変化の案内役を務める。だから、コンサルティング技法の中心には『変化論』が要るのだ、というのが彼の論法だ。

ところで、変化への望みには、2種類の仕方があると私はつねづね感じている。それは、何々にになりたい、という願望と、何々をしたい、という期待である。うまく変化の道をたどれるかどうかは、このどちらの種類の望み方をするかにかかっているのではないか。前者はどちらかというと夢であり、「お姫様になりたい」という女の子の夢想に近い。そこには結果像だけがあって、お姫様にはどうやったらなれるのかという、具体的プロセスが欠けている。だから「今年は業界で一番になりたい」という目標は、意外に華奢(きゃしゃ)な望みなのだ。

これに対して「今年こそみんなと一緒に鉄棒を楽しみたい」は建設的である。そのためにはどうしたら逆上がりができるようになるか、握力を強くするにはどうしたらいいか、など挑戦すべき課題が次々に出てくる。こういう風に、課題とプロセスが次々に展開してくる願望の方が、ベターなのだ。「~になりたい」は単なる夢だが、「~をしたい」は希望である。「今年は業界で一番になりたい」より、「今年は性能が5割アップの製品を作りたい」へ。つまり、「~になりたい」から「~をしたい」に、まず望みをシェイプアップすることが、変化への近道なのだ。

ちなみに「お姫様」は身分であり、「逆上がり」は活動である。この対比を、私は政治学者・丸山真男の論考「『である』ことと『する』こと」から学んだ(岩波新書「日本の思想」所収)。彼は前近代の身分制社会から、近代の機能的社会への変化を重視する人で、最初高校生の時に読んだ際には、ちょっと図式的過ぎると感じたが、最近この問題は案外奥が深いな、と思うようになった。彼は「女であること」は小説の題になりうるが、「男であること」というタイトルは少し滑稽な感じがする、と書いている。昭和まで続く伝統的思考においては、女は身分だが、男は社会性だ、ということらしい。ここらへんは、平成も20年近くなった今では、すこしずれてきているようだが。

変化論に話をもどすと、「変化」とは現在のあり方・やり方を捨てることである。捨てなければ、変化できない。ここに、変化への抵抗の源がある。現在、それなりになんとか成り立っているやり方や仕組みを捨ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか? とりかえしのつかないことに、なりはしないか。こうした不安は、誰しもが感じる。だから結局、これまでの『やり方』を手放さないまま、新しい『あり方』だけを夢想するような、“~になりたい”目標が出てくるわけだ。

現状維持はすなわち、現状を捨てることに対するリスク判断が大きすぎる結果として、生まれる。前例がない、という役人得意の文句はその典型である。こうした組織では、変化は起こりにくい。以前「リスク確率と代替可能な仕事の価値」の中でも書いたように、リスク確率とはじつは主観確率である。現状以外にたいするリスクの主観確率が高い組織では、だから変化は決して起こらない。

その長期的結果として、どうなるのだろうか? 簡単なことだ。外界は変化していく。しかし自分は変化できない。だから、しだいに環境に適応できないようになる。そして、恐竜と同じ運命をたどることになる。変化するための小さな代償を拒んだがゆえに、自分自身の存続という最大の代償を払うのだ。

ワインバーグは上記の本の中で、「何かを失うための最良の方法は、それを離すまいともがくことだ」と書いている。変化を規制すると、失うものも多い。プロ野球の長期低迷から日本コメ農業の危機まで、その実例を私たちはあちこちで見ている。

変化とは賭けであり、賭けとは選んだ選択肢以外を捨てることである。古い皮を脱ぎ捨てなければ、自分も組織も大きくなれない。だから、新年の望みを持つならば、「~したい」という形で希望を語るようにしよう。
by Tomoichi_Sato | 2007-01-02 15:27 | 考えるヒント | Comments(0)