<   2006年 04月 ( 4 )   > この月の画像一覧

ディスクリート・ケミカル工場を設計する

工場とはシステムである。このところ何度も、そう書いてきた(「工場の性能とは何か」・「製品という名のシステム、工場という名のシステム」「製造は代替可能か」など参照)。

システムというものの基本的な性質は、部分品を集めても、そのままでは全体にならないことである。全体として、ある目的に合致するような機能を持つように、部分品をつなげて構成する。こうしてようやくシステムというものができあがる。いいかえれば、明確な目的や機能を意図しないところにはシステムは成り立たない。

工場というシステムの機能とは、性能と言いかえてもいい。機能とはそもそも、マテリアルとエネルギーをインプットして、あるリソースを媒介として、別の形態のマテリアルやエネルギーに変換(変化)させることである。・・などと抽象的な言葉を連ねても、意味がピンとこないかもしれない。例をとろう。

液化天然ガスLNGの製造工場は、井戸元から送られてきた原料ガスをインプットとし、また冷熱源(海水か空気)のエネルギーを利用して、超低温・高圧のLNGをアウトプットする。同時に、温められた海水・空気、分離されたコンデンセート、副産物(廃棄物)としての硫黄や炭酸ガスなどを生成する。リソースとは、熱交換器やコンプレッサーやガスタービンなどのプラントを構成する装置、そして働く人々だ。

LNGは単一製品大量生産の工場である。マテリアルは入出ともすべて流体だ。生産量は定常的であり、いかに安定に生産するかが運転の課題になる。工場システムは静特性(処理量)が目的尺度になる。そして、化学工学の対象は従来、こうした連続生産が主体で、せいぜい時間的要素としてはバッチ操作やタンク繰り問題があった程度だった。ここには、スケジューリングや物流(在庫)管理の悩みはほとんど無い。

ところが、前回述べたディスクリート・ケミカル製品を作る工場ではがらりと変わる。まず、工場は基本的に多品種のプロダクト・ミックスになる。こうした工場の性能(生産量)とは、どういった尺度で測るべきか? この基本的な問いに、化学工学は答えるすべを知らない。

ディスクリート・ケミカル工場は、インプットとしては液体・気体・粉体など流体が中心だが、製品はシート、ロール、ペレット、小さなピースなど、固体で軟性のものが多い。工程の途中までは、化学工学お得意のタンクと配管とポンプでの輸送だが、下流工程ではロールやバケットやパレットなど、固体のマテリアル・ハンドリングになる。だからAGV・台車・コンベヤ・クレーンなどの機械が必須だ。保管はタンクのかわりに、立体自動倉庫やDPSなどになる。ピッキングだのアソーティングだのといった処理も必要になる。

こうした工場の設計では、保管に必要な空間容積・倉庫サイズ、搬送に必要な手段と台数、などを決めなければならない。生産量が小さいうちは手で運んでもいいが、量が増加したり品種が増大したら、物流工程の方がしばしば製造工程よりもボトルネックになる。だが、こうしたプロダクト・ミックスのある工場の設計論は、あまり教科書らしいものが見あたらない。不思議なことである。

化学工場では、エネルギーの7割以上は、反応ではなく分離精製や輸送保管に使われる、と言われている。私の見たところ、ディスクリート・ケミカル工場もまた、設備スペースの7割以上はマテリアル・ハンドリングのために使われるように思う。

こうした固体中心の工場の設計はどう決めるべきかというと、基本は離散系のダイナミック・シュミレーションに頼ることになる。ところで、ここで問題になるのは、多品種のプロダクト・ミックスの取り扱い方だ。中心の製造工程は、切替型連続生産タイプになることが多い。品種切替は段取り替え時間を要するため、スケジューリングが必要になる。通常のシミュレータでは、このスケジューリングによる動的な順序組み替えが扱えない。

そこで、私の所では、APS(生産スケジューラ)とダイナミック・シミュレータを組み合わせて使っている。こうしないと、本当の意味での最適設計にはならない。だが、正直なところ、化学メーカーの生産技術部門で、ここまで出来るところは少ないようだ。また、その時間的余裕もないのかもしれない。

スケジューリングもそうだが、物流(在庫)管理にも独特の悩みがある。シートやロールなどの製品は個数単位では扱いづらい、かといってkgやm3単位だけでも不便で、2重の計量単位を持つ必要がある。おまけに足し算は正確には合わない。たいていの在庫管理システムは個数単位でしかものを扱えないから、お手上げである。

製造管理(MES)もまた独特なものになる。いわゆるプロセス系の計装制御と、離散系の搬送制御を同時にインテグレーションしないと、工場全体のコントロールができない。

ディスクリート・ケミカル工場は、クリーンルームの技術がしばしば必要になる。そこで、建築設計・空調設計なども、かなり固有のノウハウが要る。多層階レイアウトも課題だ・・・。

こうして書いていると、いかに従来の化学工学の世界と隔絶しているか、よく分かる。かといって、機械工学や経営工学を持ってくれば簡単に設計できる訳でもない。やはり、独自の設計論が望ましいのだ。

もっとも、エンジニアリング会社の目から見ると、ディスクリート・ケミカル工場は医薬品(固形製剤)との共通技術がいろいろとあるな、と感じられる。マテハン技術・建築設計技術・クリーン技術・制御システム・生産スケジューリング等である。ここらあたりが、一つのヒントになりえるだろう。

いずれにせよ、今の日本では、電子材料・機能性素材の需要は高まる一方である。設計論の確立と共有化が、大きな課題であることは間違いない。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-26 00:23 | ビジネス | Comments(0)

ディスクリート・ケミカル産業

私は大学で化学工学を専攻した。カガクコウガクという学問名は、すべて「カ行」の音だけでできている上に、一つの単語の中に「学」が二回出てくる、きわめて珍しい分野名である(こういう語は、あと他に『科学哲学』があるだけだ)。

日本は言霊のさきわう国だというが、このように難解(?)な名称の学科を選択したおかげで、私は他人にうまく専門を理解してもらったためしがない。化学工学は広い意味では「応用化学系」に分類されているので、“ああ、化学が得意なんですね”と言われたりする。だが、現実は、全然違う。私は化学は大の苦手で、大学入試の理科の試験は物理と化学だったが、物理はほぼ100点に近い自信があったのに、化学はただ1つの小問を除いて白紙答案を提出した。

さらに、恥を忍んで告白すると、私は大学院の試験勉強のために、高校生向けの化学の参考書を買って勉強した。それでもパスしたのだから、化学工学という学問を専攻するのに、複雑な化学の知識は不要なことがよくわかる。私の知る範囲でも、化学工学を専攻した人の中で、化学に強い人は3割程度しかいないと思う。

化学工学は20世紀に入ってから発達した学問で、英語ではChemical Engineeringという。具体的には、化学装置と化学工場の設計論を目的にした工学である。米国ではMechanical Engineering=機械工学とならんで、人気の高い分野だ。機械工学は機械装置と部品組立工場の設計論だから、ちょうど対をなしている。いいかえるなら、化学工学はプロセス産業を支え、機械工学はディスクリート(組立加工)産業を動かしている。だから、化学工場の設計技師は『プロセス・エンジニアProcess Engineer』と普通呼ばれる。

ところで、化学工業=プロセス、機械工業=ディスクリート、という区分は最近、当たらなくなってきている。じつは、現代日本の化学産業には、見えない地殻変動が起きており、化学工場なのに製品はディスクリートのケースが増えているのだ。どんなケースか?

それは、いわゆる電子材料、あるいは高機能素材と呼ばれる製品をつくる工場である。たとえば有機EL材料、半導体封止材、発光素子、偏光フィルム、逆浸透膜といった製品群だ。こうした製品の特徴は、固体であること、単価が高いこと、組成は似ていても機能的な違いが大きいこと、などである。言いかえれば、高付加価値であり、かつ多品種化した製品群となっている訳である。

そして、それが相当の利益を稼ぎ出している。「会社四季報」などの化学のページをめくってみれば分かるが、日本の化学メーカーの多くは、すでに1年半から2年前に不況を脱しているものが多い。そして、その企業の収益を支える製品が、こうしたディスクリート・ケミカル製品なのだ。四季報には各企業の概況が要約されているが、“携帯向け素材が好調”“デジタル家電用途で成長”といった言葉が並んでいる。

かつて、化学産業では「バルクケミカル」・「ファインケミカル」という区分があった。前者はエチレンやBTXなど原材料から、せいぜい汎用ポリマーくらいまでの、物量の大きな上流側製品群を指す。後者は農薬・原薬・試薬・添加物・特殊ポリマーあたりの下流側製品群を指すことが多かった。共通点は、いずれも連続プロセスないしバッチプロセス中心で製造されること、物流の主要な形態は液・ガスないし粉体(大きくてもペレット)であることだ。

日本の化学産業は基礎原料の石油・ガスを輸入に頼らなければならない制約がある。このため、バルクケミカルでは規模の経済を追求しても、なかなか海外品に比べて競合がきつい。したがって、'70年代の石油ショック以降は、しだいにファイン指向を強めてきた。しかし、やはり付加価値を高めたければ、より消費者に近い素材に向かうことになる。

こうして、'90年代の後半から、ディスクリート・ケミカルの領域が生まれてきたのだ。この領域はある意味ではニッチ的だったため、大手化学メーカーだけでなく、新進の素材専業メーカーが活躍する余地を残しており、製品開発競争も活発である。官庁の法的規制もあまり強くなく、自由に技術力をふるうことができる。技術者として、非常に面白い分野である。

最初に述べたとおり、「化学工学」は本来、化学工場の設計論として発展してきた。しかし、この国では化学、とくにバルクケミカルは、公害問題以来あまりいいイメージを持たれていない。そのため学生に不人気となり、今や大学から化学工学科の名前がほとんど消えてしまっている。かわりにシステムとかバイオとか格好いいカタカナの混じった学科名になっている(ここらへんが言霊のさきわう国なのだ)。しかし、いざ外国に行くと、そんな新奇な学問名は通じないので、みな当惑する。

私は、むしろ化学工学は、新しいディスクリート・ケミカル産業に奉仕すべく、変化を遂げるべきだと思う。無論、従来のプロセス設計が急に不要になる訳ではない(とくに海外では)。しかし、今、一番進歩が活発なのは、この分野なのだ。そして、困ったことに、ディスクリート・ケミカル分野は、工場の設計論が未整備である。どこが難しいのか、どこに手がかりがあるのか、長くなってきたので、続きはまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-17 00:24 | ビジネス | Comments(0)

「ソリューション・セリング」 マイケル・ボスワース著

現代は製品がなかなか売れない時代である。市場の競合はきびしく、長かった不況のせいでユーザの財布の紐はかたい。

製品が売れないのはなぜか。うちの会社の営業マンが無能なせいさ、と楽観(悲観?)できる技術者は、あまり多くない。価格で競合製品と大差がない場合、ふつうは、製品に魅力がないのではないか、必要な機能が足りないからではないか、あるいはデザイン・センスに問題があるからではないか--そう、技術者という人種は考えたがる。だから、どんどんと製品の機能は肥大化し、開発コストはかさんでいく。

この考え方は、裏を返せば、製品が良ければ必ず売れるはずだ、との単純な信念になる。だが、はたしてそうだろうか?

そうではないのだ、と著者・ボスワースは本書で主張する。たとえば、米国では腕の良いセールスマンはしばしば同業他社に引き抜かれる。すると、どうだろう? 彼(彼女)は、移った先の会社でも、やはりすぐれた売上成績を上げるのだ。そして、また別の会社に高給で転職したりする。すると、またまた、その新会社の製品をたくさん売るのだ。

これから分かることは何か。それは、よく売れるかどうかは、じつは製品の優劣にはあまり関係がない、という事実だ。では、売れ行きは何で決まるのか? それは、営業マンの販売プロセスであり、セールスが顧客の問題意識といかに連携しているかが、キーなのである。それは商品の物質的実体がないソリューション型商品では、とくに大きい、と著者は言う。

そもそも、「ソリューション」とは何か。ふつう、顧客は通常「ニーズ」を持っていると考えられている。しかし著者は、顧客は解決したい「ペイン」(痛み)を持っているのだ、と捉える。そのペインをどう解決すべきか、たいていの顧客はぼんやりとしか分かっていない。この解決手段に関して、具体的なビジョンが顧客の心の中に形成されて、はじめてニーズになるのである。そして、その解決手段のビジョンにマッチする商品が「ソリューション」である。

したがって、販売プロセスで一番重要なポイントは、顧客のペインを察知し、顧客の心中に解決策のビジョンが(自社の製品に合致する方向で)形づくられるのを、助けることなのだ。これがボスワースの主張である。そして、顧客のビジョンを誘導するために、“ナイン・ボックス”、“ペイン・シート”、“パイプライン管理”などの、非常に実践的なツールを用いる。これが「ソリューション・セリング」の仕組みである。

私はこの本を、大学時代の先輩から薦められて読んだ。この先輩は技術者で、博士号まで取った人だが、外資系の会社に転身するときに、「技術開発はつねに本国がリードする。外資系で上に行きたければ営業に徹するしかない」と考えて、営業職を選んだという。そして、「ソリューション・セリング」に書かれた技法をそのまま実践して、見事な成績を上げ、とうとう日本法人のトップまでたどり着いた人だ。

私もまた技術者だが、営業力の無さに苦心している。そして、ご多分にもれず、“良い製品なら顧客は買うはずだ”という過信に陥っていた。本書は、その蒙を開いてくれた。そして、顧客の中に具体的なビジョンを形づくることを、今は第一に考えるようになった。本書は販売に関心のある全ての人に薦められる良書である。

ただし、残念ながら、この日本語訳は今は品切れになっているようだ。私は古本で入手した。もっとも訳文はこなれているものの、ケアレスな点が目につく。原文はそれほど難しくないので、英語が苦にならなければ原書を読む方がいいだろう。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-11 20:21 | 書評 | Comments(0)

必要な人はいつもたった一人しかいない-その理由と帰結

個別受注生産におけるスケジューリング問題を根本から解決したければ、製品設計において、バリエーション・リダクションの方針を導入する必要がなる、と前回書いた。

ところで、これを書いていながら、ふと思ったことがあった。それは、バリエーション・リダクションのような方針変更はかなりラディカルな変革であり、しばしば設計部門・原価管理部門・営業部門など本社サイドからの、強い反発にあうということだ。

設計技術者にとっては、個別仕様に対してぴったりの最適設計をすることが、自らの誇りである。モジュールの組み合せで仕様を実現する場合、ぴったりの数字にはならず、9.5馬力でよい所に10馬力の駆動部をもってくるようなことになりがちである。仕様上の余裕があれば、その分、コストも上がることになる。そう、原価管理の担当者は考えるであろう。そうなれば価格競争力が落ちて、競合他社に負けかねない、と営業部門は恐れるだろう。

では、個別最適設計方針がつづけばどうなるか。設計の工数はかさむばかりだし、営業の手間も減るまい。が、本社部門の人件費は販売管理費に含まれる。販管費比率が高い責任は、誰も問われない。生産リードタイムが長いと、工場の年間生産能力は伸びない(1台作るのに1ヶ月かかれば年産12台だが、それが2ヶ月になれば6台しか生産できない)。しかし、工場長以外の誰がそんなことに責任を感じるだろうか? みな、自分の持ち場で最善をつくしているだけなのだ。

そうなると、結局困るのは経営者である。販管費が同業他社より高ければ、人員削減を考えることになる。製造に問題があれば、安い海外部品を調達するか、あるいは工場ごと中国に移してしまえ、という結論になる。では、その結論がもたらすものは何か? いいたくはないが、安易な海外展開での製造品質やリードタイムの行方は、火を見るより明らかだろう。だから、ゆっくりとではあるが、その事業部門は顧客の信頼も失って行く。そして、事業部門自体が撤退の対象になりかねない。こうして、長時間労働に耐え、最善をつくした多くの人たちが職を失うのだ。

極端すぎる議論だと思われるかもしれない。だが、これこそ過去5年間、日本の製造業で起こってきたことではないか。

いいかえるなら、ここには根本的な矛盾がある。技術者の仕事とは、「業務の設計・改善」それ自体を、主要な一部として含んでいる。それはつまり、仕事に関して『代替可能性を高める』ということだ。だから海外展開が可能になるのだ。しかし、代替可能性が高まるほど、それは技術者個人から、アイデンティティの根拠を奪っていく。

その結果、どうなるか。技術者はあらゆる機会をとらえて、個別な・特殊な・些末な・例外的な・だが重要な(少なくともそれ無しでは不便な)仕事を、自分のために作りだしてゆく。彼(彼女)個人がいないと、ビジネスが回らないようなものに仕立て上げてゆく。ルールを定めるのが本来の仕事なのに、例外事象ばかりを増やしていくのだ。

こうして、会社の業務は、外部のシステム・アナリストがちょっとやそっとでは分析できないような、複雑な処理系になっていってしまう。ERPパッケージをもってくれば、仕事が効率化・加速化できるなどという幻想は、例外処理の藪の中でいつのまにか崩壊していく。ルールや標準プロセスが混乱すれば、はびこるのは根性論ばかりになる。マネジメントの仕事は、精神主義の鼓舞になっていく。

このように、技術者に代表されるホワイトカラー階層とは、自分のスキル上の価値に固執するあまり、長期的には自分の存在基盤自体を掘り崩すようなことをしがちである。これが、経済合理性を追求するための組織であるはずの会社を、合理性からひきはなす効果をもたらすのだ。

この矛盾をとくにはどうするか。簡単なことだ。ホワイトカラーが、会社での仕事だけにアイデンティティの根拠を求めなければいいのだ。会社もあり、家庭もあり、それ以外のプライベートもあって、はじめて人間は全体性を保つ。家族にとって、コミュニティにとって、ある個人がかけがえのない、たった一人しかない存在であることこそ、大事なのだ。それを、ただ一ヶ所、会社にだけ仮託しようとするから、訳が分からなくなるのである。

ただし、そうなると、知的労働者は、もっと別の難しい問題に直面することになる。それは、「自分の人生の本当の目的とは何か」を考える、という問題である。たしかにこれは難問だ。とくに、自分の人生が有限なものであることを、皆、うすうす知っているから、なお難しい。そんな難しいことを考えたくないから、世の中という代物は、会社を発明したのではないかと思いたくなってしまう。

この問題は、ある意味で「製造は代替可能か」の続きでもある。価値というものは全体性の中にある。その中の一部分だけを切り出して、それだけを他の代替品と単価で比較しようとする考え方は、きわめてミス・リーディングだ。現代の経営論は、そんな部分品分解論の上になりたっている。だが人間は部分品ではない。人間にとっての「シビル・ミニマム」が、現代の経営論では忘れ去られている。しかし、どこの家庭にも父親・母親は一人ずつしかいないし、それは取り替えがきく存在ではないはずだ。そう、文化の次元においては、誰にとっても、本当に必要な人は、いつもたった一人しかいないのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-01 23:29 | ビジネス | Comments(0)