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睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル

人間の脳が最もエネルギーを消費しているのは、じつは眠っているときらしい。それも、夢を見ているときではなく、いわゆる夢を見ないノンレム睡眠の時である。レム睡眠とノンレム睡眠は1時間半程度の周期でくり返すが、われわれが多少とも覚えているのは夢を見ているレム睡眠の間にすぎない。これはまことに不思議なことだ。脳が一番活発に活動しているのは、自我も意識も無い時らしいのだ。

眠っている間に脳が何をしているのか、まだほとんど分かっていない。一説によると、覚醒時に習得した情報の中からパターン抽出をして(つまり情報圧縮)、海馬経由で長期記憶に保存するのだという。休憩中の脳はガーベジ・コレクションをしているのさ、というのがシステム・エンジニアうけする説明だが、脳のなかのメモリ空間がリニアアドレスであるはずもなし、たとえ話以上のものではあるまい。

ところで、ここから連想ゲームみたいに話が飛ぶのだが、休んでいる間が一番忙しい、ときいて、私は自分の顧客である石油ガス業界やガラス業界の工場を思い出す。製油所勤務の人たちが一番忙しいのは、生産していないときなのである。工場を止め、製造装置をストップして、こうした業界では定修を行なう。「定修」とは定期修理の略だ。工場にもよるが、たとえば1ヶ月弱、生産をストップして、プラントのあらゆる装置・計器・配管をメンテナンスするのである。機械はばらして消耗部品を交換し、内部を洗浄して汚れを取り、配管系統の溶接箇所を点検し、計器を更正し、必要ならば小規模改造や新装置の導入をして・・

石油プラントの場合、機器・配管の総数は数万点あるから、やることはたくさんある。工具も場所も限られているから、適当に目についたところから手をつけていたのではいつまでたっても終わらない。かなり詳細な手順計画を立てて遂行していくのである。人手もたくさんかかる。プラントでは大量の可燃物や高圧ガスを扱う。法規制の関係で、日本ではタンク類の開放点検が年1回義務づけられていた。つまり、年間の1/12は生産ストップというわけである。これが日本企業の競争力を大幅に阻害しているという指摘があがり、規制緩和で隔年になり、最近は4年に1回になった。しかし、これが思わぬ問題を呼び起こしているのである。

その問題とは何かというと、定期修理・大規模メンテナンスのスキル継承の困難である。なにせ4年に1回しかない。大卒で会社に入っても、へたをすると現場を1回か2回経験しただけで係長や課長クラスになってしまう。現場をよく知らないまま、中間管理職として計画立案や監督をすることになる。なまじ大卒で頭のいい人は、見ていただけでわかった気になってしまう。しかし、技術的スキルというものは、現場でくり返し学習しなければ、身につかないものだ。そして・・

米国ミネアポリス州で、高速道路の橋が落ちた事件は、その少し前ニューヨーク市でおこった地下埋設蒸気管の爆発事故(かなりのアスベストが飛散した)とあわせて、あらためて保守を軽視した社会のもろさを皆に知らせることになった。日本だって、対岸の火事ではない。ここ数年、どれだけ工場や鉄道で大小の事故が起きていることか。これらは保守をぎりぎりまで切りつめた「現場の不眠症」の産物といえないだろうか?

工場とは秩序をもったシステムであり、企業の生産システムの中核をなす。ところで、生物というものも、複雑な秩序をもった有機的システムだと言える。この生物という名前のシステムは、補食活動や同化作用といった活発な時期に体内にエネルギーをたくわえるが、その後かならず休息の時期が来る。このとき、実は活動期に体内に増えたエントロピーを下げて、体内組織を修復し直す。生命がサイクルをもつということは、かなり本質的な事象だと考えられる。カルノーサイクルや内燃機関の原理を見てもわかるように、最大の効率をあげたければ、サイクル的な構成が必要になるらしい。

だとしたら、企業という有機的(?)システムにも、エネルギーとエントロピーのサイクルが必要なのではないか。休みなく絶え間なく成長し続けるというモデルは、むしろどこかでエントロピーを噴出することにならないだろうか。季節性や景気循環はどの業界でもおこる(たとえば半導体サイクルや液晶サイクルなど)。大事なのは、下降期に向かったときの過ごし方なのだ。そのときこそ、生産ラインを止め、不要物を捨て、保全改良をほどこして工場のエントロピーを下げてやる必要がある。人間を休養させ、再教育を行ない、「人的資源」の再生をはからなければならない。つまり積極的に下降期をすごし、それをチャンスととらえるべきなのだ。

前回、私は、「眠っている時間、非活動的な時間は、人生にとって価値ゼロだ」という思想」に反対だと書いた。それはなにも、休養すれば生産性が上がるから、という理由ではない(そういう功利的な説明の仕方は、俗耳には受入れやすいだろうが)。私はむしろ、意識中心の考え方、すなわち“自分とは意識・自我である”というデカルト的西洋的考え方がきらいなのだ。この論理は、“だから意識がない時間は無価値である”とか、“自分の体は自分(=自我)のものである”とか、“身体を短時間睡眠に馴致させるべく改造しよう”という風につながっていく。

だが、よく考えてほしい。生物進化の歴史を見ればわかるように、意識と脳は、身体が必要に応じて創り出してきたものである。それなのに、あたかも身体を脳の道具のごとく考えるのは、まったくの転倒であろう。

この構図は、会社にも全くアナロジーとしてあてはまる。MBAか何かをとって、本社で戦略的ビジネス計画をたてる頭のいい連中は、会社組織は自分たちのものであり、好きなように動かしたり切捨てたりしてかまわないと考えているかのようだ。ちょうど、ゲーム理論の『計算する独房の理性』のように。だが、以前「誰のための生産管理」(「タイム・コンサルタントの日誌から」2007/05/06)でも書いたように、本当はマネジメントとか本社とかいうものは、生産や販売の現場がスムーズに動くように、サポートする立場にある。つまり、マネジメントとは現場の必要から生まれたものなのだ。

眠っている間、意識や自我が消え去っても、生物としての人間の一貫性は継続するし、むしろ身体の統合性は再生される。意識は身体の下僕である。もうそろそろ、我々の頭の中にある転倒を正すべき時期なのかもしれない。
by Tomoichi_Sato | 2007-08-12 00:18 | 考えるヒント | Comments(0)

睡眠時間の必要

なぜそんな話題になったのかは覚えていない。相手は知人の、イタリア人の精神科医だった。ローマ市街のはずれからホテルまで、彼の車で送ってもらいながら、何となく毎朝何時に起きる習慣か、きいてみたのだ。彼は6時には起きている、と答えた。勤務先の病院には8時前にはついているという(欧州は比較的早起き社会だ)。じゃ、寝るのは? ときいたら、彼はふりむいて、「12時頃なんだ。」と残念そうにいう。「10時には寝たいといつも思う。でも、それは不可能だし。」

私はシエスタ(昼寝)のことはあえてたずねなかった。自分でシャッターをおろせる開業医ならともかく、勤務医はとれないに決まっている。そうでなければ彼がうらめしそうに10時に寝たいというわけがない。中堅の勤務医は、洋の東西を問わずどこの国でも、公私ともにめっぽう忙しいのだ。私は、自分も平日は6時間程度しか眠る時間がとれない、と説明した。それが体に良いとはとても思えないとも。

人間が快適に暮らせる必要睡眠時間はかなり個人差がある。いわゆる「8時間睡眠」には学問的根拠がないと、なだ・いなだの不眠症にかんする本に書いてあった。しかし個人的経験から、私自身は7時間から7時間半ほどの睡眠をとるとすっきり目覚められる。それ以下だと、日中の知的活動が微妙に、しかし確実に効率ダウンする。

睡眠障害の専門医が組織する『快眠推進委員会』による情報サイト:「眠りの総合サイト☆快眠推進倶楽部☆」というのがある。これをみると、日本人の平均睡眠時間は年々減少傾向にあることがわかる。NHKの2000年の国民生活時間調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間23分で、年代別では30代が6時間57分、40代が6時間59分だ。働き盛りの年代で特に睡眠時間が短い、という。1960年には8時間08分だったのに、年々減少しているのだ。

むろん、長く眠れば良いとは一律に決められないとも書いてある。脳の睡眠であるノンレム睡眠は時間睡眠によらずあまり変わらないとの報告もあり、『睡眠は時間よりも「質」の方が重要。質のよい睡眠とは、目覚めがスッキリとしていて、ぐっすり眠ったという満足感が得られる眠りのことです。』という。ここは睡眠障害や不眠症に悩む人向けのサイトだから、短くても気にしないで、とのトーンで書かれている。

しかし、睡眠時間が短いのは果して身体的な(つまり個人的な)問題のせいだけなのか? 私は疑問に思う。そのためには、他の国民と比べてみると良い。「何が問題?世界一睡眠時間が短い日本人」(村角 千亜希)には、こうある:『ACニールセンの2004年インターネット調査によると、世界で最も睡眠時間が短いのは日本人で、約41%が6時間以内の睡眠時間』。私はその41%に入っているようだ(なお、最もよく眠っているのはオーストラリアとニュージーランドだそうな。うらやましい)。

日本人の睡眠時間が他国に比べて短いとしたら、やはり長時間通勤・長時間勤務がすぐ頭に浮かぶ。その真偽は、わからない。しかし、それとは別に、先進国のホワイトカラーでは睡眠不足が蔓延しているように、私には感じる。限られた、ごく狭い範囲での体験から推測するだけだが、よく働く人間はどの国にもいる。イタリアやフランスといえば怠け者の代表的イメージだろうが、最初のイタリア人医師に限らず、フランスでも南米でも、朝から晩までほんとにすごいな、と驚いたことは一度や二度ではない。英米人も、佳境に入ったときの徹夜をもいとわぬ馬力はたいへんなものだ。

そうした努力を、われわれの社会は尊敬し、評価する。しかし、本当にそれだけでいいのだろうか? 米×××で頭角を現わすには、週100時間は働かなくてはならない、とまことしやかに噂される状態は、はたして正常なのか。その歪みは、離婚率が50%以上というあたりに、あらわれてやしないか? ずっと働きづめで、少しでも息を抜くと競争相手に追い抜かれてしまうという強迫的状態が、米国の心臓病の多さに出てはいまいか?

ちなみに、人間の成長ホルモンはおもに夜間分泌される。“寝る子は育つ”という昔の人のことわざは、とても正確だったのだ。成長ホルモンは子供だけでなく成人でも分泌されており、その不足症状に対して投与補給する治療が、最近日本でもはじめられている。では、夜間に分泌される成長ホルモンは何の役にたっているのか。それは、体のメンテナンス修復である(リモデリングともいう)。これが足りないと、心筋梗塞・高脂血症・脳梗塞などのリスクが高まることが確認されている。なお、成長ホルモンの分泌は、夜の10時から夜中の2時頃までがピークである(だからこの時間に寝ていないと、本当に眠ったことにならないのだ)。また、寝ている間は白血球も製造している。横になれば心臓の負担も軽くなり、心筋の休息にもなっている。

睡眠不足を常態化させ、それを奨励するような社会は、異常だ。それは確実に人間の生産性に影響を与えていく。さすがのハーバード・ビジネス・レビューでさえ、これを問題視して、専門家のレビューにもとづく記事を載せたほどだ。米国ではさらに、向精神薬剤の常用が以前から都市のエリート層の間で問題になってきている。

誤解しないでほしいのだが、私は短時間睡眠自体を攻撃しているのではない。3時間眠るだけで元気に活動できる人は、それを続ければいい。私が反対するのは、「眠っている時間、非活動的な時間は、人生にとって価値ゼロだ」という思想である。休息に積極的な価値を認めない考え方である。休みたいのは怠け者の考えだ、という決めつけである。

地球上のどんな生物にも、サイクルがある。人間にも起きて活動するときと、寝て休息するときがある。この両方が必要なのだ。24時間起きて闘い続けることが理想だ、という考え方はどこか間違っていると私は思う。

そして、この問題は、企業組織にもサイクルが必要という話につながっていくのだ。だが、長くなりすぎた。つづきは、また書こう。
by Tomoichi_Sato | 2007-08-06 23:24 | 考えるヒント | Comments(0)

情報技術(ICT)の先行きを占う

このサイトをごらんになっている多くの方はお気づきだろうが、私は「革新的生産スケジューリング入門」というホームページと、「タイム・コンサルタントの日誌から」というBlogの二つのサイトをもっている。そして、メインの記事は両方のサイトにほぼ同時にアップしている。いわゆるマルチポストの状態になっているわけだ。おかげで、タイトルをもとにYahoo!で検索すると前者が、Googleで検索すると後者が(ときには両方が)みつかるという、読者にとても不便な状態になっている。

なぜ同じ文章を二つサイトにアップしているのか。その理由は簡単だ。私がExciteにBlogを開設したのは昨年の初めだった。動機は単純で、「タイム・コンサルタントの日誌から」というコーナーをBlog化して、もう少しこまめに更新しようと思ったのだ。それにまあ、遅ればせながらBlogってどんなものか、少しは体験するのもいいかなと考えた。Blogならば検索機能もついているし、トラックバックもできる。元のホームページのコーナーは休止して、Blogへのリンクに切り替えた。

ところが、切り替えてわずか2ヶ月後のある日、突如として会社のPCからExciteにアクセスできなくなってしまった。Exciteだけでなく、Blogの類は一切、アクセス制限に引っかかる。urlをたたくと、「このサイトはアクセス禁止です。あなたのアクセス履歴はサーバに記録されました。」と恐ろしげなメッセージがproxyから出る。会社では以前から、いわゆるアダルトサイトへのアクセス制限をかけていたが、その対象がBlogに広がったようなのだ。SNSもyouTubeもネットの掲示板もダメ。だからYahoo!の株価情報はOKなのに、株コーナーの掲示板は見えなくなった。

念のため書くが、私は自分のサイトへの投稿は、自宅のPCからアップしている。だから、別に会社のPCからアクセスできなくても、直接は困らない。しかし、自分の会社でこういう制限をかけているということは、おそらく他の企業でも似たような状況が起きているにちがいない。つまり、Exciteに何をアップしようが、それは他の企業人からは読めなくなってしまうのだ(サーバ側記録では、日中のアクセスは圧倒的に企業ドメインからが多い)。私の気まぐれな文章に多少は情報価値があるとしても、読めなければ誰の役にもたたなくなってしまうだろう。結局私は、いったん閉めた旧サイトのコーナーを復活し、同じ記事を両方にマルチポストすることにした。

それにしても、会社からのBlogのアクセス禁止が広がっているのは事実である。なぜそんな必要があるのか、私には合点がいかない。Blogの情報が玉石混淆だということは、読む側が気をつければすむことだ。だが、この時に私はひとつの確信を得た。それは、次世代の情報技術ではBlogやSNSが主流になるにちがいない、という確信だ。なぜなら、普通の会社が禁止するものは次の世代のICTの主流になる、という歴史的法則があるからだ。

たとえば、かつて職場ではホスト・コンピュータのダム端末だけがIT(当時はEDPといったが)への窓口だった。正式文書の清書はタイプ室で、高価で大型の日本語ワードプロセッサー機械(写植機に似ていた)で集中入力だった。そこにPCなるものが持ち込まれるようになって、会社の管理部門は顔をしかめたものだ。それでも、最初の内はIBMなど由緒ある汎用機メーカーのPCだけは存在を許された。しかしNECのPC-9801のような我流の機械は排除された。

98がどうしても排除しきれなくなったのは、日本語ワープロソフトの普及のせいだった。これは日本語タイプ室の存在意義をあやうくしたので、論議が出たものだ。しかし、AppleのMacintoshなどというマシンは論外だった。コマンド・プロンプトのないコンピュータなど、システム屋から見たら知性不要のおもちゃだったのだ。

一時普及しかけたMacの進撃を止めたのは、皮肉にも会社が一人1台ずつホワイトカラーにパソコンを配備するようになったからだ。統一管理の観点から、DOSマシンの天下になった。それでも、Windowsは高価なスペックを要求するので、会社は消極的だった。結局Win95の時代になってゲリラ的に普及が進み、管理部門も追認せざるを得なくなった。

その後に来たのはLANとネットワークの波だ。LANサーバは高価なので、ファイルはローカルに保存して、重要書類のバックアップだけに使用するように、とガイドラインが出たものだ。「セキュリティを確保」するため、部門単位にフォルダに壁が仕切られた。“米国では電子メールなどというものが流行っているが、あれは個室中心オフィスで事業所が大陸に分散しているから必要なだけで、日本では普及しない”という評論も読んだ覚えがある。

それでも社内の電子メールは便利なのでしだいに普及していった。しかし、社外との接続は検討外だった。発信ミスによる情報漏洩の危険性を説くために、法務部門までがかり出された(そんなリスクはFAXだって同じだろうに)。どうしてもつなぎたい場合は、x.400などのセキュアなものに限られた。インターネットなど論外である。そもそも、送達される保証すらないではないか!

それでも世間の普及に負けて、名刺にメールアドレスをする企業はしだいに多くなった。だが、Web閲覧は別である。自分の机からネットサーフィンなど、企業で許される所業ではない。検索がしたければ情報部門の部屋の端っこにおいてある専用端末から使うように規制された・・

もういいだろう。結局、このいたちごっこの背景にあるのは何なのか。エリート階層のサラブレッド馬につける横目隠しなのか。あるいは、ガレー船には窓は不要、ということか? それとも情報システム部長の髪の毛がとがっている(www.dilbert.com)からなのか? そうではあるまい。ここには、一貫した誤解があるだけなのだ。それは、会社という仕組みは公的なコミュニケーションだけで成り立つはずである、という誤解だ。非公式コミュニケーションこそが会社組織を活性化し生産性を上げることを、じつは「ホーソン実験」はすでに20世紀前半に実証してい(『ITって、何?』第20回参照)。しかし、会社の管理部門は、なぜかこのことを知らないか、無視しているようだ。

ICTの発達は、個人単位で発信できる非公式なコミュニケーションを、より活発にさせる方向で一貫して進化してきた。だから会社の方針とぶつかり合うのだ。SNSもyouTubeもSecond Lifeも、すべてその方向にある。エンターテインメント性があるかどうかの問題ではない。それは応用分野の一部にすぎないのだ。社員の情報漏洩を恐れてBlogを禁止するなどナンセンスだ。現に、多くの有用な情報はスタティックなホームページからBlogに移ってきて、情報検索の効率はBlogを排除するとかなり落ちてきている。エロサイトをブロックすることだってナンセンスだ。昼日中から、おかしなサイトを見て遊んでいる奴は、端から見ればすぐ分かるのだ。そのために同僚がおり、上司がいるのではないか。副作用をおそれて薬を飲まなければ、適応力が落ちるばかりだと、もうそろそろ知るべきだろう。
by Tomoichi_Sato | 2007-07-26 00:53 | 考えるヒント | Comments(0)

赤信号をわたる国

知人が長い休暇を利用して、シベリア鉄道経由でヨーロッパに旅行した。シベリアを鉄道で横断して欧州に行くには、片道だけで7日間くらいかかるという。たぶんシベリア鉄道とは、それに乗ること自体が半分目的みたいなものなのだろう。列車の上でひたすら時間を無為に(有為に?)すごす点が贅沢なのだ。

帰国後の彼に感想をたずねたら、「ドイツ・フランスまで足をのばして、レンタカーで回ってきましたが、佐藤さん、フランスってのは危険な国ですね。」という。どうして?とききかえすと、「だって、あそこの国じゃみんな、赤信号でも道を渡るじゃないですか。危なくってしょうがないですよ。まったく、基本的な交通マナーも守らない。マナーが最低の国です。」というのが彼の答えだった。

そうなのだろうか。私もあそこの国に1年近く暮らしたが、幸いあまり危ない目にあった記憶がない。むしろ最近の日本の方が怖いくらいだ。しかし、彼のいいたいことはわかる。フランスでは、横断歩道の信号が赤でも、歩行者は平気でわたっていく。むろん、わたる前に、いちおう自分の目で左右は確認する。だが車が少ない、あるいは自分の足で渡りきれる、と判断したら、皆どんどん横断してしまう。自己責任でリスクテークしている、というわけだ。彼らにいわせれば、“車が一台も来ないのに赤信号で止まって待っているドイツ人はアホだ”ということになる(この両国は、お互いを馬鹿にする表現には事かかない)。

ところで、念のために統計データを調べてみると、交通事故の年間犠牲者数は日本の方がフランスより多い。ただし人口も2倍ちがうわけだから、確率でいうとフランスの方が高いのは事実だ。それでも、歩行中の事故被害にかぎって比べると、日本の方が明らかに分がわるい。赤信号をわたる国の歩行者は、轢かれる確率が日本より少ないのだった。いったい、なぜだろうか?

理由は、簡単である。あの国では、自動車の方がとまるのだ。運転する側から見ると、道路では青信号であっても、いつ人が渡ろうとしてとびだしてくるか、わからない。いきおい、歩行者のいる道では慎重になる。高速道路では気がちがったみたいに飛ばす彼らも、街なかでは安全運転せざるを得ない。だから歩行中の事故が少ないのだった。そして(ここが大事なところなのだが)、“車は止まるべきもの”と信じているから、歩行者は赤信号でも渡るのである。

逆に、日本の車は青信号では減速しない。なぜなら、歩行者は赤信号を渡らないものだという社会的な合意事項(暗黙の前提)があるからだ。日本で、赤信号を『自己責任』で毎回渡っていた日には、命がいくつあっても足りるまい。

もうおわかりだろうが、フランスと日本では、交通システムの中で、ゆずり合いのバランス点がちがうのだ。日本では歩行者が我慢し、フランスでは自動車が我慢する。これを、歩行者という一断面だけで切って、「マナーの良しあし」で比較するのはまちがっている。

ちなみに、以前紹介したイギリス風の『ラウンドアバウト』(ロータリー交差点)も、フランスには時々存在する。そしてこいつは、十分危険である。嘘だと思ったら、ためしに凱旋門の周囲をめぐるエトワールのロータリーを、あるいて渡ってみればいい。ただしその前に十分な生命保険をかけておくことをおすすめする。フランスのロータリーでは、運転者は自分の行き先の道にでることに忙しく、歩行者には注意を払っていないからだ。

交通システムは、人間と機械(自動車)と設備(道路・信号機)がつくる、典型的な多目的システムである。その中では、互いの目的を達するための相互調整(交通整理)が必要になる。調整ためには、多少のゆとり=自由度(バッファー)の存在が、システムにおいて必須となる。それが道のゆずり合いであり、あるいは車間距離である。

では、交通システムにおけるマナーとは何だろうか? それは、システムの中で自由度やバッファーを置く場所についての、無言のルールである。あるいは、暗黙の合意事項だといってもいい。そして、マナー違反とは、システムの中にリザーブされている自由度を、勝手に消費してしまうことなのだ。安定した、すぐれたシステムは、大多数の長期的な利益のために自由度を確保しておくという暗黙知を、その内部に持っている。それを個人が短期的な利益のために蕩尽しないこと、すなわち長期的利益のために短期的利益を抑制することが、「マナー」と呼ばれるものの中身である。

最近の日本の交差点では、自動車が黄信号でも赤信号でも渡りきろうとして突入してくるのをしばしば見かける。それも案外、年輩のドライバーが多い。彼らは、長年親しんだ暗黙知をどこに置き忘れたのだろうか? 社会がリザーブしている自由度を、自分の短期的利益(それもほんの数十秒の利益)のために使おうと、いつ心がわりしたのか? 

長い不況のトンネルを抜けて、日本は景気が上向きになったと言われる。しかし、その好況の中で、目前の短気利益志向がどんどん進行しているのかもしれない。私たちの社会システムは、すでに自由度を失って、きしむ音をたてはじめていないだろうか。この国の社会全体が、赤信号を渡りはじめていないだろうか? これが自分一人の杞憂であることを、私は切に願っている。
by Tomoichi_Sato | 2007-02-25 21:53 | 考えるヒント | Comments(0)

なぜ信号機が必要か

イギリスの都市近郊を車で走ったことがある人ならご存じだろうが、あの国には「ラウンドアバウト」なる交差点形式がある。「ロータリー」ともいうが、日本のロータリーはふつう駅前くらいにしかなく、そこは車が周回する場所というより、タクシーやバスが停車して乗客の乗り降りをさせる所というイメージだ。ところが英国のラウンドアバウトは通常の交差点に近い機能を持っている。四方からの道路が一点で交差して十字路をつくるかわりに、5-10m半径の円環路に接続している。そして車の流れは一方向(あの国は左側通行だから時計回り)にのみ進むことが許されている。

ラウンドアバウトに入った車は、必ずその流れにのって進み、自分がいきたい方向の道から円環の外にでるルールになっている。この交通システム(?)の特徴は二つあり、(1)車は止まらずに円環の流れにそって自分のいきたい方向にいける、(2)したがって信号機は必要ない、というしくみである。自由かつ闊達なるこの仕組みがイギリス人はたいそう自慢らしく、彼らの支配地域だった中東などでも、よく見かける。

たしかに、いったんなれてしまえば、これはなかなか良い仕組みだとわかる。円環路の流れに合流したり分岐したりするところは若干の運転スキルが必要だが、これにも優先の決まりがあり、危険なことはない。いかにも、紳士の国らしい大人のしきたりであるな、と感じたりする。なにより、誰にも命令指示されることなく、かつ自分が希望する方向を選べる点が、いかにも自律分散・民主的ではないか。

ところで数年前、中東で新聞を広げていたら、「トヨタ・ロータリーをつぶして、信号機を設置します」というニュースをみつけた。このロータリーは別にトヨタがつくったわけではなく、同社の大きな宣伝ポストが近くに立っていたからつけられた市民の愛称だったらしい。その親しまれたロータリーをつぶして、信号のある交差点に改造する工事をするという。数日間は交通が遮断されるから、記事になったのだろう。

では、なぜこのように素晴らしいシステムであるロータリーをつぶして、渋滞と喧噪の象徴である信号機を導入するのか。中東がイギリス支配に反抗する政治的象徴なのか? それとも民主主義など眼中にない首長国の陰謀なのか? --むろん、そんなことではない(と思う)。記事によれば、彼らの理由説明は、きわめて単純なものだった。それは、「交通量の増大」である。

英国郊外の美しい(場所によっては多少醜い)街並みを走っているときには気づかなかったが、ラウンドアバウトは、車の交通量があまり多くないときのみ、快適に機能するものなのだった。入ってくる交通量がある一点を超えて増大すると、円環の流れに合流することができずに左折待ちの車の列がだんだん増えてくる。待ち行列の理論をご存じの方ならわかるはずだが、到着する車の頻度がロータリーの円環路の最大流量に近づくにつれて、この列は加速度的に長くなっていく。つまり、ひどい渋滞現象をひきおこすのだ。こうなると、とても非能率な民主主義社会が出現する。

信号機つきの十字路は、これを指示命令方式で遮断する。そして、縦横の流れを交互にせき止めて、減速せずに通過できる直線的な流れをつくりだす。道の通行を半分の時間は止めてしまうのだから、信号はたしかに(ミクロな視点では)運転者の敵であり、道路の輸送能力をかなり減らすことになる。しかし、交差は地理的にどうしても生じるものだ。そして、信号機つき十字路は、自由闊達なラウンドアバウトよりも、さばける交通量の上限が大きいのだ。

それでも、交通量の増大とともに、信号機つき十字路もいつか限界に達することがあるだろう。そのときはどうするか? ご存じの方もあろうが、複数の信号を系統的に制御して、流れの遮断を同期化してやるのである。大きな国道沿いに(不幸にも)住んでいる人はこの事実を経験的に知っているはずだ。

さて、私は何を言おうとしているのだろうか? これまで読んでこられた方は、もううすうす気がついておられると思う。生産管理やサプライチェーン・マネジメントにおいて、集中管理と協調分散のいずれが良いかという議論が時々ある。しかし、こうした論点を単なる「あれかこれか」のドグマとして論じても、仕方がないということだ。私は、『質量転化の法則』、あるいは(自分の好きな用語で言えば)『スケールアップの法則』の信奉者である。量にしたがって、システムは質を変えるべきだと信じている。

設計の指示系統は混乱し、工場は材料や仕掛品であふれ、誰もが毎日の仕事に追われて改善どころの騒ぎではないような職場があったら、それはたぶん、車が増えすぎたロータリーなのだ。量の増大に質の変化が追いついていない、いや変化の必要性に気づいていない、ということを示している。そこには、信号機が必要である。信号機があるのに混乱しているのだとしたら、そこには信号管制システムが必要なのだ。

信号機は、マネジメントでなく、コントロール(管制)をするだけだ。プロジェクトとか生産とかを論じると、すぐマネジメントだの人材だのの話になるのが最近の傾向のようだが、私はその前に考えるべき事があると思う。それはコントロールなのだ。

プロジェクト・マネジメントではなく、まずプロジェクト・コントロールを。生産管理ではなく、生産コントロールを! 
by Tomoichi_Sato | 2007-02-09 00:06 | 考えるヒント | Comments(0)

変わりたいですか?

新年にあたって、たいていの人は、今年はこうしたいとか、ああなってほしいなどと考える。新年の誓いと期待とは、昨年までの自分のあり方から、何らかの『変化』を望む気持ちのあらわれだ。

G・ワインバーグは、機知にあふれた著書「技術コンサルタントの秘密」の中で、“コンサルタントとは人々にたいし、彼らの要請にもとづいて変化を及ぼす仕事をする人”だと書いている。これは報酬の有無にかかわらず成り立つ、うまい定義だ。クライアントは何かを変えたい、もっとうまくやりたい、変化したい、と望んで、その要請をコンサルタントにぶつける。コンサルタントはクライアントの変化の案内役を務める。だから、コンサルティング技法の中心には『変化論』が要るのだ、というのが彼の論法だ。

ところで、変化への望みには、2種類の仕方があると私はつねづね感じている。それは、何々にになりたい、という願望と、何々をしたい、という期待である。うまく変化の道をたどれるかどうかは、このどちらの種類の望み方をするかにかかっているのではないか。前者はどちらかというと夢であり、「お姫様になりたい」という女の子の夢想に近い。そこには結果像だけがあって、お姫様にはどうやったらなれるのかという、具体的プロセスが欠けている。だから「今年は業界で一番になりたい」という目標は、意外に華奢(きゃしゃ)な望みなのだ。

これに対して「今年こそみんなと一緒に鉄棒を楽しみたい」は建設的である。そのためにはどうしたら逆上がりができるようになるか、握力を強くするにはどうしたらいいか、など挑戦すべき課題が次々に出てくる。こういう風に、課題とプロセスが次々に展開してくる願望の方が、ベターなのだ。「~になりたい」は単なる夢だが、「~をしたい」は希望である。「今年は業界で一番になりたい」より、「今年は性能が5割アップの製品を作りたい」へ。つまり、「~になりたい」から「~をしたい」に、まず望みをシェイプアップすることが、変化への近道なのだ。

ちなみに「お姫様」は身分であり、「逆上がり」は活動である。この対比を、私は政治学者・丸山真男の論考「『である』ことと『する』こと」から学んだ(岩波新書「日本の思想」所収)。彼は前近代の身分制社会から、近代の機能的社会への変化を重視する人で、最初高校生の時に読んだ際には、ちょっと図式的過ぎると感じたが、最近この問題は案外奥が深いな、と思うようになった。彼は「女であること」は小説の題になりうるが、「男であること」というタイトルは少し滑稽な感じがする、と書いている。昭和まで続く伝統的思考においては、女は身分だが、男は社会性だ、ということらしい。ここらへんは、平成も20年近くなった今では、すこしずれてきているようだが。

変化論に話をもどすと、「変化」とは現在のあり方・やり方を捨てることである。捨てなければ、変化できない。ここに、変化への抵抗の源がある。現在、それなりになんとか成り立っているやり方や仕組みを捨ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか? とりかえしのつかないことに、なりはしないか。こうした不安は、誰しもが感じる。だから結局、これまでの『やり方』を手放さないまま、新しい『あり方』だけを夢想するような、“~になりたい”目標が出てくるわけだ。

現状維持はすなわち、現状を捨てることに対するリスク判断が大きすぎる結果として、生まれる。前例がない、という役人得意の文句はその典型である。こうした組織では、変化は起こりにくい。以前「リスク確率と代替可能な仕事の価値」の中でも書いたように、リスク確率とはじつは主観確率である。現状以外にたいするリスクの主観確率が高い組織では、だから変化は決して起こらない。

その長期的結果として、どうなるのだろうか? 簡単なことだ。外界は変化していく。しかし自分は変化できない。だから、しだいに環境に適応できないようになる。そして、恐竜と同じ運命をたどることになる。変化するための小さな代償を拒んだがゆえに、自分自身の存続という最大の代償を払うのだ。

ワインバーグは上記の本の中で、「何かを失うための最良の方法は、それを離すまいともがくことだ」と書いている。変化を規制すると、失うものも多い。プロ野球の長期低迷から日本コメ農業の危機まで、その実例を私たちはあちこちで見ている。

変化とは賭けであり、賭けとは選んだ選択肢以外を捨てることである。古い皮を脱ぎ捨てなければ、自分も組織も大きくなれない。だから、新年の望みを持つならば、「~したい」という形で希望を語るようにしよう。
by Tomoichi_Sato | 2007-01-02 15:27 | 考えるヒント | Comments(0)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2)

前回書いた「囚人のジレンマ」の問題をセミナーなどで説明し、自分ならどの行動をとるかを聴衆にたずねてみると、過半数はやはり『自白』を選択すると答える。つまり、相棒がどちらの行動に出ても、自分のこうむるリスクを最小化する方を選ぶというのだ。すなわち、自分の損得というミクロな観点から言えば、きわめて合理的な判断である。

その同じ判断が、分業化した会社の中でもしばしば行なわれる。たとえば、こうだ:購買部門は安い資材部品を納期通りに調達することを、部門の目標として与えられている。だから、他の部門から手配部品の納期を聞かれたら、長めに答えることになる。短い納期見積を答えて、サプライヤーがそれに応じられなかったら、購買部門の失点になるからだ。リスク最小化の原理である。同じ理由で、発注ロットサイズをたずねられたら、多めに言いたくなる。その方が安く買える可能性が高いからだ。つまり、納期は長めに、発注量は多めになりがちだ。

一方、設計部門はどうか。業績評価の尺度は、設計の品質と稼働率だ。品質自体は直接測りにくいから、同じ性能や顧客仕様を満たすために、どれだけ経済設計できるかでおきかえられる。部品数が少なく、重量や肉厚がぎりぎりまでしぼってあるほど良い。こうなると設計の期間は長くなりがちだし、手配部品も個別仕様品が増えていく。でも、標準部品を使って設計マージンが大きくなりすぎたら、失点になる。多少手間はかかっても、稼働率も上がったほうが文句を言われない。客のわがままな仕様のせいにすればいい。

資材倉庫部門はどうか。材料出庫指示が来たとき欠品だと、製造部から文句を言われる。いきおい安全在庫レベルは高めにとることになる。手配も早め早めにかけることになる・・。

おわかりだろうか。どの部門もリードタイムは長め長めに、在庫量は多め多めに動くことになる。各部門がそれぞれリスク最小化のために、余分なサバ読みを行なっている。それが部門レベルで合理的に行動した結果だ。だが、その結果、会社レベルではどうなるか。あきらかに高コストで長納期、競争力のまるで無い状態に陥るのだ。分業の発達した企業では、こうしてあちこちで囚人のジレンマが発生する。全員が合理的に行動して生まれる事象だから、“馬鹿者”と一喝しても、“もっと頑張れ”と尻を叩いても、いよいよ事態は増長するばかりだ。

それでは、どうしたら良いのか? ある意味、答えは簡単だ。『囚人のジレンマ』はゲーム理論で言う「非協力ゲーム」であり、相棒と意志疎通できないことが障害になっている。一言でも話ができて、“一緒に罪状を否認しよう”と協力を合意すればジレンマを脱出できる。だから、会社だって部門間の壁を超えて話し合えば、良さそうな気がする。

しかし、月次の生販会議も毎週の設計工程会議もやっているのに、解決しないのはなぜなんだ。そう自問自答する人も多かろう。それは、皆が「非協力の結果」を理解していないからなのだ。前回の説明で、“二人のくらいこむ年数の合計”の表を見てほしい。これが、組織全体の収支の表だ。

ところが製造業の場合、誰がどういう行動をとると全体がどうなるかが、じつは直感的には分かりにくい。安全在庫水準を5割増やしたら、あるいは調達リードタイムが3週間延びたら、コスト競争力にはどう響くのか? こうしたことは、生産という巨大なシステムのふるまいを対象とした、正しい生産管理の理論を知らないと、正確には答えられない。

分業病は各部門にたいして、異なる評価尺度を与える組織に起こる病気だ。真に解決するには三つの方法しかない。一つは、全員に正しく生産管理を理解してもらうこと。これは理想だが、かなり遼遠な道である。第二は、全体を見通すコントロールセンターの部署を作って、手配指示はそこから出すようにすること。これは計画系機能の強化策である。第三は、各部門の評価尺度を、全体最適を実現できるような矛盾のないものに変えてしまうこと。組織の中の人間は、しょせんモノサシで動かされる存在である。そして、なにより、部分的な合理性をつみ上げても、全体のマクロな合理性は生まれないことを知るべきなのだ。
by Tomoichi_Sato | 2006-11-23 23:46 | 考えるヒント | Comments(0)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む

企業が変わることは難しい。緩やかな景気拡大が続く中、新規設備投資やIT投資が行なわれるようになり、それに並行して業務を合理化しよう、生産を革新しよう、という運動も活発になってきた。しかし、目に見える工場ラインやコンピュータ導入に比べ、目に見えにくい業務運用のソフト部分は、なかなかうまく変えられない。業務改革プロジェクトを立ち上げて何度か会合を開いても、“総論賛成・各論反対”でなかなか前に進まない--こんな話を、旗振り役の部署の人から聞くことも多い。

会社が変わらないのは、従業員の頭が固くて保守的なせいなのか。はたまた企業文化や風土のせいなのか。どちらも違う、と私は考える。会社がマクロな不合理に陥っているのは、各人が合理的な意志決定をつみあげたせいなのだ。製品納期が遅れたのも、部品在庫や仕掛品が山のようにあるのも、そのくせ肝心な部品が欠品するのも、皆が残業また残業で疲弊しているのも、じつは各人が合理的にふるまったせいなのだ。

なぜそのようなことが起きるのか? その理由は、経済合理性の背後にある『リスク最小化の原理』にあるのだ。だが、理由をを紐解く前に、ちょっとこういう問題を考えていただきたい。

いま、ここにギャングXとYがいる。彼ら二人は共謀して、銀行強盗を働いたばかりだ。しかし逃走して潜伏中に、別々に警察に捕まってしまう。警察は二人が銀行強盗だとにらんでいるが、直接の物証がない。そこで微罪で別件逮捕したのだ。警察は彼らを(共謀できないように)別々の留置場に収監して、銀行強盗の自白を迫る。相手が罪状を否認しているとき、自分だけが自白すれば、司法取引により自分は無罪放免になる。逆に自分が自白を拒否して、相手がしゃべってしまえば、自分は懲役7年は覚悟せねばなるまい。

自分も相手も互いにしらを切り通せば、二人とも微罪で1年収監程度で済む。逆に二人とも自供してしまえば、改悛の情を一応見せたことで懲役5年程度ですむだろう。このような情況の時、あなたがギャングXだったら、どのような行動をとるべきか。自白か、否認か?

このような状況下での合理的な決断について、考えてみよう。相手はどう出るか分からないし、連絡もとりようがない。そこで自分の選択と、相手の選択で合計4種類のシチュエーションが想定される。それを、下記のような行列で表現する(これを利得行列と呼ぶ)。単位は年数で、懲役だからマイナス値で表示してある。

           自 分 
       | 否認 | 自白 |
       |=========|
相手  否認 | -1 |  0 |
    自白 | -7 | -5 |
       |=========|
 
もし、相手が否認した場合を想定してみよう。すると、自分も否認すると-1、自分が自白すれば0だ。したがって、刑罰のリスクが最小となるのは、自分が自白をするケースだ。また、もし相手が自白したらどうだろう? 自分が否認するとー7、自白するとー5だ。この場合も、自白の方が懲役のリスクが小さい。

したがって、相手がどう出るか分からない不確実環境下で、自分がこうむるリスクを最小化するためには(「リスク最小化の原理」)、自白することが『合理的』だと判断できる。

ところが、よく考えてほしい。相手も、同じ情況なのだ。だから、相手も自白するのが『合理的』だと判断する。その結果、どうなるか。二人とも自白して、ともに懲役5年である。二人が一緒に否認すれば、1年で済んだのに! いや、それどころか、二人の懲役年数を合計すると、次の表のようになる。

           自 分 
       | 否認 | 自白 |
       |=========|
相手  否認 | -2 | -7 |
    自白 | -7 |-10 |
       |=========|
 
これから分かることは、共に自白すると、二人組という組織にとっては最低の結果に陥ることである。リスク最小化原理に沿った“合理的”行為をつみ上げた結果が、組織にとってはもっとも不合理な結果を生む。これが、ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」の物語である。

それでは、企業内にとって、いかに囚人のジレンマに似た状況が生まれてくるのか。また、そこから脱出するためにはどうしたらよいのか。少し長くなってきたので、この続きはまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-11-13 22:05 | 考えるヒント | Comments(0)