カテゴリ:考えるヒント( 92 )

リーダーは組織の主人か?

年末、友人に誘われてコンサートを聴きに行った。曲目はバッハの「クリスマス・オラトリオ」。気鋭の指揮者の元、オケと合唱団が一丸となり、複雑な後期バロックの音楽をきびきびとリズミカルに歌いこなしていく。友人はその合唱団でバスを歌っているのだった。長大な曲なのに長さを感じさせない、良い演奏だった。会場を埋め尽くした聴衆も、音の響きに満足しているようだった。

ところで聴いている内に、ちょっと妙な感想が心に浮かんだ。この演奏会は、たしかに指揮者がリードしている。だが、指揮者が主人なのだろうか、それとも合唱団が主人なのだろうか

指揮者は、プロの音楽家だ。対する合唱団は70人以上いたが、アマチュアだ。舞台に乗れるかどうかは、オーディションをして、指揮者が決めているという。だが、会場の聴衆のほとんどは、この合唱団員の人たちが知り合いなどに声をかけて集めたはずだ。わたしもその一人だった。その動員力はさすがで、長年、歌を趣味としてきた人たちが多いと思われる。

ちなみに器楽を演奏するアンサンブルも、20数名いたが、ほぼ全員がプロだと思っていい。ただ、常設の交響楽団と違い、年に1・2回、演奏会の時に指揮者に呼ばれて集まるが、普段は皆、別の仕事を持っている。こうしたプロの音楽家達には、当然ながら、演奏のギャラが支払われる。むろん指揮者にも、である。で、そのギャラは、誰が払うのか? 実質上、合唱団が負担するのだ。アマチュア音楽の世界では、演奏会収入だけで、会場費とギャラと宣伝費をまかなうことは難しい。チケット代を安く設定せざるを得ないからだ。だから通例として、合唱団員は演奏会分担金のようなものを支払う。自分の楽しみのために歌って、自分で費用を出す。まあ、すべからく趣味とはそういうものだ。

つまり、純経済学的に見ると、このコンサートでは合唱団が指揮者を雇っているのである。皆、指揮者の魅力に惹かれてこの団体に集まり、指揮棒のリードの元に歌っている。だが、指揮者は合唱団員に雇われているのだ。

ここで話は、急に飛ぶ(ま、いつものことですが)。学生時代に、野口三千三の「原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論」という本を読んだ。野口三千三は、東京芸大の、体育の教授だった人だ。え? 芸大に体育科なんてあるの? いや、もちろん体育学科はない。だが必修科目としての体育の授業は存在する。彼はその教授だった。そして、「野口体操」と呼ばれる、非常にユニークな身体運用のトレーニングを発明した。

クリエーティブな仕事は頭だけでやるものだ、と勘違いしている人は多い。だが、どっこい、絵を描くのも彫刻を彫るのも音楽を奏でるのも、すべて極めて身体的な作業である。アタマと身体がスムーズにつながっていないと、本当は創造的な仕事はむずかしい。しかし、従来のいわゆる「体操」は、アタマとは切り離された肉体を、ただ鍛えることに集中していた。それは兵隊の教練の思想も影響している。屈強な身体が、命令を聞いたらただ反射神経的に動く。自分で何か感じたり考えたりするのは余計なこと。それが教練である。野口は戦後すぐからこの限界に気づき、独自の工夫と理論化で、クリエーティブな心とからだの統合方法について探求した。

主著「原初生命体としての人間」は、その結実である。野口体操は、従来の体操とまったく発想を逆にしている。アタマが考え、動きを決め、指令を発し、それが神経系統を通じて筋肉に伝わって、身体が動く--これが従来の体育観だった。あくまでアタマが主人・リーダーであり、カラダはその子分、あるいは奴隷である、と。この発想は、西欧の心身二元論にも通じている。プラトンやデカルトなどの、精神と肉体を峻別し、前者が後者に宿り、支配するという考えに、とても相似形だ。

だが、古くからの日本人の知恵は、そんな二元論ではなかった、と野口は考える。そして、からだを主体の中心に据え、からだの構造と、「重さ」(地球の重力)との対話のなかから、自発的に動きが生まれるような体操のシステムを組み立てた。

脳が身体の主(あるじ)である、という発想は間違いだ、という意味のことを野口は書いている。生物の進化の歴史を見よ。原初の生命体には、脳などなかった。それは多細胞生物、とくに他を捕食して生きる動物が、身体の体制を複雑化する中で、あとから必要に応じて発明された器官にすぎない。今でも植物には脳などない。それでもちゃんと生きて、豊かに繁殖している。脳はからだが生み出した道具で、からだこそ脳の主人である。--この考えを読んだとき、わたしは天地がひっくり返るほどの驚きをうけた。でもじっさい、肩がひどく凝ったり、腹が減ったり、いや単に歯が1本痛むだけで、わたしたちのクリエーティビティは大幅に下がるではないか。

わたし自身は頭でっかちな知識労働者で、スポーツ・運動のたぐいは大の苦手で、今もこうやってPCの前に座ってキーボードをたたいている。ほとんど脳と口先だけで生計を立てているといってもいい。だが、野口三千三の本を読んで以来、頭が体を支配する、というようなイデオロギーに、本能的に反発するようになった。カラダは自分のモノだから、傷つけようが売ろうが何をするのも自由だ、部品が少し傷んだら新しいものに移植し取り替えればいい・・そうした思想の背後に、何か西洋近代の本質的な歪みと転倒を感じるのである。

そこから話は、もう一度飛ぶ(どうもすいません)。近代の心身二元論の元祖であるデカルトの「方法序説」で、彼は身体の血液の流れについて、たしか現代の目から見てずいぶん突飛で無理の多い説明をしていた(この文章は国際線の機上で書いているので、記憶でいうのだが)。当時、西洋ではまだ、血液が循環するという考えは一般的でなかった。血液は心臓で生み出されて体の各所に送り出され、そこで消費されると思われていたのだ。医師ハーベイが動脈から送り出された血は静脈を通って戻ってくる、との血液循環説を証明したのは、たしか方法序説の刊行より少しあとのことだった。

東洋では古代から「気血の廻り」という概念があり、“あいつは血のめぐりの悪いやつだ”といった表現を昔から普通に使ってきたわれわれから見ると、ずいぶんと奇妙に遅い発見である。身体の各部は複雑に、かつ有機的に統合されている『システム』である、というのが東洋的感覚だ。器官と器官は、気脈や経絡を通じて、互いに影響し合う。たとえば肝臓が疲れると、目が悪くなる、といった具合だ。それに比べると、デカルトに代表される近代西洋人の身体観は、なんとも機械的である。手足や器官という部品が並んでいる。それはお互いに、単機能をもつ、ばらばらな存在である。それらを統合するのは、脳であり、それが神経伝達を通じて全体を動かしている、と。システムはシステムだが、とても機械仕掛けのイメージである。

現代の主流のマネジメント論や、経営学を見ていると、同様な機械的組織論が、いまだ西洋には根強いことを感じる。本社がある(最近では司令塔としての持ち株会社である)。そして工場だの支社だの営業所だのといった、単機能の現場がある。本社は指示命令系統をもって、すべての現場を統括する。そこでは決まったルールとプロシージャに従って作業が進められ、ただ結果や異常事態だけが本社に報告される。それを本社が判断し、次の指示を出す。部署と部署が有機的に連携したり、といった発想はこれっぽっちもない。

そして、部署やサブシステムの機能が低下したら、それは捨てるか売却される。新しい組織を外から買収してきて接合する。それで企業全体は進化し成長していく。指示する者と、指示される者との上下関係は絶対である。そして少数のリーダーだけが、絶対君主として君臨している。

これって、西洋人たちの考える脳と身体との関係によく似ていないか。わたしはこのような思想に、直感的に反発を覚える。脳は、からだが発明した道具だ。本社というのも、大きくなった企業が、必要に応じて発明したもので、その本来の仕事は、現場を支援し、現場の仕事をやりやすくするために、あるのではないか。トヨタと米国のGMが合弁でNummiの工場を立ち上げたとき、最大の論争は、ホワイトカラーが現場に指示命令を下すのか、それともホワイトカラーが現場を支援するのか、という違いだったではないか。

その視点からもう一度、指揮者と楽団の関係を見直してみよう。そうすると、あらためてその不思議さが際立つのである。実際の音を発しているのは器楽奏者と合唱団員である。指揮者は一音たりとも発しない。それなのに、演奏が終わると、まず拍手に礼をするのは指揮者であり、批評が功績をたたえるのは何より指揮者であり、主催者に一番高く遇されるのも指揮者である。

インドネシアのガムラン楽団から西アフリカの音楽まで、大勢で演ずる音楽は世界にたくさんある。だが、「指揮者」などという奇妙なシステムを発明したのは西欧音楽だけだった。それも、中世・ルネッサンスの時代までは、指揮者なんていなかった。指揮者が現れ、専門家として職能が確立していくのは、楽曲が大規模化していく後期バロック・古典派以後の時代だ。そしてもちろん、音楽作りにおいて中心的役割を果たすのは指揮者になる。指揮者が最初に礼をするのは、その貢献度と責任の重さからいって当然のことと、皆が認めている。

その理由は、繰り返すが、楽譜の形で計画化され、大規模化したからである。今でも弦楽四重奏や、ジャズ・コンボや、ロックバンドには指揮者なんていないし、いらない。お互いのインタープレイで、楽曲は進められていく。互いが、互いに影響し合う。

もちろん指揮者は、必要である。本社だって、リーダーだって、プロジェクト・マネージャーだって、わたし達には必要である。だがその必要性は、からだが脳をつくり出したように、組織の便利のために創り出されたものなのだ。組織がリーダーに奉仕するために創り出されたのではない。そのことを、もっと多くのリーダーの立場にある人たちが、心にとめれば良いのにと、わたしは思う。・・ただし、もちろんわたしは、このような考え方に賛同したくない人たちが多くいることも、一応は承知している。その理由については長くなるので、稿をあらためて、いずれまた論じよう。


<関連エントリ>
 →「NUMMIは終わった」(2009-07-01)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-08 09:15 | 考えるヒント | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:幸せな人

Merry Christmas !!

ちょっと前、電車の中で広告を見た。まだ年若い、南アジア風の女の子の写真に、

 「13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない。」

というキャプションがついている。途上国で、女性に生まれたが故に差別的な境遇におかれている、そういう子供たちを支援する活動の広告のようだった。

人種・性別・肌の色など、自分で選んだわけでもないことで、社会的に不利益な状態におかれるのは、不公正だと、わたしは考える。広告主も、それを訴えたかったのだろう。だが、この広告を見たとき、わたしの心の中に浮かんだのは、まったく別のことだった。

 「ああ、マリアさんだ。」

そう、思ったのである。

マリアさんは、当時のパレスチナ風の発音では、ミリヤムとかいう感じになるのだろう。後に『キリスト』という称号で知られるようになるイエスの、お母さんである。当時のユダヤ人社会の慣習では、13, 4歳で結婚するのが普通だった。彼女もそうだったはずだろう。

ところで、この年若いマリアさんに子どもができた。まだ、正式な結婚前である。婚約者だった大工のヨゼフは、そのことに気がついた。気づいて、非常に苦しんだに違いない。当時の法律では、既婚の女性の姦淫は、石打ちの刑、すなわち死罪である。結婚式の前でも、結納金をおさめて婚約したら、もう既婚に準じた扱いをされる。ふつうなら、刑に処されても仕方がない。だがヨゼフは心優しい人だったので、婚約者がそのような目に遭うことを望まず、ひそかにマリアと別れることにした。密かに公証人を買収して、彼らの婚約を無効なものにしてもらおうとしたのかもしれない。

ところが、そう決心した日の夜、『マタイ伝』によると、ヨゼフの夢枕に天の使いが立つ。そして、彼にこう告げるのである:“心配するな、ヨゼフ。マリアを嫁に迎えろ。あれは聖霊によって身ごもった子だ・・”。目覚めたヨゼフは、その忠告通り、マリアさんを嫁に迎える。

一方、別の伝記『ルカ伝』によると、話はもっと華麗で劇的である。天使は、ヨゼフではなくマリアさんのところに現れる。それも、昼日中やってくるのだ。もっとも、今のわたし達は、天使と聞くと背中に羽の生えた人をすぐ想像するが、これは後世の絵の影響で、当時は普通の人間と同じ格好をしていると考えられてきた。

さて、その神の使いは、扉を開けるなり、“おめでとう、マリア。神はあなたとともにおられる。あなたは祝別された女性で、御胎内の子も祝別されている”、と挨拶する。マリアさんはこの言葉を聞いて、“なんじゃこりゃ。何事なんだこの挨拶は?”、と思った−−かどうかは知らないけれど、何かただならぬことは感じたらしい。それでも、彼女はつつしみ深く賢い女性だったので、「わたしは神様のしもべです。お言葉のとおりになりますように。」と答えるのである。

このときマリアさんが、そうだ、この子を産もう、と心に決めなかったら、その後2000年の西半球の歴史は、がらりと変わっていたにちがいない。それくらい大きな決断を、この人は下すのである。

天の使い(その名もガブリエル=『神の人』)は、生まれる男の子に「ヨシュア」という名前をつけるようにいって、去って行った。ヨシュアは『神の救い』という意味で、彼女の住んでいたガリラヤ地方の方言ではイェシューという風な発音になる。のちにギリシャ語→ラテン語を経て、今日の日本語ではイエスと発音されている。英語では似ても似つかぬ、ジーザスみたいな発音になる。

さて、マリアさんはその少し後、親戚のエリザベトという女性におめでたを祝福されて、「わたくしのたましいは主をあがめ」ではじまる、有名な長い賛歌を歌った、とされる。とても立派で美しい詩である。農村の十代の娘が、そんな詩を即興で歌うわけがないじゃないか、第一、伝記作家ルカはその場で見ていたわけでもないし、などと言ってはいけない。それは、古代の宗教的伝承を、まるでジャーナリストか研究者の報告のように読みたがる、今日のわたし達の誤りだろう。昔の人は、そうであったろうと信じた。それだけのことだ。

その賛歌の中で、マリアさんは、「後の世の人は、わたくしを幸せな女と呼ぶでしょう」といっている。きっと、うれしかったのだろう。ほかに、「権力あるものをその座から引きずり下ろし」などと、不穏なことも言っている。今日だとテロリスト扱いされるかもしれない(笑)。

その後は、よく知られている話だ。ローマ皇帝アウグストゥスの命令で人口調査と戸籍登録が行われ、マリアさんは夫の一族の本籍地ベツレヘムに旅しているさなかに、子どもを産む。旅館が満員で泊まれず、生まれた子どもは飼い葉桶の中に寝かされる・・。やがてその子は成長すると、布教をはじめ、宗教活動で大勢の人をひきつけるが、最後には首都エルサレムの権力と、正面から激突する。


現代トルコの地中海沿いに、イズミールという古くから栄えた都市がある。そこからバスで1時間ほどいったところに、エフェスと呼ばれる小さな町がある。’90年代のはじめ、まだ第一次湾岸戦争が終わって間もない頃、わたしはつれあいと一緒に、その地を訪れたことがある。いくつかの古い遺跡のほかに、「マリアの家」といわれる古い石造りの建物があった。最古の部分は1〜2世紀にさかのぼるという。そこは、マリアさんが生涯の最後の日々をすごした場所だと伝えられている。

マリアさんの後半生は不明な点が多い。東方教会の伝承では、エルサレムで亡くなったと言われている。西方教会は、その点はあいまいである。ただ、亡くなる直前のイエスによって、近くにいた一番年若い弟子と養子縁組することになり、その弟子とともにエルサレムから難を逃れたとも考えられる。カトリックの正統教義では、たしか聖母マリアはその身体ごと昇天したとされているはずだから、もちろん墓は存在しない。ただ、地中海のいろいろなところに、マリアさんが逃れてきたという伝説があるだけだ。

エフェスの「マリアの家」では、トルコのイスラム教徒たちも大勢訪れていた。なんでも聖典「クルアーン」(コーラン)に女性で唯一名前の出てくるのが、マリアさんなのだという。だからムスリムからも尊敬されているらしい。

後の世はきっとわたしを幸せな女と呼ぶでしょう、と歌ったマリアさんが、その晩年に自分の生涯を思い起こして、幸せだったと思ったかどうかは、わからない。身重で長旅に出て、旅先の陋屋で出産。その後も、王の迫害を避けるために、小さな赤ん坊を連れて、はるかエジプトまで亡命したといわれる。故郷に戻った後も、夫ヨゼフには早く死に別れ、女手一つで子どもを育てなければならなかった。苦労して育てた息子はしかし、大工職を継がずに宗教活動にこって出奔。仲間を連れて国中を放浪する。そして、最後はローマ帝国への反逆者として、十字架という残酷な刑罰に処せられ、彼女の目の前で息を引き取るのだ。その後も、彼女は迫害を逃れ、さらに祖国の独立戦争と敗北の混乱の中を、年若い弟子とともに逃げ回る・・。ふつうにいう幸せな人生とは、ずいぶんへだたりがある。

e0058447_15464910.jpg

<エジプトへの逃避行。ティントレット画(部分)>

では、マリアさんは、自分の人生は無価値だったと思ったろうか? −−そんなことはあるまい。わたしはそう、信じている。彼女の人生は、とても大きな価値があった。そのことだけは、確信があったにちがいない。

だとすれば、幸せであることと、価値があることとは、すこし違うのだ。たいていの人間は、よりよく生きることを望む。より良く、とは、幸せであったり、価値があったりすることだ。

わたし達は、自分が大切に思う人には、それが親兄弟であれ子どもであれ恋人であれ、“幸せであってほしい”と願う。それは自然なことなのだろう。「幸福を追求する権利」は天賦の人権の一部である、という思想もある。

でも不幸せだからと言って、無価値ではない。幸せか不幸せかは、感じ方の問題でもあろう。生涯の最後の時に、自分の人生には価値があった、と感じられることが、本当の意味では一番幸せなのかもしれない。それは、逆の場合を考えてみれば分かる。生きている間、どんなにお金や、才能や、境遇に恵まれたとしても、死ぬ前に「わたしの人生は無価値だった」と感じたとしたら。残された人たちは、“かわいそうな人だった。せめて故人の魂に平安あれ”と、思うのではないか。

価値とは、考え方である。価値の大きな部分は、人と人とのつながりからできている。そしてもう一つ。価値を生み出すためには、勇気のある決意が必要なのだ。だからそれは、信念の問題でもある。

世界が多少は静かになるこの季節に、わたし達ももう一度、自分にとっての価値とは何かについて、落ち着いて思い巡らせてみるのもいいかもしれない。そのためには、平和な時間が必要だ。そして、自分にとってかけがえのないことについて、少しばかりの勇気をもつべきなのだろう。それは今から二千年前、西アジアの片隅で、ある幸せな決意をした若い女性が、生涯をかけて信じていたことではなかったろうか。
by Tomoichi_Sato | 2014-12-23 15:48 | 考えるヒント | Comments(0)

あなたは、どう考えるの?

「佐藤さん、すみません、ちょっとご相談があるんですが・・」

若手社員が机の前にやってきて、顔を上げたわたしに、いいにくそうな声でぼそっときり出した。わたしが、ITリッチなプロジェクトをやっていた時代のことだ。

--なあに? 何か、いい話かな?

「いえ、あの・・。例の中間在庫ロットなんですが、どうしようかと悩んでいまして。」

--そこは新しいコード体系を使おうって、先週の打合せで決めたじゃないか。

「そうなんですが、注文書のシステムで、ちょっと困ったことが見つかりまして。あのままでは、番号がかち合ってしまう可能性があると分かったんです。」

彼は仕様書の該当箇所をわたしに見せて、問題を詳しく説明する。なるほど、先週の打合せでは、この点を見落としていたらしい。

--つまり、このまま進めば、ユーザに運用を変えてもらって、少しだけ手間が増えるのを我慢してもらうか、さもなければシステムの設計変更をするか、二つに一つです、という訳かな。大勢のユーザに文句を言われるか、開発会社から追加費用を請求されるか、どっちかしかありません、と。

「・・まあ、そういうことです。どうしたらいいでしょうか?」

そこでわたしは、いつものセリフをぶつけた。

--あなたは、どう考えるの

その場で部下が、自分の考えを言ってくれれば、もちろん、それでよし。内容について議論できる。部下の考えがまとまっていない場合は、「少し考えてから持ってきてごらん」と、いったん突き放すことにする。

しばらくすると、「佐藤さん、こう思うんですが。」といってくるので、そこからは議論に付き合い、一緒に考えることにする。たとえ、途中こちらがヒントをだし、リードをしても、「一緒に考える」雰囲気が大切だ。そうすれば相手は、打合せ結果を「自分が考えたこと」として、モチベーションをもって働いてくれる。

わたしはこのようなやり方を、自分自身が駆け出しの頃の、上司から学んだ。わたしが同様に、問題を抱えて、こまって上司のところに行くと、彼は決まってためいきを一つついてから、こう言う。

「それで、オタクはどうしたいんだよ?」

(その人は有名私学の出身で、そのころはまだ珍しい『オタク』という二人称を使う人だった)

わたしが、何も自分でアイデアをもっていないと、「考えてからもってこいよ。」といわれて、対話は終わってしまう。なにか解決策や提案を持っていけば、(もちろんたいていは技術的にケチョンケチョンに叩かれるのだが)とにかく前には進める。

だから、問題が生じても、まずは自分で答えを考えてから、相談に行く姿勢がいつの間にか身についた。それは、そのあと、自分が直接、顧客と接して動かなければいけないキーパーソン・レベルになってからも、とても役に立った。だからわたしも、人を使う立場になると、自然とその真似をするようになってきたのだ。

ただし、ときおり、まったくこちらの指示に依存する姿勢の若手も現れる。「少し考えてから持ってきてごらん」と突き放しても、こういうケースではたいてい、すぐにギブアップしてくる。自分で考えて突破しようという思考体力というか、基本的なスタンスが足りないのだ。おまけに、わたしは冷たい上司だと思われてしまう。そうなると、今度は問題が発生しても、わたしに報告せずに自分一人で抱え込むようになる。そして火が噴くまで、こちらが気づかない危険性が増す。

そういうときは、しかたないので、論点を整理しつつ、もう少し踏み込んで、最初から一緒に考えてやることにしている。その若手社員も、そのタイプだった。一緒に問題構造を図解したホワイトボードの前で、彼は言い出す。

「佐藤さん、従来の品番コードの頭に、取引先の略号を3桁つける、という手はどうでしょうか?」

--そりゃダメだ。そんな抜け道を造ったら、工場内のロットを物流システムで統一的に管理するという、全体の設計思想が歪んでしまう。それに、3桁なんて、どうせすぐパンクするよ。

「それじゃ、どうしたらいいでしょうか?」

 設計思想を大事にしろ、というのも、上で述べた昔の上司から学んだことだった。ただし彼は、設計思想という言葉の代わりに、『設計のスタンス』という呼び方をしていた。その方が、顧客に対してスムーズで、通りやすいからだろう。設計のスタンスを曲げると、あとで追加修正が難しくなり、いきおい全体が温泉旅館の建て増し的な、ゴチャゴチャしたものになっていってしまう。そうなれば結局、運用しづらく保守もコストがかかる。そういう理由をつけて、その上司は顧客の要求を押し戻したりしていた。

 どうしたらいいかたずねてきた若手社員に、わたしは、再びくりかえした。

--あなたは、どう考えるの?

さっきと同じ文句だが、問うていることは、じつは違う。今度は、どれを選ぶかたずねているのだ。目の前のホワイトボードには、結局とるべき方策は三つしかないことが、明らかになっている。

・今までの設計方針を押し通し、運用側で一手間かけてもらう
・システムを一部、変更する
・彼の言う、一種の変則的な抜け道をつかう

三番目は、コスト追加もユーザの不興を買うこともないが、設計思想が歪むので、わたしが賛成しなかった。選ぶなら、一番か二番目しかない。

『考える』という行為には、一般に二つのフェーズがある。問題の答えを探すことは、その主要な部分である。しかし、答えを見つけたあとにもう一つ、問題が生じる。それは複数の答えの中から、良いものを決めることである。

われわれ技術者が直面する問題は、数学のようにたった一つの正解がでてくる場合は少ない。ふつうは複数の解決案があり、しばしば、どれも帯に短したすきに長しと見える状態になる。その中から、どれかを決めなくてはいけない。よく、迷っている人が、「考え中です」と言ったりするように、考えるという行為の第2フェーズは、じつは決めることなのだ。だから、二番目の「あなたは、どう考えるの?」は、

--あなたは、どれを選ぶべきだと思うのか?

と言いかえてもいい。

そして、この問いに答えるためには、『価値観』が重要になるのである。どのような価値観を持って、それを選ぶのか。たとえば、コストと顧客満足が両立しない場合、どちらをより重視するのか。どのような状況のときには、コストを犠牲にしても顧客満足を確保すべきなのか。逆に、どのようなときは、顧客の不興を買っても、コストを選ぶべきなのか。そして、そもそも、“顧客の満足”とは、ほんとうは何をさしているのか。

そして、わたし達は、価値観をしっかり立てて、それに従って何かを決める態度が、しばしばとても弱い。とくに受注ビジネスではその傾向が強いように感じられる。多くは、“ご無理ごもっとも”で顧客要望をなんでも聞き入れてしまって、結局自分のコストと時間で帳尻を合わせている。そのような要望を受け入れることが、相対する顧客のミクロな局所最適にはつながっても、顧客組織のマクロな便益には反してしまう場合、ほんとうに顧客満足優先の価値観に立脚するならば、あえて反論し説得しなければならないはずだ。だが、そう振る舞える技術者は少ない。へたをすると、顧客の些末な要望を聞き入れて、曲芸のような設計を実現することに、自分の職人的プライドをかけたりするような逆立ちが、まかり通る。

まあ、もっと敷衍すれば、わたし達自身、それこそ学校を選ぶときも、就職先を選ぶときも、自分の価値観というより、世間的な評価や周囲のすすめなどにしたがって、何となく選んでしまう。まわりと合わせることが最大の美徳であるこの社会に育って、何か独自の価値観を樹立せよ、という方が無理があるのかもしれない。だが、われわれがビジネス社会で成長するためには、その無理をなんとか通す必要があるのだ。

ところで、ここまで読んだ読者の中には、そんなことを部下にたずねるのはおかしい、決めるのは上司の責任だ、と思う方もいらっしゃるかもしれない。たしかにその通りだ。部下が○○がいいと思います、と言ってきても、わたしは××を選ぶかもしれない。かりに○○を選んだとしても、その結果おきる事は、もちろんわたしの責任であり、まちがっても「部下がそうしろと言ったので」などという言い訳は通用しない。

だとすると、なぜ、若手社員に「あなたは、どう考えるの?」などと聞くのか。理由ははっきりしている。彼に、上司の視点でものを考える訓練をしてもらいたいからだ。上司の視点で考えるとは、必然的に、自分の狭い責任範囲をこえて、全体感を(あるいはせめて多少は広い範囲を)考えた上で、『価値評価』する作業を求めている訳だ。そのような思考訓練は、他者の立場・価値観を推測するスキルにつながり、やがては顧客に対する説得力・交渉力につながっていく。少なくとも、かつての上司がわたしに求めたのは、そうした能力だったにちがいない。

ホワイトボードの前で、まだ迷っている若手社員に対して、ともあれ助け船を出すことにした。

--とりうる選択肢に対してさ、それぞれProsとConsをあげて表にしてみな。

ProsとConsとは、「賛成すべき点」「反対すべき点」の意味で、つまり長所と短所である。彼をうながして、ホワイトボードに簡単な表を作らせた。そして、それぞれの項目に、◎○△×を記入してもらった。

「ええと、こうなりました。」

e0058447_19322410.gif


--どれがいい?

「記号を足し算してみますと、えー、1が一番良さそうですか・・?」

このようなPros/Consの表は、非常に単純に見えるだろうが、フェーズ2の「考える」=「決断する」行為では、案外有効である。頭の外側に見える化することで、見ている全員が、なんとなく納得感をもつからだ。

--うん。少し頭が整理できただろ? ただし本当は、こういう表を作った場合はね、どこかに×がある選択肢は、もうその時点で原則的には不採用なんだ。ノックアウト条項というんだけどね。

「・・じゃあ、2も3も失格ですか。」

--そう言いたいところだけれどね。でも、いまは感覚的に○×をつけているわけで、あまり厳密じゃない。ところで、2の選択肢についてだけれど、納期も遅れる可能性があるのかな?

「はい。追加変更のボリュームによると思いますが。」

--そうだな。じゃ、いつまでに決めなくてはいけないかのな? 開発会社に聞いてみてくれないか?

「それは聞きました。半月以内に決めてくれ、というんです。でも、この議題は、来週のお客さんとの会議で、もうアジェンダにあがっていまして・・」

--だったら、わたしがお客に電話して、来週のアジェンダを組み替えてもらおう。再来週まで時間を作るから、もう少しだけ考え直して見なよ。今、決めるのはやめることにする。コード重複がどれくらいの頻度で起きそうか、まず調べること。」

「はい。わかりました。」

彼は席に帰っていった。わたしの中のカンでは、(根拠も何もないのだが)この問題は何か、技術的な逃げ道があるような気がしたのだ。でも、それを考えるのには時間がいる。

わたしの職場には、

 「決めないリスクより、決めるリスクをとる

という格言がある。決断を先延ばしにしても、普通あまりいいことはないのだ。だが、担当者の彼に、考える時間を作ってやることが、現時点では優先度が高いと、わたしは考えた。それは、カンであり、賭けである。だが、考えるために一番大事なリソースは、「考える時間」なのだ。わたしが自著『時間管理術 (日経文庫)』でも強調したように、タイム・マネジメントの最大の目標は、集中して考える時間を確保することなのだ。

わたしの賭けの結果が、どうなったかは、あえて書くまい。わたしが、かつての上司ほど、カッコいいマネージャーではないことは正直に認めよう。だが、わたしの中には、かつて教わったいくつもの原則が生きている。それを、もっと後ろの世代にも伝えることが、少なくともわたしの使命であろう。

だから、今もこんな文章を書いているのである(笑)。


<関連エントリ>
 →「わたしが新入社員の時に学んだこと」 (2010-05-01)
 →「設計思想(Design Philosophy)とは何か」 (2012-03-26)
by Tomoichi_Sato | 2014-09-28 19:40 | 考えるヒント | Comments(0)

遠くに届くためには、力を入れてはいけない

先週の後半は「バッハセミナー in 明日館」という催しで、4日間ずっと音楽(合唱)の練習に通った。歌唄いが、昔から自分のささやかな気晴らしなのだ。ただ、普段あまり声を出す生活をしていないので、三日目が終わる頃には、喉も枯れてガラガラになっていた。とはいえ最終日には、修了演奏会で皆と一緒にステージに立つ。自分ばかりが下手だとまわりにも迷惑をかけるので、家に帰ってからも、楽譜を見て音を再確認しようと思った。

ピアノの鍵盤の前に座ったものの、夜だし大声を出すのはみっともない。ファルセット(裏声)で自分のパートを追おうとした。ところが、喉が枯れていて、ちっともファルセットが出ないことに気がついた。どうするのだ! 歌の中には、実音(地声)ではけっして届かない高音部もある。明日の本番で、急にサイレントになる自分の姿を思い描いて、冷や汗が出た。ともあれ、練習しない訳にはいかない。しかたなく、半ば諦めの境地で、地声で歌いはじめた。

ところで、肝心の高音部にさしかかると、不思議なことにすらっとファルセットが出る。あれ? 今、出たよな? そこで、その箇所だけもう一度トライした。しかし、今度はかすれてサッパリ出ない。まぐれだったんだろうか? しかたなく、バッハの複雑でやけに長い音符の列を追いかけ続けた。ときどき、たしかにすっと高音が出る。だが、出ない時はサッパリでない。

いろいろ試しているうちに、分かったことがあった。高音部だけを、真剣に真っ向からトライすると、声は出ないのだ。ところが奇妙なことに、半ば諦めの境地で歌うと、ちゃんとファルセットが出る。狐につままれたような感じだ。頑張るとできない。頑張らないとできる。一体どうしろというのだ。

そのとき、ふと思い出したのがオイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」 (岩波文庫)という本だった。戦前、東北大学に招聘されてやってきたドイツ人の哲学者ヘリゲルは、日本文化を知りたいと思い、弓道に入門する。ところが、名人と言われた師範が命じたことは、とんでもないことの連続だった。力一杯いれてようやく引き絞れる弓を、“力を入れて引いてはいけない”といい、さらに“意思を持って矢を放ってはいけない”、“的をねらってはいけない”などと言うのである。

「自分が射るのでなければ、誰が射るというのです?」という疑問を、彼は師匠に向かって問う。西欧の合理的知性ならば当然の質問である。しかし師は答える。「それが射る、とでも言おうか。経験しなければ理解できないことに、どんな口真似も役に立たない」。ヘリゲルはそれでも、様々な疑念と苦心を乗り越えて、5年かけて本当に「“それ”が射る境地」に至るのである。そんな名人の心境とは比べようもないが、なんとなく「自分で出そうとすると声が出ない」という今のシチュエーションに、通じる所がないだろうか。

さらに、話は飛躍する。ヘリゲルが体得したのは、“自分”(Ich)が射るのではなく、“それ”(Es)が射るということだった。ところで、ヘリゲルと同時代に生きたフロイトは、自分自身の心の意識する部分、自我のことを"Ich"と呼び、心の奥底の無意識の部分を、"Es"と呼んだ。そして、人間は自分(Ich)で自分をコントロールしているように思っているが、じつはかなりの局面で“それ”(Es)に動かされている、と考えた。このIchとEsという用語は、英訳されるときにラテン語のエゴ(Ego)とイド(Ido)になり、日本にはその形で入ってきた。だが、元は「自分」と「それ」という、ひどく単純な用語だったのだ。

話を元に戻すが、3年前、同じバッハセミナーの「ヨハネ受難曲」で、ごく短いソロを歌うことになった。本番前の昼休み、講堂の裏手に隠れて、一人で同じ短いフレーズをくりかえし練習した。この時も、最高音に届くかどうかが課題だった。そして分かったのは、「のどに力を入れると最高音が出ない」という事実だった。そうか、力んではいけないんだ、と、その時は理解したつもりでいた。

おかしなことに、歌う声というのは、力んでガナリ声になると、遠くの聴衆まで届かなくなる。遠くに届くためには、力を入れれはいけないのだった。だが、頭で分かったつもりでも、まだ本当には身についていなかったに違いない。その証拠に、そもそも三日間で声がガラガラになったのは、周囲の上手な人達に負けたくなくて、がなっていたからではないのか。

遠くに届くためには力を入れてはいけない。高くて通る声を出したければ、力を抜かなければならない。それが教訓なのだった。だが、何と難しい教訓だろう! そもそも、気合を入れ、力を入れる練習は世の中に数多い。運動部の練習というのも、基本はそれだった。でも、どうやったら「力を抜く練習」ができるのだろう? それはほとんど、意識し努力して眠ろうとするようなものではないか。必死になればなるほど、集中すればするほど、眠れなくなるのだ。

どうして体というのは、こんな逆説的な仕組みになっているのか。考えてみると、もともと呼吸とか、声といったものは、意識しない不随意運動で働いている。眠っている時も呼吸はしているし、声だって、赤ん坊の生まれた時の泣き声を見ればわかるように、意識せずに出るようになっている。それでも、その上で、随意的に動かすこともできる。工学系の人なら、オーバーライド機能とかスーパーバイザリー制御などと呼ぶだろう。つまり、仕組みが二重なのである。生存の必要でそう進化したにちがいない。

だがその二重性は、基盤が弱くなった時は、オーバーヘッドの負荷が重くなりすぎるのだ。声帯を囲む筋肉群は、様々な協調性の上で働いている。意識による無理やりの動きは、その協調性をこわしてしまうのではないか。それがわたしの解釈だった。

いろいろな物事は、見た目よりもずっと、つながっている。つながって働いている。わたしはそれを漠然と「システム」と呼んできた。このサイトの読者はご存知のとおりだ。自然に生み出されたシステムというのは、たいてい、自律的に働き、平衡性にもどる仕組みを内蔵している。身体もまた「システム」である。それなのに、自分は力んで、その自己平衡性を崩しているのだろう。

たとえば、昔の新幹線の自動ドアは、その前に体重を検知するステップがついていて、それで開くようになっていた。人が通り過ぎれば、自動的に閉まる。それなのに、ときどき、そのステップに立って、自分が今通った自動ドアを懸命に閉めようとする人がいたものだ。はたから見ると笑えるが、本人は必死だ。その必死さ自体が、ドアを閉める邪魔をしているのに。放置すれば、ドアは自動的に閉まるのに。そういう風に、ドアの仕組みはできているのだ。

そう考えてみると、さらに思い当たることがあった。自分がたまさか関わった失敗プロジェクトでは、チーム・メンバーに任せておけばいい小さな問題に、あれこれ口を出して、かえって部下の負荷を増やしてしまったのではなかったか。小うるさい指示と報告の仕組みをつくって、問題対処のための肝心な時間を減らしてしまったこともあった。典型低な管理過剰である。賢いつもりで、何と愚かなことをしていたのだろう。

力を抜くために必要なことは何だろうか。わたしはまだよく分からない。ただ、うまく言えないのだが、そこには信頼ということが大事なのだと感じる。それも、根拠の無い信頼ということが。

なぜ「根拠の無い信頼」かというと、できるかどうか分からないのに、「できる」という風に信じるからである。それは『自信』ではない。なぜなら、自分ではない、それだか誰かだかを信じようというのだから。自分の体であれなんであれ、“任せておけばきっとうまくいく”と信じること。そうして、へんに気合を入れたり緊張したりしないこと。緊張すれば、必ず余計な力がかかって「システム」のバランス回復が遅くなる。

スポーツの大事な試合に臨むときに、日本人のチームメイトたちは頑張れ!と激励するが、アメリカ人たちは「リラックス!」と声をかける、という話がある。それを聞いたのはオリンピックの時か、それとも何かの映画だったか。ともあれ、わたし達の社会では、何ごとにも「頑張れ」型の習慣がつよいのは確かだろう。頑張ることでうまくいくことも、もちろんある。だが頑張って力むことで、かえって事をややこしくしている場合が、案外多いはずなのだ。

わたし達はもう少し、システムの持つ自己平衡性を信頼した方がいい。もっと、力むことを捨てて、リラックスした方がいい。
そして、もっと、自分や周囲の人々を信じた方がいい。たとえそれがかなり難しく思えても。

そういう風に、身体も、脳もできているのだ。そして、家族や人のつながりとか、もっと高次な文化や言語や社会も、そうできているのだろう。そうした目に見えぬ「システム」を、わたし達は親兄弟から世代を超えて、うけついできたのではないか。・・祖先が帰ってくるというこの季節に、何故かわたしは、そう思った。

え、肝心の演奏会本番はどうなったかって? もちろん完璧でしたよ、わたし自身を除けば(笑)。


<関連エントリ>
→「書評:『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル」 (2010/05/18 )
by Tomoichi_Sato | 2014-08-13 20:26 | 考えるヒント | Comments(0)

情報とは何か、なぜかくも奇妙な性質を持っているのか


「コンプレッサーがいかれちゃってますね。残念ながら修理不能です。」P社のサービスマンは、故障した冷蔵庫を点検して、わたしにそういった。・・うーん、そうですか。しかしまあ1993年製なんだから、寿命と思ってあきらめます。今まで20年間、ずっと文句も言わずに働いてくれたんだし、仕方がないですね・・。サービスマン氏は、わたしの独り言を聞き流しつつ、てきぱきと熟練した手つきで工具をしまうと、さらにこういった。「申し訳ないのですが、規定ですので、出張サービス料をいただきます。」

三千数百円の料金を、わたしは支払った。点検はわずか20分程度だったが、ここまでの移動の往復を考えると1時間以上は拘束している。当然の費用だと、わたしも思った。ただ、考えてみると、これは何の代償として払う費用なのだろうか? わたしの手元に、何か新しい「モノ」(補修部品)がおさめられた訳ではない。「サービス」といっても、彼がきた時とかえった後で、こわれた冷蔵庫に何の違いがある訳でもない。

だとすると、わたしにとってこの金額は、“もう修理はできません”という「情報」の対価なのだ。だから、新しいのを買わなければならない。わたしの次の決断、次の行動の道筋を決める助けになった「情報」のお値段、ということになる。

世の中で売り買いできるのは三種類に分類される。「モノ」と「サービス」、そして「情報」である。モノは、物理的な実体があり、在庫することができ、そして売る時には所有権を引き渡す。一方、サービスという種類の財は、在庫できない。マッサージ師の仕事を考えてみれば分かる。いくら土日が忙しくても、平日の内に働きだめして在庫を積み上げておくわけには行かないのである(これを「サービスの同時性」と呼ぶ学者もいる)。なぜならサービスというのは、『リソース』の占有権を売る商売だからだ。

では、「情報」とはいかなるものか。これが、なかなか一筋縄ではいかないのである。情報という言葉は、もともと「敵情報知」という古い用語から生まれたという(真偽のほどは知らないけれども)。そして、事実、終戦後しばらくは、情報という語には独特の暗い影があったらしい。ちょうど今のわたし達が「諜報」という言葉に感じるような影だ。そうした感覚は、コンピュータ登場とともに大いに薄らいだ。だが出自はともあれ、情報にはいまだに奇妙な特殊性がついてまわっている。

情報なる商品の特殊性その1は、「人に渡しても手元に残る」という性質である。“来週X社の株価が暴落するらしい”という情報は、ある種の人たちには大変な価値があるだろう。ところで、この情報を誰かに高値で売ったとしても、売り手の手元にも、その情報は残るのである。このような性質のために、情報には「所有権」の概念があてはまらない。それどころか、さらにまた別の誰かに売りつけることができる。だから、情報の場合、「占有権」も紳士協定的にしか保証できない訳である。もちろん、「在庫」の概念もあたらない。

情報の特殊性・その2は、内容を受け取らない限り、「消費者」はその価値を正確に判断できない、という性質である(先の株価暴落情報がいい例だ)。しかも、いったん内容を受け取り、知ってしまったら、もう情報を「返品」してもらうことはできなくなる。ここに情報提供ビジネスの本質的な困難がある。「お代は見てのお帰り」方式は、リスクが大きくてなかなかできないのだ。だから何とか、事前に情報の価値の裏書きを得るべく、さまざまな品質保証の工夫がされることになる。しかもここには、受け手によって情報の価値が変わる、という別種の困難も横たわる。

3番目の特殊性とは、非対称性が存在しなければ情報に機能(意味)はない、という性質である。「情報の非対称性」はミクロ経済学の用語だが、ある人が知っていることを別の人は知らない、との状況を指す。知識の濃淡、高低があるから、情報にニーズが生まれるのである。全員が知ってしまった瞬間に、もうその情報には価値がなくなる。

このような奇妙な特殊性があるため、法律も会計学も、まだ本当は情報をうまく扱えていないように見える。情報の「窃盗」に意味はあるのか? 情報の「資産価値」はどう評価するのか? 減価償却できるのか? etc., etc... それなのに、情報はすでに巨大産業化してしまった。わたし達は、これをどう制御するのか。制御するためには、情報というものの奇妙さの根底にあること、いわば本質を、もう少し理解する必要があるはずだ。

ちなみに情報量については、周知の通り、エントロピーをつかった物理学的な定義が存在する。ここでわざわざ数式をとりだして読者に頭痛をよびおこすつもりはない。むしろ、物理学は情報「量」については定義を与えるが、情報の「性質」については大して何も教えてくれない、とわたしは感じている。情報量は、情報源の発する記号(符号)をベースに定義される。だが、そもそも記号(符号)化されていなくても情報は情報である。何気ない仕草や目つき、鼻腔を刺激する馥郁たる香り、こうしたことから、わたし達は案外多くの情報を得るのではないか。

ここで何となく、システム、制御、情報、というキーワードが思いつく(思いつくというか、じつは少し前に論文を書かせていただいた学会の名前そのものなのだが^^;)。この三項には、何か共通する関連性があるかもしれない。

制御工学は、情報に深い関わりのある分野だ。フィードバック制御などでは、対象系の操作のために情報が利用される。ところで、ワットの発明した蒸気機関には、すでにフィードバック制御が組み込まれていた。回転数が上がると、遠心調速機が働いて、蒸気機関の安定稼働を守ってくれる見事な組みだ(→Wikipedia)。

だが、ここでふと、奇妙な気持ちにおそわれる。ワットの蒸気機関は複雑で立派な「システム」だが、回転軸の遠心力でスロットル弁の開閉が調整されるのは、「情報系」なのだろうか。回転数は「情報」なのだろうか?

どうもわたしには、内部状態のあるシステムでなければ、「情報」という感じがしないのである。ここでいう『内部状態』とは、外部から直接うかがうことはできないが、保持される性質(記憶性)であり、かつ、その状態によって、システムの次のふるまいが変わりうるようなものを指している。内部状態を持つシステムでは、全く同じインプットでも、異なるふるまいをすることがある。

ワットの蒸気機関は内部状態をもたないシステムである。一般に単純な機械には内部状態がない。ふつうの冷蔵庫には内部状態がない(冷蔵庫の“内部”=庫内に何が格納されていようと、それで冷蔵庫の動作が変わったりはしない)。

もちろん、コンピュータは内部状態をもつシステムだ。ただし、それは電子的にデジタル情報を扱えるから、ではないことに注意したい。たとえば、チューリングマシンを見よ。紙テープでも、立派な情報だ。

ちなみに、わたしたち人間が感覚器(眼・耳・肌など)で受けとる情報というのは、光、音、触覚など微弱な物理的なエネルギーの作用である。残る味覚と嗅覚も、微弱な化学的ポテンシャルを検知している。この“微弱”というのも、情報のキーワードらしい。大きな物理化学作用では、「情報」という感じがしないからだ。頭を物理的に思いっきり殴られた。おかげで「痛かった」という内部状態(記憶)が長らく残った、あるいは記憶をすっかり失ってしまった、というのは情報のやりとりとは言えまい。

何となく「感じがする」みたいな、論理性の薄い推論を積み重ねてきたが、以上をまとめると、こうなる:
「情報とは、比較的小さなエネルギーで受け手の内部状態を変化しうる働き、またはその結果の状態である。」

情報をこのように理解すれば、その特殊性をすべて説明できそうだ。たとえば、(1)「人に渡しても手元に残る」のは当然である。なぜなら、小さなエネルギーで相手の内部状態を変える働きが情報なのだから。もし、情報の伝達に巨大なエネルギーを要するとしたら、もちろん二度と他の誰かに渡すことはできなくなるだろう。(2)「内容を受け取らない限り、『消費者』はその価値を正確に判断できない」のも当然である。なぜなら、受けとった結果として内部に生じる変化こそ、受け手にとっての情報の意味なのだから。(3)「非対称性が存在しなければ情報に機能(価値)はない」のも当然。すでに内部状態がAになっている人に向かって、“Aになれ”と伝えても何の変化も生じないのだ。

このような、情報の「内部状態論」的な解釈は、今日世間で広く行われている情報の「発生源論」的な解釈とは、真っ向から対立する。情報とその価値が発生源に依拠する、という議論は、情報の所有権的な考え方を通じて、ライセンスと知財戦略にまっすぐにつながる。つまり、米国などが国家的戦略としてすすめている、「高度な知識をお金にかえて世界を制覇する」という考え方である。わたしは別にライセンスも知財も否定するつもりなど全くないが、「知識に固有の価値がある」という見立ては間違いで、価値は受け手が(=その内部状態が)個別に決める、と考える方が健全だと思うのだ。

ついでにいうと、記号(符号)化と言語化は、情報をひろく流通させるための仕組みでしかない。記号も言語も、発信者と受け手の共通基盤として存在する(でなければ流通は機能しない)。しかし、情報の結果は、相手の内部状態の変化なのだから、言語化されていなくてもいいわけである。

そして情報技術(IT)とは、こうした性質を持つ『情報』と、情報を定型化して並べた『データ』の間に、相互変換のサイクルを作って回すことに他ならない——という話を本当は今日はしたかったのだが、すでにもう十分長くなりすぎた。わたしの話の前振りの長さはあきらめていただくことにして(^^;)、本題の話は項を改めて、いずれまた書こう。その前に、こわれた冷蔵庫をどうすべきか、頭を冷やして考えなくちゃ。


<関連エントリ>
 →「マテリアル、サービス、そして情報 ー 売り買いの対象は三種類に分類できる」(2011-08-08)
 →「データと情報はこう違う」(2012-07-24)
by Tomoichi_Sato | 2014-08-03 21:09 | 考えるヒント | Comments(0)

反応、感想、そして批評--受け手にとってより良きリアクションを生むために

わたし達は、消費社会に生きている。普段は職場で生産にかかわる仕事に従事していても、家に帰れば、消費者としてふるまう。いや、ちょっと昼飯を外に食べに行く時でさえ、消費者に戻るのだ。そうして毎日、お金を出して何かを買う。買うのはモノだったり、劇場での視聴だったり、旅行という体験だったりする。そして買ったモノや体験を、なぜかわたし達は、口に出して人に伝えたがる。考えてみれば、不思議な習性である。消費してそれで終わり、にしてもいいはずなのに、良きにつけ悪しきにつけ、何か一言いいたくなるのだ。

もっともわたし達は、自分でお金を払わない物事に対しても、あれこれと批評を口にする。TVで見る番組は、広告代という形で間接的に費用を払っているとしても、新聞で読む世の中の出来事、親戚の結婚式の体裁から、ゴミ出しの時に合う近所の奥さんの性格まで、すべて品評の俎上にのせられる。App Storeでは有償アプリも無償のものも、同等にレビュー対象だ。(ちなみに、日本のApp Storeのユーザレビューは、「悪のり的なレビューが世界でも突出して多い」と言う人もいる。 「WWDCへ殺到する開発者達 後日レポート」などを参照のこと。その当否はわたしには分からないが、一般にレビューアー側は「レビューの質」ということにかなり無頓着かもしれぬ)

これほどに世に多く行われている行為なのに、あまりその組立てや良い手筋について、論じたものは無いようだ。そこで本サイトはいつものユニーク性を発揮して、消費者としてのリアクション--『批評』というものを構造分析してみようと思う。どういう役に立つのか書いている本人もよく分からないが、とにかく気になるものについては考えてみる、という習性の導きにしたがって進めてみよう。とくとご笑覧あれ。

最初に、批評的なるものについて、三つのレベルを区別するところから始めたい。それは反応、感想、そして批評である。(これはわたしの個人的な用語定義なので、これ以降は『カギ括弧』でかこって表示する)

反応』とは、対象に対して当人が感じる“快・不快”が、ほぼ直接に表出されたものである。「うまい!」「まずいな。」 「まあ、チョウチョよ!」「きゃー、蛇よ!」・・このパターンは、いくらでもある。むろん、世の中には少数派として、蝶が苦手な人や蛇が好きな人もいるわけだが、話者の快・不快は、ほぼ口調からくみ取れる。そういえば、Facebookの「いいね!」(like!)ボタンも『反応』レベルに属するかもしれない。

ところで、聞き手・読み手なしでも『反応』は発せられることがある。そばに誰もいなくても、反射的に口に出てしまうわけだ。そういう観点からいうと、『反応』は必ずしもコミュニケーションを意識しない行為だ、と言えるかもしれない。もともと「蛇だ!」というような叫びは、集団内の信号ないしアラームとして機能したはずである。人間は言葉を持っているから単語や文で説明できるが、動物たちだって、警戒の鳴き声や、歓迎の鳴き声などで、この程度のレベルは表出している。『反応』とはたぶん、わたし達がもっと原始的な動物だったころから、持ち続けている脊髄反射的行為なのだ。

これに対して『感想』とは、自分が対象から受けた感情(エモーション)を言葉に表現したもの、と定義しておこう。「心を打つ話に、涙が止まりませんでした」とか、「笑止千万なゲーム運びに、あきれかえった」といったものが『感想』である。これは一応、コミュニケーションのニーズを持っている点が、『反応』とは異なる。人間には、感情を他者と共有したいという欲求がある。悲しい、とか悔しい、といったネガティブな感情でも、それを誰かと共有できると、心のどこかに満足感を覚える--そんな性質を人は持っている。それが『感想』を生みだす原点であろう。

では、『批評』とは何か。単なる『反応』や『感想』と違い、『批評』は独立した書き物として、それ自体も価値を持ちうる。だから、“プロの批評家”という存在も可能な訳である。作家とは別に、文芸批評家がいたりする。

『批評』は基本的に、読み手を想定して書かれている。原則として『批評』の読み手は、その芸術なり商品の消費者である。ときには作家宛の手紙、みたいなスタイルによる批評も存在するけれども、それは一種の意匠にすぎない。批評は、その対象作品をまだ知らない人に対する道案内であり、経験した人にとっては、より深い理解への手助けを提供する。だからこそ、『批評』は独自の価値を持ち、それ自体が商品ともなりうるのである。いや、たとえ原稿料がなくても、自分が書いた『批評』が多くの人の目に触れて支持を受けたら、当然誰だってうれしいと思う。

では、少しは読むに足りる『批評』を書くには、どうしたらいいだろうか? 自分はプロの批評家でもないのに、ずいぶん無謀な試みだが、一つ考えてみよう。それにはまず、良い『批評』と思われるものの構造を、理解する必要がある。

わたしの見たところ、すぐれた『批評』は大きく二つの部分、4つの要素から構成されている(図参照)。

e0058447_23445663.gif


全体はまず、(1)事実の記述と、(2)分析・評価、の二つの部分からなる。前者はさらに、(1a)対象に関する事実の要約、(1b)周辺情報、の二要素を含む。後者は、(2a)対象の分析、そして(2b)評価からなっている。これらがすべて揃っていないと、『批評』としては完備しない。対象に関する情報だけで評価がなければ、ただの商品紹介みたいだし、対象の情報記述がなく書き手側の分析・評価だけだと、なんだか広告か政党新聞を読んでるみたいだ。

(1a)「対象に関する事実の要約」は、特段の説明は不要だろう。『批評』の対象の多くはなんらかの作品(創作品)だが、しばしば商品・工業製品・サービスなども対象に含まれる。さらに、スポーツなどのパフォーマンスや、出来事・イベントなどの事象も対象になることがある。『批評』はまず、対象について、事実をサマライズするところから普通ははじまる。

(1b)「周辺情報」とは、たとえば作品が対象ならば、その作者に関する情報などである。場合によっては、プロデューサー、出版社なども含むだろう。また、対象のジャンルに関する情報も必要かもしれない。さらに、その作品なり事象なりが生まれるまでの来歴、それが世に出てからのインパクト、他者による評価なども紹介されるかもしれない。

(2a)「分析」では、作者の意図・ねらいを分析(推定)することが中心に来る。むずかしい創作物では、その前にまず解釈が必要だろう。また事象が相手の場合は、その発生の原因や波及を分析(推定)することになる。そして、自分の受けた印象や感情を整理する。もちろん、深い作品などの場合、分析不能(「言葉にできませんでした」)ということも、あるかもしれない。

ちなみに分析を記述する際には、自分との利害関係の有無を明確にすることも行われる。これは、『批評』の信頼性ないし中立性を確保するためだ。

最後に来る、(2b)「評価」とは、すなわち良し悪しの議論のことである。むろん、どんなものを評価する場合であれ、通常は多元的な尺度が用いられる(ストーリーは面白いが、キャラクターは平板だ、など)。評価は時間的にも、短期評価と長期的評価とがある。そして、何ごとであれ、批判するよりも、上手にほめる方がずっと難しい。良い批評だな、と感じるのは、そうした対象へのリスペクトを感じさせる文章である。

ちなみに、いつだったか東海林さだおのエッセイを読んでいたら、彼がTV番組を見て憤慨した話が書いてあった。その番組では、オーストラリアを訪問したうら若い女性タレントが、たしかカンガルー肉の料理を口にするのである。その肉は固いのか柔らかいのか、味は淡泊なのか濃厚なのか、固唾をのんで見ていると、タレント女子はただ一言、「おいし~い!」とだけ言って終わったというのだ。それじゃあちっとも視聴者が分からないじゃないか! と東海林さだお氏は憤慨する。

そのレポーターさんのお仕事は、事実も分析もなく、評価だけだった、という訳だ。まあ、ここでいう『感想』レベルだ。『感想』では何がこまるかというと、事実の報告も分析もないため、“それを誰が言ったか”、でしか判断する方法がない点だ。しょせんTV番組なんだからその程度で我慢しろ、という言い方もあろう。でも、どうせ費用をかけて放送するんだから、もう一手間かけてレポーターにしゃべらせれば、ずっと情報量が上がったはずである。放送する側に、そういうマインドがないのだろう。

いうまでもないが、事実と意見を区別する、というのがレポートの基本である。事実とは何か。哲学的にはいくらでも深入りできる問いだが、ここでは、事実とは「お互いに検証可能なこと」(客観性)だと定義しておこう。そうすれば、対象がカンガルー料理だろうが何だろうが、少なくとも『批評』の前半は、客観的に議論し検証できるようになる。

同じように、評価のところでも、自分の「好き・嫌い」と対象の「良し・悪し」を意識して分離する態度が大事である。好き嫌いは感情レベルのことがらで、これは個人差がある。他方、作品の良し悪しというのは、大勢の人の間で、時間をかけて定まっていくものだ。だから、自分の好き嫌いが普遍的でないことを認め、両者を区別することが『批評』には望まれる。

そしてもう一つ。創作物の質の良し悪しと、その作者の人格を短絡的に結びつけないことも、大事な態度だろう。批評は作者の人格攻撃であってはならない。社会事象とその当事者のケースも、同じである。よく、子どもの出来が悪いと、すべて親のせいにする人がいるが、これと同じように作者と作品にも“親子関係”を想定し、「こんなもの作るのはロクな奴じゃない」みたいな事を言うのは、あまり賢い態度ではない。なぜなら、批評する者自身にも同様に、人格攻撃がはね返ってくるからである。そのような社会では、自由な、まともな、闊達な批評など存在し得なくなる。もちろん、創造性など育つわけがない。

以上をまとめると、良い『批評』のためには、
 ・事実と意見を、区別する
 ・自分の好き嫌いと、対象の良し悪しを区別する
 ・対象の評価と、作者の人格評価を区別する
という、三つの区別が求められるわけである。

これを言いかえると、作品や事象の評価を、議論可能な形にしていくことが、『批評』の最大の役割なのであろう。事実なら議論できる。良し悪しについても、互いに意見交換は可能だ。推測に関する水掛け論、たんなる個人的感情についての言い合いのムダを防ぐ。そうして、議論の中で、少しずつ共通理解の土台を広げ、次のより良い体験、より良い制作にフィードバックする--これが『批評』の機能であり、価値なのである。

そして、議論の価値を信じる社会でないと、このような『批評』は成り立たない。話し合いを信ぜず、「問答無用!」だけが通用する社会には、『批評』も無用である。

もちろん、世の中には『批評』に似て非なるものも存在する。一番多いのは、対象にカテゴリーのレッテルを貼ることで「評価」を代用するやり方である。「こんなのは××にすぎない」というやつだ。こうした文言は、『感想』または『批評』の形をしていても、じつは『反応』レベルに近い。たんに、レッテルの共有イメージにもたれかかっているだけで、ハイ・コンテキストな同質集団内のみで成立する言い方である。これでは、集団の外の人間とは対話できないままだ。

いうまでもないが、『反応』や『感想』は短文に向く。140文字に制限されているコミュニケーション・チャンネルでは、『批評』は書きにくい。その結果、そうした世界では、消費者のリアクションはみな短く、類似する。そして内容よりも「どの有名人が言ったか」で支持者(フォロー数)がかわっていく。そんな世界は、とても数値分析(テキストマイニング)しやすい世界である。基本的に、商品の売り手企業や広告企業は、むしろ『批評』をあまり歓迎しないと見るべきだろう。

といっても、誤解しないでほしいが、わたしは『反応』や『感想』より『批評』が高級だとか、どんな事柄に対しても『批評』だけを書くべきだ、などと主張しているのではない。そんなこと、わたし自身するつもりもないし、できる時間もない。だから日常では『反応』を口にするだろうし、Facebookでは「いいね!」を押し続けるだろうし、書評や映画評も『感想』ですませるかもしれない。ただ、その時その時に、自分がどのレベルを言葉にしているのかは、意識しようと思うのだ。

そして考えてみると、「仕事の評価」「人の評価」でも、作品・事象の『批評』と同じ構造をしていることが分かる。わたし達が、他人の仕事の成果や仕事ぶりを評価する機会は、音楽評を書く機会よりもずっと多い。また、その帰結も非常に重要である。だとしたら、『批評』の構造を胸に刻み込むのは、とても大事なことではないか。

分析・評価とは、すなわち、「アナリスト」の仕事である。対象が企業経営の場合は「証券アナリスト」、市場の場合は「市場アナリスト」、業務フローの場合は、「業務(システム)アナリスト」である。ちなみにわたし自身は、「プロジェクト・アナリスト」を自称し、その職域を認知してもらうべく、研究部会活動などもいそしんでいる。だから、(文末になってやっと分かったが)、良き『批評』の構造分析は、わたし達自身の仕事の糧なのである。


<関連エントリ>

→「仕事のレポートはこう書こう」 2011-05-08)
by Tomoichi_Sato | 2014-07-14 23:48 | 考えるヒント | Comments(0)

顧客の顧客を知り、上司の上司になって考える

顧客の顧客を知れ』--これは、わたしの敬愛する大先輩である、経営コンサルタント・今北純一氏から、何年も前にうかがった教訓だ。自分の顧客が誰かは、誰でも一応知っている。顧客が何を望むか、そのニーズや要求も、直接・間接に伝わってくる。だが、顧客がなぜ、それを求めるかについては、必ずしも理解できていないことが多い。

しかし、顧客も、彼ら自身にとっての顧客からの要望になんとか対応すべく、いろいろ考え、悩み、そして動いているのだ。だから、『顧客の顧客』をよく知れば、自分の直接の顧客のニーズをつかむのに役立つ。たいていの人は、顧客の顧客までは考えた事がないが、そこまで視野と想像力を広げられるかで、競争力は大きく変わりうる。

たとえば、今北さんは自著「Carpe Diem - ビジネス脳はどうつくるか」(文藝春秋、2006)で、工場の立地問題について、こんな例をあげられている。鉄鉱石を産出する資源会社の、直接の顧客は鉄鋼メーカーだ。そしてこれまで、多くの資源会社は鉄鋼メーカーとは営業的対応を積みかさねてきた。ところで、鉄鋼メーカーは、主製品の一つである自動車用鋼板を、自動車メーカーに売っている。そして周知の通り、大手自動車メーカーはいずれも、生産拠点の世界的な展開を図っている。

「たとえばトヨタでは、日本国内で『ヴィッツ』という名のクルマを、ヨーロッパでは『ヤリス』という名前で戦略車と位置づけ、フランス北部のバレンシエンヌにその製造工業を建設した。(中略)だから、BHPビリトンなどの資源会社は『顧客の顧客』である自動車メーカーの動向を見ていけば、欧州市場に新たな鋼板の需要が生まれ、欧州の鉄鋼メーカーがこれ以上に鉄鉱石を必要とすることを先行予測できる。」(p.118)。このように、自社を含むサプライチェーンの中で、真の需要の決定者が誰かを考えるのが、『顧客の顧客』の視点だ。

e0058447_11372857.gif


工場立地ほど大きな問題ではないが、わたしも『顧客の顧客』を知ることで、問題解決の糸口を見いだした経験がある。

ある顧客の新工場の基本設計をしていたときのことだ。計画の予条件として、利用可能な敷地面積と、概略の投資額上限があった。その中で、比較的多品種な一般消費財を、需要にミートして生産できるよう、機械設備などを構成していかなければならない。むろん、基準となる生産数量は、顧客の過去数年間の実績データとともに、与えられていた。

ただし、主力製品には需要の季節変動がある。季節性のある製品の生産はやっかいだ。ピーク時の需要に合わせて生産ラインを作ると、閑散期には設備が不稼働になって無駄である。かといって、ピーク時の前から作りだめをしていくと、今度は製品在庫が増えてしまう。当然、広い置き場所が必要になる。

とくに悩んだのは、出荷のための物流搬送設備だ。生産はピーク時期に向けた作りだめで、多少は平準化できる。だから生産設備のキャパシティは生産量の平均値を考えれば済む。だが、出荷量は、需要の季節変動に連動する。物流設備のキャパシティは、ピーク値で計画せざるを得ない。物流部門が出してきた性能要求は、まさにそのピーク時の数字だった。そのままでは、どうしても大げさな設備になってしまう。

かといって、一般消費者の需要を制御し「平準化」することなど、むろん不可能である。ピークに合わせるしかないわけだ。機械的な物流搬送設備を使うと、予算が高くなりすぎる。では、フォークリフトや人力などの「ローテク」で搬送・積みつけしてもらうか。しかし、そうすると今度は出荷ヤードの面積が広くなりすぎて、敷地の制限にひっかかりそうだ。

「需要の季節変動の実体はどのようなものか?」--これを明らかにすることしか、解決の手がかりはなさそうだ。月別の生産量と出荷量のデータは開示されていたが、わたしは顧客のプロマネとIT担当者に頭を下げて、過去2年間の日別実績データを別途もらい受けた。会社に持ち帰り、簡単な処理をしてExcelでグラフに描いてみる。

グラフを見て、わたしは驚いた。本当のデータをここに載せるわけにはいかないので、模式図的に部分を拡大してみると、図のようになっていた。

e0058447_1138621.gif


たしかに、年間の季節変動はある。だが、はっきりいって、月別に見た一年間の中での変動よりも、月内の日次変動の方が大きいのだ。まるで、一年中真夏なのに、昼と夜の気温の落差が大きい砂漠の気温のようである(ただし砂漠は日内変動だが、この顧客の場合は月内変動だった)。それも、月内の変動にははっきりしたパターンがある。出荷量が月初に集中しているのである。月初の数日間は、月末の4~5倍近い出荷量がある。このピークをなんとかしない限り、出荷設備の問題は解決できない。そう、思った。

次の打合せのときに、顧客のプロマネにこのグラフを見せ、月内変動の理由をたずねてみた。「うーん、月初集中の傾向があるのは知っていましたが、こんなに激しいとは思ってもいませんでした。」と、先方は言われる。この方は製造部の所属で、物流部門(子会社化されている)の仕事は、あまり見ていなかったのだろう。

これは、出荷先の卸問屋との、商習慣の問題だと思う、というのが相手の説明だった。卸からの出荷依頼は、日単位で、毎日入る。納入たものは、卸の所有物になる。ところが、卸との決済は、月末締めなのだ。ということは、相手側から見ると、5月1日に注文して手に入った製品でも、5月29日に注文した製品でも、同じ金額を、31日に支払うのである。ならば、単純に金利だけを考えても、月初に注文した方が得になるではないか。また流通側は欠品を嫌うので、ある程度在庫を抱えたい、という意図もあるのだろう。在庫金利がゼロでいいなら、とうぜん月初に沢山仕入れることになる。

それまで、わたしは、顧客の生産した製品のユーザは一般消費者で、その需要の制御も交渉も不能だと思い込んでいた。しかし、本当は、顧客の顧客は、卸問屋なのだった。だったら、出口はあるかもしれない。わたしは、思い切って提案してみた。

「卸さんへの出荷ですが、これは紙の上だけにしたらどうでしょうか? つまり、注文を受けたら、製品の所有権を渡すけれども、物理的な場所は動かさずに、『預かり在庫』の形にさせてもらうのです。そして、卸さんの出荷指示に応じて、チェーンストアなどの実際の最終出荷先に直接納入するようにしませんか? そうすれば、実需にしたがって出荷できます。現実の需要は月初集中などしていないはずですから、出荷量のピークも減り、工場の出荷設備もずっと小さいもので済むはずです。」

現実には、在庫の保険だとか出荷指示の受け渡しなど、いろいろ解決しなければならない問題点はあるだろう。だが、むだな工場の投資も不要になるし、卸の側だって、在庫の置き場所の心配が減るわけだから、互いにメリットはある。なにも全部を預かり在庫にする必要はなく、一部を預かるだけでも、ピークはかなり減るはずだ。そう、考えた。

残念ながら、わたしのこの突飛な提案は実現しなかった。客先は、生産部門と販売部門を別々の役員が管掌していた。そんなサプライチェーンをまたぐような変革を実現しようとしたら、もう社長レベルでの調整事項になってしまう。それは工場長ですら、とても手に余る大仕事なのだった。結局、「ローテク」+「人海戦術」で、強引に工場レイアウトに押し込め、というのが結論だった。つまり、サプライチェーンの歪みを、生産・物流側がそのまま引き受けた形の決着だ。

しかし、この件でわたしは、重要な教訓を学んだのだった。それは、問題の構造を真に理解したかったら、やはり「顧客の顧客を知れ」ということだ。顧客の指示や要求が、わたし達の思考の「枠組み」を作る。あるいは、顧客についてのこちらの思い込みが、無意識な「枠」を作ってしまう。ところが、顧客もまた、彼らの顧客からの要求で動かされているのだ。顧客がわれわれに出してくる要望の裏には、『顧客の顧客』に対応するための問題が隠されている。そこを知れば、相手の真意や出方を予測できるようになる。問題構造の背景がうまく分かれば、与えられた枠組みの外にでて、解決法を見いだす可能性もあるのだ。

『顧客の顧客』とならんで、わたし達の思考の枠組みを広げて大局観を持つための、もう一つ有用な方法がある。それは、『上司の上司』の立場に立って考えることだ。

たとえばもし自分が工程係長ならば、上司の生産管理課長ではなく、上司の上司である製造部長になったつもりで考える。あるいは、設計グループリーダーならば、技術部長ではなく、開発本部長になったつもりで、自分のポジションの仕事を考え直してみる。こうすると、わたし達がものを考える時に、無意識に設定している「制約条件」をとりはらうことができる。

たとえば設計グループリーダーとしては、現有のチーム員の制約の中で、個別の案件のアサインを決めるしかない。しかし、開発本部長の立場に立つと、別のことが見えてくる。もし自社の開発プロセス全体の中で、設計部門がボトルネック状態になっているなら、必要な職種の増員や部門間での配転といった手立てを講じることができる。そうした権限(自由度)の中で、さて、設計グループリーダーに求めるべき最善の手立ては、と考えを進めてみるのである。

自分の直接の上司の仕事は、下から見ているので分かりやすい。おまけに、たいていは批判や不満もあるから、その「あるべき姿」についての意見を、誰でも持っている。しかし、二階級上の立場までは、あまり意識しないものだ。そこでかりに、上司の上司になったと想像し、やるべき仕事を考え、その中で今の自分の職務への期待を考えなおしてみるといい。この思考実験は、自分の役割を理解し、自分の思考の枠をとりはずす訓練として、非常に有効だ。そういうわけで、わたしは、「生産革新フォーラム」名義で書いた共著『“JIT生産”を卒業するための本―トヨタの真似だけでは儲からない』(日刊工業新聞社 2011) 第5章の冒頭で、ジャスト・イン・タイム生産システムの問題を考えるに能っては、まず「二つ上の視点」にたって、すなわち顧客の顧客や、上司の上司の視点で、ものを捉えなおすことを提案したのである。

問題解決は、ホワイトカラーの仕事の主要な一部だといっていい。その際、わたしを含むエンジニアという人種は、どうしても「与えられた問題」の所与の条件下で、なんとか技術的に解決する方向に、ものを考えがちになる。まるで、試験で出題された問題を解くように。すると、どうしても前例や規範や『正解』に沿った方向になってしまう。しかし、正解のない問題に取り組むときは、その問題の「枠組み」を広げる方が、より良い解決に結びつくことが多い。そのために、顧客の顧客を知り、上司の上司になって考える訓練が、役に立つのである。


<関連エントリ>
 →「心の中でヘリコプターに乗れ」 (2012-04-02)
by Tomoichi_Sato | 2014-05-03 11:48 | 考えるヒント | Comments(0)

「頭がいい」ということは、本当にそんなに「良い」ことだろうか

ボールを胸の真ん中でグローブに受けたとき、バシン、という重たさを感じた。「この子は肩が良いな」と思った。近所の公園で、息子とその友達と一緒にキャッチボールをして遊んでいた時のことである。息子と少し投げ合った後で、その友達の投げたボールを受けたら、スピードもコントロールもぜんぜん違ったのである。後で聞いたら、その子の母親も昔はソフトボールのピッチャーだったという。“生まれつき肩が良いって、あるんだな”と思った。

もちろん、ボールを速く、正確に投げられるというのは、肩という「身体の部分品」の出来がいいだけでは十分ではない。周囲の筋肉の使い方、タイミング、バランス感覚、などが総合されて、はじめていい球が投げられる。肩が良いというのは、一種の総合力なのである。

他の子をほめたので、一応自分の子供の良い所も挙げてみようか。息子は「鼻が良い」といえるだろう。微妙な匂いも非常に敏感に嗅ぎ分けられる。小さなときから、食べ物がちょっとでも生臭かったりすると手を付けなかったり、わずかに加えた隠し味の香りを精確に言い当てたりする。同じフランスのワインを、日本で飲む時とフランスで飲んだときは後味が少しだけ違う、などとのたまう。嗅覚が発達しているのだろう。

(ところで、この記事のタイトルを見て読み始めた読者の中には、「頭脳のよしあしの話題かと思って読み始めたのに、いつまで関係のない迂遠な話を続けるんだ」とお感じの方もおられるだろう。もうすぐ本題に入る)

人間には、「肩が良い」とか「鼻が良い」とか、ほかに「目が良い」「足が速い」など、いろんな特性というかタイプがある。「頭が良い」というのも、それと同格の、ある種の身体的機能の発達だと、わたしは思っている。

もちろん、「頭が良い」というのは一群の能力の総称である。言語能力、記憶力、論理的な思考能力、瞬間的な判断力、空間認知能力、パターン識別能力、などがないまぜになった特性を、なんとなくそう呼んでいるわけだ。「肩が良い」ことが総合力であるのと同じように、「頭が良い」のも一種の総合力であろう。

さて、この記事のタイトルに反語性を読みとって、「この佐藤という奴は、知的能力の高さに否定的らしい。反知性主義者なのか? どんな結論を提出するつもりなのか?」と思いながら読んでこられた「頭の良い」方は、そろそろ話のテンポが遅いことにイライラしはじめた頃と思う。頭の良い方は、概して忙しいし、気も短い。そこで、ご安心いただくために、先に本稿の結論をいってしまおう。「頭の良い人は、だまされやすい」という欠点を持つ、てのが結論である。

「だまされやすい!? この自分が、かよ? いーかげんにしろ。それほど馬鹿じゃねえ。」と息巻く方もおられるだろう。下心を持った人間がだまそうと近づいても、その些細な矛盾を突いて撃退できる知的能力をお持ちかも知れぬ。だまされるのは、ダマされる方が悪い、という言い方も存する。愚かだから、ダマされる。まったくそのとおりだ。だったら、頭が良ければ騙されにくいはずではないか。

ところで、催眠術師が決まって使うテクニックに、「催眠術は赤ん坊と馬鹿にはかかりません」と言って術を始める、というのがあるそうだ。こういう前ふりをすると、聞いている人たちは、「自分は赤ん坊でも馬鹿でもない」と思う。思うから、催眠術にかかる方向に、無意識にドライブがかかる。相手の、知的優越心をくすぐるのである。むろん催眠術と人をだます行為はぜんぜん別物だが、人の虚栄心をくすぐって利用する、という点では共通している。

わたし達の社会では、「頭が良い」のは最高の褒め言葉の一つである。それは、我々が高度に工業化された産業社会にすんでいるためだ。これが昔の、農業主体の社会だったら、「腕力がある」ほうがずっと人間の評価で重要だったはずだ。さらにさかのぼって、狩猟と採集で暮らしていた石器時代だったら、「足が速い」「鼻が良い」はとても優れた能力だったろう。社会構造によって、人に求める能力は変わってくるのだ。

前回、「今のお気持ち」主義という言い方で、“仕事の成果を左右する最大の要素は、やる人の気持ち(意欲・感情)だ”とする信憑をとりあげた。この考え方は、かなり広く受け入れられている。そして、この「今のお気持ち」主義は、もっと古いが根強い考え方、“最重要なのは、リーダーの生まれついての資質だ”という資質主義や血統主義へのアンチテーゼでもあると述べた。「気持ち」「資質」と並んで、わたし達がよく持ち出すのが、その人の「頭の良さ」なのである。頭が良くなくてはトップ・アスリートにはなれない、とも前回書いた。それだけではなく、どの分野であれ、トップになるには頭がわるくてはとても無理だ、と思う。

そういうわけで、現代社会は「頭の良い」人を発掘し育成し顕彰するために多大な努力を払っている。そのために最大限に利用しているのが、競争原理だ。日本の教育制度(というか入試制度)は、頭の良い人を選別することに主眼をおいたシステムである。選別中心ということは、頭の良さもまた生まれつきの資質であるとの前提に立っているわけで、その証拠に、社会では学歴(正確には「入試歴」)がずっと幅を利かせてきた。選別されたのだから、それで十分ということだ。

むろん、入試産業では、「人は生まれつき」では身もフタもないから、「がんばれば君だって良い大学に入れる」と盛んに宣伝する。つまり、やる人の気持ちが大事だ、ということである。制度自体は資質主義なのに、大半の生徒たちの尻を意欲主義で叩いているのが、いまの教育(?)のあり方だ。

このように「頭の良さ」が競争原理に直結しているため、人から「頭が良い」と思われると誰しも優越感を抱きやすい。大学入試歴のみならず、ちょっとした議論に勝ったり、あるいは人の知らない新しい情報を知っていたり、といった個別の局面で、いちいち優越感が顔を出す。

そもそも、議論というのはお互いの知識や見地を交換しあって、より真理に近い高みに登るために行う行為であるはずだ。それに「勝つ」というゲーム感覚を持ち込むこと自体、おかしなことだ。だが、その「おかしさ」に、頭が良い人ほど鈍感である。むしろ、過度に論争的になりやすい。

とくにこまるのは、われらが社会の試験制度が、記憶力や反射的な判断力に重点を置いた試験問題を好むことだ。「正解」の知識やテクニックを、素早く、たくさん記憶のポケットから取り出せる能力が有利なのである。だから、「頭の良い」人は、逆に「正解のある問い」という枠組み自体を、疑うことをしなくなる。世の中には、いろいろな判断条件があり、価値観がある。ところが「知識重視」「知性主義」「競争原理」などの価値フレームワークは、決して疑わない。そして、それに準拠し、それに適応した形で、自分たちの価値軸を形成し再生産していく。

お分かりだろうか。「頭の良い」人たちを動かすのは簡単なのだ。彼らの競争心を刺激すればいい。

わたしはときおり、いくつかの大学で教えている。たとえばグループ演習の問題を出す。20分の時間制限付きだ。このとき、学生たちの尻をたたくのに、一番きくのは、(ライバルと目される)「××大学では正解率○○%だった」という一言だ。

頭の良い人は、知的競争心に動かされやすい。そして、「人に動かされやすい」というのは、つまり「騙されやすい」ということではないか。それも、誰か他人に騙される前に、頭の良い人はまず、「自分自身にだまされやすい」のである。自分に自信がある。なぜなら、子どもの頃から、“頭が良いね”とほめられ続けてきたからだ。自分の存在価値も、頭の良さにかけている。

あなたのまわりに、いい歳をしてして、知識や論戦に毎度毎度しのぎをけずって生きている人はいないだろうか。子どものうちはいい。20代そこそこの頃もまあ、しかたないかもしれぬ。しかし、30歳を過ぎてまだ「頭の良さ競争」に振り回されるのはおかしいと、いい加減気がつくべきではないか。

「頭の良い」人はしばしば、社会から与えられる価値観を疑わない。知識をいくら積み上げても、そこからは価値観など出てこないからだ(まあここで、ヒュームの哲学論など、あえてもちだすまい)。他人に動かされやすい。動かされているのに、自分では自分で考えて動いているつもりでいる。そういう意味では、知的エリート層は、じつはとても大衆的なのである。

頭の良さは総合的な能力だと書いた。その総合性が偏っているから、こうなるのである。おまけに、頭のよしあしと言ったって、正直それほどの差があるとも思えない。肩のよしあし、眼のよしあしと似たようなもので、人間の能力の差など、せいぜい倍半分なのである。100mを10秒で走れる人は滅多にいないが、20秒でならたいていの人が走れる。眼のよしあしを補正するために、人間は眼鏡などの器具を発明した。器具や練習などで、人間の能力はそれなりに是正され、差が縮まる。

「考える」のにも方法があり、練習もできるのだ。教育制度は、学生を選ぶのに忙しくて、そのことをあまり教えない。これはとても残念なことに思う。今のわたし達に必要なことは、むしろ「正解のない問題を、とことん考えぬく能力」なのである。・・ああ、そういえば、このことは前にも書いたな。頭がわるくて、自分で書いたことを、すぐ忘れてしまう。だからわたしは、こんな「反知性主義」的な文章を、性懲りもなく書いているのかもしれない。


<関連エントリ>
 →「『正解のない問題』を考える能力
by Tomoichi_Sato | 2014-03-24 08:34 | 考えるヒント | Comments(0)

新しい決意と、「今のお気持ち」主義

早春が好きだ。

3月、コブシの白い花が空に向かって問いかけるように咲きはじめる。まだ冷たい空気の中にも、草木の芽吹く気配がする頃。一年で一番美しい季節になったな、と思う。そういう気持ちは、年を追うごとに強くなる。昔は季節などに興味はなかった。いまは歳をとってきたせいか、少しずつ花が咲き、いのちの生まれかわるときが心にしみる。

3月は卒業と進級、別れと新しい決意の季節でもある。なにか未経験のことにチャレンジし、衣を脱ぐように古い自分から脱皮したい。そんな気持ちをいだくことも多いだろう。望み、あこがれ、訣別、スリル、そして少々の怖れ、いろいろな気持ちが混じりあって新しい決意を形づくる。

「決意」から「実現」へと向かって進むために一番大切なのは、もちろん自分の強い気持ちである。気持ちとはすなわち、意思であり、感情であり、好みでもあり、また気合いでもあろう。それらをひっくるめて日本語では「気持ち」と呼ぶ。これは理屈とか技術とか計算とかとは別のものである。今日はこの気持ちの持ち方について、書いてみたい。

去年の何月頃だったか、外で晩飯を食っていたら、テレビでナイター中継をしていた。9回の裏に劇的な逆転になって、ファンは大喜びだ。早速、ヒーローインタビューが始まった。逆転打を放った選手に、インタビュアーが質問を放つ。

「××さん、今の気持ちはいかがですか? 」

選手がそれに答えると、さらに2つ3つと質問を重ねる。
「途中、 4点差まで引き離されましたよね。その時はどう感じましたか?」
「9回表、何とか守りきったときのお気持ちは?」
「最後の打席で、第二球目を打った時の感触は? 」

質問の細部まで正確に記憶しているわけではないが、内容はずっと“どういう気持ちですか”だった。ヒーローインタビューというのは、ファンが選手の受け答えに一緒になってワーッと歓声を上げるのが目的みたいなものだから、これでいいのかもしれない。でも、もう少し気の利いた質問もありそうなものだ。どんなコンディションだったかとか、監督の指示はどうだったかとか、何が一番難しかったかとか。そうでないと、試合の面白みが分からないじゃないか・・ちょっぴり不思議であった。

この時以来、状況や考えではなく、気持ちをもっぱら興味の中心に置くアプローチを、「今のお気持ち」主義と、わたしは勝手に呼ぶことにした。一流のアスリートというのは、頭が良くなくては、なれない職業だと、わたしは思っている。筋力や運動神経だけでは十分ではない。工夫も計画も作戦もあって、はじめて本当のトップ・プロになれるのだ。アスリートに限らず、どんな分野のプロだって同じだろう。だとしたら、なぜ相手に『お考え』を質問しないのか?

それは、チームの成果を最終的に決めるのは、理性でも技巧でも運でもなく、やる人の「気持ち」だと皆が信じているからだ。気持ちのあり方で、試合の結果を理解したいのだ。

わたし達の脳は『ものごとを説明する』ことをつねに求めている。よく分からないものがあると、不安で、それこそ「気持ちが悪い」のだ。たとえば三回転半ジャンプの技巧と危険などは、素人にはほとんど理解できない。しかし、それをやる人の「気持ち」だったら、誰にも推察できる(ような気がする)から、納得感がある。ものごとの帰結を、『やる人の気持ち』で説明する問いかけが増えていくのだ。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」「なせばなる」--そういうテーゼを、人は求めているらしい。いかなる苦難と逆境にあえいでも、強い意志さえあれば、最後は成功できる。そうした物語は、落ち込んだ人の心を、再び立ち上がらせる効能がある。「今のお気持ち」主義の背景には、そんな物語へのニーズがあるのだろう。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」で、全面的に成り立っている娯楽が、昔の『講談』だったと、作家の橋本治はいっている。講談は江戸時代から昭和初期まで、ずっと人気のある娯楽だった。今、その伝統は、主に少年マンガが受け継いでいる(少年マガジンの発行元は、その名も「講談社」だ)。

講談的な物語は、なぜ多くの日本人の心をつかむのか。それは、もっと古くて強力な考え方、すなわち「人の能力は、生まれつきで決まる」という思想への、アンチテーゼだからだ。センスや素質のない奴に、いくら教えたってダメだ。上に立つべき人間は、それなりの器であるべきだ。そんな風な言い方は、身の回りにごまんとある。

人が生まれつき持っている資質が、成果を左右する最重要ファクターだ、という意見はとても根強い。だから「素質のある人を早く見出し、リーダーシップを発揮できるポジションに早くつける」ことが大事だ、との主張が生まれる。ビジネススクールの教師など、いかにも言いそうだ。いわゆる「エリート養成機関」を出た人たちも、同種の意見の持ち主が多い。

この「資質主義」を徹底していくと、教育は“育てる”より“選別する”ことが第一義になっていく。日本の入試制度は、まさにこの思想を強く反映している。

そして資質主義の最たるものは、血統主義である。講談が生まれたのは、身分制社会の時代であったことを思い出してほしい。士農工商の差別と桎梏の時代にあって、下層出身者が、強い意思とやる気だけで戦国をのし上がっていく講談は、多くの人々にうけたにちがいない。

いったい仕事の成果は「やる気」で決まるのか「資質」で決まるのか。どちらが主でどちらが従なのか。ここでは、その問いに答える代わりに、「今のお気持ち」主義がもつ問題点を考えてみよう。

「今のお気持ち」主義の最大の問題点とは、「予測がうまくできない」ことにある。“あの人があんなに熱心に取り組んだのだから”という予測(願望?)だけでは、結果は見通せない。そもそも気持ちというのは、ふらふらと変わりやすく、しかも客観的にはうかがい知れぬものである。そのうち「気持ちメーター」が発明され、「気持ちが4.6点まで上がっているから、あとジャンプ3回は大丈夫よ」と判断できる世の中がくるのかもしれぬが、来ないかもしれぬ。来ないような「気が」する。

「今のお気持ち」主義のもう一つの危険性は、精神主義への傾斜と、客観的な事実把握の軽視である。当然だろう。“気合いさえあれば必ず乗りこえられる”のだから、現実を直視するとか、数字で客観的に測るといった行為は、ムダなばかりでなく、意思の力をそぐから、嫌われるようになる。もちろん、数字にもとづく作戦立案とか、オペレーションズ・リサーチ(OR)なども軽視される。ビジネス社会でも、ときおり見かける傾向である。

しかし、「気持ち」中心主義の一番まずい点は、別にある。それは、成功していない者に対して、激励ではなく、逆に排撃に働くことである。「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」というテーゼは、「成功していないのは、やる気がないからだ」と等価である。社会の『負け組』、底辺にいる奴らは、やる気がないのだから、酷い扱いを受けて当然だ、との考え方がここから出てくる。身分制思想よりも、ある意味もっとひどい、苛烈な差別感情である。

もちろん、新しい決意を成功に向けるため、いちばん大事なことはやはり「気持ち」であり、やる気の持続である。ただ、気持ちだけでは、足りないところがあるのだ。別に素質や生まれや血統のことではない。それらは、あるに越したことはない"nice-to-have"だが、今さら自分ではどうにもできない。そうではなく、「気持ち」や資質とは別に、知っておくべき「考え方」「やり方」があるのだ。たとえば、上記のヒーローインタビューで、「気持ち」を全部「お考え」に置きかえたら、どんなに質問の雰囲気がかわってくるか、ためしに見直してみてほしい。

新しくチャレンジする事柄や分野はいろいろでも、そこに共通する方法論が、じつは存在する。ちょうど、様々な挑戦の分野をアプリケーション・ソフトにたとえると、どれにも共通の土台となるチャレンジのOSのようなものだ。

たとえば、「気持ち」はうつろいやすいものだが、どう支えて維持していくか。そのための大事な方法が、同じ志を持つ仲間をつくり、交流のための「場」を作ることだ。--なあんだ、そんなことか。誰でもやってらあ、とお思いだろうか。だが、方法として自覚して選ぶことと、たまたま結果としてそうなったことでは、大きく違う。

本サイトの大事な目的の一つは、「チャレンジのOS」の仕組みと道具を、ひとつひとつ取り上げて検証することだ。そうした道具立ては、多くがプロジェクト・マネジメントやプログラム・マネジメントの技術と通底する。プロジェクトとは、人々が協力して一度限りのゴールをめざすものなのだから、当然かもしれない。ともあれ、新しい決意のこの季節に、本サイトが読者にフレッシュなヒントを少しでも提供できれば、望外の喜びである。

<関連エントリ>
 →「クリスマス・メッセージ:求めよ、さらば与えられん


by Tomoichi_Sato | 2014-03-18 23:15 | 考えるヒント | Comments(1)

ハイボールと、本質的安全設計の教え

本質的安全設計』という言葉を聞いたことがあるだろうか。世間ではよく安全とか安心とかいったことを話題にするが、安全の意味をつきつめて考えている人は、必ずしも多くない。本質的な安全設計とは、われわれがモノや仕組み(システム)を作る上で、欠くことのできない概念である。今日はこれについて少し述べてみたい。

機械の安全設計については、そのものずばり「機械類の安全性―基本概念,設計のための一般原則」という名前の国際規格 ISO12100 が存在する。このISO規格によれば、機械類の安全は、『設計者対応』と『操作者対応』に分けられる。つまり、作る側による配慮と、使う側(消費者・操作者)による注意の、両方がいるというわけだ。ここまではいいだろう。

では、肝心の作る側(設計者)の対応は、どのように行うべきか。ISO12100は、
(1)本質的安全設計によるリスクの低減
(2)安全防護によるリスクの低減
(3)使用上の情報によるリスクの低減
という順番で行うべきだ、と述べる。

e0058447_18334389.gif


三番目の、「使用上の情報によるリスクの低減」の意味は、分かると思う。マニュアルにきちんと書きなさい、いろいろなチャネルや手段で使用者に注意をうながしなさい、という訳だ。おかげで最近はちょっとした道具を買うと、マニュアルの前半分くらいは「使用上の注意!」ばかりがずっと並ぶことになる。だが、まあこれが必要なのは明らかである。

(2)の安全防護も、まあ分かりやすい。危ないところには柵や手すりをつけ、高温になりやすいところは断熱材で防護する、といったガードをおく。あるいは、自動車ならエアバッグのような保護装置をつける工夫である。これにより、緊急事態発生時に、使用者に無用な危険が及ぶのを防ぐのである。

ところが、最初の(1)本質的安全設計、という言葉が分かりにくい。本質安全とは何だ? 保護装置やガードをつける設計とどこが違うのか?

(財)機械振興協会の技術研究所のホームページでは、本質的安全設計方策には四つの柱が書かれている。「危険除去設計」「フールプルーフ」「フェールセーフ」「冗長設計」の四つである。これを、わたしなりに敷衍して説明すると、次のようになる。

(a) 危険除去設計
根本的に危険をのぞく設計である。
 例:「鋭利な端部、角、突起物をさける」「毒性物質を使わない」

(b) フールプルーフ
人間はミスを犯すものだと考え、使用者がまちがった使い方ができないようにする設計である。工場などではよく“ポカよけ”などとも呼ばれる。
 例:「正しい向きにしか入らない電池 ボックス」「ドアを閉めなければ加熱できない電子レンジ」

(c) フェールセーフ
使用者がまちがった使い方をしたり、故障がおきても危険を避けることができる設計である
 例:「列車の空気ブレーキは圧力が漏れると停止する」「電気ポットのコードに誤って触れても簡単に外れる」

(d) 冗長設計
最低限必要な量より多めに装置を用意しておき、1つの装置が故障しても機能が失われない設計である。
 例:「WEBサーバを2台用意し、片方のサーバが故障しても他方のサーバで対応する」

つまり、安全防護(ガード)や付加的保護装置などが必要ないように設計することを、本質的安全設計と呼ぶのである。元々、安全にしか働かないような仕組み。たしかに、そのように設計できれば一番良いし、余分な付加保護をつける事に比べれば、コストセーブにもつながろう。いや、コストについては状況により一概には言えないかもしれないが、だからこそISOでは最初のステップで本質的安全設計を優先的に行え、と規定しているのだ。結局ちょっとした目先のコストを惜しんで、事故につながったのでは元も子もないからである。

ところで。上のような説明を聞いても、まだ“本質的に安全な設計”とは何か、誤解するケースがある。たとえば、「地震などで転倒したら、自動的に消火する石油ストーブ」という製品は、本質的安全設計に従っていると言えるだろうか?

耐震自動消火装置のある石油ストーブは、このごろは珍しくない。ところで昨年だったと思うが、ある輸入品の廉価な石油ストーブが、転倒しても消火装置がうまく働かないと分かり、回収騒ぎになったことがある。ちなみに製造元は韓国のメーカーだったが、昨今ネットには韓国嫌いの人が多いため、ネットではもっと「炎上」する騒動になった(さすがストーブである・・というのは冗談だが)。

この製品は、自動消火装置はついていた。だが、ちゃんと機能しなかった。倒れたら、ちっとも安全ではない。つまり、これは「付加的防護装置による対策」であって、「本質的安全設計」にはなっていないのだ。防護装置だって、壊れることがある。防護装置が壊れたら危険状態になる、というのは本質安全とは言えないのである。


じつは、わたしがこのような本質的安全設計の考え方を知ったのは、はずかしながら比較的最近のことである。教えてくれたのはわたしの元・上司の上司だった新谷正法氏だった。わたしの勤務先・日揮株式会社では、社内の大きな会議やミーティングでは、最初に5分間だけ使って、健康・安全・環境に関するトピックを紹介し、参加者みなの意識を高めるという習慣がある。これを、健康(Health)・安全(Safety)・環境(Environment)の頭文字をとって、HSEモーメントと呼ぶ。欧米の企業などでも、HSEモーメントを実施して、社内の意識を高める運動をしているところは多い。

そして、数年前のある時、社内の幹部クラスが集まる会議で、新谷氏(当時は副社長)が「ハイボールと本質的安全設計について」という話をされたのである。ハイボールは、ご承知のとおりウィスキーを炭酸水で割った飲み物だ。ところが、英語の辞書を引くと、ソーダわりのお酒という意味以外に、「(列車に対する)全速力で進めの信号」、さらに転じて「急行列車」の意味がある、と書いてあるという。

「ハイボール」という飲み物の語源は、(諸説あるが)鉄道に於けるボール信号機に由来する、と新谷氏は紹介された。現代では鉄道の信号機はすべて電気式だが、かつて英国で初期の鉄道ではボール信号機(BALL SIGNAL)が使われていた。これは駅構内に設置され、駅員がボールを上げた時(ハイボール)構内は安全なので侵入して良いという合図となり、これを見て列車が入線した。

さて、昔ののんびりした時代のこと。乗客は駅の待合室でウイスキーをちびちびやりながら列車を待っている。ところが、ボールが上ってハイボールになると、列車が入ってくるのでホームに急がなければならない。残ったウイスキーを一気にあけるのは身体に良くないので、そばにあったソーダ水で割ってグーッと飲んでホームへ急いだ・・。これが、ウイスキーのソーダ割りがハイボールと呼ばれるようになった由来なのだそうである。

e0058447_1834956.gif


さて、このボール信号機をよく見てほしい。紐を引いてボールを高く上げた状態(ハイボール状態)を安全確認に対応させている。もし何等かの不具合(紐が切れたり、駅員に問題が生じたり)があれば、ボールは落下し安全信号は出ない。つまり、故障は必ず安全側故障となる。

したがって、これは単純であるが本質的安全設計の良い例と言える、というのが新谷氏の説明であった。安全装置には、安全確認型と危険検出型があるが、両者を比べると安全確認型が望ましい。また、安全信号はエネルギーの高い(維持の必要な)状態に対応していること。これがポイントである。われわれがプラントを設計する際にも、必ずフェイルセーフのモードを考えて設計すべし。それがひいては事故の減少につながる--そういう思想が、この話に表されている。

さて、この話を披露された故・新谷正法氏は、今から1年前、2013年1月に、アルジェリアのイナメナス建設現場出張中に襲撃事件にあい、不幸にも、他の先輩同僚諸兄とともに命を落とされた。新谷氏は仕事に厳しい方で、わたしも何度怒られたか分からないが、しかし最終的には部下には優しく、個人的にもずいぶんとお世話になった。頭脳明晰で数字に明るく、責任感も強く、どんな困難な仕事、危険な現場でも率先して乗り込み、人を采配される優れたプロジェクト・マネージャーだった。

アルジェリア襲撃事件で新谷氏の安否確認だけが遅れたときも、わたしは“新谷さんのことだから、なんとかしぶとく生還されるのではないか”と祈っていた。最後にたった一人だけ、政府特別機で運ばれ沈黙の帰還をされたとき、「主人は責任感で、自分が一番最後に帰ってきたのだと思います。」と、夫人は言われた。

新谷氏をはじめ、亡くなられた他の先輩同僚諸兄もみな、中東北アフリカのイスラム諸国で長らく働き、その地域の発展に尽くして来られたのに、なぜあのように理不尽な暴力を受け命を失わなければならなかったのか。思い出すたびに、胸の中で怒りとやり切れなさが渦巻く。われわれ日揮では先週、一周忌に職場で黙祷を捧げ、社旗を半旗に掲げて追悼の意を表した。

新谷氏は安全についても人一倍意識の高い方で、上のボール信号機の図も説明文も、氏の発表資料から勝手ながら引用させていただいた。この稿で、微力ながら故人の遺徳をたたえるとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りする次第である。


by Tomoichi_Sato | 2014-01-19 18:36 | 考えるヒント | Comments(0)