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遠くに届くためには、力を入れてはいけない

先週の後半は「バッハセミナー in 明日館」という催しで、4日間ずっと音楽(合唱)の練習に通った。歌唄いが、昔から自分のささやかな気晴らしなのだ。ただ、普段あまり声を出す生活をしていないので、三日目が終わる頃には、喉も枯れてガラガラになっていた。とはいえ最終日には、修了演奏会で皆と一緒にステージに立つ。自分ばかりが下手だとまわりにも迷惑をかけるので、家に帰ってからも、楽譜を見て音を再確認しようと思った。

ピアノの鍵盤の前に座ったものの、夜だし大声を出すのはみっともない。ファルセット(裏声)で自分のパートを追おうとした。ところが、喉が枯れていて、ちっともファルセットが出ないことに気がついた。どうするのだ! 歌の中には、実音(地声)ではけっして届かない高音部もある。明日の本番で、急にサイレントになる自分の姿を思い描いて、冷や汗が出た。ともあれ、練習しない訳にはいかない。しかたなく、半ば諦めの境地で、地声で歌いはじめた。

ところで、肝心の高音部にさしかかると、不思議なことにすらっとファルセットが出る。あれ? 今、出たよな? そこで、その箇所だけもう一度トライした。しかし、今度はかすれてサッパリ出ない。まぐれだったんだろうか? しかたなく、バッハの複雑でやけに長い音符の列を追いかけ続けた。ときどき、たしかにすっと高音が出る。だが、出ない時はサッパリでない。

いろいろ試しているうちに、分かったことがあった。高音部だけを、真剣に真っ向からトライすると、声は出ないのだ。ところが奇妙なことに、半ば諦めの境地で歌うと、ちゃんとファルセットが出る。狐につままれたような感じだ。頑張るとできない。頑張らないとできる。一体どうしろというのだ。

そのとき、ふと思い出したのがオイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」 (岩波文庫)という本だった。戦前、東北大学に招聘されてやってきたドイツ人の哲学者ヘリゲルは、日本文化を知りたいと思い、弓道に入門する。ところが、名人と言われた師範が命じたことは、とんでもないことの連続だった。力一杯いれてようやく引き絞れる弓を、“力を入れて引いてはいけない”といい、さらに“意思を持って矢を放ってはいけない”、“的をねらってはいけない”などと言うのである。

「自分が射るのでなければ、誰が射るというのです?」という疑問を、彼は師匠に向かって問う。西欧の合理的知性ならば当然の質問である。しかし師は答える。「それが射る、とでも言おうか。経験しなければ理解できないことに、どんな口真似も役に立たない」。ヘリゲルはそれでも、様々な疑念と苦心を乗り越えて、5年かけて本当に「“それ”が射る境地」に至るのである。そんな名人の心境とは比べようもないが、なんとなく「自分で出そうとすると声が出ない」という今のシチュエーションに、通じる所がないだろうか。

さらに、話は飛躍する。ヘリゲルが体得したのは、“自分”(Ich)が射るのではなく、“それ”(Es)が射るということだった。ところで、ヘリゲルと同時代に生きたフロイトは、自分自身の心の意識する部分、自我のことを"Ich"と呼び、心の奥底の無意識の部分を、"Es"と呼んだ。そして、人間は自分(Ich)で自分をコントロールしているように思っているが、じつはかなりの局面で“それ”(Es)に動かされている、と考えた。このIchとEsという用語は、英訳されるときにラテン語のエゴ(Ego)とイド(Ido)になり、日本にはその形で入ってきた。だが、元は「自分」と「それ」という、ひどく単純な用語だったのだ。

話を元に戻すが、3年前、同じバッハセミナーの「ヨハネ受難曲」で、ごく短いソロを歌うことになった。本番前の昼休み、講堂の裏手に隠れて、一人で同じ短いフレーズをくりかえし練習した。この時も、最高音に届くかどうかが課題だった。そして分かったのは、「のどに力を入れると最高音が出ない」という事実だった。そうか、力んではいけないんだ、と、その時は理解したつもりでいた。

おかしなことに、歌う声というのは、力んでガナリ声になると、遠くの聴衆まで届かなくなる。遠くに届くためには、力を入れれはいけないのだった。だが、頭で分かったつもりでも、まだ本当には身についていなかったに違いない。その証拠に、そもそも三日間で声がガラガラになったのは、周囲の上手な人達に負けたくなくて、がなっていたからではないのか。

遠くに届くためには力を入れてはいけない。高くて通る声を出したければ、力を抜かなければならない。それが教訓なのだった。だが、何と難しい教訓だろう! そもそも、気合を入れ、力を入れる練習は世の中に数多い。運動部の練習というのも、基本はそれだった。でも、どうやったら「力を抜く練習」ができるのだろう? それはほとんど、意識し努力して眠ろうとするようなものではないか。必死になればなるほど、集中すればするほど、眠れなくなるのだ。

どうして体というのは、こんな逆説的な仕組みになっているのか。考えてみると、もともと呼吸とか、声といったものは、意識しない不随意運動で働いている。眠っている時も呼吸はしているし、声だって、赤ん坊の生まれた時の泣き声を見ればわかるように、意識せずに出るようになっている。それでも、その上で、随意的に動かすこともできる。工学系の人なら、オーバーライド機能とかスーパーバイザリー制御などと呼ぶだろう。つまり、仕組みが二重なのである。生存の必要でそう進化したにちがいない。

だがその二重性は、基盤が弱くなった時は、オーバーヘッドの負荷が重くなりすぎるのだ。声帯を囲む筋肉群は、様々な協調性の上で働いている。意識による無理やりの動きは、その協調性をこわしてしまうのではないか。それがわたしの解釈だった。

いろいろな物事は、見た目よりもずっと、つながっている。つながって働いている。わたしはそれを漠然と「システム」と呼んできた。このサイトの読者はご存知のとおりだ。自然に生み出されたシステムというのは、たいてい、自律的に働き、平衡性にもどる仕組みを内蔵している。身体もまた「システム」である。それなのに、自分は力んで、その自己平衡性を崩しているのだろう。

たとえば、昔の新幹線の自動ドアは、その前に体重を検知するステップがついていて、それで開くようになっていた。人が通り過ぎれば、自動的に閉まる。それなのに、ときどき、そのステップに立って、自分が今通った自動ドアを懸命に閉めようとする人がいたものだ。はたから見ると笑えるが、本人は必死だ。その必死さ自体が、ドアを閉める邪魔をしているのに。放置すれば、ドアは自動的に閉まるのに。そういう風に、ドアの仕組みはできているのだ。

そう考えてみると、さらに思い当たることがあった。自分がたまさか関わった失敗プロジェクトでは、チーム・メンバーに任せておけばいい小さな問題に、あれこれ口を出して、かえって部下の負荷を増やしてしまったのではなかったか。小うるさい指示と報告の仕組みをつくって、問題対処のための肝心な時間を減らしてしまったこともあった。典型低な管理過剰である。賢いつもりで、何と愚かなことをしていたのだろう。

力を抜くために必要なことは何だろうか。わたしはまだよく分からない。ただ、うまく言えないのだが、そこには信頼ということが大事なのだと感じる。それも、根拠の無い信頼ということが。

なぜ「根拠の無い信頼」かというと、できるかどうか分からないのに、「できる」という風に信じるからである。それは『自信』ではない。なぜなら、自分ではない、それだか誰かだかを信じようというのだから。自分の体であれなんであれ、“任せておけばきっとうまくいく”と信じること。そうして、へんに気合を入れたり緊張したりしないこと。緊張すれば、必ず余計な力がかかって「システム」のバランス回復が遅くなる。

スポーツの大事な試合に臨むときに、日本人のチームメイトたちは頑張れ!と激励するが、アメリカ人たちは「リラックス!」と声をかける、という話がある。それを聞いたのはオリンピックの時か、それとも何かの映画だったか。ともあれ、わたし達の社会では、何ごとにも「頑張れ」型の習慣がつよいのは確かだろう。頑張ることでうまくいくことも、もちろんある。だが頑張って力むことで、かえって事をややこしくしている場合が、案外多いはずなのだ。

わたし達はもう少し、システムの持つ自己平衡性を信頼した方がいい。もっと、力むことを捨てて、リラックスした方がいい。
そして、もっと、自分や周囲の人々を信じた方がいい。たとえそれがかなり難しく思えても。

そういう風に、身体も、脳もできているのだ。そして、家族や人のつながりとか、もっと高次な文化や言語や社会も、そうできているのだろう。そうした目に見えぬ「システム」を、わたし達は親兄弟から世代を超えて、うけついできたのではないか。・・祖先が帰ってくるというこの季節に、何故かわたしは、そう思った。

え、肝心の演奏会本番はどうなったかって? もちろん完璧でしたよ、わたし自身を除けば(笑)。


<関連エントリ>
→「書評:『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル」 (2010/05/18 )
by Tomoichi_Sato | 2014-08-13 20:26 | 考えるヒント | Comments(0)

情報とは何か、なぜかくも奇妙な性質を持っているのか


「コンプレッサーがいかれちゃってますね。残念ながら修理不能です。」P社のサービスマンは、故障した冷蔵庫を点検して、わたしにそういった。・・うーん、そうですか。しかしまあ1993年製なんだから、寿命と思ってあきらめます。今まで20年間、ずっと文句も言わずに働いてくれたんだし、仕方がないですね・・。サービスマン氏は、わたしの独り言を聞き流しつつ、てきぱきと熟練した手つきで工具をしまうと、さらにこういった。「申し訳ないのですが、規定ですので、出張サービス料をいただきます。」

三千数百円の料金を、わたしは支払った。点検はわずか20分程度だったが、ここまでの移動の往復を考えると1時間以上は拘束している。当然の費用だと、わたしも思った。ただ、考えてみると、これは何の代償として払う費用なのだろうか? わたしの手元に、何か新しい「モノ」(補修部品)がおさめられた訳ではない。「サービス」といっても、彼がきた時とかえった後で、こわれた冷蔵庫に何の違いがある訳でもない。

だとすると、わたしにとってこの金額は、“もう修理はできません”という「情報」の対価なのだ。だから、新しいのを買わなければならない。わたしの次の決断、次の行動の道筋を決める助けになった「情報」のお値段、ということになる。

世の中で売り買いできるのは三種類に分類される。「モノ」と「サービス」、そして「情報」である。モノは、物理的な実体があり、在庫することができ、そして売る時には所有権を引き渡す。一方、サービスという種類の財は、在庫できない。マッサージ師の仕事を考えてみれば分かる。いくら土日が忙しくても、平日の内に働きだめして在庫を積み上げておくわけには行かないのである(これを「サービスの同時性」と呼ぶ学者もいる)。なぜならサービスというのは、『リソース』の占有権を売る商売だからだ。

では、「情報」とはいかなるものか。これが、なかなか一筋縄ではいかないのである。情報という言葉は、もともと「敵情報知」という古い用語から生まれたという(真偽のほどは知らないけれども)。そして、事実、終戦後しばらくは、情報という語には独特の暗い影があったらしい。ちょうど今のわたし達が「諜報」という言葉に感じるような影だ。そうした感覚は、コンピュータ登場とともに大いに薄らいだ。だが出自はともあれ、情報にはいまだに奇妙な特殊性がついてまわっている。

情報なる商品の特殊性その1は、「人に渡しても手元に残る」という性質である。“来週X社の株価が暴落するらしい”という情報は、ある種の人たちには大変な価値があるだろう。ところで、この情報を誰かに高値で売ったとしても、売り手の手元にも、その情報は残るのである。このような性質のために、情報には「所有権」の概念があてはまらない。それどころか、さらにまた別の誰かに売りつけることができる。だから、情報の場合、「占有権」も紳士協定的にしか保証できない訳である。もちろん、「在庫」の概念もあたらない。

情報の特殊性・その2は、内容を受け取らない限り、「消費者」はその価値を正確に判断できない、という性質である(先の株価暴落情報がいい例だ)。しかも、いったん内容を受け取り、知ってしまったら、もう情報を「返品」してもらうことはできなくなる。ここに情報提供ビジネスの本質的な困難がある。「お代は見てのお帰り」方式は、リスクが大きくてなかなかできないのだ。だから何とか、事前に情報の価値の裏書きを得るべく、さまざまな品質保証の工夫がされることになる。しかもここには、受け手によって情報の価値が変わる、という別種の困難も横たわる。

3番目の特殊性とは、非対称性が存在しなければ情報に機能(意味)はない、という性質である。「情報の非対称性」はミクロ経済学の用語だが、ある人が知っていることを別の人は知らない、との状況を指す。知識の濃淡、高低があるから、情報にニーズが生まれるのである。全員が知ってしまった瞬間に、もうその情報には価値がなくなる。

このような奇妙な特殊性があるため、法律も会計学も、まだ本当は情報をうまく扱えていないように見える。情報の「窃盗」に意味はあるのか? 情報の「資産価値」はどう評価するのか? 減価償却できるのか? etc., etc... それなのに、情報はすでに巨大産業化してしまった。わたし達は、これをどう制御するのか。制御するためには、情報というものの奇妙さの根底にあること、いわば本質を、もう少し理解する必要があるはずだ。

ちなみに情報量については、周知の通り、エントロピーをつかった物理学的な定義が存在する。ここでわざわざ数式をとりだして読者に頭痛をよびおこすつもりはない。むしろ、物理学は情報「量」については定義を与えるが、情報の「性質」については大して何も教えてくれない、とわたしは感じている。情報量は、情報源の発する記号(符号)をベースに定義される。だが、そもそも記号(符号)化されていなくても情報は情報である。何気ない仕草や目つき、鼻腔を刺激する馥郁たる香り、こうしたことから、わたし達は案外多くの情報を得るのではないか。

ここで何となく、システム、制御、情報、というキーワードが思いつく(思いつくというか、じつは少し前に論文を書かせていただいた学会の名前そのものなのだが^^;)。この三項には、何か共通する関連性があるかもしれない。

制御工学は、情報に深い関わりのある分野だ。フィードバック制御などでは、対象系の操作のために情報が利用される。ところで、ワットの発明した蒸気機関には、すでにフィードバック制御が組み込まれていた。回転数が上がると、遠心調速機が働いて、蒸気機関の安定稼働を守ってくれる見事な組みだ(→Wikipedia)。

だが、ここでふと、奇妙な気持ちにおそわれる。ワットの蒸気機関は複雑で立派な「システム」だが、回転軸の遠心力でスロットル弁の開閉が調整されるのは、「情報系」なのだろうか。回転数は「情報」なのだろうか?

どうもわたしには、内部状態のあるシステムでなければ、「情報」という感じがしないのである。ここでいう『内部状態』とは、外部から直接うかがうことはできないが、保持される性質(記憶性)であり、かつ、その状態によって、システムの次のふるまいが変わりうるようなものを指している。内部状態を持つシステムでは、全く同じインプットでも、異なるふるまいをすることがある。

ワットの蒸気機関は内部状態をもたないシステムである。一般に単純な機械には内部状態がない。ふつうの冷蔵庫には内部状態がない(冷蔵庫の“内部”=庫内に何が格納されていようと、それで冷蔵庫の動作が変わったりはしない)。

もちろん、コンピュータは内部状態をもつシステムだ。ただし、それは電子的にデジタル情報を扱えるから、ではないことに注意したい。たとえば、チューリングマシンを見よ。紙テープでも、立派な情報だ。

ちなみに、わたしたち人間が感覚器(眼・耳・肌など)で受けとる情報というのは、光、音、触覚など微弱な物理的なエネルギーの作用である。残る味覚と嗅覚も、微弱な化学的ポテンシャルを検知している。この“微弱”というのも、情報のキーワードらしい。大きな物理化学作用では、「情報」という感じがしないからだ。頭を物理的に思いっきり殴られた。おかげで「痛かった」という内部状態(記憶)が長らく残った、あるいは記憶をすっかり失ってしまった、というのは情報のやりとりとは言えまい。

何となく「感じがする」みたいな、論理性の薄い推論を積み重ねてきたが、以上をまとめると、こうなる:
「情報とは、比較的小さなエネルギーで受け手の内部状態を変化しうる働き、またはその結果の状態である。」

情報をこのように理解すれば、その特殊性をすべて説明できそうだ。たとえば、(1)「人に渡しても手元に残る」のは当然である。なぜなら、小さなエネルギーで相手の内部状態を変える働きが情報なのだから。もし、情報の伝達に巨大なエネルギーを要するとしたら、もちろん二度と他の誰かに渡すことはできなくなるだろう。(2)「内容を受け取らない限り、『消費者』はその価値を正確に判断できない」のも当然である。なぜなら、受けとった結果として内部に生じる変化こそ、受け手にとっての情報の意味なのだから。(3)「非対称性が存在しなければ情報に機能(価値)はない」のも当然。すでに内部状態がAになっている人に向かって、“Aになれ”と伝えても何の変化も生じないのだ。

このような、情報の「内部状態論」的な解釈は、今日世間で広く行われている情報の「発生源論」的な解釈とは、真っ向から対立する。情報とその価値が発生源に依拠する、という議論は、情報の所有権的な考え方を通じて、ライセンスと知財戦略にまっすぐにつながる。つまり、米国などが国家的戦略としてすすめている、「高度な知識をお金にかえて世界を制覇する」という考え方である。わたしは別にライセンスも知財も否定するつもりなど全くないが、「知識に固有の価値がある」という見立ては間違いで、価値は受け手が(=その内部状態が)個別に決める、と考える方が健全だと思うのだ。

ついでにいうと、記号(符号)化と言語化は、情報をひろく流通させるための仕組みでしかない。記号も言語も、発信者と受け手の共通基盤として存在する(でなければ流通は機能しない)。しかし、情報の結果は、相手の内部状態の変化なのだから、言語化されていなくてもいいわけである。

そして情報技術(IT)とは、こうした性質を持つ『情報』と、情報を定型化して並べた『データ』の間に、相互変換のサイクルを作って回すことに他ならない——という話を本当は今日はしたかったのだが、すでにもう十分長くなりすぎた。わたしの話の前振りの長さはあきらめていただくことにして(^^;)、本題の話は項を改めて、いずれまた書こう。その前に、こわれた冷蔵庫をどうすべきか、頭を冷やして考えなくちゃ。


<関連エントリ>
 →「マテリアル、サービス、そして情報 ー 売り買いの対象は三種類に分類できる」(2011-08-08)
 →「データと情報はこう違う」(2012-07-24)
by Tomoichi_Sato | 2014-08-03 21:09 | 考えるヒント | Comments(0)

反応、感想、そして批評--受け手にとってより良きリアクションを生むために

わたし達は、消費社会に生きている。普段は職場で生産にかかわる仕事に従事していても、家に帰れば、消費者としてふるまう。いや、ちょっと昼飯を外に食べに行く時でさえ、消費者に戻るのだ。そうして毎日、お金を出して何かを買う。買うのはモノだったり、劇場での視聴だったり、旅行という体験だったりする。そして買ったモノや体験を、なぜかわたし達は、口に出して人に伝えたがる。考えてみれば、不思議な習性である。消費してそれで終わり、にしてもいいはずなのに、良きにつけ悪しきにつけ、何か一言いいたくなるのだ。

もっともわたし達は、自分でお金を払わない物事に対しても、あれこれと批評を口にする。TVで見る番組は、広告代という形で間接的に費用を払っているとしても、新聞で読む世の中の出来事、親戚の結婚式の体裁から、ゴミ出しの時に合う近所の奥さんの性格まで、すべて品評の俎上にのせられる。App Storeでは有償アプリも無償のものも、同等にレビュー対象だ。(ちなみに、日本のApp Storeのユーザレビューは、「悪のり的なレビューが世界でも突出して多い」と言う人もいる。 「WWDCへ殺到する開発者達 後日レポート」などを参照のこと。その当否はわたしには分からないが、一般にレビューアー側は「レビューの質」ということにかなり無頓着かもしれぬ)

これほどに世に多く行われている行為なのに、あまりその組立てや良い手筋について、論じたものは無いようだ。そこで本サイトはいつものユニーク性を発揮して、消費者としてのリアクション--『批評』というものを構造分析してみようと思う。どういう役に立つのか書いている本人もよく分からないが、とにかく気になるものについては考えてみる、という習性の導きにしたがって進めてみよう。とくとご笑覧あれ。

最初に、批評的なるものについて、三つのレベルを区別するところから始めたい。それは反応、感想、そして批評である。(これはわたしの個人的な用語定義なので、これ以降は『カギ括弧』でかこって表示する)

反応』とは、対象に対して当人が感じる“快・不快”が、ほぼ直接に表出されたものである。「うまい!」「まずいな。」 「まあ、チョウチョよ!」「きゃー、蛇よ!」・・このパターンは、いくらでもある。むろん、世の中には少数派として、蝶が苦手な人や蛇が好きな人もいるわけだが、話者の快・不快は、ほぼ口調からくみ取れる。そういえば、Facebookの「いいね!」(like!)ボタンも『反応』レベルに属するかもしれない。

ところで、聞き手・読み手なしでも『反応』は発せられることがある。そばに誰もいなくても、反射的に口に出てしまうわけだ。そういう観点からいうと、『反応』は必ずしもコミュニケーションを意識しない行為だ、と言えるかもしれない。もともと「蛇だ!」というような叫びは、集団内の信号ないしアラームとして機能したはずである。人間は言葉を持っているから単語や文で説明できるが、動物たちだって、警戒の鳴き声や、歓迎の鳴き声などで、この程度のレベルは表出している。『反応』とはたぶん、わたし達がもっと原始的な動物だったころから、持ち続けている脊髄反射的行為なのだ。

これに対して『感想』とは、自分が対象から受けた感情(エモーション)を言葉に表現したもの、と定義しておこう。「心を打つ話に、涙が止まりませんでした」とか、「笑止千万なゲーム運びに、あきれかえった」といったものが『感想』である。これは一応、コミュニケーションのニーズを持っている点が、『反応』とは異なる。人間には、感情を他者と共有したいという欲求がある。悲しい、とか悔しい、といったネガティブな感情でも、それを誰かと共有できると、心のどこかに満足感を覚える--そんな性質を人は持っている。それが『感想』を生みだす原点であろう。

では、『批評』とは何か。単なる『反応』や『感想』と違い、『批評』は独立した書き物として、それ自体も価値を持ちうる。だから、“プロの批評家”という存在も可能な訳である。作家とは別に、文芸批評家がいたりする。

『批評』は基本的に、読み手を想定して書かれている。原則として『批評』の読み手は、その芸術なり商品の消費者である。ときには作家宛の手紙、みたいなスタイルによる批評も存在するけれども、それは一種の意匠にすぎない。批評は、その対象作品をまだ知らない人に対する道案内であり、経験した人にとっては、より深い理解への手助けを提供する。だからこそ、『批評』は独自の価値を持ち、それ自体が商品ともなりうるのである。いや、たとえ原稿料がなくても、自分が書いた『批評』が多くの人の目に触れて支持を受けたら、当然誰だってうれしいと思う。

では、少しは読むに足りる『批評』を書くには、どうしたらいいだろうか? 自分はプロの批評家でもないのに、ずいぶん無謀な試みだが、一つ考えてみよう。それにはまず、良い『批評』と思われるものの構造を、理解する必要がある。

わたしの見たところ、すぐれた『批評』は大きく二つの部分、4つの要素から構成されている(図参照)。

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全体はまず、(1)事実の記述と、(2)分析・評価、の二つの部分からなる。前者はさらに、(1a)対象に関する事実の要約、(1b)周辺情報、の二要素を含む。後者は、(2a)対象の分析、そして(2b)評価からなっている。これらがすべて揃っていないと、『批評』としては完備しない。対象に関する情報だけで評価がなければ、ただの商品紹介みたいだし、対象の情報記述がなく書き手側の分析・評価だけだと、なんだか広告か政党新聞を読んでるみたいだ。

(1a)「対象に関する事実の要約」は、特段の説明は不要だろう。『批評』の対象の多くはなんらかの作品(創作品)だが、しばしば商品・工業製品・サービスなども対象に含まれる。さらに、スポーツなどのパフォーマンスや、出来事・イベントなどの事象も対象になることがある。『批評』はまず、対象について、事実をサマライズするところから普通ははじまる。

(1b)「周辺情報」とは、たとえば作品が対象ならば、その作者に関する情報などである。場合によっては、プロデューサー、出版社なども含むだろう。また、対象のジャンルに関する情報も必要かもしれない。さらに、その作品なり事象なりが生まれるまでの来歴、それが世に出てからのインパクト、他者による評価なども紹介されるかもしれない。

(2a)「分析」では、作者の意図・ねらいを分析(推定)することが中心に来る。むずかしい創作物では、その前にまず解釈が必要だろう。また事象が相手の場合は、その発生の原因や波及を分析(推定)することになる。そして、自分の受けた印象や感情を整理する。もちろん、深い作品などの場合、分析不能(「言葉にできませんでした」)ということも、あるかもしれない。

ちなみに分析を記述する際には、自分との利害関係の有無を明確にすることも行われる。これは、『批評』の信頼性ないし中立性を確保するためだ。

最後に来る、(2b)「評価」とは、すなわち良し悪しの議論のことである。むろん、どんなものを評価する場合であれ、通常は多元的な尺度が用いられる(ストーリーは面白いが、キャラクターは平板だ、など)。評価は時間的にも、短期評価と長期的評価とがある。そして、何ごとであれ、批判するよりも、上手にほめる方がずっと難しい。良い批評だな、と感じるのは、そうした対象へのリスペクトを感じさせる文章である。

ちなみに、いつだったか東海林さだおのエッセイを読んでいたら、彼がTV番組を見て憤慨した話が書いてあった。その番組では、オーストラリアを訪問したうら若い女性タレントが、たしかカンガルー肉の料理を口にするのである。その肉は固いのか柔らかいのか、味は淡泊なのか濃厚なのか、固唾をのんで見ていると、タレント女子はただ一言、「おいし~い!」とだけ言って終わったというのだ。それじゃあちっとも視聴者が分からないじゃないか! と東海林さだお氏は憤慨する。

そのレポーターさんのお仕事は、事実も分析もなく、評価だけだった、という訳だ。まあ、ここでいう『感想』レベルだ。『感想』では何がこまるかというと、事実の報告も分析もないため、“それを誰が言ったか”、でしか判断する方法がない点だ。しょせんTV番組なんだからその程度で我慢しろ、という言い方もあろう。でも、どうせ費用をかけて放送するんだから、もう一手間かけてレポーターにしゃべらせれば、ずっと情報量が上がったはずである。放送する側に、そういうマインドがないのだろう。

いうまでもないが、事実と意見を区別する、というのがレポートの基本である。事実とは何か。哲学的にはいくらでも深入りできる問いだが、ここでは、事実とは「お互いに検証可能なこと」(客観性)だと定義しておこう。そうすれば、対象がカンガルー料理だろうが何だろうが、少なくとも『批評』の前半は、客観的に議論し検証できるようになる。

同じように、評価のところでも、自分の「好き・嫌い」と対象の「良し・悪し」を意識して分離する態度が大事である。好き嫌いは感情レベルのことがらで、これは個人差がある。他方、作品の良し悪しというのは、大勢の人の間で、時間をかけて定まっていくものだ。だから、自分の好き嫌いが普遍的でないことを認め、両者を区別することが『批評』には望まれる。

そしてもう一つ。創作物の質の良し悪しと、その作者の人格を短絡的に結びつけないことも、大事な態度だろう。批評は作者の人格攻撃であってはならない。社会事象とその当事者のケースも、同じである。よく、子どもの出来が悪いと、すべて親のせいにする人がいるが、これと同じように作者と作品にも“親子関係”を想定し、「こんなもの作るのはロクな奴じゃない」みたいな事を言うのは、あまり賢い態度ではない。なぜなら、批評する者自身にも同様に、人格攻撃がはね返ってくるからである。そのような社会では、自由な、まともな、闊達な批評など存在し得なくなる。もちろん、創造性など育つわけがない。

以上をまとめると、良い『批評』のためには、
 ・事実と意見を、区別する
 ・自分の好き嫌いと、対象の良し悪しを区別する
 ・対象の評価と、作者の人格評価を区別する
という、三つの区別が求められるわけである。

これを言いかえると、作品や事象の評価を、議論可能な形にしていくことが、『批評』の最大の役割なのであろう。事実なら議論できる。良し悪しについても、互いに意見交換は可能だ。推測に関する水掛け論、たんなる個人的感情についての言い合いのムダを防ぐ。そうして、議論の中で、少しずつ共通理解の土台を広げ、次のより良い体験、より良い制作にフィードバックする--これが『批評』の機能であり、価値なのである。

そして、議論の価値を信じる社会でないと、このような『批評』は成り立たない。話し合いを信ぜず、「問答無用!」だけが通用する社会には、『批評』も無用である。

もちろん、世の中には『批評』に似て非なるものも存在する。一番多いのは、対象にカテゴリーのレッテルを貼ることで「評価」を代用するやり方である。「こんなのは××にすぎない」というやつだ。こうした文言は、『感想』または『批評』の形をしていても、じつは『反応』レベルに近い。たんに、レッテルの共有イメージにもたれかかっているだけで、ハイ・コンテキストな同質集団内のみで成立する言い方である。これでは、集団の外の人間とは対話できないままだ。

いうまでもないが、『反応』や『感想』は短文に向く。140文字に制限されているコミュニケーション・チャンネルでは、『批評』は書きにくい。その結果、そうした世界では、消費者のリアクションはみな短く、類似する。そして内容よりも「どの有名人が言ったか」で支持者(フォロー数)がかわっていく。そんな世界は、とても数値分析(テキストマイニング)しやすい世界である。基本的に、商品の売り手企業や広告企業は、むしろ『批評』をあまり歓迎しないと見るべきだろう。

といっても、誤解しないでほしいが、わたしは『反応』や『感想』より『批評』が高級だとか、どんな事柄に対しても『批評』だけを書くべきだ、などと主張しているのではない。そんなこと、わたし自身するつもりもないし、できる時間もない。だから日常では『反応』を口にするだろうし、Facebookでは「いいね!」を押し続けるだろうし、書評や映画評も『感想』ですませるかもしれない。ただ、その時その時に、自分がどのレベルを言葉にしているのかは、意識しようと思うのだ。

そして考えてみると、「仕事の評価」「人の評価」でも、作品・事象の『批評』と同じ構造をしていることが分かる。わたし達が、他人の仕事の成果や仕事ぶりを評価する機会は、音楽評を書く機会よりもずっと多い。また、その帰結も非常に重要である。だとしたら、『批評』の構造を胸に刻み込むのは、とても大事なことではないか。

分析・評価とは、すなわち、「アナリスト」の仕事である。対象が企業経営の場合は「証券アナリスト」、市場の場合は「市場アナリスト」、業務フローの場合は、「業務(システム)アナリスト」である。ちなみにわたし自身は、「プロジェクト・アナリスト」を自称し、その職域を認知してもらうべく、研究部会活動などもいそしんでいる。だから、(文末になってやっと分かったが)、良き『批評』の構造分析は、わたし達自身の仕事の糧なのである。


<関連エントリ>

→「仕事のレポートはこう書こう」 2011-05-08)
by Tomoichi_Sato | 2014-07-14 23:48 | 考えるヒント | Comments(0)

顧客の顧客を知り、上司の上司になって考える

顧客の顧客を知れ』--これは、わたしの敬愛する大先輩である、経営コンサルタント・今北純一氏から、何年も前にうかがった教訓だ。自分の顧客が誰かは、誰でも一応知っている。顧客が何を望むか、そのニーズや要求も、直接・間接に伝わってくる。だが、顧客がなぜ、それを求めるかについては、必ずしも理解できていないことが多い。

しかし、顧客も、彼ら自身にとっての顧客からの要望になんとか対応すべく、いろいろ考え、悩み、そして動いているのだ。だから、『顧客の顧客』をよく知れば、自分の直接の顧客のニーズをつかむのに役立つ。たいていの人は、顧客の顧客までは考えた事がないが、そこまで視野と想像力を広げられるかで、競争力は大きく変わりうる。

たとえば、今北さんは自著「Carpe Diem - ビジネス脳はどうつくるか」(文藝春秋、2006)で、工場の立地問題について、こんな例をあげられている。鉄鉱石を産出する資源会社の、直接の顧客は鉄鋼メーカーだ。そしてこれまで、多くの資源会社は鉄鋼メーカーとは営業的対応を積みかさねてきた。ところで、鉄鋼メーカーは、主製品の一つである自動車用鋼板を、自動車メーカーに売っている。そして周知の通り、大手自動車メーカーはいずれも、生産拠点の世界的な展開を図っている。

「たとえばトヨタでは、日本国内で『ヴィッツ』という名のクルマを、ヨーロッパでは『ヤリス』という名前で戦略車と位置づけ、フランス北部のバレンシエンヌにその製造工業を建設した。(中略)だから、BHPビリトンなどの資源会社は『顧客の顧客』である自動車メーカーの動向を見ていけば、欧州市場に新たな鋼板の需要が生まれ、欧州の鉄鋼メーカーがこれ以上に鉄鉱石を必要とすることを先行予測できる。」(p.118)。このように、自社を含むサプライチェーンの中で、真の需要の決定者が誰かを考えるのが、『顧客の顧客』の視点だ。

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工場立地ほど大きな問題ではないが、わたしも『顧客の顧客』を知ることで、問題解決の糸口を見いだした経験がある。

ある顧客の新工場の基本設計をしていたときのことだ。計画の予条件として、利用可能な敷地面積と、概略の投資額上限があった。その中で、比較的多品種な一般消費財を、需要にミートして生産できるよう、機械設備などを構成していかなければならない。むろん、基準となる生産数量は、顧客の過去数年間の実績データとともに、与えられていた。

ただし、主力製品には需要の季節変動がある。季節性のある製品の生産はやっかいだ。ピーク時の需要に合わせて生産ラインを作ると、閑散期には設備が不稼働になって無駄である。かといって、ピーク時の前から作りだめをしていくと、今度は製品在庫が増えてしまう。当然、広い置き場所が必要になる。

とくに悩んだのは、出荷のための物流搬送設備だ。生産はピーク時期に向けた作りだめで、多少は平準化できる。だから生産設備のキャパシティは生産量の平均値を考えれば済む。だが、出荷量は、需要の季節変動に連動する。物流設備のキャパシティは、ピーク値で計画せざるを得ない。物流部門が出してきた性能要求は、まさにそのピーク時の数字だった。そのままでは、どうしても大げさな設備になってしまう。

かといって、一般消費者の需要を制御し「平準化」することなど、むろん不可能である。ピークに合わせるしかないわけだ。機械的な物流搬送設備を使うと、予算が高くなりすぎる。では、フォークリフトや人力などの「ローテク」で搬送・積みつけしてもらうか。しかし、そうすると今度は出荷ヤードの面積が広くなりすぎて、敷地の制限にひっかかりそうだ。

「需要の季節変動の実体はどのようなものか?」--これを明らかにすることしか、解決の手がかりはなさそうだ。月別の生産量と出荷量のデータは開示されていたが、わたしは顧客のプロマネとIT担当者に頭を下げて、過去2年間の日別実績データを別途もらい受けた。会社に持ち帰り、簡単な処理をしてExcelでグラフに描いてみる。

グラフを見て、わたしは驚いた。本当のデータをここに載せるわけにはいかないので、模式図的に部分を拡大してみると、図のようになっていた。

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たしかに、年間の季節変動はある。だが、はっきりいって、月別に見た一年間の中での変動よりも、月内の日次変動の方が大きいのだ。まるで、一年中真夏なのに、昼と夜の気温の落差が大きい砂漠の気温のようである(ただし砂漠は日内変動だが、この顧客の場合は月内変動だった)。それも、月内の変動にははっきりしたパターンがある。出荷量が月初に集中しているのである。月初の数日間は、月末の4~5倍近い出荷量がある。このピークをなんとかしない限り、出荷設備の問題は解決できない。そう、思った。

次の打合せのときに、顧客のプロマネにこのグラフを見せ、月内変動の理由をたずねてみた。「うーん、月初集中の傾向があるのは知っていましたが、こんなに激しいとは思ってもいませんでした。」と、先方は言われる。この方は製造部の所属で、物流部門(子会社化されている)の仕事は、あまり見ていなかったのだろう。

これは、出荷先の卸問屋との、商習慣の問題だと思う、というのが相手の説明だった。卸からの出荷依頼は、日単位で、毎日入る。納入たものは、卸の所有物になる。ところが、卸との決済は、月末締めなのだ。ということは、相手側から見ると、5月1日に注文して手に入った製品でも、5月29日に注文した製品でも、同じ金額を、31日に支払うのである。ならば、単純に金利だけを考えても、月初に注文した方が得になるではないか。また流通側は欠品を嫌うので、ある程度在庫を抱えたい、という意図もあるのだろう。在庫金利がゼロでいいなら、とうぜん月初に沢山仕入れることになる。

それまで、わたしは、顧客の生産した製品のユーザは一般消費者で、その需要の制御も交渉も不能だと思い込んでいた。しかし、本当は、顧客の顧客は、卸問屋なのだった。だったら、出口はあるかもしれない。わたしは、思い切って提案してみた。

「卸さんへの出荷ですが、これは紙の上だけにしたらどうでしょうか? つまり、注文を受けたら、製品の所有権を渡すけれども、物理的な場所は動かさずに、『預かり在庫』の形にさせてもらうのです。そして、卸さんの出荷指示に応じて、チェーンストアなどの実際の最終出荷先に直接納入するようにしませんか? そうすれば、実需にしたがって出荷できます。現実の需要は月初集中などしていないはずですから、出荷量のピークも減り、工場の出荷設備もずっと小さいもので済むはずです。」

現実には、在庫の保険だとか出荷指示の受け渡しなど、いろいろ解決しなければならない問題点はあるだろう。だが、むだな工場の投資も不要になるし、卸の側だって、在庫の置き場所の心配が減るわけだから、互いにメリットはある。なにも全部を預かり在庫にする必要はなく、一部を預かるだけでも、ピークはかなり減るはずだ。そう、考えた。

残念ながら、わたしのこの突飛な提案は実現しなかった。客先は、生産部門と販売部門を別々の役員が管掌していた。そんなサプライチェーンをまたぐような変革を実現しようとしたら、もう社長レベルでの調整事項になってしまう。それは工場長ですら、とても手に余る大仕事なのだった。結局、「ローテク」+「人海戦術」で、強引に工場レイアウトに押し込め、というのが結論だった。つまり、サプライチェーンの歪みを、生産・物流側がそのまま引き受けた形の決着だ。

しかし、この件でわたしは、重要な教訓を学んだのだった。それは、問題の構造を真に理解したかったら、やはり「顧客の顧客を知れ」ということだ。顧客の指示や要求が、わたし達の思考の「枠組み」を作る。あるいは、顧客についてのこちらの思い込みが、無意識な「枠」を作ってしまう。ところが、顧客もまた、彼らの顧客からの要求で動かされているのだ。顧客がわれわれに出してくる要望の裏には、『顧客の顧客』に対応するための問題が隠されている。そこを知れば、相手の真意や出方を予測できるようになる。問題構造の背景がうまく分かれば、与えられた枠組みの外にでて、解決法を見いだす可能性もあるのだ。

『顧客の顧客』とならんで、わたし達の思考の枠組みを広げて大局観を持つための、もう一つ有用な方法がある。それは、『上司の上司』の立場に立って考えることだ。

たとえばもし自分が工程係長ならば、上司の生産管理課長ではなく、上司の上司である製造部長になったつもりで考える。あるいは、設計グループリーダーならば、技術部長ではなく、開発本部長になったつもりで、自分のポジションの仕事を考え直してみる。こうすると、わたし達がものを考える時に、無意識に設定している「制約条件」をとりはらうことができる。

たとえば設計グループリーダーとしては、現有のチーム員の制約の中で、個別の案件のアサインを決めるしかない。しかし、開発本部長の立場に立つと、別のことが見えてくる。もし自社の開発プロセス全体の中で、設計部門がボトルネック状態になっているなら、必要な職種の増員や部門間での配転といった手立てを講じることができる。そうした権限(自由度)の中で、さて、設計グループリーダーに求めるべき最善の手立ては、と考えを進めてみるのである。

自分の直接の上司の仕事は、下から見ているので分かりやすい。おまけに、たいていは批判や不満もあるから、その「あるべき姿」についての意見を、誰でも持っている。しかし、二階級上の立場までは、あまり意識しないものだ。そこでかりに、上司の上司になったと想像し、やるべき仕事を考え、その中で今の自分の職務への期待を考えなおしてみるといい。この思考実験は、自分の役割を理解し、自分の思考の枠をとりはずす訓練として、非常に有効だ。そういうわけで、わたしは、「生産革新フォーラム」名義で書いた共著『“JIT生産”を卒業するための本―トヨタの真似だけでは儲からない』(日刊工業新聞社 2011) 第5章の冒頭で、ジャスト・イン・タイム生産システムの問題を考えるに能っては、まず「二つ上の視点」にたって、すなわち顧客の顧客や、上司の上司の視点で、ものを捉えなおすことを提案したのである。

問題解決は、ホワイトカラーの仕事の主要な一部だといっていい。その際、わたしを含むエンジニアという人種は、どうしても「与えられた問題」の所与の条件下で、なんとか技術的に解決する方向に、ものを考えがちになる。まるで、試験で出題された問題を解くように。すると、どうしても前例や規範や『正解』に沿った方向になってしまう。しかし、正解のない問題に取り組むときは、その問題の「枠組み」を広げる方が、より良い解決に結びつくことが多い。そのために、顧客の顧客を知り、上司の上司になって考える訓練が、役に立つのである。


<関連エントリ>
 →「心の中でヘリコプターに乗れ」 (2012-04-02)
by Tomoichi_Sato | 2014-05-03 11:48 | 考えるヒント | Comments(0)

「頭がいい」ということは、本当にそんなに「良い」ことだろうか

ボールを胸の真ん中でグローブに受けたとき、バシン、という重たさを感じた。「この子は肩が良いな」と思った。近所の公園で、息子とその友達と一緒にキャッチボールをして遊んでいた時のことである。息子と少し投げ合った後で、その友達の投げたボールを受けたら、スピードもコントロールもぜんぜん違ったのである。後で聞いたら、その子の母親も昔はソフトボールのピッチャーだったという。“生まれつき肩が良いって、あるんだな”と思った。

もちろん、ボールを速く、正確に投げられるというのは、肩という「身体の部分品」の出来がいいだけでは十分ではない。周囲の筋肉の使い方、タイミング、バランス感覚、などが総合されて、はじめていい球が投げられる。肩が良いというのは、一種の総合力なのである。

他の子をほめたので、一応自分の子供の良い所も挙げてみようか。息子は「鼻が良い」といえるだろう。微妙な匂いも非常に敏感に嗅ぎ分けられる。小さなときから、食べ物がちょっとでも生臭かったりすると手を付けなかったり、わずかに加えた隠し味の香りを精確に言い当てたりする。同じフランスのワインを、日本で飲む時とフランスで飲んだときは後味が少しだけ違う、などとのたまう。嗅覚が発達しているのだろう。

(ところで、この記事のタイトルを見て読み始めた読者の中には、「頭脳のよしあしの話題かと思って読み始めたのに、いつまで関係のない迂遠な話を続けるんだ」とお感じの方もおられるだろう。もうすぐ本題に入る)

人間には、「肩が良い」とか「鼻が良い」とか、ほかに「目が良い」「足が速い」など、いろんな特性というかタイプがある。「頭が良い」というのも、それと同格の、ある種の身体的機能の発達だと、わたしは思っている。

もちろん、「頭が良い」というのは一群の能力の総称である。言語能力、記憶力、論理的な思考能力、瞬間的な判断力、空間認知能力、パターン識別能力、などがないまぜになった特性を、なんとなくそう呼んでいるわけだ。「肩が良い」ことが総合力であるのと同じように、「頭が良い」のも一種の総合力であろう。

さて、この記事のタイトルに反語性を読みとって、「この佐藤という奴は、知的能力の高さに否定的らしい。反知性主義者なのか? どんな結論を提出するつもりなのか?」と思いながら読んでこられた「頭の良い」方は、そろそろ話のテンポが遅いことにイライラしはじめた頃と思う。頭の良い方は、概して忙しいし、気も短い。そこで、ご安心いただくために、先に本稿の結論をいってしまおう。「頭の良い人は、だまされやすい」という欠点を持つ、てのが結論である。

「だまされやすい!? この自分が、かよ? いーかげんにしろ。それほど馬鹿じゃねえ。」と息巻く方もおられるだろう。下心を持った人間がだまそうと近づいても、その些細な矛盾を突いて撃退できる知的能力をお持ちかも知れぬ。だまされるのは、ダマされる方が悪い、という言い方も存する。愚かだから、ダマされる。まったくそのとおりだ。だったら、頭が良ければ騙されにくいはずではないか。

ところで、催眠術師が決まって使うテクニックに、「催眠術は赤ん坊と馬鹿にはかかりません」と言って術を始める、というのがあるそうだ。こういう前ふりをすると、聞いている人たちは、「自分は赤ん坊でも馬鹿でもない」と思う。思うから、催眠術にかかる方向に、無意識にドライブがかかる。相手の、知的優越心をくすぐるのである。むろん催眠術と人をだます行為はぜんぜん別物だが、人の虚栄心をくすぐって利用する、という点では共通している。

わたし達の社会では、「頭が良い」のは最高の褒め言葉の一つである。それは、我々が高度に工業化された産業社会にすんでいるためだ。これが昔の、農業主体の社会だったら、「腕力がある」ほうがずっと人間の評価で重要だったはずだ。さらにさかのぼって、狩猟と採集で暮らしていた石器時代だったら、「足が速い」「鼻が良い」はとても優れた能力だったろう。社会構造によって、人に求める能力は変わってくるのだ。

前回、「今のお気持ち」主義という言い方で、“仕事の成果を左右する最大の要素は、やる人の気持ち(意欲・感情)だ”とする信憑をとりあげた。この考え方は、かなり広く受け入れられている。そして、この「今のお気持ち」主義は、もっと古いが根強い考え方、“最重要なのは、リーダーの生まれついての資質だ”という資質主義や血統主義へのアンチテーゼでもあると述べた。「気持ち」「資質」と並んで、わたし達がよく持ち出すのが、その人の「頭の良さ」なのである。頭が良くなくてはトップ・アスリートにはなれない、とも前回書いた。それだけではなく、どの分野であれ、トップになるには頭がわるくてはとても無理だ、と思う。

そういうわけで、現代社会は「頭の良い」人を発掘し育成し顕彰するために多大な努力を払っている。そのために最大限に利用しているのが、競争原理だ。日本の教育制度(というか入試制度)は、頭の良い人を選別することに主眼をおいたシステムである。選別中心ということは、頭の良さもまた生まれつきの資質であるとの前提に立っているわけで、その証拠に、社会では学歴(正確には「入試歴」)がずっと幅を利かせてきた。選別されたのだから、それで十分ということだ。

むろん、入試産業では、「人は生まれつき」では身もフタもないから、「がんばれば君だって良い大学に入れる」と盛んに宣伝する。つまり、やる人の気持ちが大事だ、ということである。制度自体は資質主義なのに、大半の生徒たちの尻を意欲主義で叩いているのが、いまの教育(?)のあり方だ。

このように「頭の良さ」が競争原理に直結しているため、人から「頭が良い」と思われると誰しも優越感を抱きやすい。大学入試歴のみならず、ちょっとした議論に勝ったり、あるいは人の知らない新しい情報を知っていたり、といった個別の局面で、いちいち優越感が顔を出す。

そもそも、議論というのはお互いの知識や見地を交換しあって、より真理に近い高みに登るために行う行為であるはずだ。それに「勝つ」というゲーム感覚を持ち込むこと自体、おかしなことだ。だが、その「おかしさ」に、頭が良い人ほど鈍感である。むしろ、過度に論争的になりやすい。

とくにこまるのは、われらが社会の試験制度が、記憶力や反射的な判断力に重点を置いた試験問題を好むことだ。「正解」の知識やテクニックを、素早く、たくさん記憶のポケットから取り出せる能力が有利なのである。だから、「頭の良い」人は、逆に「正解のある問い」という枠組み自体を、疑うことをしなくなる。世の中には、いろいろな判断条件があり、価値観がある。ところが「知識重視」「知性主義」「競争原理」などの価値フレームワークは、決して疑わない。そして、それに準拠し、それに適応した形で、自分たちの価値軸を形成し再生産していく。

お分かりだろうか。「頭の良い」人たちを動かすのは簡単なのだ。彼らの競争心を刺激すればいい。

わたしはときおり、いくつかの大学で教えている。たとえばグループ演習の問題を出す。20分の時間制限付きだ。このとき、学生たちの尻をたたくのに、一番きくのは、(ライバルと目される)「××大学では正解率○○%だった」という一言だ。

頭の良い人は、知的競争心に動かされやすい。そして、「人に動かされやすい」というのは、つまり「騙されやすい」ということではないか。それも、誰か他人に騙される前に、頭の良い人はまず、「自分自身にだまされやすい」のである。自分に自信がある。なぜなら、子どもの頃から、“頭が良いね”とほめられ続けてきたからだ。自分の存在価値も、頭の良さにかけている。

あなたのまわりに、いい歳をしてして、知識や論戦に毎度毎度しのぎをけずって生きている人はいないだろうか。子どものうちはいい。20代そこそこの頃もまあ、しかたないかもしれぬ。しかし、30歳を過ぎてまだ「頭の良さ競争」に振り回されるのはおかしいと、いい加減気がつくべきではないか。

「頭の良い」人はしばしば、社会から与えられる価値観を疑わない。知識をいくら積み上げても、そこからは価値観など出てこないからだ(まあここで、ヒュームの哲学論など、あえてもちだすまい)。他人に動かされやすい。動かされているのに、自分では自分で考えて動いているつもりでいる。そういう意味では、知的エリート層は、じつはとても大衆的なのである。

頭の良さは総合的な能力だと書いた。その総合性が偏っているから、こうなるのである。おまけに、頭のよしあしと言ったって、正直それほどの差があるとも思えない。肩のよしあし、眼のよしあしと似たようなもので、人間の能力の差など、せいぜい倍半分なのである。100mを10秒で走れる人は滅多にいないが、20秒でならたいていの人が走れる。眼のよしあしを補正するために、人間は眼鏡などの器具を発明した。器具や練習などで、人間の能力はそれなりに是正され、差が縮まる。

「考える」のにも方法があり、練習もできるのだ。教育制度は、学生を選ぶのに忙しくて、そのことをあまり教えない。これはとても残念なことに思う。今のわたし達に必要なことは、むしろ「正解のない問題を、とことん考えぬく能力」なのである。・・ああ、そういえば、このことは前にも書いたな。頭がわるくて、自分で書いたことを、すぐ忘れてしまう。だからわたしは、こんな「反知性主義」的な文章を、性懲りもなく書いているのかもしれない。


<関連エントリ>
 →「『正解のない問題』を考える能力
by Tomoichi_Sato | 2014-03-24 08:34 | 考えるヒント | Comments(0)

新しい決意と、「今のお気持ち」主義

早春が好きだ。

3月、コブシの白い花が空に向かって問いかけるように咲きはじめる。まだ冷たい空気の中にも、草木の芽吹く気配がする頃。一年で一番美しい季節になったな、と思う。そういう気持ちは、年を追うごとに強くなる。昔は季節などに興味はなかった。いまは歳をとってきたせいか、少しずつ花が咲き、いのちの生まれかわるときが心にしみる。

3月は卒業と進級、別れと新しい決意の季節でもある。なにか未経験のことにチャレンジし、衣を脱ぐように古い自分から脱皮したい。そんな気持ちをいだくことも多いだろう。望み、あこがれ、訣別、スリル、そして少々の怖れ、いろいろな気持ちが混じりあって新しい決意を形づくる。

「決意」から「実現」へと向かって進むために一番大切なのは、もちろん自分の強い気持ちである。気持ちとはすなわち、意思であり、感情であり、好みでもあり、また気合いでもあろう。それらをひっくるめて日本語では「気持ち」と呼ぶ。これは理屈とか技術とか計算とかとは別のものである。今日はこの気持ちの持ち方について、書いてみたい。

去年の何月頃だったか、外で晩飯を食っていたら、テレビでナイター中継をしていた。9回の裏に劇的な逆転になって、ファンは大喜びだ。早速、ヒーローインタビューが始まった。逆転打を放った選手に、インタビュアーが質問を放つ。

「××さん、今の気持ちはいかがですか? 」

選手がそれに答えると、さらに2つ3つと質問を重ねる。
「途中、 4点差まで引き離されましたよね。その時はどう感じましたか?」
「9回表、何とか守りきったときのお気持ちは?」
「最後の打席で、第二球目を打った時の感触は? 」

質問の細部まで正確に記憶しているわけではないが、内容はずっと“どういう気持ちですか”だった。ヒーローインタビューというのは、ファンが選手の受け答えに一緒になってワーッと歓声を上げるのが目的みたいなものだから、これでいいのかもしれない。でも、もう少し気の利いた質問もありそうなものだ。どんなコンディションだったかとか、監督の指示はどうだったかとか、何が一番難しかったかとか。そうでないと、試合の面白みが分からないじゃないか・・ちょっぴり不思議であった。

この時以来、状況や考えではなく、気持ちをもっぱら興味の中心に置くアプローチを、「今のお気持ち」主義と、わたしは勝手に呼ぶことにした。一流のアスリートというのは、頭が良くなくては、なれない職業だと、わたしは思っている。筋力や運動神経だけでは十分ではない。工夫も計画も作戦もあって、はじめて本当のトップ・プロになれるのだ。アスリートに限らず、どんな分野のプロだって同じだろう。だとしたら、なぜ相手に『お考え』を質問しないのか?

それは、チームの成果を最終的に決めるのは、理性でも技巧でも運でもなく、やる人の「気持ち」だと皆が信じているからだ。気持ちのあり方で、試合の結果を理解したいのだ。

わたし達の脳は『ものごとを説明する』ことをつねに求めている。よく分からないものがあると、不安で、それこそ「気持ちが悪い」のだ。たとえば三回転半ジャンプの技巧と危険などは、素人にはほとんど理解できない。しかし、それをやる人の「気持ち」だったら、誰にも推察できる(ような気がする)から、納得感がある。ものごとの帰結を、『やる人の気持ち』で説明する問いかけが増えていくのだ。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」「なせばなる」--そういうテーゼを、人は求めているらしい。いかなる苦難と逆境にあえいでも、強い意志さえあれば、最後は成功できる。そうした物語は、落ち込んだ人の心を、再び立ち上がらせる効能がある。「今のお気持ち」主義の背景には、そんな物語へのニーズがあるのだろう。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」で、全面的に成り立っている娯楽が、昔の『講談』だったと、作家の橋本治はいっている。講談は江戸時代から昭和初期まで、ずっと人気のある娯楽だった。今、その伝統は、主に少年マンガが受け継いでいる(少年マガジンの発行元は、その名も「講談社」だ)。

講談的な物語は、なぜ多くの日本人の心をつかむのか。それは、もっと古くて強力な考え方、すなわち「人の能力は、生まれつきで決まる」という思想への、アンチテーゼだからだ。センスや素質のない奴に、いくら教えたってダメだ。上に立つべき人間は、それなりの器であるべきだ。そんな風な言い方は、身の回りにごまんとある。

人が生まれつき持っている資質が、成果を左右する最重要ファクターだ、という意見はとても根強い。だから「素質のある人を早く見出し、リーダーシップを発揮できるポジションに早くつける」ことが大事だ、との主張が生まれる。ビジネススクールの教師など、いかにも言いそうだ。いわゆる「エリート養成機関」を出た人たちも、同種の意見の持ち主が多い。

この「資質主義」を徹底していくと、教育は“育てる”より“選別する”ことが第一義になっていく。日本の入試制度は、まさにこの思想を強く反映している。

そして資質主義の最たるものは、血統主義である。講談が生まれたのは、身分制社会の時代であったことを思い出してほしい。士農工商の差別と桎梏の時代にあって、下層出身者が、強い意思とやる気だけで戦国をのし上がっていく講談は、多くの人々にうけたにちがいない。

いったい仕事の成果は「やる気」で決まるのか「資質」で決まるのか。どちらが主でどちらが従なのか。ここでは、その問いに答える代わりに、「今のお気持ち」主義がもつ問題点を考えてみよう。

「今のお気持ち」主義の最大の問題点とは、「予測がうまくできない」ことにある。“あの人があんなに熱心に取り組んだのだから”という予測(願望?)だけでは、結果は見通せない。そもそも気持ちというのは、ふらふらと変わりやすく、しかも客観的にはうかがい知れぬものである。そのうち「気持ちメーター」が発明され、「気持ちが4.6点まで上がっているから、あとジャンプ3回は大丈夫よ」と判断できる世の中がくるのかもしれぬが、来ないかもしれぬ。来ないような「気が」する。

「今のお気持ち」主義のもう一つの危険性は、精神主義への傾斜と、客観的な事実把握の軽視である。当然だろう。“気合いさえあれば必ず乗りこえられる”のだから、現実を直視するとか、数字で客観的に測るといった行為は、ムダなばかりでなく、意思の力をそぐから、嫌われるようになる。もちろん、数字にもとづく作戦立案とか、オペレーションズ・リサーチ(OR)なども軽視される。ビジネス社会でも、ときおり見かける傾向である。

しかし、「気持ち」中心主義の一番まずい点は、別にある。それは、成功していない者に対して、激励ではなく、逆に排撃に働くことである。「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」というテーゼは、「成功していないのは、やる気がないからだ」と等価である。社会の『負け組』、底辺にいる奴らは、やる気がないのだから、酷い扱いを受けて当然だ、との考え方がここから出てくる。身分制思想よりも、ある意味もっとひどい、苛烈な差別感情である。

もちろん、新しい決意を成功に向けるため、いちばん大事なことはやはり「気持ち」であり、やる気の持続である。ただ、気持ちだけでは、足りないところがあるのだ。別に素質や生まれや血統のことではない。それらは、あるに越したことはない"nice-to-have"だが、今さら自分ではどうにもできない。そうではなく、「気持ち」や資質とは別に、知っておくべき「考え方」「やり方」があるのだ。たとえば、上記のヒーローインタビューで、「気持ち」を全部「お考え」に置きかえたら、どんなに質問の雰囲気がかわってくるか、ためしに見直してみてほしい。

新しくチャレンジする事柄や分野はいろいろでも、そこに共通する方法論が、じつは存在する。ちょうど、様々な挑戦の分野をアプリケーション・ソフトにたとえると、どれにも共通の土台となるチャレンジのOSのようなものだ。

たとえば、「気持ち」はうつろいやすいものだが、どう支えて維持していくか。そのための大事な方法が、同じ志を持つ仲間をつくり、交流のための「場」を作ることだ。--なあんだ、そんなことか。誰でもやってらあ、とお思いだろうか。だが、方法として自覚して選ぶことと、たまたま結果としてそうなったことでは、大きく違う。

本サイトの大事な目的の一つは、「チャレンジのOS」の仕組みと道具を、ひとつひとつ取り上げて検証することだ。そうした道具立ては、多くがプロジェクト・マネジメントやプログラム・マネジメントの技術と通底する。プロジェクトとは、人々が協力して一度限りのゴールをめざすものなのだから、当然かもしれない。ともあれ、新しい決意のこの季節に、本サイトが読者にフレッシュなヒントを少しでも提供できれば、望外の喜びである。

<関連エントリ>
 →「クリスマス・メッセージ:求めよ、さらば与えられん


by Tomoichi_Sato | 2014-03-18 23:15 | 考えるヒント | Comments(1)

ハイボールと、本質的安全設計の教え

本質的安全設計』という言葉を聞いたことがあるだろうか。世間ではよく安全とか安心とかいったことを話題にするが、安全の意味をつきつめて考えている人は、必ずしも多くない。本質的な安全設計とは、われわれがモノや仕組み(システム)を作る上で、欠くことのできない概念である。今日はこれについて少し述べてみたい。

機械の安全設計については、そのものずばり「機械類の安全性―基本概念,設計のための一般原則」という名前の国際規格 ISO12100 が存在する。このISO規格によれば、機械類の安全は、『設計者対応』と『操作者対応』に分けられる。つまり、作る側による配慮と、使う側(消費者・操作者)による注意の、両方がいるというわけだ。ここまではいいだろう。

では、肝心の作る側(設計者)の対応は、どのように行うべきか。ISO12100は、
(1)本質的安全設計によるリスクの低減
(2)安全防護によるリスクの低減
(3)使用上の情報によるリスクの低減
という順番で行うべきだ、と述べる。

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三番目の、「使用上の情報によるリスクの低減」の意味は、分かると思う。マニュアルにきちんと書きなさい、いろいろなチャネルや手段で使用者に注意をうながしなさい、という訳だ。おかげで最近はちょっとした道具を買うと、マニュアルの前半分くらいは「使用上の注意!」ばかりがずっと並ぶことになる。だが、まあこれが必要なのは明らかである。

(2)の安全防護も、まあ分かりやすい。危ないところには柵や手すりをつけ、高温になりやすいところは断熱材で防護する、といったガードをおく。あるいは、自動車ならエアバッグのような保護装置をつける工夫である。これにより、緊急事態発生時に、使用者に無用な危険が及ぶのを防ぐのである。

ところが、最初の(1)本質的安全設計、という言葉が分かりにくい。本質安全とは何だ? 保護装置やガードをつける設計とどこが違うのか?

(財)機械振興協会の技術研究所のホームページでは、本質的安全設計方策には四つの柱が書かれている。「危険除去設計」「フールプルーフ」「フェールセーフ」「冗長設計」の四つである。これを、わたしなりに敷衍して説明すると、次のようになる。

(a) 危険除去設計
根本的に危険をのぞく設計である。
 例:「鋭利な端部、角、突起物をさける」「毒性物質を使わない」

(b) フールプルーフ
人間はミスを犯すものだと考え、使用者がまちがった使い方ができないようにする設計である。工場などではよく“ポカよけ”などとも呼ばれる。
 例:「正しい向きにしか入らない電池 ボックス」「ドアを閉めなければ加熱できない電子レンジ」

(c) フェールセーフ
使用者がまちがった使い方をしたり、故障がおきても危険を避けることができる設計である
 例:「列車の空気ブレーキは圧力が漏れると停止する」「電気ポットのコードに誤って触れても簡単に外れる」

(d) 冗長設計
最低限必要な量より多めに装置を用意しておき、1つの装置が故障しても機能が失われない設計である。
 例:「WEBサーバを2台用意し、片方のサーバが故障しても他方のサーバで対応する」

つまり、安全防護(ガード)や付加的保護装置などが必要ないように設計することを、本質的安全設計と呼ぶのである。元々、安全にしか働かないような仕組み。たしかに、そのように設計できれば一番良いし、余分な付加保護をつける事に比べれば、コストセーブにもつながろう。いや、コストについては状況により一概には言えないかもしれないが、だからこそISOでは最初のステップで本質的安全設計を優先的に行え、と規定しているのだ。結局ちょっとした目先のコストを惜しんで、事故につながったのでは元も子もないからである。

ところで。上のような説明を聞いても、まだ“本質的に安全な設計”とは何か、誤解するケースがある。たとえば、「地震などで転倒したら、自動的に消火する石油ストーブ」という製品は、本質的安全設計に従っていると言えるだろうか?

耐震自動消火装置のある石油ストーブは、このごろは珍しくない。ところで昨年だったと思うが、ある輸入品の廉価な石油ストーブが、転倒しても消火装置がうまく働かないと分かり、回収騒ぎになったことがある。ちなみに製造元は韓国のメーカーだったが、昨今ネットには韓国嫌いの人が多いため、ネットではもっと「炎上」する騒動になった(さすがストーブである・・というのは冗談だが)。

この製品は、自動消火装置はついていた。だが、ちゃんと機能しなかった。倒れたら、ちっとも安全ではない。つまり、これは「付加的防護装置による対策」であって、「本質的安全設計」にはなっていないのだ。防護装置だって、壊れることがある。防護装置が壊れたら危険状態になる、というのは本質安全とは言えないのである。


じつは、わたしがこのような本質的安全設計の考え方を知ったのは、はずかしながら比較的最近のことである。教えてくれたのはわたしの元・上司の上司だった新谷正法氏だった。わたしの勤務先・日揮株式会社では、社内の大きな会議やミーティングでは、最初に5分間だけ使って、健康・安全・環境に関するトピックを紹介し、参加者みなの意識を高めるという習慣がある。これを、健康(Health)・安全(Safety)・環境(Environment)の頭文字をとって、HSEモーメントと呼ぶ。欧米の企業などでも、HSEモーメントを実施して、社内の意識を高める運動をしているところは多い。

そして、数年前のある時、社内の幹部クラスが集まる会議で、新谷氏(当時は副社長)が「ハイボールと本質的安全設計について」という話をされたのである。ハイボールは、ご承知のとおりウィスキーを炭酸水で割った飲み物だ。ところが、英語の辞書を引くと、ソーダわりのお酒という意味以外に、「(列車に対する)全速力で進めの信号」、さらに転じて「急行列車」の意味がある、と書いてあるという。

「ハイボール」という飲み物の語源は、(諸説あるが)鉄道に於けるボール信号機に由来する、と新谷氏は紹介された。現代では鉄道の信号機はすべて電気式だが、かつて英国で初期の鉄道ではボール信号機(BALL SIGNAL)が使われていた。これは駅構内に設置され、駅員がボールを上げた時(ハイボール)構内は安全なので侵入して良いという合図となり、これを見て列車が入線した。

さて、昔ののんびりした時代のこと。乗客は駅の待合室でウイスキーをちびちびやりながら列車を待っている。ところが、ボールが上ってハイボールになると、列車が入ってくるのでホームに急がなければならない。残ったウイスキーを一気にあけるのは身体に良くないので、そばにあったソーダ水で割ってグーッと飲んでホームへ急いだ・・。これが、ウイスキーのソーダ割りがハイボールと呼ばれるようになった由来なのだそうである。

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さて、このボール信号機をよく見てほしい。紐を引いてボールを高く上げた状態(ハイボール状態)を安全確認に対応させている。もし何等かの不具合(紐が切れたり、駅員に問題が生じたり)があれば、ボールは落下し安全信号は出ない。つまり、故障は必ず安全側故障となる。

したがって、これは単純であるが本質的安全設計の良い例と言える、というのが新谷氏の説明であった。安全装置には、安全確認型と危険検出型があるが、両者を比べると安全確認型が望ましい。また、安全信号はエネルギーの高い(維持の必要な)状態に対応していること。これがポイントである。われわれがプラントを設計する際にも、必ずフェイルセーフのモードを考えて設計すべし。それがひいては事故の減少につながる--そういう思想が、この話に表されている。

さて、この話を披露された故・新谷正法氏は、今から1年前、2013年1月に、アルジェリアのイナメナス建設現場出張中に襲撃事件にあい、不幸にも、他の先輩同僚諸兄とともに命を落とされた。新谷氏は仕事に厳しい方で、わたしも何度怒られたか分からないが、しかし最終的には部下には優しく、個人的にもずいぶんとお世話になった。頭脳明晰で数字に明るく、責任感も強く、どんな困難な仕事、危険な現場でも率先して乗り込み、人を采配される優れたプロジェクト・マネージャーだった。

アルジェリア襲撃事件で新谷氏の安否確認だけが遅れたときも、わたしは“新谷さんのことだから、なんとかしぶとく生還されるのではないか”と祈っていた。最後にたった一人だけ、政府特別機で運ばれ沈黙の帰還をされたとき、「主人は責任感で、自分が一番最後に帰ってきたのだと思います。」と、夫人は言われた。

新谷氏をはじめ、亡くなられた他の先輩同僚諸兄もみな、中東北アフリカのイスラム諸国で長らく働き、その地域の発展に尽くして来られたのに、なぜあのように理不尽な暴力を受け命を失わなければならなかったのか。思い出すたびに、胸の中で怒りとやり切れなさが渦巻く。われわれ日揮では先週、一周忌に職場で黙祷を捧げ、社旗を半旗に掲げて追悼の意を表した。

新谷氏は安全についても人一倍意識の高い方で、上のボール信号機の図も説明文も、氏の発表資料から勝手ながら引用させていただいた。この稿で、微力ながら故人の遺徳をたたえるとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りする次第である。


by Tomoichi_Sato | 2014-01-19 18:36 | 考えるヒント | Comments(0)

問題症状を治してはいけない

学生の頃、友人の家に泊まった。深夜まで音楽談義にふけった翌朝、寝不足と二日酔い気味のまま起きだして、その家の洗面台の前に立つ。顔を洗おうとしたら、壁に小さな新聞記事の切り抜きが貼られているのに気がついた。なにかコラム記事のようだ。タイトルは「風邪を引かない方法」。筆者の名前は、医学博士 ○○○○とある。

文章の主旨はこうだった。「風邪を引いた患者の容態を調べると、ほぼ共通して、初期は鼻が通常より乾いた状態であることがわかった。本来、健康人の鼻の穴は適度に濡れている。鼻が乾いてしまうことが、風邪をひく原因だ。だから、風邪を予防したければ、朝夕、顔を洗うときに、指先を水道の水にひたし、それで鼻の穴を濡らすようにすると良い。自分はこの方法で、もう10年以上も、風邪ひとつ引いたことがない。」

たぶん、友人の母上はこの記事が気に入って、自分の健康のために洗面台に貼ることにしたのだろう。母上が実際に風邪ひとつ引かぬ体質になったかどうかは、知らない。しかし、この文章があまりにも奇妙だったため、わたしは今でも忘れられずにいる。

風邪はウィルス性の感染症で、主に空気感染によってうつる--こんな常識は、もちろん医学博士某先生も重々ご承知であったはずである。では、鼻の穴が乾くとなぜ風邪を引くのか? そこの理路はよく分からなかった。鼻腔壁が濡れていれば、外気と一緒に呼吸で吸い込んだウィルスなどもよく吸着でき、体内に入るのを防ぐことができる、ということだったのかもしれない。実際、わたし自身も、鼻が乾きやすいのは風邪の初期症状だと自覚し、気づいた時はなるべく大事をとるようにしている。そう思うようになったのは、この記事を読んで以降のことだったろうか。ただ、朝晩、水道水で鼻の穴を濡らすことはしていない。

というのは、わたしは別の見方をしたからだ。鼻が乾くことが、風邪の原因ではない。風邪を引いて、鼻腔が熱っぽくなるから、鼻が乾きやすくなるのだと考えたのである。なぜ熱っぽくなるのか? ここからは素人の想像だが、文字通り、身体の正常な反応のひとつであり、熱を出して温度を上げることによって、菌の生存率を下げようとしているのだ。発熱というのは基本的に、身体が外部から侵入したバイキンを弱らせる防御反応である(微生物には生存に適した温度範囲があり、感染菌はたいてい人間の通常体温に適応している)。

つまり、鼻が乾くことは、風邪の原因ではなく結果であり、初期症状なのである。それは、身体の正常な反応の一部だ。結果を除去したからといって、原因が治るわけではない。鼻の乾きにかぎらず、痛みや熱といった症状は、体のアラーム信号だ。アラーム信号それ自体を除去して、異変が治るだろうか。もちろん素人のわたしが、医学の専門家の意見を批評するのはおこがましいかもしれぬ。ただ、俗に“風邪を治す薬を発明できたらノーベル賞ものだ”と言われるが、この医学博士の先生が受賞したという話は聞かないし、学会での常識になったという風でもない。

話は、いきなり飛ぶ(いつもながらすみません)。10年ほど前だが、あるERPベンダーを、別の国のコングロマリットが買収した。ERP市場の中では、Second tierというか二番手集団だったが、あいにく赤字に陥って、買収の憂き目にあったわけだ。買い手の企業の方は、次々と買収劇を繰り返して急成長中であった。彼らは買収時のコメントとして、「これからは厳格なコスト管理を行って、経営を再建する」と発表した。Stringent cost controlという語を使っていた。これを読んだわたしは、“あ、これはダメだ”とがっかり感じたのを覚えている。

なぜダメか。ソリューション・ベンダーが赤字に陥る状態は、コスト管理の失敗から来ることは、じつは少ないからだ。豪華すぎる設備を買ったとか、外注先に払う人月単価が高すぎたといった理由で、赤字になるのなら、たしかにコスト屋の領分だろう。だが、多くの場合は、ちがう。新バージョンのリリースが遅れてシェアを競合他社に奪われたとか、追加交渉に失敗して売上が伸びなかったということが原因なのだ。さらに、どうしてそういう事態が生じるかというと、仕様が複雑化して開発工数が増大したとか、出来上がった製品の品質が悪くて顧客交渉に強く臨めない、といった事象が考えられる。そしてもっと原因をたどると、自社要員の人数・能力不足や、開発外注先の選定の失敗が浮かび上がる。それらの根本原因として、コミュニケーション不全や、リスク管理の不在など、マネジメント・スキル自体の問題が横たわっているはずだ。こうした問題を、数字に強いだけの財務屋さん達が解決できるだろうか?

赤字というのは、企業というシステムの表面に現れる症状である。その症状を、コストという「症状の次元」の中で解決できると思うのは、あさはかだ。原因は、もっと深いところにあるのに、買収で成長する企業では、往々にして頭脳優秀な財務マンたちが経営企画の中核にいて、自信満々にすべてを数字で割り切れると信じている。彼らが得意とするのは、厳格なコスト管理であり、不採算部門の売却であり、人のレイオフである。新技術が必要なら、自分でゆっくり開発するより外から買収してくるのが、一番てっとり早いと考える。

だが、ソリューション・ビジネスというのは複雑なシステムである。誤解しないでほしいが、ERPが複雑な情報システムだという話をしているのではない。ソリューションはベンダーと顧客とパートナーとハードメーカーと開発外注先の群からなる複雑なエコシステムの上に成り立つ商売であり、どこかの要素にインパクトを与えた場合、リアクションは思いもよらぬ別の場所に、後になってゆっくり現れたりする。それはちょうど、生物のからだ、あるいはヒトの身体のようなものだ。

あの医学博士が誤解した理由ははっきりしている。人間の身体というシステムで、鼻の乾きと風邪の発熱という二つの現象が、相前後してほぼ同時に現れる。だから前者が後者の原因だと考えてしまった。それは、複雑なシステムというものの見方ができない人の、早合点した論理だった。赤字を、コスト問題の次元でとらえるのも、同じように短絡した論理だ。納期遅れをスケジュールの次元だけで考え、在庫問題を物流だけの次元で対策しようというのも同様だ。結局、その企業は、数年後にERPベンダー部門を売却することになった。その間の本当の事情は、わたしには分からない。ただ、しだいに寡占化が進みつつあったERP市場で、その製品がトップ集団に踊り出ることもなかった。いいところもあったのに、残念なことだ。

症状を、症状の次元で治そうとする行為を「対症療法」と呼ぶ。対症療法では、病は根治できない。根治したければ、深い原因を探さなければならない。

そして、そのためには、システムというものに対する深い洞察が必要なのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-12-10 23:59 | 考えるヒント | Comments(0)

なぜ事実と意見を区別して話すべきなのか

今回は、論理と共感という、説明のための二つの方法について書く。わたし達が他人に向かって、その人の受け入れにくいようなこと、あるいは、やや信じがたいことなどを説明し、理解してもらわなければならないシチュエーションは、しばしばある。『交渉』はその典型で、相手にとって不都合なことを説明し、理解してもらい、合意してもらう必要がある。マネジメントの仕事では、交渉能力は不可欠である。ただ、これが苦手だという人は、(わたし自身を含めて)とても多い。説明は交渉の基礎である。そこで、上手な説明ためには、どういう方法があるか、それを今回は考えてみたい。

たとえば、次のような会話を考えてみよう。

「中東の社会って、女性の地位が低いのよ。」
「本当かい。たとえば?」
「サウジアラビアじゃ、女性は車の運転さえ禁止されているのよ!」
「でもサウジでは、高級車レクサスの所有者の6割は女性だそうだよ。」

(念のため一応、先回りして釈明しておくが、べつにわたしは特定の社会を批評したくてこの例をあげた訳ではない。よくありがちな議論のサンプルとして書いただけだ。ちなみに最後の発言は、わたしがトヨタ系ディーラーの方から直接聞いた話である。)

さて、上の発言に、整理のため1~4までの番号を振ることにしよう。発言1は、正しいか正しくないか? 事実か、事実でないか?

言うまでもない。発言1「中東の社会って、女性の地位が低いのよ」自体は、印象、ないし『推測』である。とても大づかみな一般論として主張されているが、議論の余地がある。そこで会話の相手は、発言2で例示を求める。「本当かい。たとえば?」--推測に対しては、複数の例証が必要だ。

そこで最初の話者は、発言3「サウジアラビアじゃ、女性は車の運転さえ禁止されているのよ!」という『事実』を説明する。感嘆符(!)が付いてはいるが、これは感情的主張や意見ではなく、事実を論述している点に注意してほしい。

それでは、『事実』とは何か。論理的な説明の方法においては、事実とは「検証可能なものごと」を示す。サウジで女性の運転が許されているかどうかは、(調べるのが簡単かどうかは別として)YesかNoか、第三者にもはっきり検証することができる。そして実際、このことは事実である。

これに対して、相手は発言4「でもサウジでは、高級車レクサスの所有者の6割は女性だそうだ」と反論する。女性の運転が許されていない国で、高級車を所有するとはどういうことか。亭主が運転するか、あるいは運転手がいるかだが、いずれにせよ、この事実は、女性も財産権をもち、かつ、家庭内での意思決定には女性もある程度、発言力があることが伺われる。いずれにせよ、この発言は『数字に基づく事実』である。こちらも検証が可能であり、しかも数字をベースとしているから、論争の余地が少ない。

このように、
 『推測』 < 『事実』 < 『数字に基づく事実』
の順で、主張の説得力は強くなっていく。検証可能性が高まり、解釈のゆらぎが少なくなるからだ。

そこで、何らかの説明や主張をする際には、

(1) まず、誰もが同意できるゆるぎない事実を述べ、
(2) その上に三段論法的な論理を積み重ねて、
(3) 自分の意見へと導く

という手順で進めるべきだ、という考え方が生まれる。これが、西洋で主流となっている説得のための考え方である。そこにおいては、(1)は自分の議論の前提・基礎となるため、ここをあいまいにすると相手に反論されるおそれがある。だから推測よりは、検証可能な事実を、さらに数字で検証可能な事実を述べて、自分の信ぴょう性を高めようと工夫する。

検証可能性は、(自分や当事者だけでなく)第三者にも検証可能である、という点に注意してほしい。こういう観点からいうと、自分の感情や意見の論述は不利である。なぜなら「自分はこういう気分だった」「自分はこうすべきと考えた」ということ自体は、(かりにそれが事実だったとしても)他者には検証しがたいし、じっさい人の感情や意見は変わりやすいものだからである。だから、事実と意見をまぜこぜにした説明を聞くと、論理的な説明方法に慣れた人たちは、“こいつの主張は根拠が乏しい”“自分の損得だけで事実を解釈している”と感じる。

では、自分の価値観などは、いつ議論に持ち込むべきなのか。それにはいくつかのテクニックがある。一番オーソドックスなのは、まず(1)の議論の最初に、誰もが同意する大原則として宣言しておく(「この製品開発の目的はあくまで市場首位の奪還にある」とか「差別って、どんな場合にも良くないはずよね」とか)。そして、(3)の論述の段でもう一度、その原則を振り返り、自分の主張の支えとするやり方である。もう少し高等なテクニックとしては、“事実のふりをした推測”を巧みに混ぜて、議論を誘導する方法もある。これだと、事実と論理だけを積み重ねると、いつのまにか自分の主張が生まれる、と見えるわけだ。

いずれの方法をとるにしても、この論理的な説明法に従えば、最後に出てくる『意見』は、だれもが合意すべき見解のはずである(という形になる)。

ところで、これとは全く異なる説得の方法がある。それが『共感』をもちいる方法である。人間同士というのは、互いに感情を共有したいという気持ちを持っている。それが社会的動物であることの証左なのだろう。喜びであれ、怒りであれ、悲しみであれ、いや、単なる好き嫌いであれ、一緒にいるものの間で感情を共有できると、どこかに満足を感じるよう、人間はできている。

そこで、これを説得に利用する。「じつはこういうことがありまして・・」「このとき自分はこんな気持だったんですよ」「なのに、こういう目にあったんです」「おわかりいただけますよね」--ここで大事なのは、事実を正確に記述することではない。自分の感情を、リアリティを持って相手に伝えて、共感を得ることである。その結果として、「・・だから、こう思うんです」という結論に、理解を求めていく。

交渉戦術で言う“泣き落とし”などはその典型である。こちらが立場として下の場合、あいての同情を誘って、なんとかこちらの困窮に共感を得るようにしむける。“激励(という名前の命令)”だとか、この同類はいろいろある。

事実による説明と、共感による説得と、どちらが上で、どちらが下ということは別にない。ビジネスでは満足すべき結果が得られれば、それでいいのだ。事実、交渉の上手な人は、場面に応じてうまくこの二つを使い分けたり、巧みに混ぜたりして、相手を誘導していく。だから、どちらも身につけるに越したことはない。もし自分が、前者は不得手だと思ったら、まずは話し方の中で『事実』と『意見』を意識して区分けする練習をすべきなのである。

ついでながら、「事実による説明」には利点がひとつある。それは、文字に書いて残したとき、あとで読む人間にもそれなりの説得力を発揮する点である。「共感による説得」はその場にいてリアルタイムに体験した人でないと、伝わりにくい。このために、学問とか技術とかでは基本的に、事実と意見を区別した記述が求められるのである。(ちなみに哲学的にいうと、事実と意見を厳格に区別することはできない。というのは、どの事実を取り上げ、どの事実には触れずにおくかを選ぶ時点で、すでに話者の価値観が入っているからである。だが、少なくとも事実と意見は違うスタイルで表明するというのが、学問上のマナーだ)

そしてもう一つ。この二つの方法は、文化によっても好みが分かれる。西洋、ならびにインド・イスラム社会など「中洋」などの文化圏では、事実による説明がより重んじられる傾向がある。他方、東洋、とくにわたし達の社会などでは、共感による説明がかなり頻繁に用いられるようだ。日本では、事実と意見を区別して論理的に説明するやり方は、(いい面を捉えて見ると)“頭が良いしゃべり方”に見えるが、普通は“理屈っぽいやつだ”と思われる。そう見られてしまうことは、しばしばハンディである。

しかし、同じやり方が、別の文化圏に行くと、“あいつの話すことは筋が通っている”とプラスに評価される。この頃合いが、とても微妙で難しい。だから、人を説得することは、いつでもたやすくない仕事なのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-10-20 23:51 | 考えるヒント | Comments(0)

まだ何ひとつ終わっていない

7月下旬、福島と宮城を旅行した。一泊二日の小旅行だ。仙台では、3.11の被災地を少しだけ見てきた。この時の体験は、自分でも、まだうまく言葉にすることができない。だが、書いておくべきだという気がするので、まとまりもないが、あえてここに記しておく。以下は、そのとき見聞きしたことである。

そもそもなぜ東北の、それもひどい災害にあった土地に行こうと思ったのか。自分でも説明できない。ただ、行って、亡くなられた方々のために手を合わせなければ、と感じたのだ。親戚がいたわけでもない。友人知人がそれほど多いわけでもない。でも、ずっとそう感じていた。本当はもっと早く行きたかった。だが例によって世事に煩わされ、2年以上もたってから、ようやく出かけることができたのだった。

土曜日の昼前の新幹線で、まず郡山に向かう。途中少し遅れたが、それでも東京から郡山まではあっという間だ。駅前に降り立つ。わたしはたまたま、'90年代の初め頃、仕事でなんどか郡山を訪れたことがあった。街は、その時の印象から大きくは変わっていないように思える。喜多方ラーメンの店を見つけて、軽く腹ごしらえし、ホテルに荷物を置く。

午後はそこで、旧知の昼田源四郎先生と久しぶりに再会した。昼田先生は精神科医で、臨床の世界で長く活躍され、統合失調症の専門書も書かれている。だが、医学史家という、もう一つの顔もお持ちで、「疫病(ハヤリヤマイ)と狐憑き―近世庶民の医療事情」(みすず書房)という本の著者でもある。江戸時代の診療記録を元にした、実証的な研究である。その後、福島大学の教育学部に転じられ、発達障害や「いじめ」の問題などを研究されてきた。

その大学も昨年退官され、今は「ふくしま心のケアセンター」という組織の所長をされている。これは医療機関ではなく、臨床心理士などを中心とした組織で、避難所生活の方々などを訪問し、相談とケアを行っているという。バックアップしているのは福島県内の精神医療法人の連合団体で、必要時は病院とも連携できる。これはどうやら国の補助事業らしく、東北三県が県単位で受け、それぞれ県内のしかるべき団体に委託していると理解した。昼田先生は組織の立ち上げ段階から関わって、いろいろ苦労されてきた様子だ。心理士などの人手はそれなりに確保できるらしい(他にあまり仕事がないということかもしれないが)。しかし、当然ながら、人々が受けた心の傷は大きい。「今年は自殺防止が大事なテーマだ」とも言われた。震災から一年たち、2年たち、頑張ることに疲れて心が折れそうになる人が増えている。

昼田先生からは河北新報(地元東北の新聞社)が制作したビデオ「東日本大震災 宮城・石巻沿岸部の記録 DVD」による震災と津波の映像もみせていただいた。また被災エリアの状況を示した震災地図というものも拝見した。しかし、3.11の被害規模があまりにも大きく、いまだに全貌がどうなっているのかよく理解できない状況だ。メディアは、個別にはいろいろなエピソードの報道や記録を積み上げているが、全体像を多面的・客観的に把握する、という仕事は不得手らしい。でも、必要な規模・数字のベースさえはっきりしないようでは、マクロな対策は立てようがない。どうしても、その場その場の応急措置的対応を続けることになる。わたしの専門の言葉を使えば、個別プロジェクトは多数あるが、プログラム・マネジメントがなされていない状態なのだ。縦割り・地域割りの行政も、その状況を改善するつもりは薄いらしい。

郡山の人たちのメンタルなケアを難しくしているもう一つの問題は、農業である。農産物が出荷できないのだ。それも「風評被害」で売れない、との問題ではない。政府によって出荷が禁止されているのである。これによって生活基盤を完全に失った人たちが大勢いる。あとで調べて驚いたのだが、安部首相名で福島県知事に対して、非常に長くて詳細な農産物リストと広範な地域名が指定され、「当分の間、摂取及び出荷を差し控えるよう、関係自治体の長、関 係事業者及び住民等に要請すること」が指示されている(わたし達の社会では、政府要請は事実上、命令である)。郡山市に限っていえば、米と大豆が(一部地域だが)禁止対象で、全市にわたる禁止物としては、たけのこ、キノコ(路地・野生)、くさそてつ、こしあぶら、ぜんまい、たらのめ、など山菜類が指定されている。それ以外にも、カブ、うめ、ゆず、くり、原乳などが隣接する市町村で禁止されている。農業はスーパーや映画館と違って、昨日までとは別の品種を今日から扱います、という訳にはいかない。農地を急に放棄するわけにもいかない。わたしがその身だったら、どう感じるだろうか。

昼田先生とは久しぶりだったので、その夜は小さな料理屋に入って、会津若松の地酒に舌鼓を打ちつつ、震災以外にもいろいろなことを話した。「精神分裂病」がなぜ「統合失調症」と呼びかえられたのか(英語でもドイツ語でも病名は“精神の分裂”という意味だ)。また、「いじめ」には国や文化による違いはあるか。昼田先生は米国の教育研究者と何年間も継続して共同研究を行い、広範なアンケート調査なども実施された。日本ではあまり報道されないが、米国にも、学校でのイジメは存在する。しかし、結論として、どうも文化に直接起因する大きな違いが見いだせない、という不思議な結果になったという。残念ながら、いじめという行為は人間のもっと深い部分に起因していて、それは一種の攻撃性と関係しているのではないか、と考えざるを得ない様子であった。また、昼田先生は現在、「江戸の精神科医」という次なる著書を準備されている、とのこと。仕事が多忙でなかなか時間を割けないとおっしゃっていたが、非常に楽しみな本である。地酒もとても美味しかったが、自分は酒飲みでないため、肝心の名前を忘れてしまった(^^;)

翌朝は郡山の街を少し散策した後、新幹線で仙台に移動した。昼田先生に教えていただいた「語り部タクシー」に乗って、被災地を訪れるためである(わたしは仙台中央タクシーを利用した)。料金は1時間5300円。ただし仙台駅を起点とする場合、1時間では足りないというので2時間でお願いした。もし二人以上で利用するならば、とてもフェアな料金だと言えよう。

仙台の幹線道路を東に向かい、平野部をしばらく走る。仙台東部道路を横切り、宮城野区の海沿いに向かう。農地もあるが、都市近郊の宅地である。すると、そのうち、どこがとは言いにくいのだが、風景が微妙に、しかし決定的に変わってくる。津波の到達域に入ったのだ。家々は同じように建っている。だが、窓ガラスが破れていたりして、人が住んでいないことが分かる。ごく普通の不動産分譲地のように見えて、だが人はいない。タクシーはある家の前に止まった。道路のアプローチ側から見ると、普通の家だ。だが、前に回ると、恐ろしい破壊の跡が見える。あたりが静かでのどかである分、そのショックは大きい。周囲には同じように、まだ新しいのにうち捨てられた郊外住宅がたくさん建っている。多額のローンを抱えたまま、家を捨てなければならなかった人々の気持ちが胸にこたえた。

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車はそのまま沿岸道路を走り、南に下がって若林区の長浜地区に行く。その名の通り、仙台の海水浴場として知られた浜辺だ。いま、そこには石碑と、観音像が建っている。震災の犠牲者の名前を刻んだ石碑だ。享年を見ると、ほとんどが高齢者で、そのなかに幼児が入っているのが痛ましい。休日なので、何人もの方が訪れている。わたしも浜辺に立ち、海に向かって頭をたれ、手を合わせて、亡くなられた方々の魂の平安を天に祈った。

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周囲を見ると、浜辺の松の木々が全て津波で折れ、ねじ曲げられた姿で残っている。松は陽樹で、海岸沿いにも自生するが、根が浅いため津波には抵抗力が弱い。有名な陸前高田市の「奇跡の一本松」は、名勝・高田松原の何千本もの松が、実はたった一本しか残らなかったことを意味しているのだろう。根元から折れた幹は、津波の中で流され、むしろ危険である。防風にはともかく防潮林には向かないのかもしれない。

近くには、荒浜小学校の建物がある。写真では分かりにくいかもしれないが、1階部分のガラスはほとんどが破れており、今は立ち入り禁止になっている。地図で見ると分かるが、このあたりは広く平坦な土地である。あの規模の津波が押し寄せた場合、逃れる高い場所はほとんどない。その中で4階建ての鉄筋コンクリートの小学校は唯一、避難できる場所だった。津波は2階まで押し寄せたが、その上まで逃れて助かった人が大勢いた。校舎の被害もさることながら、周囲に住む人がほとんどいなくなって、今は別の小学校の校舎に移転している。

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タクシーはさらに南に下り、仙台に隣接する名取市閖上(ゆりあげ)地区に入る。ここは海に面した町が丸々一つ、失われた場所だ。震災前の写真を見ると、わたしはなんだか、東京の月島あたりの地形を連想する。漁港と水産加工を中心として、家々の軒が連ね、7千人の人口をかかえ、朝市など活気のある生活が営まれていた。いまは、全くの平らな荒れ地だ。家は全て、コンクリートの土台しか残っていない。

閖上に一カ所だけ、小さな丘がある。「日和山」とよばれ、昔は船出前の日和をこの上から見たのだろう。頂上部で、標高7m。たくさんの人が、この山の上に逃れた。しかし津波の高さは10mだった。頂上の木の枝にしがみついた、ほんの数人の方しか生き残らなかったと、「語り部タクシー」の運転手の人はいった。自分がもし、閖上の町にその時いたらどうしていたか。土地はずっと平坦である。数キロ先の、仙台東部道路(これは高架になっている)まで行かないと、避難できそうな高い場所はない。しかし道はもう車で一杯だ。渋滞してまったく動けない。自分一人なら走って逃げもしよう。しかし乳幼児を抱えていたら。車いすの年寄りを抱えていたら。

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これ以上もう、何も言うことはない。仙台の町の中心部に戻ってからも、しばらくは、ぼおっと公園のベンチに座っていた。頭の中には今見てきた記憶が渦巻き、まともな言葉にはならない。今でもそうだ。

先にあげた昼田先生は、仙台市臨王寺の住職らが提唱された「森の防波堤」構想を手伝っておられるという。これは、横浜国大名誉教授で植物生態学者の宮脇昭氏の発案による、内陸堤防型の植林プランである。震災で発生したがれきのうち、有害なものは取りのぞいて、土や砂礫とともにマウンドとし、その上に深根性の照葉樹を複合的に植えていく構想で、民家・学校・田畑などはその内陸側におく。2年前に復興会議が提言した「二線堤」方式にも通じる(内陸堤防や二線堤方式の利点については、南堂久史氏のOpen Blogというサイトで知った )。

だが、この場合、森の防波堤よりも外側は非居住区とせざるをえない。新聞記事によると、沿岸地区にもどってもう一度住みたいと希望している住民は、3割程度らしい。あとの人たちは、逡巡している。それほど恐ろしい体験だったということだろう。わたしはもちろん当事者ではないし、「戻るべきだ」とも「戻るべきではない」とも、言えない。

ただ、わたしがこの記事を書いている横浜の家は、海岸から3km以内で、2階にいても標高10mあるかどうか。そのときが来たら、どこにどう逃げるのか。確とした答えはないのだ。そして、いったん災害に襲われたら、1年たっても、2年たっても、復興どころか荒れ地のままかもしれない。なぜなら、わたしが見てきたあの場所では、まだ何一つ終わっていないのだ。


関連エントリ:
→「今はまだ鎮魂の歌をうたえ
by Tomoichi_Sato | 2013-09-16 14:57 | 考えるヒント | Comments(2)