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カテゴリ:考えるヒント( 87 )

好きな事・上手にできる事・稼げる事・世の役に立つ事

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この図形をいつ、どこで見つけたのか、正直いって思い出せない。ネットで拾ってきたのは確かなのだが、今、検索し直してもオリジナルがどれか見つけられずにいる。でも、著作権不明なまま、掲げておこう。非常に気が利いていて、初めて見たときから面白いと感じたからだ。

言うまでもないが、これは「人生の目的」に関する、一種のベン図である。ベン図は集合の包含関係を示す図だが、日本人は視覚的な表現にたけている人が多いらしく、ほとんど説明せずに理解してくれる。この図は、わたしやあなたが、毎日している(かもしれない)ことを、大きく4つの領域に分けて示している。

図の一番上にある円が示す領域は、”You love it”である。つまり、好きな事、したい事を表す。そして、図の左側にあるのは”You are great at it”、すなわち「上手にできる事」を示す円である。さらに反時計回りに図の下側に目をやると、”You are paid for it”がくる。それは「稼げる事」だ。そして一番右にあるのは、”The world needs it”で、この円だけは説明に、二人称”you”を含まない点に注意してほしい。つまり、他者の視点をここだけに導入しているのだ。これは「世の役に立つ事」を表している。

この図が巧みなのは、隣り合う円同士が重なる領域に、さらに名称を書き入れている事だ。「好きな事」と「上手にできる事」の重なり合う領域、つまり自分が好きで、かつ上手な事は、自分にとって”Passion”(情熱)の源泉である。それはそうだろう。

「上手にできる事」で、かつ「稼げる事」の領域は”Profession”(職業)である。英語のProfessionは、単純な労働ではなく、プロとして認められる高収入な職業を示す。そして、「稼げる事」と「世の役に立つ事」の重なりは、”Vocation”(天職)となる。社会的に価値のある、お仕事である。

そして「世の役に立つ事」であって、かつ自分の「したい事」となる領域は、”Mission”(使命)という訳だ。稼ぎにはつながらないかもしれない。しかし自分がしたくて、世の役に立つ事。Missionは宣教という意味も持つが、欧米のキリスト教社会では、たしかに直接お金にならなくても、こうした活動に力を入れる人は多い。エバンジェリストなんて言葉も、この同類だ。

Passion - Profession - Vocation - Missionと、4つの言葉がいずれも高尚で、かつ脚韻を踏んでいる点にも注目してほしい。ここら辺がこの絵を見て感心したところの一つだ。

そして、全ての円が重なり合う中心の赤いスポット。これが”Purpose”であると、この図は説明する。生きる目的、という訳だ。「生きがい」と訳することも可能だろう。好きで、上手で、稼げて、世の役に立つ。そのような仕事を見つける事ができれば、たしかに大きなやりがいを感じ、熱中できるに違いない。

今年の抱負をどう決めようか。人生の中期的な目標は、どこに置こうか。年末年始の休みの間に、そういったことを考えてみた人は多いだろう。わたしもそうだ。連続した長い休みの日がないと、なかなか、重要だが緊急でない問題を考える時間が取れないものだ。そのときに、なんとなくこの図を思い出して、しばし眺めてみた。

ただし、この図は眺めるだけならば面白いが、いざ「思考の道具」として使おうとすると、あまり便利ではない事に気づく。自分の生きがいを見つけるために、では、具体的にどうしたらいいのか。

自分が今、日常の中で主にやっている事は、当然、「稼げる事」の中に入っているはずだ(利子生活とか年金生活で、一切働く必要のない人はのぞく)。そのうち、「世の役に立」たないようなこと、つまり反社会的な仕事で稼いでいるかというと、まあそんな事はないはずだと思う。だとすると、自分はもう自動的に、「天職」の中にいる事になる。あとはまあ、その中で自分が好きで上手にできる部分を探すだけだ。好きこそ物の上手なれ、だから、上手な事と好きな事は普通重なっている。だったら自分が普段やっている仕事の中で好きな事を選べば、それが「生きがい』になる・・そんな簡単なものだろうか? 何か違う気がする。

だいたい、自分が稼ぐために毎日している仕事の中に、好きでしたい事なんてほとんど無いよ、というのが、しばしばある悩みだろう。では、自分が好きで、したい事とは何なのか。多少の趣味や娯楽ならともかく、仕事になりうるもので、かつ自分がしたい事とは。それがなんだか分からないので、「自分探し」という奇妙な言葉がはやるのだろう。どこかに自分に向いた、しかも面白いことがあるに違いない、今の自分はかりそめの姿だ、今の仕事は腰掛けにすぎない・・と。

だがそもそも、自分のしたい事とは、最初からそんなに明確に自己の中に内在していて、いわば「発見されるのを待っているだけ」、という状況なのだろうか? 周囲の状況に応じて、上手に適応することを求められ続ける日本人にとって、「周囲のみんなが好きだというから」「周りから『それが似合っているね』と言われたから」、いつのまにか、“自分でも好きだと思い込んでいる”ことも結構ありそうだ。自我が強くて頑固な西洋人なら、「好きな事」はかなり明確なのかもしれない。だがわたし達の多くにとって、好きな事の輪郭はもっとぼんやりしているというのが、事実なのではないか。

そう。この図が、生き甲斐を見つけるツールとしては、必ずしも役立たない理由はそこなのだ。ベン図は物事(集合)の境界線を示す。それは1か0かであって、中なら集合に属し、外なら属さない。白黒はっきりした世界だ。だが、わたし達の「好きな事」「上手にできる事」などはもっと、なだらかにグラデーションがついた世界ではないか。ちょうど物理で言う電子雲のようなものだ。だからこの図は、4原子分子の電子雲のように表現されるべきなのだ。ま、それで分かる人が増えるかどうかはともかく・・(^^;)

だが、それでもこの図に表された概念は、チェックリストとしては非常に有用であると、わたしは考える。すなわち、自分が(たとえば)今年の抱負といて取り組もうとしている事、いろいろなアクションについて、
「それは自分が好きな事か?」
「自分が上手にできる事か?」
「稼げる事か?」
「世の役に立つ事か?」
を問うのである。そのとき、1か0か、YesかNoかで判別するのではなく、◎○△×といったグラデーションのレベルで評価してみるのだ。

そして、自分の希望するアクションリストについて、4つの軸から採点してみる。その結果、もし「好きな事」ばかりに◎がつくようなら、ちょっと自分は楽な方向に傾きすぎていないか、と疑ってみる。逆に「好きな事」が少なすぎたら、自分は何か無理をしているかな、と気づくだろう。

同様に、「上手にできる事」の色彩が強すぎるようだと、自分は他の能力を伸ばす事を怠っているのかもしれない。「稼げる事」が足りない場合、どうも趣味や使命感に走りすぎていて、生活を軽んじているかと反省してみるべきかもしれない。「世の役に立つ」ことが少なすぎると、家族や世間の付き合いを避ける傾向があるのかもしれないし、あるいはいささか身勝手になっているのかもしれない、と思ってみる。

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わたし達は、未来の自分のありたい姿と、現在のポジションとのギャップから、いろいろな課題を見つける訳だ。そして、それを埋めるべく、中期的なテーマを設定する。それが「今年の抱負」である。抱負はさらに、具体的なアクション・リストに落とし込む必要がある。ただし、今年の抱負のアクションを、総花的に10も20もリストアップしたら愚かだ。候補の中からある程度、優先順位をつけて選ぶプロセスを、わたし達はしているはずである。

そして、以前、「今年の抱負はこう作ろう」にも書いたように、こうしたアクションには、具体的なゴールのイメージと、その成功・失敗をはかる基準としての目標があった方がいい。そうしたことを、表の形にしてみる事をお勧めする。

こうしたアクションリストを年の初めに作るというのは、ちょっと大げさに言えば、わたし達の生き方において、海図と羅針盤を持つことに相当する。日々の雑事に流されがちな生活の中で、流されない自分の軸を決めるということである。

そして、実は同じような事が、会社における年度方針やアクションプランにも言えるはずなのだ。会社は稼ぐ事、利益を得る事が、もちろん第一目的ではある。しかし、不思議な事に、「お金お金」だけでは、わたし達は十分うまく働けないのだ。そこで、会社における種々のアクションについても、
・上手にできる事か(=自分たちの強みを生かしているか)
・したい事か(=モチベーションを高めるような仕事か)
・世の役に立つ事か(=市場性、コンプライアンス性は満たしているか)
をチェックしてみるといい。

アメリカの経営学者の中には、企業を、財務諸表の上の数値だけで追いかけて管理するのでは不十分なのだ、と気づいた人たちがいる。彼らは、財務に加えて、顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点などを取り入れた企業の通信簿=「バランス・スコアカード」(Balanced Score Card, BSC)を提唱している。これは、よく考えてみると、最初に示した図の4軸とよく似ているではないか。

わたし達は「生きがい」には、なかなか到達しないかもしれない。だが少なくとも、4つの軸のバランスをはかりながら、少しずつでも進んでいくべきなのである。


<関連エントリ>
 →「時間の中に生きる」http://brevis.exblog.jp/11897591/ (2010-01-03)
 →「今年の抱負はこう作ろう」 http://brevis.exblog.jp/21527608/ (2014-01-03)

by Tomoichi_Sato | 2017-01-12 23:04 | 考えるヒント | Comments(0)

ムリ・ムラ・ムダ 〜 どれが一番いけないか?

前回はムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。そこで問題の後半に移ろう。この三つ、どれが一番よくないのか?

そんなもん、甲乙つけがたい。どれもよくない点では同じだから、というのが大方の答えではないか?

それはそれで結構。一つの考え方だからだ。ただ、別の考え方をする人たちもいることを知っておこう。トヨタ自動車である。彼らの考えでは、ムラが一番よくないとされている。なぜか?

トヨタ生産方式では、周知の通り「働きに結びつかない動きをムダと呼ぶ」と定義する。そして徹底したムダ取りを行っていくのだが、このとき、「ムラがあるから、ムリをする。ムリをするから、ムダが出る」という因果関係で、物事を見る、と経験者からきいたことがある。つまり、なぜムダが生じるのか、という問題について、非常にジェネラル(汎用的)なレベルで

「ムダな動き」がある。
→なぜなら「ムリな作業」をしているからだ。
→そして、それはなぜなら「ムラのある指示」を出しているからだ。

という「なぜなぜ分析」がなされている訳だ。これが、トヨタの基本的問題意識なのだ。
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そこで仕事の改善の着眼点としては、まず「ムダ」をあぶり出すために、「見える化」を行う。トヨタにおける見える化というのは、単に何かを可視化することではなく、“問題が生じたときにすぐ検知できるようにする”ことだ。問題とは、標準から著しくはずれた状況をいう。だからこそ有名な「標準なくして改善なし」という標語がでてくるのである。

動いているのに、付加価値のある「働き」になっていないとき(前回の状況1・2の例でいえば、一生懸命仕事しているのに、やり直しが生じて結果に結びつかないとき、あるいは部品を探しに行っているため組立作業が進まないとき)、それがムダとして検知される。ムダが見つかったら、まず、現場でその支援と問題解決をする。

しかし多くの場合、ムダが生じるのは、何かムリをしているためである。たとえば、まだ上流設計が十分固まりきっていないのに下流の製作に着手したとか、組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、必要部品を順次配膳しながら組立てることにしたとかいう、無理である。そうしたことは、レイアウトや作業の流れの改善によって解消する。

だがなぜ、適正に作ったはずのレイアウトや、よかれと思って進めた作業フローが、無理を生み出すようになっているのか? それは、レイアウトの設計思想や作業フローの前提条件から外れた、ムラのある指示が出されているからだ。たとえば、取れるだけ仕事を取りに行き、人も足りないのに短納期で受注した、とか、先行内示よりも2割も多い注文が取引先顧客から来て、受けざるを得なかったため、製造現場が予定していた段取りを変えるような指示を出した、とかいった状況である。これが根本原因になって、ムラ→ムリ→ムダを生み出す、という構図である。状況1・2は結局、次のようになる。

状況1の構造:
 人が足りないのに短納期で受注した(ムラ)
  ↓
 上流設計が固まらないうちに、下流の製作に着手した(ムリ)
  ↓
 条件が変わってやり直しが必要になった(ムダ)

状況2の構造:
 先行内示よりも2割も多い注文が来たので、製造の段取りを変えて指示を出した(ムラ)
  ↓
 組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、配膳しながら順次組み立てた(ムリ)
  ↓
 組立作業中に足りない部品を探しに行った(ムダ)

ちなみに前回の状況3に書いた、非生産的な週次進捗ミーティングの背景に、ムラがあるかどうかは、わからない。しかし、一人ひとり進捗をきけばすむことに、全員を呼んで付き合わせたというムリはあっただろう。進捗報告だけならば、週報あるいは日報にインプットして集計する仕組みをつくっておき、全員が共有すべきタスクや問題だけを、皆を集めて話せば時間のムダは生じないはずだ。

ところで、ムダやムリは現場担当者自身が気づいて自覚できるが、ムラを無くすことは、担当者にはできない。それは指示の問題であり、すなわちマネジメントの仕事である。だからムラが一番よくない、ということになる。

それで、トヨタはムラを無くすために、「平準化」を重視するのである。つまり月間生産計画で月産台数を決めたら、それをまんべんなく、なるべく均等に作っていくようにする。当たり前のことだが、生産という仕事は、同じものを同じペースで繰り返し作っていけば、効率は最大になり、コストは最小になる。ムラが、見えない非効率と高コストを生むのである。

そして、ムラを無くすために、営業側は平準化した販売を心がけて努力する。これがトヨタの思想である。「一番安く作れるように、売ること」が営業部門の仕事なのだ。まあ、もともと自動車は季節性も少なく商品サイクルも長いため、平準化した販売に向いた商品ではある。ただ、彼らはその特性を意識して利用している。かつて'80年代に、それまで製造会社(トヨタ自工)と販売会社(トヨタ自販)に分かれていた2社が合併してトヨタ自動車が生まれるのだが、その動機の一つは、このような平準化した販売と生産の実現にあったと想像される。

もちろん、以上はトヨタの考え方である。別に、あなたはあなたの考え方を持っていい。わたしだって別に、トヨタの思想のセールスマンではない(だから「トヨタの真似だけでは儲からない」という副題を持つ本『“JIT生産”を卒業するための本』の共著者になったりしたのである^^;)。また、あなたの会社の製品は季節性や単発性が強く、平準化した受注・販売など思いもよらないのかもしれない。

だが、そういうあなただって、無理をさせられるのは真っ平だろうし、ムダだって嫌いなはずだ。だとしたら、見通し得ず準備もできないような対応を要求されたり、ルールなく気分次第で決断を下されることは、避ける努力をするべきである。少なくとも、そのことが非効率や高コストや長納期の原因になっていることを、指示を出す側に対して、明示する方が良い。

そして同じ事は、あなたのサプライヤーに対しても、するべきでないことはお分かりだと思う。サプライヤーが予見も準備もできないようなペースで発注や指示を出したら、彼らは必ずムリをして、結果としてムダを含んだコストがかかることになる。その高いコストを、結局はあなたの会社に請求してくるのだ。

とえばサプライヤーが適正に予見できないような再製作やリワークを含む発注をする場合、その予見できない分は、本当は実費精算契約にすべきである。そうすればリワーク分が「見える化」されて、あなたの側の改善のタネを与えてくれるだろう(念のためいっておくと、あなたの会社が海外に進出したら、そんなムリな注文は海外企業はふつう受けない。無理が通るのは、相手がつきあいの長い国内企業の場合だけだ)。あるいは、たとえばあなたの企業が大会社で、発注先の部品サプライヤーが中小だったら、ムリなJIT納品など要求すべきではない。むしろあなたの側で部品在庫をもって急な需要変動に対応し、サプライヤーに対してはより平準化した量を注文するようにした方が良い(後者のアイデアは、畏友・本間峰一氏による)。

ムラのある指示が、一番良くない。予見・準備ができ、実行可能な計画を作って、生産・販売が合意すること。あるいは発注者と受注者が合意すること。そして、それをお互い守ること。これこそが、わたし達を異常なムリ・ムダから守るすべなのだ。


<関連エントリ>
 →「稼働率100%をねらってはいけない」 http://brevis.exblog.jp/22236990/ (2014-07-27)
 →「ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える」 http://brevis.exblog.jp/25009088/ (2016-12-04)


by Tomoichi_Sato | 2016-12-09 07:18 | 考えるヒント | Comments(1)

ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える

「受験勉強で大切なのは、計画性とペースです。ムリ・ムラ・ムダは一番いけません。」中学校3年生の時、担任だったO部先生がわたし達に、そう説いた。『ムリ・ムラ・ムダ』というセットの言葉をはじめてきいたのはその時だった。当時すでに生意気な中学生だったわたしは、“平凡な語呂合わせだな”と、心の中で思った。そしてもちろん、たいして計画性もなく、むら気を持って受験競争を渡ろうとしたので、志望校2校を立て続けに落ち、最後に公立高校しか残っていない状況になってさすがに青ざめた。

長じた後、わたしは何の因果か、計画系のエンジニアになり、あまつさえ他人に「計画的に時間を使いましょう」だとか、「プロジェクト・スケジューリングはこうです」などと伝えて歩く仕事をする立場になった。まったく我ながらいい度胸である。もっとも生まれつき計画性が高く、プランニングのセンスにたけていたら、かえって「計画にはどういう技術が必要か」などと考えることもなかったに違いない。自分が自然にできてしまうことに、理屈をもって深掘りする必要はないからだ。

さて、担任のO部先生は、ムリとムラとムダがそれぞれ、どういう意味でどう違うかについては、説明してくれなかった。自明だから常識で考えろ、ということだったのかもしれない。だが、この三つは、そんなに自明なのだろうか。仕事においても、ムリ・ムラ・ムダがいけないのは周知の事実である。しかし、ちょっと考えてみてほしい。たとえば次のシチュエーションは「ムダ」に相当するのだろうか?

状況1:
「上流側の設計条件がかわってしまったため、途中まで進めていた作業がやり直しを余儀なくされた」

状況2:
「組立て作業の途中段階で部品が足りないことに気づき、資材倉庫まで探しに行って取ってきた」

『ムダ』という言葉を、“必要のない事をすること”という風に、常識的に考えている限り、上記はどちらもムダではないことになる。なぜなら、再設計であれ部品探しであれ、必要な作業であって、それなしには仕事は完遂しないからだ。もし上記の作業に従事する人が、作業日報をつけたならば、どちらも「直接業務時間」だとするだろう。明らかに、研修だとか清掃だとか部会だとかいった「間接業務」ではないからだ。

コストダウン活動などの号令がかかり、「時間のムダ取り」による改善アクションが叫ばれるとき、まず真っ先にやり玉になるのは、上記のような間接業務の時間だったりする。こうした間接業務は、顧客に対して直接、何らかの価値を提供するのに貢献しない。逆に、設計をしたり組立作業をしたりすることは、必須の直接業務である。これが通常の感覚であろう。

しかし間接業務の全てをムダと言えるかというと、少し問題がある。たとえば会計業務は典型的な間接業務だが、じゃあ経理はムダだからやめてしまえ、という議論にはなるまい。まあ経理は法的な義務だから、ムダかどうかの議論にはなじまないとしても、人事だとか広報だとか経営企画だとかいった仕事は、顧客に何かの価値を提供しているのか? もしこれらの仕事が、全体としてムダだと思われていないのだとしたら、「間接業務=ムダ」という図式は当てはまらないことになる。

また、直接業務の中にもムダは潜んでいる。たとえば、

状況3:
「週次のプロジェクト・ミーティングでプロマネが担当者一人ひとりに進捗報告をさせている間、他のメンバーはあくびをかみ殺しながら、スマホでこっそりメールを見たりしている」

というのは、何かムダを感じる人が多いだろう。じゃあ、進捗報告は不要か? と問い詰められると、ノーとは言いにくい。たしかに必要だろう。だが、なんだか生産性が低い(もっとも中には、進捗報告を聞きながら同時にメールを見ているのだから、むしろ生産性は高い、と答える人もいるかもしれないが)。生産性が低いと感じる理由は、<担当者1→プロマネ>の進捗報告を、他の担当者が聞いても、価値のある情報が少ないことがしばしばあるためだ。

仕事における『ムダ』の概念を、直接業務であるかどうかで定義したり、必要性だけで判断するのは、なんだかそぐわない点があることは分かった。では、ムダの判別は何がキーなのか?

最初の状況1の例に戻ってみよう。もし仮に、上流工程がきちんと設計を完成させて、顧客とも十分確認してから下流側に条件を流してくれていれば、このようなやり直し作業は発生しなかったはずだ。たしかにこのやり直し作業自体は、現時点では必要である。だがもう少しさかのぼって、もっと仕事全体の段取りをうまくやっていれば、不要だったはずだ。

状況2の例も、もしも(たとえば)組立作業でちょうど必要になるタイミングで、その部品が上流工程やサプライヤーから組立場所に供給されていたら、わざわざ資材倉庫に取りに行く必要はなかった。たまたま、何らかの理由で、消費するタイミングよりも前に供給されてしまったので、やむなく倉庫に一時的に保管するしかなかったのである。あるいは見方を変えて、かりに倉庫保管はやむを得なかった(たとえばロットサイズの理由などで)としても、組立作業の着手前に、物流係が必要とする部品全てをセット組みして配膳するような作業フローだったら、こうした部品探しの手間は不要だったろう。

つまり、『無駄』とは、仕事の段取りややり方がもっとスムーズだったら、やらずにすむ作業のことを言うのである。このように定義すれば、設計や製造だけでなく、経理や広報などの間接業務にも、いろいろなムダが潜んでいる可能性があることがわかるし、だからといって間接業務は全てやめてしまえ、などという乱暴な話にはならないのである。

ちなみに企業組織における間接業務というのは、自分達の仕組みの維持や能力向上、環境改善のために行う仕事である。人事がなければ給与も払われないし、研修がなければスキルアップも望めない。広報がなければ顧客の認知度にも有能な新人の採用にも差し支えるであろう。マクロな意味では、必要な仕事である。ただ、やり方や段取りがヘタだと、ミクロにはいろいろとムダが生じてしまう。

では、仕事における『無理』とは何か? 従業員を月に100時間も残業させることか? 大型トラックの運転手に、夜間の高速道路を時速110 kmで走らせることか?

YES、と即答したい気持ちはある。だが、ちょっと待ってほしい。人づてに聞いた話だが、かつてSUN Microsystemsの創始者だったビル・ジョイが、Unixワークステーションという新カテゴリーのコンピュータを世に出したときは、仲間3人とで半年間、不眠不休で働いた結果だったと聞いたことがある。定時勤務の観念があったかどうか知らないが、残業換算で100時間はかるく働いていただろう。だが、それを人は非難しただろうか。しなかったとしたら、それは結果が大成功だったためだけではない。そもそも、SUNの創始者達が、自らの意思でやったハードワークだったからだ。

物流業界の大型トラックが、夜間の走行を行うのは、道が一番すいていて、効率がよいからだ。スムーズに流れれば、それだけ運転のストレスも少ないだろう。だから物流トラックが終夜運行をしているのは、海外でもよく見られる光景だ。むろん、夜間労働が人間にとってハードであることは、異論の余地はない。そして遵法速度で運転すべきなのは、もちろんである。

そういう意味で、ムリと「不可能」とは別のことである。可能であり、ギリギリできてしまうが、長続きできない。これがムリである。

わたしの考えでは、『無理』とは、人の能力・性質・意思に反した働かせ方をしたり、道具の設計目的・使用限界を無視した使い方を繰り返すことである。過重労働の意思がない従業員を強いて働かせたり、設計上の最高速度ギリギリで車を走らせる(あるいはローギアで高速に走らせる)のは、ムリである。ムリはもちろん、しない方が良い。かりに当人の意思による無理であっても、それは一過性のことにすべきで、繰り返すのはよくない。ムリを続けると、きっとシステムが歪んでくる。機械ならば予期せぬ故障、人ならば病気、組織ならば能力と士気の低下をもたらすだろう。

では、仕事におけるムラとな何なのか。先月100個だった製品を、今月120個作るのは、ムラといえるのだろうか?

これもわたしの考えを先にいってしまうと、ムラとは「見通し得ず準備もできないようなペース・種類・場所での対応を要求したり、ルールなく気分次第で決断を下すこと」だと理解している。もし商品が季節品で、クリスマスに向けて需要が高まるものなら、10月に100個だったものが11月に120個でも、予期できるだろう。そして準備もできたに違いない。しかし、そもそも製造機械の上限があって、増産に週単位の準備がいるときに、急に「今月は120個よろしく」というのだとしたら、それはムラである。単に比率の問題ではないのだ。また、ルールなく突然、「あの外注先は気に入らないから今度の仕事は内製でいけよ」などと決めるのが、むら気というものだ。

さて。ムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。では、この三つのうち、どれが一番よくないのか? いささか長くなってきたので、この問題は次回に考えよう。






by Tomoichi_Sato | 2016-12-04 23:25 | 考えるヒント | Comments(2)

学ぶ人になりたいか、真似る人になりたいか

先週の10月21日(金)に、わたしが主査を務めるプロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会(長いから以後はP&PA研究部会と略そう)で、「プロジェクト・マネジメント教育への新しいアプローチ」と題する報告を行った。P&PA研究部会では数ヶ月前から有志6名が集まって、(仮称)PM教育分科会をつくり、ディスカッションしてきた。その中間発表と、会員同士の意見交換が当日の主な内容だった。

「新しいアプローチ」とはどういう意味か? それは「教えない」ことだ。いや、より正確には「教えすぎない」ことというべきか。わたし達は、教育とは「正解の知識」を伝授することではない 、と考える。マネジメントという行為は、ほとんどの場合、正解のない問いに答えて決断していかなければならない。なぜ正解がないかというと、どのような意思決定であれ、それがプロジェクトにもたらす結果には不確実性がつきまとうこと、また複数の価値基準がしばしば錯綜してトレードオフが生じるからだ。

である以上、「正解となる知識を暗記してすばやく問いに答える」風の受験勉強では、役に立たない。ただ、わたし達がくぐり抜けてきた受験競争では、ほぼ全ての問いに『正解』があり、それにどれだけ近づくかで勝敗が決まってきた。この教育のやり方は、行きすぎるとさまざまな弊害を生む。わたしは大学で定期的に教えているが、よくそうした「教育の害」を実感する。

現代の学生達にとって、学ぶことは、しばしば「目の前に出される課題をなんとかやっつける」ことと同義語になっている。目前の課題を(教科書やネットや友達の答えを見て)なんとか真似てしのぐと、もう忘れてしまう。わたしは授業の初めに、前の週の復習をするのだが、少なからぬ学生の頭の中に、前回の記憶が残っていないので驚かされる。グループ演習で手を動かして理解させたはずの事柄さえ、印象は残っても、知識はきれいさっぱり抜けているのだ。見事なほどの記憶の断捨離である。

そういうことを何年か繰り返したので、わたしは最近では極力、教える知識の量を減らすことにした。WBSとかPERT/CPMとかEVMSとか、さすがにプロジェクト・マネジメントの授業なのだから、話さない訳にはいかない。しかし知識伝達の量はなるべく少なくして、授業の中で考える課題を出すことに腐心している。知り得た知識を自分で吟味し納得しないうちは、身につかないからだ。また毎回、「今週のGood Question賞」を発表して、なるべく良い質問を教師に出すことを奨励するようにした。

それにしても教育が知識の伝授でないとしたら、いったい何なのか。教育の目的とは、「自分の中の不足を知り、自分で『学ぶ力』を身につける」ことである 、というのが、現時点でのわたし達の共通認識だ。教えること(Push型)から、学ぶ力をつける(Pull型)に転換しなければ、少なくともPM教育は機能しないだろう。その観点から、

「教育とは、成長を支援するプログラムのマネジメントである」

と定義し、PM教育のシステム作りとは、PMに興味を持つ者の成長支援プログラムの『プログラム・マネジメント』として構想する。それがわたし達のアプローチである。

分科会のメンバーは現時点で6名、うち1名が大学教員で、残る5名が実務家だ。業種もIT、通信、建設、エンジと多岐にわたる。この6人で、本当に役に立つPM教育のためのシステム(仕組み)を構想し、モデル研修の内容をデザインしている。

後者については手始めに、初学者向けの二日間の集合研修カリキュラムを検討中だ。座学は半日で、残る1日半は「ミッション・インポッシブル」と題するグループ演習になる。詳細はまだ開発中だから省くが、対象者は、ようやく固有技術について目鼻がついてきて、これから人を率いてプロジェクトを進める立場につくような、若手中堅クラスである。業種分野は広く構えて、なるべく多くの専門に共通するPM技術を学んでもらう場としたい。

それにしても、わたし達はセミナー屋でもないのになぜ、こんなことを考えるようになったのか。それはもちろん、皆が職場でプロマネの教育養成に悩んでいるからだ。現代の企業は、教育ということに対する取組みが、ひどくやせ細ってしまった。「会社は教育機関ではない」という言葉も聞かれる。また「業務多忙なときに、教育に割いている時間はない」という事もあるだろう(不況なのに多忙なのはたぶん、人減らしが進んだからである)。そして「即戦力」を求める風潮も強い。

まあ、昔の日本企業はもっと社内教育が素晴らしかったのかというと、そこはまた別の事情もあった。昭和の高度成長時代には、先進技術は欧米から来るものであったし、皆が「先進国」の真似をして、追いつけ追い越せ、でなんとか成長した時代であった。その時代、欧米がまさに日本にとって「正解」であった。だから正解を知って真似ることが、大人から子どもまで国是だったのである。

そのような時代はおよそ20年前、バブル崩壊と共に終わった。欧米を追い抜いて世界一、と鼻高々だったその時、わたし達の前にはもはや、真似をすべき正解は消え失せていた。自分の頭で考えなければならない状況がやってきたのだ。その壁をうまく乗りこえられないまま、真似るべきロールモデル探しで、ずっと企業も役所もメディアも、時間を空費してきたのではないか。

わたしはここで、「学ぶ」ことと「真似る」こととを、区別して使っている。真似ることは、乳児の時からできる。脳にはミラー・ニューロンというものがあって、他者の動きをそのまま真似ることができる仕組みがファームウェアとしてビルトインされているのだ。真似ることで、赤ちゃんは運動能力を身につけ、育っていく。ただ、そこには本能はあれども、目的意識はない。

学ぶことや習うことには、目的意識がある。そして学びには、必ず言語による伝達が伴う(真似には言語は必須ではない)。
目的意識 + 基本的な概念理解(言語化)+ 繰返し練習
これが「学びの基本構造」だ。

学びは、自分の中の不足や未熟を自覚することで起動される。ただ、ここで気をつけなければいけないのは、「学ぶ」つもりで、無意識に「真似る」体勢になることだ。

たとえば、よく他の業界の方から「エンジニアリング会社ではどうPMを教育されているのですか?」とたずねられることがある。PMが確立された業種というイメージが強いからだろう。エンジ会社だってプロマネ育成に悩んでいる点ではかわりがないのだが、まあ、自分の勤務先を例に挙げて、まず、我々のところでは「プロジェクト・エンジニア」という、いわばプロマネの見習いの職種があります、その経験を何年か重ねて、はじめてプロマネに抜擢される訳ですが、もともとプロマネ志向を持って入社する人も多いから、若い段階からそうした職種に配属する訳です・・というようなお話をする。

するときいている人の3人に2人はため息をついて、「ウチじゃプロマネになりたいと思って就職してくる人間なんて皆無です」といわれる。ベースが違いすぎて参考にならない、という訳だ。そこで問いをやめてしまう。あるいは、問いをかえて、PM用のソフトウェアは何をお使いですか、といった質問になり、この業界ではデフォルトで世界的にPrimaveraですよ、英語版ですが、とお答えするとまた、問答は行き止まりになる。簡単に真似られる点が見つからないためらしい。

だが、学びたかったらそこから先が大切なのだ。たとえば、「じゃあ佐藤さんもプロマネになりたくて今の会社に就職されたのですか?」ときいてくる人は滅多にいない。わたしも設計部門に最初入ったのだし、プロマネ志向でない新入社員はたぶん半数以上だろう。そういう人たちを多数抱えてプロジェクトを回す仕組みはどうなっているのか、プロジェクトの効率性やモチベーションを維持するにはどう工夫しているのか、PMO組織はあるのか。そういう点こそ、探るべきだろう。そして、自社とどこが共通してどこが違うのか、何をすべきか考える。

つまり学ぶということには、「共通性を洞察し、言語化する力」が必須なのだ。「学ぶ力」の基礎は抽象化能力だといってもいい。ここが弱いと、学びが真似に陥りやすい。

自分の勤務先の話だと面はゆいから、別の例を挙げようか。たとえばあなたが製造部の人だとする(製造業に興味のない読者は、続く数段落は飛ばしてもいいが)。そしてトヨタかその直系の工場を見学に行ったとする。整理整頓の行き届いた工場、数々のカイゼンの工夫、極小化された仕掛在庫、そして噂に聞くかんばんや自働化やアンドン・・かなわないな、ウチとレベルが違うや、と思う。説明員の人は、壁に張り出された顔写真付き技能マップの前で、トヨタ生産方式の話をする。そして「仕事=作業+改善」という概念で、改善をしないと一人前の仕事をしていることにならないから、皆が職場の問題の見える化を進めて、解決できるようになるため「物づくりより人づくり」に取り組んでいるのです、等と語るだろう。

あまりにもレベルが違うから、一気に自社をその状態にもっていくことは難しい。その時、真似る人は、じゃあどうしようかと考える。そして、カンバン方式だとか、定位置停止だとか、あるいは壁への掲示物だとか、取り入れやすそうな技を真似ようと考えるだろう。

では、学ぶ人はどう考えるか。まず、トヨタは生産計画にもとづいて大枠を決め、平準化で日々の指示を出し、かんばんや自働化を使って日々の細かな変動に対応しているらしいと考える。つまり大きな構造をまず、見るのである。なぜ、ウチと違って、トヨタでは生産計画が成り立ちうるのか。それは自動車という季節性の小さい商品の特性、そして輸出を含む販売力により、出荷量が計画しやすいからだろう。おまけに、日単位の指示についてきてくれるサプライヤー群がいる。だからこそ、在庫を絞って問題を表面化するという曲芸みたいな改善方法が可能になる。

そして、それを支えるのは「仕事=作業+改善」の概念を人々に徹底化したことだと気づく。一方、ウチはどうか。個別性の強い受注生産だ。出荷量は月単位では読みにくい。おまけに、現場の人たちに問題解決をしろといっても、それだけの素地を訓練してこなかった。問題が起きると怒 られた。だから問題が表面化しないよう、むしろ沢山の在庫を抱えることを推奨してきたようなものだ・・。そういう所で無理にカンバン方式を導入しても、現場は回らなくなる。じゃあせめて、組立工程の能力と日々の指示をバランスするところからやってみようか。「ミズスマシ」までは無理としても、まず部品の配膳作業だけでも分業化して、生産の停滞が材料によるものか組立工の技量によるのかくらいは、分かるようにしてみよう・・

学ぶ人は全体の構造を見る。そして自分との違いを考えた上で、取り組むヒントを探す。一方、真似る人は、すぐ取り入れやすいものを探そうとする。つまり、学ぶ人は大技を学ぶ。そして、自分ならどうするかを考える。真似る人は、小技しか真似られないのだ。少なくとも、マネジメントの技術については、そうだ。

お分かりだろうか? マネジメントの分野で、学ぶ力を得るためには、「学び方を学ぶ」必要があるのだ。学び方は一種のソフト・スキルで、練習が必要である。集まって演習できる場が望ましい。だから(話を元に戻すと)わたし達はPM教育の場とカリキュラムみたいなものを構想しようと考えているのだ。教育の目的が、「自分で『学ぶ力』を身につけること」、とはそういう意味である。

そして、わたし達がこんな取組みをはじめた理由は、そもそも企業における教育がやせ細ってしまっているためなのだ。だとしたら、技術者の側が、自分の身を守るために手を結び、互いの学びの場を作っていくべきだろう と、わたしは考える。ベテラン技術者も、そうした動きを側面支援するべきである。

わたし達の今回のチャレンジが、どこまで進めるかは分からない。だが心意気としては、会社にも頼らない。国にも頼らない。そして自分で自立できる能力を作る。それがわたし達に必要なことなのではないだろうか?


<関連エントリ>
 →「『わかる』ことと『知る』こと」 (2010-02-24)http://brevis.exblog.jp/12208254/
 →「プロジェクト・マネジメントの教育について」 (2014-01-27)http://brevis.exblog.jp/21619967/
<参考>
 「“JIT生産”を卒業するための本―トヨタの真似だけでは儲からない」 中小企業診断協会生産革新フォーラム・著


by Tomoichi_Sato | 2016-10-30 12:36 | 考えるヒント | Comments(1)

国際人として最低でも守るべきたった一つのルール ~ 「ありがとう」と家族に対してでも言う

じつをいうと、「国際人」だとか「国際的」だとかいう言葉が嫌いである。
(えーと、そういえばネットでは、何かを「嫌いだ」というセンテンスで文章を書き始めない方がいい、と聴いたことがある。好き嫌いは人それぞれだし、ネガティブな気持ちを発信すると、他人のネガティブな気分を引きつけるかららしい)
それでは、言い直そう。わたしは「国際人」とか「国際的」といった言葉が苦手である。・・ま、これで何かが変わったかどうかは不明だが。

でも、国際人とは一体、何を指すのか。わたしはそこが今ひとつ、分からない。ちなみに、国際人という言葉は、英語で何というのだろうか。International person? Cosmopolitan? どちらも、なんだか日本語で言う「国際人」とはフィットしないような気がする。たぶん、そういう概念は存在しないのだ。無論、”international"という形容詞はもちろんあって、意味も確立している。ただし人に対しては、あまり使わない。活動だとか、カンファレンスだとか、組織に対して形容することが多いと思う。最近は国際人と呼ぶかわりに「グローバル人材」という言葉が大はやりだが、こちらもGlobal human resourceでは何のことだか分からない。

さよう、その概念や実態はよく分からないのだが、そういうことを言いたくなる気持ちの方は、少しだけ理解できる。なぜなら、わたし達は、他の国と、少なくとも仕事の面では、随分違うからだ。

ご存じの通り、ちょうど1年前、わたしは「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」という著書を世に問うた。とくに海外プロジェクトの進め方について、勘所をまとめた本だ。幸い洛陽の紙価を高め・・とまでは至っていないが(笑)、それなりの評価はいただいている。でも、ときおり、疑問に思われる方もおられるようだ。なぜ、「海外プロジェクト」とひとくくりにできるのか、と。

海外といっても、アメリカ、中国、ベトナム、タイ、インド、英国、ドイツ・・とばらばらではないか。皆、それぞれに文化が違う。個性も癖もある。それを一括りに「海外」と言ってしまっていいのか? 同じ処方箋を書けるのか?−−そういう、もっともな疑問である。

だが、海外プロジェクトについては、ほぼ同じ処方箋で、どこでも適用できるのである。世界各国それぞれに個性的なのは事実だが、日本のビジネス文化だけは、他と飛び抜けて違うからだ。これは数字で証明できないが、長年それなりにいろいろな国で働いてきた、わたしの実感である。

ちなみにホフステッドという研究者は、多国籍企業IBMの従業員の分析を通じて、国民性が4つの次元からなることを明らかにした。その研究結果を見る限り、日本は他から飛び抜けて離れてはいないじゃないか、という反論が聞こえそうだ。

それは承知している。それでも、わたし達は違うのだ。どこが? それは、自他の関係性と、言葉に対する態度において、である。その結果として、契約取引に関する考え方が、ほとんど180度くらい違う。だからビジネス上では危ないのだ。比較文化論的には、全体の違いはたかがしれているだろう。だがビジネス文化だけを取り上げると、大きく異なる。

もう一つ。個人の対等性の概念が薄いのも、わたし達の文化の特徴である。この点は東アジアにある程度共通しているかもしれないが、個人間の鋭い対立を好まない特性とあいまっている点が違っている。その結果、わたし達の社会では、「場」とかグループ・団体への帰属と、人間の上下関係が、行動や判断基準の中心になる。これも自他の関係性のあり方から来る、一つの帰結である。そして、これはマネジメントのあり方に大きく影響している。「日本的経営」といわれる、タテ社会とコンセンサス(責任不在)によるマネジメント・スタイルである。だれもこれを、「アジア的経営」と一般化して呼びはしない。日本と他のアジア諸国とはかなり違っていることを、多くの欧米人は気づいているからだ。

という訳で先日も、サプライチェーン戦略研究部会で海外プロジェクトの進め方について講演した際、野村総研の方から「日本だけ、なぜかくもマネジメントのあり方が違うのでしょうか?」とご質問をいただいた。だが、それは質問する方が逆です、とわたしはお答えした。そういう質問はむしろ、エンジニアリング会社の社員が、シンクタンクのコンサルタントに聴くべき問いでしょう、と。わたしこそ理由を知りたいです、と。そう。この違いに気づいている人は、気がついているのだ。

さらに、他国をよく知らず、自国の枠内でのみ考えたがる点も特徴だ、という声もあろう。だから国際化が課題なのだ、と。だが、これは大きな人口と文化を抱えた大国なら、共通する特徴だとわたしは考える。アメリカだって、中国だって、大衆レベルでは似たようなものなのだ。だから日本のみの問題ではない。

だがそれにしても、もしあなたが国際人だとかグローバル人材にあこがれるのだとしたら、どうしたらいいのか? わたしは「国際人」や「グローバル人材」が何かはよく理解できないのだが、とにかく、日本の国境を一歩でも超えて活躍したいのなら、英語教育家の故・中津燎子氏が、かつて海外に行こうとする若い女性に与えたアドバイスを紹介したい。中津氏は、その娘さんにおっしゃったのだ。

「もし、朝食の席であなたのお母さんが、お茶か何かを食卓にいるあなたに出してくれたら、必ず『ありがとう』と口に出して言うようにしなさい」、と。

それはひどく単純な一言(行動)だ。だが、それを言うことで、母親は自分とは別の人間であることをあらわしている。感謝の言葉は、対等な人同士の時に使うものだ。それは、相手に対するディセンシー(謙虚さ)を示す。他人に何かをしてもらって、それで無言のままだったら、その行為は「あたりまえ」だ、という態度を意味している。いや、もしかしたら、内心ではあなたも感謝しているかもしれない。が、それは相手に確実には伝わらない(ついでに余計な話だが、「ねえ、わたしのこと愛してる?」と『言語による確実な伝達』を要求する^^;のは、ふつう女性の側だ、ということになっている)。だから、言葉にして伝えることを、自分のルールとする。 それを、習慣として自分の中に刻み込むのである。

「他人に何かをしてもらって」と今、書いたが、母親は他人だろうか? 他人とは、家族の外、身内の外、ムラの外をいうのだ、というのがわたし達の文化的習慣である。それに、そんなのいちいち水くさいじゃないか。

だが、たとえ親子で、上下関係があっても、なおかつ根本では対等な、別個の人格である。だから感謝の気持ちは、言語化して確実に伝えなければ伝わらない−−こうした論理で、世界の8割以上の国の文化はできあがっている。

それと同じように、取引において、売り手と買い手は、根本では対等である。そういう論理が、多くの国ではデフォルトである。現実には、立場の強弱もあるし、多くの場合、買い手の方が強い。だが、買い手が王様のようにワガママで、売り手は奴隷のようにふるまうのは「フェアでない」(公正の原理に反する)、というのが西洋社会の通念である。だから、両者の権利と義務をはかりの左右において、公平を期す。それを言語化した「契約」をたてよう、ということになるのだ。

そんな「契約」を、なんと神様が人間との間においたりする。でもって、人間がさらに神様とネゴシエーションしようとしたりする。こういう神話的な物語を小さいときから学んで育ってきたのが、世界の多数派なのだ。まあ、アジアの東側やアフリカのサハラ以南では、そんな神話はあまり見当たらないが、しかし、そのかわりマネジメント層はたいてい欧米で教育を受けてきた人たちであることを忘れてはならない。だから結局、世界のほとんどは契約社会である、という風にできている。

じゃあ、家族に「ありがとう」と言ったら、それですぐ国際人になれるのか? もちろん違う。ただ英語を喋る前に、英語の根底にあるOSを理解しようと言っているのだ。私は礼儀やマナーの話をしているのではない。そうした振る舞いの根底にある思考や行動の習慣OS)のことを言っている。何も欧米人が家庭でしている事を、そのまま真似ろと言っているのでもない。尊大で、家族に礼も言わない人間だって、きっと中国やアメリカにはごろごろいるだろう。そうではなくて、普段家族に礼を言う習慣がない私たちが、自覚してそれを習慣つけるといいと言ってるだけだ。そしてそれは、手始めに過ぎない。

上に述べた拙著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」では、わたし達が海外でビジネスに取り組む際、身につけるべきOSの要素として、
S+3K
をとりあげた。一番中心にあるのは、
・システム的な見方をする(Systems approach)
ことである。それにつづいて身につけるべき習慣は、
・言葉を大切にする(言語化)
・契約と責任を重んじる(契約責任制)
・かならず計画をたてる(計画重視)
である。システム・言葉・契約・計画の頭文字をとって、『S+3K』とよんだのである。この最初の2つのKが、今回の話に関係している。

わたしは、エンジニアにとって今後必要となるPM教育やリーダー教育に、こうしたS+3Kの要素をぜひ入れなければいけない、と考えている。誰もが遠くない将来、海外と何かの形で関わる可能性が大だからだ。そのときトラブルになってから、
「え? 目下のベンダーのくせに何で対等に要求してくるんだよ?」
「契約書に書いてあるって、あんなの形だけのセレモニーだったんじゃないの?」
などと、慌てふためいても遅いのだ。

だから、別段、国際人向けの教育コースなどをとらない人にも、申し上げたいのだ。小さな習慣から、自分の中に刻み込んでおいた方が良い。母親がお茶をくんでくれたら、配偶者がコップをとってくれたら、「ありがとう」と声を出して言おう。それで損することは、何もない。


(追記:中津燎子氏が上記のアドバイスをされた話は、「再びなんで英語やるの? (文春文庫 (195‐2))」の中だったように記憶しているのだが、今、書棚にその本がないため確認できない。もしかすると「未来塾って、何?―異文化チャレンジと発音」だった可能性もある)

by Tomoichi_Sato | 2016-09-11 22:15 | 考えるヒント | Comments(0)

技術リーダーの出現をはばむもの

「最近の日本の経済はどうですか?」——外国人と食事をしていると、よくたずねられる話題だ。先週、北米の関連会社から来たエンジニアと食事していた時も質問された。またその前の週にも、フランスで開かれたPM関係の国際シンポジウムの夕食会で、隣り合わせた顔見知りに、まったく同じ事をきかれた。彼は米国のビジネススクールの学部長だった。反対側に座ったインド人(彼は豪州の大学教授だったが)も、興味深そうに聞き耳を立てる。米国もオーストラリアも日本から見れば隣国のようなものだが、こちらの発信力が低いせいか、日本の状況はさっぱり分からないらしい。わたしは答えた。

--良くないよ。GDPは成長どころか、じり貧だ。株価は一応保っているけど、最近の報道によると、日銀と政府系の年金基金はなんと、上場企業全体の7%もの株式を買って持っているらしい。つまり買い支えているわけだ。

「それはあまり健全じゃないね。でも、かつて日本はあれほど元気だったのに、なぜこんなに長い間、不調なんだ?」

その問いに答えるのは、簡単ではない。経済学者が10人いたら、たぶん10通りの説明があるのだろう。銀行の不良債権のせいだ、というのがかつての説明だった。だがそれが収まっても治らない。少し前には、通貨供給量の不足だ、といって金利をマイナスにまで下げた。法人税率が高すぎるのだ、という解説も聞いた。別の日に、ホテルの部屋で寝転がってCNNを見ていたら、「アベノミクスはなぜ失敗するのか」という題名の解説で、米国のエコノミストが「生産人口の減少が原因だ」と主張していた。だがそれなら、似たような状況にあるはずの欧州、たとえばルクセンブルクは、一人あたりGDPをなぜあれほど高く維持できているのか?

--経済の専門家じゃないから真の原因はよく分からないけど(と、わたしは答えた)、ビジネスの世界にいる人間として、一つだけ言えることがある。

「なんだい?」

——日本企業の収益力が全体に落ちていることだ。日本企業はわりと技術志向で、製造業を中心に成功してきた。そして欧米の背中を見て、追いつけ追い越せ(catch up)で走ってきた。だが、日本が世界のほぼトップに立ったとき、「その先」をリードする新しい技術が、あまり生まれなかったように思う。優れた製品も、少しはあった。だけど多くは不況とコストダウン競争の中で擦り切れていったんじゃないかな。

「だが、どうして新しい技術を創れなかったんだ?」

その問いに対する答えは、わたしにはなかった。帰り道にあれこれ考えてみる。ベンチャーキャピタルの不在のためか、大企業の技術的保守体質のせいか。それもあるだろう。ただ、前回書いた英国のブルーネルのように、前人未踏の大きな構想を抱き、次々に実現していくタイプの技術リーダーが、'90年代以降のわたし達の社会には必要だったのではなかったか。もちろん小山稔氏(青色ダイオード)とか内山田竹志氏(ハイブリッド自動車)とか、幾人かはわたしも思いつく。だが、あまり多く育たなかったことは、たしかなようだ。そもそもそういう職種が必要なことさえ、あまり意識されていないのではないか。

ものづくりの世界では、エンジニアと職人と、どちらもいないと物ができない。ただ、技術リーダーがいないと、収益力のある、すぐれた製品やビジネスは生まれにくいのだ。もし技術リーダーが生まれにくいのだとしたら、エンジニアのマインドセットには、なにか欠けているに違いない。あるいは、企業の側のパーセプションに歪みがあるのか。

日本には大勢の技術者がいる。わたしもまあ、そのはしくれだ。では、技術者が目指すべきキャリアパス上の目標は、どのような姿であるべきか。その問題についてわたしはこのところ、ずっと考えている。「職人的であること、エンジニアであること」http://brevis.exblog.jp/24607574/ の中で、わたしは、[エンジニア] - [職人] - [技術リーダー]の三角形の領域を考えた。エンジニアのキャリアパスは、ある意味、この領域上にある。

三角形の領域の中で、右下から出発するエンジニアが、上の技術リーダーに向かわないで、多くの人がじつは左下の職人的なあり方に向かって、進んでしまう。ここで「職人的」というのは、別に肉体労働ではなくて、知的作業でも、職人的な働き方を好む人たちという意味だ。それは一体なぜなのか。なぜ、上辺に流れないのか。それを考える必要がある。

ただしその場合、この三角形の軸が一体何を意味しているのかを理解しなくてはならない。右の斜辺と、左下の職人の頂点を対比する軸はなにかというと、おそらくそれは、

 <個人> ←→ <組織>

だろう。右辺にいる人たちは、組織の中で働いて、組織というものの力をいわば信じている。しかし職人は基本的に、個人主義だ。日本の職人が個人主義というと、なんだか妙に聞こえるかもしれない。だが、あるいは過去20年間の不況と終身雇用制の崩壊を考えると、多くの技術者たちは、いつ自分が組織から切られても外で生きていけるように、自分個人の職能・商品価値を高める方向に動いた結果なのかもしれない。

では、左斜辺と右下の技術者を対比する軸は何か。意外かもしれないが、これは

 <感覚> ←→ <理知>

の軸だろう。つまり、技術リーダーとか職人的な人たちは、どちらかというと自分たちの感性を中心に物を考える傾向が強い。ところが技術屋とは、経験や勘もあるけれど、あくまでも科学原理にしたがって動くことを旨としている。だからこそ、技術とは移転可能だし、座学で教育可能なのだ。

ところで底辺と、上の頂点を対比する軸は何なのか? わたしはしばらく考えあぐねた。

こういう問題を考えるときには、三つの頂点の裏を考えてみると、ヒントが得られることが多い。裏とはつまり、三つの職種(技術者・職人・技術リーダー)が「行きすぎた形」「そこまで行ってはいけない形」を考えてみることである。

職人の「行きすぎた形」とは何か。それは『アーティスト(芸術家)』だろうと、わたしは思った。では技術者の「行きすぎた形」とは何か。それは『科学者』ではないか。アーティストと科学者は、それぞれこういう特性を持っている:

「アーティスト」
・創造性とひらめきを大切にする
・教育制度は信じない。むしろ敵だと思う
・自分が好きな仕事だけがしたい(夢に生き貧困に死す)

「科学者」
・普遍性と厳密性を大切にする
・多くは大学人で、教育制度の頂点にいる
・社会から身分と自由と研究費を与えられるべきだと願っている

では、上の頂点にある技術リーダーの裏の姿、こうあってはいけない姿とは何なのか? 考えてみるとどうやらそれは、『出世主義者』ということになりそうだと気がついた。出世主義者とは、こういう特性を持っている人たちだ:

「出世主義者」
・権力と統制を大切にする
・自分以外の人間は道具だ(さもなければ敵だ)と思っている
・大きな仕事を人にさせたい

現実的であるべき技術者や職人が、アーティストや科学者を気取ってもらっては、いささかこまる。だがアーティストも科学者も、世の中全体にはもちろん必要である。それだけの価値があるから、わたし達の社会は彼らを支えている訳だ。では、出世主義者は世の中に必要なのか? わたしはそう思いにくいが、ただ世の中に一定数いるからには、何らかの社会的必要があって存在しているのだろう、とも想像する。
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しかし、技術者が三角形の領域の上に向かって動こうとすると、どうもそこで出世主義者の像とかぶるような姿が感じられるのではないか。それが、技術リーダーの成長を難しくしているのではないか。

さて、三角形の底辺と、上の頂点を対比する軸は何だろうか。リーダーシップの軸? 地位の軸?
 
それは専門性(スペシャリスト)の軸ではないか、というのがわたしの仮説である。あるいは逆に、悪名高き<ジェネラリスト>の軸だといってもいいかもしれない。「自分の専門性を失うことに対する不安」が、おそらく技術者が上に向かう流れを阻害してるのに違いない。しかしわたしは、これを上向きに「インテグレーション能力の軸」と呼ぶことを提案する。ジェネラリストではなく、インテグレーション能力を持った人。事実、ブルーネルとはそういう能力を持つ人ではなかったか。

<インテグレーション能力>
<専門能力>

こう呼べば、技術リーダーも育成可能だとわかるし、自分で成長を目指すこともできる。なお、「リーダーシップの軸」と呼びたいと思う人もいるかもしれない。リーダーシップという言葉は受けが良く、人気が高いが、その内容については社会的・学問的合意がじつは存在しないので、わたしはあまり定義には使わないことにしている。あるいは「管理技術の軸」と呼びたい気持ちも多少あるが、この言い方だけでは誤解を招きかねないので、ここでは避けておこう。

わたし達の社会に必要なのは、このインテグレーション能力を明確にし、技術リーダーの職種を確立することだと思われる。

その職種名を何と呼ぶのか? 私だったら迷いなく、「プログラム・マネージャー」と呼ぶだろう。だが残念ながらこの呼び方は、日本ではほとんど普及していないし、理解もされないに違いない。じつは欧米には、別の候補の名前もあるのだが、長くなるのでここでは省略しておく。

この技術リーダー職種には、価値があるのだろうか? もちろんある。ただし、その価値は労働市場ですぐ取引出来るような価値ではない。だって個人個人で、その仕事の内容は大きく違うのだから。でも、あなたが19世紀英国の経営者だったら、ブルーネルをいくらで雇っただろうか? 相当な価値であることは間違いない。また、仮に、今のあなたの職場に、ブルーネルのような能力のある人がいたとしよう。彼を引き留めるために、あなたの会社はどうするだろうか? 彼のような人を育てるために、あなたの会社はどれだけの労力と投資を支払うだろう?

私たちの住む島国には、人しか資源はないと、小さい時からきかされてきた。だとしたら、わたし達はそういう人材を育てるために、どんな手を打つべきなのか、そろそろ考えるべき時なのではないか。


<関連エントリ>
 →「職人的であること、エンジニアであること」http://brevis.exblog.jp/24607574/ (2016-08-21)
 →「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」http://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28)


by Tomoichi_Sato | 2016-09-05 22:43 | 考えるヒント | Comments(4)

職人的であること、エンジニアであること

ちょっと贅沢をして家族3人でお寿司を食べに行った。ネタの新鮮さでは界隈で一番という店である。期待通りの、いや期待を超えた美味だったし、いつもは寡黙なメインの寿司職人さんが、珍しくいろいろ話をしてくれた。包丁の入れ方だけでイカはどれほど旨みが変わるか、雲丹は塩水保存とミョウバンを使ったものでは口どけが全く異なること、などなど。サンプルと実演を混ぜて教えてくれた。寿司職人の勤務時間や修業時代についても、語ってくれた。お盆の連休前で、リラックスしていたのかもしれない。

帰り道に、息子が感心したようにつぶやいた。「寿司職人て、なるのはやっぱり大変なんだね。時間も仕事もきつそうだし。でも、それだけ修行したら、あの人みたいな腕になるんだ。」就活が一段落したばかりの息子は、たぶん来年からの自分自身も重ね合わせて、感じ入ったらしい。「それに、あのイカの味の差! すごい技術だよね。」

——技術じゃなくて、技能だな。
わたしは、軽く訂正した。

「技術と技能って、何か違うの?」

——違うよ。技能ってのは、あの板さんみたいに、その人の目や腕にいわば染み込んだ能力のことをいう。これは人についていて、他人にすぐには伝えられない。『属人的』な能力といえるだろう。

「ふうん。」

——ところが、技術というのは違う。技術ってのは、基本的に人に移転可能なんだ。技術の基礎は科学法則とか、経験知だけれど、それは言葉や数式や道具にして、人に伝えることができる。ここが大きな違いだ。

「そうなんだ。」

息子は再生可能エネルギーに関係した仕事を志望している。一応理系の学部を出て修士課程で学んでいるが、工学部ではないのでエンジニアの教育は受けていない。かといって営業とか経理など、事務屋になる訳でもない。では、どういう職種になるのか。どういう風に、腕を磨くべきなのか。そこが関心事なのだろう。そこで、わたしは続けた(誰かにものをたずねられると、いい気になってしゃべり続けるのが、わたしのいつもの癖である^^;)

——職人技と技術の違いを分かっていない人は、世の中に珍しくない。もちろん、どちらも大切なものだ。だけど、自分たちの会社の強みが、どっちで成り立っているか自覚していない企業も多いんだ。たとえば、精密な加工で、高性能な製品を作っている会社がある。そこの技術者たちは、自分たちの設計が良いから、高性能だと思っている。だけど、その精密加工は、じつは現場の職人の技能が支えているんだ。彼らが退職してしまったら、もう設計図どおりに製品を作れない。たとえ作っても、元の性能は出ない。だったら、その会社が大事にするべきなのは誰か。分かるよね。

「現場の人でしょ?」

——うん。あるいは、こういう例もある。超高圧に耐える製品を出している会社だ。微細なずれも許されない。だけど、その中核となる部品は外注先の中小企業が製造していた。その外注先がつぶれたら、あるいは経営者が高齢化で会社をたたむことにしたら、どうやってその製品を作り続けるのか。たずねてもはっきりした答えはなかった。不思議だと思わないか。技術というのは再現性のある結果を出せるから、技術なんだ。生産の継続性が保証できないのに、技術と言えるだろうか。図面を引くだけが、技術じゃないんだ。

「職人の仕事は、再現性がないの?」

——人によって違うだろ。さっきの板さんと、下っ端じゃ、同じ材料の刺身を切っても味が違う。

「なるほど。」

——まあ、大学を出た知的職業の中にも、職人的な仕事はいくらでもある。弁護士だとか、外科医だとか、音楽家とかは、同じケースを扱っても人によって結果が全然違う。だから、職人仕事が低級だとか、まずいとかいってるんじゃないよ。ただね、技術者はそうであってはいけない。同じ条件で設計したのに、材料の量が人によって3倍も違う、というのは技術になっていないんだ。

「設計の上手・下手っていうのはないの?」

——それは確かにあるよ。設計は与えられた条件の中で、科学法則に従いながら、問題を解決できる構造や形や機能を与える仕事だ。手際のよしあし、できばえの美しさや効率の良さ、というのは違いがある。とくに設計上の自由度が大きい、白紙のキャンバスに絵を描くような種類の仕事ではね。それでも、技術者はいつも普遍性を意識していなくちゃいけない。どんなときにも、一定のレベルで結果を出せなきゃプロとは言えないだろ? 経験知は言葉や式や道具にして他人に伝え、後輩の設計が下手なら、育成指導しなきゃいけない。そこまでやって、はじめてエンジニアの仕事は完結したといえる。

「ふうん。」

——ただ、一番良くないのはね、自己認識と、実際に自分がやっていることが、ずれている場合だ。たとえば、『自分はエンジニアだ』と信じながら、仕事のやり方はじつは職人的だ、という人がいる。職人は客観的な数字より、自分の五感を信じる。個人主義で、弟子以外の人に技を伝えるのを嫌う。原理や法則化も志向しない。だから、そういう自己認識のずれがあると、組織がだんだん歪んでいく。

・・そう説明しながら、わたしは職人的であることと、技術者であることの特徴的な違いを、頭の中で拾い出してみた。いろいろな類型化が可能だが、わたしがすぐに思いついた違いは、次のようなことだった:

「職人」
・五感を大切にする
・言葉による教育はしない
・自分が納得できる仕事がしたい(一に自負、二に報酬)

「エンジニア」
・科学的原理と経験知を大切にする
・知識と数式で教育する
・大きい仕事がしたい(組織人であることに抵抗がない)

わたしの連れ合いの父、つまり息子から見ると父方の祖父は、職人あがりだった。だからイメージがつかみやすい。職人は、自分の目で見、鼻で嗅ぎ、手触りによる判断を大事にする。自分の五感を最も信じるのだ。また、職人は徒弟制度の中で育つが、その基本は実地教育であり、懇切丁寧に教えたりはあまりしない。むしろ「親方から盗むこと」「先輩の背中を見て育つこと」を期待される。

そして、職人的であることの何よりの特徴は、仕事に対する態度だ。それは、「自分が納得できる良い仕事がしたい」と強く思うことだろう。職人はもちろん、報酬のために働く。昔は出来高制だったから、たくさん働けば、それだけ良い収入を得られた。しかし、お金より大事なのは、「納得できる、良い仕事」なのだ。職人にとっては仕事の成果が自分にとっての最大の報酬である。逆に、お金は二の次で、自分の興味ある仕事に打ち込んでいくのが、職人的な態度だ。

ところで、わたしの父親は技術者だった。父は早く亡くなったが、それでも大きな影響を受けた(エンジニアリング会社などというところで働いているのも、その影響の一つである)。父は数学や科学的原理を大切にしており、またよく勉強していた。ただ、自分もエンジニアになって分かったことは、科学が十分に説明できない経験知も、非常に大きな比重をしめていることだ。ただ、そうした知識と数式が、技術者教育の基本にある。「移転可能であること」が技術だからだ。

もう一つの技術者の特徴は、「大きい仕事がしたい」と考える人が多いことだ。大きい、は一種の比喩であって、物理的には「世界最小の製品」だって、意味的には「大きな仕事」である。とにかく、先端的な仕事で実績を上げ、名を上げたいという欲求が強い。そこは一種の競争心である。そして、大きな仕事をするに当たっては、技術的な分業体制が必要になる。そのため、組織人であることに抵抗がない点も、エンジニア達の特徴だろう。組織に属し、組織のルールや制約にも黙って従う。そこは、自立心の強い職人たちとは、少し違っている。

では、ものづくりの仕事に携わる人は、職人と技術者の2類型に分けていいのだろうか。なんだか足りないものがあるな・・と考えて、気づいたことがあった。連れ合いの父も、わたしの父も、後年は人の上に立ち、人をリードする立場になっていた。つまり単なる職人や技術者ではない、別の職種になったのだ。人を束ねて、ものづくりを進める。経営者というと身分の話になってしまうから、ここではあえて「技術リーダー」という言葉を使うことにしよう。そう、以前紹介した、ワインバーグの使った用語である。では、技術リーダーとはどういう人たちか?

「技術リーダー」
・直感と協調性を大切にする
・リーダーは教育と実地訓練で育てられると思っている
・価値がありお金も儲かる仕事がしたい

技術リーダーはとても実際的な人たちである。彼らは現実感覚、もっといえば自分の直感や見通しを大切にする。同時に、人を束ねる仕事だから、協調性も大事だ。協調性とはいいかえると、「感情やパッションを共有すること」である。また、彼らは後輩の育成指導も大事な仕事と心得ている。こういったリーダーは、たんに素質を見いだすだけではなく、言葉でも教育し、かつ実地訓練で育つと考えられている。

技術リーダーたちが望む仕事は、価値があり、かつ、ちゃんとお金も儲かる仕事である。価値がなければ人々はパッションを失ってしまい、ついてこなくなる。しかしお金が儲からなければ、人を養うことができない。人を大切にし、かつマネーにもこだわる。これが技術リーダーだ。(なお、わたしはこういう人たちを『プロマネ』という言葉でよびたい欲求もあるのだが、そうよんでしまうとかえって狭く受け取られかねないので、このままにしておく)。

こう考えると、ものづくりに携わる人たちには、三つの類型があるように思える。職人と、エンジニアと、技術リーダーだ。三つの頂点が作る三角形の中に、自分を付置してみるのも面白い。そして自分の目指す方向も描いてみる。たいていの理系大卒の人間は、右下隅のエンジニアの卵としてキャリアをはじめる(わたしもそうだった)。その後、エンジニアであり続ける人もいるが、科学原理は脇に置いて、リーダーとして人を動かし、世に認められる(商業的にも)仕事を目指していく者もいる。また科学原理を離れ、職人的になって自分の感覚を頼りに、守備範囲を孤独に掘り下げていく人もいる。どれを選ぶかは上等下等というより、価値観の問題だ。
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・・というようなことを考えつつ、さて、こういったややこしい図式を、ほろ酔い機嫌の帰り道で説明するのはなかなか至難だな、と思っていたら、しばらく黙っていた息子から質問があった。

「エンジニアに向いているか職人に向いているかって、会社ではどうやって決めるてるの?」

——それはね、本当はその人の資質で決めるべきなんだけど、たいていの会社ではいわゆる学歴で最初から振り分けているのさ。『技術員』と『技能員』という言葉で呼び分けている会社もある。技術員は大卒で、事務所で計算や図面引き、技能員は高卒で、現場で一生、力仕事、と。昭和時代には、大卒は「人事部」が管理して、高卒は「労務部」が相手する、という風に管理組織まで分けている会社があったくらいだ。

「え、人事と労務って、そういう違いだったの?」

——かつて、一部の会社ではね。そして、大卒はホワイトカラーとしてどんどん上がっていけるけれど、高卒は良くても課長止まり、という会社がほとんどだった。給料も全然違う。あんまりバカバカしいから、みんな子どもは大学に行かせるようになった。日本では90年代の初めに、高卒より大学進学者の方が多くなる逆転現象がおきた。結果として、現場で働く職人はだんだん減って、現場仕事の質は残念ながら、どんどん下がってしまった。その一方で、ホワイトカラーや営業職種は水ぶくれになって、生産性が上がらないことおびただしい。品質問題と生産性低下。これが平成不況の症状だ。明らかに、間違ってるだろ?

「何でそんな事になっちゃったのかな。」

——それはね、人間の職種を上下に分けて、それを学歴で振り分けたことだ。職人は肉体労働として卑しんだ。誰でもできて、代わりはいくらでもいると、高をくくった。自分たちの産業が、どれほど職人仕事に依存しているかも理解せずにね。そのくせ高学歴の自分たちは、無意識に職人的な仕事ぶりになって発展力を失っていった。

「技術の進歩で、職人仕事は減らないの。」

——ある種の単純な力仕事は、たしかに減ったさ。だけど確実に残る部分はある。さっきの板さんの仕事を、ロボットで代替できるかな? ああいう手先の細かな技能こそ、日本の宝なんじゃないかな。あの板前さんは大学どころか高校も出なかったみたいな話しだったけど、立派な技量を持っている。日本は学歴社会っていうけれど、じつは「入学歴」にすぎないだろ。

「そうだね。」

——18歳のある日の試験で、人よりたくさん正解を言えたからって、一生優遇されるなんて馬鹿げてる。お父さんの会社はさ、いろいろ問題はあるけれど、一つだけ自慢していいことがあるんだ。それは、大学を出ていなくても社長になれることさ。

「そうなの?」

——そうだよ。俺が入社したときの社長は、高専卒だった。それに、今から10年くらい前の社長も、たしか高専卒だったはずだ。それでいいんだよ、エンジニアリング会社なんだから。エンジニアは技術力がすべてだ。それは、その人が仕事でどれだけ学んできたかってことを示してる。さっきの板前さんの修行も同じさ。学歴ってのは、本当は『学んできた歴史』のことを言うべきだ。社会に出てから、どれだけ学んだかが、その人の本当の価値なのさ。


<関連エントリ>
 →「スペシャリストか、ジェネラリストか?」 (2016-04-18)
 →「組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾」 (2010-09-19)
by Tomoichi_Sato | 2016-08-21 03:40 | 考えるヒント | Comments(2)

見えない壁に突きあたった中堅エンジニアが学ぶべき、三つのこと

先週の4月2日(土)に浜松市で、合同シンポジウム「サプライチェーン戦略とプロジェクト・マネジメント」を開催した。主催はOR学会・日本経営工学会・スケジューリング学会で、その配下にある「サプライチェーン戦略研究部会」(主査・日本IBM 米澤隆氏)と、わたしが主査を務める「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」が実行主体だ。

講演者には、倉庫管理システムiWMSの開発元として有名な(株)フレームワークスの渡辺重光会長と、ヤマハの曽根卓朗主席技師のお二人をお招きした。お二人の話はどちらも非常に興味深いもので、渡辺氏はロジスティクスとIoTの広範な展望を話され、曽根氏は通信カラオケの製品開発を題材に、生々しい体験をお話しいただいた。最後にパネル・ディスカッションを行い、わたしもパネラーとして参加した次第だ。

幸い大勢の方に来ていただき、立ち見が出そうになったので椅子を補充したほどだった。製造業の街・浜松でのこうしたテーマへの関心の高さを感じるとともに、遠方からおいでいただいた方々にもお礼を申し上げる。

ところで、なぜ「サプライチェーン」と「プロジェクト・マネジメント」という二つのテーマで、合同シンポジウムを企画したのか、その理由について少しだけ補足説明しておきたい。それは、このところずっとわたしが考えている問題と関連しているからだ。その問題とは、

中堅エンジニアがモチベーションを保って成長するには、何を学ぶべきか

という問いである。わたしはたまに、頼まれて、社会人向けの研修セミナーをすることがある。対象者の多くは、中堅のエンジニアである。実際には技術系に限らず事務系の職種も混ざるが、ここでは「エンジニア」と総称しておく。

中堅とは、年齢で言うと30代から40代くらいまでが中心だ。そろそろ「リーダー」的なポジションにつく頃である。たとえ課長係長といった中間管理職ポストではなくても、自分一人だけでなく後輩や部下を采配し、あるいはときに上司や関連部署を動かして、仕事を達成していかなければならない立場になる。

それは同時に、自分の持つ固有技術だけで勝負できにくくなる年代でもある。20代の若い内は、技術が身につくこと自体が面白い。できなかった計算ができるようになり、分からなかったことを知るだけで成長を実感できる。しかし、同じ技術職を5年、10年とつづけるうちに、ふと不安に駆られるようになったりする。不安とは、今の職場から外に出ても、業界で【専門家】として十分通用するか、といったことだ。その年代はまた、人を使うことの難しさにだんだん気がつくときでもある。

それでも、ユニークな上司や、理解力あるトップに恵まれれば、面白い仕事ができ、力を尽くせる可能性はある。曽根氏の製品開発など、まさにその例であったろう。中堅エンジニアこそ、まさにイノベーションの担い手である。

ただ、それはいつでも、誰にでもあるチャンスではない。中堅の取り組みは、しばしば上司や会社の仕組みという壁につきあたる。あなたが今の仕事をもっと良くしたいと考え、たとえば外部のセミナーなどに聴きに行ったとしよう。刺激的で、ためになる話を聞き、感激して上司に報告する。するとどうなるか?

あなたの上司は、あなたから学びたいとは思わないものである。部下が外で学んできた知識は、むしろ自分の「指導力」にとって脅威となる、とさえ感じるかもしれない。どんなに素晴らしい知恵を仕入れたとしても、それが上司のものの考え方や世界観にあわなければ、はじき返されるだけだろう。かりに上司がそれを受け入れてくれたとしても、会社のルールや習慣にあわない可能性もある。かくて、仕事のやり方を良くしたいという、あなたの意欲は満たされぬままとなる。

では、中堅エンジニアがモチベーションを失わずに、成長するにはどうしたら良いのか。専門技術を掘り下げるだけでは十分でなさそうだと、この層の人たちは感じている。だったら「リーダーシップ」や「人間力」を身につけろ、というのが世間の答えらしい。だがそれは、どうやったら身につくのか?

もっと年配層のベテラン達なら、「そんなのは理屈じゃない」「俺の背中を見て育て」、みたいなことを言いそうである。そいつはご遠慮するとしても(笑)、じゃあどうすべきか。ドラッカーでも読むべきなのか。だがそれも、一足飛び過ぎる。経営者でもないのに、経営論を読むのは面はゆい。それに、世に流通するリーダー像は、有名企業の経営者か、あるいは外資系コンサルタントとかベンチャー経営者ばかりだが、コンサルや起業家をめざすだけが人生なのか? あるいは、出世して経営者にならない限り、面白い人生はやってこないのか。誰もが社長になれるわけではないのに、経営者にならなければやりがいは満たされない、だから出世を目指せ、という人生観は、どこか間違っていないだろうか?

よく会社のトップは、「T字型人材」を求めるという話も聞く。T字型とは、縦と横の二本線からなる形だ。縦の棒は専門分野を狭く深く身につけ、横の棒はいろんな分野を広く浅く知っている状態を表す。つまり、一つの専門分野をきちんと習得しスペシャリストになった上で、異なる分野についてジェネラリストたるべし、ということらしい。これは(理由は長くなるので書かないが)日本の組織が求める一つの典型的人材像である。だが、横の棒を張り出すための勉強は、どうやるのか? まさか百科事典を、はしから読むわけにもいくまい。
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これが、現代の日本の中堅エンジニアが直面している、典型的な問題ではないだろうか。自分は個人として成長し、また組織人としてもキャリアを伸ばしたい。だがなんとなく、仕事で見えない壁に直面している。自分は何を、どう学ぶべきなのか。

日本の産業を実際に支えているのは、中堅エンジニア層である。日本を元気にしたかったら、この人たちに元気になってもらうことを考えるべきだ。モチベーションを維持し、成長する方途を示す必要がある。

わたしは、中堅エンジニアが学ぶべき二つのことがあると考えている。

一つ目は、仕事に対するマクロな視点、「仕組み」の理解を持つことである。自分の専門領域というミクロな視点だけではなく、自部署や自社を含んだ、モノとサービスと情報の流れる大きな仕組みを、理解する能力。すなわちサプライチェーンの理解である。わたし達が問題や壁に直面したとき、目を近づけてミクロに解決の穴を探すより、ずっと上から大きな視点で問題構造を理解し、無意識に抱えていた余計な制約条件を外した方が、より根本的な解決策を得ることが多い。だから、サプライチェーン(生産管理や生産計画なども含む)を知ることで、マクロな仕組みを見る力を養うべきである。

もう一つは、仕組みの変え方、人の動かし方の視点だ。こちらは、プロジェクト・マネジメントの理解である。プロジェクトとは、新しいことにチャレンジする際の、人と協働するための方法論である(もっと厳密に言うと、「プログラム・マネジメント」の領域も関連するが、その話は省略する)。ちなみにヤマハの曽根さんは社内的に不本意な状況にあったとき、通信カラオケという(ある意味で卑俗に思われる)製品開発プロジェクトに取り組むことで、自分のモチベーションを維持した。そしてパートナー企業からプロジェクト・マネジメントの技術を学んだことで、自らのリーダーシップを強化できた、という。

サプライチェーンと、プロジェクト・マネジメント。エンジニアは、固有技術を一通り身につけたら、この二つを学ぶべきなのだ。だからこそ、この二つをテーマとする合同シンポジウムを、製造業の街・浜松で企画しようと思い立ったのである。

さらにいうと、三つ目の要素もある。それは、一種のソフト・スキルで、わたしが「チャレンジのOS」とよぶものである。OSとは、体系化された思考と行動の習慣、という意味だ。近著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書 ~グローバルなチャレンジを成功させるOSの作り方」では、これを「S + 3K」と表現したが、中核のSは『システムズ・アプローチ』である。
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ただし、こうした知識は、読む・聞くだけでは十分ではない。実践しないと身につかないからだ。実践すれば、必ず問題にぶち当たるだろう。それをどう超えていくか、ここをサポートする方法論が必要だろう。目に見えづらい問題、正解のない問いに取り組んでいくためには、自分の問題を言語化して、他人と共有する場があった方がいい。問題を他人に話せるくらいに自分の頭を整理できれば、解決に半分近づいたようなものだから。つまり、中堅エンジニアのための、互いの学びの場が必要だということだ。

シンポジウム開催は、その一つの取り組みだった。わずか半日のシンポジウムで得られる知識の量は、限られているが、むしろいろんな人と出会える機会の方が貴重である。こうした場を作り続ける努力が必要なのだろう。高井英造先生が東工大CUMOTで主催されてきたサプライチェーン・マネジメントに関する社会人研修コースも、その取り組みの一つだろうし、わたしが今年度から客員教授としてお手伝いすることになった、静岡大学の大学院MOT(事業開発マネジメントコース)もその一つではある。

ただし、継続的に大学などに通うには、時間も金銭的にも負担が大きい。こうした形以外にも、もう少し取り組みやすい形が必要なのではないか。また以前も書いたように、成長のための仕組みには、『報償系』の存在も大事である。MOTによる修了証書授与以外に、なにか考えられないか。

それがどのような仕組みであるべきかは、わたし自身もまだ模索中だ。ただ、わたしのこのサイトが、なぜプロジェクト・マネジメントとサプライチェーンの二つのテーマを中心としているのかは、お分かりいただけると思う。わたし自身もまあ、会社員として何度も壁にぶち当たる経験をしてきた訳だが、このサイトで文章を編み出しながら自分の考えをまとめることで、少しずつではあるが自分を精神的に保ってこられたように思う。

わたしのこのサイトは、そうした意味で、これから新しい仕組み作りにチャレンジする人、仕事のあり方をかえたいと願っている中堅エンジニアのために、役立つものとなっていきたいと考えている。そのためには、本サイトの構成も、さらに変わっていくべきかもしれない。SCMもPMも裾野の広いエリアにもかかわらず、具体的に、生産管理とは何かとか、WBSはどう作るかといったコンテンツを提供しているサイトは、意外なほど少ないからだ。

そしてシンポジウムの最後でご紹介したように、わたし達は研究部会で「PM教育のためのシステム」構想にとりくむつもりである。わたしが『システム』 というときは無論、コンピュータ・ソフトだけではなく、それを含む大きな「仕組み」のことである。こうした模索に対し、心ある方々の応援や協力をいただけるならば、これほど心強いものはない。
by Tomoichi_Sato | 2016-04-04 21:24 | 考えるヒント | Comments(0)

魚心あれば水心 − 最適なペアを決めるマッチング・アルゴリズムの話

Apple初期にMac OSを開発した中心メンバーに、アンディ・ハーツフェルドという伝説的なプログラマがいた。Appleを退社後、独自にSwitcherというユーティリティ製品を開発するのだが、これはシングルタスクだったMacOS上で、複数のアプリを同時に動かせるという独創的なソフトだった。ところで以前、彼のインタビューをよんでいたら、彼が人生で最初に作ったプログラムが、高校のダンスパーティーの男女ペアを自動算出するものだったと書いてあり、笑ってしまった。世界中どこにいたって、魚心と水心の組み合わせは、つねに揉め事の種なのだ。

男女のお見合いから、研究室の配属、そして就活の就職先選びまで、世の中には「求める側」と「与える側」の組み合わせ問題に満ちている。あるいは、デマンド側サプライ側、と言いかえてもいい(男女のどっちが供給側かはともかく)。その典型は、サプライチェーンであろう。需要と供給をどうマッチングさせるのが最適なのか。最適とは、ここでは「お互いに満足度が高い」という風に規定しておこう。

「部分最適から全体最適へ」というのは、SCMの標語でもあった。では、最適なマッチングを具体的に決めるには、どうしたら良いのか? こうした問いに答える研究分野があることを、恥ずかしながらわたしはつい最近、初めて知った。

それを学んだのは昨年11月に、沖縄で開催された経営情報学会に参加したときである。たまたま「マーケットデザインとその周辺」というオーガナイズドセッションに講師として呼ばれ、そこでご一緒した大阪大学の安田洋祐先生と、電通大の岩崎敦先生から、「マッチングメカニズム」論の初歩と、ゲール=シャプレイ・メカニズムとよばれる仕組みのお話しをきくことができた。さらに、こうした研究の業績によって、シャプレイ教授は2012年にノーベル経済学賞を受賞したこともうかがった。そこで今回は、その時の印象的な講義をふりかえりながら、おさらいのために少し一緒に勉強してみたい。

ゲール=シャプレイ・メカニズムとは、マッチング問題を解くための基本的なアルゴリズムである。マッチング問題は、パーティでの男女の組み合わせに象徴されるように、デマンド側とサプライ側が互いに相手への好みを持つ場合に、より満足度の高い組み合わせは何か、という問題だ。ゲール=シャプレイ(GS)メカニズムは、その最適解を生成する手順である。

ここで、まずマッチング問題の前提を少し整理しておこう。まず、何らかの場があって、そこに
- デマンド(需要)側
- サプライ(供給)側
が同数いる。ここでは仮に、男の子がデマンド側で、女子がサプライ側としておこう。それから、誰もが相手に対する好みの順番(『選好順序』)をもっている。が、それは相手側には直接、分からない。また、この選好順序は、ジャンケンのような循環順序ではない、とする。満足度は数値化できないかもしれないが、とにかく優劣は決められるのだ。そして、他に特段の制約条件はない、とする。つまりお金持ちの子が最初に相手を選べるとか、貧乏人はペアを組めない、といった例外はもうけない、フェアな世界だとする。

GSメカニズムの基本的手順は、以下の通りである:
 デマンド側が、自分にとって最高順位のサプライ側にマッチングを申し込む
 サプライ側は、自分にとって最高順位のデマンドを「キープ」し、あとは拒否する
 デマンド側は、拒否されたら次の順位のサプライ側にマッチングを申し込む
 サプライ側は、より選好順位の高いデマンドが来たらキープ相手を変更する
 デマンド側がすべて受け入れられた状態になったら完了
この手順が最後まで行き着いたら、結果は自動的に最適状態になっていることが、数学的に証明されている。最適状態とは、どのペアを取り替えても、これ以上満足度の増える組み合わせが存在しない、というほどの意味だ。

非常に単純・明快な手順ではないか?

ゲールとシャプレイは、「大学入学と結婚の安定性」(1962)という、ちょっとふるった名前の論文で、最初にこの研究成果を明らかにした。この問題は、学問の地図でいうと、経済学という大国の中の、ミクロ経済学州にある、ゲーム理論という大都市の中に位置する。そこには数学国出身の賢そうな人々が多く住んでいる。わたしのように化学工学という小国出身で、今はプロジェクト・マネジメント論というもっとマイナーな地方都市にうつり住む者にとっては、縁遠い土地柄である。ま、自分が知らなかったことへの妙な良い訳はともかく、50年も前の知見を、今ようやく学んでいる訳だ。

このGSメカニズムは、現実の制度への豊富な適用事例をもっているのも特徴だ。たとえば日本では、2003年度から、臨床研修医を病院へ配属するためのマッチングの仕組みとして実際に使われている。また、 早稲田学院から早稲田大学の各学部への配分メカニズムも、そうなのだという。もっとも、わたしはGSメカニズムの仕組みをきいて、思わず触媒表面上の活性点で起きている分子レベルの化学反応メカニズムを連想してしまった。とういことは、自然界でも、これに似た仕組みがあちこちで動いているように思える。さすがである。

なお、マッチングが1対Nで、定員があったりする場合、GSメカニズムは次のような手順になる。
2 サプライ側は、定員まで「キープ」し、あとは拒否
4 新たにデマンド要求があった場合、サプライ側は選好順序に従って「キープ」を入れ替える

ところで上記の手順、きいてしまえば当たり前な内容、にも思える。どこが独創的なんだ? 数学的な証明はたしかに簡単じゃなさそうだけれど、普通、こうしてるじゃないか?

ところが普通は、上記のGSメカニズムとは、ちょっとだけ違うことをやっているのである。そして、そのちょっとだけの違いが、大いなる影響を生み出しているのだ。

世の中で普通にやられているのは、希望順位優先方式とよばれる方法である。別名を、「ボストンメカニズム」ともよぶ。ここでは、就活生の企業への就職を例にとって説明しよう。簡単のため、世の中に学生は全部で5名、企業は3社だけとする。世の就職関連業者がきいたら泣き出しそうなほど、シンプルな社会である。 学生の名はA・B・C・D・Eで、成績もこの順番である。企業はX社、Y社、Z社とする。なお、X社は大企業なので、募集定員は3名である。YとZ社は1名ずつだ。

希望順位優先方式(ボストンメカニズム)では、次のような手順で、就職者を決める。
1 全学生の第1希望において定員を満たすまで、企業は成績順に内定を決める
2 内定されていない学生と、定員の残る企業で、次の希望順位について1を繰り返す
シンプルだし、現実に、ほとんどのケースではこのようなマッチングが行われている。

だが、この手順ではまずいことが起きるのだ。それを「戦略的選好」とよぶ。

いま、学生の就職したい企業の順番(選好順序)は、以下のようだったとする。
Aさん、Dさん、E君:  X>Y>Z
B君、Cさん: X>Z>Y

ボストンメカニズムを適用すると、こうなる。
第1ラウンド:全員がX社を志望する。そこでX社は上位3名の、A・B・Cの採用を決め、内定を出す
第2ラウンド:DさんとE君は、第二志望のY社に志願を出す。Y社は、成績が上のDさんを内定する
第3ラウンド:E君がZ社に内定して、完了。
この結果、E君は、自分の希望順位では最低のZ社に就職することになる。

それが競争原理・弱肉強食のこの世の宿命だろう、って? ところが、である。E君はここで奸計を思いつく。彼は内心を隠して、自分の選好順位は「Y>X>Z だ」という風に振る舞うのである。

するとどうなるか? 上記の手順をあてはめると、こういう結果になる(読者の皆さんも紙の上で、ご自分で追いかけてみてほしい)。
X社:Aさん、B君、Cさん
Y社:E君
Z社:Dさん
おわかりだろうか? E君は次善のY社に就職し、正直だったDさんが割をくうのだ。

つまり、希望順位優先方式(ボストンメカニズム)は、嘘に弱いのだ。嘘をついた者が得をして、正直者が損をする。これを「戦略的選好」の問題とよぶ。この例では、嘘をついたことによる利得は所詮たいしたことが無いが、もっと深刻な例だって考案することができる。このような制度設計をしてはいけないことは、社会的に明らかだろう。

ところがGSメカニズムでは、「本音を言う」のが最適戦略になるのだ。ためしにGSメカニズムで上の例を追いかけてみると、E君が本音を言おうが嘘をつこうが、結果としては
X社:Aさん、B君、Cさん
Y社:Dさん
Z社:E君
となることを確かめてほしい。

GSメカニズムでは「戦略的操作」(つまり嘘)は有効にならないことが、数学的に保証されている。なぜ、その違いが生まれるかというと、GSメカニズムでは「仮にキープ」するが、後になってひっくり返すことを認めているからである。つまり、『内定取り消し』が公式に許容されているのだ。ボストンメカニズムでは、決定は先着順であった。ここが違うのである。

もっとも、GSメカニズムにも、弱点が無い訳ではない。たとえば、意図して嘘をつく訳ではないが、自分の選好順位とは反する選択をするような、非合理な人間が出てくると、うまく機能しなくなる。好みに反する選択をするとは、すなわち、自分が何を志望し、何をしたいのか、自分でもよく分からない人たちである。

いや、若い内には、そもそも自分が本当に何をしたいのか、何に向いているのかなど、自分でも分からないのが当たり前なのだ。いわゆる「自分探し」である。そして、むしろ周囲の方がよほど客観的に、向き不向きを見抜いていたりする。しかし、当たり前のことだが、いつまでも「仮決め」でふらふらしていると、肝心のパーティーでダンスが踊れなくなる。誰とも踊らないうちに、歳をとってしまうだろう。それに魚心あれば水心、一緒に踊っている内に、相手への選好順序がせり上がったりするのも、人間の心理なのだ。

ゲール=シャプレイのアルゴリズムはすばらしい数学的成果である。だが、それは各人の選好順位が固定したものだという前提の上に成り立つ、一種のスタティックな最適化手法だといえよう。わたし達が現実からいろいろなことを学び、それによって価値観が変化していくような、ダイナミックな場合の最適なメカニズムデザインは、まだまだこれから考え抜いていかねばならないのだ。


参考
安田 洋祐:「経済学で理想のパートナーを探そう! ゲール=シャプレーアルゴリズムを合コンのマッチング問題から考える」 東洋経済オンライン 
上田 俊(九州大学):「ゲーム理論 アドバンスドトピック
by Tomoichi_Sato | 2016-01-31 20:32 | 考えるヒント | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:平和のレジリエンシー

Merry Christmas !!


以前、社内のPMO(Project Management Office)にいた頃は、毎月、社内のプロジェクト・マネージャーから上がってくるPMレポートをレビューするのが仕事の一部だった。レポートは形式が決まっており、最初にナラティブな文章による状況報告がある。それからスケジュール・進捗・リスクなど各種の計量的なステータスがついている。

このレポートは本来、プロマネが、自分の後見人であるプロジェクト・スポンサーを経由して、経営層に提出するものだ。そして上の人は助言をつけて返す。だが同時に、ラインの横にいるPMOにも配布し、PMOがレビュー・コメントを行う。その目的は、縦のレポーティング・ラインだけでは見逃されそうな予兆や問題点をウォッチするとともに、別のプロジェクトで発生している問題点などをプロマネにフィードバックして、対応策を社内的に共有・横展開することにある。さらに、社内のプロジェクトに関する実績データをPMOが集積する目的もある。同じようなことは、わたしの業界内では広く行われている。

ところで、PMOとしてレポートを読んでいるうちに、気がついたことがある。それは、プロジェクトは二種類に分かれやすい、ということだ。どんどん良くなっていくプロジェクトと、だんだん悪くなっていくプロジェクトである。いい方のレポートを読むと、前々月は設計でこういう進展があった、前月はこうして問題を事前に防止できた、今月はサプライヤーにうまく発注できて予算を抑えられた、という具合に、毎月明るいニュースが並ぶ。一方、まずい方のレポートは逆である。前々月は、こういう障害で設計が進まなかった、前月は思いもかけぬ問題が発生し対応に追われた、今月は発注先からのクレームで赤字がさらに膨らんだ、という具合で、毎月、読むたびにため息が出る。

不思議なのは、良くなったり悪くなったり、というレポートがあまり無いことだ。前々月はよかった、でも前月はまずいことになった、今月はまた良くなった、といった風にアップ・ダウンのあるプロジェクトには、滅多にお目にかからない。これは一体、どういう訳だろうか?

ひとつには、レポーティングに関する心理的態度というものも、関係するかもしれない。プロマネだって皆、会社員だ。普通は、なるべく良いことだけを上に報告したい。そうすれば上の覚えもめでたく、自己の評価も上がるだろう。だからしばらく良いレポートが続く。しかし、プロジェクトの途中で次第にトラブルが大きくなり、やがて増員などの面で、上の支援を仰ぐ必要が出てくる場合がある。危険性をアピールしないと本気にされない。そこからは問題レポートが続く、と。

だが、PMOは文章だけでなく、計数的な部分もチェックしている。そして他の類似プロジェクトの実績値や、社内的な標準数値とも比較し、おかしなことが起きていないか見ている。最初の楽観的な文章と、後半の数値に齟齬があれば、PMOとして先に矛盾に気づく。自分も、そう心がけて仕事をしてきた。だとしたら、プロマネの心理的態度以外に、何か理由があるはずだ。

わたしが次第に持つようになったのは、「プロジェクトのダイナミクス(動力学)は、本質的に不安定なものだ」という仮説だ。プロジェクトはある目標を目指して進められる、活動の総体である。納期や予算、スコープ(責任範囲)といった制約条件の中で、それを進めなければならない。そしてプロジェクトを構成する設計とか調達とかテストだとかいった活動(Activity)は、互いに連鎖し関連し合っている。つまり、プロジェクトというのは一種の動的システムであり、それを制御するのがプロマネの仕事だ。

プロマネがきちんと計画を立案し、上手にチームをコントロールしていれば、諸活動はほぼ予定通り進んでいくだろう。ところが、人間はすべてのことは予期できない。予期せぬ問題が一部の活動で発生した際、それをうまく抑え込めないと、関連する活動間の調和を壊してしまう。するとその影響は伝播し拡大していって、さらに大きな問題となっていく。

たとえばボールを凹んだ谷間の底に置いたとしよう。多少の外乱があってボールの位置がずれても、ボールはまた元の位置に戻っていく。これを「安定」な状態と呼ぶ。ところがボールを山の頂上に置くと、外乱でボールが左右どちらかに揺れた場合、元には戻らずに、左右どちらかの方向に加速度的に転げ落ちていく。
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プロジェクトとは、山頂に置いたボールのように不安定な存在だ、というのがわたしの仮説だった。ただし、まったくの不安定なシステムかというと、そうではない。ある程度の外乱の範囲内ならば、プロマネは乗り切っていける。そのときにカギとなるのが、予算でいえば予備費の存在、スケジュールでいえばバッファー(フロート日数)、さらに余裕ある遊撃手的な配員の存在だ。専門用語でいえば、Contingency Reserveである。

予見しなかった問題が発生したとき、担当者やプロマネは、自分が持っている予備費やバッファー日数の範囲内で、遊撃手を動かして対応策をとることができる。いや、むしろ予算や時間に余裕があるときは、問題が起きる前に、予防的対策が打てるのだ。こうして、プロジェクトは良い方向に進んでいく。

だが、外乱があまりにも大きかったとき、あるいは、出発時の制約条件がきつすぎて、プロマネの持つ予備費やバッファー日数や配員があまりに乏しいときは、発生した問題を抑え込めなくなる。そうすると負の連鎖反応が起きて、プロジェクトはもっと大きなトラブルに直面することになる。

プロジェクトでは必ず問題が発生する、というのが長年このビジネスに関わってきたわたしの実感だ。どんなに最善の計画を立てても、思いもよらぬ外乱(あるいは、ミスなどの内発的問題)が発生する。これを乗りこえていくためには、なんらかの余裕・あそびが必要である。そして余裕に比べて外乱があまりに大きいと、コントロール可能な範囲を超えていって、プロジェクト全体が制御不能になる。ただ惰性で前に進むだけの存在になってしまう。ちょうど、金属製のバネのようなものだ。バネを引っ張ると、弾性の力で元に戻る。しかし、材料の「降伏点」を超える力をかけると、バネはぐにゃりと延びきってしまって、もう元には戻れなくなる。

レジリエンシー』という新しい言葉をあちこちで見かけるようになったのは、この数年のことだ。Resiliencyという英単語は翻訳しにくいが、「復元力」とか「抵抗力」みたいな意味を持つ。3.11の恐ろしい災害で東日本のサプライチェーンが寸断され、それが国内産業全体に少なからぬ影響を及ぼして以来、この概念が注目されるようになった。

以前、統計数理研究所の丸山宏副所長によるレジリエンシー研究の講演を、自分の主宰する研究部会できかせていただいたところによると、
「レジリエンシー = Resistance(事前対策) + Recovery(事後対策)」
といった理解になるらしい。

<関連エントリ>
 →「稀な危機 vs ありふれた失敗-リスク対策の優先順位を考える」 (2013-10-14)

トラブル事象が小さい内は、Resistance(事前対策)の方が費用が小さくすむが、あまりに大きな「想定外」のトラブル事象に対しては、もうRecovery(事後対策)を考える方が経済的である、というのが丸山博士の説明であった。それならば、どこかで最適な組み合わせがあるはずだ、との予測が成り立つ。

その最適な組み合わせや、プロジェクトの「降伏点」は、プロマネが持っている予備費やバッファー日数などのContingency reserveから導き出せるのではないか、ということを当時は思った。

しかし、その後わたしの考え方は、少しかわった。まず、プロジェクトの降伏点というのも、一点ではなく、多段階あるのではないか。いったんは大きく乱れても、また何とか復元する力が働くときもある。

もう一つ。いったんはトラブルを経験しても、そのことが「人材が育つ」結果をもたらす事もあるのだ。むろん、それは程度にもよるだろう。だが、まったく問題を経験せずに、温室栽培か無菌培養のような環境下で育つより、ある程度の問題に否が応でも巻き込まれ、立ち向かった経験の方が、はるかに人は成長するのだ。むろん、トラブルが過酷すぎて、人をつぶしてしまうこともあり得る。ただ、そうした「人材の降伏点」は、決してその人が持つ資金だの時間だのといった、機械的なファクターだけで決まるのではない。

では、何で決まるのか。それは、その人の持つマインドセットであり、また、その人を支えて協力する周囲の態度やマインドセットでもある。その周囲がちゃんとしていれば、問題経験はむしろ、人を育てるのだ。

野口整体の創始者である野口晴哉氏は、「健康とは、風邪を引かないとか、病気にかからないことではない。健康とは、病気になってもちゃんと回復する力を身体がもっていることである」という意味のことを、たしか名著「風邪の効用」で書いていたと記憶する。この発言も、最初読んだときにはよく分からなかった。しかし、この頃、もしかしたら野口晴哉という人は、「健康」を、無病という静的な状態ではなく、「身体のレジリエンシー」という動的な感覚でとらえていたのかもしれないな、と思うようになった。

プロジェクトというのは、人間がやる営為である。プロジェクトには確かに、費用や時間や生産性など、計数管理できる・計数管理すべきテクニカルな尺度がいろいろある。そして計画し事前対策できる範囲が大きい。だが、それと同時に、問題が起きたときに乗りこえていく力、火が吹いても消火していく能力として、やる人たちの目的意識がそろっていること、感情がメンバー間で共感されていること、などの面も大きい。テクニカルとマインドセットは車の両輪である。どちらが欠けていても、人々が一緒にやる仕事はうまくいかない。

そして、日々の仕事から目を外に向けていくと、戦闘状態の続く西アジアでも、その他の地域でも、わたし達の社会はいろいろな問題によって挑戦を受けていることに気がつく。人々が争わず、お互いに事を荒立てずに暮らせれば、一番いい。しかし、たとえ一度は対立し火が噴いたとしても、それを短期間のうちに鎮火し、お互いに解決できる仕組みと能力を持つことの方が、ずっと現実的で重要だ。それはもちろん、兵器の数だとか予算だとかいった、テクニカルな尺度だけで測ることはできない。喧嘩をしても冷静に戻る能力、お互いの目標と感情を共感できる仕組み、が必要なのだ。

たとえトラブルに巻き込まれても、人間がそこから学んで成長できると期待し、信頼を置くこと。難しいことだが、こうした態度をつちかうことこそ、世界がひととき静かになるこの季節、平和のレジリエンシーを高めるために、わたし達一人ひとりに求められることではないだろうか。
by Tomoichi_Sato | 2015-12-20 13:59 | 考えるヒント | Comments(0)