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納得する、ということ

親戚の娘さんが大学受験の年を迎えた。高校からは、ある女子大に推薦をしてくれると言う。でもその娘さんは推薦入学できる大学に不満を感じた。自分はもう少し上をねらいたい。そこで推薦を断って、あえてもっと上のレベルの大学の受験をチャレンジした。

しかし残念ながら、その年の受験は不本意な結果に終わった。彼女は浪人してもう1年間勉強のチャンスをくれるよう、両親を説得した。ずいぶん前の話で、女子が浪人する事に対し、今よりも抵抗があった頃の事だ。

そして予備校に通って、1年後、今度はかなりの数の大学を受験する。でも、結果として彼女は1校を除き、全て落ちてしまった。唯一受かったのは、なんと彼女が1年前に高校の推薦を断った大学だった。結局、その女子大に入学することを決めた。

親戚の叔母が久しぶりに彼女に会って、その顛末を聞いたとき、こう尋ねたそうだ。「それで、〇〇ちゃんは納得しましたか?」

--納得しました。

「そう。それならよかった。納得できるということは、とても大切ね。入学おめでとう。」

この話を後に聞いて、感銘が深かった。というのも、その叔母さんこそ、もっと古い世代の女性で、戦後初めて共学化された国立大学に入り、その後も職業婦人として、自分でずっと道を切り開いて生きてきた人だったからだ。男尊女卑の弊風の強い特殊な技術社会に入り、偏見と闘いながら、孤軍奮闘してきた。公正なチャンスを与えられていたかどうか、わからない。だが彼女こそ、自分が納得できるように生きてきたのだった。

納得とはなんだろうか。納得は単なる理解とは違う。身をもって知る、腹落ちする、に近い。人がいちど納得した事は、二度と忘れない。教室で聞いた知識は、片端から抜け落ちていくものだ。だが納得した事は、行動に移せる。応用できるようになる。

相手が納得しなければ、説得とは言えない」という言葉もある。交渉の場、たとえばエンドユーザに何かの機能は不要だと説得する場面は、よくある。このとき、理路を尽くして相手に説明し、相手が一応了承したとしても、相手が「納得」していないと、いつかまた蒸し返してきたり、あるいは別の場面で逆襲してきたりする。

理解とはアタマで分かることであり、納得とは感情をともなって分かることだ、という人もいる。そうかもしれないが、純粋に知的なことでも、納得する経験はある。たとえば、数学みたいな分野でも。

相関係数という概念がある。

二つの量について、いくつかの測定値があったとしよう。たとえば日ごとの気温とビールの消費量でもいい。数式風に表現するなら、(x1, y1), (x2, y2), (x3, y3)...という風に表記できる。下の散布図には、7つの点がプロットしてある。このペアになった二つの変数の間に関係はあるのか、ないのか。それを相関係数Rであらわせる。相関係数Rを計算し、それが0だったら、両者の間は無相関、つまり関係がない。相関係数が1だったら、xyは完全に依存関係がある。また逆に-1だったら、逆相関、つまりxが増えるとyが必ず減る、という関係にある。相関係数Rはマイナス1からプラス1までの間の値をとる。

・・とまあ、こういう説明が統計学の教科書にあり、さらにxの標準偏差Sxyの標準偏差Sy、そしてxyの共分散Sxyという量を使って、R = Sxy / (Sx Sy) という計算式が定義してある。だが、数学が今ひとつ苦手なわたしは、この式を読んでも、ピンとこなかった。なぜ、それが-1から1の範囲に入るのか。無相関が0になるのは、なぜなのか。手順に従い、計算自体はできる。計算ソフトだって、Excelをはじめ、いくらだってある。結果を解釈することもできる。事実、卒論ではそうした。だが、腑に落ちなかった。

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ところで、その後、ある本を読んでいて、全然別の説明を見つけた。散布図は2次元に7つの点を打っている。だが、このデータを、(x1, x2, … x7), (y1, y2, … y7)という風に、7次元の二つのベクトル、と考えてみる(正確には、平均値からの偏差ベクトルをとる)。右図のように、7次元空間の中でこの2本のベクトルの角度をθとすると、両者の内積は公式から、
X・Y = |x| |y| cos θ になる。

相関係数Rとは、この式のcos θのことだ、というのがその本の説明だった。相関係数とは、二つの変量を表すベクトル同士の角度のコサインを表す。コサインだから、-1から1の範囲の値をとる。二つのベクトルの向きが全く一致しているときは、θ = 0だから、相関係数cos θは1になる。二つのベクトルが正反対の方向のときは、角度θは180度だから、相関係数cos θ = -1だ。そして両者の角度θが直角、つまり互いに全く度理屈だと、相関係数cos θ = 0になる。

こう説明されて、ようやくわたしには相関係数が納得できた。だとすると、相関係数が0.7ということは、二つのベクトルの角度は約45度、相関係数が0.5だと60度ということで、かなりバラバラの向きを向いている。なるほど。それどころか、こうした関係が分かると、多変数の因子分析だって、つまりは変数間の共分散構造を調べているのだ、という風にとらえることができる。直感型のわたしには、空間のイメージが理解の鍵だったのだ。

わたしはものごとを理解するのが遅いたちだが、それは、こうして一歩一歩納得しないと、なかなか前に進めないからだ。そのかわり知識や概念の場合、いったん自分が納得できると、他のことの理解に応用できるようになる。知識を応用するためには、納得が必要なのだ。

それと同時に、わたしはときどき、世間の頭のいい人達って不思議だ、と感じることがある。教科書に書かれたこと、先進国でいわれていること、メディアで流通している知識や解釈などを、割とスムーズに受け入れて、覚えていく。わたしが納得できずにまごまごしている間にも、そうした最新知識やらを人に語ったり使ったりしていける。すごい能力である。

わたし自身は、「コストセンター」だとか「品質」 だとか「進捗」だとか、世間で常識と思われている概念を一つひとつ確かめずにはいられないし、それをここに書いている。だが、こうした行為はある意味、皆が受け入れている知的通貨を、自分一人が疑っている訳で、かなり生意気な態度だと思われているかもしれない。うーむ。実は不器用なだけだが。

ところで、納得という言葉は、知識だけではなく、自分の決断の結果に対しても使う。

最初の娘さんの事例を思い出してほしい。彼女は、自分の意思で、浪人して勉強した。そしてその結果に納得したのだ。

ただ、誤解して欲しくないのだが、それは大学受験における学力のレベル判定がどこも極めて正確で、それが高校の判断に一致していたのだ、と言う意味ではない。逆である。入試の当落線上においては、むしろかなり運・不運が左右する。試験の内容、その日の体調、ライバルたちの存在など。第二志望に落ちて、第一志望に受かると言うことも、ときどきあることだ。だからその娘さんが納得したのは、自分の偏差値レベルについてではない。

そうではなく、彼女はできる限りの努力をしたので、その結果を受け入れられるようになった、ということなのだ。もし彼女が、高校の勧めるまま推薦入学で最初の大学に入っていたら、どうなっただろうか? たぶん、「自分ならもっと上の大学に行けたはずだ」「無理してでも試験を受ければよかった」、などとさんざん悩んだことだろう。あるいは、回りの同級生をみて、(自分はこの人たちとはホントは違うのだ)と、内心思ったかもしれない。それは、成長において決して良い結果ばかりをもたらさなかったろう。

何かを「しなかった」ことの後悔は、いつまでも心を酸のようにむしばんでいく。だが何かを自分の意思で選んだ場合は、結果としてかりに痛い思いをしても、いつかは乗りこえることができる。

彼女は自分が決めて選んだことに対して、一所懸命に努力したのだろう。合格・不合格はある意味、結果でしかない。だが、必死にチャレンジしたならば、どんな結果になろうとも、それを後悔することはあるまい。人事を尽くして天命を待つ、と言う心境に近い。そうすれば、結果に納得することができる。運不運を含めて、結果を受け入れられるようになる。

知っていることと納得することは違う。

納得感とは、自分の得た知識が、自分の世界観の欠けたピースにぴったりとハマったり、あるいは、自分の決断が価値観を補強してくれた、という感覚を得ることだ。だから行動にうつせるようになるのだ。誰も自分で納得したことでなければ、実行できない。人を動かしたかったら、納得してもらう必要がある。自分で自分を動かしたかったら、自分が納得できるようするしかないのだ。

ところで、「納得」(なっとく)という変わった音読みをするところをみると、これは仏教用語ではないかと思って調べてみると、どうやらそうらしい。仏教では出家して仏名をもらい、剃髪して僧侶になることを「得度」と呼ぶ。納得とは、この得度式を納めた、という意味らしいのである。出家するとは、自分の人生は無限ではなく、限りがあることを認めて、覚悟することである。つまり、納得とは覚悟を決めて生きようとすることなのだ。

わたしも今年、新しいチャレンジを仲間と広げようとしているところだ。それは現代のビジネス社会の中で、ともすれば過大なプレッシャーをかけられ、消耗しがちな技術者たちを応援するための取り組みだ。やるからには、せめて自分で納得がいくように努力したいと思っている。


<関連エントリ>
 →「コストセンターとは何か」(2013-03-11) http://brevis.exblog.jp/19929083/
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」(2012-04-18) http://brevis.exblog.jp/17805452/
 →「進捗を把握する3つの方法」(2010-06-13) http://brevis.exblog.jp/12797525/



by Tomoichi_Sato | 2017-08-11 23:45 | 考えるヒント | Comments(2)

物語の力と、その危険性

「ニネヴェの街に行くには、この道でいいだろうか?」

靴職人のヨナが目を上げると、見知らぬ旅人が立っていた。旅人の服は奇妙なことに、上から下まで縫い目が一つもない。ヨナがこの道だと答えると、旅人は謝礼を手渡し、消えるように去る。見ると銀貨十枚だった。思いがけぬ臨時収入を得たヨナは、仕事を切り上げ、滅多にいけぬ上等な酒場に行くが、汚れた仕事着のままの彼は、すぐ店を叩き出されてしまう。

ヨナは仕方なく古着屋に入り、仕事着の代わりを探す。すると古着屋が出してきたのは、たった今旅人から買ったという、縫い目のない衣だった。ただならぬ予感を感じながらその衣をまとい、酒場で泥酔したあと道にへたりこむヨナに、真っ暗な闇の中で神の声が幻聴のように聞こえてくる。

「立って、かの大いなる街ニネヴェに行き、よばわりてこれを責めよ。40日にしてニネヴェは亡ぶと・・」

−−『エホバの顔を避けて』(丸谷才一・著)の物語は、こんな風にはじまる。元になっているのは、旧約聖書にある「ヨナ書」である。この預言書は短いが、珍しくも神と預言者の相克を描いて、古来多くの作家の想像力を刺激してきた。

預言者とは「神の言葉を預かった者」の意味で、占いの予言者とは違う。ヨナ(英語読みはジョナ)は、堕落した大都市ニネヴェ(現在のイラク、モースルの近く)に厳しい審判を告げる言葉を託されるが、「そんな大役は荷が重すぎる」といって神から逃げ回る。そのあげく海で大魚に飲まれ、三日三晩その腹の中にいて吐き出され、ようやくあきらめてニネヴェに赴く。破滅の予告をのべ伝える者が、歓迎される訳はないと覚悟しつつ・・

預言という仕事は、変哲もない普通の人間が突然、神に呼ばれて、託される。預かるのはしばしば糾弾、世の人びとが聞きたくもない正義の糾弾である。かくて預言者は、世と対立することになる。ヨナが怖れたのはこれだ。英雄的でも何でもない普通の個人が突然、大いなる意思によって劇的な運命に巻き込まれ、日常から引き離されて、重すぎる任務を負って生きなければならない。ヨナ書が浮き彫りにしたのは、このようなストーリーの祖型であった。

良くできた物語は、人の想像力を強くかきたてる。わたしはこれを「強い物語」と呼んでいる。西洋人にとってはヨナ書の他に、モーゼのエジプト脱出だとか、キリストの受難などがある。シェークスピアの書いたハムレットも、強い物語なのだろう。我々なら、義経の逃亡や信長の戦記、あるいは忠臣蔵といったところか。こうした物語は、個性の強いキャラの配置と、カラフルなエピソードが連なり、随所にテーゼや教訓がはさまれている。

強い物語からは、多くの二次創作物が生まれる。上の小説もその一つで、縫い目のない衣を着た旅人云々は、丸谷才一の創作である。物語は人間の感情に訴えかける力を持っている。

さて、子どもを育てて分かったことが、一つある。それは、人が育つには物語の力が必要、ということだ。子どもやティーンエイジャーのころ、まだ定まらずに危うい自分を支えるには、自分を物語の登場人物に擬することが必要になる。男の子がスーパーヒーローもののTV番組を好みのはそのためだ。また女の子が、普通の主人公が光り輝くロマンス物語を好む(じっさいに育てた事がないので想像だが)のも、そのためではないか。

これは、社会に出てからも同じである。いや、むしろ、人が育つ時間は大人になってからの方が長い、ともいえる。厳しい世の荒波の中で、自分を支え、自分を励ますために、物語の力を援用する。それはなかなかすぐれた方法だろう。そのためには、多くのすぐれた物語を自分の中にストックするべきだ、との意見も聞いたことがある。なるほど。それなら、頭に映像まで浮かぶような物語の方がいいだろうとも思う。

物語は人間の心の栄養である。だから人を引きつける。そして、本当に奥深い真実は、神話的な物語を通じてでなければ、他人の魂に伝わらないことがある。

良い物語は「多層的」であり、象徴的である。たとえば主人公の多くは、複数の使命の葛藤の中に投げ込まれる。ハムレットも、ヨナの物語もそうだ。また物語は、それ自体がファンタジーであることを示すことがある。父王の亡霊や、ヨナに下る神の声のように、異界との結びつきが一瞬現れるのである。そして、 無関係な偶然と思われたエピソードの点と点が、最後につながって必然を示したりする。

それと同時に、物語は、自分が出会うできごとを理解するための、型紙(パターン)であもる。引きこもって部屋から出てこなくなった高校生の一人娘のために、日が消えてしまったように暗い家庭の話を聞いて、それは「天岩戸の物語」だなあ、と思うようなものだ。娘さんは家族の太陽だったのに、急に隠れてしまったのだ。彼女にショックを与えたのはどこの素戔嗚尊なのか。彼女が出てくるためには、どんなアメノウズメが必要なのか。物語による「見立て」は、すぐにはのみ込みにくい事柄を、あてはめて理解するための補助線なのである。

ところで、物語にはこのような力があるのだが、逆に危険性もある。それは、出会ったできごとを何でも、手近な物語の型紙、貧弱なテーマにあてはめて、理解しようとする傾向である。こうした傾向は、メディアの報道でも、ネットの解説でも横行している。

ある人が、会社で新しい取組みをはじめた。うまく回り始めたので、メディアの記者の取材に応じた。ところができてきた記事を見ると、180度違うとまでは言わないものの、45度くらい方向性の違う話になっている。メディアは広報機関ではないのだから、必ずしも自分たちの意向に沿った話にならないのは、その人も承知している。だが、なぜ言ったはずもない別の要素が(この場合はAI系技術の応用だったらしいが)付け加わっているのか? 記者が、相手の話を聞く際に、「AI技術で生産性アップ」といった、自分の中で慣れ親しんだ物語に当てはめて、解釈してしまったのではないか。

ものごとを、手垢のついた物語のテーゼにあてはめる。そうすれば、頭の節約になる。かくして、こういう話は際限なく増えていく。手近な物語の原型とは、たとえば:
- やる気さえあれば何だって可能である
- 魔法の道具を手に入れたら問題は解決する(→AIなんかはこのバリエーションだ)
- 組織のパフォーマンスはリーダーが決める
- 人は競争させれば良い結果を出す
といった信憑である。

別の例を挙げよう。これは最近ネットで読んだ記事の冒頭である。特定の記者を批判するのが目的ではないから、メディアの名前は伏せる。

「日本の産業界を暗雲のごとく覆ったバブル崩壊後の「失われた20年」において異彩を放つ進撃を続け、A業界で世界最大手に飛躍したX社。長く辣腕を振るってきたY社長が率いる経営陣は過去最高益を連続更新しても気を緩めることはない。米国でグローバル生産を加速する巨大なモデル工場を稼働させ、得意の買収でZ事業を強化するなど攻勢を仕掛ける。・・」

これで中立的報道なのだろうか。自分の目には、スポーツ新聞の出だしのように見える。スポーツ紙は(はっきりいって)報道よりも、ファンに対する読み物、物語の提供を重んじる。企業欄の読者は本当に、散文的で退屈な事実の報告よりも、感情的で血湧き肉躍る物語を求めているのだろうか。まあ、解説記事はしょせん読み物だ、客観性よりも面白さだ、というポリシーならそれはそれで良い。ただ、それを手がかりにして、投資を計画したら危うい。

こうした傾向が広まると、客観的な趨勢や、統計分析可能な傾向も、すべて「人格のドラマ」「戦(いくさ)の物語」だけで解釈される危険性がある。以前、ある商業系コンサルタントに、外食産業に関係する情報源となる参考書をたずねた。しかし、その人が教えてくれたのは、経済作家の書いた小説だった。わたしは客観的な「データ」をたずねたのに、この人は「物語」を答えたのだ。リーダーたちの物語で、チェーン店の店長たちならば鼓舞できるかもしれない。だが、それを手がかりにして、セントラルキッチンを設計できるだろうか。

自分が出会うできごとに対して、手元にあるテーゼや物語で解釈することを続けたとき、その結果として何が生まれるだろうか。「ああすればこうなる」という分かりやすい物語から、何か学びを得るだろうか? 自分がすでに「知っている」信憑が強められるだけではないか。自分に励ましや慰めは得るが、できごとを見て、はっと我に返ることがなくなる。そういう単層的な情報をいくら得ても、学びにはつながるまい。

ヨナの物語は、「ああすればこうなります」という単純なテーゼを示しているだろうか? たとえば、善行をすれば幸せになれます、という話だったろうか。神様をそんな、善行をインプットすれば恩寵を出してくれる、自動販売機のようなものに描いているだろうか。そういう単層なテーゼの行き着く先は、「俺は偉い」という単純な物語ばかりで敷き詰められた人生だ。そんな物語にとって、他者は(つまりあなたやわたしは)、使い捨てのザコキャラになってしまうだろう。

問題の根源は、現代のわたし達の想像力が痩せてしまっていることにある。それが、単純な物語性に頼る知的衰弱を生んでいる。想像力は世界観を立体的にする鍵である。わたし達はもっと、多層的で、単純でない出来事に直面する勇気を、もたなければならないんじゃないだろうか。単純な物語に還元せずに、丁寧に点と点を追うこと。仮説を得たら一つひとつ検証してみること。そうして、少しずつ想像力を磨き上げること。これはなかなか手間のかかる、面倒くさい作業である。

だが、そうしないと、本当に豊かな「良い物語」には近づけないのだ。良い物語がなかったら、誰が自分の天命を知ることができるだろうか。

天命を知るとは、自分の物語を生きることなのだから。



by Tomoichi_Sato | 2017-07-30 23:50 | 考えるヒント | Comments(0)

怒りやすい人びと・怒っていると気づかない人びと

近所の通りを歩いていたら、信号が黄色から赤に変わりはじめたのに、交差点に突っ込んできた乗用車があった。強引に右折して進んでいく。歩道近くの歩行者たちは、あわてて身をひき、皆がひやりとした。車のドライバーは、年配の男性だった。みたところ団塊の世代くらいか。車種はそれなりの中型車だった。

何を怒っているのだろう。わたしは思った。あきらかに、何かに腹を立てているかのような、乱暴な運転だった。別に渋滞でもなく、忙しい通勤の時間帯でもない。だから別のことに腹を立てているのだ。

それにしても、彼は何に怒っているのか。立派な車も持ち、たぶんきちんと家庭もあり、年齢から見て、日本の高度成長の栄光と共に生きてきたはずだ。年金だって、それなりにもらっているだろう。多くの若い人から見れば、うらやむべき境遇ではないか。

もちろん、日常生活には腹の立つ場面はたくさんある。出がけに夫婦げんかでもしたのか、あるいは、好きなチームが夕べ大敗したのか。それとも愛する日本が国際競争力ランキングで先進国中、最下位になったニュースでも見たのか? だが怒りの原因が何であれ、いったん人前に出たら、それに飲まれない分別を身につけているはずの年配ではないか。別のところで腹いせするなど恥ずかしい——それが大人だろうに。

別の経験もある。会社帰りにある店に入ってカウンターに座り、好きなギネスの黒ビールを頼んで、本を読んでいた。すると突然、近くにいた男性(彼もたまたま団塊の世代のようだった)が、「貴方は明るい方ですか、暗い方ですか?」とわたしに問いかけてきた。わたしは一瞬、訳が分からず目をぱちくりしていたと思う。冗談めかしていたが、難詰する口調だ。すぐに、“こんな洒落た店なのに一人で暗く本なんか読みやがって”、と相手が思っているらしいことが見て取れた。余計なお世話ではないか。するとマスターが(その店のマスターが英国人だった)割り込んできて、「この人はこうして静かに飲むのが好きなんでしょう」と取りなしてくれた。

この男性も、わたしに腹を立てたらしい。だが、なぜ? 飲み屋で一人、本を読むのは彼の美学には適わないかもしれないが、迷惑をかけた訳でもない。彼は本当は何か別のことに怒っているのに、はけ口を、たまたまわたしに向けたのだ。

話を、ちょっとだけビジネス方向に向けよう。以下に紹介するのは、ITエンジニアが好む話題=『生産性』をめぐる問答だ。好むといっても、わたしの体験では、多くのITエンジニアは生産性というモノサシを信じていない。かわりに、「できる奴はできない奴の10倍、生産性が高い」「いや、30倍だ」「100倍だよ」「できない奴はゼロなんだから、無限大さ!」と言う風に、モノサシの客観性を無力化する会話を好む。仕事に費やす時間と成果は無関係、天才画家が一瞬のひらめきで創作するようなものだ、という逸話がいいらしい。

——生産性が人によって10倍違うというお話ですけれど、では、参考までに具体的に測った個人別の数字かグラフを見せていただけませんか?
「そんなものは別にありませんよ。こういうのは感覚論ですから。」
——そうですか。でも感覚論だけでは、こまる事もありませんか?
「ま、人の評価というか査定はね、やはり主観で決めるしかないと思いますよ。でも特に不都合はありません。」
——査定はそうでしょう。ですが、顧客が画面を10枚追加しろと急に追加要求してきたとき、生産性の基準が無かったら、どれくらい余計に時間がかかるのか、現有人数で足りるのか、答えられますか?
「そういうのもケースバイケースですね。経験の問題です。」
——ははあ。でも以前から、FP(ファンクション・ポイント)法とかCOCOMOとか、定量的見積手法が提案されていると聞いていますが
「そんなの実務には使えませんよ。ブレが大きすぎてね。」
——うーん・・では、どうやってプロジェクト全体の期間や工数の見積をされるんですか。
「教えてあげましょうか。それはね、ウチの場合、営業マンが上の者と一緒に、表を作るんです。横軸に月数をとって、基本設計や実装といったフェーズごとに、毎月何人くらい動員するか、サブチーム単位で人数を記入して、掛け算すれば工数が出ますから。」
——ああ、マンニング(配員)の表ですね。しかし、その表を作るにしても、システム規模から見て基本設計は3ヶ月でいいとか、設計SEは10人で足りるだろうとか、何か推算はされているはずです。その基準は何ですか?
「(とつぜん怒り出して)そんなの知りませんよ! 営業が勝手に見越して決めてくるんだ! こっちがどんなに苦労しているか知りもしないで、競争に勝てないからって無理に値引きまでして。いい加減にしてくれってんだ!」

日頃から我慢にガマンを重ねて不合理に耐えつつ、そのことを口に出せずに過ごしている人は、あるきっかけで急に怒り出すことがある。怒るなら、本当はその理不尽な上司だか営業だかに向かって訴えればいい。だが組織人ゆえに、感情を押し殺している。自分の気持ちを、見て見ぬふりをしている。そうすると、憤懣の感情が圧縮されたガスのように溜まっていて、直接関係ない方向、本来の理路を指摘した第三者に向けて、突然吹き出すのだ。

エンジニアの生産性を測定するのが難しいのは、事実である。そして多くの知的作業従事者は、自分の生産性を他者に規定されたくないし、ましてや、測って給与を査定してもらいたいとも、思うまい。

しかし、だから生産性は定義できないのだとか、測定しなくていいと考えるのは、プロジェクト・マネジメントの観点からは、全く別である。作業対象の規模のスケールと、生産性の基準が無ければ、工数の見積ができない。見積れなければ、マネーを稼ぐことができず、安定したビジネスが成り立たない。ビジネスが成り立たなければ、エンジニアが落ち着いて技術に打ち込む仕事ができないのも、道理ではないか。もし営業部門がバカでなかったとしたら、見積のブレは逆に、技術屋の側にふりかかってくるのだ。

だが、どこかで、そういった「不都合な論理」は自分の心からシャットアウトして、考えないようにしてきたのだろう。自分の中でひそかに『思考停止線』を引いている人びとは、しかし、いつのまにか次第に、この世は理不尽だ、自分は不当に扱われている、と思い始めていく。

あるとき聞いた精神科医の講演によると、怒りには実は三種類あるらしい。3つのモード(様相)があるのだ、という。それは、一過性の普通の怒りと、蓄積された抑鬱性の怒りと、冷えた軽蔑の怒り、である。

最初のタイプの怒りは、イライラやムカッとした感情で、放っておくといつかは発散し沈静化する。これは普通の感情で、誰にでもあるし、生きものとして正常な防御反応であるとも言える。何か問題が生じていることを、自分や周囲に気づかせるのだ。

二番目の怒りは、とくに朝、顕著に生じるものらしい。ああ! また一日がはじまるのか。なんでこの世はこんなにしんどいんだ! 起きるとそう感じて、うめき声を上げる。継続的な恨みや怒りが原因となる抑鬱、暗さである。これは普通、怒りとは意識されない。また、起きて活動するのが非常に億劫である。だいたい鬱の傾向のある人は、朝が辛い。朝は調子いいのに、毎日午後から暗くなっていく人は、まず、いないのだそうだ。

三番目は、やたらと他人をバカにする軽蔑である。日常的・習慣的な軽蔑の態度が、薄められた怒りの一種であることは、はじめて知った。軽蔑は誰にもありうる感情だが、これは心の体温を下げていく性質がある。怒っているのに、自分が怒っていることに気づかせない、いつわりの感情らしい。そして心の病態としては、要注意なのだという。

こうした病態を持つ、怒りやすい人びとには、病識がない。つまり、自分の怒りがこじれてしまっていることに、自覚がない。この人達の心の中には、おそらく、自分は社会から正当に扱われていない、という怒りが伏流しているように思われる。(もっとも、「自分は社会から十分すぎるほど正当に評価されている」と感じる人など、世の中にほとんどいないと思うが、そこは程度の問題だ)

そして、少しずつ他者への攻撃性が高まっていく。普段の日常では栓をして押さえ込んでいるが、何かの機会で噴出する。聞いた話だが、ある種の不祥事を起こした企業がいると、そこの代表番号めがけて、直接被害を受けた訳でもない人びとから、大量の抗議の電話がかかってくるものらしい。とくにTVワイドショーなどで取り上げられると、クレーム電話は一層エスカレートする。なんであれ、他者に「不正義」があり、非難してもいい理屈がつくと、群がる人達がいるのだ。道徳や正義の顔をした、一種のいじめである。

それで、どうしたらいいのか。わたし達が怒りをこじらせないためには、何か手立てはあるのか。

わたしは専門家ではないし、人それぞれに状況は違うと思う。そこで、これから書くのは、わたし個人の考えであることをお断りしておく。

まず、自分の感情に注意を向けることが、第一歩だろう。あ、自分は腹を立ているな、と気づくことだ。これは、言うほど簡単ではない。強い感情の波は、たいてい自分自身を巻き込んでしまい、客観的な味方を難しくするからだ。それでも、練習すれば、少しずつは気づけるようになるのではないか。

また、そのためには、他人の感情にもよく気づくよう、練習するのも一法ではないだろうか。他人の感情に気づきやすくなれば、自分の感情に対する感度も上がるに違いない。

なお心理学者によると、女性の方が男性より感情的に見えるが、案外、自分の感情を見ているもう一人の自分が、心の中にいたりするらしい(わたしは女性の心理は全く不案内なので、受け売りである)。

そして、「感情は育てるものである」という認識を持つことが、第二歩ではないか。こういうことを、わたしは子どもの頃に教わったことがない。だが知的能力が育てるべきものであるのと同じように、感情も大切な心の働きであり、やはり育てるべきものなのだ。情操教育という不思議な言葉があるが、大人になっても、自分の情操を豊かにすることは、必要なのである。

そして三歩目。それは「感情をコントロールする能力」を身につける・・ではない。ここが、一番のキモなのだ。わたし達の文化では、感情は押し殺すものだ、と繰り返し(無言で)教え込まれる。義理や社会の掟に従うために、腸が煮えくりかえりそうでも、それを表に出さずに堪え忍ぶのが立派である、と。そういうドラマを、歌舞伎の「寺子屋」から東映ヤクザ映画まで、いろんなバリエーションで繰り返し提供される。

おまけに、西洋、とくにアメリカ流の近代市民社会の倫理が、「感情より理性」「感情的になってはいけない」と教えている。これをわたし達は近代に、直輸入してしまった。先生方はいまでも、学校でこの建前を教えている。さらに最近の米国流「ポジティブ・シンキング」は、怒りというネガティブな感情を忌避する傾向に、輪をかけている。

だが、わたし達は、あまりにこうした教えに従順すぎたのではないだろうか。押さえ込み、無視した感情は、心の深層に潜り込み、いつか爆発する時を待っているのではないか。わたし達は上手に感情をコントロールできるほど、まだ大人ではないのではないか。それを、素直に自覚すべきではないか。

怒るべきときには、怒るべき相手に、ちゃんと怒る方がいい。それがわたしの考えである。直接相手にぶつけるのが社会的に無理なら、そのあと一人になった時でも、あるいはその日、寝る前でもいい。心の中で、いったん止めてしまった感情を追体験する。正しい対象に対して、ちゃんと感情を解き放つ方が、人間らしい。そうすれば感情は一過性の波として、心の中を去っていく。変に感情を抑えようとすると、むしろろくな事にならない。

それでも気持ちがざわつくときは、ときに短い瞑想をすると効果的だ。心を落ち着かせ、短くても静かな時を過ごすことは、わたし達に心のレジリエンシーを回復させてくれると感じる。

わたしがこんな事を書くのは、わたし自身が、短気で怒りやすい人間だからである。とくにわたしは、利口なふりをして底の浅い会話、論理的なふりをして理屈の通らない説明が、大嫌いである。そういう場面にあたると、つい、強い尋問口調の問いかけをしてしまう。つまり怒ってしまうのだ。だが、自分が怒っていることを自覚できない。自分は正当なことを言っているつもりでいる。

でも、論理的なつもりで、じつは感情的になっている人間ほど、はたから扱いにくい者はない。こうして無用に、人間関係を傷つけてしまう。これで人生、どれだけ損をしたことか。まったく頭を抱えたくなるほどだ。

こうした感情的欠点に気づくようになったのは、本当につい最近のことだ。もっと前に理解していれば、もう少し尊敬される人間、いや、せめてもう少し親しみやすい人間になっただろうに。だから怒りについて、自戒を込めて書いているのである。

成長に価値を見いだせる人は怒りにくい、という。そうだろうな。怒ること自体は、わるいことではない。だが、上手な怒り方と、間違った怒り方があるのだ。目の前のことに怒るのではなく、自分の本当の問題原因に対して怒る方がいい。わたし達は情緒的な文化を持っているのだから、もっと感情という資源を大切にすべきだ。そしていつわりのそして感情に自分が振り回されるのは、避けた方がいい。だからわたし達は、感情に関する小さなスキルを身につけるべきなのである。自分の感情を、ひどくこじらせてしまう前に。


by Tomoichi_Sato | 2017-06-17 09:24 | 考えるヒント | Comments(0)

「理屈を言うな」という理屈

15歳の時の4月。高校の入学式を終えたわたし達・新入生は、各クラスでの挨拶と簡単な自己紹介のあと、体育館に集められた。「オリエンテーション」という行事があると言うことだった。どういう行事かの説明はなかった。

新入生ばかり400人あまりが集められた後、体育館の扉が閉められたが、中には先生達の姿はなかった。壇上には学ランを着た屈強な上級生達が十何人か立って、両手を後ろに組み、胸を反らして立って、わたし達新入生をにらみつけた。どうやら『応援団』という存在らしかった。その中の団長格とおぼしき人が壇上の中央に立って、上半身を腰から前にかがめ、わたし達に向かって、かすれた声で

「ウース」

という声を発した。いや、正確には文字化が難しいのだが、とにかく強引に文字にすると、そういう音声だ。何事か、と驚いてきょとんとしているわたし達に向かって、壇上の、そして左右通路の応援団員達が、わたし達に口々に「返事はどうした!」「声が出てない!!」と大声で怒鳴りつけはじめた。どうやら壇上の人は「押忍(オス)!」とわたし達に呼びかけているのであり、わたし達はそれに対し、同じく「オス!」と大声で答えなければいけないのだ、という理屈が飲み込めるまで、たぶん10分くらい混乱の時間があった。

わたし達がようやく「オス」と声を揃えて返事することができるようになると、今度は校歌斉唱を命じられた。何人か固まって座っているブロックが指名され、校歌の一節ずつを歌え、というのだ。伴奏は応援団の大太鼓だけ。校歌と言っても、わたし達には簡単な歌詞のプリントが、入学手続きのときに、手続き書類の束と一緒に、渡されていただけだった。当然誰も歌えないし、覚えてもいない。無体な要求である。

だが立たされたものの口もきけずに黙っている新入生達に対し、応援団員は怒鳴った。「オリエンテーションまでに覚えろと書いてあったはずだ!」 たしかに配られたその紙をもう一度よく見ると、「オリエンテーションで校歌斉唱の練習をするので、その時までに覚えてくるよう、諸君と約束しておく」と書いてある。だが志望校合格に浮かれている新入生で、そんなものをまともに受け取った者はほとんどいなかった。

応援団員は恩着せがましく、では、一節ずつ我々が歌って示すから、お前たちはそれを復唱して繰り返せ、と指示した。かくて順繰りに新入生達は立たせられ、数節ずつ歌わされた。声が小さかったり、歌詞を間違えたりすると大声で叱られ、良しとされるまで、何度も何度も繰り返させられた。その間、回りの生徒がよそ見をしたり上の空だったりすると、すぐに通路の団員がとんでくる。体育館の扉は閉められ、出口にも守りを固めるように団員が立っている。実際に暴力がふるわれた訳ではないが、ほとんど脅迫的な雰囲気である。このような拷問に近い時間を、あとどれくらい過ごさなければいけないのだろうと、わたし達は思った。

ところで、あるブロックにさしかかって、うまく歌えないといって叱られた中の一人が、勇敢にも壇上の応援団員に向かって、必死の声を上げた。「たしかにプリントには『諸君と約束しておく』と書いてありますけれど、僕たちはとくに約束した訳ではありません。」 こうした火に油を注ぐような口答えに、応援団はどう反応するだろうかと固唾をのんだ。はたして、壇上にいる団長格の人は怒って、

理屈を言うな!

と一喝した。全員がしんとなる。そのとき、横に立っていた、もっと小柄で温和そうな人が彼を手で制して、言った(後で知ったが、実はこの人が団長なのだった)。

「たしかに理屈だ。だが、入学したら校歌を覚えるのは当然ではないか。君たちには春休みの長い期間があったはずだ。そんなに大変なことを、君たちに要求した覚えはないし、君たちから『約束できません』と言われた覚えもない。」

こう言われると、誰も反論できない。結局、オリエンテーションは2時間ほど続き、わたし達は校歌の1番はなんとか全員で歌えるようになった。だが校歌は全部で3番まである。明日もまた放課後にオリエンテーションの続きがあるのだ。わたし達はくたくたの心と体を抱えて、家路についた。

それにしても、理屈を言うな、という世界があるのか・・。帰り道、わたしは思った。本サイトの読者はお分かりと思うが、わたしは理屈っぽい人間である。だがわたしの高校は男子校だった。進学校ではあるが、古い高校で、バンカラの気質も残っていた。男社会で、しかも上級生下級生のタテ型序列の強い世界では、理屈を言うな、というセリフが通ってしまうんだ。理が通っても、力でねじ曲げられてしまう場所があるのだ。15歳のわたしは、このとき大きな教訓を得たと思う。

前回、「設計の『なぜ』を考える」で、わたし達は「なぜ」を問いかけたり答えたりするのがヘタだ、と書いた。だが、そもそもわたし達は、議論という行為自体が下手だ。そして、それは文化に多少根ざしたものだと、わたしは思う。理屈を言うな、は普通のノーマルな日本語である。賛成するにせよしないにせよ、意味するとことは誰にも通じる。だが、このセリフを外国語で言えるだろうか? とても難しいと思う。英語なら、”Don’t tell me your reasoning."といった感じだろうか。だが、あまりしっくりこない。イタリア語やロシア語で、これに類する言い方は可能なのか。アラビア語で、あるいはヒンディー語ならどうか。もしかしたら中国語や韓国語なら、似た言い方はあるのかもしれないが。

もちろん、どこの国に行っても、無体な要求、非道な連中は存在する。ただ西洋や中洋のように文化の根底が理屈っぽい社会では、そういう連中でも、自分たちが道理を蹂躙している、という自意識はあるのではないか。意識してやるのと、無意識にやるのでは、大きな違いがある。

理屈を言うな、というセリフは、どんなときに発せられるのか。それは、自分たちが共有している意思や熱情や気分に、水を差すな、という時ではないかと、わたしは考える。場を壊すな、といいかえてもいい。というのは、理屈というのは、自分と対象とを引き離すはたらきがあるからだ。『客観化』と呼んでもいい。自分と対象、自分と相手がほとんど一体化しているときには、理屈は無用で、入り込むスキマはない。たとえば恋愛に理屈はない。あるいはスポーツや勝負事で皆が一丸となっているとき、その行為の中に理屈を持ち出すのはヤボだ。そしてもちろん、上下関係の中にも。

理屈、つまり道理というのは、誰に対しても通用する。つまり公平である。万人に公平に与えられているのが、論理だ。こういうものは、上下関係の中の対話には、いささか邪魔なのだ。たとえば男子校の運動部のような場所では。あるいは一般に、タテ社会の中では。わたし達の社会における運動部(体育会)というのは、ある種、軍隊の中の人間関係を再現、ないし予習するための場所である。そこでは論理より熱情が優先される。

そして身分や立場の上下がある間柄には、議論はふつう成立しない。議論は一応、「対等」な間で行うものだからだ。

では、そもそも「議論」とはどのようなものだろうか。わたし達エンジニアが仕事の上で議論するとき、それはどのようなプロセスをとっているか、考えたことがあるだろうか? わたしの理解では、(少なくとも西洋社会では)議論は以下のようなプロセスを経る:

(1) まず参加者の共通の前提や目的を確認する。
(2) 議論の対象となる事実について、客観的・多面的に検討する。
(3) 問題となっていることや対策に関し、相互の意見を出し合う。
(4) 互いの視点や意見を組み合わせて発展させる。
 (ここで揉めたら、(1)や(2)に立ち戻って考え直す)
(5) 合意点を見つける。

つまり議論というのは一種の共同作業であり、一緒になにか建物を建てるような仕事なのである。まず(1)で共通の地盤を固める(ここが無いとそもそも議論にならない)。ついで(2)で、議論という建物の土台をつくる。事実というのはたいてい多面的で、見る人の視点によって見え方が異なる。だからここの部分は念入りに進める必要がある。そして、どちら側も「この上に建てて大丈夫」という風な認識を得るべく、客観的にものごとを記述することをつとめる。そして、このステップには自分の熱情や思い込みを持ち込めない。この『客観化』こそが、対象と自分を切りはなすような、“水くさい”部分なのだ。

その先も一応、順番に意見を応酬し合う、一種の共同作業である。互いにブロックを積み上げ合うような行為だ。そして互いに合意できる結論にたどり着く。それは建物の最上階に見晴台を築くのに似ている。これが議論のプロセス、あり方である。

だから、こうした議論では、基本的に「勝ち負け」がない。対等な立場同士の、共同作業だからだ。また通常の個人間の議論のみならず、学問上の論証も、ビジネスの交渉も、いや刑事裁判でさえ、こうした枠組みの中の『議論』の一種である、というのが西洋風のとらえ方だ。

まあ、議論に勝った負けたはないと言っても、もちろん人間だから、それぞれ途中や結果に対して不満もあり得よう。優位に立った方が、勝ち誇るような態度をとることもある。だが、原則として、議論は勝負ではない(和解に至らぬ民事訴訟やディベートという一種のスポーツは別として)。そしてもちろん、議論とは、どちらが頭がいいかの優劣を決める場でもなければ、言葉による喧嘩や暴力(口げんか)でもない。

こういう認識が文化(OS)の中で共有されていないと、意味のある議論ができなくなる。とくに、議論は口げんかではない、ということは早くから子ども達に教える必要がある。また、自分の意見に意固地にこだわらず、議論を通じて、オープンに変えていけるような態度を身につけさせなければいけない。

そして、議論とは広い意味で「学び」の一部である。なぜなら、「学び」とは考え方や知識や意見の変更をもたらすものであり、議論とはまさにそうした結果を生むためにするものだからだ。議論がきちんとできない組織では、認識も深まらないし、学びも行われない。そうした組織では、きっと同じような思い込みが受け継がれ、同じようなミスが繰り返されるだろう。

人間集団はいろいろな形で、不可避的に「上下関係」「優劣の順位」を作りたがる。それは一種、本能の一部なのだろうし、組織に一定の規律や効率をもたらすといってもいい。ただ、上の意見が下に対して絶対で、「理屈を言うな」という言葉で上下間での対等な議論を抑制してしまうと、組織は硬直化していく。理屈を含む議論はその解毒剤なのだ。少なくともわたしは、そう信じている。

私の高校が今でもあんなオリエンテーションという行事をやっているのかは知らない。たぶん、あんな野蛮なやり方は、今の時勢に合わないだろう。だが、15歳の記憶力はたしかに絶大だった。同窓会で集まると、いい歳したおっさん達が声を揃えて、今でも「こーしゃの、いーしずえ、動きなき〜」と校歌を歌うことができる。それと同時に、わたしはあの「理屈を言うな」という一言を忘れていない。あの一言はわたしに、偉大な教訓を与えてくれた。それは逆説的な仕方でわたしに、道理というものが弱い立場の者をまもる武器にもなりうるのだと、教えてくれたのだ。


<関連エントリ>
 →「設計の『なぜ』を考える」http://brevis.exblog.jp/25540003/ (2017-03-07)


by Tomoichi_Sato | 2017-03-13 22:16 | 考えるヒント | Comments(3)

設計の「なぜ」を考える

まだ駆け出しだった頃、工場改善コンサルタントの話を聞いたことがある。それなりに面白い話がいろいろあったが、1番よく覚えているのはヘアドライヤーの話だった。このコンサルタントは、製造業、とくに電気系メーカーの設計部門を訪れた際は、必ずヘアドライヤーの冷風スイッチについて、尋ねることにしていると言っていた。

「ヘアドライヤーには、温風のスイッチのほかに、必ず冷風のスイッチがありますよね。御社の製品にも、ついていると思います。ではこの冷風のスイッチは、何のためにあるんですか?」

皆を集めてこう質問すると、たいてい誰も答えない。日本の会社は、皆そうだ。でも繰り返して尋ねると、中には元気のいい若手社員が手を上げて、こう答えたりする。

「はい。それは、あの、夏なんかの暑いときは、冷風で頭を乾かしたほうが気持ちいいからです。」

するとコンサルタント氏は続けて聞き返すのだそうだ。「それは本当ですか? じゃぁ、夏に冷風で頭を乾かしている人、手を上げてください。」実際には、手をあげる人はほとんどいない。そこで彼はとどめの一言を放つ。

「アメリカのメーカーに行ったら、こういう答えが返ってくるんです。『髪の毛は熱風を当てると柔らかくなるが、冷やすと硬くなる性質があるので、スタイリングをするときには最初は温風を当て形を作り、最後に冷風スイッチを使って固めるのです。』・・ところが皆さんはそれを作っているのに、なぜそれがあるかを知らない。」

アメリカの技術や製品を日本に持ってきたときに、何も考えずに形だけ真似するから、こういうことになる。何のためにあるんだか理解しないまま、機能をつけてしまう。そのためムダに設計も検査もコストが上がる。・・コンサルタント氏は私たちに、そう教訓を述べた。

もう一つ彼は例をあげた。「どこの工場に行ってもスパナって言う工具がある。知ってるでしょう? ところでこのスパナって、なんだか妙に握りが太くて持ちにくいじゃないですか。だから職場によっては工夫して、わざわざ細い棒を持ち手側に縛り付けて、持ちやすくしている」(彼は黒板に図を描いた)。「でも、なんでこんなことしなくちゃいけないんです?」——無論、わたし達は答えられない。

「それはね、最初にスパナをアメリカから持ち込んできた人間が、そのままのサイズで複製したんですよ。だからアメリカ人のデカい手に合わせた握りになってる。考えないでただ真似したんじゃ、工夫にならない。」

このコンサルタントの言うことがどこまで正確なのか、私はよく知らない。でもその時の私の頭には、『直輸入技術』の弱さ、脆さが刻み込まれた。それは「技術導入は麻薬のようなものだ」といっていた大先輩の言葉を思い起こさせた。外国からの技術導入は、最初は楽だが、次第に自分で考え、開発する力をなくしてしまう。

わたしはエンジニアである。最近はもう自分で設計する事はほとんどなくなってしまったが、それでもエンジニアだと思っている。なにか設計したら、結果は図面や仕様書に落とし込む。その結果が下流側部門のインプットとなって、関連する設計や調達や製造に使われる。それがエンジニアの仕事だ。

だが、エンジニアとして先輩の仕事に学び、自分の成長の糧とするときには、それだけでは足りない。設計の結果だけではなく、考えと仮説を学ぶ必要がある。先のコンサルタント氏による、冷風スイッチのエピソードは、そのことを示している。「技術を伝える」とは、結果としての形だけを教えるのでは不十分なのだ。「なぜ」そうなのかが大切だ。ノウハウ(Know How)より、ノウホワイ(Know Why)が大事だと、わたしの勤務先のトップマネジメントも、よく口にしている。

だから設計をするときには、設計の理由を記した設計ノートやメモやコメントを、なるべく作って残すようにしましょう。

・・というだけでは、実は話はまだ終わらないのだ。

なぜなら、わたし達は「なぜ」を問うたり、「なぜ」と問われたりするのに、文化的に不慣れだからだ。そうでなければ、どうして、誰かが大勢に理由の問いかけをしたとき、皆、遠慮したかのように答えないのか。間違っていても、推理を述べればいいではないか。間違いだったら、そこで学べばいい。別に命を取られる訳でもない。それなのに、「間違った答えをいうと恥ずかしい」という気持ちが先に働くから、誰も人前では答えなくなる。あとで廊下で講師をつかまえて、小声で確かめたりする。それで知識を共有できるだろうか。知らないことの方がもっと恥ずかしいはずなのに、皆が知らなければ、怖くないのだ。

「なぜ」の問答に不慣れなわたし達が陥りやすい「なぜの罠」は、何種類か考えられる。

説明1 「そういう慣習だから、昔からそうだから」
 よくある答え方である。上の冷風スイッチと同じだ。これでは理由を説明していることにはならない。

説明2 「目的はこうだから、機能はこうだから」
 なぜ冷風スイッチがあるのですか? それは、冷風を送れるようにするためです・・これは、質問のたんなる言いかえに過ぎない。その機能の目的が、使用者にとってどんな時どのような意義や利便を提供するか、の答えになっていない。答えのはるか手前で止まっているのに、なんだか答えたような気になっているだけである。

説明3 「それはこういう仕組みなんです」「こういう経緯でそうしました」
 ここのボタンを押すと裏で自動的にこのモーターが作動して・・とか、その機能はもともと別の形で実装する予定だったんですが経緯があって・・とか、詳しい説明が続く。だが、それは単に詳細化して説明するだけで、WhyではなくWhat, Howを述べているだけだったりする。こういう答えもありがちである。

説明4 「顧客が(誰かが)決めたから」
 いやあ、お客さんが(あるいは先輩が、他部署が)そうしろと言ったんですよ・・こういう答え方は、WhyではなくWhoを述べている訳だ。言われたことは忠実にやる。しかし言われないと自分では意見やスタンスがない。これは、受注型ビジネスにたずさわるエンジニアに広く見られる傾向ではないか。すなわち、設計へのオーナーシップの喪失である。本当は、これがけっこう深刻な問題だという気がする。

説明5 「自分のセンスで決めました」
 この自信に満ちた答え方は、言い方を変えると「なんとなく決めました」と同じである。設計者のセンスはもちろん、大事だ。設計という仕事は一種のアート(技芸)としての側面があり、設計者の感性を磨くことは訓練の一部と言っていい。センスがあまりにもない人は、ちょっとその仕事に向いていないな、と判断される場合もある。
 だが、感性に頼りすぎる仕事ぶりは、他者にうまく説明できないし、理解もしてもらえない。エンジニアは感性と理性のバランスが大切なのだ。そして、スティーブ・ジョブズ級の感性の持ち主ならともかく、普通クラスの会社員に「俺の感性を信じろ」と言われても、当惑するだけだろう。
結局、こうした罠に陥りやすいのは、設計という仕事において、「なぜ」をあまり問わず、考えない習慣にあると言えないだろうか。

いや! そんなことはない。我々は「設計レビュー」を要所要所で実施していて、そこできちんとチェックしているのだ、とおっしゃる論者もあろう。なるほど。それは素晴らしい。きっとそうした組織では、設計レビューの基準が(それもレビューの方法・手順や体制ではなく、基準が)明確なのだろう。

だが、設計レビューという行為は、しばしば設計書の記述ルールや整合性チェックにとどまる場合が多くないだろうか? つまり、IT分野の例を出せば、設計の「なぜ」を問う代わりに、以下のような項目の確認に時間を費やすのである。
・ネーミングルール
・エンティティ(要素)の洗い出し
・要素間のリレーション
・記述法とフォーマット
・図面間の整合性
・入出力の検証可能性
これはこれで、結構だ。だがこうしたレビューをいくら重ねたって、「いらない機能」「非効率な構造」をあぶり出すのに役に立つだろうか?

かくして、『機能しないレビュー会議』という問題が生じるわけだ(その証拠に、ネットで検索するといろんな関連記事が出てくる)。設計レビューを本当に機能させたければ、きちんと「なぜ」を問いかけ、まともに「なぜ」を答える習慣づけの必要がある。

そもそも、設計のアウトプットが、単なる工学計算の結果ならば、わざわざ誰も「なぜ」を問うことはしない。「この熱交換器の伝熱面積はどう計算したの?」「HTRIの推算式を使いました」「あっそう。」それだけの話だ。そこにはHowはあるがWhyはない。Whyが登場するのは、「この流体は一部が熱で気化して混相になるはずなのに、なぜ液相の伝熱計算式を使ったの?」というような、『判断』が登場する場合だ。

そして、設計業務の一番の肝は、判断(design decision)にある。設計のdecisionとは、本質的にトレードオフ間の決断である。われわれがなにかの設計時に直面するのは、
・安定性と俊敏性
・冗長性と効率性(燃費)
・頑健性と軽量性
・複雑性と保守性
・オマケ機能と製作工数
・品質とコスト・・
といった、「あちらを立てるとこちらが立たず」風の状況下において、どのようなバランスをとるかという決断なのである。そして、決めるためには、なんらかの仮説や推測が要る。「なぜ」の問いは、まさに、設計者の仮説を言語化するためにあるのだ。

設計という行為の中核がこのようなトレードオフの判断である以上、わたしは人工知能(AI)が将来、自動設計をしてくれてエンジニアの職をどんどん駆逐する、などという想像には組みし得ない。AIどんなに発達しても、機械だけでは決して設計問題を自動的には決められないだろう。

なぜなら、それは仮説設定と価値判断だからである。

設計の結論だけでなく、思考のプロセスと判断基準を示すこと。それがエンジニアの仕事であり誇りであってほしいと、わたしは思う。このことは、以前紹介したように、人に説明するとき「なぜ」からはじめるべき(Start with Why)という金言とも一致している。だから、「なぜ」にもっと真剣に向き合おう。

<関連エントリ>
 →「『なぜ』からはじめよう - 仕事の目的を設定する」 http://brevis.exblog.jp/24334345/ (2016-04-18)

by Tomoichi_Sato | 2017-03-07 22:01 | 考えるヒント | Comments(0)

好きな事・上手にできる事・稼げる事・世の役に立つ事

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この図形をいつ、どこで見つけたのか、正直いって思い出せない。ネットで拾ってきたのは確かなのだが、今、検索し直してもオリジナルがどれか見つけられずにいる。でも、著作権不明なまま、掲げておこう。非常に気が利いていて、初めて見たときから面白いと感じたからだ。

言うまでもないが、これは「人生の目的」に関する、一種のベン図である。ベン図は集合の包含関係を示す図だが、日本人は視覚的な表現にたけている人が多いらしく、ほとんど説明せずに理解してくれる。この図は、わたしやあなたが、毎日している(かもしれない)ことを、大きく4つの領域に分けて示している。

図の一番上にある円が示す領域は、”You love it”である。つまり、好きな事、したい事を表す。そして、図の左側にあるのは”You are great at it”、すなわち「上手にできる事」を示す円である。さらに反時計回りに図の下側に目をやると、”You are paid for it”がくる。それは「稼げる事」だ。そして一番右にあるのは、”The world needs it”で、この円だけは説明に、二人称”you”を含まない点に注意してほしい。つまり、他者の視点をここだけに導入しているのだ。これは「世の役に立つ事」を表している。

この図が巧みなのは、隣り合う円同士が重なる領域に、さらに名称を書き入れている事だ。「好きな事」と「上手にできる事」の重なり合う領域、つまり自分が好きで、かつ上手な事は、自分にとって”Passion”(情熱)の源泉である。それはそうだろう。

「上手にできる事」で、かつ「稼げる事」の領域は”Profession”(職業)である。英語のProfessionは、単純な労働ではなく、プロとして認められる高収入な職業を示す。そして、「稼げる事」と「世の役に立つ事」の重なりは、”Vocation”(天職)となる。社会的に価値のある、お仕事である。

そして「世の役に立つ事」であって、かつ自分の「したい事」となる領域は、”Mission”(使命)という訳だ。稼ぎにはつながらないかもしれない。しかし自分がしたくて、世の役に立つ事。Missionは宣教という意味も持つが、欧米のキリスト教社会では、たしかに直接お金にならなくても、こうした活動に力を入れる人は多い。エバンジェリストなんて言葉も、この同類だ。

Passion - Profession - Vocation - Missionと、4つの言葉がいずれも高尚で、かつ脚韻を踏んでいる点にも注目してほしい。ここら辺がこの絵を見て感心したところの一つだ。

そして、全ての円が重なり合う中心の赤いスポット。これが”Purpose”であると、この図は説明する。生きる目的、という訳だ。「生きがい」と訳することも可能だろう。好きで、上手で、稼げて、世の役に立つ。そのような仕事を見つける事ができれば、たしかに大きなやりがいを感じ、熱中できるに違いない。

今年の抱負をどう決めようか。人生の中期的な目標は、どこに置こうか。年末年始の休みの間に、そういったことを考えてみた人は多いだろう。わたしもそうだ。連続した長い休みの日がないと、なかなか、重要だが緊急でない問題を考える時間が取れないものだ。そのときに、なんとなくこの図を思い出して、しばし眺めてみた。

ただし、この図は眺めるだけならば面白いが、いざ「思考の道具」として使おうとすると、あまり便利ではない事に気づく。自分の生きがいを見つけるために、では、具体的にどうしたらいいのか。

自分が今、日常の中で主にやっている事は、当然、「稼げる事」の中に入っているはずだ(利子生活とか年金生活で、一切働く必要のない人はのぞく)。そのうち、「世の役に立」たないようなこと、つまり反社会的な仕事で稼いでいるかというと、まあそんな事はないはずだと思う。だとすると、自分はもう自動的に、「天職」の中にいる事になる。あとはまあ、その中で自分が好きで上手にできる部分を探すだけだ。好きこそ物の上手なれ、だから、上手な事と好きな事は普通重なっている。だったら自分が普段やっている仕事の中で好きな事を選べば、それが「生きがい』になる・・そんな簡単なものだろうか? 何か違う気がする。

だいたい、自分が稼ぐために毎日している仕事の中に、好きでしたい事なんてほとんど無いよ、というのが、しばしばある悩みだろう。では、自分が好きで、したい事とは何なのか。多少の趣味や娯楽ならともかく、仕事になりうるもので、かつ自分がしたい事とは。それがなんだか分からないので、「自分探し」という奇妙な言葉がはやるのだろう。どこかに自分に向いた、しかも面白いことがあるに違いない、今の自分はかりそめの姿だ、今の仕事は腰掛けにすぎない・・と。

だがそもそも、自分のしたい事とは、最初からそんなに明確に自己の中に内在していて、いわば「発見されるのを待っているだけ」、という状況なのだろうか? 周囲の状況に応じて、上手に適応することを求められ続ける日本人にとって、「周囲のみんなが好きだというから」「周りから『それが似合っているね』と言われたから」、いつのまにか、“自分でも好きだと思い込んでいる”ことも結構ありそうだ。自我が強くて頑固な西洋人なら、「好きな事」はかなり明確なのかもしれない。だがわたし達の多くにとって、好きな事の輪郭はもっとぼんやりしているというのが、事実なのではないか。

そう。この図が、生き甲斐を見つけるツールとしては、必ずしも役立たない理由はそこなのだ。ベン図は物事(集合)の境界線を示す。それは1か0かであって、中なら集合に属し、外なら属さない。白黒はっきりした世界だ。だが、わたし達の「好きな事」「上手にできる事」などはもっと、なだらかにグラデーションがついた世界ではないか。ちょうど物理で言う電子雲のようなものだ。だからこの図は、4原子分子の電子雲のように表現されるべきなのだ。ま、それで分かる人が増えるかどうかはともかく・・(^^;)

だが、それでもこの図に表された概念は、チェックリストとしては非常に有用であると、わたしは考える。すなわち、自分が(たとえば)今年の抱負といて取り組もうとしている事、いろいろなアクションについて、
「それは自分が好きな事か?」
「自分が上手にできる事か?」
「稼げる事か?」
「世の役に立つ事か?」
を問うのである。そのとき、1か0か、YesかNoかで判別するのではなく、◎○△×といったグラデーションのレベルで評価してみるのだ。

そして、自分の希望するアクションリストについて、4つの軸から採点してみる。その結果、もし「好きな事」ばかりに◎がつくようなら、ちょっと自分は楽な方向に傾きすぎていないか、と疑ってみる。逆に「好きな事」が少なすぎたら、自分は何か無理をしているかな、と気づくだろう。

同様に、「上手にできる事」の色彩が強すぎるようだと、自分は他の能力を伸ばす事を怠っているのかもしれない。「稼げる事」が足りない場合、どうも趣味や使命感に走りすぎていて、生活を軽んじているかと反省してみるべきかもしれない。「世の役に立つ」ことが少なすぎると、家族や世間の付き合いを避ける傾向があるのかもしれないし、あるいはいささか身勝手になっているのかもしれない、と思ってみる。

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わたし達は、未来の自分のありたい姿と、現在のポジションとのギャップから、いろいろな課題を見つける訳だ。そして、それを埋めるべく、中期的なテーマを設定する。それが「今年の抱負」である。抱負はさらに、具体的なアクション・リストに落とし込む必要がある。ただし、今年の抱負のアクションを、総花的に10も20もリストアップしたら愚かだ。候補の中からある程度、優先順位をつけて選ぶプロセスを、わたし達はしているはずである。

そして、以前、「今年の抱負はこう作ろう」にも書いたように、こうしたアクションには、具体的なゴールのイメージと、その成功・失敗をはかる基準としての目標があった方がいい。そうしたことを、表の形にしてみる事をお勧めする。

こうしたアクションリストを年の初めに作るというのは、ちょっと大げさに言えば、わたし達の生き方において、海図と羅針盤を持つことに相当する。日々の雑事に流されがちな生活の中で、流されない自分の軸を決めるということである。

そして、実は同じような事が、会社における年度方針やアクションプランにも言えるはずなのだ。会社は稼ぐ事、利益を得る事が、もちろん第一目的ではある。しかし、不思議な事に、「お金お金」だけでは、わたし達は十分うまく働けないのだ。そこで、会社における種々のアクションについても、
・上手にできる事か(=自分たちの強みを生かしているか)
・したい事か(=モチベーションを高めるような仕事か)
・世の役に立つ事か(=市場性、コンプライアンス性は満たしているか)
をチェックしてみるといい。

アメリカの経営学者の中には、企業を、財務諸表の上の数値だけで追いかけて管理するのでは不十分なのだ、と気づいた人たちがいる。彼らは、財務に加えて、顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点などを取り入れた企業の通信簿=「バランス・スコアカード」(Balanced Score Card, BSC)を提唱している。これは、よく考えてみると、最初に示した図の4軸とよく似ているではないか。

わたし達は「生きがい」には、なかなか到達しないかもしれない。だが少なくとも、4つの軸のバランスをはかりながら、少しずつでも進んでいくべきなのである。


<関連エントリ>
 →「時間の中に生きる」http://brevis.exblog.jp/11897591/ (2010-01-03)
 →「今年の抱負はこう作ろう」 http://brevis.exblog.jp/21527608/ (2014-01-03)

by Tomoichi_Sato | 2017-01-12 23:04 | 考えるヒント | Comments(0)

ムリ・ムラ・ムダ 〜 どれが一番いけないか?

前回はムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。そこで問題の後半に移ろう。この三つ、どれが一番よくないのか?

そんなもん、甲乙つけがたい。どれもよくない点では同じだから、というのが大方の答えではないか?

それはそれで結構。一つの考え方だからだ。ただ、別の考え方をする人たちもいることを知っておこう。トヨタ自動車である。彼らの考えでは、ムラが一番よくないとされている。なぜか?

トヨタ生産方式では、周知の通り「働きに結びつかない動きをムダと呼ぶ」と定義する。そして徹底したムダ取りを行っていくのだが、このとき、「ムラがあるから、ムリをする。ムリをするから、ムダが出る」という因果関係で、物事を見る、と経験者からきいたことがある。つまり、なぜムダが生じるのか、という問題について、非常にジェネラル(汎用的)なレベルで

「ムダな動き」がある。
→なぜなら「ムリな作業」をしているからだ。
→そして、それはなぜなら「ムラのある指示」を出しているからだ。

という「なぜなぜ分析」がなされている訳だ。これが、トヨタの基本的問題意識なのだ。
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そこで仕事の改善の着眼点としては、まず「ムダ」をあぶり出すために、「見える化」を行う。トヨタにおける見える化というのは、単に何かを可視化することではなく、“問題が生じたときにすぐ検知できるようにする”ことだ。問題とは、標準から著しくはずれた状況をいう。だからこそ有名な「標準なくして改善なし」という標語がでてくるのである。

動いているのに、付加価値のある「働き」になっていないとき(前回の状況1・2の例でいえば、一生懸命仕事しているのに、やり直しが生じて結果に結びつかないとき、あるいは部品を探しに行っているため組立作業が進まないとき)、それがムダとして検知される。ムダが見つかったら、まず、現場でその支援と問題解決をする。

しかし多くの場合、ムダが生じるのは、何かムリをしているためである。たとえば、まだ上流設計が十分固まりきっていないのに下流の製作に着手したとか、組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、必要部品を順次配膳しながら組立てることにしたとかいう、無理である。そうしたことは、レイアウトや作業の流れの改善によって解消する。

だがなぜ、適正に作ったはずのレイアウトや、よかれと思って進めた作業フローが、無理を生み出すようになっているのか? それは、レイアウトの設計思想や作業フローの前提条件から外れた、ムラのある指示が出されているからだ。たとえば、取れるだけ仕事を取りに行き、人も足りないのに短納期で受注した、とか、先行内示よりも2割も多い注文が取引先顧客から来て、受けざるを得なかったため、製造現場が予定していた段取りを変えるような指示を出した、とかいった状況である。これが根本原因になって、ムラ→ムリ→ムダを生み出す、という構図である。状況1・2は結局、次のようになる。

状況1の構造:
 人が足りないのに短納期で受注した(ムラ)
  ↓
 上流設計が固まらないうちに、下流の製作に着手した(ムリ)
  ↓
 条件が変わってやり直しが必要になった(ムダ)

状況2の構造:
 先行内示よりも2割も多い注文が来たので、製造の段取りを変えて指示を出した(ムラ)
  ↓
 組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、配膳しながら順次組み立てた(ムリ)
  ↓
 組立作業中に足りない部品を探しに行った(ムダ)

ちなみに前回の状況3に書いた、非生産的な週次進捗ミーティングの背景に、ムラがあるかどうかは、わからない。しかし、一人ひとり進捗をきけばすむことに、全員を呼んで付き合わせたというムリはあっただろう。進捗報告だけならば、週報あるいは日報にインプットして集計する仕組みをつくっておき、全員が共有すべきタスクや問題だけを、皆を集めて話せば時間のムダは生じないはずだ。

ところで、ムダやムリは現場担当者自身が気づいて自覚できるが、ムラを無くすことは、担当者にはできない。それは指示の問題であり、すなわちマネジメントの仕事である。だからムラが一番よくない、ということになる。

それで、トヨタはムラを無くすために、「平準化」を重視するのである。つまり月間生産計画で月産台数を決めたら、それをまんべんなく、なるべく均等に作っていくようにする。当たり前のことだが、生産という仕事は、同じものを同じペースで繰り返し作っていけば、効率は最大になり、コストは最小になる。ムラが、見えない非効率と高コストを生むのである。

そして、ムラを無くすために、営業側は平準化した販売を心がけて努力する。これがトヨタの思想である。「一番安く作れるように、売ること」が営業部門の仕事なのだ。まあ、もともと自動車は季節性も少なく商品サイクルも長いため、平準化した販売に向いた商品ではある。ただ、彼らはその特性を意識して利用している。かつて'80年代に、それまで製造会社(トヨタ自工)と販売会社(トヨタ自販)に分かれていた2社が合併してトヨタ自動車が生まれるのだが、その動機の一つは、このような平準化した販売と生産の実現にあったと想像される。

もちろん、以上はトヨタの考え方である。別に、あなたはあなたの考え方を持っていい。わたしだって別に、トヨタの思想のセールスマンではない(だから「トヨタの真似だけでは儲からない」という副題を持つ本『“JIT生産”を卒業するための本』の共著者になったりしたのである^^;)。また、あなたの会社の製品は季節性や単発性が強く、平準化した受注・販売など思いもよらないのかもしれない。

だが、そういうあなただって、無理をさせられるのは真っ平だろうし、ムダだって嫌いなはずだ。だとしたら、見通し得ず準備もできないような対応を要求されたり、ルールなく気分次第で決断を下されることは、避ける努力をするべきである。少なくとも、そのことが非効率や高コストや長納期の原因になっていることを、指示を出す側に対して、明示する方が良い。

そして同じ事は、あなたのサプライヤーに対しても、するべきでないことはお分かりだと思う。サプライヤーが予見も準備もできないようなペースで発注や指示を出したら、彼らは必ずムリをして、結果としてムダを含んだコストがかかることになる。その高いコストを、結局はあなたの会社に請求してくるのだ。

とえばサプライヤーが適正に予見できないような再製作やリワークを含む発注をする場合、その予見できない分は、本当は実費精算契約にすべきである。そうすればリワーク分が「見える化」されて、あなたの側の改善のタネを与えてくれるだろう(念のためいっておくと、あなたの会社が海外に進出したら、そんなムリな注文は海外企業はふつう受けない。無理が通るのは、相手がつきあいの長い国内企業の場合だけだ)。あるいは、たとえばあなたの企業が大会社で、発注先の部品サプライヤーが中小だったら、ムリなJIT納品など要求すべきではない。むしろあなたの側で部品在庫をもって急な需要変動に対応し、サプライヤーに対してはより平準化した量を注文するようにした方が良い(後者のアイデアは、畏友・本間峰一氏による)。

ムラのある指示が、一番良くない。予見・準備ができ、実行可能な計画を作って、生産・販売が合意すること。あるいは発注者と受注者が合意すること。そして、それをお互い守ること。これこそが、わたし達を異常なムリ・ムダから守るすべなのだ。


<関連エントリ>
 →「稼働率100%をねらってはいけない」 http://brevis.exblog.jp/22236990/ (2014-07-27)
 →「ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える」 http://brevis.exblog.jp/25009088/ (2016-12-04)


by Tomoichi_Sato | 2016-12-09 07:18 | 考えるヒント | Comments(1)

ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える

「受験勉強で大切なのは、計画性とペースです。ムリ・ムラ・ムダは一番いけません。」中学校3年生の時、担任だったO部先生がわたし達に、そう説いた。『ムリ・ムラ・ムダ』というセットの言葉をはじめてきいたのはその時だった。当時すでに生意気な中学生だったわたしは、“平凡な語呂合わせだな”と、心の中で思った。そしてもちろん、たいして計画性もなく、むら気を持って受験競争を渡ろうとしたので、志望校2校を立て続けに落ち、最後に公立高校しか残っていない状況になってさすがに青ざめた。

長じた後、わたしは何の因果か、計画系のエンジニアになり、あまつさえ他人に「計画的に時間を使いましょう」だとか、「プロジェクト・スケジューリングはこうです」などと伝えて歩く仕事をする立場になった。まったく我ながらいい度胸である。もっとも生まれつき計画性が高く、プランニングのセンスにたけていたら、かえって「計画にはどういう技術が必要か」などと考えることもなかったに違いない。自分が自然にできてしまうことに、理屈をもって深掘りする必要はないからだ。

さて、担任のO部先生は、ムリとムラとムダがそれぞれ、どういう意味でどう違うかについては、説明してくれなかった。自明だから常識で考えろ、ということだったのかもしれない。だが、この三つは、そんなに自明なのだろうか。仕事においても、ムリ・ムラ・ムダがいけないのは周知の事実である。しかし、ちょっと考えてみてほしい。たとえば次のシチュエーションは「ムダ」に相当するのだろうか?

状況1:
「上流側の設計条件がかわってしまったため、途中まで進めていた作業がやり直しを余儀なくされた」

状況2:
「組立て作業の途中段階で部品が足りないことに気づき、資材倉庫まで探しに行って取ってきた」

『ムダ』という言葉を、“必要のない事をすること”という風に、常識的に考えている限り、上記はどちらもムダではないことになる。なぜなら、再設計であれ部品探しであれ、必要な作業であって、それなしには仕事は完遂しないからだ。もし上記の作業に従事する人が、作業日報をつけたならば、どちらも「直接業務時間」だとするだろう。明らかに、研修だとか清掃だとか部会だとかいった「間接業務」ではないからだ。

コストダウン活動などの号令がかかり、「時間のムダ取り」による改善アクションが叫ばれるとき、まず真っ先にやり玉になるのは、上記のような間接業務の時間だったりする。こうした間接業務は、顧客に対して直接、何らかの価値を提供するのに貢献しない。逆に、設計をしたり組立作業をしたりすることは、必須の直接業務である。これが通常の感覚であろう。

しかし間接業務の全てをムダと言えるかというと、少し問題がある。たとえば会計業務は典型的な間接業務だが、じゃあ経理はムダだからやめてしまえ、という議論にはなるまい。まあ経理は法的な義務だから、ムダかどうかの議論にはなじまないとしても、人事だとか広報だとか経営企画だとかいった仕事は、顧客に何かの価値を提供しているのか? もしこれらの仕事が、全体としてムダだと思われていないのだとしたら、「間接業務=ムダ」という図式は当てはまらないことになる。

また、直接業務の中にもムダは潜んでいる。たとえば、

状況3:
「週次のプロジェクト・ミーティングでプロマネが担当者一人ひとりに進捗報告をさせている間、他のメンバーはあくびをかみ殺しながら、スマホでこっそりメールを見たりしている」

というのは、何かムダを感じる人が多いだろう。じゃあ、進捗報告は不要か? と問い詰められると、ノーとは言いにくい。たしかに必要だろう。だが、なんだか生産性が低い(もっとも中には、進捗報告を聞きながら同時にメールを見ているのだから、むしろ生産性は高い、と答える人もいるかもしれないが)。生産性が低いと感じる理由は、<担当者1→プロマネ>の進捗報告を、他の担当者が聞いても、価値のある情報が少ないことがしばしばあるためだ。

仕事における『ムダ』の概念を、直接業務であるかどうかで定義したり、必要性だけで判断するのは、なんだかそぐわない点があることは分かった。では、ムダの判別は何がキーなのか?

最初の状況1の例に戻ってみよう。もし仮に、上流工程がきちんと設計を完成させて、顧客とも十分確認してから下流側に条件を流してくれていれば、このようなやり直し作業は発生しなかったはずだ。たしかにこのやり直し作業自体は、現時点では必要である。だがもう少しさかのぼって、もっと仕事全体の段取りをうまくやっていれば、不要だったはずだ。

状況2の例も、もしも(たとえば)組立作業でちょうど必要になるタイミングで、その部品が上流工程やサプライヤーから組立場所に供給されていたら、わざわざ資材倉庫に取りに行く必要はなかった。たまたま、何らかの理由で、消費するタイミングよりも前に供給されてしまったので、やむなく倉庫に一時的に保管するしかなかったのである。あるいは見方を変えて、かりに倉庫保管はやむを得なかった(たとえばロットサイズの理由などで)としても、組立作業の着手前に、物流係が必要とする部品全てをセット組みして配膳するような作業フローだったら、こうした部品探しの手間は不要だったろう。

つまり、『無駄』とは、仕事の段取りややり方がもっとスムーズだったら、やらずにすむ作業のことを言うのである。このように定義すれば、設計や製造だけでなく、経理や広報などの間接業務にも、いろいろなムダが潜んでいる可能性があることがわかるし、だからといって間接業務は全てやめてしまえ、などという乱暴な話にはならないのである。

ちなみに企業組織における間接業務というのは、自分達の仕組みの維持や能力向上、環境改善のために行う仕事である。人事がなければ給与も払われないし、研修がなければスキルアップも望めない。広報がなければ顧客の認知度にも有能な新人の採用にも差し支えるであろう。マクロな意味では、必要な仕事である。ただ、やり方や段取りがヘタだと、ミクロにはいろいろとムダが生じてしまう。

では、仕事における『無理』とは何か? 従業員を月に100時間も残業させることか? 大型トラックの運転手に、夜間の高速道路を時速110 kmで走らせることか?

YES、と即答したい気持ちはある。だが、ちょっと待ってほしい。人づてに聞いた話だが、かつてSUN Microsystemsの創始者だったビル・ジョイが、Unixワークステーションという新カテゴリーのコンピュータを世に出したときは、仲間3人とで半年間、不眠不休で働いた結果だったと聞いたことがある。定時勤務の観念があったかどうか知らないが、残業換算で100時間はかるく働いていただろう。だが、それを人は非難しただろうか。しなかったとしたら、それは結果が大成功だったためだけではない。そもそも、SUNの創始者達が、自らの意思でやったハードワークだったからだ。

物流業界の大型トラックが、夜間の走行を行うのは、道が一番すいていて、効率がよいからだ。スムーズに流れれば、それだけ運転のストレスも少ないだろう。だから物流トラックが終夜運行をしているのは、海外でもよく見られる光景だ。むろん、夜間労働が人間にとってハードであることは、異論の余地はない。そして遵法速度で運転すべきなのは、もちろんである。

そういう意味で、ムリと「不可能」とは別のことである。可能であり、ギリギリできてしまうが、長続きできない。これがムリである。

わたしの考えでは、『無理』とは、人の能力・性質・意思に反した働かせ方をしたり、道具の設計目的・使用限界を無視した使い方を繰り返すことである。過重労働の意思がない従業員を強いて働かせたり、設計上の最高速度ギリギリで車を走らせる(あるいはローギアで高速に走らせる)のは、ムリである。ムリはもちろん、しない方が良い。かりに当人の意思による無理であっても、それは一過性のことにすべきで、繰り返すのはよくない。ムリを続けると、きっとシステムが歪んでくる。機械ならば予期せぬ故障、人ならば病気、組織ならば能力と士気の低下をもたらすだろう。

では、仕事におけるムラとな何なのか。先月100個だった製品を、今月120個作るのは、ムラといえるのだろうか?

これもわたしの考えを先にいってしまうと、ムラとは「見通し得ず準備もできないようなペース・種類・場所での対応を要求したり、ルールなく気分次第で決断を下すこと」だと理解している。もし商品が季節品で、クリスマスに向けて需要が高まるものなら、10月に100個だったものが11月に120個でも、予期できるだろう。そして準備もできたに違いない。しかし、そもそも製造機械の上限があって、増産に週単位の準備がいるときに、急に「今月は120個よろしく」というのだとしたら、それはムラである。単に比率の問題ではないのだ。また、ルールなく突然、「あの外注先は気に入らないから今度の仕事は内製でいけよ」などと決めるのが、むら気というものだ。

さて。ムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。では、この三つのうち、どれが一番よくないのか? いささか長くなってきたので、この問題は次回に考えよう。






by Tomoichi_Sato | 2016-12-04 23:25 | 考えるヒント | Comments(2)

学ぶ人になりたいか、真似る人になりたいか

先週の10月21日(金)に、わたしが主査を務めるプロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会(長いから以後はP&PA研究部会と略そう)で、「プロジェクト・マネジメント教育への新しいアプローチ」と題する報告を行った。P&PA研究部会では数ヶ月前から有志6名が集まって、(仮称)PM教育分科会をつくり、ディスカッションしてきた。その中間発表と、会員同士の意見交換が当日の主な内容だった。

「新しいアプローチ」とはどういう意味か? それは「教えない」ことだ。いや、より正確には「教えすぎない」ことというべきか。わたし達は、教育とは「正解の知識」を伝授することではない 、と考える。マネジメントという行為は、ほとんどの場合、正解のない問いに答えて決断していかなければならない。なぜ正解がないかというと、どのような意思決定であれ、それがプロジェクトにもたらす結果には不確実性がつきまとうこと、また複数の価値基準がしばしば錯綜してトレードオフが生じるからだ。

である以上、「正解となる知識を暗記してすばやく問いに答える」風の受験勉強では、役に立たない。ただ、わたし達がくぐり抜けてきた受験競争では、ほぼ全ての問いに『正解』があり、それにどれだけ近づくかで勝敗が決まってきた。この教育のやり方は、行きすぎるとさまざまな弊害を生む。わたしは大学で定期的に教えているが、よくそうした「教育の害」を実感する。

現代の学生達にとって、学ぶことは、しばしば「目の前に出される課題をなんとかやっつける」ことと同義語になっている。目前の課題を(教科書やネットや友達の答えを見て)なんとか真似てしのぐと、もう忘れてしまう。わたしは授業の初めに、前の週の復習をするのだが、少なからぬ学生の頭の中に、前回の記憶が残っていないので驚かされる。グループ演習で手を動かして理解させたはずの事柄さえ、印象は残っても、知識はきれいさっぱり抜けているのだ。見事なほどの記憶の断捨離である。

そういうことを何年か繰り返したので、わたしは最近では極力、教える知識の量を減らすことにした。WBSとかPERT/CPMとかEVMSとか、さすがにプロジェクト・マネジメントの授業なのだから、話さない訳にはいかない。しかし知識伝達の量はなるべく少なくして、授業の中で考える課題を出すことに腐心している。知り得た知識を自分で吟味し納得しないうちは、身につかないからだ。また毎回、「今週のGood Question賞」を発表して、なるべく良い質問を教師に出すことを奨励するようにした。

それにしても教育が知識の伝授でないとしたら、いったい何なのか。教育の目的とは、「自分の中の不足を知り、自分で『学ぶ力』を身につける」ことである 、というのが、現時点でのわたし達の共通認識だ。教えること(Push型)から、学ぶ力をつける(Pull型)に転換しなければ、少なくともPM教育は機能しないだろう。その観点から、

「教育とは、成長を支援するプログラムのマネジメントである」

と定義し、PM教育のシステム作りとは、PMに興味を持つ者の成長支援プログラムの『プログラム・マネジメント』として構想する。それがわたし達のアプローチである。

分科会のメンバーは現時点で6名、うち1名が大学教員で、残る5名が実務家だ。業種もIT、通信、建設、エンジと多岐にわたる。この6人で、本当に役に立つPM教育のためのシステム(仕組み)を構想し、モデル研修の内容をデザインしている。

後者については手始めに、初学者向けの二日間の集合研修カリキュラムを検討中だ。座学は半日で、残る1日半は「ミッション・インポッシブル」と題するグループ演習になる。詳細はまだ開発中だから省くが、対象者は、ようやく固有技術について目鼻がついてきて、これから人を率いてプロジェクトを進める立場につくような、若手中堅クラスである。業種分野は広く構えて、なるべく多くの専門に共通するPM技術を学んでもらう場としたい。

それにしても、わたし達はセミナー屋でもないのになぜ、こんなことを考えるようになったのか。それはもちろん、皆が職場でプロマネの教育養成に悩んでいるからだ。現代の企業は、教育ということに対する取組みが、ひどくやせ細ってしまった。「会社は教育機関ではない」という言葉も聞かれる。また「業務多忙なときに、教育に割いている時間はない」という事もあるだろう(不況なのに多忙なのはたぶん、人減らしが進んだからである)。そして「即戦力」を求める風潮も強い。

まあ、昔の日本企業はもっと社内教育が素晴らしかったのかというと、そこはまた別の事情もあった。昭和の高度成長時代には、先進技術は欧米から来るものであったし、皆が「先進国」の真似をして、追いつけ追い越せ、でなんとか成長した時代であった。その時代、欧米がまさに日本にとって「正解」であった。だから正解を知って真似ることが、大人から子どもまで国是だったのである。

そのような時代はおよそ20年前、バブル崩壊と共に終わった。欧米を追い抜いて世界一、と鼻高々だったその時、わたし達の前にはもはや、真似をすべき正解は消え失せていた。自分の頭で考えなければならない状況がやってきたのだ。その壁をうまく乗りこえられないまま、真似るべきロールモデル探しで、ずっと企業も役所もメディアも、時間を空費してきたのではないか。

わたしはここで、「学ぶ」ことと「真似る」こととを、区別して使っている。真似ることは、乳児の時からできる。脳にはミラー・ニューロンというものがあって、他者の動きをそのまま真似ることができる仕組みがファームウェアとしてビルトインされているのだ。真似ることで、赤ちゃんは運動能力を身につけ、育っていく。ただ、そこには本能はあれども、目的意識はない。

学ぶことや習うことには、目的意識がある。そして学びには、必ず言語による伝達が伴う(真似には言語は必須ではない)。
目的意識 + 基本的な概念理解(言語化)+ 繰返し練習
これが「学びの基本構造」だ。

学びは、自分の中の不足や未熟を自覚することで起動される。ただ、ここで気をつけなければいけないのは、「学ぶ」つもりで、無意識に「真似る」体勢になることだ。

たとえば、よく他の業界の方から「エンジニアリング会社ではどうPMを教育されているのですか?」とたずねられることがある。PMが確立された業種というイメージが強いからだろう。エンジ会社だってプロマネ育成に悩んでいる点ではかわりがないのだが、まあ、自分の勤務先を例に挙げて、まず、我々のところでは「プロジェクト・エンジニア」という、いわばプロマネの見習いの職種があります、その経験を何年か重ねて、はじめてプロマネに抜擢される訳ですが、もともとプロマネ志向を持って入社する人も多いから、若い段階からそうした職種に配属する訳です・・というようなお話をする。

するときいている人の3人に2人はため息をついて、「ウチじゃプロマネになりたいと思って就職してくる人間なんて皆無です」といわれる。ベースが違いすぎて参考にならない、という訳だ。そこで問いをやめてしまう。あるいは、問いをかえて、PM用のソフトウェアは何をお使いですか、といった質問になり、この業界ではデフォルトで世界的にPrimaveraですよ、英語版ですが、とお答えするとまた、問答は行き止まりになる。簡単に真似られる点が見つからないためらしい。

だが、学びたかったらそこから先が大切なのだ。たとえば、「じゃあ佐藤さんもプロマネになりたくて今の会社に就職されたのですか?」ときいてくる人は滅多にいない。わたしも設計部門に最初入ったのだし、プロマネ志向でない新入社員はたぶん半数以上だろう。そういう人たちを多数抱えてプロジェクトを回す仕組みはどうなっているのか、プロジェクトの効率性やモチベーションを維持するにはどう工夫しているのか、PMO組織はあるのか。そういう点こそ、探るべきだろう。そして、自社とどこが共通してどこが違うのか、何をすべきか考える。

つまり学ぶということには、「共通性を洞察し、言語化する力」が必須なのだ。「学ぶ力」の基礎は抽象化能力だといってもいい。ここが弱いと、学びが真似に陥りやすい。

自分の勤務先の話だと面はゆいから、別の例を挙げようか。たとえばあなたが製造部の人だとする(製造業に興味のない読者は、続く数段落は飛ばしてもいいが)。そしてトヨタかその直系の工場を見学に行ったとする。整理整頓の行き届いた工場、数々のカイゼンの工夫、極小化された仕掛在庫、そして噂に聞くかんばんや自働化やアンドン・・かなわないな、ウチとレベルが違うや、と思う。説明員の人は、壁に張り出された顔写真付き技能マップの前で、トヨタ生産方式の話をする。そして「仕事=作業+改善」という概念で、改善をしないと一人前の仕事をしていることにならないから、皆が職場の問題の見える化を進めて、解決できるようになるため「物づくりより人づくり」に取り組んでいるのです、等と語るだろう。

あまりにもレベルが違うから、一気に自社をその状態にもっていくことは難しい。その時、真似る人は、じゃあどうしようかと考える。そして、カンバン方式だとか、定位置停止だとか、あるいは壁への掲示物だとか、取り入れやすそうな技を真似ようと考えるだろう。

では、学ぶ人はどう考えるか。まず、トヨタは生産計画にもとづいて大枠を決め、平準化で日々の指示を出し、かんばんや自働化を使って日々の細かな変動に対応しているらしいと考える。つまり大きな構造をまず、見るのである。なぜ、ウチと違って、トヨタでは生産計画が成り立ちうるのか。それは自動車という季節性の小さい商品の特性、そして輸出を含む販売力により、出荷量が計画しやすいからだろう。おまけに、日単位の指示についてきてくれるサプライヤー群がいる。だからこそ、在庫を絞って問題を表面化するという曲芸みたいな改善方法が可能になる。

そして、それを支えるのは「仕事=作業+改善」の概念を人々に徹底化したことだと気づく。一方、ウチはどうか。個別性の強い受注生産だ。出荷量は月単位では読みにくい。おまけに、現場の人たちに問題解決をしろといっても、それだけの素地を訓練してこなかった。問題が起きると怒 られた。だから問題が表面化しないよう、むしろ沢山の在庫を抱えることを推奨してきたようなものだ・・。そういう所で無理にカンバン方式を導入しても、現場は回らなくなる。じゃあせめて、組立工程の能力と日々の指示をバランスするところからやってみようか。「ミズスマシ」までは無理としても、まず部品の配膳作業だけでも分業化して、生産の停滞が材料によるものか組立工の技量によるのかくらいは、分かるようにしてみよう・・

学ぶ人は全体の構造を見る。そして自分との違いを考えた上で、取り組むヒントを探す。一方、真似る人は、すぐ取り入れやすいものを探そうとする。つまり、学ぶ人は大技を学ぶ。そして、自分ならどうするかを考える。真似る人は、小技しか真似られないのだ。少なくとも、マネジメントの技術については、そうだ。

お分かりだろうか? マネジメントの分野で、学ぶ力を得るためには、「学び方を学ぶ」必要があるのだ。学び方は一種のソフト・スキルで、練習が必要である。集まって演習できる場が望ましい。だから(話を元に戻すと)わたし達はPM教育の場とカリキュラムみたいなものを構想しようと考えているのだ。教育の目的が、「自分で『学ぶ力』を身につけること」、とはそういう意味である。

そして、わたし達がこんな取組みをはじめた理由は、そもそも企業における教育がやせ細ってしまっているためなのだ。だとしたら、技術者の側が、自分の身を守るために手を結び、互いの学びの場を作っていくべきだろう と、わたしは考える。ベテラン技術者も、そうした動きを側面支援するべきである。

わたし達の今回のチャレンジが、どこまで進めるかは分からない。だが心意気としては、会社にも頼らない。国にも頼らない。そして自分で自立できる能力を作る。それがわたし達に必要なことなのではないだろうか?


<関連エントリ>
 →「『わかる』ことと『知る』こと」 (2010-02-24)http://brevis.exblog.jp/12208254/
 →「プロジェクト・マネジメントの教育について」 (2014-01-27)http://brevis.exblog.jp/21619967/
<参考>
 「“JIT生産”を卒業するための本―トヨタの真似だけでは儲からない」 中小企業診断協会生産革新フォーラム・著


by Tomoichi_Sato | 2016-10-30 12:36 | 考えるヒント | Comments(1)

国際人として最低でも守るべきたった一つのルール ~ 「ありがとう」と家族に対してでも言う

じつをいうと、「国際人」だとか「国際的」だとかいう言葉が嫌いである。
(えーと、そういえばネットでは、何かを「嫌いだ」というセンテンスで文章を書き始めない方がいい、と聴いたことがある。好き嫌いは人それぞれだし、ネガティブな気持ちを発信すると、他人のネガティブな気分を引きつけるかららしい)
それでは、言い直そう。わたしは「国際人」とか「国際的」といった言葉が苦手である。・・ま、これで何かが変わったかどうかは不明だが。

でも、国際人とは一体、何を指すのか。わたしはそこが今ひとつ、分からない。ちなみに、国際人という言葉は、英語で何というのだろうか。International person? Cosmopolitan? どちらも、なんだか日本語で言う「国際人」とはフィットしないような気がする。たぶん、そういう概念は存在しないのだ。無論、”international"という形容詞はもちろんあって、意味も確立している。ただし人に対しては、あまり使わない。活動だとか、カンファレンスだとか、組織に対して形容することが多いと思う。最近は国際人と呼ぶかわりに「グローバル人材」という言葉が大はやりだが、こちらもGlobal human resourceでは何のことだか分からない。

さよう、その概念や実態はよく分からないのだが、そういうことを言いたくなる気持ちの方は、少しだけ理解できる。なぜなら、わたし達は、他の国と、少なくとも仕事の面では、随分違うからだ。

ご存じの通り、ちょうど1年前、わたしは「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」という著書を世に問うた。とくに海外プロジェクトの進め方について、勘所をまとめた本だ。幸い洛陽の紙価を高め・・とまでは至っていないが(笑)、それなりの評価はいただいている。でも、ときおり、疑問に思われる方もおられるようだ。なぜ、「海外プロジェクト」とひとくくりにできるのか、と。

海外といっても、アメリカ、中国、ベトナム、タイ、インド、英国、ドイツ・・とばらばらではないか。皆、それぞれに文化が違う。個性も癖もある。それを一括りに「海外」と言ってしまっていいのか? 同じ処方箋を書けるのか?−−そういう、もっともな疑問である。

だが、海外プロジェクトについては、ほぼ同じ処方箋で、どこでも適用できるのである。世界各国それぞれに個性的なのは事実だが、日本のビジネス文化だけは、他と飛び抜けて違うからだ。これは数字で証明できないが、長年それなりにいろいろな国で働いてきた、わたしの実感である。

ちなみにホフステッドという研究者は、多国籍企業IBMの従業員の分析を通じて、国民性が4つの次元からなることを明らかにした。その研究結果を見る限り、日本は他から飛び抜けて離れてはいないじゃないか、という反論が聞こえそうだ。

それは承知している。それでも、わたし達は違うのだ。どこが? それは、自他の関係性と、言葉に対する態度において、である。その結果として、契約取引に関する考え方が、ほとんど180度くらい違う。だからビジネス上では危ないのだ。比較文化論的には、全体の違いはたかがしれているだろう。だがビジネス文化だけを取り上げると、大きく異なる。

もう一つ。個人の対等性の概念が薄いのも、わたし達の文化の特徴である。この点は東アジアにある程度共通しているかもしれないが、個人間の鋭い対立を好まない特性とあいまっている点が違っている。その結果、わたし達の社会では、「場」とかグループ・団体への帰属と、人間の上下関係が、行動や判断基準の中心になる。これも自他の関係性のあり方から来る、一つの帰結である。そして、これはマネジメントのあり方に大きく影響している。「日本的経営」といわれる、タテ社会とコンセンサス(責任不在)によるマネジメント・スタイルである。だれもこれを、「アジア的経営」と一般化して呼びはしない。日本と他のアジア諸国とはかなり違っていることを、多くの欧米人は気づいているからだ。

という訳で先日も、サプライチェーン戦略研究部会で海外プロジェクトの進め方について講演した際、野村総研の方から「日本だけ、なぜかくもマネジメントのあり方が違うのでしょうか?」とご質問をいただいた。だが、それは質問する方が逆です、とわたしはお答えした。そういう質問はむしろ、エンジニアリング会社の社員が、シンクタンクのコンサルタントに聴くべき問いでしょう、と。わたしこそ理由を知りたいです、と。そう。この違いに気づいている人は、気がついているのだ。

さらに、他国をよく知らず、自国の枠内でのみ考えたがる点も特徴だ、という声もあろう。だから国際化が課題なのだ、と。だが、これは大きな人口と文化を抱えた大国なら、共通する特徴だとわたしは考える。アメリカだって、中国だって、大衆レベルでは似たようなものなのだ。だから日本のみの問題ではない。

だがそれにしても、もしあなたが国際人だとかグローバル人材にあこがれるのだとしたら、どうしたらいいのか? わたしは「国際人」や「グローバル人材」が何かはよく理解できないのだが、とにかく、日本の国境を一歩でも超えて活躍したいのなら、英語教育家の故・中津燎子氏が、かつて海外に行こうとする若い女性に与えたアドバイスを紹介したい。中津氏は、その娘さんにおっしゃったのだ。

「もし、朝食の席であなたのお母さんが、お茶か何かを食卓にいるあなたに出してくれたら、必ず『ありがとう』と口に出して言うようにしなさい」、と。

それはひどく単純な一言(行動)だ。だが、それを言うことで、母親は自分とは別の人間であることをあらわしている。感謝の言葉は、対等な人同士の時に使うものだ。それは、相手に対するディセンシー(謙虚さ)を示す。他人に何かをしてもらって、それで無言のままだったら、その行為は「あたりまえ」だ、という態度を意味している。いや、もしかしたら、内心ではあなたも感謝しているかもしれない。が、それは相手に確実には伝わらない(ついでに余計な話だが、「ねえ、わたしのこと愛してる?」と『言語による確実な伝達』を要求する^^;のは、ふつう女性の側だ、ということになっている)。だから、言葉にして伝えることを、自分のルールとする。 それを、習慣として自分の中に刻み込むのである。

「他人に何かをしてもらって」と今、書いたが、母親は他人だろうか? 他人とは、家族の外、身内の外、ムラの外をいうのだ、というのがわたし達の文化的習慣である。それに、そんなのいちいち水くさいじゃないか。

だが、たとえ親子で、上下関係があっても、なおかつ根本では対等な、別個の人格である。だから感謝の気持ちは、言語化して確実に伝えなければ伝わらない−−こうした論理で、世界の8割以上の国の文化はできあがっている。

それと同じように、取引において、売り手と買い手は、根本では対等である。そういう論理が、多くの国ではデフォルトである。現実には、立場の強弱もあるし、多くの場合、買い手の方が強い。だが、買い手が王様のようにワガママで、売り手は奴隷のようにふるまうのは「フェアでない」(公正の原理に反する)、というのが西洋社会の通念である。だから、両者の権利と義務をはかりの左右において、公平を期す。それを言語化した「契約」をたてよう、ということになるのだ。

そんな「契約」を、なんと神様が人間との間においたりする。でもって、人間がさらに神様とネゴシエーションしようとしたりする。こういう神話的な物語を小さいときから学んで育ってきたのが、世界の多数派なのだ。まあ、アジアの東側やアフリカのサハラ以南では、そんな神話はあまり見当たらないが、しかし、そのかわりマネジメント層はたいてい欧米で教育を受けてきた人たちであることを忘れてはならない。だから結局、世界のほとんどは契約社会である、という風にできている。

じゃあ、家族に「ありがとう」と言ったら、それですぐ国際人になれるのか? もちろん違う。ただ英語を喋る前に、英語の根底にあるOSを理解しようと言っているのだ。私は礼儀やマナーの話をしているのではない。そうした振る舞いの根底にある思考や行動の習慣OS)のことを言っている。何も欧米人が家庭でしている事を、そのまま真似ろと言っているのでもない。尊大で、家族に礼も言わない人間だって、きっと中国やアメリカにはごろごろいるだろう。そうではなくて、普段家族に礼を言う習慣がない私たちが、自覚してそれを習慣つけるといいと言ってるだけだ。そしてそれは、手始めに過ぎない。

上に述べた拙著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」では、わたし達が海外でビジネスに取り組む際、身につけるべきOSの要素として、
S+3K
をとりあげた。一番中心にあるのは、
・システム的な見方をする(Systems approach)
ことである。それにつづいて身につけるべき習慣は、
・言葉を大切にする(言語化)
・契約と責任を重んじる(契約責任制)
・かならず計画をたてる(計画重視)
である。システム・言葉・契約・計画の頭文字をとって、『S+3K』とよんだのである。この最初の2つのKが、今回の話に関係している。

わたしは、エンジニアにとって今後必要となるPM教育やリーダー教育に、こうしたS+3Kの要素をぜひ入れなければいけない、と考えている。誰もが遠くない将来、海外と何かの形で関わる可能性が大だからだ。そのときトラブルになってから、
「え? 目下のベンダーのくせに何で対等に要求してくるんだよ?」
「契約書に書いてあるって、あんなの形だけのセレモニーだったんじゃないの?」
などと、慌てふためいても遅いのだ。

だから、別段、国際人向けの教育コースなどをとらない人にも、申し上げたいのだ。小さな習慣から、自分の中に刻み込んでおいた方が良い。母親がお茶をくんでくれたら、配偶者がコップをとってくれたら、「ありがとう」と声を出して言おう。それで損することは、何もない。


(追記:中津燎子氏が上記のアドバイスをされた話は、「再びなんで英語やるの? (文春文庫 (195‐2))」の中だったように記憶しているのだが、今、書棚にその本がないため確認できない。もしかすると「未来塾って、何?―異文化チャレンジと発音」だった可能性もある)

by Tomoichi_Sato | 2016-09-11 22:15 | 考えるヒント | Comments(0)