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ハイ・パフォーマンス・チームへの道のり

チーム(組織)のパフォーマンスは何で決まるか、という問題を、このところずっと考えている。

組織の業績はリーダーで決まる、というのが現在、世に広く受け入れられている言説である。言説というより、最も分かりやすい直感というべきかもしれない。ひいきのスポーツ・チームがリーグでこのところ連勝している。監督がかわったばかりだ。だから新しい監督が良いのだ。あるいは、隣国の巨大メーカーは、オーナー経営者が超優秀な人材を本社に集めて、近頃なかなか業績がいいらしい。かたや、昔から製品を買ってきた国内の巨大電機メーカーが、何年間もひどい不振にあえいでいる。ならば、これは経営者がわるいにちがいない・・

どんなに長期的な業績であれ短期的な戦績であれ、あるいは数十人のチームから十数万人の組織まで、すべてリーダーの性格や良し悪しだけで、決定的に決まる。これが世間に流布する受け取り方だ。この方法にはいくつかの利点がある。まず、単純明快で受け入れやすい。また、リーダーだけを見ればいいので、分析方法として手軽である。リーダーの顔写真さえあれば、直観的に判断できる。他人の顔を見て好き嫌いを直観的に判断する能力は、誰でも幼児の頃からもっていて、万人が使え、とくに必要な予備知識もいらない。顔写真に加え、出身校や略歴に関するもあれば、完璧だ。これでほぼすべての属性は説明できてしまう。

もっともこの方法、多少の限界もある。一つ目は、業績結果はうまく説明できるが、業績予測にはあまり使えないことだ。また同じリーダーの元で、業績のアップダウンがあったりV字回復したりする現象は、説明がつかなくなる(まあ、そういう場合は「女房役」の人材の良し悪しで補足説明する方法もあるが)。

さらにもう一つ。多少なりとも組織の長やリーダーになって、かつ、思わしい業績を上げられなかった経験のある人間たちは、この方法の適用に慎重になる。自分が課長に昇進したとき、あるいはチームのキャプテンになったとき、すべての戦績が自分のせいとされるのは、いささか不本意である。この程度の手勢でどうしろというのだ? あの市場環境では、むしろ善戦した方ではないか。

むろん、中間管理職なら、自分の上司や経営者のせいにもできる(だからリーダーによる説明法はすたれない)。しかし世に中間管理職は数多いので、中には、業績はリーダーだけでなく、組織をとりまく環境や、組織が持っている要員、設備や技術などもけっこう重要ではないか、と考える人も出てくる。

まず、組織の要員のコンピテンシーについて見てみよう。リーダーの性格や能力だけでなく、チーム員の能力が高くなければ、良いパフォーマンスは発揮できまい。監督がいかに有能でも、選手陣があまりにオンボロでは、勝ちようがない。まあたしかに、前期最下位のおんぼろチームを新任の監督が率いて、見事に優勝する例もまれにある。めざましい例だから、皆の注意を引き、記憶に残る。しかし、そうでない例の方が現実にはずっと多いのだ。むろん、人を育てるのも監督の大事な役目ではあろうが、さすがに人は1日2日では育たない。

ついでながら、コンピテンシーというのは、そのポジションが要求する機能を果たす能力を意味する。すなわち、同じ人間でも、与えられた役目によってコンピテンシーはかわるのだ。優秀なピッチャーに、捕手をやらせたらどうなるか、考えてみれば分かる。ポジションを離れた、抽象的な『能力』レベルを議論してもナンセンスなのだ。よく、「優秀な人は何をやらせても優秀」という言い方をする人もいるが、じゃあ日本代表チームのポジションをばらばらにシャッフルしたら、チームの戦績がどうなるか想像してもらえばいい。つまり各人固有の能力と、適材適所な配員のかけ算が、コンピテンシーを生み出すのである。「リーダーの能力」というのも、その意味ではコンピテンシーの一部である。

個人個人のコンピテンシーと並ぶ、もう一つの大事な要素は、組織が利用可能な資源(資産)だ。具体的には、設備や道具などのハードウェア、そして技術や知識といったソフトウェアなど。設備や道具は個人の能力を増幅してくれるし、技術力や知的財産で優位に立つ、という業績の出し方もある。

さらにチームや組織をめぐる外部環境も、リーダーにとって大事である。ビジネスならば、市場環境全体が成長しているのか低迷しているのか、競合状態は厳しいのか、法制度や政策はどうなのか、といったことが、業績に影響を及ぼす。これらは自分たちだけではどうにもならない。無風状態と台風の中では、誰も同じようには走れないのだ。

人間の能力、組織の資源、そして外部環境。組織のパフォーマンスを決める因子は、もう他にはないだろうか? 

まだある。それは、システムとしての『組織のデザイン』である。ここでいっているデザインとは、単なる組織図のようなスタティックな絵を作ることではない。チームを、どんな機能をもつポジションから構成するか。各ポジションに対し、どんな仕組みで指示し統制するか。そして、各ポジションにどんな権限を与え、その働きをどう評価し改良していくか。これが「システムズ・アプローチによる組織デザイン」だ。このサイトで繰り返し書いてきたように、目に見えにくいシステムを、どう理解し設計するかが、管理技術=マネジメント・テクノロジーの肝である。工場ならば、人の働きとモノの動きからなる生産システムのデザインであり、知的成果物をうむプロジェクトならば、人と知識情報の動きからなるプロジェクト・フォーメーション・デザインがそれにあたる。むろん、こうしたデザインは、設備・道具・技術など有形無形の資産と密接な関係にあるし、成員のコンピテンシーにも大きく影響されよう。

それでも、「いや、やはりリーダーの役割は大きい」という声があるかもしれない。だって、組織のデザインも、リーダーのすべき仕事なんだから。まあ、それには一理ある。しかし組織の構造は、ルールや慣習によって決まっている部分も大きい。野球チームの9つのポジションを、監督は自由にかえられるだろうか? そうはいくまい。会社組織だって、法律上要求される部分はかなり多いのだ。もう一つ。リーダーの無能ゆえに、組織のパフォーマンスが急速に落ちるケースは、たしかにときどき見かける。こういうときは、たしかに「組織はリーダー次第だな」と感じることもある。ただし、お城でもどんなものでも、作り上げるには大勢の努力と長い時間がかかるが、壊すときにはあっという間だ。リーダーは、組織がダメになるときにはその「功績」が目立つが、徐々に組織が成長していくときには、リーダー個人の影響は必ずしも見えにくいことが多いのだ。

話を戻すと、組織デザインの一番プリミティブな形は、単なる個人の寄り集まりである。小学生が校庭でやる休み時間のサッカーのように、みながワッと団子のようにボールに群がる。役割分担も何もない。この「団子状態」から一段上がると、一応、ポジションと役割分担のあるチームになる。監督さんの指示と号令の元、皆が一応の機能的な動きを志す。ただし、監督がいなくなると、バラバラで集団機能が果たせなくなる。運転手のいない車のようなものだ。こうした「機械的な仕組み」からさらに一段上がると、組織の成員一人一人が、自分で考えながら、他者と連携し、パスを回してゴールを目指していく「有機的なシステム」になる。リーダーもいるが、全員が成果に対する当事者意識(オーナーシップ)を持っている。この有機的なあり方こそ、高いパフォーマンスを生む組織の姿なのである。

そして、このような有機的な組織を維持する上で大切なのは、働いている人々の気持ちのあり方=マインドセットである。それは仕事へのモチベーション(当事者意識)であり、また、集団としての思考と行動習慣(わたしが組織のOSと呼ぶもの)でもある。たとえば、命じられたからやっているのか、自分から自発的にやっているのか。それが最終的に楽しいからやっているのか、それをしないと後が怖いからやっているのか。こうしたことは、個人個人のコンピテンシーにダイレクトに影響する。また、以前『なぜなぜ分析は、危険だ』などでも紹介したように、組織が「ミスは個人の責任だ」「ミスは罰しなければ直らない」といった、性悪説的価値観を持っていたりすれば、当然ながら猜疑と情報隠蔽がはびこるようになる。

ところが、最もやっかいなことは、このマインドセットは、チーム(組織)のパフォーマンスの結果に影響を受けるのである。業績が良ければ、人々のモチベーションも上がる。モチベーションが上がれば、効率もさらに上向く。逆に業績が落下していくと、みなが「それは俺のせいじゃない」と考えはじめる。すると、人間関係はギクシャクして、さらにダウン・スパイラルにはまっていく。ここには、正のフィードバックが働くのだ。正のフィードバックが働く系は、ご存じの通り、安定化が難しい。

以上の関係を図示すると、次のようになる。組織のパフォーマンスを決める因子は大きく4つ。下から順に、(1)外部環境、(2)組織の持つ資源(技術等)、(3)組織のデザイン、(4)人のコンピテンシーだ。人のコンピテンシーは、マインドセットに影響される。ところがこのマインドセットのある部分は、組織のパフォーマンス結果から正のフィードバックを受ける。まあ、もっと要素を細かくすることも可能だし、厳密に考えればマインドセットの影響力は、組織デザインの中の評価基準のあり方に左右されたりもするが、ここでは複雑になりすぎるので略した。この図は、一種のモデルである。モデルは、多少の細部に目をつぶっても、本質的な要素をとらえることが重要だ。それが、モデルに対するリテラシーである。
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そして、わたし達の社会の産業成長の軌跡を考えると、面白いことが見えてくる。第二次大戦後の10-15年ほど、産業の復興を後押ししたのは、復興政策や朝鮮特需という「外部環境」であった。この時代は、とにかく働けば結果は出た。次の高度成長の15年間は、設備投資や技術導入の時代であった。重化学工業の発展は、「組織の持つ資源」が後押ししたのだ。だが、1970頃になると、曲がり角に達した。

その後、ごく一部の企業だけは、「組織デザイン」にボトルネックがあることに気がつき、トヨタ生産システムなどの『仕組み』の工夫をはじめた。しかし、大多数は新しい外部環境を求めて輸出に走るか、あるいは電子・情報など新しい技術に賭けることで業容を広げようとした。それなりの努力もあり、また幸運な追い風もあって成功を収めたが、95年頃のバブル崩壊以降になると、打つ手を見失っていった。

その時に、システムズ・アプローチによる組織のデザインに向かえば、まだ間に合ったろう。だが、自分なりの生産システムを考える代わりに、「カンバン方式」という道具を真似る勘違いが横行した。さもなければ、システムは飛び越して、管理職に対して「リーダーなんだからリーダーシップを発揮して、何とか問題解決しろ」と号令する向きもあった。管理技術のテクニカルなソリューションを飛び越して、精神論にいきついた感じである。あるいは個人の能力を求めて、『グローバル人材』なる偶像を追いかける、といった次第だ。

高いパフォーマンスという山の頂上へは、二つの道程がある。一つは、
 技術・設備 → 組織デザイン → 人の能力、
という尾根伝いのルートだ。最後の登坂には、マインドセットの助けを得る。もう一つは、
 技術・設備 → (精神論) → 人の能力、
という垂直ルートだ。どちらも高みには上れるだろう。後者の方がルートは分かりやすい。だが、高いリスクをもつ。

もちろん前者だって、決して楽な道のりではない。とくに、マインドセットという見えざるものが、やっかいだ。技術は左脳の論理で制覇できるが、モチベーションは右脳の感情との協調作業だからだ。ただ、これを掌中にしなければ、たぶん頂上は極められないはずなのだ。


<関連エントリ>
 →『なぜなぜ分析は、危険だ』(2014-04-26)
by Tomoichi_Sato | 2015-06-02 23:24 | ビジネス | Comments(2)

忙しいそば屋とヒマなそば屋 ~ 経済性工学とは何か、それは原価管理とどう違うのか?

技術屋は数字に強い、といわれている。たしかに数字アレルギーで電卓もさわれないような人は、技術的な設計作業には向かないだろう。技術で扱う数字は、仕様や長さや物性に関わるもので、kgだとかcmだとかいった物理単位系で測られる。わたし自身は(正直に言うと)けっこう粗忽な人間で、ときどき計算間違いもするが、さすがに数字が苦手だと思ったことはない。

しかしある意味で、「技術屋は数字に弱い」とも言える。少なくとも、数字に追われ、数字を見ながら生きている。こちらの『数字』は、コストに関する数字であり、単位は円やcentで測られる。物理単位系の数字は指先で自在にさばくエンジニアが、通貨単位の数字には頭を下げねばならない。通貨単位の数字は経営者の武器であり、その番人は財務や会計のプロ達だ。

通貨単位の数字は、判断に使われる。いや、物理単位系の数字だって判断には使うのだが、それは技術的な判断である。そのサイズじゃこの内径に収まらないとか、こちらの方が動力は少なくて済む、といった判断だ。それに対し通貨単位の方は、『経営判断』用である。この製品よりあの製品の方が原価が安いから生産を優先しようとか、東南アジアで作る方が人件費が有利だから国内工場は縮小しようとか、そういった判断だ。そうした数字を目標に掲げられ、あるいは横目で見つつ、技術屋は仕事をしている。

ところで、この経営判断用の数字を、きちんと技術屋の手中に取り戻そう、少なくとも技術屋の理解できるものにしよう、との目的を掲げた学問が存在する。『経済性工学』と呼ばれる学問分野だ(英語ではEngineering Economicsという)。経済性工学の基礎を知っているかどうかで、わたし達はずいぶん、経営数値に対するスタンスがかわってくる。

一例を挙げよう。これは経済性工学の古典的な教科書である、千住鎮雄・伏見多美雄著『新版 経済性工学の基礎―意思決定のための経済性分析』(日本能率協会マネジメントセンター)の例題をもとに、一部わたしが改変した問題だ。

ある観光地にそば屋があった。名物はもりそばで、この一品種しか作っていない。売値は1杯500円。もりそばの材料費は1杯150円だ。また、おしぼり代(業者に頼んでいる)が15円かかる。人件費と、諸経費(光熱費・店舗家賃等)は固定費だが、月間の平均販売数量で割って計算すると、それぞれ1杯あたり100円と75円になる。差し引き、1杯あたりの利益は、 500 - (150 + 15 + 100 + 75) = 160円ということになる。

さて、ある忙しいシーズンのこと。一人のお客さんがやってきてそばを注文したのだが、おしぼりを使い終わったときに、店の裏で飼っていた犬が店に入ってきたため、犬嫌いのお客は店を出て行ってしまった。ただし、この客のそばはまだ作り始めていなかった。このとき、店はいくら損をしたことになるか?——これが第1問。第2問は、同じ日に今度は店員が粗相をして、そばを一杯落としてしまい、作り直すことになった。そのとき、店はいくら損をしたことになるか? そして第3問。今度は閑散期に、また店員がそばを落としてしまった。今度は、いくらの損になるだろうか?

念のために注記しておくと、そば屋は一種の製造業である(販売もしている)。材料を加工製造し、販売して、利益を得ている。そばを落としたことは、製造の品質不良を意味する。犬でお客を逃がしたことは、(おしぼりを営業経費と考えれば)失注を意味している。

数字を整理すると、こうなる:
売価   500円
材料費  150円
おしぼり  15円
人件費  100円
諸経費   75円
利益   160円

答えを見る前に、ちょっとだけ考えてみていただきたい。とくに第2問と第3問に注意。なぜ、まったく同じ失敗について、わざわざ季節をかえて質問しているのだろうか?

ともあれ、順に考えてみよう。第1問。

おしぼり代の15円を損しただけ、と思うかもしれないが、正解ではない。この場合はすでに注文を受けていて、見込み客ではなく実際の顧客になっていた。犬さえこなければ、500円の売上を得たはずだ。ただし材料費150円には手をつけていなかったから、損にはなっていない。とすると、経済性工学では500 - 150 = 350円が損だった、と考える。

第2問。これも、材料費の150円だけを損した、と答えるのは正しくない。これは繁忙期のことだった。客は次々に来て、作るはしから売れていく。だとすると、そばを2個つくり、2人に売れたはずの時間内に、作り直しをしたおかげで1人分しか売上を得なかった。だから、500円の損失になる。

そして第3問。閑散期にそばを落として作り直したら、どうなるのか。この場合、店はがらがらで、たまにしか客は来ない。だから、倍の時間をかけたって、売上が減るわけではない。単にそばの材料費150円を損しただけになる。いや、へたをしたら毎日、材料を余らせて捨ててるのかもしれない。もしそうなら、損はゼロ円である。

なんだか奇妙だって? そう感じるかもしれない。じつは、経済性工学が教えるところは、普通の会計学とは違うのだ。その違いは、第2問と第3問の差に表れている。会計学では、その月が忙しいか暇かなんて、誰も問わない。

同じ金銭的数字を扱いながら、なぜ経済性工学は会計学と違うのか。それは、目的が違うからだ。会計学は基本的に、会計が適正に行われることを保証するために発達してきた。納税のためにも、また投資家への情報開示のためにも、正しい数値の集計と扱いが行われること。ところが経済性工学とは、経済的に有利な方策を比較評価し選択するために生み出された理論で、先々の意思決定の支援が目的である。

いいかえると、会計学は過去の金銭出納の分析報告に主眼があるのに対し、経済性工学は未来の意思決定に資することを目指している。したがって経済性工学では、つねに比較論が意識され、比較の対象をどこに置くかが問題になる。

繁忙期の場合、つねに製造を続け、作ったはしから売れていく状態が、比較の基準となる。製造資源(店員やそばをゆでる釜など)は稼働率100%のフル回転で働いている。大量見込生産状態といってもいい。製造資源が少しでもロスをすると、それは売上のロスに直結する。ところが、閑散期の場合は違う。閑散期は基本的に、製造資源が余っている。釜の中はたいていお湯だけで、店員はあくびをしている。こういう状態の時に、ロスが生じたからといっても、その分、見込顧客の売上を失うわけではない。不況期の受注生産と似た状況である。だから失うのは、外部に直接出ていく材料費だけだ(人件費や諸経費は、最初に書いたとおり固定費だから、売れても売れなくても変わらない)。

そして、気がつかれたかもしれないが、この例題における経済性工学の答えには、材料費やおしぼり代などの、変動費の分だけしか計算に出てこない。じつは1杯あたりの人件費や諸経費は、固定費を販売数量で割り戻して計算した値、いわば振り返りの(retrospectiveな)値である。だから、これから先の意思決定を考える場合は、あまり縁がないのだ。

ちなみに、上の三つの問いは、TOC(制約理論)のスループットの考え方を使えば、もっと直接的に答えられる。ただし千住・伏見『経済性工学』は1982年が初版で、ゴールドラット博士がスループット会計を言い出して普及するよりも、ずっと前に書かれていたことには注意してほしい。日本人にも独創的な学者はいるのだ。(ただし、そういう先駆性は国内ではあまり知られず、海外から輸入された学説の方が脚光を浴びるというのも、いかにも日本的ではある)

話がそれたので戻すが、繁忙期にこの店が失った金額は、会計学(原価管理)でいうコストではない。では、何なのか。それは『機会損失』である。英語で言うとOpportunity costだ。機会損失は普通、個別工程の製造原価よりもずっと大きい(そば屋の例をみればわかる)。品質不良や段取り替えで工程の生産能力を止めると、非常に高くつく。だから本当の経営判断は、機会損失を勘案して、行わなければならない。会計課が報告してくる製造原価の数値だけに頼って判断しては、いけないのである。

ところが機会損失は、会計の財務諸表には決して現れない。会計の数字は現実に立脚した数字、つまり事実起きたことの数字であるのに対し、機会損失は「つり逃した魚」の大きさを示す数字だからだ。

逆に、ある状況下では、売上や製造原価ではなく、変動費だけで判断すべきときもある。比較のための評価尺度は、目的と基準状態によって変わる。こうしたことを、技術者は知っておくべきである。そうしないと、他人から与えられた数字に、無条件に従ったり、踊らされたりする可能性がある。

前回わたしは、工場で製造マンが現場を離れてモノ探しに行くようなムダを批判した。しかし、より正確に言うと、これが直接のムダ(損)となるのは、この製造工程が『繁忙状態』にある場合に限られる。もし、この工程の稼働率が5割とか7割程度だったら、製造マンの生産性が下がったからといって、企業全体の損にはつながらない。

むろん、だからといってムダを放置していいという訳ではない。生産性を上げれば、製造マンが別の工程と掛け持ちにできるかもしれないし、少なくとも、もし繁忙状態になった場合に全体の足を引っ張るリスクを下げることはできる。ただ、ムダ取りの優先順位は、繁忙状態でなければ(=ボトルネック工程でなければ)少し下がることになる。ムダを取っても、直接は製造原価は下がらないだろう。リスクが(つまり機会損失の可能性が)下がるのみだからだ。

わたしは技術系の人にも、もう少し経営数値に強くなってほしいと思う。そのためには、経済性工学=Engineering Economicsを少しは勉強するべきだ。そのための初歩的な本だってある(たとえば伏見多美雄「おはなし経済性分析」など)。金銭の数字は、だれか得意そうな他人に計算してもらえばいい、という姿勢のままだと結局は、そのブラックボックスの数値に操られる結果に陥るだろう。

ただし、経済性工学を正しく使うためには、もう一つ、自分たちの生産システムの『基準状態』を見る能力が必要だ。基準状態は、自分の担当、自分の部署だけを見ていては、必ずしも分からない。全体像と、あるべき姿のイメージが必要だからだ。大局観と、適切な評価尺度の選択。そうした事柄を非技術部門や経営層に対しても説明・説得し、積極的にプロモートできるようになって、はじめて真の意味で技術者が主導権を得ることが可能になるのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-05-18 21:52 | ビジネス | Comments(0)

顧客ロイヤルティの向上 〜 次もまた選びたくなる企業となるために

「どちらにお住まいですか?」そう聞かれたら、横浜です、と答える。だが「最寄り駅はどちらですか?」とたずねられると、どう答えるか、わたしはときどき迷う。住まいからは、JRの駅、そして2本の私鉄の駅の、いずれにも出られるからだ。どこに行くかによって、使う駅を毎回決めている。便利な場所に聞こえるかもしれないが、どこからも中途半端に遠い、とも言える。

ただ、複数の選択肢が可能なときは、3つの路線の中で、京浜急行の駅を選ぶことが多い。じつはこの駅が一番遠いのだが、何となくそうしてしまう。京急はまず、列車のスピードが速い。これは今月の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」における八巻直一先生の講演で知ったのだが、京急は関東の私鉄の中では例外的に広軌、つまり線路のレール幅が広いのだそうだ。だからスピードを出しやすいということらしい。それに経験的に、停止するトラブルが少ないし、トラブルからの復旧が他社よりも早いと感じる。落とし物をしたときの対応なども、普段利用する他の鉄道会社より、おおむね良い。距離と価格の比で言うと、他の私鉄の方が相対的に安いのだが、鉄道選びは価格だけではない。

当たり前だが、価格だけで買い物を決める消費者はいない。性能、デザイン、品質、納期、支払い条件などを総合的に勘案して決める。競争とは、これらすべての項目を通じた競い合いである。とくに、消費者に具体的な商品を届ける消費財の場合、性能・デザインなど目に見える項目は、大きな競争力の要因となる。この事情は、サービスでも同じだ。鉄道やホテル、病院などでは、規模・機能のほかに、立地などの項目も重要だろう。

では、具体的な目に見える商品を持たぬ受注ビジネスにおいて、購買側の意思決定を決める要因は何だろうか?

これはすなわち、受注ビジネスの企業が目指すべき競争力とは何か、という質問でもある。いうまでもなく、コスト競争力が競争力のすべてではない。価格は競争の重要な一因子だが、非価格競争力もあるだろう。それは具体的には何か、との問いである。むろん、答えは業種業態によって違うはずだが、そこに共通するものはないのか。

ここで、『顧客満足度』(CS = Customer Satisfaction)というキーワードがひとつ、浮かび上がってくる。顧客満足度調査は、消費財の分野では昔からよく行われてきた。商品を買った消費者に、いろいろな角度から、その満足度を聞くのである。そして総合評点をつける(以下の記述は、圓川隆夫・著「我が国文化と品質 (JSQC選書)」に依っている)。CSの測定は、詳しく言うと、特定の製品・サービスを対象とした「モナディク尺度」と、過去の製品・サービスの使用経験に基づく「累積尺度」がある。いわば単発的な満足度と、累積的な満足度である。後者は、再購買行動との関連がより強いと言われている。

では、顧客満足度を左右する因子は何なのか。マーケティング研究においては、顧客満足度は『期待不確認モデル』(expectancy disconfirmation model)で説明されることが多いらしい(同書p.94)。このモデルでは、

CS = [使用時の知覚品質] - [事前期待]

で表現される。製品・サービスを実際に使用したときに感じる知覚品質と、事前期待に代表される各個人の比較標準との、差が顧客満足に現れる。事前期待が高いほどCSは低くなり、事前期待が低ければCSは高くなる。アップルのような企業は、つねにファン的なユーザによる高い[事前期待]と闘っているわけだ。

ところで、前述書の著者である圓川教授の最近の研究によると、消費財の分野では、「企業イメージ」がCSと「再購買行動」をかなり決めることが分かってきた。世界8カ国10の製品・サービスのデータによると、企業イメージはCSの約7割を決定しているらしい。ただし国別に見ると、米国や中国では企業イメージの影響が比較的大きいが、日本とドイツではそれほどでもない、という。

なお日経BP社のブランドジャパン調査では、ブランドイメージの総合力を、「フレンドリー(親しみ)」「コンビニエント(便利)」「アウトスタンディング(卓越)」「イノベーティブ(革新)」の4つの因子に分けている。この中では、とくに「卓越性」のイメージと、CSや企業イメージとの相関が強いことも分かってきた。「他にはない魅力がある」「際だった個性がある」事などが、消費財のブランドイメージや企業イメージを向上させるのである(圓川隆夫「日本企業のリスクマネジメントの二面性」2014年12月講演資料より)。

だが、ひるがえって、受注ビジネスにおける企業イメージとは何だろうか? とくに、あまり広告宣伝を打つわけでもないB2Bビジネスにおいて、企業イメージはどのように形成されるのだろうか?

当たり前だが、答えはユーザ企業による個別の経験を通じて、ということになる。受注ビジネスでは、引き合いから発注をとおして納品まで、顧客と売り手が接する期間が長い。その間に、個別要求のすりあわせや個別設計が入ったりすることも多い。売り手と買い手のインタフェースが、対面的である。だから口コミが大きな割合を示す。商品と広告宣伝だけがインタフェースとなる消費財の世界と違うのだ。

もう一つは、業界内部での横の評判である。たとえばすぐれた結果や卓越した実績を残すこと。もちろん、これも口コミベースになりやすい。B2Cとちがい、ネットに批評が流れるケースはほぼないからだ。ただしネットや広告宣伝の空白を埋める存在として、業界コンサルタントが専門的に比較調査することはありうるが。

B2Bの受注ビジネスにおいては元々、売り手と買い手との間に、継続的な緊張関係が存在する。買い手側は、要求仕様を自分が規定し、提供させる製品やサービスを鋳型にはめることで、価格競争に持ち込もうとする。逆に売り手側は、製品やサービスのユニークな機能・特性など(供給性状)を提案し、他社との差別化によって、価格競争から逃れようとする。買い手側は、要求仕様を盾に自分の都合のいい方向に引っ張り(Pull)、売り手側は供給性状を武器に自分が有利な方向に押し出そうと(Push)する。この綱引きのような技術的・心理的せめぎあいが、受注ビジネスにおける取引の本質なのだ。

そこで、買い手側の意識した要求仕様を上回る内容を、売り手側が提案・設計できるかどうかが、勝負の分かれ目となる。あるいは、設計面ではなく、パフォーマンスの面で、買い手側の無意識の期待を、売り手側が超えられれば、それでもOKだ。ここでいうパフォーマンスとは、売り手側の生産性や品質やスピード(納期)のみならず、売り手が自らの業務プロセスやチームの状況を的確に把握していること、問題を事前に防止したり迅速に解決できること、協力的なマインドであること、などを指している。つまり、相手を信頼でき、一緒に働いていて気持ちいいか、という心理的な評価となる。この感情面での評価が、じつは受注ビジネスにおける『企業イメージ』の実態であり、それが意思決定において大きな役割を持っているのだ。

顧客が、「再びこの発注先と仕事をしてみたい」「またここから買ってみたい」と感じる気持ちを、『顧客ロイヤルティ』(customer loyalty)と呼ぶ。英語には”loyalty”と”royalty”という、(日本人にとっては)よく似た二つの単語があるが、前者は忠誠心の意味である。後者は単語の中に”Roy”(王様)が入っているように、王族とか、国王の認可権・特許料などを意味する。このサイトでは、区別するために、前者をロイヤルティ、後者をロイヤリティと表記することにする。顧客ロイヤルティは、顧客が商品や売り手に感じる「忠誠心」(愛着)である。そして、顧客ロイヤルティの確保は、受注ビジネスが目指すべき最大のポイントである。顧客ロイヤルティが高ければ、価格競争に持ち込まれずに済む。また、繰り返し同じ相手と仕事をしていれば、さまざまな教訓(Lessons & Learns)が得られるから、さらにパフォーマンスも高くなる。

逆に言えば、毎回買い物を入札で決めようとする買い手は、基本的にどの売り手に対しても顧客ロイヤルティがゼロだということになる。公共系の仕事などは、毎回、相見積もりや競争入札が義務づけられる。これは内部監査や透明性の確保の観点から要請されていのるが、実際には、ユニークな提案を受け入れにくく、また繰り返しによる生産性の向上などを犠牲にしているわけだ。

言うまでもないが、顧客ロイヤルティの向上のためには、「顧客の期待に合致する」だけではダメである。「顧客の期待以上」が何度も続く必要がある。それは、先ほども説明したように、提供する製品・サービスの技術的な面と、遂行パフォーマンスの面がある(冒頭にあげた京浜急行の例が、よきパフォーマンスの例である)。

また、顧客ロイヤルティは、お客さんに対してイエスマンだけで居続けては達成できない。わたしの知る優秀な企業の例を見ても、顧客に「それはできません」ないし「それをやるとこういう困難がある」とはっきり言うことで、逆に信頼を得てきた。顧客の(とくに権限の小さな担当者による)無体な要求に対しては、最終的にそれが顧客全体のためにはならないことを説明する。その際の論拠も、顧客当人の満足よりも、「顧客の顧客」の満足を見通す能力である。松下幸之助の商売戦術三十箇条(1936)の中に、
「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ」
という条項があるそうだが、この機微を語っているのだろうと思う。

無論、このようなことは、言葉にすると簡単に聞こえるが、非常に高い対人スキルや交渉能力を要する。だから、そうした対人感度の高い人材をフロントにおく必要があるだろう。以前にも書いたとおり、「気が利く」能力を生み出す要素は4つある。これを組織として認知して、サポートする仕組みがないと、顧客ロイヤルティの向上は図れまい。「次もまた選びたくなるパートナー」こそ、受注ビジネスに身を置く企業が目指すべき姿なのだと思う。


<関連エントリ>
 →「書評: 「我が国文化と品質」 圓川隆夫・著」(2014-12-17)
 →「勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて」(2015-03-11)
by Tomoichi_Sato | 2015-04-20 22:18 | ビジネス | Comments(1)

マネジメントのテクニックと技術論について

このサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』である。計画に技術なんてあるのか? そして、マネジメントに技術なんてあるのか? --もちろんある、とわたしは考えている。大学で講義したり、人前で話したりする機会があるときは、ほぼ必ず、「皆さん、計画とマネジメントには技術があるんですよ」と訴えるスライドを1枚いれることにしている。

それでもまあ、反応ははかばかしくない。たいていの人はピンとこない顔をしている。マネジメントという言葉を、『管理』だとか『経営』だとかいう旧来の日本語の枠内でしか捉えないためだろうか。そして人を使う技術だろ、あるいは金儲けの技術かよ、みたいに思うらしい。そんなのに技術があったら苦労しないよな、と。

わたしは2000年に、「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」という、単著としては初めての本を出版した。その本は幸い、比較的好評を持って実務家に迎えられた。ネットにもいくつか書評や感想が出たが、わたしが一番驚いたのは、「計画やスケジューリングに理論があるなんて、本書を読むまで知りませんでした」という感想だった。ソフトやコンテンツ制作系の業種の方だったと思う。この方はそれまで、クリティカル・パスも、フロートも、最小スラック順もバックワード・スケジューリングも、何一つ知らずに仕事を回してこられたのだ。

小規模な仕事ばかりなら、それでも済むだろう。だから知らなかったことを批判しようとは思わない。だが、規模や金額の大きな仕事も、同じような感覚で回そうとしている技術者が多いんじゃないかと、あらためて考えさせられた。これではまずいな。そこで、本のフォローアップと正誤表掲載の目的で、ホームページをはじめたのである(・・もう15年も経つんだなあ)。会社員であるにもかかわらず、ずっと実名でサイトを運営してきたのはそのためだ。

まあ、スケジューリングの分野はORの研究者が好むため、妙にアカデミックな用語が多い。だからもっとアカデミアから遠い、あんまり理論とか関係なさそうな仕事を例にとって、考えてみよう。

今、目の前に、紙幣やら硬貨やらがごちゃまぜにあったとしよう。大金とまでは言えないが、ちょっとした金額だ。実際に見たことはないが、正月なんか近くの神社の賽銭箱を開けたら、こんな風じゃないだろうか。--さて、これが正確にいくらあるか、数えなければいけない、としよう。では、どうしたら早く、正確に金額を数えられるか? もちろん、手元には紙幣カウンターとか硬貨仕分け機とかいった、文明の利器はないとする。目端の利く人なら、「金融機関に持ち込んで、おたくの口座に預けるから数えてよ、と頼めばやってくれるだろう」くらいは思いつくかもしれぬ。だが、それも禁じ手としておこう。休日だから、自分で数えるのだ。さて、どうするか? 
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愚直に端から一つひとつ、足し算していくのはどうだろうか。電卓を片手に、10円玉なら10を足し、千円札なら1,000を足す。もちろんそれで、一応目的は達せられる。だが、とても効率の低い仕事のやり方であることは、直感的に分かる。おまけに難点がひとつある。途中で、うっかり足し算を間違えたら、どうするか。最初からやり直すしか方法がないではないか。

まずは、紙幣を取り分けよう--その程度のことは、誰でも見た瞬間に思いつくはずだ。紙幣を取り分ける。さらに、千円札と5千円と万札に種別し、それぞれ枚数を数える、と。そこは着手しやすい。では、残った貨幣はどう集計するべきか。

とにかく、種類別に仕分けしなければ話になるまい。その上で、それぞれ枚数を数え、金額に集計するのだ。では、どうしたら手作業で、硬貨を早く仕分けられるか? 硬貨には、500円玉、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉、の6種類がある。6種類の空き箱を用意して、端から順に一つつまんでは、該当する箱に投げ入れるのではどうだろう。

それもまあ、一つの方法だ。最初の、端から順に足し算するよりは効率的にちがいない。だが、もう少しだけスマートな方法があるのだ。

ゴチャゴチャに混ざり合った硬貨を手作業で仕分ける際のポイントは、二つありそうだ。まず、目立ちやすい違いに注目する。たとえば、100円玉と1円玉は、両方とも白っぽい硬貨で、やや見分けにくい。それに比べて500円玉は同じく銀貨系だが、かなり大きいので見分けやすい。さらにもっと目立つ違いがある。5円玉と50円玉は、穴が開いているのだ。机の上に硬貨を広げたら、その二種類は他よりも区別しやすい。

もう一つの仕分けポイントは、たくさんの硬貨と少数の硬貨が混じり合っている場合、たくさんの物をすべて拾い上げるより、少数の物を拾い上げる方が、手数が少ない分、早く済むということだろう。たとえば100円玉が100枚、5円玉が10枚、まざっていたとしよう。この中から100円玉を拾い出す作業は、かりに1秒に1枚拾えたとしても、1分40秒かかる。ところが、5円玉を選り分けて拾えば、10秒で済む。残りはすべて100円玉ということになる。結果としては、同じ2種類の硬貨に分ける作業が、どちらを選ぶかで10倍も効率が異なる。

では、この中の硬貨で一番多そうなのは何か? ぱっと見て、どうやら100円玉のような気がする。硬貨の流通量から見ても、5円や50円玉は少なそうだ。ならば、そちらから拾い上げる方が良さそうだ。

以上を考えると、次のような手順が思い浮かぶ。

(1) 紙幣を先により分ける
(2) 貨幣の中から、500円玉を拾い出す(目立つから)
(3) つぎに50円玉を拾い出す(目立つから)
(4) ついで5円玉を拾い出す(目立つから)
 →この時点で、残っているのは100円・10円・1円玉となる
(5) ついで1円玉を拾い出す(少数だから)
(6) そして10円玉を拾い出す(少数だし100円玉とは色が違って目立つから)
(7) 最後に残ったのが100円玉

むろん、実際の硬貨の混ざり具合を観察して、最初の想定と違ったら、手順は多少前後させてもいい。大事なのは、なるべく効率よく、早く仕分けることである。

さて、こうして仕分けられた各硬貨の枚数をどう数えるか? これも、1枚2枚と手で数えるのは愚策だろう。おすすめの方法は、机の上に、5枚ずつ円柱型に重ねて積んでいくやり方だ。(10枚ずつ重ねてもいいのだが、5枚くらいの方が安定して崩れにくい)

(8) 最初に5枚、積んでおく
(9) それから、となりに、同じ高さになるように重ねていく
(10) そうして、できた円柱の本数を5倍し、残った端数を足し算する。

これなら、後からも検算が一目でやりやすい。

・・話は分かったよ。でも全体として、この話に何の意味があるんだ。神社の賽銭箱の勘定なんて、俺の仕事には関係ないぜ。そんな感想が聞こえてきそうだ。

たしかに、上に述べた手順だけなら、単なる「紙幣貨幣の手作業による勘定のテクニック」を知ったに過ぎない。だが、くどいようだが、ここには二つ、大事な発見がある。なにか混合物を分けるときには
・視認性の高い(=違いを検出しやすい)異物を、優先して除外する
・多数よりも少数を、優先して除外する
が作業効率上、大事な定石なのだ。もしお好みなら、定石と言わずに『戦略』と言ってもいい。

そして、これが定石(戦略)だと気がついたら、他のいろいろな作業にも展開可能なのである。あるテクニックが、そこに留まるだけならば、それはテクニックに過ぎない。しかし、それを抽象化し、より広い別の分野に応用可能にできたら、それは「テクノロジー」(=技術)に近づくのだ。そして技術がさらに発展すれば、それを基礎づける理論も生まれてくるだろう。単なるお金の勘定が、もしかすると大規模物流センターの設計の基礎になる、かもしれない。

人的作業の集合をいかに効率化するかは、わたしのいうマネジメント・テクノロジーの典型的な問題である。しかし注意してほしいのは、この種のマネジメント問題は、「経営学」や「会計学」などとは一線を画していることだ。どちらも経営管理を専門的に扱う学問・職業である。だが、硬貨の山の前に、経営学者や公認会計士を連れてきても、上に述べたような効率化の発想ができるだろうか? わたしは疑問に思う。着眼点が違うからだ。彼らの見ているのは組織図や株価や財務諸表であり、彼らが関心を持つのは起きた事象の正確な把握や分析だ。だが、硬貨の仕分けのような少額でミクロな問題、それをどういう手順でやると早く終わるかといったスケジューリング問題には、無関心だろう。そもそもそれが10分で終わろうが、1時間かかろうが、たいした違いではない。時給800円払うとしても、せいぜい700円違うかどうかだ。彼らの関心を引くには、金額の後ろに0があと4つくらいつかないといけない。

それでも、こうした作業の一つひとつの積み重ねが、企業全体では大きな違いを生んでいるはずである。だから、マネジメント・テクノロジーの問題意識や発想を持つ会社と、そうでない会社は、結局700万円どころではない業績の差が現れる。多くの会社がなかなかトヨタに追いつけないのは、(トヨタという会社への好き嫌いは別として)こうした発想の違いが現場にあるからではないか。

マネジメント・テクノロジーへの無関心の点では、メディアなども同様かもしれない。記者やレポーター、評論家達は、目に見える「画期的な新製品」などのニュースは大好きだ。ITの花形、パッケージ商品なども、カッコいい名前がついているし、なんとなく目に見えそうな気がする。だが、多数の物を拾い出して仕分けする作業のプロセス・効率・スケジュールなどは、目に見えにくい。抽象的で、見えにくいものは、ニュースにもなりにくい。だから、わたし達の社会で、気にとめる人が少ないのだろう。

もっとも、こうした問題には、全然別の視点もあり得る。もしあなたが、紙幣貨幣の勘定という仕事を、成果に対してではなく、かかった時間に比例して時間給をもらう立場だったら、どうするだろうか。もちろん、早く終わらせようなどというモチベーションは一切働くまい。ただ淡々と、端から順に足し算していけばいい。それじゃお金のムダだろうって? じつは、お役所的な仕事では、お金は使えば使うほど良いとされている。役人の一番の手柄はたくさん予算を取ってくることだ。そして予算を取ったら、1円残さずに使い切らなければならない。もし予算が許すなら、たくさん時給を払った方がいい。もらう側だって、たくさんもらう方がいい。だから公共的な仕事では効率が低いほど、全員がハッピーになる。

最近ある人から聞いたのだが、カリブ海に浮かぶキューバという国では、社会主義のおかげで、普通の国民は全員が平等に月給約1000円だそうである。どんなに働いても、働かなくても、だ。それだったら日中は適当に働いて、定時になったらさっさと職場を出て、夕風に吹かれながらラム酒を片手に、楽器でもつま弾く方が楽しいに決まっている。あの国にメチャメチャ音楽性の高い人々が大勢いるのも、当然の結果なのかもしれない。キューバは近々米国と和解する見込みのようだが、あの国に効率重視のマネジメントの発想が流れ込んだら、どうなるのだろうか。

そして、もっとずっと東の海に浮かぶ島国の人達のことも、ずいぶんと心配ではある。きくところによると、米国と協調して、内容が非公開の通商条約を結ぼうとしているらしい。これまで、「お上」による、(ほとんど社会主義的なまでに)保護政策で守られてきた産業が、突然、無国籍競争の寒風に吹きさらしになるのである。ま、キューバ人ほど楽観性も音楽センスも高くはないが、それなりに器用で真面目な人たちばかりだから、なんとか切り抜けるつもりではあるだろう。だが、せっかくなら、もっと計画やマネジメントの技術について、自覚的になったらどうかと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-04-12 22:36 | ビジネス | Comments(0)

勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて

横浜・妙蓮寺の中華点心舗「混江龍」は、わたしのひいきにしている店である。すべてテーブル席で、7、8人で満員になってしまうような、小ぢんまりした店を、店主が一人できりもりしている。しかし食べ物はどれも驚くほど美味しい。自然な材料を、余計な人工調味料など使わずに、一つ一つ丁寧に調理して出してくれる。この店は中華なのに、珍しくメニューに麺類がない(夏など、店主が気が向くと手打ちの冷やしそばを出してくれることはある)。客は普通、昼定食とか夕定食とかをたのむ。主菜に副菜、スープと漬け物、ごはんのセットで、料理の内容はその日の季節や素材を活かしたものだ。料理の質と価格の比から見て、横浜広しといえども、(超高級料理店でとんでもないお金を払うなら別だが)勤め人が気軽にいけるクラスでは一番お値打ちの店の一つだと、わたしは思う。

ところで今、勤め人という言葉を使ったが、これで思い出すことが一つある。わたしの息子が大学に入りたてで、アルバイトを探している頃のことだった。わたしは連れ合いと二人でこの店に食べに来ていて、ふと思いついて冗談交じりに店主に提案した。せっかくこれだけの腕を持っているのだから、この店をもうちょっとだけ拡張して、せめて10人以上のお客が入れるようにしたらいかがか。その折には、給仕応対係としてウチの息子をバイトで雇っていただいて・・

すると店主は、いつものように温和な笑顔で、こう答えた。「そうですねえ、ちょっと無理じゃないでしょうか。勤め人のお子さんに、客商売は向かないんですよ。」

勤め人の子弟に客商売は向かない、といわれて、わたしはちょっと考え込んだ。わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。工場を設計して作るのが仕事だが、ある意味ではもちろん、客商売である。そしてわたし自身、勤め人の子弟なのだ。てことは、わたしは向かない仕事を長年してきたことになる。

そしたら、隣にいた連れ合いが、ぽつりと別のことを口にした。「そういえば、チェーン店とかファーストフードとかでも、都内の古い街にある店よりも、郊外のベッドタウンの店の方が、応対が良くないのよね。店員が気が利かないの。」 それは要するに、ベッドタウンで働いているアルバイトや店員のほとんどが、勤め人の子弟だからだ。そう、彼女は思ったらしい(ちなみに、連れ合いは町なかの商売の店に生まれて、小さい頃は家に住み込みの職人が大勢いたという)。

サラリーマンの子弟は客商売に向かない、というのは店主の長年の経験によるのだろう。店主ご自身も飲食経営の家に生まれ、大きな店で修行してこられた方ときく(一時は勤め人もされたらしいが)。むろん、勤め人の子弟で立派に客商売をしている人だって大勢いよう。これはまあ比較の問題であって、強いて言えば女性より男性の方が、概して背が高い、という程度の違いなのだろう。だが、わたしにとって、妙に納得感のある話だった。勤め人の子弟は、客商売において大事なところが欠けているらしい。

それにしても、なぜ、そうなのか? 気が利かないからだ、というのが彼女の説明である。では、『気が利く』とは、どういうことなのか。

ここでわたしは、アメリカの空港で見たファーストフードの店を思った。早朝、空港に着き、飛行機を待つ間に朝食をとろうと、あいている数少ない店に客が行列する。早番のレジ係はてきぱきと端から応対し、オーダーをとっては奥に伝え、伝票を客に渡して待たせる。客は伝票番号を呼ばれたらカウンターに来て、伝票とつきあわせた上で品物を受け取る。まるで工場の流れ作業だ。そしてあちこちに、オーダーが間違わないよう、順番や品物が混乱しないよう、工夫が凝らされている。実に見事だった。アメリカの企業は、どこもこうしたシステムやマニュアルを作らせたら、とてもうまい。
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アメリカは多民族国家である。どこの誰が雇われても一定の、70点のレベルで仕事ができるよう、仕組みとシステムを組み立てるのがビジネス文化である。きっと、顧客満足度調査だって、定期的に組み込まれているに違いない。だが、かりに味のことは置いておくにせよ、これは気が利いている状態なのか? そうとは言えまい。

都会のファーストフードで店員の気が利かないのは、安い賃金や、劣悪な労働環境のためだ、という説明もあるだろう。しかし、それでは、ファーストフードのアルバイトの賃金が今の倍になったら、どうだろうか。今の倍も払ったらビジネスが成り立たない、という反論がすかさず来そうだが、世の中には(どこかの国の農政を見れば分かるとおり)補助金なる仕組みも立派に存在している。経費の半分をお上が負担してくれる、というのは良くある仕組みだから、バイトの給料が倍になったら、という思考実験を妨げるものではない。そして労働環境も、労働基準監督署も満足するくらい改善したら。そうしたら、どこのチェーン店も気が利くようになるのか。「スマイル0円」以上に、顧客にうれしい店になるのか。70点が90点に上がるだろうか?

あれこれ想像してみたが、そうはなるまい、とわたしは思った。なぜなら、働いている人たちは、チェーン店の良くできた「システム」から逃れられないからだ。顧客がその店を選ぶのも、立地や価格がメインであって、満足度のためではあるまい。だから手頃な競合店が現れたらすぐ客を奪われるだろう。顧客のロイヤルティを上げたければ、店員の別の面を、つまり「気が利く」といったような面を上げる必要があるのだ。だが、どうやって?

もう一つ、思い出した事例があった。かつてあるコンサルタント会社の人と、北陸に出張したことがある。この方は一種の顧客満足度調査をいろいろやられている方で、面白いことを言った。航空会社のJ社さんの、全国の空港地上職員の応対を調べたとき、これから向かう北陸の空港だけが、図抜けて成績が良かった、という。ところで、その空港のチーム員は、社員ではなく全員が派遣会社のスタッフなのだそうだ。「じゃあ、その派遣会社が良いんですか?」「ところが違うんです。実はライバルのA社さんも、同じ派遣会社から地上職員をやとっているんのです。ですが、J社さんの方がずっと評判がいいのです。」

じっさい、わたし達二人がカウンターに近づくと、まだ数mも離れているうちから、カウンターの向こうに座った5名の女性職員全員がにっこりと立ち上がり、お辞儀をする。いやみがなく上品で、とても感じが良かった。もちろん応対も丁寧でしっかりしている。客が来たら椅子から立ち上がって、礼をする。ただ当たり前のことだが、それが自然にできると、こんなにも違うのか。わたしは同僚が自分の席に何か依頼に来るとき、いつも立って話を聞いているだろうか? 同僚は客ではないとしても、自分が横柄な人間に思えてきた。

「でも、どうして同じ会社なのに、こんなに違うんでしょうか?」わたしはたずねた。「そうですね。よく分からないのですが、一番右に立っていたチーフの個人的な資質の違いが、影響しているんじゃないかと思っています。チーム員を、よく引っ張っているんです」と、その方は答えたのだった。そういえば近くには古都・金沢がある。チーフはそこの商家の出身だろうか、などと根拠もないことを想像してみた。

気が利くという事柄の中身を、少しブレークダウンして考えてみよう。それはおそらく、四つくらいの要素から成り立っているらしい。
(1) 顧客が何を望んでいるのか、言われなくてもすぐ気づくこと
(2) どういう対応を取ったら、どうなるか先読みができること
(3) 瞬時の判断ができ、機転を利かせられること
(4) 自分に許された裁量の範囲内で、リスクを取って行動できること
これらが満たせれば、“うん、たしかに気が利いているな”と顧客にも認められるはずだ。

わたし自身のことに引きつけて考えてみると、どうも(1)と(3)に問題があるらしい。わたしは他人が何を望んでおり、どういう感情を持っているかに対して、どうも気づきが鈍感だし、おまけにクルクルと瞬時に頭が回るたちではない。だから、「優しいんだけど、思いやりがないのよね」というのが、わたしに対する批評である(たぶん、わたしの部下だったらもっと厳しい批評を言うだろうが)。

テクノロジー、技術というものは、移転可能である点に特徴がある。技術とは、ある、うまいやり方を移転可能にしたものだ。うまいやり方が個人に属していて、誰にもすぐ伝えることができない場合は、スキル(技能)と呼ばれる。ところが、電気回路の設計であれ、機械の設計であれ、誰が計算しても基本的に同じ数字が得られるというのが、科学法則に基づく技術の本質だ。

そういう意味で、仕事をきちんと部品に細分化して、それぞれを動かすための技術を整備し、全体をとりまとめるためのシステムを組み上げていく事は、仕事から属人性をなくして、一定レベルの品質を保つ上ではきわめて有効だ。だが、そのような仕組みの中で働いている人間は、どう感じるか。最終的には、自分であっても、他の誰であっても、同じ結果になるわけだから、自分がまるで交換可能な部品であるような感じがするだろう。働いている人を、部品かモノのように疎外していく状態が、今の技術やシステム化の行き着く姿なのだ。

このような職場では、基本は指示と報告で人を動かす。指示に従えば、規定通りの給料を払う。従わなければ、クビにするぞと脅すことになる(だって交換可能なのだから)。こうした人の使い方を、”Management by Fear”=「恐怖によるマネジメント」と呼ぶのだと、最近聞いた。当然ながら、働く側のモチベーションは、「言われたとおりのことをやっていればいいんだろ」という、最低の状態に留まることになる。言われたことはする。言われないことはしない。こうした勤め人であるわたし達の態度は、無意識のうちに子弟に伝わっていく。彼らにとって、上記の(1)から(4)までを発達させるインセンティブは、何もない。

もっとも、日本の企業の場合、もちろんマニュアル化もしているし、システムも作り込んでいる。だが、ある程度の部分は品質を個人個人の、属人性で担保するところが、残っている。だから、働いている人間(とくにホワイトカラー)は、そうしたシステムの隙間を自分で埋めることによって、自分が代替不可能であることの担保にしようとする。かつて、「必要な人はいつもたった一人しかいない」に書いたとおりだ。だが技術的ソリューションの進歩は、そのスキマを少しずつ確実に埋めようとしていく。

でも、職人や個人商店とその子弟は、なぜ、少しは気が利くようになるのか。そうしないと、店がつぶれるからか? ——だとしたら、結局それは「恐怖によるマネジメント」と同じ事ではないか。何か別の要因があるはずだ。

そう考えていたら、隣のテーブルのお客さんが、席を立った。「ごちそうさま。ああ、美味しかった!」といって、勘定を払っていく。店主もまた温和な笑顔になって、おつりを渡しつつ、何か声をかけている。なんとなく、ここには勘定のやりとりだけでなく、感情の交換があるな、と、シャレのようなことを考えた。美味しい食べ物を出す。食べた人はそれで、ハッピーになる。出した人もそれを感じて、ハッピーのお釣りをもらう。

そして、そこにこそ「気が利く」の本質があるのではないかと、思い至った。取引はビジネスだが、その上に感情のやりとりがある。相手が幸せになり、自分を認めてくれれば、自分もうれしい。だから、先読みやリスクテークをしてでも、相手に満足してもらえるようになりたいと思う。そうしたことが、ほとんど無意識の習慣として、身につく。それが、気が利くということではないか。それを、「倍の給料」や「恐怖のマネジメント」で人に強いることができると思うのは、愚かである。

それにしても、顧客が幸せになる姿を、直接見られる仕事は、なんてうらやましいんだろうと思った。わたしの仕事は、一つのプロジェクトが3年も4年もかかる。今、自分が設計したことが、結果になって現れるのはかなり先であり、それを使う人たちだって、今目の前にいる担当者とは別のことが多い。だから、相手の満足度がよく見えないのだ。誰かに幸せになってもらった、という実感が、とても得にくい。食べ物屋さんは、目の前の人をその場で幸せにできる。なんてすごい仕事だろうか。
(むろん、これは勤め人のセンチメントであり「隣の芝生」であることは分かっている。自営業者から見れば、休暇を取っても給料の出る勤め人が、とても楽に見えるに違いない)

企業というのは、仕事の質が70点あればビジネスとして成り立ちうるし、75点もあれば、大企業に成長できるかもしれない。だが、顧客ロイヤルティの高い、イノベーティブな企業になるのは、75点では無理だ。おそらく85点か90点くらいのパフォーマンスが、コンスタントに出なければいけないのだ。ところが、マニュアルだとか、システムだとか、そういった技術的なソリューション、テクニカルな方策だけでは、どうしても破れない壁がありそうだ。その壁は、働いている人間の感情面、もう少し言えば、自尊感情と同僚や顧客へのリスペクトから来ているのではないだろうか。そして働く人間の自尊感情は、基本的に「他者による認知」=ありがとうという感情、から来るのだ。そして大組織で直接顧客と接しない立場でも、自分の下流側部門、あるいは自分が支援する対象部門が、自分たちにとっての「顧客」である。

わたし達の仕事をさらにもっと良くしたければ、もう少し感情のやりとりに、注意を向ける必要があるのだ。対人的に鈍感な自分にとって、それこそが必要なトレーニングなのだろう。いや、まず手始めは家族に対してかもしれない。・・お皿に残った美味しい点心風デザートを平らげながら、わたしはこっそり、そう思った。


<関連エントリ>
 →「アメリカン航空に乗るおじさんの日記 - サービス業の本質とリスクについて」/(2014-03-30)
 →「R先生との対話 — 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か」 (2015-02-01)
by Tomoichi_Sato | 2015-03-11 07:33 | ビジネス | Comments(0)

わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか?

小学校4年生の時のこと。ある日、食卓の上に、大きくて重たい箱形の見慣れぬモノがあり、それを前にした父が、「これからはこれで英会話を勉強するように」と、おごそかにわたしに告げた。器械は特殊なマルチトラックのテープレコーダーで、幅広の、今にして思えば1インチ幅の茶色いテープをかけて使うようになっていた。東京エデュケーショナルセンター(TEC)、別名「ラボ」の英会話自習用の装置だった。勤め人にとって決して安い買い物ではない。父は最初のレッスンの冒頭10分くらいをかけ、わたしが使えて、ついて行けるのを確かめた。そして、1レッスン約15分、毎日きくように命じた。

わたしは当時まだ素直な子どもだったし、父もこわかったので、一応命じられたとおりほぼ毎日その器械に向かった。ナレーターが、簡単なストーリーや説明をした上で、短い文章を発音し、聞き手がその後について自分でも声に出してみる。そういう作りだった。後半になると他の声優も登場して、多少会話風になる。耳で聞いて、自分で発音する。それを録音することができて、自分で聞き比べることができる。徹頭徹尾、音声的なトレーニングだった。テキストもついていたが、ほとんどが絵で、あまり英語の文章は書いてなかったような気がする。英語はまず第一に『音声言語』である。そういう原則の下に作られているのだった。

テキストの巻末の小さい文字の所を見ると、制作者の名前のクレジットが並んでおり、その中に「テディ片岡(片岡義男)」という名前があったのを記憶している。日系移民の子で、文化的にはアメリカ人だが、日本で生活することを選んだ彼は、若い頃こういう仕事を手伝っていたのだ。

数ヶ月経って、ある親戚の集まりに呼ばれて父と一緒に参加した。皆が談笑する中で、どういう文脈だったのか父がわたしを呼び寄せ、“ガールって言ってみな”と命じた。わたしはGirlを発音した。すると近くにいた親戚の男性達が驚いた表情になった。父は、自分がブロークンな英語しかしゃべれず、仕事でいかに苦労しているかを機嫌良く話した。そして「これからは英語とコンピュータを若いうちに身につけることが大事だ」と力説した。

英語とコンピュータ。たしかに、今のわたしは、そのどちらにも深く関係する仕事をしている。まことに慧眼だったのだろう。だが、そのどちらも、決して自分がプロだとはいまだ思えない。なぜだろう。

ちなみにその少し後、たしか6年生の頃だったと思うが、父はわたしにFORTRANの本を与え、読んで勉強するようにといった。目の前に端末もPCも何もないのに、言語を学ぶのは今考えてみれば至難の業だ。だが、そういう時代だったのだ(当時、父の会社が導入した最新鋭の電子計算機がそなえていた主記憶は、32kバイトだった)。

なぜ、わたし(達)は英語がヘタなのか? そういう話を書こうとしている。自分の英語はネイティブ並みである——そう思う読者は、読み飛ばしていただいてかまわない。だが、そうでない人が、わたしを含めて圧倒的多数だろうと思う。

ヘタと言っても、あえてここでは発音とリスニングの話題は飛ばすことにする。それは巷に数多くいるネイティブの英語教師達に任せよう。これは一種の身体訓練である。反射神経レベルの、スポーツ訓練に似ている。たしかに、子どもの頃から訓練すれば、多少は身につきやすい(だからといって、わたしは幼児に英語を教えるのは反対である。この話は後で書く)。大人になっても、繰り返しトレーニングすることで、確実に上達する。

しかし、たとえRやLの発音が滑らかでも、それだけでは英語として致命的に失格となる会話を、いくらでもしゃべれてしまうのだ。それはたとえば、複数と単数の区別である。

単数と複数の区別は、いつも悩ましい。ある事物を主語や目的語として思い浮かべる際に、それが単数なのか複数なのかを、会話では瞬時に、無意識に、自動的に決めなくてはならない。それがずれていると、英語として、なんだかおかしい。"There are many problems." というべきときに、"There is some problem."とか、つい言いたくなってしまう。言ってから、(しまった)と思う。"I have laptop PC."とか、言いそうになる。だが、"I have a laptop PC.”か、"I have laptop PC’s."か、どちらかなのだ。

ある事物が数えられるモノなのか、数えられないモノかのか、の区別も、とても難しい。プラントの業界では機器 equipment という語を多用する。ところで、このequipmentというい名詞は、おかしなことにuncountable、すなわち数を数えられない名詞なのだ。だから、"many equipments"などと言ったら間違いである。言いたければ、"many pieces of equipment"と言わなければいけない。もちろん、"many equipments”でも、相手のネイティブは意味を分かってくれる。だが、それと同時に、“こいつはまともな英語も知らない、学のない奴なんだな”という印象もインプットされてしまう。

いや、equipmentが不可算名詞なのが「おかしい」とうっかり書いたが、それは日本人の感覚である。Equipmentは元々、equip(装備する)という動詞の名詞形なのだ。Embellishment(装飾)などの仲間である。だから一々、数えられないというのが、本来の英語感覚なのである。

単数複数の例をもう一つあげよう。Dataという語である。英語では、countableな名詞にはmanyを、uncountableなものにはmuchをつけるのがルールだ。ではデータが多数あるとき、それはmany dataというのが正しいのか、much dataが正しいのか? 答えは、おかしなことに、「場合による」である。そもそも、”data”という語は、それ自体が複数形だ。単数形は”datum"というのだが、今日では一部の分野を除き、この単数形を用いるケースは少ない。

しかし、ここまでひねくれた例でなくても、"a pen"なのか”pens"なのか、"a boy"なのか”boys”なのか、その峻別が要求されるのが英語(のみならず印欧語系)の特徴である。これに対して、われらが日本語は、無理に語尾に「たち」などとつけない限り、単複を区別しないのが基本である。

この理由について、かつて岩谷宏は「ぼくらに英語が分からない本当の理由」の中で、

「英語の名詞はを指示する。日本語の名詞は、事(コト)の指示詞である」

と喝破した。だから英語では”I am a boy.”と言わなければならないのに、日本語では「ぼくは少年です」で立派に通用する。日本語では、ぼくは「少年であるという事態・事象」を表しているのであり、それ自体は数えてみる意味がないからだ。岩谷宏という人には賛同できない主張も多いが、これはとても優れた洞察だったと思う。

もう一つ、よくやる間違いを書こう。それは現在と過去と未来の区別(をしないこと)である。わたしが以前、海外プロジェクトで部下の書く英文をチェックしていたとき、最も多かったのが、この問題の修正であった。過去形や完了形で書くべき事態を、現在形で書いてしまう。未来形で意思を示すべきことを、現在形で書いてしまう。同胞の英語を聞いていても、しばしばこの種の問題につきあたる。相手は、よくきいていれば文脈で理解できるだろう。だがひどく不思議に違いない。

これは、日本語に時制tenseがないからである。といえば、「柿を食った」と「柿を食う」と「柿を食うだろう」の違いがあるじゃないかと、反論されるだろう。しかし、わたしに言わせると、この違いは時制を表すのではなく、「その事態がどれほど確定してしまったか」の違いを表すだけなのである。「食った」は確定した事態を表す。「食う」は事態への意思の表明を、「食うだろう」は不確実な事態の推定を表すだけで、時間的要素は必ずしも付随していない。未来形が「だろう」(推測)でしか表現できない点に、注意して欲しい。ちなみに確定度合いがより深刻で、もうとりかえしのつかない事態を示すときには、「食ってしまった」と表現する。これも過去完了とは、何の関係もない。

頭の中ではこういう世界のモデリング構造をしていて、それを時制にマッピングしようとするから、混乱が生じるのだ。嘘だと思うなら、英語の未来完了形”will have done"をどう訳するか、考えてみてほしい。ついでにいうと、ある初等英語教科書には、"I am studying English everyday."という例文があったようだが、これなど無理にtenseをつけた日本人英語の典型だろう(ふつうの英語感覚なら"I study English everyday.”)

助動詞haveのかわりにbe動詞を使ってしまう、というのも会話の中ではよく耳にする間違いだ。ついうっかり、"We are changed to -“などとやってしまい、あ、これじゃ受動態になってしまう、”We have changed”と言い直したりする。もう少し耳障りなものだと、会話の中で主語に”is"をしょっちゅうつける人々がいる。考えながら話すのだが、まず”This machine is, ah,“と、宙に放り投げてから、”change the temperature.”と着地する。Isは余計なのだが、本人は意識していない。

なぜ、こういうしゃべり方が生まれるのか? わたしの想像だが、「~は」という主格を表す格助詞の代わりに、be動詞がでてきてしまうらしい。「この機械は、えー」とはじめる。その時、無意識に”is"が出てくる。「温度を変えるんです」で後半がまとまる。日本語は、指示対象を次々にスタックに置いておき、最後に操作詞で全体をまとめる「逆ポーランド型」の表現形式になっているから、最初に何かを言っておくのは、ごく自然なことである。英語がS+V+O構造なのは、皆ももちろん知っている。だが、”This machine..”のままで宙に放り投げておくことは、日本語話者にはなんだか不安定に思えるのだろう。

ほかにも、事実と意見の区別とか、正確さと曖昧さの使い分けの問題とか、最初に大事なことから話す態度とか、英語らしい表現の方法についてはいろいろ論点があるが、長くなってきたので、ここでは詳しく述べないで、一例を挙げるにとどめよう。

たとえば、これはあるセミナーの英語による案内文の一部である:
It is no wonder that the business operations of corporations are global nowadays; therefore, the number of global programs and global projects keeps increasing. Given this backdrop, the need for leaders who can well manage global programs and global projects is a critical consideration because such highly performing leaders have been scarce until now.
文法も語法も、きちんとして正しい。だが全体として、ちっとも英語らしくない。きっと元は日本語の文章で、それを翻訳したものだと想像される。

「企業の事業活動が昨今グローバル化しているのは当然の成り行きであり、したがって、グローバルなプログラムやプロジェクトも増えています。このような背景から・・」 日本語ならば、案内文をこうした一種の枕詞ではじめるのは普通なことだ。だが、英語ではまず大事な本論に入り、背景はあとで説明するのが、キビキビしたビジネス表現である。文章は短く、同じ名詞は繰り返さずに言い替える。多いとか増えているとか言うときには極力、数字を例示する。だから、単に日本語を英訳しただけでは十分ではないのだ。(誤解しないで欲しいのだが、これを作成した人を批判しようという意図はない。わたし自身も陥りがちな英文の例として、引用したまでである)

つまり、わたし(たち)日本語を母語とする話者にとって英語の最大の難関は、世界のモデリング構造と表現手順自体の違いにあるのだということを、いいたいのである。すなわち、異文化の理解である。では、どうしたらいいのか。

以前も書いたことだが、何らかのスキルを身につけるには、(1)良い先生か手本を見つける (2)原理原則を学ぶ (3)繰り返し、繰り返し練習する、の3つが必須である。ネイティブの先生は、幸い世にあふれている。繰り返し練習は、自分の側の問題だ。だからカギになるのは、「英語の世界観という異文化のシステム」に関する原則を解明し、身につけることなのだ。このためには、一種の文化人類学的なセンスが必要になる。なんだか大げさな話をしているみたいだが、日英両側の文化を深く知った人の書いた言語論を読むのが一番だと、わたしは思う。それはたとえば、上にあげた片岡義男の日本語論(「日本語の外へ (角川文庫)」)だとか、あるいは以前書評に取り上げた中津燎子の英語論と言った書籍である。

また逆に言うと、本当は使用言語の違いは表層でしかない。OSIの7層モデルではないが、最大の違いは深層にある。だから訓練のためには、日本語でまず英語的な思考表現を訓練するのでも、十分役に立つだろう。

そして発音について言えば、べつにカタカナ英語でいい、というのがわたしの意見である。妙に巻き舌のRが強調されたりするのは、かえって聞きづらい。日本語の「ラリルレロ」でいい。

それよりも、一番の課題は、「自分と他人の区別」=相手の立場になって、メッセージを選び伝える態度を身につける、ということだろう(日本文化ではこの発想がそもそも薄い)。そのためには、きちんとした思考能力と、その前提となる自分自身の言語の定立がいる。父がわたしの目の前に英語教育の器械を置いたのは、10歳の時だった。その頃までには、母語は確立する。だから、ベスト・タイミングだったのだと思う。その点については、亡き父に感謝している。もっと前の幼児期だと、まだ言語感覚自体ができあがっていなかったはずだ。

体ができていない幼児にスポーツの本格的トレーニングはさせられないように、英語(日本語とは非常に異なる言語)を無理に覚えさせるのは、あまり有益には思えない。まして一緒に暮らす親の側に、英語の世界観が定立されていなければ、いっそう困難である。それは、コンピュータもなしに、コンピュータ言語を覚えさせるようなものだからだ。だからわたしは、ちっともプログラミングができないまま、プロジェクト・マネジメントばかり考える道へと旋回していったのである。


<関連エントリ>
 →「『英語』の向こう側」(2010-01-15)
 →「書評:『英語と運命』 中津燎子・著」(2014-06-08)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-23 21:52 | ビジネス | Comments(0)

R先生との対話 — 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か

——B2Bの受注ビジネスにとって、顧客満足とはいったい何を意味しているのでしょう?

わたしは、久しぶりにお会いしたR先生にたずねた。R先生は半ば引退した経営コンサルタントで、人生の大先輩である。R先生が不思議そうな顔をされたので、わたしは続けた。

——ご存知の通り、わたしの勤務先はエンジニアリング会社で、製造業向けに工場やプラントを建てるプロジェクトが主な商売です。仕事を受注してから、工場が最初の製品を作れるような状態になるまで何年もかかります。大勢の人間がかかわり、お客様だってずいぶんいろいろな部門の方が関わります。工務、設計、製造、保全、製品開発、購買、法務、セールス・・。このうちメインの担当部門は工務部門と購買部門ですが、工務部門はさらに機械・建築・土木・化工・電気・制御・ITという風に専門分化しています。とくかく、一口に『顧客』といっても、関係者が非常に多いんですね。

「結構じゃないか。顧客の期待をいろんな角度から知ることができるだろう?」

——それはそうですが、でも、お客様のおっしゃることが一つではないんです。しばしばバラバラのことを要求されます。端的なのは、技術部門と購買部門です。発注権限をお持ちなのはふつう購買部門で、低価格・短納期がご要望です。ところが技術部門の方は契約後もいろんな技術的注文を持ってこられます。最初の契約条件からは予見できないような要望もしばしばです。そうなれば当然、費用も時間も余計にかかります。でも、追加費用や納期延長の交渉相手は購買部門です。あちらを立てればこちらが立たず。いったい、どの人を満足させれば顧客満足といえるんでしょうか。

「顧客が求めているのは、低価格・短納期、かつ高品質ということだろう? 当然のことじゃないか。それを満たすように工夫するのが技術屋の腕だ。別に君の業界や受注ビジネスだけに限ったことじゃあるまい。どんなモノを売っている業界にも共通する話だし、みんなそれで競争しているんだ。」

——お言葉を返すようですが、現代の品質管理論では、品質とは顧客の要望に合致する程度である、と定義されています。すなわち顧客満足こそ品質の尺度だ、ということです。ところでB2Cすなわち消費財の世界では、買うのも満足するのも同じ一人の人ですよね。ですからある意味、満足度は測りやすいし分かりやすい訳です。でも、B2Bの世界では、ユーザーと発注部門はたいてい別です。ユーザーもたいていは複数います。そして要望の間にはトレードオフがしばしば生じます。たとえば運転部門は軽快で俊敏にしてくれといい、一方、保全部門は冗長で頑丈にしてくれという、なんてザラです。いったいどちらの方を向いて満足をはかればいいのか、いつも悩みの種です。それで結局、“声の大きい方”の要望を聞いたり・・。

「情けない話だな。設計のスタンスがぶれているから、そうなる。“良いものはこうだ”という設計思想をまず、顧客と確立しなさい。そこが甘いから、ブレるんだよ。」

——おっしゃるのは分かるつもりですが、設計思想という抽象論から、目の前の具体論に落とし込む際に、皆さん自分の好みや願望みたいなものが入って、ブレはじめるんです。わたしの業界ばかりじゃないと思います。これは最近、IT業界の人から聞いたことですが、受託開発のSIと呼ばれる仕事も、よく似た状況があるみたいです。システム開発において、ユーザのレベルに応じて、「要求」のレベルが異なってくる、というのです。ここでいうユーザのレベルとは、経営者、中間管理職、実務者、 事務補助クラークなどの立場のことです。
 要件分析をしていても、ユーザが実務レベルや事務補助レベルの場合、自分の日々の作業で感じている不満やペインなどの、細かな改善要望が中心になる傾向があるようです。また、業務遂行上のいろんな例外事象にも、柔軟に対応できるようにしてほしいと考えます。いきおい、できあがってくるシステムの構想は、現状業務からは遠く離れず、不便を改善した程度のもの、それも例外処理の多いものになる、と。
 ところが経営レベルに近づくほど、むしろ業務全体のあり方を見直し、効率化したいという要請が強まるようです。ただしこれが『要請』であって、具体的案とは限らない点が悩ましいみたいですが。また経営者ですから、開発コストを抑えるために、例外処理は減らしたいと考える。例外はやめろ、あるいは人間系で何とかしろ、という訳です。
 こういうふうに、顧客の間の意見が合わない場合は、どうしたらいいのか。正解はないのかもしれませんが、先生のお考えを聞かせてください。

「お考えを言う前に、君の考えを聞きたいな。君にとって、真の顧客とは誰なんだ? あるいは、そのSI会社の人にとって、誰が真の顧客だと思うんだね。」

——真の顧客。・・目の前にいるお客さんは、ニセの顧客だという意味ですか。なんだか怒られそうな話だなあ。

「じゃあ、こう聞こうか。目の前の客先担当者と、闘わなくちゃいけないときがあるだろ? 追加変更をめぐって。費用をくださいとか時間がかかりますだとか。」

——そりゃ、よくあります。受注ビジネスって、そういうものじゃないですか。

「つまり、顧客は敵だ、という訳だ(笑)。」

——いや、そんなことは思ってもいませんよ。誤解されるような表現はやめてください、先生。ただ、交渉相手であることは確かですね。

「そうだ。交渉相手だ。そして、以前教えてあげただろう。良い交渉とは、どんな結果を目指すものか。」

——相手が“勝った”と感じるような結果を目指せ、と言われましたよね。実をとっても、相手に不信感や敗北感を与えるのはまずいやり方だ、と。自分は実をとる。相手も多少の実と、感情面での花を得る。つまりお互い得るものがあって、かつ相手に信頼感や満足感が残るような結果が、最善の交渉だと。・・あれ? 相手に満足感が・・。

「分かったかね。」

——顧客との上手な交渉は、顧客に満足感を残す。つまり追加費用の問題が発生しても、それがすぐゼロサム・ゲームみたいに、顧客の満足度を下げるとは限らない訳か。

「そこでだ。何のために売り手は、顧客満足を追求しなければならないのだと思う?」

——それは、顧客満足がすなわち品質の尺度であり、技術力の尺度だからじゃないですか。

「全然違うな! 君は技術のために働いているのか、それとも顧客のために働いているのか? 君に給料を払ってくれるのは誰だ。まさか社長だとは思っていないだろうな。」

——えーと、そりゃあまあ、わたしの給料は結局、お客様が払ってくれている訳です。お客が一人もいなくなったら、社長も給料は出せませんから。

「そうだろ? 君の真の顧客とは、次も君に仕事を出してくれる人なんだ。その真の顧客の満足をはからなきゃ、受注ビジネスは飯の食い上げだ。じゃ、次の仕事を誰に出すか決めるのは、誰だと思う。目の前の担当者や、購買部長ではない。仕事が大きくなればなるほど、最終的決定権は上にいく。
 君の間違いは、顧客が要望において一枚板であるべきだと思っている点だよ。
 言っておくが、ふつうの消費財だって、顧客満足はそんなに単純じゃない。かっこいいデザインだと思って買った。でも使ってみるうちに使いにくいことが分かった。最新技術だと思って買った。でもすぐ壊れてしまった。こんな例はいくらでもある。その場での短期的満足と、あとあとで感じる長期的満足があって、いつでも両立するとは限らない。だが買うものが高価で、重要なものほど、長期的満足感の方が大切になる。それが、次の購買行動を決めるのだ。」

——でも、わたしが顧客の社長に直接会えるわけでもありません。目の前に対峙するのは、やはり担当者か、せいぜいマネージャー・レベルです。そしてやはり、目先の要求について議論しなければなりません。

「目先の上に、重層的な要求があることをつねに忘れずにいなさい。その要求の全体像の中で、相手の言うことを位置づけるのだよ。その上で、防備のために、なるべく自分の仕事は相手にもプロセスが見えるように透明性を高めておき、また都度、相手の要望もこちらの返答も記録しておくんだ。長期的満足感が大事だからといって、短期的にけんかしちゃいかん。顧客と喧嘩して得るものは、何もない。」

——たとえ相手が愚かしいとしか思えない要求をしてきても、ですか。

「ほら、それが傲慢だというんだ。相手の目には、君が愚かしい人間だと映っていることを忘れちゃいかん。
 さっき交渉のことを言ったがね、良い交渉を成立させるために一番大切なことは、お互いのリスペクトだ。君も相手も、人間だ。互いへのリスペクトという感情の交換があって、はじめて「顧客満足」が成立する。だから、君が誠実で、まじめで、かつ一応は有能であると、お客が感じるように働きなさい。技術屋同士だったら、その点は分かるし、ごまかしようもない。
 取引ではね、商品と対価の交換という、目に見える面だけではなく、顧客満足が成立して、はじめて取引の継続性が生まれるんだ。感情面の補給がないまま、取引だけが継続されると、次第にその取引は死んで行ってしまう。“誰から買って同じだな”と顧客は思うようになる。つまり、交換可能性が高まっていく。こうして、買い手から見たリスクは下がっていき、その分、君たち売り手の側のリスクばかりが上がっていくだろう。」

——リスペクトという感情の交換、ですか・・考えたこともありませんでした。

「プロジェクト・マネージャーの仕事は『感情労働』である、というのはたしか君が昔、言っていたことじゃないか。まったく忘れっぽい奴だな」R先生はグラスをわたしに向けて、言われた。「感情面の配慮なしで、『すべての取引はWin-Winであるべきだ』などと考えるのは、仕事を知らぬ者の空論だよ。」


<関連エントリ>

 →「知識労働、肉体労働、そして『感情労働』」 (2011-08-19)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-01 14:18 | ビジネス | Comments(0)

風雲忍法帖・舞竹城あじゃいる異聞

「半蔵。半蔵はおらぬか!」

−−・・御前に。

「おお、そこか、半蔵。苦しゅうない、近く寄れ。・・い、いや、そんなに近くなくてもよい。もちっと下がれ。・・よし、そこでよい。」

−−ははっ。して、殿、御用向きは。

「うむ。他でもない。隣の藩の動きじゃ。我が藩の長年の宿敵・舞竹藩の動きが、ちかごろ不審との噂が耳に入った。行って、動静を探って参れ。」

−−その事でしたら、手前どもも耳にして、すでに調べを開始しております。街道筋の商人の話では、所蔵米を放出して売り先を探しているとか。また特産品の漆を増産させて現金を得る傍ら、木材・砂鉄を買い集め、職人たちも呼び寄せているとのこと。何やら大掛かりなものを造ろうとしているフシがございます。」

「そうか。気づいておったか。さすが忍び頭じゃ。敵の様子を知ることこそ、兵法の要ぞ。」

−−敵情報知、略して情報

「うむ。情報を制する者こそ、天下を制す。だからこそ、お主を『最高情報責任者』に任じておるのだ。行って、舞竹藩が何を造ろうとしているのか調べて来い。」

−−はっ。(姿を消す)


<ご承知のように『情報』という言葉の語源や意味については、議論がある。森鴎外が考案したとの説もあるが、実はもう少し古くから、「敵情の報知」という意味で用いられていたらしい。「情けに報いる」との意味だという解説もときおり聞くが、俗論だろう。というのは、昭和中期までは「諜報」に通じる、暗いイメージの伴う言葉だったからである。いずれにせよ中国では『信息』という別の用語を使うから、日本で生まれた漢語であることは確かだ。>


−−殿、戻りましてござりまする。

「おお半蔵か。ご苦労であった。どうだった。詳しく聞きたい。近うよれ・・い、いや、何もくっつかなくてもよい。暑苦しいではないか。」

−−失礼つかまつりました。それで、舞竹藩の動静ですが。

「うむ。どうであった。」

−−やはり、藩をあげて大がかりな構築事業をしているのは、確実でございます。最初は、古くなった舞竹城の改築かとも思ったのですが、それだけではありません。出入りする職人の種類が違います。

「なんと。城を作り直すだけでなく、それ以外にも何かを築いていると申すか?」

−−御意。なんでも、老朽化した城塞を近代化して軍備にそなえるかたわら、藩の得意とする産業を成長させ、国を富ます政策とか。産業育成のため、城の隣地に大きな建屋をつくり、藩直営の作業場とする計画のようです。それを『富国強兵策』だか『新成長戦略』だとか申しております。

「なにを生意気な。だが捨て置けぬ奴らだ。しかし、そのような策にはかなりの金が入り用であろう。」

−−さすがは、殿。それがため、かなりの資金を必要としているようです。舞竹藩の勘定奉行はもともと非力な方で、奥方の弥生さまの助けを借りて公務を執行していた様子。しかし、城主お世継ぎの若殿が江戸より赴任されたのを機会に、権益を強めようと画策し、外から軍師を呼んで助言を得つつ、職人集団に築城をさせています。そこで殖産を同時に進める策をとったようです。

「築城は金がかかるからのお。」

−−おおせの通りです。殿は以前、シメジ藩で新規築城があったのをご存じでしょう。

「おお、シメジ城のことか。白鷺が飛び立てずに、うずくまったような姿の城だと聞いておるが。」

−−シメジ藩では失敗を認めずに、「300年後は世界遺産でユネスコに登録だ」などと強がりを申しております。が、そもそもあの種類の築城方式では、ゼロからすべて人足が手作業で組み上げますゆえ、時間も費用もかかります。

「うむ。難儀なことじゃ。」

−−それを見た舞竹藩では、手作りをやめて、外から半製品を買ってきて組み上げる方式を考えております。それがため、あえて新参の職人を雇ったと。

「なに。城作りといえば、老舗に任せるのが習慣ではないか。」

−−はっ。これまでは、公儀ご用達の、肥立組・不二痛組・日雷組など大手に築城を任せるのが通例でござりました。しかるに、舞竹は、渡りの特殊職人集団を呼んでいます。

「ワタリの集団じゃと。まさか頭目の名前は『四貫目』ではあるまいの?」

−−いえ、違います・・殿は昔の少年マンガにもお詳しいようで。なんと毛唐の集団『強拍組』を雇ったとのこと。そして南蛮渡来の、『いーあーるぴぃ』なる築城法を用いると。

「いーあーるっぴぃ? なんとも奇態な名前じゃのお。毛唐からものを買うなど、ご禁制の抜け荷ではないのか?」

−−数年前黒船が現れて以来、ご公儀も半ば無理矢理、いろいろな品物の持ち込みを許可させられています。また強拍組は、いーあーるぴぃ導入こそグローバルスタンダードでベストプラクティスなストラテジーだと申しております。

「なんだか急にカタカナが増えたが、それでうまく行くのか?」

−−そこが肝心なところでございます。そもそも舞竹藩の特産品は漆とロウソク。その製造は釜で蒸したり漉したり反応させたりと、化学処理によるものづくりです。ところが、舶来のいーあーるぴぃは、元々、組み立て型の作業向きとか。適用に手こずって、集められた藩内の農民たちからも不満の声が上がっており、費用も余計にかさむのではないかとの噂です。

「ふん。いいざまじゃ。ちなみに、似たようなことに手を出した先例はないのか。」

−−先年、北国のナメコ藩が、もっと小型のいーあーるぴぃに手を出したと聞きましたが、内実は、まだ。

「半蔵。行って、ぜひ探って参れ。舞竹藩のたくらみが思わぬ失敗に陥るかどうか、もっと情報を集めるのじゃ。」


<歴史的に見て、忍者という存在がどのような職能集団に起源を持つかについても、諸説ある。また徳川家の抱えた伊賀者のみならず、各地に同種の技能者集団があったらしい。一説には、築城職人とも関係があるといわれるが詳細は不明である。ただ、築城は秘密漏洩が最大のリスクであり、逆に敵の城内を知れば攻略もたやすい点で、情報戦の焦点になりやすい。なお忍者は武装を許されているものの武家の身分ではなく、足軽ないしそれ以下の階級であった。>


「・・どうであった、半蔵。何か役に立つ知らせは得られたか。」

−−はっ。興味深い情報を得ました。

「そうか。苦しゅうない、近く寄れ。ただし、90cmまでだぞ。お主は対人的な距離感が、なんだか今ひとつ欠けておるからな。」

−−はっ、恐縮です。それでまず、ナメコ藩の内実ですが、いーあーるぴぃ導入の事業は、業務に合わせるための追加構築費用がかさみ、当初10万両だった予算が最後は25万両まで膨れ上がったと聞きました。

「なんじゃと。あそこは、ただでさえ小藩。そんなに費用が超過したら、国が傾くではないか。築城で国が傾いては、本末転倒であろう。愚かな。」

−−その通りにござります。さて、問題の舞竹藩ですが、さらに忍び込んで調べましたところ、意外なことが分かりました。

「何だ。」

−−舞竹藩は、勘定方の業務には、いーあーるぴぃを使うものの、漆の生産・物流・商流には断念し、別の方式で構築を行うと決めた、とのこと。それが、非常に興味深いやり方でして。合い言葉は『あじゃいり』方式とか。

「阿闍梨? 仏僧の職位のことか。」

−−語源は定かではありませぬ。が、これの面白い点は、少数精鋭の職人集団が、図面も引かずにいきなり建物の一部を作り始めることです。それを、使用者に見せ、使い勝手の意見などをもらいながら、改修増強しながら建て増して、最後には立派な建物としてしまう方法だそうです。これを根来の忍び衆が差配しております。

「それの、どこが面白いのじゃ。そもそも建物は、最初に大工の棟梁が施主の要望を聞いて図面を描き、木材にケガキして切り出すのが基本であろう。」

−−ですが、そのやり方ですと、水が高きところから低きに流れるように、やり直しがきかぬ上、どうしても時間がかかるため、できあがった頃には施主殿の求めと異なるものができあがる懸念がありました。ジャストインタイムの思想に反しておると、トヨタ駕籠屋の古参も批判されているとか。

「お主もカタカナに毒されてきおったな。」

−−どうか、殿、お聞きください。当藩の天守閣も、すでに築城以来年数がたち、業務に合わぬ点も多くなって参りました。しかし、おっしゃるように築城改修は大仕事。棟梁に命じて職人を多数集め、いったん作業を始めたら、簡単には方向を変えられませぬ。築城特殊技術を本務とする、我が配下の忍び衆さえも、図面や指図書を出す諸奉行の人足扱いになってしまいます。築城の仕掛け工夫の知恵は、人一倍ありながらも、です。

「しかし半蔵、それが昔からのしきたりではないか。」

−−たしかに。ただ、この『あじゃいり』方式、従来よりもずっと早く結果が出せるとのこと。わが藩にても、試す価値はありかと。

「何を言う、半蔵。さては舞竹藩の異人に接して、かぶれたのか。」

−−恐れながら、殿。わが忍び組は、このところ毎年のように経費削減を命ぜられ、手当も前年比1割カットの憂き目を見ております。しかし、かの新方式が、安価に築城を可能にできるなら・・

「愚か者。畏れ多くも御開祖様から受け継いだこの城、前例もない方法で手を入れるなど、もってのほか。それに考えてもみよ。この天守閣は多層階構造だ。そんな、最初に犬小屋みたいなものを建てて、それを建て増す方法で作れるわけがないではないか。」

−−ならばせめて、厩舎の建て替えで試させていただきたく。敵情を学んだ我が部下達も、やらせてくれと首をそろえて願い出ております。

「ならん。おまけに、そちのいう阿闍梨方式とやらでは、忍びの者が主役で、武家は単なる脇役になってしまう。それでは主客転倒である。舞竹が何をしようと勝手だが、当藩では許さん。」(立ち去ろうとする)

−−殿、今のままでは開国の時代に間に合いません。お待ちを! (袴の裾にすがりつこうとするが、90cmの距離のためにつかみそこね、あわてて走って後を追う) お聞きください! 殿・・!

 〜 幕 〜


<付記>
アジャイル開発の方法論については、その利点についてさまざまな意見が交わされている。わたし自身はまだ本格的な取り組みの経験がないが、それに近い形のプロジェクトは自社でも見ており、それなりの有効性は感じている。

ところで、技術論や経済評価は別として、わたしがこの運動を見て感じたことが一つある。それは、これがプログラマにとって、’70年代のウィメンズ・リブ運動のような意義を持つ、ということだ。「ドキュメントよりも動くソフトウェアを、契約より協調を、計画より変化への対応を」という宣言にも、そのような気分は現れている。
プログラマという職能従事者は、わたし達の社会では(そして世界中どこでも)SEやPMやユーザよりも、一段下の階級であるかのように、扱われてきた。給与待遇面の格差は「需要と供給の関係で決まる」と言えなくもないが、それよりも意識面での格差が酷い。このような状態はまた、優秀な人材がプログラマを志望することへの妨げにもなっており(ごく一部の例外は除く)、それは技術力や生産性の低下にもつながっていく。

それでは、アジャイル開発がすべての問題を解決していくか? わたしは、それほど楽観的ではない。IT業界では、皆がずっと「銀の弾丸」を探してきた。だが、そういったものは聖杯伝説と同じで、無さそうだと気づいてもいいころだ。すべての問題を、一気に解決していく手法などない。適材適所、フィットする分野にフィットする人と方法を適用していくしかないのである。ただ、ウィメンズ・リブ運動が、(全世界の不平等問題を一気に解決しなかったけれども)多少は人々の意識に変化を与えたように、プログラマの復権の運動にも、もう少しきちんと日を当てていい時期ではないかと思っている。
by Tomoichi_Sato | 2014-11-23 22:50 | ビジネス | Comments(0)

ある経営者の命運に見る、石油資源の戦略性

1962年10月27日、シチリアのカターニャ空港から1機の双発ジェット機が飛び立った。乗っていたのは、操縦席のベルトゥッツィ機長、タイム・ライフ社ローマ支局長マックヘイル、そしてイタリア炭化水素公社(略称ENI)総裁のエンリコ・マッテイの3名だった。機はミラノの空港に向かって飛んでいた。午後6時45分には着陸態勢に入ったことを、リナーテ管制塔が確認している。だが、彼らがそこに着陸することはなかった。通信が5秒間ほど途絶えた後、機体は突然、空港から10数キロの湿地帯に墜落したからだ。乗っていた3名は全員死亡した。

ENI総裁エンリコ・マッテイは、立志伝中の人物だった(以下、この事件を詳細に調べたジャーナリスト、E・ビアージ著「新イタリア事情 上 (朝日選書 226)」にもとづいて書く)。ENIは石油精製、パイプライン、化学など80もの企業群を傘下に置く、イタリアの巨大国策企業である。マッテイはその総裁として活躍し、米英石油資本に真正面から立ち向かい、ソ連から石油をイタリアに輸入するなどして、「民族の英雄」的存在だった。警察官の息子として生まれ、15歳の時から職人として働き始めた彼は、第二次大戦中に反ファシストのパルチザン部隊で活躍し、終戦直後にイタリア石油公団(略称AGIP)の副総裁のポストに、39歳の若さで就任する。

AGIPはイタリア国内の石油資源開発のために’26年に設立されたが、それまでは失敗続きだった。機材を米企業に売り払って業容を縮小しろ、とのローマからの訓令をマッテイは無視し、ポー川流域の探査を続行する。彼の賭けは見事に当たって、翌年、幸運にも天然ガスを掘り当てた。彼はガス・パイプライン埋設にも豪腕を発揮して、工業都市トリノまでつないでしまう。そしてイタリア政府は1953年、AGIPを中心に、北伊天然ガス配管会社(略称SNAM)、水素製造公社(略称ANIC)を統合してENIを設立、マッテイはその総裁に就任する。

彼の情熱と執念の中心には、石油資源の確保があった。イタリアにはほとんどエネルギー資源がなかったのだ。大戦後の世界秩序の中で、石油需給を牛耳っていたのは「セブン・シスターズ」と呼ばれる石油メジャー7社だった。彼は資源を手に入れるために、中東であれアフリカであれ、どこにでも出かけていった。1960年、彼はソ連と石油輸入4カ年協定を結ぶ。ENIが年間500万トンのソ連石油を輸入する代わりに、パイプライン機材24万トンを輸出するというものだった。この取引は米英仏を激怒させたが、彼は引かなかった。

彼はイランとも協定を結び、破格の75%という利権料を払って採掘権を得た。さすがにイランのパーレビ国王と、前イタリア王家のマリア・ガブリエラ王女を結婚させようとした政略はうまくいかなかったが、モロッコ、チュニジアでも(旧宗主国のフランスの頭越しに)合弁事業を設立。エジプトとイスラエルが第一次中東戦争に突入したときは、マッテイは私兵を雇い、自動小銃で武装させた上、ENIの制服を着せてエジプトに送り込んで、自社の油井を守らせた。そのかたわら、フィレンツェ市の要請を受けて、老舗の機械メーカー・ピニョーネ社の経営も肩代わりしたりする。

彼の突然の航空機事故死には、当然ながらいろいろな疑問が出される。霧の天候の中、機長の操縦ミス説もあった。しかし、ベルトゥッツィ機長は20歳の時から爆撃機を操縦してきた大ベテランで、ミラノ着陸回数は700回を数える。車輪の出なくなった飛行機で、滑走路に胴体着陸しながら、ナット一つ落とさなかったという逸話もある。機長夫人の証言によれば、ピストルと釣り道具一式の入った私物の鞄だけが、おかしなことに格納庫から無くなっていた。

マッテイ総裁自身にも、もちろん敵が多かった。マッテイの未亡人は「ある晩、目覚めると、マッテイが一枚の紙切れを持って泣いていた」と証言している。彼は決してその紙を妻には読ませなかっが、脅迫を受けていたのは事実らしい。それから8年後の1970年、この事件を追って、マッテイ総裁の最後の二日間を調べていたシチリアの著名な記者デ・マウロ氏は、自宅前で車に乗った数人組に誘拐され、以来消息を絶ったままになっている。半世紀以上たった今、もはや真相は闇の中である。

以前も書いたことだが、石油は戦略物資である。戦略とは文字通り、戦争に必要、ということだ。エネルギー経済学から見れば、石油も石炭も天然ガスも、みな電力に変換可能という点ではよく似ている。事実、シェールガス革命の進む米国では、石炭炊きの火力発電の炉が、次々に天然ガス炊きに改造・転換されている。しかし、石炭で走る戦車はないし、電池で動く戦艦も、LNGで飛ぶ戦闘機もない。軍隊を動かすには、常温で保管でき液体で輸送しやすい石油系燃料が必須なのだ。かくして、20世紀初等以来、いくつもの戦争が石油をめぐって起こされた。多くの国にとり、石油資源の確保は最重要課題の一つである。

だからといって、石油関係企業のトップが航空機事故などで急死したら、すぐ誰かの陰謀だと決めつけるのは早計だろう。マッテイ総裁が、ソ連と結んだ4年間協定の完遂を見ずに亡くなったことは、事実だ。しかし公式の事故調査報告書は、謀殺説には否定的だった。航空機事故は、それだけ致死性の高い出来事なのだ。そして、言うまでもないことだが、陰謀論など愚か者の理屈である。陰謀論を持ってすれば、どんなことだって説明可能になってしまう。あなたの所持する株価が下がったのも、ユダヤ人の陰謀だろう。今朝の電車に乗り遅れたのだって、CIAの陰謀に違いない。何でも同じ結論に収れんする陰謀論など、相手にすべきではないというのが、世の知的人士の常識だろう。

ちなみに、イタリアのENI自体は今も存続し、世界的に資源事業を続けている。そして、政治的に不安定な地域でも活躍するリスク・テイカーである、などと業界誌では評されている(石油業界はわたしの勤務先の顧客筋だから、このさき、言葉は慎重に選ばざるを得ないが)。マッテイの残した社風が、今も受け継がれているというべきかもしれない。あるいは、そういう地域でしか、石油採掘権を手にできなかったと解釈することもできる。ただ、マッテイが生きていたら、おそらく、もっとずっと大きくなっていて、英米メジャーを脅かす存在に近づいただろうとは想像される。

わたし達が「石油会社」というとき、普通それは二つの意味を持っている。わたし達、消費者がガソリンや灯油といった製品を買う相手としての企業、すなわち原油を精製販売する会社という意味が一つだ。もう一つは、地下資源を探索して原油を採掘する、資源会社。石油業界ではサプライチェーンにしたがって、前者を下流側、後者を上流側企業と呼ぶ。ガソリンスタンドなどでわたし達が目にする日本の石油元売企業は、ほぼ下流側だ。ENIは国際石油メジャーほどではないが、上流も下流も持っている。

さて、一橋大学の橘川武郎教授は、国際協力銀行の「国際調査室報」に、『石油開発ビジネスにおける 日本企業の動向』という興味深い論文を書かれている(2010年3月号)。それによると、世界の石油企業上位50社のランキングを見た場合、三つのタイプの企業群に分けられる、という。第一はExxonMobil、Shell、BPといったいわゆる石油メジャー(大手国際石油資本)。第二が、Saudi Aramco、イランNIOC、ベネズエラPdVSAなど産油国の国営石油会社。そして第三がフランスのTotal、イタリアENI、中国CNPC、スペインRepsolなど、資源輸入国における国策石油企業であり、橘川教授はこの第3のタイプを『ナショナル・フラッグ・オ イル・カンパニー』と呼んでいる。

さて、世界第3位の経済大国であるにもかかわらず、日本には世界ランキング50位に入るような、ナショナル・フラッグ・オ イル・カンパニーが2010年時点で存在していない。その理由は、何よりも我が国で「上流部門と 下流部門が分断されているから」(p.101)である。われわれ消費者がよく知っているJXや出光といった会社は下流部門を主とする企業である。これに対し、日本にも石油資源開発(JAPEX)やアラビア石油などの上流部門企業が以前から存在しているが、「長らく過多・ 過小の企業乱立が続いてきた」(p.106)状態であり、世界ランキングに入る大手が成長しなかった、という。

これに加えて、橘川教授が指摘するのは、「わが 国では、探鉱・採掘という上流部門は、『リスクが大きい』『政府の支援が必要な』分野と理解されている。日本の石油産業をめぐる最大の不思議は、『上流部門で儲ける』という世界の石油産業の常識が通用しないことである。」(p.101)という、業界のあり方だ。

このような業界のあり方は、しかし、本論文にも書かれているとおり、国際石油開発帝石(INPEX)という巨大企業の登場によって、ようやく2010年代に入り、変わることになる。詳しい経緯は省くが、石油公団の解散にともなう上流企業の水平統合を通じて、上記の意味での「ナショナル・フラッグ・オイル・ カンパニー」が登場した、と見ることができる。石油資源開発をめぐる日本の国際競争力の構築という観点に立てば、現状はけっして悲観すべきものではない、という見解になる。(もっとも橘川教授は経産省の石油政策小委員会の委員長として政策決定に関わられた立場だから、当然の結論かもしれないが)。

ところで、石油会社世界ランキング50位を見ると、もう一つ、奇妙なことに気がつく。それは、日本と並び、戦後の世界経済を牽引してきた大国・ドイツにも、大きな石油資源会社が存在していないことだ。まことに不思議なことだ。伊ENIも、マッテイという暴れん坊の存在がなかったら、国内の販売事業だけで、上流側のビジネスは持てなかったに違いない。

イタリア、日本。そしてドイツ。なぜ、この三つの国だけは、G7クラスの大国でありながら、巨大な石油資源企業を持ち得なかったのか。この三ヶ国に共通なことは何なのか?

わたしにはもちろん、分からない。
by Tomoichi_Sato | 2014-11-16 23:18 | ビジネス | Comments(0)

Key Success Factors - 成功理由を説明する10の方法

ご承知の通り、本サイトのテーマは、『計画とマネジメントの技術ノート』である。部下や後輩をリードし、仕事をマネージしなければならない立場の人に対し、“マネジメントのテクノロジー”について情報提供することを使命と心得て、書いているつもりだ。本サイトは「ビジネス・経営」といったカテゴリー分けをされることも多いが、わたし自身は、個別企業のビジネス批評や経営者批評をしたことはないし、興味もない。

しかし世の中には、経営批評や経営者の批評がお好きな人もけっこう多い。あの会社がこう成功した、この会社がああ失敗した、という具合に、飲み会の席でもよく話題にあがる。まるで、ひいきのスポーツ・チームの戦績を話題にするが如きだ。実際、似た気持ちなのかもしれない。皆さん、その会社のクルマや家電製品を使っているとか、ないしは(もしかしたら)株もお持ちかもしれぬ。

ついでにいうと、世の中には、プロジェクトのマネジメントを、会社の経営と同様のものと考えている人も多いようだ。プロジェクト・マネジメント関係のイベントでは、よく企業の社長や役員が招待講演をしている。自分はいかに事業にチャレンジし、いかに成功したか。面白いのだが、中身の話を聞いても、WBSもなければクリティカル・パスもない。ただただ経営の話である。わたしのように、プロジェクト・マネジメントと経営は相当に別次元のものだ、と考えるのは少数派らしい。

まあ実際、技術でチームをリードすることに行き詰まりを感じたプロマネが、ドラッカーの本を読んで啓示を得た、なんて話も聞く。むろんドラッカーの経営論も読めば有益であろう。しかし、プロジェクトとは、終わるために努力する仕事である。反対に、経営というのは、会社が終わらないために努力する仕事ではないか。プロジェクトのためにドラッカーを読むのは、なんだかマラソンにでかける前に、宮本武蔵の五輪の書を読むようなもので、少しtoo muchかつ方向違いの気がする。

まあ、ことは企業業績であれ、プロジェクトの成果であれ、いや、たとえスポーツチームの成績であれ、世の人々が批評の際に最も好む説明方法は、「リーダーの良しあし」であろう。リーダーが良いから、成功した。成功しなかったのは、リーダーに問題があったからだ。こういう説明は、単純かつ明快、誰にでもわかりやすい。

成功を左右するキーとなる要因を、経営学ではCritical Success Factor (CSF)と呼ぶ。簡単のため、本稿では以後CSFという略語を使おう。上記のような説明は、リーダーの質がCFSである、と考えている訳だ。もちろん、それ以外の要因をCSFだと考える論者もいる。世の中には数多くの経営論があるのだ。わたしは、それらを数え上げていくと、大別して4つのカテゴリー、もう少し細かく分けるとだいたい10種類くらいになると考えている。なぜ、そんなに種類があるのか。そして、どれが議論として説得力があるのか? 少し考えてみたい。

まずは、上記の「CSF=リーダー個人」論である。プリミティブだが、とてもわかりやすい。小中学生でも理解できる論議だ。このリーダーの良しあしは、器量の大きさとか、資質の高さ、性格の良さといった、人格の特性で表現される。

いうまでもないことだが、人格の大部分は生まれつき決まったものである。それに加えて、育った家庭環境や経済状態にも大きく依存する。ということは、組織が成功するためには、良きリーダーを据えるべきであり、そのリーダーは、氏や育ちを重視して選ぶべきだ、ということになる。となると、この論理に従えば、組織トップは家柄・階級制で決定すべし、という結論になりがちだ。

だが、江戸時代の階級社会ならいざ知らず、近代社会ではこれはいささか不都合な結論であろう。そこで、むしろ「リーダーの知識・能力・経験」こそが肝要だ、という考え方が現れる。これが第2種のCSF論である。家柄より能力。まさに明治維新を推進したのはこの考え方ではないか。

では、知識や能力を持つリーダー候補は、どうやったら見いだせるか? そのためには試験で客観的に測るのが一番いい、と明治政府は考えた。そのために帝国大学を設立し教育制度を整備した。しかも知識経験は、当然ながら経験年数とともに増えていく。だから、組織トップは学歴と年功序列制で決めるべきだ、という結論になる。官庁は今でも、この考え方で運用されているように見受けられる。

だが、これにも批判はある。たかが二十歳あたりの試験の成績で、人の出世コースがすべて決まってしまうのはおかしいではないか。むしろ、意思・熱意・根性、すなわち「リーダーのパッション」こそを重視すべきだ。こう信じる人も多い。これこそ第3種のCSF論である。精神一到、何事か成らざらん。鉄は熱いうちに打て! ぬかに釘!ーーいや、少し違うか。ともあれ、リーダーの意志力を重視する考え方は、明治の市民社会勃興期の事業家たちに共通するし、それは今日の社内ベンチャー制などにも影響を与えている。

第1種〜第3種までのCSF論をまとめて、わたしは『人間主義:リーダー個人』論と呼ぶことにしている。区別のため、この3つを「Aカテゴリー」としておく。

これに対して、Bカテゴリーとして、『集団主義: チーム』論とも呼ぶべき一連の系譜がある。組織のパフォーマンスを論じるのに、リーダー個人だけを見るのは不十分だとの考え方である。仕事の規模が大きくなり、組織としての力が必要になる近代産業社会で、次第に力を増してきた。

Bの第1種のCSF論では、組織の成員である個人個人の力量が大切だと考える。四番打者ばかりが素晴らしくても、あとの打線がだらしなかったら、どうやって得点を重ねるのか。組織の戦果は、成員の力量の合計で決まる。これはこれで、わかりやすい理論である。この論者が願うのは、スタープレイヤーばかりが集まった、「ドリームチーム」である。年に一度、あるいはオリンピックのときに、この夢の布陣はかなう。

でもさあ、ドリームチーム必ずしも最強ならず、じゃない?ーーそんな批判もありうる。いくら良いメンバーが揃っていても、統制がとれていなければ、烏合の衆である。きちんと位階と責任と命令系統が機能しなければ、組織は機動力を発揮できない。統制こそ成功の最大要因である、と考えるのが、Bの第2種のCSF論である。もちろん、こうした組織論の理想型は軍隊であるし、だから近代の富国強兵の時代に大きな影響力を発揮した。

さて。組織力というものを、単純な個人の集合(合計)と考えるのがB1種で、そこにタテ社会的な統制の軸が必要だと信じるのがB2種だとしたら、いや、組織にはもっと体系的ないし有機的な連携の仕組みがいるはずだ、と考えるのが、Cカテゴリーの「システムこそ成功要因」論である。システムとといっても、別にコンピュータ利用のことを言っているのではない。システムとは、複数の機能要素が連携して有機的な作用を生みだす仕組みであり、それは、体系化された役割分担(機能分業)と、標準化された手順と、情報伝達手段によって生みだされる。「トヨタ生産システム」などはその典型例だと思えばいい。

このようなシステムを構築してきちんと運用できれば、属人性が減るから、誰もが一定レベルでパフォーマンスをあげられるようになる。統制の取れた軍隊組織もけっこうだが、将校や下士官が無能だったら役に立たぬ。その点、システムは安定した成果をあげられるから、とても有効である。こうした思想をCの第1種とするならば、これは欧米的近代企業に共通する基盤であろう。

しかし、システムの安定性と継続的改善だけで、現代の荒波を乗り切れるのか。むしろそこで大きく成功するには、イノベーションというパワーが大事なのではないか。そのためには、組織内での知的能力、すなわち「ナレッジ・情報化」が重要だ。これが、Cの第2種のCSF論だと考えられる。この種の論者も、今日には多い。彼らの理想とする組織は、たとえばGoogle風のイノベイター企業であり、あるいはジョブズ時代のAppleなどである。知的能力の最大化による新市場の開発。これこそがイノベーション時代の成功要因である、と。

カテゴリーBとCの議論は、リーダー個人ではなく、組織・集団レベルでの力こそ、成功を左右する鍵だと考える点では共通である。

これに対して、ビジネス環境を、もっと重要な因子ととらえる考え方がある。これを最後のカテゴリーDと呼ぶことにする。Dの第1種は、「適切な市場環境のポジショニング」こそが成功要因だと考える。たとえば、有名なポーターの『競争戦略論』などはその典型であろう。いかに組織が優秀で、すぐれたシステムや製品を持っていたとしても、大勢が競合する市場で戦ったら、安値競争で揉みくちゃにされるしかない。そんな場所は避けて、もっと競争のないブルーオーシャンを目指しなさい。そのために一番必要なのは、マーケティング戦略である・・これが、とくに最近のビジネススクールでメジャーな考え方らしい。

ところで、世の中にはもっとクールで現実主義的ないき方もある。それは、どうせ良いポジショニングを目指すなら、政策や利権と結びついた方が得策だ、とする考えだ。こうした発想からは、当然の如く『政治力』が重要視される。英米とは異なり、最近の新興国では国家資本主義ともいうべき動きが目立つ。その背景にあるのが、Dの第2種ともいうべき「利権・政策こそCSF」論である。

さて、このD2をさらに徹底し、さらに大きな視野でみる立場が、最後のD3:「時代・強運こそ成功の最大の基盤」という論であろう。特定の政策や政党と結びつき、政商的な立ち回りをしても、それが何世代も続いて有効だった例は乏しい。むしろ、そのときどきの時代の流れに乗り、運をうまくつかんで成長し続けることこそ、究極の成功である。そう、思わないだろうか?

これまでのところをまとめてみよう。以下の10種類の成功要因論がある。それは、プリミティブなものからはじまり、より時代の試練と大きな視野を通じて、この順に、高度なものとなってきた。

(A1) リーダー個人の器量・資質・性格
(A2) リーダー個人の知識・経験
(A3) リーダー個人のパッション
(B1) 成員各人の力量の合計
(B2) 統制
(C1) 分業組織・標準化
(C2) 知性・情報化
(D1) 市場環境
(D2) 利権・政策
(D3) 時代・強運

さて、そうすると最も高度なCSF論は「強運」という、身も蓋もない見解になる訳だ。が、ちょっと考えてみてほしい。世の中で、一番強運な事は何か。自分でどう努力しても手に入らぬ、運命としか言えぬものは何か? それは、自分の生まれつきではないか。どんな家柄のどんな性格に生まれつくか、だれもコントロールできぬ。そうすると、じつは(D1)の究極は、(A1)に通じる、ということになってしまう・・

どうやらわたし達は、壮大なループ、あるいは昔話で言う「ねずみのお嫁入り」状態に陥ったようである。ねずみよりは猫が強く、猫より犬が強く・・と追いかけていくと、最後には結局ねずみにたどりつく、という、あの昔話である。

では、どう考えたらいいのか。わたしは、上記の10種類のCSF論は、三角形のパースペクティブの中に付置できると思っている。それが下図である。三角形の左辺が、『人間主義:リーダー論』、右辺が、『組織・システム論』、そして下辺が、『ビジネス環境論』だ。

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三角形の三つの頂点は、それぞれ、上が「ガンバリズム」の軸、右下が「戦略イズム」の軸。左下が「オポチュニズム」の軸に対応すると解釈すると、分かりやすい。これらが、現在世の中に流通している、さまざまな成功要因論の対立軸を示す。もし「ガンバリズム」が優勢なら、どんな環境も克服できるはずだ。もし「戦略」が万能なら、リーダーの人間性は不要である。そして上手に運に乗る「オポチュニズム」が最強ならば、組織に仕組みなんかいらない。だから、これら10個のCSFは、全部同時には並び立たないのである。

ここから導かれる結論は、二つだろう。まず第1に、われわれが何か事業や会社の成功理由を分析するときには、自分の視点が、個人・システム・環境の三角形の中のどこら辺に位置しているのかを、ちゃんと自覚しなければならない、ということだ。そのときどきに、ぐるぐると場所を変えて、しかもそれを自覚しないのは一番いけない。ちなみに、わたしはこのサイトで「システム論」を繰り返し主張しているが、それは、わたし達の社会ではシステム論的な視点が非常に手薄だから、バランスをとるべく、そうしているのである。システムだけが万能だ、などと主張するつもりは全くない。

もう一つの結論は、「ものごとの成功理由を説明するのは簡単だ」ということである。なにせ説明の方法は、こんなに沢山あるのだ。だから、何かを見て、その成功を説明してみただけでは、たぶん不十分なのだ。むしろ大事なのは、結果を説明することよりも、将来を予測することなのだ。予測した上で、検証する。これが本当に役立つ態度であろう。だから居酒屋でビジネス批評の意見を聞かれたら、「でも、来期はどうなると思います?」と聞き返すのが、わたしの趣味なのである。
by Tomoichi_Sato | 2014-11-03 23:56 | ビジネス | Comments(0)