カテゴリ:ビジネス( 190 )

顧客ロイヤルティの向上 〜 次もまた選びたくなる企業となるために

「どちらにお住まいですか?」そう聞かれたら、横浜です、と答える。だが「最寄り駅はどちらですか?」とたずねられると、どう答えるか、わたしはときどき迷う。住まいからは、JRの駅、そして2本の私鉄の駅の、いずれにも出られるからだ。どこに行くかによって、使う駅を毎回決めている。便利な場所に聞こえるかもしれないが、どこからも中途半端に遠い、とも言える。

ただ、複数の選択肢が可能なときは、3つの路線の中で、京浜急行の駅を選ぶことが多い。じつはこの駅が一番遠いのだが、何となくそうしてしまう。京急はまず、列車のスピードが速い。これは今月の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」における八巻直一先生の講演で知ったのだが、京急は関東の私鉄の中では例外的に広軌、つまり線路のレール幅が広いのだそうだ。だからスピードを出しやすいということらしい。それに経験的に、停止するトラブルが少ないし、トラブルからの復旧が他社よりも早いと感じる。落とし物をしたときの対応なども、普段利用する他の鉄道会社より、おおむね良い。距離と価格の比で言うと、他の私鉄の方が相対的に安いのだが、鉄道選びは価格だけではない。

当たり前だが、価格だけで買い物を決める消費者はいない。性能、デザイン、品質、納期、支払い条件などを総合的に勘案して決める。競争とは、これらすべての項目を通じた競い合いである。とくに、消費者に具体的な商品を届ける消費財の場合、性能・デザインなど目に見える項目は、大きな競争力の要因となる。この事情は、サービスでも同じだ。鉄道やホテル、病院などでは、規模・機能のほかに、立地などの項目も重要だろう。

では、具体的な目に見える商品を持たぬ受注ビジネスにおいて、購買側の意思決定を決める要因は何だろうか?

これはすなわち、受注ビジネスの企業が目指すべき競争力とは何か、という質問でもある。いうまでもなく、コスト競争力が競争力のすべてではない。価格は競争の重要な一因子だが、非価格競争力もあるだろう。それは具体的には何か、との問いである。むろん、答えは業種業態によって違うはずだが、そこに共通するものはないのか。

ここで、『顧客満足度』(CS = Customer Satisfaction)というキーワードがひとつ、浮かび上がってくる。顧客満足度調査は、消費財の分野では昔からよく行われてきた。商品を買った消費者に、いろいろな角度から、その満足度を聞くのである。そして総合評点をつける(以下の記述は、圓川隆夫・著「我が国文化と品質 (JSQC選書)」に依っている)。CSの測定は、詳しく言うと、特定の製品・サービスを対象とした「モナディク尺度」と、過去の製品・サービスの使用経験に基づく「累積尺度」がある。いわば単発的な満足度と、累積的な満足度である。後者は、再購買行動との関連がより強いと言われている。

では、顧客満足度を左右する因子は何なのか。マーケティング研究においては、顧客満足度は『期待不確認モデル』(expectancy disconfirmation model)で説明されることが多いらしい(同書p.94)。このモデルでは、

CS = [使用時の知覚品質] - [事前期待]

で表現される。製品・サービスを実際に使用したときに感じる知覚品質と、事前期待に代表される各個人の比較標準との、差が顧客満足に現れる。事前期待が高いほどCSは低くなり、事前期待が低ければCSは高くなる。アップルのような企業は、つねにファン的なユーザによる高い[事前期待]と闘っているわけだ。

ところで、前述書の著者である圓川教授の最近の研究によると、消費財の分野では、「企業イメージ」がCSと「再購買行動」をかなり決めることが分かってきた。世界8カ国10の製品・サービスのデータによると、企業イメージはCSの約7割を決定しているらしい。ただし国別に見ると、米国や中国では企業イメージの影響が比較的大きいが、日本とドイツではそれほどでもない、という。

なお日経BP社のブランドジャパン調査では、ブランドイメージの総合力を、「フレンドリー(親しみ)」「コンビニエント(便利)」「アウトスタンディング(卓越)」「イノベーティブ(革新)」の4つの因子に分けている。この中では、とくに「卓越性」のイメージと、CSや企業イメージとの相関が強いことも分かってきた。「他にはない魅力がある」「際だった個性がある」事などが、消費財のブランドイメージや企業イメージを向上させるのである(圓川隆夫「日本企業のリスクマネジメントの二面性」2014年12月講演資料より)。

だが、ひるがえって、受注ビジネスにおける企業イメージとは何だろうか? とくに、あまり広告宣伝を打つわけでもないB2Bビジネスにおいて、企業イメージはどのように形成されるのだろうか?

当たり前だが、答えはユーザ企業による個別の経験を通じて、ということになる。受注ビジネスでは、引き合いから発注をとおして納品まで、顧客と売り手が接する期間が長い。その間に、個別要求のすりあわせや個別設計が入ったりすることも多い。売り手と買い手のインタフェースが、対面的である。だから口コミが大きな割合を示す。商品と広告宣伝だけがインタフェースとなる消費財の世界と違うのだ。

もう一つは、業界内部での横の評判である。たとえばすぐれた結果や卓越した実績を残すこと。もちろん、これも口コミベースになりやすい。B2Cとちがい、ネットに批評が流れるケースはほぼないからだ。ただしネットや広告宣伝の空白を埋める存在として、業界コンサルタントが専門的に比較調査することはありうるが。

B2Bの受注ビジネスにおいては元々、売り手と買い手との間に、継続的な緊張関係が存在する。買い手側は、要求仕様を自分が規定し、提供させる製品やサービスを鋳型にはめることで、価格競争に持ち込もうとする。逆に売り手側は、製品やサービスのユニークな機能・特性など(供給性状)を提案し、他社との差別化によって、価格競争から逃れようとする。買い手側は、要求仕様を盾に自分の都合のいい方向に引っ張り(Pull)、売り手側は供給性状を武器に自分が有利な方向に押し出そうと(Push)する。この綱引きのような技術的・心理的せめぎあいが、受注ビジネスにおける取引の本質なのだ。

そこで、買い手側の意識した要求仕様を上回る内容を、売り手側が提案・設計できるかどうかが、勝負の分かれ目となる。あるいは、設計面ではなく、パフォーマンスの面で、買い手側の無意識の期待を、売り手側が超えられれば、それでもOKだ。ここでいうパフォーマンスとは、売り手側の生産性や品質やスピード(納期)のみならず、売り手が自らの業務プロセスやチームの状況を的確に把握していること、問題を事前に防止したり迅速に解決できること、協力的なマインドであること、などを指している。つまり、相手を信頼でき、一緒に働いていて気持ちいいか、という心理的な評価となる。この感情面での評価が、じつは受注ビジネスにおける『企業イメージ』の実態であり、それが意思決定において大きな役割を持っているのだ。

顧客が、「再びこの発注先と仕事をしてみたい」「またここから買ってみたい」と感じる気持ちを、『顧客ロイヤルティ』(customer loyalty)と呼ぶ。英語には”loyalty”と”royalty”という、(日本人にとっては)よく似た二つの単語があるが、前者は忠誠心の意味である。後者は単語の中に”Roy”(王様)が入っているように、王族とか、国王の認可権・特許料などを意味する。このサイトでは、区別するために、前者をロイヤルティ、後者をロイヤリティと表記することにする。顧客ロイヤルティは、顧客が商品や売り手に感じる「忠誠心」(愛着)である。そして、顧客ロイヤルティの確保は、受注ビジネスが目指すべき最大のポイントである。顧客ロイヤルティが高ければ、価格競争に持ち込まれずに済む。また、繰り返し同じ相手と仕事をしていれば、さまざまな教訓(Lessons & Learns)が得られるから、さらにパフォーマンスも高くなる。

逆に言えば、毎回買い物を入札で決めようとする買い手は、基本的にどの売り手に対しても顧客ロイヤルティがゼロだということになる。公共系の仕事などは、毎回、相見積もりや競争入札が義務づけられる。これは内部監査や透明性の確保の観点から要請されていのるが、実際には、ユニークな提案を受け入れにくく、また繰り返しによる生産性の向上などを犠牲にしているわけだ。

言うまでもないが、顧客ロイヤルティの向上のためには、「顧客の期待に合致する」だけではダメである。「顧客の期待以上」が何度も続く必要がある。それは、先ほども説明したように、提供する製品・サービスの技術的な面と、遂行パフォーマンスの面がある(冒頭にあげた京浜急行の例が、よきパフォーマンスの例である)。

また、顧客ロイヤルティは、お客さんに対してイエスマンだけで居続けては達成できない。わたしの知る優秀な企業の例を見ても、顧客に「それはできません」ないし「それをやるとこういう困難がある」とはっきり言うことで、逆に信頼を得てきた。顧客の(とくに権限の小さな担当者による)無体な要求に対しては、最終的にそれが顧客全体のためにはならないことを説明する。その際の論拠も、顧客当人の満足よりも、「顧客の顧客」の満足を見通す能力である。松下幸之助の商売戦術三十箇条(1936)の中に、
「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ」
という条項があるそうだが、この機微を語っているのだろうと思う。

無論、このようなことは、言葉にすると簡単に聞こえるが、非常に高い対人スキルや交渉能力を要する。だから、そうした対人感度の高い人材をフロントにおく必要があるだろう。以前にも書いたとおり、「気が利く」能力を生み出す要素は4つある。これを組織として認知して、サポートする仕組みがないと、顧客ロイヤルティの向上は図れまい。「次もまた選びたくなるパートナー」こそ、受注ビジネスに身を置く企業が目指すべき姿なのだと思う。


<関連エントリ>
 →「書評: 「我が国文化と品質」 圓川隆夫・著」(2014-12-17)
 →「勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて」(2015-03-11)
by Tomoichi_Sato | 2015-04-20 22:18 | ビジネス | Comments(1)

マネジメントのテクニックと技術論について

このサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』である。計画に技術なんてあるのか? そして、マネジメントに技術なんてあるのか? --もちろんある、とわたしは考えている。大学で講義したり、人前で話したりする機会があるときは、ほぼ必ず、「皆さん、計画とマネジメントには技術があるんですよ」と訴えるスライドを1枚いれることにしている。

それでもまあ、反応ははかばかしくない。たいていの人はピンとこない顔をしている。マネジメントという言葉を、『管理』だとか『経営』だとかいう旧来の日本語の枠内でしか捉えないためだろうか。そして人を使う技術だろ、あるいは金儲けの技術かよ、みたいに思うらしい。そんなのに技術があったら苦労しないよな、と。

わたしは2000年に、「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」という、単著としては初めての本を出版した。その本は幸い、比較的好評を持って実務家に迎えられた。ネットにもいくつか書評や感想が出たが、わたしが一番驚いたのは、「計画やスケジューリングに理論があるなんて、本書を読むまで知りませんでした」という感想だった。ソフトやコンテンツ制作系の業種の方だったと思う。この方はそれまで、クリティカル・パスも、フロートも、最小スラック順もバックワード・スケジューリングも、何一つ知らずに仕事を回してこられたのだ。

小規模な仕事ばかりなら、それでも済むだろう。だから知らなかったことを批判しようとは思わない。だが、規模や金額の大きな仕事も、同じような感覚で回そうとしている技術者が多いんじゃないかと、あらためて考えさせられた。これではまずいな。そこで、本のフォローアップと正誤表掲載の目的で、ホームページをはじめたのである(・・もう15年も経つんだなあ)。会社員であるにもかかわらず、ずっと実名でサイトを運営してきたのはそのためだ。

まあ、スケジューリングの分野はORの研究者が好むため、妙にアカデミックな用語が多い。だからもっとアカデミアから遠い、あんまり理論とか関係なさそうな仕事を例にとって、考えてみよう。

今、目の前に、紙幣やら硬貨やらがごちゃまぜにあったとしよう。大金とまでは言えないが、ちょっとした金額だ。実際に見たことはないが、正月なんか近くの神社の賽銭箱を開けたら、こんな風じゃないだろうか。--さて、これが正確にいくらあるか、数えなければいけない、としよう。では、どうしたら早く、正確に金額を数えられるか? もちろん、手元には紙幣カウンターとか硬貨仕分け機とかいった、文明の利器はないとする。目端の利く人なら、「金融機関に持ち込んで、おたくの口座に預けるから数えてよ、と頼めばやってくれるだろう」くらいは思いつくかもしれぬ。だが、それも禁じ手としておこう。休日だから、自分で数えるのだ。さて、どうするか? 
e0058447_22292491.jpg

愚直に端から一つひとつ、足し算していくのはどうだろうか。電卓を片手に、10円玉なら10を足し、千円札なら1,000を足す。もちろんそれで、一応目的は達せられる。だが、とても効率の低い仕事のやり方であることは、直感的に分かる。おまけに難点がひとつある。途中で、うっかり足し算を間違えたら、どうするか。最初からやり直すしか方法がないではないか。

まずは、紙幣を取り分けよう--その程度のことは、誰でも見た瞬間に思いつくはずだ。紙幣を取り分ける。さらに、千円札と5千円と万札に種別し、それぞれ枚数を数える、と。そこは着手しやすい。では、残った貨幣はどう集計するべきか。

とにかく、種類別に仕分けしなければ話になるまい。その上で、それぞれ枚数を数え、金額に集計するのだ。では、どうしたら手作業で、硬貨を早く仕分けられるか? 硬貨には、500円玉、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉、の6種類がある。6種類の空き箱を用意して、端から順に一つつまんでは、該当する箱に投げ入れるのではどうだろう。

それもまあ、一つの方法だ。最初の、端から順に足し算するよりは効率的にちがいない。だが、もう少しだけスマートな方法があるのだ。

ゴチャゴチャに混ざり合った硬貨を手作業で仕分ける際のポイントは、二つありそうだ。まず、目立ちやすい違いに注目する。たとえば、100円玉と1円玉は、両方とも白っぽい硬貨で、やや見分けにくい。それに比べて500円玉は同じく銀貨系だが、かなり大きいので見分けやすい。さらにもっと目立つ違いがある。5円玉と50円玉は、穴が開いているのだ。机の上に硬貨を広げたら、その二種類は他よりも区別しやすい。

もう一つの仕分けポイントは、たくさんの硬貨と少数の硬貨が混じり合っている場合、たくさんの物をすべて拾い上げるより、少数の物を拾い上げる方が、手数が少ない分、早く済むということだろう。たとえば100円玉が100枚、5円玉が10枚、まざっていたとしよう。この中から100円玉を拾い出す作業は、かりに1秒に1枚拾えたとしても、1分40秒かかる。ところが、5円玉を選り分けて拾えば、10秒で済む。残りはすべて100円玉ということになる。結果としては、同じ2種類の硬貨に分ける作業が、どちらを選ぶかで10倍も効率が異なる。

では、この中の硬貨で一番多そうなのは何か? ぱっと見て、どうやら100円玉のような気がする。硬貨の流通量から見ても、5円や50円玉は少なそうだ。ならば、そちらから拾い上げる方が良さそうだ。

以上を考えると、次のような手順が思い浮かぶ。

(1) 紙幣を先により分ける
(2) 貨幣の中から、500円玉を拾い出す(目立つから)
(3) つぎに50円玉を拾い出す(目立つから)
(4) ついで5円玉を拾い出す(目立つから)
 →この時点で、残っているのは100円・10円・1円玉となる
(5) ついで1円玉を拾い出す(少数だから)
(6) そして10円玉を拾い出す(少数だし100円玉とは色が違って目立つから)
(7) 最後に残ったのが100円玉

むろん、実際の硬貨の混ざり具合を観察して、最初の想定と違ったら、手順は多少前後させてもいい。大事なのは、なるべく効率よく、早く仕分けることである。

さて、こうして仕分けられた各硬貨の枚数をどう数えるか? これも、1枚2枚と手で数えるのは愚策だろう。おすすめの方法は、机の上に、5枚ずつ円柱型に重ねて積んでいくやり方だ。(10枚ずつ重ねてもいいのだが、5枚くらいの方が安定して崩れにくい)

(8) 最初に5枚、積んでおく
(9) それから、となりに、同じ高さになるように重ねていく
(10) そうして、できた円柱の本数を5倍し、残った端数を足し算する。

これなら、後からも検算が一目でやりやすい。

・・話は分かったよ。でも全体として、この話に何の意味があるんだ。神社の賽銭箱の勘定なんて、俺の仕事には関係ないぜ。そんな感想が聞こえてきそうだ。

たしかに、上に述べた手順だけなら、単なる「紙幣貨幣の手作業による勘定のテクニック」を知ったに過ぎない。だが、くどいようだが、ここには二つ、大事な発見がある。なにか混合物を分けるときには
・視認性の高い(=違いを検出しやすい)異物を、優先して除外する
・多数よりも少数を、優先して除外する
が作業効率上、大事な定石なのだ。もしお好みなら、定石と言わずに『戦略』と言ってもいい。

そして、これが定石(戦略)だと気がついたら、他のいろいろな作業にも展開可能なのである。あるテクニックが、そこに留まるだけならば、それはテクニックに過ぎない。しかし、それを抽象化し、より広い別の分野に応用可能にできたら、それは「テクノロジー」(=技術)に近づくのだ。そして技術がさらに発展すれば、それを基礎づける理論も生まれてくるだろう。単なるお金の勘定が、もしかすると大規模物流センターの設計の基礎になる、かもしれない。

人的作業の集合をいかに効率化するかは、わたしのいうマネジメント・テクノロジーの典型的な問題である。しかし注意してほしいのは、この種のマネジメント問題は、「経営学」や「会計学」などとは一線を画していることだ。どちらも経営管理を専門的に扱う学問・職業である。だが、硬貨の山の前に、経営学者や公認会計士を連れてきても、上に述べたような効率化の発想ができるだろうか? わたしは疑問に思う。着眼点が違うからだ。彼らの見ているのは組織図や株価や財務諸表であり、彼らが関心を持つのは起きた事象の正確な把握や分析だ。だが、硬貨の仕分けのような少額でミクロな問題、それをどういう手順でやると早く終わるかといったスケジューリング問題には、無関心だろう。そもそもそれが10分で終わろうが、1時間かかろうが、たいした違いではない。時給800円払うとしても、せいぜい700円違うかどうかだ。彼らの関心を引くには、金額の後ろに0があと4つくらいつかないといけない。

それでも、こうした作業の一つひとつの積み重ねが、企業全体では大きな違いを生んでいるはずである。だから、マネジメント・テクノロジーの問題意識や発想を持つ会社と、そうでない会社は、結局700万円どころではない業績の差が現れる。多くの会社がなかなかトヨタに追いつけないのは、(トヨタという会社への好き嫌いは別として)こうした発想の違いが現場にあるからではないか。

マネジメント・テクノロジーへの無関心の点では、メディアなども同様かもしれない。記者やレポーター、評論家達は、目に見える「画期的な新製品」などのニュースは大好きだ。ITの花形、パッケージ商品なども、カッコいい名前がついているし、なんとなく目に見えそうな気がする。だが、多数の物を拾い出して仕分けする作業のプロセス・効率・スケジュールなどは、目に見えにくい。抽象的で、見えにくいものは、ニュースにもなりにくい。だから、わたし達の社会で、気にとめる人が少ないのだろう。

もっとも、こうした問題には、全然別の視点もあり得る。もしあなたが、紙幣貨幣の勘定という仕事を、成果に対してではなく、かかった時間に比例して時間給をもらう立場だったら、どうするだろうか。もちろん、早く終わらせようなどというモチベーションは一切働くまい。ただ淡々と、端から順に足し算していけばいい。それじゃお金のムダだろうって? じつは、お役所的な仕事では、お金は使えば使うほど良いとされている。役人の一番の手柄はたくさん予算を取ってくることだ。そして予算を取ったら、1円残さずに使い切らなければならない。もし予算が許すなら、たくさん時給を払った方がいい。もらう側だって、たくさんもらう方がいい。だから公共的な仕事では効率が低いほど、全員がハッピーになる。

最近ある人から聞いたのだが、カリブ海に浮かぶキューバという国では、社会主義のおかげで、普通の国民は全員が平等に月給約1000円だそうである。どんなに働いても、働かなくても、だ。それだったら日中は適当に働いて、定時になったらさっさと職場を出て、夕風に吹かれながらラム酒を片手に、楽器でもつま弾く方が楽しいに決まっている。あの国にメチャメチャ音楽性の高い人々が大勢いるのも、当然の結果なのかもしれない。キューバは近々米国と和解する見込みのようだが、あの国に効率重視のマネジメントの発想が流れ込んだら、どうなるのだろうか。

そして、もっとずっと東の海に浮かぶ島国の人達のことも、ずいぶんと心配ではある。きくところによると、米国と協調して、内容が非公開の通商条約を結ぼうとしているらしい。これまで、「お上」による、(ほとんど社会主義的なまでに)保護政策で守られてきた産業が、突然、無国籍競争の寒風に吹きさらしになるのである。ま、キューバ人ほど楽観性も音楽センスも高くはないが、それなりに器用で真面目な人たちばかりだから、なんとか切り抜けるつもりではあるだろう。だが、せっかくなら、もっと計画やマネジメントの技術について、自覚的になったらどうかと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-04-12 22:36 | ビジネス | Comments(0)

勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて

横浜・妙蓮寺の中華点心舗「混江龍」は、わたしのひいきにしている店である。すべてテーブル席で、7、8人で満員になってしまうような、小ぢんまりした店を、店主が一人できりもりしている。しかし食べ物はどれも驚くほど美味しい。自然な材料を、余計な人工調味料など使わずに、一つ一つ丁寧に調理して出してくれる。この店は中華なのに、珍しくメニューに麺類がない(夏など、店主が気が向くと手打ちの冷やしそばを出してくれることはある)。客は普通、昼定食とか夕定食とかをたのむ。主菜に副菜、スープと漬け物、ごはんのセットで、料理の内容はその日の季節や素材を活かしたものだ。料理の質と価格の比から見て、横浜広しといえども、(超高級料理店でとんでもないお金を払うなら別だが)勤め人が気軽にいけるクラスでは一番お値打ちの店の一つだと、わたしは思う。

ところで今、勤め人という言葉を使ったが、これで思い出すことが一つある。わたしの息子が大学に入りたてで、アルバイトを探している頃のことだった。わたしは連れ合いと二人でこの店に食べに来ていて、ふと思いついて冗談交じりに店主に提案した。せっかくこれだけの腕を持っているのだから、この店をもうちょっとだけ拡張して、せめて10人以上のお客が入れるようにしたらいかがか。その折には、給仕応対係としてウチの息子をバイトで雇っていただいて・・

すると店主は、いつものように温和な笑顔で、こう答えた。「そうですねえ、ちょっと無理じゃないでしょうか。勤め人のお子さんに、客商売は向かないんですよ。」

勤め人の子弟に客商売は向かない、といわれて、わたしはちょっと考え込んだ。わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。工場を設計して作るのが仕事だが、ある意味ではもちろん、客商売である。そしてわたし自身、勤め人の子弟なのだ。てことは、わたしは向かない仕事を長年してきたことになる。

そしたら、隣にいた連れ合いが、ぽつりと別のことを口にした。「そういえば、チェーン店とかファーストフードとかでも、都内の古い街にある店よりも、郊外のベッドタウンの店の方が、応対が良くないのよね。店員が気が利かないの。」 それは要するに、ベッドタウンで働いているアルバイトや店員のほとんどが、勤め人の子弟だからだ。そう、彼女は思ったらしい(ちなみに、連れ合いは町なかの商売の店に生まれて、小さい頃は家に住み込みの職人が大勢いたという)。

サラリーマンの子弟は客商売に向かない、というのは店主の長年の経験によるのだろう。店主ご自身も飲食経営の家に生まれ、大きな店で修行してこられた方ときく(一時は勤め人もされたらしいが)。むろん、勤め人の子弟で立派に客商売をしている人だって大勢いよう。これはまあ比較の問題であって、強いて言えば女性より男性の方が、概して背が高い、という程度の違いなのだろう。だが、わたしにとって、妙に納得感のある話だった。勤め人の子弟は、客商売において大事なところが欠けているらしい。

それにしても、なぜ、そうなのか? 気が利かないからだ、というのが彼女の説明である。では、『気が利く』とは、どういうことなのか。

ここでわたしは、アメリカの空港で見たファーストフードの店を思った。早朝、空港に着き、飛行機を待つ間に朝食をとろうと、あいている数少ない店に客が行列する。早番のレジ係はてきぱきと端から応対し、オーダーをとっては奥に伝え、伝票を客に渡して待たせる。客は伝票番号を呼ばれたらカウンターに来て、伝票とつきあわせた上で品物を受け取る。まるで工場の流れ作業だ。そしてあちこちに、オーダーが間違わないよう、順番や品物が混乱しないよう、工夫が凝らされている。実に見事だった。アメリカの企業は、どこもこうしたシステムやマニュアルを作らせたら、とてもうまい。
e0058447_7254390.jpg

アメリカは多民族国家である。どこの誰が雇われても一定の、70点のレベルで仕事ができるよう、仕組みとシステムを組み立てるのがビジネス文化である。きっと、顧客満足度調査だって、定期的に組み込まれているに違いない。だが、かりに味のことは置いておくにせよ、これは気が利いている状態なのか? そうとは言えまい。

都会のファーストフードで店員の気が利かないのは、安い賃金や、劣悪な労働環境のためだ、という説明もあるだろう。しかし、それでは、ファーストフードのアルバイトの賃金が今の倍になったら、どうだろうか。今の倍も払ったらビジネスが成り立たない、という反論がすかさず来そうだが、世の中には(どこかの国の農政を見れば分かるとおり)補助金なる仕組みも立派に存在している。経費の半分をお上が負担してくれる、というのは良くある仕組みだから、バイトの給料が倍になったら、という思考実験を妨げるものではない。そして労働環境も、労働基準監督署も満足するくらい改善したら。そうしたら、どこのチェーン店も気が利くようになるのか。「スマイル0円」以上に、顧客にうれしい店になるのか。70点が90点に上がるだろうか?

あれこれ想像してみたが、そうはなるまい、とわたしは思った。なぜなら、働いている人たちは、チェーン店の良くできた「システム」から逃れられないからだ。顧客がその店を選ぶのも、立地や価格がメインであって、満足度のためではあるまい。だから手頃な競合店が現れたらすぐ客を奪われるだろう。顧客のロイヤルティを上げたければ、店員の別の面を、つまり「気が利く」といったような面を上げる必要があるのだ。だが、どうやって?

もう一つ、思い出した事例があった。かつてあるコンサルタント会社の人と、北陸に出張したことがある。この方は一種の顧客満足度調査をいろいろやられている方で、面白いことを言った。航空会社のJ社さんの、全国の空港地上職員の応対を調べたとき、これから向かう北陸の空港だけが、図抜けて成績が良かった、という。ところで、その空港のチーム員は、社員ではなく全員が派遣会社のスタッフなのだそうだ。「じゃあ、その派遣会社が良いんですか?」「ところが違うんです。実はライバルのA社さんも、同じ派遣会社から地上職員をやとっているんのです。ですが、J社さんの方がずっと評判がいいのです。」

じっさい、わたし達二人がカウンターに近づくと、まだ数mも離れているうちから、カウンターの向こうに座った5名の女性職員全員がにっこりと立ち上がり、お辞儀をする。いやみがなく上品で、とても感じが良かった。もちろん応対も丁寧でしっかりしている。客が来たら椅子から立ち上がって、礼をする。ただ当たり前のことだが、それが自然にできると、こんなにも違うのか。わたしは同僚が自分の席に何か依頼に来るとき、いつも立って話を聞いているだろうか? 同僚は客ではないとしても、自分が横柄な人間に思えてきた。

「でも、どうして同じ会社なのに、こんなに違うんでしょうか?」わたしはたずねた。「そうですね。よく分からないのですが、一番右に立っていたチーフの個人的な資質の違いが、影響しているんじゃないかと思っています。チーム員を、よく引っ張っているんです」と、その方は答えたのだった。そういえば近くには古都・金沢がある。チーフはそこの商家の出身だろうか、などと根拠もないことを想像してみた。

気が利くという事柄の中身を、少しブレークダウンして考えてみよう。それはおそらく、四つくらいの要素から成り立っているらしい。
(1) 顧客が何を望んでいるのか、言われなくてもすぐ気づくこと
(2) どういう対応を取ったら、どうなるか先読みができること
(3) 瞬時の判断ができ、機転を利かせられること
(4) 自分に許された裁量の範囲内で、リスクを取って行動できること
これらが満たせれば、“うん、たしかに気が利いているな”と顧客にも認められるはずだ。

わたし自身のことに引きつけて考えてみると、どうも(1)と(3)に問題があるらしい。わたしは他人が何を望んでおり、どういう感情を持っているかに対して、どうも気づきが鈍感だし、おまけにクルクルと瞬時に頭が回るたちではない。だから、「優しいんだけど、思いやりがないのよね」というのが、わたしに対する批評である(たぶん、わたしの部下だったらもっと厳しい批評を言うだろうが)。

テクノロジー、技術というものは、移転可能である点に特徴がある。技術とは、ある、うまいやり方を移転可能にしたものだ。うまいやり方が個人に属していて、誰にもすぐ伝えることができない場合は、スキル(技能)と呼ばれる。ところが、電気回路の設計であれ、機械の設計であれ、誰が計算しても基本的に同じ数字が得られるというのが、科学法則に基づく技術の本質だ。

そういう意味で、仕事をきちんと部品に細分化して、それぞれを動かすための技術を整備し、全体をとりまとめるためのシステムを組み上げていく事は、仕事から属人性をなくして、一定レベルの品質を保つ上ではきわめて有効だ。だが、そのような仕組みの中で働いている人間は、どう感じるか。最終的には、自分であっても、他の誰であっても、同じ結果になるわけだから、自分がまるで交換可能な部品であるような感じがするだろう。働いている人を、部品かモノのように疎外していく状態が、今の技術やシステム化の行き着く姿なのだ。

このような職場では、基本は指示と報告で人を動かす。指示に従えば、規定通りの給料を払う。従わなければ、クビにするぞと脅すことになる(だって交換可能なのだから)。こうした人の使い方を、”Management by Fear”=「恐怖によるマネジメント」と呼ぶのだと、最近聞いた。当然ながら、働く側のモチベーションは、「言われたとおりのことをやっていればいいんだろ」という、最低の状態に留まることになる。言われたことはする。言われないことはしない。こうした勤め人であるわたし達の態度は、無意識のうちに子弟に伝わっていく。彼らにとって、上記の(1)から(4)までを発達させるインセンティブは、何もない。

もっとも、日本の企業の場合、もちろんマニュアル化もしているし、システムも作り込んでいる。だが、ある程度の部分は品質を個人個人の、属人性で担保するところが、残っている。だから、働いている人間(とくにホワイトカラー)は、そうしたシステムの隙間を自分で埋めることによって、自分が代替不可能であることの担保にしようとする。かつて、「必要な人はいつもたった一人しかいない」に書いたとおりだ。だが技術的ソリューションの進歩は、そのスキマを少しずつ確実に埋めようとしていく。

でも、職人や個人商店とその子弟は、なぜ、少しは気が利くようになるのか。そうしないと、店がつぶれるからか? ——だとしたら、結局それは「恐怖によるマネジメント」と同じ事ではないか。何か別の要因があるはずだ。

そう考えていたら、隣のテーブルのお客さんが、席を立った。「ごちそうさま。ああ、美味しかった!」といって、勘定を払っていく。店主もまた温和な笑顔になって、おつりを渡しつつ、何か声をかけている。なんとなく、ここには勘定のやりとりだけでなく、感情の交換があるな、と、シャレのようなことを考えた。美味しい食べ物を出す。食べた人はそれで、ハッピーになる。出した人もそれを感じて、ハッピーのお釣りをもらう。

そして、そこにこそ「気が利く」の本質があるのではないかと、思い至った。取引はビジネスだが、その上に感情のやりとりがある。相手が幸せになり、自分を認めてくれれば、自分もうれしい。だから、先読みやリスクテークをしてでも、相手に満足してもらえるようになりたいと思う。そうしたことが、ほとんど無意識の習慣として、身につく。それが、気が利くということではないか。それを、「倍の給料」や「恐怖のマネジメント」で人に強いることができると思うのは、愚かである。

それにしても、顧客が幸せになる姿を、直接見られる仕事は、なんてうらやましいんだろうと思った。わたしの仕事は、一つのプロジェクトが3年も4年もかかる。今、自分が設計したことが、結果になって現れるのはかなり先であり、それを使う人たちだって、今目の前にいる担当者とは別のことが多い。だから、相手の満足度がよく見えないのだ。誰かに幸せになってもらった、という実感が、とても得にくい。食べ物屋さんは、目の前の人をその場で幸せにできる。なんてすごい仕事だろうか。
(むろん、これは勤め人のセンチメントであり「隣の芝生」であることは分かっている。自営業者から見れば、休暇を取っても給料の出る勤め人が、とても楽に見えるに違いない)

企業というのは、仕事の質が70点あればビジネスとして成り立ちうるし、75点もあれば、大企業に成長できるかもしれない。だが、顧客ロイヤルティの高い、イノベーティブな企業になるのは、75点では無理だ。おそらく85点か90点くらいのパフォーマンスが、コンスタントに出なければいけないのだ。ところが、マニュアルだとか、システムだとか、そういった技術的なソリューション、テクニカルな方策だけでは、どうしても破れない壁がありそうだ。その壁は、働いている人間の感情面、もう少し言えば、自尊感情と同僚や顧客へのリスペクトから来ているのではないだろうか。そして働く人間の自尊感情は、基本的に「他者による認知」=ありがとうという感情、から来るのだ。そして大組織で直接顧客と接しない立場でも、自分の下流側部門、あるいは自分が支援する対象部門が、自分たちにとっての「顧客」である。

わたし達の仕事をさらにもっと良くしたければ、もう少し感情のやりとりに、注意を向ける必要があるのだ。対人的に鈍感な自分にとって、それこそが必要なトレーニングなのだろう。いや、まず手始めは家族に対してかもしれない。・・お皿に残った美味しい点心風デザートを平らげながら、わたしはこっそり、そう思った。


<関連エントリ>
 →「アメリカン航空に乗るおじさんの日記 - サービス業の本質とリスクについて」/(2014-03-30)
 →「R先生との対話 — 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か」 (2015-02-01)
by Tomoichi_Sato | 2015-03-11 07:33 | ビジネス | Comments(0)

わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか?

小学校4年生の時のこと。ある日、食卓の上に、大きくて重たい箱形の見慣れぬモノがあり、それを前にした父が、「これからはこれで英会話を勉強するように」と、おごそかにわたしに告げた。器械は特殊なマルチトラックのテープレコーダーで、幅広の、今にして思えば1インチ幅の茶色いテープをかけて使うようになっていた。東京エデュケーショナルセンター(TEC)、別名「ラボ」の英会話自習用の装置だった。勤め人にとって決して安い買い物ではない。父は最初のレッスンの冒頭10分くらいをかけ、わたしが使えて、ついて行けるのを確かめた。そして、1レッスン約15分、毎日きくように命じた。

わたしは当時まだ素直な子どもだったし、父もこわかったので、一応命じられたとおりほぼ毎日その器械に向かった。ナレーターが、簡単なストーリーや説明をした上で、短い文章を発音し、聞き手がその後について自分でも声に出してみる。そういう作りだった。後半になると他の声優も登場して、多少会話風になる。耳で聞いて、自分で発音する。それを録音することができて、自分で聞き比べることができる。徹頭徹尾、音声的なトレーニングだった。テキストもついていたが、ほとんどが絵で、あまり英語の文章は書いてなかったような気がする。英語はまず第一に『音声言語』である。そういう原則の下に作られているのだった。

テキストの巻末の小さい文字の所を見ると、制作者の名前のクレジットが並んでおり、その中に「テディ片岡(片岡義男)」という名前があったのを記憶している。日系移民の子で、文化的にはアメリカ人だが、日本で生活することを選んだ彼は、若い頃こういう仕事を手伝っていたのだ。

数ヶ月経って、ある親戚の集まりに呼ばれて父と一緒に参加した。皆が談笑する中で、どういう文脈だったのか父がわたしを呼び寄せ、“ガールって言ってみな”と命じた。わたしはGirlを発音した。すると近くにいた親戚の男性達が驚いた表情になった。父は、自分がブロークンな英語しかしゃべれず、仕事でいかに苦労しているかを機嫌良く話した。そして「これからは英語とコンピュータを若いうちに身につけることが大事だ」と力説した。

英語とコンピュータ。たしかに、今のわたしは、そのどちらにも深く関係する仕事をしている。まことに慧眼だったのだろう。だが、そのどちらも、決して自分がプロだとはいまだ思えない。なぜだろう。

ちなみにその少し後、たしか6年生の頃だったと思うが、父はわたしにFORTRANの本を与え、読んで勉強するようにといった。目の前に端末もPCも何もないのに、言語を学ぶのは今考えてみれば至難の業だ。だが、そういう時代だったのだ(当時、父の会社が導入した最新鋭の電子計算機がそなえていた主記憶は、32kバイトだった)。

なぜ、わたし(達)は英語がヘタなのか? そういう話を書こうとしている。自分の英語はネイティブ並みである——そう思う読者は、読み飛ばしていただいてかまわない。だが、そうでない人が、わたしを含めて圧倒的多数だろうと思う。

ヘタと言っても、あえてここでは発音とリスニングの話題は飛ばすことにする。それは巷に数多くいるネイティブの英語教師達に任せよう。これは一種の身体訓練である。反射神経レベルの、スポーツ訓練に似ている。たしかに、子どもの頃から訓練すれば、多少は身につきやすい(だからといって、わたしは幼児に英語を教えるのは反対である。この話は後で書く)。大人になっても、繰り返しトレーニングすることで、確実に上達する。

しかし、たとえRやLの発音が滑らかでも、それだけでは英語として致命的に失格となる会話を、いくらでもしゃべれてしまうのだ。それはたとえば、複数と単数の区別である。

単数と複数の区別は、いつも悩ましい。ある事物を主語や目的語として思い浮かべる際に、それが単数なのか複数なのかを、会話では瞬時に、無意識に、自動的に決めなくてはならない。それがずれていると、英語として、なんだかおかしい。"There are many problems." というべきときに、"There is some problem."とか、つい言いたくなってしまう。言ってから、(しまった)と思う。"I have laptop PC."とか、言いそうになる。だが、"I have a laptop PC.”か、"I have laptop PC’s."か、どちらかなのだ。

ある事物が数えられるモノなのか、数えられないモノかのか、の区別も、とても難しい。プラントの業界では機器 equipment という語を多用する。ところで、このequipmentというい名詞は、おかしなことにuncountable、すなわち数を数えられない名詞なのだ。だから、"many equipments"などと言ったら間違いである。言いたければ、"many pieces of equipment"と言わなければいけない。もちろん、"many equipments”でも、相手のネイティブは意味を分かってくれる。だが、それと同時に、“こいつはまともな英語も知らない、学のない奴なんだな”という印象もインプットされてしまう。

いや、equipmentが不可算名詞なのが「おかしい」とうっかり書いたが、それは日本人の感覚である。Equipmentは元々、equip(装備する)という動詞の名詞形なのだ。Embellishment(装飾)などの仲間である。だから一々、数えられないというのが、本来の英語感覚なのである。

単数複数の例をもう一つあげよう。Dataという語である。英語では、countableな名詞にはmanyを、uncountableなものにはmuchをつけるのがルールだ。ではデータが多数あるとき、それはmany dataというのが正しいのか、much dataが正しいのか? 答えは、おかしなことに、「場合による」である。そもそも、”data”という語は、それ自体が複数形だ。単数形は”datum"というのだが、今日では一部の分野を除き、この単数形を用いるケースは少ない。

しかし、ここまでひねくれた例でなくても、"a pen"なのか”pens"なのか、"a boy"なのか”boys”なのか、その峻別が要求されるのが英語(のみならず印欧語系)の特徴である。これに対して、われらが日本語は、無理に語尾に「たち」などとつけない限り、単複を区別しないのが基本である。

この理由について、かつて岩谷宏は「ぼくらに英語が分からない本当の理由」の中で、

「英語の名詞はを指示する。日本語の名詞は、事(コト)の指示詞である」

と喝破した。だから英語では”I am a boy.”と言わなければならないのに、日本語では「ぼくは少年です」で立派に通用する。日本語では、ぼくは「少年であるという事態・事象」を表しているのであり、それ自体は数えてみる意味がないからだ。岩谷宏という人には賛同できない主張も多いが、これはとても優れた洞察だったと思う。

もう一つ、よくやる間違いを書こう。それは現在と過去と未来の区別(をしないこと)である。わたしが以前、海外プロジェクトで部下の書く英文をチェックしていたとき、最も多かったのが、この問題の修正であった。過去形や完了形で書くべき事態を、現在形で書いてしまう。未来形で意思を示すべきことを、現在形で書いてしまう。同胞の英語を聞いていても、しばしばこの種の問題につきあたる。相手は、よくきいていれば文脈で理解できるだろう。だがひどく不思議に違いない。

これは、日本語に時制tenseがないからである。といえば、「柿を食った」と「柿を食う」と「柿を食うだろう」の違いがあるじゃないかと、反論されるだろう。しかし、わたしに言わせると、この違いは時制を表すのではなく、「その事態がどれほど確定してしまったか」の違いを表すだけなのである。「食った」は確定した事態を表す。「食う」は事態への意思の表明を、「食うだろう」は不確実な事態の推定を表すだけで、時間的要素は必ずしも付随していない。未来形が「だろう」(推測)でしか表現できない点に、注意して欲しい。ちなみに確定度合いがより深刻で、もうとりかえしのつかない事態を示すときには、「食ってしまった」と表現する。これも過去完了とは、何の関係もない。

頭の中ではこういう世界のモデリング構造をしていて、それを時制にマッピングしようとするから、混乱が生じるのだ。嘘だと思うなら、英語の未来完了形”will have done"をどう訳するか、考えてみてほしい。ついでにいうと、ある初等英語教科書には、"I am studying English everyday."という例文があったようだが、これなど無理にtenseをつけた日本人英語の典型だろう(ふつうの英語感覚なら"I study English everyday.”)

助動詞haveのかわりにbe動詞を使ってしまう、というのも会話の中ではよく耳にする間違いだ。ついうっかり、"We are changed to -“などとやってしまい、あ、これじゃ受動態になってしまう、”We have changed”と言い直したりする。もう少し耳障りなものだと、会話の中で主語に”is"をしょっちゅうつける人々がいる。考えながら話すのだが、まず”This machine is, ah,“と、宙に放り投げてから、”change the temperature.”と着地する。Isは余計なのだが、本人は意識していない。

なぜ、こういうしゃべり方が生まれるのか? わたしの想像だが、「~は」という主格を表す格助詞の代わりに、be動詞がでてきてしまうらしい。「この機械は、えー」とはじめる。その時、無意識に”is"が出てくる。「温度を変えるんです」で後半がまとまる。日本語は、指示対象を次々にスタックに置いておき、最後に操作詞で全体をまとめる「逆ポーランド型」の表現形式になっているから、最初に何かを言っておくのは、ごく自然なことである。英語がS+V+O構造なのは、皆ももちろん知っている。だが、”This machine..”のままで宙に放り投げておくことは、日本語話者にはなんだか不安定に思えるのだろう。

ほかにも、事実と意見の区別とか、正確さと曖昧さの使い分けの問題とか、最初に大事なことから話す態度とか、英語らしい表現の方法についてはいろいろ論点があるが、長くなってきたので、ここでは詳しく述べないで、一例を挙げるにとどめよう。

たとえば、これはあるセミナーの英語による案内文の一部である:
It is no wonder that the business operations of corporations are global nowadays; therefore, the number of global programs and global projects keeps increasing. Given this backdrop, the need for leaders who can well manage global programs and global projects is a critical consideration because such highly performing leaders have been scarce until now.
文法も語法も、きちんとして正しい。だが全体として、ちっとも英語らしくない。きっと元は日本語の文章で、それを翻訳したものだと想像される。

「企業の事業活動が昨今グローバル化しているのは当然の成り行きであり、したがって、グローバルなプログラムやプロジェクトも増えています。このような背景から・・」 日本語ならば、案内文をこうした一種の枕詞ではじめるのは普通なことだ。だが、英語ではまず大事な本論に入り、背景はあとで説明するのが、キビキビしたビジネス表現である。文章は短く、同じ名詞は繰り返さずに言い替える。多いとか増えているとか言うときには極力、数字を例示する。だから、単に日本語を英訳しただけでは十分ではないのだ。(誤解しないで欲しいのだが、これを作成した人を批判しようという意図はない。わたし自身も陥りがちな英文の例として、引用したまでである)

つまり、わたし(たち)日本語を母語とする話者にとって英語の最大の難関は、世界のモデリング構造と表現手順自体の違いにあるのだということを、いいたいのである。すなわち、異文化の理解である。では、どうしたらいいのか。

以前も書いたことだが、何らかのスキルを身につけるには、(1)良い先生か手本を見つける (2)原理原則を学ぶ (3)繰り返し、繰り返し練習する、の3つが必須である。ネイティブの先生は、幸い世にあふれている。繰り返し練習は、自分の側の問題だ。だからカギになるのは、「英語の世界観という異文化のシステム」に関する原則を解明し、身につけることなのだ。このためには、一種の文化人類学的なセンスが必要になる。なんだか大げさな話をしているみたいだが、日英両側の文化を深く知った人の書いた言語論を読むのが一番だと、わたしは思う。それはたとえば、上にあげた片岡義男の日本語論(「日本語の外へ (角川文庫)」)だとか、あるいは以前書評に取り上げた中津燎子の英語論と言った書籍である。

また逆に言うと、本当は使用言語の違いは表層でしかない。OSIの7層モデルではないが、最大の違いは深層にある。だから訓練のためには、日本語でまず英語的な思考表現を訓練するのでも、十分役に立つだろう。

そして発音について言えば、べつにカタカナ英語でいい、というのがわたしの意見である。妙に巻き舌のRが強調されたりするのは、かえって聞きづらい。日本語の「ラリルレロ」でいい。

それよりも、一番の課題は、「自分と他人の区別」=相手の立場になって、メッセージを選び伝える態度を身につける、ということだろう(日本文化ではこの発想がそもそも薄い)。そのためには、きちんとした思考能力と、その前提となる自分自身の言語の定立がいる。父がわたしの目の前に英語教育の器械を置いたのは、10歳の時だった。その頃までには、母語は確立する。だから、ベスト・タイミングだったのだと思う。その点については、亡き父に感謝している。もっと前の幼児期だと、まだ言語感覚自体ができあがっていなかったはずだ。

体ができていない幼児にスポーツの本格的トレーニングはさせられないように、英語(日本語とは非常に異なる言語)を無理に覚えさせるのは、あまり有益には思えない。まして一緒に暮らす親の側に、英語の世界観が定立されていなければ、いっそう困難である。それは、コンピュータもなしに、コンピュータ言語を覚えさせるようなものだからだ。だからわたしは、ちっともプログラミングができないまま、プロジェクト・マネジメントばかり考える道へと旋回していったのである。


<関連エントリ>
 →「『英語』の向こう側」(2010-01-15)
 →「書評:『英語と運命』 中津燎子・著」(2014-06-08)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-23 21:52 | ビジネス | Comments(0)

R先生との対話 — 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か

——B2Bの受注ビジネスにとって、顧客満足とはいったい何を意味しているのでしょう?

わたしは、久しぶりにお会いしたR先生にたずねた。R先生は半ば引退した経営コンサルタントで、人生の大先輩である。R先生が不思議そうな顔をされたので、わたしは続けた。

——ご存知の通り、わたしの勤務先はエンジニアリング会社で、製造業向けに工場やプラントを建てるプロジェクトが主な商売です。仕事を受注してから、工場が最初の製品を作れるような状態になるまで何年もかかります。大勢の人間がかかわり、お客様だってずいぶんいろいろな部門の方が関わります。工務、設計、製造、保全、製品開発、購買、法務、セールス・・。このうちメインの担当部門は工務部門と購買部門ですが、工務部門はさらに機械・建築・土木・化工・電気・制御・ITという風に専門分化しています。とくかく、一口に『顧客』といっても、関係者が非常に多いんですね。

「結構じゃないか。顧客の期待をいろんな角度から知ることができるだろう?」

——それはそうですが、でも、お客様のおっしゃることが一つではないんです。しばしばバラバラのことを要求されます。端的なのは、技術部門と購買部門です。発注権限をお持ちなのはふつう購買部門で、低価格・短納期がご要望です。ところが技術部門の方は契約後もいろんな技術的注文を持ってこられます。最初の契約条件からは予見できないような要望もしばしばです。そうなれば当然、費用も時間も余計にかかります。でも、追加費用や納期延長の交渉相手は購買部門です。あちらを立てればこちらが立たず。いったい、どの人を満足させれば顧客満足といえるんでしょうか。

「顧客が求めているのは、低価格・短納期、かつ高品質ということだろう? 当然のことじゃないか。それを満たすように工夫するのが技術屋の腕だ。別に君の業界や受注ビジネスだけに限ったことじゃあるまい。どんなモノを売っている業界にも共通する話だし、みんなそれで競争しているんだ。」

——お言葉を返すようですが、現代の品質管理論では、品質とは顧客の要望に合致する程度である、と定義されています。すなわち顧客満足こそ品質の尺度だ、ということです。ところでB2Cすなわち消費財の世界では、買うのも満足するのも同じ一人の人ですよね。ですからある意味、満足度は測りやすいし分かりやすい訳です。でも、B2Bの世界では、ユーザーと発注部門はたいてい別です。ユーザーもたいていは複数います。そして要望の間にはトレードオフがしばしば生じます。たとえば運転部門は軽快で俊敏にしてくれといい、一方、保全部門は冗長で頑丈にしてくれという、なんてザラです。いったいどちらの方を向いて満足をはかればいいのか、いつも悩みの種です。それで結局、“声の大きい方”の要望を聞いたり・・。

「情けない話だな。設計のスタンスがぶれているから、そうなる。“良いものはこうだ”という設計思想をまず、顧客と確立しなさい。そこが甘いから、ブレるんだよ。」

——おっしゃるのは分かるつもりですが、設計思想という抽象論から、目の前の具体論に落とし込む際に、皆さん自分の好みや願望みたいなものが入って、ブレはじめるんです。わたしの業界ばかりじゃないと思います。これは最近、IT業界の人から聞いたことですが、受託開発のSIと呼ばれる仕事も、よく似た状況があるみたいです。システム開発において、ユーザのレベルに応じて、「要求」のレベルが異なってくる、というのです。ここでいうユーザのレベルとは、経営者、中間管理職、実務者、 事務補助クラークなどの立場のことです。
 要件分析をしていても、ユーザが実務レベルや事務補助レベルの場合、自分の日々の作業で感じている不満やペインなどの、細かな改善要望が中心になる傾向があるようです。また、業務遂行上のいろんな例外事象にも、柔軟に対応できるようにしてほしいと考えます。いきおい、できあがってくるシステムの構想は、現状業務からは遠く離れず、不便を改善した程度のもの、それも例外処理の多いものになる、と。
 ところが経営レベルに近づくほど、むしろ業務全体のあり方を見直し、効率化したいという要請が強まるようです。ただしこれが『要請』であって、具体的案とは限らない点が悩ましいみたいですが。また経営者ですから、開発コストを抑えるために、例外処理は減らしたいと考える。例外はやめろ、あるいは人間系で何とかしろ、という訳です。
 こういうふうに、顧客の間の意見が合わない場合は、どうしたらいいのか。正解はないのかもしれませんが、先生のお考えを聞かせてください。

「お考えを言う前に、君の考えを聞きたいな。君にとって、真の顧客とは誰なんだ? あるいは、そのSI会社の人にとって、誰が真の顧客だと思うんだね。」

——真の顧客。・・目の前にいるお客さんは、ニセの顧客だという意味ですか。なんだか怒られそうな話だなあ。

「じゃあ、こう聞こうか。目の前の客先担当者と、闘わなくちゃいけないときがあるだろ? 追加変更をめぐって。費用をくださいとか時間がかかりますだとか。」

——そりゃ、よくあります。受注ビジネスって、そういうものじゃないですか。

「つまり、顧客は敵だ、という訳だ(笑)。」

——いや、そんなことは思ってもいませんよ。誤解されるような表現はやめてください、先生。ただ、交渉相手であることは確かですね。

「そうだ。交渉相手だ。そして、以前教えてあげただろう。良い交渉とは、どんな結果を目指すものか。」

——相手が“勝った”と感じるような結果を目指せ、と言われましたよね。実をとっても、相手に不信感や敗北感を与えるのはまずいやり方だ、と。自分は実をとる。相手も多少の実と、感情面での花を得る。つまりお互い得るものがあって、かつ相手に信頼感や満足感が残るような結果が、最善の交渉だと。・・あれ? 相手に満足感が・・。

「分かったかね。」

——顧客との上手な交渉は、顧客に満足感を残す。つまり追加費用の問題が発生しても、それがすぐゼロサム・ゲームみたいに、顧客の満足度を下げるとは限らない訳か。

「そこでだ。何のために売り手は、顧客満足を追求しなければならないのだと思う?」

——それは、顧客満足がすなわち品質の尺度であり、技術力の尺度だからじゃないですか。

「全然違うな! 君は技術のために働いているのか、それとも顧客のために働いているのか? 君に給料を払ってくれるのは誰だ。まさか社長だとは思っていないだろうな。」

——えーと、そりゃあまあ、わたしの給料は結局、お客様が払ってくれている訳です。お客が一人もいなくなったら、社長も給料は出せませんから。

「そうだろ? 君の真の顧客とは、次も君に仕事を出してくれる人なんだ。その真の顧客の満足をはからなきゃ、受注ビジネスは飯の食い上げだ。じゃ、次の仕事を誰に出すか決めるのは、誰だと思う。目の前の担当者や、購買部長ではない。仕事が大きくなればなるほど、最終的決定権は上にいく。
 君の間違いは、顧客が要望において一枚板であるべきだと思っている点だよ。
 言っておくが、ふつうの消費財だって、顧客満足はそんなに単純じゃない。かっこいいデザインだと思って買った。でも使ってみるうちに使いにくいことが分かった。最新技術だと思って買った。でもすぐ壊れてしまった。こんな例はいくらでもある。その場での短期的満足と、あとあとで感じる長期的満足があって、いつでも両立するとは限らない。だが買うものが高価で、重要なものほど、長期的満足感の方が大切になる。それが、次の購買行動を決めるのだ。」

——でも、わたしが顧客の社長に直接会えるわけでもありません。目の前に対峙するのは、やはり担当者か、せいぜいマネージャー・レベルです。そしてやはり、目先の要求について議論しなければなりません。

「目先の上に、重層的な要求があることをつねに忘れずにいなさい。その要求の全体像の中で、相手の言うことを位置づけるのだよ。その上で、防備のために、なるべく自分の仕事は相手にもプロセスが見えるように透明性を高めておき、また都度、相手の要望もこちらの返答も記録しておくんだ。長期的満足感が大事だからといって、短期的にけんかしちゃいかん。顧客と喧嘩して得るものは、何もない。」

——たとえ相手が愚かしいとしか思えない要求をしてきても、ですか。

「ほら、それが傲慢だというんだ。相手の目には、君が愚かしい人間だと映っていることを忘れちゃいかん。
 さっき交渉のことを言ったがね、良い交渉を成立させるために一番大切なことは、お互いのリスペクトだ。君も相手も、人間だ。互いへのリスペクトという感情の交換があって、はじめて「顧客満足」が成立する。だから、君が誠実で、まじめで、かつ一応は有能であると、お客が感じるように働きなさい。技術屋同士だったら、その点は分かるし、ごまかしようもない。
 取引ではね、商品と対価の交換という、目に見える面だけではなく、顧客満足が成立して、はじめて取引の継続性が生まれるんだ。感情面の補給がないまま、取引だけが継続されると、次第にその取引は死んで行ってしまう。“誰から買って同じだな”と顧客は思うようになる。つまり、交換可能性が高まっていく。こうして、買い手から見たリスクは下がっていき、その分、君たち売り手の側のリスクばかりが上がっていくだろう。」

——リスペクトという感情の交換、ですか・・考えたこともありませんでした。

「プロジェクト・マネージャーの仕事は『感情労働』である、というのはたしか君が昔、言っていたことじゃないか。まったく忘れっぽい奴だな」R先生はグラスをわたしに向けて、言われた。「感情面の配慮なしで、『すべての取引はWin-Winであるべきだ』などと考えるのは、仕事を知らぬ者の空論だよ。」


<関連エントリ>

 →「知識労働、肉体労働、そして『感情労働』」 (2011-08-19)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-01 14:18 | ビジネス | Comments(0)

風雲忍法帖・舞竹城あじゃいる異聞

「半蔵。半蔵はおらぬか!」

−−・・御前に。

「おお、そこか、半蔵。苦しゅうない、近く寄れ。・・い、いや、そんなに近くなくてもよい。もちっと下がれ。・・よし、そこでよい。」

−−ははっ。して、殿、御用向きは。

「うむ。他でもない。隣の藩の動きじゃ。我が藩の長年の宿敵・舞竹藩の動きが、ちかごろ不審との噂が耳に入った。行って、動静を探って参れ。」

−−その事でしたら、手前どもも耳にして、すでに調べを開始しております。街道筋の商人の話では、所蔵米を放出して売り先を探しているとか。また特産品の漆を増産させて現金を得る傍ら、木材・砂鉄を買い集め、職人たちも呼び寄せているとのこと。何やら大掛かりなものを造ろうとしているフシがございます。」

「そうか。気づいておったか。さすが忍び頭じゃ。敵の様子を知ることこそ、兵法の要ぞ。」

−−敵情報知、略して情報

「うむ。情報を制する者こそ、天下を制す。だからこそ、お主を『最高情報責任者』に任じておるのだ。行って、舞竹藩が何を造ろうとしているのか調べて来い。」

−−はっ。(姿を消す)


<ご承知のように『情報』という言葉の語源や意味については、議論がある。森鴎外が考案したとの説もあるが、実はもう少し古くから、「敵情の報知」という意味で用いられていたらしい。「情けに報いる」との意味だという解説もときおり聞くが、俗論だろう。というのは、昭和中期までは「諜報」に通じる、暗いイメージの伴う言葉だったからである。いずれにせよ中国では『信息』という別の用語を使うから、日本で生まれた漢語であることは確かだ。>


−−殿、戻りましてござりまする。

「おお半蔵か。ご苦労であった。どうだった。詳しく聞きたい。近うよれ・・い、いや、何もくっつかなくてもよい。暑苦しいではないか。」

−−失礼つかまつりました。それで、舞竹藩の動静ですが。

「うむ。どうであった。」

−−やはり、藩をあげて大がかりな構築事業をしているのは、確実でございます。最初は、古くなった舞竹城の改築かとも思ったのですが、それだけではありません。出入りする職人の種類が違います。

「なんと。城を作り直すだけでなく、それ以外にも何かを築いていると申すか?」

−−御意。なんでも、老朽化した城塞を近代化して軍備にそなえるかたわら、藩の得意とする産業を成長させ、国を富ます政策とか。産業育成のため、城の隣地に大きな建屋をつくり、藩直営の作業場とする計画のようです。それを『富国強兵策』だか『新成長戦略』だとか申しております。

「なにを生意気な。だが捨て置けぬ奴らだ。しかし、そのような策にはかなりの金が入り用であろう。」

−−さすがは、殿。それがため、かなりの資金を必要としているようです。舞竹藩の勘定奉行はもともと非力な方で、奥方の弥生さまの助けを借りて公務を執行していた様子。しかし、城主お世継ぎの若殿が江戸より赴任されたのを機会に、権益を強めようと画策し、外から軍師を呼んで助言を得つつ、職人集団に築城をさせています。そこで殖産を同時に進める策をとったようです。

「築城は金がかかるからのお。」

−−おおせの通りです。殿は以前、シメジ藩で新規築城があったのをご存じでしょう。

「おお、シメジ城のことか。白鷺が飛び立てずに、うずくまったような姿の城だと聞いておるが。」

−−シメジ藩では失敗を認めずに、「300年後は世界遺産でユネスコに登録だ」などと強がりを申しております。が、そもそもあの種類の築城方式では、ゼロからすべて人足が手作業で組み上げますゆえ、時間も費用もかかります。

「うむ。難儀なことじゃ。」

−−それを見た舞竹藩では、手作りをやめて、外から半製品を買ってきて組み上げる方式を考えております。それがため、あえて新参の職人を雇ったと。

「なに。城作りといえば、老舗に任せるのが習慣ではないか。」

−−はっ。これまでは、公儀ご用達の、肥立組・不二痛組・日雷組など大手に築城を任せるのが通例でござりました。しかるに、舞竹は、渡りの特殊職人集団を呼んでいます。

「ワタリの集団じゃと。まさか頭目の名前は『四貫目』ではあるまいの?」

−−いえ、違います・・殿は昔の少年マンガにもお詳しいようで。なんと毛唐の集団『強拍組』を雇ったとのこと。そして南蛮渡来の、『いーあーるぴぃ』なる築城法を用いると。

「いーあーるっぴぃ? なんとも奇態な名前じゃのお。毛唐からものを買うなど、ご禁制の抜け荷ではないのか?」

−−数年前黒船が現れて以来、ご公儀も半ば無理矢理、いろいろな品物の持ち込みを許可させられています。また強拍組は、いーあーるぴぃ導入こそグローバルスタンダードでベストプラクティスなストラテジーだと申しております。

「なんだか急にカタカナが増えたが、それでうまく行くのか?」

−−そこが肝心なところでございます。そもそも舞竹藩の特産品は漆とロウソク。その製造は釜で蒸したり漉したり反応させたりと、化学処理によるものづくりです。ところが、舶来のいーあーるぴぃは、元々、組み立て型の作業向きとか。適用に手こずって、集められた藩内の農民たちからも不満の声が上がっており、費用も余計にかさむのではないかとの噂です。

「ふん。いいざまじゃ。ちなみに、似たようなことに手を出した先例はないのか。」

−−先年、北国のナメコ藩が、もっと小型のいーあーるぴぃに手を出したと聞きましたが、内実は、まだ。

「半蔵。行って、ぜひ探って参れ。舞竹藩のたくらみが思わぬ失敗に陥るかどうか、もっと情報を集めるのじゃ。」


<歴史的に見て、忍者という存在がどのような職能集団に起源を持つかについても、諸説ある。また徳川家の抱えた伊賀者のみならず、各地に同種の技能者集団があったらしい。一説には、築城職人とも関係があるといわれるが詳細は不明である。ただ、築城は秘密漏洩が最大のリスクであり、逆に敵の城内を知れば攻略もたやすい点で、情報戦の焦点になりやすい。なお忍者は武装を許されているものの武家の身分ではなく、足軽ないしそれ以下の階級であった。>


「・・どうであった、半蔵。何か役に立つ知らせは得られたか。」

−−はっ。興味深い情報を得ました。

「そうか。苦しゅうない、近く寄れ。ただし、90cmまでだぞ。お主は対人的な距離感が、なんだか今ひとつ欠けておるからな。」

−−はっ、恐縮です。それでまず、ナメコ藩の内実ですが、いーあーるぴぃ導入の事業は、業務に合わせるための追加構築費用がかさみ、当初10万両だった予算が最後は25万両まで膨れ上がったと聞きました。

「なんじゃと。あそこは、ただでさえ小藩。そんなに費用が超過したら、国が傾くではないか。築城で国が傾いては、本末転倒であろう。愚かな。」

−−その通りにござります。さて、問題の舞竹藩ですが、さらに忍び込んで調べましたところ、意外なことが分かりました。

「何だ。」

−−舞竹藩は、勘定方の業務には、いーあーるぴぃを使うものの、漆の生産・物流・商流には断念し、別の方式で構築を行うと決めた、とのこと。それが、非常に興味深いやり方でして。合い言葉は『あじゃいり』方式とか。

「阿闍梨? 仏僧の職位のことか。」

−−語源は定かではありませぬ。が、これの面白い点は、少数精鋭の職人集団が、図面も引かずにいきなり建物の一部を作り始めることです。それを、使用者に見せ、使い勝手の意見などをもらいながら、改修増強しながら建て増して、最後には立派な建物としてしまう方法だそうです。これを根来の忍び衆が差配しております。

「それの、どこが面白いのじゃ。そもそも建物は、最初に大工の棟梁が施主の要望を聞いて図面を描き、木材にケガキして切り出すのが基本であろう。」

−−ですが、そのやり方ですと、水が高きところから低きに流れるように、やり直しがきかぬ上、どうしても時間がかかるため、できあがった頃には施主殿の求めと異なるものができあがる懸念がありました。ジャストインタイムの思想に反しておると、トヨタ駕籠屋の古参も批判されているとか。

「お主もカタカナに毒されてきおったな。」

−−どうか、殿、お聞きください。当藩の天守閣も、すでに築城以来年数がたち、業務に合わぬ点も多くなって参りました。しかし、おっしゃるように築城改修は大仕事。棟梁に命じて職人を多数集め、いったん作業を始めたら、簡単には方向を変えられませぬ。築城特殊技術を本務とする、我が配下の忍び衆さえも、図面や指図書を出す諸奉行の人足扱いになってしまいます。築城の仕掛け工夫の知恵は、人一倍ありながらも、です。

「しかし半蔵、それが昔からのしきたりではないか。」

−−たしかに。ただ、この『あじゃいり』方式、従来よりもずっと早く結果が出せるとのこと。わが藩にても、試す価値はありかと。

「何を言う、半蔵。さては舞竹藩の異人に接して、かぶれたのか。」

−−恐れながら、殿。わが忍び組は、このところ毎年のように経費削減を命ぜられ、手当も前年比1割カットの憂き目を見ております。しかし、かの新方式が、安価に築城を可能にできるなら・・

「愚か者。畏れ多くも御開祖様から受け継いだこの城、前例もない方法で手を入れるなど、もってのほか。それに考えてもみよ。この天守閣は多層階構造だ。そんな、最初に犬小屋みたいなものを建てて、それを建て増す方法で作れるわけがないではないか。」

−−ならばせめて、厩舎の建て替えで試させていただきたく。敵情を学んだ我が部下達も、やらせてくれと首をそろえて願い出ております。

「ならん。おまけに、そちのいう阿闍梨方式とやらでは、忍びの者が主役で、武家は単なる脇役になってしまう。それでは主客転倒である。舞竹が何をしようと勝手だが、当藩では許さん。」(立ち去ろうとする)

−−殿、今のままでは開国の時代に間に合いません。お待ちを! (袴の裾にすがりつこうとするが、90cmの距離のためにつかみそこね、あわてて走って後を追う) お聞きください! 殿・・!

 〜 幕 〜


<付記>
アジャイル開発の方法論については、その利点についてさまざまな意見が交わされている。わたし自身はまだ本格的な取り組みの経験がないが、それに近い形のプロジェクトは自社でも見ており、それなりの有効性は感じている。

ところで、技術論や経済評価は別として、わたしがこの運動を見て感じたことが一つある。それは、これがプログラマにとって、’70年代のウィメンズ・リブ運動のような意義を持つ、ということだ。「ドキュメントよりも動くソフトウェアを、契約より協調を、計画より変化への対応を」という宣言にも、そのような気分は現れている。
プログラマという職能従事者は、わたし達の社会では(そして世界中どこでも)SEやPMやユーザよりも、一段下の階級であるかのように、扱われてきた。給与待遇面の格差は「需要と供給の関係で決まる」と言えなくもないが、それよりも意識面での格差が酷い。このような状態はまた、優秀な人材がプログラマを志望することへの妨げにもなっており(ごく一部の例外は除く)、それは技術力や生産性の低下にもつながっていく。

それでは、アジャイル開発がすべての問題を解決していくか? わたしは、それほど楽観的ではない。IT業界では、皆がずっと「銀の弾丸」を探してきた。だが、そういったものは聖杯伝説と同じで、無さそうだと気づいてもいいころだ。すべての問題を、一気に解決していく手法などない。適材適所、フィットする分野にフィットする人と方法を適用していくしかないのである。ただ、ウィメンズ・リブ運動が、(全世界の不平等問題を一気に解決しなかったけれども)多少は人々の意識に変化を与えたように、プログラマの復権の運動にも、もう少しきちんと日を当てていい時期ではないかと思っている。
by Tomoichi_Sato | 2014-11-23 22:50 | ビジネス | Comments(0)

ある経営者の命運に見る、石油資源の戦略性

1962年10月27日、シチリアのカターニャ空港から1機の双発ジェット機が飛び立った。乗っていたのは、操縦席のベルトゥッツィ機長、タイム・ライフ社ローマ支局長マックヘイル、そしてイタリア炭化水素公社(略称ENI)総裁のエンリコ・マッテイの3名だった。機はミラノの空港に向かって飛んでいた。午後6時45分には着陸態勢に入ったことを、リナーテ管制塔が確認している。だが、彼らがそこに着陸することはなかった。通信が5秒間ほど途絶えた後、機体は突然、空港から10数キロの湿地帯に墜落したからだ。乗っていた3名は全員死亡した。

ENI総裁エンリコ・マッテイは、立志伝中の人物だった(以下、この事件を詳細に調べたジャーナリスト、E・ビアージ著「新イタリア事情 上 (朝日選書 226)」にもとづいて書く)。ENIは石油精製、パイプライン、化学など80もの企業群を傘下に置く、イタリアの巨大国策企業である。マッテイはその総裁として活躍し、米英石油資本に真正面から立ち向かい、ソ連から石油をイタリアに輸入するなどして、「民族の英雄」的存在だった。警察官の息子として生まれ、15歳の時から職人として働き始めた彼は、第二次大戦中に反ファシストのパルチザン部隊で活躍し、終戦直後にイタリア石油公団(略称AGIP)の副総裁のポストに、39歳の若さで就任する。

AGIPはイタリア国内の石油資源開発のために’26年に設立されたが、それまでは失敗続きだった。機材を米企業に売り払って業容を縮小しろ、とのローマからの訓令をマッテイは無視し、ポー川流域の探査を続行する。彼の賭けは見事に当たって、翌年、幸運にも天然ガスを掘り当てた。彼はガス・パイプライン埋設にも豪腕を発揮して、工業都市トリノまでつないでしまう。そしてイタリア政府は1953年、AGIPを中心に、北伊天然ガス配管会社(略称SNAM)、水素製造公社(略称ANIC)を統合してENIを設立、マッテイはその総裁に就任する。

彼の情熱と執念の中心には、石油資源の確保があった。イタリアにはほとんどエネルギー資源がなかったのだ。大戦後の世界秩序の中で、石油需給を牛耳っていたのは「セブン・シスターズ」と呼ばれる石油メジャー7社だった。彼は資源を手に入れるために、中東であれアフリカであれ、どこにでも出かけていった。1960年、彼はソ連と石油輸入4カ年協定を結ぶ。ENIが年間500万トンのソ連石油を輸入する代わりに、パイプライン機材24万トンを輸出するというものだった。この取引は米英仏を激怒させたが、彼は引かなかった。

彼はイランとも協定を結び、破格の75%という利権料を払って採掘権を得た。さすがにイランのパーレビ国王と、前イタリア王家のマリア・ガブリエラ王女を結婚させようとした政略はうまくいかなかったが、モロッコ、チュニジアでも(旧宗主国のフランスの頭越しに)合弁事業を設立。エジプトとイスラエルが第一次中東戦争に突入したときは、マッテイは私兵を雇い、自動小銃で武装させた上、ENIの制服を着せてエジプトに送り込んで、自社の油井を守らせた。そのかたわら、フィレンツェ市の要請を受けて、老舗の機械メーカー・ピニョーネ社の経営も肩代わりしたりする。

彼の突然の航空機事故死には、当然ながらいろいろな疑問が出される。霧の天候の中、機長の操縦ミス説もあった。しかし、ベルトゥッツィ機長は20歳の時から爆撃機を操縦してきた大ベテランで、ミラノ着陸回数は700回を数える。車輪の出なくなった飛行機で、滑走路に胴体着陸しながら、ナット一つ落とさなかったという逸話もある。機長夫人の証言によれば、ピストルと釣り道具一式の入った私物の鞄だけが、おかしなことに格納庫から無くなっていた。

マッテイ総裁自身にも、もちろん敵が多かった。マッテイの未亡人は「ある晩、目覚めると、マッテイが一枚の紙切れを持って泣いていた」と証言している。彼は決してその紙を妻には読ませなかっが、脅迫を受けていたのは事実らしい。それから8年後の1970年、この事件を追って、マッテイ総裁の最後の二日間を調べていたシチリアの著名な記者デ・マウロ氏は、自宅前で車に乗った数人組に誘拐され、以来消息を絶ったままになっている。半世紀以上たった今、もはや真相は闇の中である。

以前も書いたことだが、石油は戦略物資である。戦略とは文字通り、戦争に必要、ということだ。エネルギー経済学から見れば、石油も石炭も天然ガスも、みな電力に変換可能という点ではよく似ている。事実、シェールガス革命の進む米国では、石炭炊きの火力発電の炉が、次々に天然ガス炊きに改造・転換されている。しかし、石炭で走る戦車はないし、電池で動く戦艦も、LNGで飛ぶ戦闘機もない。軍隊を動かすには、常温で保管でき液体で輸送しやすい石油系燃料が必須なのだ。かくして、20世紀初等以来、いくつもの戦争が石油をめぐって起こされた。多くの国にとり、石油資源の確保は最重要課題の一つである。

だからといって、石油関係企業のトップが航空機事故などで急死したら、すぐ誰かの陰謀だと決めつけるのは早計だろう。マッテイ総裁が、ソ連と結んだ4年間協定の完遂を見ずに亡くなったことは、事実だ。しかし公式の事故調査報告書は、謀殺説には否定的だった。航空機事故は、それだけ致死性の高い出来事なのだ。そして、言うまでもないことだが、陰謀論など愚か者の理屈である。陰謀論を持ってすれば、どんなことだって説明可能になってしまう。あなたの所持する株価が下がったのも、ユダヤ人の陰謀だろう。今朝の電車に乗り遅れたのだって、CIAの陰謀に違いない。何でも同じ結論に収れんする陰謀論など、相手にすべきではないというのが、世の知的人士の常識だろう。

ちなみに、イタリアのENI自体は今も存続し、世界的に資源事業を続けている。そして、政治的に不安定な地域でも活躍するリスク・テイカーである、などと業界誌では評されている(石油業界はわたしの勤務先の顧客筋だから、このさき、言葉は慎重に選ばざるを得ないが)。マッテイの残した社風が、今も受け継がれているというべきかもしれない。あるいは、そういう地域でしか、石油採掘権を手にできなかったと解釈することもできる。ただ、マッテイが生きていたら、おそらく、もっとずっと大きくなっていて、英米メジャーを脅かす存在に近づいただろうとは想像される。

わたし達が「石油会社」というとき、普通それは二つの意味を持っている。わたし達、消費者がガソリンや灯油といった製品を買う相手としての企業、すなわち原油を精製販売する会社という意味が一つだ。もう一つは、地下資源を探索して原油を採掘する、資源会社。石油業界ではサプライチェーンにしたがって、前者を下流側、後者を上流側企業と呼ぶ。ガソリンスタンドなどでわたし達が目にする日本の石油元売企業は、ほぼ下流側だ。ENIは国際石油メジャーほどではないが、上流も下流も持っている。

さて、一橋大学の橘川武郎教授は、国際協力銀行の「国際調査室報」に、『石油開発ビジネスにおける 日本企業の動向』という興味深い論文を書かれている(2010年3月号)。それによると、世界の石油企業上位50社のランキングを見た場合、三つのタイプの企業群に分けられる、という。第一はExxonMobil、Shell、BPといったいわゆる石油メジャー(大手国際石油資本)。第二が、Saudi Aramco、イランNIOC、ベネズエラPdVSAなど産油国の国営石油会社。そして第三がフランスのTotal、イタリアENI、中国CNPC、スペインRepsolなど、資源輸入国における国策石油企業であり、橘川教授はこの第3のタイプを『ナショナル・フラッグ・オ イル・カンパニー』と呼んでいる。

さて、世界第3位の経済大国であるにもかかわらず、日本には世界ランキング50位に入るような、ナショナル・フラッグ・オ イル・カンパニーが2010年時点で存在していない。その理由は、何よりも我が国で「上流部門と 下流部門が分断されているから」(p.101)である。われわれ消費者がよく知っているJXや出光といった会社は下流部門を主とする企業である。これに対し、日本にも石油資源開発(JAPEX)やアラビア石油などの上流部門企業が以前から存在しているが、「長らく過多・ 過小の企業乱立が続いてきた」(p.106)状態であり、世界ランキングに入る大手が成長しなかった、という。

これに加えて、橘川教授が指摘するのは、「わが 国では、探鉱・採掘という上流部門は、『リスクが大きい』『政府の支援が必要な』分野と理解されている。日本の石油産業をめぐる最大の不思議は、『上流部門で儲ける』という世界の石油産業の常識が通用しないことである。」(p.101)という、業界のあり方だ。

このような業界のあり方は、しかし、本論文にも書かれているとおり、国際石油開発帝石(INPEX)という巨大企業の登場によって、ようやく2010年代に入り、変わることになる。詳しい経緯は省くが、石油公団の解散にともなう上流企業の水平統合を通じて、上記の意味での「ナショナル・フラッグ・オイル・ カンパニー」が登場した、と見ることができる。石油資源開発をめぐる日本の国際競争力の構築という観点に立てば、現状はけっして悲観すべきものではない、という見解になる。(もっとも橘川教授は経産省の石油政策小委員会の委員長として政策決定に関わられた立場だから、当然の結論かもしれないが)。

ところで、石油会社世界ランキング50位を見ると、もう一つ、奇妙なことに気がつく。それは、日本と並び、戦後の世界経済を牽引してきた大国・ドイツにも、大きな石油資源会社が存在していないことだ。まことに不思議なことだ。伊ENIも、マッテイという暴れん坊の存在がなかったら、国内の販売事業だけで、上流側のビジネスは持てなかったに違いない。

イタリア、日本。そしてドイツ。なぜ、この三つの国だけは、G7クラスの大国でありながら、巨大な石油資源企業を持ち得なかったのか。この三ヶ国に共通なことは何なのか?

わたしにはもちろん、分からない。
by Tomoichi_Sato | 2014-11-16 23:18 | ビジネス | Comments(0)

Key Success Factors - 成功理由を説明する10の方法

ご承知の通り、本サイトのテーマは、『計画とマネジメントの技術ノート』である。部下や後輩をリードし、仕事をマネージしなければならない立場の人に対し、“マネジメントのテクノロジー”について情報提供することを使命と心得て、書いているつもりだ。本サイトは「ビジネス・経営」といったカテゴリー分けをされることも多いが、わたし自身は、個別企業のビジネス批評や経営者批評をしたことはないし、興味もない。

しかし世の中には、経営批評や経営者の批評がお好きな人もけっこう多い。あの会社がこう成功した、この会社がああ失敗した、という具合に、飲み会の席でもよく話題にあがる。まるで、ひいきのスポーツ・チームの戦績を話題にするが如きだ。実際、似た気持ちなのかもしれない。皆さん、その会社のクルマや家電製品を使っているとか、ないしは(もしかしたら)株もお持ちかもしれぬ。

ついでにいうと、世の中には、プロジェクトのマネジメントを、会社の経営と同様のものと考えている人も多いようだ。プロジェクト・マネジメント関係のイベントでは、よく企業の社長や役員が招待講演をしている。自分はいかに事業にチャレンジし、いかに成功したか。面白いのだが、中身の話を聞いても、WBSもなければクリティカル・パスもない。ただただ経営の話である。わたしのように、プロジェクト・マネジメントと経営は相当に別次元のものだ、と考えるのは少数派らしい。

まあ実際、技術でチームをリードすることに行き詰まりを感じたプロマネが、ドラッカーの本を読んで啓示を得た、なんて話も聞く。むろんドラッカーの経営論も読めば有益であろう。しかし、プロジェクトとは、終わるために努力する仕事である。反対に、経営というのは、会社が終わらないために努力する仕事ではないか。プロジェクトのためにドラッカーを読むのは、なんだかマラソンにでかける前に、宮本武蔵の五輪の書を読むようなもので、少しtoo muchかつ方向違いの気がする。

まあ、ことは企業業績であれ、プロジェクトの成果であれ、いや、たとえスポーツチームの成績であれ、世の人々が批評の際に最も好む説明方法は、「リーダーの良しあし」であろう。リーダーが良いから、成功した。成功しなかったのは、リーダーに問題があったからだ。こういう説明は、単純かつ明快、誰にでもわかりやすい。

成功を左右するキーとなる要因を、経営学ではCritical Success Factor (CSF)と呼ぶ。簡単のため、本稿では以後CSFという略語を使おう。上記のような説明は、リーダーの質がCFSである、と考えている訳だ。もちろん、それ以外の要因をCSFだと考える論者もいる。世の中には数多くの経営論があるのだ。わたしは、それらを数え上げていくと、大別して4つのカテゴリー、もう少し細かく分けるとだいたい10種類くらいになると考えている。なぜ、そんなに種類があるのか。そして、どれが議論として説得力があるのか? 少し考えてみたい。

まずは、上記の「CSF=リーダー個人」論である。プリミティブだが、とてもわかりやすい。小中学生でも理解できる論議だ。このリーダーの良しあしは、器量の大きさとか、資質の高さ、性格の良さといった、人格の特性で表現される。

いうまでもないことだが、人格の大部分は生まれつき決まったものである。それに加えて、育った家庭環境や経済状態にも大きく依存する。ということは、組織が成功するためには、良きリーダーを据えるべきであり、そのリーダーは、氏や育ちを重視して選ぶべきだ、ということになる。となると、この論理に従えば、組織トップは家柄・階級制で決定すべし、という結論になりがちだ。

だが、江戸時代の階級社会ならいざ知らず、近代社会ではこれはいささか不都合な結論であろう。そこで、むしろ「リーダーの知識・能力・経験」こそが肝要だ、という考え方が現れる。これが第2種のCSF論である。家柄より能力。まさに明治維新を推進したのはこの考え方ではないか。

では、知識や能力を持つリーダー候補は、どうやったら見いだせるか? そのためには試験で客観的に測るのが一番いい、と明治政府は考えた。そのために帝国大学を設立し教育制度を整備した。しかも知識経験は、当然ながら経験年数とともに増えていく。だから、組織トップは学歴と年功序列制で決めるべきだ、という結論になる。官庁は今でも、この考え方で運用されているように見受けられる。

だが、これにも批判はある。たかが二十歳あたりの試験の成績で、人の出世コースがすべて決まってしまうのはおかしいではないか。むしろ、意思・熱意・根性、すなわち「リーダーのパッション」こそを重視すべきだ。こう信じる人も多い。これこそ第3種のCSF論である。精神一到、何事か成らざらん。鉄は熱いうちに打て! ぬかに釘!ーーいや、少し違うか。ともあれ、リーダーの意志力を重視する考え方は、明治の市民社会勃興期の事業家たちに共通するし、それは今日の社内ベンチャー制などにも影響を与えている。

第1種〜第3種までのCSF論をまとめて、わたしは『人間主義:リーダー個人』論と呼ぶことにしている。区別のため、この3つを「Aカテゴリー」としておく。

これに対して、Bカテゴリーとして、『集団主義: チーム』論とも呼ぶべき一連の系譜がある。組織のパフォーマンスを論じるのに、リーダー個人だけを見るのは不十分だとの考え方である。仕事の規模が大きくなり、組織としての力が必要になる近代産業社会で、次第に力を増してきた。

Bの第1種のCSF論では、組織の成員である個人個人の力量が大切だと考える。四番打者ばかりが素晴らしくても、あとの打線がだらしなかったら、どうやって得点を重ねるのか。組織の戦果は、成員の力量の合計で決まる。これはこれで、わかりやすい理論である。この論者が願うのは、スタープレイヤーばかりが集まった、「ドリームチーム」である。年に一度、あるいはオリンピックのときに、この夢の布陣はかなう。

でもさあ、ドリームチーム必ずしも最強ならず、じゃない?ーーそんな批判もありうる。いくら良いメンバーが揃っていても、統制がとれていなければ、烏合の衆である。きちんと位階と責任と命令系統が機能しなければ、組織は機動力を発揮できない。統制こそ成功の最大要因である、と考えるのが、Bの第2種のCSF論である。もちろん、こうした組織論の理想型は軍隊であるし、だから近代の富国強兵の時代に大きな影響力を発揮した。

さて。組織力というものを、単純な個人の集合(合計)と考えるのがB1種で、そこにタテ社会的な統制の軸が必要だと信じるのがB2種だとしたら、いや、組織にはもっと体系的ないし有機的な連携の仕組みがいるはずだ、と考えるのが、Cカテゴリーの「システムこそ成功要因」論である。システムとといっても、別にコンピュータ利用のことを言っているのではない。システムとは、複数の機能要素が連携して有機的な作用を生みだす仕組みであり、それは、体系化された役割分担(機能分業)と、標準化された手順と、情報伝達手段によって生みだされる。「トヨタ生産システム」などはその典型例だと思えばいい。

このようなシステムを構築してきちんと運用できれば、属人性が減るから、誰もが一定レベルでパフォーマンスをあげられるようになる。統制の取れた軍隊組織もけっこうだが、将校や下士官が無能だったら役に立たぬ。その点、システムは安定した成果をあげられるから、とても有効である。こうした思想をCの第1種とするならば、これは欧米的近代企業に共通する基盤であろう。

しかし、システムの安定性と継続的改善だけで、現代の荒波を乗り切れるのか。むしろそこで大きく成功するには、イノベーションというパワーが大事なのではないか。そのためには、組織内での知的能力、すなわち「ナレッジ・情報化」が重要だ。これが、Cの第2種のCSF論だと考えられる。この種の論者も、今日には多い。彼らの理想とする組織は、たとえばGoogle風のイノベイター企業であり、あるいはジョブズ時代のAppleなどである。知的能力の最大化による新市場の開発。これこそがイノベーション時代の成功要因である、と。

カテゴリーBとCの議論は、リーダー個人ではなく、組織・集団レベルでの力こそ、成功を左右する鍵だと考える点では共通である。

これに対して、ビジネス環境を、もっと重要な因子ととらえる考え方がある。これを最後のカテゴリーDと呼ぶことにする。Dの第1種は、「適切な市場環境のポジショニング」こそが成功要因だと考える。たとえば、有名なポーターの『競争戦略論』などはその典型であろう。いかに組織が優秀で、すぐれたシステムや製品を持っていたとしても、大勢が競合する市場で戦ったら、安値競争で揉みくちゃにされるしかない。そんな場所は避けて、もっと競争のないブルーオーシャンを目指しなさい。そのために一番必要なのは、マーケティング戦略である・・これが、とくに最近のビジネススクールでメジャーな考え方らしい。

ところで、世の中にはもっとクールで現実主義的ないき方もある。それは、どうせ良いポジショニングを目指すなら、政策や利権と結びついた方が得策だ、とする考えだ。こうした発想からは、当然の如く『政治力』が重要視される。英米とは異なり、最近の新興国では国家資本主義ともいうべき動きが目立つ。その背景にあるのが、Dの第2種ともいうべき「利権・政策こそCSF」論である。

さて、このD2をさらに徹底し、さらに大きな視野でみる立場が、最後のD3:「時代・強運こそ成功の最大の基盤」という論であろう。特定の政策や政党と結びつき、政商的な立ち回りをしても、それが何世代も続いて有効だった例は乏しい。むしろ、そのときどきの時代の流れに乗り、運をうまくつかんで成長し続けることこそ、究極の成功である。そう、思わないだろうか?

これまでのところをまとめてみよう。以下の10種類の成功要因論がある。それは、プリミティブなものからはじまり、より時代の試練と大きな視野を通じて、この順に、高度なものとなってきた。

(A1) リーダー個人の器量・資質・性格
(A2) リーダー個人の知識・経験
(A3) リーダー個人のパッション
(B1) 成員各人の力量の合計
(B2) 統制
(C1) 分業組織・標準化
(C2) 知性・情報化
(D1) 市場環境
(D2) 利権・政策
(D3) 時代・強運

さて、そうすると最も高度なCSF論は「強運」という、身も蓋もない見解になる訳だ。が、ちょっと考えてみてほしい。世の中で、一番強運な事は何か。自分でどう努力しても手に入らぬ、運命としか言えぬものは何か? それは、自分の生まれつきではないか。どんな家柄のどんな性格に生まれつくか、だれもコントロールできぬ。そうすると、じつは(D1)の究極は、(A1)に通じる、ということになってしまう・・

どうやらわたし達は、壮大なループ、あるいは昔話で言う「ねずみのお嫁入り」状態に陥ったようである。ねずみよりは猫が強く、猫より犬が強く・・と追いかけていくと、最後には結局ねずみにたどりつく、という、あの昔話である。

では、どう考えたらいいのか。わたしは、上記の10種類のCSF論は、三角形のパースペクティブの中に付置できると思っている。それが下図である。三角形の左辺が、『人間主義:リーダー論』、右辺が、『組織・システム論』、そして下辺が、『ビジネス環境論』だ。

e0058447_23525334.gif


三角形の三つの頂点は、それぞれ、上が「ガンバリズム」の軸、右下が「戦略イズム」の軸。左下が「オポチュニズム」の軸に対応すると解釈すると、分かりやすい。これらが、現在世の中に流通している、さまざまな成功要因論の対立軸を示す。もし「ガンバリズム」が優勢なら、どんな環境も克服できるはずだ。もし「戦略」が万能なら、リーダーの人間性は不要である。そして上手に運に乗る「オポチュニズム」が最強ならば、組織に仕組みなんかいらない。だから、これら10個のCSFは、全部同時には並び立たないのである。

ここから導かれる結論は、二つだろう。まず第1に、われわれが何か事業や会社の成功理由を分析するときには、自分の視点が、個人・システム・環境の三角形の中のどこら辺に位置しているのかを、ちゃんと自覚しなければならない、ということだ。そのときどきに、ぐるぐると場所を変えて、しかもそれを自覚しないのは一番いけない。ちなみに、わたしはこのサイトで「システム論」を繰り返し主張しているが、それは、わたし達の社会ではシステム論的な視点が非常に手薄だから、バランスをとるべく、そうしているのである。システムだけが万能だ、などと主張するつもりは全くない。

もう一つの結論は、「ものごとの成功理由を説明するのは簡単だ」ということである。なにせ説明の方法は、こんなに沢山あるのだ。だから、何かを見て、その成功を説明してみただけでは、たぶん不十分なのだ。むしろ大事なのは、結果を説明することよりも、将来を予測することなのだ。予測した上で、検証する。これが本当に役立つ態度であろう。だから居酒屋でビジネス批評の意見を聞かれたら、「でも、来期はどうなると思います?」と聞き返すのが、わたしの趣味なのである。
by Tomoichi_Sato | 2014-11-03 23:56 | ビジネス | Comments(0)

基本的フレームワークで4種類のビジネスモデルを理解する


企画部門で働いていると、ときどき外部から質問だのアンケートだのが送られてくる。このごろは、「御社ではビッグデータに取り組まれていますか」という意味の質問がときどき来る。しかし、なぜそんなお門違いのことを聞いてくるのか、と思ってしまう。大企業は皆、ビッグデータを持っていると思っているのだろうか?わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。どうみても送り先を間違えているだろう。それは、エンジ会社というビジネスモデルの基本類型を考えてみれば、自ずから明らかなはずなのだが。

わたし達の生きているこの社会でのビジネスモデルは、大きく分けて

 (1) 一般消費者向けの商品・サービスを主に販売するB2C(Business to Customer)モデル
 (2) 他の企業・組織向けの商品・サービスを主に販売するB2B(Business to Business)モデル

に分類でき、それらはさらに

 (a) 需要の予測にもとづいて、商品・サービスをあらかじめ用意しておく見込型ビジネス
 (b) 個別の注文を受けてから、商品・サービスを提供する受注型ビジネス

に分けることができる。つまり、全部で4種類が存在する訳である。そして、各企業の業務の特性や組織のあり方は、このビジネスモデルのあり方に大きく影響される。

e0058447_22101191.gif


たとえば、液晶TVを生産する電機メーカーは、(1a)「B2C見込型ビジネスモデル」である。あらかじめ需要を見込んで商品を設計し、生産しておく。販売先は一般消費者だ。いや、電機メーカーの直接の販売先は、家電チェーンストアや一般家電店のはずだ、それに、企業や学校なども液晶TVは購入する--という反論も考えられよう。しかし、需要のあり方(量や種類)を最終的に決めるのは消費者だし、販売量も圧倒的に消費者向けが多い。だから、(1a)のB2C見込型、という見立てが適当なのである。こうした分類では、「主に」という面に注目するのが大事である。

自動車会社はどれだろうか。いわゆる乗用車を主に生産している会社がB2Cに属するのはわかる。ただし消費者は、購入時点で、どのモデルの車種を選ぶかだけでなく、外装や内装、ATかマニュアルか、エアバッグ等のさまざまなオプションを選ぶ。したがって、個別に見ればどれひとつとして同じ車はなく、すべて受注生産だ--という事を強調したがる人も多い。じゃあ(1b)「B2C受注型ビジネス」かというと、わたしはそうは考えない。じつは自動車を構成する数万点の部品のうち、顧客指定の個別仕様でかわる部分の比率は非常に小さく、車種・モデルによる共通点のほうが圧倒的に大きい(だから「モデル」という概念が成立するのだ)。おまけに、日本の自動車工場では、じつは海外輸出向け製品が案外大きな比重を占めている。このことはコンサルや学者もほとんど言及しないか忘れているようだが、見込生産分がそれなりに多いのだ。だから自動車メーカーも、(1a)「B2C見込型ビジネスモデル」に属するといっていい。

サービス業で言えば、鉄道・航空・ホテル・携帯電話など、一般消費者向けの業種の多くが(1a)に属する。預金者を相手にする銀行業も(1a)である。学校、保育、病院なども、民間ビジネスとして見れば(1a)に属する。

では、(1b)「B2C受注型」にはどんなものがあるのか。たとえば宅配便というビジネスは、その典型例だ。またオーダーメイドの服しか作らぬテーラーや、高級オートクチュールなどはこの種類になる。サービス業としての弁護士なども、多くはこのタイプである。ただ、基本的に顧客数が多くなるB2Cビジネスで、個別性の高い商売を続けるのは、どうしても効率がわるい。だから、成長拡大しようとすると、ある程度の「パターン」「モデルコース」「商品メニュー」などを事前に取りそろえて、人員や資源を配備することになる。その結果、しだいに(1a)タイプに移行していくわけで、(1b)はむしろ(1a)を補完する形で、個別需要を満たすような、ラスト・ワンマイル的な、あるいは高級顧客向けの業態として残るケースが多い。

(2a)「B2B見込型」は、基礎化学・素材メーカーが典型である。エチレンだのプロピレンだのといった商品は、普通の消費者が買いに来るものではない。ERPなど業務パッケージ・ソリューションのベンダーもこの部類だ。また、自動車業界の系列として、ジャスト・イン・タイム供給に全面的組み込まれている部品メーカーなども、じつはこの部類に属する(部品メーカーは受注生産に分類されるのが普通だが、この種の業態では、じつは注文を受けてから製造しているのでは間に合わぬ。だから内示などの需要見込を起点に、自己責任で作り始めるのである。「受注生産という名前の見込生産」「PushでPullで」を参照のこと)。

(2b)「B2B受注型」にはどんなものがあるだろうか。たとえば、わたしの勤務するエンジニアリング業は、典型的な企業相手の受注ビジネスである。製造業の顧客相手に、工場を設計して納める仕事だ。製鉄業も、納める相手は企業だが、基本は受注生産である。産業機械・工作機械もこのタイプが多い。いわゆる建設業も、ほぼB2B受注型ビジネスの範疇に属する。住宅建設で建売の場合でも、通常は不動産デベロッパーが直接顧客である。もし注文住宅専門のところがあるとしたら、それはさすがに(1b)タイプだが。このように、同じ業種分類でも、ビジネスモデル種別が異なることはありうる。

もちろん、同じ会社の中に二種類以上が同居する場合もある。医薬品メーカーは基本的に見込生産だが、いわゆる医家向け医薬品と、店頭で販売する売薬では、モデルが異なる。前者は、医師の処方箋が必要な医薬品で、病院や薬局などで渡されるものである。ふつうの消費者が知っているのは後者の方だろうが、じつはビジネス規模としては前者の方が大きい。(1b)と(1a)が混在しているといえるだろう。

こうしたビジネスモデルの基本類型は、教科書的に言えば「企業が戦略として選ぶ」だろうが、現実には“結果としてそうなっている”場合も多いだろう。売る商品と市場の形から、4つのタイプのどれになるのかが自然と決まってくるのだ。

そして、このビジネスモデル基本類型のあり方は、企業の特性や組織に大きく影響を与える。たとえば(1a)のB2C見込型企業では、幅広い販売網の形成と維持が不可欠である。とくに現代の成熟した消費者市場では、モノを作る側よりモノを売る側の方にボトルネックがある。したがって営業組織の人数が、いきおい多くなる。社内での発言力も大きいだろう。もしかすると工場は製造子会社化しているかもしれない。また、このタイプではTVなどに広告宣伝も打つから、結果として会社の知名度も高く、マスコミの注目度(とりあげる頻度)も大きくなる。

B2Cビジネスの特徴は、「大ヒット」商品が存在しうることである。消費者の購買行動には、他の消費者と同調する傾向がある。だから、「良く売れている商品だから買う」「人より一歩早く流行に乗りたいから買う」行為、つまり商品それ自体の価値とは直接関係しない購買が少なくない。そしてヒットが生じれば、マスコミがニュースとしてとりあげ、さらに注目されるスパイラル効果が生じる(マスコミ、つまり放送・新聞・出版業もまたB2C見込型ビジネスなので、ヒットを題材にできるとありがたい)。かくして、いったん大ヒットになれば、企業として売上面の大幅な成長が期待できる。工場でこつこつカイゼンして作るより、ずっと儲かるのだ。結果として、組織内に「ヒット待望論」的なムードも生じ、製品企画部門がその期待の中心になる。

さらにいえば、このタイプは顧客データが膨大になる。そこから需要傾向をつかむ事も大切なので、顧客マスタの統合・維持がIT面での大きなテーマだろう。冒頭にあげた『ビッグデータ』でワイワイ騒いでいるのは、ほとんどがこの(1a)タイプのビジネスである。なのに、相手の企業の業容を考えずに、どんなキーワードも同じように適用できるとIT産業の人たちが思っているのだとしたら、少々おめでたい。だから、「相手の業容」を理解するための簡単な道具の一つとして、このビジネスモデル分類の話をしているのである。

(1a)の対極にある(2b)「B2B受注型ビジネス」は、広告やマスコミ取材という華やぎもなく、一発大ヒットも生じにくい、地味な世界である。しかし、移り気な消費者の好みによる需要の急減もなく、目先をかえるために半年ごとに製品開発を繰り返す必要もない。とくに生産財の場合、まともな購入側は、価格のみならず実績・品質・納期なども必ず勘案して、総合的に判断する。だから、よほど汎用的なモノでない限り、品質度外視の無謀な価格競争には比較的陥りにくいし、新規参入だってB2Cほど楽ではない。

したがって、自分のポジションの利点をきちんと理解し、有利性を確保するよう戦略的に動くことができれば、きちんと利益を上げることも難しくない。本間峰一氏が「受注生産に徹すれば利益はついてくる!」で指摘するように、銀行の融資はむしろ受注生産企業の方が得やすいのも、このような理由による。

そのかわり、自分から積極的に新製品を生み出して、市場にイノベーションを起こそう、という発想がうすくなる。小さなカイゼンは行うだろうが、冒険的な提案や改革は起こしにくい。(2b)タイプの企業では、営業、とくにマーケティング機能が弱いのだ。何ごとも顧客から直接要求されない限り動かない、という『Pull型発想』が強くなる。このような体質は、社内的な「B2B受注型」機能である、情報システム部門や物流部門などにも共通する問題点だ。

(2a)型や(2b)型の企業は、サプライチェーンの中では消費者よりもずっと上流に位置することが多い。したがって、大規模で海外展開の進んだ企業であっても、その物流はかなり計画に沿ったものになる。(1a)型企業が、気ままな需要変動に対応するため、あちこちにストックを保有したり、小口多頻度物流を余儀なくされるのとは対照的である。

このように、企業の組織体制や業務スタイルは、その会社の基本的なビジネスモデル類型にしたがって大きく変わる。この差は、いわゆる製品別の「業種分類」などよりもしばしば強く、同じ業界内でも対話がかみあわないことがよくある。周知の通り、わたし達の社会では、官庁が業種別に監督権限を持ち、業種団体を束ねたり、政策を考えたりする傾向が強い。だが、彼らの政策が現実のニーズになかなかフィットしないのは、このようなビジネスモデル別の視点が乏しいためではないだろうか。

この点はコンサル業界やマスコミなども同様で、やれグローバル戦略だビッグデータだとかまびすしいが、もう少し相手のタイプを見て話しかけたらどうか、と思うことがよくある。米国には(1a)型で成功した大企業が多く、彼らのやり方がなんとなくカッコいいから、それを輸入・模倣したらどうかと考えるらしいのだが、(2b)世界で生きている者にとっては、余計なお世話である。

企業とは、需要情報を起点とし、モノやサービスや情報という形で付加価値を創造して、顧客に提供する「システム」である、とわたしは考えている。このシステムの基本類型として、4種類のビジネスモデルがある訳だ。だから、他の企業に対して何かを提案したり持ちかけたり、あるいは分析したりする際には、相手がこの4種類のどれにあたるのかを最初に考えるのが、習慣になっている。種類ごとに、相手の抱える課題や悩みは異なる。相手を知り、おのれを知ることこそ、対話の基礎だ。だから、こういうフレームワークを、皆がもっと共有できるといいと思う。


<関連エントリ>
→「受注生産という名前の見込生産」(2008-07-08)
→「書評:受注生産に徹すれば利益はついてくる! 本間峰一・著
by Tomoichi_Sato | 2014-08-30 22:11 | ビジネス | Comments(0)

ロージーの返事を、ときどき思い出す

机のまわりを整理していたら、偶然、大昔の雑誌が出てきた。共立出版の月刊誌「bit」の1985年4月号だった。

雑誌というのは何号かに一度、良い記事の集まった当たり号が出るものらしい。この号も、当たりの1つだったようで、面白い記事が集まっている。そのために、なんとなく捨てられずにとっておいたようだ。巻頭記事は、宮本勲氏の紹介による「本物のプログラマはPascalを使わない」だ。次が、ジェラルド・ワインバーグの短いエッセイ「ロージーの返事」。翻訳は、東京工業大学教授・木村泉氏。それから、御大ドナルド・クヌースの論文「文芸的プログラミング」が載っている。翻訳は黒川利明氏である。さらに、湯浅太一氏と萩谷昌巳氏の「Common Lisp入門」の連載第一回目が始まっている。石田晴久氏の「PC-UX」紹介記事もある、という具合だ。

e0058447_0233618.jpg


「本物のプログラマはPascalを使わない」は、注釈が必要だろう。これは当時アメリカで流行った「本物の男はキッシュを食わない」という文章の、皮肉の効いたコンピュータ業界版パロディである。キッシュはタルトに似たフランスの食べ物で、当時東海岸でおしゃれな食事として人気があった。しかし西部魂を持つ“本物の男”たちは、そんな軟弱な風潮を苦々しく思っていた。

同じ頃、コンピュータの世界にもマイコン・ブームとともに、小文字を使うPascalなどの軟弱な言語がはやりはじめていた(当時は「パソコン」より「マイコン」が普通の呼び方だった)。厳格で無慈悲な汎用機の世界で生きてきた“本物のプログラマ”たちは、そんな風潮を苦々しく思う、そんな内容だ。だから、
 ・本物のプログラマは大文字を使って語り合った
 ・本物のプログラマはGO TOを使うのを恐れない
 ・本物のプログラマはコメントを必要としない。コードが全てを教えてくれる
 ・本物のプログラマは人工知能のプログラムをFORTRANで書く
 ・もし何かをFORTRANで書けないならば、アセンブリ言語でやってみるべきである。もしアセンブリ言語でもできないならば、それはもはや、やるほどの値うちはないのだ。
といった逸話や教訓が並んでいる。

「文芸的プログラミング」(Literate programming)は、計算機科学の大家ドナルド・クヌースが、かれのWEBシステムについて書いたものである。ま、いまどきWEBなどと言っても、分からぬ若者が多いじゃろうのォ。World wide webのことではない。世界規模のインターネットなど、まだほとんど存在していない時代のことだから。WEBというのは、今風に言えば、ソースコードとドキュメントの統合管理の方法論だ。1974年にACMチューリング章を受賞したクヌースは、主著「算法基礎」(Fundamental Algorithm)を執筆しながら、その出版のために、数式を扱える組版システムTEXを開発する。そして、TEXのソースコードを文書化するために、さらにWEBシステムを開発するのである。

どこでもドキュメントとソースコードは別々に管理され、そして次第に乖離していく傾向がある。そのためにコメントをソースに書き込むのが、これもきちんと更新されていなかったりするのは周知のとおりだ。クヌースはこの問題を解決するために、あえて「文書の中にソースコードを書き込む」という逆のアプローチを取る。それも、単なる仕様書をモジュール別に作成するのではない。もっとも上位の、設計思想から書きはじめて、設計者の思考のとおりにプログラムを構成していくのである。WEB文書は、今風に言えば一種のマークアップ記法で作成されたテキストであり、それをプロセッサにかけることによって、機械用のPascalソースコードと、人間が読みやすい整形された“文芸的ドキュメント”が、それぞれ生成される仕組みだ。彼はこのWEBシステムを用いて、TEXの内部構成をすべて本の形で出版公開している。

しかし、この雑誌で一番長く印象に残ったのが、ワインバーグの「ロージーの返事」という短い記事だった。「イーグル村通信」という連載の一部だが、毎回が独立して読めるエッセイになっている。

・・・ロージーと言うのが彼女の名だった。むろん本名ではない。頬がバラ色(rosy)なので、皆がそう呼んだのだ。彼女は、手術直後の自分を看護してくれた看護婦だった。手術後のもうろうとした10日間、彼女は私の額を冷やし、手を取り、痛み止めのモルヒネを注射してくれた。17歳の自分は、優しく微笑むロージーに、もちろん一目で恋におちた。--「ロージーの返事」はそんなふうに始まる。

10日目の就寝時に、ロージーは、シャーベットと睡眠薬を持ってやってきた。自分が睡眠薬を飲み下す様子を眺めてから、彼女はたずねる。「あなたは、まだ痛み止めの注射が必要だと思う?」 もちろんと答えると、初めて彼女はこわい表情をした。「本当にそう思って?」
「本当だよ。とっても必要なんだ。」
「もしそうなら、」と彼女は答えた。天使のような声音は消えてしまっていた。「もう注射はしないほうがいいわ。」

ロージーが去ったあとの4日間は、はかり知れないほどの悪夢だった。自分(17歳のワインバーグ)は、せびり、ささやき、叫び、壁をぶったたき、要求し、泣いた。だがロージーは、遠くで知らん顔をしていた。その残忍な4日間に、愛は仮借のない憎しみへと変わった。退院の後、もう二度とロージーには会いたくないと思った。事実、もう二度と会うことはなかった・・・。

だが彼女は、じつは命を救ってくれたのだった。その残忍な4日間に、彼女は自分にきざしていたモルヒネ中毒の根を断ち切ってくれたのだ。ワインバーグがそのことに気がつくのは、後になってからのことだった。

ワインバーグはその時をふりかえって、『ロージーの返事』(Rosy's response: 頭韻を踏んでいる)という大事な教訓を学ぶ。それは次のようなものである。

 「もしあなたが何かをそんなにひどく求めているなら、多分それは手に入れない方がいい」

ひどく逆説的だ。だが、理由は単純である。(ワインバーグの説明をわたし流に言いかえるなら)、何かをひどく求めると、逆に自分がその「何か」に支配されてしまうことが多いからなのだ。若きワインバーグの場合は、モルヒネだった。ロージーが強引に断つことで、彼をモルヒネに支配される中毒から救ったのである。そして中毒(依存)状態とは、そういうものなのだ。

物欲でも、金銭欲でも同様だ。何かが欲しい、所有したい、それさえ手に入れれば、自分の人生は素晴らしくなる、と強く思い続けるうちに、いつのまにか攻守逆転して、自分自身がその欲の奴隷になってしまう。金銭に執着すれば、金の奴隷になる。時間に執着しすぎると、時間表に引きずり回されるようになる。あるいは、恋愛感情だって同じかもしれない。事はモルヒネだけではないのだ。読んで思いあたることはいろいろあった。

わたし達の社会は、欲望をかきたてることで出来あがっている。売る側は、もっと商品が売れてほしい。だからあらゆる機会をとらえて、消費者の欲望を刺激すべく、情報や広告宣伝やらをばらまく。教育産業と就職産業は、あの手この手で、より上位の学校や有用な資格を喧伝する。「自分探し」みたいなイデオロギーを添付して。そして、あらゆる場所で、「夢」に向かって進む人たちの感動ストーリーがばらまかれる。

そうしたことには良い面もあるのだろう。落ち込んだ人が、再び夢や期待を持って立ち上がることもあるかもしれない。だが、期待はしばしば、欲望という別物に転化していく。両者の違いがどこにあるか、ご存じだろうか。期待とは自分に関する何らかの状態(行為・能力)を望むことだ。一方、欲望はつねに、自分の外に対象(事物やステータス)を探している。だから、強い欲望を抱くと、自分を見失いがちになるのだ。

かくして、無理な買い物のために金欠になって、働かなければいけないのでせっかく買った物を使う時間がない、といった逆立ちが起きることになる。まあ、その程度はお笑いですむ。だが、実現すればもっと自分を傷つけかねない欲だって、いろいろあるのだ。いや、自分だけではない。無理な背伸びをしてポストを手に入れたがために、周りからの信用を失った人。絶対ほしい案件だといって無理な値段で受けたがゆえに、大赤字におちいった仕事。わたし達のまわりで、そうした例はいくらでもある。

わたし達の脳は(あるいは、心は)、ひどく逆説的な性質を持っている。「遠くに届くためには、力を入れてはいけない」というのも、そうだ。無理に力んだり、強く欲したりすると、そのこと自体がわたし達の中の自然なバランスを崩し、意思とは反対の方向にものごとを引っ張っていく。何度も愚かな失敗をくりかえした後、わたしは、

 「愚かさとは、自分の欲のために後先を見失うことである」

という真実に気がついた。ただ、気はついたけれども、こまったことに自分のアサハカさが減じた訳ではない。

だから、そんな危ういときどきに、『ロージーの返事』を思い出せたらいいのに、とよく思う。そんなにもひどく欲しい物は、手に入れてはだめ、と。だから、自分はこの雑誌を取っておいたのかもしれない。なんとか自分を見失わないようにするために。

(追記)「ロージーの返事」は、ワインバーグの著書 「スーパーエンジニアへの道―技術リーダーシップの人間学」に、少し形を変えて収録されている。ただしわたしは、元の雑誌原稿の方が好きだ。なお、上の抜粋は、翻訳文そのままではなく、多少、改変・編集して引用したものであることをお断りしておく。

<関連エントリ>
 →「遠くに届くためには、力を入れてはいけない」(2014-08-13)
by Tomoichi_Sato | 2014-08-21 00:33 | ビジネス | Comments(1)