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人を使うということのオーバーヘッド

なんだかひどく忙しい。そう、あなたは感じている。やらなければならない仕事が山のようにたまってしまった。このままでは期限までにアウトプットが出せそうにない状況だ。自分の下に誰かつけてもらって、やるべき仕事量を分担して進めるしかない。

あなたは上司に窮状を訴え、一時的な手助けのために、なんとか若手を一人つけてもらえることになった。この部に入ったばかりの、まだ右も左も分からない新米だ。しかし贅沢を言っていられる状況ではない。周りも皆、忙しいのだ。儲かってもいないのに、ウチはなぜこんなに忙しいんだ?  あなたは独り言をつぶやきつつ、そもかくその新米を席に呼ぶ。頼みたい仕事を説明するためだ。

頼む仕事は、比較的単純だ。あなたが作ったExcelシートに条件の数字をインプットして、何種類かケーススタディをしてほしい。あなたは、ある案件の原価と収支を計算して、売価や条件を関連部門に連絡しなければいけないのだが、その計算の一部を新米に頼む訳だ。本当は、必要な資材数量や外注価格も調べて、インプットの数字も作ってほしいのだが、それには過去の実績を調べたり、関連部署に問い合わせたりしなければならず、ある程度経験がなければこなせない。だから自分で以前作成した計算用シートへのインプット作業だけを頼む訳だ。とはいっても、検討すべき条件にバリエーションがいろいろあるため、ケーススタディの数もけっこう多い。だから、そこだけでも分担してくれれば少しは助かる。

・・と、思ったのだが、何なんだこの新米。端末で表を見せて説明してやっても、眠たそうな顔をしているだけで、分かったのか分からないのか不安だ。質問もしてこない。打てば響くように、即、作業に向かってくれるのを期待していたのだが、心許ない。「分かった?」と念を押しても、「はあ・・」と頼りなげに答えるばかり。いったん席に戻ったが、しばらくするとまたあなたのところに来て、「それで、インプットのデータはいつそろうんですか?」という。まだ全部はそろわないから、できている基本ケースから着手してくれと言ったじゃないか。すると次は、「このセルに入力しても、結果がすぐ出ないんですが。」という。だからそこはマクロを呼び出すんだよ。

あなたは内心、舌打ちをしながら、しかたないので指示書を書くことにする。インプット諸条件の表(まだほとんどは空欄だが)、Excelの入力セルとマクロの起動、出すべきアウトプットとケーススタディの諸条件。ケーススタディ数は、結果によってはさらに増減する可能性がある。ともあれ最低限のケース条件を決めて、その新米に渡した。指示書を作成するだけで、2時間以上もかかってしまった。これじゃ何のために手助けを入れてもらったのか、わからない。

半日後、新米が最初の計算結果を持ってきた。あなたは数字をちらっと見るが、なんだか変だ。表の入力欄を追いかけてみると、案の定、インプットの場所を間違えている。自分でチェックもできないのか!とあなたは叱って、もう一度やり直しを命じる。その後もまごまごして、結局、最初の答えが出たのは夜になってからだった。あなたが自分でやれば、たぶん1時間以内に終わるはずの仕事だったのに、指示書を作りアウトプットをチェックしていたおかげで、二人で半日、つまり1人日もの工数がかかってしまった。

教訓1:人を増やしても、生産性はすぐには上がらない。指示や教育に必要な余計な手間(オーバーヘッド)が生じるためである。

明くる日の夕方、あなたは数ケースの計算結果を新米から受け取る。ところで、横並びの表を見ているうちに、原価に関しては期待した傾向が出ていないので、少し疑問に思う。中身を再度、一つひとつ追いかけていくと、新米の間違いに気づく。計算ミスではない(そもそもExcelなんだから)。だが原価計算に関して、配賦の考え違いをしているのだ。使えない奴だなあ! あなたは内心、毒づく。人事部も、もっと戦力になる人間をとってくれよ。だいいち、大学でもっと即戦力になるよう、教育すべきじゃないの?

(ここでちょっと一言。大学で、ほんの少しだが教えている立場から弁明しておきたい。学校で教えておくべきことと、企業で社内研修で教えるべき事の線引きは、どこが適当だろうか? 答えは簡単である。社会において共通性の高い、汎用的な知識・スキルは学校で教え、企業ごとに違う、個別化されたスキル・能力は企業内で育てるべきなのだ。たとえば簿記の知識などは汎用的だ。だから会計や簿記教育のコースが成立する。しかし、原価の基本原理はともかく、配賦となると、企業ごとに違う。経営方針を反映しているからだ。

「即戦力」という言葉が、企業内業務の個別性を含んだところまで意味するなら、それを学校教育に求めるのはおかしい。逆に、学校教育に多くを期待したいなら、自社内の業務をなるべく社会や業界の標準にあわせていく必要がある。むろん後者は、多数の企業が同じマインドで協力しなければ実現しないわけだ。

この関係はちょうど、情報システムにおける手作りとパッケージ利用の違いに似ている。業界で共通性の高い仕事は、パッケージソフトが存在するし、それに任せておけばいい。他方、他社とは差別化した業務は本来、競争力の源泉だ。当然ながらそれをサポートするパッケージソフトなど、世の中には存在しない。

問題は、競争力の源泉でもないのに、他社とは違う個別化された特殊業務が、あちこちに存在していることだ。それは確実に生産性の足を引っ張っている。そういう状態に無自覚なまま、「即戦力」だとか「クラウド活用」だとか叫んでも無意味であると思う。だが話がそれたので元に戻そう)

ともあれあなたは、自社の原価に関する配賦基準を説明し、計算のやり直しを命じる。正しい答えが出てきたのは3日目になってからだった。今度からこの種の計算は、ちゃんと指示書をマニュアル化しとかないとまずいなと、あなたは思う。Excelももうちょっと表を分かりやすく作らねば。バカでも間違えずにインプットできるようにしないと、あぶない。

教訓2:人を使って効率が上がるのは、より標準化・定型化された業務である。個別化され臨機応変が要求される業務は、他人に外注するにはあまり向かない。

さて、あなたはいくつかのケーススタディの結果を携えて、企画会議に臨む。その場で議論が発展し、さらに検討すべきことが出てきた。あなたは自分の部署に戻り、新米に指示しなければいけない。口頭で背景を説明し、指示書を改定・追加するわけだが、ひどく面倒な作業に感じる。最初から、新米君も一緒に会議に連れて行けばよかったのか。少なくとも、こんな二度手間は不要になるはずだ。

だがその三日後、次なる企画会議に新米を参加させてみると、2時間の会議の中で、かれに関係ある話題は5分ちょっとで、あとの時間はぼおっとして座っているだけだということが分かった。ただ、その話題がいつ出てくるかが、なかなか事前には読めないのだ。しかも会議に参加している間は、確実に新米君の作業が止まってしまう。

だが、少なくとも会議に出させたおかげで、あなたがなぜこんなケースを追加したのか、どういう結果がほしいのか、了解はさせられたと思う。つまり、仕事の「コンテキスト(文脈)」を新米君にも共有させたのだ。しかし、やっかいなことに、コンテキストを理解したらしたで、こんどは新米が「こうすべきじゃないでしょうか?」などと言い出すようになった。お前さんの中途半端なアイデアなんぞ、期待しとらんのよ。いわれたことだけ、きちんとやってくれ。あなたは、そう言いたくなるところを、ぐっと飲み込んで、ただ聞き流すことにした。

そうこうするうちに、ようやく企画も方向性が決まってきた。あなたが彼にやらせたケーススタディも20を超えたが、やっとミスが減ってきた感じだ。企画会議でも、少しはぴりっとした顔つきになってきた(思いつくアイデアは相変わらず的外れだが)。いろいろ忍耐もしたが、少しは育ったかなと思う。「育成とは忍耐だ。」と先輩が言っていたセリフを、あなたは何となく思い出す。

・・というところで、思わぬ展開があった。この案件自体が、海外生産で対応することになったのだ。競争力を出すため、という命題なのだが、おかげで原価計算から何から、全部やり直しである。しかしトップの指示だから、しかたがない。あなたは、この新人にやらせた計算作業を、今度は海外子会社にやらせなければならない。となると、まずExcelの表も指示書も、英語に翻訳する必要がある。それはまだ我慢できるとしても、あの、多部門を巻き込んだ企画会議のドタバタを、こんどは子会社と繰り返すのかよ、とあなたは思う。案件の企画というのは、クロス・ファンクショナルな、相互調整と交渉の仕事である。やるべきケーススタディの条件も、すべて最初から決める訳にはいかない。20のケースを決めて、まとめて「計算してくれ」と依頼するなら、まだしも楽だ。だが、結果を見ながら条件を微調整して、といった進め方を、言葉も働く時間帯も違う相手と、うまくできるだろうか。

案の定、企画の仕切り直しは当初の倍以上の期間がかかってしまった。とにかく海外子会社あてだと、何を頼むにも一から十まで事細かく説明し文字にしないと伝わらない。いや、文字に書いたって、あちこちで誤解と混線が生まれるのだ。結果が出るまで任せきりにできないから、途中経過も逐一チェックし、軌道修正をかけてやらなければならない。本当にこんな事やっていて、コストダウンにつながるの? むしろエンジニアの手間が増えるばかりじゃないの。何せ相手は、話のコンテキスト(文脈)を共有していないのだから。

教訓3:コンテキスト(文脈)を共有しない海外相手の作業外注は、同じコンテキストを共有する日本人同士より、余計なオーバーヘッド(手間)が倍以上かかる。

コンテキスト・レベル」というのは、アメリカの文化人類学者E・ホールが言い出した概念だ。社会の中でのコミュニケーションにおいて、どれほどお互いがコンテキスト(文脈)を共有しているかに関する、無意識の前提である。ハイ・コンテキストな社会では、お互いが「言わずと分かる」以心伝心・暗黙の了解が、コミュニケーションの基本的スタイルになる。ロー・コンテキストな社会では、すべてを言語化して伝えないと分からないはずだ、というコミュニケーション・スタイルが基本になる。ホールは調査の結果、アメリカ先住民はハイ・コンテキストだが、白人社会はロー・コンテキストであるという意味のことを述べている。アメリカに比べて北欧社会はもっとロー・コンテキストだ、とも。

先日、訪日したスペインのPM学者Dr. Javier Pajaresさんと話していたら、同じヨーロッパ内でもコンテキスト・レベルに差があり、たとえばスペインに比べてドイツはずっとロー・コンテキストだが、旧ソ連のCIS国家はかなりハイ・コンテキストに思える、と言われていた。国際会議で、たまたま旧CISの教授が、ドイツ人の教授と、1対1の会食を希望した。他人のいない場所で、本音で話したいことがあったらしい。しかし、それを遠回しな形でしか伝えなかったために、ドイツ人はPajaresさんをはじめ、知人のイタリア人やら誰やらをみんな呼んでいたので、やってきた旧CISの教授はびっくりしてしまったという。「ドイツ人に何かを伝えたかったら、そのものズバリを言わなきゃダメだよ。ドイツ人にとってYesはYes、NoはNoなんだから」というのが、彼の解説であった。

何度も書いていることだが、「人に働いてもらって目的を達すること」が、『マネジメント』という行為の中核である。人を動かすのだから、テレパシーでも使えない限り、言語化して伝えなければならない。ただし、その手間は、相手と共有する文脈、そして相手がよって立つ文化のコンテキスト・レベルに依存する。日本は非常にハイ・コンテキストな社会である。だから、あまり事細かく言語化しなくても、下にいる人間は、上の意向を忖度(そんたく)して動く。

このやり方に慣れていて、これがそもそも当然であると思っている人が、いったん国境を越えると、あまりに指示に手間がかかるといって驚くことが多い。驚くだけならまだしも、怒ったりあきれたり、さらに「相手はバカだ」と思ったりする。そうなると、ビジネス的コミュニケーションのはずが、感情的なやりとりに転化してしまう(ここに、人種的偏見が微妙に影響したりするから、ますます始末におえない)。そうなったら協力的仕事などうまくいくはずがない。

でも、落ち着いて考えてみると、わたし達の普段の仕事でも、コンテキストを共有しない相手とか、世代が離れていて感覚の違う相手とかだと、やはり大小の違いはあれど似たようなギャップがあるはずなのである。それに気づいて、落ち着いて対処できる態度が身についているかどうかが、じつは大事なのだ。

どんな業界でも職場でも、仕事量には山と谷がある。そして個人の能力にも限界がある。それを超えて仕事量を柔軟に増大したければ、他者を使うときの原理と、コミュニケーションに必要なスキル・態度を身につけなければならない。そして、人を使うときには、それにともなう手間=オーバーヘッドが余計にかかるのだ。一人を二人に増やしたって、生産性は2倍にはならない。3割か、よくてせいぜい5割増し程度だ。それを8割増しくらいに持って行くためには、きちんとした標準化等の準備が必須である。

あいにく、わたし達は、そうしたことをあまりきちんと教育されていないようだ。少なくともわたし個人は、人の使い方を体系立てて教わったり、コーチングを受けた記憶がない。だが、「人を使う」という行為は、課長やマネージャーの地位に就くはるか以前から、実務では必要になる。とくに海外とやるときは、組織的な習慣化(=OS化)が望ましい。だから「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」みたいな本を書いた訳だが、たとえ国内とやるときだって、相手が社内にいるときだって、最低限、知っておかなければいけないことがあるのだ。上にあげた3つの教訓などは、その代表例だろう。こうした集合的な知恵とスキルを、わたし達はもっと組織内で蓄えるべきではないかと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-08-23 14:52 | ビジネス | Comments(0)

YesとNoのゲーム - コミュニケーションを教えるということ

最初に、『Yes/No』ゲームについて説明しよう。Q&A(質疑応答)ゲーム、ともいう。4、5人ずつのグループでやるゲームだ。大人でも、子供でも、むろん学生でもできる。

ルールはとても簡単である。出題者は、何か具体的で、目に見えて手で触れる、形のあるもの(人でもいい)の名前を紙に書いて、隠しておく。回答者はグループに分かれて、順番に、出題者に対して1つずつ質問をしていく。このとき、質問についてのルールが2つある。一つ目は、質問は必ず、相手が「Yes」か「No」か、または「どちらでもありうる」の三種類のどれかで答えられるような質問であること。二つ目のルールは、誰かが既にした質問を繰り返してはいけないこと。基本はこれだけだ。

たとえば、出題者が「ビーチボール」という答えを用意していたとしよう。質問する側の最初のグループが、
「それは食べられるものですか?」とたずねる。答えは「No」だ。
二番目のグループは、「それはどこの家にもあるものですか?」と聞いてみる。出題者は「うーん、Noかな。」というだろう。
さらに三番目のグループが、「手で持てる大きさのものですか?」と質問し、「Yes」の答えを得る・・といった具合である。こうして順番に質問を浴びせていき、最後に、「それはビーチボールですか?」とたずねて「Yes」の答えを得た班が勝利者になる。

「それは何ですか?」「それはどうやって作るものですか?」といった質問ではなく、必ず「Yes/No/どちらもありうる」で答えられる質問、というところがミソだ。このように、答えの選択肢が限定されている質問のことを、コミュニケーション論の分野では、Closed Questionと呼ぶ。他方、「それは何?」のように答えに限定がない質問は、Open Questionという。このゲームは、いいかえると、有限の数のClosed Questionをつかって、どれだけ早く正解に絞り込めるかを競うゲームだといってもいい。

むろん、このとき、他の班の質問と答えも利用していい。というか、利用しないと、競争に勝てない。しかもルールの二番目、「同じ質問を繰り返してはいけない」が厳然としてあるので、他の班の質問をちゃんと聞いていなかったら、失格になる可能性がかなり高くなる。

わたしはこれを、大学でプロジェクト・マネジメントを教える講義の中で、何度か演習に使ってみた。そして、非常に効果があるという実感を得ている。学生から毎回提出してもらう出席シートでの反応も、概して良い。ゲームとして面白いだけではない。何となく、コミュニケーションの勉強になったという実感があるのである。

「コミュニケーション」はプロジェクト・マネジメントの中核にあるスキルだ。そもそも『マネジメント』という言葉の中核的な原義は、「人に仕事をしてもらって目的を達すること」である。他の人を動かすのには、テレパシー能力でも持っていない限り、言葉にしてコミュニケートする必要がある。「言葉にして伝えること」は、マネジメントの第一歩なのだ。だから、PMBOK Guide(R)などでも、コミュニケーションは10個の知識エリアの一つに組み込まれている訳だ。

ちなみに、IT技術の分野でも、もっとも重要視されるスキルは「コミュニケーション」である。IPA(情報処理推進機構)のアンケート調査によると、IT企業と教育機関とが重視したい教育項目のトップは、ともにコミュニケーション能力だという(次表参照)

IT企業が重視してほしい教育 トップ5
(1) コミュニケーション能力 61.2%
(2) 問題解決能力 42.6%
(3) 文章力・文章作成能力 30.7%
(4) チームワーク・協調性 25.5%
(5) プログラミング技術 22.2%

教育機関が重視している教育 トップ5
(1) コミュニケーション能力 59.4%
(2) 問題解決能力 29.3%
(3) チームワーク・協調性 24.7%
(4) 文章力・文章作成能力 20.1%
(5) プログラミング技術 19.2%
 (情報処理推進機構 IT人材育成本部編「IT人材白書2013」p.41より抜粋して引用。マルチアンサーなので合計は100%を超える)

どちらも、「プログラミング技術」は第5位にすぎない点が面白い。コーディングの能力より、まず人と話し合える能力を、というわけだ。3位の「文章力・文章作成能力」も、コミュニケーション能力の一部だと考えれば、その重要性はもっと高いことになる。

(ついでながら、「プロジェクト・マネジメント」はIT企業側で7位・11.7%、教育機関側で11位・8.8%しか重視していない。どうやらPMの知識教育は、IT業界ではろくに期待されていないらしい)

なお、上の数字と、新卒採用時に重視する観点(同書 p.83)を比較すると、さらに面白い。

「新卒採用時に重視する観点」
(1) コミュニケーション能力 75.9%
(2) 主体性・積極性 63.7%
(3) チームワーク・協調性 40.1%
(4) 潜在能力・成長可能性 29.3%
(5) 社風との適合性 22.5%
(6) ITに関する技術力 22.3%

「ITに関する技術力」については、入社後習得・育成が可能であると考えられているためか、「コミュニケーション能力」等の資質的な項目よりも下位に位置づけられる結果となっている(p.83)。つまり、「コミュニケーション能力」、「主体性・積極性」、「チームワーク・協調性」などは入社後の習得・育成が可能でないと企業は考えているわけだ。

これほど期待されているにもかかわらず、わたし達の社会では、うまくコミュニケーションができない場面をしばしば見る。また、どうやったらコミュニケーションのスキルを高められるかについて、社会的な合意もないようだ。本来、学校教育の場では「国語」がその任に当たっているはずだ。だが、わたし自身の記憶を振り返っても、現国・古文・漢文の三教科を通して、自身の的確な意思疎通能力を鍛えられたという実感がない。なにか美的な、文学鑑賞能力を問われた記憶はある。漢字の書き取りもずいぶんやらされた(今やワープロを使っているのでほとんど忘れたが^^;)。だがリアルタイムの、切実な意思疎通を、上手にできる教育をうけたとは思えぬ。

コミュニケーションには大雑把にいって二種類のモードがある。おしゃべりモードと切実モードだ。おしゃべりモードは、対話自体が目的のようなもので、何かを伝達することは副次的である。ところが仕事上のコミュニケーションや、日常生活でもある種のコミュニケーションでは、「これをどうしても伝えたい」という切実モードが主体になる。伝達媒体は、対面の会話のこともあるだろうし、メールや、あるいは文書の場合もあろう。ただし文書やメールでうまく伝わらないときは、結局、対面での説明に持ち込まざるをえないから、結局、会話での伝達が一番ボトムラインになるのだ。

ところが、この対話的なコミュニケーションが、教えるのも学ぶのも、案外難しい。時間と手数がかかる上に、相手によって会話の筋道がかわり、再現性が低いから、一定の型を真似ればすむ訳にはいかない。ペーパーテストができないから、教室でのマスプロ的な教育カリキュラムにも乗りにくい。

対話的なコミュニケーションにおいて大事なのは、相手の話を聞きながら、同時に考えることである。聞くことと考えることが、同時にできなくてはならない。そして、相手が知っていることと自分が分かっていることのギャップを、常に意識する必要がある。説明とは、両者の間にある知識・認識のギャップを埋める行為だからだ。

このトレーニングのために、最初に述べた「Yes/Noゲーム」が有効なのである。このゲームにおいては、
→注意して聞く
→聞いたことを覚えておく
→同時に考える
の三つのことをリアルタイムに実行しなければいけない。しかも、勝つためには、それを数人の仲間と一緒にやらないといけないのだ。

もっとも、「Yes/Noゲーム」のルールを説明すると、そんな効率の悪いClosed Questionでは、いくら質問を重ねても、正解に到達するには際限もなく時間がかかるのではないか、と批判する学生があらわれる。だが、実際にやってみると分かるのだが、大学生レベルの知的能力をもっていれば、普通の出題ならだいたい20問以内に正解にたどり着く。Closed Questionという道具は、賢く使えば、かなり効率よく相手を追い込むことができるのだ。

そして、これができる人は、交渉が上手な人である。交渉(ネゴシエーション)こそ、プロマネに求められる能力の中でもトップクラスのものだろう。人を説得し、動かすことこそ、PMの仕事なのだから。そして交渉においては、きわどい局面ではOpen Questionは役立たない。価格交渉で「じゃあ結局いくらまで払っていただけますか?」などと問うても、相手がまともに答えてくれるはずはない。このとき、「でも、何か得るものがなければ、お互いに帰れませんよね?」「やはり納期よりも金額ですか?」「それって、たとえばベンツ1台より高いですかね?」・・といった風に、相手の刃を避けつつ、鎧の隙間を狙っていく能力が必要だ。むろん、笑顔や声色やボディランゲージも、巧みに取り入れながらだ。

こうした交渉の基礎的能力づくりとして、Yes/Noゲームは有用なのである。このゲームについては昔からなんとなく知っていたが、あらためて学んだのは、英語教育家として著名な故・中津燎子氏の著書(「英語と運命」)からだった。本来このゲームは子どもの教育用だが、わたしはあえて学生相手に試してみた。

試してみて驚くのは、ルールの二番目、「他と同じ質問を繰り返してはいけない」を破って失格になる者が、ときどき現れることだ。なぜか。他人の発言を、よく聞いていないのだ。上の空で聞き流して、自分の中だけで考えている。これでは良いコミュニケーションができるわけはない。そして、おかしなことに、こうした傾聴の態度・姿勢は、初等中等教育では、ちっとも訓練されていないのだ。つまらぬ教師の話を聞き流すのは、分からんでもない。だが、聞き流したら即、失敗となるゲームの場で、なぜ集中して聞かないのか。

「相手の話を聞いていない」人は、わたし達のビジネスの場でも、しばしば出会う。何を話しても、どうしても聞いてくれない。自分の側の論理だけを、一方的に繰り返す。その相手が権力があったり、顧客だったりしたら、もうお手上げに近い。だが、その相手だって、最終的には聞かないことで損をしているのだ。当然だろう。この世は取引と協力、ギブ・アンド・テイクでできている。テイクしかしない人と、誰がまともな関係を取り結ぶだろう? だれが本当の情報を奏上するだろう?

Communicationという英語は、本当は「伝達」という意味で、一方向にむかった動詞である。相手に着実に伝えること。これがCommunicationなのだ。そして、伝えるためには、逆説的なようだが、聞く耳を持たなければならない。日本ではなぜか「コミュニケーション」は双方的で、だからお互いに責任のない、ふわふわしたもののように理解されがちだ。それはおしゃべりモードの場合だけである。わたし達が何かマネージしたければ、切実モードのコミュニケーション・スキルを身につけるしかないのだ。


<関連エントリ>
 →「書評:『英語と運命』 中津燎子・著」(2014-06-08)
by Tomoichi_Sato | 2015-08-02 10:48 | ビジネス | Comments(0)

OSを持つ、ということ

海外の外注先とトラブルが発生した。発注書で決めていた納期が守れそうもないというのだ。我々から彼らにインプットすべき仕様情報が不正確だったし、予定より遅くなったせいだ、と彼らは、いう。こちらから見ると、彼らが出してきた設計承認図や仕様書の品質が低く、かなりコメントをつけてやり直しさせる必要があった。おまけに、両者共通の悩みとして、われらがエンドユーザーである顧客がぐずぐずとなかなか決めず、リサイクル的コメントをつけてくる問題があった。だが、まだ設計の中盤なのに、じりじりとスケジュールが遅れていった。このままだと、下流工程の仕事にも影響が出かねない。

担当者は、プロマネに相談にいくつもりだった。だが、彼のチームのベテランは、それを制した。そのベテランは別プロジェクトに従事していたが、担当者のことはよく面倒を見ていた。
「いったい何を相談に行くんだ?」
--このままだと2ヶ月近く遅れそうです。下流部門の仕事に影響がでそうなので、まずは報告に行きます。それで、どうすればいいか相談しようと思います。
「報告ってお前、対策案はあるのか。」
--いえ。だから相談しようかと。
「そんな相談があるか。相手は忙しいプロマネだぞ。お前が、対策案をいくつか考えて、中ではこれが一番良いと思うので、これで行きたいと思います。ご承認お願いします、って持って行くのが筋だ。」
--・・はい。
「そもそも、スケジュール遅れの原因は何なんだ?」

担当者は、上に書いた事情を説明した。こちらのインプットの遅れ、向こうの低品質、エンドユーザの不決断。それで、外注先の設計作業の生産性が落ちたんじゃないかと。

「ずいぶん曖昧だな。これまで何度も使ったことのある外注先だろう? 向こうの品質だって分かっているし、ウチのやり方だって慣れているんじゃないのか。この顧客とだって、はじめてじゃない。何かもっと別の原因があるはずだ。」
--何でしょう?
「それをつかむのがお前の仕事だろ! 根本原因が分からなかったら、この先でまた同じ遅延問題が何度もぶり返すぞ。外注先に行って自分で見てこい!」

出張から帰ってきた担当者は、ベテランに報告した。

--あの外注先は、コストダウンのために、今回から一部の設計業務をインドに再外注していることが、行ってみて分かりました。それがうまくコントロールできていないんです。
「やっぱりか。今回急に崩れたのは、何か原因があると思った。それで、どういう対策がある?」
--向こうのマネジメントと話し合ってみたんですが、二通りしか策はないようです。つまり、向こうに時間を与えてちゃんとやらせるか、それとも依頼した仕事の一部をこちらが引き取るか・・

これはまあ、10年以上も昔に経験したことである。上の会話は分かりやすいようにレンダリングしたが、実際にはこんなにテンポよく進んだ訳ではなく、数週間以上かかり、いったりきたりした結果である。でも、全体の雰囲気はつかめたと思う。このベテランが担当者に諭したのは、二つのことだ。

・自分の中に対策をもたずに、上に相談に行ってはいけない。たとえ自分の案が不完全でも(その可能性は高いが)、自分はこうしたい、という意思を持って行くこと。

・問題が起きたら、応急的な対処だけでなく、その問題の根本原因をきちんと調べなくてはいけない。さもないと同じようなトラブルがまた発生する。

最初の点については、以前も「あなたは、どう考えるの?」(2014-09-28) に書いたことだから、ここではこれ以上、繰り返さない。二番目の点は、問題解決における基本的な態度についてだ。

そもそも問題解決とは、次のような4つのステップを踏む必要がある。
(1) 問題の直接原因と影響範囲をつかむ
(2) 問題の波及を止める(応急措置)
(3) 問題の根本原因をしらべる
(4) 再発を防止する

このうち(3)(4)は、忙しいさなかには同時にできないかもしれない。だが、再発の可能性があるうちは、やはり根本的な解決が必要だから、放置はできない。上のベテランは、このことを指摘した訳だ。一度トラブルを乗り切ったと思っても、似たようなことが再三起きる。それは最初の原因解明が不十分だったからだ。

そして、何よりも大事なことは、上の4つのステップが自分の中で言語化されて、いつでも反射的に取り出せるようになっていることである。トラブルに遭遇し、問題事象に巻き込まれたら、この4つのステップが頭に思い浮かぶこと。それが『OS』化された姿なのだ。

問題解決には、とたえばRoot Cause AnalysisとかLogic Treeとか、いろいろな技法がある。有名なKJ法やブレーンストーミングだって、問題解決技法として登場した。だが、これらはいずれもツールであり、計算機にたとえればアプリケーション・ソフトに相当する。こうした技法を活かすかどうかは、じつはその下のレイヤーにきちんとOSが動いているかどうにかかっている。

OSとは、組織化され体系化された思考態度・行動習慣の集合である。それは個人レベルでも持ちうるし、組織内で共有するものでもある。組織内で、先輩から後輩に必ず受け継がれ、ブラッシュアップされていく仕組みができていれば、それは組織のOSと呼べるだろう。ただし、きちんと伝達され、受け継がれていくためには、(当たり前だが)それが言語化されていなければならない。そうしないと意識の層に上がってこないからだ。単なる職場の慣習で、後輩は先輩の背中を見て覚えるのみ。学ぶも学ばぬも、その当人次第、という状態ではOS化されているとはいえない。

OSがどういうものかは、OSがない状態を考えてみれば分かる。たとえばトラブルが起きる。それに対処する。そしてまた、次のトラブルが起きる。また対処する。つまり、外部からのインパクトやイベントに振り回され、必死に適応するだけの状態になる。つねに受け身で、後手後手の行き方、イベントドリブンな仕事のしかたになる。自分で先を見通せなくなる。

別の例を挙げようか。よく工場の製造現場では「5S」とよばれる標語が壁に貼ってある。5Sとは「整理・整頓・清掃・清潔・習慣化」の略だ(「習慣化」のかわりに「しつけ」という語が使われている場合もある)。5Sというのは、組織化され体系化された態度・習慣の集合で、典型的なOSである。何か材料を加工するとか部品を組み立てるといった作業や、そのための工具装置の操作は、アプリケーションである。このアプリがきちんとスムーズに動くためには、5SというOSが確立していることが望ましい。5Sが働いていないと、しょっちゅう材料のモノを探し回らなければいけないし、作業動線がぎくしゃくして怪我をしやすいし、機械は清掃不足で故障しやすくなる。だから、工場では口やかましく、5Sの徹底ということがいわれるのだ。

同じ事は、本当はオフィスワークでもなされていなければならない。あなたは書類がどこにあるか探し回ったことはないだろうか? そもそも設計書や提案書に、すべてファイリングNo.は発番されているだろうか? サーバの中を電子ファイルを探し回ったことは? あるいは床に変なモノが置いてあるおかげで、つまずいたことはないだろうか。飲み物をこぼしてPCや書類をダメにしたことはないだろうか? なぜ知的なるオフィスでは、そういう習慣は不要だと信じられているのか。

もう一つだけ、例を挙げる。わたしの勤務先では、顧客や発注先や誰とであれ、打合せを行ったら必ず議事録(MOM = Munites of Meeting)を書く。議事録には、打合せ内容、出席者、決定事項、アクション事項と期限、などが簡潔に記載されている。それをプリントアウトして、出席した客先や業者に、「たしかにこの通りの内容で間違いない」と確認のサインをもらう。後になって、言った・言わないのくだらない水掛け論を防止するためだ。

とくに客先との打合せMOMは表現に神経を使うので、1時間の打合せの議事録作成に1時間以上かかるのはザラだ。非常に面倒くさい。しかし、少なくともわたしの勤務先では、面倒だからといって省略する者はまずいない。むしろ、議事録がないと落ち着かない気分になるだろう。それが言葉を大切にする『記録重視』のOSとして、習慣化されているからだ。会社に入って、最初にしつけられる作業の一つでもある。

(以前書いたかも知れないが、何年か前、わたしは専務によばれて30分ほど製品開発プロジェクトについて相談した。わたしが席に戻るか戻らないかのうちに、当のその専務からメールが入ってきた。開けてみると、「さっきの打合せの結論はこれこれだったよな。」という、3行ほどの念押しの内容だった。腕利きのプロマネ上がりの専務は、忘れっぽい佐藤に頼らず、自分でMOMを書いてよこしたのだ^^;)

OSとは何か。それは、自分が行う行動を、毎回個別の、単独の行為として終わらせずに、繰り返し可能なシステマティックな行動習慣とする仕組みだ。トラブルが起きたら、「問題解決」の思考ルーチンを立ち上げること。打合せを持ったら、「記録」の行動ルーチンを回すこと。モノを生み出したら、「整理」のルーチンに入れること。

それは思考や行動の抽象化とも言えるだろう。標準化といってもいい(ただし「標準化」というと、全然別の杓子定規なものを連想する人もいるから、わたしはあまりOSの説明にはつかわない)。ともあれ、いったん身につけたら、いつでも、ほぼ同じレベルで繰り返せるようにすること、それによってムラなく効率よく実行できるようにすること。これがOSの力だ。

そういう意味では、「5S」の最後の用語は「しつけ」とするよりも、「習慣化」の方が適当だ。「しつけ」ではなんだか、働いている大人をまるで子ども扱いしているかのように感じる人もいるだろうし。

ただし。世の中の物事には、つねに両面がある。すぐれたOSを持つことは良いことだし、組織がOSを確立する事は、とても大切だ。だが、いったんOSが確立してしまい、パターンやルーチンができあがると、人はしばしば、なぜそのシステムが生まれたのかを深く考えなくなる。とにかく習慣だから、そうするんだ、と考える(深いレベルでは思考停止する)可能性が高くなる。おまけに、組織のOSをバージョンアップしようとなると、途方もなく大変な労力がかかる。みんな、習慣化しているからだ。

それでも、OSレベルの仕組みは非常に大事である。このサイトのテーマは「計画とマネジメントの技術ノート」で、ずっとEVMSだのAPSだのといったアプリケーション・レベルの話題をくわしく紹介してきた。しかし、最近わたしは、おおくの職場で抱えている問題はもっと深層の、OSレベルの問題ではないかと感じることが多くなってきた。それはとくに、いったん自分たちの得意な土俵の外に出たとき、顕著になる。

わたしは現在、海外プロジェクトのマネジメントをテーマとした新著を準備中だ。その本の中でも、知識や技法レベルだけではなく、OSレベルの思考・行動習慣について、あらためて光を当ててみたいと思っている。

<関連エントリ>
 →「あなたは、どう考えるの?」(2014-09-28) 
by Tomoichi_Sato | 2015-06-24 23:41 | ビジネス | Comments(0)

講演のお知らせ(7月1日)

直近のお知らせになり恐縮ですが、7月1日(水)午後3時30分より、東京・神谷町で下記の通り講演を行います。

サプライチェーンのグローバル化に伴い、海外プロジェクトに取り組む製造業が増えていますが、どこに難しさがあるのか、その成功要因は何かについて、ポイントをしぼってお話ししたいと思います。

なお、主催者の「ものづくりAPS推進機構」(略称APSOM)は、わたしも理事を務める団体で、生産スケジューリングを中心とした製造業の情報化と相互連携のための標準化規格策定と普及を目的とした団体です。
  http://apsom.org/index.html

今回の総会は、「新産業革命『つながる工場』と日本のものづくり」をテーマに、話題のインダストリー4.0に関する基調講演なども行われます。
この問題に関心のある方のご来聴を期待しております。


<記>

ものづくりAPS推進機構 総会講演会

プロジェクトの価値とリスク
  ~グローバル・サプライチェーン構築のために理解すべき原理


 日時: 7月1日(水) 15:30~16:15
 場所: 機会振興会館 B3F 研修1号会議室
     〒105-0011 東京都港区芝公園3-5-8
      http://www.jspmi.or.jp/kaigishitsu/access.html     TEL TEL:03-3434-8216

 参加費用:講演聴講のみは無料、懇親会参加の場合は3,000円
 参加申込み:下記のURLからお申し込みください。
      http://apsom.org/contact/application.html


以上
by Tomoichi_Sato | 2015-06-22 18:30 | ビジネス | Comments(0)

ハイ・パフォーマンス・チームへの道のり

チーム(組織)のパフォーマンスは何で決まるか、という問題を、このところずっと考えている。

組織の業績はリーダーで決まる、というのが現在、世に広く受け入れられている言説である。言説というより、最も分かりやすい直感というべきかもしれない。ひいきのスポーツ・チームがリーグでこのところ連勝している。監督がかわったばかりだ。だから新しい監督が良いのだ。あるいは、隣国の巨大メーカーは、オーナー経営者が超優秀な人材を本社に集めて、近頃なかなか業績がいいらしい。かたや、昔から製品を買ってきた国内の巨大電機メーカーが、何年間もひどい不振にあえいでいる。ならば、これは経営者がわるいにちがいない・・

どんなに長期的な業績であれ短期的な戦績であれ、あるいは数十人のチームから十数万人の組織まで、すべてリーダーの性格や良し悪しだけで、決定的に決まる。これが世間に流布する受け取り方だ。この方法にはいくつかの利点がある。まず、単純明快で受け入れやすい。また、リーダーだけを見ればいいので、分析方法として手軽である。リーダーの顔写真さえあれば、直観的に判断できる。他人の顔を見て好き嫌いを直観的に判断する能力は、誰でも幼児の頃からもっていて、万人が使え、とくに必要な予備知識もいらない。顔写真に加え、出身校や略歴に関するもあれば、完璧だ。これでほぼすべての属性は説明できてしまう。

もっともこの方法、多少の限界もある。一つ目は、業績結果はうまく説明できるが、業績予測にはあまり使えないことだ。また同じリーダーの元で、業績のアップダウンがあったりV字回復したりする現象は、説明がつかなくなる(まあ、そういう場合は「女房役」の人材の良し悪しで補足説明する方法もあるが)。

さらにもう一つ。多少なりとも組織の長やリーダーになって、かつ、思わしい業績を上げられなかった経験のある人間たちは、この方法の適用に慎重になる。自分が課長に昇進したとき、あるいはチームのキャプテンになったとき、すべての戦績が自分のせいとされるのは、いささか不本意である。この程度の手勢でどうしろというのだ? あの市場環境では、むしろ善戦した方ではないか。

むろん、中間管理職なら、自分の上司や経営者のせいにもできる(だからリーダーによる説明法はすたれない)。しかし世に中間管理職は数多いので、中には、業績はリーダーだけでなく、組織をとりまく環境や、組織が持っている要員、設備や技術などもけっこう重要ではないか、と考える人も出てくる。

まず、組織の要員のコンピテンシーについて見てみよう。リーダーの性格や能力だけでなく、チーム員の能力が高くなければ、良いパフォーマンスは発揮できまい。監督がいかに有能でも、選手陣があまりにオンボロでは、勝ちようがない。まあたしかに、前期最下位のおんぼろチームを新任の監督が率いて、見事に優勝する例もまれにある。めざましい例だから、皆の注意を引き、記憶に残る。しかし、そうでない例の方が現実にはずっと多いのだ。むろん、人を育てるのも監督の大事な役目ではあろうが、さすがに人は1日2日では育たない。

ついでながら、コンピテンシーというのは、そのポジションが要求する機能を果たす能力を意味する。すなわち、同じ人間でも、与えられた役目によってコンピテンシーはかわるのだ。優秀なピッチャーに、捕手をやらせたらどうなるか、考えてみれば分かる。ポジションを離れた、抽象的な『能力』レベルを議論してもナンセンスなのだ。よく、「優秀な人は何をやらせても優秀」という言い方をする人もいるが、じゃあ日本代表チームのポジションをばらばらにシャッフルしたら、チームの戦績がどうなるか想像してもらえばいい。つまり各人固有の能力と、適材適所な配員のかけ算が、コンピテンシーを生み出すのである。「リーダーの能力」というのも、その意味ではコンピテンシーの一部である。

個人個人のコンピテンシーと並ぶ、もう一つの大事な要素は、組織が利用可能な資源(資産)だ。具体的には、設備や道具などのハードウェア、そして技術や知識といったソフトウェアなど。設備や道具は個人の能力を増幅してくれるし、技術力や知的財産で優位に立つ、という業績の出し方もある。

さらにチームや組織をめぐる外部環境も、リーダーにとって大事である。ビジネスならば、市場環境全体が成長しているのか低迷しているのか、競合状態は厳しいのか、法制度や政策はどうなのか、といったことが、業績に影響を及ぼす。これらは自分たちだけではどうにもならない。無風状態と台風の中では、誰も同じようには走れないのだ。

人間の能力、組織の資源、そして外部環境。組織のパフォーマンスを決める因子は、もう他にはないだろうか? 

まだある。それは、システムとしての『組織のデザイン』である。ここでいっているデザインとは、単なる組織図のようなスタティックな絵を作ることではない。チームを、どんな機能をもつポジションから構成するか。各ポジションに対し、どんな仕組みで指示し統制するか。そして、各ポジションにどんな権限を与え、その働きをどう評価し改良していくか。これが「システムズ・アプローチによる組織デザイン」だ。このサイトで繰り返し書いてきたように、目に見えにくいシステムを、どう理解し設計するかが、管理技術=マネジメント・テクノロジーの肝である。工場ならば、人の働きとモノの動きからなる生産システムのデザインであり、知的成果物をうむプロジェクトならば、人と知識情報の動きからなるプロジェクト・フォーメーション・デザインがそれにあたる。むろん、こうしたデザインは、設備・道具・技術など有形無形の資産と密接な関係にあるし、成員のコンピテンシーにも大きく影響されよう。

それでも、「いや、やはりリーダーの役割は大きい」という声があるかもしれない。だって、組織のデザインも、リーダーのすべき仕事なんだから。まあ、それには一理ある。しかし組織の構造は、ルールや慣習によって決まっている部分も大きい。野球チームの9つのポジションを、監督は自由にかえられるだろうか? そうはいくまい。会社組織だって、法律上要求される部分はかなり多いのだ。もう一つ。リーダーの無能ゆえに、組織のパフォーマンスが急速に落ちるケースは、たしかにときどき見かける。こういうときは、たしかに「組織はリーダー次第だな」と感じることもある。ただし、お城でもどんなものでも、作り上げるには大勢の努力と長い時間がかかるが、壊すときにはあっという間だ。リーダーは、組織がダメになるときにはその「功績」が目立つが、徐々に組織が成長していくときには、リーダー個人の影響は必ずしも見えにくいことが多いのだ。

話を戻すと、組織デザインの一番プリミティブな形は、単なる個人の寄り集まりである。小学生が校庭でやる休み時間のサッカーのように、みながワッと団子のようにボールに群がる。役割分担も何もない。この「団子状態」から一段上がると、一応、ポジションと役割分担のあるチームになる。監督さんの指示と号令の元、皆が一応の機能的な動きを志す。ただし、監督がいなくなると、バラバラで集団機能が果たせなくなる。運転手のいない車のようなものだ。こうした「機械的な仕組み」からさらに一段上がると、組織の成員一人一人が、自分で考えながら、他者と連携し、パスを回してゴールを目指していく「有機的なシステム」になる。リーダーもいるが、全員が成果に対する当事者意識(オーナーシップ)を持っている。この有機的なあり方こそ、高いパフォーマンスを生む組織の姿なのである。

そして、このような有機的な組織を維持する上で大切なのは、働いている人々の気持ちのあり方=マインドセットである。それは仕事へのモチベーション(当事者意識)であり、また、集団としての思考と行動習慣(わたしが組織のOSと呼ぶもの)でもある。たとえば、命じられたからやっているのか、自分から自発的にやっているのか。それが最終的に楽しいからやっているのか、それをしないと後が怖いからやっているのか。こうしたことは、個人個人のコンピテンシーにダイレクトに影響する。また、以前『なぜなぜ分析は、危険だ』などでも紹介したように、組織が「ミスは個人の責任だ」「ミスは罰しなければ直らない」といった、性悪説的価値観を持っていたりすれば、当然ながら猜疑と情報隠蔽がはびこるようになる。

ところが、最もやっかいなことは、このマインドセットは、チーム(組織)のパフォーマンスの結果に影響を受けるのである。業績が良ければ、人々のモチベーションも上がる。モチベーションが上がれば、効率もさらに上向く。逆に業績が落下していくと、みなが「それは俺のせいじゃない」と考えはじめる。すると、人間関係はギクシャクして、さらにダウン・スパイラルにはまっていく。ここには、正のフィードバックが働くのだ。正のフィードバックが働く系は、ご存じの通り、安定化が難しい。

以上の関係を図示すると、次のようになる。組織のパフォーマンスを決める因子は大きく4つ。下から順に、(1)外部環境、(2)組織の持つ資源(技術等)、(3)組織のデザイン、(4)人のコンピテンシーだ。人のコンピテンシーは、マインドセットに影響される。ところがこのマインドセットのある部分は、組織のパフォーマンス結果から正のフィードバックを受ける。まあ、もっと要素を細かくすることも可能だし、厳密に考えればマインドセットの影響力は、組織デザインの中の評価基準のあり方に左右されたりもするが、ここでは複雑になりすぎるので略した。この図は、一種のモデルである。モデルは、多少の細部に目をつぶっても、本質的な要素をとらえることが重要だ。それが、モデルに対するリテラシーである。
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そして、わたし達の社会の産業成長の軌跡を考えると、面白いことが見えてくる。第二次大戦後の10-15年ほど、産業の復興を後押ししたのは、復興政策や朝鮮特需という「外部環境」であった。この時代は、とにかく働けば結果は出た。次の高度成長の15年間は、設備投資や技術導入の時代であった。重化学工業の発展は、「組織の持つ資源」が後押ししたのだ。だが、1970頃になると、曲がり角に達した。

その後、ごく一部の企業だけは、「組織デザイン」にボトルネックがあることに気がつき、トヨタ生産システムなどの『仕組み』の工夫をはじめた。しかし、大多数は新しい外部環境を求めて輸出に走るか、あるいは電子・情報など新しい技術に賭けることで業容を広げようとした。それなりの努力もあり、また幸運な追い風もあって成功を収めたが、95年頃のバブル崩壊以降になると、打つ手を見失っていった。

その時に、システムズ・アプローチによる組織のデザインに向かえば、まだ間に合ったろう。だが、自分なりの生産システムを考える代わりに、「カンバン方式」という道具を真似る勘違いが横行した。さもなければ、システムは飛び越して、管理職に対して「リーダーなんだからリーダーシップを発揮して、何とか問題解決しろ」と号令する向きもあった。管理技術のテクニカルなソリューションを飛び越して、精神論にいきついた感じである。あるいは個人の能力を求めて、『グローバル人材』なる偶像を追いかける、といった次第だ。

高いパフォーマンスという山の頂上へは、二つの道程がある。一つは、
 技術・設備 → 組織デザイン → 人の能力、
という尾根伝いのルートだ。最後の登坂には、マインドセットの助けを得る。もう一つは、
 技術・設備 → (精神論) → 人の能力、
という垂直ルートだ。どちらも高みには上れるだろう。後者の方がルートは分かりやすい。だが、高いリスクをもつ。

もちろん前者だって、決して楽な道のりではない。とくに、マインドセットという見えざるものが、やっかいだ。技術は左脳の論理で制覇できるが、モチベーションは右脳の感情との協調作業だからだ。ただ、これを掌中にしなければ、たぶん頂上は極められないはずなのだ。


<関連エントリ>
 →『なぜなぜ分析は、危険だ』(2014-04-26)
by Tomoichi_Sato | 2015-06-02 23:24 | ビジネス | Comments(2)

忙しいそば屋とヒマなそば屋 ~ 経済性工学とは何か、それは原価管理とどう違うのか?

技術屋は数字に強い、といわれている。たしかに数字アレルギーで電卓もさわれないような人は、技術的な設計作業には向かないだろう。技術で扱う数字は、仕様や長さや物性に関わるもので、kgだとかcmだとかいった物理単位系で測られる。わたし自身は(正直に言うと)けっこう粗忽な人間で、ときどき計算間違いもするが、さすがに数字が苦手だと思ったことはない。

しかしある意味で、「技術屋は数字に弱い」とも言える。少なくとも、数字に追われ、数字を見ながら生きている。こちらの『数字』は、コストに関する数字であり、単位は円やcentで測られる。物理単位系の数字は指先で自在にさばくエンジニアが、通貨単位の数字には頭を下げねばならない。通貨単位の数字は経営者の武器であり、その番人は財務や会計のプロ達だ。

通貨単位の数字は、判断に使われる。いや、物理単位系の数字だって判断には使うのだが、それは技術的な判断である。そのサイズじゃこの内径に収まらないとか、こちらの方が動力は少なくて済む、といった判断だ。それに対し通貨単位の方は、『経営判断』用である。この製品よりあの製品の方が原価が安いから生産を優先しようとか、東南アジアで作る方が人件費が有利だから国内工場は縮小しようとか、そういった判断だ。そうした数字を目標に掲げられ、あるいは横目で見つつ、技術屋は仕事をしている。

ところで、この経営判断用の数字を、きちんと技術屋の手中に取り戻そう、少なくとも技術屋の理解できるものにしよう、との目的を掲げた学問が存在する。『経済性工学』と呼ばれる学問分野だ(英語ではEngineering Economicsという)。経済性工学の基礎を知っているかどうかで、わたし達はずいぶん、経営数値に対するスタンスがかわってくる。

一例を挙げよう。これは経済性工学の古典的な教科書である、千住鎮雄・伏見多美雄著『新版 経済性工学の基礎―意思決定のための経済性分析』(日本能率協会マネジメントセンター)の例題をもとに、一部わたしが改変した問題だ。

ある観光地にそば屋があった。名物はもりそばで、この一品種しか作っていない。売値は1杯500円。もりそばの材料費は1杯150円だ。また、おしぼり代(業者に頼んでいる)が15円かかる。人件費と、諸経費(光熱費・店舗家賃等)は固定費だが、月間の平均販売数量で割って計算すると、それぞれ1杯あたり100円と75円になる。差し引き、1杯あたりの利益は、 500 - (150 + 15 + 100 + 75) = 160円ということになる。

さて、ある忙しいシーズンのこと。一人のお客さんがやってきてそばを注文したのだが、おしぼりを使い終わったときに、店の裏で飼っていた犬が店に入ってきたため、犬嫌いのお客は店を出て行ってしまった。ただし、この客のそばはまだ作り始めていなかった。このとき、店はいくら損をしたことになるか?——これが第1問。第2問は、同じ日に今度は店員が粗相をして、そばを一杯落としてしまい、作り直すことになった。そのとき、店はいくら損をしたことになるか? そして第3問。今度は閑散期に、また店員がそばを落としてしまった。今度は、いくらの損になるだろうか?

念のために注記しておくと、そば屋は一種の製造業である(販売もしている)。材料を加工製造し、販売して、利益を得ている。そばを落としたことは、製造の品質不良を意味する。犬でお客を逃がしたことは、(おしぼりを営業経費と考えれば)失注を意味している。

数字を整理すると、こうなる:
売価   500円
材料費  150円
おしぼり  15円
人件費  100円
諸経費   75円
利益   160円

答えを見る前に、ちょっとだけ考えてみていただきたい。とくに第2問と第3問に注意。なぜ、まったく同じ失敗について、わざわざ季節をかえて質問しているのだろうか?

ともあれ、順に考えてみよう。第1問。

おしぼり代の15円を損しただけ、と思うかもしれないが、正解ではない。この場合はすでに注文を受けていて、見込み客ではなく実際の顧客になっていた。犬さえこなければ、500円の売上を得たはずだ。ただし材料費150円には手をつけていなかったから、損にはなっていない。とすると、経済性工学では500 - 150 = 350円が損だった、と考える。

第2問。これも、材料費の150円だけを損した、と答えるのは正しくない。これは繁忙期のことだった。客は次々に来て、作るはしから売れていく。だとすると、そばを2個つくり、2人に売れたはずの時間内に、作り直しをしたおかげで1人分しか売上を得なかった。だから、500円の損失になる。

そして第3問。閑散期にそばを落として作り直したら、どうなるのか。この場合、店はがらがらで、たまにしか客は来ない。だから、倍の時間をかけたって、売上が減るわけではない。単にそばの材料費150円を損しただけになる。いや、へたをしたら毎日、材料を余らせて捨ててるのかもしれない。もしそうなら、損はゼロ円である。

なんだか奇妙だって? そう感じるかもしれない。じつは、経済性工学が教えるところは、普通の会計学とは違うのだ。その違いは、第2問と第3問の差に表れている。会計学では、その月が忙しいか暇かなんて、誰も問わない。

同じ金銭的数字を扱いながら、なぜ経済性工学は会計学と違うのか。それは、目的が違うからだ。会計学は基本的に、会計が適正に行われることを保証するために発達してきた。納税のためにも、また投資家への情報開示のためにも、正しい数値の集計と扱いが行われること。ところが経済性工学とは、経済的に有利な方策を比較評価し選択するために生み出された理論で、先々の意思決定の支援が目的である。

いいかえると、会計学は過去の金銭出納の分析報告に主眼があるのに対し、経済性工学は未来の意思決定に資することを目指している。したがって経済性工学では、つねに比較論が意識され、比較の対象をどこに置くかが問題になる。

繁忙期の場合、つねに製造を続け、作ったはしから売れていく状態が、比較の基準となる。製造資源(店員やそばをゆでる釜など)は稼働率100%のフル回転で働いている。大量見込生産状態といってもいい。製造資源が少しでもロスをすると、それは売上のロスに直結する。ところが、閑散期の場合は違う。閑散期は基本的に、製造資源が余っている。釜の中はたいていお湯だけで、店員はあくびをしている。こういう状態の時に、ロスが生じたからといっても、その分、見込顧客の売上を失うわけではない。不況期の受注生産と似た状況である。だから失うのは、外部に直接出ていく材料費だけだ(人件費や諸経費は、最初に書いたとおり固定費だから、売れても売れなくても変わらない)。

そして、気がつかれたかもしれないが、この例題における経済性工学の答えには、材料費やおしぼり代などの、変動費の分だけしか計算に出てこない。じつは1杯あたりの人件費や諸経費は、固定費を販売数量で割り戻して計算した値、いわば振り返りの(retrospectiveな)値である。だから、これから先の意思決定を考える場合は、あまり縁がないのだ。

ちなみに、上の三つの問いは、TOC(制約理論)のスループットの考え方を使えば、もっと直接的に答えられる。ただし千住・伏見『経済性工学』は1982年が初版で、ゴールドラット博士がスループット会計を言い出して普及するよりも、ずっと前に書かれていたことには注意してほしい。日本人にも独創的な学者はいるのだ。(ただし、そういう先駆性は国内ではあまり知られず、海外から輸入された学説の方が脚光を浴びるというのも、いかにも日本的ではある)

話がそれたので戻すが、繁忙期にこの店が失った金額は、会計学(原価管理)でいうコストではない。では、何なのか。それは『機会損失』である。英語で言うとOpportunity costだ。機会損失は普通、個別工程の製造原価よりもずっと大きい(そば屋の例をみればわかる)。品質不良や段取り替えで工程の生産能力を止めると、非常に高くつく。だから本当の経営判断は、機会損失を勘案して、行わなければならない。会計課が報告してくる製造原価の数値だけに頼って判断しては、いけないのである。

ところが機会損失は、会計の財務諸表には決して現れない。会計の数字は現実に立脚した数字、つまり事実起きたことの数字であるのに対し、機会損失は「つり逃した魚」の大きさを示す数字だからだ。

逆に、ある状況下では、売上や製造原価ではなく、変動費だけで判断すべきときもある。比較のための評価尺度は、目的と基準状態によって変わる。こうしたことを、技術者は知っておくべきである。そうしないと、他人から与えられた数字に、無条件に従ったり、踊らされたりする可能性がある。

前回わたしは、工場で製造マンが現場を離れてモノ探しに行くようなムダを批判した。しかし、より正確に言うと、これが直接のムダ(損)となるのは、この製造工程が『繁忙状態』にある場合に限られる。もし、この工程の稼働率が5割とか7割程度だったら、製造マンの生産性が下がったからといって、企業全体の損にはつながらない。

むろん、だからといってムダを放置していいという訳ではない。生産性を上げれば、製造マンが別の工程と掛け持ちにできるかもしれないし、少なくとも、もし繁忙状態になった場合に全体の足を引っ張るリスクを下げることはできる。ただ、ムダ取りの優先順位は、繁忙状態でなければ(=ボトルネック工程でなければ)少し下がることになる。ムダを取っても、直接は製造原価は下がらないだろう。リスクが(つまり機会損失の可能性が)下がるのみだからだ。

わたしは技術系の人にも、もう少し経営数値に強くなってほしいと思う。そのためには、経済性工学=Engineering Economicsを少しは勉強するべきだ。そのための初歩的な本だってある(たとえば伏見多美雄「おはなし経済性分析」など)。金銭の数字は、だれか得意そうな他人に計算してもらえばいい、という姿勢のままだと結局は、そのブラックボックスの数値に操られる結果に陥るだろう。

ただし、経済性工学を正しく使うためには、もう一つ、自分たちの生産システムの『基準状態』を見る能力が必要だ。基準状態は、自分の担当、自分の部署だけを見ていては、必ずしも分からない。全体像と、あるべき姿のイメージが必要だからだ。大局観と、適切な評価尺度の選択。そうした事柄を非技術部門や経営層に対しても説明・説得し、積極的にプロモートできるようになって、はじめて真の意味で技術者が主導権を得ることが可能になるのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-05-18 21:52 | ビジネス | Comments(0)

顧客ロイヤルティの向上 〜 次もまた選びたくなる企業となるために

「どちらにお住まいですか?」そう聞かれたら、横浜です、と答える。だが「最寄り駅はどちらですか?」とたずねられると、どう答えるか、わたしはときどき迷う。住まいからは、JRの駅、そして2本の私鉄の駅の、いずれにも出られるからだ。どこに行くかによって、使う駅を毎回決めている。便利な場所に聞こえるかもしれないが、どこからも中途半端に遠い、とも言える。

ただ、複数の選択肢が可能なときは、3つの路線の中で、京浜急行の駅を選ぶことが多い。じつはこの駅が一番遠いのだが、何となくそうしてしまう。京急はまず、列車のスピードが速い。これは今月の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」における八巻直一先生の講演で知ったのだが、京急は関東の私鉄の中では例外的に広軌、つまり線路のレール幅が広いのだそうだ。だからスピードを出しやすいということらしい。それに経験的に、停止するトラブルが少ないし、トラブルからの復旧が他社よりも早いと感じる。落とし物をしたときの対応なども、普段利用する他の鉄道会社より、おおむね良い。距離と価格の比で言うと、他の私鉄の方が相対的に安いのだが、鉄道選びは価格だけではない。

当たり前だが、価格だけで買い物を決める消費者はいない。性能、デザイン、品質、納期、支払い条件などを総合的に勘案して決める。競争とは、これらすべての項目を通じた競い合いである。とくに、消費者に具体的な商品を届ける消費財の場合、性能・デザインなど目に見える項目は、大きな競争力の要因となる。この事情は、サービスでも同じだ。鉄道やホテル、病院などでは、規模・機能のほかに、立地などの項目も重要だろう。

では、具体的な目に見える商品を持たぬ受注ビジネスにおいて、購買側の意思決定を決める要因は何だろうか?

これはすなわち、受注ビジネスの企業が目指すべき競争力とは何か、という質問でもある。いうまでもなく、コスト競争力が競争力のすべてではない。価格は競争の重要な一因子だが、非価格競争力もあるだろう。それは具体的には何か、との問いである。むろん、答えは業種業態によって違うはずだが、そこに共通するものはないのか。

ここで、『顧客満足度』(CS = Customer Satisfaction)というキーワードがひとつ、浮かび上がってくる。顧客満足度調査は、消費財の分野では昔からよく行われてきた。商品を買った消費者に、いろいろな角度から、その満足度を聞くのである。そして総合評点をつける(以下の記述は、圓川隆夫・著「我が国文化と品質 (JSQC選書)」に依っている)。CSの測定は、詳しく言うと、特定の製品・サービスを対象とした「モナディク尺度」と、過去の製品・サービスの使用経験に基づく「累積尺度」がある。いわば単発的な満足度と、累積的な満足度である。後者は、再購買行動との関連がより強いと言われている。

では、顧客満足度を左右する因子は何なのか。マーケティング研究においては、顧客満足度は『期待不確認モデル』(expectancy disconfirmation model)で説明されることが多いらしい(同書p.94)。このモデルでは、

CS = [使用時の知覚品質] - [事前期待]

で表現される。製品・サービスを実際に使用したときに感じる知覚品質と、事前期待に代表される各個人の比較標準との、差が顧客満足に現れる。事前期待が高いほどCSは低くなり、事前期待が低ければCSは高くなる。アップルのような企業は、つねにファン的なユーザによる高い[事前期待]と闘っているわけだ。

ところで、前述書の著者である圓川教授の最近の研究によると、消費財の分野では、「企業イメージ」がCSと「再購買行動」をかなり決めることが分かってきた。世界8カ国10の製品・サービスのデータによると、企業イメージはCSの約7割を決定しているらしい。ただし国別に見ると、米国や中国では企業イメージの影響が比較的大きいが、日本とドイツではそれほどでもない、という。

なお日経BP社のブランドジャパン調査では、ブランドイメージの総合力を、「フレンドリー(親しみ)」「コンビニエント(便利)」「アウトスタンディング(卓越)」「イノベーティブ(革新)」の4つの因子に分けている。この中では、とくに「卓越性」のイメージと、CSや企業イメージとの相関が強いことも分かってきた。「他にはない魅力がある」「際だった個性がある」事などが、消費財のブランドイメージや企業イメージを向上させるのである(圓川隆夫「日本企業のリスクマネジメントの二面性」2014年12月講演資料より)。

だが、ひるがえって、受注ビジネスにおける企業イメージとは何だろうか? とくに、あまり広告宣伝を打つわけでもないB2Bビジネスにおいて、企業イメージはどのように形成されるのだろうか?

当たり前だが、答えはユーザ企業による個別の経験を通じて、ということになる。受注ビジネスでは、引き合いから発注をとおして納品まで、顧客と売り手が接する期間が長い。その間に、個別要求のすりあわせや個別設計が入ったりすることも多い。売り手と買い手のインタフェースが、対面的である。だから口コミが大きな割合を示す。商品と広告宣伝だけがインタフェースとなる消費財の世界と違うのだ。

もう一つは、業界内部での横の評判である。たとえばすぐれた結果や卓越した実績を残すこと。もちろん、これも口コミベースになりやすい。B2Cとちがい、ネットに批評が流れるケースはほぼないからだ。ただしネットや広告宣伝の空白を埋める存在として、業界コンサルタントが専門的に比較調査することはありうるが。

B2Bの受注ビジネスにおいては元々、売り手と買い手との間に、継続的な緊張関係が存在する。買い手側は、要求仕様を自分が規定し、提供させる製品やサービスを鋳型にはめることで、価格競争に持ち込もうとする。逆に売り手側は、製品やサービスのユニークな機能・特性など(供給性状)を提案し、他社との差別化によって、価格競争から逃れようとする。買い手側は、要求仕様を盾に自分の都合のいい方向に引っ張り(Pull)、売り手側は供給性状を武器に自分が有利な方向に押し出そうと(Push)する。この綱引きのような技術的・心理的せめぎあいが、受注ビジネスにおける取引の本質なのだ。

そこで、買い手側の意識した要求仕様を上回る内容を、売り手側が提案・設計できるかどうかが、勝負の分かれ目となる。あるいは、設計面ではなく、パフォーマンスの面で、買い手側の無意識の期待を、売り手側が超えられれば、それでもOKだ。ここでいうパフォーマンスとは、売り手側の生産性や品質やスピード(納期)のみならず、売り手が自らの業務プロセスやチームの状況を的確に把握していること、問題を事前に防止したり迅速に解決できること、協力的なマインドであること、などを指している。つまり、相手を信頼でき、一緒に働いていて気持ちいいか、という心理的な評価となる。この感情面での評価が、じつは受注ビジネスにおける『企業イメージ』の実態であり、それが意思決定において大きな役割を持っているのだ。

顧客が、「再びこの発注先と仕事をしてみたい」「またここから買ってみたい」と感じる気持ちを、『顧客ロイヤルティ』(customer loyalty)と呼ぶ。英語には”loyalty”と”royalty”という、(日本人にとっては)よく似た二つの単語があるが、前者は忠誠心の意味である。後者は単語の中に”Roy”(王様)が入っているように、王族とか、国王の認可権・特許料などを意味する。このサイトでは、区別するために、前者をロイヤルティ、後者をロイヤリティと表記することにする。顧客ロイヤルティは、顧客が商品や売り手に感じる「忠誠心」(愛着)である。そして、顧客ロイヤルティの確保は、受注ビジネスが目指すべき最大のポイントである。顧客ロイヤルティが高ければ、価格競争に持ち込まれずに済む。また、繰り返し同じ相手と仕事をしていれば、さまざまな教訓(Lessons & Learns)が得られるから、さらにパフォーマンスも高くなる。

逆に言えば、毎回買い物を入札で決めようとする買い手は、基本的にどの売り手に対しても顧客ロイヤルティがゼロだということになる。公共系の仕事などは、毎回、相見積もりや競争入札が義務づけられる。これは内部監査や透明性の確保の観点から要請されていのるが、実際には、ユニークな提案を受け入れにくく、また繰り返しによる生産性の向上などを犠牲にしているわけだ。

言うまでもないが、顧客ロイヤルティの向上のためには、「顧客の期待に合致する」だけではダメである。「顧客の期待以上」が何度も続く必要がある。それは、先ほども説明したように、提供する製品・サービスの技術的な面と、遂行パフォーマンスの面がある(冒頭にあげた京浜急行の例が、よきパフォーマンスの例である)。

また、顧客ロイヤルティは、お客さんに対してイエスマンだけで居続けては達成できない。わたしの知る優秀な企業の例を見ても、顧客に「それはできません」ないし「それをやるとこういう困難がある」とはっきり言うことで、逆に信頼を得てきた。顧客の(とくに権限の小さな担当者による)無体な要求に対しては、最終的にそれが顧客全体のためにはならないことを説明する。その際の論拠も、顧客当人の満足よりも、「顧客の顧客」の満足を見通す能力である。松下幸之助の商売戦術三十箇条(1936)の中に、
「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ」
という条項があるそうだが、この機微を語っているのだろうと思う。

無論、このようなことは、言葉にすると簡単に聞こえるが、非常に高い対人スキルや交渉能力を要する。だから、そうした対人感度の高い人材をフロントにおく必要があるだろう。以前にも書いたとおり、「気が利く」能力を生み出す要素は4つある。これを組織として認知して、サポートする仕組みがないと、顧客ロイヤルティの向上は図れまい。「次もまた選びたくなるパートナー」こそ、受注ビジネスに身を置く企業が目指すべき姿なのだと思う。


<関連エントリ>
 →「書評: 「我が国文化と品質」 圓川隆夫・著」(2014-12-17)
 →「勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて」(2015-03-11)
by Tomoichi_Sato | 2015-04-20 22:18 | ビジネス | Comments(1)

マネジメントのテクニックと技術論について

このサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』である。計画に技術なんてあるのか? そして、マネジメントに技術なんてあるのか? --もちろんある、とわたしは考えている。大学で講義したり、人前で話したりする機会があるときは、ほぼ必ず、「皆さん、計画とマネジメントには技術があるんですよ」と訴えるスライドを1枚いれることにしている。

それでもまあ、反応ははかばかしくない。たいていの人はピンとこない顔をしている。マネジメントという言葉を、『管理』だとか『経営』だとかいう旧来の日本語の枠内でしか捉えないためだろうか。そして人を使う技術だろ、あるいは金儲けの技術かよ、みたいに思うらしい。そんなのに技術があったら苦労しないよな、と。

わたしは2000年に、「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」という、単著としては初めての本を出版した。その本は幸い、比較的好評を持って実務家に迎えられた。ネットにもいくつか書評や感想が出たが、わたしが一番驚いたのは、「計画やスケジューリングに理論があるなんて、本書を読むまで知りませんでした」という感想だった。ソフトやコンテンツ制作系の業種の方だったと思う。この方はそれまで、クリティカル・パスも、フロートも、最小スラック順もバックワード・スケジューリングも、何一つ知らずに仕事を回してこられたのだ。

小規模な仕事ばかりなら、それでも済むだろう。だから知らなかったことを批判しようとは思わない。だが、規模や金額の大きな仕事も、同じような感覚で回そうとしている技術者が多いんじゃないかと、あらためて考えさせられた。これではまずいな。そこで、本のフォローアップと正誤表掲載の目的で、ホームページをはじめたのである(・・もう15年も経つんだなあ)。会社員であるにもかかわらず、ずっと実名でサイトを運営してきたのはそのためだ。

まあ、スケジューリングの分野はORの研究者が好むため、妙にアカデミックな用語が多い。だからもっとアカデミアから遠い、あんまり理論とか関係なさそうな仕事を例にとって、考えてみよう。

今、目の前に、紙幣やら硬貨やらがごちゃまぜにあったとしよう。大金とまでは言えないが、ちょっとした金額だ。実際に見たことはないが、正月なんか近くの神社の賽銭箱を開けたら、こんな風じゃないだろうか。--さて、これが正確にいくらあるか、数えなければいけない、としよう。では、どうしたら早く、正確に金額を数えられるか? もちろん、手元には紙幣カウンターとか硬貨仕分け機とかいった、文明の利器はないとする。目端の利く人なら、「金融機関に持ち込んで、おたくの口座に預けるから数えてよ、と頼めばやってくれるだろう」くらいは思いつくかもしれぬ。だが、それも禁じ手としておこう。休日だから、自分で数えるのだ。さて、どうするか? 
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愚直に端から一つひとつ、足し算していくのはどうだろうか。電卓を片手に、10円玉なら10を足し、千円札なら1,000を足す。もちろんそれで、一応目的は達せられる。だが、とても効率の低い仕事のやり方であることは、直感的に分かる。おまけに難点がひとつある。途中で、うっかり足し算を間違えたら、どうするか。最初からやり直すしか方法がないではないか。

まずは、紙幣を取り分けよう--その程度のことは、誰でも見た瞬間に思いつくはずだ。紙幣を取り分ける。さらに、千円札と5千円と万札に種別し、それぞれ枚数を数える、と。そこは着手しやすい。では、残った貨幣はどう集計するべきか。

とにかく、種類別に仕分けしなければ話になるまい。その上で、それぞれ枚数を数え、金額に集計するのだ。では、どうしたら手作業で、硬貨を早く仕分けられるか? 硬貨には、500円玉、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉、の6種類がある。6種類の空き箱を用意して、端から順に一つつまんでは、該当する箱に投げ入れるのではどうだろう。

それもまあ、一つの方法だ。最初の、端から順に足し算するよりは効率的にちがいない。だが、もう少しだけスマートな方法があるのだ。

ゴチャゴチャに混ざり合った硬貨を手作業で仕分ける際のポイントは、二つありそうだ。まず、目立ちやすい違いに注目する。たとえば、100円玉と1円玉は、両方とも白っぽい硬貨で、やや見分けにくい。それに比べて500円玉は同じく銀貨系だが、かなり大きいので見分けやすい。さらにもっと目立つ違いがある。5円玉と50円玉は、穴が開いているのだ。机の上に硬貨を広げたら、その二種類は他よりも区別しやすい。

もう一つの仕分けポイントは、たくさんの硬貨と少数の硬貨が混じり合っている場合、たくさんの物をすべて拾い上げるより、少数の物を拾い上げる方が、手数が少ない分、早く済むということだろう。たとえば100円玉が100枚、5円玉が10枚、まざっていたとしよう。この中から100円玉を拾い出す作業は、かりに1秒に1枚拾えたとしても、1分40秒かかる。ところが、5円玉を選り分けて拾えば、10秒で済む。残りはすべて100円玉ということになる。結果としては、同じ2種類の硬貨に分ける作業が、どちらを選ぶかで10倍も効率が異なる。

では、この中の硬貨で一番多そうなのは何か? ぱっと見て、どうやら100円玉のような気がする。硬貨の流通量から見ても、5円や50円玉は少なそうだ。ならば、そちらから拾い上げる方が良さそうだ。

以上を考えると、次のような手順が思い浮かぶ。

(1) 紙幣を先により分ける
(2) 貨幣の中から、500円玉を拾い出す(目立つから)
(3) つぎに50円玉を拾い出す(目立つから)
(4) ついで5円玉を拾い出す(目立つから)
 →この時点で、残っているのは100円・10円・1円玉となる
(5) ついで1円玉を拾い出す(少数だから)
(6) そして10円玉を拾い出す(少数だし100円玉とは色が違って目立つから)
(7) 最後に残ったのが100円玉

むろん、実際の硬貨の混ざり具合を観察して、最初の想定と違ったら、手順は多少前後させてもいい。大事なのは、なるべく効率よく、早く仕分けることである。

さて、こうして仕分けられた各硬貨の枚数をどう数えるか? これも、1枚2枚と手で数えるのは愚策だろう。おすすめの方法は、机の上に、5枚ずつ円柱型に重ねて積んでいくやり方だ。(10枚ずつ重ねてもいいのだが、5枚くらいの方が安定して崩れにくい)

(8) 最初に5枚、積んでおく
(9) それから、となりに、同じ高さになるように重ねていく
(10) そうして、できた円柱の本数を5倍し、残った端数を足し算する。

これなら、後からも検算が一目でやりやすい。

・・話は分かったよ。でも全体として、この話に何の意味があるんだ。神社の賽銭箱の勘定なんて、俺の仕事には関係ないぜ。そんな感想が聞こえてきそうだ。

たしかに、上に述べた手順だけなら、単なる「紙幣貨幣の手作業による勘定のテクニック」を知ったに過ぎない。だが、くどいようだが、ここには二つ、大事な発見がある。なにか混合物を分けるときには
・視認性の高い(=違いを検出しやすい)異物を、優先して除外する
・多数よりも少数を、優先して除外する
が作業効率上、大事な定石なのだ。もしお好みなら、定石と言わずに『戦略』と言ってもいい。

そして、これが定石(戦略)だと気がついたら、他のいろいろな作業にも展開可能なのである。あるテクニックが、そこに留まるだけならば、それはテクニックに過ぎない。しかし、それを抽象化し、より広い別の分野に応用可能にできたら、それは「テクノロジー」(=技術)に近づくのだ。そして技術がさらに発展すれば、それを基礎づける理論も生まれてくるだろう。単なるお金の勘定が、もしかすると大規模物流センターの設計の基礎になる、かもしれない。

人的作業の集合をいかに効率化するかは、わたしのいうマネジメント・テクノロジーの典型的な問題である。しかし注意してほしいのは、この種のマネジメント問題は、「経営学」や「会計学」などとは一線を画していることだ。どちらも経営管理を専門的に扱う学問・職業である。だが、硬貨の山の前に、経営学者や公認会計士を連れてきても、上に述べたような効率化の発想ができるだろうか? わたしは疑問に思う。着眼点が違うからだ。彼らの見ているのは組織図や株価や財務諸表であり、彼らが関心を持つのは起きた事象の正確な把握や分析だ。だが、硬貨の仕分けのような少額でミクロな問題、それをどういう手順でやると早く終わるかといったスケジューリング問題には、無関心だろう。そもそもそれが10分で終わろうが、1時間かかろうが、たいした違いではない。時給800円払うとしても、せいぜい700円違うかどうかだ。彼らの関心を引くには、金額の後ろに0があと4つくらいつかないといけない。

それでも、こうした作業の一つひとつの積み重ねが、企業全体では大きな違いを生んでいるはずである。だから、マネジメント・テクノロジーの問題意識や発想を持つ会社と、そうでない会社は、結局700万円どころではない業績の差が現れる。多くの会社がなかなかトヨタに追いつけないのは、(トヨタという会社への好き嫌いは別として)こうした発想の違いが現場にあるからではないか。

マネジメント・テクノロジーへの無関心の点では、メディアなども同様かもしれない。記者やレポーター、評論家達は、目に見える「画期的な新製品」などのニュースは大好きだ。ITの花形、パッケージ商品なども、カッコいい名前がついているし、なんとなく目に見えそうな気がする。だが、多数の物を拾い出して仕分けする作業のプロセス・効率・スケジュールなどは、目に見えにくい。抽象的で、見えにくいものは、ニュースにもなりにくい。だから、わたし達の社会で、気にとめる人が少ないのだろう。

もっとも、こうした問題には、全然別の視点もあり得る。もしあなたが、紙幣貨幣の勘定という仕事を、成果に対してではなく、かかった時間に比例して時間給をもらう立場だったら、どうするだろうか。もちろん、早く終わらせようなどというモチベーションは一切働くまい。ただ淡々と、端から順に足し算していけばいい。それじゃお金のムダだろうって? じつは、お役所的な仕事では、お金は使えば使うほど良いとされている。役人の一番の手柄はたくさん予算を取ってくることだ。そして予算を取ったら、1円残さずに使い切らなければならない。もし予算が許すなら、たくさん時給を払った方がいい。もらう側だって、たくさんもらう方がいい。だから公共的な仕事では効率が低いほど、全員がハッピーになる。

最近ある人から聞いたのだが、カリブ海に浮かぶキューバという国では、社会主義のおかげで、普通の国民は全員が平等に月給約1000円だそうである。どんなに働いても、働かなくても、だ。それだったら日中は適当に働いて、定時になったらさっさと職場を出て、夕風に吹かれながらラム酒を片手に、楽器でもつま弾く方が楽しいに決まっている。あの国にメチャメチャ音楽性の高い人々が大勢いるのも、当然の結果なのかもしれない。キューバは近々米国と和解する見込みのようだが、あの国に効率重視のマネジメントの発想が流れ込んだら、どうなるのだろうか。

そして、もっとずっと東の海に浮かぶ島国の人達のことも、ずいぶんと心配ではある。きくところによると、米国と協調して、内容が非公開の通商条約を結ぼうとしているらしい。これまで、「お上」による、(ほとんど社会主義的なまでに)保護政策で守られてきた産業が、突然、無国籍競争の寒風に吹きさらしになるのである。ま、キューバ人ほど楽観性も音楽センスも高くはないが、それなりに器用で真面目な人たちばかりだから、なんとか切り抜けるつもりではあるだろう。だが、せっかくなら、もっと計画やマネジメントの技術について、自覚的になったらどうかと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-04-12 22:36 | ビジネス | Comments(0)

勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて

横浜・妙蓮寺の中華点心舗「混江龍」は、わたしのひいきにしている店である。すべてテーブル席で、7、8人で満員になってしまうような、小ぢんまりした店を、店主が一人できりもりしている。しかし食べ物はどれも驚くほど美味しい。自然な材料を、余計な人工調味料など使わずに、一つ一つ丁寧に調理して出してくれる。この店は中華なのに、珍しくメニューに麺類がない(夏など、店主が気が向くと手打ちの冷やしそばを出してくれることはある)。客は普通、昼定食とか夕定食とかをたのむ。主菜に副菜、スープと漬け物、ごはんのセットで、料理の内容はその日の季節や素材を活かしたものだ。料理の質と価格の比から見て、横浜広しといえども、(超高級料理店でとんでもないお金を払うなら別だが)勤め人が気軽にいけるクラスでは一番お値打ちの店の一つだと、わたしは思う。

ところで今、勤め人という言葉を使ったが、これで思い出すことが一つある。わたしの息子が大学に入りたてで、アルバイトを探している頃のことだった。わたしは連れ合いと二人でこの店に食べに来ていて、ふと思いついて冗談交じりに店主に提案した。せっかくこれだけの腕を持っているのだから、この店をもうちょっとだけ拡張して、せめて10人以上のお客が入れるようにしたらいかがか。その折には、給仕応対係としてウチの息子をバイトで雇っていただいて・・

すると店主は、いつものように温和な笑顔で、こう答えた。「そうですねえ、ちょっと無理じゃないでしょうか。勤め人のお子さんに、客商売は向かないんですよ。」

勤め人の子弟に客商売は向かない、といわれて、わたしはちょっと考え込んだ。わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。工場を設計して作るのが仕事だが、ある意味ではもちろん、客商売である。そしてわたし自身、勤め人の子弟なのだ。てことは、わたしは向かない仕事を長年してきたことになる。

そしたら、隣にいた連れ合いが、ぽつりと別のことを口にした。「そういえば、チェーン店とかファーストフードとかでも、都内の古い街にある店よりも、郊外のベッドタウンの店の方が、応対が良くないのよね。店員が気が利かないの。」 それは要するに、ベッドタウンで働いているアルバイトや店員のほとんどが、勤め人の子弟だからだ。そう、彼女は思ったらしい(ちなみに、連れ合いは町なかの商売の店に生まれて、小さい頃は家に住み込みの職人が大勢いたという)。

サラリーマンの子弟は客商売に向かない、というのは店主の長年の経験によるのだろう。店主ご自身も飲食経営の家に生まれ、大きな店で修行してこられた方ときく(一時は勤め人もされたらしいが)。むろん、勤め人の子弟で立派に客商売をしている人だって大勢いよう。これはまあ比較の問題であって、強いて言えば女性より男性の方が、概して背が高い、という程度の違いなのだろう。だが、わたしにとって、妙に納得感のある話だった。勤め人の子弟は、客商売において大事なところが欠けているらしい。

それにしても、なぜ、そうなのか? 気が利かないからだ、というのが彼女の説明である。では、『気が利く』とは、どういうことなのか。

ここでわたしは、アメリカの空港で見たファーストフードの店を思った。早朝、空港に着き、飛行機を待つ間に朝食をとろうと、あいている数少ない店に客が行列する。早番のレジ係はてきぱきと端から応対し、オーダーをとっては奥に伝え、伝票を客に渡して待たせる。客は伝票番号を呼ばれたらカウンターに来て、伝票とつきあわせた上で品物を受け取る。まるで工場の流れ作業だ。そしてあちこちに、オーダーが間違わないよう、順番や品物が混乱しないよう、工夫が凝らされている。実に見事だった。アメリカの企業は、どこもこうしたシステムやマニュアルを作らせたら、とてもうまい。
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アメリカは多民族国家である。どこの誰が雇われても一定の、70点のレベルで仕事ができるよう、仕組みとシステムを組み立てるのがビジネス文化である。きっと、顧客満足度調査だって、定期的に組み込まれているに違いない。だが、かりに味のことは置いておくにせよ、これは気が利いている状態なのか? そうとは言えまい。

都会のファーストフードで店員の気が利かないのは、安い賃金や、劣悪な労働環境のためだ、という説明もあるだろう。しかし、それでは、ファーストフードのアルバイトの賃金が今の倍になったら、どうだろうか。今の倍も払ったらビジネスが成り立たない、という反論がすかさず来そうだが、世の中には(どこかの国の農政を見れば分かるとおり)補助金なる仕組みも立派に存在している。経費の半分をお上が負担してくれる、というのは良くある仕組みだから、バイトの給料が倍になったら、という思考実験を妨げるものではない。そして労働環境も、労働基準監督署も満足するくらい改善したら。そうしたら、どこのチェーン店も気が利くようになるのか。「スマイル0円」以上に、顧客にうれしい店になるのか。70点が90点に上がるだろうか?

あれこれ想像してみたが、そうはなるまい、とわたしは思った。なぜなら、働いている人たちは、チェーン店の良くできた「システム」から逃れられないからだ。顧客がその店を選ぶのも、立地や価格がメインであって、満足度のためではあるまい。だから手頃な競合店が現れたらすぐ客を奪われるだろう。顧客のロイヤルティを上げたければ、店員の別の面を、つまり「気が利く」といったような面を上げる必要があるのだ。だが、どうやって?

もう一つ、思い出した事例があった。かつてあるコンサルタント会社の人と、北陸に出張したことがある。この方は一種の顧客満足度調査をいろいろやられている方で、面白いことを言った。航空会社のJ社さんの、全国の空港地上職員の応対を調べたとき、これから向かう北陸の空港だけが、図抜けて成績が良かった、という。ところで、その空港のチーム員は、社員ではなく全員が派遣会社のスタッフなのだそうだ。「じゃあ、その派遣会社が良いんですか?」「ところが違うんです。実はライバルのA社さんも、同じ派遣会社から地上職員をやとっているんのです。ですが、J社さんの方がずっと評判がいいのです。」

じっさい、わたし達二人がカウンターに近づくと、まだ数mも離れているうちから、カウンターの向こうに座った5名の女性職員全員がにっこりと立ち上がり、お辞儀をする。いやみがなく上品で、とても感じが良かった。もちろん応対も丁寧でしっかりしている。客が来たら椅子から立ち上がって、礼をする。ただ当たり前のことだが、それが自然にできると、こんなにも違うのか。わたしは同僚が自分の席に何か依頼に来るとき、いつも立って話を聞いているだろうか? 同僚は客ではないとしても、自分が横柄な人間に思えてきた。

「でも、どうして同じ会社なのに、こんなに違うんでしょうか?」わたしはたずねた。「そうですね。よく分からないのですが、一番右に立っていたチーフの個人的な資質の違いが、影響しているんじゃないかと思っています。チーム員を、よく引っ張っているんです」と、その方は答えたのだった。そういえば近くには古都・金沢がある。チーフはそこの商家の出身だろうか、などと根拠もないことを想像してみた。

気が利くという事柄の中身を、少しブレークダウンして考えてみよう。それはおそらく、四つくらいの要素から成り立っているらしい。
(1) 顧客が何を望んでいるのか、言われなくてもすぐ気づくこと
(2) どういう対応を取ったら、どうなるか先読みができること
(3) 瞬時の判断ができ、機転を利かせられること
(4) 自分に許された裁量の範囲内で、リスクを取って行動できること
これらが満たせれば、“うん、たしかに気が利いているな”と顧客にも認められるはずだ。

わたし自身のことに引きつけて考えてみると、どうも(1)と(3)に問題があるらしい。わたしは他人が何を望んでおり、どういう感情を持っているかに対して、どうも気づきが鈍感だし、おまけにクルクルと瞬時に頭が回るたちではない。だから、「優しいんだけど、思いやりがないのよね」というのが、わたしに対する批評である(たぶん、わたしの部下だったらもっと厳しい批評を言うだろうが)。

テクノロジー、技術というものは、移転可能である点に特徴がある。技術とは、ある、うまいやり方を移転可能にしたものだ。うまいやり方が個人に属していて、誰にもすぐ伝えることができない場合は、スキル(技能)と呼ばれる。ところが、電気回路の設計であれ、機械の設計であれ、誰が計算しても基本的に同じ数字が得られるというのが、科学法則に基づく技術の本質だ。

そういう意味で、仕事をきちんと部品に細分化して、それぞれを動かすための技術を整備し、全体をとりまとめるためのシステムを組み上げていく事は、仕事から属人性をなくして、一定レベルの品質を保つ上ではきわめて有効だ。だが、そのような仕組みの中で働いている人間は、どう感じるか。最終的には、自分であっても、他の誰であっても、同じ結果になるわけだから、自分がまるで交換可能な部品であるような感じがするだろう。働いている人を、部品かモノのように疎外していく状態が、今の技術やシステム化の行き着く姿なのだ。

このような職場では、基本は指示と報告で人を動かす。指示に従えば、規定通りの給料を払う。従わなければ、クビにするぞと脅すことになる(だって交換可能なのだから)。こうした人の使い方を、”Management by Fear”=「恐怖によるマネジメント」と呼ぶのだと、最近聞いた。当然ながら、働く側のモチベーションは、「言われたとおりのことをやっていればいいんだろ」という、最低の状態に留まることになる。言われたことはする。言われないことはしない。こうした勤め人であるわたし達の態度は、無意識のうちに子弟に伝わっていく。彼らにとって、上記の(1)から(4)までを発達させるインセンティブは、何もない。

もっとも、日本の企業の場合、もちろんマニュアル化もしているし、システムも作り込んでいる。だが、ある程度の部分は品質を個人個人の、属人性で担保するところが、残っている。だから、働いている人間(とくにホワイトカラー)は、そうしたシステムの隙間を自分で埋めることによって、自分が代替不可能であることの担保にしようとする。かつて、「必要な人はいつもたった一人しかいない」に書いたとおりだ。だが技術的ソリューションの進歩は、そのスキマを少しずつ確実に埋めようとしていく。

でも、職人や個人商店とその子弟は、なぜ、少しは気が利くようになるのか。そうしないと、店がつぶれるからか? ——だとしたら、結局それは「恐怖によるマネジメント」と同じ事ではないか。何か別の要因があるはずだ。

そう考えていたら、隣のテーブルのお客さんが、席を立った。「ごちそうさま。ああ、美味しかった!」といって、勘定を払っていく。店主もまた温和な笑顔になって、おつりを渡しつつ、何か声をかけている。なんとなく、ここには勘定のやりとりだけでなく、感情の交換があるな、と、シャレのようなことを考えた。美味しい食べ物を出す。食べた人はそれで、ハッピーになる。出した人もそれを感じて、ハッピーのお釣りをもらう。

そして、そこにこそ「気が利く」の本質があるのではないかと、思い至った。取引はビジネスだが、その上に感情のやりとりがある。相手が幸せになり、自分を認めてくれれば、自分もうれしい。だから、先読みやリスクテークをしてでも、相手に満足してもらえるようになりたいと思う。そうしたことが、ほとんど無意識の習慣として、身につく。それが、気が利くということではないか。それを、「倍の給料」や「恐怖のマネジメント」で人に強いることができると思うのは、愚かである。

それにしても、顧客が幸せになる姿を、直接見られる仕事は、なんてうらやましいんだろうと思った。わたしの仕事は、一つのプロジェクトが3年も4年もかかる。今、自分が設計したことが、結果になって現れるのはかなり先であり、それを使う人たちだって、今目の前にいる担当者とは別のことが多い。だから、相手の満足度がよく見えないのだ。誰かに幸せになってもらった、という実感が、とても得にくい。食べ物屋さんは、目の前の人をその場で幸せにできる。なんてすごい仕事だろうか。
(むろん、これは勤め人のセンチメントであり「隣の芝生」であることは分かっている。自営業者から見れば、休暇を取っても給料の出る勤め人が、とても楽に見えるに違いない)

企業というのは、仕事の質が70点あればビジネスとして成り立ちうるし、75点もあれば、大企業に成長できるかもしれない。だが、顧客ロイヤルティの高い、イノベーティブな企業になるのは、75点では無理だ。おそらく85点か90点くらいのパフォーマンスが、コンスタントに出なければいけないのだ。ところが、マニュアルだとか、システムだとか、そういった技術的なソリューション、テクニカルな方策だけでは、どうしても破れない壁がありそうだ。その壁は、働いている人間の感情面、もう少し言えば、自尊感情と同僚や顧客へのリスペクトから来ているのではないだろうか。そして働く人間の自尊感情は、基本的に「他者による認知」=ありがとうという感情、から来るのだ。そして大組織で直接顧客と接しない立場でも、自分の下流側部門、あるいは自分が支援する対象部門が、自分たちにとっての「顧客」である。

わたし達の仕事をさらにもっと良くしたければ、もう少し感情のやりとりに、注意を向ける必要があるのだ。対人的に鈍感な自分にとって、それこそが必要なトレーニングなのだろう。いや、まず手始めは家族に対してかもしれない。・・お皿に残った美味しい点心風デザートを平らげながら、わたしはこっそり、そう思った。


<関連エントリ>
 →「アメリカン航空に乗るおじさんの日記 - サービス業の本質とリスクについて」/(2014-03-30)
 →「R先生との対話 — 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か」 (2015-02-01)
by Tomoichi_Sato | 2015-03-11 07:33 | ビジネス | Comments(0)

わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか?

小学校4年生の時のこと。ある日、食卓の上に、大きくて重たい箱形の見慣れぬモノがあり、それを前にした父が、「これからはこれで英会話を勉強するように」と、おごそかにわたしに告げた。器械は特殊なマルチトラックのテープレコーダーで、幅広の、今にして思えば1インチ幅の茶色いテープをかけて使うようになっていた。東京エデュケーショナルセンター(TEC)、別名「ラボ」の英会話自習用の装置だった。勤め人にとって決して安い買い物ではない。父は最初のレッスンの冒頭10分くらいをかけ、わたしが使えて、ついて行けるのを確かめた。そして、1レッスン約15分、毎日きくように命じた。

わたしは当時まだ素直な子どもだったし、父もこわかったので、一応命じられたとおりほぼ毎日その器械に向かった。ナレーターが、簡単なストーリーや説明をした上で、短い文章を発音し、聞き手がその後について自分でも声に出してみる。そういう作りだった。後半になると他の声優も登場して、多少会話風になる。耳で聞いて、自分で発音する。それを録音することができて、自分で聞き比べることができる。徹頭徹尾、音声的なトレーニングだった。テキストもついていたが、ほとんどが絵で、あまり英語の文章は書いてなかったような気がする。英語はまず第一に『音声言語』である。そういう原則の下に作られているのだった。

テキストの巻末の小さい文字の所を見ると、制作者の名前のクレジットが並んでおり、その中に「テディ片岡(片岡義男)」という名前があったのを記憶している。日系移民の子で、文化的にはアメリカ人だが、日本で生活することを選んだ彼は、若い頃こういう仕事を手伝っていたのだ。

数ヶ月経って、ある親戚の集まりに呼ばれて父と一緒に参加した。皆が談笑する中で、どういう文脈だったのか父がわたしを呼び寄せ、“ガールって言ってみな”と命じた。わたしはGirlを発音した。すると近くにいた親戚の男性達が驚いた表情になった。父は、自分がブロークンな英語しかしゃべれず、仕事でいかに苦労しているかを機嫌良く話した。そして「これからは英語とコンピュータを若いうちに身につけることが大事だ」と力説した。

英語とコンピュータ。たしかに、今のわたしは、そのどちらにも深く関係する仕事をしている。まことに慧眼だったのだろう。だが、そのどちらも、決して自分がプロだとはいまだ思えない。なぜだろう。

ちなみにその少し後、たしか6年生の頃だったと思うが、父はわたしにFORTRANの本を与え、読んで勉強するようにといった。目の前に端末もPCも何もないのに、言語を学ぶのは今考えてみれば至難の業だ。だが、そういう時代だったのだ(当時、父の会社が導入した最新鋭の電子計算機がそなえていた主記憶は、32kバイトだった)。

なぜ、わたし(達)は英語がヘタなのか? そういう話を書こうとしている。自分の英語はネイティブ並みである——そう思う読者は、読み飛ばしていただいてかまわない。だが、そうでない人が、わたしを含めて圧倒的多数だろうと思う。

ヘタと言っても、あえてここでは発音とリスニングの話題は飛ばすことにする。それは巷に数多くいるネイティブの英語教師達に任せよう。これは一種の身体訓練である。反射神経レベルの、スポーツ訓練に似ている。たしかに、子どもの頃から訓練すれば、多少は身につきやすい(だからといって、わたしは幼児に英語を教えるのは反対である。この話は後で書く)。大人になっても、繰り返しトレーニングすることで、確実に上達する。

しかし、たとえRやLの発音が滑らかでも、それだけでは英語として致命的に失格となる会話を、いくらでもしゃべれてしまうのだ。それはたとえば、複数と単数の区別である。

単数と複数の区別は、いつも悩ましい。ある事物を主語や目的語として思い浮かべる際に、それが単数なのか複数なのかを、会話では瞬時に、無意識に、自動的に決めなくてはならない。それがずれていると、英語として、なんだかおかしい。"There are many problems." というべきときに、"There is some problem."とか、つい言いたくなってしまう。言ってから、(しまった)と思う。"I have laptop PC."とか、言いそうになる。だが、"I have a laptop PC.”か、"I have laptop PC’s."か、どちらかなのだ。

ある事物が数えられるモノなのか、数えられないモノかのか、の区別も、とても難しい。プラントの業界では機器 equipment という語を多用する。ところで、このequipmentというい名詞は、おかしなことにuncountable、すなわち数を数えられない名詞なのだ。だから、"many equipments"などと言ったら間違いである。言いたければ、"many pieces of equipment"と言わなければいけない。もちろん、"many equipments”でも、相手のネイティブは意味を分かってくれる。だが、それと同時に、“こいつはまともな英語も知らない、学のない奴なんだな”という印象もインプットされてしまう。

いや、equipmentが不可算名詞なのが「おかしい」とうっかり書いたが、それは日本人の感覚である。Equipmentは元々、equip(装備する)という動詞の名詞形なのだ。Embellishment(装飾)などの仲間である。だから一々、数えられないというのが、本来の英語感覚なのである。

単数複数の例をもう一つあげよう。Dataという語である。英語では、countableな名詞にはmanyを、uncountableなものにはmuchをつけるのがルールだ。ではデータが多数あるとき、それはmany dataというのが正しいのか、much dataが正しいのか? 答えは、おかしなことに、「場合による」である。そもそも、”data”という語は、それ自体が複数形だ。単数形は”datum"というのだが、今日では一部の分野を除き、この単数形を用いるケースは少ない。

しかし、ここまでひねくれた例でなくても、"a pen"なのか”pens"なのか、"a boy"なのか”boys”なのか、その峻別が要求されるのが英語(のみならず印欧語系)の特徴である。これに対して、われらが日本語は、無理に語尾に「たち」などとつけない限り、単複を区別しないのが基本である。

この理由について、かつて岩谷宏は「ぼくらに英語が分からない本当の理由」の中で、

「英語の名詞はを指示する。日本語の名詞は、事(コト)の指示詞である」

と喝破した。だから英語では”I am a boy.”と言わなければならないのに、日本語では「ぼくは少年です」で立派に通用する。日本語では、ぼくは「少年であるという事態・事象」を表しているのであり、それ自体は数えてみる意味がないからだ。岩谷宏という人には賛同できない主張も多いが、これはとても優れた洞察だったと思う。

もう一つ、よくやる間違いを書こう。それは現在と過去と未来の区別(をしないこと)である。わたしが以前、海外プロジェクトで部下の書く英文をチェックしていたとき、最も多かったのが、この問題の修正であった。過去形や完了形で書くべき事態を、現在形で書いてしまう。未来形で意思を示すべきことを、現在形で書いてしまう。同胞の英語を聞いていても、しばしばこの種の問題につきあたる。相手は、よくきいていれば文脈で理解できるだろう。だがひどく不思議に違いない。

これは、日本語に時制tenseがないからである。といえば、「柿を食った」と「柿を食う」と「柿を食うだろう」の違いがあるじゃないかと、反論されるだろう。しかし、わたしに言わせると、この違いは時制を表すのではなく、「その事態がどれほど確定してしまったか」の違いを表すだけなのである。「食った」は確定した事態を表す。「食う」は事態への意思の表明を、「食うだろう」は不確実な事態の推定を表すだけで、時間的要素は必ずしも付随していない。未来形が「だろう」(推測)でしか表現できない点に、注意して欲しい。ちなみに確定度合いがより深刻で、もうとりかえしのつかない事態を示すときには、「食ってしまった」と表現する。これも過去完了とは、何の関係もない。

頭の中ではこういう世界のモデリング構造をしていて、それを時制にマッピングしようとするから、混乱が生じるのだ。嘘だと思うなら、英語の未来完了形”will have done"をどう訳するか、考えてみてほしい。ついでにいうと、ある初等英語教科書には、"I am studying English everyday."という例文があったようだが、これなど無理にtenseをつけた日本人英語の典型だろう(ふつうの英語感覚なら"I study English everyday.”)

助動詞haveのかわりにbe動詞を使ってしまう、というのも会話の中ではよく耳にする間違いだ。ついうっかり、"We are changed to -“などとやってしまい、あ、これじゃ受動態になってしまう、”We have changed”と言い直したりする。もう少し耳障りなものだと、会話の中で主語に”is"をしょっちゅうつける人々がいる。考えながら話すのだが、まず”This machine is, ah,“と、宙に放り投げてから、”change the temperature.”と着地する。Isは余計なのだが、本人は意識していない。

なぜ、こういうしゃべり方が生まれるのか? わたしの想像だが、「~は」という主格を表す格助詞の代わりに、be動詞がでてきてしまうらしい。「この機械は、えー」とはじめる。その時、無意識に”is"が出てくる。「温度を変えるんです」で後半がまとまる。日本語は、指示対象を次々にスタックに置いておき、最後に操作詞で全体をまとめる「逆ポーランド型」の表現形式になっているから、最初に何かを言っておくのは、ごく自然なことである。英語がS+V+O構造なのは、皆ももちろん知っている。だが、”This machine..”のままで宙に放り投げておくことは、日本語話者にはなんだか不安定に思えるのだろう。

ほかにも、事実と意見の区別とか、正確さと曖昧さの使い分けの問題とか、最初に大事なことから話す態度とか、英語らしい表現の方法についてはいろいろ論点があるが、長くなってきたので、ここでは詳しく述べないで、一例を挙げるにとどめよう。

たとえば、これはあるセミナーの英語による案内文の一部である:
It is no wonder that the business operations of corporations are global nowadays; therefore, the number of global programs and global projects keeps increasing. Given this backdrop, the need for leaders who can well manage global programs and global projects is a critical consideration because such highly performing leaders have been scarce until now.
文法も語法も、きちんとして正しい。だが全体として、ちっとも英語らしくない。きっと元は日本語の文章で、それを翻訳したものだと想像される。

「企業の事業活動が昨今グローバル化しているのは当然の成り行きであり、したがって、グローバルなプログラムやプロジェクトも増えています。このような背景から・・」 日本語ならば、案内文をこうした一種の枕詞ではじめるのは普通なことだ。だが、英語ではまず大事な本論に入り、背景はあとで説明するのが、キビキビしたビジネス表現である。文章は短く、同じ名詞は繰り返さずに言い替える。多いとか増えているとか言うときには極力、数字を例示する。だから、単に日本語を英訳しただけでは十分ではないのだ。(誤解しないで欲しいのだが、これを作成した人を批判しようという意図はない。わたし自身も陥りがちな英文の例として、引用したまでである)

つまり、わたし(たち)日本語を母語とする話者にとって英語の最大の難関は、世界のモデリング構造と表現手順自体の違いにあるのだということを、いいたいのである。すなわち、異文化の理解である。では、どうしたらいいのか。

以前も書いたことだが、何らかのスキルを身につけるには、(1)良い先生か手本を見つける (2)原理原則を学ぶ (3)繰り返し、繰り返し練習する、の3つが必須である。ネイティブの先生は、幸い世にあふれている。繰り返し練習は、自分の側の問題だ。だからカギになるのは、「英語の世界観という異文化のシステム」に関する原則を解明し、身につけることなのだ。このためには、一種の文化人類学的なセンスが必要になる。なんだか大げさな話をしているみたいだが、日英両側の文化を深く知った人の書いた言語論を読むのが一番だと、わたしは思う。それはたとえば、上にあげた片岡義男の日本語論(「日本語の外へ (角川文庫)」)だとか、あるいは以前書評に取り上げた中津燎子の英語論と言った書籍である。

また逆に言うと、本当は使用言語の違いは表層でしかない。OSIの7層モデルではないが、最大の違いは深層にある。だから訓練のためには、日本語でまず英語的な思考表現を訓練するのでも、十分役に立つだろう。

そして発音について言えば、べつにカタカナ英語でいい、というのがわたしの意見である。妙に巻き舌のRが強調されたりするのは、かえって聞きづらい。日本語の「ラリルレロ」でいい。

それよりも、一番の課題は、「自分と他人の区別」=相手の立場になって、メッセージを選び伝える態度を身につける、ということだろう(日本文化ではこの発想がそもそも薄い)。そのためには、きちんとした思考能力と、その前提となる自分自身の言語の定立がいる。父がわたしの目の前に英語教育の器械を置いたのは、10歳の時だった。その頃までには、母語は確立する。だから、ベスト・タイミングだったのだと思う。その点については、亡き父に感謝している。もっと前の幼児期だと、まだ言語感覚自体ができあがっていなかったはずだ。

体ができていない幼児にスポーツの本格的トレーニングはさせられないように、英語(日本語とは非常に異なる言語)を無理に覚えさせるのは、あまり有益には思えない。まして一緒に暮らす親の側に、英語の世界観が定立されていなければ、いっそう困難である。それは、コンピュータもなしに、コンピュータ言語を覚えさせるようなものだからだ。だからわたしは、ちっともプログラミングができないまま、プロジェクト・マネジメントばかり考える道へと旋回していったのである。


<関連エントリ>
 →「『英語』の向こう側」(2010-01-15)
 →「書評:『英語と運命』 中津燎子・著」(2014-06-08)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-23 21:52 | ビジネス | Comments(0)