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論理的だが、システマティックでない人

「考えるヒント」 2003/04/18 より)

私はシステム・アナリストです、と自分の仕事を紹介することが多い。アナリストという言葉を知らない人もいるから、私はシステム・エンジニアです、と言うこともある。両者は別物なのだが、それで相手はなんとなく分かった気になってくれるらしい。

そして、おきまりのように二つの質問をされる:「コンピュータのことにお詳しいんでしょう?」と、「システム関係のお仕事の人は、論理的でシステマティックな考え方を身につけておられるんでしょうね」と。

私の答えは、じつはどちらもNOである。率直にそう答えると、たいてい相手は落胆するか怪訝な顔になる。そこには、世間の人が抱いている『システム的』なるものへの偏ったイメージ、ないしは大いなる誤解が隠されているのだろう。

まず最初の質問の方だが、私はたいしてコンピュータに詳しくない。平均的な人より多少は知っているかもしれないが、アナリストの仕事の大半は、人間が何を望み何を必要としているかを考えることにあるので、計算機については一通りのことを理解しておけば済む。

しかし、システム=コンピュータ、という誤解は根強い(このサイトを読んでくれるような方ならば、こんな単純な等式は信じないだろうが)。そこで、私はよく「キャバレーの“明朗会計システム”にはコンピュータはいりませんよね」と説明することにしている。この“システム”の用語の使い方は、まったく正当なものだ。「うちの在庫管理方式はダブルビン・システムです」といって説明するのと本質的に等価である。

では、二つ目の質問はどうか? これも嘘だ。私の知っているかぎり、IT業界には、論理的だがシステマティックにものごとを考えない人たちが、沢山いる。そして、コンピュータが大好きで技術に詳しい人ほど、その傾向が強い。

システマティックな思考方法とは何か? 私自身はまだよく分からない。よく分からないから、「私はシステム思考を身につけています」などとは口が裂けても言わないことにしている。しかし、システマティックに仕事にアプローチする人々は、数多く見てきた(とくに外国で)。たとえば、「パンのみに生きるにあらず」で紹介した米国人コンサルタントだ。“この会社のミッション(使命)は何か? では、それを実現するための戦略は何と何があるのか? ならば、その戦略の実効性を計る指標KPIはどれとどれを選ぶべきか?”・・と、最終目標から手段が展開されていく。こういうのを見ていると、たしかに論理的でシステマティックなアプローチだな、と率直に感心する。

ところが、IT技術者と話していると、なかなかそうはいかない。「生産管理システムのサーバ機種ですが。」彼らの議論は、こんな風にはじまる。「私の考えでは、このトランザクション量から考えると、やはり2CPUクラスのunixマシンでしょうね。最近はLinuxベースでも安価で信頼性の高いものが出てきたから・・」と、どんどん続いていく。

なるほど、ロジカルだ。だが、彼らの思考はちっともシステマティックではない。生産管理システムを作るとしたら、従来の仕事のやり方の変革、元になる部品表や在庫データの精度、サプライヤーとの関係などなど、重要な問題は他にいくらでもある。それなのに、なぜ今サーバ機種の話なのか?

こういう人たちの特徴は、目的に比して道具に対するこだわりがアンバランスに大きいことである。全体の中の一要素(コンピュータ)だけ注目する。つまり、木を見て森を見ないのだ。

いや、コンピュータ・マニアに限らない。カー・マニアでも兵器マニアでも、何とかオタクと呼ばれる人たちは、たいていそうだ。目的を忘れて道具にのめり込む、それがこの人達の特徴だ。(念のため言っておくが、これは日本人ばかりではない。欧米にもそういう文化的傾向を持つ人はいくらでもいる)

そして、彼らとの論議には、細心の注意が必要になる。なぜなら、彼らはとても論理的だからだ。そしていろんな物をよく知っている。ただ、目的から逆算して、ことの軽重を計ることをしないのだ。部品に注目するオタクの議論にまきこまれないためには、つねにシステム全体を見渡して、大事な要素から展開するという考え方に戻す必要がある。「本当にそこのサーバの性能がプロジェクト全体のボトルネックになりますか?」

道具からの発想か、目的からの発想か。そこを忘れて、論理的な局地戦にまきこまれないよう、注意しよう。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-26 23:49 | ビジネス | Comments(0)

製造は代替可能か

もう10年以上も昔の話だから書いてもいいと思うが、米国Apple Computer社が、初の軽量ノート型Macintosh PowerBook 100を発売したとき、実際の製造は日本のSONYが請け負っていた。

そのころ技術者から聞いたのだが、SONYは小型化・軽量化の見地から、Appleの設計部門が出してきた設計図に対し、改良提案をいろいろと出した。しかし、Appleはそれをことごとく却下し、「自分たちの設計どおりに作れ」というスタンスを曲げなかったという。いかにも米国流のエンジニアの態度ではある。つまり製造は設計の下僕である、らしい。いやなら、ソニーではなく別の安価な受託製造会社に作らせれば良いのだ。事実、AppleとSONYのMacでの関係は、PowerBook 100だけで終わった。

ある意味で似たような経験が、じつは私にもないではない。米国企業のプラント建設の仕事を請け負ったときの体験だ。当初の合意では、「バリュー・エンジニアリング」による節約の利益は、顧客と我々エンジニアリング会社が半々でシェアすることになっていた。だから我々は最初、いろいろとアイデアを提案したのだ。しかし、客先と結んだ契約書には事細かに基本設計の仕様が定められており、その中には顧客の膨大な技術標準も含まれていた。れを遵守しないと二重三重のペナルティが課せられることになっていた。

我々の提案のうち、材料や設計を軽減する案は、契約を盾にことごとく退けられた。そして少し余分な設備投資をして、運転費用を軽減する案も、結局当初予算を守るという金科玉条のもとに退けられるのだった。とにかく、彼らの決めた基本設計と技術標準を逸脱することは、決して許さないのだ。計算で根拠を示して「これでも大丈夫でしょ?」と説明しても、『契約書では』の一言につねに舞い戻る。相手との対話はエンジニア同士の会話と言うより、弁護士と話しているみたいに思えた。

どんな基本設計でも完全というものはない。われわれが詳細設計に着手する中で、矛盾に気づいたり、より経済的な案を思いつくことはいくらでもある。それがエンジニアリング会社の価値だ。そのときまで、私はそう信じていた。それなら、なぜ、改善提案を受入れないのか。それは、彼らが「詳細設計以降、調達や建設工事は力仕事であって、誰でも出きるはずのことだ」と信じ切っているからなのだった。もっと言うと、請負エンジニアリング会社が基本設計から逸脱すると、彼らスタッフ自体が評価で罰せられるのだ。

私は、エンジニアリング会社は良い下僕であるし、あるべきだと思っている。少なくとも、海外市場における石油ガス分野においては。この分野ではすでに基本設計と、詳細設計・調達・建設(頭文字をとってEPCと略称する)は分割されている。基本設計完了後は、EPCは原則として入札にかけられる。入札すると言うことは、つまり「誰がやっても同じ(代替可能だから、一番安い下僕を選ぶ」という意味なのだ。代替可能なものは、相応の値段だけで決まる。そこには、本質的な付加価値はない。

同じようなことを、米国の企業は、工場についても考えているらしい。製造は誰がやっても同じだから、安い海外企業に受託生産させる。「誰がやっても同じ」とは、言いかえれば「設計こそ価値の源泉なのだから、そこはいじらせない」という意味だ。ちょうどAppleがPowerBookについて実行したように。その結果として、米国の製造業は空洞化し、もはや、もぬけの殻の状態に近づいている。

その同じ道を歩いているのが日本だ。そうでなければ、あの「中国生産移転ラッシュ」は何だろうか。製造機能は代替可能だから、人件費の安い海外にシフトすればいいと、本社にいる頭のいい人達がみな信じた結果ではなかったか。

ところで、本当に製造は代替可能な仕事なのだろうか。そこには何の付加価値もないのだろうか。

技術の本質は、誰がやっても同じ結果になるようなプロセスを作りあげることにある。そういう意味では、日本の製造技術のレベルがきわめて高くなったために、代替可能性が高まったのだと、言えなくはない。だとしたら、日本の生産技術者達は、明らかに自分たちが不要になるように、一所懸命に努力をしてきたことになる。

だが、製造作業自体はともかく、生産マネジメントも代替可能だろうか。「製品という名のシステム、工場という名のシステム」でも書いたとおり、工場とは一個のシステムである。システムは、動的特性が身上である。工場が未来永劫、同じ製品を作りつづければいいのなら、そこには何の「改良」の余地もない。しかし、現実は、製品も変わり、原材料も変わり、環境も法規制もかわり続ける。その中で、真に適応能力を出せるかどうか、それが工場システムの動的特性の一番大切な部分だ。

たとえば、あのトヨタが自動車の製造を単に外部の工場に委託して、自分はファブレス・メーカーになることがありうるか、ちょっと想像してみるといい。「トヨタ生産方式」の生み出した原価低減の魔術を捨てて、ただ人件費の安いだけの会社に生産移転するかどうか。賭けてもいいが、彼らは決して製造が代替可能だとは思っていないに違いない。

もっとも、トヨタ自動車は生産企画部出身の社長が出る、数少ない会社だ。日本の製造業では例外的に珍しいといってもいい。ウソだと思うなら、あなたの会社の役員に、生産管理出身の重役が何人いるか数えて見ると良い。営業畑や財務や研究開発など、生産現場を知らない役員から見たら、工場は代替可能にみえても不思議ではない。

昨今、製造業の「日本回帰」が見られはじめているという。海外生産の失敗には、いくつか教訓があるはずだ。その中の一つが、「製造にも大事な価値がある」という教訓であることを、私は心から願っている。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-12 23:27 | ビジネス | Comments(0)

設計の価値

最初に、ブルネレスキのことからはじめよう。日本ではほとんど名前を知られていないが、初期のイタリア・ルネッサンスを代表する人物の一人だ。フィレンツェに旅行に行く人が必ず目にする、花の聖マリア大聖堂の半球形ドームは、彼が作った。



「彼が作った」という言葉を、私は意図して使っている。彼は設計しただけでなく、建設工事の責任者でもあったのだ。つまり今風に言えばプロジェクト・マネージャである。彼は石の積み方にも工夫をこらしたし、二重ドームの間に作業者が立って歩けるスペースを確保する設計にした。施工しやすい設計をしたわけだ。職人のストライキにも見事に対処した。

彼が設計者・兼・建設責任者だったことは特筆して良い。日光東照宮の左甚五郎の立場と同じである。設計者が実作も行う。それは近世以前はあたりまえのことであった。たとえばミケランジェロ作の彫刻が、じつは彼のデッサンをもとに弟子が好きに刻んだものだったとしたら、あなたは怒らないだろうか。少なくともフィレンツェ市評議会は許さなかっただろう。

設計者と施工者が分離してくるのは、近代イギリス以降のことである。産業革命以降の建築需要の増大にしたがって、設計と建設の分業が発達する。設計兼建設という大工の親方制度では、まかないきれなくなったのだろう。それは、音楽の世界で作曲家と演奏者が分業してくる時期と、妙に一致している。市民社会の勃興、聴衆の増大が、それを要求したのだ。大量生産はつねに分業を要求する。

しかし、それとともに劣悪な建築や手抜き工事が横行しはじめる。そこで設計と施工を兼任できないよう分離させ、しかも設計者に施工が図面の指示通りかチェックさせる制度が成立する。第三者によるチェックは、簡単には人を信じない「紳士の国」の性悪説文化が産み出したものだ。

建築設計書の構造計算を偽造して、鉄筋・鉄骨量を削減した建物の問題が、このところ世の中をゆさぶっている。恐ろしい話だ。しかし、設計に反した手抜き施工だったのではなく、設計自体に問題があった。設計施工分離では防げなかった所に、根の深さがある。もっとも、この国の建設行政はすべて性善説に立って運用されているようだから、氷山の一角にすぎないのかもしれない。

偽造した建築士が何を考えていたのかは、分からない。しかし、たいていの建築設計者が考えていることは、私には想像がつく。それは、「設計は建設工事の下請けじゃないはずなのに!」という怒りだ。建設業界には『設計協力』なる言葉がある。簡単にいうと、詳細設計などの力仕事の部分を、建設工事を受注する(予定の)ゼネコンが手伝うことだ。設計・施工分離の原則は、こっそり無視される。施工監理など看板だけになる。

ゼネコンによる設計協力の慣行が成立する理由は、建築設計の仕事が、通常の設計費だけでは安すぎて割に合わないからだ。一方、建設工事を請負う業者側は、設計に人を出しても利益を出せる。だから、建前はどうあれ、力関係は、
 ゼネコン>設計事務所
になる。こうして、設計が施工者の都合によってねじ曲げられる下地がつくられていく。

この国では(そして私の知っているたいていの国で)、モノにはお金を払うが、設計という知恵にはお金を払わない。いわば「実物経済」である。こうした実物経済主義は、最終的には設計の品質低下をまねくのだ。耐震強度偽装問題は、その象徴である。

そして、問題はマンション・ホテル建築の世界だけで起きてるわけではない。あらゆる「製品」という名前のモノに、それは起こり得るのだ。数値的性能はすばらしく、見た目もまあそれなりだが、全体に使いにくく、妙にこわれやすい商品を、私はいくらでも知っている。設計に個性のない製品だから、価格だけが勝負になる。その結果、韓国製や中国製にどんどん負けて行く。これこそ、「ものづくり大国」日本が、設計の価値を軽視してきたツケなのだ。

誤解しないでいただきたいのだが、私は設計者と製作(施工)者の役割は対等だと思っている。往々にして、
 建築家>建設業者
のような主張をしたがる人がいるが、私は組みしない。設計も重要だし、建設のプロジェクト・マネジメントも重要だ。ブルネレスキの例を思い出して欲しい。彼は両方を兼ねていて、だから彼の仕事は偉大なのだ。

拙著「BOM/部品表入門」の中で、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の分離背反の問題を描くため、あえて私は、ちょっといやみな設計技術者を登場させた。彼は「製品開発こそ会社のコア・コンピテンシーだ」というような、エリート意識の強い発言をする。そして本社にいて、製造の実際を知ろうとしない(これは戯画なので、この節を読んで気をわるくされた設計技術者の方がいらしたら、陳謝したい)。しかし、設計と製作が分離してしまうと、製作現場での知見や知恵が設計にフィードバックされなくなる。設計が一人よがりになる。これは決して望ましいことではない。

私が理想と考えるのは、設計と製造、設計と施工、設計と実装が、「統合」された世界である。設計の知恵と実作の知恵は性質が違うが、たがいに補い合える関係にある。たとえ組織上は区切られていても、両者がともに協力できる仕組み。その中でこそ、設計の価値も経済で認められると思うのだ。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-01 12:10 | ビジネス | Comments(0)

製品という名のシステム、工場という名のシステム

工業製品を、その成り立ちに応じて「モジュール型」「すりあわせ型」に分類したのは、『能力構築競争』などの著書で知られる東大経済学部の藤本教授だと言われている。工業製品の種類や範疇は無数にあるが、それを経産省工業統計のような品種別の縦割り分類で考えずに、BOM(部品表)の構造上の特徴にしたがって位置づけをして見せた着眼は見事である。ほとんど構造主義的発想と言ってもいい。

「モジュール型」と「すりあわせ型」の違いは、部品を組み合わせて製品を作っていく際の設計の違いにある。前者は、部品群を単機能的な小単位(モジュール)に作り上げ、そのモジュールを組み上げて製品を作る。それに対して後者は、多数の部品を精密に組み合わせて製品を作る。モジュール型の製品においては、モジュール同士の間の界面はある程度、標準化されて決まっており、相手がどこのサプライヤーのどの製品であっても、組み合わさって機能する。これに対して、すりあわせ型の製品においては、部品はそれぞれ当該製品専用に作られており(言いかえれば個性を持っている)、組み合ってきちんと働く相手は決まっている。

PCなどはモジュール型製品の典型である。ディスプレイ、キーボード、CPU、マザーボード、HDD等々はモジュール化されており、それぞれ業界標準のインタフェースに従って接合できる。だからマルチベンダー化がたやすくできる。これに対して自動車はすりあわせ型の典型であって、フィットのボディにカローラのエンジンを載せたりすることは絶対にできない。

これをシステム・エンジニア的な視点で見れば、モジュール型の製品は疎結合のシステムであり、他方、すりあわせ型は密結合のシステムである、と考えることもできる。すると、両者の長所と短所もおのずから想像できよう。密結合のすりあわせ型システムは、効率は高いが、改良・改善となると手をつけなければならない範囲が広く、保守はメーカーに頼らざるを得ない。これに対して、疎結合のモジュール型システムでは、オープンな仕様でモジュールを選べるから、価格的には安くできる可能性が高い。しかし、組合せの不整合(相性)のリスクがあるし、効率は多少落ちることになる。それぞれの産業がどちらの方向に行くかは、市場特性や製品の発展史などで変わり、どちらかが絶対的によいわけではない。

ところで、私のように製品を「システム」として捉える考え方は、あまり多くの人はしないようだ。たいていの人々は「システム」というと、コンピュータかソフトウェアか、あるいはコンピュータを内蔵したインテリジェントな機械類だけを想像するらしい。今どき、冷蔵庫だって炊飯器だってマイコン内蔵だが、“うちのシステムからビール出してよ”と頼んでいる人はたしかに滅多にいない。“今日のシステムはいい味がするなあ”とつぶやきながらご飯を盛る人も少ないかもしれぬ。

しかし、複数の異なる機能を持つ要素を組み合わせて、特定の意図した機能を全体で実現する仕組みのことを、本来は「システム」と呼ぶのだ。そこには別にコンピュータが介在しようとしまいと関係がない。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関には、機関の回転数を一定にするための巧妙な弁の仕組みも内蔵されており、安定制御のためのフィードバックが行えるようになっていた。文句なしに立派なシステムである。

システムというものの特徴は、要素だけをぽんぽんと並べても、全体の機能や性能を達成できないことである。この点が、少々、普通の実物経済の思考回路をはみ出す点だ。1+1+1で3ではなく5の価値を生み出そう、というのがシステムである。よく、製品の値段交渉のときに、部品の原価に立ち戻ってあれこれいう購買部門の人がいるが、それだったらあんた、自分で最適な部品の組合せ方を見繕ってみないさいよ、という気になる。そうした「システム設計」の知恵と、組合せで正しく動く「統合」のリスク低減に、価値を認めるべきなのだ。

システムのもう一つの特徴は、使い手の使い方と、環境条件によって、パフォーマンスが異なる点だ。自動車を、高速で飛ばすのか、町中でちょこちょこ動かすのかでは、平均速度も燃費も違う。無論、適した車種も異なる。これはシステムというものが単機能でない以上、当然のことだと思う。しかしこの点も、よく見逃されているようだ。

そして、実は「工場」というものも『システム』なのだ。そんなこと、どの生産工学の教科書にも書いていないが(少なくとも私は見たことがない)。工場もまた、複数の異なる機能の生産資源を組み合わせて、いろいろな製品の産出という機能を全体で実現するための仕組みである。始末に負えないことに、生産資源の中には“人間”という、えらく気むずかしくて再現性のわるい、モジュール化しにくい要素もある。環境も、使い方(生産方針・生産計画)もいろいろと変わる。

そして、工場というものがシステムである以上、それを構成するためのシステム・エンジニアという職種と、それを支える工場作りのシステム工学がなければいけないはずなのだ。何をどう流し、どう集積し、どこでボトルネックを緩和するのか。それが上手にできている工場と、単にモノを並べただけの工場では、同じ製品を作っても、生産性には雲泥の差が出る。こうしたことを、「日本帰りの進みつつある」製造業の人々に、もう一度よく考えてみて欲しいと私は願っている。
by Tomoichi_Sato | 2005-11-14 21:18 | ビジネス | Comments(0)

工場の性能とは何か

エンジニアリング会社で工場作りの仕事に従事していると、ときどき、工場の生産能力というものに関する、奇妙な誤解に遭遇することがある。ご承知の通りエンジニアリング会社というのは、顧客のために、顧客に成り代わって工場を設計し、実現する仕事を請け負う。ある意味では、製造業における生産技術部門、あるいは工務部門のアウトソーシング先だから、しばしば顧客の新製品づくり、あるいは新製造プロセスづくりのプロジェクトに協力することになる。

エンジニアリングは具体的なモノを売っているわけではなく、あくまで工場の設計・調達・プロジェクト管理能力などの、目に見えない『能力』を商品として売る行為だ。当然ながら、仕事の成果について、どれほどの実力があるのかが問われることになる。もっと具体的に言えば、「はたして新工場は必要な量だけ製品を作る能力を持っているのか」が問題になる。これを工場の性能保証と呼ぶ。

プロセス産業の世界では、しばしば製造プロセスの特許技術を海外先進企業から有償で導入することがある。たとえば、いまや世界の主要な産油国はあらそってLNGプラントを作っているが、その中核となる深冷熱交換器とガスタービンは、事実上、米国企業が技術を握っている。LNGプロセスの性能(生産能力)が年産300万トンの計画だとすると、エンジニアリング会社は、その性能保証を求められる。その保証の根本は、中核となる深冷熱交換技術のライセンサーに依存することになる。

ところで、LNGプラントというのは、ある意味で極めて特殊な工場で、そこで生産する製品はLNG1種類しかない。単品大量生産の工場なのである。それでは、多品種少量を志向した工場(つまり、現在では殆どの工場)では、生産能力は保証できるのだろうか。そもそも、多品種少量生産工場では、何を「生産能力」として定義するのだろうか。

意外にも、この問題は生産工学の教科書などを見ても、あまり書いていない。“明白すぎる”と思われているのかも知らないが、私にはそれほど自明なこととは思えない。連続生産の化学工場ならば、たしかに化学工学が計算式を教えてくれるが、ちょっとでもバッチ操作や切替が介在すると、話は簡単ではなくなる。まして機械組立加工や、食品・医薬品その他のディスクリートの世界では、どう定義すべきなのか。

私の答えは、こうだ。工場は生産資源の集合である。そこで、もし、ある製品が原材料から最終完成型になるまでに、1個当たり平均τ時間だけ、生産資源を占有すると仮定しよう。工場内の生産資源の総量をCとする。すると、この工場がその製品だけを製造した場合、その生産能力Pは、

 P=C/τ (個/時間)

となるはずだ。この式は、生産能力は製造資源の量(たとえば加工ラインの数)に比例し、純粋な製造リードタイムに反比例することを教えている。もっとも、正確には、工場の始業・終業の効果を計算に入れなければならないが、ここでは省く。

では、複数の製品が流れるときはどうなるのか。品種間の段取替え時間を無視すれば、製品iがτiづつ製造資源を占有すると考え、積和を計算することができる。

 C=ΣPiτi

この式をよく見れば分かるとおり、工場全体の生産能力(ΣPi)というのは、どの製品をどれだけの割合で作るかによって変わってしまう。リードタイムの長い製品の割合が多ければ、能力は全体として下がるし、その逆も真なりだ。まして、品種切替の段取り時間は、現実には決して無視し得ない。

ということは、複数品種を生産する工場の「総合性能」は、生産計画に依存するわけだ。そして、工場の設計者は、もはや総合性能など保証できなくなる。なぜなら、生産計画は(誰でも知っているとおり)需要という外界の影響によって、どんどん変わりうるからだ。工場の性能は動的属性なのである。

これは、自動車の問題に置き換えてみるとよく分かる。自動車の走行速度は保証できるかといわれたら、テストコースでの最大速度だったら保証はできる。機械的性能の検証はできるからだ。しかし、町中での平均走行速度を保証しろと言われても、それはできかねる。とうぜん、道がどれくらい混んでいるかに依存するからだ。

したがって、エンジニアリング会社の立場に戻ると、できるのは単体製品の製造能力の保証だけ、ということになる。工場という物は、機械設備と作業者と空間からなる、巨大なシステムである。そのシステムの総合的パフォーマンスは、環境と運用方針によって変わる。それは静的なものではないので、せいぜいできることは、仮定をおいてシミュレーションをしてみせることなのだ。

私はこのことを、もっと多くの、製造業にたずさわる人が理解して欲しいと思う。工場の総合生産能力とは、それを運用するポリシーによって変わる。それは他人に保証させるべきものではない。どんなに高速なエンジンを積んだ車でも、10mごとに信号で止まるような環境で使っていたら、それは無用の長物というべきものなのだ。
by Tomoichi_Sato | 2005-11-08 21:27 | ビジネス | Comments(0)

生産技術というお仕事

製造業にとって、製品開発のスピードは競争力のキーになる。製品開発は一般に、核となる要素技術の発明、ないし市場における新しい動向がきっかけになって始められる。むろん、業種によっては、毎年定常的に多数の新製品を出し続けるところも少なくない。そうしたケースでは、製品開発までの期間がきちんと「読める」状態にまで、管理レベルを上げていく必要がある。

プロジェクト・スケジューリングの技術に関わっているおかげで、最近は製品開発プロジェクトの相談に乗るケースが増えてきた。従来、製品開発とは「固有技術」だけの世界と思われていた。ところが、近年わずかづつではあるが、プロジェクト管理という「管理技術」も必要なのだと認識される企業が増えてきたようだ。

製品開発となると、BOMの話題に触れることも多い。今年のはじめに「BOM/部品表入門」という本を上梓したこともあって、いかにスムーズに新製品のBOMを構築できるかが議論のトピックになったりする。ことに、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)が別立てになっている会社では、とくにその問題意識が強い。

ところで、製品開発プロジェクトの進め方を考える場合も、企業内のE-BOMとM-BOMの統合を進める場合も、どうやらキーになる部署があることに、最近気がついた。それが「生産技術部」である。名称は「生産企画課」だったり「製造技術センター」だったり、まちまちだが、ようするに製造工程を準備する職務をもった部署である。たいていの場合は本社ではなく工場にあり、しかも一種のスタッフ部門として扱われている。

この「生産技術」という職種が、その企業の中でどのように位置づけられているかが、どうやらスムーズな新製品開発や、BOMマスタ情報の信頼性確保に、大きく影響しているようなのだ。なぜか。それは、生産技術というお仕事の本質が、量産方法の設計と実現にあるからだ。

量産方法の設計とは何か。そもそも、新製品の青写真は、製品設計部門(たいていは本社機能にある)が図面に作る。この段階では、「何をつくるか」(What)が決まっているだけだ。しかし、製造業は、製品を低価格で安定して量産できてナンボの世界である。「いかにつくるか」(How)が大事なのだ。

そして、それを決めるのが生産技術である。ここの段階であらためて、どの材料をどう加工して、いかに組み立てるかを検討する。そして、試作品をつくって性能や加工性を評価する。標準作業時間を決めて製造単価を割り出す。ついで主要な部品のサプライヤーを決め、外注する部分を決め、必要な製造装置の仕様を決めてメーカーに発注し、それを工場に据え付ける。

そして量産試作が行なわれる。これが品質的にも経済的にもパスして、はじめて製品は「商品」になるのだ。これが生産技術の主要な仕事である。副次的な仕事として、既設の工場設備の保全とか、据付け工事などの工務管理、製造工程の改善、標準作業の見直しなどがある。

そして、残念ながら、日本の多くの企業では、この生産技術部門の地位が、決して高くないのだ。嘘だと思ったら、あなたの会社で経営工学科出身の学生をどこに配属するか、考えてみるといい。経営工学は生産技術の主要な基礎学問である。そのキャリアパスが定まっていないとしたら、それは生産技術の位置が曖昧なのだ。あるいは、生産技術部門出身の取締役の数を数えてほしい。大抵の製造業の会社では、出世するのは製品開発か営業か財務部門出身者だ。トヨタ自動車のように、生産企画がエリートコースで、出身者が社長になれるような会社は、極めて例外である。

製品開発を重視するというのなら、設計図を現実に落しこむための生産技術を重視していなくてはならない。餅の絵を描くのがいくら上手でも、食べられなければ役に立たない。そして、美味しい餅をつくのは、生産技術部門の役割なのである。
by Tomoichi_Sato | 2005-06-15 13:49 | ビジネス | Comments(0)