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バリエーション・リダクションとは何か

個別受注生産における設計・製造上の方針のこと。個別受注生産方式をとっているメーカー(産業機械などに多い)にとって、部品点数の無制限な増加はつねに悩みの種である。部品点数の増加は、同時にBOMと工順の増加、部品在庫量の増大、発注リードタイムの増大、設計手数と図面枚数の増大など、数々の問題をもたらす。

規格の決まったカタログ部品は、ある程度見込みで生産するため、サプライヤー側も在庫がある。したがって発注リードタイムは短い。しかし個別仕様の部品はどうしても納品までのリードタイムが長くなる。つまり、製品の多様性と、発注から入手までのリードタイムとの間にはトレード・オフの関係があるのだ。多様で細かい注文が可能な製品の入手リードタイムは長く、カタログ的にパターンの決められた製品は入手がはやい。

逆に考えると、もし購買のリードタイムを短くしたければ、製造に使う部品や資材をパターン化して、種類を少なくした方がいい、ということが分かる。そうすれば生産の全体リードタイムがかなり短くなる。リードタイムが短くなれば、年間の生産能力も上がる。

しかし、個別設計の機械部品の場合、ボルト・ナットや一部の計器などの汎用部品は共通化できるが、あとは中核部品も周辺部品も、種類は同じでもサイズはほとんど別物になってしまう。ほとんどの部品は毎回、仕様を決めては発注し直すわけである。製品種類は多様なのに、部品の種類だけを減らすことなんかできない、と考える人が多い。

それでは、どうするか。このために登場するのが、モジュール化によるバリエーション・リダクションだ。これは、多様な製品を生み出すために、組合せを使う手法である。

たとえば、100種類の製品を作るために100種類の部品を毎回設計しなおすかわりに、10種類の部品群と10種類の部品群の組合せで実現する。こうして、部品の種類は20種類におさえながら、かけ算で100種類の製品を可能にできる。これがモジュール化の力だ。これを実現するためには、部品群の設計において、ある程度グループ・テクノロジーを使う必要がある。これは金属加工部品を念頭においていえば、部品をなるべく共通の母型から削り出すように設計する方式だ。

しかし、ちょっと待てよ、と思う方もいるだろう。理屈の上では、組み合わせて100種類作れるとしても、客先の注文にぴったりあうとは限らない。性能の点で余裕がでたら過剰仕様になるではないか? これは、そのとおりである。余分な性能は、その分よけいにコストがかかることを意味する。それに、設計のやり方もがらりと変えなければならない。

これに対する回答は、こうだ。お金の時間的価値(The Time Value of Money)の観点から見れば、材料費のアップよりも、設計時間や生産リードタイムの短縮の方が、ペイすることが多い。その条件は企業によりまちまちだが、算定することができる。ペイすると分かったら、バリエーション・リダクションを導入するべきだ。そして、たいていの企業では、このお金と時間のバランス判断をしないまま、単にコスト削減だけを追っているのである。

このように、スケジューリングの問題点を深めていくと、設計による解決にたどり着くことがしばしばある。だからこそ、設計と製造の統合された企業(「設計の価値」参照)が望ましいのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-03-28 23:29 | ビジネス | Comments(0)

必要な人はいつもたった一人しかいない

客先でのヒアリング日程が急につまずいたのは、帰る日の直前だった。見積のための概略の要件定義を進める中で、次回は工場の生産スケジューリングについて、詳しく聞きたいと申し出たところだった。その出張では、機密性の高い工場の実物見学は許してもらえなかったが、かわりに各工程のビデオ映像を見せてもらって、だいたいの様子は理解できたと思った。製造実行系および制御系システムの構成も、およそつかむことができた。あとは計画系だ。けっこうこの工場のスケジューリングはややこしいに違いない。本社からの受注オーダーに対して、どう製造指図を展開してひもづけていくのか・・・

ところが、相手方の管理者からかえってきたのは意外な答えだった。「スケジューリングはルールが複雑すぎるから、システム化しなくていいよ。」 驚いた私は、計画と実行は生産管理の両輪で、両者がかみ合わないと工場の真の能力は上がらないのだ、と説明した。そして、スケジューリングが複雑だと言うが、では、担当者は何人居るのかと訪ねた。答えは「一人」だった。では、この担当者が風邪を引いて一週間休んだら、工場はどうなるのか? そんな属人的なやり方で、主力工場を切り回していいのか。そう訪ねた。

すると、スケジューリング担当者の人減らしはとくに考えなくてもよい、と返事が返ってきた。別に人員削減を目的にシステムを提案している訳ではありません。そう説明したが、無駄だった。

その仕事は結局、受注できなかった。予算が合わない、という理由だった。果たしてそれが表向きの理由にすぎなかったのか、それは分からない。案外、実はそのスケジューリング担当者が、当の管理者の右腕だったのかもしれない。むろん詮索しても仕方のない話だ。しかし、その代わりに私は、ひとつの大きな教訓を得た。それは、「ホワイトカラーの組織では、ある特定の業務をうまく遂行できる人は、いつもたった一人しかいない」ということだ。

似たようなことを、私は要件定義のフェーズで、何回も経験している。業務プロセスのヒアリングをしていても、最初から最後までカバーして説明できる人は少ない。ある箇所になると、なにがしさんに聞かないとわからないな、という状況になり、その一個人の都合にスケジュール全体が振り回されるのだ。特定業務のキーパーソンは、つねに一人しかいない、のだ。

しかし、これはあるいは逆の方から言いかえた方がわかりやすいかもしれない。「ホワイトカラーはいつも、その人自身だけしかうまく遂行できないような、特殊だが重要な仕事を作り出すものだ」と。なぜ、そうなるのだろうか?

それは、多くのホワイトカラーにとって、仕事がアイデンティティであり、自己の価値証明になっているからだ。自己証明である限り、それは他人と違っていなければならない。他人では置き換え不可能なものでなければならない。代替可能でない物、それがアイデンティティなのだ。しかも、これはあまり明言されない。いつも内心だけのプロセスなのだ。

なぜホワイトカラーは、そんな風に無意識に信じたがるのか。工場労働者を考えてみるといい。ベルトコンベヤーで流れてきた部品にネジを締めるだけの人は、その仕事にアイデンティティを求めるだろうか。彼が居ないと成り立たない仕事だろうか。それは明らかに、代替可能な仕事だ。むろん熟練工という存在はある。しかし、工場のほとんどの仕事は、非熟練工・季節工でもそれなりにできあがるようになっている。そうなっていなかったら、それは工程設計がどこかおかしいのだ。

おわかりだろうか。マネジメントだとか、IE(インダストリアル・エンジニアリング=経営工学)だとかいった手法は、“誰がやっても70~80点の成果が出る”ように、生産業務のプロセスを組み立てるのことを目的としている。そして、ホワイトカラーの知的業務だって、同じはずなのだ。マネジメントの視点から見れば、“誰がやっても70~80点の成果が出る”ように、手法論やマニュアルや業務手順を組み立てることが求められる。

そして情報システムとは、まさにそのための目的のものではなかったか。それなのに、なぜ、そう機能しないのだろうか。長くなってきたから、つづきは次回書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-03-06 00:28 | ビジネス | Comments(0)

トヨタ生産方式の神話と現実

目の前に一冊の本がある。「トヨタ生産方式を支える最適化手法に関する研究」、小谷重徳・著(2004年)と題された、冊子ともいうべき本だ。現在、首都大学東京の教授である小谷先生の博士論文である。中身を開けてみると、素人には目がちらちらする数式の羅列がつづく。主題は、輸送費用と生産制約を考慮した組立ライン決定問題である。そして、この問題の線形計画法による厳密解が、じつは整数解になる理由などが書かれている。

知らない人は、“また学者が出てきて、トヨタの実践的な手法を、妙な数学で理論化しようとしているわい”などと思うかもしれない。しかし、それは誤解だ。小谷氏がこの博士論文を書いたときには、じつはトヨタ自動車に勤務しておられた。つまり、このいささか難解な数学は、この会社の生産計画を支える基盤なのだ。これがトヨタ生産方式の現実(あるいは、そのすごさ)なのである。

ビジネスの世界では、ときに奇妙な神話や誤解が流布することがある。中国生産はコスト低減の切り札だ、といった神話だとか、ERPを導入すると在庫が削減できる、といった誤解である。思うに、企業は自社の内部事情をあまり公開しないから、素人評論家の噂話や職業コンサルの意図した誇張が、まかり通りやすいのではないか。

最近はやりの神話はトヨタ生産方式にかかわるものだ。なにしろトヨタ自動車の業績が信じられぬほど好調だから、周囲の見る目が神様あつかいになるのも、いたしかたあるまい。そのトヨタについて、もっとも広く流布している誤解は、「トヨタ生産方式はプル型の受注生産で、生産計画など持たない」というものだろう。じっさい、元町工場の見学コースは、『かんばんと自働化こそトヨタ生産方式を支える二大要素』とビデオで見せてくれる。生産計画の文字はどこにも見あたらない。ましてや線形計画法などは。

「神様ではあるまいし、誰も先の需要などは読めない」--これはトヨタ生産方式を築いた大野耐一氏の言葉ではなかったかと思う。「だから生産計画など作ってもあてにならない。現実の需要変動に耐えうる工場を作るべきだ」・・論理は、そうつながりやすい。そして、「そのためにはカンバンを中心としたプル型生産の体系とするべきだ」との信念が生まれていく。こうした“信念”をもとに、『計画はずし』を指導するコンサルタントも少なくない。トヨタOBの中にも、そうした人たちがいると聞く。

ところで、上記のテーゼはトヨタ系列の部品メーカーには合致するかもしれないが、トヨタ自動車自体には当たらない。彼ら自身は、きちんと生産計画をたてて実行しているのだ。そうでなければ、お得意の「平準化」をどうやって実現できるというのか。トヨタ生産方式の中核は平準化にある、と私は銀屋技監から直接うかがったこともある。たしかに、作るべき計画台数がなければ、平準化などもともと出来ない相談である。

では、なぜ、「計画不要論」がトヨタの名前と結びついて広まったのか。私は一つの仮説を持っている。それは、自動車業界のサプライチェーンの特徴から説明できる。自動車の世界では、販売チャネル(ディーラー網)は、生産メーカー別に統制されているし、また部品生産も系列化されている。つまり、長いサプライチェーンのちょうど中心に、自動車メーカーがいるわけだ。そして、だからこそ、このサプライチェーンでは計画の意志決定はたった一ヶ所で行えるのである。

これは、たとえば電子・情報機器業界などと比べてみれば分かる。パソコンやデジカメは自動車とならんで、日本の製造業のもう一つの花形である。しかし、これらの商品は、チェーンストアやディスカウント店などが販売を仕切っている。店頭にはキャノンとソニーと東芝の機種がならぶ。これは自動車販売とは全く別の世界だ。販売の主導権は流通業界が持っているために、電子情報機器のサプライチェーンでは、意志決定ポイントが最低でも2ヶ所(流通と組立生産)になってしまうのだ。

部品サイドで見ると、自動車ではカローラのシートをフィットに乗せるわけにはいかないから、部品生産は必然的に系列化されやすい。一方電子業界では、電子部品は互換性が高い。だから系列でしばりにくい。こうして、部品メーカーもまた計画が必要になる。

くり返すが、自動車のサプライチェーンでは意志決定ポイントは一ヶ所で十分なのである。むしろ部品メーカーが勝手に、車両メーカーの計画を無視して、余計な生産計画などを立て始めたら、余計な在庫が発生しコストアップにつながる可能性が高い。だから、「考えるのは自動車メーカーのみ。あとの部品メーカーは、その計画に従うように制御されていればよい」という論理が成り立つ。その制御のツールとして、『引取りカンバン』が使われるのだ(今はほとんど電子化されているが)。

おわかりだろうか。『生産計画不要論』は、自動車業界で、部品メーカーにとってのみなりたつ論理なのである。この前提条件を理解せずに、どこの業界に対してもドグマとしてふりまわせば--それはもはや、神話とよぶべきものだろう。

(線形計画法に興味のある方は、小谷重徳・他「輸送費用と生産制約を考慮した組立ライン決定問題」日本経営工学会論文誌、54-4(2003)をご覧になるとよい。これは平成15年度日本経営工学会論文賞を受賞している)
by Tomoichi_Sato | 2006-02-24 00:49 | ビジネス | Comments(2)

特別な我が社

考えるヒント、2001/2/03より)

ITコンサルタントの仕事をしていると、つくづく面白いと思うことがある。仕事柄、さまざまな企業を訪問して話を聞くわけだが、訪れる会社はどこも、「自分のところの業務はひどく特殊だ、ウチは特別な会社だ」とおっしゃるのである。どの会社もどの会社も、“これこれの理由でウチはよその会社とちがう”と主張される。

いわく、「ウチの業種の製品は鮮度管理が非常にきびしいから」「ウチの製品はお客様の生命に直接かかわるものだから供給の責任があって」「ウチの業種は可燃物を大量に取り扱うので消防法のこうるさい設備検査が必要で」「ウチの業界はものすごい多品種少量で、かつ製品のライフサイクルがめちゃくちゃ短いから」「徹底したカンバン方式で工場を回しているから」「完全受注生産でリードタイムが長いから」「小さく高価で壊れやすいから」「場所ふさぎなのにひどく安価だから」etc...

“というわけで、外部の方には我々の問題の難しさはご理解いただけにくいでしょうねえ・・”と続く。

そして結論はというと、
「だから平均的な製造業向けにつくられたパッケージ・ソフトではウチの仕事はうまく取り扱えない」
という風に誘導されるのだ。特殊性を強調されたあげく、ほとんど判で押したかのように、同じ結論にたどり着くところが面白い。

そんなことはないのである。

この仕事をやってみるとわかるのだが、日本の製造業が抱えている問題点というのは驚くほど共通性が高いのだ。それは、非常に圧縮した形で表現するならば、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということになる。だから調達から販売までのサプライチェーンのあちこちで、プルとプッシュが混在しているのである。

したがって、解決の手法も一つの事例できちんと確立してしまえば、あとはかなり応用が利く。若いコンサルタントでも、見習いで3社の事例をやってみたら、4社目からは中核の問題を自分で見つけることができるようになる(むろん、応用問題を解くにはその業種の個別知識と、人を動かし説得できるだけの知恵がいるから、経験もなしにすぐに独り立ちできるわけではないが)。

「パーキンソンの法則」で有名な経営学者C・N・パーキンソンは、「コンサルタントの仕事はミツバチに似ている」と言っている。花から花へ、花粉を運ぶ蜜蜂のように、コンサルタントはある会社で見つけた知恵を別の会社に運んでそこに植え付ける訳である。自分自身では花粉を作り出したりしない(知恵を生み出したりしない)点が面白い。こう書くと怒り出す人もいるだろうが、かなりの程度、真実に近い。

個別性・特殊性の強調は、なんとなく日本の文化に根ざしているのかな、とも思う。丸山真男が『日本の思想』で分析して見せたように、日本では「理論信仰」と「実感信仰」が表うらの関係で支え合っている。外国から直輸入した公式的理論によって現実をばっさりと切ってしまうような風潮と、逆にその防御として、個別の事象・実感をならべたてて共通論理をいっさい否定してしまう態度。まるで「パッケージに業務を合わせろ」「いや業務に合わせてすべてカスタマイズしろ」という水掛け論を聞いているかのようではないか。

面白いことに、私のつきあった範囲では、欧米の会社からはあまりこういう「ウチは特殊だから」論は出てこない。それも当然だろう。彼らはそもそも、みずからの独自性を前提として生きている。一人一人に個性がある、というところから思考は出発する。その上で、個別の事物を包含するイデアが存在する、というのが西欧の哲学だからだ。

哲学抜きで特殊論にしがみつく国には、ただ“諸行無常”の風が吹くだけかもしれない。
by Tomoichi_Sato | 2006-02-01 22:39 | ビジネス | Comments(0)

意味無しコードのすすめ

商売柄、多くの製造業の顧客に接していると、つくづく感じることがある。それは、生産の世界はとても多様なのに、抱えている問題はだいたい似通っている、ということだ。工場と生産のあり方は、つくるモノによって非常に異なる。電子材料・精密機器・医薬品・飲料・アパレル・産業機械・化学・原子力関係・・最近かかわった業種をランダムに思いだしてみても、それぞれじつに多様な条件下で、ものづくりが行なわれている。

にもかかわらず、多くの企業で抱えている問題には共通点がある。それは一言でいってしまうとサプライチェーンの悩みであり、それをささえるマテリアル・マネジメントの変化の悩みである。工場は大量・見込み生産の形で大きくなってきたのに、販売はどんどん多品種少量・短納期受注生産のスタイルを要求される。新製品をつぎつぎに市場に投入しなければならないのに、製品開発も量産準備もそれに追いつけずにいるのだ。

それなのに、どこの会社も判で押したように「自分の問題は特殊だ」と信じ込んでいる。この滑稽さは、以前、「特別なわが社」で書いたから、今は触れない。

しかし、「会社四季報」などを見るとつくづく思うのだが、そもそも化学・繊維・機械といった『業種分類』など、いまでは住民票の“本籍地”程度の意味しかない。化学企業が電子部品を作り、繊維メーカーが医薬品で儲け、素材メーカーが飲料を売って成功をおさめているのが今日の姿である。もはや“現住所”はずいぶん離れているのだ。それだけ、日本の技術者の適応能力が高いのだ、とも言える。

しかし、それに比して、管理技術の方は、なかなか進展も変化も見せないものらしい。製品市場では世界に知られる先進企業でも、工場を子細に見ると“えっ、まだこんな方法で生産管理やっているんですか!?”と驚かされたりする。10-15年前に、本籍地から現住所に移ったときの、旧い管理の考え方が、まだそのまま残されていたりするのだ。その一番典型的な例が「意味ありコード」である。

「意味ありコード」とは何か。それは、マテリアル・マスタ(会社によっては部品マスタとか品目マスタとか種々の名前で呼ばれるが)において、それぞれのマテリアルを識別するためのキー・コードのあり方である。そのキーを発番する際、複数の桁区切りをつかって、桁ごとにいろいろな意味を持たせる。これを「意味ありコード」と呼ぶ。

たとえば、PA-C12-74901 という品目コードを持つ部品があったとする。最初のPAは、流体計器という製品ファミリを表わし、C12は製品を構成するサブ・アセンブリのコード、次の749は仕入先のコードで、01は連番、といった具合だ。よく見かける「意味ありコード」の例である。なれた人は、コードをじっと見ると、それがどのような部品で、どこから仕入れて何に用いられるのか、だいたい分かるようになる。とてもインテリジェントな、優れモノのコード体系である・・はずである。

ところが、多くのメーカーでは、これが足かせとなり桎梏となってきている。その理由は、製品の多品種化と、製品領域のシフトである。多品種化にともない、共通部品や共通原料が増えてきた。そうなると、なまじ最終製品に紐づけられた部品コードは不便になってきた。それに輪をかけるのが、製品領域のシフトである(つまり「本籍地」から「現住所」への引っ越しだ)。製品ファミリの概念さえ、次第に現実に合わなくなってくる。こうなると、なまじ「意味ありコード」だったものが、何がなんだか見てもさっぱり分からなくなってしまう。

やっかいなことに、このマテリアル・コードの意味論の混乱は、目に見えない。工場の中で部品の搬送や保管が混乱すれば、だれの目にも明らかだ。しかし、コード体系の混乱は、真面目に生産管理に従事している実務者たちにしか気づれかない。だが、この目に見えぬ混乱は、思いもよらぬ所に影響を及ぼす。それは、製品開発スピードへのブレーキである。もっと具体的に言うと、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の乖離、という形で現れてくる。これが進むと、量産準備の途上でさまざまなトラブルが発生してくる。一番良くないのは、設計部門と工場部門との部門間の軋轢が増してくることだ。

これを避ける方法は一つしかない。それは、「意味なしコード」を採用して、マテリアル・マスタを作りなおすことだ。意味なしコードとは、文字通り、桁区切りなどに意味を持たせない。単純な連番によるコード体系だ。コードだけ見ても、何かよく分からない。だが、別にそれでよいのだ。今日では、どこの端末からでも、マテリアル・コードを検索できるはずだし、今できていなくても、検索可能にすることはたやすい。人間が目で見て判別できるコードが便利だったのは、紙で台帳をつくっていた時代のことなのだ。

考えてみてほしい。あなたの社内の従業員コードは、意味ありコードになっているだろうか? その人の所属部門や年齢や出身によって決まっているだろうか? そんなことをしたら、毎年コードを変えなければならない。だから、たいていの会社は意味なしコードになっているはずである。会社で一番重要である(ということになっているはずの)社員でさえ、意味なしコードで管理しているのだ。なぜ、部品だけは意味ありコードにこだわるのか?

生産管理の仕事を頼まれた場合、私はその顧客のマテリアル・マスタのコード体系を必ず見ることにしている。その作り方で、企業の生産管理のレベル、ひいてはサプライチェーン管理のレベルがだいたい分かるからだ。ただし、意味なしコードへの移行は、単純ではあるが必ずしも簡単な仕事ではない。ある大手通信機器メーカーでは、E-BOMとM-BOMを統合するために「意味なしコード」を使ったが、統合作業自体はかなり大変だったとのことだ。無理もない。コード体系の見直しは、それ自体がプロジェクト・マネジメントを必要とする、立派なプロジェクトなのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-29 23:59 | ビジネス | Comments(0)

論理的だが、システマティックでない人

「考えるヒント」 2003/04/18 より)

私はシステム・アナリストです、と自分の仕事を紹介することが多い。アナリストという言葉を知らない人もいるから、私はシステム・エンジニアです、と言うこともある。両者は別物なのだが、それで相手はなんとなく分かった気になってくれるらしい。

そして、おきまりのように二つの質問をされる:「コンピュータのことにお詳しいんでしょう?」と、「システム関係のお仕事の人は、論理的でシステマティックな考え方を身につけておられるんでしょうね」と。

私の答えは、じつはどちらもNOである。率直にそう答えると、たいてい相手は落胆するか怪訝な顔になる。そこには、世間の人が抱いている『システム的』なるものへの偏ったイメージ、ないしは大いなる誤解が隠されているのだろう。

まず最初の質問の方だが、私はたいしてコンピュータに詳しくない。平均的な人より多少は知っているかもしれないが、アナリストの仕事の大半は、人間が何を望み何を必要としているかを考えることにあるので、計算機については一通りのことを理解しておけば済む。

しかし、システム=コンピュータ、という誤解は根強い(このサイトを読んでくれるような方ならば、こんな単純な等式は信じないだろうが)。そこで、私はよく「キャバレーの“明朗会計システム”にはコンピュータはいりませんよね」と説明することにしている。この“システム”の用語の使い方は、まったく正当なものだ。「うちの在庫管理方式はダブルビン・システムです」といって説明するのと本質的に等価である。

では、二つ目の質問はどうか? これも嘘だ。私の知っているかぎり、IT業界には、論理的だがシステマティックにものごとを考えない人たちが、沢山いる。そして、コンピュータが大好きで技術に詳しい人ほど、その傾向が強い。

システマティックな思考方法とは何か? 私自身はまだよく分からない。よく分からないから、「私はシステム思考を身につけています」などとは口が裂けても言わないことにしている。しかし、システマティックに仕事にアプローチする人々は、数多く見てきた(とくに外国で)。たとえば、「パンのみに生きるにあらず」で紹介した米国人コンサルタントだ。“この会社のミッション(使命)は何か? では、それを実現するための戦略は何と何があるのか? ならば、その戦略の実効性を計る指標KPIはどれとどれを選ぶべきか?”・・と、最終目標から手段が展開されていく。こういうのを見ていると、たしかに論理的でシステマティックなアプローチだな、と率直に感心する。

ところが、IT技術者と話していると、なかなかそうはいかない。「生産管理システムのサーバ機種ですが。」彼らの議論は、こんな風にはじまる。「私の考えでは、このトランザクション量から考えると、やはり2CPUクラスのunixマシンでしょうね。最近はLinuxベースでも安価で信頼性の高いものが出てきたから・・」と、どんどん続いていく。

なるほど、ロジカルだ。だが、彼らの思考はちっともシステマティックではない。生産管理システムを作るとしたら、従来の仕事のやり方の変革、元になる部品表や在庫データの精度、サプライヤーとの関係などなど、重要な問題は他にいくらでもある。それなのに、なぜ今サーバ機種の話なのか?

こういう人たちの特徴は、目的に比して道具に対するこだわりがアンバランスに大きいことである。全体の中の一要素(コンピュータ)だけ注目する。つまり、木を見て森を見ないのだ。

いや、コンピュータ・マニアに限らない。カー・マニアでも兵器マニアでも、何とかオタクと呼ばれる人たちは、たいていそうだ。目的を忘れて道具にのめり込む、それがこの人達の特徴だ。(念のため言っておくが、これは日本人ばかりではない。欧米にもそういう文化的傾向を持つ人はいくらでもいる)

そして、彼らとの論議には、細心の注意が必要になる。なぜなら、彼らはとても論理的だからだ。そしていろんな物をよく知っている。ただ、目的から逆算して、ことの軽重を計ることをしないのだ。部品に注目するオタクの議論にまきこまれないためには、つねにシステム全体を見渡して、大事な要素から展開するという考え方に戻す必要がある。「本当にそこのサーバの性能がプロジェクト全体のボトルネックになりますか?」

道具からの発想か、目的からの発想か。そこを忘れて、論理的な局地戦にまきこまれないよう、注意しよう。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-26 23:49 | ビジネス | Comments(0)

製造は代替可能か

もう10年以上も昔の話だから書いてもいいと思うが、米国Apple Computer社が、初の軽量ノート型Macintosh PowerBook 100を発売したとき、実際の製造は日本のSONYが請け負っていた。

そのころ技術者から聞いたのだが、SONYは小型化・軽量化の見地から、Appleの設計部門が出してきた設計図に対し、改良提案をいろいろと出した。しかし、Appleはそれをことごとく却下し、「自分たちの設計どおりに作れ」というスタンスを曲げなかったという。いかにも米国流のエンジニアの態度ではある。つまり製造は設計の下僕である、らしい。いやなら、ソニーではなく別の安価な受託製造会社に作らせれば良いのだ。事実、AppleとSONYのMacでの関係は、PowerBook 100だけで終わった。

ある意味で似たような経験が、じつは私にもないではない。米国企業のプラント建設の仕事を請け負ったときの体験だ。当初の合意では、「バリュー・エンジニアリング」による節約の利益は、顧客と我々エンジニアリング会社が半々でシェアすることになっていた。だから我々は最初、いろいろとアイデアを提案したのだ。しかし、客先と結んだ契約書には事細かに基本設計の仕様が定められており、その中には顧客の膨大な技術標準も含まれていた。れを遵守しないと二重三重のペナルティが課せられることになっていた。

我々の提案のうち、材料や設計を軽減する案は、契約を盾にことごとく退けられた。そして少し余分な設備投資をして、運転費用を軽減する案も、結局当初予算を守るという金科玉条のもとに退けられるのだった。とにかく、彼らの決めた基本設計と技術標準を逸脱することは、決して許さないのだ。計算で根拠を示して「これでも大丈夫でしょ?」と説明しても、『契約書では』の一言につねに舞い戻る。相手との対話はエンジニア同士の会話と言うより、弁護士と話しているみたいに思えた。

どんな基本設計でも完全というものはない。われわれが詳細設計に着手する中で、矛盾に気づいたり、より経済的な案を思いつくことはいくらでもある。それがエンジニアリング会社の価値だ。そのときまで、私はそう信じていた。それなら、なぜ、改善提案を受入れないのか。それは、彼らが「詳細設計以降、調達や建設工事は力仕事であって、誰でも出きるはずのことだ」と信じ切っているからなのだった。もっと言うと、請負エンジニアリング会社が基本設計から逸脱すると、彼らスタッフ自体が評価で罰せられるのだ。

私は、エンジニアリング会社は良い下僕であるし、あるべきだと思っている。少なくとも、海外市場における石油ガス分野においては。この分野ではすでに基本設計と、詳細設計・調達・建設(頭文字をとってEPCと略称する)は分割されている。基本設計完了後は、EPCは原則として入札にかけられる。入札すると言うことは、つまり「誰がやっても同じ(代替可能だから、一番安い下僕を選ぶ」という意味なのだ。代替可能なものは、相応の値段だけで決まる。そこには、本質的な付加価値はない。

同じようなことを、米国の企業は、工場についても考えているらしい。製造は誰がやっても同じだから、安い海外企業に受託生産させる。「誰がやっても同じ」とは、言いかえれば「設計こそ価値の源泉なのだから、そこはいじらせない」という意味だ。ちょうどAppleがPowerBookについて実行したように。その結果として、米国の製造業は空洞化し、もはや、もぬけの殻の状態に近づいている。

その同じ道を歩いているのが日本だ。そうでなければ、あの「中国生産移転ラッシュ」は何だろうか。製造機能は代替可能だから、人件費の安い海外にシフトすればいいと、本社にいる頭のいい人達がみな信じた結果ではなかったか。

ところで、本当に製造は代替可能な仕事なのだろうか。そこには何の付加価値もないのだろうか。

技術の本質は、誰がやっても同じ結果になるようなプロセスを作りあげることにある。そういう意味では、日本の製造技術のレベルがきわめて高くなったために、代替可能性が高まったのだと、言えなくはない。だとしたら、日本の生産技術者達は、明らかに自分たちが不要になるように、一所懸命に努力をしてきたことになる。

だが、製造作業自体はともかく、生産マネジメントも代替可能だろうか。「製品という名のシステム、工場という名のシステム」でも書いたとおり、工場とは一個のシステムである。システムは、動的特性が身上である。工場が未来永劫、同じ製品を作りつづければいいのなら、そこには何の「改良」の余地もない。しかし、現実は、製品も変わり、原材料も変わり、環境も法規制もかわり続ける。その中で、真に適応能力を出せるかどうか、それが工場システムの動的特性の一番大切な部分だ。

たとえば、あのトヨタが自動車の製造を単に外部の工場に委託して、自分はファブレス・メーカーになることがありうるか、ちょっと想像してみるといい。「トヨタ生産方式」の生み出した原価低減の魔術を捨てて、ただ人件費の安いだけの会社に生産移転するかどうか。賭けてもいいが、彼らは決して製造が代替可能だとは思っていないに違いない。

もっとも、トヨタ自動車は生産企画部出身の社長が出る、数少ない会社だ。日本の製造業では例外的に珍しいといってもいい。ウソだと思うなら、あなたの会社の役員に、生産管理出身の重役が何人いるか数えて見ると良い。営業畑や財務や研究開発など、生産現場を知らない役員から見たら、工場は代替可能にみえても不思議ではない。

昨今、製造業の「日本回帰」が見られはじめているという。海外生産の失敗には、いくつか教訓があるはずだ。その中の一つが、「製造にも大事な価値がある」という教訓であることを、私は心から願っている。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-12 23:27 | ビジネス | Comments(0)

設計の価値

最初に、ブルネレスキのことからはじめよう。日本ではほとんど名前を知られていないが、初期のイタリア・ルネッサンスを代表する人物の一人だ。フィレンツェに旅行に行く人が必ず目にする、花の聖マリア大聖堂の半球形ドームは、彼が作った。



「彼が作った」という言葉を、私は意図して使っている。彼は設計しただけでなく、建設工事の責任者でもあったのだ。つまり今風に言えばプロジェクト・マネージャである。彼は石の積み方にも工夫をこらしたし、二重ドームの間に作業者が立って歩けるスペースを確保する設計にした。施工しやすい設計をしたわけだ。職人のストライキにも見事に対処した。

彼が設計者・兼・建設責任者だったことは特筆して良い。日光東照宮の左甚五郎の立場と同じである。設計者が実作も行う。それは近世以前はあたりまえのことであった。たとえばミケランジェロ作の彫刻が、じつは彼のデッサンをもとに弟子が好きに刻んだものだったとしたら、あなたは怒らないだろうか。少なくともフィレンツェ市評議会は許さなかっただろう。

設計者と施工者が分離してくるのは、近代イギリス以降のことである。産業革命以降の建築需要の増大にしたがって、設計と建設の分業が発達する。設計兼建設という大工の親方制度では、まかないきれなくなったのだろう。それは、音楽の世界で作曲家と演奏者が分業してくる時期と、妙に一致している。市民社会の勃興、聴衆の増大が、それを要求したのだ。大量生産はつねに分業を要求する。

しかし、それとともに劣悪な建築や手抜き工事が横行しはじめる。そこで設計と施工を兼任できないよう分離させ、しかも設計者に施工が図面の指示通りかチェックさせる制度が成立する。第三者によるチェックは、簡単には人を信じない「紳士の国」の性悪説文化が産み出したものだ。

建築設計書の構造計算を偽造して、鉄筋・鉄骨量を削減した建物の問題が、このところ世の中をゆさぶっている。恐ろしい話だ。しかし、設計に反した手抜き施工だったのではなく、設計自体に問題があった。設計施工分離では防げなかった所に、根の深さがある。もっとも、この国の建設行政はすべて性善説に立って運用されているようだから、氷山の一角にすぎないのかもしれない。

偽造した建築士が何を考えていたのかは、分からない。しかし、たいていの建築設計者が考えていることは、私には想像がつく。それは、「設計は建設工事の下請けじゃないはずなのに!」という怒りだ。建設業界には『設計協力』なる言葉がある。簡単にいうと、詳細設計などの力仕事の部分を、建設工事を受注する(予定の)ゼネコンが手伝うことだ。設計・施工分離の原則は、こっそり無視される。施工監理など看板だけになる。

ゼネコンによる設計協力の慣行が成立する理由は、建築設計の仕事が、通常の設計費だけでは安すぎて割に合わないからだ。一方、建設工事を請負う業者側は、設計に人を出しても利益を出せる。だから、建前はどうあれ、力関係は、
 ゼネコン>設計事務所
になる。こうして、設計が施工者の都合によってねじ曲げられる下地がつくられていく。

この国では(そして私の知っているたいていの国で)、モノにはお金を払うが、設計という知恵にはお金を払わない。いわば「実物経済」である。こうした実物経済主義は、最終的には設計の品質低下をまねくのだ。耐震強度偽装問題は、その象徴である。

そして、問題はマンション・ホテル建築の世界だけで起きてるわけではない。あらゆる「製品」という名前のモノに、それは起こり得るのだ。数値的性能はすばらしく、見た目もまあそれなりだが、全体に使いにくく、妙にこわれやすい商品を、私はいくらでも知っている。設計に個性のない製品だから、価格だけが勝負になる。その結果、韓国製や中国製にどんどん負けて行く。これこそ、「ものづくり大国」日本が、設計の価値を軽視してきたツケなのだ。

誤解しないでいただきたいのだが、私は設計者と製作(施工)者の役割は対等だと思っている。往々にして、
 建築家>建設業者
のような主張をしたがる人がいるが、私は組みしない。設計も重要だし、建設のプロジェクト・マネジメントも重要だ。ブルネレスキの例を思い出して欲しい。彼は両方を兼ねていて、だから彼の仕事は偉大なのだ。

拙著「BOM/部品表入門」の中で、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の分離背反の問題を描くため、あえて私は、ちょっといやみな設計技術者を登場させた。彼は「製品開発こそ会社のコア・コンピテンシーだ」というような、エリート意識の強い発言をする。そして本社にいて、製造の実際を知ろうとしない(これは戯画なので、この節を読んで気をわるくされた設計技術者の方がいらしたら、陳謝したい)。しかし、設計と製作が分離してしまうと、製作現場での知見や知恵が設計にフィードバックされなくなる。設計が一人よがりになる。これは決して望ましいことではない。

私が理想と考えるのは、設計と製造、設計と施工、設計と実装が、「統合」された世界である。設計の知恵と実作の知恵は性質が違うが、たがいに補い合える関係にある。たとえ組織上は区切られていても、両者がともに協力できる仕組み。その中でこそ、設計の価値も経済で認められると思うのだ。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-01 12:10 | ビジネス | Comments(0)

製品という名のシステム、工場という名のシステム

工業製品を、その成り立ちに応じて「モジュール型」「すりあわせ型」に分類したのは、『能力構築競争』などの著書で知られる東大経済学部の藤本教授だと言われている。工業製品の種類や範疇は無数にあるが、それを経産省工業統計のような品種別の縦割り分類で考えずに、BOM(部品表)の構造上の特徴にしたがって位置づけをして見せた着眼は見事である。ほとんど構造主義的発想と言ってもいい。

「モジュール型」と「すりあわせ型」の違いは、部品を組み合わせて製品を作っていく際の設計の違いにある。前者は、部品群を単機能的な小単位(モジュール)に作り上げ、そのモジュールを組み上げて製品を作る。それに対して後者は、多数の部品を精密に組み合わせて製品を作る。モジュール型の製品においては、モジュール同士の間の界面はある程度、標準化されて決まっており、相手がどこのサプライヤーのどの製品であっても、組み合わさって機能する。これに対して、すりあわせ型の製品においては、部品はそれぞれ当該製品専用に作られており(言いかえれば個性を持っている)、組み合ってきちんと働く相手は決まっている。

PCなどはモジュール型製品の典型である。ディスプレイ、キーボード、CPU、マザーボード、HDD等々はモジュール化されており、それぞれ業界標準のインタフェースに従って接合できる。だからマルチベンダー化がたやすくできる。これに対して自動車はすりあわせ型の典型であって、フィットのボディにカローラのエンジンを載せたりすることは絶対にできない。

これをシステム・エンジニア的な視点で見れば、モジュール型の製品は疎結合のシステムであり、他方、すりあわせ型は密結合のシステムである、と考えることもできる。すると、両者の長所と短所もおのずから想像できよう。密結合のすりあわせ型システムは、効率は高いが、改良・改善となると手をつけなければならない範囲が広く、保守はメーカーに頼らざるを得ない。これに対して、疎結合のモジュール型システムでは、オープンな仕様でモジュールを選べるから、価格的には安くできる可能性が高い。しかし、組合せの不整合(相性)のリスクがあるし、効率は多少落ちることになる。それぞれの産業がどちらの方向に行くかは、市場特性や製品の発展史などで変わり、どちらかが絶対的によいわけではない。

ところで、私のように製品を「システム」として捉える考え方は、あまり多くの人はしないようだ。たいていの人々は「システム」というと、コンピュータかソフトウェアか、あるいはコンピュータを内蔵したインテリジェントな機械類だけを想像するらしい。今どき、冷蔵庫だって炊飯器だってマイコン内蔵だが、“うちのシステムからビール出してよ”と頼んでいる人はたしかに滅多にいない。“今日のシステムはいい味がするなあ”とつぶやきながらご飯を盛る人も少ないかもしれぬ。

しかし、複数の異なる機能を持つ要素を組み合わせて、特定の意図した機能を全体で実現する仕組みのことを、本来は「システム」と呼ぶのだ。そこには別にコンピュータが介在しようとしまいと関係がない。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関には、機関の回転数を一定にするための巧妙な弁の仕組みも内蔵されており、安定制御のためのフィードバックが行えるようになっていた。文句なしに立派なシステムである。

システムというものの特徴は、要素だけをぽんぽんと並べても、全体の機能や性能を達成できないことである。この点が、少々、普通の実物経済の思考回路をはみ出す点だ。1+1+1で3ではなく5の価値を生み出そう、というのがシステムである。よく、製品の値段交渉のときに、部品の原価に立ち戻ってあれこれいう購買部門の人がいるが、それだったらあんた、自分で最適な部品の組合せ方を見繕ってみないさいよ、という気になる。そうした「システム設計」の知恵と、組合せで正しく動く「統合」のリスク低減に、価値を認めるべきなのだ。

システムのもう一つの特徴は、使い手の使い方と、環境条件によって、パフォーマンスが異なる点だ。自動車を、高速で飛ばすのか、町中でちょこちょこ動かすのかでは、平均速度も燃費も違う。無論、適した車種も異なる。これはシステムというものが単機能でない以上、当然のことだと思う。しかしこの点も、よく見逃されているようだ。

そして、実は「工場」というものも『システム』なのだ。そんなこと、どの生産工学の教科書にも書いていないが(少なくとも私は見たことがない)。工場もまた、複数の異なる機能の生産資源を組み合わせて、いろいろな製品の産出という機能を全体で実現するための仕組みである。始末に負えないことに、生産資源の中には“人間”という、えらく気むずかしくて再現性のわるい、モジュール化しにくい要素もある。環境も、使い方(生産方針・生産計画)もいろいろと変わる。

そして、工場というものがシステムである以上、それを構成するためのシステム・エンジニアという職種と、それを支える工場作りのシステム工学がなければいけないはずなのだ。何をどう流し、どう集積し、どこでボトルネックを緩和するのか。それが上手にできている工場と、単にモノを並べただけの工場では、同じ製品を作っても、生産性には雲泥の差が出る。こうしたことを、「日本帰りの進みつつある」製造業の人々に、もう一度よく考えてみて欲しいと私は願っている。
by Tomoichi_Sato | 2005-11-14 21:18 | ビジネス | Comments(0)

工場の性能とは何か

エンジニアリング会社で工場作りの仕事に従事していると、ときどき、工場の生産能力というものに関する、奇妙な誤解に遭遇することがある。ご承知の通りエンジニアリング会社というのは、顧客のために、顧客に成り代わって工場を設計し、実現する仕事を請け負う。ある意味では、製造業における生産技術部門、あるいは工務部門のアウトソーシング先だから、しばしば顧客の新製品づくり、あるいは新製造プロセスづくりのプロジェクトに協力することになる。

エンジニアリングは具体的なモノを売っているわけではなく、あくまで工場の設計・調達・プロジェクト管理能力などの、目に見えない『能力』を商品として売る行為だ。当然ながら、仕事の成果について、どれほどの実力があるのかが問われることになる。もっと具体的に言えば、「はたして新工場は必要な量だけ製品を作る能力を持っているのか」が問題になる。これを工場の性能保証と呼ぶ。

プロセス産業の世界では、しばしば製造プロセスの特許技術を海外先進企業から有償で導入することがある。たとえば、いまや世界の主要な産油国はあらそってLNGプラントを作っているが、その中核となる深冷熱交換器とガスタービンは、事実上、米国企業が技術を握っている。LNGプロセスの性能(生産能力)が年産300万トンの計画だとすると、エンジニアリング会社は、その性能保証を求められる。その保証の根本は、中核となる深冷熱交換技術のライセンサーに依存することになる。

ところで、LNGプラントというのは、ある意味で極めて特殊な工場で、そこで生産する製品はLNG1種類しかない。単品大量生産の工場なのである。それでは、多品種少量を志向した工場(つまり、現在では殆どの工場)では、生産能力は保証できるのだろうか。そもそも、多品種少量生産工場では、何を「生産能力」として定義するのだろうか。

意外にも、この問題は生産工学の教科書などを見ても、あまり書いていない。“明白すぎる”と思われているのかも知らないが、私にはそれほど自明なこととは思えない。連続生産の化学工場ならば、たしかに化学工学が計算式を教えてくれるが、ちょっとでもバッチ操作や切替が介在すると、話は簡単ではなくなる。まして機械組立加工や、食品・医薬品その他のディスクリートの世界では、どう定義すべきなのか。

私の答えは、こうだ。工場は生産資源の集合である。そこで、もし、ある製品が原材料から最終完成型になるまでに、1個当たり平均τ時間だけ、生産資源を占有すると仮定しよう。工場内の生産資源の総量をCとする。すると、この工場がその製品だけを製造した場合、その生産能力Pは、

 P=C/τ (個/時間)

となるはずだ。この式は、生産能力は製造資源の量(たとえば加工ラインの数)に比例し、純粋な製造リードタイムに反比例することを教えている。もっとも、正確には、工場の始業・終業の効果を計算に入れなければならないが、ここでは省く。

では、複数の製品が流れるときはどうなるのか。品種間の段取替え時間を無視すれば、製品iがτiづつ製造資源を占有すると考え、積和を計算することができる。

 C=ΣPiτi

この式をよく見れば分かるとおり、工場全体の生産能力(ΣPi)というのは、どの製品をどれだけの割合で作るかによって変わってしまう。リードタイムの長い製品の割合が多ければ、能力は全体として下がるし、その逆も真なりだ。まして、品種切替の段取り時間は、現実には決して無視し得ない。

ということは、複数品種を生産する工場の「総合性能」は、生産計画に依存するわけだ。そして、工場の設計者は、もはや総合性能など保証できなくなる。なぜなら、生産計画は(誰でも知っているとおり)需要という外界の影響によって、どんどん変わりうるからだ。工場の性能は動的属性なのである。

これは、自動車の問題に置き換えてみるとよく分かる。自動車の走行速度は保証できるかといわれたら、テストコースでの最大速度だったら保証はできる。機械的性能の検証はできるからだ。しかし、町中での平均走行速度を保証しろと言われても、それはできかねる。とうぜん、道がどれくらい混んでいるかに依存するからだ。

したがって、エンジニアリング会社の立場に戻ると、できるのは単体製品の製造能力の保証だけ、ということになる。工場という物は、機械設備と作業者と空間からなる、巨大なシステムである。そのシステムの総合的パフォーマンスは、環境と運用方針によって変わる。それは静的なものではないので、せいぜいできることは、仮定をおいてシミュレーションをしてみせることなのだ。

私はこのことを、もっと多くの、製造業にたずさわる人が理解して欲しいと思う。工場の総合生産能力とは、それを運用するポリシーによって変わる。それは他人に保証させるべきものではない。どんなに高速なエンジンを積んだ車でも、10mごとに信号で止まるような環境で使っていたら、それは無用の長物というべきものなのだ。
by Tomoichi_Sato | 2005-11-08 21:27 | ビジネス | Comments(0)