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ディスクリート・ケミカル産業

私は大学で化学工学を専攻した。カガクコウガクという学問名は、すべて「カ行」の音だけでできている上に、一つの単語の中に「学」が二回出てくる、きわめて珍しい分野名である(こういう語は、あと他に『科学哲学』があるだけだ)。

日本は言霊のさきわう国だというが、このように難解(?)な名称の学科を選択したおかげで、私は他人にうまく専門を理解してもらったためしがない。化学工学は広い意味では「応用化学系」に分類されているので、“ああ、化学が得意なんですね”と言われたりする。だが、現実は、全然違う。私は化学は大の苦手で、大学入試の理科の試験は物理と化学だったが、物理はほぼ100点に近い自信があったのに、化学はただ1つの小問を除いて白紙答案を提出した。

さらに、恥を忍んで告白すると、私は大学院の試験勉強のために、高校生向けの化学の参考書を買って勉強した。それでもパスしたのだから、化学工学という学問を専攻するのに、複雑な化学の知識は不要なことがよくわかる。私の知る範囲でも、化学工学を専攻した人の中で、化学に強い人は3割程度しかいないと思う。

化学工学は20世紀に入ってから発達した学問で、英語ではChemical Engineeringという。具体的には、化学装置と化学工場の設計論を目的にした工学である。米国ではMechanical Engineering=機械工学とならんで、人気の高い分野だ。機械工学は機械装置と部品組立工場の設計論だから、ちょうど対をなしている。いいかえるなら、化学工学はプロセス産業を支え、機械工学はディスクリート(組立加工)産業を動かしている。だから、化学工場の設計技師は『プロセス・エンジニアProcess Engineer』と普通呼ばれる。

ところで、化学工業=プロセス、機械工業=ディスクリート、という区分は最近、当たらなくなってきている。じつは、現代日本の化学産業には、見えない地殻変動が起きており、化学工場なのに製品はディスクリートのケースが増えているのだ。どんなケースか?

それは、いわゆる電子材料、あるいは高機能素材と呼ばれる製品をつくる工場である。たとえば有機EL材料、半導体封止材、発光素子、偏光フィルム、逆浸透膜といった製品群だ。こうした製品の特徴は、固体であること、単価が高いこと、組成は似ていても機能的な違いが大きいこと、などである。言いかえれば、高付加価値であり、かつ多品種化した製品群となっている訳である。

そして、それが相当の利益を稼ぎ出している。「会社四季報」などの化学のページをめくってみれば分かるが、日本の化学メーカーの多くは、すでに1年半から2年前に不況を脱しているものが多い。そして、その企業の収益を支える製品が、こうしたディスクリート・ケミカル製品なのだ。四季報には各企業の概況が要約されているが、“携帯向け素材が好調”“デジタル家電用途で成長”といった言葉が並んでいる。

かつて、化学産業では「バルクケミカル」・「ファインケミカル」という区分があった。前者はエチレンやBTXなど原材料から、せいぜい汎用ポリマーくらいまでの、物量の大きな上流側製品群を指す。後者は農薬・原薬・試薬・添加物・特殊ポリマーあたりの下流側製品群を指すことが多かった。共通点は、いずれも連続プロセスないしバッチプロセス中心で製造されること、物流の主要な形態は液・ガスないし粉体(大きくてもペレット)であることだ。

日本の化学産業は基礎原料の石油・ガスを輸入に頼らなければならない制約がある。このため、バルクケミカルでは規模の経済を追求しても、なかなか海外品に比べて競合がきつい。したがって、'70年代の石油ショック以降は、しだいにファイン指向を強めてきた。しかし、やはり付加価値を高めたければ、より消費者に近い素材に向かうことになる。

こうして、'90年代の後半から、ディスクリート・ケミカルの領域が生まれてきたのだ。この領域はある意味ではニッチ的だったため、大手化学メーカーだけでなく、新進の素材専業メーカーが活躍する余地を残しており、製品開発競争も活発である。官庁の法的規制もあまり強くなく、自由に技術力をふるうことができる。技術者として、非常に面白い分野である。

最初に述べたとおり、「化学工学」は本来、化学工場の設計論として発展してきた。しかし、この国では化学、とくにバルクケミカルは、公害問題以来あまりいいイメージを持たれていない。そのため学生に不人気となり、今や大学から化学工学科の名前がほとんど消えてしまっている。かわりにシステムとかバイオとか格好いいカタカナの混じった学科名になっている(ここらへんが言霊のさきわう国なのだ)。しかし、いざ外国に行くと、そんな新奇な学問名は通じないので、みな当惑する。

私は、むしろ化学工学は、新しいディスクリート・ケミカル産業に奉仕すべく、変化を遂げるべきだと思う。無論、従来のプロセス設計が急に不要になる訳ではない(とくに海外では)。しかし、今、一番進歩が活発なのは、この分野なのだ。そして、困ったことに、ディスクリート・ケミカル分野は、工場の設計論が未整備である。どこが難しいのか、どこに手がかりがあるのか、長くなってきたので、続きはまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-17 00:24 | ビジネス | Comments(0)

必要な人はいつもたった一人しかいない-その理由と帰結

個別受注生産におけるスケジューリング問題を根本から解決したければ、製品設計において、バリエーション・リダクションの方針を導入する必要がなる、と前回書いた。

ところで、これを書いていながら、ふと思ったことがあった。それは、バリエーション・リダクションのような方針変更はかなりラディカルな変革であり、しばしば設計部門・原価管理部門・営業部門など本社サイドからの、強い反発にあうということだ。

設計技術者にとっては、個別仕様に対してぴったりの最適設計をすることが、自らの誇りである。モジュールの組み合せで仕様を実現する場合、ぴったりの数字にはならず、9.5馬力でよい所に10馬力の駆動部をもってくるようなことになりがちである。仕様上の余裕があれば、その分、コストも上がることになる。そう、原価管理の担当者は考えるであろう。そうなれば価格競争力が落ちて、競合他社に負けかねない、と営業部門は恐れるだろう。

では、個別最適設計方針がつづけばどうなるか。設計の工数はかさむばかりだし、営業の手間も減るまい。が、本社部門の人件費は販売管理費に含まれる。販管費比率が高い責任は、誰も問われない。生産リードタイムが長いと、工場の年間生産能力は伸びない(1台作るのに1ヶ月かかれば年産12台だが、それが2ヶ月になれば6台しか生産できない)。しかし、工場長以外の誰がそんなことに責任を感じるだろうか? みな、自分の持ち場で最善をつくしているだけなのだ。

そうなると、結局困るのは経営者である。販管費が同業他社より高ければ、人員削減を考えることになる。製造に問題があれば、安い海外部品を調達するか、あるいは工場ごと中国に移してしまえ、という結論になる。では、その結論がもたらすものは何か? いいたくはないが、安易な海外展開での製造品質やリードタイムの行方は、火を見るより明らかだろう。だから、ゆっくりとではあるが、その事業部門は顧客の信頼も失って行く。そして、事業部門自体が撤退の対象になりかねない。こうして、長時間労働に耐え、最善をつくした多くの人たちが職を失うのだ。

極端すぎる議論だと思われるかもしれない。だが、これこそ過去5年間、日本の製造業で起こってきたことではないか。

いいかえるなら、ここには根本的な矛盾がある。技術者の仕事とは、「業務の設計・改善」それ自体を、主要な一部として含んでいる。それはつまり、仕事に関して『代替可能性を高める』ということだ。だから海外展開が可能になるのだ。しかし、代替可能性が高まるほど、それは技術者個人から、アイデンティティの根拠を奪っていく。

その結果、どうなるか。技術者はあらゆる機会をとらえて、個別な・特殊な・些末な・例外的な・だが重要な(少なくともそれ無しでは不便な)仕事を、自分のために作りだしてゆく。彼(彼女)個人がいないと、ビジネスが回らないようなものに仕立て上げてゆく。ルールを定めるのが本来の仕事なのに、例外事象ばかりを増やしていくのだ。

こうして、会社の業務は、外部のシステム・アナリストがちょっとやそっとでは分析できないような、複雑な処理系になっていってしまう。ERPパッケージをもってくれば、仕事が効率化・加速化できるなどという幻想は、例外処理の藪の中でいつのまにか崩壊していく。ルールや標準プロセスが混乱すれば、はびこるのは根性論ばかりになる。マネジメントの仕事は、精神主義の鼓舞になっていく。

このように、技術者に代表されるホワイトカラー階層とは、自分のスキル上の価値に固執するあまり、長期的には自分の存在基盤自体を掘り崩すようなことをしがちである。これが、経済合理性を追求するための組織であるはずの会社を、合理性からひきはなす効果をもたらすのだ。

この矛盾をとくにはどうするか。簡単なことだ。ホワイトカラーが、会社での仕事だけにアイデンティティの根拠を求めなければいいのだ。会社もあり、家庭もあり、それ以外のプライベートもあって、はじめて人間は全体性を保つ。家族にとって、コミュニティにとって、ある個人がかけがえのない、たった一人しかない存在であることこそ、大事なのだ。それを、ただ一ヶ所、会社にだけ仮託しようとするから、訳が分からなくなるのである。

ただし、そうなると、知的労働者は、もっと別の難しい問題に直面することになる。それは、「自分の人生の本当の目的とは何か」を考える、という問題である。たしかにこれは難問だ。とくに、自分の人生が有限なものであることを、皆、うすうす知っているから、なお難しい。そんな難しいことを考えたくないから、世の中という代物は、会社を発明したのではないかと思いたくなってしまう。

この問題は、ある意味で「製造は代替可能か」の続きでもある。価値というものは全体性の中にある。その中の一部分だけを切り出して、それだけを他の代替品と単価で比較しようとする考え方は、きわめてミス・リーディングだ。現代の経営論は、そんな部分品分解論の上になりたっている。だが人間は部分品ではない。人間にとっての「シビル・ミニマム」が、現代の経営論では忘れ去られている。しかし、どこの家庭にも父親・母親は一人ずつしかいないし、それは取り替えがきく存在ではないはずだ。そう、文化の次元においては、誰にとっても、本当に必要な人は、いつもたった一人しかいないのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-01 23:29 | ビジネス | Comments(0)

バリエーション・リダクションとは何か

個別受注生産における設計・製造上の方針のこと。個別受注生産方式をとっているメーカー(産業機械などに多い)にとって、部品点数の無制限な増加はつねに悩みの種である。部品点数の増加は、同時にBOMと工順の増加、部品在庫量の増大、発注リードタイムの増大、設計手数と図面枚数の増大など、数々の問題をもたらす。

規格の決まったカタログ部品は、ある程度見込みで生産するため、サプライヤー側も在庫がある。したがって発注リードタイムは短い。しかし個別仕様の部品はどうしても納品までのリードタイムが長くなる。つまり、製品の多様性と、発注から入手までのリードタイムとの間にはトレード・オフの関係があるのだ。多様で細かい注文が可能な製品の入手リードタイムは長く、カタログ的にパターンの決められた製品は入手がはやい。

逆に考えると、もし購買のリードタイムを短くしたければ、製造に使う部品や資材をパターン化して、種類を少なくした方がいい、ということが分かる。そうすれば生産の全体リードタイムがかなり短くなる。リードタイムが短くなれば、年間の生産能力も上がる。

しかし、個別設計の機械部品の場合、ボルト・ナットや一部の計器などの汎用部品は共通化できるが、あとは中核部品も周辺部品も、種類は同じでもサイズはほとんど別物になってしまう。ほとんどの部品は毎回、仕様を決めては発注し直すわけである。製品種類は多様なのに、部品の種類だけを減らすことなんかできない、と考える人が多い。

それでは、どうするか。このために登場するのが、モジュール化によるバリエーション・リダクションだ。これは、多様な製品を生み出すために、組合せを使う手法である。

たとえば、100種類の製品を作るために100種類の部品を毎回設計しなおすかわりに、10種類の部品群と10種類の部品群の組合せで実現する。こうして、部品の種類は20種類におさえながら、かけ算で100種類の製品を可能にできる。これがモジュール化の力だ。これを実現するためには、部品群の設計において、ある程度グループ・テクノロジーを使う必要がある。これは金属加工部品を念頭においていえば、部品をなるべく共通の母型から削り出すように設計する方式だ。

しかし、ちょっと待てよ、と思う方もいるだろう。理屈の上では、組み合わせて100種類作れるとしても、客先の注文にぴったりあうとは限らない。性能の点で余裕がでたら過剰仕様になるではないか? これは、そのとおりである。余分な性能は、その分よけいにコストがかかることを意味する。それに、設計のやり方もがらりと変えなければならない。

これに対する回答は、こうだ。お金の時間的価値(The Time Value of Money)の観点から見れば、材料費のアップよりも、設計時間や生産リードタイムの短縮の方が、ペイすることが多い。その条件は企業によりまちまちだが、算定することができる。ペイすると分かったら、バリエーション・リダクションを導入するべきだ。そして、たいていの企業では、このお金と時間のバランス判断をしないまま、単にコスト削減だけを追っているのである。

このように、スケジューリングの問題点を深めていくと、設計による解決にたどり着くことがしばしばある。だからこそ、設計と製造の統合された企業(「設計の価値」参照)が望ましいのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-03-28 23:29 | ビジネス | Comments(0)

必要な人はいつもたった一人しかいない

客先でのヒアリング日程が急につまずいたのは、帰る日の直前だった。見積のための概略の要件定義を進める中で、次回は工場の生産スケジューリングについて、詳しく聞きたいと申し出たところだった。その出張では、機密性の高い工場の実物見学は許してもらえなかったが、かわりに各工程のビデオ映像を見せてもらって、だいたいの様子は理解できたと思った。製造実行系および制御系システムの構成も、およそつかむことができた。あとは計画系だ。けっこうこの工場のスケジューリングはややこしいに違いない。本社からの受注オーダーに対して、どう製造指図を展開してひもづけていくのか・・・

ところが、相手方の管理者からかえってきたのは意外な答えだった。「スケジューリングはルールが複雑すぎるから、システム化しなくていいよ。」 驚いた私は、計画と実行は生産管理の両輪で、両者がかみ合わないと工場の真の能力は上がらないのだ、と説明した。そして、スケジューリングが複雑だと言うが、では、担当者は何人居るのかと訪ねた。答えは「一人」だった。では、この担当者が風邪を引いて一週間休んだら、工場はどうなるのか? そんな属人的なやり方で、主力工場を切り回していいのか。そう訪ねた。

すると、スケジューリング担当者の人減らしはとくに考えなくてもよい、と返事が返ってきた。別に人員削減を目的にシステムを提案している訳ではありません。そう説明したが、無駄だった。

その仕事は結局、受注できなかった。予算が合わない、という理由だった。果たしてそれが表向きの理由にすぎなかったのか、それは分からない。案外、実はそのスケジューリング担当者が、当の管理者の右腕だったのかもしれない。むろん詮索しても仕方のない話だ。しかし、その代わりに私は、ひとつの大きな教訓を得た。それは、「ホワイトカラーの組織では、ある特定の業務をうまく遂行できる人は、いつもたった一人しかいない」ということだ。

似たようなことを、私は要件定義のフェーズで、何回も経験している。業務プロセスのヒアリングをしていても、最初から最後までカバーして説明できる人は少ない。ある箇所になると、なにがしさんに聞かないとわからないな、という状況になり、その一個人の都合にスケジュール全体が振り回されるのだ。特定業務のキーパーソンは、つねに一人しかいない、のだ。

しかし、これはあるいは逆の方から言いかえた方がわかりやすいかもしれない。「ホワイトカラーはいつも、その人自身だけしかうまく遂行できないような、特殊だが重要な仕事を作り出すものだ」と。なぜ、そうなるのだろうか?

それは、多くのホワイトカラーにとって、仕事がアイデンティティであり、自己の価値証明になっているからだ。自己証明である限り、それは他人と違っていなければならない。他人では置き換え不可能なものでなければならない。代替可能でない物、それがアイデンティティなのだ。しかも、これはあまり明言されない。いつも内心だけのプロセスなのだ。

なぜホワイトカラーは、そんな風に無意識に信じたがるのか。工場労働者を考えてみるといい。ベルトコンベヤーで流れてきた部品にネジを締めるだけの人は、その仕事にアイデンティティを求めるだろうか。彼が居ないと成り立たない仕事だろうか。それは明らかに、代替可能な仕事だ。むろん熟練工という存在はある。しかし、工場のほとんどの仕事は、非熟練工・季節工でもそれなりにできあがるようになっている。そうなっていなかったら、それは工程設計がどこかおかしいのだ。

おわかりだろうか。マネジメントだとか、IE(インダストリアル・エンジニアリング=経営工学)だとかいった手法は、“誰がやっても70~80点の成果が出る”ように、生産業務のプロセスを組み立てるのことを目的としている。そして、ホワイトカラーの知的業務だって、同じはずなのだ。マネジメントの視点から見れば、“誰がやっても70~80点の成果が出る”ように、手法論やマニュアルや業務手順を組み立てることが求められる。

そして情報システムとは、まさにそのための目的のものではなかったか。それなのに、なぜ、そう機能しないのだろうか。長くなってきたから、つづきは次回書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-03-06 00:28 | ビジネス | Comments(0)

トヨタ生産方式の神話と現実

目の前に一冊の本がある。「トヨタ生産方式を支える最適化手法に関する研究」、小谷重徳・著(2004年)と題された、冊子ともいうべき本だ。現在、首都大学東京の教授である小谷先生の博士論文である。中身を開けてみると、素人には目がちらちらする数式の羅列がつづく。主題は、輸送費用と生産制約を考慮した組立ライン決定問題である。そして、この問題の線形計画法による厳密解が、じつは整数解になる理由などが書かれている。

知らない人は、“また学者が出てきて、トヨタの実践的な手法を、妙な数学で理論化しようとしているわい”などと思うかもしれない。しかし、それは誤解だ。小谷氏がこの博士論文を書いたときには、じつはトヨタ自動車に勤務しておられた。つまり、このいささか難解な数学は、この会社の生産計画を支える基盤なのだ。これがトヨタ生産方式の現実(あるいは、そのすごさ)なのである。

ビジネスの世界では、ときに奇妙な神話や誤解が流布することがある。中国生産はコスト低減の切り札だ、といった神話だとか、ERPを導入すると在庫が削減できる、といった誤解である。思うに、企業は自社の内部事情をあまり公開しないから、素人評論家の噂話や職業コンサルの意図した誇張が、まかり通りやすいのではないか。

最近はやりの神話はトヨタ生産方式にかかわるものだ。なにしろトヨタ自動車の業績が信じられぬほど好調だから、周囲の見る目が神様あつかいになるのも、いたしかたあるまい。そのトヨタについて、もっとも広く流布している誤解は、「トヨタ生産方式はプル型の受注生産で、生産計画など持たない」というものだろう。じっさい、元町工場の見学コースは、『かんばんと自働化こそトヨタ生産方式を支える二大要素』とビデオで見せてくれる。生産計画の文字はどこにも見あたらない。ましてや線形計画法などは。

「神様ではあるまいし、誰も先の需要などは読めない」--これはトヨタ生産方式を築いた大野耐一氏の言葉ではなかったかと思う。「だから生産計画など作ってもあてにならない。現実の需要変動に耐えうる工場を作るべきだ」・・論理は、そうつながりやすい。そして、「そのためにはカンバンを中心としたプル型生産の体系とするべきだ」との信念が生まれていく。こうした“信念”をもとに、『計画はずし』を指導するコンサルタントも少なくない。トヨタOBの中にも、そうした人たちがいると聞く。

ところで、上記のテーゼはトヨタ系列の部品メーカーには合致するかもしれないが、トヨタ自動車自体には当たらない。彼ら自身は、きちんと生産計画をたてて実行しているのだ。そうでなければ、お得意の「平準化」をどうやって実現できるというのか。トヨタ生産方式の中核は平準化にある、と私は銀屋技監から直接うかがったこともある。たしかに、作るべき計画台数がなければ、平準化などもともと出来ない相談である。

では、なぜ、「計画不要論」がトヨタの名前と結びついて広まったのか。私は一つの仮説を持っている。それは、自動車業界のサプライチェーンの特徴から説明できる。自動車の世界では、販売チャネル(ディーラー網)は、生産メーカー別に統制されているし、また部品生産も系列化されている。つまり、長いサプライチェーンのちょうど中心に、自動車メーカーがいるわけだ。そして、だからこそ、このサプライチェーンでは計画の意志決定はたった一ヶ所で行えるのである。

これは、たとえば電子・情報機器業界などと比べてみれば分かる。パソコンやデジカメは自動車とならんで、日本の製造業のもう一つの花形である。しかし、これらの商品は、チェーンストアやディスカウント店などが販売を仕切っている。店頭にはキャノンとソニーと東芝の機種がならぶ。これは自動車販売とは全く別の世界だ。販売の主導権は流通業界が持っているために、電子情報機器のサプライチェーンでは、意志決定ポイントが最低でも2ヶ所(流通と組立生産)になってしまうのだ。

部品サイドで見ると、自動車ではカローラのシートをフィットに乗せるわけにはいかないから、部品生産は必然的に系列化されやすい。一方電子業界では、電子部品は互換性が高い。だから系列でしばりにくい。こうして、部品メーカーもまた計画が必要になる。

くり返すが、自動車のサプライチェーンでは意志決定ポイントは一ヶ所で十分なのである。むしろ部品メーカーが勝手に、車両メーカーの計画を無視して、余計な生産計画などを立て始めたら、余計な在庫が発生しコストアップにつながる可能性が高い。だから、「考えるのは自動車メーカーのみ。あとの部品メーカーは、その計画に従うように制御されていればよい」という論理が成り立つ。その制御のツールとして、『引取りカンバン』が使われるのだ(今はほとんど電子化されているが)。

おわかりだろうか。『生産計画不要論』は、自動車業界で、部品メーカーにとってのみなりたつ論理なのである。この前提条件を理解せずに、どこの業界に対してもドグマとしてふりまわせば--それはもはや、神話とよぶべきものだろう。

(線形計画法に興味のある方は、小谷重徳・他「輸送費用と生産制約を考慮した組立ライン決定問題」日本経営工学会論文誌、54-4(2003)をご覧になるとよい。これは平成15年度日本経営工学会論文賞を受賞している)
by Tomoichi_Sato | 2006-02-24 00:49 | ビジネス | Comments(2)

特別な我が社

考えるヒント、2001/2/03より)

ITコンサルタントの仕事をしていると、つくづく面白いと思うことがある。仕事柄、さまざまな企業を訪問して話を聞くわけだが、訪れる会社はどこも、「自分のところの業務はひどく特殊だ、ウチは特別な会社だ」とおっしゃるのである。どの会社もどの会社も、“これこれの理由でウチはよその会社とちがう”と主張される。

いわく、「ウチの業種の製品は鮮度管理が非常にきびしいから」「ウチの製品はお客様の生命に直接かかわるものだから供給の責任があって」「ウチの業種は可燃物を大量に取り扱うので消防法のこうるさい設備検査が必要で」「ウチの業界はものすごい多品種少量で、かつ製品のライフサイクルがめちゃくちゃ短いから」「徹底したカンバン方式で工場を回しているから」「完全受注生産でリードタイムが長いから」「小さく高価で壊れやすいから」「場所ふさぎなのにひどく安価だから」etc...

“というわけで、外部の方には我々の問題の難しさはご理解いただけにくいでしょうねえ・・”と続く。

そして結論はというと、
「だから平均的な製造業向けにつくられたパッケージ・ソフトではウチの仕事はうまく取り扱えない」
という風に誘導されるのだ。特殊性を強調されたあげく、ほとんど判で押したかのように、同じ結論にたどり着くところが面白い。

そんなことはないのである。

この仕事をやってみるとわかるのだが、日本の製造業が抱えている問題点というのは驚くほど共通性が高いのだ。それは、非常に圧縮した形で表現するならば、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということになる。だから調達から販売までのサプライチェーンのあちこちで、プルとプッシュが混在しているのである。

したがって、解決の手法も一つの事例できちんと確立してしまえば、あとはかなり応用が利く。若いコンサルタントでも、見習いで3社の事例をやってみたら、4社目からは中核の問題を自分で見つけることができるようになる(むろん、応用問題を解くにはその業種の個別知識と、人を動かし説得できるだけの知恵がいるから、経験もなしにすぐに独り立ちできるわけではないが)。

「パーキンソンの法則」で有名な経営学者C・N・パーキンソンは、「コンサルタントの仕事はミツバチに似ている」と言っている。花から花へ、花粉を運ぶ蜜蜂のように、コンサルタントはある会社で見つけた知恵を別の会社に運んでそこに植え付ける訳である。自分自身では花粉を作り出したりしない(知恵を生み出したりしない)点が面白い。こう書くと怒り出す人もいるだろうが、かなりの程度、真実に近い。

個別性・特殊性の強調は、なんとなく日本の文化に根ざしているのかな、とも思う。丸山真男が『日本の思想』で分析して見せたように、日本では「理論信仰」と「実感信仰」が表うらの関係で支え合っている。外国から直輸入した公式的理論によって現実をばっさりと切ってしまうような風潮と、逆にその防御として、個別の事象・実感をならべたてて共通論理をいっさい否定してしまう態度。まるで「パッケージに業務を合わせろ」「いや業務に合わせてすべてカスタマイズしろ」という水掛け論を聞いているかのようではないか。

面白いことに、私のつきあった範囲では、欧米の会社からはあまりこういう「ウチは特殊だから」論は出てこない。それも当然だろう。彼らはそもそも、みずからの独自性を前提として生きている。一人一人に個性がある、というところから思考は出発する。その上で、個別の事物を包含するイデアが存在する、というのが西欧の哲学だからだ。

哲学抜きで特殊論にしがみつく国には、ただ“諸行無常”の風が吹くだけかもしれない。
by Tomoichi_Sato | 2006-02-01 22:39 | ビジネス | Comments(0)

意味無しコードのすすめ

商売柄、多くの製造業の顧客に接していると、つくづく感じることがある。それは、生産の世界はとても多様なのに、抱えている問題はだいたい似通っている、ということだ。工場と生産のあり方は、つくるモノによって非常に異なる。電子材料・精密機器・医薬品・飲料・アパレル・産業機械・化学・原子力関係・・最近かかわった業種をランダムに思いだしてみても、それぞれじつに多様な条件下で、ものづくりが行なわれている。

にもかかわらず、多くの企業で抱えている問題には共通点がある。それは一言でいってしまうとサプライチェーンの悩みであり、それをささえるマテリアル・マネジメントの変化の悩みである。工場は大量・見込み生産の形で大きくなってきたのに、販売はどんどん多品種少量・短納期受注生産のスタイルを要求される。新製品をつぎつぎに市場に投入しなければならないのに、製品開発も量産準備もそれに追いつけずにいるのだ。

それなのに、どこの会社も判で押したように「自分の問題は特殊だ」と信じ込んでいる。この滑稽さは、以前、「特別なわが社」で書いたから、今は触れない。

しかし、「会社四季報」などを見るとつくづく思うのだが、そもそも化学・繊維・機械といった『業種分類』など、いまでは住民票の“本籍地”程度の意味しかない。化学企業が電子部品を作り、繊維メーカーが医薬品で儲け、素材メーカーが飲料を売って成功をおさめているのが今日の姿である。もはや“現住所”はずいぶん離れているのだ。それだけ、日本の技術者の適応能力が高いのだ、とも言える。

しかし、それに比して、管理技術の方は、なかなか進展も変化も見せないものらしい。製品市場では世界に知られる先進企業でも、工場を子細に見ると“えっ、まだこんな方法で生産管理やっているんですか!?”と驚かされたりする。10-15年前に、本籍地から現住所に移ったときの、旧い管理の考え方が、まだそのまま残されていたりするのだ。その一番典型的な例が「意味ありコード」である。

「意味ありコード」とは何か。それは、マテリアル・マスタ(会社によっては部品マスタとか品目マスタとか種々の名前で呼ばれるが)において、それぞれのマテリアルを識別するためのキー・コードのあり方である。そのキーを発番する際、複数の桁区切りをつかって、桁ごとにいろいろな意味を持たせる。これを「意味ありコード」と呼ぶ。

たとえば、PA-C12-74901 という品目コードを持つ部品があったとする。最初のPAは、流体計器という製品ファミリを表わし、C12は製品を構成するサブ・アセンブリのコード、次の749は仕入先のコードで、01は連番、といった具合だ。よく見かける「意味ありコード」の例である。なれた人は、コードをじっと見ると、それがどのような部品で、どこから仕入れて何に用いられるのか、だいたい分かるようになる。とてもインテリジェントな、優れモノのコード体系である・・はずである。

ところが、多くのメーカーでは、これが足かせとなり桎梏となってきている。その理由は、製品の多品種化と、製品領域のシフトである。多品種化にともない、共通部品や共通原料が増えてきた。そうなると、なまじ最終製品に紐づけられた部品コードは不便になってきた。それに輪をかけるのが、製品領域のシフトである(つまり「本籍地」から「現住所」への引っ越しだ)。製品ファミリの概念さえ、次第に現実に合わなくなってくる。こうなると、なまじ「意味ありコード」だったものが、何がなんだか見てもさっぱり分からなくなってしまう。

やっかいなことに、このマテリアル・コードの意味論の混乱は、目に見えない。工場の中で部品の搬送や保管が混乱すれば、だれの目にも明らかだ。しかし、コード体系の混乱は、真面目に生産管理に従事している実務者たちにしか気づれかない。だが、この目に見えぬ混乱は、思いもよらぬ所に影響を及ぼす。それは、製品開発スピードへのブレーキである。もっと具体的に言うと、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の乖離、という形で現れてくる。これが進むと、量産準備の途上でさまざまなトラブルが発生してくる。一番良くないのは、設計部門と工場部門との部門間の軋轢が増してくることだ。

これを避ける方法は一つしかない。それは、「意味なしコード」を採用して、マテリアル・マスタを作りなおすことだ。意味なしコードとは、文字通り、桁区切りなどに意味を持たせない。単純な連番によるコード体系だ。コードだけ見ても、何かよく分からない。だが、別にそれでよいのだ。今日では、どこの端末からでも、マテリアル・コードを検索できるはずだし、今できていなくても、検索可能にすることはたやすい。人間が目で見て判別できるコードが便利だったのは、紙で台帳をつくっていた時代のことなのだ。

考えてみてほしい。あなたの社内の従業員コードは、意味ありコードになっているだろうか? その人の所属部門や年齢や出身によって決まっているだろうか? そんなことをしたら、毎年コードを変えなければならない。だから、たいていの会社は意味なしコードになっているはずである。会社で一番重要である(ということになっているはずの)社員でさえ、意味なしコードで管理しているのだ。なぜ、部品だけは意味ありコードにこだわるのか?

生産管理の仕事を頼まれた場合、私はその顧客のマテリアル・マスタのコード体系を必ず見ることにしている。その作り方で、企業の生産管理のレベル、ひいてはサプライチェーン管理のレベルがだいたい分かるからだ。ただし、意味なしコードへの移行は、単純ではあるが必ずしも簡単な仕事ではない。ある大手通信機器メーカーでは、E-BOMとM-BOMを統合するために「意味なしコード」を使ったが、統合作業自体はかなり大変だったとのことだ。無理もない。コード体系の見直しは、それ自体がプロジェクト・マネジメントを必要とする、立派なプロジェクトなのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-29 23:59 | ビジネス | Comments(0)

論理的だが、システマティックでない人

「考えるヒント」 2003/04/18 より)

私はシステム・アナリストです、と自分の仕事を紹介することが多い。アナリストという言葉を知らない人もいるから、私はシステム・エンジニアです、と言うこともある。両者は別物なのだが、それで相手はなんとなく分かった気になってくれるらしい。

そして、おきまりのように二つの質問をされる:「コンピュータのことにお詳しいんでしょう?」と、「システム関係のお仕事の人は、論理的でシステマティックな考え方を身につけておられるんでしょうね」と。

私の答えは、じつはどちらもNOである。率直にそう答えると、たいてい相手は落胆するか怪訝な顔になる。そこには、世間の人が抱いている『システム的』なるものへの偏ったイメージ、ないしは大いなる誤解が隠されているのだろう。

まず最初の質問の方だが、私はたいしてコンピュータに詳しくない。平均的な人より多少は知っているかもしれないが、アナリストの仕事の大半は、人間が何を望み何を必要としているかを考えることにあるので、計算機については一通りのことを理解しておけば済む。

しかし、システム=コンピュータ、という誤解は根強い(このサイトを読んでくれるような方ならば、こんな単純な等式は信じないだろうが)。そこで、私はよく「キャバレーの“明朗会計システム”にはコンピュータはいりませんよね」と説明することにしている。この“システム”の用語の使い方は、まったく正当なものだ。「うちの在庫管理方式はダブルビン・システムです」といって説明するのと本質的に等価である。

では、二つ目の質問はどうか? これも嘘だ。私の知っているかぎり、IT業界には、論理的だがシステマティックにものごとを考えない人たちが、沢山いる。そして、コンピュータが大好きで技術に詳しい人ほど、その傾向が強い。

システマティックな思考方法とは何か? 私自身はまだよく分からない。よく分からないから、「私はシステム思考を身につけています」などとは口が裂けても言わないことにしている。しかし、システマティックに仕事にアプローチする人々は、数多く見てきた(とくに外国で)。たとえば、「パンのみに生きるにあらず」で紹介した米国人コンサルタントだ。“この会社のミッション(使命)は何か? では、それを実現するための戦略は何と何があるのか? ならば、その戦略の実効性を計る指標KPIはどれとどれを選ぶべきか?”・・と、最終目標から手段が展開されていく。こういうのを見ていると、たしかに論理的でシステマティックなアプローチだな、と率直に感心する。

ところが、IT技術者と話していると、なかなかそうはいかない。「生産管理システムのサーバ機種ですが。」彼らの議論は、こんな風にはじまる。「私の考えでは、このトランザクション量から考えると、やはり2CPUクラスのunixマシンでしょうね。最近はLinuxベースでも安価で信頼性の高いものが出てきたから・・」と、どんどん続いていく。

なるほど、ロジカルだ。だが、彼らの思考はちっともシステマティックではない。生産管理システムを作るとしたら、従来の仕事のやり方の変革、元になる部品表や在庫データの精度、サプライヤーとの関係などなど、重要な問題は他にいくらでもある。それなのに、なぜ今サーバ機種の話なのか?

こういう人たちの特徴は、目的に比して道具に対するこだわりがアンバランスに大きいことである。全体の中の一要素(コンピュータ)だけ注目する。つまり、木を見て森を見ないのだ。

いや、コンピュータ・マニアに限らない。カー・マニアでも兵器マニアでも、何とかオタクと呼ばれる人たちは、たいていそうだ。目的を忘れて道具にのめり込む、それがこの人達の特徴だ。(念のため言っておくが、これは日本人ばかりではない。欧米にもそういう文化的傾向を持つ人はいくらでもいる)

そして、彼らとの論議には、細心の注意が必要になる。なぜなら、彼らはとても論理的だからだ。そしていろんな物をよく知っている。ただ、目的から逆算して、ことの軽重を計ることをしないのだ。部品に注目するオタクの議論にまきこまれないためには、つねにシステム全体を見渡して、大事な要素から展開するという考え方に戻す必要がある。「本当にそこのサーバの性能がプロジェクト全体のボトルネックになりますか?」

道具からの発想か、目的からの発想か。そこを忘れて、論理的な局地戦にまきこまれないよう、注意しよう。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-26 23:49 | ビジネス | Comments(0)

製造は代替可能か

もう10年以上も昔の話だから書いてもいいと思うが、米国Apple Computer社が、初の軽量ノート型Macintosh PowerBook 100を発売したとき、実際の製造は日本のSONYが請け負っていた。

そのころ技術者から聞いたのだが、SONYは小型化・軽量化の見地から、Appleの設計部門が出してきた設計図に対し、改良提案をいろいろと出した。しかし、Appleはそれをことごとく却下し、「自分たちの設計どおりに作れ」というスタンスを曲げなかったという。いかにも米国流のエンジニアの態度ではある。つまり製造は設計の下僕である、らしい。いやなら、ソニーではなく別の安価な受託製造会社に作らせれば良いのだ。事実、AppleとSONYのMacでの関係は、PowerBook 100だけで終わった。

ある意味で似たような経験が、じつは私にもないではない。米国企業のプラント建設の仕事を請け負ったときの体験だ。当初の合意では、「バリュー・エンジニアリング」による節約の利益は、顧客と我々エンジニアリング会社が半々でシェアすることになっていた。だから我々は最初、いろいろとアイデアを提案したのだ。しかし、客先と結んだ契約書には事細かに基本設計の仕様が定められており、その中には顧客の膨大な技術標準も含まれていた。れを遵守しないと二重三重のペナルティが課せられることになっていた。

我々の提案のうち、材料や設計を軽減する案は、契約を盾にことごとく退けられた。そして少し余分な設備投資をして、運転費用を軽減する案も、結局当初予算を守るという金科玉条のもとに退けられるのだった。とにかく、彼らの決めた基本設計と技術標準を逸脱することは、決して許さないのだ。計算で根拠を示して「これでも大丈夫でしょ?」と説明しても、『契約書では』の一言につねに舞い戻る。相手との対話はエンジニア同士の会話と言うより、弁護士と話しているみたいに思えた。

どんな基本設計でも完全というものはない。われわれが詳細設計に着手する中で、矛盾に気づいたり、より経済的な案を思いつくことはいくらでもある。それがエンジニアリング会社の価値だ。そのときまで、私はそう信じていた。それなら、なぜ、改善提案を受入れないのか。それは、彼らが「詳細設計以降、調達や建設工事は力仕事であって、誰でも出きるはずのことだ」と信じ切っているからなのだった。もっと言うと、請負エンジニアリング会社が基本設計から逸脱すると、彼らスタッフ自体が評価で罰せられるのだ。

私は、エンジニアリング会社は良い下僕であるし、あるべきだと思っている。少なくとも、海外市場における石油ガス分野においては。この分野ではすでに基本設計と、詳細設計・調達・建設(頭文字をとってEPCと略称する)は分割されている。基本設計完了後は、EPCは原則として入札にかけられる。入札すると言うことは、つまり「誰がやっても同じ(代替可能だから、一番安い下僕を選ぶ」という意味なのだ。代替可能なものは、相応の値段だけで決まる。そこには、本質的な付加価値はない。

同じようなことを、米国の企業は、工場についても考えているらしい。製造は誰がやっても同じだから、安い海外企業に受託生産させる。「誰がやっても同じ」とは、言いかえれば「設計こそ価値の源泉なのだから、そこはいじらせない」という意味だ。ちょうどAppleがPowerBookについて実行したように。その結果として、米国の製造業は空洞化し、もはや、もぬけの殻の状態に近づいている。

その同じ道を歩いているのが日本だ。そうでなければ、あの「中国生産移転ラッシュ」は何だろうか。製造機能は代替可能だから、人件費の安い海外にシフトすればいいと、本社にいる頭のいい人達がみな信じた結果ではなかったか。

ところで、本当に製造は代替可能な仕事なのだろうか。そこには何の付加価値もないのだろうか。

技術の本質は、誰がやっても同じ結果になるようなプロセスを作りあげることにある。そういう意味では、日本の製造技術のレベルがきわめて高くなったために、代替可能性が高まったのだと、言えなくはない。だとしたら、日本の生産技術者達は、明らかに自分たちが不要になるように、一所懸命に努力をしてきたことになる。

だが、製造作業自体はともかく、生産マネジメントも代替可能だろうか。「製品という名のシステム、工場という名のシステム」でも書いたとおり、工場とは一個のシステムである。システムは、動的特性が身上である。工場が未来永劫、同じ製品を作りつづければいいのなら、そこには何の「改良」の余地もない。しかし、現実は、製品も変わり、原材料も変わり、環境も法規制もかわり続ける。その中で、真に適応能力を出せるかどうか、それが工場システムの動的特性の一番大切な部分だ。

たとえば、あのトヨタが自動車の製造を単に外部の工場に委託して、自分はファブレス・メーカーになることがありうるか、ちょっと想像してみるといい。「トヨタ生産方式」の生み出した原価低減の魔術を捨てて、ただ人件費の安いだけの会社に生産移転するかどうか。賭けてもいいが、彼らは決して製造が代替可能だとは思っていないに違いない。

もっとも、トヨタ自動車は生産企画部出身の社長が出る、数少ない会社だ。日本の製造業では例外的に珍しいといってもいい。ウソだと思うなら、あなたの会社の役員に、生産管理出身の重役が何人いるか数えて見ると良い。営業畑や財務や研究開発など、生産現場を知らない役員から見たら、工場は代替可能にみえても不思議ではない。

昨今、製造業の「日本回帰」が見られはじめているという。海外生産の失敗には、いくつか教訓があるはずだ。その中の一つが、「製造にも大事な価値がある」という教訓であることを、私は心から願っている。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-12 23:27 | ビジネス | Comments(0)

設計の価値

最初に、ブルネレスキのことからはじめよう。日本ではほとんど名前を知られていないが、初期のイタリア・ルネッサンスを代表する人物の一人だ。フィレンツェに旅行に行く人が必ず目にする、花の聖マリア大聖堂の半球形ドームは、彼が作った。



「彼が作った」という言葉を、私は意図して使っている。彼は設計しただけでなく、建設工事の責任者でもあったのだ。つまり今風に言えばプロジェクト・マネージャである。彼は石の積み方にも工夫をこらしたし、二重ドームの間に作業者が立って歩けるスペースを確保する設計にした。施工しやすい設計をしたわけだ。職人のストライキにも見事に対処した。

彼が設計者・兼・建設責任者だったことは特筆して良い。日光東照宮の左甚五郎の立場と同じである。設計者が実作も行う。それは近世以前はあたりまえのことであった。たとえばミケランジェロ作の彫刻が、じつは彼のデッサンをもとに弟子が好きに刻んだものだったとしたら、あなたは怒らないだろうか。少なくともフィレンツェ市評議会は許さなかっただろう。

設計者と施工者が分離してくるのは、近代イギリス以降のことである。産業革命以降の建築需要の増大にしたがって、設計と建設の分業が発達する。設計兼建設という大工の親方制度では、まかないきれなくなったのだろう。それは、音楽の世界で作曲家と演奏者が分業してくる時期と、妙に一致している。市民社会の勃興、聴衆の増大が、それを要求したのだ。大量生産はつねに分業を要求する。

しかし、それとともに劣悪な建築や手抜き工事が横行しはじめる。そこで設計と施工を兼任できないよう分離させ、しかも設計者に施工が図面の指示通りかチェックさせる制度が成立する。第三者によるチェックは、簡単には人を信じない「紳士の国」の性悪説文化が産み出したものだ。

建築設計書の構造計算を偽造して、鉄筋・鉄骨量を削減した建物の問題が、このところ世の中をゆさぶっている。恐ろしい話だ。しかし、設計に反した手抜き施工だったのではなく、設計自体に問題があった。設計施工分離では防げなかった所に、根の深さがある。もっとも、この国の建設行政はすべて性善説に立って運用されているようだから、氷山の一角にすぎないのかもしれない。

偽造した建築士が何を考えていたのかは、分からない。しかし、たいていの建築設計者が考えていることは、私には想像がつく。それは、「設計は建設工事の下請けじゃないはずなのに!」という怒りだ。建設業界には『設計協力』なる言葉がある。簡単にいうと、詳細設計などの力仕事の部分を、建設工事を受注する(予定の)ゼネコンが手伝うことだ。設計・施工分離の原則は、こっそり無視される。施工監理など看板だけになる。

ゼネコンによる設計協力の慣行が成立する理由は、建築設計の仕事が、通常の設計費だけでは安すぎて割に合わないからだ。一方、建設工事を請負う業者側は、設計に人を出しても利益を出せる。だから、建前はどうあれ、力関係は、
 ゼネコン>設計事務所
になる。こうして、設計が施工者の都合によってねじ曲げられる下地がつくられていく。

この国では(そして私の知っているたいていの国で)、モノにはお金を払うが、設計という知恵にはお金を払わない。いわば「実物経済」である。こうした実物経済主義は、最終的には設計の品質低下をまねくのだ。耐震強度偽装問題は、その象徴である。

そして、問題はマンション・ホテル建築の世界だけで起きてるわけではない。あらゆる「製品」という名前のモノに、それは起こり得るのだ。数値的性能はすばらしく、見た目もまあそれなりだが、全体に使いにくく、妙にこわれやすい商品を、私はいくらでも知っている。設計に個性のない製品だから、価格だけが勝負になる。その結果、韓国製や中国製にどんどん負けて行く。これこそ、「ものづくり大国」日本が、設計の価値を軽視してきたツケなのだ。

誤解しないでいただきたいのだが、私は設計者と製作(施工)者の役割は対等だと思っている。往々にして、
 建築家>建設業者
のような主張をしたがる人がいるが、私は組みしない。設計も重要だし、建設のプロジェクト・マネジメントも重要だ。ブルネレスキの例を思い出して欲しい。彼は両方を兼ねていて、だから彼の仕事は偉大なのだ。

拙著「BOM/部品表入門」の中で、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の分離背反の問題を描くため、あえて私は、ちょっといやみな設計技術者を登場させた。彼は「製品開発こそ会社のコア・コンピテンシーだ」というような、エリート意識の強い発言をする。そして本社にいて、製造の実際を知ろうとしない(これは戯画なので、この節を読んで気をわるくされた設計技術者の方がいらしたら、陳謝したい)。しかし、設計と製作が分離してしまうと、製作現場での知見や知恵が設計にフィードバックされなくなる。設計が一人よがりになる。これは決して望ましいことではない。

私が理想と考えるのは、設計と製造、設計と施工、設計と実装が、「統合」された世界である。設計の知恵と実作の知恵は性質が違うが、たがいに補い合える関係にある。たとえ組織上は区切られていても、両者がともに協力できる仕組み。その中でこそ、設計の価値も経済で認められると思うのだ。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-01 12:10 | ビジネス | Comments(0)