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科学の子

JR高田馬場駅のホームで乗り降りしたら、耳慣れた曲が聞こえた。電車の発着のベルのかわりに、アニメ「鉄腕アトム」の主題歌が聞こえたのだ。谷川俊太郎作詞・高井達夫作曲の、あの“空を超えて~、ラララ、星の彼方~♪”という歌である。この駅だけ、なぜ鉄腕アトムなのかは、よく知らない。もしかしたら手塚治虫の虫プロが、かつてこの地にあったのかもしれない。いずれにせよあのメロディは、昭和30年代に生まれた男の子なら、誰でも知っていた。

この歌を想い出してみると、もう少し先で、“心優し~、ラララ、科学の子~♪”という風に音階が盛り上がっていく。「科学の子」! 今日の世界では、決して思いつかないフレーズだなあ。若いときの谷川俊太郎は才能があったのだろう。いずれにせよ、今ではこんな言葉、誰もロマンチックには感じまい。

科学というものが、ロマンチックな性質を持つことを、もはや皆が忘れているらしい。エンジニアはみな、科学を学ぶ。技術は科学の裏付けがなければ、たんなる職人の手仕事にとどまってしまう。技術者を志す大きなモーメントは、科学というものの持つ限りない可能性と、理知的な精神の結びついた、ロマンチックな性質だったはずだ。

最近、情報系の学科は入学希望者がたてつづけに減ってきている。知り合いの大学教授から、そう聞いた。さもありなん、とも思う。IT産業はこの20年間というもの花形だったが、それを支えるソフトウェア技術者は過酷な労働環境を強いられる職業だと、誰もが思うようになった。技術者というより、ソフトウェア労働者と呼んだ方がふさわしい。しかも、それで大金が儲かる確率は、もはや極めて小さい。企業は中国かインドに仕事をアウトソースしようと虎視眈々だ。経済産業省が鉦と太鼓で育成の音頭をならそうとも、誰がそんなしんどいばかりの仕事に就きたいと思うだろうか?

似たようなことは、工学部全般に言える。青少年の理工系離れを防ぐために、いろいろな人が策を提言しているが、私は悲観的だ。なぜなら、エンジニアという職種は、今の産業界では、たいして報われないからだ。嘘だと思うなら、製造業の役員リストを調べて、その中に生産畑・研究畑出身がどれほど少ないかを見てみればいい。彼らの科学知識は、彼らのキャリアを豊かにするために、どれだけ役に立ったか? こうした事実に目をつぶったままで、青少年だけを、使いやすい歯車として育てようというのは虫が良すぎる。

つい先日、同年代のエンジニアで飯を食いに行って、しばらく雑談した。話は彗星にロケットを打ち込んで、そこから物質サンプルを持ち帰るプロジェクトの成功と失敗要因に至り、おおいに花が咲いた。こういう話は楽しい。もっている科学知識をあれこれ動員して、想像力の翼を多少なりと羽ばたかせることができる。こういう議論をしていると、ああ、自分たちはまだ科学の子の意識が、少しは残っているな、と感じる。わずかなりともそこには、歳を忘れさせるロマンティックな香りがある。

リスク確率にもとづく貢献価値理論について、最近あれこれと考えている。その中で、タスクの貢献価値の比率は、その仕事の難易度(つまり代替可能性の小ささ)に比例することを証明できた。これを応用すると、コストセンターの生産部門の貢献価値が、プロフィットセンターの営業部門よりも大きくなる条件も示せる。お金を使うばかりの部署でも、価値の源泉であることが示せるのだ。こういう発見こそ、科学的アプローチの醍醐味だろう。

製造は代替可能ではない、と私は言い続けている。設計もそうだ。こうした仕事は単なるコストセンターだから、さっさと海外に移転すべきだと考える今日の経営思想に、私は反対だ。販売はプロフィット・センターであり、マーケット・インの環境下で強い発言権をもつのは当然だ、と多くの人は思っているらしい。私はこれにも完全には同意しない。モノの感覚に裏打ちされた科学のセンスを失うと、組織はしばしば言葉の上だけで空回りを始める。言葉では何でも言える。だが、言葉による論理の暴力に対抗できる力を持つのは、検証可能な事実に即して考える訓練を経た者、すなわち科学を身につけた者だけなのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-06-05 00:33 | ビジネス | Comments(0)

稼働率のパラドックス

現在の日本の製造業が抱えている問題構造は、業種が違ってもしばしば似ている。それは、見込生産向けの工場で、受注生産をこなそうとしていることから生まれる。あるいは、より正確に書けば、「市場からの要求によって、大量見込生産から受注生産に工場はシフトせざるを得なくなってきたのに、企業の管理はあいかわらず見込生産の考え方で行なおうとしている」ことだ。この問題は、以前「特別なわが社」にも書いた。

見込生産から受注生産にシフトしてきた理由は、簡単に言うと、物不足の時代からモノ余りの時代になってきて、需要家・消費者の要求が細かく個別化してきたからだ。プロダクト・アウトからマーケット・インの時代になったといってもいい。こうして、一つの工場の中に、自社の予定で作る標準製品と、顧客の要求で作るカスタム製品が、混在するようになった。

工程や生産ラインも、これに合わせて少しずつ変えて行かなくてはならない。品種の切替が増えて小ロット化するから、治具や設備やレイアウトも変えなければならない。新製品の導入もめまぐるしい。生産技術部は大忙しである。

ところが、困るのは、管理者側の尺度が見込生産時代のままであることだ。その典型が、「稼働率」である。

見込み生産では、工場の設備稼働率は高い方がいい。たくさん作れば、それだけ生産効率は上がって原価が下がる。そう考えられてきた。作れば売れるから、少しくらい製品在庫が増えてもかまわない。だから必然的に大ロットを追求することになる。生産管理者は、努力して稼働率を上げればほめられた。

ところが、受注生産ではこれが逆なのだ。受注生産では、努力すると稼働率は低くなる。なぜか。それは、同じ100個の製品を作るのに、4時間でできる場合と、5時間かかる場合を想定してみれば分かる。1時間あたりの生産量は、25個と20個だ。当然、4時間で作れる方が、生産性は高い。だが、1日8時間労働だとしたら、5時間働いている方が稼働率は高くなるではないか。

どうしてこういうパラドックスが生まれるかというと、受注生産では、工場が作るべき量が最初から定められているからだ。生産量は工場側の意思では決められない。では誰が決めるのかというと、営業部門である。だから、今日の多くの企業では、営業部門が工場に対する発言権を多く持つようになってきた。

これに対して、工場側での意思や努力は、生産効率を上げること、すなわち稼働率を下げることに現れるのである。だが、不思議なことに、今日でも、稼働率を下げたからといってほめられる企業はめったにない。生産管理者は、逆のことを求められるのである。

求められて、どうすればいいのだろうか? どうみたって、稼働率は生産量を生産効率で割った数字で決まってしまう。つまり、稼働率は生産量の従属変数なのだ。そして、生産量は工場側ではコントロールできないのだ。

そこで、工場側では仕方なく、労働者を削減したり、外注工程を切ったりして、対応することになる。こうして、長時間労働と、モラール低下と、サプライヤーとの関係劣化が生まれてくる。

稼働率で管理してはいけない。これは以前も書いたことだ。しかし、もう一度、声を大にして言おう。受注生産が少しでもある工場では、稼働率で管理してはいけない。
by Tomoichi_Sato | 2006-05-25 00:08 | ビジネス | Comments(0)

なぜ原価が下がらないのか

生産管理の最重要課題は「最小の在庫で顧客の納期を守ること」、すなわち、需要と供給の線を一致させるよう、生産システムを運用することだ、と先週の「生産管理とは何か」で書いた。

ところで、たいていの企業では、生産管理の目的は原価低減だ、と考えられている。まず何よりコスト削減が主題。それから、品質の確保。納期は三の次である。というか、納期はたくさんの在庫によって守られているため、問題意識にあまりのぼらないようになっている。

なぜ、そうなりがちかというと、背景には会社の目標管理と分業主義がある。製造業は大きく販売部門と生産部門に分かれる。そして、販売は売上高、生産は原価で管理することが当然だと経営者は信じている。なぜなら、企業の利益は

 売上高-製造原価=利益

という式で決まるから、との理解だ。利益を上げるためには、売上高を増加させ、製造原価を下げる必要がある。したがって営業も工場も、各々の持ち場で最善をつくすべし。そういう三段論法が、ここにはある。(じつは、この式には逸失利益の項が入っていないのだが、その問題はまたいつか別のときに論じよう)

ところで、上の式には「納期」のような時間の項目が入っていないことに注意してほしい。納期の項とは、生産量の項と言いかえてもいい。なぜなら、工場のキャパシティが一定ならば、総生産量は平均生産リードタイムに反比例するからだ。つまり、生産量の項がない上記の式は、1個あたりの単価計算でも、1期あたりの総量計算でも、関係は同様に成り立つとの見方をあらわしている。だが、はたしてこの前提は正しいだろうか?

もともと直接原価の3要素といえば、材料費+労務費+経費、である。材料費は確かに、生産量にほぼ比例する。部品費が1個1円なら、100個で100円のはずだ(まとめ買いをすれば少しは安くなるかもしれないが)。では、労務費はどうか。これも、10個の製品を組み立てるのに必要な工数は、1個の工数の10倍だと考えてよさそうだ。部品加工になると、段取り替え時間などがあるので、大ロットの方が少し有利にはなるが。

だが、ちょっと待ってほしい。たいていの工場では、生産量は月によって変動する。つねにフル稼働、という工場は滅多にない。では、工場の人件費は、生産量に比例して変動するだろうか? いうまでもないが、そうはならない。給与は(残業分をのぞけば)固定費だからだ。大昔の日本や、あるいは現在の中国の一部では、生産の出来高で労賃を払うような雇用形態があった。これなら確かに労務費は生産量に比例する。

だが、現在の日本では、そうではない。生産量の低いとき、工場の人は何をしているのか。あくびをしているのか? むろん、彼らだって遊んでいるわけではないことを、十分に示す必要がある。つまり、その分、目に見えにくい間接作業が増えるのである。ツールを研いだり、材料を配膳したり、運搬したり、欠品表を書いて資材部にかけ合ったり、清掃したり修繕したり、仕事はいくらでも生み出される。彼らもタイムカードに押した分、給料をもらう権利があるからだ。

これは直接労働に従事するブルーカラーに限らない。そもそも、生産管理や品質管理や在庫管理など、いわゆる管理と名の付く間接業務にたずさわるホワイトカラーだって、負けていられない。工程会議をやったり営業に納期回答のFAXを書いたり納入業者を怒鳴ったり工場長に月報を出したり、ひどく多忙なのだ。

私の見るところ、日本の多くの工場で製造原価が下がらない理由は、直接作業以外の人件費にかなりを依っている。無駄な人が多すぎるのだ。いや、この言い方は正しくない。人の動きに無駄が多すぎるため、生産量が上がらないのだ。月産500台の工場に100人が働いていたとしよう。無駄を減らしてスループットをあげれば、月産1000台が可能になったら、明らかに原価は劇的に下がるはずだ。

そして、工場に対して生産量を与えるのは、営業の仕事だ。つまり、原価を低減したかったら、たくさん売る必要があることになる。そして工場側の責務は、現状の設備やリソースを活用して、どれだけスループット(生産量)を上げられるようにするか、となる。おわかりだろうか。売上増大と原価低減は、互いに関係しあっており、独立に操作できる変数ではないのだ。

管理会計学は欧米で発達したが、彼らのものの考え方の特徴は(あるいは癖は)いつも『分析的』であることだ。対象を分析し、部分品に分けて、それぞれの特性を把握し、操作していく。問題があれば部位を切り分けて、外科医学的に対処していく。部分は互いに独立しているのだ--たとえそれが企業という人間組織であっても。ある部分を操作したら、とんでもない部分に影響が出るかもしれない、などという漢方医学風の発想は、管理会計学にはない。

だが、こと製造業に関しては、こうした“風が吹けば桶屋が喜ぶ”式の発想--いいかえるならば「生産システムとしての発想」が必要なのだ。そして、それを実践するのが、生産管理の本来の業務なのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-05-16 23:55 | ビジネス | Comments(0)

生産管理とは何か

生産管理とは何か。この問いは簡単なように見えて、意外と奥が深い。

製造業とは、マテリアルを加工し販売することで利潤を生む企業体である。その企業において、生産活動に直接たずさわる業務の計画・組織化・統制にかかわる仕事を、通常は生産管理と呼ぶ。販売・設計・研究開発業務ならびに会計・人事等の間接業務をのぞいた、いわゆる工場での仕事に関わる『管理』活動と考えられている。

ここで「計画・組織化・統制」なる語を用いたのは、一応これが日本の伝統的な経営学で、経営管理の三要素と呼ばれているからである。したがって普通に考えれば、

生産管理=生産計画+生産組織化+生産統制

という等式が成り立ちそうだが、ことはそう簡単ではない。生産計画という語は実務の場でふつうに使われるが、「生産統制」はめったに聞かず、「生産組織化」となるとまず使わない。「生産組織」だったら多少は分かるが、会社の人的組織図を連想しがちで、語の本来の意図とはずれていく。

そこで、英語のマネジメント・サイクルの概念であるPlan-Do-Seeをもってくる、あるいは継続的改善のPDCAサイクルを持ってこようか、と考えることになる。しかし、Production Planという語はあるが、Production DoだのProduction Actionだのといった言葉は存在しない。なにか言おうとするとExecutionやControlなどの語を引っぱり出さなくてはならない。

このように、生産管理という概念をWBSのごとく仕事の部分品に分解して組み立てる説明は、あまりうまく行かない。それでは、目的から説明したら、どうだろうか?

以前紹介した良書「SEのためのMRP」の著者・鳥羽登氏は、同書の冒頭で
 「『最小の在庫で、顧客の納期を守ること
  このことは、生産管理の最も重要な課題である」
と書いている。これは、なかなか含蓄の多い言葉だと思う。

在庫最小で納期を守ること。これはすなわち、供給線を需要線に一致させることだと言いかえてもよい。私はマテリアルの累積供給量と累積需要量をグラフに描いて考えることが多いが(このような図表を『流動図表』と呼ぶこともある)、このグラフ上で供給の線が需要より上にずれれば在庫になり、下にずれれば納期遅れになる。

でも、果してこれだけを達成すれば、生産管理の仕事は完璧か? たとえば、最小の在庫で変動にどう対応するのか? あるいは、製造原価の制約を考えずに納期だけ守ればいいのか?

むろん、そんな単純なことではない。だから鳥羽氏は、目的だとは言わず、最重要課題だと言っている。生産管理業務には、他にも課題があるのだ。生産効率だとか製造原価だとか品質だとか生産の自由度だとか。つまり、生産管理は本質的に多目的な問題なのだ。

そして、その多目的性ゆえに、生産管理には統合の視点が必要になる。ちょうどPMBOK Guideがプロジェクト・マネジメントの中心要素としてプロジェクト統合管理なる概念を導入したように。

生産とは、大きく見れば、インプットをアウトプットに変換する機能を持つシステムである。その入出力は、
(1)インプット:資材・部品というマテリアル、ならびに製造仕様書や生産オーダーなどの情報
(2)アウトプット:製品および副産物などのマテリアル、ならびに品質報告書や製造実績報告などの情報
であり、このために製造設備や用役や作業員などのリソースを占有・使用する。また外部環境として市場動向・法規制・技術動向などがあって、つねに変化している。

そして、生産管理とは、この『生産システム』の円滑な運用のために必要とされる間接業務の全てを指すのである。情報の交通整理のこともあるし、設備の改良のこともあるし、モノの流れを整えることもある。こうした活動全てを“管理”の語で呼ぶから理解しにくくなるのだ。

したがって生産管理の対象範囲は、企業の生産形態によっては、工場内のみならず、設計や調達や物流にかかわることもある。それは生産システムを運転するための総合的な活動であって、そこにはシステムを理解する総合的な視点、そして企業としての仮説(すなわち戦略)が盛り込まれなければならない。

製造業の目標達成のために、このレベルに達してこそ、初めてそれは生産管理の名に値するのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-05-08 00:16 | ビジネス | Comments(0)

ディスクリート・ケミカル工場を設計する

工場とはシステムである。このところ何度も、そう書いてきた(「工場の性能とは何か」・「製品という名のシステム、工場という名のシステム」「製造は代替可能か」など参照)。

システムというものの基本的な性質は、部分品を集めても、そのままでは全体にならないことである。全体として、ある目的に合致するような機能を持つように、部分品をつなげて構成する。こうしてようやくシステムというものができあがる。いいかえれば、明確な目的や機能を意図しないところにはシステムは成り立たない。

工場というシステムの機能とは、性能と言いかえてもいい。機能とはそもそも、マテリアルとエネルギーをインプットして、あるリソースを媒介として、別の形態のマテリアルやエネルギーに変換(変化)させることである。・・などと抽象的な言葉を連ねても、意味がピンとこないかもしれない。例をとろう。

液化天然ガスLNGの製造工場は、井戸元から送られてきた原料ガスをインプットとし、また冷熱源(海水か空気)のエネルギーを利用して、超低温・高圧のLNGをアウトプットする。同時に、温められた海水・空気、分離されたコンデンセート、副産物(廃棄物)としての硫黄や炭酸ガスなどを生成する。リソースとは、熱交換器やコンプレッサーやガスタービンなどのプラントを構成する装置、そして働く人々だ。

LNGは単一製品大量生産の工場である。マテリアルは入出ともすべて流体だ。生産量は定常的であり、いかに安定に生産するかが運転の課題になる。工場システムは静特性(処理量)が目的尺度になる。そして、化学工学の対象は従来、こうした連続生産が主体で、せいぜい時間的要素としてはバッチ操作やタンク繰り問題があった程度だった。ここには、スケジューリングや物流(在庫)管理の悩みはほとんど無い。

ところが、前回述べたディスクリート・ケミカル製品を作る工場ではがらりと変わる。まず、工場は基本的に多品種のプロダクト・ミックスになる。こうした工場の性能(生産量)とは、どういった尺度で測るべきか? この基本的な問いに、化学工学は答えるすべを知らない。

ディスクリート・ケミカル工場は、インプットとしては液体・気体・粉体など流体が中心だが、製品はシート、ロール、ペレット、小さなピースなど、固体で軟性のものが多い。工程の途中までは、化学工学お得意のタンクと配管とポンプでの輸送だが、下流工程ではロールやバケットやパレットなど、固体のマテリアル・ハンドリングになる。だからAGV・台車・コンベヤ・クレーンなどの機械が必須だ。保管はタンクのかわりに、立体自動倉庫やDPSなどになる。ピッキングだのアソーティングだのといった処理も必要になる。

こうした工場の設計では、保管に必要な空間容積・倉庫サイズ、搬送に必要な手段と台数、などを決めなければならない。生産量が小さいうちは手で運んでもいいが、量が増加したり品種が増大したら、物流工程の方がしばしば製造工程よりもボトルネックになる。だが、こうしたプロダクト・ミックスのある工場の設計論は、あまり教科書らしいものが見あたらない。不思議なことである。

化学工場では、エネルギーの7割以上は、反応ではなく分離精製や輸送保管に使われる、と言われている。私の見たところ、ディスクリート・ケミカル工場もまた、設備スペースの7割以上はマテリアル・ハンドリングのために使われるように思う。

こうした固体中心の工場の設計はどう決めるべきかというと、基本は離散系のダイナミック・シュミレーションに頼ることになる。ところで、ここで問題になるのは、多品種のプロダクト・ミックスの取り扱い方だ。中心の製造工程は、切替型連続生産タイプになることが多い。品種切替は段取り替え時間を要するため、スケジューリングが必要になる。通常のシミュレータでは、このスケジューリングによる動的な順序組み替えが扱えない。

そこで、私の所では、APS(生産スケジューラ)とダイナミック・シミュレータを組み合わせて使っている。こうしないと、本当の意味での最適設計にはならない。だが、正直なところ、化学メーカーの生産技術部門で、ここまで出来るところは少ないようだ。また、その時間的余裕もないのかもしれない。

スケジューリングもそうだが、物流(在庫)管理にも独特の悩みがある。シートやロールなどの製品は個数単位では扱いづらい、かといってkgやm3単位だけでも不便で、2重の計量単位を持つ必要がある。おまけに足し算は正確には合わない。たいていの在庫管理システムは個数単位でしかものを扱えないから、お手上げである。

製造管理(MES)もまた独特なものになる。いわゆるプロセス系の計装制御と、離散系の搬送制御を同時にインテグレーションしないと、工場全体のコントロールができない。

ディスクリート・ケミカル工場は、クリーンルームの技術がしばしば必要になる。そこで、建築設計・空調設計なども、かなり固有のノウハウが要る。多層階レイアウトも課題だ・・・。

こうして書いていると、いかに従来の化学工学の世界と隔絶しているか、よく分かる。かといって、機械工学や経営工学を持ってくれば簡単に設計できる訳でもない。やはり、独自の設計論が望ましいのだ。

もっとも、エンジニアリング会社の目から見ると、ディスクリート・ケミカル工場は医薬品(固形製剤)との共通技術がいろいろとあるな、と感じられる。マテハン技術・建築設計技術・クリーン技術・制御システム・生産スケジューリング等である。ここらあたりが、一つのヒントになりえるだろう。

いずれにせよ、今の日本では、電子材料・機能性素材の需要は高まる一方である。設計論の確立と共有化が、大きな課題であることは間違いない。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-26 00:23 | ビジネス | Comments(0)

ディスクリート・ケミカル産業

私は大学で化学工学を専攻した。カガクコウガクという学問名は、すべて「カ行」の音だけでできている上に、一つの単語の中に「学」が二回出てくる、きわめて珍しい分野名である(こういう語は、あと他に『科学哲学』があるだけだ)。

日本は言霊のさきわう国だというが、このように難解(?)な名称の学科を選択したおかげで、私は他人にうまく専門を理解してもらったためしがない。化学工学は広い意味では「応用化学系」に分類されているので、“ああ、化学が得意なんですね”と言われたりする。だが、現実は、全然違う。私は化学は大の苦手で、大学入試の理科の試験は物理と化学だったが、物理はほぼ100点に近い自信があったのに、化学はただ1つの小問を除いて白紙答案を提出した。

さらに、恥を忍んで告白すると、私は大学院の試験勉強のために、高校生向けの化学の参考書を買って勉強した。それでもパスしたのだから、化学工学という学問を専攻するのに、複雑な化学の知識は不要なことがよくわかる。私の知る範囲でも、化学工学を専攻した人の中で、化学に強い人は3割程度しかいないと思う。

化学工学は20世紀に入ってから発達した学問で、英語ではChemical Engineeringという。具体的には、化学装置と化学工場の設計論を目的にした工学である。米国ではMechanical Engineering=機械工学とならんで、人気の高い分野だ。機械工学は機械装置と部品組立工場の設計論だから、ちょうど対をなしている。いいかえるなら、化学工学はプロセス産業を支え、機械工学はディスクリート(組立加工)産業を動かしている。だから、化学工場の設計技師は『プロセス・エンジニアProcess Engineer』と普通呼ばれる。

ところで、化学工業=プロセス、機械工業=ディスクリート、という区分は最近、当たらなくなってきている。じつは、現代日本の化学産業には、見えない地殻変動が起きており、化学工場なのに製品はディスクリートのケースが増えているのだ。どんなケースか?

それは、いわゆる電子材料、あるいは高機能素材と呼ばれる製品をつくる工場である。たとえば有機EL材料、半導体封止材、発光素子、偏光フィルム、逆浸透膜といった製品群だ。こうした製品の特徴は、固体であること、単価が高いこと、組成は似ていても機能的な違いが大きいこと、などである。言いかえれば、高付加価値であり、かつ多品種化した製品群となっている訳である。

そして、それが相当の利益を稼ぎ出している。「会社四季報」などの化学のページをめくってみれば分かるが、日本の化学メーカーの多くは、すでに1年半から2年前に不況を脱しているものが多い。そして、その企業の収益を支える製品が、こうしたディスクリート・ケミカル製品なのだ。四季報には各企業の概況が要約されているが、“携帯向け素材が好調”“デジタル家電用途で成長”といった言葉が並んでいる。

かつて、化学産業では「バルクケミカル」・「ファインケミカル」という区分があった。前者はエチレンやBTXなど原材料から、せいぜい汎用ポリマーくらいまでの、物量の大きな上流側製品群を指す。後者は農薬・原薬・試薬・添加物・特殊ポリマーあたりの下流側製品群を指すことが多かった。共通点は、いずれも連続プロセスないしバッチプロセス中心で製造されること、物流の主要な形態は液・ガスないし粉体(大きくてもペレット)であることだ。

日本の化学産業は基礎原料の石油・ガスを輸入に頼らなければならない制約がある。このため、バルクケミカルでは規模の経済を追求しても、なかなか海外品に比べて競合がきつい。したがって、'70年代の石油ショック以降は、しだいにファイン指向を強めてきた。しかし、やはり付加価値を高めたければ、より消費者に近い素材に向かうことになる。

こうして、'90年代の後半から、ディスクリート・ケミカルの領域が生まれてきたのだ。この領域はある意味ではニッチ的だったため、大手化学メーカーだけでなく、新進の素材専業メーカーが活躍する余地を残しており、製品開発競争も活発である。官庁の法的規制もあまり強くなく、自由に技術力をふるうことができる。技術者として、非常に面白い分野である。

最初に述べたとおり、「化学工学」は本来、化学工場の設計論として発展してきた。しかし、この国では化学、とくにバルクケミカルは、公害問題以来あまりいいイメージを持たれていない。そのため学生に不人気となり、今や大学から化学工学科の名前がほとんど消えてしまっている。かわりにシステムとかバイオとか格好いいカタカナの混じった学科名になっている(ここらへんが言霊のさきわう国なのだ)。しかし、いざ外国に行くと、そんな新奇な学問名は通じないので、みな当惑する。

私は、むしろ化学工学は、新しいディスクリート・ケミカル産業に奉仕すべく、変化を遂げるべきだと思う。無論、従来のプロセス設計が急に不要になる訳ではない(とくに海外では)。しかし、今、一番進歩が活発なのは、この分野なのだ。そして、困ったことに、ディスクリート・ケミカル分野は、工場の設計論が未整備である。どこが難しいのか、どこに手がかりがあるのか、長くなってきたので、続きはまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-17 00:24 | ビジネス | Comments(0)

必要な人はいつもたった一人しかいない-その理由と帰結

個別受注生産におけるスケジューリング問題を根本から解決したければ、製品設計において、バリエーション・リダクションの方針を導入する必要がなる、と前回書いた。

ところで、これを書いていながら、ふと思ったことがあった。それは、バリエーション・リダクションのような方針変更はかなりラディカルな変革であり、しばしば設計部門・原価管理部門・営業部門など本社サイドからの、強い反発にあうということだ。

設計技術者にとっては、個別仕様に対してぴったりの最適設計をすることが、自らの誇りである。モジュールの組み合せで仕様を実現する場合、ぴったりの数字にはならず、9.5馬力でよい所に10馬力の駆動部をもってくるようなことになりがちである。仕様上の余裕があれば、その分、コストも上がることになる。そう、原価管理の担当者は考えるであろう。そうなれば価格競争力が落ちて、競合他社に負けかねない、と営業部門は恐れるだろう。

では、個別最適設計方針がつづけばどうなるか。設計の工数はかさむばかりだし、営業の手間も減るまい。が、本社部門の人件費は販売管理費に含まれる。販管費比率が高い責任は、誰も問われない。生産リードタイムが長いと、工場の年間生産能力は伸びない(1台作るのに1ヶ月かかれば年産12台だが、それが2ヶ月になれば6台しか生産できない)。しかし、工場長以外の誰がそんなことに責任を感じるだろうか? みな、自分の持ち場で最善をつくしているだけなのだ。

そうなると、結局困るのは経営者である。販管費が同業他社より高ければ、人員削減を考えることになる。製造に問題があれば、安い海外部品を調達するか、あるいは工場ごと中国に移してしまえ、という結論になる。では、その結論がもたらすものは何か? いいたくはないが、安易な海外展開での製造品質やリードタイムの行方は、火を見るより明らかだろう。だから、ゆっくりとではあるが、その事業部門は顧客の信頼も失って行く。そして、事業部門自体が撤退の対象になりかねない。こうして、長時間労働に耐え、最善をつくした多くの人たちが職を失うのだ。

極端すぎる議論だと思われるかもしれない。だが、これこそ過去5年間、日本の製造業で起こってきたことではないか。

いいかえるなら、ここには根本的な矛盾がある。技術者の仕事とは、「業務の設計・改善」それ自体を、主要な一部として含んでいる。それはつまり、仕事に関して『代替可能性を高める』ということだ。だから海外展開が可能になるのだ。しかし、代替可能性が高まるほど、それは技術者個人から、アイデンティティの根拠を奪っていく。

その結果、どうなるか。技術者はあらゆる機会をとらえて、個別な・特殊な・些末な・例外的な・だが重要な(少なくともそれ無しでは不便な)仕事を、自分のために作りだしてゆく。彼(彼女)個人がいないと、ビジネスが回らないようなものに仕立て上げてゆく。ルールを定めるのが本来の仕事なのに、例外事象ばかりを増やしていくのだ。

こうして、会社の業務は、外部のシステム・アナリストがちょっとやそっとでは分析できないような、複雑な処理系になっていってしまう。ERPパッケージをもってくれば、仕事が効率化・加速化できるなどという幻想は、例外処理の藪の中でいつのまにか崩壊していく。ルールや標準プロセスが混乱すれば、はびこるのは根性論ばかりになる。マネジメントの仕事は、精神主義の鼓舞になっていく。

このように、技術者に代表されるホワイトカラー階層とは、自分のスキル上の価値に固執するあまり、長期的には自分の存在基盤自体を掘り崩すようなことをしがちである。これが、経済合理性を追求するための組織であるはずの会社を、合理性からひきはなす効果をもたらすのだ。

この矛盾をとくにはどうするか。簡単なことだ。ホワイトカラーが、会社での仕事だけにアイデンティティの根拠を求めなければいいのだ。会社もあり、家庭もあり、それ以外のプライベートもあって、はじめて人間は全体性を保つ。家族にとって、コミュニティにとって、ある個人がかけがえのない、たった一人しかない存在であることこそ、大事なのだ。それを、ただ一ヶ所、会社にだけ仮託しようとするから、訳が分からなくなるのである。

ただし、そうなると、知的労働者は、もっと別の難しい問題に直面することになる。それは、「自分の人生の本当の目的とは何か」を考える、という問題である。たしかにこれは難問だ。とくに、自分の人生が有限なものであることを、皆、うすうす知っているから、なお難しい。そんな難しいことを考えたくないから、世の中という代物は、会社を発明したのではないかと思いたくなってしまう。

この問題は、ある意味で「製造は代替可能か」の続きでもある。価値というものは全体性の中にある。その中の一部分だけを切り出して、それだけを他の代替品と単価で比較しようとする考え方は、きわめてミス・リーディングだ。現代の経営論は、そんな部分品分解論の上になりたっている。だが人間は部分品ではない。人間にとっての「シビル・ミニマム」が、現代の経営論では忘れ去られている。しかし、どこの家庭にも父親・母親は一人ずつしかいないし、それは取り替えがきく存在ではないはずだ。そう、文化の次元においては、誰にとっても、本当に必要な人は、いつもたった一人しかいないのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-01 23:29 | ビジネス | Comments(0)

バリエーション・リダクションとは何か

個別受注生産における設計・製造上の方針のこと。個別受注生産方式をとっているメーカー(産業機械などに多い)にとって、部品点数の無制限な増加はつねに悩みの種である。部品点数の増加は、同時にBOMと工順の増加、部品在庫量の増大、発注リードタイムの増大、設計手数と図面枚数の増大など、数々の問題をもたらす。

規格の決まったカタログ部品は、ある程度見込みで生産するため、サプライヤー側も在庫がある。したがって発注リードタイムは短い。しかし個別仕様の部品はどうしても納品までのリードタイムが長くなる。つまり、製品の多様性と、発注から入手までのリードタイムとの間にはトレード・オフの関係があるのだ。多様で細かい注文が可能な製品の入手リードタイムは長く、カタログ的にパターンの決められた製品は入手がはやい。

逆に考えると、もし購買のリードタイムを短くしたければ、製造に使う部品や資材をパターン化して、種類を少なくした方がいい、ということが分かる。そうすれば生産の全体リードタイムがかなり短くなる。リードタイムが短くなれば、年間の生産能力も上がる。

しかし、個別設計の機械部品の場合、ボルト・ナットや一部の計器などの汎用部品は共通化できるが、あとは中核部品も周辺部品も、種類は同じでもサイズはほとんど別物になってしまう。ほとんどの部品は毎回、仕様を決めては発注し直すわけである。製品種類は多様なのに、部品の種類だけを減らすことなんかできない、と考える人が多い。

それでは、どうするか。このために登場するのが、モジュール化によるバリエーション・リダクションだ。これは、多様な製品を生み出すために、組合せを使う手法である。

たとえば、100種類の製品を作るために100種類の部品を毎回設計しなおすかわりに、10種類の部品群と10種類の部品群の組合せで実現する。こうして、部品の種類は20種類におさえながら、かけ算で100種類の製品を可能にできる。これがモジュール化の力だ。これを実現するためには、部品群の設計において、ある程度グループ・テクノロジーを使う必要がある。これは金属加工部品を念頭においていえば、部品をなるべく共通の母型から削り出すように設計する方式だ。

しかし、ちょっと待てよ、と思う方もいるだろう。理屈の上では、組み合わせて100種類作れるとしても、客先の注文にぴったりあうとは限らない。性能の点で余裕がでたら過剰仕様になるではないか? これは、そのとおりである。余分な性能は、その分よけいにコストがかかることを意味する。それに、設計のやり方もがらりと変えなければならない。

これに対する回答は、こうだ。お金の時間的価値(The Time Value of Money)の観点から見れば、材料費のアップよりも、設計時間や生産リードタイムの短縮の方が、ペイすることが多い。その条件は企業によりまちまちだが、算定することができる。ペイすると分かったら、バリエーション・リダクションを導入するべきだ。そして、たいていの企業では、このお金と時間のバランス判断をしないまま、単にコスト削減だけを追っているのである。

このように、スケジューリングの問題点を深めていくと、設計による解決にたどり着くことがしばしばある。だからこそ、設計と製造の統合された企業(「設計の価値」参照)が望ましいのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-03-28 23:29 | ビジネス | Comments(0)

必要な人はいつもたった一人しかいない

客先でのヒアリング日程が急につまずいたのは、帰る日の直前だった。見積のための概略の要件定義を進める中で、次回は工場の生産スケジューリングについて、詳しく聞きたいと申し出たところだった。その出張では、機密性の高い工場の実物見学は許してもらえなかったが、かわりに各工程のビデオ映像を見せてもらって、だいたいの様子は理解できたと思った。製造実行系および制御系システムの構成も、およそつかむことができた。あとは計画系だ。けっこうこの工場のスケジューリングはややこしいに違いない。本社からの受注オーダーに対して、どう製造指図を展開してひもづけていくのか・・・

ところが、相手方の管理者からかえってきたのは意外な答えだった。「スケジューリングはルールが複雑すぎるから、システム化しなくていいよ。」 驚いた私は、計画と実行は生産管理の両輪で、両者がかみ合わないと工場の真の能力は上がらないのだ、と説明した。そして、スケジューリングが複雑だと言うが、では、担当者は何人居るのかと訪ねた。答えは「一人」だった。では、この担当者が風邪を引いて一週間休んだら、工場はどうなるのか? そんな属人的なやり方で、主力工場を切り回していいのか。そう訪ねた。

すると、スケジューリング担当者の人減らしはとくに考えなくてもよい、と返事が返ってきた。別に人員削減を目的にシステムを提案している訳ではありません。そう説明したが、無駄だった。

その仕事は結局、受注できなかった。予算が合わない、という理由だった。果たしてそれが表向きの理由にすぎなかったのか、それは分からない。案外、実はそのスケジューリング担当者が、当の管理者の右腕だったのかもしれない。むろん詮索しても仕方のない話だ。しかし、その代わりに私は、ひとつの大きな教訓を得た。それは、「ホワイトカラーの組織では、ある特定の業務をうまく遂行できる人は、いつもたった一人しかいない」ということだ。

似たようなことを、私は要件定義のフェーズで、何回も経験している。業務プロセスのヒアリングをしていても、最初から最後までカバーして説明できる人は少ない。ある箇所になると、なにがしさんに聞かないとわからないな、という状況になり、その一個人の都合にスケジュール全体が振り回されるのだ。特定業務のキーパーソンは、つねに一人しかいない、のだ。

しかし、これはあるいは逆の方から言いかえた方がわかりやすいかもしれない。「ホワイトカラーはいつも、その人自身だけしかうまく遂行できないような、特殊だが重要な仕事を作り出すものだ」と。なぜ、そうなるのだろうか?

それは、多くのホワイトカラーにとって、仕事がアイデンティティであり、自己の価値証明になっているからだ。自己証明である限り、それは他人と違っていなければならない。他人では置き換え不可能なものでなければならない。代替可能でない物、それがアイデンティティなのだ。しかも、これはあまり明言されない。いつも内心だけのプロセスなのだ。

なぜホワイトカラーは、そんな風に無意識に信じたがるのか。工場労働者を考えてみるといい。ベルトコンベヤーで流れてきた部品にネジを締めるだけの人は、その仕事にアイデンティティを求めるだろうか。彼が居ないと成り立たない仕事だろうか。それは明らかに、代替可能な仕事だ。むろん熟練工という存在はある。しかし、工場のほとんどの仕事は、非熟練工・季節工でもそれなりにできあがるようになっている。そうなっていなかったら、それは工程設計がどこかおかしいのだ。

おわかりだろうか。マネジメントだとか、IE(インダストリアル・エンジニアリング=経営工学)だとかいった手法は、“誰がやっても70~80点の成果が出る”ように、生産業務のプロセスを組み立てるのことを目的としている。そして、ホワイトカラーの知的業務だって、同じはずなのだ。マネジメントの視点から見れば、“誰がやっても70~80点の成果が出る”ように、手法論やマニュアルや業務手順を組み立てることが求められる。

そして情報システムとは、まさにそのための目的のものではなかったか。それなのに、なぜ、そう機能しないのだろうか。長くなってきたから、つづきは次回書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-03-06 00:28 | ビジネス | Comments(0)

トヨタ生産方式の神話と現実

目の前に一冊の本がある。「トヨタ生産方式を支える最適化手法に関する研究」、小谷重徳・著(2004年)と題された、冊子ともいうべき本だ。現在、首都大学東京の教授である小谷先生の博士論文である。中身を開けてみると、素人には目がちらちらする数式の羅列がつづく。主題は、輸送費用と生産制約を考慮した組立ライン決定問題である。そして、この問題の線形計画法による厳密解が、じつは整数解になる理由などが書かれている。

知らない人は、“また学者が出てきて、トヨタの実践的な手法を、妙な数学で理論化しようとしているわい”などと思うかもしれない。しかし、それは誤解だ。小谷氏がこの博士論文を書いたときには、じつはトヨタ自動車に勤務しておられた。つまり、このいささか難解な数学は、この会社の生産計画を支える基盤なのだ。これがトヨタ生産方式の現実(あるいは、そのすごさ)なのである。

ビジネスの世界では、ときに奇妙な神話や誤解が流布することがある。中国生産はコスト低減の切り札だ、といった神話だとか、ERPを導入すると在庫が削減できる、といった誤解である。思うに、企業は自社の内部事情をあまり公開しないから、素人評論家の噂話や職業コンサルの意図した誇張が、まかり通りやすいのではないか。

最近はやりの神話はトヨタ生産方式にかかわるものだ。なにしろトヨタ自動車の業績が信じられぬほど好調だから、周囲の見る目が神様あつかいになるのも、いたしかたあるまい。そのトヨタについて、もっとも広く流布している誤解は、「トヨタ生産方式はプル型の受注生産で、生産計画など持たない」というものだろう。じっさい、元町工場の見学コースは、『かんばんと自働化こそトヨタ生産方式を支える二大要素』とビデオで見せてくれる。生産計画の文字はどこにも見あたらない。ましてや線形計画法などは。

「神様ではあるまいし、誰も先の需要などは読めない」--これはトヨタ生産方式を築いた大野耐一氏の言葉ではなかったかと思う。「だから生産計画など作ってもあてにならない。現実の需要変動に耐えうる工場を作るべきだ」・・論理は、そうつながりやすい。そして、「そのためにはカンバンを中心としたプル型生産の体系とするべきだ」との信念が生まれていく。こうした“信念”をもとに、『計画はずし』を指導するコンサルタントも少なくない。トヨタOBの中にも、そうした人たちがいると聞く。

ところで、上記のテーゼはトヨタ系列の部品メーカーには合致するかもしれないが、トヨタ自動車自体には当たらない。彼ら自身は、きちんと生産計画をたてて実行しているのだ。そうでなければ、お得意の「平準化」をどうやって実現できるというのか。トヨタ生産方式の中核は平準化にある、と私は銀屋技監から直接うかがったこともある。たしかに、作るべき計画台数がなければ、平準化などもともと出来ない相談である。

では、なぜ、「計画不要論」がトヨタの名前と結びついて広まったのか。私は一つの仮説を持っている。それは、自動車業界のサプライチェーンの特徴から説明できる。自動車の世界では、販売チャネル(ディーラー網)は、生産メーカー別に統制されているし、また部品生産も系列化されている。つまり、長いサプライチェーンのちょうど中心に、自動車メーカーがいるわけだ。そして、だからこそ、このサプライチェーンでは計画の意志決定はたった一ヶ所で行えるのである。

これは、たとえば電子・情報機器業界などと比べてみれば分かる。パソコンやデジカメは自動車とならんで、日本の製造業のもう一つの花形である。しかし、これらの商品は、チェーンストアやディスカウント店などが販売を仕切っている。店頭にはキャノンとソニーと東芝の機種がならぶ。これは自動車販売とは全く別の世界だ。販売の主導権は流通業界が持っているために、電子情報機器のサプライチェーンでは、意志決定ポイントが最低でも2ヶ所(流通と組立生産)になってしまうのだ。

部品サイドで見ると、自動車ではカローラのシートをフィットに乗せるわけにはいかないから、部品生産は必然的に系列化されやすい。一方電子業界では、電子部品は互換性が高い。だから系列でしばりにくい。こうして、部品メーカーもまた計画が必要になる。

くり返すが、自動車のサプライチェーンでは意志決定ポイントは一ヶ所で十分なのである。むしろ部品メーカーが勝手に、車両メーカーの計画を無視して、余計な生産計画などを立て始めたら、余計な在庫が発生しコストアップにつながる可能性が高い。だから、「考えるのは自動車メーカーのみ。あとの部品メーカーは、その計画に従うように制御されていればよい」という論理が成り立つ。その制御のツールとして、『引取りカンバン』が使われるのだ(今はほとんど電子化されているが)。

おわかりだろうか。『生産計画不要論』は、自動車業界で、部品メーカーにとってのみなりたつ論理なのである。この前提条件を理解せずに、どこの業界に対してもドグマとしてふりまわせば--それはもはや、神話とよぶべきものだろう。

(線形計画法に興味のある方は、小谷重徳・他「輸送費用と生産制約を考慮した組立ライン決定問題」日本経営工学会論文誌、54-4(2003)をご覧になるとよい。これは平成15年度日本経営工学会論文賞を受賞している)
by Tomoichi_Sato | 2006-02-24 00:49 | ビジネス | Comments(2)