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付加価値--問題な日本語

いつだったか、「タクシーはとても付加価値の高い乗り物です」という広告を見たことがある。マンガ風の絵で、自動車がお客さんをおぶって走っている。タクシーは楽だ、と言いたいのだろう。しかし、私は可笑しくて吹き出したくなった。付加価値が高いとは、売値に比べて儲けの比率が高いことを意味する。これでは、宣伝の意図とは逆に、“タクシーは実はとても原価の安い乗り物です”と主張してることになるからだ。

『付加価値』という言葉は、かくのごとく誤解されやすい。付加価値が高いというのは、売り手にとって重要なことだが、買い手は商品の価値そのものしか興味がない。買う価値のあるモノだから、買うのだ。だから上の広告は、本来なら「タクシーはとても価値の高い乗り物です」と書くべきだった。いや、もしかしたら、低賃金を抗議するために、運転手がわざとそんな広告を貼ったのかもしれないが。

こんな誤解がまかり通るようになったのは、長かった不況の時代に、“いかにして製品の付加価値を上げるか”という議論を皆がしてきたからだろう。その結果、付加価値を上げることが善であるばかりか、買い手にとっても善であることになってしまったらしい。そもそもの目的や意義を忘れて手段ばかりを議論しがちな、我らが社会ではよく見かける現象である。

さて、製造業における付加価値とは、簡単に言うと次の式で定義される:

 付加価値=販売高-材料購入費

製造業とは、マテリアルを加工し、付加価値を付けて販売するビジネスだ。付加価値こそ、利益や賃金や設備投資をはじめとする全ての資金の源泉なのだ。だから、この式の左辺をいかに大きくすべきかを、必死に工夫しなくてはならない。

その付加価値の源泉とはどこにあるのか? 反応や精製だ、と化学工業の人は答えるかもしれない。加工や組立だ、と機械工業の人は考えるだろう。いずれもモノの形や性質を変える製造工程が価値の源泉だと信じている。

一方、搬送だの保管だの検査だのといった作業は、モノに直接の影響を与えない。だから、物流や品管部門は付加価値を生み出さない、余計者のように扱われがちだ。事実、物流部門はまっさきにアウトソーシングと人員削減の対象にあげられる。

ところで、よく考えてほしい。顧客に製品を販売するとき、その製品が消費地から500km離れた地点にあったら、顧客は買ってくれるだろうか。その製品が壊れやすかったら、誰が喜んで買うだろうか。だから、顧客が必要なときに、必要な場所で、必要な信頼性を提供する物流や品管の仕事は、あきらかに価値を付加しているのだ。

付加価値はふつう、製品仕様の差別化で生み出されると考えられている。それは確かに事実だ。しかし、提供場所と時間(納期)や、安心料(保険料)もまた、付加価値をつける有力な手段なのだ。

そして、もうひとつ、誰もが忘れがちな点がある。それは、販売業務それ自体は、製品に価値をほとんど付加しないという点である。だから、営業部門が物流部門を下に見るような組織があったら、その企業はどこかおかしいと考えた方が良いだろう。
by Tomoichi_Sato | 2006-07-13 00:02 | ビジネス | Comments(0)

「設計管理」の必要性(2)--海外リソースの使い方

“名選手必ずしも名監督ならず”--野球のことわざだ。プレイヤーとしての個人技量がいかに優れていても、それが必ずしもチームの采配の上手さを意味するものではない、とこの言葉はいっている。サッカーでも、たぶん事情は同じなのだろう。似たような言い回しが映画の世界にあるかどうかは知らないが、映画監督で俳優出身者は少なく、名優となるとデ・シーカやチャップリンなど、数えるほどしかいない。

日本の製造業における設計部門は、監督のいない映画のようだ、と前回書いた。設計、ことに基本設計は、かなりの程度まで個人の技量や創造性に左右される。しかし、今日、設計者が一人だけで、ものづくりの全てを決めることなどできない。さまざまな設計関連作業が、チームワークを保って、段取り良く進まなければならない。この、映画監督にあたる役割が、専門職として認知されていないのである。

その弱点は、日本企業がアジアなど海外に設計協力を求める段になってくると、てきめん表われてくる。中国であれマレーシアであれインドであれ、海外の会社に設計を外注するのが、はっきりいって下手だ。相手が独立企業や合弁だから言うことをきかない、との言い訳もときおり聞くが、100%子会社だって御しにくいのだ。だから、せっかく海外に設計拠点を作ってコスト削減をするつもりが、日本から大勢を支援のため派遣して、費用は元の木阿弥、かえって時間はよけいにかかった、という例が少なくない。

その理由は、しばしば相手国の文化のせいにされる。中国人は自分勝手な“砂の民”だ、インド人は理屈っぽく尊大で、マレーシア人は南洋の怠け者、という訳だ。不思議なことにわが国では、文化人類学を学んだ訳でもないのに、文化を語りたがる技術者がやたら多い。文化論に見えてそのじつ、たんなるアジア人への偏見を合理化しているのに過ぎないのだが。

しかし、オフショア設計外注がうまくいかない本当の理由は、異文化ギャップではない。それは、同じ業界の欧米企業と比べてみると明瞭だ。彼らは、すくなくとも我々より上手にアジアのリソースを使いこなしている。文化の差異なら彼らの方がハンデが大きいはずなのに。

その差はすなわち、『設計管理』能力の差なのだ。彼らのやり方は、たとえばこんな風だ:

* 設計という大きな仕事を、基本設計・電気設計・機械設計・・といった小さな職務単位に分解すること(WBS化)、
* それぞれの職務単位で、インプットとアウトプットと計算ツールを明確にすること、
* 進捗のプロセスを定義すること、
* 納期から逆算して各作業期限を設定し、隘路(クリティカル・パス)を把握すること、
* 文書と図面のリストを最初に作成し、図面番号と検索手段を定義すること、
* 要確認事項のトラッキング・リスト(To Do List)を作って追うこと、
* 設計上のリスク・ファクターを明確にすること、
* 設計者間の行き違いやコンフリクトを調整し、意志決定権限と責任範囲を定めること、

そして,

* 以上のプロセスを文書で明文化し、誰でも及第点のレベルでは遂行できるようにすること

である。

ひとつひとつをとれば、やっていることにそれほどの違いはない。だが、ここには設計者個人の力量に依存しないための方法論がある。少なくとも、設計はマネジメントが必要だ、という醒めた認識がそこにはある。エンジニアが年功序列で管理職になれば、そのまま管理ができるはずだ、とは単純に考えない。

現実には、欧米人にだってマネジメントの上手下手は歴然と存在するし、だからDilbertのマンガみたいな笑い話も生まれるのだろう。私の見聞きした経験では、英米の企業はどちらかというと組織でシステマティックに設計を進めるのがうまいし、フランス・イタリアあたりの企業では、ごく少数の天才的なエンジニアが発想して大多数がそれにしたがって実現する、という印象を受ける。そういう意味では、彼らの間だって文化のギャップは存在する。

だが、少なくとも彼らが文化のギャップを理由にして、設計マネジメントの不在を言い訳した例をきいたことがない。マネジメントは、プロセスである。職位や人格や文化ではないのだ。

(追記)筆者の勤務先である日揮には、幸か不幸か「エンジニアリング・マネジメント部」という部署が今のところ存在する。これはエンジニアリング会社の得意なマトリクス型組織の一例である。
by Tomoichi_Sato | 2006-07-01 12:49 | ビジネス | Comments(0)

「設計管理」の必要性

私の好きな米国のマンガ"Dilbert"にこんな話があった。セクレタリー(秘書業)の低い地位にいやけがさした若い女の子が、技術職になりたいと思い立ち、同僚の女性エンジニアであるアリスに相談に行く。アリスは彼女にこういう。

アリス「あなた、エンジニアになるには、何年もの訓練が必要なのよ。」(ふと上司を思い出して)「・・でも、エンジニアのボスになるには、何の訓練もいらないの。あれって、スキル不要の、苦労なき労働なのよね。」

すると彼女はこたえる。「だったら、私にもできそうね。」 

米国のハイテク企業を舞台にしたマンガ"Dilbert"には、無能を絵に描いたような部長が出てきて、よく私たちを笑わせてくれる。この部長ときたら、ネットワーク回路図とプロジェクト工程図を見分けられるかどうかさえ疑問だが、それでも『リーダーシップとは』などと経営論の片言を口にして、必要もないのに部下を休日出勤させたりするのだ。

上司は部下を管理するものだと、誰でも思っている。このマンガでは、技術を知らない上司が、部下を管理したつもりになっていることの愚かしさを描く。しかし、それでは、設計の固有技術をよく知っている人間ならば、設計部門をうまく管理できるのだろうか。たとえば電磁流体解析や熱応力計算が上手なエンジニアは、他のエンジニア達をうまく采配できるのだろうか?

生産工程には生産管理が必要であり、設置工事には工事管理が必要であると、誰もが知っているし、たいていの会社にはそうした名称の部署がある。ところが、「設計管理部」という部署がある企業には、まだお目にかかったことはない。ちょっと考えると不思議である。設計は管理しなくともうまく進むのか。設計が遅れて困ったり、設計の品質が低くて現場が混乱するケースは、希少な例外なのだろうか。

むろん、そんなことはあるまい。しかし、設計管理部の必要性が議論されない理由は、想像がつく。それは「管理」という語の曖昧性、そして設計者がホワイトカラーという(元)エリート階層に属することにより、おおいかくされてしまっているのだ。

いったい、管理とは何だろうか。以前も書いたように、私自身は、この曖昧な多義語がきらいなので、自分では滅多に使わない(「マネジメントと管理はどこが違うか」参照)。かわりに、マネジメントとかコントロールとかスーパービジョンとか、英語にあるカタカナ言葉を使うようにしている。しかし世間では、上司は部下を「管理している」と思っている。上司という立場になれば、部下への命令や、業績評定や、アドバイスや、宴席で上座に座る権限などを、手に入れられる。しかし、Dilbertのマンガにあったように、なんの訓練もスキルもなしで、本当に部下を「管理」できているのか? 

その典型例は、ソフトウェア産業の組織にしばしば見られる、奇妙な進化論である。平社員のプログラマが、少し経験をへるとになるとSEクラスのリーダーになり、SEもだんだんとベテランになると課長兼プロジェクト・マネージャーになる。そして、クリティカル・パスもWBSも知らないまま、プロジェクトの戦場に突入していく。引率される兵隊こそいい迷惑である。

ここには、「管理」のためには「管理技術」が必要である、という認識が欠けている。そこで、ようやく最近はPMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)なる別組織を作って、設計・開発の固有技術以外に、プロジェクト管理技術の専門担当者をおく企業が増えてきた。

ところがひるがえって、一般の製造業ではどうか。まだまだ、設計管理という問題意識が乏しい。その理由は、社内の人種階層制にある。生産管理部や工事管理部が存在するのは、じつをいうと製造現場や工事現場のブルーカラーを監督し統率するため、と考えられているからだ。一方、設計部門は社内でもエリート集団の場所である。一丁目一番地に住む人々が、なぜ他の部署から監督統率されなければならないのか。

そのくせ、製造業はどんどん見込生産から受注生産へとシフトしている。ますます、個別案件での設計のかかわりが増えている。製品開発設計のスピードも、しばしばネックとなっている。だから、生産システム全体を見渡すと、あきらかに設計にも課題が増えてきているのだ。

ここで、映画監督を思い出してほしい。監督は自分では演技しない。必ずしもベテラン俳優が監督になっていくわけでもない。しかし、スター俳優にシナリオを渡し、演出を指導する。そして、映画撮影の進行をコントロールする。

このような役割の人間が、製造業でも必要ではないか。多くの会社の現状は、監督のいない映画撮影のようだ。一人一人は努力し、苦心している。だが、ちっともハーモニーもストーリーもないのだ。それも、困るのが設計部門だけなら、まだしも自分のまいた種と言えるだろう。しかし、設計で発生した問題は、購買や、生産技術や、製造や、物流や、販売や、あちらこちらの離れた場所で火をふくのだ。

それでは、具体的には『設計管理』のために、いったい何をしたらいいのか。長くなってきたので、項をあらためて、また書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-06-22 23:14 | ビジネス | Comments(0)

製造管理とは何か

日本の生産管理系の用語はややこしい。その最たるものが、この「製造管理」だろう。生産管理と、製造管理とは、同じなのか、違うのか。同じなら、なぜ二つの用語が並立しているのか。違うとしたら、何が違うのか。生産と製造はそもそも違うものなのか。疑念は尽きない。

生産管理』が、製造業において生産システムをつかさどるために必要な、すべての間接業務をあらわす風呂敷みたいな概念だということは、すでに書いた。生産システムの中には、工場内の生産活動みならず、設計や調達や物流にかかわる活動も、しばしば含まれる(どこまでが含まれるかは、その企業の生産形態による。個別受注生産・見込生産・繰返受注生産・連続生産・ファブレス企業等々で、そのバリエーションと守備範囲がことなってくる)。

また、同じ製造業といっても、企業の規模は様々である。社長自身が額に汗して働く町工場からはじまって、工場と本社が同居している企業、本社や営業機能がわかれて工場は生産に専念している企業、複数工場を持っている企業、そして全世界に生産・物流拠点をもっている企業まで、広いスペクトルがある。

一般に企業組織は、量的に大きくなればなるほど、機能別に分化していく性質をもっている。したがって、生産に直接間接にかかわる部門の範囲は、大企業になるほど多くなる。設計や、集中購買や、物流や、生産計画などの諸機能が、工場の外に行ってしまっているケースは珍しくない。

そのため、こうした広義の「生産」にかかわる活動と、工場内で直接作業に従事するための活動とを、区別する必要が出てくる。その場合、後者をしばしば『製造』と呼ぶ。生産は広義の概念で、製造が狭義の概念に相当するのである。そして、その製造を支えるための間接活動を指して、製造管理と呼ぶのだ。

ちなみに、英語では生産はProduction、製造はManufacturingであるが、この両者を広義と狭義で厳密に使い分けているかというと、必ずしもそうではない。たとえばMRPⅡはManufacturing Resource Planningの略と言うことになっているが、カバーしている範囲は明らかに購買も受注(販売)も含む広義の生産活動である。

もう一つ、MESという言葉もある。これは情報システム系の用語で、Manufacturing Execution Systemの略だ。もともとはAMR Researchという機関による造語で、日本語では製造実行システムと訳しているが、なんだかあまりしっくりこない。そこでしばしばこれは、『製造管理システム』とも呼ばれる。ここにも製造管理が出てくる。

しかし、これは実はなかなか穿った訳語なのである。もともとAMR Researchでは、製造業の情報システムとして、「三層モデル」というものを考える。最上位層は、本社レベルにおける生産のマクロな計画と管理である(これを「計画層」Planning Layerとよぶ)。最下位層は、工場現場における機械設備の運転と制御である(「制御層」Control Layer)。そして、その中間に、工場の製造手配と進捗把握のための活動が来る(これを「実行層」Execution Layerとよぶ)。

これらの階層は、そのまま働く人間の職位につながっている。計画層は本社の生産企画部門、実行層は工場のホワイトカラー管理職、制御層は現場の職工である。また、情報システム的に言うと、最上位のERPシステムと、現場の制御システムをつなぐ立場として、製造実行システムMESが来る、という位置づけになる。整理すると次のような形だ。

(1)計画層-本社管理者-年月単位・工場単位・製品群単位のマクロな視点-ERP
(2)実行層-工場管理者-月週日単位・工程単位・品目単位の視点-MES
(3)制御層-現場運転員-週日時単位・機械単位・ツール単位の視点-PLC

むろん、これは類型化したモデルであって、いつもこの通りとは限らない。本社で、時間単位のスケジューリングをしている会社もあれば、現場班長が半月分の差立てを決めている会社も知っている。ただ、こう整理すると分かりやすいのだ(詳しくは、工業調査会・刊「MES入門」をご参照いただきたい)。

そして、(1)が広義の生産管理、(2)が狭義の製造管理、にそれぞれ対応していることが分かるだろう。広義とか狭義とかは、すなわちマネジメントのスコープ(責任範囲)のことを差しているのだ。

だから、ERPシステムで生産管理までやるべきだ、とか、いや無理だ、とかいった議論は、そもそもナンセンスなのである。生産管理といい製造管理といったとき、どこまでが必要な管理の粒度(視点の細かさ)なのか、そして判断の自由度をどこまで下ろすべきなのか、それは生産システムの質に依っている。そこの議論を抜かしたまま、情報システムベンダーや経営雑誌の批評に自分の判断をゆだねては、いけない。
by Tomoichi_Sato | 2006-06-12 00:18 | ビジネス | Comments(0)

科学の子

JR高田馬場駅のホームで乗り降りしたら、耳慣れた曲が聞こえた。電車の発着のベルのかわりに、アニメ「鉄腕アトム」の主題歌が聞こえたのだ。谷川俊太郎作詞・高井達夫作曲の、あの“空を超えて~、ラララ、星の彼方~♪”という歌である。この駅だけ、なぜ鉄腕アトムなのかは、よく知らない。もしかしたら手塚治虫の虫プロが、かつてこの地にあったのかもしれない。いずれにせよあのメロディは、昭和30年代に生まれた男の子なら、誰でも知っていた。

この歌を想い出してみると、もう少し先で、“心優し~、ラララ、科学の子~♪”という風に音階が盛り上がっていく。「科学の子」! 今日の世界では、決して思いつかないフレーズだなあ。若いときの谷川俊太郎は才能があったのだろう。いずれにせよ、今ではこんな言葉、誰もロマンチックには感じまい。

科学というものが、ロマンチックな性質を持つことを、もはや皆が忘れているらしい。エンジニアはみな、科学を学ぶ。技術は科学の裏付けがなければ、たんなる職人の手仕事にとどまってしまう。技術者を志す大きなモーメントは、科学というものの持つ限りない可能性と、理知的な精神の結びついた、ロマンチックな性質だったはずだ。

最近、情報系の学科は入学希望者がたてつづけに減ってきている。知り合いの大学教授から、そう聞いた。さもありなん、とも思う。IT産業はこの20年間というもの花形だったが、それを支えるソフトウェア技術者は過酷な労働環境を強いられる職業だと、誰もが思うようになった。技術者というより、ソフトウェア労働者と呼んだ方がふさわしい。しかも、それで大金が儲かる確率は、もはや極めて小さい。企業は中国かインドに仕事をアウトソースしようと虎視眈々だ。経済産業省が鉦と太鼓で育成の音頭をならそうとも、誰がそんなしんどいばかりの仕事に就きたいと思うだろうか?

似たようなことは、工学部全般に言える。青少年の理工系離れを防ぐために、いろいろな人が策を提言しているが、私は悲観的だ。なぜなら、エンジニアという職種は、今の産業界では、たいして報われないからだ。嘘だと思うなら、製造業の役員リストを調べて、その中に生産畑・研究畑出身がどれほど少ないかを見てみればいい。彼らの科学知識は、彼らのキャリアを豊かにするために、どれだけ役に立ったか? こうした事実に目をつぶったままで、青少年だけを、使いやすい歯車として育てようというのは虫が良すぎる。

つい先日、同年代のエンジニアで飯を食いに行って、しばらく雑談した。話は彗星にロケットを打ち込んで、そこから物質サンプルを持ち帰るプロジェクトの成功と失敗要因に至り、おおいに花が咲いた。こういう話は楽しい。もっている科学知識をあれこれ動員して、想像力の翼を多少なりと羽ばたかせることができる。こういう議論をしていると、ああ、自分たちはまだ科学の子の意識が、少しは残っているな、と感じる。わずかなりともそこには、歳を忘れさせるロマンティックな香りがある。

リスク確率にもとづく貢献価値理論について、最近あれこれと考えている。その中で、タスクの貢献価値の比率は、その仕事の難易度(つまり代替可能性の小ささ)に比例することを証明できた。これを応用すると、コストセンターの生産部門の貢献価値が、プロフィットセンターの営業部門よりも大きくなる条件も示せる。お金を使うばかりの部署でも、価値の源泉であることが示せるのだ。こういう発見こそ、科学的アプローチの醍醐味だろう。

製造は代替可能ではない、と私は言い続けている。設計もそうだ。こうした仕事は単なるコストセンターだから、さっさと海外に移転すべきだと考える今日の経営思想に、私は反対だ。販売はプロフィット・センターであり、マーケット・インの環境下で強い発言権をもつのは当然だ、と多くの人は思っているらしい。私はこれにも完全には同意しない。モノの感覚に裏打ちされた科学のセンスを失うと、組織はしばしば言葉の上だけで空回りを始める。言葉では何でも言える。だが、言葉による論理の暴力に対抗できる力を持つのは、検証可能な事実に即して考える訓練を経た者、すなわち科学を身につけた者だけなのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-06-05 00:33 | ビジネス | Comments(0)

稼働率のパラドックス

現在の日本の製造業が抱えている問題構造は、業種が違ってもしばしば似ている。それは、見込生産向けの工場で、受注生産をこなそうとしていることから生まれる。あるいは、より正確に書けば、「市場からの要求によって、大量見込生産から受注生産に工場はシフトせざるを得なくなってきたのに、企業の管理はあいかわらず見込生産の考え方で行なおうとしている」ことだ。この問題は、以前「特別なわが社」にも書いた。

見込生産から受注生産にシフトしてきた理由は、簡単に言うと、物不足の時代からモノ余りの時代になってきて、需要家・消費者の要求が細かく個別化してきたからだ。プロダクト・アウトからマーケット・インの時代になったといってもいい。こうして、一つの工場の中に、自社の予定で作る標準製品と、顧客の要求で作るカスタム製品が、混在するようになった。

工程や生産ラインも、これに合わせて少しずつ変えて行かなくてはならない。品種の切替が増えて小ロット化するから、治具や設備やレイアウトも変えなければならない。新製品の導入もめまぐるしい。生産技術部は大忙しである。

ところが、困るのは、管理者側の尺度が見込生産時代のままであることだ。その典型が、「稼働率」である。

見込み生産では、工場の設備稼働率は高い方がいい。たくさん作れば、それだけ生産効率は上がって原価が下がる。そう考えられてきた。作れば売れるから、少しくらい製品在庫が増えてもかまわない。だから必然的に大ロットを追求することになる。生産管理者は、努力して稼働率を上げればほめられた。

ところが、受注生産ではこれが逆なのだ。受注生産では、努力すると稼働率は低くなる。なぜか。それは、同じ100個の製品を作るのに、4時間でできる場合と、5時間かかる場合を想定してみれば分かる。1時間あたりの生産量は、25個と20個だ。当然、4時間で作れる方が、生産性は高い。だが、1日8時間労働だとしたら、5時間働いている方が稼働率は高くなるではないか。

どうしてこういうパラドックスが生まれるかというと、受注生産では、工場が作るべき量が最初から定められているからだ。生産量は工場側の意思では決められない。では誰が決めるのかというと、営業部門である。だから、今日の多くの企業では、営業部門が工場に対する発言権を多く持つようになってきた。

これに対して、工場側での意思や努力は、生産効率を上げること、すなわち稼働率を下げることに現れるのである。だが、不思議なことに、今日でも、稼働率を下げたからといってほめられる企業はめったにない。生産管理者は、逆のことを求められるのである。

求められて、どうすればいいのだろうか? どうみたって、稼働率は生産量を生産効率で割った数字で決まってしまう。つまり、稼働率は生産量の従属変数なのだ。そして、生産量は工場側ではコントロールできないのだ。

そこで、工場側では仕方なく、労働者を削減したり、外注工程を切ったりして、対応することになる。こうして、長時間労働と、モラール低下と、サプライヤーとの関係劣化が生まれてくる。

稼働率で管理してはいけない。これは以前も書いたことだ。しかし、もう一度、声を大にして言おう。受注生産が少しでもある工場では、稼働率で管理してはいけない。
by Tomoichi_Sato | 2006-05-25 00:08 | ビジネス | Comments(0)

なぜ原価が下がらないのか

生産管理の最重要課題は「最小の在庫で顧客の納期を守ること」、すなわち、需要と供給の線を一致させるよう、生産システムを運用することだ、と先週の「生産管理とは何か」で書いた。

ところで、たいていの企業では、生産管理の目的は原価低減だ、と考えられている。まず何よりコスト削減が主題。それから、品質の確保。納期は三の次である。というか、納期はたくさんの在庫によって守られているため、問題意識にあまりのぼらないようになっている。

なぜ、そうなりがちかというと、背景には会社の目標管理と分業主義がある。製造業は大きく販売部門と生産部門に分かれる。そして、販売は売上高、生産は原価で管理することが当然だと経営者は信じている。なぜなら、企業の利益は

 売上高-製造原価=利益

という式で決まるから、との理解だ。利益を上げるためには、売上高を増加させ、製造原価を下げる必要がある。したがって営業も工場も、各々の持ち場で最善をつくすべし。そういう三段論法が、ここにはある。(じつは、この式には逸失利益の項が入っていないのだが、その問題はまたいつか別のときに論じよう)

ところで、上の式には「納期」のような時間の項目が入っていないことに注意してほしい。納期の項とは、生産量の項と言いかえてもいい。なぜなら、工場のキャパシティが一定ならば、総生産量は平均生産リードタイムに反比例するからだ。つまり、生産量の項がない上記の式は、1個あたりの単価計算でも、1期あたりの総量計算でも、関係は同様に成り立つとの見方をあらわしている。だが、はたしてこの前提は正しいだろうか?

もともと直接原価の3要素といえば、材料費+労務費+経費、である。材料費は確かに、生産量にほぼ比例する。部品費が1個1円なら、100個で100円のはずだ(まとめ買いをすれば少しは安くなるかもしれないが)。では、労務費はどうか。これも、10個の製品を組み立てるのに必要な工数は、1個の工数の10倍だと考えてよさそうだ。部品加工になると、段取り替え時間などがあるので、大ロットの方が少し有利にはなるが。

だが、ちょっと待ってほしい。たいていの工場では、生産量は月によって変動する。つねにフル稼働、という工場は滅多にない。では、工場の人件費は、生産量に比例して変動するだろうか? いうまでもないが、そうはならない。給与は(残業分をのぞけば)固定費だからだ。大昔の日本や、あるいは現在の中国の一部では、生産の出来高で労賃を払うような雇用形態があった。これなら確かに労務費は生産量に比例する。

だが、現在の日本では、そうではない。生産量の低いとき、工場の人は何をしているのか。あくびをしているのか? むろん、彼らだって遊んでいるわけではないことを、十分に示す必要がある。つまり、その分、目に見えにくい間接作業が増えるのである。ツールを研いだり、材料を配膳したり、運搬したり、欠品表を書いて資材部にかけ合ったり、清掃したり修繕したり、仕事はいくらでも生み出される。彼らもタイムカードに押した分、給料をもらう権利があるからだ。

これは直接労働に従事するブルーカラーに限らない。そもそも、生産管理や品質管理や在庫管理など、いわゆる管理と名の付く間接業務にたずさわるホワイトカラーだって、負けていられない。工程会議をやったり営業に納期回答のFAXを書いたり納入業者を怒鳴ったり工場長に月報を出したり、ひどく多忙なのだ。

私の見るところ、日本の多くの工場で製造原価が下がらない理由は、直接作業以外の人件費にかなりを依っている。無駄な人が多すぎるのだ。いや、この言い方は正しくない。人の動きに無駄が多すぎるため、生産量が上がらないのだ。月産500台の工場に100人が働いていたとしよう。無駄を減らしてスループットをあげれば、月産1000台が可能になったら、明らかに原価は劇的に下がるはずだ。

そして、工場に対して生産量を与えるのは、営業の仕事だ。つまり、原価を低減したかったら、たくさん売る必要があることになる。そして工場側の責務は、現状の設備やリソースを活用して、どれだけスループット(生産量)を上げられるようにするか、となる。おわかりだろうか。売上増大と原価低減は、互いに関係しあっており、独立に操作できる変数ではないのだ。

管理会計学は欧米で発達したが、彼らのものの考え方の特徴は(あるいは癖は)いつも『分析的』であることだ。対象を分析し、部分品に分けて、それぞれの特性を把握し、操作していく。問題があれば部位を切り分けて、外科医学的に対処していく。部分は互いに独立しているのだ--たとえそれが企業という人間組織であっても。ある部分を操作したら、とんでもない部分に影響が出るかもしれない、などという漢方医学風の発想は、管理会計学にはない。

だが、こと製造業に関しては、こうした“風が吹けば桶屋が喜ぶ”式の発想--いいかえるならば「生産システムとしての発想」が必要なのだ。そして、それを実践するのが、生産管理の本来の業務なのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-05-16 23:55 | ビジネス | Comments(0)

生産管理とは何か

生産管理とは何か。この問いは簡単なように見えて、意外と奥が深い。

製造業とは、マテリアルを加工し販売することで利潤を生む企業体である。その企業において、生産活動に直接たずさわる業務の計画・組織化・統制にかかわる仕事を、通常は生産管理と呼ぶ。販売・設計・研究開発業務ならびに会計・人事等の間接業務をのぞいた、いわゆる工場での仕事に関わる『管理』活動と考えられている。

ここで「計画・組織化・統制」なる語を用いたのは、一応これが日本の伝統的な経営学で、経営管理の三要素と呼ばれているからである。したがって普通に考えれば、

生産管理=生産計画+生産組織化+生産統制

という等式が成り立ちそうだが、ことはそう簡単ではない。生産計画という語は実務の場でふつうに使われるが、「生産統制」はめったに聞かず、「生産組織化」となるとまず使わない。「生産組織」だったら多少は分かるが、会社の人的組織図を連想しがちで、語の本来の意図とはずれていく。

そこで、英語のマネジメント・サイクルの概念であるPlan-Do-Seeをもってくる、あるいは継続的改善のPDCAサイクルを持ってこようか、と考えることになる。しかし、Production Planという語はあるが、Production DoだのProduction Actionだのといった言葉は存在しない。なにか言おうとするとExecutionやControlなどの語を引っぱり出さなくてはならない。

このように、生産管理という概念をWBSのごとく仕事の部分品に分解して組み立てる説明は、あまりうまく行かない。それでは、目的から説明したら、どうだろうか?

以前紹介した良書「SEのためのMRP」の著者・鳥羽登氏は、同書の冒頭で
 「『最小の在庫で、顧客の納期を守ること
  このことは、生産管理の最も重要な課題である」
と書いている。これは、なかなか含蓄の多い言葉だと思う。

在庫最小で納期を守ること。これはすなわち、供給線を需要線に一致させることだと言いかえてもよい。私はマテリアルの累積供給量と累積需要量をグラフに描いて考えることが多いが(このような図表を『流動図表』と呼ぶこともある)、このグラフ上で供給の線が需要より上にずれれば在庫になり、下にずれれば納期遅れになる。

でも、果してこれだけを達成すれば、生産管理の仕事は完璧か? たとえば、最小の在庫で変動にどう対応するのか? あるいは、製造原価の制約を考えずに納期だけ守ればいいのか?

むろん、そんな単純なことではない。だから鳥羽氏は、目的だとは言わず、最重要課題だと言っている。生産管理業務には、他にも課題があるのだ。生産効率だとか製造原価だとか品質だとか生産の自由度だとか。つまり、生産管理は本質的に多目的な問題なのだ。

そして、その多目的性ゆえに、生産管理には統合の視点が必要になる。ちょうどPMBOK Guideがプロジェクト・マネジメントの中心要素としてプロジェクト統合管理なる概念を導入したように。

生産とは、大きく見れば、インプットをアウトプットに変換する機能を持つシステムである。その入出力は、
(1)インプット:資材・部品というマテリアル、ならびに製造仕様書や生産オーダーなどの情報
(2)アウトプット:製品および副産物などのマテリアル、ならびに品質報告書や製造実績報告などの情報
であり、このために製造設備や用役や作業員などのリソースを占有・使用する。また外部環境として市場動向・法規制・技術動向などがあって、つねに変化している。

そして、生産管理とは、この『生産システム』の円滑な運用のために必要とされる間接業務の全てを指すのである。情報の交通整理のこともあるし、設備の改良のこともあるし、モノの流れを整えることもある。こうした活動全てを“管理”の語で呼ぶから理解しにくくなるのだ。

したがって生産管理の対象範囲は、企業の生産形態によっては、工場内のみならず、設計や調達や物流にかかわることもある。それは生産システムを運転するための総合的な活動であって、そこにはシステムを理解する総合的な視点、そして企業としての仮説(すなわち戦略)が盛り込まれなければならない。

製造業の目標達成のために、このレベルに達してこそ、初めてそれは生産管理の名に値するのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-05-08 00:16 | ビジネス | Comments(0)

ディスクリート・ケミカル工場を設計する

工場とはシステムである。このところ何度も、そう書いてきた(「工場の性能とは何か」・「製品という名のシステム、工場という名のシステム」「製造は代替可能か」など参照)。

システムというものの基本的な性質は、部分品を集めても、そのままでは全体にならないことである。全体として、ある目的に合致するような機能を持つように、部分品をつなげて構成する。こうしてようやくシステムというものができあがる。いいかえれば、明確な目的や機能を意図しないところにはシステムは成り立たない。

工場というシステムの機能とは、性能と言いかえてもいい。機能とはそもそも、マテリアルとエネルギーをインプットして、あるリソースを媒介として、別の形態のマテリアルやエネルギーに変換(変化)させることである。・・などと抽象的な言葉を連ねても、意味がピンとこないかもしれない。例をとろう。

液化天然ガスLNGの製造工場は、井戸元から送られてきた原料ガスをインプットとし、また冷熱源(海水か空気)のエネルギーを利用して、超低温・高圧のLNGをアウトプットする。同時に、温められた海水・空気、分離されたコンデンセート、副産物(廃棄物)としての硫黄や炭酸ガスなどを生成する。リソースとは、熱交換器やコンプレッサーやガスタービンなどのプラントを構成する装置、そして働く人々だ。

LNGは単一製品大量生産の工場である。マテリアルは入出ともすべて流体だ。生産量は定常的であり、いかに安定に生産するかが運転の課題になる。工場システムは静特性(処理量)が目的尺度になる。そして、化学工学の対象は従来、こうした連続生産が主体で、せいぜい時間的要素としてはバッチ操作やタンク繰り問題があった程度だった。ここには、スケジューリングや物流(在庫)管理の悩みはほとんど無い。

ところが、前回述べたディスクリート・ケミカル製品を作る工場ではがらりと変わる。まず、工場は基本的に多品種のプロダクト・ミックスになる。こうした工場の性能(生産量)とは、どういった尺度で測るべきか? この基本的な問いに、化学工学は答えるすべを知らない。

ディスクリート・ケミカル工場は、インプットとしては液体・気体・粉体など流体が中心だが、製品はシート、ロール、ペレット、小さなピースなど、固体で軟性のものが多い。工程の途中までは、化学工学お得意のタンクと配管とポンプでの輸送だが、下流工程ではロールやバケットやパレットなど、固体のマテリアル・ハンドリングになる。だからAGV・台車・コンベヤ・クレーンなどの機械が必須だ。保管はタンクのかわりに、立体自動倉庫やDPSなどになる。ピッキングだのアソーティングだのといった処理も必要になる。

こうした工場の設計では、保管に必要な空間容積・倉庫サイズ、搬送に必要な手段と台数、などを決めなければならない。生産量が小さいうちは手で運んでもいいが、量が増加したり品種が増大したら、物流工程の方がしばしば製造工程よりもボトルネックになる。だが、こうしたプロダクト・ミックスのある工場の設計論は、あまり教科書らしいものが見あたらない。不思議なことである。

化学工場では、エネルギーの7割以上は、反応ではなく分離精製や輸送保管に使われる、と言われている。私の見たところ、ディスクリート・ケミカル工場もまた、設備スペースの7割以上はマテリアル・ハンドリングのために使われるように思う。

こうした固体中心の工場の設計はどう決めるべきかというと、基本は離散系のダイナミック・シュミレーションに頼ることになる。ところで、ここで問題になるのは、多品種のプロダクト・ミックスの取り扱い方だ。中心の製造工程は、切替型連続生産タイプになることが多い。品種切替は段取り替え時間を要するため、スケジューリングが必要になる。通常のシミュレータでは、このスケジューリングによる動的な順序組み替えが扱えない。

そこで、私の所では、APS(生産スケジューラ)とダイナミック・シミュレータを組み合わせて使っている。こうしないと、本当の意味での最適設計にはならない。だが、正直なところ、化学メーカーの生産技術部門で、ここまで出来るところは少ないようだ。また、その時間的余裕もないのかもしれない。

スケジューリングもそうだが、物流(在庫)管理にも独特の悩みがある。シートやロールなどの製品は個数単位では扱いづらい、かといってkgやm3単位だけでも不便で、2重の計量単位を持つ必要がある。おまけに足し算は正確には合わない。たいていの在庫管理システムは個数単位でしかものを扱えないから、お手上げである。

製造管理(MES)もまた独特なものになる。いわゆるプロセス系の計装制御と、離散系の搬送制御を同時にインテグレーションしないと、工場全体のコントロールができない。

ディスクリート・ケミカル工場は、クリーンルームの技術がしばしば必要になる。そこで、建築設計・空調設計なども、かなり固有のノウハウが要る。多層階レイアウトも課題だ・・・。

こうして書いていると、いかに従来の化学工学の世界と隔絶しているか、よく分かる。かといって、機械工学や経営工学を持ってくれば簡単に設計できる訳でもない。やはり、独自の設計論が望ましいのだ。

もっとも、エンジニアリング会社の目から見ると、ディスクリート・ケミカル工場は医薬品(固形製剤)との共通技術がいろいろとあるな、と感じられる。マテハン技術・建築設計技術・クリーン技術・制御システム・生産スケジューリング等である。ここらあたりが、一つのヒントになりえるだろう。

いずれにせよ、今の日本では、電子材料・機能性素材の需要は高まる一方である。設計論の確立と共有化が、大きな課題であることは間違いない。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-26 00:23 | ビジネス | Comments(0)

ディスクリート・ケミカル産業

私は大学で化学工学を専攻した。カガクコウガクという学問名は、すべて「カ行」の音だけでできている上に、一つの単語の中に「学」が二回出てくる、きわめて珍しい分野名である(こういう語は、あと他に『科学哲学』があるだけだ)。

日本は言霊のさきわう国だというが、このように難解(?)な名称の学科を選択したおかげで、私は他人にうまく専門を理解してもらったためしがない。化学工学は広い意味では「応用化学系」に分類されているので、“ああ、化学が得意なんですね”と言われたりする。だが、現実は、全然違う。私は化学は大の苦手で、大学入試の理科の試験は物理と化学だったが、物理はほぼ100点に近い自信があったのに、化学はただ1つの小問を除いて白紙答案を提出した。

さらに、恥を忍んで告白すると、私は大学院の試験勉強のために、高校生向けの化学の参考書を買って勉強した。それでもパスしたのだから、化学工学という学問を専攻するのに、複雑な化学の知識は不要なことがよくわかる。私の知る範囲でも、化学工学を専攻した人の中で、化学に強い人は3割程度しかいないと思う。

化学工学は20世紀に入ってから発達した学問で、英語ではChemical Engineeringという。具体的には、化学装置と化学工場の設計論を目的にした工学である。米国ではMechanical Engineering=機械工学とならんで、人気の高い分野だ。機械工学は機械装置と部品組立工場の設計論だから、ちょうど対をなしている。いいかえるなら、化学工学はプロセス産業を支え、機械工学はディスクリート(組立加工)産業を動かしている。だから、化学工場の設計技師は『プロセス・エンジニアProcess Engineer』と普通呼ばれる。

ところで、化学工業=プロセス、機械工業=ディスクリート、という区分は最近、当たらなくなってきている。じつは、現代日本の化学産業には、見えない地殻変動が起きており、化学工場なのに製品はディスクリートのケースが増えているのだ。どんなケースか?

それは、いわゆる電子材料、あるいは高機能素材と呼ばれる製品をつくる工場である。たとえば有機EL材料、半導体封止材、発光素子、偏光フィルム、逆浸透膜といった製品群だ。こうした製品の特徴は、固体であること、単価が高いこと、組成は似ていても機能的な違いが大きいこと、などである。言いかえれば、高付加価値であり、かつ多品種化した製品群となっている訳である。

そして、それが相当の利益を稼ぎ出している。「会社四季報」などの化学のページをめくってみれば分かるが、日本の化学メーカーの多くは、すでに1年半から2年前に不況を脱しているものが多い。そして、その企業の収益を支える製品が、こうしたディスクリート・ケミカル製品なのだ。四季報には各企業の概況が要約されているが、“携帯向け素材が好調”“デジタル家電用途で成長”といった言葉が並んでいる。

かつて、化学産業では「バルクケミカル」・「ファインケミカル」という区分があった。前者はエチレンやBTXなど原材料から、せいぜい汎用ポリマーくらいまでの、物量の大きな上流側製品群を指す。後者は農薬・原薬・試薬・添加物・特殊ポリマーあたりの下流側製品群を指すことが多かった。共通点は、いずれも連続プロセスないしバッチプロセス中心で製造されること、物流の主要な形態は液・ガスないし粉体(大きくてもペレット)であることだ。

日本の化学産業は基礎原料の石油・ガスを輸入に頼らなければならない制約がある。このため、バルクケミカルでは規模の経済を追求しても、なかなか海外品に比べて競合がきつい。したがって、'70年代の石油ショック以降は、しだいにファイン指向を強めてきた。しかし、やはり付加価値を高めたければ、より消費者に近い素材に向かうことになる。

こうして、'90年代の後半から、ディスクリート・ケミカルの領域が生まれてきたのだ。この領域はある意味ではニッチ的だったため、大手化学メーカーだけでなく、新進の素材専業メーカーが活躍する余地を残しており、製品開発競争も活発である。官庁の法的規制もあまり強くなく、自由に技術力をふるうことができる。技術者として、非常に面白い分野である。

最初に述べたとおり、「化学工学」は本来、化学工場の設計論として発展してきた。しかし、この国では化学、とくにバルクケミカルは、公害問題以来あまりいいイメージを持たれていない。そのため学生に不人気となり、今や大学から化学工学科の名前がほとんど消えてしまっている。かわりにシステムとかバイオとか格好いいカタカナの混じった学科名になっている(ここらへんが言霊のさきわう国なのだ)。しかし、いざ外国に行くと、そんな新奇な学問名は通じないので、みな当惑する。

私は、むしろ化学工学は、新しいディスクリート・ケミカル産業に奉仕すべく、変化を遂げるべきだと思う。無論、従来のプロセス設計が急に不要になる訳ではない(とくに海外では)。しかし、今、一番進歩が活発なのは、この分野なのだ。そして、困ったことに、ディスクリート・ケミカル分野は、工場の設計論が未整備である。どこが難しいのか、どこに手がかりがあるのか、長くなってきたので、続きはまた書こう。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-17 00:24 | ビジネス | Comments(0)