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メーリングリストの登録受付を開始します

読者各位:

以前、本サイトの新着記事を配信するメーリングリストの予告をいたしましたが、ようやく設置の準備が整いました。

メールアドレスの登録フォームは、姉妹サイトである
 「マネジメントのテクノロジーを考えるhttp://mgt-technology.info
のトップページ左側サブメニューにある、「ニュースレター登録フォーム」をクリックすると開きます。
そこから、メールアドレス、氏名、所属を登録してみてください。
登録確認メールが発信されるはずです。

このメーリスは、Benchmark Emailというサービスを利用しています。今後、新しい記事はまず、こちらから発信していくつもりです。

なお、メーリングリストに登録いただいた方から、先着20名様に、わたしがこのサイトの記事から選んだ、

 『モノサシを疑え 〜 マイ・ベスト・セレクション

の電子ブック(ePub形式)を、お名前入りでさし上げます。
大勢の皆様の積極的なご登録を、お待ちしております。


佐藤知一

(追記:おかげさまで、先着20名の枠は1日を待たずに一杯になりました。
 早くお申し込みくださった方々には電子書籍を順次お送りさせていただきます。
 記事のメール配信自体は、いつ登録されても有効です。
 また、メールのみでの情報発信やご案内も考えておりますので、ぜひよろしくご登録ください。)


by Tomoichi_Sato | 2017-11-28 22:56 | ビジネス | Comments(0)

マネジメント・テクノロジーを考える場にようこそ

このほど、新しく「マネジメントのテクノロジーを考える」というサイトを立ち上げた。

新サイトの目的は、マネジメント・テクノロジーのための情報源とすることである。そのために、2000年4月からずっと開設運営してきたわたしのサイト「革新的生産スケジューリング入門」のコンテンツを、全面的に移行した。SCM・BOM・PM・ITなどに関わる数百の記事がある。これに加えて、個人的に書いてきた「気まぐれ批評集」なども移してある。

このサイトは、近いうちに、マネジメント・テクノロジーを学ぶコミュニティのためのプラットフォームとして、拡張していきたい。現在、わたしが主宰している『プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会』の「PM教育分科会」では、世に類例のない新しいタイプのPMトレーニングを開発中である。これに関連するフォーラムや、e-Learningなどを今後、立ち上げたいと考えている。とはいえ、こちらはまだ構想段階なので、現時点ではわたしの個人コンテンツ集の体裁になっている。

新サイト開設に伴い、さらに二つほどやろうと思っていることがある。

第1に、本サイト(brevis.exblog.jp)の最新の記事を届けるために、メーリング・リストをはじめるつもりだ。これにより、いちいち見に来なくても、新しい記事がお手元に届くことになる。

もう一つ。過去に書いた数百の記事の中から、マイ・ベスト・セレクションを選んで、電子書籍化することを考えている。もちろん、メーリング・リストに登録してくださった方々には、先着順で無料進呈するつもりである。詳しい案内は、また後日させていただこう。

ところで、タイトルに使った『マネジメント・テクノロジー』という言葉は、一般用語ではない。世の中には「固有技術」「管理技術」の区分があるが、後者のカタカナ版というつもりで使っている。管理技術のままでも良いのだが、「管理」という日本語は英語のManagementよりも曖昧性が高い上に、その高圧的なニュアンスを嫌う人も少なくない。そこで、英語風に言いかえたのである。

元々この言葉は、わたしの勤務先の同僚・秋山聡氏が使い始めたもので、わたしもお借りして使わせていただいている。だから、Googleなどで"Management technology”と検索しても、そのものズバリのサイトは、なかなか出てこない。○○マネジメント技術、たとえばdata management technologyといったものはヒットする。また、Management of technology(MOT=技術経営)関連のサイトは、いくらでもある。だが、わたしの意図するマネジメント・テクノロジーは、技術の経営とは全く異なる概念だ。

マネジメントという言葉は多義語だが、その中核には「人を動かす」という意味がある。人に働いてもらって、あるいは、人と一緒に動いて、共通の目的を達する。このための技術を、マネジメント・テクノロジーと呼ぶ。

人が働く場合は、通常、それにともなって情報や物のやりとりがある。したがって、物の数量、品質、置き方、動かし方、などにかかわる技術も必要だ。情報やデータのインプット、伝達、蓄積、処理などの技術も大切になる。

そしてもちろん、お金に関わることがら、つまり見積や予測、集計にも技術がある。また、時間に関わること、所要期間の見積、集計、納期の予測も技術の対象だ。なによりも、人の集団としての組織を、どうデザインし、統率し、成長させるかという大きな難しい課題もある。

こうした事柄に関する技術は、分野・業種にかかわらず共通性が高い。たとえば在庫理論はマネジメント・テクノロジーの一種だが、在庫しておく対象が、石炭だろうがPCだろうが、共通に使える。最近流行の言葉に、<競争領域>と<協調領域>という用語があるが、共通性の高いマネジメント・テクノロジーは、後者に属するといえるだろう。

ただし、こうしたマネジメントに関する知恵は、従来バラバラに存在していた。在庫理論、会計学、品質工学、情報システム、人材開発・・という風に。

大事なことは、そこに「システムズ・アプローチ」という心棒を通すことだと、わたしは考えている。時間・品質・在庫・コストなどの項目は、バラバラに存在し、バラバラに管理できるものではない。製造業のQCDをみれば分かるとおり、品質とコストと納期は、互いに関係している。品質を上げようとするとコストがかかり、低コストでやろうとすると納期が延び、と言う風に。互いに制約し合っていると言ってもいい。

その一番わかりやすい例が、プロジェクト・マネジメントだ。現代のPM理論は、1950年代に米国で生まれた。プロジェクトを、単位作業(Activity)のネットワークで構成される「システム」だ、と考えたときにモダンPMの理論と手法が誕生した。だから、上に述べたわたし達のPMトレーニング・カリキュラムでは、プロジェクトを「システム」だと実感することに重きを置いている。

そもそも、マネジメントの能力は、生まれつきの才能でもないし、「気合い」だけで増大する物でもない。技術(テクノロジー)によって増大する、という思想が、わたし達のよりどころである。ただし、人が持つ能力は、かなり移転可能な部分と、どうしても属人的な部分に分かれる。これを、ハード・スキルとソフト・スキルと呼ぶ。

ハード・スキルとは、技術と理論を中心とした、座学で習得しやすい能力である。これに対し、ソフト・スキルとは、問題解決や交渉力といった、繰り返し練習によって身につく能力である。

そして、この両者を支える思考と行動習慣の体系を、OSとよんでいる。2年前に上梓した拙著『世界を動かすプロジェクト・マネジメントの教科書』では、この考え方に立って、以下のような「S+3K」がOSとして大切だ、と表現した。

 S: システムズ・アプローチ
 第1のK: 言葉を大切にする(言語化)
 第2のK: 契約と責任を重んじる(契約責任制)
 第3のK: かならず計画を立てる(計画重視)

ちなみに第2・第3のKは、とくに海外プロジェクトで重要になる要素だ。しかし、PMの観点だけでなく、より一般的に、システムズ・アプローチを内部から支える要素をあげると、以下の3点を大切にする態度になるのではないか:

  • 言葉
  • ロジック(論理・法則性)
  • 記憶(経験・歴史)

これはたとえば、あなたが上司や顧客としていだきたくない人物像を考えると分かる。まず、言葉をぞんざいに扱う人たちは、正直、あまりありがたくない。言っている意味が通じない人、意味内容がすぐ変わる人、逆に、狡猾に言葉をすり替える人などなど。

二番目にこまるのは、ロジックを無視する人だろう。1+1を、3とか5にしろと主張する人。仕事のパターンや傾向、法則性を無視する人。そして何でも「気合いと根性」だけで押し切る人たちだ。つまり、論理を「面倒くせぇ」で片付ける人である。顧客として上司として、あまりお相手をしたくないタイプである。貴方の周囲でも、見かけることはないだろうか。

そして敬遠したい三番目のタイプは、記憶しない人たちである。つまり、過去の過ちをすぐに忘れる(忘れたふりをする)人、約束や主張をしょっちゅうクルクル変える人、記録を軽視し、なんでも記憶と印象だけに頼る人。こういう人達は、できればリーダーに戴きたくない。

さて、前述のPMトレーニングについては、すでに6月と9月の2回にわたり、研究部会の内部でボランティア受講者を募り、改良を加えてきた。順調にいけば来年初頭あたりから、お披露目できるだろう。そして、これはわたし達が考える、「マネジメント・テクノロジーとしてのPM」の最初のカリキュラムになる予定である。

このコースは、プロジェクト・マネジメントの「初級者を対象とする」というつもりで設計し、参加者を募った。ところで、最近気がついたのだが、この「初級」「中級」という概念自体、もう少しきちんと定義すべきだったようだ。たとえば世間のPM資格試験では、プロジェクト実務経験年数や時間数などに準拠しているが、はたしてそれは妥当なのか?

分科会の中で議論するうち、わたし達はもっと別の定義の方が、ふさわしいと気がついた。それは、以下のような簡単なものである。

マネジメント・テクノロジーにおける初級者とは、自分でなんとか実行することができる人を指す。言われたことをそのとおり実行する場合も、自分で考えてやってみる場合もあるだろう(もちろん、言われてもできない人は、入門以前である)。

これに対し、中級者とは、他人に教えることができる人を指す。すなわち、自分の関わるマネジメントの手順・技術について、言語化でき、また元となる理論や定石を理解しており、それを実例と共に伝えられる人である。

そして上級者とは、新しいやり方を開発できる人である。
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このように定義してみると、いろいろなことがすっきりする。たとえば、何年間、いや何十年間も、実務経験を積んでいても、人を教えることをせず、ただ「俺の背中を見て育て」という人は、まだ初級者なのである。その人の中で、やり方が言語化・定式化されていないからだ。その人自身は、マネージャーとして高い能力を、あるいは持っているかも知れない。だが、その技能が個人に属するだけなら、組織はその人のレベルを超えることはなくなる。

つまり、個人のテクニックは、いくら積み上げても、移転・共有可能な「テクノロジー」にはならないのだ。シニア世代の引退を控え、あちこちの職場で若手への「技術移転」が課題となっている。しかし、そもそも移転可能な形になっていないままでは、誰が受け取れるだろうか?

教えることは、じつは自分も学ぶことだ。教えるのが一番、勉強になる。それは多くの人が経験したことだと思う。もしかするとわたし達の社会は、年を経た、ベテランの、しかし初級者ばかりでできているのかもしれない。

せめてわたし達は、はやく中級者になろう。


by Tomoichi_Sato | 2017-10-20 08:21 | ビジネス | Comments(2)

能力評価のレベル0からレベル2まで 〜 組織を作る概念のシステムとは何か

生まれて初めて乗った飛行機は、アエロフロートだった。大学院の修士課程をでる前の3月、わたしは一人で卒業旅行にでかけた。まだ旧ソ連の時代だ。旅行の行き先はドイツとスペイン、そして英国。モスクワ経由でフランクフルトに向かい、ドイツ中部の家々の屋根の色を見下ろしたときの印象は、今でも鮮明だ。ドイツでは父の元・部下で、当時フランクフルト近郊の現地法人で働いていたNさんに、いろいろとお世話になった。スペインでは、マドリードにあった父の会社の取引先の方が一緒に夜、食事をしてくださった。今考えると、いくら取引先のキーマンの息子だとは言っても、取るに足りぬ生意気な若造のお相手をしてくれた訳だ。まことに頭が下がる。

行く先々で聞かれた質問が一つあった。「なぜ、お父さんの会社に行かないのですか?」という質問だ。ドイツでもスペインでも現地の人に聞かれた。わたしにはむしろ、「へえー、ヨーロッパ人って、そういう考え方をするんだ」と新鮮な驚きを感じた。家業ならいざ知らず、父は会社の役員だったが社長でも創業者でもない。親と同じ会社に入るなんて、むしろ古くさい、前近代的な考えだと思っていた。だから合理的近代人である西欧の人達が、そんな風に思うことが意外だったのだ。

前回、「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ で、“生まれつきリーダーは決まっている”、という観念でできている組織(たとえば同族会社など)は、レベル0だと書いた。だが、誤解しないでほしい。わたしは同族企業をすべて批判しているのではない。すぐれた業績を上げている同族企業を、わたしはたくさん知っている。とくに英明で優れたリーダーが社長職を継いでいるところは、大胆な決断もスピード感を持って下せるし、従業員からも尊敬されていて、立派な組織が多い。

レベル0という位置づけは、ポテンシャルの基底状態、つまり一番自然に発生し、そこから出てもまたその位置に戻りやすい状態を指している。「リーダーとなるべき人は生まれつき決まっている」という観念は、組織づくりの設計思想としては、レベル0=出発点だ、ということを申し上げているにすぎない。事実、歴史を見ると、古代にはこうした考えでいろいろな制度が設計されていた。そして、それなりに機能していた。

ただし、当たり前だが、レベル0のままでは組織の維持に差し支えるような事態も、起こりうる。オーナー社長の残した一人息子が暗愚で、かわりになる子どもが親族にいないとか、いても嫁に行った娘だった、といった話はいくらでもある。こうなると、お定まりのお家騒動だ。すぐれた同族企業が沢山あるのは事実だが、すべての同族企業が素晴らしい訳ではない。

逆に、レベル2の組織では「基準とルールを作って組織を動かす」と、『マネジメントのレベル0からレベル2まで』 http://brevis.exblog.jp/26064558/ では書いた。しかし、こうした組織が全て素晴らしい訳でもない。基準とルールを定めて人を動かすのは結構だが、ルール本来の目的が忘れられ、単に維持することが自己目的化することもある。そうした組織ではしばしば、官僚主義と大企業病が跋扈するようになる。すると、大きな環境変化への適応不全が起き、「ヒーロー待望論」と共に、レベル0の組織まで一気に縮退することさえある。

だからこそ、ルールというものは、それ自体に定期的見直しと改良がビルトインされなければいけない訳だし、マネジメント・システムを組み上げるポジションには、マネジメント能力の高いものを配置しなければならない。レベル2のマネジメントには、レベル2の人材配置が必須なのである。だが、そもそもマネジメントの能力とはどのような性質のものなのか。いや、ことはマネージャー職にとどまらない。いやしくも適材適所を実現するためには、いろんな種類の能力が、うまくアセスメントし評価できなければならないのだ。

ここで、「能力評価」に対する、3つのレベル分けを定義しよう。

レベル0: 能力は生まれつきでほぼ決まる
レベル1: 能力は素質に加えて、「やる気」が大切である
レベル2: 能力は素質・意欲に加えて、知識・技術・不断の訓練で成長する

能力は生まれつきの素質やセンスで決まる、という見方は、素朴な出発点=レベル0である。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という言い方は、世間でもネットでもよく見かける。こういう風に発言すると、 クールでカッコよく聞こえるのも確かだ。部下の能力を即座に峻別し、ダメな奴からカットする上司。「お前はクビだ」というセリフで有名になったお金持ち。ただしこうした人びとは、部下(=人的資源)とは自分の所有物ではなく、組織や社会からの借りものだ、という事を忘れている。でも、その話は脇に置いておこう。

レベル0の能力観において重要になるのは、持って生まれた素質の選別である。これに対し、レベル1では、本人の意欲・やる気を重視する。多くの人が好むスポーツや競技もののストーリー、とくに昭和時代に隆盛した「スポ根」ものは、こういう能力観をベースにした説話である。最近読み直した’90年代の人気マンガ「ヒカルの碁」(原作・ほったゆみ)の第1巻では、主人公のライバル・塔矢アキラがまだ幼少の時、父である塔矢名人と会話する。

「お父さん、ボク、囲碁の才能あるかなあ」
「ハハハ。それがおまえにあるかどうか、わたしにはわからんが・・
 そんな才能なくっても、おまえはもっとすごい才能をふたつ持っている。
 ひとつは、誰よりも努力を惜しまない才能。
 もうひとつは、限りなく囲碁を愛する才能だ。」(p.150)

競技を愛して努力を惜しまなければ、必ず強くなる。これが少年マンガの中心テーゼだ。このテーゼは、人を努力に誘い、打ちのめされた人を再び奮起させる点で、たしかにレベル0よりも上である(もっとも「ヒカルの碁」の塔矢アキラは、誰が見たって生まれつき卓越した素質の持ち主だが)。レベル0の考え方では、基本的に人には、あまり努力による伸びしろがない訳だから、誰を選抜するかが評価の中心になる。

日本の教育制度(と称しているもの)は、じつは選抜のシステムである。教科書的知識を教え、それを選抜の基準とする。だから記憶力が良くて、出題者の意図を読むのが達者な人間ばかりが、引き上げられる。そして若いときに一度選抜されれば、パスポートは一生有効だ。そういう制度を持つわたし達の社会は、ほぼレベル0の論理で動いていると言っていい。予備校は、「意欲重視」のレベル1を、(集客と宣伝のために)あえて掲げているかもしれないが。

では、レベル2は? それは、成長を加速するための装置として、知識や技術があり、さらに繰り返し練習することによって、能力は深まる、という考え方だ。素質ややる気が不要だ、と言っているのではない。とくに訓練の努力には、熱意が不可欠だ。素質のある者は、訓練のスタート地点がかなり進んでいる。でも、それだけでは不十分だし、効率がわるい。人の能力には、伸ばせる余地が非常に大きい。これがレベル2の能力観である。

さて、3回にわたって「マネジメントのあり方」「人材配置・昇進のやり方」「能力評価の考え方」について、3つのレベルを定義してきた。ところで、これらの3レベルは、互いに関係し合っている。

たとえば、「生まれつき」で配置・昇進を決める、人材のレベル0からはじめようか。その極端が、貴族主義であることは、前にも述べた。そこまでいかずとも、あまたいる候補人材の中から、傑出した者を少数、見いだして、多少の試練で延ばしてやれば、リーダーの後継者になる。こういう論理はよく見かける。ビジネススクールの教授陣でさえ、こんな考え方が多いと思う。

真に傑出した人間は、滅多にいない。まことに稀少である。そのことはわたしも認めよう。ただし、それが生まれつきの資質やセンスによるものかどうかは、異論がある。

でも、ごく少数の生まれつき優秀な人間と、圧倒的多数の魯鈍な愚民−−こういう対立図式で世の中をとららえる人は、案外多い。この種の人達は「帝王学」という言葉も、けっこう好む。すぐれた血筋の子弟を、幼少の頃からリーダーたるべく教育する方法、を指しているらしい。ただしその学的内容は不詳で、どこかに「帝王学会」なるものが存在する訳でもないようだ。学問と言うより、一種のロマンであろう。生まれつき優秀な種なら、水をやって日を当てればほぼ自動的に育って、花が咲くものと信じているのだろう。

ともあれ、優秀なリーダーはごく少数だから、後の者たちに対しては、全てを指示し決めてやらなければならない、と考えるのも道理である。つまり、

・リーダーは生まれつきで決まるものである
 (なぜなら)
・リーダーたる能力は生まれつきの資質である
 (ゆえに)
・リーダーは自分が全てを決める

という風に、概念が円環を描いて互いを支え合う構造になっている。
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似たような構造は、レベル1同士の間でも成立する。人はやる気と意欲で伸びるのだ、というのが能力評価のレベル1だ。やる気を引き出すには、互いに競争させるのが一番だ。だから組織をエリアや職能別に縦割りにして、リーダー候補たちをそこに割り当てて任せ、「結果を出せ」といって競わせる。これがマネジメントのレベル1。そうして、成果・業績でリーダーを昇進させる。人材配置・昇進のレベル1。とてもつじつまが合っている。

・能力ははやる気と意欲で伸びる
 (そこで)
・人に任せて、「結果を出せ」という
 (そして)
・業績で人を昇進させる

たとえば、組織を地域や職能で縦割りにして、たがいに損益やKPIを定めて競わせる、といった仕組みをとる企業は非常に多い。工場間も競わせ、その成績・順位に応じてボーナスまで決めるという噂の某自動車会社など、その典型かもしれない。競争原理こそ人を動かす、との信念なのだろう。
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レベル2ではどうか。能力は、マネジメント能力を含めて、知識・技術と練習によって伸びる。そこで、人材教育と実地訓練の仕組みを組織にビルトインしなければならない。実地訓練の途上では、個人の業績が不安定になることもあるだろう。だから、配置・昇進では、短期の業績ではなく、能力評価を基準にしたルールにしなければならない。

・マネジメント能力で人の配置・昇進を決める
 (しかるに)
・能力は知識・技術・不断の訓練で成長する
 (よって)
・組織は基準とルールを作って動かす
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このように、マネジメント・ポジション・能力の3種類の概念は、それぞれのレベルにおいて、互いを支え合っている。要素が互いに支え合ってできあがる仕組みを「システム」とよぶ。システムは、要素が変わらない限り、ある意味安定である。

人間集団が持つ、体系化され組織化された、思考と行動の習慣を、わたしは『OS』とよんでいる。Operating Systemであるから、システムだ。概念の世界にも、システムが存在することに注意してほしい。そしてこのシステムこそ、見えないけれど、いろいろな制度とふるまいをしばっている。

厄介なのは、レベル0はレベル0なりに、レベル1はレベル1なりに、安定であることだ。レベルを全体として1ランク上げるためには、概念、つまり人びとの考え方を、同時にあげないといけないことだ。無理に異なるレベルの要素を接ぎ木しても、システムは不安定になる。一要素でも劣化すると、全体がおそらく下のレベルに縮退しやすくなる。

たとえば、基準とルールでできあがった組織でも、リーダーの配置・昇進が生まれつきで決まりがちだと、人材教育が機能しなくなり、人びとのモチベーションと能力が下がって、機能不全に陥るだろう。あるいは、いくら能力に応じて人を配しても、そして教育の場をつくっても、リーダーが全て自分で決めるような組織では、部下の能力が活かされず生産性が下がるであろう。基準・ルールがあり、業績で人を昇進させても、技術開発と教育が軽視されたら、みるみる競争力を失うであろう。

わたしが(そして研究部会の仲間を含めたわたし達が)、マネジメントにはテクノロジー(技術)が存在し、それを学び練習する場が必要だ、と主張してきたのは、能力観が全体の中で一番弱い環だと思うからである。ルールも能力主義も、皆、良く知っている。だが、マネジメント能力が独立した能力であり、そこに技術も訓練もあるのだ、ということは、まだ常識化していない。そこを少しでも、強めたいのである。

卒業旅行で初めて訪れたドイツでは、Nさんにつれられてノイ・シュヴァンシュタイン城を見物に行った。「狂王」とよばれたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が、19世紀末に建てた美しい城である。孤独なロマンティストで、中世伝説のマニアだった彼は、最終的に臣下に幽閉され40歳で死んだ。近代化を迫られるバイエルン国に、中世風の気まぐれな王様は、もはや足かせだった。「なぜ親と同じ会社に入らないのですか?」とたずねてきたドイツ人たちは、しかし、貴族による世襲だけではうまく行かないことも、良く知っていたのだ。少なくとも、国王を英明に育てる「帝王学」までは、持ち合わせていなかったのである。


<関連エントリ>
 →「それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?」 http://brevis.exblog.jp/20592802/ (2013-06-02)
 →「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ (2017-09-30)
 →「マネジメントののレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26064558/ (2017-09-22)


by Tomoichi_Sato | 2017-10-07 23:37 | ビジネス | Comments(0)

人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで

わたしが主宰する『プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会』では先日、「プロジェクト・マネジメントの1日研修トライアル」という催しを開いた。これは、わたし達の研究部会の中にある「PM教育分科会」というグループが、オリジナルに開発中の研修プログラムについて、希望者を募って“βテスト”を実施したものである。参加者がいるか心配だったが、幸いにも10数名の方が申し込まれ、休日を丸一日つかってわたし達の研修プログラムを体験し、有用性を検証していただいた。

その内容はまだ開発中のため、ここで詳しくは述べないが、社会人向けの、初中級者レベルのコースとして設計したものだ。もちろん世の中には、すでに多数のPM研修がある。だが、その多くはPMBOK Guideなどの知識を座学で学ぶ、資格試験対策である。あるいは逆に、ケーススタディの討議中心で、しばしばプロジェクトの火消しなどの題材を扱っている。だが、そもそも良きプロジェクト・マネジメントとは、火の手を起こさぬようにするためのものではないか。

わたし達は、知識・技法などのハード・スキルと、コミュニケーションや問題解決などソフト・スキルの、バランスの取れた研修プログラムの開発を目指している。とくに、プロジェクト全体の構造を俯瞰して理解する「システムズ・アプローチ」習得に、重きを置いて設計した。ありがたいことに、参加された方々のフィードバックは、こうした意図に沿った形で、前向きなものが多かった。

ところで、この一日トライアル研修の最後に、講師側のふりかえりを述べる機会があり、わたしはほとんど即興で次のようにお話しした。

「皆さんにとって、望ましいリーダー、ついて行きたいと感じるリーダー像とは、どのようなものでしょうか。わたしは、3つの条件があると感じています。

第一に、落ち着いていること、です。いつも落ち着いていて、何かトラブルが起きても、すぐ感情的になったり逆上したりしない人。わたしが職場で知っている、真に優秀なプロジェクト・マネージャーたちはだいたい、冷静で穏やかな人が多い。情緒的にupsetすると、正しく判断することができなくなるので、これが大事なのです。

二番目に、人の話を聞くこと、でしょう。ちゃんと下の者の話を最後まで聞いてくれる人。賛成してくれるかどうかはともかく、話をしやすい人。そういうリーダーの所には、良い情報もまずい情報も、上がっていきます。担当者による問題の抱え込みが起きにくい。そうすれば、プロジェクトに突然のサプライズもなくなります。

第三は、先が見通せること、ですかね。外部や環境の変化に反射的に対応して、右往左往するのではなく、ちゃんと先を見通せる人。こういう人にこそ、ついて行きたいですよね。

そして、こういった三つの事柄の前提として、一番大切な能力があります。それは、『事実を客観的・多面的に見ること』です。プロジェクトとは生き物で、しかも複雑な仕組みでもあります。それが今、どういう構造になっているのか、どういうインパクトがあると、どんな範囲に影響がありうるのか。そうした事実を、自分だけの希望や思い入れを離れて、客観的に、かつ多面的にとらえて理解すること。これがあるから、落ち着いていられるのだし、先を見通せるのです。そして、人の話をきかなければ、客観的・多面的に見ることもできません。

問題が起こったぞ! さあどうする、どうする・・といきなり騒ぐ前に、現実を見ること。それも複眼で見ること。そしてちゃんと数字の裏付けをもって見ること。そうした能力を身につける練習こそ、わたし達が目指していることです。」

ここに即興的にあげた3つの条件が、はたして適切なのか、他にもっと大事な条件はないのか、異論はあろう。そもそもプロマネ論とかリーダー論とか、世間では好んで論じられるテーマである。たとえば最初の「落ち着いている」にしても、普通だったら、「ものに動じない」「人間としての器が大きい」「大人物である」といった人物論になっていくだろう。

そして、「大人物とはいかなる者だろうか」「そう、たとえば西郷隆盛は・・」というような話につながっていきそうである。そういう会話も、もちろん結構だ。だが、人物論みたいなことをいくら論じられたって、それが貴方やわたしの、次のアクションにつながっていくだろうか? 人物の器量や性格は生まれつき、という事だったら、凡人で小心者に生まれたわたし(たち)は、どうしたらいいのか? ましてやプロマネに西郷さん級の大人物を要求されたって、それを各社何十人単位で用意できるものか。

ところで、少し前だが、「功ある者には禄を、徳ある者には地位を与えよ。」という言葉を、人事に関連して聞いたことがある。つまり仕事で功績を挙げた人間には、ボーナスなど報奨金で報い、上の地位に引き上げるのは、むしろ人徳ある者にしろ、という意味である。これはなかなか良い格言だと思った。

ちなみに、この言葉はまさに西郷隆盛の遺訓の中にあって、人に知られるようになったらしい。調べてみると、官は其の人を撰(えら)びて之れを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、云々という言葉があるという。ただしこれは元々、中国の古典である「書経」に、『徳懋(さかん)なるは官を懋にし、功懋なるは賞を懋にする。』からとられているようだ。

多くの組織では、人が昇進昇格するきっかけは、仕事で目立った業績を上げることである。営業マンなら大きな受注を、研究者なら画期的な発明を、技術者ならばすぐれた設計を認められて、組織の位階を上がっていく。そして人の上に立つ。

それと「目立つ」業績という点もミソで、たとえばプロジェクトが最初から最後まで平穏無事に進んだら、とても素晴らしいことなのだが、目立ちにくい。他方、大きな問題が生じて、それを大騒ぎして解決すると、とても目立つことになる。だからいつの間にか、「火消しこそプロマネの本領」みたいな通念が生まれていく。

ともあれ、2000年頃から、多くの企業で「成果主義」人事制度が導入され、業績と人事評価が直結するようになった。それはそれで、良い面も多かったのだと思う。年功とか性別とか学歴(大学入学歴)だけで、人が差をつけられるのはおかしいと、大勢が感じてきたからだ。ただ、その「成果」の定義をめぐって、いろんな議論や混乱も生じた。

おそらく一番よろしくなかった点は、人事査定において、人材の「配置・昇進」と「給料」の二つが、直列にリンクしていたことではなかったか。前回の記事にも書いたが、ほとんどの組織は、位階のシステム、つまりピラミッド型の形態をとっている。上の方にいくほど、人数は少ない。部下が多く、権限が大きくなる。そして収入が高くなる。

結果として、目立つ成果を上げた者は、より上位のポジションに配置され、大勢の部下をマネジメントするようになる。だが、本当に辣腕の営業マンは、優秀な営業マネージャーになるのか? 独創的な研究者は、すぐれた研究所長になるのか。緻密な設計のできるエンジニアは、卓抜したプロジェクト・マネージャーになるのか? 大きな疑問ではないか。

ボーナスの査定と昇進は、一緒のモノサシで測ってはいけない。給与と栄誉は区別しろ、と西郷南洲遺訓の「功ある者には禄を、徳ある者には地位を」は教えている。そう、業績と昇進を直結してはいけないのである。会社に利益をもたらした者には、金銭的に報いる。でも昇進は別に決める。

とはいえ、「」とは何だろうか。それを半期に一度の人事査定で、評価できるのだろうか。お前の部下の徳を5点満点で答えろ、といわれても、わたしは正しく評価できる自信はない。逆に「佐藤は有徳とは言えないな」と評価されるなら、まあ強くは反論できないけれども。

では、組織の位階の中で、人を上位のポジションにつけるには、何を基準にすべきか。それは当然、「マネジメントの能力」ということになる。

そして、「マネジメントは職域から独立した専門的能力である」という概念が確立していないから、わたし達の社会では人事に混乱が生じやすいのである。以前も書いたが、日本の官庁や多くの企業では、いろんな部署を経験させた「ジェネラリスト」をマネージャー職につける、という考え方が伝統的に強い。

だが、それはオーケストラにたとえれば、「最初はビオラを弾き、それからフルートに異動させ、第一バイオリンでコンサートマスターを経験させれば、指揮者になれるだろう」という考え方に近い。楽器の奏法(つまり専門職域の固有知識)を知っていることは指揮者に必要だろうが、十分条件ではない。指揮者は指揮者であって、指揮の専門の勉強と訓練が必要なのである。

ただ、かりに能力ある者を昇進させるという考えを認めたとしても、まだハードルがある。「マネジメントの専門能力」を測る方法を確立していないと、結局、その部署の全体の業績やらKPIで、マネージャーの能力評価を代用することになるのだ。そして業績というのは、短期的な環境条件によってブレやすい。だから結果として、運の良かった者を昇進させる、ということも生じやすい。

結局、人材配置・昇進のやり方には、3つのレベルがあることが分かる。

レベル0は、リーダーの地位を、「生まれつき」で決めるやり方である。たとえば家柄とか人種とかカーストとかで。「器量」「人物」で決める、という考え方も、これに近い(そういうのは生まれつき持っているものだ、というのが通念だから)。

これはまあ、たとえば古代の王様のように、古い考え方ではある。現代でも、同族会社などこのタイプかも知れない。ただし一定範囲なら、それなりに有効である。同族経営にも、すぐれた会社は沢山ある(トヨタ自動車だって、ある意味そうだ)。ただ、その有効性は、同族の中できちんとした評価・選抜が行われていることが条件になる。

レベル1は、功績を挙げた人間をリーダーの地位に就ける、というやり方だ。ただ、その危険性については、これまで述べたとおりだ。専門職域で有能だからといって、マネージャーとして有能とは限らない。名選手、かならずしも名監督ならず。むしろすぐれた専門家は、高い報奨で報いるべきである。その結果として、役員よりも年収の高い社員が出現したって、いいではないか。その逆にして、人を使えない専門家が上に立って組織を乱すよりは、ずっと良い。

そして人材配置・昇進のレベル2は、マネジメントの能力によって、ポジションを決めるというものである。いや、リーダーの地位だけではない。専門職域への配置だって、やはり専門能力と適性で決めるべきだ。そういうのを適材適所とよぶ訳ではないか。

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ただ、レベル2に達するには、マネジメント能力という概念がきちんと確立して、かつ、それを適正に測る方法が必要である。人事制度にそれだけの成熟度が求められる。とくにマネジメント能力は、短期的な成果だけで測ってはいけない。それは野球にたとえれば、一打席の出塁結果だけで、打者の技能を測るようなものだ。あるいは一試合の勝敗だけで、監督の能力を測るようなものだ。

人を評価するには、「待つ」時間が重要なのである。


<関連エントリ>
 →「スペシャリストか、ジェネラリストか?」 http://brevis.exblog.jp/24313514/ (2016-04-18)
 →「マネジメントのレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26064558/ (2017-09-22)


by Tomoichi_Sato | 2017-09-30 21:00 | ビジネス | Comments(0)

マネジメントのレベル0からレベル2まで

九州・佐賀県の唐津市。玄界灘に面した市のはずれに、名護屋という場所がある。Google Mapの航空写真で見ると、緑の多い、人家の少ないのどかな土地だ。かつてここに、一里四方の広さを持ち、10万人以上が居住する一大都市が、ごく短期間だが存在していたことを知る人は少ない。

その都市をつくるよう命じたのは、太閤秀吉である。彼が晩年、大陸支配をねらった戦争(後に文禄の役とよばれることになる)をはじめるにあたり、出陣の基地としてこの名護屋港を選んだのだ。彼は全国の諸侯・武将に、この辺鄙な港へ集結し、各人の負担をもって、都の聚楽第に遜色がないほど豪壮な城と館を築くよう言い渡した。そして数万の人力を投入し、半年ほどの短期間のうちに完成させた。

全国の大名武将たちは、たとえ些細な手落ちでも関白に訴えられ、無能者として俸禄を没収されかねないので、「自ら家臣を率いて森や遠方の山に出かけ、材木を切ったり、城壁や門に用いる巨大な石を運搬した」と、宣教師フロイスは記している(川崎桃太「続・フロイスの見た戦国日本」p.76)。できあがった名護屋城は、大阪城に次いで、日本で2番目に大きな城であった。当時の秀吉の、権勢のすごさがよく分かる。

わたしが子どもの頃、両親が買い与えてくれた本の中に、子ども向けの「太閤記」があった。とても面白い物語だった。太閤記は彼の生涯を、日吉丸の時代からはじめて、木下藤吉郎を経て豊臣秀吉になるまで、いろいろなエピソードを集めて物語ってくれる。秀吉という人物が、日本史でも傑出したリーダーであったことは間違いない。

しかしこの太閤記が、最後どのように終わったのか、なぜか記憶に残っていない。秀吉が大陸に出兵したことは書かれていた。だが、伏見城でどう斃れたのか、晩節があやふやなのだ。あまりヒロイックに描けなかったのかもしれない。天下人になった秀吉の意思と気まぐれには、日本中の武家たちが右往左往させられた。

大陸出兵に際し、秀吉は名護屋城に居を移した。すでに甥の秀次に関白の座を譲って太閤となっていた秀吉は、秀次に対して、この戦争に勝利した暁には、お前をシナの関白に任命し、都周辺の百ヶ国を与えてやる、と手紙で約束した。しかしその後、自分に待望の嫡子が生まれると、秀吉は秀次に蟄居、そして自害を命じた。秀次の首は京都で晒し首になり、眷属30数名は皆、殺害された。だが、このような罰を受けた理由は不明で、いまだに日本史学者の間でも謎である。

晩年の秀吉は、あらゆる事を自分で全て決めたがる、独裁者であった。むろん、戦国時代に独裁者は珍しくなかったろう。彼が仕えた信長だってそうだった。自分の狭い領地の中では、秀吉よりもっと気まぐれで暴虐な大名も大勢いただろう。だが歴史上、秀吉ほど巨大で広範な権力を手にした日本人はいなかった。関白の任命権は本来、天皇にあるはずだが、天皇家の権威など彼の眼中にはなかった・・

マネジメントのレベルということを、最近考えている。レベルといっても、上手・下手という意味ではない。自然なあり方から、どれだけ進化しているか、のレベルである。

世の中には、あらゆることを自分で全て決めたがるリーダーもいる。晩年の秀吉のように。あるいは、人に権限を任せて、働かせることで全体を動かすリーダーもいる。もちろん、任せるといっても、全面的に自由にさせることは少ない。自分が望む方向にむけて、働かせる必要があるからだ。そこで、どういう風に部下をしばるかで、さらに違いが出てくる。

人間は社会的動物で、お互いに関わり合いながら群れを作って生きているが、互いに競争心を持っている。どちらが優り、どちらが劣っているか、優劣・強弱・上下を、たえず繰り返し競い合う。これはある程度、本能的に持って生まれた性質らしい。上に立った方が、下の者に対して、命令的にふるまう。集団で一番上になった者は、他の全員に対して、判断や指示を下す。

だから、リーダーが全てのことを決めるのは、マネジメントにおいてある意味で一番自然的な、あるいは本能的なあり方だと言える。リーダーと、その他大勢。家父長制の家族など、この類型に近い。これを「マネジメントのレベル0」とよぼう。

ところで、人間の作る組織にはふつう階層があり、リーダーにはトップ・上位・中位・下位・・のような位階がある。その位階に応じて、決められる権限範囲が狭まっていくようなシステムをとるのが通例だ。その典型が軍隊である訳だが、秀吉は武将であり、つまり軍人の職業的リーダーだったといえる。彼は傑出した知将であり名君だったからこそ、あそこまで駆け上がったのである。会社組織などもこれに倣って、社長・本部長・部長・課長といった階層を決めている。

なぜ、組織はこのようなシステムになっているのか。そこには、どのような合理性があるのか。また階層は、多いほど良いのか、少ないほど良いのか。こうした問題を、システム工学の視点から、制御とマネジメントの最適なあり方に関連して考えている。

ちなみに、経営学に『システム論』を明示的にはじめて取り入れたのは、米国のバーナードであった。彼は”Functions of Executive”(邦訳「経営者の役割」)という本で、組織が機能するためには、共通目的・協働意識・コミュニケーションの3要素が必要だ、と喝破した。彼がシステムズ・アプローチをもって組織をとらえたのは、彼が電話会社の経営者だったことも関係しているかもしれない。

ただし、彼の著書では、組織になぜ「位階の体系」(Status System)の必要性が生じるのか、論じていない。この点について、後にバーナードは、「ハムレットは描いたつもりだが、オフェーリアを逸した」と洒落た言い方をしている。

この問題に本格的に取り組んだのは、経営学者としてはじめてノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンだった。サイモンは、組織に位階があるのは、意思決定のために必要な情報収集の完全性と、そのコストのバランスをとるためだとしている。「組織は、決定を分散させることによって、市場と同様、情報の需要を局所化し最小化することができる」(サイモン「システムの科学」p.49)。

部下に何らかの役割を与えて、それを任せる。これが位階のシステムの機能である。その事によって、トップの地位にある者は、より集約された情報を元に、より効率的に決断を下していくことができる。

リーダーが全てを決める、レベル0のタイプの組織で、何がまずいかというと、組織の規模が大きくなるほど、リーダーの決断のための負荷が大きくなることだ。当然、トップはあらゆる問題をめぐって忙殺されることになる。忙殺されると、長いスパンで先を見通すための時間がなくなってしまう。かくて組織は、その日その時のリーダーの気分によって、右往左往することになる。

家族や氏族、あるいはその延長としての、古代の地縁集団的な国家ならば、規模は知れているから、「あらゆることをリーダーが決める」方式で回していけるかもしれない。だが、それが一定規模を越えると、位階と権限分散の仕組みを持つ方が、組織として生き延びる可能性が高まることになる。

任せる、にも大きく二通りある。まずは組織なり守備範囲などをすっぱり分けて、それぞれにリーダーを置き、「あとは死ぬ気で頑張れ」「俺がほしいのは結果だけだ」といって働かせるタイプ。たとえば国土を領地に分割して、諸侯を冊封し、そのテリトリー内では殿様や貴族としてふるまうことを許す、中世の封建制度などは、その一つの表れだ。これを「マネジメントのレベル1」と呼ぶことにする。

もう一つは、組織の位階にしたがってリーダーやサブ・リーダーたちを順におくのだが、共通したルールと基準を定めて、それぞれの裁量範囲と判断のよりどころを与えるやり方。これは近代国家などでより多く見られる仕組みである。「マネジメントのレベル2」としようか。レベル1のサブリーダーないし殿様たちだと、まだ自分の領域内では気まぐれでいられる。だがレベル2の仕組みでは、各層のリーダーの決定や行動について、予見可能性が高くなる。だから部下たちは、ついて行きやすくなる。以前、英国のジョン王に関する記事(http://brevis.exblog.jp/21571341/)のときにも書いたとおり、リーダーの行動の予見可能性と、決断の一貫性は、ついて行く人間にとって死活的に重要である。

こうした違いは、単にマネジメントのスタイルの違いだ、という人達もいる。いわばリーダーの美学であり、個人の好みだと。その場合、どれが上でどれが下というレベル感はない。だが、わたしは3種類をあえて、レベルと考えている。その理由は、レベル0の方が自然発生的にできやすいのに、レベル2はかなり人工的で、作るのに時間がかかるからだ。いってみれば、レベル0は基底状態のようなもので、ポテンシャルが低いのである。レベル1から2へと上がっていくには、エネルギーがいる。

そして、組織や対象が大きくなればなるほど、レベル0かから1、そして2へと、マネジメントの仕組みを上げていく必要がある。そうしないと、回らなくなっていくからだ。
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もちろん仕組みやシステムには、完全な正解と言うことはない。レベル2にも欠点がある。それは、ルール・ベースであるため、ルール自体を変えるのに時間がかかったり、ルールが想定していない事態への対応がうまくいかないことだ。つまり、より安定した時代・環境向きの仕組みと言えるかもしれない。

でも、秀吉が天下を取った後は、世の中は平安に向かっていた。本当に全国津々浦々まで、支配権が拡大されていた。秀吉ほどの人物なら、作り上げるべき仕組みくらい、見えていたはずだ。ではなぜ、そうならなかったのか? なぜレベル1から、レベル0に逆戻りするような方向に動いたのか。

巨大な権力それ自体が、彼を引き下ろしたのだ。これがわたしの推測である。軍隊的な組織では、リーダーは部下に対して命令を下し、逆らえないよう強制力を持つ。これを権力とよぶ。そして権力とは、どうやら麻薬のように、それを所持する人間を惹きつけ、酔わせ、判断力を低下させてしまう効果があるらしい。これが権力というものの持つ、恐ろしさである。一旦権力を握ると、手放したくなくなる。

そしてそういうリーダーは、回りにイエスマンばかりをおくようになる。あるいは、面従腹背の者ばかりを。最終的に、リーダーの元には、本当に役に立つ客観的な情報は届かなくなる。それで適切な判断ができる訳がない。だから、大きすぎる権力をもったレベル0のマネジメントは、倒れるとき甚大な被害をもたらす。

だからこそ、人間社会はルールというものを発明してリーダーをしばり、システムがレベル0に落ち込むのを防ごうとするのである。ただ、環境条件によっては(たとえば大地震の際など)、いったんレベル1に戻る方が適応力が高まることもあるだろう。どういう条件の時に、どのようなマネジメントのあり方が最適になるのか。それについてずっと考えているのである。

太閤秀吉は結局、中国・朝鮮に対する戦争の最後を見ずして死んだ。秀吉が死ぬと、厭戦気分の広がっていた日本の軍勢は朝鮮半島からあっという間に敗走した。出陣基地だった名護屋城は、城壁にいたるまで破壊され、建物材木は持ち去られた。そのこと自体が、人びとの気持ちを物語っている。そしてこの無謀な戦争は最終的に、豊臣家の滅亡のみならず、東国に対する上方の没落をも、もたらす遠因となったのだ。


<関連エントリ>
 →「組織におけるルールはいかなる機能を持っているのか」http://brevis.exblog.jp/21571341/ (2014-01-14)




by Tomoichi_Sato | 2017-09-22 23:24 | ビジネス | Comments(0)

ミニレビュー:携帯用折畳みキーボード 3E Wallet

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3E社の携帯型折りたたみキーボードを6ヶ月ほど使ってみたので、感想を書いてみたい。商品名は”Wallet”という名前で、型番は3E-BKY4である。接続はBluetoothで、MacOS, Windows, iOS, Androidとすべて使えるようだが、わたしはもっぱらiPad Pro 9.7’と組み合わせて使っている。

この製品の良い点は、三つある。

(1) 薄くて軽いこと。厚さは6mmない。折りたたんでも13mmで、とにかく薄いので、携帯性にすぐれている。カバンに入れても邪魔にならないし、iPad(わたしはスマートカバーをつけて使っている)と重ねて持った際も、とても持ちやすい。重量は176gで、これも際だって軽い。

(2) フルキーボードで、キーピッチもまあまあ広いこと。これは入力機器の基本性能として大切なことだ。それに打鍵時のアクションも、まあしっかりしている。

(3) 写真で見てわかるように、開いたときに7度の角度で左右に傾斜のある、エルゴノミクス・キーボードになっていること。最初は慣れるかな、と少し不安だったが、すぐにまったくストレスなく使えるようになった。そして、手首の角度からいって、たしかにこの方が自然である。たたんだ時はほぼ長方形なので、収納に不便はない。

ということで、気に入って職場で毎日使っている。それまでは、ながらくREUDOのBluetoothキーボードRBK3200BTIをiPadと組み合わせて使ってきたのだが、職場では完全に3E Walletにかえてしまった。

ただし、気になる点もいくつかあるので、書いておこう。

(4) キー・ストロークが浅い。これは薄さを実現するためには仕方ない訳だが、わたしの好みからいうと十分とはとても言えない。この点は、REUDOのキーアクションの方がはるかに快適。だが、たとえば今この記事を書くのに使っているMacBook Proのキーボードだってかなり浅いので、まあ良い勝負だとは言える。

(5) iOSと組み合わせて使う場合、マニュアルや刻印と異なり、なぜかCaps Lockキーが英字/かなモードのトグルキーになる。これは便利なような不便なような仕様だ。「カタカナひらがな」キーで変わってくれるとうれしいのだが、まあiOS側にも問題があるのかもしれない。

(6) Controlキーが、左下にある。わたしはずっと、MacでもWindowsでも、ControlキーをAの左隣において使っている(Macキーボードは元々そうだし、Windowsではソフトで置換している)。ところが、Walletだけはそれがきかない。ちょっとだけ不便である。まあiOSで使う場合、Walletの「Win」キーがCommandキーに相当するので、Cut & pasteなどのショートカットでは問題は感じないが。

(7) 打鍵はわりと静かではあるが、静音とは言えない。大勢の中で使う際は、気を遣うべきだろう。

とはいえ、半年間ほぼ毎日使ってもきちんとトラブルなく動いているし、電池もまだ一度も交換していない。開けば、自動的にBluetoothで接続される。非常に快適である。キーアクションが浅くても良いから、軽量なキーボードを探している方には、おすすめである。

なお、なぜかしらないが、Amazonでは売っていないようだ。不思議だ。わたしはヨドバシで買った。



by Tomoichi_Sato | 2017-09-16 12:08 | ビジネス | Comments(0)

職人の国の生産性を上げる、最良の方法

3月に新潟に行った際、宝山酒造(http://takarayama-sake.co.jp)という会社を訪問した。規模としては零細に近い造り酒屋だ。一応、工場見学、というか、仕込みと醸造の場所を見学させてもらった。平屋の木造で、いかにもゆかしい「酒蔵」である。それから、こうした見学のつねとして、畳敷きの小上がりの部屋に案内され、いくつか試飲させていただく。わたしはお酒に弱いたちで、日本酒の目利きなどでは全然ないが、それでもなかなか美味しいと感じた。

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試飲させてもらいながら、酒造の来歴の説明をうかがう。どこから杜氏を呼び、どんな努力の結果、満足のいくお酒ができるようになったか。また同じ酒蔵の製品でも、高級な純米大吟醸から普及版の醸造酒まで、どんな特色と違いを出しているか。小さな会社でも企業努力の種類は大手と共通している。たしかに大吟醸の虹色めいた香りの広がりから、醸造酒の新潟らしいきりっとした味わいまで、比べて飲むと面白い。

もう一つ、非常にユニークで面白いと感じたのは、「ひと飲み酒」と呼ぶ、200mlの小さな化粧ガラス瓶のパッケージである。これを2本でも3本でも、セットで買うと、黒い洒落た紙箱に入れてくれる。見かけがとても都会的になって、部屋に並べておくだけで見て楽しいし、また酒飲みでない人間にとっては、1升だの4合だのを買うよりも、ずっと手が出しやすい。とても上手なパッケージングだと感じた。

小さな造り酒屋ながら、秀れた杜氏の職人仕事に加えて、顧客のニーズに応えた製品のラインナップ、そして洒落たガラス小瓶のデザインによる、自由な小口組合せ販売など、経営上の工夫をこらしていることに感心した。かえりに自分用に買ったばかりでなく、世話になった方へのギフトにも良いな、と思いつつそこを辞した。

同じその日、新潟市の大きな展示会場では「新潟 酒の陣」と呼ばれるイベントが開催されていた。新潟中の造り酒屋が何十社もブースを構えて、自分の製品を試飲販売している。2千円の参加費を払うと、小さな試飲用のガラスのお猪口を渡されて、ブースごとに回ることができる。わたしはじつは同じ日の午前中、仲間に誘われてそちらの会場にも顔を出したのだが、なにせお酒に弱いので、せいぜい5社くらいのブースをたずね、あとはぼんやり会場を眺めていた。
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眺めながらつくづく、「日本は職人の国だな」と思った。新潟の酒造はほとんどが中小零細規模である。そこが、それぞれ自分なりの思い入れを込めて麹を仕込み、酒を造る。そして自分が手塩をかけて作ったモノに対し、情熱とこだわりを持っている。味、香り、色、のどごしなど、自分の眼・舌・鼻・手の五感をフルに動員してこそ、良い結果が生まれる。つまり酒造り職人としての技能と、製品の品質が直結するのだ。

そう。職人というのはとても素晴らしい、尊敬すべき生き方である。わたしは高度な職人仕事には、無条件で感服する。心技体そろわなければ、優れた仕事はできない。ただ、そうした職人としての生き方を全うできるためには、何が必要なのか。

さて、いつものことだが(苦笑)、話は急に飛ぶ。先週、ある会合で「日本企業の生産性の低さ」が話題となった。この種の統計は世の中にいろいろと流通していて、たとえば日本生産性本部の2016年の統計(http://www.jpc-net.jp/intl_comparison/)によれば、日本はOECD 35カ国中22位であり、また順位も低下しつつある、という。とくにホワイトカラーの生産性の低さはほぼ定説のようになっていて、いつもやり玉に挙がっている。状況を改善するために、働き方改革の政策などが、声だかに唱えられている訳だ。

だが、それは本当なのか? というのが皆の論点だった。そんなに日本企業の生産性は低いのか? じっさい、製造業の過去20年間の労働生産性の伸び率だけを取り出せば、G7諸国の中で日本は1位だという統計もある(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-04-25/OOYJ9G6JTSEI01)。製造業はよくやっているじゃないか。問題なのは流通・サービス業だ、という訳だ。ただしこれは20年間の伸び率であって、たしか現時点での数値はG7中の6位である。下にいるのは経済危機のイタリアだけだ。

「他の先進国は、移民などの安い労働力を使ってうまく稼いでいるだけなんじゃないか」という人もいる。だが労働生産性の数字というのは、賃金を差し引く前の、一人あたりの付加価値を示している。ここから賃金を引いた残りが、簡単に言うと企業の収益の源泉になる。だから賃金が高いか安いかは、定義上、関係ない。

「いや、地域でも業種でも差があるのに、そもそも平均値をとって国際比較すること自体に意味があるのか」という反論もある。でも、日本の平均値が過去、さっぱり伸びていない事実とはどう向き合うのか? そもそも、偏りのある分布に対する平均という操作自体が問題だとしたら、統計自体に意味がなくなってしまう。工場単位の平均を見ることすら、できなくなるだろう。

また、「品質の差を無視して生産性を比較するのはどうか」という意見もきくことがある。日本の製品は他国より品質が高い、と自信を持っているのだろう。しかし、品質が低ければ普通は価格も安く、付加価値は小さくなるのが道理である。付加価値の中には、品質の要素も込められているというのが、ビジネスの常識だ。

念のために書いておくが、上に論じた「生産性」とは、付加価値労働生産性のことである。それは、企業活動が生み出す付加価値の総額を、それに従事する人の数で割って得られる値だ。日本の場合、最新の値は一人あたり年間783万円という数値になる。ここから賃金を引いた残りが企業の利益の源泉である。あるいは、時間あたりで計算する場合もある(国際比較の場合、そもそも年間労働時間がかなり異なる)。日本は4,439円である(日本人は一人年間1,764時間働いている計算だ)。ただし国際比較をする際には為替の問題が出てくるため、購買力平価のような指標で較正したりする。

そして、国のGDPとは、その国で生み出した付加価値の合計である。経済成長はGDPの増加率で測る。日本の勤労人口はほぼ横ばいだから、経済成長したければ労働生産性をあげるしかない。これが理屈である。

くどいけれど、国際比較の文脈でいう「労働生産性」とは、一人あたり付加価値額のことである。別に労働者一人あたり製品を何台作れるかでもなければ、プログラマが一日何行コードを書けるか、でもない。ここを誤解している人がとても多いので、あえて書く。杜氏が一人あたり、何升のお酒を造れるか、ではない。その酒屋が生み出す付加価値額(=ざっくり言って、販売金額マイナス原材料費)を、杜氏も売り子も事務方も含めて、働いている人の数で割った数字が、その酒屋の労働生産性なのだ。

 労働生産性 = 付加価値額 ÷ 従事者数 =(販売金額 − 原材料費)÷ 従事者数

である以上、労働生産性を大きく上げるためには、販売金額を上げる、すなわち製品を高く売ることが必須であると分かる。もちろん生産量自体を増やすのも、もう一つの手段だが、ふつうは人を増やさなければなるまい。一人が一日あたり作れる製品の台数、書けるコードの行数、仕込める酒の量は、急には増やせないからだ。また原材料費を下げるのも第三の手段だが、これはもう限界があるし、それでも無理に下げたら品質劣化にはねかえる。そうなったら付加価値など、元も子もなくなる。

日本の労働生産性が低いのは、生産に従事する人達の働き方がわるいのではない。儲けるのが下手なのだ。それがわたしの解釈である。一応、国際的なエンジニアリングの世界で長年働いてきた身としていうが、欧米のライバル企業で働くエンジニア達と、個人単位で能力にさしたる差があるとは思えない。製造業とて、同じだろう。それなのにもし、国際比較で生産性が低いのだとしたら、それは儲け方が下手なのだ。ドイツの工場を見学した話は前回書いたが、日本の同種の工場とそれほど大きな違いがあるとは思えなかった。違うとしたら、どこで価格競争から脱するかが、違っているのだ。

職人が安心して仕事に精を出せるのは、作ったモノが売れていき、それがきちんと利益を出して、ちゃんと職人の給料にかえるときに限られている。作っても売れず、売れても利益が出なければ、誰がよろこびを持って働き続けられるだろうか? 

日本が職人の国だと言うことは、つまり作り手の国なのだ。作ることはよく知っている。そして上手にできる。だが、有能な商売人が足りない。これがわたし達の社会の病である。足で稼ぐセールスマンは多くても、知恵のある有能な商売人が不足なのだ。必要なのは「働き方改革」などではなく、「儲け方改革」なのである。

冒頭の宝山酒造の例を思い出してほしい。良い酒を造ることは大事だ。それは必要条件だが、十分条件ではない。製品のラインアップを確立し、ボトルや商品デザインにも工夫を凝らし、ネットでも注文を受ける仕組みをつくって、はじめて企業として安定するのである。そうしたことは、杜氏だけが考えるべき仕事ではない。

職人の生産性を決めるのは商売人である。なぜなら、付加価値の大きな部分を決めるのは、売るための仕組みだからだ。もっとも商売人も職人の協力が不可欠である。ライバルと品質も性能も原価も劣るようでは、売りようがない。つまり、販売と生産がきちっと統合して回る仕組み(システム)が必要なのだ。

酒造りや工場の労働に限らない。以前から書いているように、日本には職人的な仕事の領域、職人マインドで仕事をする技術者はとても多い。ソフトウェアなどその典型だろう。日本のIT業界がふるわないのだとしたら、それは技術力の低いプログラマのせいではない。もちろんプログラマが働かないせいでもない。プログラムの機能を顧客価値に変えて、お金を儲ける仕組みを構想できる経営者が、欠けているからなのだ。

もしもちゃんと儲けたかったら、どうすべきか。当然のことだが、人と同じ事をやっていたらダメだ。必ず、価格競争に持ち込まれる。他人を見習い、他社の後をついて行ってはダメだ。他人が思いつかないことをしなければならない。競争の果てにとった個別仕様の受注設計生産なんて、労力多く利益少なしだ。同じモノを作って売る方が効率が良いに決まっている。もちろん、個別仕様品それ自体はなくなるまい。だったら、少ないモジュールの組み合わせで、幅広い使用のバリエーションを生み出せるようにすべきだ。何より、顧客のニーズをリードしないで、どうやって高い付加価値が得られるのか?

本当にきちんと生産と販売(と開発)とが統合された仕組みをもてれば、その市場でオンリーワンの製品を作り、店の前には客が行列を作るはずだ。無理な安値競争の必要はなくなる。「三社相見積もりで」などという顧客には、「どうぞ他所でお買いください」とお引き取りを願う。こうでなければ、高い付加価値など生まれるだろうか。

では、仕組みという見えないもの(こと)を作るのは誰か? それに必要な資質は? 教育は?

「仕組みとはルールだ。だから法学を学んだ者が全体をマネージすべきだ」・・これが長い間、この国を支配してきたイデオロギーだった。むろん法学を学んだ、というのは、某・旧帝大(名前はあえて書かないが)の法学部を出ることを、事実上意味してきた訳だ。まあ法学というのは一種の概念体系だから、それを学んだ人はロジカルシンキングに長けている、ことは認めよう。だがシステムの設計(デザイン)とか、ビジネスの構造は、いつ学んだのか? もっとも、法学部に限らず、そんなものを教えてくれる学部が別にあるとも思えぬが。

そう。この国には、「『仕組みをつくる人』を育てる仕組み」が欠けているのだ。二重の欠落である。わたし自身が上等な商売人だとは、もちろん口が裂けても言えぬ。だが、少しだけは取り柄もある。「システム」というものが何か、ずっと長いこと考えてきているのである。わたしはこうした問題に興味を持つ人と、問題意識を分かち合いたいと思っているし、なるべく多くの人に、知り得たことを何とか伝えたいと願っている。そうして、システムを作れる人を育てるシステムを、なんとか一緒に作っていきたいのだ。


<関連エントリ>
 →「職人的であること、エンジニアであること」 http://brevis.exblog.jp/24607574/ (2016-08-21)


by Tomoichi_Sato | 2017-07-23 22:56 | ビジネス | Comments(0)

研究開発戦略へのシステムズ・アプローチと、モノづくり大国の貧困

「日本は、ものづくり大国だ」という言い方を、よく耳にする。モノづくり大国とはどういう意味なのか、わたしは正確な定義を知らない。GDPの中で製造業の占める割合が、すでに1割台に落ちている国に、ほんとに適切な形容なのかとも思う。だが、あまり正確に定義できる概念ではないのかもしれない。モノづくりが盛んで秀でているなら、「日本は技術大国だ」という言い方だって、同じくらいしても良さそうだ。しかし、なぜかそちらはあまり聞かない。そういう実感があまりないのだろうか?

むろん日本の技術者のレベルは高い。そのことは、いろいろな国で仕事をしてきたエンジニアリング会社の人間として、証言できる。それでも「技術大国」という気がしないのは、なぜだろうか。技術大国という言葉でふさわしいのは、現在、どこの国だろうか。技術大国という以上は、少なくとも、技術者の待遇がよく社会的にも尊敬されていることが、必要条件だろうが。

1950年代から70年代頃までのアメリカは、世界一の技術大国だと自認していたはずだ。その自信が崩れはじめるのは、’80年代に入って日本の自動車産業や電機産業・半導体産業などに、追い抜かれはじめてからだった。当初彼らは、日本が円安と低賃金に助けられて、アンフェアな低価格攻勢をかけているだけだと、高をくくっていた。

だが、プラザ合意で円高にかわっても、日本の勢いは続いた。そこで、途中から彼らは考えを改めるようになる。技術面でも日本に追い抜かれつつあるのだと感じ、本気で対抗策を講じはじめるのだ。たとえばMITが中心になってまとめた、日本の自動車製造の実態調査と、そこから生まれた『リーン生産システム』という概念は、その一つだ。

リーンは赤身の肉のことで、贅肉のない、つまり余分な在庫を持たない生産方式を意味する。それまでの米国流で中心だった、大ロットの見込生産では大量の中間在庫・製品在庫が生じていた。これではせっかく大量生産で低コストを実現しても、在庫金利を生じて効果が減じるばかりか、需要の変化への対応速度が落ちてしまう弱点に気がついた。そこで、流通業のQR(Quick Response)をさらに拡大したSCM(Supply Chain Management)という概念や、APS(Advanced Planning & Scheduling=革新的生産スケジューリング)のツールが開発されるようになった。

もう一つ、日本ではあまり知られていないものに、技術研究政策の変化がある。米国には「国立科学財団」National Science Foundation = NSFという政府組織があって、大学などに学問研究の助成金を出している。このNSFは’80年代の半ばに、産業界のニーズにあった学際的な工学研究を行うセンターを、全米各地の大学に設置する構想をたてた。これがEngineering Research Center (ERC)プログラムと呼ばれる政策である。ERCは、大学と企業の実務家とが、持続的な提携関係を結ぶことを主眼とした組織だ。工学と言っても幅広いが、4つの柱があり、その最初が”Advanced Manufacturing”(先進的製造技術)であった。当時の米国政府の危機感がうかがえるではないか。

現在、NSFは年間約80億円の支援予算を17箇所のERCに支出している。金額もすごいが、わたしが最近知って驚いたのは、このERCの設立運営が、徹頭徹尾、システムズ・アプローチに従ってなされていることだった。世に出て産業界に役立つ技術成果は、単体ではなく、『システム』でなければならないと、NFS/ERCは考えた。システムとは(いうまでもないが)コンピュータのことではなく、構成を持った仕組みの意味である。この政策を調査した科学技術振興機構のレポートhttps://www.jst.go.jp/crds/pdf/2014/RR/CRDS-FY2014-RR-02.pdf を参考に、どんなやり方なのか紹介しよう。

たとえば、高効率の太陽電池用の素子の開発は、大切だ。だが、それが電力網全体に重大な役割をはたすには、蓄電・変電・送電などの補助的要素の開発が必要になる。単発的な要素技術だけでは、世の中へのインパクトは小さいのだ。だが大学人は、とかく狭い専門分野を深掘りしたがる。それを防ぐために、ERCでは、「三層モデル」と呼ばれる図を各センターが分野ごとに作成し、研究がその中のどこに位置づけられるか、全体の中で生きるためにはどのような要求を満たすべきかを、つねに意識させている。
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上の図は、米国NFSのEngineering Research Centers(エンジニアリング研究センター)のHP
http://erc-assoc.org/content/three-plane-diagram からの引用である。第1層は、「Systems Research システム研究」と書かれている面である。面の外側で、右にある楕円の要素は「Stakeholders ステークホルダ」(外部の利害関係者)で、もっと分かりやすく言うと関係する企業やその潜在顧客達や官庁などだ。ここからセンターに対して、要求がもたらされ、逆にセンターからは「製品とアウトカム」が届けられる。アウトカムという用語は日本でもようやく広まりつつあるが、プロジェクトやプログラムの活動が直接間接に生み出す効果である。

第1層の面の中には、「Testbed テストベッド」が並んでいる。ここで、下の第2層から上がってきた技術要素が、他の技術要素と組み合わされて、システム的に実証される。ここが肝心なところで、いくら米国企業の研究開発能力が高いと言っても、しばしばそれは単機能のベンチャー的なものが多い。それが世に出て真に役立つためには、他と組み合わさったときのパフォーマンスやリスクの検討を経る必要がある。これは単機能の企業だけではできない。そこに、大学や他企業と協働するためのERCセンターという仕組みの必要性が生じるのである。

だが、第1層のテストベッドで実証されたものも、すぐ世に出る訳ではない。面の右側には、「Barriers 障害」の箱が並んでいる。ここを通過してはじめて、デビューできるのだ。したがってシステム層では、テストベッドを作るだけでなく、障害が何かを同定し、対策を講じることが行われる。

真ん中の第2層は「Enabling Technologies イネーブラー技術層」である。Enablerという英語は訳しにくいが、何かを可能にする技術、問題解決技術、とでも言おうか。層の内部構成は上と似ていて、テストベッドが並び、そして右にバリヤー(障害)が書かれている。

一番下の第3層は「Fundamental Knowledge 基礎知識層」である。ここの面の中には、基礎研究とバリヤーが並んでいる。ここで生まれた成果は、「Fundamental Insights 基礎的知識」として、第2層に上がっていく(おい、insightは知識ではなく洞察とか見識だろ、と思われた方もおられるかもしれない。英語辞書的にはそうだ。だがinsightは、lessons learnt=教訓などと並んで、組織の中で共有可能なものとして扱われる。洞察や見識では個人に属してしまう。そこであえて知識と訳しておいた)。そしてこの層にもバリヤーが存在する。第2層と第3層には、第1層から「Systems Requirements システム要求」がおりてくる。

そして、ERC(エンジニアリング研究センター)の仕組みをマネージする立場の人達は、つねに自分たちの開発課題の全体像を、具体的な3層モデルの図として描くことが求められる。その中で、予算や人員を、どのレベルのどの課題に重点配分するかを決めていくのだ。また、全体像の図が描かれないと、ERCにはNFSからの予算が下りてこない。いやがおうでも、研究開発戦略をシステムズ・アプローチの中で捉えざるを得なくなる。

・・と、ここまで読んだ読者は、「アメリカの研究政策の話なんて、自分に関係ないから興味ないや」と思われただろう。いや、もう半分以上の読者が読むのを中断してサイトを離れたかもしれない(^^;)。そこで、ここまで読み進められた少数精鋭(?)の読者のために、一つだけ注記しておく。ゲーム業界の話だ。

研究開発とゲームソフト開発では、まったく別の世界ではないか? だが最近、読んで衝撃を受けた記事があった。

「21世紀に“洋ゲー”でゲームAIが遂げた驚異の進化史。その「敗戦」から日本のゲーム業界が再び立ち上がるには?【AI開発者・三宅陽一郎氏インタビュー】」 http://news.denfaminicogamer.jp/interview/gameai_miyake?utm_content=buffer7f213&utm_medium=social&utm_source=facebook.com&utm_campaign=buffer

という記事である。わたしはゲームを一切やらない人間なので、記事の中の固有名詞はさっぱり分からないし、三宅氏の発言がどこまで正鵠を射ているのかも判断できない。だが、日本人が手元にあるリソースを上手にやりくりする職人芸で勝負をしているウチに、アメリカは集団で科学的に研究開発を進めて、サイエンスの力で一気に逆転していく、という説明には納得感があった。

才能ある個人の職人芸の集合か、それとも組織的で科学的なアプローチか。そこが基本的な問題意識のありかなのだ。

ERCの図の、一番下のレイヤを見ていただきたい。ここは、基礎研究が並んでいる。大学の基礎研究というのは、基本的に研究者が個人個人の興味と能力に従って、進めていく仕事だ。大まかな研究分野はきまっているだろうが、具体的な方向はバラバラ。能力もバラバラ。したがって、普通だったら、その組織からの研究アウトプットは、個人のアウトプットの足し算でしかない。これが普通の大学の組織だ。

この一匹狼の集団に、個人の総和よりも大きな仕事をしてもらうには、どうしたら良いだろうか? 米国NFSが考えたのは、こうした問いなのである。そして彼らは、「仕事のあり方をシステム化する」という方策を思いついた。外界から、システムへの要求事項が入ってくる。それを分析して要件を切り出し、複数のサブシステムに分割する。サブシステムの機能要件はさらに、個人レベルの要素まで落ちてくる。そして、それらは組み合わさって結合テストされ、さらに上位で総合テストにかかる。こうすることで、各個人の仕事のベクトルを、きちんとムダがないように方向付けたのだ。

一人ひとりが個別にターゲットを追いかけている場合は、成果は個人の足し算にしか、ならない。しかし役割分担を的確にして、組織的にダイナミックに動くことで、個人では捕らえられなかった大きな獲物を仕留めることができる。こうして、組織は単なる足し算を超えた能力を発揮する。また、個人個人のムラをなくした、安定した仕事の成果が得られる。ちなみにERCの仕組みは、決してあるスーパー研究者が独裁的リーダーになって、大勢を手足として使うためのものではない。それでは、組織のパフォーマンスは特定の個人の能力と気まぐれに依存してしまう。

最近、日本の大学研究者のアウトプット、とくに国際的なジャーナルに発表する研究論文数が、どんどん減ってきているという問題が指摘されている。多くの論者は、これを、文科省の大学政策(独立法人化や予算削減)に結びつけて論じている。たぶん、そうなのだろう。だが、ひるがえって、成果を個人の足し算以上にするにはどうしたらいいか、積極的な策が提案されているだろうか? 傍からは疑問に思える。

そしてもう一つ、書いておこうか。

組織の仕事のパフォーマンスは、個人の成果の単なる総和。こういう組織、どこかで見たことがないだろうか? ——そう。多くの企業の、営業部門のあり方にそっくりなのである。営業部門の業績は受注額ではかられるのが普通だが、営業マンはたいてい個人プレーで仕事をする。ときには凄腕の営業マンもいるだろう。だが平凡な者も大勢いるし、無能な奴だっているかもしれない。そして戦果は個人プレーの足し算である。

そして大学研究と同じように、日本企業は世界市場で次第に、販売競争力が低下してきている事実がある。円高その他、説明はいろいろあろう。だが、どうやって販売力を、個人の総和以上に高めるかという議論をあまり聞いた記憶がない。優秀な営業マンはいる。だが、有能な営業管理者がいないのだ。セールスの仕組みを、つまりシステムを構想し、作り上げる能力を持つマネージャーが見当たらない。まったく、わたし達の社会はどこを切っても同じ断面が見える。兵士達一人ひとりは勇敢だ。だが、組織を合理的に動かす将軍が、いつも不在なのだ。


by Tomoichi_Sato | 2017-05-23 23:32 | ビジネス | Comments(2)

BOM/部品表に関するセミナー講演のお知らせ(6月20日・東京)

お知らせです。

来る6月20日(火)に、BOM/部品表に関する有償セミナーの講師を務めます。場所は東京・新宿です。

ご承知のとおりBOM/部品表の構築と保守は、製造業にとって古くて新しい問題です。とくに近年は、
 ・新製品開発・投入のサイクルが早くなったことと、
 ・製造のサプライチェーンが国境をまたいで海外に伸びたこと、
 ・企業買収や提携が進んでいること
などの要因が相まって、BOMの維持運用を難しくしています。

この問題は10年ほど前に一度注目を集めた時期があり、わたしも2004年に拙著「BOM/部品表入門」を上梓しました。幸いこの本は未だに現役で、今年も増刷が決まって累計1万部近くになりました。しかしそれは、10数年がたっても、根本の問題が多くの企業で未解決のまま残っている事実を意味しているようです。とはいえ、昨今多少は情報化投資の余裕が出てきたことと、データ・サイエンスやデータ・マネジメントに関心が集まったことで、ふたたび注目されているのかもしれません。

今回はとくに、従来の量産型ではなく、BOMを扱いにくい個別受注生産における知恵などにも光を当てて、「自分で考え身につく」セミナーを目指します。

この問題に関心のある方のご来聴をお待ちしております。

<記>

日時: 2017年6月20日(火) 10:30~17:30

テーマ: 「BOM/部品表の基礎と効果的な活用ノウハウ ~演習付~」

主催: 日本テクノセンター

会場: 〒163-0722 東京都新宿区西新宿二丁目7番1号
     小田急第一生命ビル22F

セミナー詳細: 下記をご参照ください



 よろしくお願いします。
               (佐藤知一)




by Tomoichi_Sato | 2017-05-20 18:36 | ビジネス | Comments(0)

中堅エンジニアのための経営戦略入門(2)

長くなってきたのでここまでのところを少しまとめます。

製品やサービスの開発という視点からビジネスを考えるときには、4つの大きな要素があります。市場、競争、組織体制、技術の4つです。この4つは、企業の持つ能力の4つの面を表している、とも言えますね。つまり、販売能力、競争力、供給能力、技術開発力の4つです。

製品やサービスを開発するときには、これら4つの要素を独立にバラバラに検討するのではなく、合わせ技として、スパイラルを形成するような仕組みを考えることがポイントです。

ところでこの4つの要素は、最初の2つが企業にとっての外部環境を表し、残る2つが内部環境を表すと言い換えることもできます。ここで似たようなものとして想起されるのが、SWOT分析でしょう。よく経営コンサルタントは、最初に訪問したクライアントに対し、SWOT分析という道具立てを導入に使います。SWOTとは、strength, weakness, opportunities, threatsの略で、すなわち、強み・弱み・機会・脅威の4つを表しています。

これらを、<内部環境—外部環境>と、<プラスの面—マイナスの面>の縦横4つのマス目に書いて、具体的なポイントを列挙し、そこからラフな戦略の方向性を立てていくのです。このSWOT分析の「機会」は市場を、また「脅威」は競争を表していると見ることもできます。ただし「強み」と「弱み」は、組織体制と技術に直接対応している訳ではありません。が、わたしの経験では、企業人が自社の強み・弱みを客観的に把握するのは結構難しいものです。ですから、むしろ供給能力と技術開発力の視点で課題を列挙する方がブレずに議論できると思うのです。

さて、もう一つ、米国のポーターという経営学者がまとめた、競争優位のための3つの戦略があります。コストリーダーシップ・差別化・集中の3戦略です。

この3つの戦略と、先ほどの4つの要素の関係について、わたしの理解を簡単に整理しておきます。図をご覧ください。テーマは競争戦略ですから、「いかに勝つか」が問題です。それに対して、供給能力(組織体制の力)によって、安く・早く・大量に生産して、市場を席巻するのがコストリーダーシップ戦略です。いいかえると、薄利多売ですね。そして、これができるのは、市場の大半を牛耳られるような王者(リーダー)企業です。

これに対し、チャレンジャー企業はどうするか。コスト競争に打って出たら、体力の差で討ち死にです。そこで技術開発力を発揮して、リーダー企業とは異なる特色と優位性を持つ製品・サービスをつくって、挑戦する訳です。これが差別化戦略です。たとえていえば、コストリーダーシップ戦略の正面攻撃に対して、差別化戦略は側面攻撃ないし奇襲攻撃に相当します。

ではもっと規模の小さなベンチャー企業や中小企業はどうするか。彼らは、特定の顧客との密接な関係の継続、そして既存顧客の満足・実績を元にした新規顧客の開拓という道を選ぶしかありません。これが集中戦略です。小さな市場を選び、そこだけに集中して錐のように穴を開け、大手を破って打ち勝つのです。大規模な広告宣伝は難しいでしょうから、口(くち)コミやネットなどで顧客を広げていく。まあゲリラ戦ですね。
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余談ですが、この三つの戦略、国レベルの行動にも当てはまりそうな気がします。太平洋戦争で、圧倒的な優位性を持っていた米国に対し、チャレンジャーの日本がとったのは奇襲攻撃でした。そしてベトナム戦争で解放戦線がとったのは、まさにゲリラ攻撃でした。

話を戻すと、もしもKさんが、従来とは全く異なるジャンルの新規商品を企画されるなら、たぶん集中戦略ではじめるしかないでしょう。これはという顧客に狙いを定め、顧客が今まで気づいていなかった問題・ペインを掘り起こして意識の上にのぼらせます。そして、それを解決できるのはわが社のこの製品しかない、と信じ込ませることができれば成功です。あとは徹底してサービスを集中する。もし顧客の満足を得られれば、その実績を唯一最大の広告メディアとして、さらに次なる顧客を掘り当てていく訳です。

逆に、市場を席巻できるような供給体制もないまま、低価格でコストリーダーシップ戦略に打って出たり、大した技術力もなくすぐ真似されるような差別化戦略をとったりするのは、愚の骨頂だということです。自分の置かれている状況を冷静に判断しながら、一番良い競争戦略を決めていかなければなりません。

ただ、こうしたポーターの競争優位戦略論に対し、その後いくつかの批判も現れました。その一つとして、ミンツバーグの戦略類型論を取り上げましょう。カナダの経営学者ミンツバーグは実証的な学風で知られていますが、彼は戦略には二つの類型があることを調査から見いだし、ポーターらの戦略論があまりにも計画立案に偏重していることを批判しました。1987年のことです。

ミンツバーグによると、二つの類型とは、熟考型と創発型と呼ばれます。「熟考型戦略」Deliberative strategyとは、当初から意図した戦略で、それがちゃんと実現したもののことです。つまり、考えてから走り出す、上にあげたポーターの戦略のようなタイプですね。これに対し、ミンツバーグが「創発型戦略」Emergent strategyと呼ぶ種類のものがあります。これは、長期にわたり繰り返しとった行動パターンが成功に結びつき、結果としてそのパターンを組織の基本方針としたものです。これは歩きながら考えるようなやり方ですね。この両者がある、と。

ポーターらの好む熟考型戦略は、うまく当たれば成功しますが、外部環境の大きな変化に対して弱いという面があります。逆に創発型戦略は地味ですが、まあ合議制の文化の強い日本企業では好まれるかもしれません(これは逆に言うと、参謀機能が弱いということにもなりますが・・)。

さて、ここであらためて、Kさんの最初の問いに戻りましょう。経営者でもない、重役でも部長ですらないリーダークラスのエンジニアが、戦略という仕事にどう関わるべきか、本当にそんな必要があるのか、という問いです。答えから言ってしまうと、必要あり、です。なぜかというと、技術者はプロフェッショナル・エンジニアとしての自立を目指すべきであり、そのために戦略の基本を学ぶことが大切だと思うからです。

もしもKさんが、経営企画部などの参謀機能の部署におられるなら、話はもちろん簡単です。戦略立案と遂行のモニタリングが、部署の本来業務だからです。まあ、戦略立案部門と言っても、自分が決める訳ではなく、可能ないくつかの選択肢(オプション)と評価を示し、経営層に決断してもらうことが基本的なスタンスとなります。ただし、このような部署の仕事は、エンジニアとしての仕事ではないですね。

では技術者としてはどうなのか。ここで大切になるのが、以前書いたように、「上司の上司として考える、顧客の顧客を考える」スタンスです。仕事に期待される要件を洞察するためには、それが必要です。言われたこと、要求されたことだけをするのではなく、本当に期待されることを先回りして考える能力。これが、プロフェッショナル・エンジニアとして求められる能力です。

米国やカナダにはプロフェッショナル・エンジニアという制度があることはご存じでしょう。彼らは会社勤めのこともありますが、プロとして独立している場合もあります。聞いたところによるとカナダでは、エンジニアは労働組合にも参加できないのだそうです。なぜならエンジニアは弁護士や会計士などと同様に、Professional(独立性のある知的職業)だから、という社会的概念があるためだとか。

単に言われたことだけやるのは兵卒、あるいは労働者の仕事です。主体性を持つ者が、プロフェッショナルと呼ばれるにふさわしい。主体性を持つとは、未来を創造しようとすることに他なりません。未来の創造とは、未来商品・未来技術を創造することもその一つですが、仕事のやり方を新たしくするのも含みます。Kさんがこれまで工場でやられてきたことは、まさに主体性を持った未来の創造ではありませんか。

技術者や会社員にとって、「主体性」の反対とは、何でしょうか? それは、雇用義務や社会の義務だけ果たせば、あとは自分の自由だろ、と思う態度ではないでしょうか。かなり多くの人がそういった態度をとっているのは事実ですし、まあ、それも一つの生き方だと言えば言えます。じつは大学を出るかでないかの若い人の中にも、就職したらとにかく会社の要求する義務だけ果たして、あとは家族や趣味に生きたい、と考える人達が案外います。ちっとも未来志向ではありませんね。

ただ、そうした態度は、雇用や社会のあり方を新しくしようという希望を持たないこと、でもあります。極論すれば、それは自分が会社にとって交換可能な部品か、ロボットとなることを意味します。ロボットは、希望を持たない存在ですから。本来は未来を設計し創造するはずのエンジニアという種族の中にも、そういう物言わぬ大多数が占めていく現実を、わたしはいささか居心地わるく感じます。

わたしは別に、技術者は皆、独立して技術士事務所を開くべきだ、などと主張している訳ではありません。ただ、このような社会環境のとき、エンジニアはただ会社に従属するだけでなく、主体性を持って仕事の未来を考えるべきではないかと思う次第です。そのために、いわば「個人事業主になったつもりで、頭のトレーニングとして」経営戦略についても思いをめぐらすべきだと考えるのです。それは技術リーダーを目指す人にとって、必須のトレーニングの一部だと考えます。わたしは最近、研究部会の仲間と共に、そうした技術リーダーのための相互研修とコミュニティの場を作りたいと構想しています。遠いのでKさんにお声がけするチャンスがありませんが、そのうちご披露できればと思っています

そしていつか、Kさんが非常にユニークな製品を開発されたおかげで、それを売ってほしいと求める顧客が長蛇の列をなし、自分で好む顧客のみをピックアップして仕事を受けることができたら、そして営業に頭を下げたり無茶なコストダウンを命じられたりする悩みから解放されたら、素晴らしいと思いませんか? そのためには、どの市場に対し、何を売って、いかに供給し、どうやって競争を闘うか(あるいは闘わずして勝つか)を、懸命に考える必要があるのです。それをできるのが、エンジニアとしての仕事の醍醐味ではないでしょうか?


<関連エントリ>
 →「中堅エンジニアのための経営戦略入門」http://brevis.exblog.jp/25732183/ (2017-04-28)
 →「職人的であること、エンジニアであること」http://brevis.exblog.jp/24607574/ (2016-08-21)



by Tomoichi_Sato | 2017-05-07 23:22 | ビジネス | Comments(0)