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人間主義のプラスとマイナス

「よくこんな非効率で危険な現場運営を、A社は許しているな。」

思わずわたしは、つぶやいた。もう10年近く前、ある中東の大国で、科学技術施設の建設現場を訪れたときのことだ。顧客との打合せが目的で、現場視察のために行ったのではない。だが、どうしても仕事柄、現場のことが目に入ってしまう。建設工事を請け負っているのは、中東エリアで名の知れた大手建設会社2社。巨大な建設現場で、大勢の労働者が投入されていた。

その施設の建設は国の威信をかけたプロジェクトだったのに、例によって納期に遅れつつあった。そこで、国営石油会社であるA社が政府の依頼で、発注側に立ってテコ入れをしているときいていた。A社は国際的に準オイルメジャー級の企業であり、その国で本当に巨大なプロジェクトのマネジメント能力を持つのは、A社くらいしかない。畑違いだが、やむを得ない対策と思われた。

ところで、国際メジャー級の企業は、建設現場におけるHSEの要求も厳しい。HSEとはHealth, Safety & Environmentの略で、つまり労働安全衛生と環境保護の要請だ。以前も書いたことがあるが、メジャーの建設現場では、安全教育を受けずに現場入りしてはいけないし、ヘルメット・防護グラス・安全帯などの装備を身につけることが必須である。ちょっとでも高所作業をする際には、ハーネスをかけて落下予防をする、といった基本動作が事細かく求められる。

ところがその現場は違った。2階以上の高さでも安全帯をかけずに作業をやっているし、地面を掘った穴には十分な安全柵が立てられていない。とにかく及第点以下なのだ。それどころか現場に、図面も持たず材料・工具も持たぬ労働者が大勢うろうろしている。

当たり前だが、直接作業に従事する者は工具や材料がなければ仕事ができないし、監督者(スーパーバイザー)は施工図面を持たなければ仕事にならない。だとするとあの大勢の手ぶらの連中は何のためにいるのか。何の生産性にも貢献していないことになる。いくら突貫工事で大勢を追加動員したといっても、これでは効率が上がらぬ。そればかりか、万が一大きな労働災害事故が発生したら、現場周辺は作業を一切とめて対応せざるをえない。ますます仕事が遅れるのだ。大手顧客がHSEをやかましく言うのも、無事故が作業の生産性に直接つながるからでもある。

ところで同じ時期に、わたしの勤務先は、中東エリアの別の場所で、建設現場における全く新しい取組をおこなっていた。"Incident and Injury Free"の頭文字をとって『IIF活動』とよばれるこの取組は、建設現場の安全性とパフォーマンス向上に画期的な成果を生み出しつつあった。もっとも、これはわたし自身が直接関わった活動ではないし、その詳細について開示する自由を持たないので、具体的には以下のUrlなどを参照いただきたい。

日揮のIIF活動
JGCIIF活動(英語だがより詳しく書いてある

その活動のエッセンスだけを紹介すると、以下のようになる(もちろん、これはわたしの勤務先のことなので、宣伝半分じゃないかと疑う読者諸賢もおられよう。その場合は、バイアスを割り引いて読んでほしい):

IIF活動とは、現場のHSE向上を目的として、安全文化の構築と啓蒙を中心とする活動である。プラントの建設現場というのは、基本的に、誰もが出稼ぎのために故郷を離れて働きにやってくる。そこで、「建設工事に携わる誰もが、無事故で元気で家に帰る」ことが、皆に共通する一番の願いとなる。そのために、「お互いをケアする」(Respect & Care)ような安全文化を、組織(集団) 全体に構築していく。

具体的には、現場で働く作業員の気持ちを掴み、個々のモチベー ションを高めるための活動をする。たとえば現場責任者が、率先して毎朝欠かさず建設現場内を歩き、現場作業員たちに「おはよう。元気ですか」などと声をかけ、握手るなどスキンシップをとり、人間関係の壁を取り除く訳である。

また、互いの出自の紹介をして、名前を持つ人間同士として関係をつくることに取り組む。つまり、お互いに名前を覚えるのだ。大きな建設現場となると、数十の工事業者が関わり、労働者は5千人とか1万人以上になる。そこを、分け隔て無く実践するのである。

あるいは、分かりやすい図面パネルを制作して現場に持って行き、作業員達に、彼らが今、作っている装置の役割の説明をする。プラントは複雑で、見ただけでは何をする装置か分からないし、そもそも建設労働者達にそんな説明をする習慣はなかった。だが、そうした意義の説明を通じて、誇りとやりがいが生まれるし、全員が同じ目標に向かって作業している「仲間」である意識ができてくる。

こうなると、お互いが安全に向けて声をかけ合い、注意し合うカルチャーが醸成されてくる。現場作業には思わぬ危険が潜んでいるし、人間には必ず不注意やミスもある。それを、近くにいる他人(他の会社の人間かも知れない)が、声をかけて防げるようになってくる。

一般に労働安全活動は、「警察取締り型」と、「相互扶助型」のタイプがある。ふつうは、前者だ。危険を見つけたら注意し、繰り返しても改善されなければ、現場退去を命じる。しかし、警察型の活動は、いろいろな事故防止のテクニカルな対策を併用しても、事故発生率の低下に、ある壁があった。IIF活動は相互扶助型によって、その壁をブレークスルーすることを目指している。

結果として、たとえばUAEで遂行したIGD Habshan 5プロジェクトでは1億時間以上にわたり、LTI(Lost Time Incident=休業災害)ゼロを実現したし、カタールでのBarzanプロジェクト建設現場では、なんと1 3,000 万時間超の休業無災害を記録した。1億時間といってもピンとこないだろうが、中東の建設現場は1日10時間・週休1日で月260時間勤務が通常なので、つまり約40万人月以上の無災害である。たとえば2万人の労働者が、丸20ヶ月、一人のケガによる休業も出さなかった、という規模がこの数字である。

しかし、生み出した成果はそれだけではない。相互扶助型のIIF活動は、結果として、工事における品質向上と生産性アップの効果を生み出した。それは、皆が自分の仕事の意義を理解し、また周囲と協力しやすくなったことから生まれた結果だろう。

IIF活動は、人を人として遇することの大切さを、わたし達に教えた。目の前の労働者を、無名の、いつでも取り替えのきく存在として見るのではなく、名前もあり家族もある一人の人格=対等な仲間として遇すること。中東の現場を終えて数年ぶりに帰国した幹部が、「あの活動に取り組んで良かった。この歳になっても、まだ学ぶことがあるんだと分かった」といっていたのが印象的だった。

こうした、異国の途上国の労働者を「対等な人として遇する」点は、日本企業の方が、欧米系よりも自然にできるかも知れない。日本人に差別意識が薄いなどと言うつもりはないが、 社長も平社員も同じ食堂で食べる日本企業の文化(少なくともわたしの勤務先は、社員食堂がある時代はそうだった)に、現れているのではないか。1950年代のアメリカ映画「アパートの鍵、貸します」には、「役員専用のトイレ」の鍵というものが、象徴的に出てくる。役員専用のトイレなどない企業の方が、現場労働者を人として扱う『人間主義』に近いのではないか。
だが、物事にはつねに、両面がある。日本企業の人間主義には、マイナスの面もある。

最近、聞いた話だが、現場改善や経営指導に長い伝統のある某団体が、企業向けに各種研修セミナーを行っている。ところで、その頂点に当たる経営者用コースの内容というのが、たとえば「禅の心」とか「先達の型の伝承」といったテーマであり、人心掌握が中心であるという。そういう話が、企業経営者には人気があるらしい。つまり、経営とは人だ、という認識が広くあると言うことだ。

経営は人なり。なるほど、確かにそうなのだろう。だが、それをもう少し延長すると、どのような認識を生み出すか?

いうまでもない。仕事で良い結果が出たのは、人が優秀だったおかげ、結果が出なかったのは、人がダメだったため、という説明が生まれてくる。仕事のパフォーマンスを決める要因には本来、外部環境もあるし、技術も仕組み(システム)もツールもあるはずだ。組織のルールもまた、制約条件の一種であろう。だが、そうした他の要因は捨象され、すべては、個人の人格だか人徳だかで説明されてしまう。これもまた、ある種の「人間主義」である。

経営は人なり、という認識からは、当然ながら「経営者の使命は、すぐれた人物を見いだして育てること」という方針が出てくる。そこには、組織を安定して進めていく仕事の『仕組み』(システム)をつくること、という課題意識が抜けている。

また、その経営セミナーの話は、かつて書評した、日経文庫の「はじめてのプロジェクトマネジメント」(近藤哲生・著)をも想起させる。本を読んで驚いたのだが、そこにはWBSもなければクリティカル・パスの説明もなく、EVMSも見積手法論もない。いわゆる近代的PMの技術論は一切無くて、いきなりプロマネの心構え論になってしまう。そしてひたすら説明されるのは、部下のモチベーションと掌握と問題解決への心構え、といった話だった。でも何より驚いたのは、その著者が日立の情報通信部門のベテランだったという事実だ。うーむ。そういう人間主義の会社だったんだ、と感心(?)した記憶がある。

上記の経営セミナーの話をわたしにしてくれた人によると、英国と日本では、歴史教育に大きな差があるらしい。英国の歴史教育では、たとえば「産業革命」という事象を取り上げて、何がそれを可能とする条件なのか、なぜイギリスは世界に先駆けて産業革命を経験することになったのか、それによって及ぼした社会への影響は何か、といった構造的な説明がなされる。そして、その説明にはあまり固有名詞が出てこないのだそうだ。

ところが、日本の歴史のテスト問題というのは、年号と人名の暗記問題である。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明、ついでスティーブンソンが蒸気機関車を開発、といった事は覚える。だが、産業革命一般とはどのような事象であるのか、どの国・どの社会で早く発生し、遅れたのはどのような地域だったか、といった、大きな歴史構造はよく分からぬままの場合が多い。大きな社会変化が起きるにはそれなりの条件が必要だ。だが、まるでワットとスティーブンソンという有能な個人たちの出現が、それを可能にしたかのような歴史像しか頭に残らない。それは明治維新などをめぐっても似たような認識になる。西郷隆盛やら勝海舟やらの大人物が織りなす、点と線としての物語。

人と人とのドラマが、世界を動かしている。経営とは人である。仕事の成果を左右するのは、個人の能力である・・このような人間主義の世界観で、何がまずいか。それは、仕事の能力の「移転ができない」ことである。

知識・技術というものは、基本的に移転可能だ。文字にして伝えることができるし、ツールを作って渡すこともできる。だが、個人に内面化された技能を他者が継承するには、長い時間をかけるしかない。そのために、徒弟制度風のOJTを重視する組織は多い。それでも、昭和世代と平成世代の間のギャップ問題は、どこでも悩みの種となっている。

また、移転に時間がかかるということは、異なる製品やプロジェクトの間での、教訓(L&L)の学びが効きにくいことを意味する。もちろん、海外工場をつくっても、すぐに仕事を移転できない。つまり、組織としてスケーラビリティがないということだ。

そして、現代の世界市場規模での競争において、スケーラビリティがないことは、企業にとってほとんど致命的である。少なくともわたしの見る限り、欧米系ではどうやって仕事をシステム化し、展開可能とするかに、かなり注力している。だが、こうした危機意識が、わたし達の社会には非常に希薄だ。個人の能力(技能)を、科学の力を借りて客観化し、それを技術として移転する、という基本的な発想が、エンジニア達にも欠けているとしか思えない。そうした例は、ゲーム開発の分野からスポーツまで、あちこちに転がっているというのに。

労働者一人ひとりを、人間として遇すること。そのことが、仕事へのオーナー意識を生み、「やらされ感」で働かされるよりは、ずっと高いパフォーマンスを示す。これが人間主義のポジティブな面だ。だが、それをずっと延長していくと、「経営は人だ」「すべては人間の技能と気持ち次第だ」という認識が出てくる。かくして、技術やシステムの軽視、スケーラビリティの喪失が起きる。これが人間主義のネガティブな面だ。しまいには、竹槍でB29戦闘機と戦おうとする、奇妙な精神主義にまで至るかもしれない。

わたしは二つの違うものを、無理やり一つに並べているのだろうか? もし、どこかに断絶点があるなら、教えてほしい。だが、もしそうでないなら、わたし達の社会の人間主義には、両面があることを、意識すべきなのだ。



by Tomoichi_Sato | 2018-02-14 23:48 | ビジネス | Comments(0)

サービス業の生産性と、プロ意識との関係について


久しぶりに首都圏に大雪が積もったので、いつもより朝早く起きだして、家の前の雪かきを、ささやかながら行った。既に空は晴れ上がって、少し働くと汗が出る。「雪の明日は裸で洗濯」と言う諺を思い出した。東京の下町、荒川生まれの人に教えてもらった言葉だ。関東では主に2月や3月に雪が降るが、降った翌日は良い天気になることが多い。

雪かきという仕事は相互的だ。お互いに、ちょっとずつ汗をかく。そうすると通り道ができる。隣の家がやらないんだから、うちもやらない、などと言っていた日には、街の中はちっとも歩けなくなる。家の前は公道なんだから、雪かきは行政がやるべきだ、なんて批評して待っていても、問題は解決しない。

まだ公共交通機関もうまく動いていないのに、積もった雪の轍を急ぎ足に出かけていく勤め人の人達も多い。どうしても時間通りに職場に着かなくてはならない立場なのだろう。サービス業的な職種の人達かな、とふと思った。とくに9時-17時といった時間枠を決めてサービスを提供する部門なのかもしれない。私の勤務先だってエンジニアリング会社だからサービス業だが、設計的な仕事はもう少し時間の融通が利く。

ユーティリティー的なサービス業の辛さについては、3·11の直後に「休めない人々」http://brevis.exblog.jp/14417945/ と言う記事で書いたことがある。ユーティリティーとは、電気・水・通信・交通など、常に供給されているのが前提となる、都市のインフラサービスである。

もともとサービス業の定義とは、リソースを提供する仕事である。『リソース』とは、仕事において必要とされ、その活動の間は占有されるが、活動が終わると解放されて、他の用途にまた再利用できるもののことを言う。金型・ツール・作業場所とはリソースである。コンピュータもリソースだ。また働く人も会社にとってのリソースである(Human resourceと英語では呼ぶ)。日本語では経営資源と呼ばれることもある。

例えばホテルは部屋と言うリソースを宿泊客に提供する。交通機関は移動手段を提供する。通信会社は回線を提供する。これらは皆、サービス業だ。また床屋や、マッサージ屋は人による作業を提供する。サービス業は大きく、物的リソースを提供するものと、人的リソースを提供するものに分かれる。

電力や水は、実際には消費されるが、常に供給され続けていつでも利用可能だと言う点で、こうしたリソースに準ずる。ユーティリティーがサービス業の一種なのも、この所以である。

こうしたユーティリティ的サービス業のつらさは、それがいつも提供可能であると利用者が信じているところにある。だから供給が途絶すると、ひどく怒られる。提供している間は、皆が当然だと思って誰も何も言わない。怒られはするが、感謝されない。そういう仕事だ。

特に最近は、消費者の立場になった途端、突然居丈高になる人も多い。お金と引き換えに、他人を気楽に批評し、一方的に要求する立場を、手に入れたと思っている。モンスター・クレイマーと呼ばれる人たちも増えている。それはわたし達の社会において、プロフェッショナル精神が衰弱していることの表れだと思う。売り手ではなく、買い手側のプロ意識が、である。

世の中には、単にその仕事で給料をもらっているから、「俺はプロだ」と思う人が沢山いる。だが、英語のProfessionalはもう少し条件が厳しい。通常、それは知的な仕事であって、それなりの教育と収入を伴う。たとえば医師とか弁護士とか、牧師とか、建築家とかだ。何より、高い職業意識を持つことが資格である。

でも、わたしはプロフェッショナルという言葉を、何も高収入の職業だけに限定するつもりはない。技術者だってお菓子職人だって、きちんとした職業訓練と能力をもち、プロ意識を持って行動する人が、プロフェッショナルだと考えている。

年末、都内でタクシーを拾って四谷駅に向かった。四谷駅は交差点にあるが、JRと地下鉄で入口が確か違っていたように記憶していた。そこで「丸ノ内線の四谷駅に行ってください」と頼んだら、運転手は「地下鉄に乗ったことがないので、駅が分かりません」などという。そしてJRの駅前におろされたのだが、そこから交差点を渡って回り道をしなければならなかった。

だが、そんな妙な言い訳があるだろうか。客の望むところに連れて行くのが、プロフェッショナルの仕事ではないのか。自分に小さな子どもがいなかったら、「○○小学校へ」と頼む客に、「分かりません」というのだろうか? 待ち合わせた連れ合いに、遅れた詫びを言い、タクシー運転手について文句を言ったら、「近頃はプロ意識がない人が多いの。ただ会社に使われるだけで、ちっとも将来に良いことがないから」という。思わずうなってしまった。

プロフェッショナルは、自分の職業的能力をつねに磨こうという意識をもつ。プロフェッショナルは単なるワーカーではない。ワーカーとは、言われた通りのものを作る人、言われたことしかしない人たちのことだ。またプロフェッショナルは、アーティストでもない。芸術家は自分が作りたいものを作る。プロフェッショナルは依頼に基づき、作るべきものを作る。ただし依頼に対して、自分の考え・意見を持ち、それを提案する。「言われたことだけやる人」の反対である。「やるべき事をやる人」といってもいい。

プロフェッショナルは、基本的にサービス業である。能力を売る人だから、当然だろう。特定のモノや成果物を売るのではない。医師は患者の回復を保証する訳ではないし、弁護士は顧客の勝訴を売る訳ではない。ただ、リソースとして、彼らの信頼するに足る能力を売っているのだ。どんな場合でも、つねに80点以上の仕事をする、というのがプロフェッショナルである。そこは、できばえにムラのある天才と違う。安定性と信頼を売っているのだ。

プロフェッショナルになるには、かなりの勉強と継続的学習が必要である。大学出であることが多いが、必須ではない。むしろ、社会に出てからの学びの方が大切だ。

そして、プロフェッショナルは、他の分野のプロフェッショナルを尊重する。なぜなら、専門知識というものの幅や深さを知っているし、一人前の職業能力を得るのがいかに大変か、熟知しているからだ。それを知らない人、プロ意識のない人ほど、他人の仕事に口を出したがる。わたし達の社会で、サービス業へのクレームが多くなる理由が、ここにある。

なお、元々、西洋の概念におけるプロフェッショナルは自営が基本だ。医師・弁護士・建築家など、皆そうだった。英米ではエンジニアという職種もプロフェッションの一種であり、実際カナダでは技術者は労働組合に入れない。ワーカーではないからだ。

だが現代では、専門性を持つプロフェッショナルの多くは、組織人である。たとえばエンジニアという職種は一人だけで仕事を完結できず、多の人たちとの協力連携が必要だ。まあオーケストラの音楽家のようなものだ。だが、このことが、いろいろな混乱の元となっていると、わたしは思う。たとえば、仕事はプロフェッショナルの流儀に従うのか、会社の慣習に従うのか。プロ意識が優先すべきなのか、それとも会社員の帰属意識が優先するのか?

プロフェッショナルの概念と行動規範(倫理)について、最初に議論したのはギリシャ人だったろう。それ以降、いろいろな要件があげられた。たとえば、次のようなことだ:

(1) 真実を尊ぶ(顧客に嘘はつかない。信頼が資本だから)
(2) 自分の美学を持つ
(3) 持論を持つ(思想とまではいかないにせよ)

こうした行動規範に従う代償として、社会的な尊敬を得るのである。そしてプロフェッショナルは自分の職能集団の、社会的な信用を守るのだ (自社を守る、ではなく)。

しかし、現代の企業には、経営思想にもよるが、「一部のスーパーリーダーが決めた仕組みに従って、ただ言われた通りのことだけやる人」を求める傾向がある。一方、プロフェッショナルは自分でやり方を工夫改良し、人にも教える。マニュアル通りにうごき、消耗したら部品のように交換可能な人、ではない。

単なるワーカーはプロフェッショナルではない、と書いたが、もう一つ、プロフェッショナルに程遠いのは、「お役人」である。ここで言う「お役人」とは、公務員と言う意味ではなくて、官僚主義者のことだ。常に権力や規則を振りかざして、人を従わせたがり、また序列の上に上がることばかりを考える。そういう官僚主義者は、民間企業にも多い。

彼らは2、3年ごとにポジションを変わって、ジェネラリストとして管理職に上がると言うキャリアパスを生きる。ふつう1つの職業的能力を得るのに、少なくとも10年はかかるはずだが、彼らはそうした成長への労力を、1つの専門分野につぎ込んだ経験がない。だから他人の能力に対する尊敬心も薄い。彼らが頼りにするのは、自分の能力ではなく、組織の中の自分の職位である。名刺の肩書きで仕事をしたがる。

「ワーカーになれ」というトップダウン式の淘汰圧力と、「上に行きたければジェネラリストになれ」という組織の論理にはさまれて、プロフェッショナルの領域は狭まってきている。プロフェッショナルを目指すとは、実は「業界で通用する人間になる」=「転職できるように自分の価値を上げる」だから、日本企業にとってはそもそも、両刃の剣なのだ。あまり皆に、プロ意識など持ってもらいたくないという気持ちが働く。

それでも、プロ意識を持ちつづけて仕事をする人たちだって立派にいる。彼らが、他のサービス業者に対して臨む態度は、平凡なワーカーやお役人達と、どこが違うのだろうか?

それは、「サービスとは相互的なものだ」との理解を持っている点である。サービスは、人的なものであれ物的なものであれ、信頼の上に成り立っている。その信頼は、じつはサービス提供者だけが責任を負うものではなく、相互信頼に基づくものだ。

サービスの利用者は、自分が何を望んでいるか、きちんと理解して、伝えなければならない。そうでないと、相手は適切に動けない。そして利用者は、自分の要求と、自分のやる行動とが、ちゃんと整合性・一貫性をもたなければならない。相手が口で言うことと、相手の手が求めていることが異なっていたら、何を提供すべきかわからないではないか。プロ意識のある買い手は、この点をきちんと心得ている。

そのような意味で、サービスとは協業なのである。売り手はプロフェッショナルとして、最良のサービスを提供する。買い手は、売り手の能力を最善に引き出せるよう、自分の過度な要望を制する。そして相手のやり方を尊重する。とくにサービスが不定型なものになればなるほど、相互性の度合いも増す。

サービスを買う側と提供する側は、対等である。この「対等」という概念も、現代ではとても誤解されやすい。対等とは、単なる「平等」のことではない。必要に応じて、フェアに、応分の義務を負うという意味だ。高速道路を利用するドライバーは、高速の運転ルールに従う。医師が指示したら、患者はそれに従う。金を払ったのだから、後は何をしても勝手だ、とドライバーや患者が考えるのは賢い態度ではない。もちろん、提供者は報酬をもらう以上、適切な品質の道路や治療を提供する義務がある。

道路や医師のたとえならば誰にも分かりやすいのに、設計や開発やユーティリティ提供などのサービスになると、すぐ忘れられてしまうのはどうした訳か。命じれば何でも出てくる、と思う人が増えると、サービス業全体の生産性が損なわれてしまう。それが、わたし達の社会の問題なのだろう。

サービスとは、いわば「雪かき」のようなものである。誰もが応分に、少しずつ汗をかいて歩み寄る。そうすることで、通じる道ができる。そのような形で、わたし達の社会のプロ意識を再興する希望を、持てるだろうか? 通勤に急ぐ人たちの残した足跡を見ながら、わたしは魯迅の言葉を思い出していた。

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
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<関連エントリ>
 →「休めない人々」 http://brevis.exblog.jp/14417945/ (2011-03-12)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-24 23:54 | ビジネス | Comments(0)

シンプル化のすすめ

最近、勤務先のPCの環境を移行・再構築せざるを得ない機会があった。まあ、一種のお引越である。面倒な作業だが、このチャンスに、少しファイルやアプリの整理をはかろうと思った。PCを数年間も使っていると、いつのまにか、ローカル環境にも、不要なもの、使わなくなったものが溜まってくる。引越は、ゴミ捨ての良い機会でもある。よし、デスクトップもクリーンにしよう。自分の環境は、できる限りシンプルにしよう。そう、考えている。

いろいろな事を、シンプル化したい。最近はそういう気持ちが強くなった。その方がすっきりして、精神衛生にも良いし、集中できるからだ。

わたしは元々、整理整頓・お片付けがそれほど得意ではない。机の上は、ほっとくとすぐ乱雑になってしまう。読んだりファイルしたりしなければならぬ書類が、どんどん積み上がっていく。そのあげく、書類探しで余計な時間を費やすことになる。忙しいから書類整理の時間がとれない、と自分では思っているのだが、その結果、生産性が下がって、さらに自分を忙しくしているのだ。こういうことを何年間も繰り返し、さすがに「このダウン・サイクルから抜け出すべきだ」と思った。

一つのきっかけは、ある方からのEメールだった。

わたしは経営企画部門の仕事をしているため、回ってくるメールの情報量が多い。わたしでこれなら、本物の経営トップの所には、さらに大量のメールが入ってくるに違いない。

ところで、昨年、ある日本でも指折りの大企業のトップに、直接メールする機会があった。そうしたら、数時間以内に当人から短い返信が返ってきて、度肝をぬかれた。当然、秘書経由で2〜3日後に返事があるんだろう、と想像していたからだ。

その後、ご本人に実際にお目にかかる機会があったが、その頭の回転の速さ、視点の戦略的なことに、また印象づけられた。だからこの会社は、低迷する同業他社を尻目に、業績を伸ばしているのだろう。それにしても、本当に仕事ができる人は、ボールをすぐ相手に打ち返して、自分のコートに止めておかないのだだな、と思った。それなのに、はるか格下のわたしが、何日も遅れて返事するのは、まことに恥ずかしいと肝に銘じた。

そこで、最近わたしが取り組んでいるシンプル化のやり方を簡単に記しておこう。けっして偉そうなことは言えないが、多少なりとも読者諸賢の参考になるかも知れない。

まず、モノのシンプル化である。

自分の持ち物は、自分なりに、ずいぶんと減らした。自分が好きで、大事なものだけを手元に残すように心がけるようになった。たとえばワードローブには、自分が気に入った服だけが並んでいる。引き出しには、いつも使う気に入りの文房具だけが入っている。こういう状態が、理想だ。

ベストセラーになった近藤麻理恵・著「人生がときめく片づけの魔法」には、不要なものを捨てる際のテクニックが、いろいろ書いてる。この著者によると、片付けの際は、自分が持っている服を、全部、床の上に並べろ、という。つまり在庫を一望できる状態に「見える化」するのだ。服全部だと多すぎる場合は、カテゴリー単位に、たとえばシャツなり上着なりを、全部棚から出してきて並べる。その上で、一つひとつ手にとって、「ときめく」かどうかを感じろ、という。ときめかなくなったものは、感謝した上で、捨てろというのだ。いかにも感性が女性的だが、とても面白い。

自分もそれにならって、いくつかのカテゴリーについて思い切った整理を行った。さて、モノが減って少なくなると、なんにもしてないのに、自然と部屋の中が整った形になってくる。これは思いもよらぬ効果だった。

実際、いろんな沢山のモノに囲まれている生活よりも、大切な少数のものを長く使う方がカッコいい。学生の頃、聞いた話がある。ヨーロッパの人は、たとえば毛皮のコートなど、仕立て直して長く着続ける。ときには、親から子に引き継ぐのだという。その後、西欧の街で短いながら暮らす機会があったが、周りを見ていると、たしかにそんな感じがあった。

本当に良いものは、長く使える。値段が多少高くても、引き合う。だから質素な暮らしぶりの人達でも、仕立ての良い服を着ている。環境派の人はリサイクルなどを盛んに言うが、それよりも、長く使える良いものを買う方が地球に優しい。すごく安いけど、買ってすぐダメになってしまう衣類を手に、出張先でため息をついた。

ただし、シンプル化の目的は、整理整頓ではない。見た目が整うことは、むしろ副次的な結果だ。けっして、美意識のためにやっているのではない。また、通常思われているように、シンプル化できるかどうかは個人の性格の問題でもない。片付けられない奴はダメな奴だ、という風には、わたしは思わない。台所はゴチャゴチャだけど、ため息が出るほど美味しい料理を出す人だっている。美観の問題ではなく、その人の大切なモノがちゃんとすぐ出てくるようにすることが、目的なのだ。つまり、シンプル化は生産性向上の問題である。

まとめよう。
(1) モノを整理するときは、カテゴリー単位に在庫の全貌を見てから取捨選択する
(2) 気に入った良いものだけに囲まれて暮らす
(3) モノが少なくなれば、必然的に部屋は整う

モノの次は、タスクのシンプル化だ。昨年わたしはシカゴに行ったときに、有名なLeo Babuta氏のサイト"ZEN habits"を読み、あらためて作業をシングルタスク化して、単純化することの大事さに感銘を受けた。("Creating the Elegance of Simplicity & Focus in Your Work Day” https://zenhabits.net/elegance/
Leo Babutaの教えは、単純だ。
・一度に一つのタスクだけに集中する。できれば10〜15分間は中断せずに。
・PCでもスマホでも、一つのアプリだけを立ち上げる。気が散らないようにするためだ。
・ブラウザのタブも、一つを残して閉じる。もし必要ならば、ブックマークしておく。
・メーラーも、メールの読み書き以外をしているときは、閉じる。

メーラーについては、わたしもかつて「メーラーを閉じろ」(2008-10-18)なる記事を書いたことがあるので、同感だった。だが、Leo Babutaの徹底ぶりは、はるかに上をいっていた。ブログには、彼のiPhone画面がのっているが、その何もないシンプルさには驚嘆した。

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彼の場合、アプリは全部、一つのフォルダの中にしまってある(それは別の頁においてあるので、画面には見えない)。ではアプリの起動はどうするかというと、検索画面から起動するのである。iPhoneでは、フロントページから1スワイプで検索窓が出てくるし、最近使ったアプリのアイコンがその下に並ぶ。だから実際やってみると、複数の画面をめくっていくより、ずっと簡単で早い。

比較のために、普通のiPhoneのホーム画面をのせよう。誰のiPhoneかは、ご想像にお任せする(笑)。残念ながら、なんとゴチャゴチャしていることか! この手のアイコン・タイルが、さらに数画面も続くのだ。
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つづいて、Eメール処理のシンプル化にも取り組もう。モノのシンプル化に比べ、メールや書類は情報だから、取り組みがやっかいだ。

まず、毎日送りつけられてくる大量のダイレクトメールは、極力、すべて購読を止める。毎日、いちいち仕分けして捨てる手間とイライラを考えれば、元から絶つ方が得だ。

つぎに、メールはタイトルやプレビュー画面をざっと見て、以下の3種類に仕分ける:
A. アクションや返信が必須のもの
B. アクションはいらないが、仕事上、必読の情報を含むもの
C. 参考的な情報

BとCは、それぞれ「必読」と「後で読む」のフォルダに移す。インボックスに残るのは、Aランクのものだけだ。一つひとつ開けて、すぐにアクションをとる。開けたメールは、しかるべきフォルダに移す。こうして、インボックスは、極力、きれいな状態にしておく。

すぐ返信できないような内容のメールは、いついつまでに回答します、とまず返信しておいて、自分のToDoリストに期限付きでタスク化する。この方が、何も言わずに数日たってからアクション結果を返信するより、ずっとシンプルだし、相手にも感じが良い。

ここでのポイントは、ToDoリストの利用だ。メールボックスというのは、実は一種のタスクリスト(=ToDoリスト)である。そこには読むべき未読メールと、返信すべき既読メールが、着信時間順に並んでいる。だが、自分にとっての優先度順には並んでいない。ここが不便なのだ。

ところで、拙著『時間管理術 (日経文庫)』にも書いたとおり、ToDoリストをきちんと回す最大の秘訣は、一つのリストに集約することである。いくつものタスクが、複数の異なるリストに入っていたら、自分がやるべきタスクの全貌が見えない。だから仕事上であれプライベートであれ、すべてのToDoを一つのリストに集約する。自分には、1日に24時間しかないのだから、当然である。

ここでも、「持っているタスクの全貌を見えるようにする」が秘訣だ。タスクを全部、ToDoリストの形で、見渡す。それを優先度順に並べ替える。そして最重要なタスクから、一度に一つずつ、取り組んでいく。ToDoリストに転記する手間が面倒に思えるが、得られる効果の方がずっと大きい。

なお、Bランクのフォルダに移した未読メールも、それを読むタスクを定期的にToDoリストに入れておく。時間は30分から、1時間程度にとどめる。Cランクのフォルダは、気が向いたときに読めば良い。

まとめよう。
(1) 一度に一つのタスクに、集中する。最低でも10〜15分間は。
(2) 集中できる環境を作るため、余計なアプリは閉じる。メーラーの通知機能もオフにする。
(3) メールはToDoリストを併用して優先度をコントロールし、読んだら極力その場で返信する。

くどいけれど、シンプル化の目的は、美学でも整理整頓でもない。知的生産性を向上させることにある。なぜ、知的生産性を上げたいのか。それは、「落ち着いて考える時間」を手に入れるためである。


<関連エントリ>
 →「メーラーを閉じろ」http://brevis.exblog.jp/8779827/(2008-10-18)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-08 21:00 | ビジネス | Comments(0)

メーリングリストの登録受付を開始します

読者各位:

以前、本サイトの新着記事を配信するメーリングリストの予告をいたしましたが、ようやく設置の準備が整いました。

メールアドレスの登録フォームは、姉妹サイトである
 「マネジメントのテクノロジーを考えるhttp://mgt-technology.info
のトップページ左側サブメニューにある、「ニュースレター登録フォーム」をクリックすると開きます。
そこから、メールアドレス、氏名、所属を登録してみてください。
登録確認メールが発信されるはずです。

このメーリスは、Benchmark Emailというサービスを利用しています。今後、新しい記事はまず、こちらから発信していくつもりです。

なお、メーリングリストに登録いただいた方から、先着20名様に、わたしがこのサイトの記事から選んだ、

 『モノサシを疑え 〜 マイ・ベスト・セレクション

の電子ブック(ePub形式)を、お名前入りでさし上げます。
大勢の皆様の積極的なご登録を、お待ちしております。


佐藤知一

(追記:おかげさまで、先着20名の枠は1日を待たずに一杯になりました。
 早くお申し込みくださった方々には電子書籍を順次お送りさせていただきます。
 記事のメール配信自体は、いつ登録されても有効です。
 また、メールのみでの情報発信やご案内も考えておりますので、ぜひよろしくご登録ください。)


by Tomoichi_Sato | 2017-11-28 22:56 | ビジネス | Comments(0)

マネジメント・テクノロジーを考える場にようこそ

このほど、新しく「マネジメントのテクノロジーを考える」というサイトを立ち上げた。

新サイトの目的は、マネジメント・テクノロジーのための情報源とすることである。そのために、2000年4月からずっと開設運営してきたわたしのサイト「革新的生産スケジューリング入門」のコンテンツを、全面的に移行した。SCM・BOM・PM・ITなどに関わる数百の記事がある。これに加えて、個人的に書いてきた「気まぐれ批評集」なども移してある。

このサイトは、近いうちに、マネジメント・テクノロジーを学ぶコミュニティのためのプラットフォームとして、拡張していきたい。現在、わたしが主宰している『プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会』の「PM教育分科会」では、世に類例のない新しいタイプのPMトレーニングを開発中である。これに関連するフォーラムや、e-Learningなどを今後、立ち上げたいと考えている。とはいえ、こちらはまだ構想段階なので、現時点ではわたしの個人コンテンツ集の体裁になっている。

新サイト開設に伴い、さらに二つほどやろうと思っていることがある。

第1に、本サイト(brevis.exblog.jp)の最新の記事を届けるために、メーリング・リストをはじめるつもりだ。これにより、いちいち見に来なくても、新しい記事がお手元に届くことになる。

もう一つ。過去に書いた数百の記事の中から、マイ・ベスト・セレクションを選んで、電子書籍化することを考えている。もちろん、メーリング・リストに登録してくださった方々には、先着順で無料進呈するつもりである。詳しい案内は、また後日させていただこう。

ところで、タイトルに使った『マネジメント・テクノロジー』という言葉は、一般用語ではない。世の中には「固有技術」「管理技術」の区分があるが、後者のカタカナ版というつもりで使っている。管理技術のままでも良いのだが、「管理」という日本語は英語のManagementよりも曖昧性が高い上に、その高圧的なニュアンスを嫌う人も少なくない。そこで、英語風に言いかえたのである。

元々この言葉は、わたしの勤務先の同僚・秋山聡氏が使い始めたもので、わたしもお借りして使わせていただいている。だから、Googleなどで"Management technology”と検索しても、そのものズバリのサイトは、なかなか出てこない。○○マネジメント技術、たとえばdata management technologyといったものはヒットする。また、Management of technology(MOT=技術経営)関連のサイトは、いくらでもある。だが、わたしの意図するマネジメント・テクノロジーは、技術の経営とは全く異なる概念だ。

マネジメントという言葉は多義語だが、その中核には「人を動かす」という意味がある。人に働いてもらって、あるいは、人と一緒に動いて、共通の目的を達する。このための技術を、マネジメント・テクノロジーと呼ぶ。

人が働く場合は、通常、それにともなって情報や物のやりとりがある。したがって、物の数量、品質、置き方、動かし方、などにかかわる技術も必要だ。情報やデータのインプット、伝達、蓄積、処理などの技術も大切になる。

そしてもちろん、お金に関わることがら、つまり見積や予測、集計にも技術がある。また、時間に関わること、所要期間の見積、集計、納期の予測も技術の対象だ。なによりも、人の集団としての組織を、どうデザインし、統率し、成長させるかという大きな難しい課題もある。

こうした事柄に関する技術は、分野・業種にかかわらず共通性が高い。たとえば在庫理論はマネジメント・テクノロジーの一種だが、在庫しておく対象が、石炭だろうがPCだろうが、共通に使える。最近流行の言葉に、<競争領域>と<協調領域>という用語があるが、共通性の高いマネジメント・テクノロジーは、後者に属するといえるだろう。

ただし、こうしたマネジメントに関する知恵は、従来バラバラに存在していた。在庫理論、会計学、品質工学、情報システム、人材開発・・という風に。

大事なことは、そこに「システムズ・アプローチ」という心棒を通すことだと、わたしは考えている。時間・品質・在庫・コストなどの項目は、バラバラに存在し、バラバラに管理できるものではない。製造業のQCDをみれば分かるとおり、品質とコストと納期は、互いに関係している。品質を上げようとするとコストがかかり、低コストでやろうとすると納期が延び、と言う風に。互いに制約し合っていると言ってもいい。

その一番わかりやすい例が、プロジェクト・マネジメントだ。現代のPM理論は、1950年代に米国で生まれた。プロジェクトを、単位作業(Activity)のネットワークで構成される「システム」だ、と考えたときにモダンPMの理論と手法が誕生した。だから、上に述べたわたし達のPMトレーニング・カリキュラムでは、プロジェクトを「システム」だと実感することに重きを置いている。

そもそも、マネジメントの能力は、生まれつきの才能でもないし、「気合い」だけで増大する物でもない。技術(テクノロジー)によって増大する、という思想が、わたし達のよりどころである。ただし、人が持つ能力は、かなり移転可能な部分と、どうしても属人的な部分に分かれる。これを、ハード・スキルとソフト・スキルと呼ぶ。

ハード・スキルとは、技術と理論を中心とした、座学で習得しやすい能力である。これに対し、ソフト・スキルとは、問題解決や交渉力といった、繰り返し練習によって身につく能力である。

そして、この両者を支える思考と行動習慣の体系を、OSとよんでいる。2年前に上梓した拙著『世界を動かすプロジェクト・マネジメントの教科書』では、この考え方に立って、以下のような「S+3K」がOSとして大切だ、と表現した。

 S: システムズ・アプローチ
 第1のK: 言葉を大切にする(言語化)
 第2のK: 契約と責任を重んじる(契約責任制)
 第3のK: かならず計画を立てる(計画重視)

ちなみに第2・第3のKは、とくに海外プロジェクトで重要になる要素だ。しかし、PMの観点だけでなく、より一般的に、システムズ・アプローチを内部から支える要素をあげると、以下の3点を大切にする態度になるのではないか:

  • 言葉
  • ロジック(論理・法則性)
  • 記憶(経験・歴史)

これはたとえば、あなたが上司や顧客としていだきたくない人物像を考えると分かる。まず、言葉をぞんざいに扱う人たちは、正直、あまりありがたくない。言っている意味が通じない人、意味内容がすぐ変わる人、逆に、狡猾に言葉をすり替える人などなど。

二番目にこまるのは、ロジックを無視する人だろう。1+1を、3とか5にしろと主張する人。仕事のパターンや傾向、法則性を無視する人。そして何でも「気合いと根性」だけで押し切る人たちだ。つまり、論理を「面倒くせぇ」で片付ける人である。顧客として上司として、あまりお相手をしたくないタイプである。貴方の周囲でも、見かけることはないだろうか。

そして敬遠したい三番目のタイプは、記憶しない人たちである。つまり、過去の過ちをすぐに忘れる(忘れたふりをする)人、約束や主張をしょっちゅうクルクル変える人、記録を軽視し、なんでも記憶と印象だけに頼る人。こういう人達は、できればリーダーに戴きたくない。

さて、前述のPMトレーニングについては、すでに6月と9月の2回にわたり、研究部会の内部でボランティア受講者を募り、改良を加えてきた。順調にいけば来年初頭あたりから、お披露目できるだろう。そして、これはわたし達が考える、「マネジメント・テクノロジーとしてのPM」の最初のカリキュラムになる予定である。

このコースは、プロジェクト・マネジメントの「初級者を対象とする」というつもりで設計し、参加者を募った。ところで、最近気がついたのだが、この「初級」「中級」という概念自体、もう少しきちんと定義すべきだったようだ。たとえば世間のPM資格試験では、プロジェクト実務経験年数や時間数などに準拠しているが、はたしてそれは妥当なのか?

分科会の中で議論するうち、わたし達はもっと別の定義の方が、ふさわしいと気がついた。それは、以下のような簡単なものである。

マネジメント・テクノロジーにおける初級者とは、自分でなんとか実行することができる人を指す。言われたことをそのとおり実行する場合も、自分で考えてやってみる場合もあるだろう(もちろん、言われてもできない人は、入門以前である)。

これに対し、中級者とは、他人に教えることができる人を指す。すなわち、自分の関わるマネジメントの手順・技術について、言語化でき、また元となる理論や定石を理解しており、それを実例と共に伝えられる人である。

そして上級者とは、新しいやり方を開発できる人である。
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このように定義してみると、いろいろなことがすっきりする。たとえば、何年間、いや何十年間も、実務経験を積んでいても、人を教えることをせず、ただ「俺の背中を見て育て」という人は、まだ初級者なのである。その人の中で、やり方が言語化・定式化されていないからだ。その人自身は、マネージャーとして高い能力を、あるいは持っているかも知れない。だが、その技能が個人に属するだけなら、組織はその人のレベルを超えることはなくなる。

つまり、個人のテクニックは、いくら積み上げても、移転・共有可能な「テクノロジー」にはならないのだ。シニア世代の引退を控え、あちこちの職場で若手への「技術移転」が課題となっている。しかし、そもそも移転可能な形になっていないままでは、誰が受け取れるだろうか?

教えることは、じつは自分も学ぶことだ。教えるのが一番、勉強になる。それは多くの人が経験したことだと思う。もしかするとわたし達の社会は、年を経た、ベテランの、しかし初級者ばかりでできているのかもしれない。

せめてわたし達は、はやく中級者になろう。


by Tomoichi_Sato | 2017-10-20 08:21 | ビジネス | Comments(2)

能力評価のレベル0からレベル2まで 〜 組織を作る概念のシステムとは何か

生まれて初めて乗った飛行機は、アエロフロートだった。大学院の修士課程をでる前の3月、わたしは一人で卒業旅行にでかけた。まだ旧ソ連の時代だ。旅行の行き先はドイツとスペイン、そして英国。モスクワ経由でフランクフルトに向かい、ドイツ中部の家々の屋根の色を見下ろしたときの印象は、今でも鮮明だ。ドイツでは父の元・部下で、当時フランクフルト近郊の現地法人で働いていたNさんに、いろいろとお世話になった。スペインでは、マドリードにあった父の会社の取引先の方が一緒に夜、食事をしてくださった。今考えると、いくら取引先のキーマンの息子だとは言っても、取るに足りぬ生意気な若造のお相手をしてくれた訳だ。まことに頭が下がる。

行く先々で聞かれた質問が一つあった。「なぜ、お父さんの会社に行かないのですか?」という質問だ。ドイツでもスペインでも現地の人に聞かれた。わたしにはむしろ、「へえー、ヨーロッパ人って、そういう考え方をするんだ」と新鮮な驚きを感じた。家業ならいざ知らず、父は会社の役員だったが社長でも創業者でもない。親と同じ会社に入るなんて、むしろ古くさい、前近代的な考えだと思っていた。だから合理的近代人である西欧の人達が、そんな風に思うことが意外だったのだ。

前回、「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ で、“生まれつきリーダーは決まっている”、という観念でできている組織(たとえば同族会社など)は、レベル0だと書いた。だが、誤解しないでほしい。わたしは同族企業をすべて批判しているのではない。すぐれた業績を上げている同族企業を、わたしはたくさん知っている。とくに英明で優れたリーダーが社長職を継いでいるところは、大胆な決断もスピード感を持って下せるし、従業員からも尊敬されていて、立派な組織が多い。

レベル0という位置づけは、ポテンシャルの基底状態、つまり一番自然に発生し、そこから出てもまたその位置に戻りやすい状態を指している。「リーダーとなるべき人は生まれつき決まっている」という観念は、組織づくりの設計思想としては、レベル0=出発点だ、ということを申し上げているにすぎない。事実、歴史を見ると、古代にはこうした考えでいろいろな制度が設計されていた。そして、それなりに機能していた。

ただし、当たり前だが、レベル0のままでは組織の維持に差し支えるような事態も、起こりうる。オーナー社長の残した一人息子が暗愚で、かわりになる子どもが親族にいないとか、いても嫁に行った娘だった、といった話はいくらでもある。こうなると、お定まりのお家騒動だ。すぐれた同族企業が沢山あるのは事実だが、すべての同族企業が素晴らしい訳ではない。

逆に、レベル2の組織では「基準とルールを作って組織を動かす」と、『マネジメントのレベル0からレベル2まで』 http://brevis.exblog.jp/26064558/ では書いた。しかし、こうした組織が全て素晴らしい訳でもない。基準とルールを定めて人を動かすのは結構だが、ルール本来の目的が忘れられ、単に維持することが自己目的化することもある。そうした組織ではしばしば、官僚主義と大企業病が跋扈するようになる。すると、大きな環境変化への適応不全が起き、「ヒーロー待望論」と共に、レベル0の組織まで一気に縮退することさえある。

だからこそ、ルールというものは、それ自体に定期的見直しと改良がビルトインされなければいけない訳だし、マネジメント・システムを組み上げるポジションには、マネジメント能力の高いものを配置しなければならない。レベル2のマネジメントには、レベル2の人材配置が必須なのである。だが、そもそもマネジメントの能力とはどのような性質のものなのか。いや、ことはマネージャー職にとどまらない。いやしくも適材適所を実現するためには、いろんな種類の能力が、うまくアセスメントし評価できなければならないのだ。

ここで、「能力評価」に対する、3つのレベル分けを定義しよう。

レベル0: 能力は生まれつきでほぼ決まる
レベル1: 能力は素質に加えて、「やる気」が大切である
レベル2: 能力は素質・意欲に加えて、知識・技術・不断の訓練で成長する

能力は生まれつきの素質やセンスで決まる、という見方は、素朴な出発点=レベル0である。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という言い方は、世間でもネットでもよく見かける。こういう風に発言すると、 クールでカッコよく聞こえるのも確かだ。部下の能力を即座に峻別し、ダメな奴からカットする上司。「お前はクビだ」というセリフで有名になったお金持ち。ただしこうした人びとは、部下(=人的資源)とは自分の所有物ではなく、組織や社会からの借りものだ、という事を忘れている。でも、その話は脇に置いておこう。

レベル0の能力観において重要になるのは、持って生まれた素質の選別である。これに対し、レベル1では、本人の意欲・やる気を重視する。多くの人が好むスポーツや競技もののストーリー、とくに昭和時代に隆盛した「スポ根」ものは、こういう能力観をベースにした説話である。最近読み直した’90年代の人気マンガ「ヒカルの碁」(原作・ほったゆみ)の第1巻では、主人公のライバル・塔矢アキラがまだ幼少の時、父である塔矢名人と会話する。

「お父さん、ボク、囲碁の才能あるかなあ」
「ハハハ。それがおまえにあるかどうか、わたしにはわからんが・・
 そんな才能なくっても、おまえはもっとすごい才能をふたつ持っている。
 ひとつは、誰よりも努力を惜しまない才能。
 もうひとつは、限りなく囲碁を愛する才能だ。」(p.150)

競技を愛して努力を惜しまなければ、必ず強くなる。これが少年マンガの中心テーゼだ。このテーゼは、人を努力に誘い、打ちのめされた人を再び奮起させる点で、たしかにレベル0よりも上である(もっとも「ヒカルの碁」の塔矢アキラは、誰が見たって生まれつき卓越した素質の持ち主だが)。レベル0の考え方では、基本的に人には、あまり努力による伸びしろがない訳だから、誰を選抜するかが評価の中心になる。

日本の教育制度(と称しているもの)は、じつは選抜のシステムである。教科書的知識を教え、それを選抜の基準とする。だから記憶力が良くて、出題者の意図を読むのが達者な人間ばかりが、引き上げられる。そして若いときに一度選抜されれば、パスポートは一生有効だ。そういう制度を持つわたし達の社会は、ほぼレベル0の論理で動いていると言っていい。予備校は、「意欲重視」のレベル1を、(集客と宣伝のために)あえて掲げているかもしれないが。

では、レベル2は? それは、成長を加速するための装置として、知識や技術があり、さらに繰り返し練習することによって、能力は深まる、という考え方だ。素質ややる気が不要だ、と言っているのではない。とくに訓練の努力には、熱意が不可欠だ。素質のある者は、訓練のスタート地点がかなり進んでいる。でも、それだけでは不十分だし、効率がわるい。人の能力には、伸ばせる余地が非常に大きい。これがレベル2の能力観である。

さて、3回にわたって「マネジメントのあり方」「人材配置・昇進のやり方」「能力評価の考え方」について、3つのレベルを定義してきた。ところで、これらの3レベルは、互いに関係し合っている。

たとえば、「生まれつき」で配置・昇進を決める、人材のレベル0からはじめようか。その極端が、貴族主義であることは、前にも述べた。そこまでいかずとも、あまたいる候補人材の中から、傑出した者を少数、見いだして、多少の試練で延ばしてやれば、リーダーの後継者になる。こういう論理はよく見かける。ビジネススクールの教授陣でさえ、こんな考え方が多いと思う。

真に傑出した人間は、滅多にいない。まことに稀少である。そのことはわたしも認めよう。ただし、それが生まれつきの資質やセンスによるものかどうかは、異論がある。

でも、ごく少数の生まれつき優秀な人間と、圧倒的多数の魯鈍な愚民−−こういう対立図式で世の中をとららえる人は、案外多い。この種の人達は「帝王学」という言葉も、けっこう好む。すぐれた血筋の子弟を、幼少の頃からリーダーたるべく教育する方法、を指しているらしい。ただしその学的内容は不詳で、どこかに「帝王学会」なるものが存在する訳でもないようだ。学問と言うより、一種のロマンであろう。生まれつき優秀な種なら、水をやって日を当てればほぼ自動的に育って、花が咲くものと信じているのだろう。

ともあれ、優秀なリーダーはごく少数だから、後の者たちに対しては、全てを指示し決めてやらなければならない、と考えるのも道理である。つまり、

・リーダーは生まれつきで決まるものである
 (なぜなら)
・リーダーたる能力は生まれつきの資質である
 (ゆえに)
・リーダーは自分が全てを決める

という風に、概念が円環を描いて互いを支え合う構造になっている。
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似たような構造は、レベル1同士の間でも成立する。人はやる気と意欲で伸びるのだ、というのが能力評価のレベル1だ。やる気を引き出すには、互いに競争させるのが一番だ。だから組織をエリアや職能別に縦割りにして、リーダー候補たちをそこに割り当てて任せ、「結果を出せ」といって競わせる。これがマネジメントのレベル1。そうして、成果・業績でリーダーを昇進させる。人材配置・昇進のレベル1。とてもつじつまが合っている。

・能力ははやる気と意欲で伸びる
 (そこで)
・人に任せて、「結果を出せ」という
 (そして)
・業績で人を昇進させる

たとえば、組織を地域や職能で縦割りにして、たがいに損益やKPIを定めて競わせる、といった仕組みをとる企業は非常に多い。工場間も競わせ、その成績・順位に応じてボーナスまで決めるという噂の某自動車会社など、その典型かもしれない。競争原理こそ人を動かす、との信念なのだろう。
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レベル2ではどうか。能力は、マネジメント能力を含めて、知識・技術と練習によって伸びる。そこで、人材教育と実地訓練の仕組みを組織にビルトインしなければならない。実地訓練の途上では、個人の業績が不安定になることもあるだろう。だから、配置・昇進では、短期の業績ではなく、能力評価を基準にしたルールにしなければならない。

・マネジメント能力で人の配置・昇進を決める
 (しかるに)
・能力は知識・技術・不断の訓練で成長する
 (よって)
・組織は基準とルールを作って動かす
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このように、マネジメント・ポジション・能力の3種類の概念は、それぞれのレベルにおいて、互いを支え合っている。要素が互いに支え合ってできあがる仕組みを「システム」とよぶ。システムは、要素が変わらない限り、ある意味安定である。

人間集団が持つ、体系化され組織化された、思考と行動の習慣を、わたしは『OS』とよんでいる。Operating Systemであるから、システムだ。概念の世界にも、システムが存在することに注意してほしい。そしてこのシステムこそ、見えないけれど、いろいろな制度とふるまいをしばっている。

厄介なのは、レベル0はレベル0なりに、レベル1はレベル1なりに、安定であることだ。レベルを全体として1ランク上げるためには、概念、つまり人びとの考え方を、同時にあげないといけないことだ。無理に異なるレベルの要素を接ぎ木しても、システムは不安定になる。一要素でも劣化すると、全体がおそらく下のレベルに縮退しやすくなる。

たとえば、基準とルールでできあがった組織でも、リーダーの配置・昇進が生まれつきで決まりがちだと、人材教育が機能しなくなり、人びとのモチベーションと能力が下がって、機能不全に陥るだろう。あるいは、いくら能力に応じて人を配しても、そして教育の場をつくっても、リーダーが全て自分で決めるような組織では、部下の能力が活かされず生産性が下がるであろう。基準・ルールがあり、業績で人を昇進させても、技術開発と教育が軽視されたら、みるみる競争力を失うであろう。

わたしが(そして研究部会の仲間を含めたわたし達が)、マネジメントにはテクノロジー(技術)が存在し、それを学び練習する場が必要だ、と主張してきたのは、能力観が全体の中で一番弱い環だと思うからである。ルールも能力主義も、皆、良く知っている。だが、マネジメント能力が独立した能力であり、そこに技術も訓練もあるのだ、ということは、まだ常識化していない。そこを少しでも、強めたいのである。

卒業旅行で初めて訪れたドイツでは、Nさんにつれられてノイ・シュヴァンシュタイン城を見物に行った。「狂王」とよばれたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が、19世紀末に建てた美しい城である。孤独なロマンティストで、中世伝説のマニアだった彼は、最終的に臣下に幽閉され40歳で死んだ。近代化を迫られるバイエルン国に、中世風の気まぐれな王様は、もはや足かせだった。「なぜ親と同じ会社に入らないのですか?」とたずねてきたドイツ人たちは、しかし、貴族による世襲だけではうまく行かないことも、良く知っていたのだ。少なくとも、国王を英明に育てる「帝王学」までは、持ち合わせていなかったのである。


<関連エントリ>
 →「それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?」 http://brevis.exblog.jp/20592802/ (2013-06-02)
 →「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ (2017-09-30)
 →「マネジメントののレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26064558/ (2017-09-22)


by Tomoichi_Sato | 2017-10-07 23:37 | ビジネス | Comments(0)

人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで

わたしが主宰する『プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会』では先日、「プロジェクト・マネジメントの1日研修トライアル」という催しを開いた。これは、わたし達の研究部会の中にある「PM教育分科会」というグループが、オリジナルに開発中の研修プログラムについて、希望者を募って“βテスト”を実施したものである。参加者がいるか心配だったが、幸いにも10数名の方が申し込まれ、休日を丸一日つかってわたし達の研修プログラムを体験し、有用性を検証していただいた。

その内容はまだ開発中のため、ここで詳しくは述べないが、社会人向けの、初中級者レベルのコースとして設計したものだ。もちろん世の中には、すでに多数のPM研修がある。だが、その多くはPMBOK Guideなどの知識を座学で学ぶ、資格試験対策である。あるいは逆に、ケーススタディの討議中心で、しばしばプロジェクトの火消しなどの題材を扱っている。だが、そもそも良きプロジェクト・マネジメントとは、火の手を起こさぬようにするためのものではないか。

わたし達は、知識・技法などのハード・スキルと、コミュニケーションや問題解決などソフト・スキルの、バランスの取れた研修プログラムの開発を目指している。とくに、プロジェクト全体の構造を俯瞰して理解する「システムズ・アプローチ」習得に、重きを置いて設計した。ありがたいことに、参加された方々のフィードバックは、こうした意図に沿った形で、前向きなものが多かった。

ところで、この一日トライアル研修の最後に、講師側のふりかえりを述べる機会があり、わたしはほとんど即興で次のようにお話しした。

「皆さんにとって、望ましいリーダー、ついて行きたいと感じるリーダー像とは、どのようなものでしょうか。わたしは、3つの条件があると感じています。

第一に、落ち着いていること、です。いつも落ち着いていて、何かトラブルが起きても、すぐ感情的になったり逆上したりしない人。わたしが職場で知っている、真に優秀なプロジェクト・マネージャーたちはだいたい、冷静で穏やかな人が多い。情緒的にupsetすると、正しく判断することができなくなるので、これが大事なのです。

二番目に、人の話を聞くこと、でしょう。ちゃんと下の者の話を最後まで聞いてくれる人。賛成してくれるかどうかはともかく、話をしやすい人。そういうリーダーの所には、良い情報もまずい情報も、上がっていきます。担当者による問題の抱え込みが起きにくい。そうすれば、プロジェクトに突然のサプライズもなくなります。

第三は、先が見通せること、ですかね。外部や環境の変化に反射的に対応して、右往左往するのではなく、ちゃんと先を見通せる人。こういう人にこそ、ついて行きたいですよね。

そして、こういった三つの事柄の前提として、一番大切な能力があります。それは、『事実を客観的・多面的に見ること』です。プロジェクトとは生き物で、しかも複雑な仕組みでもあります。それが今、どういう構造になっているのか、どういうインパクトがあると、どんな範囲に影響がありうるのか。そうした事実を、自分だけの希望や思い入れを離れて、客観的に、かつ多面的にとらえて理解すること。これがあるから、落ち着いていられるのだし、先を見通せるのです。そして、人の話をきかなければ、客観的・多面的に見ることもできません。

問題が起こったぞ! さあどうする、どうする・・といきなり騒ぐ前に、現実を見ること。それも複眼で見ること。そしてちゃんと数字の裏付けをもって見ること。そうした能力を身につける練習こそ、わたし達が目指していることです。」

ここに即興的にあげた3つの条件が、はたして適切なのか、他にもっと大事な条件はないのか、異論はあろう。そもそもプロマネ論とかリーダー論とか、世間では好んで論じられるテーマである。たとえば最初の「落ち着いている」にしても、普通だったら、「ものに動じない」「人間としての器が大きい」「大人物である」といった人物論になっていくだろう。

そして、「大人物とはいかなる者だろうか」「そう、たとえば西郷隆盛は・・」というような話につながっていきそうである。そういう会話も、もちろん結構だ。だが、人物論みたいなことをいくら論じられたって、それが貴方やわたしの、次のアクションにつながっていくだろうか? 人物の器量や性格は生まれつき、という事だったら、凡人で小心者に生まれたわたし(たち)は、どうしたらいいのか? ましてやプロマネに西郷さん級の大人物を要求されたって、それを各社何十人単位で用意できるものか。

ところで、少し前だが、「功ある者には禄を、徳ある者には地位を与えよ。」という言葉を、人事に関連して聞いたことがある。つまり仕事で功績を挙げた人間には、ボーナスなど報奨金で報い、上の地位に引き上げるのは、むしろ人徳ある者にしろ、という意味である。これはなかなか良い格言だと思った。

ちなみに、この言葉はまさに西郷隆盛の遺訓の中にあって、人に知られるようになったらしい。調べてみると、官は其の人を撰(えら)びて之れを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、云々という言葉があるという。ただしこれは元々、中国の古典である「書経」に、『徳懋(さかん)なるは官を懋にし、功懋なるは賞を懋にする。』からとられているようだ。

多くの組織では、人が昇進昇格するきっかけは、仕事で目立った業績を上げることである。営業マンなら大きな受注を、研究者なら画期的な発明を、技術者ならばすぐれた設計を認められて、組織の位階を上がっていく。そして人の上に立つ。

それと「目立つ」業績という点もミソで、たとえばプロジェクトが最初から最後まで平穏無事に進んだら、とても素晴らしいことなのだが、目立ちにくい。他方、大きな問題が生じて、それを大騒ぎして解決すると、とても目立つことになる。だからいつの間にか、「火消しこそプロマネの本領」みたいな通念が生まれていく。

ともあれ、2000年頃から、多くの企業で「成果主義」人事制度が導入され、業績と人事評価が直結するようになった。それはそれで、良い面も多かったのだと思う。年功とか性別とか学歴(大学入学歴)だけで、人が差をつけられるのはおかしいと、大勢が感じてきたからだ。ただ、その「成果」の定義をめぐって、いろんな議論や混乱も生じた。

おそらく一番よろしくなかった点は、人事査定において、人材の「配置・昇進」と「給料」の二つが、直列にリンクしていたことではなかったか。前回の記事にも書いたが、ほとんどの組織は、位階のシステム、つまりピラミッド型の形態をとっている。上の方にいくほど、人数は少ない。部下が多く、権限が大きくなる。そして収入が高くなる。

結果として、目立つ成果を上げた者は、より上位のポジションに配置され、大勢の部下をマネジメントするようになる。だが、本当に辣腕の営業マンは、優秀な営業マネージャーになるのか? 独創的な研究者は、すぐれた研究所長になるのか。緻密な設計のできるエンジニアは、卓抜したプロジェクト・マネージャーになるのか? 大きな疑問ではないか。

ボーナスの査定と昇進は、一緒のモノサシで測ってはいけない。給与と栄誉は区別しろ、と西郷南洲遺訓の「功ある者には禄を、徳ある者には地位を」は教えている。そう、業績と昇進を直結してはいけないのである。会社に利益をもたらした者には、金銭的に報いる。でも昇進は別に決める。

とはいえ、「」とは何だろうか。それを半期に一度の人事査定で、評価できるのだろうか。お前の部下の徳を5点満点で答えろ、といわれても、わたしは正しく評価できる自信はない。逆に「佐藤は有徳とは言えないな」と評価されるなら、まあ強くは反論できないけれども。

では、組織の位階の中で、人を上位のポジションにつけるには、何を基準にすべきか。それは当然、「マネジメントの能力」ということになる。

そして、「マネジメントは職域から独立した専門的能力である」という概念が確立していないから、わたし達の社会では人事に混乱が生じやすいのである。以前も書いたが、日本の官庁や多くの企業では、いろんな部署を経験させた「ジェネラリスト」をマネージャー職につける、という考え方が伝統的に強い。

だが、それはオーケストラにたとえれば、「最初はビオラを弾き、それからフルートに異動させ、第一バイオリンでコンサートマスターを経験させれば、指揮者になれるだろう」という考え方に近い。楽器の奏法(つまり専門職域の固有知識)を知っていることは指揮者に必要だろうが、十分条件ではない。指揮者は指揮者であって、指揮の専門の勉強と訓練が必要なのである。

ただ、かりに能力ある者を昇進させるという考えを認めたとしても、まだハードルがある。「マネジメントの専門能力」を測る方法を確立していないと、結局、その部署の全体の業績やらKPIで、マネージャーの能力評価を代用することになるのだ。そして業績というのは、短期的な環境条件によってブレやすい。だから結果として、運の良かった者を昇進させる、ということも生じやすい。

結局、人材配置・昇進のやり方には、3つのレベルがあることが分かる。

レベル0は、リーダーの地位を、「生まれつき」で決めるやり方である。たとえば家柄とか人種とかカーストとかで。「器量」「人物」で決める、という考え方も、これに近い(そういうのは生まれつき持っているものだ、というのが通念だから)。

これはまあ、たとえば古代の王様のように、古い考え方ではある。現代でも、同族会社などこのタイプかも知れない。ただし一定範囲なら、それなりに有効である。同族経営にも、すぐれた会社は沢山ある(トヨタ自動車だって、ある意味そうだ)。ただ、その有効性は、同族の中できちんとした評価・選抜が行われていることが条件になる。

レベル1は、功績を挙げた人間をリーダーの地位に就ける、というやり方だ。ただ、その危険性については、これまで述べたとおりだ。専門職域で有能だからといって、マネージャーとして有能とは限らない。名選手、かならずしも名監督ならず。むしろすぐれた専門家は、高い報奨で報いるべきである。その結果として、役員よりも年収の高い社員が出現したって、いいではないか。その逆にして、人を使えない専門家が上に立って組織を乱すよりは、ずっと良い。

そして人材配置・昇進のレベル2は、マネジメントの能力によって、ポジションを決めるというものである。いや、リーダーの地位だけではない。専門職域への配置だって、やはり専門能力と適性で決めるべきだ。そういうのを適材適所とよぶ訳ではないか。

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ただ、レベル2に達するには、マネジメント能力という概念がきちんと確立して、かつ、それを適正に測る方法が必要である。人事制度にそれだけの成熟度が求められる。とくにマネジメント能力は、短期的な成果だけで測ってはいけない。それは野球にたとえれば、一打席の出塁結果だけで、打者の技能を測るようなものだ。あるいは一試合の勝敗だけで、監督の能力を測るようなものだ。

人を評価するには、「待つ」時間が重要なのである。


<関連エントリ>
 →「スペシャリストか、ジェネラリストか?」 http://brevis.exblog.jp/24313514/ (2016-04-18)
 →「マネジメントのレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26064558/ (2017-09-22)


by Tomoichi_Sato | 2017-09-30 21:00 | ビジネス | Comments(0)

マネジメントのレベル0からレベル2まで

九州・佐賀県の唐津市。玄界灘に面した市のはずれに、名護屋という場所がある。Google Mapの航空写真で見ると、緑の多い、人家の少ないのどかな土地だ。かつてここに、一里四方の広さを持ち、10万人以上が居住する一大都市が、ごく短期間だが存在していたことを知る人は少ない。

その都市をつくるよう命じたのは、太閤秀吉である。彼が晩年、大陸支配をねらった戦争(後に文禄の役とよばれることになる)をはじめるにあたり、出陣の基地としてこの名護屋港を選んだのだ。彼は全国の諸侯・武将に、この辺鄙な港へ集結し、各人の負担をもって、都の聚楽第に遜色がないほど豪壮な城と館を築くよう言い渡した。そして数万の人力を投入し、半年ほどの短期間のうちに完成させた。

全国の大名武将たちは、たとえ些細な手落ちでも関白に訴えられ、無能者として俸禄を没収されかねないので、「自ら家臣を率いて森や遠方の山に出かけ、材木を切ったり、城壁や門に用いる巨大な石を運搬した」と、宣教師フロイスは記している(川崎桃太「続・フロイスの見た戦国日本」p.76)。できあがった名護屋城は、大阪城に次いで、日本で2番目に大きな城であった。当時の秀吉の、権勢のすごさがよく分かる。

わたしが子どもの頃、両親が買い与えてくれた本の中に、子ども向けの「太閤記」があった。とても面白い物語だった。太閤記は彼の生涯を、日吉丸の時代からはじめて、木下藤吉郎を経て豊臣秀吉になるまで、いろいろなエピソードを集めて物語ってくれる。秀吉という人物が、日本史でも傑出したリーダーであったことは間違いない。

しかしこの太閤記が、最後どのように終わったのか、なぜか記憶に残っていない。秀吉が大陸に出兵したことは書かれていた。だが、伏見城でどう斃れたのか、晩節があやふやなのだ。あまりヒロイックに描けなかったのかもしれない。天下人になった秀吉の意思と気まぐれには、日本中の武家たちが右往左往させられた。

大陸出兵に際し、秀吉は名護屋城に居を移した。すでに甥の秀次に関白の座を譲って太閤となっていた秀吉は、秀次に対して、この戦争に勝利した暁には、お前をシナの関白に任命し、都周辺の百ヶ国を与えてやる、と手紙で約束した。しかしその後、自分に待望の嫡子が生まれると、秀吉は秀次に蟄居、そして自害を命じた。秀次の首は京都で晒し首になり、眷属30数名は皆、殺害された。だが、このような罰を受けた理由は不明で、いまだに日本史学者の間でも謎である。

晩年の秀吉は、あらゆる事を自分で全て決めたがる、独裁者であった。むろん、戦国時代に独裁者は珍しくなかったろう。彼が仕えた信長だってそうだった。自分の狭い領地の中では、秀吉よりもっと気まぐれで暴虐な大名も大勢いただろう。だが歴史上、秀吉ほど巨大で広範な権力を手にした日本人はいなかった。関白の任命権は本来、天皇にあるはずだが、天皇家の権威など彼の眼中にはなかった・・

マネジメントのレベルということを、最近考えている。レベルといっても、上手・下手という意味ではない。自然なあり方から、どれだけ進化しているか、のレベルである。

世の中には、あらゆることを自分で全て決めたがるリーダーもいる。晩年の秀吉のように。あるいは、人に権限を任せて、働かせることで全体を動かすリーダーもいる。もちろん、任せるといっても、全面的に自由にさせることは少ない。自分が望む方向にむけて、働かせる必要があるからだ。そこで、どういう風に部下をしばるかで、さらに違いが出てくる。

人間は社会的動物で、お互いに関わり合いながら群れを作って生きているが、互いに競争心を持っている。どちらが優り、どちらが劣っているか、優劣・強弱・上下を、たえず繰り返し競い合う。これはある程度、本能的に持って生まれた性質らしい。上に立った方が、下の者に対して、命令的にふるまう。集団で一番上になった者は、他の全員に対して、判断や指示を下す。

だから、リーダーが全てのことを決めるのは、マネジメントにおいてある意味で一番自然的な、あるいは本能的なあり方だと言える。リーダーと、その他大勢。家父長制の家族など、この類型に近い。これを「マネジメントのレベル0」とよぼう。

ところで、人間の作る組織にはふつう階層があり、リーダーにはトップ・上位・中位・下位・・のような位階がある。その位階に応じて、決められる権限範囲が狭まっていくようなシステムをとるのが通例だ。その典型が軍隊である訳だが、秀吉は武将であり、つまり軍人の職業的リーダーだったといえる。彼は傑出した知将であり名君だったからこそ、あそこまで駆け上がったのである。会社組織などもこれに倣って、社長・本部長・部長・課長といった階層を決めている。

なぜ、組織はこのようなシステムになっているのか。そこには、どのような合理性があるのか。また階層は、多いほど良いのか、少ないほど良いのか。こうした問題を、システム工学の視点から、制御とマネジメントの最適なあり方に関連して考えている。

ちなみに、経営学に『システム論』を明示的にはじめて取り入れたのは、米国のバーナードであった。彼は”Functions of Executive”(邦訳「経営者の役割」)という本で、組織が機能するためには、共通目的・協働意識・コミュニケーションの3要素が必要だ、と喝破した。彼がシステムズ・アプローチをもって組織をとらえたのは、彼が電話会社の経営者だったことも関係しているかもしれない。

ただし、彼の著書では、組織になぜ「位階の体系」(Status System)の必要性が生じるのか、論じていない。この点について、後にバーナードは、「ハムレットは描いたつもりだが、オフェーリアを逸した」と洒落た言い方をしている。

この問題に本格的に取り組んだのは、経営学者としてはじめてノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンだった。サイモンは、組織に位階があるのは、意思決定のために必要な情報収集の完全性と、そのコストのバランスをとるためだとしている。「組織は、決定を分散させることによって、市場と同様、情報の需要を局所化し最小化することができる」(サイモン「システムの科学」p.49)。

部下に何らかの役割を与えて、それを任せる。これが位階のシステムの機能である。その事によって、トップの地位にある者は、より集約された情報を元に、より効率的に決断を下していくことができる。

リーダーが全てを決める、レベル0のタイプの組織で、何がまずいかというと、組織の規模が大きくなるほど、リーダーの決断のための負荷が大きくなることだ。当然、トップはあらゆる問題をめぐって忙殺されることになる。忙殺されると、長いスパンで先を見通すための時間がなくなってしまう。かくて組織は、その日その時のリーダーの気分によって、右往左往することになる。

家族や氏族、あるいはその延長としての、古代の地縁集団的な国家ならば、規模は知れているから、「あらゆることをリーダーが決める」方式で回していけるかもしれない。だが、それが一定規模を越えると、位階と権限分散の仕組みを持つ方が、組織として生き延びる可能性が高まることになる。

任せる、にも大きく二通りある。まずは組織なり守備範囲などをすっぱり分けて、それぞれにリーダーを置き、「あとは死ぬ気で頑張れ」「俺がほしいのは結果だけだ」といって働かせるタイプ。たとえば国土を領地に分割して、諸侯を冊封し、そのテリトリー内では殿様や貴族としてふるまうことを許す、中世の封建制度などは、その一つの表れだ。これを「マネジメントのレベル1」と呼ぶことにする。

もう一つは、組織の位階にしたがってリーダーやサブ・リーダーたちを順におくのだが、共通したルールと基準を定めて、それぞれの裁量範囲と判断のよりどころを与えるやり方。これは近代国家などでより多く見られる仕組みである。「マネジメントのレベル2」としようか。レベル1のサブリーダーないし殿様たちだと、まだ自分の領域内では気まぐれでいられる。だがレベル2の仕組みでは、各層のリーダーの決定や行動について、予見可能性が高くなる。だから部下たちは、ついて行きやすくなる。以前、英国のジョン王に関する記事(http://brevis.exblog.jp/21571341/)のときにも書いたとおり、リーダーの行動の予見可能性と、決断の一貫性は、ついて行く人間にとって死活的に重要である。

こうした違いは、単にマネジメントのスタイルの違いだ、という人達もいる。いわばリーダーの美学であり、個人の好みだと。その場合、どれが上でどれが下というレベル感はない。だが、わたしは3種類をあえて、レベルと考えている。その理由は、レベル0の方が自然発生的にできやすいのに、レベル2はかなり人工的で、作るのに時間がかかるからだ。いってみれば、レベル0は基底状態のようなもので、ポテンシャルが低いのである。レベル1から2へと上がっていくには、エネルギーがいる。

そして、組織や対象が大きくなればなるほど、レベル0かから1、そして2へと、マネジメントの仕組みを上げていく必要がある。そうしないと、回らなくなっていくからだ。
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もちろん仕組みやシステムには、完全な正解と言うことはない。レベル2にも欠点がある。それは、ルール・ベースであるため、ルール自体を変えるのに時間がかかったり、ルールが想定していない事態への対応がうまくいかないことだ。つまり、より安定した時代・環境向きの仕組みと言えるかもしれない。

でも、秀吉が天下を取った後は、世の中は平安に向かっていた。本当に全国津々浦々まで、支配権が拡大されていた。秀吉ほどの人物なら、作り上げるべき仕組みくらい、見えていたはずだ。ではなぜ、そうならなかったのか? なぜレベル1から、レベル0に逆戻りするような方向に動いたのか。

巨大な権力それ自体が、彼を引き下ろしたのだ。これがわたしの推測である。軍隊的な組織では、リーダーは部下に対して命令を下し、逆らえないよう強制力を持つ。これを権力とよぶ。そして権力とは、どうやら麻薬のように、それを所持する人間を惹きつけ、酔わせ、判断力を低下させてしまう効果があるらしい。これが権力というものの持つ、恐ろしさである。一旦権力を握ると、手放したくなくなる。

そしてそういうリーダーは、回りにイエスマンばかりをおくようになる。あるいは、面従腹背の者ばかりを。最終的に、リーダーの元には、本当に役に立つ客観的な情報は届かなくなる。それで適切な判断ができる訳がない。だから、大きすぎる権力をもったレベル0のマネジメントは、倒れるとき甚大な被害をもたらす。

だからこそ、人間社会はルールというものを発明してリーダーをしばり、システムがレベル0に落ち込むのを防ごうとするのである。ただ、環境条件によっては(たとえば大地震の際など)、いったんレベル1に戻る方が適応力が高まることもあるだろう。どういう条件の時に、どのようなマネジメントのあり方が最適になるのか。それについてずっと考えているのである。

太閤秀吉は結局、中国・朝鮮に対する戦争の最後を見ずして死んだ。秀吉が死ぬと、厭戦気分の広がっていた日本の軍勢は朝鮮半島からあっという間に敗走した。出陣基地だった名護屋城は、城壁にいたるまで破壊され、建物材木は持ち去られた。そのこと自体が、人びとの気持ちを物語っている。そしてこの無謀な戦争は最終的に、豊臣家の滅亡のみならず、東国に対する上方の没落をも、もたらす遠因となったのだ。


<関連エントリ>
 →「組織におけるルールはいかなる機能を持っているのか」http://brevis.exblog.jp/21571341/ (2014-01-14)




by Tomoichi_Sato | 2017-09-22 23:24 | ビジネス | Comments(0)

ミニレビュー:携帯用折畳みキーボード 3E Wallet

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3E社の携帯型折りたたみキーボードを6ヶ月ほど使ってみたので、感想を書いてみたい。商品名は”Wallet”という名前で、型番は3E-BKY4である。接続はBluetoothで、MacOS, Windows, iOS, Androidとすべて使えるようだが、わたしはもっぱらiPad Pro 9.7’と組み合わせて使っている。

この製品の良い点は、三つある。

(1) 薄くて軽いこと。厚さは6mmない。折りたたんでも13mmで、とにかく薄いので、携帯性にすぐれている。カバンに入れても邪魔にならないし、iPad(わたしはスマートカバーをつけて使っている)と重ねて持った際も、とても持ちやすい。重量は176gで、これも際だって軽い。

(2) フルキーボードで、キーピッチもまあまあ広いこと。これは入力機器の基本性能として大切なことだ。それに打鍵時のアクションも、まあしっかりしている。

(3) 写真で見てわかるように、開いたときに7度の角度で左右に傾斜のある、エルゴノミクス・キーボードになっていること。最初は慣れるかな、と少し不安だったが、すぐにまったくストレスなく使えるようになった。そして、手首の角度からいって、たしかにこの方が自然である。たたんだ時はほぼ長方形なので、収納に不便はない。

ということで、気に入って職場で毎日使っている。それまでは、ながらくREUDOのBluetoothキーボードRBK3200BTIをiPadと組み合わせて使ってきたのだが、職場では完全に3E Walletにかえてしまった。

ただし、気になる点もいくつかあるので、書いておこう。

(4) キー・ストロークが浅い。これは薄さを実現するためには仕方ない訳だが、わたしの好みからいうと十分とはとても言えない。この点は、REUDOのキーアクションの方がはるかに快適。だが、たとえば今この記事を書くのに使っているMacBook Proのキーボードだってかなり浅いので、まあ良い勝負だとは言える。

(5) iOSと組み合わせて使う場合、マニュアルや刻印と異なり、なぜかCaps Lockキーが英字/かなモードのトグルキーになる。これは便利なような不便なような仕様だ。「カタカナひらがな」キーで変わってくれるとうれしいのだが、まあiOS側にも問題があるのかもしれない。

(6) Controlキーが、左下にある。わたしはずっと、MacでもWindowsでも、ControlキーをAの左隣において使っている(Macキーボードは元々そうだし、Windowsではソフトで置換している)。ところが、Walletだけはそれがきかない。ちょっとだけ不便である。まあiOSで使う場合、Walletの「Win」キーがCommandキーに相当するので、Cut & pasteなどのショートカットでは問題は感じないが。

(7) 打鍵はわりと静かではあるが、静音とは言えない。大勢の中で使う際は、気を遣うべきだろう。

とはいえ、半年間ほぼ毎日使ってもきちんとトラブルなく動いているし、電池もまだ一度も交換していない。開けば、自動的にBluetoothで接続される。非常に快適である。キーアクションが浅くても良いから、軽量なキーボードを探している方には、おすすめである。

なお、なぜかしらないが、Amazonでは売っていないようだ。不思議だ。わたしはヨドバシで買った。



by Tomoichi_Sato | 2017-09-16 12:08 | ビジネス | Comments(0)

職人の国の生産性を上げる、最良の方法

3月に新潟に行った際、宝山酒造(http://takarayama-sake.co.jp)という会社を訪問した。規模としては零細に近い造り酒屋だ。一応、工場見学、というか、仕込みと醸造の場所を見学させてもらった。平屋の木造で、いかにもゆかしい「酒蔵」である。それから、こうした見学のつねとして、畳敷きの小上がりの部屋に案内され、いくつか試飲させていただく。わたしはお酒に弱いたちで、日本酒の目利きなどでは全然ないが、それでもなかなか美味しいと感じた。

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試飲させてもらいながら、酒造の来歴の説明をうかがう。どこから杜氏を呼び、どんな努力の結果、満足のいくお酒ができるようになったか。また同じ酒蔵の製品でも、高級な純米大吟醸から普及版の醸造酒まで、どんな特色と違いを出しているか。小さな会社でも企業努力の種類は大手と共通している。たしかに大吟醸の虹色めいた香りの広がりから、醸造酒の新潟らしいきりっとした味わいまで、比べて飲むと面白い。

もう一つ、非常にユニークで面白いと感じたのは、「ひと飲み酒」と呼ぶ、200mlの小さな化粧ガラス瓶のパッケージである。これを2本でも3本でも、セットで買うと、黒い洒落た紙箱に入れてくれる。見かけがとても都会的になって、部屋に並べておくだけで見て楽しいし、また酒飲みでない人間にとっては、1升だの4合だのを買うよりも、ずっと手が出しやすい。とても上手なパッケージングだと感じた。

小さな造り酒屋ながら、秀れた杜氏の職人仕事に加えて、顧客のニーズに応えた製品のラインナップ、そして洒落たガラス小瓶のデザインによる、自由な小口組合せ販売など、経営上の工夫をこらしていることに感心した。かえりに自分用に買ったばかりでなく、世話になった方へのギフトにも良いな、と思いつつそこを辞した。

同じその日、新潟市の大きな展示会場では「新潟 酒の陣」と呼ばれるイベントが開催されていた。新潟中の造り酒屋が何十社もブースを構えて、自分の製品を試飲販売している。2千円の参加費を払うと、小さな試飲用のガラスのお猪口を渡されて、ブースごとに回ることができる。わたしはじつは同じ日の午前中、仲間に誘われてそちらの会場にも顔を出したのだが、なにせお酒に弱いので、せいぜい5社くらいのブースをたずね、あとはぼんやり会場を眺めていた。
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眺めながらつくづく、「日本は職人の国だな」と思った。新潟の酒造はほとんどが中小零細規模である。そこが、それぞれ自分なりの思い入れを込めて麹を仕込み、酒を造る。そして自分が手塩をかけて作ったモノに対し、情熱とこだわりを持っている。味、香り、色、のどごしなど、自分の眼・舌・鼻・手の五感をフルに動員してこそ、良い結果が生まれる。つまり酒造り職人としての技能と、製品の品質が直結するのだ。

そう。職人というのはとても素晴らしい、尊敬すべき生き方である。わたしは高度な職人仕事には、無条件で感服する。心技体そろわなければ、優れた仕事はできない。ただ、そうした職人としての生き方を全うできるためには、何が必要なのか。

さて、いつものことだが(苦笑)、話は急に飛ぶ。先週、ある会合で「日本企業の生産性の低さ」が話題となった。この種の統計は世の中にいろいろと流通していて、たとえば日本生産性本部の2016年の統計(http://www.jpc-net.jp/intl_comparison/)によれば、日本はOECD 35カ国中22位であり、また順位も低下しつつある、という。とくにホワイトカラーの生産性の低さはほぼ定説のようになっていて、いつもやり玉に挙がっている。状況を改善するために、働き方改革の政策などが、声だかに唱えられている訳だ。

だが、それは本当なのか? というのが皆の論点だった。そんなに日本企業の生産性は低いのか? じっさい、製造業の過去20年間の労働生産性の伸び率だけを取り出せば、G7諸国の中で日本は1位だという統計もある(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-04-25/OOYJ9G6JTSEI01)。製造業はよくやっているじゃないか。問題なのは流通・サービス業だ、という訳だ。ただしこれは20年間の伸び率であって、たしか現時点での数値はG7中の6位である。下にいるのは経済危機のイタリアだけだ。

「他の先進国は、移民などの安い労働力を使ってうまく稼いでいるだけなんじゃないか」という人もいる。だが労働生産性の数字というのは、賃金を差し引く前の、一人あたりの付加価値を示している。ここから賃金を引いた残りが、簡単に言うと企業の収益の源泉になる。だから賃金が高いか安いかは、定義上、関係ない。

「いや、地域でも業種でも差があるのに、そもそも平均値をとって国際比較すること自体に意味があるのか」という反論もある。でも、日本の平均値が過去、さっぱり伸びていない事実とはどう向き合うのか? そもそも、偏りのある分布に対する平均という操作自体が問題だとしたら、統計自体に意味がなくなってしまう。工場単位の平均を見ることすら、できなくなるだろう。

また、「品質の差を無視して生産性を比較するのはどうか」という意見もきくことがある。日本の製品は他国より品質が高い、と自信を持っているのだろう。しかし、品質が低ければ普通は価格も安く、付加価値は小さくなるのが道理である。付加価値の中には、品質の要素も込められているというのが、ビジネスの常識だ。

念のために書いておくが、上に論じた「生産性」とは、付加価値労働生産性のことである。それは、企業活動が生み出す付加価値の総額を、それに従事する人の数で割って得られる値だ。日本の場合、最新の値は一人あたり年間783万円という数値になる。ここから賃金を引いた残りが企業の利益の源泉である。あるいは、時間あたりで計算する場合もある(国際比較の場合、そもそも年間労働時間がかなり異なる)。日本は4,439円である(日本人は一人年間1,764時間働いている計算だ)。ただし国際比較をする際には為替の問題が出てくるため、購買力平価のような指標で較正したりする。

そして、国のGDPとは、その国で生み出した付加価値の合計である。経済成長はGDPの増加率で測る。日本の勤労人口はほぼ横ばいだから、経済成長したければ労働生産性をあげるしかない。これが理屈である。

くどいけれど、国際比較の文脈でいう「労働生産性」とは、一人あたり付加価値額のことである。別に労働者一人あたり製品を何台作れるかでもなければ、プログラマが一日何行コードを書けるか、でもない。ここを誤解している人がとても多いので、あえて書く。杜氏が一人あたり、何升のお酒を造れるか、ではない。その酒屋が生み出す付加価値額(=ざっくり言って、販売金額マイナス原材料費)を、杜氏も売り子も事務方も含めて、働いている人の数で割った数字が、その酒屋の労働生産性なのだ。

 労働生産性 = 付加価値額 ÷ 従事者数 =(販売金額 − 原材料費)÷ 従事者数

である以上、労働生産性を大きく上げるためには、販売金額を上げる、すなわち製品を高く売ることが必須であると分かる。もちろん生産量自体を増やすのも、もう一つの手段だが、ふつうは人を増やさなければなるまい。一人が一日あたり作れる製品の台数、書けるコードの行数、仕込める酒の量は、急には増やせないからだ。また原材料費を下げるのも第三の手段だが、これはもう限界があるし、それでも無理に下げたら品質劣化にはねかえる。そうなったら付加価値など、元も子もなくなる。

日本の労働生産性が低いのは、生産に従事する人達の働き方がわるいのではない。儲けるのが下手なのだ。それがわたしの解釈である。一応、国際的なエンジニアリングの世界で長年働いてきた身としていうが、欧米のライバル企業で働くエンジニア達と、個人単位で能力にさしたる差があるとは思えない。製造業とて、同じだろう。それなのにもし、国際比較で生産性が低いのだとしたら、それは儲け方が下手なのだ。ドイツの工場を見学した話は前回書いたが、日本の同種の工場とそれほど大きな違いがあるとは思えなかった。違うとしたら、どこで価格競争から脱するかが、違っているのだ。

職人が安心して仕事に精を出せるのは、作ったモノが売れていき、それがきちんと利益を出して、ちゃんと職人の給料にかえるときに限られている。作っても売れず、売れても利益が出なければ、誰がよろこびを持って働き続けられるだろうか? 

日本が職人の国だと言うことは、つまり作り手の国なのだ。作ることはよく知っている。そして上手にできる。だが、有能な商売人が足りない。これがわたし達の社会の病である。足で稼ぐセールスマンは多くても、知恵のある有能な商売人が不足なのだ。必要なのは「働き方改革」などではなく、「儲け方改革」なのである。

冒頭の宝山酒造の例を思い出してほしい。良い酒を造ることは大事だ。それは必要条件だが、十分条件ではない。製品のラインアップを確立し、ボトルや商品デザインにも工夫を凝らし、ネットでも注文を受ける仕組みをつくって、はじめて企業として安定するのである。そうしたことは、杜氏だけが考えるべき仕事ではない。

職人の生産性を決めるのは商売人である。なぜなら、付加価値の大きな部分を決めるのは、売るための仕組みだからだ。もっとも商売人も職人の協力が不可欠である。ライバルと品質も性能も原価も劣るようでは、売りようがない。つまり、販売と生産がきちっと統合して回る仕組み(システム)が必要なのだ。

酒造りや工場の労働に限らない。以前から書いているように、日本には職人的な仕事の領域、職人マインドで仕事をする技術者はとても多い。ソフトウェアなどその典型だろう。日本のIT業界がふるわないのだとしたら、それは技術力の低いプログラマのせいではない。もちろんプログラマが働かないせいでもない。プログラムの機能を顧客価値に変えて、お金を儲ける仕組みを構想できる経営者が、欠けているからなのだ。

もしもちゃんと儲けたかったら、どうすべきか。当然のことだが、人と同じ事をやっていたらダメだ。必ず、価格競争に持ち込まれる。他人を見習い、他社の後をついて行ってはダメだ。他人が思いつかないことをしなければならない。競争の果てにとった個別仕様の受注設計生産なんて、労力多く利益少なしだ。同じモノを作って売る方が効率が良いに決まっている。もちろん、個別仕様品それ自体はなくなるまい。だったら、少ないモジュールの組み合わせで、幅広い使用のバリエーションを生み出せるようにすべきだ。何より、顧客のニーズをリードしないで、どうやって高い付加価値が得られるのか?

本当にきちんと生産と販売(と開発)とが統合された仕組みをもてれば、その市場でオンリーワンの製品を作り、店の前には客が行列を作るはずだ。無理な安値競争の必要はなくなる。「三社相見積もりで」などという顧客には、「どうぞ他所でお買いください」とお引き取りを願う。こうでなければ、高い付加価値など生まれるだろうか。

では、仕組みという見えないもの(こと)を作るのは誰か? それに必要な資質は? 教育は?

「仕組みとはルールだ。だから法学を学んだ者が全体をマネージすべきだ」・・これが長い間、この国を支配してきたイデオロギーだった。むろん法学を学んだ、というのは、某・旧帝大(名前はあえて書かないが)の法学部を出ることを、事実上意味してきた訳だ。まあ法学というのは一種の概念体系だから、それを学んだ人はロジカルシンキングに長けている、ことは認めよう。だがシステムの設計(デザイン)とか、ビジネスの構造は、いつ学んだのか? もっとも、法学部に限らず、そんなものを教えてくれる学部が別にあるとも思えぬが。

そう。この国には、「『仕組みをつくる人』を育てる仕組み」が欠けているのだ。二重の欠落である。わたし自身が上等な商売人だとは、もちろん口が裂けても言えぬ。だが、少しだけは取り柄もある。「システム」というものが何か、ずっと長いこと考えてきているのである。わたしはこうした問題に興味を持つ人と、問題意識を分かち合いたいと思っているし、なるべく多くの人に、知り得たことを何とか伝えたいと願っている。そうして、システムを作れる人を育てるシステムを、なんとか一緒に作っていきたいのだ。


<関連エントリ>
 →「職人的であること、エンジニアであること」 http://brevis.exblog.jp/24607574/ (2016-08-21)


by Tomoichi_Sato | 2017-07-23 22:56 | ビジネス | Comments(0)