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カテゴリ:映画評・音楽評( 13 )

映画評:★★★ 「スティーブ・ジョブズ」

2016/06/07
機内TVにて。
監督:ダニー・ボイル、脚本:アーロン・ソーキン、編集:エリオット・グレアム、音楽:ダニエル・ペンバートン
出演:マイケル・ファスベンダー(スティーブ・ジョブズ)、ケイト・ウィンスレット(ジョアンナ・ホフマン)、セス・ローゲン(スティーブ・ウォズニアック)、ジェフ・ダニエルズ(ジョン・スカリー)、マイケル・スタールバーグ(アンディ・ハーツフェルド)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(19歳のリサ・ブレナン)、他
2015年アメリカ映画

スティーブ・ジョブズ (DVD)」 (Amazon.com)

近頃、これほど面白い、引きつける力の強い映画を観たことがない。機内TVの小さな画面で、ほんの試しに選んでみただけだったが、あっという間に引き込まれて一気に見てしまった。

映画の構成はシンプルである。ジョブズの生涯で最も重要な三つの製品発表であった、1984年のMacintosh、 1988年のNeXT、そして1998年のiMacの、プレゼンテーション開始直前のそれぞれ40分間を描く三部構成。登場人物たちもかなり重なっているので、時こそ飛躍はあるが、ほとんど古典演劇の三一致原則のような完成度を感じる。この単純なプロットで、スティーブ・ジョブズの公私にわたる複雑な物語と人格の成熟とを描き切った脚本・編集・そして演出の手腕は見事である。

ジョブズが傑出した人物だったことは多くの人が認めるだろう。だが個人的には自惚れが強く気まぐれで傲慢で独裁的で、しかも非常に傷つきやすい人間だった。自分のボスには到底仰ぎたくないタイプである。Macintoshプロジェクトの生みの親だったジェフ・ラスキンは、「現実歪曲フィールド」という、重力場をもじった造語で彼を形容している。それくらい強引なのだ。Macintoshは結局ジョブズが乗っ取って、マウスとGUIを前提としたコンピュータにしてしまう。

この映画では、シテ役のジョブズに対して、ツレ役のジョアンナ・ホフマンが連れ添って、彼と現実界のインタフェースを引き受ける。このケイト・ウィンスレットの演技はとても良い。ジョアンナは最初のApple時代に「ジョブズにもっと果敢に逆らった社員」賞を二度も受賞した人だ。広報マーケティング担当者として出てくるが、元はラスキンがMac開発チームに雇った人で、彼女がMacintosh User Interface Guidelineの最初のドラフトを書いたと、映画を見た後で知った。それはさておき彼女が、プレゼン前で極端に興奮するジョブズをなだめ、娘のリサと和解させようとしたり、次々とバックステージを訪れてくるウォズやスカリーらと話させる。この趣向が面白い。

もっとも、プレゼン前40分間という枠組みのため、とにかく皆を楽屋裏に呼び寄せなくてはならず、そこに無理があるとも言える。娘のリサが3回とも見に来ていた、などというのも明らかに脚色だろう。事実を元にした実名フィクションなのだから、その脚色の手腕をほめるべきだが、うっかりすると全て現実にあった話だと誤解する観客も出てくる。そこであえて廊下の壁に連想的な映像を映し出したりして、これはフィクションですと告げる。さすがである。

ビジネスマンとしてのジョブズのキャリアは、失敗続きだった。初期のApple II販売の成功を除くと(開発したのはウォズだ)、Lisaで失敗し、Apple IIIからも拒絶され、起死回生のMacintoshも高くて遅くて大赤字だった。プレゼン最初の音声デモは、アンディ・ハーツフェルドがメモリを512KBにこっそり増設して、やっと乗り切ったと映画は描いている。

結局彼は自分が呼んだスカリーに逆に追い出され、AppleをクビになってNeXT社を作る。だが肝心の製品Cubeは発表後1年経ってようやく売り出され(つまり未完成のままボストンであのプレゼンをやったのだ)、これも大赤字。しかしNEXTSTEP OSをAppleが買収する形で、古巣に舞い戻る。そこでも赤字のため首切りリストラを実行し、3度目の起死回生としてiMacを開発する。

iMacの成功によってジョブズは再び時の人となり、その後の快進撃は誰もが知っている。だから映画はその後は描かない。この映画の優れているところは、ジョブズ生涯の最後の成功を、彼の人間としての成熟に結びつけて暗示している点だ。その象徴として、娘のリサが三度にわたり登場する。いったんは親子の認知を拒否し、そのくせ新型コンピュータにはLisaの名前をつけ、しかし母子が経済的に困窮してもたいして面倒を見るわけでもない。

こうした彼の矛盾と弱さは、シリア人男性とアメリカ人女性の間の私生児として生まれ、里子として「返品された」という彼の出生時のトラウマに、そのまま直結している。その「返品」劇は、Appleの臨時役員会で彼が解任される時に、もう一度再演されるのだ。

大人になってから彼が経験する二度目の拒絶=Apple追放は、しかし赤ん坊の時と違って、本人が呼び寄せたものだ。彼があまりにも他人の感情を理解せず、無視したことから生じている。現実歪曲場の中心には、自分の感情だけしか存在しなかったのである。仕事の成果のみが彼の存在証明で、そのくせ、仕事では他人に働いてもらうことが必要だった。

じっさいジョブズほど、シリコンバレーで珍しい経歴の持ち主はいない。彼はエンジニアでも天才プログラマでもなく、MBAあがりのプロの経営者でもない。そうした仕事は彼の仲間だったウォズや、アンディ・ハーツフェルドや、スカリーが受け持ち、また逆の意味で旧敵ビル・ゲイツなどが果たしていたのだ。

では、スティーブ・ジョブズとは何者だったのか。大学も出ておらず、モノも製作できず、審美眼はあるかもしれないが、自分で絵を描いたりデザインをするわけでもなく、大企業の勤務経験もなく、技術も素人だ。こんなキャリアで成功できた人間が、シリコンバレーで他にいただろうか?

ジョブズにできたこと、ジョブズが持っていたこと、そして他の人間に足りないものが、一つだけあった。それは「一貫性」への強い執念である。あらゆる細部にわたって、彼は自分の思想と趣向にこだわった。ハードと、OSと、ソフトと、デザインがすべて首尾一貫していることを、彼は求めた。それがジョブズの製品と、大勢の亜流たちとの決定的な違いだった。そのことは、三回のプレゼンの準備過程にとてもよく現れている。思想の一貫性こそ、ジョブズがいつまでも現役でいられた秘密である。彼に比べるとウォズもスカリーも、いやビル・ゲイツでさえもはや過去の人だ、という印象をわたし達はぬぐえない。

ただし最初のMacも、二度目のNeXTも、一貫性の魅力はあったが、バランスに欠けていた。それが製品としての弱さだった。

iMacこそ、彼の製品がバランスを備えはじめた最初の例だ。それは彼の精神が、試練を経て、中庸を得始めたことの表れであると、描かれている。その証拠に、三度目のプレゼンに望む主演マイケル・ファスベンダーの顔は、実際の映像に残っているまだ中年のジョブズではなく、病気で痩せて哲人の風貌を帯びはじめた晩年のジョブズの顔をしているからだ。これこそ、演出上の最大のトリックであろう。それまで一切、他人の感情に歩み寄ることがなかった彼が、ようやく娘リサへの愛情に動かされて、和解に向けて足を踏み出してゆく。

だからその後、実際にiMacがヒットしたかどうかは、ストーリーとしては本当はどうでもいいことなのだ。彼が他者に愛情を与えることを通して、自分が必要とされていることを確信するところで、映画は終わる。そのことこそ、誰にも共通な、真の成功に向けた一歩だったからである。
by Tomoichi_Sato | 2016-07-04 22:36 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

映画評:★★★ 「それでも僕は帰る」、 ★★★ 「独裁者と小さな孫」

最近見た映画評をあと二つアップします。

★★★ 「それでも僕は帰る ~シリア 若者たちが求め続けたふるさと~」

横浜シネマジャック&ベティにて。

監督:タラール・デルキ、製作:オルワ・ニーラビーア、ハンス・ロバート・アイゼンハウアー
編集:アンネ・ファビニ
シリア/2013年/89分
公式サイト:http://unitedpeople.jp/homs/

2010年12月、チュニジアで始まった民衆の反政府・民主化活動は、独裁者ベン・アリ大統領の放逐にいたり、その動きは隣接する中東地域に飛び火していく。後にメディアが「アラブの春」と名付けた運動だ。シリアでも、長年にわたるアサド大統領父子の抑圧的な政権に対し、民主化要求が高まっていく。この映画は、そのシリアのホムス市で、反政府側にたって闘う若い男たちのドキュメンタリーである。

ホムス市はシリアの西部にあって、首都ダマスカスと北部のアレッポ市の中間に位置する国内第三の都市で、交通の要衝でもある。映画の中心となるのは、元サッカーのユース代表選手だったバセット青年と、その友人で市民カメラマンのオサマの二人だ。彼らは最初、非暴力的な抵抗運動に参画し、政府への民主化要求を訴えていく。

しかし2012年に入り、アサド政権の軍は反体制運動への暴力的な弾圧を強化する。そこでバセットは仲間とともに、武器を手にして闘いはじめる。彼を駆り立てるのは、自由への熱望と、郷土への燃え立つような愛情、祖国愛である。

政府軍は迫撃砲でホムス市街の建物を片端からすべてなぎ倒し、反政府派の立てこもる地区を包囲し兵糧攻めにしてていく。迫撃砲というのは文字通り、建物を破壊するための武器であり、大量殺戮のための道具だ。これはまったくの内戦である。政府軍が、自国民を相手に戦争を仕掛けているのだ。反応の薄い国際社会にいらだったバセット達は、いったん市の包囲網を脱出し、外部地域からの支援を求めに行く。そして映画の最後で、彼は志願した義勇兵の仲間とともに、トラックの背に乗って、再び決死の覚悟で故郷のホムス市に向かうのである。

この作品が製作されたのは2013年だが、現在も彼は存命ときく。ただホムスでIS側の勢力と闘っているとも、逆にISに忠誠を誓ったとも言われているが、不詳である。

この映画は中東の貧しい国・シリアにおける、正義感と郷土愛に燃える青年達の姿を活写したドキュメンタリーだ。映像も切実で美しい。だが、観に行くときには注意した方がいい。この映画では、作り物でない文字通り本当の内戦が映し出されている。目を背けたくなるような、ショッキングなシーンも少なくない。だが何よりも恐ろしいのは、次第次第に、主人公格の20歳の若者バセットの顔つきが変わっていくことだ。最後はもう、目つきが普通ではなかった、と一緒に観に行ったつれあいは感想をもらしていた。

いったん戦争と殺し合いを始めると、もう誰にも止められなくなるのだ。


★★★ 「独裁者と小さな孫」

渋谷Uplinkで。

監督:モフセン・マフマルバフ、脚本:モフセン・マフマルバフ、マルズィエ・メシュキニ
撮影:コンスタンチン・ミンディア・エサゼ、編集:ハナ・マスマルバフ、マルズィエ・メシュキニ
出演:ミシャ・ゴミアシュウィリ(大統領)、ダチ・オルウェアシュヴィリ(孫)、ラ・シュキタシュヴィリ(売春婦)、グジャ・ブルデュリ(政治犯)ほか
グルジア・フランス・英国・ドイツ/2014年/119分
公式サイト:http://dokusaisha.jp

傑作だ。脚本も、キャメラの構図も、編集も、そして出てくるグルジアの俳優たちも、とても良い。子役のダチ・オルウェアシュヴィリも素晴らしい。

監督のモフセン・マフマルバフはイラン出身だが、現在は故国から逃れて、ずっと外国で映画を製作している。この映画の撮影地はグルジアだ。念のために書いておくと、グルジア(英語名ジョージア)は旧ソ連のコーカサス地方に位置する国で、黒海に面している(さらにいうと、20世紀最大の独裁者の一人スターリンは、グルジア出身だった)。この映画の最後に、独裁者の元大統領が小さな孫を連れてたどりつくのが黒海の浜辺で、そこから他国に逃れる船を探そうとするのである。ただし映画には具体的地名は一切出てこない。東欧や中東ならどこにもありそうな、普遍的な地域の一つとして描かれている。

この映画は、予告編にもあるとおり、独裁者の大統領が、首都の街の明かりを電話一つで全部つけたり消させたりする象徴的なシーンで始まる。彼の権力を孫に見せてやるため、遊びでやるのだ。首都には石造りの歴史的な建物や、新しい近代的ビルなどが並んでいる。

その彼が、突然の政権崩壊と革命で首都を追われ、小さな孫を連れて逃亡する中で、次第に貧しい田舎の実相があきらかになっていく。そして皮肉にも、釈放された政治犯達と同道して海辺の村を目指すのだ。革命の後、国の権力は混乱し、地方では武力を持つ軍人たちが、したい放題の勝手をするようになる。そしてハネムーン旅行中のカップルをとらえて、花嫁を凌辱しようとたりする。その後のシーンは、ユーラシア大陸の古い風習を知らないと、分かりにくいかもしれない。多くの国では、若い女性の純潔を非常に大事にし、そこに一族の名誉をかける。名誉を汚されたら、命をもって償わせる必要があるのだ。売春婦という職業への侮蔑も、その文脈をもって見るべきである。

ただ、深刻なテーマを扱いながら、要所要所にユーモアがあふれていて、とても映画的な娯楽性の高い仕上がりになっている。具体的な政治メッセージは、何もない。独裁者が共産主義なのか資本主義なのか、キリスト教なのかイスラム教なのか無神論者なのか、一切わからない。わかるのは、独裁政治は愚かで、自分も国民も不幸に陥れるが、革命がすべてをすぐに解決する訳でもない、という真理である。

ストーリーには普遍性があり、見事だ。しかも非常にローカルな地域性を感じる風景の中に描かれている。映画として、まことに上級である。
by Tomoichi_Sato | 2016-03-25 23:04 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

映画評:★★★ 「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」

2016/01/11
逗子シネマアミーゴで。

監督・脚本:ジョン・マルーフ、チャーリー・シスケル
出演:ヴィヴィアン・マイヤー、ジョン・マルーフ、ティム・ロス、ジョエル・マイロウィッツ、メアリー・エレン・マーク
2013年 アメリカ映画(83分)
オフィシャルサイト:http://vivianmaier-movie.com
DVD: 「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」(Amazon.com)

すごい映画だ。なんだか頭を殴られたような衝撃を得た。過去1年に見た映画で、最もすごい作品だ。

2007年、シカゴ郊外で亡くなった無名の老女の遺品の中から、夥しい量の写真とネガが見つかる。生涯、乳母とメイドで暮らしてきた孤独な彼女が撮りためた写真は、その素晴らしさで、瞬く間に世間の注目を集める。この映画は、そのネガを掘り当てた本人ジョン・マルーフが自分で監督した作品だ。彼は残された手がかりをもとに、ヴィヴィアン・マイヤーという名前しか分からない不思議な女性の生涯を掘り起こすべく、証人を探して次々にインタビューしていく。

この映画は、そのインタビューと彼女の写真の集積だ。彼女の写真には、アメリカ社会の、いや、ほとんど普遍的な人間性の、活写がある。彼女は撮影にローライフレックスという、手持ち型のかわった二眼レフをつかっていた(彼女はしばしば鏡に映った自分自身の写真も撮っており、そこにはっきり写っている)。映画の中で専門家が言うのだが、このカメラは胸元にもってファインダーを上からのぞき込むタイプだ。だから「隠し撮り的な使い方に向いている」という。被写体が、写されていると意識しない瞬間をとらえることができる。

そのカメラがとらえだした、アメリカの市街を行き来する人々の表情は、その高貴さも残酷さも含めて、まことにリアルだ。フレーミングも天才的だといっていい。だが、彼女はそれをまったく発表しないばかりか、現像すらしていなかった。それはなぜなのか。彼女はどのような境遇に生まれ、どんな来歴の人だったのか。なぜしばしば偽名も使ったのか。この映画はそうした疑問を、一つひとつ手彫りで明かそうとしていく。アカデミー賞のドキュメンタリー部門候補になったのは当然だ。編集も撮影も素晴らしい。

ただ、天才的な写真の腕前とは対照的に、彼女の人生は次第に光彩を失って、貧困の中に追い詰められていく。そして先進国の中でアメリカ社会ほど、生存競争に負けた貧困者に対して過酷な場所は、ない。それは観光客や社用で訪問した人間には見えにくい世界だ。雇われ人のヴィヴィアン・マイアーには、健康保険はなかった。病気になったらどうするの?とたずねられたとき、彼女が答えたセリフは、

“Poor people are too poor to die.” (貧乏人には死ぬためのお金はない)

だった。

逗子シネマアミーゴは、カフェを兼ねた小さな映画館だ。海辺にあって、なかなか心地よい。連れ合いが「去年観た中で一番すごい映画」だと紹介してくれたので、休日にリラックスすべく観に行ったのだ。しかし、正直、映画の最後には、涙が出た。この映画はまだいくつかのミニシアターで上映される予定だ。DVDも発売されているが、ぜひ映画館のスクリーンで観るべきだ。写真と視覚芸術に少しでも関心のある出来るだけ多くの人に観てもらいたい。強く推薦する。
by Tomoichi_Sato | 2016-03-22 22:11 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

映画評:「イタリア映画祭2015」から

毎年、連休は「イタリア映画祭」を観るのが、このところの習慣になっている。今年も有楽町に通い、合計6本の映画を観ることができた。幸い、今回はどれも面白い、良い作品ばかりだった。まだ大阪では明日まで上映予定があるようなので、多少なりとも参考になればと思い、6本分まとめてアップする。
(いつものように、星の数で採点を表している。また、順番は観たのと逆順になっている)


★★★ ラ・パッシオーネ

2015/05/05
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督:カルロ・マッツァクラーニ 撮影:ルカ・ビガッツィ 出演:シルヴィオ・オーランド、ジョヴァンニ・バッティストン、カジア・スムートニアク、マルコ・メッセリ、マリア・パイアート、ステファニア・サンドレッリ ほか

これは本当に傑作だった。昨年1月に、57歳で亡くなったマッツァクラーニ監督を偲んで、今回のイタリア映画祭で特別に再上映された一本だが、これを再び映画館で見ることができて幸せだった。

もう5年間も新作を作れずにいる映画監督ジャンニは、トスカーナの田舎町に借りて持っている不動産の不始末が原因で、その町で受難劇を演出させられるはめになる。その町では貴族がスポンサーになって、復活祭の前の聖金曜日に、キリストの受難劇を町ぐるみで上演する伝統だった。だがその貴族が亡くなり、長らく続けてきた伝統がピンチに立たされたのだ(携帯の電波さえろくに届かない、この小さな町の女性町長役を、特別出演のステファニア・サンドレッリが好演している)。ところがジャンニは、いまやTVで売り出し中の若い女優のために、3日以内に新作映画のシナリオを書かなくてはならない約束なのだ。窮地に立たされた彼の元に、かつて刑務所で演劇講座を受講した元泥棒のラミロが現れ、受難劇の演出助手を受難劇を買って出ることになるが・・

この映画は、もちろんコメディである。だが、それにもかかわらず、この映画のクライマックスは正真正銘、キリストの受難劇である。マッツァクラーニ監督は、本当に受難劇がやりたかったのだ。助演のジョバンニ・バッティストンもすごくいい。つねにコミカルな悪役を演じる彼を、このような役で使おうとした監督の意図を受け止め、見事に演じきっている。シナリオも完璧だ。シーンの一つひとつにムダがなく、敢然一体となってコメディとドラマを作り上げている。言葉によるムダな説明を排し、俳優の表情のアップや、窓越しに見える影絵だけで、いろいろな事を伝えてくれるのは、まるで映画の手本であろう。

そしてルカ・ビガッツィの魔術的な映像美は、驚嘆に値する。彼は暗がりの中に光が差すような、コントラストの強い、いわばカラヴァッジョ的な構図の絵を撮らせたら天下一品である。また合間に入る空想的な雪のノルウェーの、清潔だが絶望感にあふれたシーン。受難劇で町民が着るコスチュームも、素晴らしい。音楽も美しい。

わたしがこれまでイタリア映画祭で見てきた数々の作品の中でも、これは三本の指に入る素晴らしい映画である。カルロ・マッツァクラーニ監督は生前、1本も日本で一般公開された作品がないらしいが、このような傑作が、このままライブラリーにしまわれてしまうのは、あまりにも惜しい。この作品の良さは、映画館の大きなスクリーンで観て、はじめて十分に味わえる種類のものだ。ぜひ、より多くの人が観られるようになることを望む。


 ★★ 幸せの椅子

2015/05/05
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督:カルロ・マッツァクラーニ 撮影:ルカ・ビガッツィ 出演:ヴァレリオ・マスタンドレア、イザベッラ・ラゴネーゼ、ジュゼッペ・バッティストン ほか

マッツァクラーニ監督の遺作。ベネチアの監獄で、エステティシャンの女性ブルーナが偶然、ある女囚の末期の遺言を聞く。自分の家の椅子の中に、財宝を隠してあるというのだ。恋人には裏切られ、不況のため自分のサロンが不振で借金取りに責め立てられる毎日を過ごす彼女は、その椅子を探して財を得ることで、幸せになろうと決心する。彼女は向かい側に店を出す入れ墨の彫り師ディーノの助けを得て、失われた8脚の椅子の行方を追うのだが、同じ遺言を聞きつけた監獄付きの神父も、彼らを出し抜こうと椅子の後を追うのだった・・

これもコメディだが、話がどこに行くのかちょっと分からない感じがある。ただ、最後に主人公たちが、雪の残る高い山頂目指してロバの背に乗って歩いていくシーンは、どこか、監督自身の生命の姿に重なるものがある。ルカ・ビガッツィの撮影は、映画によってはときにやりすぎに感じられることもあるが、この映画では抑制がきいており、しかも自然の美を出していて、とても良い。


 ★★ 僕たちの大地

2015/05/05
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督・脚本:ジュリオ・マンフレドニア 撮影:マルチェッロ・モンタルシ 音楽:マウロ・パガーニ 出演:ステファノ・アッコルシ、セルジョ・ルビーニ、マリア・ロザリア・ルッソ、イアイア・フォルテ、トンマーゾ・ラーニョ ほか

イタリアでは1996年、第109法令が成立し、犯罪組織から押収した財産を、公共的活動を行う団体に払い下げることができるようになった(ただしこの法案成立に尽力した議員は2年後にマフィアに暗殺される)。この映画はその法令によって生まれた、ある実話に基づくコメディ仕立ての作品である。

舞台は南イタリアのある地方。マフィアから没収した土地を、土地の若い女性が協同組合を作ってもらい下げ、耕そうとする。そこに北部の活動家フィリッポが支援にやってくる。だが彼は、農業のノの字も知らない。ほかに有機農法を夢見る中年女性アッズッラや、地域の半端ものや素人たちが集まって手伝おうとする。唯一、野菜やブドウの育て方を知っているのは、マフィアの小作人コジモだけであった。しかし、最初の収穫の喜びもつかの間、目に見えぬ嫌がらせのさなかに、裁判中だったはずのマフィアのボスが戻ってくる・・

マンフレドニア監督は2008年の作品『人生、ここにあり』でも、自閉症者による協同組合の話をとっており、なかなか傑作だった。本作品もいい話なのだが、シナリオがちょっとだけゆるい。笑いの場面と、マフィアがらみの脅しによる緊迫の場面との、緩急対比がもっときいていたら、ずっと良い映画になっていたと思う。でも出演する役者たちは、なかなか良い。気の強い女性ロッサーナを演じるマリア・ロザリア・ルッソも素敵だが、トンマーゾ・ラーニョのマフィアも、いかにも町の名士らしく、憎たらしい。とりわけ、敵か味方かわからぬ小作人コジモ(セルジョ・ルビーニ)が、いい味を出している。

ところで、エンディングロールを見ていて、音楽にマウロ・パガーニの名を見つけて驚いた。こんな映画音楽の仕事をしていたとは! ‘70年代のPFMというロックバンドの名前を覚えている人ももう少ないと思うが、彼はこのバンドのメンバーだった。その後ソロになり、いかにも地中海音楽的なテイストのアルバムを出したりしていた。クラシック、古楽、ジャズ、民族音楽と、はば広いジャンルのクロスオーバー的な冴えを見せる芸達者な人だったが、ともあれ久しぶりに彼の名前を見つけて、とてもうれしかった。


★★★ 人間の値打ち

2015/05/04
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督・脚本:パオロ・ヴィルズィ 撮影:ジェローム・アルメラ 出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、ファブリツィオ・ベンティヴォッリョ、ヴァレリア・ゴリーノ、ファブリツィオ・ジフーニ、マティルデ・ジョーリ ほか

これは傑作だった。シナリオがいいし、キャスティングも上等、緊張感もあって観客を最後まで引き込む。素晴らしい出来である。アカデミー賞外国語映画賞のイタリア代表作に選ばれ、ドナテッロ賞をはじめ世界で数多く受賞したのもよく分かる。

タイトルの『人間の値打ち』Il capitale umanoは、英語でhuman capital(人的資本)、すなわち保険用語で死亡事故に払う「人の値段」のことを指す。映画の冒頭、自転車に乗った人物が、不運な事故にあい、道端に転落する。この事故をめぐって、三つの家族の命運が交差する。ひとつは地元の不動産仲介業者ディーノと、彼の後妻と、高校生の娘セレーナ(彼女名義で失踪した母から受け継いだ資産を持っている)の三人家族。二番目は山上に巨大な邸宅を構えるベルナスキ(貴族の末裔で投資ファンドを経営する)と、妻で元舞台女優のカルラ、そしてセレーナと高校で同級の息子の三人家族である。三番目は、大麻不法所持の濡れ衣をかぶって学校からつまはじきにされている孤児ルカと、彼の面倒を見ているアル中の叔父だ。

上流、中流、そして下層階級の三つの目から、同一の事故シーンと顛末をふりかえり、次第にその真相が明らかになっていく。ここは非常に映画的であり、見事だ。ちょっとだけ米国映画『エレファント』をも思わせるのは、親世代を中心としたドラマと思わせながら、問題の焦点が高校生の子ども世代にあるからだろう。とくに微妙に揺れ動く女子高生セレーナ役を、マティルデ・ジョーリが好演している。

それにしても出てくる男がほとんど皆、感情移入できない奴ばかりであるのは、どういうことだろうか。不況の中、騙しと我欲とかけひきで生きのびるしかない、イタリア社会の暗示なのだろうか。ともあれ、最初から最後まで、息をつぐ暇もなく謎に満ちたストーリー運びは見事である。見て得した気持ちになる映画だった。


★★★ いつだってやめられる

2015/05/04
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督・脚本:シドニー・シビリア 撮影:ヴラダン・ラドヴィッチ 出演:エドアルド・レオ、ヴァレリア・ソラリーノ、ヴァレリオ・アブレア、パオロ・カラブレージ ほか

イタリア映画祭で2本目に観たのがこれ。1本目が良くできたコメディだったので、比較してどうかなと思ったのだが、さらにアップテンポで上質のコメディだったから恐れ入った。これが初監督作品という若手シドニー・シビリアも、大した才能である。イタリアでスマッシュ・ヒットとなったのもよく分かる。

優秀な神経生理学者でありながら、ポスドクとして大学の不安定な地位で生活している主人公ピエトロは、予算カットのあおりを食って、ある日突然職を失う。しかし同棲中の恋人ジュリア(麻薬中毒患者相手のセラピストの仕事をしている)に打ち明けられない彼は、自分の知識を使い、合法ドラッグを作って売りさばくことを思いつく。彼が声をかける仲間は、中華料理屋の皿洗いで暮らす化学者アルベルトをはじめ、ポーカー賭博で一山当てようとする数理経済学者、ガソリン・スタンドの夜勤で働くラテン語学者二人組、道路工事監督の考古学者など、いずれも知識と頭脳を誇りながら不遇な研究者たちだった。彼らが合成したドラッグは高い品質で一気に売れていく。ピエトロはそれでも、やばくなったらいつでもやめられると思っているが、ある日彼らは、麻薬マフィアのボス・ムラーノの縄張りに触れてしまうのだった・・

不遇な研究者達がギャング団を結成する話で、大学の非常勤講師である自分もつい思わず引き込まれて見てしまったが、コメディとしてのテンポが軽快で大いに笑えた。オチの付け方も見事である。それにしても、コメディ『生きていてすみません』も本作も、その本質的な主題は、不況と就職難である。いやはや、イタリア経済も病気だな。しかし、それを笑い飛ばせるところがイタリアの健康さだが。


★★★ 生きていてすみません

2015/05/04
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督:リッカルド・ミラーニ 撮影:サヴェリオ・グアルナ 出演:パオラ・コルテッレージ、ラウル・ボヴァ、コッラード・フォルトゥナ、ステファニア・ロッカ ほか

今年のイタリア映画祭で観た最初の1本がこれ。才能に恵まれ、若くから海外で活躍していた女性建築家セレーナが母国に帰国する。しかし彼女を待っていたのは不況による極度の就職難と、男社会の伝統だった。レストランでアルバイトをしながら苦心惨憺しつつ、ある巨大集合住宅のリノベーション・プロジェクト案を応募し、見事に当選する。しかし、それは男性の作品と間違えられてのことだった。しかたなく、ゲイの友人フランチェスコに、日本へ長期出張中の建築家に扮してもらい、彼女はその助手という設定で、なんとか設計作業を続行するが・・

女性建築家の奮闘を描いたコメディで、とても楽しい。この作品では主人公のセレーナも友人フランチェスコも自分を隠して生きている。そればかりか、気がつくとほとんどの人間が、小さな嘘をつきながら生きているのだ。そうでないのは、裸の王様じみた大御所建築家のみである。だからタイトル『生きていてすみません』Scusate se esisto! の意味はむしろ、「こんな私ですみません」なのだろうと思う。

カメラ、コマ割りは的確で、余計な言葉の説明なしで観客に状況を伝え、しかも笑いを誘う。主演のパオラ・コルテッレージは脚本にも協力し、歌もうまいし、非常に芸達者な女優である。男尊女卑的な大御所建築家の秘書を演じるステファニア・ロッカの演技も渋くてとても良い。見て良かった映画である。
by Tomoichi_Sato | 2015-05-09 21:38 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

男声アンサンブル・ミニコンサートのお知らせ(11/24 午後@荻窪教会)

直前のお知らせになってしまいましたが、7年ほど前から参加している少人数の男性アンサンブルが、11月24日(祝)午後3時から、荻窪教会で、ささやかなコンサートを開催します。
参加無料です。

「アンサンブル・ハイブリッジ」第5回ミニ・コンサート

日時:2014年11月24日(祝) 14時30分開場
場所:荻窪教会(杉並区荻窪4-2-10)
曲目:
 第1部 男声合唱愛唱曲
    (希望の島、お爺さんの古時計、三羽の烏他)
 第2部 ロシア民謡の世界 
    (ともしび、モスクワ郊外の夕べ、ステンカラージン他)
 第3部 古楽の響き
    (バード作曲「3声のミサ」より Kyrie, Sanctus, Agnus Dei、
     ラモー「夜への賛歌」)
 第4部 バロックの曲をスイングします
    (バッハ:Swinging "Anna Magdalena"、
     シャルパンティエ:Swing the "Prelude")

よかったらぜひおいでください。
当日、いきなり会場においでいただいてもかまいませんが、わたしまでご連絡いただけるともっとうれしいです。

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このアンサンブルは、声楽家・発声指導家の高橋康人先生の元に集まったメンバー6名で現在のところ構成されています。月3回、土曜日の午前に練習しながら、ここまで活動を重ねてきました。

前にも書いたことですが、プロのソプラノ歌手Yさんの紹介で、声楽指導家の高橋康人先生にはじめて出会ったのは10年近く前でした。その頃わたしはある合唱団で歌を唄っていたのですが、我流の発声に限界を感じて、プロの先生に見てもらいたいと思ったのです。

とはいえ、単なる素人が個人でレッスンを受けるのは費用もかかりますし、モチベーションも続かないし、と思っていたところに、高橋先生の方から、「男声のアンサンブルを作ったから参加しませんか」との誘いがありました。わずか数人のアンサンブルですから、練習の中でも、ほとんど個人指導に近いアドバイスをもらえます。それに、やはり音楽は声が重なった方がずっと面白いですよね。

上手な演奏を聴きに来てください、というのではなく、“自分も歌をやりたいが、こういう形の歌の練習の場もあるのなら、参加してみようか”と知っていただくチャンスとして、おいでいただければと思っています。メンバーの中には他の合唱団でも活躍中の者もいますが、まったく未経験ではじめた者もおります。参加資格は、歌を歌ってみたいという気持ち以外は、特にありません。繰り返しますが、コンサートは無料です(^^)。
by Tomoichi_Sato | 2014-11-15 15:59 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

カンタータ演奏会のお知らせ(8月10日午後2時)

ひどく直前の、かつ天候不明瞭な中のお知らせで恐縮ですが、明日、小さな演奏会に出ます。
佐々木正利先生の「バッハセミナー in 明日館」という、毎年夏の4日間のセミナー参加者による、修了演奏会です。

会場は目白の自由学園明日館の講堂(池袋徒歩4分)。「明日館」は、フランク・ロイド・ライトの設計した、とても趣のある美しい建築です。来年から大規模補修工事に入るため、しばらくは中を見ることができなくなります。

曲目はバッハのカンタータ3曲。器楽は当代きっての名手の方にお願いしています。
バロック時代の声楽が好きな方や、ライトの建築に興味がある方、もしご都合がつくようでしたら、ぜひお出でください。入場は無料です。

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8月10日(日)13:30開場 14:00時開演 入場無料
自由学園 明日館 講堂
指揮 佐々木正利
ヴァイオリン 川原千真
チェロ    田崎瑞博
ヴィオローネ 寺田和正
オルガン   能登伊津子
フラウト・トラヴェルソ/リコーダー 稲葉由紀・国枝俊太郎
合唱 セミナー受講者
独唱 オーディション選抜者(受講者より)
J.S.バッハ作曲
カンタータ12番「Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen」
カンタータ120番「Gott, man lobet dich in der Stille」
カンタータ215番 「Preise dein Gluecke, gesegnetes achsen」
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PS.
なお、このセミナーは完全な自主運営で、わたしも少しだけ運営を手伝っています。
あいにく、わたし自身はソロは歌いませんが、かわりに(?)開演の挨拶をする予定です。
http://ishiilab.net/~ishii/sasabach/index.html
by Tomoichi_Sato | 2014-08-09 23:21 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

映画評:「イタリア映画祭 2014」 その(1)

イタリア映画祭」は、毎年5月の連休中に開催される、イタリア共和国後援の映画祭である。会場は例年、有楽町朝日ホールの1箇所のみで、そこで約10本のイタリア映画が2回ずつ公開される。こぢんまりした映画祭だが、監督や俳優なども招待され、上映後には質疑応答の時間もあって、コミュニティ的な良さがある。わたし自身も、このところ毎年のゴールデンウィークの楽しみになっている。今年は連休が前半と後半に分断されたため、映画祭も途中数日間をあけてスケジュールされた。

今年はとくに豊作で、良い映画がそろっていたようだ。イタリア映画界も一時の沈滞を脱し、すぐれた作家・俳優が注目を浴びるようになったのだろう。本国は経済危機にあえいでおり、その話題も今年の映画のあちこちに散見されるが、にもかかわらず映画自体に活況があるのは喜ばしい限りだ。

ことしは6本の映画を観たが、そのうち、最初に見た3本をまずご紹介する。★印はいつものように、3つが満点である。
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★★★ 初雪

監督:アンドレア・セグレ 撮影:ルカ・ビガッツィ 出演:ジャン=クリストフ・フォリー、マッテオ・マルケル、アニタ・カプリオーリ他

リビア内戦のために住みなれた地を脱出し、ボート・ピープルとして地中海対岸のイタリアにたどりついたアフリカ系の難民は1万人に及んだ。彼らを一箇所に収容しきれないため、イタリア政府は、全国各地に分散させた。難民認定までの暫定的な期間は、移動の自由もなく、定職にも就けず、わずかな配給で暮らさなければならない。

この映画は、北イタリアの山地にある寒村に移された、トーゴ出身の若い父ダニーの物語だ。彼は妻と一緒に逃れたのだが、妊娠中の妻は逃避行の途上で女の子を出産し、亡くなってしまう。小さな娘の顔を見るたびに、妻を死なせた自分を責めずにいられない彼だが、山に暮らす男の子、その祖父、そしてその母との交流の中で、すこしずつ自分の感情をとりもどしていく。しかし、そもそも住民にもろくに仕事がない寒村で、難民認定を受けてどうすべきか。我が子を捨ててパリなどの大都市に行くのか? (リビアなど旧フランス語圏の出身者はパリに、英語圏出身者はロンドンやドイツをめざすものが多いが、もちろん大都市が彼らを歓迎してくれるわけではない)

もともとリビア内戦は、EUが関与してもたらしたのだが、その負の結果が、難民の苦難の形で、欧州自身にはね返っている。この映画は、しかし、そうした政治的なことがらではなく、故郷を離れ、家族を失って、かつ生きていかねばならない人間の、孤独と困難の普遍性を描いている。スイス国境近く、ほとんどドイツ語に近いイタリア語方言を話す人びとの素朴な暮らし(少年を含む殆どの出演者は地元の人だ)と、その自然の美しさは、胸を打つ。アフリカ系フランス人の主演ジャン=クリストフ・フォリーの演技もいい。また、ルカ・ビガッツィの撮影する、ほとんど魔術的な美しさは感動的である。

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★★★ 多様な目

監督:シルヴィオ・ソルディーニ 撮影:ラミロ・チヴィタ 音楽:ルカ・カゼッラ
出演:
理学療法士 エンリコ・ソージオ
鉄工所経営者 ジョヴァンニ・ボジオ
音楽学生 ジェンマ・ベドリーニ
音楽家 ルカ・カゼッラ
彫刻家 フェリーチェ・タッリャフェッリ
身障者支援ITコンサルタント ピエロ・ビアンコ ほか

イタリアの視覚障害者たちの多彩な人生をえがいた、驚嘆すべきドキュメンタリー映画。彫刻、音楽、理学療法から、趣味のヨット、スキー、アーチェリー、写真(!)まで、驚くべき数々にチャレンジし続ける視覚障害者たちの生き方を、障害者ものにありがちな「感動物語」をあえて避けつつ、淡々と、でも詩的に描く秀作である。

わたしは学生時代に、点訳ボランティアサークルにかかわっていたので多少知っているが、視力を失った人びとの日常生活には、さまざまな困難が横たわっている。この映画でも、時折、数十秒から1分程度だが、画面を真っ暗にして、ただ周囲の音声だけを流し、電車の乗り換えや、道路を渡るときなどの状況を観客が追体験できるようにしている。

とはいえ、ITの進歩は、視覚障がい者の情報支援を向上させてきたことも事実だ。映画の中では、点筆と点字板や、古くて重たい点字タイプライターも出てきたが、WindowsやiPhoneなどの読み上げ機能を利用して使いこなす姿も写される。

何よりも、この映画を観てあらためて気づいたのは、年齢がいくつになり、どんな境遇になっても、「それまでできなかったことが、できるようになる」=『成長』こそが、人間にとって最も喜ばしいことだ、という真実であった。それを気づかせてくれるだけでも、この映画は多くの人に見てもらう価値がある。

できれば、字幕ではなく、(視覚障害者も聴けるように)音声による日本語吹き替えをつけて、全国で上映可能なDVDにしてくれることを切望する。


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★★★ ようこそ、大統領!

監督:リッカルド・ミラーニ 撮影:サヴェリオ・グアルナ 出演:クラウディオ・ビジオ、カシャ・スムトニャク、オメロ・アントヌッティ他

今年のイタリア映画祭は、なかなか良い作品が多かったと思う。この映画も、上出来のイタリア式喜劇であり、大いに笑えた。政治を扱いながら、お腹の底から大いに笑える映画が、昨今どれだけあるだろうか?

イタリアでは首相が政治の実権を握るが、元首として大統領職がある。議会の投票で決まるのだが、主要会派の妥協がつかないため、嫌気のさした多くの議員は、棄権する代わりに、19世紀半ばのイタリア統一の英雄である故「ジュゼッペ・ガリバルディ」の名前を書いて投票する。ところが、これが一位になってしまい、しかたなくその名前をもつ国民を捜すと、有資格者は北イタリアの山間の村に住む図書館員(クラウディオ・ビジオ)一人だけだと分かる。結果として田舎者の彼が、突如としてイタリア共和国大統領に就任するのだが、老獪な政治ボスたちは一致団結して彼を排除する工作をはじめる・・

この作品の可笑しさは、役者クラウディオ・ビジオの演技に負うところも大きい。しかし何より、近年のイタリア政界の醜悪なごたごたに、いかに国民が絶望しているかを、逆に表しているとも言えよう。ただ、その政治の醜悪さは、国民のずるさを反映している、との視点も、この映画は忘れていない。最後の、クラウディオ・ビジオの大統領演説は、チャップリンのかつての名作「独裁者」の最後の演説を、ちょっぴり思い出させるくらい、感動的だ。そしてもちろん、皮肉の効いたハッピー・エンド。いかにも楽しい、喜劇らしい喜劇映画である。

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なお、イタリア映画祭は5/10-11に大阪でも開催される。関西の方はまだ間に合うと思うので、興味があれば観に行かれることをお勧めする。ことしは秀作ぞろいである。
by Tomoichi_Sato | 2014-05-06 14:25 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

映画評:「いとしきエブリデイ」「サラエボ、希望の街角」

久しぶりに映画評を二つ。

★★★ いとしきエブリデイ

新百合ヶ丘 アルテリオシネマにて。
監督:マイケル・ウィンターボトム、出演:シャーリー・ヘンダーソン(カレン)、ジョン・シム(イアン)、 ショーン・カークほかカーク家の4兄弟

原題は"Everyday"。
とても素晴らしい。何か大げさな事が起きる訳ではないが、しみじみと心に染みる映画だった。
5年間かけて、ある家族の年月を描く。冒頭、母が子ども達を連れてロンドンまで行く。建物の入口で、刑務所に収監されている父に会いにきたことが説明抜きで観客に分かる。子どもが面会ホールの父親に駆け寄るシーンの撮影が素晴らしい。父の長い不在を耐えつつ、4人の小さな子ども達が、本当に少しずつ成長していく姿を追って、まるでドキュメンタリーのような味わいがある。マイケル・ナイマンの音楽も文句無しに美しい。

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★★★ サラエボ、希望の街角
BSにて。
監督:ヤスミラ・ジュバニッチ、出演:ズリンカ・ツヴィテシッチ(ルナ)、レオン・ルチェフ(アマル)、エルミン・ブラヴォ(バフリヤ)ほか

昨年秋、縁があってクロアチアに行った。旧ユーゴスラビアは初めてだ。ユーゴ崩壊後の内戦から20年あまり。街はもちろん復興していたが、それでも塔の上から家々の瓦を見下ろすと、新旧まだら模様の色の違いに、砲撃戦の傷跡をうかがうことができた。

サラエボはその隣、ボスニア・ヘルツェゴビナの古い首都だ。ここはクロアチア系とセルビア系とイスラム系の三民族が相争った場所でもある(三つの民族と行っても、言葉は事実上同じだし、風俗も習慣も文化も共通していて、外見ではほとんど分からない)。この映画は、その街で暮らすルナとアマルの男女二人の、すれ違っていく生活を描いていく。ルナは飛行機のキャビン・アテンダントとして働いている。パートナーの男性アマルは管制塔の職員だが、勤務中の飲酒をとがめられて職を解かれる。アル中になりかけているのだ。しかし、彼はかつて内戦の時には国軍の勇士であった。

物語が進む内に、しだいに彼らは二人ともイスラム系であることが判ってくる。そして、アマルはかつての戦友に再会することで、そのすすめに従って街から遠く離れた湖畔のキャンプで働くことになる。そのキャンプは、じつは超保守派のイスラム教徒の共同生活キャンプであった。男女は別に暮らし、女性は(中東で見かけるような)黒い衣で全身を覆っている。そして彼も次第に影響されるようになる・・。一方、ルナの方は、祖母を訪れて面倒を見ているのだが、かつて内戦で故郷の家を追われ、両親も殺されたことが会話を通して観客にも分かってくる。そして、彼女はかつて自分が子ども時代に暮らしたその家をもう一度、一目見たいと願って、今は一応平和な故郷の地に向かうのだが・・。

この映画の主要な魅力は、ルナを演じるズリンカ・ツヴィテシッチの、女優としての美しさにある。ジュバニッチ監督は、それを控えめな演出で見事に写し取ってくれた。

それにしても、ボスニアとはなんと難しい社会だろうか。国を三つに分断した内戦から10年たち、20年たっても、まだ人々はその傷に苦しんでいるのだ。そして、近親憎悪にも似た感情を互いに抱えつつ、共存を図らなくてはいけない。自分のアイデンティティ、自尊感情の根拠は、出自の氏族であり地域であり、宗教である。だが長き共産主義の時代をくぐり、今は工業化した社会で、宗教だけに純粋に頼るのも難しい。

この映画の原題は「途上にて」。そして、登場人物達は、誰もが何かを探している途上にある。それは内戦を経て失ってしまった何かなのだ。主人公の男性アマルが最初アル中だったのも、その代わりに復古主義的な宗教に頼るのも、何かをずっと探しているからだ。彼は最初、自分自身を許せずにおり、キャンプから戻ってからは他人を許せなくなっている。そのことがパートナーとの溝をつくる原因であるにもかかわらず。ルナの方は、ずっと不妊の治療を受けているが、これもまた自分にとっての探し物であった。子供たちを殺された祖母も、宗教キャンプに誘うかつての戦友も(彼がモスクで唄うボスニアの古い歌は本当に美しい)、皆が探し物の途上なのだ。だから、これを「サラエボ、希望の街」と訳した配給会社は、ある意味でとても偉いと思う。



by Tomoichi_Sato | 2014-01-06 20:23 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

映画評:「風立ちぬ」

スーパーの中で荒井由美の「ひこうき雲」が流れていた。宮崎駿の映画『風立ちぬ』の主題歌(エンディング・テーマ)として使われているからだろう。1973年、今からちょうど40年前の曲である。

若い頃の荒井由美は歌詞がとてもうまい。説明的なことはすべて省いて、それでも聴いている者にはその情景が思い浮かぶ。そういう詩的な才がある。「白い坂道が 空まで続いていた ゆらゆら陽炎が あの子をつつむ」ではじまるこの歌は、とても静かな曲である。歌詞のキーは、“他の人には分からない” だ。「分からない」という言葉だけは2回繰り返され、「・・けれど、幸せ」とつづく。

この曲は、他人には分からない、孤独な世界で、それでも幸せという感情を唄っている。それは、「みなが分かり合い、みんな一緒に幸せになれる」と信じていた'67年〜'71年までの、若者の反抗の時代が終わった後につくられた、心の歌だ。いかにも、宮崎駿の最後の映画にふさわしい幕切れではないか。

風立ちぬ』を映画館で見てきた。いろいろな意見や感想があるが、わたしは楽しんだ。少なくとも、映画館でロードショウの代金を払って見るには値する。ゼロ戦の設計者が主人公の、実話に基づく映画ということで、大画面にたくさんゼロ戦が飛び交う、飛翔感あふれるシーンを期待して見に行った人たちは、たしかにがっかりしたろう。ゼロ戦はほんのちょっぴりしか出てこない。かわりに、中盤かなり長々と、主人公と、結婚相手となるヒロインとの話が続く。宮崎駿って、夫婦の物語を描きたかったのかあ。そう思って、ちょっと驚いた。

おまけに、この映画には飛行機自体はたくさん出てくるが、飛翔感はきわめて乏しい。ほとんどのシーンは仰角で、地上から見上げているからだ。いや、普通の人物のシーンでさえ、宮崎映画では異例なほど、仰角による下からのアングルが多い。映画評論家の佐藤忠男の本で読んだが、上から人々を見下ろすアングルは神の視点をあらわし、仰角で見上げるアングルは、押し迫る運命に雄々しく立ち上がる人を描くときに、つかわれることが多いらしい。

若い頃の宮崎映画は、意に染まぬ相手を強いられ、耐える女の子を描いてきた。「カリオストロ」しかり、「ラピュタ」しかり。この映画でも、結核という不治の病に苦しむ女性をえがいてはいる。だが、それでも思いを遂げて、大好きな主人公と結ばれる。そこが、大事な点だ。宮崎駿自身は70才をこえた今でも毎日、愛妻弁当をもって仕事場に行くのだそうだが、ようやっと、夫婦の話をかく気持ちになったのかもしれない。

この映画を面白いと感じたもう一つの大きな理由は、機械エンジニアが主人公になっている点だ。現代のドラマや劇や映画で、エンジニアが主人公のものがどれだけあるだろうか? エンジニアはとっくの昔に、「かっこいい」職業から脱落してしまったのだ。しかしこの映画では、そのエンジニアの生活、夢、悩み、組織などが語られていく。アイデアのひらめき、計算の忍耐力、配下の作業者達を引っ張る力、そして、こいつにならば賭けてみようと上司や顧客や投資家に思わせる説得力。こうしたものが、優秀なエンジニアの特質だ。とくに航空工学は、構造と機能を「形」で橋渡ししなければならない。このため、建築や土木などと並んで、デザイナーという職業にむしろ共通な点が多い。ここに、この物語の最大のポイントがある。

宮崎駿の引退記者会見を読むと、この人は自分を何よりアニメーターとして任じていることが分かる。アニメーション監督にはいろいろなスタイルがある。同僚の高畑勲監督は演出をやりたくてこの世界に入った人だが、自分は絵を描くことが原点にある。そういう意味のことをいっている。原作・脚本・監督を兼ねる宮崎という人は、ストーリーの結末がどうなるか自分でも知らないまま、映画を作っていくらしい。そして絵コンテを自分で描きながら、1シーン1シーン考えてつないでいく。この映画の中で、三菱内燃機に就職したばかりの主人公二郎に対し、上司が「すぐ製図台に向かって図面を書いてくれ」と命じ、その後ろから「出図が足りなくて製作班の手が止まりそうです」と声がかかるシーンがあるが、これはまさにジブリの中で、宮崎の絵コンテをめぐって起きている騒動の戯画なのだろう。

アニメーターは単純な職業で、今日は風をうまく表現できた、光の反射がうまく描けた、それだけで2〜3日は幸せになれるのがアニメーターだとも彼は言っている。じっさい、この映画は、ありとあらゆる種類の風の表現に満ちている。草むらを分けて吹いてゆく風、帽子や傘を飛ばす風、紙ひこうきの風の揺らめき・・。ちょうど前作「崖の上のポニョ」が、水の表現の集大成だったのと好対照だ。

そして、人々がまだしも穏やかだった時代の、礼儀を含むゆったりした時間の流れ。これをアニメーションで描けるのは、もう宮崎という人の他にはいなくなってしまった。だからこそ、結末に向けた求心力の強いストーリーではなく、エピソードを淡々と重ねていくスタイルが似合っているのだろう。

夢は狂気をはらむ。美に傾く代償は少なくない」と企画書の中で、彼は書く。それを知りながら、なおかつ最高の設計、最良の表現を求めて、主人公もヒロインも(そして作者も)駆け抜けた。だから、どんな結末になろうとも、この映画は「けれど、幸せ」と歌って消えていくのかもしれない。まさに、ひこうき雲のように。
by Tomoichi_Sato | 2013-09-14 00:41 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

音楽評:古典四重奏団「フランツ・シューベルト弦楽四重奏曲集」

2012/10/25
上野・東京文化会館小ホールにて。
川原千真(Vn.1) 花崎淳生(Vn.2) 三輪真樹(Va) 田崎瑞博(Vc)
曲目:
シューベルト 弦楽四重奏曲ハ短調 D703「四重奏断章」
シューベルト 弦楽四重奏曲変ホ長調 D87
シューベルト 弦楽四重奏曲ニ短調 D810「死と乙女」

「ムズカシイはおもしろい!!」と題する、レクチャー付きコンサート。古典四重奏団はわたしが10年以上前から追いかけて折々聴いている、気鋭の中堅音楽家たちによるカルテットだ。トップの川原さんがパンフレットの解説を書かれるのが常だが、これはいつも、そこらの音楽批評家の文章よりもずっと知的で、面白い。また、レクチャーはだいたい田崎氏の企画と解説で進められ、これも機知に富んでいて魅力的だ。

今回も最初に「シューベルトらしさとは?」というレクチャーがついており、シューベルトのニ長調D74のメヌエットからはじまり、途中クイズや他の作曲家との比較などを交えて、シューベルトらしさをいろいろな角度から照射してみる。クイズでは、有名な最晩年のピアノソナタ・イ長調における第4楽章のテーマを、オリジナルと、田崎さんが後半を変えて作曲したものとで比較してどちらがシューベルト作かを聴衆に当ててもらう、という趣向。あの、たおやかなイ長調のテーマを、ピアノでなく弦楽四重奏で演奏すると、こちらも素晴らしい味わいになるのであらためて驚く。シューベルトは歌の作曲家と思われているが、じつは不思議と抽象度の高い音楽を作っていることが、このことから分かる。リストやベートーヴェンと似た曲を比較しても、シューベルトがある意味、慎ましやかで大げさなところのない音楽を作る人だ。ブルックナーの第4交響曲のコーダ(これをカルテットで演じるのはたいした力業だが)も、非常に面白い。

レクチャーの後、ふつうの演奏会形式のコンサートが行われる。シューベルトがちょうど上り調子のときの「四重奏断章」は、たしかに従前のウィーン古典派風形式から頭一つ飛び出した緊張感がある。他方、10代の頃の変ホ長調 D87は、まあいかにも“シューベルトらしい”と感じる平明さに満ちている。

ただ、シューベルトの弦楽四重奏は、第一バイオリンが曲をリードして他の楽器がオブリガートする、単純なモノフォニック構成(ほとんどコンチェルト的)になっており、ある意味、他の楽器との対話による面白さが薄いようにも感じられた。第2ヴァイオリンの花崎さんはつねに渋めの音色で、ある意味、第1よりも低い音程感をとっており、その点ではこうした平明なシューベルトの楽曲ではちょっと詰まらなそうに聞こえてしまう。

ところが、有名な「死と乙女」では、4人の緊張感がはげしくぶつかり合って、素晴らしい出来だった。第2楽章の変奏曲も、対立的な線のからみがきいていて、劇的な表現を生む。冒頭から最後まで、運命を暗示する三連符がこの曲を支配する訳だが、それは4つの楽器をときどきに渡って全体を引き締める役目を持つ。生演奏でのみ感じ取れる、活き活きとした音楽のドラマがそこにある。実に素晴らしい。

知的な面でも、感情の面でも、とても充実感のあるコンサートだった。今後も期待したい。
by Tomoichi_Sato | 2012-11-04 00:07 | 映画評・音楽評 | Comments(0)