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書評:「見えないものと見えるもの」 石川准

見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学


本書は、医学書院「ケアをひらく」シリーズの一冊である。著者は気鋭の社会学者で、私の旧知の友人でもある。全盲でありながら、彼はこの浩瀚な書物をわずか2ヶ月で書き上げた、とあとがきにある。そのせいか、この本はいわゆる専門書よりもエッセイに近いスピード感もあって、とても読みやすい。

私は「感情労働」という概念を、この本ではじめて本格的に知った。感情は人間という生物に生まれつき組み込まれたセンサーであるが、自由にオンにしたりオフにしたりできる装置ではない。そこで適切に感じるように(適切さの範囲は社会が「感情規則」というルールとして暗黙に定めている)、自分をコントロールする必要が出てくる。これを感情管理というらしいが、職務として求められる感情管理を、『感情労働』と呼ぶのである。

19世紀の工場労働者が肉体を酷使されたように、感情が商品となることが定着した今日、ある種の労働者たちは感情を酷使されている。その代表例は接客業や役者である。しかし、著者が本書で主題とするのはナース(看護師)たちである。なぜなら看護師たちは、専門職の労働者でありながら、同時に過酷な感情労働を裏側で要求されるからだ。

高度な感情管理を要求する社会では、本物の感情が希少価値をおびてくる。その行き着く果てでおこる感情労働の破綻は、人間を暴力的にさえする。そこでアシストと社交、さらに感情公共性と脱社交という概念をもちい、「高度に文明化された社会」、あるいは配慮の平等な社会、という青写真を提出する。

本書ではまた、オープンソース活動のプロジェクトが金銭的報酬系ではなく『評判ゲーム』によって駆動されていると指摘し、評判ゲームにより駆動される贈与文化は、じつは高品質で創造的な共同作業を促す最適な方法かもしれない、と考察する。他にも、セクシュアリティの脱規格化や、ネットオークションの奇妙な魅力、地域通貨など、人と人をつなぐ様々な仕組みとあり方について体験や対談も交えて分析していく。

本書に述べられているのは、損得と目的合理性で人間を規定した非協力ゲーム理論の、いわば対極にあるもの、すなわち感情を持つ存在としての人間社会のあり方である。今日の経済社会にあって、障碍者をふくむ誰もが自由につつがなく暮らせる条件を模索する、読みやすいが極めて野心的な著作だといえるだろう。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-23 23:36 | 書評 | Comments(0)

書評:「トップコンサルタントがPTA会長をやってみた」 三谷宏治

トップコンサルタントがPTA会長をやってみた—発想力の共育法

小学校の新入生100人を前にして、あなたなら、入学式で何を話すだろうか。相手は活発で、天真らん漫で、だが難しい言葉も知らず忍耐心も無い幼児たちだ。持ち時間は9分。何を話すか、だけでなく、「どう話すか」「どう興味を引きつけるか」が大事になる。

この著者は、ピンポン球1個と直径1mのゴム製大玉とで、PTA会長としての『入学式デビュー』を果たした。二つのボールを上下に積んで、同時に地面に落とす。そして起きるビックリ現象。これで、物理の不思議と交通安全という二つのメッセージを、子供たちの心に強烈にやきつけた著者のアイデアは素晴らしい。この人は天性の「コミュニケーター」にちがいない。

コミュニケーションの上手さは経営コンサルタントにとって最大の武器だろう。「教わる癖がつくから、俺は、教えない」と著者はいう。聞き手に「考えさせる」話し方は、人を動かす仕事では、とても大事だ。それは経営コンサルティングのみならず、セールスや部下への指示でもヒントになる。知的刺激に満ちた、魅力的な本である。
by Tomoichi_Sato | 2011-07-18 22:38 | 書評 | Comments(0)

書評:「新薬はこうして生まれる」 森田桂・著

新薬はこうして生まれる―研究者社長が明かす開発秘話

著者は武田薬品工業の元・会長、それも研究畑出身で初の会社トップになった人の自伝だ。どこにも明確には書かれていないが、日経の「私の履歴書」の連載執筆に加筆したものだろうか。

医薬品業界は巨額の研究開発投資を要する業界として知られる。一つの新薬が生まれるまでに「10年の歳月と100億円の資金が必要」と言われる(最近は1,000億円とも)。しかも、10年というのは前臨床試験に入った後のことであって、本書を読むと創薬研究から10年では短すぎる、という。おまけに成功率は非常に低い。お金と時間がかかって、失敗リスク確率の大きな事業を、どのように舵取りするのか。マネジメント・テクノロジーの観点からきわめて興味深い分野である。

にもかかわらず、(というか、むしろ「だから当然」と言うべきかもしれないが)この新薬開発マネジメントに関する説得力のある論者は少ない。わたしは数年前に、経営工学会の雑誌「経営システム」で、『R&Dの経営工学』という特集を発案して責任編集したことがあるが、医薬品分野での研究方法論を具体的に語れる産業界の現役マネージャーを見つけるのに苦労した。本書はその後に読んだが、あのとき、この著者に頼むことができたらと感じた(無論、大物過ぎてとても無理だったろうが)。

たとえば、著者はこう書く。

「研究所という組織が大きくなればなるほど、研究目標は個々の研究者ごとに具体化され、効率の向上が要求され、加えて予算面からの締め付けが加えられる結果、まっ先に研究管理という大義名分の槍玉に上げられて犠牲となるのが、独創性を追求しようとする研究者である。私はかねがね、このタイプの研究者のことを『タイプT』、すなわち『スリル追求型』と呼んでいた。(中略)『タイプT研究者を窒息させるような組織を作るな』と機会あるたびに言い続けてきた。」(p.18)

あなたの勤務先では、『タイプT』の人は生きやすいだろうか? あるいは、著者はこうも書く。

「研究者が壁にぶち当たったときの悩みは深刻である。それは妻子に言えることでないのはもちろんのこと、友人の助けを期待することもできず、自分の力で切り開く以外に道はないのであり、そのためには時間がかかる。これらのことを無視して『研究の効率化』とか『研究評価の客観性』などという大義名分を振りかざして研究者を『役立たず呼ばわり』するような環境には、独創性の高い研究者は安住できないのである。」(p.101-102)

研究者社長らしく、本書の構成は、自伝の各章がそれぞれ薬で代表される。「パダン」「クロモマイシン」「アリナミン」といった具合である。また、20世紀の医薬品開発の流れを概観して、ペニシリンに代表される抗生物質の時代(30年代まで)→利尿剤・血糖降下剤の時代(40年代)→副腎皮質ステロイド(50年代)→向精神薬トランキライザー(60年代)→抗潰瘍薬シメチジン(70年代)→遺伝子工学技術とインターフェロン(80年代)→抗コレステロール薬(90年代)、と追いかけていくのも面白く、勉強になる。20世紀の医薬品の歴史はドイツ中心にはじまり、フランス・英国を経て、戦後はアメリカが中心となる。著者も米国のCenter fo Excellenceとして名高いNIHに留学するのである。

それにしても、著者は戦後の日本の学会について、こう指摘することも忘れない。

「(終戦直後の応用化学では)アメリカから輸入されはじめたプラスチックや合成繊維など新物質の講義が行われていた。世界の学会ではすでに認知されていることであっても、『本邦で初めて』であれば、新しい知識として受け入れられてきた。このことは、その後の日本の化学工業の発展には有害とさえなった。というのは、新製品や新技術を国内に紹介する能力に長じた学者が重用される傾向を助長し、ひいては独創性を重視する研究本来の姿を損なうことになった、と私は考える。」(p.57)

著者はやがて、研究所から本社に呼び戻され、一時は企画部門のマネジメントをする。この当時、武田薬品では中央研究所(学問分野別組織)とは別に550人規模の「医薬研究所」(研究プロジェクト組織)を作っており、本社の後は医薬研究所長として赴任する。つまり、R&Dのプロジェクト・マネジメントを動かす立場になった訳だ。当然ながら、科学的興味だけでなく、ニーズ中心で仕事を見ることになる。ところが、そうしてみるといろいろな不都合な点が分かってくる。

「アメリカでも日本でも、その他多くの国においても、病気を未然に防ぐという名目で薬としての承認を得ることができるのはワクチンに限られている。肥満という症状がいかに『万病のもと』であると主張しても、抗肥満作用だけで薬としての効能を取得することはできない。」(p.204)

医薬品行政は、典型的な規制業界の上に君臨する行政である。製薬企業は自社の製品の正価さえ、自分では決められない。発売も製造もすべて役所の許認可がいる。そのかわり、新薬の権利は一定期間守られ、利益を独占することができる(ジェネリックなど後発医薬品が許されるのは原則その期間が過ぎてからだ)。その結果、日本の多くの業界において保護行政の結果生じた事態に、医薬品業界も陥ることになる。国際競争力の低下と、成熟市場での急激な統廃合だ。

「国による新薬許可基準では、日本の施設で行われる動物実験や病院での試験臨床成績の添付を厳しく義務づけていたので、欧米の製薬企業の多くは日本企業をパートナーとして合弁事業を創立して参入するしか方法がなかった。その結果、日本の製薬企業は国内では保護され、その裏返しに海外進出が遅れることになった」(p.225)

(医薬品卸の統廃合は)「メーカーにとっては対岸の火事なのだろうか。答えは明白に『ノー』である。日本の医薬品メーカーの数もなんとしても多すぎる。一部上場の企業の数も30社に余るというのは、世界でも例を見ない。」(p.277)

本書は、醤油屋の息子に生まれ、大学で生化学を勉強した優秀な研究者が、敗戦直後から50年間、日本最大の医薬品メーカーで働いてきた記録である。それはまことに、昭和初年生まれの人らしい回想録であり、かつ医薬品産業の自叙伝でもある。戦後の半世紀の間に、何がどう変わり、どう進歩し、またどう停滞していくことになったのかが、科学者らしい正確で客観的な観点で書かれている。医薬品開発や産業史に興味を持つすべての人に勧められる良書である。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-27 22:03 | 書評 | Comments(2)

書評:「完全な真空」 スタニスワフ・レム

完全な真空 (文学の冒険シリーズ) スタニスワフ・レム

うーむ、素晴らしい。現代ポーランドを代表する作家・レムの、知的創造力の広大さを示す傑作だ。レムはSF作家として出発したが、70年代以降はむしろ文明批評家としての活躍が目立つ。1971年に出版された本書は、そのターニング・ポイントを示しているといってもいい。

本書は、実在しない、架空の本に対する書評集である。無人島に漂着した男が空想の中で召使いや侍女をつくりあげ、しまいには想像上の群衆で島が満員になってしまうという皮肉な小説や、南米奥地にナチス親衛隊将校が作り上げた奇怪なフランス風王国の宮廷物語など、空想的な小説本が多いが、これはまあ「レム自身が書こうとして書けなかったSF」の風刺だといっても良い。

しかし、人間誕生の確率を算定しようとする学者の抱腹絶倒な論文や、ゲームの理論によって宇宙の発生と物理法則の成長を説明するノーベル賞受賞学者の講演「新しい宇宙創造説」などの本は、いかにも医大出身で技術畑のキャリアを持つレムらしい、理科系的な構想である。また、架空の本の著者も、ドイツ人ありフランス人ありイタリア人あり米国人ありで、それぞれの文化の特色を示すような内容となっており、その配列や対比も面白い。

本書は文学と言うべきか、はたまたノンフィクションと形容すべきか、あるいはSFの趣向の一種と断ずるべきか、その位置づけもまた人々を困惑させる。きわめて機知に富んだ、楽しい書物と言うべきだろう。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-16 23:14 | 書評 | Comments(0)

書評:「ビジネス脳はどうつくるか」 今北純一・著

ビジネス脳はどうつくるか

今北氏は長年フランスで働き、ルノー公団やエア・リキード社のエグゼクティブを経た後、現在はコーポレート・ヴァリュー・アソシエイツという欧州コンサルティング会社のパートナーの地位にある。毎月、日本とフランスの間を往復されているわけだから、航空会社にとっては上得意にあたる。乗り込むと、キャビンアテンダントがつつとやってきて、「今北様、いつもご利用ありがとうございます」と挨拶してくれる身分だ。

ところが、食事の時間になると毎回、献立の好みを聞かれる、という。今北氏は機内ではつねに、食事をパスしてワインを一杯とチーズの盛り合わせだけで過ごす習慣なのに、彼女らはそのことに気がつかないのだ。あるいは、たとえ気づいても、そうした情報を申し送りする仕組みが欠けているのかもしれない。いずれにせよ、表面的な顧客満足はみたそうとしても、本当のニーズがどこにあるのかを推し量る想像力に欠けたまま、ビジネスをやっているわけだ。

本書のテーマは、そうした想像力をどう涵養するか、である。そのための手段の一つとして、「顧客のさらに顧客に会って、ニーズを知れ」という。鉄鉱石を産出する会社は、直接顧客の製鉄メーカーの言うことだけをきいていてはダメだ。製鉄メーカーの顧客である(たとえば)自動車メーカーのニーズや動きを注視していく必要があるし、それができれば需要の将来の動きを想像することができるようになる。

今北氏は顧客の潜在需要の底にある「絶対需要」を探知する想像力を、『左岸からの発想』と名付ける(パリを知らない人にはわかりにくいが、あの街はセーヌ右岸と左岸に分かれており、右岸は商業とビジネスの地域である。つまり右岸は大企業の押しつけ論理の発想を象徴している)。しかし今日のマネジメント層は、むしろ想像力を枯らしてしまう方向に動かされているようにも見える。そうした意味で、知的刺激に満ちた本である。ただし、この本のタイトルは(編集者がつけたらしいが)なんだかちょっと誤解を与えそうな気もするのだが。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-09 21:24 | 書評 | Comments(0)

書評:「持続不可能性」 サイモン・レヴィン著

持続不可能性―環境保全のための複雑系理論入門

原題は"Fragile Dominion"。『はかない住み処』の意味である。本書は、京都賞を受賞した数理生態学の大家S. Levinが、一般人向けに書いた(珍しく数式が一つも出てこない)生態学の集成である。

著者レヴィンの主たる業績は、空間生態学にある。従来は生物相の時間的遷移を扱う学問だった生態学に、空間分布とスケールの意味概念を計量的に持ち込んだ。彼の論文"The Problems of Scales and Patterns in Ecology"は'90年代を通して生態学で最も広く引用された論文だと言われている。私は'80年代の後半に、米国東西センターの環境政策研究所にいて、生態学におけるスケールアップ問題を研究しており、このときの縁でレヴィン博士の知己を得ることができた。

さて、本書でレヴィン博士は、地球の生態系を「複雑適応系」だと定義している。『複雑系』の概念は、サンタフェ研究所が中心となって'90年代に発展し広く普及したが、レヴィン博士はこの思潮に一役買っているらしい。生態系を機能と構造から考える、というのが米国の生態学の主流だが、ここに「目的論」の観点を密輸入する傾向が、以前からあった。彼はこれを警戒して、「エコシステムの生成は適応の結果であって、合目的な意志が働いている訳ではない」と繰り返し主張している。

長い年月をかけて織り上げられた、この地球のエコシステムは、しかし人間活動と欲望のために危機にさらされている。これが、原題『はかない住み処』の問題意識であった。彼は生態学(生物進化学を含む)の発展経緯と視点を丁寧に記述して、生物多様性とエコシステムのパターンが、生物の局所的な適応戦略から発生してくることを説明する。エコシステムを、安定性と自己修復性を持つ実体的な概念(つまり“生き物”)ではなく、パターンとして理解する著者の立場は非常に明瞭で、説得力に富んでいる。

しかし、レヴィン博士のこのような研究のアプローチは、どこかで適応と進化の「ゲーム理論」的な生物観をもたらす危険性をはらんでいる。それは、彼の活躍してきたアメリカの知的風土においては、とても自然なものだったのかもしれない。じじつ、京都賞の受賞記念講演で、レヴィン博士は「囚人のジレンマ」の例を引き、生物行動のモラルの発生を突き止めたい、と言っていた。生物界には、「利他的」としか言いようのない、不思議な現象が時々ある。それを、めぐりめぐって最終的には自己や自種の適応可能性を高めるから、という視点から説明しようという、いかにもネオ・ダーウィニズム的な研究アプローチである。

しかし、本当にそういう説明ですべてが納得できるのだろうか。進化ゲーム理論やネオ・ダーウィニズムには、競争原理はあれども、協働原理は存在しようがない。前提条件から排除されているからだ。

素人の私が、直感だけに頼って発言しても、何の意味もないことは重々承知している。ただ、本書の結論にある環境管理のための8つの提言の、奇妙なインパクトの弱さは、レヴィン博士を含むアメリカ現代科学が見過ごしてきた、協働原理の欠落によってもたらされたものではないか。彼の知性と、ユーモアに満ちた人柄に敬意を持つからこそ、この点についてあらためて考えてみてほしいのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-29 18:21 | 書評 | Comments(0)

書評:「禁断の市場」 ベノワ・マンデルブロ&リチャード・ハドソン著

禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン
監訳:高安秀樹 訳:雨宮絵理 他

ずっと昔の学生時代から、なぜか冪乗分布に心を引かれていた。いわゆる、ランク-サイズ関係が負の冪乗になり、両対数グラフで直線に載る関係だ。英語の単語の使用頻度に関するジップの法則がその典型で、順位と頻度は-1乗、つまり反比例の関係になる。これは、通常の正規分布則などでは説明のつかない、ひどく片寄った現象であることを示している。一般的な統計学がよって立つ正規分布では、平均的な事象が多いはずだからだ。

そうした問題意識には、「無限・カオス・ゆらぎ―物理と数学のはざまから」(寺本英ほか)や「ゆらぎの世界―自然界の1/fゆらぎの不思議」(武者利光)など、一部の数理物理学や数理生態学の本で多少の折り合いをつけるしかなかった。そこに突如、燦然と登場したのが、マンデルブローの「フラクタル理論」であった。

フラクタル幾何学は数学の一分野として登場しながら、驚くほど応用範囲の広い考え方だった。「自己相似性」と「整数でない次元」の概念から導かれる諸法則は、またたく間に、CGから宇宙論まで、ありとあらゆる分野で--より正確に言えば「ランダム」さを扱わなければならない分野で--もてはやされることになった。マンデルブロ集合やコッホの雪片曲線などは、あっという間にTシャツのデザインに、またPCのスクリーンセイバーの図柄になった。

本書は、そのマンデルブローの一種の自叙伝、あるいはフラクタル理論誕生の伝記である。それがなぜ「禁断の市場」(原題:The [Mis]behavior of Market)なのかというと、じつは理論誕生のきっかけが純粋数学ではなく、金融市場の動力学的研究だったからである。

1998年の夏、ロシア経済危機の影響を受けてダウ平均は一日で6.8%下落する。これは、ビジネス・スクールで一般に教えられている金融工学の標準理論によれば、2000万分の一の確率(つまり10万年に1度の頻度)の事象であるはずだった。ついで2002年にはダウ平均が7.7%下落した日があった。その確率はなんと500億分の一だ。そして2008年のリーマン・ショックである。金融工学は、なぜこのようなリスクの予知に失敗したのだろうか?

マンデルブローは、ランダムさには「マイルド」「スロー」「ワイルド」の三つの状態がある、という。ちょうど物質に固体・液体・気体の三状態があるように。そして従来の金融工学は、市場を「マイルド」(つまり固体)としてモデル化してきた、と指摘する。本書の前半1/3程度は、バシェリエのランダムウォーク仮説、マーコヴィッツのCAPM理論、ブラック=ショールズ方程式などの標準理論と、その帰結(いかに現実に例外が多いか)をていねいに説明する。

第2部はいわば自分の理論の自叙伝である。マンデルブローは科学手法の道具箱の中に、新しい数学的ツールを導入することに生涯をかけてきた。それが「フラクタル」と「マルチフラクタル」である(フランス人が"マルチ"という時は、複合的というよりも"スーパー"的なというニュアンスが強い)。

彼はIBMの研究所にいた時に、過去100年にわたる綿花価格の変動について調べる。そして、それが次数1.7の冪乗分布であることを突き止める。さらにこれがレヴィの安定分布の一変種であり、指数1.7はアルファ値という特性パラメータを意味することを発見するのである。これは経済学にとって一種のセンセーションとなったが、標準理論の根底に反するため批判も根強かった。

彼はさらに、ナイル川の水量変動のデータも調べる。そして、非常に長期の自己相関(現在の変化が遠い過去の値に影響される、いわば現象が「長期記憶」を持っているかのような効果)があることを見つける。周知の通り、単純なランダムウォークをする変量は、時間の0.5乗に比例して変位が拡がっていく。これは化学工学や機械工学で拡散方程式を学んだ者には常識であろう。しかし、川の水量は違っていた。

変異の幅が時間の何乗に比例するかを調べ、その次数をHというパラメータで表すと、H=0.5が単純ブラウン運動で、H>0.5の場合は次第に長期記憶が効いてくる(つまり「ワイルド」になるのである)。マンデルブローはこれを「非整数ブラウン運動」と呼んで、株価などの変動についてもHの値を調べていくのである。そして、最終的にマルチフラクタルのアイデアに至る。彼の分布モデルは、αとHという2種類のパラメータで、さまざまな変動現象を表現できる道具となったのである。

では、彼の理論を使えば市場価格の予測はできるようになるのか? 残念ながら、答えはNOである。冪乗分布は不連続な乱高下がまれに起き、収束しないのである。しかし、ボラティリティ(変動性)だったら予測可能である。いつ地震が起きるかは、予測できない。ただ、地震の起こりやすさは、指数化できる。これが市場経済におけるフラクタル理論の現在である。

本書は科学ジャーナリストのハドソンが共著者として協力しているおかげもあり、読みやすく、物語としても面白い。訳も、(ときどき固有名詞に首をかしげたくなることがあるが)こなれていると言えるだろう。ただ、マンデルブローのファーストネームBenoitの発音は普通だったら「ブノワ」じゃないんだろうか。もうベノワで普及しちゃっているから、しかたがないのかもしれないが。
by Tomoichi_Sato | 2011-02-17 22:32 | 書評 | Comments(0)

書評:「ブレーキング・ボックス」 アンドリュー・サター著

Amazon.com: ブレーキング・ボックス - 常識に囚われない考え方

良書である。本書は「日経ビジネスAssocie」誌の連載をまとめたものらしい。たしかAssocie誌は若手ビジネスマン向けの雑誌のはずだが(わたしも一度依頼されて書いたことがある)、本書は社会人になって数年程度の人たちに読ませるのはもったいない。むしろ、ビジネススクールのMBA副読本にした方がいいくらいのレベルだと思う。

著者は1955年ニューヨーク生まれのユダヤ系米国人。ハーバードで物理学を卒業した後、カリフォルニア大のロースクールを出た国際弁護士である。日本では文系出の弁護士でも特許法に関わる仕事を手がけることができる。しかし米国では、ロースクールに入る前に理科系の四年制大学を卒業した上、特殊な試験に合格した「特許弁護士」でなければ、特許を申請することができないことを、本書で初めて知った。これでは日米の会社が特許をめぐって法廷でまともに戦っても、日本に勝ち目が薄いのは無理もない。

ともあれ、この著者は文系・理系の『複眼思考』を持っている点が、何より心地よい。こけおどしの言葉や概念にもだまされず、実証的であり、かつ法務も商務も熟知している。たとえば本書は、ビジネスにおける「メタファー」の話からはじまる。販売のストラテジー(戦略)やタクティクス(戦術)やウィン(勝利)といった言葉を使う場合、それはビジネスの概念を戦争になぞらえてメタファーを用いているわけである。無論、メタファーの適用範囲には限界がある(べつに販売の前線で人を殺すわけではないし)。だが、'99年頃のシリコンバレーでは、"Land-grab"(先に到着した西部開拓者が土地の占有権を得ること)などのメタファーが暴れ回ったあげく、結局ドットコム・バブルで多くの企業家を破産させてしまう。

あるいはバリューValueという言葉の氾濫について。マッキンゼー・コンサルティングの有名な企業価値判断のテキストを読んだ著者は、「バリュー・マネジャー」や「バリュー創造手法」といった表現のオンパレードに驚くが、よく読むと、バリューとは株価を、バリュー創造とは株価上昇を指していることに気づく。この株主価値(Shareholder Value)理念の旗振り人は、GE社のCEOだったジャック・ウェルチだった。ウェルチは20年間の間にGEのバリュー(株価)を30倍にしたといわれるが、利益額は5倍になったに過ぎない。ではなぜ「バリュー」の方はそんなに跳ね上がったのか?

じつはウェルチはR&D支出を大幅にカットし、11万人もの従業員を解雇した。そして従業員にサラリーを払うかわりに、約3兆円もの資金を使って、GE株の買い戻しを行ったのである。おかげで会社は「効率性」を増し、一株あたりの利益も増えた訳である。そればかりか、彼ら幹部役員のストック・オプションの「バリュー」も増大したのである。

M&A(企業買収)についても、専門家らしい複眼思考に満ちている。かつてソニーは米コロンビア・ピクチャーズを買収したものの、巨大な損失を出して体力をかなり落とした。この失敗事例のどこがまずかったか、著者はくわしく解説を加えて、異文化のM&Aがいかに危険な博打であるかを示す。ちなみにCisco社は戦略的M&A実行能力において、最高峰のレベルを持っていることが米国では知られており、本書でも、相手を文化的に統合するため専門チームを事前に派遣するやり方などを紹介している。しかし、日本で近年発行されているM&Aに関する本にはこうした成功手法はほとんど紹介されておらず、かわりに「サメよけ」だの「毒薬」だの'80年代に米国で流行した敵対的買収用語が乱発されている。日本の若いビジネスマン達が、M&A取引を「カッコいい」と感じているらしいのを知って、著者はショックを受けるのである。

著者は、数多くのM&A辞令から学べることの一つは「コストを削減したかったら、中央集権を進めよ、収益を拡大したかったら、地方分権にせよ」だといっている。これは非常に面白い指摘であるが、わたしの見聞きした事例ともよく合致する。欧米流を真似て、すべてを本社の司令室から取り仕切る経営を目指す企業が、日本でも増えているようだが、このようなやり方は一時的にはコストセーブにつながっても、長期的な収益にはつながりにくいと思う。

本書「ブレーキング・ボックス」は、経営とマネジメントに関心のある全ての人に勧められる良書である。中でも一番読んで欲しいのは、大企業の経営企画室にいて、買収や分社化や知財などの「戦略プランニング」にかかわっている人達であろう。こうした人達が、世に蔓延している固定観念や単純化された価値観に惑わされずに、自分の頭で考えてくれる事を著者は望んでいるはずである。
by Tomoichi_Sato | 2010-11-28 19:30 | 書評 | Comments(1)

書評 「バーナード 経営者の役割」 飯野春樹・編

バーナード経営者の役割 (有斐閣新書 D 35)

経営学の教科書などを読むと、バーナードの「経営者の役割」は古典として位置づけられている。経営学は20世紀に入ってから形作られた学問で、テイラーの「科学的管理法」、ファヨールの「管理過程論」、それらに少し遅れる形で1938年のバーナードの組織理論が三大基礎と言えるだろう。この3人とも、学者でなく実務家だったのは注目に値する。技師長テイラーの理論はIE(Industrial Engineering)としてフォード・システムの大量生産に組み入れられ、アメリカ産業の発展に大いに貢献したし、仏の資本家ファヨールのライン-スタッフ機能やマネジメントをプロセスとしてとらえる思考法は、現在の企業経営の中心にある。

これに対して、ニュージャージー・ベル電話会社の社長だったチェスター・バーナードの斬新な人間観とシステム・アプローチによって生み出された組織論は、ノーベル経済学賞を受賞したサイモンの理論に引き継がれているとはいえ、現在では忘れられかけているようにも思える。これはなぜだろうか。

バーナードは、『組織』を構成する三要件として、「共通目的」「協働意識」そして「コミュニケーション」を挙げる。このどれか一つでも欠けたら、組織にはならない。たとえば市町村など地域の住民には、行動における「共通目的」がない。予備校に集まる生徒達には「協働意識」がない。だからこれらは組織とは言えないのである。逆に、会社であれ、役所やボランティア団体であれ、この三要件が成立すれば「組織」であり、そこにはバーナードの経営理論を適用することが可能なのである。

バーナードの理論の基礎には、人間論がある。人間は自由意志と責任を具備した存在だと彼は考え、「個人には目的があるということ、あるいはそうと信じること、および個人に制約があるという経験から、その目的を達成し、制約を克服するために協働が生じる」と彼は書く。つまりここには、経済学が看過した『協働論』があるのである(伝統的「経済人」モデルからは競争論しか出てこない)。

さらに彼は「協働システム」の概念を発明し(これはシステム工学などの現れるはるか前だった)、公式組織という抽象的分析の枠組みを構築していく。管理者の諸機能は、この組織をベースに導かれるのである。たとえば組織の能率とは、そのシステムの均衡を維持するに足りるだけの有効な誘因を提供する能力である。いいかえれば、個人にとって有形無形の利益が得られるほど、働く意欲も高まるわけだ。これは当たり前のように見えるが、目に見える金銭的インセンティブと罰則だけで人を動かそうとする今日的な大企業経営と、いかに隔たっていることか。

そもそも米国のビジネス文化を考える際には、あの国の産業がプランテーションから立ち上がったことを理解した方がいい。米国式のマネジメントは、だから、奴隷を使うプランテーション経営に少し似ている。アメと鞭で労働者を収奪し、使い物にならなくなったら別のと取り替える、という思想がどこかに残っている。こうした風土で、「組織は道徳的制度であり、管理は権限中心から責任中心に移行すべきである」と主張したバーナードの卓見は際だっている。

それでは、なぜ今日バーナードは忘れられつつあるのだろうか。それは、経営学が「人の理論」から「お金の理論」にシフトしたことと関係がある。バーナードの時代、株式は無論あったが、社会が富を生み出す源泉は主に工業の労働であった。今日では、端末でのクリックが巨富を生む金融業の時代である。産業の主従が逆転してしまった。金貸しに協働の理論は要らない。しかし、そうした夢がリーマン・ショックとともに泡とはじけてしまった今、彼の理論は再び重要性を取り戻すにちがいない。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-27 23:25 | 書評 | Comments(3)

書評 「確率的発想法」 小島寛之

確率的発想法~数学を日常に活かす (小島寛之著 NHKブックス)


積年の蒙を開かれる本、とはこういう書をいうのだろう。天気予報で今日の降水確率が40%とは、何を意味するのか。かつ、この40%という予報が当たる確率は何%なのか。そういった疑問を感じた人は多いだろう。そんな疑問に対して、サイコロの目の数を場合分けする学校数学の確率論の知識は、たいした助けにはならない。

世の中にはそもそも、一回限りの出来事があまりにも多い。これに対して、フィッシャー流の統計的推定を使うのは居心地がわるい。そこで見なおされてきたのが、「主観確率」を基礎におくベイズ推計である。本書の前半は、この両者をおさらいすることで費やされる。

後半は、数学の世界から、「リスク」を軸にした理論経済学の世界に飛び出す。そこには主観的な判断に満ちた意志決定理論の沃野が広がっている。そして、人々は確率も分からない不確実性よりも、確率が分かっている不確実性の方を(たとえ等価であっても)好む、というエルズバーグのパラドックス実験にはじまり、足しても1にならない非加法性確率や、コモン・ノレッジの分析、ロールズの格差原理、中西準子の環境リスク・ベネフィット論への批判へとつづき、最後に「過去に向かっての確率論」への展望でしめくくられる。

本書はたぶん、自由市場経済至上派の人々には気に入られまい。厚生経済学、とくにロールズなどの思想的影響が色濃い。彼らは社会的不公正の問題から、情緒的側面を取り外し、あえて数学的アプローチだけで迫ろうというスタンスを持っている。そこで用いられるのが、知識の非対称性と不確実性(リスク)への考察である。著者の問題意識もこの線にそっている。おかげで、リスク判断と主観確率の関係についてもずいぶん勉強になった。タイトルはちょっとだけミスリーディングだが、お薦めできる良書である。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-14 00:31 | 書評 | Comments(0)