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書評: 「源実朝」 吉本隆明

筑摩書房から出ていた『日本詩人選』の一冊。吉本隆明は批評家として、また反体制的思想家としてカリスマ的人気を一時は誇っていた人だが、わたしは若い頃の詩人としての仕事が一番良いと感じる。もともと詩人的資質をもって生まれた人で、東工大の応用化学を出ているといっても、あまり理科系的な文章を書く人ではない。

その詩人としての彼が、鎌倉幕府の三代将軍として生まれ、若くして暗殺された天才的歌人の詩論を書くのである。面白くないはずがない。古書店でたまたま見つけた本書であるが、集中して一気に読んでしまった。

実朝の兄、二代将軍源頼家はかれが物心つくころに伊豆修善寺で惨殺される。それも、かれを擁立した北条時政の刺客の手によってである。愚管抄や吾妻鏡の文章を引用しながら、吉本はこう書く。「頼家の殺されかたからかんがえて、じぶんだけは別ものだとおもえるような条件はなにひとつなかったはずである。」(p.12)

それにしても、実朝たち兄弟はなぜ、執権である北条氏に一旦は将軍位につけられながら、後に捨てるように殺されなければならなかったか。吉本はまず、鎌倉幕府という奇妙な<制度>の構造分析からはじめる。鎌倉幕府は律令制の日本における国家内国家ともいうべき位相にあった。ところで、その「関東武門の固有制度ではどうしても血縁よりも惣領制のほうが重かった。(中略)この<惣領>は世襲ではなくて、一族一門のうち器量優れたものに<惣領>の指名によって継承される慣例がおこなわれていた。そして<惣領>は武力権と一門の祭祀権をあわせもつものであった」(p.37)は卓見であろう。惣領の支配が血縁の外にあるため、ともすると親子兄弟が互いにせめぎ殺戮し合う不安定性を内包していた。これを抑えるに、上位律令制の権威とのインタフェースとして源家の貴種性が当初は重要だった。しかし北条氏がライバルを次々と滅ぼし、鎌倉体制が安定化して行くにつれて、武家層は独自の倫理をつくりはじめ、やがて貴種は不要に、むしろ邪魔になっていくのである。

北条氏の飾りであることを自覚していた実朝が、我意を押し通したわずかな一つが、京都から貴族の娘を嫁迎えしたことである。当時、まだ「<一族>や<家門>の重さにくらべれば、<家族>はまだ比べものにならぬほど低い位置しかなかった。家父長家族が成立していたともいえず、また、妻女は実家の<族>に属しているといってよかった」(p.92)状態である。実朝という文学青年は、そのような境遇に生まれてしまったのだ。

吉本隆明はさらに、<和歌>とよばれる詩形式に論を進める。万葉の東歌「筑波嶺のをてもこてもに守部すゑ 母い守れども魂ぞあひにける」等は、上句と下句が明確に区切れ、かつ上句は下句を引き出すための隠喩(それ自体に強い意味はない)の形をしている。これは、対になった人々による掛けあいの和唱の場の即興のように生まれるもので、和歌の初原のあたりに近い、と彼は推測する。実朝の

 しら雪のふるの山なる杉村の すぐる程なき年のくれかな

などはこうした万葉調の古形を保持している。しかし

 秋ちかくなるしるしにや玉すだれ 小簾(こす)の間とほし風の涼しさ
 くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に 日の入るときの空にぞありける

などは、(単純な叙景だから)(万葉に類似の本歌があるから)というだけで「万葉調」と断ずるにははるかに遠いのである。事実、和歌は古今集の時代に入って明確に変容し、「雪のうちに春はきにけり鶯の 凍れる涙いまやとくらむ」のような<象徴>の地平にうつっていく。

 梅の花さけるさかりをめのまへに すぐせる宿は春ぞすくなき
 我が袖に香をだにのこせ梅の花 あかでちりぬる忘れがたみに

こうして並べてみると、実朝の歌が独特な心をもっていることがよくわかる。和歌はさらに『後拾遺集』で変容する。俗語の大胆な導入とともに、「詩的な<規範>のたががゆるんで、<象徴>性が崩壊しはじめたことを意味している」(p.197)と吉本は断ずる。いわばJ-POPの歌詞のように、平明だが単純な歌になるのである。「個々の詩人の感性に基礎をおくために、(中略)<景物>はほかにどんな習俗や伝承にしたがうものでもない」(p.198)ことになってゆく。和唱の場の共同体は不要となったのである。

こうしてとうとう和歌は新古今の岸辺にたどり着く。「吉野山花のふるさとあと絶えて むなしき枝に春風ぞふく」(藤原良経)「花は散りその色となくながむれば むなしき空に春雨ぞふる」(式子内親王)--こうした秀歌は、すでに目の前の景色とは何の関係もなく、すべて詩人の繊細な心の内にあるものを、技巧的な形で彫塑したものである。

 このねぬる朝けの風にかほるなり 軒ばの梅の春のはつ花
 吹く風は涼しくもあるかおのづから 山の蝉鳴きて秋は来にけり

十三歳で将軍職となって以来、実朝は鎌倉幕府の<象徴>的な頭領にすぎず、ただ祭祀権のみを履行する人形であった。かれが晩年望んだことは、宋に渡ることと、京都の律令王権から位階の昇進を得ることだけであった。そして二十七歳のとき、かれはとうとう右大臣に任ぜられる。その上は太政大臣しかなく、そうなると彼を取り除くことは困難になる。実朝が就任の拝賀のために鶴岡八幡宮に出たとき、だから彼を守る役目のはずの北条義時は「体調」を理由にそこに参列せず、かわりに兄頼家の子・公暁が暗殺者として木陰で待ち構えていたのであった。そうした顛末を、彼は何年も何年も前から、ある意味で心の中では見通していたともいえよう。

 神といひ仏といふも世の中の 人のこころのほかのものかは
 うつつとも夢ともしらぬ世にしあれば 有りとてありと頼むべき身か
 萩の花暮々までもありつるが 月出てみるになきがはかなき

ところで、吉本が指摘しなかったことで、一つ気がついたことがある。それは、歌人実朝は非常に耳の良い人だった、ということである。たとえば百人一首にとられた有名な

 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも

は、たしかに吉本の言うように不安定な将軍職にうえにいるじぶんの<心>をあらわしていよう。ただ、それはこの歌の「な」「も」の音の繰り返す不安なリズムの上に、あやうく揺れてきしむ音が示しているのである。あるいはまた、もっとも有名な

 大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

うっかり武家風だとか勇壮だとか誤解され、また詩人のひどく孤独な心が暗示されているようにも感じられるこの歌は、しかし下句の音をたどっていくと、まさに磯を打つ大波の低音の轟きが次第に周波数の高いしぶきに変わっていくさまを、見事に音自体で表象している。まさに、<和歌>という形式の中にこめられた、見事な<音楽>だった。そのような奏者を若いうちに失う事態こそ、日本における和歌の頂点の終わりを暗示していたのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-04-14 21:22 | 書評 | Comments(0)

書評:「エル・スール」 アデライダ・ガルシア=モラレス著

エル・スール (Amazon.com)


ビクトル・エリセ監督の『エル・スール』は、わたしの最も好きな映画の一つだ。画面全体に漂うみずみずしい詩情、小さな娘の目から見た、魔術師めいた父親の不思議さ(イタリアの名優オメロ・アントヌッティが好演している)、スペインの静かな激しさを描いて、強い印象を残す。本書はその原作小説であり、かつエリセ監督の元・夫人が著者ときいて、興味深く手にとった。

ところで、比較的短いこの小説を読んで驚いた。小説としてはとても緊密に、よくできている。だが、映画とまったく印象が違うのだ。原作と映画が違うのはよくある話だが(そして事実、主人公の女の子の名前も違う)、ここではストーリーやキャラクターの問題を言っているのではない。父と娘の距離感が、微妙に、しかし決定的に違うのだ。この小説では、娘はつねに父親に対して奇妙な違和感を抱いている。それが物語を回転させる原動力となっている。ところが、映画の方は、お父さんべったりに描かれるのだ。それは初聖体のお祝い(これはカトリック社会では子どもが一人前になる重要な通過儀礼だ)で、父と娘が踊る"En El Mundo"(「世界中で」)の美しいシーンに象徴されている。ところが小説では、そんな風に一体感をもっていない。かわりに、父の孤独と苦悩に謎を感じて、近寄りがたく思っている。

その謎は、やがて南部(エル・スール)の街セビーリャを訪れて、ようやく解けることになる。ここで、いわば別れた自分の半身と再開し、それを通じてやっと、亡き父とも和解しようと心が解かれるのだ。タイトルの意味はここにある。娘の側の、いわば成長の物語が本小説の主軸なのである。映画が娘の目を借りつつ、父を主題に描いていたのとは、非常に対照的になっている。映画では、(おそらく予算の関係で)このセビーリャのシーンの撮影ができず、それ故にやや唐突に、娘が突き放されたような形で結末を迎える。

同じ登場人物、同じタイトル、同じ地方の景色でありながら、小説と映画はこれほどまでに異なっている。著者とエリセ監督が結局別れることになったのは、このような解釈のすれ違いがあったからかもしれない。もちろん、どちらも素晴らしい作品ではある。ただ、片方は男が苦悩を描き、他方は女性が成長を語るのだ。
by Tomoichi_Sato | 2012-03-15 23:59 | 書評 | Comments(0)

書評: 2011年に読んだ本 ベスト3

皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。

このところ多忙で、あまり書評が読んだものに追いつかずにおります。そこで、昨年1年間に読んだ中で、もっとも感銘を受けたベスト3を、短評をつけてここに掲げる次第です。
いずれも三つ星です。

★★★ リアル・シンデレラ 姫野カオルコ
リアル・シンデレラ (Amazon.com)
2011/02/12 読了

最近、いやこの10年間に読んだ中でもっとも優れた小説。読んで本当に良かった。姫野カオルコという作家は誤解されやすい人だが、じつは知的で誠実なモラリストだと前から思っている。本書は、その彼女が個人的にもっとも辛かった時期に書かれたようだが、小説には苦難の片鱗も感じさせない。昭和時代の地方都市を舞台にした、ごく普通の人々による、魂の浄化の物語である。強くお薦めする。

★★★ 137 - 物理学者派売りの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 アーサー・I・ミラー
137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 (Amazon.com)
2011/06/17

著者は(有名な劇作家とは別人で)イギリスの物理学者・科学史家。ヴォルフガング・パウリは20世紀現代科学における知的巨人の一人だが、非常に謎めいた人でもある。パウリの排他律原理、ニュートリノの予言、そしてCPT対称性定理など、彼の輝かしき業績を無視して現代の物理学は語れないが、ユダヤ人キリスト教徒として生まれた彼の魂の彷徨は誰も知らなかった。その迷いからの導き手になったのは、意外にも同時代のスイスの心理学者ユングであった。著者は残された手紙や文献を丹念に追いかけて、この二人の互いの影響をさぐり、パウリが生涯をかけて追いかけた微細構造乗数「137」への執念を描く。良書である。

★★★ わたしの名は「紅」 オルハン・パムク
わたしの名は「紅」 (Amazon.com)
2011/07/24

現代トルコ文学のトップ・ランナーであり、2006年度ノーベル賞受賞作家であるオルハン・パムクの代表作。最盛期を過ぎつつある16世紀のオスマン・トルコを舞台に、イスラム細密画家たちの間で起きる謎の連続殺人事件を追う。細密画をめぐり、イスラム原理主義(この当時からあったのだ)の脅迫と、西欧美術からの影響の桎梏に引き裂かれる魂の悲劇を、著者は共感を込めつつ緻密に描く。それにしても作家の想像力とはここまでの拡がりを持ちうるのか。トルコの枠を超えて、まさに現代文学の最先端である。
by Tomoichi_Sato | 2012-01-04 12:25 | 書評 | Comments(0)

新著のお知らせ:“JIT生産”を卒業するための本

このたび、中小企業診断士の仲間と共著で、新刊を出しました。

“JIT生産”を卒業するための本
(日刊工業新聞社)
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本日から書店に配布が始まりました(Amazon.comではまだ予約対象ですが、近日中に販売中にかわるはずです)。

本書の内容は、帯にある問いかけの文句が象徴しています:
「“トヨタ自動車の生産方式”と、うちの“トヨタ生産方式”は、どこが違うんだろう?」

本当に、どこが違うのでしょうか? トヨタ流のJIT生産を真似しようとしたのに、なぜうまく動かないのか、どうして儲からないのか? その答えが、ここにあります。
JIT生産に苦労している、すべての生産実務者に贈るつもりで書いた本です。書店で見かけたら、どうかお手にとってごらんください。


佐藤 知一
by Tomoichi_Sato | 2011-12-15 23:59 | 書評 | Comments(0)

書評:「マフィア - シチリアの名誉ある社会」 竹山博英

「マフィア - シチリアの名誉ある社会」 竹山博英・著

1987年3月。早春のパレルモは、街中が奇妙な緊張感ではりつめていた。通称「要塞法廷」と呼ばれる、異常なほど堅固な建物の中で、476人ものマフィアの大裁判が行われているのだ。その中には何人かの大ボスも含まれている。彼らの仲間であった一人の麻薬王が南米で逮捕されたとき、マフィアの鉄則であった「オメルタ」(沈黙の掟)をやぶって、組織の全貌を告白してしまったことがきっかけであった。

シチリア・マフィアの正式名称はCosa Nostra(我らのもの)という。「組織への入会者は事前に、『名誉ある男』にふさわしい勇気の持ち主であることを示さなければならない。ふつうは殺人か、大きな犯罪である。」(p.26)。そう、マフィアとは名誉ある男達の社会なのである。

マフィアの組織は、18世紀後半の農村から発しているらしい。地中海の肥沃なシチリア島は長らく、不在地主の支配する土地だった。農村部で、土地貴族の領地を守る武装集団として生まれた「名誉ある友愛会」が母体である、という。つまり、大土地所有者の農地管理人である。彼らはイタリア統一後の普通選挙制を背景に、暴力的な集票組織として政治とつながっていった。

ところで、面白いことにシチリアでは、ファシズム政党は大きな支持を得られなかった。「ファシズムは北イタリアで、社会主義を打ち破る暴力装置として、資本家や地主などの保守層に支持され力をのばした」(p.156)。そして政権を取ったムッソリーニは、将軍を派遣してマフィアの大弾圧に成功するのである。ところが皮肉にも、第二次大戦でアメリカ軍は「解放者」としてシチリア島からイタリア半島に侵攻する。そのときに、マフィアの武力を利用するのである。「シチリアの人々は、ファシズムの統治下で窒息状態にあった各地のマフィアのボスが、アメリカ軍によって復活するさまを驚きの目で見ることになった」(p.168)

そのマフィアは権力と結びついてシチリアで肥大化するが、その過程で次第に自らを変質させていく。似たような事情は、ナポリにおける同様の犯罪組織カモッラでもおきた。「キリスト教民主党は影でカモッラと手を結んで、(テロリストである『赤い旅団』に拉致された)人質解放を模索しながら、テレビや新聞では、テロリストと絶対に取引しないと言明していた」(p.224)。本書である意味、一番面白いのは、獄中のカモッラのボスとのインタビューである。「詩と思索」という著書さえある彼は、反カモッラ活動をしている神父を評して、こう言う。“盗むな、憎まず愛せ。確かに美しい言葉だ。だが美しい言葉は女をベッドに誘うときにしか役に立たない。”

マフィアやカモッラは、南イタリアが長くフランスやスペインの支配下にあって、不在地主と農民の二極分化した厳しい社会構造が歴史的に生みだした、圧政のための暴力装置である。彼らにはイデオロギーはない。あるのは名誉と金と力への執着だ。この三つの要素が支配する社会ではどこでも、ふつうの人々は、最低限の尊厳ある生活をするために、シチリアの人たちと同じように長く困難な闘いを強いられるのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-12-08 23:53 | 書評 | Comments(1)

書評:「供述によるとペレイラは……」 アントニオ・タブッキ

供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

現代イタリア文学のトップランナー、タブッキの'94年の傑作。幻想的ないつもの作風とは異なり、リアリスティックな叙述で人間の生死と意思、そしてファシズム下の社会をまっこうから描いた本作は、伊文学最高のヴィアレッジョ賞を受賞している。

舞台は(なぜかイタリアではなく)ポルトガルのリスボン、それも、サラザール首相が長期独裁政権をはじめた1930年代のリスボンだ。隣国スペインでは共和国軍とフランコ将軍が内戦に突入している。そして社会全体を、ファシズムの不気味な影が覆い尽くそうとする時代だ。そのさなか、主人公の中年新聞記者ペレイラは肥満と持病の心臓に悩みながら、社会とは無縁の文芸面の主任として、紙面作りのために大学出の若い助手を雇おうとする。しかし、その助手と彼の婚約者との出会いは、ペレイラの運命を大きく変えてしまうことになる・・

ファシズム前期の社会とは、表向きは法と秩序と民主主義が支配しているように見えながら、じつは情報隠蔽の下、権力者のための暴力的別働隊が、警察の見て見ぬ振りの協力のもと、気に入らぬ人間を文字通り抹殺するために隠然と動く社会だ。タブッキはその不気味さを、落ち着いた筆致の中で描いていく。主人公の疑問に対して、大学教授の友人も、信頼する神父も、満足できる答えをくれない。ヨーロッパで何が起こっているか、隣国スペインで何が起こっているか不安に思わないのか、との問いに、「だいじょうぶ、ここはヨーロッパじゃないからね」と答える友人が象徴的だ。

この小説は、典型的な序破急の展開になる。最初はゆっくりと穏やかにはじまり、しかし半ば頃から主人公は目に見えぬ何者かに心を乱され、最後に物語は疾走する。心臓を気にしてずっとレモネードを飲んでいたペレイラが、決意の日、カフェで辛口のポルトを飲み干し、亡き妻の写真を鞄に入れて出発するシーンは感動的だ。彼と似た時代を生きる今日のわれわれにとって、必読の小説である。
by Tomoichi_Sato | 2011-12-01 21:26 | 書評 | Comments(0)

書評「Q-Japan」 飯塚悦功・著

Q‐Japan―よみがえれ、品質立国日本 (JSQC選書)


著者は東大工学部教授で、日本品質管理学会の元会長。「日本では、マネジメントは理工学的研究の対象とも思われていない。現に東大にも京大にも、理系のManagement Science系の学科が学部レベルでは存在しない」という意味のことを最近書いたが、著者の飯塚教授は、東大における、経営への理工学的アプローチの頭目ともいうべき人である(そして、この方が化学システム工学科にいる事が、東大の不思議な点なのだ)。

本書は日本品質管理学会(JSQC)監修のJSQC選書の第1巻で、日本規格協会から出版されている。とはいえ、一般人むけに書かれており、薄くて読みやすい本である。

本書は、最初に、動燃のアスファルト固化処理施設における火災・爆発事故('97年)と、その『虚偽報告』の事件から出発する。ついで横浜市大付属病院の患者取り違え事件('99年)、雪印乳業集団食中毒事件(2000年)など、かつての品質大国ニッポンを疑わざるを得ないような事件が近年起こっていることを指摘する。

だが、以前の日本が実現した品質とは何だったのか。著者は「'60~'85年といういわゆる高度成長期を一つの時代と見るのが適切ではないか」(p.23)とした上で、工業製品の大衆化による高度経済成長期にあって、その競争優位要因は品質であった、と見る。ここでいう品質とは、大量生産する品物の特性の安定性という意味だ(いわゆる“後ろ向き品質”)。「'80年代の半ばまで、TQCが経営者を惹きつけた理由は、質が経営に貢献すると言うことが非常に分かりやすい形で納得でき、魅力的だったからである」(p.68)。

この方程式が成り立たなくなったのは、成熟市場の社会に入った'90年頃からだ。消費者ニーズの多様化と、経済のソフト化・サービス化が進行するが、そこではニーズを具現化する“前向き品質”が求められる。かつてのTQC方法論では、この変化にうまく答えられなかった。

そこで著者が改めて提案するのが、「Q-Japan構想 - 品質立国日本再生への道」である。その内容は、(1)自立型精神構造の確立、(2)産業競争力の視点からの質の考察、(3)“社会技術”のレベル向上、の三本柱からなる。

ここで著者は、「組織は製品・サービスを通して、価値を提供する。質とは、価値の提供を受ける側にとってのニーズにかかわる、その製品・サービスの特性・特徴の全体像である」(p.69)と、あらためて再定義する(「品質」から、物品を連想させる「品」の文字が消えて「」だけになったことに注意されたい)。この定義は、“ニーズに関わる”という目的志向の考え方、目的達成に必要な方法論の基盤をあたえるものだ。

著者は2005年12月に発行した「JIS Q 9005(質マネジメントシステム-持続可能な成長の指針)」でも中心的役割を果たす。JIS Q 9005では、満点のない自己評価を推奨している。だが、これが評判がわるい、と著者は言う。ほかと比べられないと非難されるのだそうだ。だが「自分であるべき姿を描き、その基準に照らして評価すればよい。なぜすべての会社を同じ尺度で評価しなければならないのだろうか」(p.53)と、企業に逆に問いかける。

さらに問題を抱える企業の経営者達に、自社の競争力のありかについてたずね、「それを可能にしている組織能力は何ですか、それを将来ももち続けるためにはどうすればよいですか、との問いに納得できる答えがない」(p.79)ことを見いだす。つまり、日本企業は自分の“あるべき姿”がわからないのである。これでは前に進むことが出来るはずがない。本書の後半は、JIS Q 9005のフレームワークに従って、これを見つけるための活動の仕組みについて解説する。

本書はまた、わたしの属するエンジニアリング業界に対しても示唆するところが大きい。「サービス産業においては、質と生産性の維持・向上に最も重要な、固有技術の可視化、構造化、最適化(標準化)が不十分」(p.111)だったためにTQCが成功しなかった、と著者は言う。しかしながら同時に、「日本人の面目躍如たる特徴は“未定義でも前進できる精神構造”ではないかと思う」(p.81)。 「コンカレントエンジニアリングを容易にしたものは、未定義でも進める精神構造をもつ関係者が価値観を共有できる仕組みを持ち、未定義でも進行し変更へも柔軟に対応できるプロセスを運営しているからである」(p.82)。これらは、まさに日本のエンジニアリング企業の強みの源泉でもあるからだ。

最後の章は、社会技術について充てられている。まず、「技術とは、“目的達成のための再現可能な方法論”である」(p.114)と定義する。その上で、「経済性という単純なインセンティブによって健全な発展を望むことが難しく、何よりもよしあしが社会に与える影響が大きく、社会全体として何らかの方法論をもっていなければいけないとき、その方法論の全体を“社会技術”と呼びたい」(p.119)という。そして、医療安全、交通・物流、製品安全など社会のインフラをささえる方法論について考察する。ここは、東大で社会医療システム講座を運営する著者の面目躍如たる部分であろう。

本書は、質マネジメントやJIS Q 9005に関心のある読者のみならず、経営の今日的課題について真剣に考えたいとねがう多くの人に示唆を与える、良書である。
by Tomoichi_Sato | 2011-11-03 23:36 | 書評 | Comments(0)

書評「生命を捉えなおす ― 生きている状態とは何か」 清水博・著

生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)

非常に面白い、知的刺激に満ちた本だ。著者は今は東大名誉教授だが、本書の初版が出た1978年には、まだ40代半ばの現役薬学研究者だった。その頃に、このように構想の大きな、ある意味ではアカデミズムの専門性の枠を踏み外した本を書くのは、勇気のいることだったかもしれない。しかし、おそらくこの本に書かれているテーマ、すなわち「生きている状態とは何か」を探求することこそ、著者が研究の道を選んだ原点だったに違いない。

近代科学は分析的方法を専らとしており、かつアトミズムに裏打ちされた分子生物学の方法は、「生きている状態」を括弧に入れたままで、生物の還元論的研究に邁進する道を開いた。しかし、マクロな視点に立つと、「生きている状態」と「生きていない状態」は一種の相として捉えることができる、と著者は考えはじめる。そこで統計力学にヒントを求め、自然の性質に「内部エネルギーの小さな安定状態と、エントロピーの大きな自由度を同時に求める傾向があり、一方ではこの二つが互いに相反した要求になっている」ことから、動的秩序の自己形成プロセスを調べていく。

その結果、化学レーザーに見られるような自己励起(自己触媒)プロセスにおいて、系が(ミクロには)不安定な状態に置かれているとき、ゆらぎが引き金として作用すると、秩序の自己形成が次々と進行することを見いだす。さらに著者は自分の専門領域である筋肉収縮について、流動セルと呼ばれる巧妙な実験装置を考案して、ATPのもつ化学ポテンシャルを直接、一方向流動に変換する現象を発見する。これを説明する第5章が、本書の白眉であろう。このあと、著者の考察はさらに非線形振動の引き込み現象から、生体における「情報」の機能を探ろうとする考察が後半である。そして著者は本書の初版出版後、脳の研究にむかう。

生きている系には、動的協力性をもつミクロな要素(松岡正剛の命名にしたがって「関係子」と著者は呼ぶ)の相互関係が働いて、秩序を形成している、というのが著者の主張である。ここはまだ思弁と仮説の段階にある。とはいえ、いろいろな意味で、はっきりした問題意識と、明確な科学的手法による探求の結果生まれた主張がちりばめられていて、面白い。生命現象ならびに非線形現象に興味のあるすべての読者にお勧めする。
by Tomoichi_Sato | 2011-10-27 22:30 | 書評 | Comments(1)

書評:「算法少女」

算法少女 遠藤 寛子・著 (ちくま学芸文庫)


江戸時代に出版された和算の書物「算法少女」をもとに、史実に忠実なかたちで創作された小説。神田に住む町医者の娘・千葉あきは、父の指導で算法(数学)の才能を開花させ、やがて、自身も算法家である久留米藩主・有馬公に見いだされるが・・。

元の和算書『算法少女』は1775年の出版である。江戸中期、すでに社会は安定し、逆に固定化されて、数学は発達しつつも純粋な知的趣味の対象となっていた。そしてまた、流派と家元制度にしばられ、まるで盆栽のような狭く偏った育ち方を強いられた時代でもあった。一方では、数学を、金銭を数える技術として卑しむ風潮もあった。

こうした中で、物語の後半に登場する本多利明という算法家が、数学は世の中が発展していくための基礎である、という新しい考え方を主人公あきに教える。それは、算法を『壺中の天』の楽しみ(つまり現実から逃避するオタク的知的娯楽)と考える、あきの父とはまったく異なった思想である。こうして物語は、新しい世の中の、明け方に希望を託すかたちで終わる。読み終わった後で、ほっとする感情を読者に残す小説である。わずかであるが、算法の問題ものっていて、答えが書かれていない分、読者が自分で考える楽しみもある。挿絵も良い。

こうした『理系好み』の、しかし歴史と文学に根ざした小説が、インターネットの「復刊ドットコム」のリクエストに応えて文庫で出版される点をみると、私たちの世の中もまだ多少は捨てたものではないと感じる。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-29 18:00 | 書評 | Comments(0)

書評: 「不確実性のマネジメント」 桑嶋健一

不確実性のマネジメント - 新薬創出のR&Dの「解」

医薬品の中には、1gあたりの価格が宝石よりも高いものもある。画期的な新薬の開発にうまく成功すれば、一品目だけで数年から十数年にもわたって、製薬企業の収益を支えることができる。まさに宝物である。

そのような画期的医薬品の代表例の一つが、三共(現・第一三共)の高脂血症治療薬「メバロチン」であった。1991年から2003年まで、13年間にわたって日本の医療用医薬品の売上高トップの座を維持した。しかし、本書によれば、メバロチンの開発は計画の線に沿って進展したプロジェクトではなかった。'73年にコレステロール合成阻害作用を持つリード化合物が発券されていたが、マウスによる動物実験ではまったく効果が出なかったという。しかし、飲み屋での偶然の出会いから、別の動物の非公認実験の協力者を得て活路を見いだし、'81年からは前臨床試験、そして'84年から人による臨床試験が始まる。認可を得て販売開始したのは'89年で、ここまでに16年の歳月がかかっている。また臨床実験では通常、数十億円の費用がかかる。

このように偶然や運が大きく作用する医薬品開発プロジェクトは、どのようにマネジメントされているのか。これが本書の研究テーマである。著者は筑波大の助教授(出版当時)で経営学者であるが、比較的読みやすく書かれている。

新薬開発の成功確率は、2006年の業界団体調査によれば、約1万2000分の1である。まさに一攫千金の宝探しと言っていいい。製薬企業のマネージャーの中には「医薬品の研究開発はマネジメントできない」という人さえいる。にもかかわらず、著者の調査による比較では、日本の製薬企業の間における新薬開発の生産性(成功率)に関し、歴然とした差が見られるのである。その差はいったいどこから来るのか?

「粘り強い研究が画期的な成功につながる」というストーリーは、しばしば聞かれる。しかしこれでは、逆に言えば「いつまでもプロジェクトを止められない」問題も生じる。

著者は、新薬プロジェクトを、上流(探索段階)と下流(開発段階)に分けて考察する。そして、継続か打ち切りかの「go or no-goの判断」が最重要である、との仮説にたどり着く。ところで、臨床試験段階に入ったプロジェクトは、すべて厚生労働省に申請して始める事が義務づけられている。すなわち、医薬品業界は、新製品開発プロジェクトの公的な統計が存在する、きわめて珍しい業界なのである(殆どの業界では、すべて秘密裏に進むために失敗統計が公表されない)。著者はこれを利用し、「生存時間解析」という手法を用いて、主要10社のデータを分析比較する。

その結果わかったのは、フェーズ2と呼ばれる有効性試験の途中で、明確に絞り込む事が最も効率がよいらしい、との事だった。そして、10社の中で最も成績の良い武田薬品は、まさにこのパターンの戦略にしたがっているのである。(余計な話だが、わたしはこの桑嶋氏のデータに対して、リスク確率に基づいたプロジェクト価値分析を行って、フェーズ2成功の価値貢献が最大である事を、2010年のスケジューリング学会で報告した)

本書の後半1/3は、優れた製品開発マネジメントの産業間比較にむけられる。そして、「市場ニーズの多様性」と「製品構造の複雑性」という2軸での整理による藤本・安本モデルをもちいた分析が行われる。

本書の主要な主張は、不確実性と運に大きく支配される製品開発においても、組織によるマネジメントはあり得るし、有効でもあるという事にある。その鍵は、意志決定と、勇気ある中断撤退にある。本書の副題が、「新薬創出のためのR&Dの『解』」であることにも示されるように、製品開発マネジメントとリスクについて興味ある人々にとって必見の書物である。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-30 23:28 | 書評 | Comments(0)