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書評:「世界一やさしい問題解決の授業」 渡辺健介・著

世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく」 渡辺健介・著 (Amazon)


問題解決って、何だろう?

問題だったら、誰にとっても、あふれるほど身の回りにある。やってる仕事がうまく進まない。そもそも作業自体がつまらない。人も予算も足りないし、顧客はバカで無理難題ばかりいうし、上司は無責任で同僚後輩は無能で業者は頼りないし、官庁は現場を知らずに勝手な要望を言うし、家に帰れば配偶者は仏頂面で娘息子は口もきかない、といった具合だ。問題とは学校卒業以来、長年のつきあいである。いや、学校にいたときだって、入学試験から期末テストまで、問題とにらめっこの日々だったではないか。だとしたら、晴れて小学1年生で入学して以来、ずっと問題とつきあいつづけている訳だ。

ただし、学校のテストで出る問題には、一応、正解がある。やっかいなことに、現実で向き合う問題には、正解があるんだかないんだか、よく分からぬ。いや、その前に、出題者という者がいない。「出題者の意図を推し量って・・」が学校での問題への取り組み方だった。それにテストの多くは、知識を問う問題だったが、現実では知識を持っていてもすぐ使えなかったり、役に立たなかったり、足手まといだったりさえする。

そんな現実の問題の解決方法を、小中学生にも分かるくらいやさしく教えてくれる、というのがこの本である。著者の渡辺健介氏は、中学2年生からアメリカで教育を受け、1999年にイェール大学を卒業、マッキンゼー東京支社に入社。さらに2003年にはハーバード・ビジネススクールに留学し、2005年にマッキンゼー・ニューヨークオフィスに移籍。2007年に本書を刊行後、独立して、現在デルタスタジオ代表取締役、というピカピカの経歴だ。

著者は22歳のときにマッキンゼーで「問題解決能力」(Problem Solving Skill)の体系的なトレーニングを受け、「これが『考える』ということなのか! なぜこれをもっと早く教えてくれなかったんだろう」と強く思ったという。国際人として必要な資質は、語学より、むしろこのような思考の総合力——問題を解決する方法を考え抜き、実際に行動に移す姿勢にある、と信じ、それを子ども達に広めようと、本書を書き、自分の会社デルタスタジオを設立した、ということらしい。

実際、本書は全頁カラー多色刷りで本文はわずか100頁ちょっと、マツモトナオコさんの面白かわいいイラスト入りで、子どもでも手に取りやすい体裁にできている。しかし、買ったのはむしろ大人のビジネスパーソンだったようで、発売後3週間で10万部を売るベストセラーとなる。ビジネス書のランキングで堂々一位、たぶん累計で30〜40万部は出ているらしい。

では、実際に紹介されている問題解決の手法とはどのようなものなのか。本書ではイントロ部分のあと、具体的に二つの問題が取り上げられている。一つ目は、「中学生バンド『キノコLovers』を救え!」というストーリー、二番目は、CGアニメ監督を夢見るタローくんが、たりないお小遣いでパソコンを手に入れるまでの話である。

中学生バンド『キノコLovers』の直面している問題は、どうしたらもっとお客さんに聴きに来てもらえるか、というテーマだ。ここで原因分析のために「分類の木」(ロジックツリー)というツールが、まず導入される。潜在的な聴衆(学校の生徒先生あわせて500人)を、グループ別に分類する。これをさらに「はい、いいえの木」の形に整理し直す。そして、「お客が少ない」問題の原因として3つの仮説を立てて、「課題分析シート」を使って、調査の上で仮説を検証する。

その結果、有力な仮説が見えてくるわけだが、次にはその障害を破るためのアクションを考える。ここでも打ち手について「分類の木」を活用しリストアップしていく。さらに、実行のしやすさを横軸に、効果を縦軸にした「可能性と効果のマトリックス」をつかって、打ち手の優先順位をつけていく。そして「ガントチャート」の実行プランをつくる、という手順である。

二番目のタローくんのケースでは、まず目標設定について、
 ×「パソコンがほしい」「パソコンを買う」
 ○「どうすれば、半年以内に、60000円のさくら社製の中古パソコンを、人にお金を借りずに、お金を貯めて買うことができるか」
という風に具体化することからはじめる(つまり、SMART = Specific, Measurable, Achievable, Related, Time-boundである。ただし著者はこの言葉を書いていないが)。そして「仮説の木」やギャップチャート、前述のマトリックスなどを使い、最終的にはアクションのガントチャートに落とし込んでいく。さらに著者は、多数の選択肢の評価に使う「Pros-Cons List」や「評価軸×評価リスト」などにもふれている。

ただし、こうしたツールやテクニックだけを知っていても、それだけで問題解決能力が身につくわけではない。銃刀類をいくらコレクションしても、それで戦士になれる訳ではないのと同じだ。問題解決には順番がある。それは目次にあるとおり、
(1) 原因を見極める
 - 原因としてあり得るものを洗い出す
 - 原因の仮説を立てる
 - どんな分析をするか考え、情報を集める
 - 分析する
(2) 打ち手を考える
 - 打ち手のアイディアを幅広く洗い出す
 - 最適な打ち手を選択する
 - 実行プランを作成する
といった手順だ。どんなときに、どのツールを使うべきなのか。適切なタイミングが大事なのだ。

しかし、それ以上に大事なのは、問題解決に向かう姿勢そのものである。たとえ未経験で難しく思える問題にでもチャレンジし、やりとげようとする姿勢、そしてできると考える楽観的な自信の持ち方。わたしの最近の言い方でいえば、つまりチャレンジの『OS』である。著者は、「考え抜く技術」・「行動をする癖」という表現をつかい、これを身につけた子どもを『問題解決キッズ』と名付ける。問題解決キッズは、周囲によくいる、
・最初からあきらめる「どうせどうせ」子ちゃん、
・自分では行動しない「評論家」くん、
・行動するが結果から学ばない「気合いでゴー」くん
たちとは違う、という訳である。

そして、問題解決キッズを日本社会に育てるべく、著者はマッキンゼーのキャリアを捨てて、自分の「デルタスタジオ」(http://www.whatisyourdelta.com)を設立する。しかし、やめた直後はけっこう苦難の道だったらしい。たまたまその時期のことが、日本財団会長の笹川陽平氏のブログに書いてある(http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/972)が、「あと6カ月間マキンゼーに勤務すれば、ハーバード留学の奨学金の返還は必要ないそうだが、お世話になった会社への奨学金の返済と子供達に教える場所の借り入れで、貯金はなくなり、100円ハンバーガーをかじりながら板の間に寝ている生活」で、笹川氏の息子さんに布団をもらいうけたという。そんな時代を乗り越え、現在、著者は子ども達だけでなく社会人にも、問題解決のトレーニングを提供している。

ただし、本書で取り上げられている問題2例は、じつは「マーケティングと顧客獲得」「財務戦略」の事例であって、いかにも外資系経営コンサルタントが得意としそうな問題分野である。だからこそ、マッキンゼーの解決技法のフィット率が高いのだ。著者のキャリアを考えれば当然の話だが、世の中にあまた存在する問題の中で、経営コンサルが得意なものとそうでないものがあることを、読者は頭の中で区別して読み進める必要があるだろう。

それともう一点。そもそも、ここで著者が取り上げているロジカルシンキング的な解決の方法論が、本質的に向かない種類の問題もある。それは、リアルタイム性を要求される問題だ。たとえば風雨の中で船の進路を決める問題は、おちついて仮説を立てて分析している暇なんかない。ある程度「考える時間」のとれる、時定数のゆっくりした問題向きなのだ。

不得意な種類は、まだある。たとえば、美しい音楽を作曲するだとか、いいデザインをするには、といった問題も、仮説検証の方法では解けない。あるいは、難しい数学の問題だ。本書には数学の成績を上げるにはどうしたら良いか、という例題がのっている。しかし、特定の数学の問題を解くには、ロジカル・シンキングの方法は、あまり役に立たない。

数学問題の解決方法がロジカル・シンキングでない、などといったら、ムキになって反論してくる人もいるかもしれない。たしかに数学の9割9分はロジックだ。だが、正解があるかどうかも分からない、証明できる保証もないような数学問題を解く際の最初の着想は、ある種、非論理的な着想やひらめきだったりする。その証拠に数学の世界には、まだ証明できずにいる「予想」というものが結構あって、役に立っているではないか。

つまり、著者が紹介するマッキンゼー流の問題解決技法は、決して万能ではない、ということだ。じつはこの種の技法が得意とするのは、わたしが「パフォーマンス問題」と呼ぶ種類のものである。パフォーマンス問題とは、個人や、集団のアウトプットを、なんらかのモノサシで測ったときに、現れるたぐいの問題である。個人なら成績とか、バンドなら客数とか、企業なら財務数値とか、そういった問題だ。それを、きちんと論理立てて仮説検証で分析し、原因を明らかにした上で、対策を立案評価して具現化する−−そうした性格の問題には、とても役立つだろう。

しかし、数値化しにくい問題、たとえば恋人の機嫌が良くないとか、仕事が面白くない、といった問題は取り組みにくい。もちろん、恋人の機嫌を無理やり「数値化」することは可能かもしれない。そしてSMART的な目標値を設定すれば・・だが、そんな論理的だが野暮なことをしている間に、相手はもっと機嫌を悪くして、去って行ってしまうだろう。こうした美学や洞察のかかわる問題、そしてリアルタイム性の高い問題には、ロジック以外に、直感とか「身体知」とでも呼ぶべき、別種の能力の発揮が必要となるのである。

こまったことに、ロジカルな問題解決技法は、それ自体がきちんと体系化されていて、とても「頭が良く」見える。カッコいいのである。だから、どんな問題も解決できそうな気がする。では、米国にはロジカル・シンキングを身につけたコンサルタントがあれほど大勢いるのに、なぜ金融危機やら二極分化やら格差社会といった山ほどの問題を抱えているのか? (まあ他の国に比べればましだ、という意見もあるのかもしれないが)

それは、問題を部分化するからなのだ。巨大で複雑な問題、手のつけようも分からない悪構造の問題に立ち向かうとき、わたし達が気をつけるべき事がある。それは、手元の道具や方法論で攻めやすい「部分問題」だけを切り取って、解決しようとする態度である。大きな問題の一部だけを取り出して、きれいにしようとする。それで改善する部分もあるかもしれないが、もっとやっかいな問題を残りの部分に発生させてしまう可能性もあるのだ(恋人の機嫌のように)。

誤解しないでほしい。本書に紹介されたような問題解決の技法は、パフォーマンス問題にはとても有用である。もしあなたがまだ良く知らないなら、ぜひ手にとってよく学ぶことをお勧めする。だが、それは万能の道具ではない。問題解決にとって一番大切な能力とは、「どういう問題をたてるか」にあるのだから。
by Tomoichi_Sato | 2015-09-06 23:05 | 書評 | Comments(0)

書評:「日本的マネジメントの感性」 八巻直一・著

日本的マネジメントの感性 ―幕末夜話より― (静岡学術出版教養新書)    八巻直一・著(Amazon.com)


好著である。短く平易な新書版で、読みやすく、しかも内容は知識の面でも分析考察の面でも、非常に啓発に富み、優れている。テーマは題名の通り「日本的マネジメント」を支える感性と特性は何か、であり、それを近現代史の技術的・社会的エピソードから探っていく。サブタイトルに「幕末夜話より」とあるが、話は万葉集の古代から新幹線の現代まで、縦横自在である。

著者の八巻直一・静岡大学名誉教授の専門は本来、オペレーションズ・リサーチと数値解析である。そして静岡大学のMOT(技術経営論)大学院の立役者でもあった。とはいえ本書はアカデミックなスタイルとは無縁であり、文体も柔らかく、数式も一切出てこない。随筆のような形をとりながら、じつは周到に、メインテーマの問題に多方向からアプローチしていく。

 わたしが八巻先生との面識を最初に得たのは、たしか2006年頃、経営工学会の「経営システム」誌の編集委員会でのことで、当時すでに斯界の大家であった。その後、スケジューリング学会長をされているときに、ご縁があって「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」立ち上げのスポンサーになってくださったのである。この春には、八巻先生ご自身にもご講演をお願いした。その時の話題であった日本の蒸気機関車技術開発に見るマネジメント論も、この本にカバーされている。

日本の蒸気機関車の製造と運行は「世界に冠たる」レベルであった。C51やC62はその完成系である。しかし、「遂に、蒸気機関車時代には、我が国は真の意味での先進国には到達できていなかった」(p.69)と著者は書く。なぜか。それは導入技術の改善だったからである。技術導入は先進国にキャッチアップするための最も効率的な手段だ。しかし「試行錯誤の経験の機会を失うこと、独自の発想が制限されれること」の弱点がある(p.68)。後者の弱点は、留学帰りの技術者が頂点に君臨する階層的組織で、技術的冒険をリスクとして忌避する傾向を生み出していく。

たとえば、欧州留学者が「動輪の回転数の技術的限界とされていた数値」(p.67)を、学んで帰ってくる。以後、それが国産設計の目標値になってしまうのだが、その数値の本当の由来を知らないため、「これを打ち破って、さらに高い回転数に挑戦することはなかった」(p.67)。その一方、「南アフリカなどでは、(日本と同じ)狭軌でありながら、C62を大きく凌駕する先進的機関車を生み出している。」(p.69)事実がある。

では、日本の鉄道技術者達は独創性に欠けた人々だったのか? そんなことはない、と著者はいう。その好例として出してくるのが、旧満州鉄道の傑作「特急あじあ号」であり、また60年代の東海道新幹線開発である。これらはいずれも、独創技術というより既存技術の組み合わせであったが、その『システム思考』と、大勢の技術者たちの協力が素晴らしかった。とくに「新幹線の登場は、衰退気味だった世界の鉄道の再生をもたらし、高速鉄道を今日の世界的隆盛に導いた救世主となった」(p.83)、世界史的な意義を持つ仕事であった。

「我が国の技術者たちは、旧弊な組織に束縛されている中では、閉塞的な考え方からなかなか抜け出せなかった。しかし、束縛から解放されると、一気にエネルギーを爆発させた」(p.71)。そこにあるのは、突出した個人の独創性よりも、全体をまとめる総合力の強みらしい。

それは集団主義的な日本文化の特質なのだろうか? 著者は必ずしもそうは考えないようだ。「いわゆる日本的なもの」には、昔から続いている部分と、明治時代になって強まったところがあると見ている。

ちなみに、この文章を書きながらたまたまTVをつけたら、高野陽太郎・東大教授が「認知のバイアス」の話をしていて、「日本人が集団主義的だ・異質だ」という見解は80年代の日米貿易摩擦の頃から欧米に広まり、輸入される形で国内でも流布したが、心理学的な実験では否定される、と話していた。人間の行動は外的環境条件によっても、内的な要因によっても左右されるが、他人の行動を「内的要因」(つまり文化だとか性格だとか民族性だとか)ばかりで解釈したがるバイアスが、わたし達には強いらしい。

本書からもう一つ、印象にのこるエピソードをあげよう。蒟蒻(コンニャク)にまつわる技術史と社会史である。栽培が難しく物流にも制約があった蒟蒻芋の市場を拡大したのは、茨城の中島藤右衛門という人のすぐれた技術開発だった。芋から有効成分を精製し「荒粉」という中間製品の形で流通可能にしたのである。江戸時代後期のことだった。荒粉を仕入れて大都市に運ぶ仲買人は大きな利益を得るようになり、芋栽培の不安定と相まって相場商品となっていく。

そうなると、農民も黙ってはいない。時期を見て高値で売ろうとする。「隣の農家さえも敵となる相場の世界に、蒟蒻を通して足を踏み入れる醍醐味であり、困窮を極めていた農家が、巨万の富を得る可能性が開けた瞬間であった。」(p.141)

そうした農家のチャンスはしかし、昭和40年代に入ってからの工業技術の発展で大きなインパクトを受ける。日数のかかる天日干しのかわりに、機械乾燥が現れ、生産リードタイムが劇的に短縮する。しかし同時に、加工の仕事は農家から、機械設備を所有する企業に移るのである。さらに品種改良によって、平地での蒟蒻芋の栽培が容易になる。

「農家は荒粉で儲けることができず、ひたすら蒟蒻芋の生産性を上げるしか収入の道がなくなった。それよりも、蒟蒻マーケット自身が格段に拡大した訳でないのに、それを超える生産性を達成した副作用は、安定供給の達成によって相場のうまみが抹消されたことと同時に、市場価値の下落を招いたのである。」(p.142)

そこで著者は問う。生産性の向上は、産業の発展に結びついたのか。「プレーヤが善を求めて活動することが、結果的に全体の幸福には必ずしもならない。このことこそが、マネジメントの大きな課題なのではないだろうか?」(p.143)

「日本的マネジメント」の評価については、日本社会の中でも、'70年代以前の後進論、'80年代の《ジャパン・アズ・ナンバーワン》風な絶賛論、そして2000年以降のグローバリストによる特殊性批判、という具合に極端から極端へ、振り子のごとくふれ続けてきた。だがそろそろ、全否定でも全肯定でもない、もっと客観的な視点が必要になってきたのではないか。欠点を咎めるのではなく、長所を認め、違いを伸ばす形での見直しが大事な時期に来ていると思う。

幕末の英傑たちの自由闊達も、明治政府の位階権威主義も、ともに日本人の生み出したものである。束縛を離れた技術者たちの総合力も、官僚的な縦割り・縄張り主義とリスク忌避も、ともに日本的な姿ではある。では、どのような外的条件が、違いを生み出すのか? それを考えるには、自分たちの過去の歴史に学ぶしかないのだ。だとしたら、それを考えるに絶好のヒントを与えてくれるのが、本書なのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-07-15 23:33 | 書評 | Comments(0)

書評:「自分でできる夢分析」 江夏亮・著

自分でできる夢分析 江夏亮・著(Amazon Kindle版)


ある朝、悪夢から目覚める。汗びっしょりで、恐怖に震えながら、「夢でよかった。これはただの夢なんだ。」と自分に言い聞かせつつ、いつもと同じ日常生活に戻っていく。数日間はそのことを覚えているが、いつしか忘れてしまう・・こんな体験を、誰もが持っているだろう。わたしもそうだった。この本を読むまでは。

しかし、この本を読んでからは、はっきりと変わった。何が? 怖い夢を見たら、目覚めてから、「自分の中で、何かが間違っているらしい。この夢は、そのことを警告している。」と思うようになったのだ。起きてすぐに、自分が直近にしてきた行動や決断や思考をふりかえってみて、何かが足りなかった、あるいは余計だったらしい、と疑ってみる。そして多くの場合は、自分の自信過剰や不明に思い当たり、軌道修正をすることで、未然に難を逃れる。そんな経験を、時々するようになった。夢に、助けられるようになったのだ。

本書は非常に興味深い、かつ実用的な本である。内容はタイトルが表しているとおりで、副題に「ハイヤーセルフからのメッセージ」とある。「ハイヤーセルフ」とは、自分の無意識の中にある、高次な叡智をシンボル化したもので、著者が立脚するトランスパーソナル心理学の用語である。そして、夢とは自分の中にあるハイヤーセルフ=「もう一人の自分」からの大切なビデオレターのようなものだ、と考える。ちなみに著者は臨床心理カウンセラーとして長年日本で活躍している人で、またカリフォルニア臨床心理学大学院(CSPP)の実務家准教授でもある。

夢判断のたぐいは古代からあった。だが周知の通り、夢分析はフロイトによってはじめて、精神分析の重要な手法に位置づけられた。その後、ユング、ゲシュタルトセラピー、ボスなどにより、さまざまな臨床的手法として展開された。ただ、その後、心理学は次第に夢分析への関心を弱めていく。現代の三つの主たる心理学派は、行動主義、精神分析、人間性心理学である(p.256)が、著者は夢分析を、再び積極的な手法として統合的なカウンセリングの中に位置づけたいと考え、本書を書いたという。とはいえ、本書は特定の心理学派の立場や主張にとらわれず、広い範囲の研究や主張を、公平に紹介している。

最初の悪夢の例でいうと、著者はこう書く。「人はどちらかと言うと、強い事の方をよく覚えています。そこで、[ハイヤーセルフは] あなたにできるだけ覚えてもらうために、手紙の外観を強くします。そして、その怖さゆえに、普段は夢を覚えていないあなたでも、記憶に留めやすくなると言うわけです。」(p.6)--つまり、怖い夢とは、無意識からの強いメッセージ性を帯びた警告である、という訳だ。

じつは、たいていの場合、夢はそれ以前にも、よりマイルドな形で、同じ内容のメッセージをわたしたちに送ってきているのだ。でも、それに気づかず、無視しつづけると、夢はよりシリアスな形で、わたし達に内容を突きつけてくる。だから、怖い夢を見たときは、ある意味では冷静に反省する、よいチャンスなのだ。仮に自分が死んだり殺されるような夢でも、それは警告であって、決して予言や予知夢ではない。(予知夢、という現象もまれにはあるが、統計的にはきわめて少ないことを著者は例証している)

そして、夢は自分にとって、変化の手がかりなのである。「夢に現れると言うのは、それを扱う準備が整っている1つの証拠です。スキーマが夢に直接的に現れる時には、夢見てはその隙間を書き換える準備が整っているのです。」(p.56) ここでスキーマとは、心理学用語で、ものごとを理解・認知する枠組みのことである。「もし夢の何かを伝えるという試みが成功すれば、同じ内容の夢をほぼ同じ時期に2度も見ることはありません。むしろ、あなたが受け取ったメッセージに沿って夢は変化していきます。」(p.73)。ここらは、長年、多くのセラピー事例を扱ってきた著者ならではの実感なのであろう。

著者はまた、心理分析の専門家が、クライアントの夢を分析して、メッセージ内容を解釈・断定する、従来のやり方に批判的である。クライアント(著者は「夢見手」という用語を使う)自身こそが、夢のメッセージを解釈する主体でなければならない。分析家はそれを補助し支援するだけに留まるべきである、と。「夢の分析家は、夢を分析するときのプロセスの専門家であり、夢見手が夢の内容・意味の専門家になればいいのです。」(p.58)

しかし本書の真価は、著者のいう『夢孵化』=夢に自分から問いかけ、夢に答えを聞く具体的方法にある。もともとはディレニーとリードらが開発した手法だが、著者はそれを使いやすい形で発展させている。

夢孵化は、以下のような手順をとる(p.226-232):
(1) 夢に質問したい内容を、一つの文章にまとめて記す
(2) 簡単な自己カウンセリングを行い、夢孵化文を確認する
(3) 夢孵化の文章を書き直す。本当に夢に聞く必要のあることは?
(4) ハイヤーセルフに問題を委ね、問題を手放すイメージエクササイズをする
ここまでだいたい30分程度かかる。そのあとはゆっくりと寛いで、就寝する。枕元に夢のノートと筆記用具を忘れずに。こうすれば、夢が、夜中に質問に答えてくれる。イメージを通してだが、はっきりと。

そして、夢孵化の実例をいくつか解説している。面白いので、わたしも一、二度だがやってみた。ただ、(4)の「問題を委ねて手放すイメージ」というところが難しく、ちょっとコツがいるらしい。そしてもちろん、夢のメッセージ自体が多義的だ(これはシンボルというものの性質なのだろう)から、解釈するときに間違えることもある。最初は、専門家の指導で少し練習してみる方が良さのかもしれない。でも、もし身につけば、きわめて有用な助力となるだろう。

ほかにも本書には興味深い記述が散見される。フロイトの解釈については、「フロイトの生きた19世紀から20世紀初頭のウィーンでは、極端に抑圧されたものはセクシャリティに関することで、結果として、それらが夢に隠されたのでしょうが、今の日本で極端に抑圧されているのは、自分らしく生きることかもしれません。」(p.197)という。

また、自分を変えたいという望みについても、こう書く。「人の問題行動が厄介なのは、たとえそれがマイナスの結果を本人にもたらすにしても、そのマイナスの結果を本人はよく知って慣れているので、嫌な結果でもなんとか代償を払いながらもそれををしのぐやり方を知っている、という点です。ですから、自分にマイナスと分かっていても、変な安心感、なじみ感からそれを選んでしまうのです。」(p.206) 

さらに、「私たちが何か問題に対処するときには、それまでの経験と知恵の全てを使って、それを解決しようとします。しかし、それでは解決できないので問題として目の前に存在します。ということは、これまでと同じことをしても、その問題は解決できないのです。言い換えれば、その解決には本人にとって新しい何か、未知の要素が必要となります。」(p.264)などは、多くのクライアントの変化を見てきたカウンセラーならではの判断だろう。

また、「夢に [スキーマが] 現れたら、夢見手は使う準備ができている、と言う表現があります。つまり、夢見手にある特定のスキーマや否定的自動思考を修正できる準備が心理的にできたとき、それらを受け入れる心理的な行体制が整った時、そのような夢を見て覚えているのです。」(p.203)という観察は、自分の側のレディネスを夢から知ることが出来る点で、有用である。

ちなみに本書には、著者自身が、大企業の研究所の職を捨てて、心理学の道へ転身するときに見た夢や、その後、日本でのポジションを捨ててアメリカに留学すべきか迷っていたときに見た夢(夢孵化によって得た答えの夢)の事例が記されている。いずれも非常に印象的な夢であり、道しるべとしてこの上ない価値を持っている。それだけの価値を、夢は持っているのだ、というのが著者の信条なのだろう。

なお、ついでに書いておくが、著者はわたしの大学時代の友人であり、修士課程の時は同じ研究室で机を並べて勉強していた。彼は水・エタノール系のエントロピーの研究をして、製鉄会社に就職し、わたしは諏訪湖の生態系シミュレーションを研究し、エンジニアリング会社に進む。そして彼は、研究所で開発した製品により社長賞までもらうのだが、なぜか突然、会社を辞めて心理学を勉強し直す道を選んだ。その後はお互いに忙しく、あまり接点もないまま過ごしてきた。最後に会ったのはもう10年以上も前になるが、著書を出したときいて、買ってみたのがこの本なのだ。だが、個人的な友人だからという理由ではなく、一読者として、本書はとても価値がある良書だと思う。

彼はカウンセラーとして、人の変化や成長という現象に、ずっと向き合ってきた。だから、随所に、その観察から得た知恵がちりばめられている:

「自分にとって新しい領域に入るときには、自分の進む道を無謀としないための慎重さと、不確定要素を抱えながら前に進む勇気、この2つが必要です。」(p.266)

「本当の勇気が試されるのは進む時だけでなく、引く時も同様です。いちど始めた事から撤退するのも判断が難しく、真の勇気が必要です。 」(p.266)

「本来の自分自身になるためには、逆説的ですが努力が必要なのです。どんな自分になりたいのか、その人自身が選んで決めていく必要もあります。
 この人生は、自覚して自分の人生を生きるか、それとも無自覚に生きていくか、その間を揺れ動きます。無自覚で知らないうちに流される時、それは、他人や周りの決めた人生を生きることを意味します。」(p.268)

--こうした文章は、中にはさまれるいろいろなクライアントのケース事例を見ると、あらためてその意義を感じる。夢というものを、どれだけ本気に受け取るかは人それぞれだろうが、人生の選択肢で行き迷っているときには、自分の心の中に聞いてみるのも良い方法なのではないだろうか。心理学のそうした応用に興味のある人なら、非常に面白い本である。広くお勧めする。
by Tomoichi_Sato | 2015-06-07 22:45 | 書評 | Comments(0)

書評:「『戦略』決定の方法 〜ビジネス・シミュレーションの活かし方」 川島博之・著

「戦略」決定の方法 〜ビジネス・シミュレーションの活かし方(Amazon)

「きみ。インドは経済が急成長しているが、水不足で困っているという話だ。特に南インドはひどいらしい。我が社の水ビジネスにとって南インド市場は有望だ。ついては現地に飛んで市場戦略の提案書をつくってくれ。」

そう、上司が言い出したら、どうするか。深く考えてのことではあるまい。きっと今朝、新聞で読んでの思いつきだろう。でも、上司の命令は命令だ。しかし南インドとなると、ネットでも本屋でもろくな情報は手に入らない。現地を見るのは鉄則だが、行き当たりばったりでは自分の目に見えた程度のことしか分かるまい・・

こういうとき、どうすべきかを、本書は順を追って丁寧に教えてくれる。すなわちシステム分析とシミュレーションを用いた、戦略決定の方法である。手順としては、次のようになる(p.12-22)。

(1) 目的を一つに絞り、数量化する
南インドのどこに水ビジネスのチャンスがあるのかが、自分の知りたいことだ。何よりの手がかりは水需要とその伸びだろう。これを「評価基準(criterion)の設定」とよぶ。

(2)分割して考える
対象がぼんやりと大きくて手がかりがない場合は、要素に分解して考えてみるべきだ。そこで水需要を、農業用・工業用・住宅用に分けてみる。これを「階層化」とよぶ。

(3)手がかりとなる数字を探す
南インドの農業用水といっても、それ自体の統計値は入手困難だ。だが農業用水の需要は、農地面積に比例しているのではないか。これは統計が見つかったが、どうも増えていない。その一方、農業生産量は増えている。灌漑の増加かとも思ったが、どうやら肥料や機械化の進展によるものらしい。これでは農業用水の需要増はあまり期待できそうもない。

(4)自分なりの仮説を立てる
南インドの工業用水の統計もない。しかし国際機関のデータによると、世界の工業用水の需要は、工業生産の増加に比べて、ほとんど増えていないことがわかった。工場の水利用の効率化が進んでいるのだろうか。これは現地でチェックすべきポイントかもしれないが、あまり有望には思えぬ。では、住宅用は? これなら、生活水準の向上とともに、シャワーや選択や水洗トイレの普及で増えるのではないか。南インドの人口も、一人あたりGDPも伸びている。となると、住宅用が有望に思えてきた。

(5)データの変化を時系列に見る
南インド地域の人口分布を時系列的に調べてみた。すると、地域全体の人口増加率を上回るスピードで、大都市の人口が増えている。都市への人口集中がはじまっているのだ。

(6)過去に似たケースがないかを探す
日本でも高度成長期に、都市への人口集中が進んだ。このときは上下水道をはじめとする都市インフラがまにあわず、社会問題が生じた。ならば南インドでも、上下水事業や、ミネラルウォーターなど飲料水ビジネスがターゲットとなりそうだ、と考えられる。

・・ここまで問題が絞り込めれば、現地視察で見るべきポイントも明確になる。「全体像を俯瞰しつつ、攻略のポイントを明確に提示した」(p.22)優れた戦略提案ができそうだ。

このような問題へのアプローチが、著者の言う「システム分析」である。・・え? システム分析って、システム・アナリストの仕事のこと? アナリストってあれでしょ、もう年取ってコーディングが面倒くさくなったSEが、俺は『上流工程』指向だとか言いいながらやる、業務フロー描きのことじゃないの?

そうではないのだ。「システム分析(systems analysis)」は、まだコンピューターなどなかった、第二次世界大戦前夜の英国で生まれた。「イギリス本土を狙うドイツ軍に対し、劣勢に立たされたイギリス軍は、少ない戦力で有効な防衛戦略を立てるためにノーベル賞級の科学者達を動員、支援化学の知識や手法を戦争に関わるあらゆる分野に応用させた」(p.8)のである。当初、「作戦研究operational research」と呼ばれたこのやり方は米国にも取り入れられ、戦後になって「OR」(operations research)や「システム分析」と呼ばれるようになる。

第二次大戦の当初、ドイツ軍は電撃的にフランスを制圧し、イギリスは劣勢に陥る。まだ米国もソ連も参戦していない。ドイツは1940年7月、イギリス侵攻のために沿岸部の制空権を奪うべく、空軍による攻撃を開始する。「バトル・オブ・ブリテン」の開幕である。まだレーダーが未発達の当時、空からの攻撃側が圧倒的に有利というのが常識だった。しかも戦闘機の数はドイツ1100に対して英軍800と劣勢である。「戦闘における損害は戦力の二乗に反比例する」というランチェスターの法則(p.44)を持ち出すまでもなく、劣勢は明らかだった。

このときチャーチル政権下の英国は、物理学者ブラケット(後にノーベル賞受賞)をリーダーに、対空防衛作戦に助言するための物理学・生物学者らの科学者チームを組んで、定量的・客観的に問題を考えさせた。これがいかに画期的な決断か、言うまでもないだろう。軍事の素人に、作戦を助言させようというのだ。

彼のチームは、数少ない照準用レーダーの配置にあわせて高射砲を集めることを提案する。その結果、防空網に空白ができてしまうが、「高射砲をばらまくより、正確な照準に合わせて集中的に狙い撃ちした方が効率的である」という結果を、科学者達はそれまでの出撃記録のデータを分析して得ていた。事実、その方策により、敵1機を撃墜するまでに必要な高射砲の発射弾数は2万から4,000まで減るのである。またレーダー以外にボランティアの肉眼の報告も活用し、どこの基地から何機飛ばすかを数式化しておいた。しかも彼らは、「数的不利を挽回するまでの間、現存の空軍戦力でできる限り温存する」方針の下、ドイツが誘い出す全面戦闘に決して乗らなかった。レーダーと飛行場の守備に重点を置き、市街地への爆撃などは放置するという徹底ぶりである。

結局、「バトル・オブ・ブリテン」は10月にドイツが撤退して終わる。ドイツ軍の3ヶ月間の損耗率は、英軍の2倍近かった(p.69)。これが、システム分析の力なのだ。
著者は、日本軍の特攻と比較することも忘れない。当初こそ効果のあった神風攻撃に対し、米軍はすぐシステム分析に基づいた対処法を考え出す。空母の前方に多数の駆逐艦を配し、襲来をレーダーで早期に発見、空母から迎撃機を差し向ける。かいくぐって標的に近づいた特攻機も、強化された対空砲火でほとんどが撃墜されるのである。成功率は3%程度と、驚くほど低かった。「特攻の悲劇は、システム思考のできない国の悲劇でもありました。」(p.68)

システム分析を上手に行うための最大のポイントは、「モデリング」にある。良いモデルをつくるには、要素の絞り込み方が重要である。かつて経済企画庁は、日本経済の予測モデルをつくり、数千もの連立微分方程式からなる、と自慢していたが、予測はちっとも当たらなかった。じつは、大蔵省(当時)の意向で、低い経済成長率を発表できなかったのである。答えが先にあって、複雑なコンピュータ・モデルをいくら回したって、何にもならない。こういう、つじつま合わせのためのシミュレーションは現在でもしばしば見かける。システム分析の失敗例として著者があげるのは、(1)ローマクラブの「成長の限界」、(2)マクナマラ国防長官のベトナム戦略、(3)ブラック=ショールズの金融工学によるファンド(LTCM)、である。

他方、問題の立て方、評価尺度の選び方も重要だ。「同じシステム分析と言っても、イギリス型とアメリカ型にはかなりの違いがあります」(p.139)と著者は言う。金銭など数字的な分かりやすさを重視して割り切るのがアメリカ型である。これに対して歴史的な視点を重視し、問題を立体的に把握しようとするのがイギリス型で、その結果えられる結論は、「多分に分析者個人の哲学を反映したものになります」(p.139)。それでも、複雑な問題に対してはイギリス型がベターだと著者は考える。

ちなみに著者の川島博之氏は、1953年生まれ、東大農学部の助教授である。なぜ農学部の先生が「システム分析」を? と思うかもしれない。じつは川島先生は工学部・化学工学の出身なのである。大学院からは環境問題を研究し、その後、農業問題、食糧問題の研究に転じる。このときに武器としたのがシステム分析とシミュレーションであった。そして近年、この手法を応用して、
「食糧危機」をあおってはいけない」、
電力危機をあおってはいけない
データで読み解く中国経済―やがて中国の失速がはじまる
などの著書を次々に上梓し、啓蒙活動に力を入れておられる。2013年の6月には、わたしが主査を務める「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」に招いて講演いただいたが、具体例が多く、かつ意外な視点に満ちていて、非常に面白い内容であった。

本書は最初、大学生・院生を相手としたシステム分析の専門書として構想したらしい。ところが昨今、出版不況にあえぐ出版社は、「大学生は本なんか読みません」「数式の入った本なんて売れません」と、どこも協力を渋って、やむをえず文化系のビジネスパーソンをも対象とした「『戦略』決定の方法」になったらしい。たしかに、これだけの高度な内容を、数式を一切使わずに伝えていく著者の説明能力は見事である。また、挙げられている例も、ビジネス戦略から始まって、技術・経済・軍事・環境など幅広い。システムズ・アプローチに興味を持つ読者に、安心して勧められる良書である。

ただし、上記のような出版事情については、一言いっておきたい。この件では、著者は専門書を断られたがゆえに、かえって広い読者層を得たと言えるだろう。けがの功名である。しかし、本当にこれでいいのだろうか。もっと日本人が本を読んでいた頃、高級な知的人士は、「アメリカ人は本を読まない」とバカにしていた。しかし、知り合いのコンサルタント氏は、90年代にアメリカで出版した工業系の専門書で、まだ毎年それなりの印税収入を得ているという。多少高くても、彼の地では専門書は売れるのである。それは、能力向上には本格的な勉強が必要だと、彼らが思っているからだろう。

「短時間で手軽に勉強したい」→「その結果、能力はあまり向上しない」→「失敗が多い」→「だから収入もあまり伸びない」→「いつまでも忙しい」→「勉強する暇がとれない」→ よって、「短時間で手軽に勉強したい」。 わたし達の社会によく見られる、このようなダウン・スパイラルはいい加減、卒業すべきではないか。きちんと勉強し、繰り返し練習し実践することでしか、有益な能力は身につかないのである。もちろん、個人だけではない。そうしたことを理解せずに、若手に「即戦力」を要求する企業組織の側も、それにより、同じダウン・スパイラルに陥ってることに気づくべきであろう。あなたは「即戦力を育てる」医科大学を卒業したばかりの医師に診察してもらいたいだろうか? 「一週間で資格が取れる」訓練を受けたパイロットの飛行機に同乗したいだろうか? 

わたしなら、ごめんだ。
by Tomoichi_Sato | 2015-03-19 23:57 | 書評 | Comments(0)

書評: 「我が国文化と品質」 圓川隆夫・著

我が国文化と品質―精緻さにこだわる不確実性回避文化の功罪 (JSQC選書)(Amazon.com)


薄くて小さな本だけれど、驚くほど内容がつまっている。著者は東工大教授で、日本の経営工学会の重鎮だ。専門は生産管理、品質管理、そしてSCM。長年の卓越した功績で、2013年には紫綬褒章を受章されている。

本書は日本規格協会からでているJSQC選書の一冊である。この選書では、以前、飯塚悦功「Q‐Japan―よみがえれ、品質立国日本 (JSQC選書)」を読み、そちらも非常に面白かった記憶がある。品質管理というと、どうしても工場の生産ラインにおける品質測定とか統計的管理ばかりを思い出しがちだし、また他方、ISO9000のQMSという文書手続き主義が連想されるケースも多いと思う。しかし現代の品質管理学は、むしろ設計段階における『前向き品質』をどう確保するか、という方向にむかっている。そこでキーになる概念は、“品質とは顧客の期待を満たす程度である”という、顧客基準の品質の考え方だ。

著者は長年、企業の顧客満足度(Customer Satisfaction = CSと略す)の調査を行ってきた。世界の国別の「国際競争力ランキング」を、スイス国際経営研究所(IMD)が毎年発表しているが、日本は「CS重視の経営」の項目ではつねにトップにランクされており、日本企業の強みとなっている(p34)。ところで、顧客満足度CSについてはマーケティング理論でいろいろなことを言われているが、その一つに「CS向上は再購買や売上増に結びつかない」という主張がある。

しかし著者は長年の継続調査を通して、企業製品のCS度は、景気の良さに逆比例する、という法則性を発見した。景気が良くなると、人々の期待度合いが上がり、相対的に同じ製品でもCSが下がってしまうのである。グラフを見ると、バブル期にはてきめん、CSが下がる。そこで、CS測定での経済変動バイアス指標は、株価で補正するのが一番簡便で良い、という。そして、こうやって補正したCS値をつかうと、CSは明らかに企業の売上・利益と相関する(p96)し、再購買や売上増に結びつかない、という論調も否定される(p97)。やはり、顧客の期待に応えること、いいかえると、「品質の高い製品づくりは、企業の業績を向上させる」ことが、科学的・客観的に明らかになったのである。これこそ、工学研究の威力であろう。

ちなみにCS調査は、個別の製品や企業単位だけでなく、国家レベルの測定の試みもある(p99)。1989年にスウェーデンではじまったもので、企業に対するCSを測定し、それを業界単位で集計し、最後に国レベルの平均値をもとめるものだ。現在では米国・欧州・アジアに広まっているが、残念ながら品質管理の本家だったはずの日本には、公的機関による取り組みがない。著者の研究室では独自調査を元に、「日本の顧客満足度」を集計し、他国と比較している。そこからわかったことは、CSの国際比較で我が国は著しく低い、という事実だ(p102)。米国や北欧諸国は国レベルのCSが高いが、日本の消費者は、質に対して厳しいのである。

話はさらに広がる。国レベルでの顧客満足度のみならず、じつは、「生活満足度」あるいは「幸福感」も、世界的な統一基準で定期的に測定され、多くの研究がなされている(p107)。そして日本は、幸福感においても、世界の中でかなり低い方だ。

面白いことに、豊かな国の方が幸せか、というとそうでもない。年間所得が15,000ドルを超えると幸福感と所得に相関がなくなるのだ(p108)。日本の幸福感はGDPが10倍になっても一定に推移しているおり、CSはバブル時代に下がったが、幸福感はかわっていない(p112)。なお、中南米諸国の幸福感は一様に高く、旧共産圏は一様に低い、という(p110)。

さて、著者はホフステードによる文化の国際比較研究に着目する。ホフステードは'70年代にIBMの全世界の従業員を対象とした調査から、国別の文化の特性を数値的に抽出する研究分野を創設した人で、彼の主著「(多文化世界 -- 違いを学び未来への道を探る 原書第3版)」は、グローバルに活躍したいと思うビジネスマンの必読書だ、と著者は言う。(ホフステードの国際文化比較は「世界の経営学者はいま何を考えているのか――知られざるビジネスの知のフロンティア」入山章栄・著でも取り上げていた)

ホフステードは文化を測定する要因として、「権力格差」「個人主義」「男らしさ」そして「不確実性回避」の4つの傾向をあげる。ところで、上記の「幸福感」をホフステードの文化要因で相関分析をかけると、説明因子として「不確実性回避」だけが残り、負の相関を持つことを著者は見いだす(p110)。不確実性を避ける傾向が強い文化ほど、幸福感が低いというのだ。

不確実性回避のスコアが高いのは、ギリシャ、ポルトガル、そして日本である(p50)。この3カ国に共通するのは何か? 考えてみれば分かるが、財政破綻である(^^;)。その因果関係は不明だが。なお、ドイツなども西欧諸国の中では比較的、不確実性回避傾向が高い。不確実性回避が弱いほど、自己肯定文化である(p129)が、日本人はいつも一種の自己否定的(self-criticism)であるというのもうなずける話だ(p60)。日本は世界最高の長寿なのに、世界の生命保険の約2割を買っているのである。

ところで、日本人があいまいさに不寛容だ、といっても、その対象は物(キズ)や時間(遅配)などに対して、である。思想や概念に対しては、逆に淡白である(p59)と著者は指摘する。これは非常に鋭い指摘だと思う。目に見えるものに対してはシビアだが、目に見えにくい、抽象的なものには関心がない。日本人の強みは「あいまいな状況でも先に進める」(飯塚悦功東大教授)という説もあるくらいだ。

概念・思想があいまいでも前に進める、ということが、「マネジメント不在でも現場が何とか出来る」企業文化を生んでいる(p134)。これが現代日本の抱えている大きな問題なのだ、というのが著者の主張である。その証拠に、前述したIMD国際競争力ランキングで、日本の弱みとしてあげられているのは、つねに「トップマネジメントの効率性」(p34)なのだ。

さて、我が国のよって立つところはものづくりにある、と著者は考える。それをもたない香港やシンガポールとは、国の戦略を全くことにするはずである(p117)。しかし、「競争優位戦略」で有名な経営学者ポーターも指摘するように、日本での失敗産業はほとんどが政府主導の形で進められた。その代表例が
・政府による共同事業化(航空機)
・合法カルテル(化学)
・免許による海外参入規制(銀行)
・補助金(ソフトウェア)
・輸入制限(チョコレート)
などだ(p76)。政府に頼って産業育成、という方程式は今やもう、役に立たないのだ(政府は「武器輸出」で同じことをまた、やろうとしているようだが)。

では、どうするべきなのか。

企業経営理論はそれが考案された国で有効なだけで、超優良企業への道は一つではない(p46)と著者は言う。そこから著者は、得意分野であるSCMの分析に話をつなげていく。著者はSCMロジスティクススコアカード(LSC)を考案し、これを武器に、企業のSCM性能と財務データの関係を測定した。その結果、SCM組織力が高いほどROAは高くなることが明らかになった(p126)。

しかし、強い「不確実性回避」の傾向が、企業のSCM組織力を低くしている(p129)。そして、驚いたことに、SCM組織力の低い状況では、IT活用度が高まると、逆にROAは下がってしまうことが分かった(p127)。この事実は非常に衝撃的である。ふつうは、IT投資を活発にすれば、企業業績向上につながる、とコンサルタントは口をそろえるのだが、SCM組織力が低い企業では、逆の結果になってしまう、というのだ。他方、著者の調査では、海外ではICTの活用がSCMの経営戦略とリンクしたものになっている(p130)。

したがって、日本企業のチャレンジすべき大きな課題は、SCM能力の向上だという結論になる。ちなみに、同一企業内で調査しても、SCM組織力の自己評価は、現場に近い人ほど低く、トップマネジメントほど高い。つまり、認識にギャップがあるのである(p131)。そして、認識ギャップが小さいほど組織成熟度は高くなることを、右下がりの非常にきれいな相関グラフとしてデータで示している(p136)。

顧客の期待を考え、顧客満足度を高めることを目指すこと。そのために、SCM能力を高め、サプライチェーンの見える化を進めること。そして何より、トップと現場の、自社の能力に関する認識ギャップをなくすこと。それを推進できる人材を育成すること。こうした地道な一歩一歩の努力により、日本らしい特性を生かしたものづくりのアイデンティティを復活できる--これが著者の示す処方箋である。

目に見える物事には極度の精緻さを要求する。しかし目に見えぬ概念やシステムには無頓着である。この現代日本の傾向が、「過剰品質でありながら、顧客の期待に合致するという意味での根本的な質を欠いた製品群」を生み出している。高品質なのに低品質である。この矛盾にわたし達は早く気づくべきなのだ。

顧客満足度と業績の関係などは、言葉のレベルならばどんな議論も可能だ。だが数値的な根拠を示しながら思考を進めていけるのは、まさに経営工学という学問の威力である。本書は4年前の発刊だが、その後もブランドバリューなどに関して、従来の常識をくつがえす発見を続けられていることを、最近著者から伺った。次の本が楽しみである。もちろん本書も、非常に面白い。強く推薦する。
by Tomoichi_Sato | 2014-12-17 23:41 | 書評 | Comments(0)

書評:「ザ・ジャストインタイム」 フレディ・パレ&マイケル・パレ 著

ザ・ジャストインタイム 〜現地現物が最高の利益を生む (Amazon.com)


技術はある。製品も売れている。上場したばかりのその会社は、傾いたライバル企業を買収し、工場と人と生産能力も手に入れたはずだった。だが、なぜか資金繰りが苦しくなり、銀行からは与信枠の拡大を拒まれて、今や八方ふさがりの状態に陥っていた——

この小説は、窮地に陥った若き経営者フィルが、友人マイクの父親で、リーン生産の専門家であるボブの助言をかりつつ、何とか会社を建て直していくスリルに満ちた物語である。ボブはかつて自動車部品メーカーの役員をしていた人だが、いくつもの会社を渡り歩き、経営を好転させては、避けがたい権力抗争に敗れて会社を去ることを繰り返した後、引退し趣味のヨットに打ち込んでいたのだ。

ボブをなんとか口説き落として、生産現場を見てもらうことになったが、ボブは現場を一渡り見てから、こう宣言する。『ここは金脈だと自分に言い聞かせなさい。われわれの仕事はそれを見つけ出すことだ。わかるか?』(p.60)

生産管理とは、宝の山である。しかし、ほとんどの経営者は、それに気づかない。おまけに技術者や製造技能者も、かっこいいモノを設計したり作ることが自分たちの本来の仕事だと信じ、生産管理は「雑用の山」だと考えている。だが、その雑然とした山の中にこそ、金脈は隠れているのだ。まさにこの小説が"The Gold Mine"という原題をもつ所以である。

本書の舞台はアメリカ西海岸だが、著者のフレディ・パレとマイケル・パレはフランス人の親子である。フレディは長年ルノーに勤務し、トヨタ生産方式の欧州における普及に尽力してきた。息子のマイケルはパリ・アメリカ大学の准教授で作家だ。つまり、この小説のマイク(大学教員で心理学者)とその父親ボブは、彼ら自身がモデルな訳だ。ともあれ、フランス人が書いた、トヨタ生産方式による企業改善の物語という点で、本書はまことに異色、かつ新鮮である。米国式経営一辺倒でもない、単純な日本礼賛でもない、そのきわどいバランスに成功している。ほんのちょっぴりだが、ロマンスの香りもある。

世にビジネス書は数多く、いわゆる経済小説も少なくない。しかしたいていの小説が描くのは、もっぱら経営者の人物ストーリーである。事業の成功も失敗も、すべて経営者個人の人格と手腕による——こうした説明は分かりやすいが、つねに真実ではない。現実に事業のプラスとマイナスを分ける微妙な差は、生産管理のようなシステム・レベルの問題で起きている場合が多いのだ。

そして生産の仕組みをきちんとしたければ、まず生産に関わるもの全員に、「生産とはシステムである」という思想をインストールしなければならない。生産管理とは、この動的なシステムを御するための手立てである。しかし、このような抽象的な考え方は、あいにくメディアの手短かな感動記事になりにくいし、勉強したくとも世の中に良い生産管理の本は、案外少ない。だから、本書のような小説形式による説明が有用なのである。

多くの経営者は、規模を拡大すればスケールメリットで生産コストが下がると、単純に信じがちだ。だが、それはB2Cで企業向けに受注生産している会社には、ほとんどあてはまらない。この点を小説は最初に指摘する。

「生産数量が2倍になれば、コストはおよそ10%下がる。(中略)しかし、製品の種類を倍にすると、やはり10%か、それ以上コストが上昇する。困ったことに、工業製品の顧客はたいてい特注品をほしがるものだ。だから、たとえ主力製品ないし技術だけを扱っているつもりでも、実際に売っているのは単一の製品ではない。よってスケールメリットは具体化しない。コストは生産数量に応じて上昇するんだ。」(p.19-20)

この会社が製造しているのは、エネルギー・プラントに使う高圧電流用の真空遮断器である。一般読者には馴染みのない種類のものだろうが、組立加工業種に属する点では、多くの製造業とかわりがない。ボブは、改善の着眼点を教える。

「(製品の)流れを一つ選んで、上流に向かって歩く。そして、工程をたどりながら在庫の数を数える。ムダはほとんど目に見えない。だが在庫は目に見える。そして在庫があるところ、裏には必ず何らかのムダがひそんでいると推測できる」(p.63)
「あそこの女性、部品の山をかき分けて、次の作業に使うたった一つのものを探している。明らかに彼女は仕事をしている。だが、彼女の努力は製品に何一つ価値を付加していない。動きと働きは別物であることを認識すべきだ。(中略)作業の改善とは、動きを働きにかえることだ。」(p.41)

この会社が資金ショートに陥っている理由は、明らかに在庫の過多だった。しかし、ボブは在庫削減に手をつけることはしない。真っ先に指摘したのは、不良の問題だった。

「納品した1,000台のうち5台が不良品というのは、わたしの感覚からすれば許しがたい多さだ。それでは航空会社が乗客の荷物を紛失する確率と大して変わらない。」(p.40)
「赤いプラスチックのゴミ箱をいくつか用意したまえ。それをそれぞれの持ち場に置く。作業者に与える指示は一言、『作り直すな』だけでいい。手に取った部品に何か気に入らないところがあれば、それが前工程から流れてきた装置だろうと、材料だろうと、赤いゴミ箱に入れる。それだけのことだ。」(p.126)

ここには、優先順位の問題がある。これこそ、多くの企業がトヨタ生産方式に関して誤解している、最大の点である。真っ先に考えるべき事はコストダウンではなく、顧客満足、すなわち顧客に迷惑をかけないことなのだ。

「わたしの会社が初めてトヨタと仕事をしたのは、彼らのサプライヤー開発プログラムに参加した時だったが、トヨタは、われわれの工場で納品が滞っている全てのエリアの在庫を増やせと言ったんだ。(中略)それは、いわゆる緩衝在庫だったがね。それはすなわち、何より納品に全力を注げと言うことだ。(中略)納期の遅れも数量の不足もなく、確実に納品できるようになったら、放置してきた在庫の削減に集中する」(p.95)

もちろんボブは、アメリカ流の数字至上主義の経営思想が、工場を窮地に追いやり、結果として製造業の空洞化をまねいたことを指摘するのも忘れない。

「最も効果的なコスト削減の方法は、工場をたたんでしまうことだ。(中略)わたしが知っているある工場は、親会社の経営陣によって『コストセンター』に変えられてしまった。工場の経営層のボーナスは、削減できたコストの額と結びつけられた。当然ながら彼らはコスト削減に励んだ。顧客への出荷はとめどもなく落ち込んで、製品に質はどこまでも悪化した。1年後、最大の得意先2社に見限られ、工場全体を閉鎖するしかなかった。」(p.94) ——このような事例は、遺憾ながら、わたしの関係する業界でもみかけたことである。

若き経営者のフィルは、もともと物理学者で、研究から画期的な新技術を発明して企業化した人間である。生産については素人なのだ。ボブは彼に、生産管理の基礎的な式や定義も含めて、ゆっくりと説明していく。

タクトタイム = 1日の稼働時間 ÷ 1日あたりの顧客需要」(p.115)
「作業者数 = 作業内容の合計 ÷ タクトタイム」(p.118)

そして、在庫問題の発生する本当の原因が、作業のばらつきに起因するムダにあり、標準作業を工夫する必要性に気がついていく。かくて話は、しだいに流れの整流化の方向に向かう。

「ミスをなくし、作業を標準化する最善の方法は、1人の作業者のサイクルを1分以内にすることなのだ。いいかね、1分だぞ。」(p.229)
「(ラインから人を減らすときに)仕事のできない者を外す傾向があるが、それは大間違いだ。そんなことをしていたら、いつまでも仕事を覚えないからな。」(p.109)

「翌週、何を作るかを知るためには、顧客の計画を知らなければならない。」(p.412)

しかし当たり前だが、このような生産現場の改革は、あちこちで人の抵抗に遭う。現場の労働者からも、リーダークラスからも、そして開発技術者や、経営者からも反発・批判・無理解が出る。

「大事なのは人だ! 機械でも、組織でもない。金ですらない。人には考えも感情もある。自分の仕事もよく知っている。部下とは協力関係を築くべきであって、敵に回すのは論外だ。金は結果に過ぎない。協力し合った時、人がどれほどすばらしい仕事をなしとげることができるか、金はその記録帳のようなものだ。」(p.154)
「責任感を持てと命じても仕方がない。感情の問題だから。命令されて責任感を持つようになるものはいない。」(p.184)

後半、現場を見ずに、頭の中だけでジャストインタイム風の施策を講じ、MRPを週次で回してはサプライヤーにJIT納品を押しつける管理職が出てくる。彼に対するボブの態度はきわめて辛辣だ。「大事なのはアティテュード(態度)の問題だ。」と彼は言う。結局この男は職場を去ることになるが(このあたりはいかにもアメリカ的である)、日本だったら簡単に辞めることはないし、クビにすることだってできない。そういう点では、この小説を読んでそのまま日本に当てはめようとしても、そう問屋はおろさないだろう。我々は我々なりに、別のタクティクスを考えなければならない。

小説の最後に近くなってから、田中さんという日本人が出てくる。大野耐一から直接教えを受けたという老人だ。もちろん西洋のドラマだから、彼は(まるでスター・ウォーズのヨーダの如く)東洋風の叡智に満ちた人間に描かれる。しかし、この小説は、毎度毎度同じ事を繰り返し説くトヨタ流への風刺も忘れない。たとえば在庫量を湖の水位にたとえ、水位を減らせば隠れていた岩(問題)が見えてくる、という話を引用したあとで、こんなジョークを紹介する。

「ペルーでフランス人と日本人とアメリカ人が工場を建てようようとしていた。だがゲリラに捕まって人質にされ、資本主義の手先だから銃殺すると言われた。ゲリラは3人に、最後の言葉を残すことを許した。フランス人は『フランス万歳!』と叫んで撃たれた。次は日本人の番で、『では湖と岩について話したい』と言った。その途端にアメリカ人が飛び出してきて、銃口の前でシャツの胸をはだけて叫んだ。『湖と岩の話をもう一度聞かされるくらいなら、先に撃ってくれ!』」(p.264)

大野耐一については、こんなジョークだ。

「たとえば100人の人員が、ある生産を問題なくやりとげられるとする。すると大野耐一がやってきて、10%もの人員を連れ去り、残りの90%で同じ内容の業務に当たらせる。当然ながら、残った人員はありとあらゆる問題に直面する。そして、ようやく問題を解決して、新しい目標を達成したかと思うと、また大野がやってきていう。『よし、今度はもう10%連れて行くぞ』。彼らは全員叫んだらしい。『Oh, No!
 そこでこの方式は、『オーノ』方式として知られるようになった。」(p.83)

もちろん小説だから、改革はいくつもの抵抗に遭いながらも、次第に成功の方向に向かっていくし、読者だってそれは予期している。ただ、その過程で経営者フィルは大事な部下を失ったり、いくつもの辛酸をなめた上で、次第にスタートアップの発明家からリーダーに成長していく。

「常に優秀な人間からいなくなる。それがリーダーにとって2番目に大きな問題だな。」(p.440)
「チームのメンバーに、自分の職場が一番だと思わせなければならない。この雰囲気、この価値を実現する職場は、他にきっと見つからないと。」(p.442)

他方、友人マイクは心理学者らしく、その問題にコメントする。

「人が仕事をしていて何に幸福を感じるかを、ずっと調べている研究者がいる。その調査によると、課された仕事の難しさと、その人の仕事に対する習熟との間で、バランスが取れていなきゃならないらしい。仕事が重すぎるとストレス過剰になり不安な気分になる。(中略)もう1つ大切なのは、人には自分の置かれた状況を合理的に説明してくれる理論が必要だということだ。きちんと説明がなされれば、彼らは幸福でいられる。」(P.217)

当たり前だが、仕事の問題は人にはじまり、最終的には再び人に行きつくのだろう。

「部品を作る前に人を作るべし。」(p.217)
「改善はむしろ、人を作る1つつの方法だ。」(p.403)

しかし、その円環の途中には、混沌を排し、人が単なる『動き』でなく『働き』に集中できる生産システムの構築が必要なのだ。そして、そのシステムの設計と構築には、たしかに理屈が必要だ。だから本書には、数字による四則演算レベルの説明例は多く出てくる。けれども、難しい数式など一つもない。生産管理とは、別に文系理系を問わず、普通の知性の持ち主ならば理解できるし、理解しておかなければならないはずのものである。小説としてはけっこう分厚い方だが、きちんと生産の思想を学びたいと思う人には絶好の入門書であろう。強くお勧めする。翻訳も読みやすい。
by Tomoichi_Sato | 2014-10-26 16:40 | 書評 | Comments(0)

書評:「マエストロ」 さそうあきら

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新装版 マエストロ(1) (アクションコミックス版)

マエストロ : 1  (Kindle版)


マンガの書評を書くのは本当に久しぶりだ。でも、この「マエストロ」全3巻は、夏休みに読み直して、やはり傑作だとあらためて感じたので、取り上げることにした。

不況で、日本屈指の名門交響楽団が解散する。行くあてを失った音楽家達が、謎の老人指揮者・天童のもとで少しずつ集まり、オーケストラを再結成する。演奏曲目は、「運命」と「未完成」だ。最初は不信と疑惑と、お互いへの反目に満ちていた音楽家集団が、しだいに天童の不思議な音楽づくりに引き込まれ、だんだんと一つにまとまっていく。だが、ある日、スポンサー企業から彼に関する驚くべき噂がもたらされ・・

これは、音楽と、音楽を演奏する人びとを描いたマンガである。そして、音楽を愛するすべての読者にとって、とても興味深く面白い物語となっている。念のためにいうけれども、別に「クラシック音楽ファン」だけでなく、すべてのジャンルの音楽ファンに、おすすめできる。どんな種類の楽器であれ、あるいは歌であれ、それに触れたことのある人、それを楽しんで聞いたことのある人なら、この物語のいくつものエピソードに、身をつまされ、あるいは引き込まれる思いがするだろう。

この話は、全体としてもストーリーの軸があるが、オーケストラの演奏家一人ひとりのエピソードをオムニバス形式のように積み上げて作られている。オーボエ、クラリネット、ホルン、フルート、ピッコロ、ヴァイオリン、チェロ、ティンパニ・・皆が、それぞれのシーンでは主役だ。ファゴット奏者は「地味だけれど、針に糸を通すような微妙な仕事なんだ」と独白し、トランペット奏者は「オーケストラで吹くのは、森の中で走り回るようなものだ」と若手を諭し、傲岸なホルン奏者は「歯は音楽家の命じゃのぉ」と指揮者の天童にからかわれる。それぞれの楽器が、どのような難しさと、苦労と、喜びがあるか、順番にソロを回して唄わせるのだ。まるで良くできた「オーケストラのための協奏曲」ではないか。

音楽家の物語を描くマンガは、これまで他にもあった。しかし、音楽を描くマンガというのは、表現としてはとても大きな挑戦である。何といっても、紙から音は出ないのだ。構図と、コマ割りと、漫符と、キャラの動きから、音楽のリズムや調和やドラマチックな変化を描かなくてはならない。マンガは基本、絵である。絵で音楽を表す--たとえばマネの有名な絵「笛を吹く少年」から、あなたは音楽を聴きとれるだろうか? 正直、わたしには何も聞こえない。むしろせめて、クレーの抽象画の方に、よほど和声を感じるほどだ。

さそうあきらというマンガ家のキャリアについては、よく知らない。正直、表紙の絵だけ見ると、あまり絵の上手なマンガ家という印象は受けないだろう。率直にいって、マンガ的な観点からは、あまりうまい絵描きとはいえない。背景を含めて全体に絵が白っぽいし、キャラの顔もときどき不安定だ。だが、ときおりこの人は、若いときに古典的な『絵画』の勉強をした人かもしれないと感じさせる構図がある。そして、あまりウェットな情念の湿り気を感じさせない、ニュートラルで乾いた画風なので、かえってこのような荒唐無稽な話にぴったり合っている。

そう。荒唐無稽であるということは、マンガという表現形式の持つ最大の美点である。そして、さそうあきらは、その美点を最大限に活かす話作りをする。前作の『神童』などもそうだったが、この話は、落ちついて考えると妙に都合の良すぎる偶然が多い。天童の指揮者天才ぶりを示す眼力(聴力)もそうだ。だいたい、「運命」と[未完成」だけの演奏会プログラムなど、そもそも成立しようもないだろう。

もちろん、作者はそんなこと承知の上で書いている。でも、この二曲だけをクローズアップすることで、わたし達はいろんなことに気づかされるのだ。「運命」交響曲の第2楽章、アンダンテの変奏曲の歩くようなテーマの終わり近くで、なぜメロディは急に立ち止まるのか。あるいは「未完成」の第一楽章、突如ヴァイオリンだけが、他のすべての楽器の沈黙の中で、数小節だけ悲痛な歌をかすかに奏でるのはどういう意味か。そこに、ちょうどぴったりのエピソードが重なってくる。だから良い意味で、荒唐無稽を話作りに活かしているのだ。

それにしても、オーケストラのメンタリティというのも面白い。この話の主人公は別に指揮者の天童ではない。天童(通称「ジジィ」)はむしろ、トリックスター役である。全体としては、コンサートマスターである第一ヴァイオリン奏者の香坂が、ナレーターに近い役柄を引き受けている。その香坂が、第1巻の最初の方で、

 「指揮者はオーケストラのだねっ。」

と大声で言うのである。招かれざる指導者としてやってきて、勝手な指示を出し(出したつもりになり)、しかも演奏が良ければ賞賛は全部、指揮者が持っていってしまう。まことに不条理な仕組みである。

それでも彼らがプロの音楽家として演奏を続けるのは、やはり何より音楽を愛しているからだ。彼らの、音楽の美に対する強い(しかし、めったにしか満たされない)憧れ。その失望と葛藤、だがやはり残る綿々とした愛情--そうしたものが、この話を通して、よく伝わってくる。だからこそ、第2巻のおわり、香坂が、ちょっと三枚目的なヒロイン役のあまね(フルート吹き)に対して語りかける、

 「なあ、あまね・・・それでも--
  この世で一番美しいものは 音楽だ

という夜の水上のシーンこそ、この話の中で描かれる、最も映像的に美しい絵なのである。
by Tomoichi_Sato | 2014-09-19 00:24 | 書評 | Comments(0)

書評:「受注生産に徹すれば利益はついてくる!」 本間峰一・著

受注生産に徹すれば利益はついてくる! - 取引先に信頼で応える“おもてなし"経営 -」 (Amazon)

良書である。著者は長年、金融機関系のコンサルティング会社で活躍した後、最近独立された中小企業診断士で、わたしの所属する「生産革新フォーラム」(通称『MIF研究会』)の会長でもある。知人の著書を紹介するときは、ほめるにせよ批判するにせよ中立の立場で書くのが難しいわけだが、本書は幸いにも非常に良くできており、安心しておすすめできる。

安心して推薦できる最大の理由は、本書が「受注生産」企業を対象に据えて、そのポジティブな面を書いているという、ユニークな視座にある。前から述べているとおり、日本の製造業の9割は受注生産の形態にあると想像される。にもかかわらず、世間にあふれるビジネス書の殆どは、自動車メーカーだとか著名電機メーカーなどに範をとって、“企業経営はこうあるべし、あああるべし”を論じるばかりだ。

さらに、それだけでは足りずに、Appleではこうだサムスンではああだと、海外事例を述べ立てては、(暗に)日本企業もその真似をするべきだ、と論じる。ちょっと、いい加減にしてくれよ--ずっと受注ビジネスで生きてきたわたしなどは、いいたくなる。GoogleやAmazonが、一度でも受託商売で苦労したことがあるのか? かりにあっても、ごく例外だろう。雑誌やメディアが、そうした著名海外企業を取り上げるのは、何よりも急成長会社だからだ。それに消費者向けビジネスだから知名度が高いこともある。

消費者を相手としたB2Cの商売は、たしかにうまくあたれば、大きく成長することができる。メディアは「目立つ変化」にとびつく性質があるから、急成長会社に注目する。しかし、それはとてもボラティリティの高いビジネスモデルである。成功企業の後ろには、実際には敗退し市場から退場していく多数の企業群があるはずだ。では、B2CではなくB2Bの、すなわち製造業向けに生産財をつくっている企業はどうだろうか。そのほとんどは、受注生産形態の会社である。

「受注生産企業って、本当に儲からないんだろうか? コンサルタント活動をしていると、儲かっている受注生産企業に出会うことも多いのだけれど・・」 これが、本書を書くきっかけになった問いだったらしい。著者は続ける。「減益企業は大げさに騒ぎ立て、儲かっている企業は低く静かに伏せているとはよく言われることだが、受注生産企業はもともと知名度が低いこともあり、儲かっている企業があってもまわりからは気づかれにくい」(p.1)

本書は、著者がさまざまな受注生産企業のコンサルティング経験をふまえて書いた、受注生産企業へのエールの書である。実際、現在の日本の製造業は、(メディアや官庁は気づいていないが)技術的にも利益的にも、受注生産企業が支えていると言っても過言ではない。さらに、日本の文化や社会風土自体も、受注生産形態に非常に向いていると言えよう。

それなのに、「受注生産=下請け」「受注生産=薄利」といったステレオタイプのイメージが蔓延し、働いている人たちは何となく劣等感を感じたりしている。さらに、見込生産に範をとった、間違った経営指針がとられがちである。この点をただして、もっと自信を持って受注生産に徹しよう、そのために必要な経営指針・営業政策・生産管理はこれだ、とノウハウを開陳するのが本書の特徴である。

本書は7章構成になっている。前半では、「受注生産が日本企業の強みだ」「受注生産を取り巻く環境変化が起きている」という風に、全般的な状況説明があり、後半は受注生産メーカーの「利益向上策」「工場運営の秘訣」「生産管理」「新規営業戦略」など個別の方策が書かれている。

ところで、受注生産と見込生産は、本当に企業ごとに分かれるのか? という疑問もあろう。無論、同一の企業で混在していることもある。いや、自社製品による見込生産を得意としてきた大手消費財メーカーが、受注生産に乗り出す例も増えていることを知って驚いた。「PB (Private Brand=流通業者のオリジナルブランド)製品は、メーカーのNB(National Brand)製品と異なり、広告宣伝費が発生しないことなどから低価格で販売されることが多い。そのためもあって、当初は販売力の乏しい中小メーカーが製造を担当して流通業者に供給するのが一般的であった。(しかし)最近では大手メーカーも積極的に、量販店向けPB製品を手がけるようになってきている。」(p.14)

受注生産企業は、顧客のわがままにふりまわされるケースも多い。大企業のわがまま要求の例として、著者は次のようなことを上げている。

・今日発注したものを今日中に納品しろ
・要求仕様が変わっても費用は追加しない
・取引先の在庫品を有償支給品として受け入れろ
・エビデンス(注文書など)がない状態で非公式手配してくる
・納品後に注文主や支払条件を変更してくる など(p.42)

たしかに、おかしな要求がしばしばまかり通っているのは、わたしも知っている。ただし著者は、「こうした不公正な取引慣行を役所が是正しろ」とは、言わない。逆に、「わがまま要求に対応するために行ってきた企業努力こそ、日本の受注生産企業が築き上げてきた世界に誇る強みである」(p.42)と、ポジティブにとらえる。そして、「自社が海外企業に負けない受注生産力を持っているのであれば、それに対して自信を持ってアピールすること」(p.43)と書く。つまり、弱みを強みに転換すべきだ、というのが本書の主張である。日本企業の受注生産における高いフレキシビリティは、海外サプライヤーからモノを買った経験のある企業ほど、痛感する点でもある。

むろん著者は刃を返して、わがままな大企業を厳しく批判することも忘れない。「現在、日本の上場企業において半数以上の企業が実質無借金経営状態にある。かれらがJIT調達による流動在庫の削減に注力する意味がどれだけあるであろうか。中小の下請企業に在庫を押しつけるのではなく、自社で在庫を持つことにより下請企業の生産を平準化させて、生産効率を高めるアプローチの方が正しいのではないだろうか。」(p.50) まことに正論である。そして、大企業の在庫恐怖症の背景には、ERPの導入があったことも、しっかりと指摘している。

他方、受注生産企業側にもいろんな課題がある。ひとつは、業績が比較的安定している(急成長もないが、顧客との取引停止にでもならぬ限り急降下もない)がゆえに、ぬるま湯体質になりやすい点だ。じつは、「金融機関に融資を申し込んだ場合も、最終製品メーカーに比べてすんなりと審査が通ることが多い」(p.66)というのだから結構なことだが、「対外的な派手な宣伝活動もなく、大ヒット商品を生みだし大儲けして社内が盛り上がることも少ない。その結果、何となく『自社はつまらない』と感じてしまう社員が増えがちだ」(p.68)。

それゆえ、「業務改善活動は取引先からの圧力で始めることがあっても、社員自らが率先して業務改革に取り組むことは少ない」(p.68)・・まるで、日本自体の縮図を見るようではないか。

肝心の「利益向上策」「工場運営」「生産管理」については論点が多いので、個別には紹介しきれない。ぜひ本書を紐解いてほしい。利益計画の中心は、『スループット』管理にある。受注生産企業は自社だけで売上を向上させることは難しいので、営業マンを売上高で駆り立てるのは、じつは愚策である(この点が消費財メーカーとの最大の違いだ)。そうではなく、スループット・マネジメントを推奨する。

スループットとは、売価から外部購入費(材料費・外注費)を差し引いたもので、小売業では「粗利」に相当し、製造業では会計用語で言う「付加価値額」にほぼ等しい。これを積み上げて、年間の作業経費(人件費・減価償却費等の固定費)を上回るように、受注をコントロールしていく。たとえ見かけ上は赤字案件でも、それを受注することで固定費をカバーする足しになるなら、ちゃんと受注していく。そうした判断は、従来の原価管理(固定費を配賦して変動費化する)では、うまくできない。今の会計学手法は、じつは「作れば売れる」見込生産・実物経済時代の発想でできあがっているからである。

著者の考え方は、じつはゴールドラットのTOC理論(制約理論)にかなり基づいている。工場運営で、ボトルネック工程(制約工程)を平準化し最大活用せよ、という発想など、その典型であろう。しかし、受注生産企業は製番管理より流動数曲線管理が向いている、とか、理想的な現場管理システムはいらない、とか、「設計部門を治外法権にしない」(p.184)など、随所に著者らしいノウハウの蓄積を感じさせる。

最後の第7章は、「新規営業戦略」である。欧米流のマーケティング理論をふりかざしても、それは日本の受注生産企業にはあてはまらない。まして「ソリューション提案」など、顧客企業にとっては余計なお世話である。また中小が最終製品開発を志向しても、販路などの障壁で無理が多い。そこで、あくまで「ハイレベル受注生産力」を、その5大要素である
 「技術対応力」
 「納期対応力」
 「品質管理能力」
 「アフターサービス力」
 「事務処理能力」
ごとにアピールすべし、と指南する。とくにこの章は、かつて大手電子通信メーカーで営業をしていた著者の経験がいかされる分野であろう。

受注生産ビジネスは、決して特殊な形態でも、二流の形態でもない。日本の産業は、じつは受注生産企業が屋台骨を支えている。そして、日本企業の受注生産力は世界随一である。ただし、これまでメディアや官庁、学会などの無理解により、その点が正しく認識されてこなかった。しかし、ようやくここに良い指南書を得ることができた。これを機会に、多くの受注生産企業がもっと世界に雄飛してほしいと、切に願う。
by Tomoichi_Sato | 2014-06-21 19:35 | 書評 | Comments(1)

書評:「英語と運命」 中津燎子・著

英語と運命」 中津燎子 (Amazon)

まことに面白くてインパクトの強い、しかし、ある意味で不思議な本である。

著者・中津燎子氏の最初の本「なんで英語やるの?」(1974)は、わたしが若い頃読んで、最も影響を受けた本の一つであった。出版された時、日本の英語教育界に与えた衝撃の大きさは、今ではちょっと想像がつきにくいほどだ(大宅壮一賞を受賞した)。また、この人の「こども・外国・外国語」 (1979)は、やや目立ちにくいが、最良の作品だと思う。日本社会における、帰国子女の知られざる困難について、はじめて具体的に記述した、深く胸を打つノンフィクションであった。

本書はその、大正15年生まれの著者の、78歳の時の著作である。「つきあい続けて日が暮れて」というちょっと奇妙な副題が示すとおり、これは日本語と英語という二つの文化のギャップと摩擦についての論考であるのと同時に、著者の自伝としての色彩も濃い本だ。だが中身は真っ当であり、わたし達にとって非常に重要である。日本語と英語、日本国と米国とのギャップで長年奮戦してきた著者の、思想の吐露の結実だといえよう。

「なんで英語やるの?」というデビュー作で、著者は「なぜ、日本人なのに英語を勉強するのか?」という、とてもラディカルな問いをたてた。普通、生徒は「学校の指示だから」「義務だから」勉強せよ、との大人の指示に従う。では、大人の側は、なぜ、英語の学習を子ども達に要求するのか? ひるがえって、大人たちはなぜ(たとえば)英会話を学びたいのか?

進学や就職に有利だから、何となくカッコいいから、つまり、他人もやっているから当然、という程度の理由しか、通常はかえってこない。では、言語は第一義に音声的な存在であるのに、なぜこの国では「読み書き」と「英会話」が分断されているのか? 英語は子音にも母音にも息の量が必要なのに、なぜ、腹式呼吸や喉頭筋のトレーニングをしないのか?——こう、著者はたたみかける。もちろん、誰からも答えなど返ってこない。

なぜなら、そもそも、自分の行動に「なぜ」を発する習慣、理由を問いかけ説明する習慣が、わたし達の社会では薄いからだ。英語圏ではもっとも基本的なこの習慣が薄いまま、ただ「英語」だけを学ぼうとするのは、土台や基礎のないところに建物を移設するのと同じではないか。どこか根本が、見失われている。それが「なんで英語やるの?」の問いかけだったと、わたしは思った。

「こども・外国・外国語」は日本に戻ってきた帰国子女たちが直面する、知られざる困難、生きる上での猛烈な困難について書いた本だ。なぜ、困難なのか? それは、日本社会が無意識にとっている、人間関係とコミュニケーションに対する態度(とくに欧米系文化との差)のためである。父母の都合で、欧米系の教育環境ですごした子ども達は、知らないうちに、欧米的なコミュニケーションへの態度を、空気のように吸い込んで育つ。そして、日本社会に戻るやいなや、水の中に突き落とされるように、ねっちりと濃密な非言語的関係性の中に放り込まれる。見かけ上は、「外国語が上手でいいわね」といわれながら、日常では強い違和感と疎外にさいなまれる。だが、日本社会の側では、その隠微な差別を自覚していない。すべては無意識に行われており、意識と乖離している点に根本問題があるのだ。

本書は、前述したように、自伝的要素が強く、論考と自伝が、互い違いにサンドイッチのようになって構成されている。大正末年生まれのこの人は、女性差別的で暴力的な、それも予測しがたい時にキレる父親に育てられた(この点、先ごろ紹介した姫野カオルコ「昭和の犬」の境遇にちょっと似ている)。父は通訳で、そのため戦前のスターリン時代のウラジオストック(外地)で幼少の頃、育った。そして九州の保守的な土地柄の村に戻って、敗戦を迎える。つまりこの人自身が、帰国子女の草分けなのだ。

敗戦を機に、大人たちの言うことが、180度変わる。このことに対し、著者は終生、強い憤りと不信をいだくことになる。彼女は生活のため、福岡の米軍の電話局で、交換手として働く。そしてそこで、日系二世・ジェームズ山城氏に英語発音の基礎訓練を受ける。このジェームズ山城式訓練は「なんで英語やるの?」にも出てくるが、4メートル離れて背を向けて座っている山城氏に向かって、米国の小学生の英語教科書を朗読していき、彼が聞き取れなかったら「ノー」といってやり直しになる、という単純至極な(しかしある意味、逃げ場のない真剣勝負的な)訓練法であった。

そして、朝鮮戦争がはじまる。本書の中でも、この部分は恐ろしいほどの臨場感である。福岡にある米軍の電話局は、対応と出撃のための通信のハブとなってしまう。米軍は明らかに戦争準備ができていなかった、と彼女は見る。事実、投入した部隊は次々と全滅していく。そして釜山が陥落したとき、つぎは福岡だ、と職場にいた彼女たちは思う。

結局、戦争自体は38度線まで押し返して膠着状態のまま終わるわけであるが、この朝鮮戦争では、「(特需の)経済効果のほかに、朝鮮動乱以後で明らかに占領軍政府側が日本人全般を見る目が変わった。何かしら『信頼』に似た感情を持ったように見えた」(p.135)と書いている。開戦直後の大混乱のスキを狙ってクーデターを企てた、旧日本軍のグループもいなかった(米軍はこのリスクを本気で心配していた)。

その後、著者はカトリック神父たちの計らいで渡米・留学。シカゴで商業美術を学び,現地で日本人と結婚し、9年後に帰国する。そして帰国後、岩手で子ども相手に型破りな英語教室をはじめる。このときの奮戦記が「なんで英語やるの?」という本になるのだ。その後、南大阪に移った著者は、そこを拠点に大人向けの「未来塾」を展開しはじめる。だが成人教育の成果に次第に疑問を感じ、結局、'99年に「未来塾」を閉鎖する(それと前後して心臓病をわずらい、一線の活動から身を引くことになった)。

著者の考える、日本語と英語の最大の違いとは何か。それは、
「1.モノスゴイ破裂の子音と、息で作る短母音の存在
 2.スピーチという名称で一括されている、言語による闘争の存在」(p.150)
だと書いている。まず、この認識自体が、普通の英語教育者とぜんぜん違う。そして彼女は、この二点を乗り越えるための成人訓練をはじめたのである。それは、彼女自身が福岡の米軍電話局で実践し学び取ってきたことだった。

それにしても、なぜ日本には熱心な英語学習意欲を持った人が多いのに、日本の英語教育の成果は思わしくないのか? 本書の残り半分は、この問いをめぐって展開する。成人への英語教育を通じて見えてきた、現在の日本人の問題点である。

その多くは、意識されざる障害であった。たとえば、英語のスピーチの前に、日本人は日本語のスピーチができない(カリキュラムでは英語の前に日本語によるスピーチを課した)。まず、「紹介すべき事実の概要と、意見と感想が区別されない。次に、自分の言いたいことを単刀直入に言えない。おまけに、時間配分の概念がほとんどない」(p.309-310)。意見と感想がつねに強すぎる「感情」で結ばれ,一体化していて、しかもその事を全く自覚できない、という(p.310-311)。

発声や呼吸は、意識と身体を結ぶ領域なのに、ほとんどの受講生は、自分の身体を意識(対象化・客観視)することができないのも、大きな障害だった。 みな、言語を、単なる道具だと見ている。その根底にある文化的差違について無自覚なのである。最後に子どもの教育に戻ろうとした著者にとって、成人教育は、「日本人の大部分にとって英語学習とは、気分が良くなるためのシアワセ丸薬みたいなもの」(p.331)という苦い認識を残したようであった。

著者は、文化的差違の根源として、現代日本の三つの気質(はにかみ・ためらい・人見知り)と、三つの態度(解決の先送り・決断の後回し・様子待ち)を指摘する。そして、この「無意識の障害」を乗りこえない限り、日本人は21世紀を生き残れない、と断ずる。

ここから先は、わたしの感想・意見であるが、日本語のコミュニケーション態度の基本は、「受信者責任」である。そこでは、受け手がすべてを推察すべきとされる。「言わずとも分かる」が前提なのだ。だから、「質問し返すこと」は、受け手の能力不足を示すし、「繰り返し質問すること」は、その語り手が部外者(他人)であることを示唆する。その証拠に、人前で話した経験がある人は分かると思うが、日本人の聴衆は、何か講義・講演してもほとんど手を上げて質問しない。

わたし達の社会の言語観(表出されない無意識の態度)によると、言語は「すでに分かっている知識、共有されている感情・感覚を再確認する」ために発せられる。ここから生じるのは、質問がヘタ、説明はもっとヘタ、という事態である。自分だけが分かってる、独りよがり状態といってもいい。それでもいいのだ。ムラ社会では、お互い文脈は共有しているのだから。

ところが英語では(に限らず印欧語はほぼ全て)、「発信者責任」である。発信者が伝える努力をし、相手の理解を確認する。ここでは、自他の区別が前提となっている。だから、「欧米式の基本の教育は、どれだけ自分の考えを正確に人に伝えられるか」(p.318)であり、それを幼稚園の頃から仕込まれる。

こまったことに、わたし達は今や、外国とのビジネス上のつきあいに直面し、海外型プロジェクトの機会が増えている。ところで、『マネジメント』の原義・原型は、「人を動かして目的を達すること」である。である以上、自分の望むことを(何語であれ)きちんと説明できなければ、マネジメントなんてできる訳がない。

では、どうしたらいいのか? ここで、著者の作った、『異文化お互い様リスト』(p.347)というものが役に立つ。著者は世界の文化を、「ソフト型文化」(日本、タイなど)と「ハード型文化」(アメリカ、中国、ドイツなど)に大別する。そして、その特徴を列挙する。たとえば、以下のようなものだ。
 〔ソフト型文化)「主張よりも妥協が美点」 ←→ (ハード型文化)「主張は常識」
 〔ソフト型文化)「対立は喧嘩と考える」  ←→ (ハード型文化)「対立は喧嘩ではない」

その上で、お互いが相手をどう見るか・見えるかを整理する。
 〔ハードからみたソフト型文化)「妥協する人はごまかしているように見える」
 ←→ (ソフトからみたハード型文化)「きつい主張は生意気に見える」
 〔ハードからみたソフト型文化)「聞こえない言葉は存在がゼロ」(推察はしない)
 ←→ (ソフトからみたハード型文化)「声が大きくやかましすぎる」

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ここでは一部を引用しただけだが、それぞれ10項目あげらており、英訳もついているから、ぜひ原文を見てほしい(ちなみに上図の最後の2行は、海外型プロジェクトの説明に使うためにわたしが勝手につけ加えたもので、原文にはない) 。海外ビジネスに直面するわたし達にとって、非常に参考になる、必須文献だと言ってもいい。

本書を貫いている隠れたテーマは、著者がもつ、自分をとりまく人びと(日本の社会)に対する強烈な違和感であり、その原因への飽くなき探求である。女性差別的で暴力的な親に育てられた上に、母国語である日本語の根付きが浅い、という自覚を大人になってから持つ。

そんな逆境の中、なぜ著者は強烈なまでに正気でいられたのか? それは、自分の頭で、「なぜ?」と考え続けたからであろう。そして、他人の答えで納得したふりをし、あきらめなかったからだろう。彼女が長らく暮らした欧米語の社会では、Why?は許され、答えられる(あいにく日本社会では、「なぜ?」と聞くのは不躾である)。女性であり、社会に組み込まれなかったことが逆に幸いしたのかもしれない。

本書は、今日の英語教育の主流から見ると、きわめて論争的な本である。だが、言葉に関する論争がわきおこり、深まるのは、とても良い事だ。それはわたし達が無意識に抱いている言語観や、他の文化とのギャップを意識化し前景化してくれるからだ。とくに海外とのコミュニケーション問題をかかえた多くの人々に、強く推薦する。
by Tomoichi_Sato | 2014-06-08 18:00 | 書評 | Comments(6)

書評:「昭和の犬」 姫野カオルコ・著

昭和の犬 姫野カオルコ(Amazon.com)

姫野カオルコ著・「昭和の犬」、読了。第150回直木賞受賞作。わたしは新刊の小説を買って読むことは滅多にしないが、しばらく前から気になって、ひいきにしていた作家の受賞作なので、急いで買って読んでしまった。

それにしても不思議な小説だ! とくに何が起きる訳でもないのに、吸引力があって次の頁をめくってしまう。今回もまた、最後の部分は自分の部屋で読み通した。電車や飛行機の中でしか本を読まない自分にとって、これも例外的な体験だ。「こんなに小説のうまい人だとは思わなかった」という、直木賞選考委員の(ある意味では失礼な)評があったが、この吸引力に、小説の上手さが表れている。内容はすでにいろいろな紹介があるので、あえて詳しくは書かない。

主人公は著者と同じ昭和33年・滋賀県生まれの女の子で、自伝的小説の色彩が強い。短編的エピソードを積み上げていくスタイルで、子ども時代が多いのだが、最後に中年のエピソードが加わって、半生記の形になっている。そして、どのエピソードにも犬が登場する。物言わぬ犬を配することで、描写対象の主人公への距離感をうまく保っている訳だが、何よりも姫野さんは犬が大好きなのだな、と感じる。最後のシーンは、前作「リアル・シンデレラ」ほど強い感情は呼び起こさないが、それでも涙してしまった。

小説の書き方にはいろいろなスタイルがあるのだろう。だが、この人は、終わり方を最初に決めて書いている、あるいは、少なくとも、終わりを探しながら書いているのではないかと思う。「リアル・シンデレラ」も、今回の「昭和の犬」も、平凡な女性の、とくに華やかなエピソードもない半生なのに、とても深い読後感を残すのは、そうしたつくりのおかげだろう。

ちなみに著者は、あるインタビューで、「小説を分類するとしたら、ストーリーの面白さで読者を引っ張っていくのがエンターテイメント小説ですが、自分のは主人公の内面を中心に描くものです。」という意味のことを、語っていた。だが、内面描写の小説といっても、それはさらに二通りに分かれると、わたしは思う。心理(とくに感情)を細かく描く「心理小説」と、そうではなく、主人公や人々の考えを軸に描く「思想小説」である。思想小説という種類を得意とするのは、たとえば、こんなことを書く作家だ。

『現代人の大半はおかしな矛盾を犯している--むやみに多くの理論をもっているくせに、実生活において理論が果たしている役割をまるで理解していないときているのです。気質だとか、境遇だとか、偶然だとか、そんなことばかり持ち出してくるのに、実際には、たいていの人間は自分の抱いている理論の権化にすぎないのです。人びとが殺人を犯すのも、結婚するのも、ただのらくらしていることさえも、みんな、何らかの人生理論にもとづいているのです。そんなわけで、(中略)ぼくはまず人間の精神を見る--場合によっては、その人物とまったく無関係に精神だけを見ることさえあるのです』
(G・K・チェスタトン「詩人と狂人たち」)

思想小説は日本では書き手も読み手も少数なため、姫野さんの作品の位置づけが難しかったのだと推察する。「昭和の犬」では、その特異性がうまく底に隠されているため、審査員はじめ多くの人に受け入れられるのだろう。

それにしても、副題の"Perspective kid" とは、どういう意味なのか? 主人公イクの子ども時代を、距離感をおいたパースペクティブで描き出すから、ではPerspective kidにはならない。英語に堪能な著者が、わざわざ選んだ副題なのだから、何か意味があると思ったのだが、つかみ切れなかった。

ただし、全く無関係な事だが、この副題を見て、わたしはその昔、ひさうちみちおが描いた不思議なマンガ「パースペクティブ・キッド」を思い出した。「ガロ」をはじめいくつかの雑誌に描き続けた連作で、ロットリングによる無機質かつ中性的な線をつかって、人々の偏執を描く技巧はとても印象的だった。偶然の一致だろうが、ひさうちみちお(の初期の作品)と姫野文学は、性的な事柄をひどく湿り気のないタッチで描く点といい、キリスト教的な題材を重要な要素の一つとして使う点といい、奇妙に似ていると思う。

変な話をもう一つだけ。主人公イクが、泣いているのでもないのに涙が流れてこまる、というシーンがある。小説の登場人物の病気を詮索しても全く無意味かもしれないが、あれは実は、本当に泣いていたのではないだろうか。イクは芯の強い女性なので、自分が泣きたい気持ちであるとは信じなかった。しかし、心の深い部分では、泣きたいという衝動があった。別に、泣きたいのは不幸だから、とは限らない。いろいろな出来事があり、その情緒が絡み合って、自分にも見えない情動の回路につながっていたのかもしれない。それが、古い打撲傷のように、人生の季節が変わるときに、痛んだのではないか。その証拠に、彼女は犬のマロンとの交流が深まると、涙を流さなくなるのだ。

「ハルカ・エイティ」「リアル・シンデレラ」そして「昭和の犬」と、女性にとっての真の幸せとは何かを書き続けてきた姫野カオルコという作家の生活が、今回の直木賞受賞によって、少しでもより安定した幸せなものとなることを、一読者として祈りたい。この小説の中心テーマは、かつて二千年前にパレスチナの地を歩いた、あの賢者の言葉をまさに象徴しているからだ:

「心の中に誇るべきものが何一つない、心において貧しい人は幸せだ。天の国は、まさにその人のものだから。」(マタイによる福音書・第5章3節)



by Tomoichi_Sato | 2014-04-20 16:56 | 書評 | Comments(1)