カテゴリ:リスク・マネジメント( 34 )

リスクという言葉自体がリスキーである

ビジネスにおけるリスクを語る際、非常に厄介な事実が一つある。それは、「リスク」という語の定義がうまく定まっていないことだ。Aという人の語るリスクと、Bという人の受け取るリスクが同じ物事を指しているとは限らない。いや、違うことを言っている可能性の方がずっと高い。各人の理解にブレ(不確実性)がある。リスクについて語ることは、それ自体がすでにリスキーな事なのだ。

たとえば、人に「最近遭遇したリスク事象の例を挙げてください」と質問したとしよう。たいていの場合、返ってくる答えは「発注先が納期を一月半も遅らせてきたんです」とか「先月自転車で事故りまして」といったものだ。これらは実際に起きてしまったトラブル事象、すなわち『issue』(問題)である。リスクという語は、本来は起きる前の可能性を指す概念のはずである。だから、「発注先の手際がまずくて納期に遅れそうになり、気を揉みました」とか「自転車のブレーキ不調でヒヤリとしました」という事象が本来の答えであるべきだろう。どこかに概念のいき違いがあるのだ。

こういうときに、近頃の人が頼りにしたがるのがWikipediaである。しかし、この稿を書いている2010年9月現在で、日本語版Wikipediaの「リスク」を見ても、各方面からの寄せ集め的な解説しか載っておらず、(書いた人には申し訳ないが)正直なんだかよく分からなくなる。英語版Wikipediaの"RISK"の方はもう少し立派にまとまっており、定義definitionのセクションには積分の数式まで登場してなかなか楽しめる(知的余裕のある人には)。でも、よく読むと「リスクという語にはいろいろな定義があり得る」と書いてあり、100%決定打とはなっていない。

じゃあ、学問的定義は? ところがリスクに関連する学会も、日本リスク研究学会(安全・環境系の人が多い?)・日本リスクマネジメント学会(経済学系でなぜか関西中心?)・リスクマネジメント協会(保険・法務の人脈が強い?)と複数存在している。そして、それぞれが資格制度や検定試験も行っているようだ。海外に目を向けると、米国に本部を持つThe Society of Risk Analysis (SRA)、Risk and Insurance Management Society (RIMS)などの国際的組織がある。とにかく「リスク業界」は百花繚乱なのである。リスクというテーマが、ビジネスの分野でもアカデミックの世界でも、めしのタネとして大勢の人を養っている事実に驚嘆すべきであろう。

電力中研の田邉朋行氏は、東大工学部での「社会技術としての化学技術」という講義シリーズの中で、種々のリスク定義におけるブレと共通点を解説しておられる(じつはわたしも同じシリーズでプロジェクト・マネジメントの講師を務めている)。これが実にうまくまとめられているので紹介すると、保険と金融という、隣接した業界においても「リスク」の概念は全く違っているのだという。

たとえば、保険実務においては、「ハザード」hazard、「ペリル」peril、そして「リスク」riskという言葉を使い分けている。たとえば“道にバナナの皮が落ちている”という事象発生の原因状況をハザードと呼び、“すべって転ぶ”という損害をもたらす事象をペリル、そして“けがをして入院”という結果としての損失をリスクと呼ぶ。あるいは、電線の絶縁不良はハザード、漏電がペリル、そして火災がリスク、という訳である。人はしばしば漏電も火災もごったまぜにしてリスクと呼ぶが、保険業界においては、事象の内部構造を三段階に分けて認識するわけである。

(念のためにいうと、火災が起きてしまったという事象はリスクではなく、結果である。火災が起きるかもしれない、という可能性をリスクと呼ぶわけだ)

ところが、金融業界における「リスク」の使い方は、まったく違っている。飛んでいる飛行機からパラシュート無しで飛び降りた場合、ほぼ確実に死亡する。だから、普通だったらリスクは非常に大きいと思うだろう。ところが金融工学では、リスクはほぼゼロと考える。ただ、リターンがマイナス無限大だ、と解釈するのである。金融理論では、リスクとは結果に対する不確実性を意味するからだ。

田邉氏の「技術リスク意思決定と法システム」によると、医療・環境学系でもリスクの定義はまちまちらしい。たとえばダイオキシンを論じる場合、物質としての毒性の強さと、その人の健康への影響度(これは濃度や摂取量によって決まる)をきちんと区別して論じないケースがある、という。

ただ、こうしていろいろな定義を並べて考えてみると、どうやらリスク概念には大きく分けると二種類あることがわかる。それは、保険業界・環境学などのように、望ましくないマイナス事象の可能性をリスクと呼ぶ分野と、金融理論に見られるように、マイナスの結果(脅威)だけでなくプラスの結果(好機)も含めてリスクと呼ぶ分野、との二種類だ。わたしは前者を「非対称型」、後者を「対称型」リスク概念と名付けて区別している。

では、一般的なビジネスの現場ではどうか? 生産管理や品質管理では、リスクはふつう非対称型の概念である。納期遅れや、在庫切れや、品質劣化をリスクと考える。ところが、プロジェクト・マネジメントの分野では、PMBOK Guideは明確に対称型のリスク概念で書かれている。これはやや不思議に感じられるが、あるいは標準制定の途上で、金融学系の人々の影響が強かったのかもしれない。

それにしても、なぜ対称型と非対称型の二つの見方が出てくるのか? それは、それぞれの分野におけるリスクの反対概念を考えてみると理解できる。医療・環境学では、「リスクの無い状態」とは、『安全』である。保険や法務や情報セキュリティなどの分野でも、理想は『安全』である。ところが、金融分野では、「リスクの無い状態」は『確実』を意味するのだ。かくして、無意識の内に、安全を考えるのか、確実を求めるのかで、リスクに対する態度は分かれる。その結果、両者の間でコミュニケーションは確実に混乱するのだろう(笑)。

それでは、ビジネスの現場におけるリスクは、どう定義するのが良いのか。だが、いつものくせで、寄り道がまた長くなりすぎたようだ。続きは、また書こう。

(この項つづく
by Tomoichi_Sato | 2010-10-02 22:45 | リスク・マネジメント | Comments(0)

見えるリスクと見えないリスク

PMBOK Guideによると、プロジェクトとは「特定の製品またはサービスを創出するための時限的営為」である、と定義されている(A project is a temporary endeavor undertaken to create a unique product or service)。正直に言うと、PMBOK Guideは最近「教科書」として過剰に絶対視され過ぎていると私は思うのだが、冒頭にあるこのプロジェクトの定義も、若干の違和感を感じる部分である。なぜなら、この定義には『リスク』の語が欠けているからだ。

プロジェクトとは、リスクを伴う、時限的営為である。プロジェクトにはリスクがつきものだ。私の同僚には、「プロジェクト・マネジメントはリスク・マネジメントにつきる」とまで断言する人もいる。たしかに、一度限りの営為であっても、リスクの全くない仕事、たとえば飲み会の相談など、誰もプロジェクトとは呼ばないだろう。

PMBOK Guideはそれでも、1章を割いてリスク・マネジメントを論じ、プロジェクト管理の9領域の一つと説明している。また最近はリスク管理論の出版も増えつつあり、通信講座の電話勧誘までかかってくる始末だ。

ところで、私は現在のリスク・マネジメント論には、不満を持っている。PMBOK Guideを含めて、通常の解説では、リスクを洗いだし、それを定量/定性評価して、どう抑え込むかばかりが論じられる。そして、前半をリスク・プランニング、後半をリスク・コントロールと名付け、コントロールの手法として回避・軽減・保有・転嫁(移転)があるが、このための金銭的用意をリスク・ファイナンスという、という風に続いていく。

だが、はたしてこれで良いのだろうか? リスク移転とはすなわち保険による対処に他ならないのだが、プロジェクトのリスクは本当に保険屋がかぶってくれるのだろうか?

私が思うに、実はリスクには3種類ある:
(1) 予測され、計数化されたリスク
(2) 予測されたリスク
(3) 思いもよらない潜在的なリスク

プロジェクトにおいて実際に問題となるのは、プロマネが一番神経をすり減らすのは、圧倒的に(3)ではないだろうか?(なお、ここではidentifyという英語によい訳語がないので、「予測」としている)

ふつうのリスク管理の教科書では、(2)をどう(1)にするかという問題ばかり、詳しく説明されている。しかし、そもそも私の実務感覚では、予測されたら、それだけでリスクは半分減ったような気がする。お化けが出てから、それを枯れ尾花と見極めるのはたやすいので、怖いのはどんなお化けが出るかわからないからなのだ。この「怖さ」は、定量化されていないにもかかわらず、プロマネやチーム員の心的エネルギーを、確実に消耗させていく。

保有と転嫁について言えば、保有すれば自分に被害がかかる可能性があるのだから、転嫁の方が良いように思える。でも、ふつう転嫁にはお金がかかる(だから保険屋は商売として成り立つのだ)。まして、保険は間接損害はカバーしてくれない。35年以上前のことだが、、私の勤務先は海難事故で会社が傾きかけたことがあったらしい。アルジェリアの建設現場に送る巨大な機器の輸送船が、海に沈んだのだ。損害保険は無論かけてあった。だが、それは沈んだ機器の再製造費用は出してくれるが、機材の到着遅れによるプロジェクト全体の納期遅れについてはカバーしてくれない。保険は失った時間は返してくれないのだ。プロマネの悩みを完全に救ってくれるような保険など存在しないのである。

リスクを保有する場合は、プロジェクト実行予算の上で、予備費用をもっておく必要がある。予備費用は、予期されたリスク(見えるリスク)に対するアロウアンスと、予期できぬ(見えない)リスクに対するコンティンジェンシーに分類できる。つまり、いずれにしてもリスク・ファイナンスとは、お金で持つか現物で持つかの違いでしかないのである。

こうして見ると、ふつうのリスク・マネジメント論には、ひとつの大きな欠落があることがわかる。それは、見えないリスクが現実化して障害事象が起こってしまったら、どう対処するかというイシュー・マネジメントの方針論が欠けていることだ。発生防止は王道だ。しかし発生後の対策も必須である。

交通事故というリスクを考える時に、車の衝突安全性を上げる工夫や、運転技術を向上させる方策だけを論じるだけでは十分とは言えない。車の改造や運転講習会もいいだろう。しかし通勤途上で事故にあったら、どこの誰にどう連絡するか、決めておくことも必要なのだ。プロジェクトで何か起きたら(そして大概なにか起きるのだ)、それを誰が誰に報告してどう判断するかを考えておかねばならない。

以前、「サプライチェーンのリスク・マネジメント」に書いたように、リスク低減策は冗長性・多重化を要求するので、プロジェクトのコストダウンの要求とはかみ合わない。サプライヤーの絞り込み、人的リソースのミニマム化、などはすべて相反する。スリム化しすぎたプロジェクト組織では、変動に対処する自由度がなさすぎるのだ。

リスク・マネジメントにとっては、自由度がもっとも重要である。自由度がなければ、現場で代替手段を判断できない。プロジェクト計画における自由度の大事さを、もっと広く認識してもらうよう努めて行かねばならないだろう。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-26 21:48 | リスク・マネジメント | Comments(0)

リスクに対する新しいアプローチ

少し前のことだが、あるコンサルタントの方から知恵を貸してほしいと依頼されたことがあった。公立の某研究機関に対して、要員教育の提案を出そうとしているところで、その中のリスク・マネジメントについて内容をどうすべきか悩んでいるとのことだった。客先担当者の要望は、「我々は公の予算で動いている以上、失敗することは許されない。そこで、所員達に失敗しないためのリスク管理を教えてほしい」という内容だ、という。どうカリキュラムを組むべきか、うまいアドバイスはないだろうか、と私は問われた。

私はちょっと困ったが、正直にこう申し上げた。「“失敗しない方法”は、私には思いつきません。失敗したくなければ、何もしない事しか方法はありませんね。でも、それでは研究所として成り立たないでしょう。およそ研究というのは知らないことを発見するためにやることですから、失敗しない研究などというものは、私には想像がつきません。」

それから、少し言葉を継いだ。「ただし、言えることが一つあります。大きな失敗を防ぎたかったら、小さな失敗を上手にして、そこから学ぶ必要があります。“上手に失敗する方法”だったらお教えするのを手伝うことはできます。」

--でも、上手な失敗、ってどういう意味ですか、佐藤さん。
「えーとですね。たとえば、スキーとかスケートを学ぶとき、最初にインストラクターが教えるのは、“上手な転び方”なんです。ケガをしないよう、ひどく頭を打ったり体に衝撃が来ないよう、安全に転ぶ転び方があるんです。スキーやスケートは、上級者は転びません。でも、上達するまでの間は、必ず転びます。転ばずに上達する方法はないんです。そのとき、どう転ぶかが大事で、うっかり恐怖心が植え付けられてしまっては、もう先は望めません。だから、尻餅の付き方を最初に練習するんです。」
--たしかに、柔道も最初は『受け身』の練習ですねえ・・。

その仕事は結局、取れなかった。誰か売り込みの上手な人が、「絶対転ばない方法」をうまく売り込んだのかどうかは、定かではない。ただ、その仕事からわたしは一つ学んだ。それは、リスクに対する態度、アプローチには、大きく二種類あるということだ。

リスクに対する従来型のアプローチは、この某研究機関の客先担当者の態度に、典型的に表れている。「失敗は許されない」→これが中心テーゼである。だから可能な限りリスクを回避し、失敗を起こさぬ事を求める。『安全第一主義』と言ってもいい。

これに対して、新しいアプローチがある。これには、まだ適当な訳語がないので、英語のままRisk-based Approachとよぶことにしておく。こちらは、どんな行為にも失敗のリスクが存在することを前提に、なすべき事を考える、という態度を取っている。必ず失敗の可能性はある。それをベースに考えよう、とのアプローチである。

従来型のアプローチには、別名もある。それは『完全主義』であり、また『前例主義』である。失敗は許されないのだから、当然前例は成功していることになる。だから前例にならえばよい。これは論理の必然である。お役所だとか、大企業だとかは、こうした態度で仕事をしている人が非常に多い。このアプローチに従えば、人事評価においては必ず減点主義になる。なぜって、失敗しないのが当たり前なのだから、失敗があったら担当者個人がいけないのであって、そいつの減点になる。

これに対して、新しいRisk-based Approachは、日本語で別名を与えるなら『現実主義』になることは、お分かりになると思う。

まなび」についての方針も、両者ではずいぶん違う。従来型の安全第一主義では、“前例を学ぶ”が唯一最大の方法である。なぜなら前例は成功している(はず)だから。こうした組織では、訓詁学が発達する。そして、失敗は個人の無能力のせいということになる。他方、Risk-based Approachでは、大きく失敗したくなければ、小さな失敗を上手にする方法を学ぶ必要がある、と考える。

そして、両者はコストにおいても大きく異なる。従来型のアプローチでは、コストが際限なくかかる。なぜって、完全を求め、「絶対安全」が命題だからである。しかし、Risk-based Approachでは、そうは考えない。リスクに見合う最適なコストにおさめる--これが思想である。コストには最適点がある、と考える。

日本企業の多くが、次第次第に高コスト体質となっていった背景には、従来型アプローチがあったのではないだろうか? 少なくとも、公的事業、あるいはそれに準ずるような事業(たとえば公共土木・鉄道・発電・通信・防衛・保健・公共システムなど)を主要市場としてきた企業は、技術的完璧主義につき合う中で知らず知らずのうちに、仕様が水ぶくれしていたのではないか? それを「世界最高水準の技術」などと自称し栄華を誇ってきたが(なにせ公共系は金払いだけは良いし、日本は人口が多いから市場も大きい)、いつのまにか背後のアジアから、『現実主義』をひっさげたライバル達に蹴落とされそうになっているのではないだろうか。

もちろん、こうした心配が杞憂であって、日本の多くの企業が果敢にリスクに挑戦しているのだと信じたい。信じたいが、しかし、「目をつぶって」どんなリスクも取る、というのは、現実主義とはもちろんほど遠い。目をつぶって全てを避けるのと、すべてを取るのは、どちらも現実を見ていない点では同根であろう。

では、Risk-based Approachとは具体的にどういうことをするのか? それについては手短には答えられないので、この場所で追って書いていくこととしよう。
by Tomoichi_Sato | 2010-09-01 22:41 | リスク・マネジメント | Comments(2)

リスク・マネジメントは本当に可能か

ときどき人前で、プロジェクトのリスク・マネジメントについてお話しする機会がある(事業リスク・マネジメント、というテーマ名のこともあるが)。そういうとき、私が真っ先に聴衆の方にたずねる質問が二つある。最初の質問は、

「あなたは、リスク・マネジメントが本当に可能だと思いますか?」

という問いかけだ。そして、こう補足する。「マネジメントとは、自分がある程度知っている対象を、自分の目的のために動かして利用することを言いますね。ところで『リスク』とは、自分がよく知らない、予見しがたい事象を指す言葉です。では、自分が知らないものをちゃんとマネジメントできると、皆さんは信じますか? リスク・マネジメントという言葉は、言語矛盾だと思いませんか。ならば、リスク・マネジメントとは、一体何をマネジメントすればいいのでしょう?」

ちょっと虚を突かれた感じの聴衆の方に対して、次に放つ質問は、こうだ。

「では、皆さんは、運不運が存在すると思いますか?」

反応はいろいろだが、おおむね、“人生には運・不運はあると思う”との回答が返ってくる。“いや、運・不運なんて信じない”と答えた方は、これまでたった二人しかおられなかった。そのお二人とも、まだ20代そこそこの若さであったことを考えると、たいていの人は、ある程度の年齢になると、運不運はあるかもしれないな、と感じるということなのだろう。

それにしても、『運・不運』とは、いったい何のことを指しているのだろうか。

サイコロをころがしたら、出た目は偶数だった。ところが次にころがしたら、今度は奇数の目が出た--こんなことは、別段だれも運不運だなどと思わない。単に、ごくありふれた偶然性がそこにあるだけだ。サイコロの博打で、最初は丁の目にかけて勝ち、次は半で敗れた。これだって、別に騒ぐほどのことではあるまい。そういう状態を指して、“人生には運不運があるよな”、などと誰も感慨にふけったりはしない。では、どのような事態を指して、人は運不運がある、と感じるのか。

たとえば、自転車に乗っていたと想像してほしい。ちょっと横風が吹いてくる。あるいは、前方で年配のご婦人が不注意にふらふら歩いている。こうした事象はありがちで、とくに驚くほどのことではない。風向きに応じてバランスを取ったり、歩行者をよけて走ったりするだけだ。十分、対処できる事象である。自動制御理論風にいえば、自転車という「システム」を運転するために、足ペダルの「動力」や、ハンドルの向きなどの「制御要素」をインプットする。システムの入力に多少の「外乱」(風や前方障害物)があっても、安定化制御をつづける能力を私たちは持っているのである。

ところで、この外乱が通常よりもずっと強いものだったら、どうだろう。あるいは、ずっと継続して続いたら。たとえば、急に風速30mの横風を連続して受けたら、倒れずに走るのは上級者だけだ。ご婦人でなく小学生が、さっと物陰から飛び出したら、よけるのはかなり困難だろう。入ってきた外乱が、安定制御可能な上限を超えているのである。

私たちは、普段の生活においては、仕事上でもプライベートでも、それなりに繰り返し性のある安定した営為を続けている。天候や健康や渋滞や反目など、多少の外乱はあっても、対抗したり回避したり受け流したりして、生活を続けていける。しかし、自分の制御可能な限界を超えた、大きな事象がふりかかって、期待した状態から大きく外れてしまうことがある。勤務先が倒産したり、恋人にふられたり、受かるはずの試験に落ちたり、といった状況に陥ると、「これは不運だ」と人は思うのである。逆に他人が、思わぬ昇進を上司から勝ち取ったり、偶然うまい仕事のチャンスに恵まれるのを見ると、「あいつは運が良い」と思ったりする。

かくして、職を失うと同時に恋人にも去られる人間がいるかたわら、丁度うまく回ってきた仕事で楽に成功して昇進する者も居る。こうして、「幸運」や「不運」が片寄って連続して現れるとき、運不運はあるな、という感慨が生まれてくるのである。

おかしなことに、サイコロをふってみても、同じ目が何度も続けて出ることがある。純粋なランダムさではなく、中心からずれたかたよりが連続して生じることを、不思議と私たちは観測するのだ。これを称して、運不運と私たちは呼ぶ。

でも、ちょっと考えてみてほしい。私たちの住むこの世界が、ホワイトノイズ的な完全なランダム性の支配する場所だったら、私たちは耐えられるだろうか? 放映終了後のテレビスクリーンの画像のように、一切何のとりとめも脈絡もない、そんな予測不能な事態に私たちは耐えることが出来ない。

また逆に、一切が全て厳密な因果律の法則性にしたがう世界はどうだろう。それは、すべてが運命のように決まった、完全に予測可能な世界だ。そんな宿命論の下で、私たちは正気を保てるとは思えない。

つまり、私たちは、連続性がありながら、ちょっとランダム、という状態が一番居心地がよいのだ。ある程度の予測可能性がある。でもサプライズもある。つまりリスクもある。それが私たちの望む状態なのだ。

さてそれで。リスク・マネジメントという言葉は、それ自体が言語矛盾だ、と最初に書いた。では、何をマネジメントすべきなのか?

リスク・マネジメントに対する大きな誤解に、ときどき出会う。「リスク・マネジメントをすればリスクが減る、無くなる」という誤解だ。賭けたって良いが、そんな事ありはしない。私たちはどんなに手を尽くしたって、明日台風が日本に進路を向けることを防げはしないのだ。リスク・マネジメントとは失敗しない方法ではない

また、リスク・マネジメント=危ないことに手を出さないこと、という誤解も多い。それは嘘だ。たしかに、何もしなければ、失敗もしない。しかし、ゴーイング・コンサーンである企業において「何もしない」はあり得ない。それは昨日と同じことを今日もやる、という意味である。それは消極的ながら一つの決断であって、とうぜんリスクをともなう。もし「環境変化に対して何もしない」のだとしたら、その方針自体がもはや、最大のリスクである。

リスクとは何か。その定義はさまざまだが、リスクの大きさを数式的に表現するならば、次のようになるだろう:

       可能性×影響度
リスク = ---------
        対応能力

おわかりだろうか。リスクの大きさは、その可能性(生起確率)と、影響度の積に比例し、対応能力に反比例する。だがリスク事象の生起確率は、低減できる場合もあるが、コントロールできない場合の方が多い。台風の進路のように。

ということは、私たちのなすべき方策は、「影響度」を小さくするか、ないしは「対応能力」を大きくするしかないのである。これがリスク・マネジメントの本質なのだ。

私たちは未知なるリスクそれ自体をマネジメントすることは、できない。私たちができるのは、リスクへのふるまい方をマネジメントすることなのである。それをどう学ぶべきかについて、これから数回に分けてノートを書いていきたいと思う。
by Tomoichi_Sato | 2010-08-10 23:56 | リスク・マネジメント | Comments(0)