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「責任」には三つの意味がある

震災の後の4月に、知人たちと話していた時のこと。話題はおのずから福島原発の事故処理のことになった。原因は何か、どうクールダウン処理すべきか、また地域への被害をどうするか。そのうち、一人がこう発言した。「東京電力は法規則どおり原発を建てて運転し、地震後も政府の指示どおり対応したんだから、全責任を負えというのは無理がある。」

しかし当然ながら反論・異論も相次いで、議論はホットになっていった。政府(省庁)の過去の責任はどうか。あるいは政治(閣僚)の責任の軽重はどうあるべきか、いや、そもそも電力会社の過失はどこにあったのか、等々。ただ、話しているうちに、当の発言者の論点は、地域への賠償問題だということがはっきりしてきた。国も共同責任で補償すべきか、プラントのメーカーは責任がないのか、ということだ。すると、この分野に詳しい同僚が一言、「原子力賠償制度は無過失責任ですよ。」と発言した。

無過失責任とは何か。それは過失であることが証明されなくても、賠償の責任を負うということだ、と彼は説明した。より正確には無過失賠償責任とも呼ぶ。原子力賠償の制度は世界的に、「無過失責任、電力事業者への責任集中」という原則で成り立っているのだそうだ。日本は国際条約には加盟していないが、国内法制度は同じ原理でできている。だから、今回の事故に限っては、被害者側が電力会社の過失を立証しなくても(実際問題としてそんなことは機密の壁に守られてほぼ不可能だ)、とにかく一社で全部を賠償しなくてはならないのである。

結局、この説明で議論はあっさり終わりになってしまった。むろん、電力会社の資金はどう調達するのかとか、それだけの支払能力が無かった場合はどうするのか、という法的技術的問題は残る。だが法律上の責任範囲は明確なのだった。

わたしたちの議論が紛糾したのは、『責任』という言葉が何を指すかが、人により文脈によりバラバラだったこためである。ちょうどこのころ、当の電力会社のトップが、「原発事故を沈静化するまで職務を全うするのが私の責任」というような発言をしていて、責任論議はさらに錯綜したのだった。だが、そもそも責任とはいったい何なのか。責任をとるとは、いったいどのような行為のことを指すべきなのか? ちょうど『リスク』という用語にまつわる多義性と同様に、責任という概念も、法学・経営学・哲学・倫理学などが入りみだれて、分かりにくい。そこで、少しばかり整理してみよう。

責任という語には、じつは三通りの意味がある。それは、責任の理由や、責任の大小ではなく、その「果たし方」についての区別である。

そもそも責任とは、ふつう何か困った問題が発生した時に問われるものである。「責任ある地位」という風に、ポジティブな文脈で使われることも、もちろんある。しかし、“彼は責任を問われて昇進した”といった用法はあり得ない。ポジティブな事象においては、普通、責任の代わりに貢献とか功績という語を用いる。貢献と責任は対になる概念だ。

もう一つ。責任とは、ふつう意志ともセットで使われる。当事者に、それなりの裁量範囲や自由意志があった際にのみ、責任を問われるのである。ただ言われたことをやっただけの人には、たいして責任はないはずだ。

もっとも、じゃあ意図せざる過失には責任がないのか、というと、そうではない。過失には「注意義務を怠った」という一種の意志があったと考えられるからだ。そもそも人間は完全ではなく、間違いをする存在である。だから、二重チェックやフェイルセーフといった仕組みを仕事に組み込んでおく必要がある。ある一担当者の単純な過失が、重大な事故を引き起こしたとしたら、それはそのような不完全な仕組みを設計して放置したことに対して、責任が問われるのである。

そして責任とは、問題が生じた際に、その問題を解決するために払うべき代償について、行為の当事者に対し義務づける概念である。その代償の払い方が、三種類ある。まず、失敗した行為を正しくやり直すこと(影響を与えた状況を復旧する作業も含む)。次に、その問題を招いたことに関して、処分・批判を甘受し、場合によっては地位や体面を失うこと。最後に、損害賠償など法的な義務を果たすことである。

これらの三種類の責任概念は、英語ではそれぞれ別の言葉で表される。それが、Responsibility, Accountability, Liabilityである。どの語も、-ability, すなわち『能力』であることを示す語であるのは注目すべきだろう。

Responsibilityとは、仕事の遂行に対する責任概念で、つまり仕事が途中で問題を起こして、思ったようにうまくはいかなくても、最後まで我慢してやり遂げる(その余分な労力と精神的苦痛は自分が引き受ける)こと、ならびにその能力を意味している。

Accountabilityは、「説明責任」とも訳される。この語が日本で知られるようになったのはそれほど古いことではない。この10年程度であろうか。Accountableとは、対外的な義務を引き受けるという語感がある。誰が訳したかは知らないが、「説明責任」とは苦心の訳語であろう。とはいえ、“国会であれだけ弁明したのだから、某々大臣は説明責任を果たした”などといった使われ方をみると、なんだか「説明という仕事の義務」みたいに誤解されている面もあるようだ。そうではなく、Accountabilityは、地位や体面という代償を払うべきことを意味している。だからむしろ「面目責任」と訳してはどうだろうか?

Responsibilityが、どちらかというと業務担当者レベルでの「責任の果たし方」であるのに対して、Accountabilityは監督義務を怠った、あるいは間違った判断・命令を下してしまった、という事実への、管理職レベルでの「責任の果たし方」を指している。そして、Liabilityは法的な賠償等の「責任の果たし方」である。(ただしWikipedia英語版などを見ても分かるように、英語圏においても上記3単語は明確に区別せずに使われることがある。責任という概念は、それだけ奥が深くてややこしい)

ともあれ、以上をまとめると、次のように言えるだろう。

遂行責任 Responsibility :仕事を最後までやり遂げる(労力と苦痛を引き受ける)こと

面目責任 Accountability :問題の原因を作ったことを認め、立場・面目の低下を甘受すること

賠償責任 Liability :他者にかけた迷惑を金銭等で償うこと

こうして整理してみると、大きな事故を起こした企業が、まちがった操作をした作業者だけを処分し、トップは“問題を収集するのが自分の責任”と公言したら、どこがどう間違っているか明確だろう。作業者には復旧作業の遂行責任があり、経営者には事態への面目責任があるのだ。そして、かりにそのトップが会社を辞めたとしても、企業は賠償責任を逃れない。--といった具合に、これら責任概念の区別を飲み込んだ上で議論できれば、もう少しかみ合った実りある議論も可能になるのではないだろうか。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-06 22:41 | リスク・マネジメント | Comments(0)

安全と危険の境目をはかる

先日、作業現場の安全に関連して「度数率」という概念を紹介したが(「安全第一とはどういう意味か」参照)、これに多少似た概念で「事故率」という尺度がある。こちらは交通輸送などで使われる数字で、一人(あるいは1台)移動距離あたりの事故発生数である。たとえば国交省の統計によれば、国内の全道路における自動車の走行台・キロあたりの「死傷事故率」は現在100件/億台キロ前後である。言いかえると、自動車で100万キロ走行すると、平均約1回死傷事故に巻き込まれる可能性があることになる。

一方、航空機についての事故率は、輸送実績1億人キロあたりの死亡乗客数=0.04人という数字がある。台と人という単位系の違いがあるが、自動車1台に乗る平均人数は知れているから、両者を比較すると、自動車よりも飛行機の方がはるかに「安全」である、ということになる。実際、わたしの知るアメリカ人は北米と東南アジアを頻繁に往復する仕事で、通算100万マイル以上も飛び回っているが、“車で通勤するよりずっと安全だ”と自分に言い聞かせて乗っているといっていた。

もっとも、“自分に言い聞かせて”というあたりがミソで、彼だって何となく不安を感じるのである(時差等で肉体的にしんどいのもあるだろうが)。ここらへんが、安全に対する人間の感覚の微妙さを表していると思う。車を運転すれば、事故の可能性がある。それは承知だが、だからといってマイカー通勤やドライブ、あるいはタクシー利用を危険視する人はそんなに多くない。自動車の利便性が高いからである。

では、ある日、上品な身なりの黒い服を着た見知らぬ紳士がやってきて、「恐縮ですが、ちょっと車に同乗して10kmほど走っていただけませんか。同乗するだけで、別に運転は必要ありません。私どもの用意したプロの運転手がおりますので安全は請け合います。」と言われたら、あなたならどうするだろうか? あなたにはとりたてて、出かけたい場所も用事もない。でも相手は「10km走行して事故に遭う確率は、10万分の1しかありませんから」と慇懃に詰め寄ってくるとしたら?

OKと答える人の数は、少ないだろう。謝礼が出れば、多少は違うかも知れない。千円位くれるというなら、行ってもいいとは思う。でも相手が「直接の謝礼はお出しできませんが、あなたの行為は社会を巡りめぐって、あなたにプラスとして返ってきますから」というような説明だったら--わたしだったらお断りだ。メリットがあまりにも迂遠すぎるからである。

安全とは何だろうか。じつは、『安全』にはISOで決めた国際的な定義がある。それは
 「受け入れ不可能なリスクがないこと」(ISO/IEC Guide 51)
である。

この定義を知ると、消費者運動などでよく見る『絶対安全』という言葉は、ちょっとおかしな概念に思えてくる。それは一切のリスクをゼロにしろと言う要求であり、ちょうど絶対零度に物体を冷やせと言うようなものだ。逆に言えば、ISOは「受入可能なレベルのリスク」に抑えていることを「安全」と呼ぶのである。消費者運動のお嫌いな方など、これを知って、そら見たことか、運動家連中の言うことは完璧な間違いだ、と思われるかも知れない。

だが、ちょっと待ってほしい。ならばISOは「リスク」については、どう定義しているのか。調べてみると、不思議ことが分かる。ISO 31000に、その名も「リスクマネジメント」という規格があり、その定義は、

 「リスク:目的に対する不確かさの影響」effect of uncertainty on objectives

だという。これを、上記の安全の定義に代入すると、どうなるか。
「安全とは、受け入れ不可能な、目的に対する不確かさの影響がないこと」
になるが、これで意味の分かる人はいるだろうか? ISOは何を考えているのか?

じつは、ISOにはリスクの定義が複数、存在するのである。たとえば、「国際規格等における『リスク』の定義について」という資料は、今や話題の原子力安全・保安院が6年前に作成したものだが、4種類のISO/JISの定義を列挙している。その中で、上記の「安全」の規格に対応するのはISO/IEC Guide 51:1999であり、

 ・ リスクの定義 :危害の発生確率と危害のひどさの組合せ

と引用されている。

簡単に言うと、ISOは安全工学や環境学などに関連した分野では、危害とか危険などのマイナスの意味で長年「リスク」を使ってきた。ところが最近になって、(主に経済学や金融工学の影響だと想像されるが)プラスもマイナスも含めた不確実性のことを「リスク」と呼ぶようになったのである。わたしが以前「リスクという言葉自体がリスキーである」で書いたように、非対称型の概念から、対称型の概念に変わってきている。

ただし、そもそもISOの定義はいずれも、マネジメント・システムの体系の中で使われている点に注意してほしい。つまり各単語には意味空間が定められているのだ。だから、ISOに定義がある場合でも、ワン・センテンスだけをとりだして、「これが世界標準であり正解である」と思い込むのは危険なのである。それはいつの間にか思考停止の道具になってしまう。そもそも、マネジメントの問題には一般に正解なんか無い。

そこで、安全の定義にもどろう。上記をまとめると「安全とは、受け入れ不可能な危害の発生確率と影響度がないこと」になる。だが、疑問はまだ残る。誰にとって「受入可能」なのか? 判断する人と、判断基準は何だろうか?

答えははっきりしている。「リスクを受け入れ可能かどうか」は、その行為・目的の与える便益や価値を基準にして決めるのである。誰が決めるかというと、ISOは「マネジメントシステム」であって、その主体(通常は企業組織)が決めることになる。組織が価値を受け取り、また危険にもさらされる訳だから。え? 勝手に決めるのは本社なのに、危険にさらされるのは、その事も知らされていない現場の作業員(あるいは下請け)だろうって? もしそうなら、それはマネジメント・システムとして機能していないことになる。なぜならシステムというのは組織の構成員全員にちゃんと説明して、ちゃんと理解し従うことに合意した上で成立・維持するものだからである。

自分に何の具体的便益もないまま、リスク(危害の確率や影響度)にさらされた場合は、それを「受け入れる」かどうかは、本人の意志で決めることになる。何の便益も無しに「車に同乗して10km走って下さい」という要望には、お応えしかねる、という返事になるはずだ。受け入れなくても当然だろう。これが危険物質などの場合でも、身体や健康に「影響のない量」だから「安全である」とはならないのだ。

学生の時、放射線の安全な許容量は、科学的ではなく社会的に決められた値だ、と知った時の驚きはまだ覚えている。そして、通常の人よりも原子力関係の仕事に従事する人の許容量がずっと高いのも、奇異に感じた。だが、安全とはリスクと便益を天秤にかけて決められるものなのだ。便益や価値が、科学ではなく社会や各人の主観で決まるものである以上、それは当然のことだ。たばこは健康によくないが、吸う人は気分的な便益があるから吸っている。一方、益もないのに副流煙を吸わされる傍の人にとっては、迷惑以外の何者でもない。

困ったことにわたし達の社会は、巨大で複雑な文明社会である。ある所に便益をもたらすはずの文明の道具が、離れた別のところでは危険の原因になったりする。便益も危険も同じ当事者・組織ならば話は分かりやすい。しかし、それが離れていると、その間で話し合って決めるしか無くなる。その話し合いは、厄介で時間のかかる代物である。そこで、何か社会的な目安になる線引きや拠り所を求めたくなる。だが、危険度の基準はしょせん目安であることを忘れるべきではない。「絶対安全」を求める人々も、「基準以下だから文句を言うな」という人々も、ともに価値判断を回避している点では同じである。安全と危険との線引きに正解は無い。最終的な判断は、自分でするしかないのだ。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-21 22:56 | リスク・マネジメント | Comments(0)

リスクにつけるクスリ

暮色の深まるヒューストンのショッピング・センター。夕食を取ろうと立ち寄った、その駐車場で、わたしは反対車線から来る車に気づかずに左折し、接触事故を起こしてしまった。1997年の秋のことだ。わたしのレンタカーと相手の車の後部ドアが破損したが、幸い相手は怪我もなく無事だったし、その証拠に、すぐさま車を降りてわたしに罵りかかってきた。原因は明らかに、わたしの前方不注意だ。事故検証に来た警官も、わたしにそういった(念のために書くが、実話である)。

ところで、あなたはレンタカー契約書の裏面に書き込まれた、虫眼鏡サイズの細かい文字の文章を必死に読んだ経験があるだろうか? その夜のわたしはそうだった。レンタカー会社に事故を報告すると、彼らは、わたしの契約には賠償責任保険はついていなかった、と説明したのだ。“Full coverage”といって借りたじゃないか! と抗議しても、申し訳ないが契約書を読め、という態度だ。

そして、わたしはそこで、リスク管理の最初の原則を学んだのだ。

教訓1:外国で取り引きするときは、契約書を必ず読め

知らなかったのだが、じつはその当時、保険会社とテキサス州政府は係争状態にあった。料率が高すぎると言う批判に対して保険会社たちが耳を貸さないため、州政府は半年間、レンタカーの自賠責保険の引き受けを停止させたのだ。そんなこととは露知らぬ外国人のわたしは、その保険の空白状態に、ものの見事に落ち込んでしまったわけだった。

所持するコーポレート・カードの旅行者保険も、自動車賠償責任だけは除外されていた。アメリカの賠償責任は天井知らずだから、そんなものを組み入れるほど保険会社は甘くない。そもそも損害保険は見え透いた危険に対してのみ可能なのであって、大地震とか、戦争とか、異常気象とか、本当に大きなリスクに対しては引き受けてくれないのだ。

教訓2:保険会社は、あなたの必要とするときに、あなたを守ってくれるとは限らない

このときは、勤務先の米国子会社がかけていた保険で、からくも救われた。物損で約20万円の示談額が提示されたという報告を受け、わたしは安心してその事件を忘れることができた。

ところが、この事件にはまだ続きがあった。ちょうどその2年後、横浜の自宅に、テキサスの裁判所から分厚い封書が郵便で届いた。開けてみると、YOU HAVE BEEN SUEDと、わざわざ大文字で書かれている。書状は、わたしに対して、事故の後遺症による心身両面の損害と収入低下を保証せよという、100万ドル(約1億円)の賠償請求の訴状であった。事故の相手方は、保険会社の提示額を不満とし、時効になる2年間が切れる直前に、わたしと勤務先米国子会社を相手取って、訴訟を起こしてきたのだ。

それからの数ヶ月間は、まさに悪夢だった。米国側で弁護士を捜さねばならない。裁判所からは召喚状が来ている。出頭するかわりに、英文で宣誓供述書を作成し、日本の公証人にサインをもらう必要がある。しかも外国の裁判で有効な供述書とするためには、驚いたことに、霞ヶ関の法務省まで判子を、単なる判子を、押してもらいに行かなければならないのだ(わたしが釧路や熊本の住人だったらどうするのか?)。いや、そもそも、夕食に立ち寄ったときの事故は、業務上の行為として、会社は連帯で責任を負ってくれるのだろうか・・

残念ながら、米国は訴訟天国である。たしかに、事故を起こしたすぐ後に、米国子会社の人に相手方の名前を告げると、“それに似た名前のうるさい弁護士を聞いたことがあるけれど、まさか親戚じゃないだろうねえ、もしそうなら、かなり面倒なことになる”と言っていたのだ。しかも、彼らは金のとれそうなところを狙い撃ちにすることを心得ている。

この訴訟にしても、わたしの勤務先子会社と連名にしたのは、実はその方が賠償額をたくさん払う能力があるからなのだ。本当に責任があるかどうかは問題ではなく、事象のほんの一端でも関わっていれば、連名で訴えるに限る。これを、米国では、Deep Pocket Theoryという。


教訓3:大きな組織に“よらば大樹の陰”で寄り添っているせいで、逆に狙われることがある

この裁判は、結局1年半かかって終結した。相手側は決して和解に応じようとはしなかった。しかし、事故が不調の原因であるという医学的証拠も、相手は提出できなかった。判決は百数十万円の賠償である。この金額は、弁護士費用ともども、子会社の保険がカバーした。

米国には、他人を恐喝することが金持ちになる早道だ、と考えている人々が一定数いる。全部の米国人がそうだ、などと言うつもりはむろんない。わたしだって、信頼すべき、立派な米国の友人が、十指に余るほどいる(一番の親友は、退役海軍大佐だ)。

しかし、この事件を境に、わたしの米国観は変わってしまった。いや、たぶん、それ以前から少しずつ変わりはじめていたのだろう。わたしはかつてほど単純に、アメリカのオープンで実利的で率直なところが好きになれなくなってきた。そのかわり、強欲で、理不尽で、傲慢で、相手が弱いと見れば徹底的にエゴを通そうとする姿ばかりが目に付くようになった。そして、世の中は、ラフで、殺伐とした、リスクの多い場所として自分の前に広がっているのだった。

この話は、ここで終わりにしてもいい。リスクに対処することが下手な1エンジニアの、繰り言めいた教訓話である。

しかし、もう一つだけ教訓めいた話を、蛇足ながらつけ加えたい。先月の18日、まだ震災と原発事故の余波の中で日本があえいでいたとき、外電で一つの奇妙なニュースが入ってきたのに気づいた人はいただろうか。北アフリカの産油国をめぐって国連安保理決議が通り、米国を含む6カ国の連合軍が空爆をはじめるというのである。でも奇妙だったのは、空爆の開始ではない。その日を境目に、ニューヨーク市場の株価が上昇をはじめたことであった。

ちょうどこの日から8年前、2003年の3月18日は、中東の産油国イラクをめぐる国連安保理の交渉が決裂して、世界がはっきり戦争に踏み出した日だった。このときも実は、米国をはじめ諸国の株式市場が上がったのだった。これは何を意味するのだろうか? たぶん米国の資本市場の投資家たちは、不確実な状況にいて待つよりも、リスク・ポジションが明確になる異常事態の方が、より有難いと考えたのだ。

だから、険呑な小さき世界に住むわれわれ庶民にとって、リスク・マネジメントに対する最大の教訓は、こうなるのかもしれない:

教訓4:世界の投資家たちは不確実な平和よりも、戦争による賭けを好む。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-07 22:41 | リスク・マネジメント | Comments(1)

安全第一とはどういう意味か

ある時、友人がやってきて「車を2,3日貸してくれないか」という。小規模な引越をしたいので車が入り用なのだという。レンタカー代ほどではないが借り賃も払うから、といって謝礼を菓子折と一緒に置いていった。

さて、数日たって友人が返しに来た車を見て驚いた。フェンダーから左のボディにかけてへこみが入り、サイドミラーも折れている。どうして、と聞いたら「左折時に不注意で障害物に引っかけてしまって」という。そして、「すまんすまん。でも、車両保険には入っているんだろ? たいしたことはないから、すぐ直るよ。事故は一定の確率で起きるもんなんだ。」・・そんな風に友人が言ったら、あなたなら、何と答えるだろう?

「いや、車なんか大丈夫。それより君に怪我がなければ、何よりですよ。」こう答えられるほど、寛大な度量はわたしには、無い。たぶん頭に来て、「馬鹿野郎! 人の車を事故っておいて、その言いぐさは何だ。確かに保険にゃ入ってるが、修理の間は使えなくなるじゃないか。お前の顔なんて二度と見たくもない!」と叫ぶだろう。そんな気がする。かりにわたしがビジネスでレンタカー屋を営んでいても、修理期間中の機会損失は保険では埋め切れない。面と向かって怒鳴りはしないだろうが、態度のわるい客には二度と貸したくないと思うだろう。

逆に、友人が使い終わって返しにきた時、きれいに洗車して見違えるようになった上、ガソリンは満タン返し、さらにオイルまで交換していてくれていたらどうだろう。無論、実際には走行距離の分だけは使って減耗している理屈だが、それでも、貸した時より立派になって返されたら、わるい気はしない。気持ちの良い友人だから、また何かあったら手伝ってやろうと思うはずだ。借りたものは、傷つけずにきれいに返す--これは社会の常識である。前よりもよくなった状態で返す、というなら信用すべき立派な態度であろう。

ところで、話はやや飛ぶが、皆さんは「度数率」という言葉をご存じだろうか? 労働災害統計の基本的な尺度で、労働時間100万時間あたりの事故災害発生率である。一人の年間労働時間はだいたい2,000時間程度だから、いいかえると500人規模の事業所で年間何人ケガをするか、を示す(作業が原因の病気も含む)。2009年度は製造業で3.8、運輸業で5.4くらいだ(「労働災害動向調査」による)。赤チンつければ済む不休災害が3割程度入っているから、職場を離れざるを得ない事故はもう少し減る。なお、海外ではOSHA方式の度数率を使い、こちらは20万時間あたりの傷病発生数で測る。

労働安全・衛生・環境の保全をあわせて、英語でHSE (Health, Safety & Environment) Managementと呼ぶ。会社のマネジメントの程度は、このHSEのレベルを見ると、ある程度わかる。わたしが生まれて初めて海外のプラント建設現場に赴任した時、最初に教えられたのが、このHSEであった。安全教育を受けないと、建設サイトには一歩も踏み入れられない(現場用の靴も支給されない)。毎朝の定例ミーティングは、Safetyの報告からはじまる。"Safety first"とはそういう意味だと、初めて学んだ。わたしが現場の道路を、暑くて防護眼鏡を外したまま歩いてると、客先(米国系石油メジャー)の年配のエンジニアから、「メガネをかけて下さい! オネガイシマス!」と呼び止められ注意された。ステップや階段に一歩でも足をかけて上がる時は、安全帯(フック付きのベルト)を体に掛けていなければいけない。そうした厳しいルールが、うるさいほど徹底されていた。

それはなぜか。わたしが建設部の先輩から聞いた説明は、こうだ。「実際の力仕事をしている職人やワーカーは、貧しい地方の村々からろくな教育も受けずに出てきて、家族を養うためにここで働いている。働けなくなったら、その日から家族皆が困る。だから一人でも怪我をせずに、現場から無事帰してやることが俺達のつとめだ。できれば、少しでもスキルを上げて帰してやれれば、もっといい。」そしてこうも言った。「度数率は目標じゃない、結果だ。誰も怪我させないことが、目標なんだ。」

ちなみに、下請け会社が事故を起こしたら、その記録は発注元の度数率に入るか、入らないか? 答えは「入る」である。なぜなら現場全体の安全管理責任は、発注元に残るからである。「権限や作業は委譲できるが、責任は委譲できない」が原則だからだ。わたしの勤務先はホワイトカラーのエンジニアばかりで労働者は一人もいないが、度数率統計があるのはそのためである。

そこで、冒頭のたとえ話を思い出してほしい。友人にとって、借りた車は「リソース」であった。リソースの定義は、すでに何回か書いたが、もう一度繰り返す。『作業に必要で、作業中は占有され、終わったら解放される』のがリソースであり、人や道具や設備機械や作業スペースなどを指す。使い終わったりソースは、返さなければならない。つまり、リソースとは借り物なのである。他部署から借りるか、他社から有償で借りるか、社会から無償で借りるか、いろいろな形態はありうるが、とにかく返さなければならない。

そして、返す時には無傷で返す、のが原則である。だから、Human Resourceとして動員した労働者は、全員を無傷でかえさなければならない。これが『安全第一』の本来の意味なのだ。労働者だけでなく、建設機械であれ、工具であれ、勝手に傷つけてはいけない。作業にスペースを使ったら、返す時には“立つ鳥跡を濁さず”で、環境を汚さずに戻す。借り賃や保険料を払っているから良い、というものではない。駐車場だって、借りたら代金を払うではないか。限りある資源を借りたら有償なのは当たり前だ。また保険は、損害のお金は払ってくれるが、失われた時間や能力は補填してくれない。

では自社の社員だったら怪我しても良いのか? とんでもない。自分の部下は自分の持ち物ではない。その証拠に、会社はわたしの同意を得ずに勝手に部下をつけ加えたり奪ったりするではないか。部下は会社から借りているのである。だから、自分の仕事のために部下の安全や健康を損なうことは、許されない。

そういう許されない事をし続けたら、どうなるか。答えは簡単だ。わたしは「信用を失う」のである(冒頭の友人の例のように)。信用はいったん失ったら、まず戻ってこない。そして信用できない人間には、たとえ金を払うと本人が言っても、だれも何も貸さなくなるだろう。リソースが無ければ、仕事ができなくなる。これが『安全第一』の原則を理解しなかった帰結である。

安全第一とは、借りたリソースは可能な限り無傷で返せ、という意味である。それなのに、“我が身の安全が第一”といった逆立ちの理解が、今の世間では通用しすぎているように思う。わたしはこうした態度を「安全第一主義」と呼んで、区別するようにしている。安全第一のまともな理解は、大学では教えられない。だから今の状況は、企業内教育(の不在)が招いた結果なのだろう。

この話を、どこかTVで報道される遠い所の工事現場の話だと思わないでほしい。度数率統計の対象にはなっていないかもしれないが、オフィスだろうがどこだろうが、原則は同じである。わたし達はいつの間にか、“お金で何でも解決できる”という考え方に染まりかけている。しかし、お金が活きて使えるのは、自分に社会的な信用がある限りにおいてである。そしてその信用とは、「自分は何を借りているか」に自覚的な人だけが保てるのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-03 22:24 | リスク・マネジメント | Comments(0)

サプライチェーンの再生力

Verizonという会社をご存じだろうか? アメリカの通信事業会社である。専門分化し細分化された米国の通信業界において、長距離通信と携帯通話サービスを中心に健闘している。しかし何よりも、NYのウォール・ストリートを中心とした金融街の通信事業者の中核として、Verizon社はその独自の地位を築いている。

9.11の悲劇から1週間後の月曜日、NY証券取引所はその業務を再開した。全員が「ゴッド・セイブ・ジ・アメリカ」を唱和し、続いて会頭の振りおろすハンマーによって業務を再開する映像は、世界中に放映された。フランスのニュース番組は、『アメリカがここまで信心深いとは知らなかった』と皮肉っていたが、アメリカの社会がもつ再生力を象徴するシーンだったことはまちがいない。

ところで、この劇的な再生シーンの背景に、Verizon社の死にもの狂いの努力があったことはあまり知られていない。

取引と言うと机と紙しかいらなかった旧時代はともかく、現代の金融取引の中心手段は通信である。そして、その通信の物理的な基盤はウォール・ストリート中に張りめぐらされた光ケーブル網であることも、考えてみればすぐ分かることだ。

そのケーブル網は、ワールド・トレード・センターのツインタワーの崩壊によって、当然ながらずたずたにされてしまった。Verizon社の中核設備は同センターの7階区にあったが、これも大きな被害を受けた。そして、ウォール・ストリートの機能の復旧とは、すなわちVeirzon社がどれだけ彼らの顧客への接続サービスを再生できるかにかかっていたのだ。

この間のVerizon社の不眠不休の努力は、Fortune誌(2002年10月15日号)の記事が詳しく書いていた。9月11日の朝、同社の社員たちは、本社ビルからツイン・タワーの崩壊場面を呆然と見つめていた。「これを目撃した以上、全力で復旧作業を行わなければ気が済まないという心理でした。」と彼らは同誌に語っている。事実、ウォール・ストリートから世界各地へと送られる声とデータ情報をサービスし、350万以上のハイ・キャパシティ・サーキットと電話回線30万本を処理していていた4個の巨大な交換装置が危機に瀕していた。

これらネットワークを、危険地区を避けてマンハッタンの別の場所に迂回させ、つなぎ直す作業にどれだけ超人的な努力がいるか、通信技術者でなくても想像がつくだろう。彼らはさらに、金融街に戻ってくる何千人もの企業人の便宜を図るため、携帯電話用の仮説アンテナを設置することまで行なった。

米国の通信業界が細分化され競争社会にあることが、この場合は幸運に働いた。大手企業は複数の通信業者を同時に採用しており、一ヶ所に危機が起こった時に別のルートやサービスが選択できる状況にあった。いわばシステムに冗長性があった訳だ。また、ふだんは競争している通信業者が、このような社会的危機の際には団結し協力して動いたことも大きい。ここらへんは開拓者の子孫たちから成り立っているアメリカ社会の良い面だろう。

再生力のポイントをもう一つ上げるなら、それは自己責任による判断があったことだ。Verizon社が、自社の設備の危険性を承知で、あえて事故後しばらく稼働させたまま放置した(人間は避難せざるをえなかった)こともそれだ。こんな状況にどう対応すべきか、当然ながらそこまで社内規定では決まっていなかったにちがいない。現場判断による一種の賭けである。このおかげで多くの電話回線が数時間のあいだ生き続けて、人々の連絡を助けたのだ。

複数の競争があること、しかしそれを超えた協力もできること、自律性すなわちマニュアルに無い状況でも自己判断ができること・・こうしたことが相まって、ウォール・ストリートのネットワークの再生力を強めた。

これからえられる教訓はなんだろうか?

我々の社会においても、サプライチェーンの危機管理が今や真剣に問われている。危機管理を考えるとき、事故や災害や悪意の攻撃を未然に防ぐ方策は何より大切だ。

しかし、もうひとつ大切なことは、サプライチェーン全体の再生力を高めることだろう。供給のネットワークを単線化せず、複数事業部間で協力ができること、そして何よりも、危機的状況が起こったときに、現場での自己責任による判断が許されるような緊急時の権限委譲が保証されていること・・こうしたことを包含してこそ本当の対策となるのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-03-29 00:00 | リスク・マネジメント | Comments(0)

危機における技術のマネジメントとは

「どうだ、状況は?」
「かなりヤバイ。温度が上がってきている。液面も落ちてきた。」
「困ったな。一番の問題は容器内の圧力だろう。今どれくらいある?」
「計器のトラブルでよく分からないんだ。表面温度から見てたぶん7~8気圧くらいになってる」
「設計圧力は?」
「4.5だ。5や6くらいまでなら持つ自信はある。でも8となると、正直厳しい。」
「時間との勝負だな。安全弁をふかせるしかないか。ポンプさえきちんと回せれば抑え込めるはずなんだが。」

エンジニアは、こういうしゃべり方をする。ちなみに、上の会話は創作である(念のため)。エンジニアの会話は、数字と見込みと判断と、そして感覚からなっている。これは、科学者や、役人や、政治家や、法律家の話し方とはずいぶん違う。科学者は「ヤバイ」という言葉遣いはしない。科学者は論理的に確実なことしか言わないし、論理的でないことを言えば、科学者でなくなってしまう。政治家は耐圧性能に対して自信を述べず、法律家は「時間との勝負だな」とは言いはすまい(たまには言うかもしれないが、彼らの時間感覚はだいたい月単位である)。


前回
も書いた通り、わたしはエンジニアだ。エンジニアリング業界で働き、周りも技術屋ばかりである。だからエンジニアがどういうしゃべり方をするかよく承知しているし、技術屋同士の話が一番分かりやすい。世間ではよく「科学技術」と一括りにするが、この二種類はかなり違う。科学は真理への探求心が主軸にあるが、技術屋は徹頭徹尾、目的合理性と実用の観点で動く。技術の対象は(たいてい)複雑な系である。必ずしも全ての情報が手に入るとは限らない。そこで、入手可能な数値的データから、系の状態について推測し判断することを求められる。かりに論理的に確実でなくても、経験的に因果関係があれば、なんらかの手を打つ。「一応、念のため」とか「気は心さ」などと口にしつつも。

ここで「技術者」といわずに「技術屋」とわざわざ書いている点に注意してほしい。エンジニアとは生計を得るための商売である。聖職とかではない。そこに自尊も卑下もあるのだし、だから対象から距離をとって正気を保っていられるのだ。技術屋は不確実性の中にいる。そして、一定の制約条件下で判断を下さなければならない。判断のためには、なんらかの価値基準がいる。こうした、不確実性と制約と判断が、エンジニアの直面する日常的問題である。

だからエンジニアを使う時には、それに合った使い方、マネジメントの仕方を理解する必要がなる。とはいえ定常的なオペレーションにおける技術屋のマネジメントについては、ここで詳しく述べるまでもないだろう。『PDCA』という言葉は全国的に流通しているからだ。計画を立て結果を検証し、必要に応じて改善のサイクルを回すことは、普通の企業だったらどこでも行っている。

ここで論じたいのは、技術的な問題発生時、それも重大な危機的問題の発生時のマネジメントでだ。そもそも『問題』とは、“現状が期待と乖離した状況”を指すのだが、それにも軽重がある。普通は三段階、すなわち、プロジェクトやオペレーション全体を止めてしまう可能性のある重篤な問題(英語でいえばShow Stopper)と、当面は迂回可能な問題と、後日修正すれば済む軽微な問題とにレベル分けされる。ABCなどのランクで区別されることも多い。大事なことは、Aランクの危機的問題と、BCランクの問題では、マネジメントの仕方を変える必要がある点である。

Aランクの危機的問題においては、マネジメントは次のことに集中しなくてはならない。
1 リソースを動員する
2 外部影響を遮断する
3 代替案を出させて決定に責任をとる
以下、意味を説明しよう。

1 リソースを動員する
マネジメントは、問題解決に当たる技術者に対して、必要なリソースを可能な限り動員・調達するべく努力してほしい。『リソース』が何を意味するかについては、最近解説したばかりなので、ここで詳しくは繰り返さない。技術者が問題解決に必要としているリソースは人であるかもしれないし、特殊な道具・機械・設備かもしれないし、あるいはユーティリティ(電力・燃料・水等の用役)かもしれない。一口に人と言っても、専門家の場合もあるだろうし力仕事の労力の場合もあるだろう。何であれ、必要と思われるものは、可能な限りすみやかに調達する。そのためのロジスティックスも手当てする。これがマネジメントの第一の仕事である。

リソースは、最初からできるかぎり多めを動員する。足りなくて困るよりは、多すぎて迷う方がましだからだ。戦力の逐次投入が、一番いけない。わたしの知る優秀なプロジェクト・マネージャーやプロジェクト・スポンサーはたいてい、問題発生時のリソース投入の判断が早くて正確である。しかもリソースが多すぎて現場が混乱しないよう、その整理と差配も同時に考えている。

2 外部影響を遮断する
これはエンジニアを問題解決に集中させるためにぜひ必要なことだ。ここで外部影響とは、「外部からの影響(雑音)」と、「外部への影響(波及)」の両面を指す。危機的問題の発生時は、経営トップをはじめ、顧客やら監督官庁やら地域コミュニティからメディアにいたるまで、ありとあらゆるステークホルダが疑問や注文を投げかけてくる。現場の担当技術者がこれらに対していちいち資料を作って答えていたら、肝心の「考える時間」が取れなくなる。そこでマネジメントの第二の仕事は、担当者に代わってコミュニケーションを引き受けることで、担当者を雑音から遮断し、問題に専念させることである。

「外部への影響」の遮断とは、問題事象がなんらかの形で物理化学的に近隣施設やコミュニティに影響を与えている時に必要となる。むろん、物理的遮蔽や化学的中和は技術者の仕事である。マネジメントの仕事とはそうではなくて、遮断による経済面・心理面・法律面での影響について交渉し対処しておくことである。本当に必要なら、行政を説得し近隣住民を予備的に避難させることも案の一つである。かりに現時点で直接の危険性がなくとも、それによって技術者のとれる選択肢の幅が拡がるなら、十分に意味がある。

3 代替案を出させて決定に責任をとる
これがマネジメントの第三の、そして一番重要な仕事である。マネジメントとは、担当者に仕事のやり方を指示命令することではない。技術に関しては、技術者が一番よく知っているのだ。大事なことは、技術者に問題解決のための複数の選択肢を考えさせ、その中の一つをマネジメントの責任の下で選ぶことである。複数の選択肢について、それぞれの技術的可能性、有効性、コスト、時間、影響、リスクなどを簡潔にまとめさせる。そして、総合的判断の下、最善と思われるものを選ぶ。

担当技術者に選ばせない理由は二つある。担当者は問題事象に集中しているため、より大きな観点からの得失が見えにくくなっているおそれがある。たとえば、技術屋というのは、自分が面倒を見てきた装置やら製品やらシステムが可愛い。だから、できるかぎりは破壊から守ろうと無意識に考える。しかし、「それはもう捨てろ」と命じるのが、マネジメントの役割なのだ。「過去つぎ込んだ金や時間への執着は忘れろ、それはSunk Costだ」と言わなくてはならない。もう一つの理由は、当然のことだが、結果に対する責任を引き受けるためである。かりに技術者のリコメンド案をそのまま受け入れる場合であっても、責任はマネジメントに残る。うまくいかなかった時の非難は、マネジメントが受け取る。うまくいったら担当者を賞賛する。これがアカウンタビリティーの原則というものである。

以上の三つの仕事を煎じ詰めれば、マネジメントの仕事とは技術者を「支援する」ことだ、と分かるだろう。現場に乗り込んで陣頭指揮、とか、一刀両断に問題を解決、といったかっこいい「リーダーシップ」を世間では求めたがる。マネージャーも現場感覚は必要だから、現場には行くべきだと思う。だが、あいにく、技術的問題に関しては、技術者が解決するしかないのだ。技術のマネジメントとは、脚光を浴びず、非難ばかり浴びる仕事である。それは当然なのだ。なぜなら、危機における技術のマネジメントとは、『支援』の別名だからである。
by Tomoichi_Sato | 2011-03-24 22:45 | リスク・マネジメント | Comments(0)

計画技術者の目から見た「計画停電」

わたしはエンジニアだ。調査票やアンケートにもそう記入する(選択肢があれば、だが。無い場合はしかたなく「会社員」を選ぶ)。工学部の大学教育を受け、エンジニアリング業界で働き続けている。職場で周囲を見渡しても技術屋ばかりだ。

何の専門のエンジニアか? と聞かれたら、わたしの場合は相手の立場を見て答えを決める。まったくの素人さん相手なら、「プラント関係の仕事です」と答えるだろう。これで相手は分かった気になる(らしい)。理工系相手なら「大学の専門は化学工学です」と答えたいところだが、8割以上の人は『カカクコウガク』というものが分からないので、白衣を着てビーカーを振っているように思うらしい。自慢じゃないが白衣なんて中学以来着たことがない。でも、これが英語での質問なら、"I'm a chemical engineer."でピタッと理解される。英米では、mechanical engineerと並んでメジャーな職種の一つだからである。

でも、もしも同じ業界の人に聞かれたら、"I'm a schedule engineer."だと答えるだろう。「スケジュール・エンジニア」という専門職種が、わたしの業界には確立しているからである。ああ、それじゃあPlanningとかProgress controlとかを毎日やっているんだ、と理解してもらえる。Time Managementが専門の技術者、と言いかえても良い。

そのスケジュール・エンジニアの目から見て、今回の「計画停電」というのは、率直にいって、きわめて筋のわるいスケジューリングのやり方である。ちなみに、電力会社はわたしの勤務先の顧客筋の一つに当たる。そして、わたしは一応このサイトを実名で書いている訳だから、あまり批判めいたことをするべきではないのだが、家庭用電力の単なる一ユーザーとして、一言述べさせていただこう。

計画とかスケジュールというのは、何のために立てるのか。それは、あらかじめ「準備するため」である。準備して、事態に備える、あるいは、仕事をスムーズに立ち上げる。それを見越して材料や要員を頼んでおく。

逆に言うなら、スケジュールで一番大事なことは、準備できるだけの時間を前もってとって公表することである。準備に1時間かかる作業を、5分前になって指示されても、誰もついて行けない。もう一つ大事なことは、「やる」と計画したら、多少遅れてもよいからきちんと「やる」ことである。「やるかやらないか、その場にならないと分からない」では、やった準備作業が無駄になってしまう。だから、今回のやり方は失礼ながら「無計画停電」というに等しい。

電力を落とすということは、鉄道・交通信号から工場・商店の操業そして医療・保育まで、ありとあらゆるところに大きな影響が出る。それは電力事業者ならば誰でも分かっていることだ。でも消費電力のたぐいは気象にも左右されて、気まぐれで予測が難しい。そして、供給能力は限られていて、万が一にも消費が上回ったら、(家庭内で電気消費が大きすぎるとブレーカーが突然落ちるように)それこそ大規模停電がいきなり起きてしまう。--こういう、電力会社や監督官庁の不安は、もちろん分かる。

需給がバランスを欠きそうな時に、手立ては二種類ある。需要側に、自主的な節減努力を期待するか、供給側でコントロールするかである。そして、この国は後者のやり方をいつも好んでとってきたように思う。かつて米の不作の時もそうだった。

だが、わたしは需用者側のふるまいに期待するのが近代社会のサプライチェーンの姿ではないかと思う。そのためには、たとえば供給エリア毎に「使用量」と「供給可能上限」とを、リアルタイムに「見える化」すればよい。それこそ、メーターの形にしてネットで見せるだけでも効果があろう(どうせ制御監視室ではこの数値を見ているのだから)。今日の技術ならきわめて簡単に実現できる。携帯でちらとメーターを見て、やばい、この地域は上限に近づいてる、節電しなきゃ、と消費者が考える--これが実現されれば、「さすがは日本人だ」と世界中が感心するはずではないか。

あるいは、もう少し大がかりな手法で、電力需要ピークを下げるために、工場や職種を選んで2~3時間程度の時差勤務を要請する、というアイデアを提案している人もいる。前倒しと後ろ倒しのグループ間で最大4時間程度の差をつければ、ピークはかなり減ると考えられる。一種の大規模なサマータイム制である(これは電力会社だけではできないので、その監督官庁のガイドラインによる指示の形になろう)。

それでも、無責任で気まぐれな国民なんか信用できない、計画停電しか方法はない、というのなら、せめて以下の二点を提案したい。

・地域を18グループくらいに分けて、停電時間は1時間以内とする
・計画された停電は、必ず実行する。スケジュールは週単位で固定し、3日前に予告する

1時間以内とする理由は、各種の自家発電装置や無停止電源装置の容量を考えてのことである。3時間分もの容量をもつ事業所は多くあるまい(たしか、例の福島原発の緊急ディーゼル発電機が背負っていた補助バッテリも1時間分じゃなかったか?)。また毎日3時間分の燃料油を確保するのも困難だ。さらに人間の心理としても、1時間程度ならまだしも我慢しやすいだろう。

停電時間帯が毎日変わるというのも、困難さの大きな一因だ。これはせめて週単位で固定すべきだろう。そして、スケジュールは、先に述べたように、準備期間を考えて3日前には予告する。予告したら、もう計画は変更しない。これをスケジューリング用語で「タイムフェンス」と呼ぶのだが、ここが守られないから皆が困惑しているのだ。

むろん、たとえ1時間でも停電してもらっては困る、という事情も、あり得るだろう(とくに工場や食品関係では)。たとえばわたしの勤務先は大型コンプレッサーを多数、関東に工場を持つ企業に発注しているのだが、もう製造は出来上がってこれから出荷前検査という段階に来ている。ところが、24時間連続運転試験ができないから、出荷の見込みが立たないのだ。こうした事業所には、一週間連続給電するかわりに一日停電する、といった代替の選択肢が与えられるべきだと思う。

現在の「計画停電」のやり方では、停電する区域は事前に分からないし、どういう基準で決められているかも不明だ。ある企業は交渉して停電を免除してもらっている、などというまことしやかな話(根も葉もない噂だと信じたいが)も通用し始めている。このままでは、電力という公共財としての商品が、『利権』の対象になりかねない。そのような状況は、ぜひ避けるべきだと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-03-20 23:30 | リスク・マネジメント | Comments(5)

営業活動という名前のプロジェクト - そのリスクとリターンを考える

プロジェクト型の事業はふつう、初期には費用を使って、成功するとリターンを得るというキャッシュフロー構造をしている。言いかえれば、最初に投資が必要で、完了時に回収する仕組みである。受注型プロジェクトでも、最初は人件費や外部コストがかかり、成功裏の完了すると支払を得るわけだから、時間的な構造は同じである(会計的には「投資」扱いにならないとか、一部の「前払金」があり得るなど、細かな差違はある)。

いうまでもなく、多くのプロジェクトは失敗のリスクをともなっている。すなわち、初期の投資を回収できずに終わる可能性が(大小はともあれ)存在する。いま、プロジェクトの初期投資額をC、成功時の収入をSとし、かつ途中で中断失敗するリスク確率をrとすると、プロジェクトの生み出す価値の期待値は、非常に単純化して言うならば
 (1 - r)S - C       (1)
で表されることになる。これがプラスでなければ、そもそもやる意義はない。

さて、プロジェクトの投資主体が、自分では資金を持っておらず、また担保能力も有していない場合は、外部から資金調達しなくてはならない。このときは、貸し手の側から見ると、そのプロジェクト事業のリスクに応じて、一種の利子を要求することになる。貸し倒れの可能性があるからだ。利子は、最低でもデフォルト(=貸し倒れ)損失を上回るよう設定する必要がある。デフォルト状態に陥る確率は上記の通りrである。このとき、最低利子率Rは
 R = r/(1 - r)       (2)
となることを、前回(『戦略的プロジェクトとリスク・プレミアムの原理』)説明した。

無担保でお金を貸すようなことが世の中にあるわけ無い、とお思いだろうか? それが、あるのである。事業の将来収益自体を担保に取ることで、事前の担保無しで資金調達する手法だ。事業主体となる企業は特定事業目的の子会社(SPC)を作り、親会社の連帯保証無しで融資を求める。これをノンリコース・ローンと呼ぶ。プロジェクト・ファイナンスの分野の手法であり、海外の巨大エネルギー系プロジェクトなどで、ときどき用いられる。融資側は無論、プロジェクト事業のリスクについて詳細な評価をして利率を決める必要がある。世界でもこうした審査ができるのは、トップクラスの一部金融機関に限られる。日本では、東京ディズニーランドの事業を開始する際に、同様の手法がとられた事が知られている。

ところで、そんな大げさな話ではなく、どこの企業にも、失敗すると無に帰する投資事業が二つあるのである。その一つは、R&Dである。研究開発は、確かに投資だ。そして、必ず成功するとは誰にもわからない。まあ、失敗確率の低い「改善研究」だけに集中する企業はあるだろう。そもそもR&Dを持たない企業もある(米国には、経営者が引退前にボーナスを稼ぎたいがために、お金のかかるR&D部門を閉鎖してしまうケースさえある!)。

そして、もう一つ、もっと日常茶飯的に、非常に大きな失敗のリスクをともなう仕事がある。それは営業における案件の受注活動である。顧客がある案件の引き合いをかけてきた。ライバルのX社・Y社にも声がかかっているようだ。しかし売上低迷の折、ぜひともこの案件はものにしたい。御見積書にきちんとした技術提案書をつけて、ベスト・プライスでオファーしよう。こんな光景は今どき、どこの企業でも見られる。なにしろ、見込生産で製品を大量に作っておけば、端から売れていった時代はとうに終わっているのだ。

受注活動それ自体を、一つのプロジェクトと考える。これはある意味、ごく当然なことである。では、その収支はどうなっているのか。そしてそのリスクは?

そこで、ちょっと考えてみよう。今、受注金額1000万円クラスの案件があるとする。原価をざっと積んでみると700万円であった。うまく受注できれば、300万円の利益が出る。では、この案件の受注活動には、いくらまで営業費用をかけられるだろうか?

式(1)で言うなら、将来収益S=300万円である。一方、初期投資額C=営業費用になる(受注しなければ製造原価700万円もかからない点に注意)。では、失注確率rは? もし顧客が恒常的に3社合見積をとっており、かつライバルとの実力が拮抗しているなら、受注確率は1/3、失注確率r=2/3=0.67となる。単純に考えれば、(1)式がプラスになればいいのだから、
 (1 - 0.67)(300万) - C >= 0 すなわち、C <= 100万円
で、営業費用は最大100万円まで許されるように思うだろう。

ところが、この案件を失注したときのリスク費用がここには抜けている。リスク費用は、利率と投資額の積R・Cで表される。つまり、無担保投資の場合、式(1)は次のように修正しなければならない。
 (1 - r)S - (1 + R)C >= 0       (1')
これと、先ほどの式(2)を組み合わせると、次の条件式が得られる。
 C <= S・(1 - r)^2             (2)
ただし、^2は2乗の意味である。これに先ほどのS=300万、r=0.67を代入すると、
 C <= 33.3万円
という事になる。営業費用は、最大で33.3万円しか許されないのである。

ということは、何を意味しているのだろうか。勝率が1/3の賭け、いや、「受注活動プロジェクト」に投下できる費用は、粗利益の1/9以下にしなければならないということだ。上記の例では、製造原価に対する販売費比率は4.7%以下となる。それ以上費用をかけていると、企業全体では失注リスクのためにマイナスになってしまうのだ。では、あなたの会社の販売費比率は平均でいくらだろうか? そして失注確率は?

ちょっと待て、その論理はおかしい。会社が営業活動の費用に対して「利息」をチャージする意味など無いはずだ。なぜリスク中立であらねばならないのか? 営業部門の経費は固定費として予算化されているではないか。そもそも、営業費用などせいぜい電話代と交通費程度だから、個別案件に33万なんて使うわけも無い--こう反論される方もいるかもしれない。しかし、それは営業部門の直接経費だけを見た場合である。受注生産の場合、見積を行うためには、必ず技術部門や生産管理部門の手伝いが必要となることを忘れてはいけない。技術提案書を作るには、ライン部門の人を動かさなければならず、その人件費は会社が負担しなければならないのである。

ちなみに33万円なんて、ちょっとしたクラスのエンジニアなら2週間以下の工数相当である。あっという間に使い切ってしまう金額だ。まして、製造部門が子会社だったら、どうか。あるいは、海を渡ったアジアの別会社だったら? その失注リスクは、誰が負担するのか。

しかし、見積に人件費を使うから、それを支払ってくれ、と要求しても、たぶん大方の営業部門の答えはNOだろう。「見積は無料に決まっている!」と営業本部長あたりに怒鳴られて終わりである。その結果起こるのは、製造部門の見えないコスト上昇だ。見積失注負担をどのように扱うかは、その企業の原価管理のやり方によって違うが、多くは不稼働損の形で原価差額に期末に繰り入れるだろう。つまり、ライン部門の人は誰も知らぬうちに、いつのまにか部門全体の単価が上がる形で処理されるのである。

こうして、「どうしてウチの製造部門は高コスト体質なんだ!」「だから仕事が取れないんだ!」と営業や本社が怒る状態が出来上がる。元はといえば、失注リスクに伴う見えないコストを、製造ライン部門につけ回した結果で起きたのに。

この問題を解決する方法はあるだろうか。少なくとも、わたしの思いつく答えは一つである。それは、「ムダな受注活動プロジェクトには工数を投下しない」ことだ。受注の見込のない案件には費用を使わない。案件の確度が高まるまでは人件費を投入しない。そして全体の受注確率を上げることである。(2)式では使って良い営業費用は受注確率の2乗に比例する。上記の例で、もし受注確率が1/2なら、C=75万円、確率が0.7なら、Cの上限は150万円近くなる。

受注確率を上げるとは、すなわち案件の状況を冷静に見て、無駄な戦いは省くということである。戦いを略すこと、これを戦略という。もう一度聞こう。あなたの会社の販売費比率は平均でいくらだろうか? そして平均受注確率は何%だろうか? こうした数字を、営業部門は客観的に把握しているだろうか。それこそが、高コスト体質改善の第一歩となるはずである。
by Tomoichi_Sato | 2010-11-07 19:32 | リスク・マネジメント | Comments(0)

戦略的プロジェクトとリスク・プレミアムの原理

プロジェクトと戦略という言葉は、切っても切れない関係にある。戦略が何を意味するかについては諸説あるが、少なくとも戦略的に何事かを行うことは、同じ業務をルーチン的に繰り返すのとは違った側面を持っているはずである。つまり、特定の目的を持つ、時限的な営為なのだ。ということは、戦略がプロジェクトを生み出すケースは非常に多いわけだ。

ところで、プロジェクトとは失敗のリスクをともなう事業である。このことは、すでに何回も書いた。そして、戦略とは仮説に基づく一種の賭けであって、裏目に出る可能性もあることも前回書いた(「戦略シンドロームと改善病」参照)。では企業が、戦略的なプロジェクトに対して投資する資金は、どのように保証するのか? いいかえるなら、企業の投資行動に対する「保証料」(リスクのコスト)はいくらが妥当なのか。タダで賭けはできない。虎の子を賭けに使うなら、それに伴う見えない費用がある。今回は、それについて簡単に考えてみたい。

--ある日、小学生の息子がやってきて、「お父さん、お金を1,000円、貸してくれない?」ときく。何に使うかを質問してみると、何やらゲームキャラクターのカードを買うとクジを引けて、珍しい景品がもらえるのだという。景品が当たったら、それを友達に2,000円で売る約束ができているらしい。つまり、1,000円は息子にとって一種の投資なのである。うまくすれば、2,000円の収入を得るという寸法だ。

ただし、必ずクジが当たるとは限らない。ネットで調べてみると、どうやら当たりの比率を7割程度に設定しているらしい。わたしは息子の投資に、1,000円を貸すべきだろうか?

この息子の投資事業が失敗するリスク確率は30%である。そこで、事業の期待値を計算してみると、
 (1-0.3) x 2000 - 1000 = 400 (円)   ・・・(1)
とプラスになる。だから、投資の価値はありそうである。

しかし、ここでふと、息子に対して、「お金を借りると利子がかかる」ということを教えてもいいと思いつく。それでは、自分はいったいいくらの利子を息子に課すべきであろうか。もともとわたしの自己資金なのだから利子ゼロでも良いのだが、ちょっと考えてみよう。

かりに利子率をRとしてみる。息子がクジにあたったら、得た収入から、貸した元金の他にさらに1,000・R円を返してもらえる。その確率は70%である。一方、息子に1,000円を貸しても、クジが外れたら、息子は他に蓄えがあるわけではないから、借りを返済できなくなる。つまり、1,000円の融資額を失う場合の期待値は、失敗のリスク確率30%を乗じて、-300円である。

すると、貸し手としてのわたし自身のキャッシュフロー期待値が、マイナスにならないためには、
 (0.7)・1000・R - 300 >= 0
でなければならないはずだ。すなわち、利子率Rは
 R >= 300/700 = 0.429    ・・・(2)
これが、わたしが損をしないための条件である。結構高い。

つまり、わたしは(いや、たとえ誰であろうと)息子の事業にお金を貸す場合、1,000・R = 429 円以上の利子をつけないと、損をすることが分かる。その理由は、小学生の息子に担保能力がないからである。

さて、今度は息子の側に立ってみよう。この事業投資の期待値は400円だ。だが、利子を429円も課されてはマイナスになってしまう。したがって、残念ながらこのプロジェクトは成立しないのである。

一般に、失敗すれば全額を失うような投資額Cに対して、利子率Rを決める場合、プロジェクト失敗のリスク確率をrとすると、
 (1-r) RC >= rC   ・・・(3)
が成り立たなければ、その費用を融資するものは居ないだろう。このとき、プロジェクトの期待値は
 (1-r)S - (1+R)C >= 0    ・・・(4)
となっている必要がある。式(3)より、最低利子率Rは、
 R = r/(1-r)    ・・・(5)
という、きわめて単純な基準が得られる。たとえば、リスク確率r = 20%なら、最低利子率Rは 0.2/(1-0.2) = 25%になる。rが10%なら、Rは11.1%である。

なお、式(5)は投資額Cも収入Sも関係がなく、リスク確率rのみで決まることに注意してほしい。おまけに、利子とはいうものの、時間の項は出てこない。このプロジェクトが完了して収入を得るまでの時間は1日かもしれないし1年かもしれない。だが、それが成功裏に終わったら、元本Cを返済するのみならず、RCの金額を貸し手に払うのである。なぜなら、貸し手はその資金運用の自由度を下げて「失敗のリスクにさらしてくれた」からである。

経済学によると、利子とはマクロな資金市場における需給バランスと金融政策によって決まることになっている。そして、式(5)で現される項は、普通“リスク・プレミアム”と呼ばれる。お金を貸す場合は、通常の金利をベースにして、そこにリスク・プレミアムを上乗せして貸せ、と言われている。

しかしわたしは、実は式(5)の項こそが「利子」というものの本来的な起源ではないかと考えている。利子とは、失敗のリスク確率によって定まるのである。そこでこれを、これを「無担保投資の利子率の原理」と呼ぶことにしたい。

ご存じの通り、近世までのキリスト教、そしてイスラム教では現代でも、利息を取ることを禁じている。なぜなら、「お金がお金を生み出すのは自然法に反し、不正だから」という訳である。こうした宗教的テーゼには同調しないとしても、『利息』というものに対してなんとなく漠然とした違和感を感じている人は、現代でも多いのではないか。実はわたしも、長らくそう感じていた。

しかし、上記の(5)式に気がついたとき、目の前の霧が少し晴れたような気がした。別に金貸しの肩を持って、その仲間に入ろうという訳ではない。ただ、プロジェクトにリスクが不可避的に付随することは事実だ。そして、貸し手がそのリスクに対して中立であろうとするならば、最小限の利子が必要となるのは理論的必然だからである。

では、ある部門が戦略的な賭けを行って投資する場合の「貸し手」とは誰か。それはもちろんその企業自体である。そして、企業のトップ自身が投資を決める場合の「貸し手」とは、株主である。したがって、投資を行う部門は、直接の利得以外に(5)式に定められる金額を、企業・株主に対して負っていると考えられる。

なお、もし実行主体に担保がある、あるいは、プロジェクトの失敗時にも残存価値がある場合は、条件式(5)は少し緩和される。失敗時の担保価値(残存価値)の投資額Cに対する比率をαとすると、
 (1-r)RC >= rC - αC の条件より、
 R = r(1-α)/(1-r)   ・・・(6)
となる。たとえば、α=0.9 (担保価値は貸し金の90%)だったら、Rは式(5)の値の1/10になる。だから、住宅ローンのように十全な担保を設定できる貸し手は、あまりリスク・プレミアムRの評価に頭を使う必要がない。同じように、従来の日本の銀行融資は、もっぱら担保主義であった。だから、市場金利をベースに商談を決められたし、だからこそリスク評価の能力がさっぱり向上しなかったのだとも言えよう。

もっとも、上記の話を、ある一流企業の技術部門の人たちに説明したら、「そもそも失敗中断するかもしれない事業に会社が投資するなんてあり得ない」という反論があった。なるほど、そうかもしれない。しかし、その会社でも、結果がゼロになるかもしれない「賭け」に似た投資的行動が定常的に行われている部門が、二つあるはずなのだ。

その一つは、「研究開発」である。研究開発は、未知なる結果を探求して行われる活動だ。必ず成功するとは誰もわからない。

いや、かりにその企業にR&D部門が無いとしても、ほぼすべての会社に、最低もう一つ、定常的に失敗のリスクをともなう営為を繰り返す部署がある。それは「営業」である。営業はさまざまな案件を追うのが仕事だが、いつでも競争に勝って受注できるとは限らない。では、営業におけるコストとリスクのバランスは、どう考えるべきなのか? これについては、項をあらためて、また書こう。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-31 22:03 | リスク・マネジメント | Comments(0)

リスクとは(本当は)何を指すべきか

何年前だったか、梅雨になってもいっこうに雨が降らず、カラカラに晴れた日が続いたことがあった(このごろ毎年異常気象なのでいつのことだったか覚えきれぬ^^;)。陽光はまぶしく空が抜けるように青く、湿度も低くて、さながらカリフォルニアの気候のようだった。「空梅雨って、こんなに素晴らしい天気だったんですね。」と若い人たちは言った。たしかに、こんな6月だったら、英語で言うJune Brideという言葉の輝かしさも分かるような気がした。せっかくの結婚衣装が雨に濡れては、『晴れの日』ではなくなってしまう。

結婚式を待ち望む人にとっては、雨はありがたくないものだ。ところで同じ時、年寄り達は、毎日晴れていることを心配した。「梅雨に十分雨が降らないと、田んぼの稲が育たない」という。もう工業社会になって何十年もたつのに、いまだに生活の中心であるかのように稲作の心配をする。伝統的思考は、文化の中にかくも深く組み込まれている。

「雨」という事象が、ある人たちにとってはリスクであり、他の人たちにとっては「雨が降らない」ことがリスクになる。これは、リスクというものが、誰にも共通の客観的事象として存在するものではない事を示している。

医学・環境学系の議論では普通、リスクはマイナスの影響の可能性を意味する。工学系も、ほぼそれに準じた使い方だ。一方、金融学系では、リスクとは不確実性を意味し、結果はプラスにもマイナスにも(ほぼ均等なチャンスで)なり得ると考える。わたしは前者を「非対称型」リスク、後者を「対称型」リスク定義と名付けている。

では、ビジネスにおいてはどうか。生産管理・品質管理分野では通常、非対称型でリスクを捉える。品質欠陥とか在庫切れとか。一方プロジェクト・マネジメントの分野では、PMBOK Guideは対称型で用語を定義している。会計や法務・コンプライアンス部門では非対称型、財務部門は対称型だろうか。おかげで、「リスク」という言葉自体に理解のブレが生じて、ミス・コミュニケーションのリスクが生じるわけだ(←この文での『リスク』は、非対称型の使い方をしている点に注意)。

このブレを無くし、みなに共通なリスクの認識を定義する方法はないだろうか? それが、あるのだ。非常に単純なことだ。すなわち、リスクの反対概念を明示するのである。リスクの反対概念とは、リスクの無い、目指すべき「理想状態」のことである。

医学・環境学系においては、「安全/健康」が理想状態である。ここからの逸脱を、リスクと捉える。一方、金融工学では、(なぜかは知らないけれども)「確実」が理想であるらしい。だから、不確実な変動をリスクと認識する。問題は、こうした『理想状態』を、皆が無意識に前提して議論してきたことにある。だから、リスクを論じる際には、まず、「あるべき理想状態」を規定する。そして、そこからの逸脱の可能性を論じるべきなのである。

わたしの提案するリスクの定義とは、このようなものだ:
「目指すべき目標値ないし理想状態から逸脱する可能性があり、かつ、その影響をリアルタイムに回避・抑制できないような事象(群)を、リスクと呼ぶ」

この定義の特徴は、主体が目指すべき理想を持っていることを前提とする点だ。その理想が『確実性』であるか『安全性』であるかは問わない。それは主体の価値判断に任されるべきことである。この定義は、だから、医学・環境学系の用法も、金融工学の用法も、いずれも内包している。「理想」という言葉が気恥ずかしかったら、「実現できる最善」でも良い。目標とする最善の状態・値をまず示す。それからの逸脱の可能性を検討する。

今日、ビジネスの現場で理想などという言葉を口にすると、青臭いと非難されかねない(そのくせ、ERP導入プロジェクトなどでは、To-Beモデルなどと言うへんてこな英語を平気で使う)。半世紀前には人を導いた「自由豁達にして愉快なる理想工場の建設」という起業理念も、その後継者達は忘れたがっているかのようだ(関連記事)。なげかわしい事ではないか。今やむしろ、理想を語るのを避けたいがため、そのかわりに皆リスク・マネジメントを論じるのではないかとさえ感じられる。あるべき姿を考えることが、ビジネスを引っ張っていく第一歩だと思うのだが。

もちろん、理想や最善と言っても、それはぎりぎり実現可能なものでなければならない。100mを5秒で走れとか、いや0秒が理想だ、などと主張して、そこからの逸脱をリスク呼ばわりするのは愚かである。仕掛在庫ゼロ!とか、製造コストゼロ!という『理想』をかかげるのは、マネジメントの目標として現実性がないばかりか、間違ってもいる。

ちなみにわたしは、「コスト超過」や「納期遅れ」などを、誰にも共通の普遍的リスクとして前提することに反対である。万人に適用可能な共通の目標などは無い。品質のためには費用はいとわないプロジェクトや、技術的ブレークスルーを実現するため納期はあえて設定しないプロジェクトだって、考えられるからだ。コストや納期がプロジェクト目標でなければ、そこからの逸脱はリスクにはならない。多くのリスク論は、自分の無意識な前提から出発するため、この点を誤解している。

リスクが「可能性」であることも重要だが、「影響」の大小もポイントである。以前別のところにも書いたので繰り返しになるが、リスクの大きさは、

            可能性×影響度
リスクの大きさ = ---------
             対応能力

で数式的に現すことができる。主体の能力が問われるのである。このことによって、「××さんがプロマネだって!? それじゃ、プロマネ自身がプロジェクトの最大のリスクだな」といった表現の意味が理解できよう。分母の対応能力が小さければ、どんな些細なリスク因子も巨大な結果を引き起こすだろう。

むろん、対応能力というのは、リスク事象の影響をリアルタイムに回避・抑制できる能力を指す。「リアルタイム」の定義は長くなるから別に項をあらためて書くことにするが、瞬時に避けられるものはリスクではないのである。自動車を40km/hで運転しているとき、前方を車いすで横断しようとしている老人に気がついたとしても、これはリスクではない。車いすの移動よりも、車のハンドルやブレーキを使って避ける方が確実に早いからである。しかし、子供が飛び出してくるのは、リスクである。瞬時によけきれるかどうか微妙だからだ。また、相手が車いすの老人の場合でも、道が暗がりで街灯もない場合、やはり認知するまでに時間がかかるから、これもリスクとなるはずである。

ということで、このようにリスクを定義し直すことが、リスクに関わる誤解をふせぐ一番の方法だとわたしは考えている。もちろん、わたしがこんなホームページの片隅で何を定義しようが、それが明日から世の中にすぐに広まるものでないことは承知している。では、なぜ今さら「定義」するのか。それは、少なくとも、わたしのこのサイト内では、整合性の取れた議論をしていきたいからである。そして、リスク・マネジメントに関心のある読者諸賢も、上記の「目指すべき目標値・理想状態」を今一度思い起こして、ご自分の仕事のリスクを再点検されることをおすすめする次第である。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-10 12:41 | リスク・マネジメント | Comments(0)