カテゴリ:リスク・マネジメント( 34 )

組織におけるルールはいかなる機能を持っているのか

今からちょうど800年前の1214年のこと。英国王Johnはフランス南西部から海軍船に乗ってブリテン島に向かっていた。当時、英国は大陸本土のフランス側にも領地を保有しており、彼はそれを拡大する野心を抱いて大陸に兵を進めたのだが、あいにくフランス王(当時は領地は小さかった)の反撃に屈し、結局撤退を余儀無くされたのだ。ようやく帰り着いた彼を待っていたのは、貴族諸侯やロンドン市民からの批判の嵐だった。すでに大陸の領地はほとんど失われていた。残ったのは不名誉と、傾いた財政である。税金を課そうにも、彼の重税や放埓は、すでに皆が辟易していたのだ。

結局彼は翌年、臣下である貴族諸侯と、ある取り決めをかわし、文書化する。いわく、

* 王の一存では戦争資金のための税金を集めることができません
* 国王は議会を召集しなければなりません
* イングランドの国民は法と裁判によらなければ、生命や財産の自由をおかされません、等々。

これが有名な『マグナ・カルタ』、大憲章である。マグナ・カルタはその後、英国憲法の基礎となる。他方、John王の方は、暗君の代表例のように言われ、彼以降800年間、誰もJohn 2世を名乗った英国王はいなかった。

それにしても、John王はなぜ臣下に詰め寄られたのか? 時代は中世、そして彼は王様である。王は国家の最高権力者。ならば何をしても勝手ではないのか。

だが、彼の臣下たちはそう考えなかったのだ。王と交渉して、その要求をのませることに成功する。それも、口約束ではなく文字に書かせた。あとで「言った・言わない」の水掛け論にならないようにである。先月、全能の審判主を相手にネゴシエーションをした、ユダヤ民族の始祖アブラハムの事を書いたが(「クリスマス・メッセージ:折れない心をもつために」参照)、13世紀初頭の英国臣民たちは、王様を相手に交渉したのだった。しかもこちらは歴(れっき)とした史実である。

John王が生まれた頃、日本では平清盛が最高権力者だったが、誰も彼を相手にネゴをかけたり、法で縛ろうとした人間はいなかったろう。英国人ははるかに先進的で、民主主義的だったのだろうか? そう説明しても良いが、もう少し別の見方もありうると、わたしは考える。

マグナ・カルタは、王の名前で発行された取り決めの文書であり、つまりである。他の法よりも上位の規定なのでCharter(憲章)とか憲法とよばれるが、つまり国という組織の中のルールである。

それでは、ルールとはなんだろうか?

たとえば、(話は急に卑近になるが)品目マスタとか従業員マスタなどでは、ふつうコード体系と発番ルールが定められている。この発番ルールというのは、はたしてルールなのか?

もちろんである。ルールとは、人々が守らなければならない規定であり、かつ、違反した場合はなんらかの罰が与えられるものだ。つまり強制力のある規定である。国の法律は、明確に罰則規定がある。マスタの発番ルールの方は、ユーザがそれを守らないと、データ登録ができない、あるいは、あちこちのプログラムがエラーを起こすという罰(?)が与えられる。

マグナ・カルタは明文化された法だが、ルールは必ずしも明文化されているとは限らない。たとえばルールは、「習慣」「伝統」のかたちで存在する場合もある。それでも、破った者は仲間から白眼視されるとか、村八分にあうとかいった罰を受ける。また、逆に組織におけるルールには、報奨の仕組みが付随することも多い。それを守ると名誉(自尊感情)が与えられ、あるいは金銭的に報われる場合もある。このようにして、アメとムチで人に強制力を与えるのである。それは平民に対しても、権力者に対しても同様である。

ならば、権力ある人間に対するルールは、どのような効果を持つのか?

答えははっきりしている。権力ある人間が、その権力を自分の好き放題に、恣意的に運用することを防ぐのである。マグナカルタが規定したとおりだ。人間の組織は、ピラミッド型の階層構造をとる場合がほとんどだ。その中での地位の高さと、権限の大きさは比例する。ところが、この権限をあまり勝手に運用されると、組織とその構成員がこまるケースが出てくる。個人の好き嫌いだけで、けむたい奴を追放したり、財産を道楽につぎこまれたりしたら、組織の存続が危うい。そこで、これをルールで縛るのである。つまり、ルールとは人間を権力の横暴から守る仕組みでもあるのだ。

ビジネスで典型的に問題になるのは、むろん人の不公正な処遇である。だが、もう少し人目をひきにくい分野でも、ルールの欠如は、よく問題になる。たとえば製品開発プロジェクトである。新しい技術やアイデアにのめりこんで、労力をつぎ込んでみたが、なかなか実らない。そうしたとき、続けるのか止めるのかの基準ルールを持っていない企業は、案外多い。ルールがないため、決定権を持っているのが誰かによって、結果として製品開発のパフォーマンスに長期的に大きな差が出る。適切なルールが決まっていれば、誰が責任者のポジションにいても、それなりのレベルが保たれる。

言いかえれば、ルールは(権力を持つ)人の恣意性をしばり、その自由度を下げることで、組織の再現性を高める(誰がやっても似た結果になる)ことを目指している訳である。すなわち、ルールには予見可能性を高める効果があるのである。王の行動の予見性を高めること、組織の動向や行く末を予測しやすくすること--これこそが、John王に要求をのませた臣下たちの望んだことではなかったか。

最近の米国で、企業ガバナンスがうるさく問われるのも、このためであろう。つまり、企業に対して融資する銀行や、株式市場における投資家たちが、その企業の行動や業績が予測可能な状態に置いておきたいからこそ、ルールをうるさく求めるのである。つぎ込んだ金を、経営者が勝手に采配したり蕩尽したりしないよう、縛りたいのだ。アメリカの経営論は「リーダーシップ論」が大好きで、英明な君主が国を治めるように企業を統治することを望んでいるのに、かたやその君主の手をガバナンスで縛りたいという、一見矛盾した要求を持っているのは、このためだ。

もちろん、ルールには良い面ばかりあるわけではない。それは意思決定のプロセスを複雑化し、手続きが面倒になり、結果として組織の変化のスピードを遅くするという働きも持つ。とっぴな行動が抑えられると、独創的な人材は生きにくくなるだろう。これが行きすぎると、減点主義ばかりがはびこる、いわゆる『大企業病』にいきつく。暗愚な暴君による権力の乱用も怖いが、その対極にある、ルールの牢獄も恐ろしい。どちらも結果として、組織の活力をなくすからである。

この問題を避けるためには、どうしたらよいか。ある人々は、「ルールはある程度ゆるやかに決めておいて、『弾力的運用』でまわしていけばいい」と主張する。運用や解釈変更でカバー、という訳である。だが、このやり方は、予見可能性を高める、という本来のねらいからはずれてしまう。

もう一つの方法は、ルール自体に、ルールを見直す基準をビルトインしておくことである。組織が本来そのルールを制定したときの意図や目標に照らし合わせて、順当に機能しているかを見直し、まずければ訂正する手順を決めるのだ。そのためには、決定を下すごとに査証や情報を残し、組織のパフォーマンスの視点から、それをバックチェック可能にしておく必要がある。こちらの方が手間がかかるが、予見可能性の点でも、また目的合理性の点からも、すぐれたやり方に思う。

組織内で、どこまでがルール化され整備されているかは、その組織のマネジメント・システムの成熟度を示していると言ってもいい。それが明確で、漏れや重複がなく、しかもある程度は柔軟であるようになっていること。これが、制度設計の要所であるはずである。


<関連エントリ>
→「クリスマス・メッセージ:折れない心をもつために
by Tomoichi_Sato | 2014-01-14 23:43 | リスク・マネジメント | Comments(0)

稀な危機 vs ありふれた失敗-リスク対策の優先順位を考える

ジェッダから紅海に沿って北に向かう道を、わたし達は走っていた。空港で入国審査に手こずり、思った以上に時間がかかって遅れている。ドバイからジェッダに飛行するよりも長い時間を、パスポートコントロール窓口の行列に費やしてしまったのである。現場事務所に着いたら、「自分のスケジュール・リスクはマネージできないようですね」と皮肉を言われかねない。わたし達は、プロジェクトのリスク・アセスメントのセッションを開催するために、現地に向かっていたからである。おまけに、プロジェクトにおけるわたしの主な守備範囲は、スケジューリングとリスク・アナリシスであった。それが打合せに半日も遅れたんじゃ、面目丸つぶれである。

もっとも、同行している某国営石油会社のエンジニアにしてみれば、これは十分予見できたことらしい。彼の会社では、移動日には会議を入れるな、という内規があるという。飛行機の移動にはおもわぬ出来事がつきものだし、おまけにお役人の非効率は今に始まったことではないから、誠にごもっともである。クロアチアでのIPMA(国際PM協会)の世界大会に出席した後、わたしは勤務先のプロマネ、ならびに顧客のエンジニアと合流し、中東を出張で回った。それが、7日間に乗り継ぎを入れて合計7回飛行機に乗る、というハードスケジュールだったため、「日本人はクレイジーだ」とあきれられた訳である。それでも我慢してつき合ってくれた彼には、大いに感謝した。

わたしだって、何も飛行機が好きでそんな日程を立てたわけではない。ただ、フライトや場所や費用の都合で、どうしてもそうなってしまったのである。彼が飛行機嫌いでなくてラッキーだった。世の中には飛行機が大嫌いな人もたくさんいる。前回ご紹介した自称"Lazy project manager"ことPeter Taylor氏もその一人であった。大西洋を橋で渡りたい、というくらいなのだ。

飛行機が嫌いな人は、落ちたらまずお陀仏だから、という直感があるのかもしれない。それはその通りである。いくら事故統計では飛行機より自動車移動の方がずっと事故の確率が高い、と言ってみても、人の心理は数字上の理屈を超えている。空気よりも重いものが空を飛んでいるのだから、どうしたって直感的には無理がある。おまけに飛行機事故は派手だ。新聞で大きな記事になりやすい。自動車事故は大小あれど、遺憾ながらありふれている。だからどうしても派手な方に注意が向く。

稀な危機と、ありふれた失敗。リスク・マネジメントではどちらを注視すべきか--そういう問いを、わたしはときどきセッションで参加者に問いかける。ご承知だと思うが、標準的なリスク・マネジメントの進め方では、リスクの大小を、

 (与えるインパクトの大きさ)×(発生する頻度)

のかけ算で整理する。この目的のために、横軸に「インパクトの大きさ」(影響度)、縦軸に「発生頻度」をとった2次元のマトリクスをしばしば用いて説明する。

e0058447_21382872.png


当たり前だが、右上の象限(A)にあたる部分は、「インパクトが大きく・かつ・頻度も高い」リスクのカテゴリーを表す。だから、リスク対策ではここが最優先になる。

逆に、左下の部分(D)は、「インパクトが小さく・かつ・頻度も低い」リスクである。こうした類は対策の優先度が一番低くなり、まあ無視しておくか、起きてから考えればいいじゃないか、という風になるあろう。それはそれで、経済合理性のある態度である。

問題は、左上の「インパクトは小さいが、頻度が高い」リスク(C)と、右下の「滅多に起こらないが、インパクトが大きい」リスク(B)との比較である。「ありふれたトラブル事象」と「希な危機的事象」の比較と言いかえても良い。たとえば、ありふれたトラブルの例は、設計ミス、資材価格上昇、などだ。他方、大地震、戦争、テロ等が、稀な危機のケースである。

わたし達がリスク対策にかけられる費用や時間は、有限である。両方ともに対策をたてられれば万全だが、どちらかを優先せざるを得ない場合も多い。その時、どちらを選ぶべきなのか。稀な危機か、ありふれた失敗か?

答えは簡単である。“どちらが過去から学びやすいか”を考えればよいのだ。ありふれた失敗は、過去にも似たようなことをたくさん経験しているはずである。一方、稀な危機事象は、稀なるが故に、滅多に遭遇しない。大地震や津波がそうしょっちゅう起きてもらってはこまる。

そうなると、過去の失敗に学びやすいのは、ありふれたトラブル(C)の方だと分かるだろう。こちらの方が、稀な危機(B)に比べて過去に学ぶ作業のコスト・パフォーマンスが高いのである。飛行機で移動するとき、注意すべきなのは墜落事故ではなく、ありふれた遅延なのである。そのことを、わたしはこの日、あらためて思い知らされたわけだ。

ちなみに、さる8月に「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」 で講演いただいた統計数理研究所・副所長の丸山宏博士の『システムズ・レジリエンス -- 想定外を科学する』では、次のような図を使って説明された。

e0058447_2140509.png


この図は、トラブル事象が小さい内は、Resistance(事前対策)の方が費用が小さくすむが、あまりに大きな「想定外」のトラブル事象に対しては、もうRecovery(事後対策)を考える方が経済的である、ことを意味している。ありふれた事象は、過去に学んで事前に防ぐべきだが、稀な危機への対策は、お金がかかりすぎるわけである。

それなのに、いざリスク・アセスメントのセッションを開くとなると、しばしばテロや大地震といった派手な危機をあげたがる人が出てくるのはどうしてだろう? --それは、前にも書いたように、そうした出来事がメディアに取り上げられ、記憶に残りやすいからである。設計ミスなどのありふれた失敗は、自分がそれでよほど手痛い目にでもあわない限り、記憶に残りにくい。いや、むしろ忘れやすい。できれば自分が不完全だったことなど忘れたい。そう、誰しも思う。

だとしたら、リスク・アセスメント・セッションの進行役など、ずいぶんありがたくない仕事である。人が思い出したくない過去の失敗を思い出させよう,というわけだ。しかし、それもやむを得ぬ。ありふれたトラブルというのは、たいていの場合、組織の内部環境に起因する『内部リスク』と呼ばれるものである。それに対し、稀な危機は外部から突発的にやってくる『外部リスク』がほとんどだ。外部リスクは目立つし、発生すればすぐ誰もが認識する。しかし、内部リスクというのは、じわじわと発生し、問題を悪化させて、気づいたときにはすでに手遅れになることが少なくないのだ。外部リスクを飛行機事故にたとえれば、内部リスクは生活習慣病のようなものである。

そう考えると、リスク・アナリシスの担当者は、人間ドックの医師みたいなものだ。リスク低減の処方くらいは書けるが、主体となってリスクを低減できる訳ではない。それができるのは、つねに仕事の「生活習慣」を作り出している自分達の方なのである。

(追記)
上に書いたのは、自分達が主体的にすすめるプロジェクトなどの事業におけるリスクの話である。つまり、便益を得るのも自分なら、リスクをテークするのも自分、というときの論理だ。自分の便益のために、他人や環境にリスクを晒すような、はた迷惑な場合とは理屈が違うので、誤解無きよう。


<関連エントリ>
 「安全と危険の境目をはかる」 (2011/04/11)
by Tomoichi_Sato | 2013-10-14 21:52 | リスク・マネジメント | Comments(0)

プロジェクト・リスクとは目標の反対概念である

先週、プロジェクトマネジメント学会に招かれて、「海外プロジェクトのリスク戦略を考える」というキーノート・スピーチをさせていただいた。『リスク戦略』とは、1時間で語るには大きすぎるタイトルだが、こうしたテーマが望まれるのも、いよいよ日本企業や大学人の多くが、海外に目を向けざるをえないようになったからだろう。グローバル化の時代に遅れるな云々の、メディアによる各種ドライブも影響しているのかもしれない。

そうはいっても、不慣れな外国との商売は何かと怖い。だからリスクマネジメントなるものが必要だ--そんな流れから、売上の85%が海外プロジェクトであるわたしの勤務先が、多少の興味を呼ぶのだろう。海外とのリスクについて、どんなことを考えているのか、ちょっと聞いてみようか。ということで、わたしなどが呼ばれたにちがいない。

限られた時間なので、講演では三つのポイントにしぼって話をした。第一に、リスクをおさえるには、事前計画と事後対応が車の両輪で、その両方の能力を組織で持つべきだ、というわたしの持論。二番目は、教科書や正解を盲信するのは危険であって、むしろ失敗にきちんと向き合って学ぶことが大切だということ。そして三番目に、リスクとは成功しない可能性なのだから、リスクマネジメントをしたいなら、プロジェクトの成功基準である『目標』を明確にするべきだ、という主張である。多少の例やクイズをおりまぜつつ、できるだけ分かりやすく説明させていただいたつもりでいる。

ところで、最後にあげたリスクと目標設定の関係については、来聴者の中にも意表をつかれた思いの方が少なくなかったようだ。プロジェクトには「どうなれば成功であるか」の目標設定が必要であり、その目標にネガティブな影響を与える可能性として、リスクをとらえる。この話が目新しく聞こえるとしたら、それはプロジェクトの成功と失敗の基準が、案外不明確であることを意味する。PM学会の参加者でさえそうなのだから、世間では認知されていないかもしれぬ。そこで本稿で、補足して少し説明することにする。

いま、あるプロジェクトを海外の顧客から受注した、としよう。しかし、そのプロジェクトでは、どうやら顧客要求事項が当初よりふくれる気配がある。理由は顧客にとっての市場環境の変化である。さて、これはリスクだろうか?

一つのポイントは、海外顧客であることだ。国内の、それも長年つきあいのある顧客ならば、お互いにあまり無理のあることは言わないのが暗黙の約束だ。しかし、契約ベースで事を決めたがる海外顧客には、(むろん相手にもよるが、通常は)暗黙の合意や阿吽の呼吸は通じない。では、仕事のスコープとコストが増大しそうなこの状況を、危険なリスクと捉えるべきか。

答えは、「必ずしもリスクとは限らない」である。それは、契約の条件によるからだ。もしもこれが一括請負契約、すなわち一定金額ですべての役務を請け負う契約なら、たしかに役務スコープ増大の可能性はリスクであろう。しかし、これが実費償還契約、すなわちかかったコストに一定の手数料をのせて払ってくれる契約なら、仕事量の増大はむしろ歓迎すべき事だ。なぜなら、売上と利益が増えることを意味するからである。

なあんだ、と思われただろうか。だが、もし最初の質問文で「リスクかも・・」という想いが頭をよぎったとしたら、それは、自分が一括請負契約のプロジェクト運営に慣らされすぎているのである。受注ビジネスでは、基本的に赤字は失敗と見なされる。受注金額が一定で、遂行コストが増大したら、赤字の可能性が増える。だからリスクだ、と考える。

ちなみに、米国のStandish Groupによるレポートは、IT分野のプロジェクトの成功率を継続的に調査しており、IT系プロジェクトの難しさを示す統計として、よく引用される。2003年版報告によると、調査対象となった米国企業の1万3,522のITプロジェクトのうち、成功したプロジェクトは34%にとどまった。彼らのレポートでは、コスト・仕様・スケジュールの三要素を、計画通り達成できたケースを「成功」と定義している。コスト・仕様・スケジュールはプロジェクトの代表的な制約条件であり、別名『鉄の三角形』Iron Triangleとも呼ばれる。仕様(品質)のかわりにScope(役務範囲)を入れる場合もあるが、実質的にはほぼ同じ意味だ。だから、鉄の三角形を破ってしまったら、それは不成功と考える訳だ。

<プロジェクトの制約条件: コスト・スコープ・スケジュールの「鉄の三角形」>
e0058447_2323324.gif


でも、これは果たして正しいのだろうか? 試しに、視点を受注者から発注者、すなわちプロジェクトに投資する側に移してみるといい。プロジェクト事業に投資するのは、何かの目的があるからだ。業務のプロセスを改善するとか、新製品を開発するとか、新工場を建設するとかいった事業は、必ずしもそれ自体が目的ではない。プロジェクトは、新市場を開拓したり競争環境を改善したりして、事業の継続と成長を目指す手段にすぎない。

たとえば新製品開発の場合、何よりも大事なのは納期=Time to Marketで、ライバルより少しでも早く製品を上市することが求められるケースが多い。必要ならばコストを使ってでも、納期を早める。この場合、コストは決してハードな制約条件ではない。かりに予定より3割多く費用を使っても、予定より2ヶ月早く完了すれば大成功、というプロジェクトも存在するのだ。

別の例を挙げるなら、アメリカのアポロ計画は、ソ連との宇宙開発競争を制することが最大の眼目であった。ケネディ大統領が成功の目標としておいたのは、「'60年代の内に人間を月に送る」ことだ。最大の目標値はスピード(時間)であり、最大の制約事項は安全性であった。そのために、アメリカは金に糸目はつけずにつぎ込んだ。そして実際、'69年にその目標を達成した。アポロ計画にとってリスクとは、まず打ち上げを遅らせるような要因であり、次にはロケットの安全性をおびやかす要因であった。コストは目標でも制約条件でもない。だから、コスト増の要因はリスクではないのだ。

目標値が、「成果物の性能」で規定されるケースも多い。新しい通信デバイスを開発する場合、コストも予定どおり、納期も予定どおり、しかし通信速度が目標を満たせなかったら、それは明らかに失敗である。こうした場合、最大のリスクとは,何よりも性能に影響を与える因子のことである。

プロジェクトの目標値が、コスト・品質(スコープ)・スケジュールの三要素以外の場合だってあるだろう。たとえば新規獲得顧客数だとか、顧客満足度だとか、在庫削減率とか。こうした目標値は、プロジェクトが狙う真の目的から導かれる。そしてリスクとは、その真の目的に近づくことを妨害する要因である。

だから、リスクマネジメントをきちんと考えたいのならば、

何のためにそのプロジェクトをやっているのか目的)」
どういう状態になれば、プロジェクトは成功したと言えるのか目標値)」

を、最初に明確にしなければいけない。この点を曖昧にしたまま、何となくプロジェクトをスタートさせたり、制約条件であるスコープ・コスト・スケジュールさえ満たせば成功である、などと漠然と考えるから、真のリスクを見落とすのである。

たしかに、受注型プロジェクトの場合、その目的は、とにかくさっさと手切れ良く仕事を終わらせて、利益を出すこと、というパターンが殆どだ。だからどうしても『鉄の三角形』の制約条件ばかりに目がいきがちになる。だが、制約それ自体は目標ではない。100m競争に出場して100mの距離を走るのは制約(要求事項)であって、目標値ではない。さすがにゴールまでたどり着けなければ明らかに失敗だが、ふつう、目標値としては、12秒台で走るとか、新しいフォームを試すとかいったことを掲げるだろう。そうして、結果を見て成功か失敗かを測るのである。

もっとも、仕事のスタートにあたって、目標値(=成功を測る基準)を明確にしない組織には、ひとつの心理的な傾向がある。それは、“失敗をひどく嫌う”傾向である。失敗するとひどく罰せられる。だから、失敗も成功も曖昧にしておく。せいぜい、抽象的な言葉だけで目標を設定する。そうすれば、終わってから言葉で言い抜けるのは可能である。数字で目標など設定しようものなら、成否は明らかになってしまう。

こういう組織は、自己の失敗経験から学ぶことができないのは明らかだろう。すべては成功であり、反省の材料はないからだ。失敗が許されない組織とは、じつはもっとも生存のリスクが大きい組織なのである。

上にのべた講演では、かつてわたし自身がやってしまった、「納期も予算も仕様も満足させたが、ユーザーがちっとも使ってくれなかった」システム開発の経験を例に挙げた。恥ずかしい話である。だが、「使われなかったシステム」というのは、案外多くの会社にもあるのではないか。このケース、Standish Groupのモノサシでは、成功プロジェクトということになる。しかし、これは失敗だったはずだ。その理由は、一番大事なリスクを見落としていたためだ、というのが、今のわたしの率直な反省なのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-09-08 23:32 | リスク・マネジメント | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:求めよ、さらば与えられん

Merry Christmas!

ミヒャエル・エンデの名作「はてしない物語」(ネバーエンディング・ストーリー)は、前半では、主人公バスティアンが物語を読む、という二重構造になっている。そして後半は、物語の世界に飛び込んだ主人公が、「汝の欲することをなせ」という命のもとに探索の旅路を続ける話になる。そんなのはたやすいことだ、望んだことをすればよいだけなのだから、と考えた主人公に、つき従う獅子グラオーグラマーンは咆哮して、いう。「この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのです。望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」

さて、夏前のことだ。大学院生にプロジェクトのリスク・マネジメントを講義しているとき、途中でいつもの質問をみなに投げかけた。「皆さんはところで、世の中に運不運はあると思いますか?」ーーこの質問の含意は以前ここにも書いたので繰り返さないが、リスクというものを世間の用語から照らして見直してもらおうと思ったわけだ。この質問、中高年であれば10人中10人が、YESと答える。しかし若者は、必ずしもそうは限らない。

ところが、この授業の質問では、院生の全員がYESの方に手を挙げてきた。あれ? 質問の仕方を間違えたかな。そう思って、一人にたずねてみた。「あなたは、なぜ運不運があると思ったの?」「えーと、たとえば電車に飛び乗ろうとしたら、目の前でドアが閉まっちゃう事って、あるじゃないですか。」

それはそうだが、ここで聞きたいのはプロジェクトのような大がかりな仕事における運不運である。これは聞き方がまずかったようだ。それにこの人達はまだ、本当の意味でプロジェクト的な経験があまりない。そこで、逆の面から聞くことにしてみた。

「じゃあ、皆さんは、『強い意志と努力があれば、どんな事でも必ず実現できる』と思いますか?」

今度は何人かが手を挙げた。意見が分かれたわけだ。そうなれば授業は回り出す。なぜそう考えるかを、それぞれ言ってもらう。そして、もし意志と努力で何事も成功できるなら、"リスク・マネジメント"なんて不要じゃないか、と切り出すこともできる(リスクとは失敗の可能性なのだから)。相手が考えなければ、授業は進まない。

意志と努力、(それに多少の才覚)があれば夢は必ず実現する、という信憑は、たとえば米国では広く受け入れられており、「アメリカン・ドリーム」の名で呼ばれる。たいていの場合、夢の最終実現形は「お金持ちになること」である。いま、その当否は論じない。ともかく、強く望めば、手に入る。これが信じられている命題だ。では、この信念に問題はあるだろうか。

もしこの命題が真ならば、論理学から言ってその対偶も真であるはずだ。この命題の対偶とは、「実現しないなら、それは強く望んでいないからだ」となる。もっと平たくにいえば、「貧乏なのはそいつの意志の問題だ」となる。これが論理の帰結である。

「貧乏なのは意志の問題」というテーゼにあなたは賛成されるだろうか? このような解釈は、米国では経済学や社会学でも、長らく力を持ってきた。黒人層の貧困問題なども、そういう視点からは冷ややかに見ることになる。彼ら自身がそこから脱出することを本気では望んでいないのだ、と。

長い不況と就職難の中にある日本の学生は、そんな風に言われたらむっとくるに違いない。だが、もしこれに賛成できないのなら、その人は「どんなに強く望んでも、世の中にはかなわぬ事がある」と信じることになる。じゃあ、夢をあきらめろ、と? 「求めよ、さらば与えられん」と、西洋人の宗教も言っていたのではなかったのか?

ちょっと、待ってほしい。「強く望めば、手に入る」と「求めよ、さらば与えられん」では、ニュアンスの違いがある。それをチェックするため、後者の聖句の前後にあたってみると、それはこんな風な文脈の中で続いていく。パンを求める子どもに石を与える親はいないように、天はお前たちの必要とするものを必ず与えてくれる。だから、明日、何を食べ何を着ようかと思い煩うな。一日の悩みは一日で足りる、と。

違いは2点ある。まず、「手に入る」という能動態の表現では、主語は『望んでいる自分』であるのに対し、「与えられん」の方では、『天の采配』という見えない主語が自分と対象の間に介在していること(だから当然、良くない望みは叶えられないことになる)。そして、与えられるのは、わたし達が本当に必要とするものである(わたし達が欲しがったものではなく)。と、わたしには感じられる。

本当に必要とするものを望むのは、難しい。「はてしない物語」で獅子が主人公に忠告したとおりだ。それは、自分が本当は何を必要としているのか、じつは自分でもよく分からないからだ。

だから、あまり欲をかいて煩うな、天に任せてその日を生きろ、というのが先の聖句の意味するところのようだ。謙虚であれ。しかし楽天的であれ。『天の采配』を信ずるかどうかはともかく、こちらの方が精神の健康には良さそうに思える。

それにしても、最初の院生たちとの問答に戻ると、全員が「運不運がある」とこたえ、「意志と努力があれば、何事でも必ず実現できる」と考えた人数が少なかったのには、やや驚いた。念のために書くが、東大の大学院生である。もう少し自信家というか野心家がいても、よさそうなものではないか。

でも、若者たちの心は変わってしまったのだと思う。それは、昨年の3.11以降のことである。あのとき以来、この世には個人の意思だけではどうにもならぬ事があるのだ、と胸に刻みつけられたのだろう。そう思うと、すこし痛々しかった。望みがすべて叶うとは限らないが、何も望まなければ何も叶うまい。そして若い人たちに、また希望を持ってもらうことこそ、あの災害で亡くなられた方々への、一番の手向けではないか。

わたし達はあの出来事をまだ、十分に乗り越えていない。忘れたふりをしてはいけないのだろう。世間がひととき静まるこの季節、被災された方々、今も困難な生活にくるしむ大勢の方のために、ほんの短い間ではあるが、わたし達も祈ることにしよう。
by Tomoichi_Sato | 2012-12-22 23:40 | リスク・マネジメント | Comments(1)

技術者たちの沈黙

本郷の喫茶店でのんびり珈琲を飲んでいたら、後ろの席の話し声がぼそぼそと聞こえてきた。去年の春、まだ毎日の予震におびえていた時期のことだ。その喫茶店も半地下の穴蔵のようになっていて、もし大きな揺れがきたらどう逃げるべきかと思いながら、低い天井を見上げていたら、声が耳に入ったのだ。話し声は、口調からいって年配の学者らしい。それも、遠くから来てひさしぶりにまみえた旧友同士という感じだ。近くの大学で、複数学会をまたいだシンポジウムがあって、その帰りだったらしい。

その人たちは、原発事故の危機対応について話しているようだった。理工系の学者なのだろう。「リスク・コミュニケーション」という言葉も聞こえた。これは分かったようでわからない用語なので、わたし自身はあまり好きではない。ともあれ、不安におびえる住民大衆に向けて、どう冷静に事象を伝えて余計な心配を取り除くか、といった文脈が議論のようだった。放射線量だ何だといった、ややこしい話を、中学生レベルの知識もおぼつかない人達に分かってもらわなければならない。難しい仕事だ。

「それにしても、さっきの会議で『コトダマ』云々という発言が出てきた時は驚きましたね。」「ああ。あの方は文科系の学会の人です。」「日本人は言霊信仰が強いから、よくない結果の予測を口にすると、それが現実になるのではと怖れる、だとか。典型的文系の人の発想ですな。」「そうそう。」彼らは多少のアルコールのせいか、声が大きくなった。「そんな事を言っとったら、客観的な事実も口にできなくなる。」

この人たちにとっては、客観的で確実なファクトの伝達が重要で、それが伝わるかどうかは相手の理解能力による、と考えているらしい。いかにも科学者の意見らしい。しかし、同じ学者同士でも文系相手だと話が通じないのに、どうして一般大衆相手には話が通じるはずと思えるのだろう? この奇妙な楽観主義はどこから来るのか。

福島原発事故の後、テレビでは科学者のインタビューばかりを見せられた。なぜ科学者なんだ? これは技術の問題ではないか。--でも世間の人は、いや、メディアの人達も、科学と技術の区別がわからないらしい。両者の違いは明白だろう。科学者とは、客観的で論理的に確実な事のみを口にする人々である。確実でない、検証しえないことを主張したら、その瞬間から科学ではなくなってしまう。だから彼らに事態の予測や対策を求めるのは無理がある。それは科学を超えた、憶測と判断の領域である。それでもメディアがしつこく求めるから、彼らも“個人的見解”と断って発言する事になる。メディアはそれを、専門家のお墨付きとして報道する。

で、一般大衆は信じて納得したか? 答えはノーである。たしかに、大衆に基礎知識や理解能力が欠如していたかもしれない。では、喫茶店の隣席の学者達がいうように、時間をかけて大衆を啓蒙するしかないのだろうか。だが巨大な災害のときに待つ時間なんかない。

あのとき人々がとったのは、全く別の方法であった。話している学者の顔をテレビの画面で見て、“人物が信じるに足りるか"を判断したのである。これはある意味、当然の事だった。わたしだって、自分の専門領域でない報告を他人から聞くとき、真っ先にするのは「この人はまともなことをいっているか」を顔つきや口調から判断する事である。科学では、真理は誰が口にしても真理であり、発言者の人格は関係ない。しかしわたし達の仕事ではそうではない。実際、この判断を抜きにして、仕事なんてできないといってもいい。世間の人だって、原子と電子の区別はつかなくても、誠実と嘘つきの区別は、ある程度できるのである。

それにしても、あの原発事故直後の日々、わたしが最も渇望したのは科学者でなく、原子力発電所という複雑なシステムを知っている技術者の発言であった。技術者は、本質的に不確実な状況下で推測したり判断する事が、職業的に求められる。原子核物理学の専門家が、果たして普通のボイラーのバルブだって見たことがあるかどうか疑問だ。しかし経験を持つ技術者は、どこのラインのどんな種類のバルブはどれくらいの温度圧力でどういう使用法に耐えるか推測できる(たとえ原発の設計者でなくても、それくらいは図面と仕様を見れば判断できるのだ)。ちなみに発電所が外部電源を全部喪失した時も、リアクターの温度や圧力は(部分的に)計測され続けた。測定には電源がいるのに、である。これはプラント技術者からみれば驚くにあたらないが、仕組みを知らない科学者には手品のように見えたにちがいない。

繰り返すが、技術屋は推測と判断の世界で生きている。複数の推測があり得るときは議論をする。そして、どれかに賭けて、決断する。技術屋が推測に慣れているといっても、別に、いつも正確な予測ができるという事ではない。自分の推測が、どの程度信頼できるか(いいかげんか)を自覚できる、という意味だ。そうした信頼度を含めて、なにが起きているのか、この先どうなりそうか、そして何をすべきか意見する。わたしは、そうした話を聞きたかったのである。だが、この分野の専門技術者はメディアにほとん発言しなかった。メディアがインタビューしなかったばかりではない。ネットでもまず、発言にお目にかからなかった。

その理由は、明白に思える。それは、技術者が組織人だからだ。彼らは何らかの会社か機構に属している。口を開いて何か言えば、必ず所属する組織と利害関係が生じる。この国では、電力会社や重電、建設業界や官庁と無縁でいられる組織など殆ど無いのだ。だから必ず、どこかに係累が及ぶ。この、わたし自身だってそうだ。勤務先の顧客に電力会社がいる以上、原発事故について実名で論評するのは困難だ。一方、科学者はほとんどが大学人である。建前上、中立でいられる。だから自由に発言しやすい。

ここから先は原発事故に限らぬ一般論になるが、トラブルや失敗から学ぶ事は、技術とマネジメントにおいて本質的に重要な事である。不確実な状況で決断する者にとって、全戦全勝という事はあり得ない。むしろ不都合な事実から、いかに学ぶかが進歩の鍵なのだ。とりわけ、プロジェクトと呼ばれる行為の世界は、そうだ。プロジェクトとはユニークな、それぞれ個別な取り組みだからである。

ところが、技術者にとって、部署や会社の壁を越えて現実の話をできる機会は、きわめて限られている。本来は学会などがその場所となるべきなのだが、そうはいかない。なぜなら、学会で発表されたことは原則公開され、世界中の人に知られる可能性がある。しかし、プロジェクトのほとんどは(成功であれ失敗であれ)外部に出せないものだからだ。

わたしが、「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」という活動以外に、もう一つ、『事例検討会』という場をつくろうと思い立ったのは、そうした理由からだ。学会とは正反対に、こちらは完全に非公開とする。配付された紙の資料は、その場ですべて回収し裁断処分する。そのかわり、現実の話をディスカッションできるようにする。

まだ試行錯誤中の試みだから、うまく行くかどうかは分からぬ。これを成立させるためにはいくつか条件がいるだろう。一番大きなポイントは参加者の信用だ。だから参加できるのは、得られた情報を口外しないと誓約できる部会員(ないしその知己)のみとする。もちろん、話題提供者が「同じ業界の人は遠慮してほしい」といった条件付けもできるようにする。もう一つのポイントは、ビジネスと直接の利害関係をもたぬ大学人が、キー・メンバーとして関与することだろう。こうした仕組みをとっておかないと、匿名掲示板ないし飲み屋での雑談と変わりないものに堕してしまう。

現実から学ぶことが難しいのは、現実の結果が利害関係の源泉となりうるからだ。とくにトラブル事例は、すぐに責任追及や非難など、人身攻撃の元ネタになってしまう。学びの目的は、改善であり再発防止である。ここに人事・政治を絡めたら、学ぶべき事実がすぐに歪曲されてしまう。だから、クローズドで中立な場が必要だと考えたのである。もちろん、情報保持の観点から見て、あまり参加者が多くなるとリスクが高まる。むしろ、こうした活動に興味を持つ人が増えたら、あちこちに同様の場を作ればいいのだ。いや、本当は、まず、同じ社内にこうした場を設営するべきなのだろう。批判ではなく、学びのためにプロジェクトをふり返る場。そういった場を作り、技術者たちを無理な沈黙から解き放つことこそ、PMOと呼ばれる部署の大事な仕事だと思うのだが。
by Tomoichi_Sato | 2012-08-22 22:36 | リスク・マネジメント | Comments(10)

海外プロジェクトの変化と、契約意識という不可視のハードル

ドイツの山の中の道路で運転していた。追越し禁止の地点だったが、反対車線の前方から来る車がないので追越しをかけたら、ちょうど警官がいて制止された。いわく、
「おまえはいま追越禁止だということを知っていたはずだ」
--しかり。
「なぜ追越したのか」
--前の車がのろのろ走っているし、対向車が来ないのが分かったから追越したのだ。
「追越禁止が黄色の線で表示されていたのだから、規則違反である」

自分の車には、外国人短期滞在の免税車であることを示すナンバー・プレートがついていた。訪問客であることは分かるだろう。そこで、誠意を持って鄭重に、
--まことにすみません。もう今後は違反しないように注意します。
と謝ったのだが、警官は、
「今後こういうことをしてはいけない。25マルク(当時)支払いなさい」
と罰金の支払いを要求する。しかたなくその場で罰金を支払ったら、警官は印刷した受取りをくれて、こう言った。
どうも有難う。旅行のご多幸を祈ります。」

これは法学者の川島武宜が、大塚久雄・土居健郎との鼎談「「甘え」と社会科学 (1976年) (弘文堂選書)」(1976)で紹介しているエピソードである。ドイツの警官がいかに石頭か、という笑い話としてでは、もちろん、ない。西洋社会における『法』意識の好例として、である。最後に警官が「有難う!」と礼を言っている点に注意してほしい。法律から見たマイナーな異常状態(conflict)が解消され、相手との共通理解に達したことを嘉したのだろう。

精神医学者の土居健郎は、受けてこう言う:「私も似たような経験をアメリカでしましたが、その時何か言いわけをしようとしたら、文句があるなら何月何日裁判所へ出頭しろと言われました」。この対応に、土居も意外に思ったわけだ。でも、個々の警察官に解釈や運用の裁量は無い。それを持つのは裁判官なのだ。そこで川島は、法学者らしく纏める:「日本では、『すみません、今後は致しません』と鄭重に謝っているのに機械的に法律を適用して罰すると、『融通のきかない石頭』と非難される。悪いことをした子どもがすみませんと謝ったら、母親は『いい子だ、いい子だ』と許してくれる。法律もそうであるはずだ、と国民は期待し信じているのです。だから、法律は『伝家の宝刀』だ、といわれるわけです」(前掲書 p.150)

これは今から35年も前の本である。今日では、日本人の法意識も大いに進歩して、西洋並みの水準に達した、と期待していいだろうか? わたし個人は、疑わしく思う。そもそも社会と法の関係は、“進歩する”とか“西洋の水準”といった一軸的な尺度で議論する問題ではない。「法は運用の妙にあり」という金言は、今もわれわれの社会で立派に生きている、と思う。これは、道交法などの違反事例でなく、民事契約における紛争(conflict)解決を見た方が分かりやすい。

企業間契約だとか雇用契約などの争いは民事であって、警察は介入しない原則だ。仕事が遅れて、契約納期に間に合わなくても、揉め事は原則としてまず当事者で解決にあたらなくてはならない。それでも、どうにも対立が解けないとき、どうするか。双方が法的代理人を立て、自らの正当性を論証しあう争いになる(dispute)。そのとき、基本になるのは契約書に書かれた権利と義務の関係である。自分はこれこれの義務を果たしている。よって、かくかくを請求する権利を有する。それを調停者や法廷の前で主張していく。

では、たとえば、一括請負で受託した仕事が、基本設計を終えた段階で、予期しなかった外部環境の変化や、外注すべき資材・サービスの相場上昇や、度重なる顧客の気まぐれによって、当初の予算をかなりオーバーすることが分かったとき、どうすべきか? (1) 外注先に思い切った値切り交渉をする、(2) 安価な外注先を新規に探す、(3) 顧客に予算の追加をお願いする、(4) 自分で損失を引き受ける、の4種類の選択肢の中で、どれを選ぶべきか。

わたしはこの問いを、マネジメントに興味を持つ企業人や大学院生に対して、機会があるごとに何度も発してみたが、答えはいつも大多数が「(3) 顧客に予算の追加をお願いする」であった。残念ながらこれは、通常の請負契約の論理から考えて、とうてい論証が困難な主張である。たとえば、外部環境の変化が予見できる範囲かどうかは、不可抗力条項などの形で、契約に書かれている「はず」である(それが無かったら、サインする前に契約に追加するよう要求しなければいけない)。資財・サービスの価格上昇も、普通は請負側がそのリスクを提示価格に見込んでいる「はず」である。もし急上昇の懸念が高いなら、あらかじめ契約書の中にescalation条項を入れるよう、主張しなければならない。そして顧客の気まぐれだって、個々のメールや打合せ議事録などの記録で、トレーサビリティを証拠立てしないかぎり、水掛け論に終わるだけだ。

それでも多くの人が「予算追加のお願い」を選ぶのだとしたら、それは、顧客に謝って泣きつけば、少しは面倒を見てくれるはずだ、と期待しているからだろう。そのような経験を、過去してきたのかもしれない。「今回は無理だけれど、じゃあ、次回の仕事で何とか見てあげよう」と言われるような継続的関係があるのかもしれない。逆に言うと、上記のような不可抗力条項やescalation条項を、契約書に入れようと主張しても、顧客がうんと言わない事情(「なんだ君、そんな水くさいこと」と一蹴される)を示しているのではないか。そもそも紛争が起きたとき、準拠法や所轄裁判所を明記する代わりに、「双方誠意を持って対応する」とだけ契約書に書いているのではないか(わたしは外国の契約で、このような『誠意条項』を見た覚えがない)。

だとすれば、顧客も請負側も、同じ意識の中に生きているのである。それはつまり、法的紛争は『伝家の宝刀』で、機械的に契約書の文言を適用するのは『融通のきかない』態度だ、という考え方である。

そして、このような法に関する意識・社会通念は、日本社会を一歩外に出たら、殆ど通用しなくなることを忘れてはいけない。経産省が少し前にまとめた「日本の新成長戦略」では、新興国に対するインフラ・システム輸出などが、成長力回復の切り札として位置づけられている。それはそれで、結構である。しかし、日本の優れた技術力とものづくりの成果を海外に持っていくとき、我々の伝統的な法意識や契約観念を、見えない付属品として持っていけると思ってはならない。大手ゼネコンの近年の海外失敗事例を見れば分かるように、怪我のもとである。

日本企業にとっての海外プロジェクトをふり返ってみると、'70~80年代の消費財輸出からはじまった。優秀・高品質な製品力と、円安による競争力に支えられたあの時代は、「売ってあげる」型の輸出であった。作れば端から売れていった。

それはさらに'80年代後半~90年代前半のバブル時代における、不動産投資・企業買収・営業所開設・工場建設などの波につながっていく。自らが起案し、自分が買い手(顧客)である、非常に強い立場であった。

ところが2000年代に入ると、海外とのつきあいは、海外調達・部品製造外注・オフショア開発などが主体になってくる。これは自発的と言うよりも、対応のためやむなく追いかけるタイプの海外プロジェクトだった。それでも、自分が買い手の立場にある点は、まだ強みだった。問題は2010年代以降の、今日だ。インフラ/システム輸出は結構だが、これは結局、「買って下さい」型の輸出である。

このように、日本にとっての海外プロジェクトは、バブル期頃までの「強い立場」・「先進国相手」・「売ってあげる」型から、2000年以降の「弱い立場」・「新興国相手」・「買って下さい」型に、明瞭にシフトしてきてきた。だから、バブル期までの過去の『成功体験』は使えないのである。

過去の成功体験とは、すなわち、こちら側の法意識や慣習で相手を動かしてきた体験である。これは、かなり強い立場だったから可能だったにすぎない。今や、「対等の立場」に降りてきたわけだ。対等とは、すなわち、相互に理詰めで議論し、相互に合意することが求められる「水くさい」関係である。好きか嫌いかは別として、わたし達が海外を目指すなら、超えなければいけないハードルは、そこにあるのだ。
by Tomoichi_Sato | 2012-07-30 23:13 | リスク・マネジメント | Comments(0)

運・不運は存在するか - または、組織のレジリエンシーについて

今回は『運・不運』ということについて考えてみたい。わたしは人前でリスク・マネジメントの話をするとき、受講者に「あなたは運・不運があると思いますか?」という質問からはじめることが多い。「無い」と答えるのは20代の若い人で、中高年はたいてい「ある」と答えると、以前、書いた。若いうちは自分に自信があるが、歳をとるにつれ思いもよらぬ出来事に見舞われるからだ、と考えてきた。

ところが先日、ある大学の3年生にこの問いを発したところ、過半数の学生が「ある」と答えたので愕然とした。むろん、昨年のようなひどい災害のあとでは、無理もないのかもしれない。しかし、皆がそう答えた一つの理由は、就職活動の経験にあったらしい。なにか割り切れない、理不尽さを感じたのだろう。また就活の時期に前後して、「勝ち組・負け組」といった言葉も出てくる。そう言いたくなる気持ちも、少しは分かる気がする。だが、ちょっと待ってほしい。運・不運というのは、本当に存在するのだろうか?

少し回り道になるが、いったん別の話をさせてもらう。わたしは昨年まで何年間か、会社でPMOの仕事をしてきた。毎月、プロマネさん達が出してくるマンスリー・レポートを読むのも、仕事のうちである。プロジェクトの状況について文章による報告があり、さらに計数的なメトリクスが並んでいる。これを、第三者的な立場から客観的に読み解いて分析し、リスクやトラブルがないか見ていくのである。まあ、スポーツの世界でいえばスコアラーのようなものだ。自分ではボールを触りはしないが、全体の局面や、過去の他の事例との比較から、多少の助言をしたりする。

そうして毎月レポートをたくさん読んでいるうちに、気がついたことがあった。それは、プロジェクトは二種類にほぼ分かれるという事である。一つはうまくいっている案件で、毎月見事に前進していて、ちょっとした障害もうまく切り抜けていく。読んでいて安心である。ところが、うまくいかないプロジェクトもある。問題が山また山のごとく次々発生して、納期も予算もどんどんまずい方向に行く。担当する人たちの苦労を思い、毎月、読むたびにこちらも溜息が出てくる。

どんなプロジェクトも大体この二種類に分かれていき、いったんプラス方向に行くとずっと上昇し、逆にマイナスに行くとどんどん坂を転げ落ちていく。そして、不思議なことに、中間がないのである。つまり、ある月は良くて別の月はまずい、という種類のプロジェクトはまず存在しないのだった。いわば原点の回りを振動し、小刻みにプラスとマイナスを小刻みに行き来する種類が無いのだ。

プラスに行くかマイナスに落ちるかが、プロマネの能力だけで決まるとは、わたしには思えなかった。もっと外的な要因、たとえば見積や契約で出だしからミスった、顧客がひどく気むずかしい上に何も決めない人たちだった、などの要件によって、あるいは企業買収や災害など思わぬきっかけで、それまで中立状態だったプロジェクトが負の方向に傾いてしまう。それとは逆に、うまく好条件で受注できた案件は、予算に余裕があって、トラブルの予兆が見えたら先回りして対策が打てる。多少の費用を先行投資することで、将来のリスクをヘッジできるのだ。必要なマンパワーを投入できるので、仕事のクオリティもいい。だからより良い状況で仕事をリードすることができる。

つまり、どうやら制御理論的に言うと、プロジェクトは一般に不安定なもので、一方向に動いていく傾向が強いらしい。その理由は、プロジェクトに本質的に不確定性があるからだろう。不確実なときには、打てる手の範囲が広い方が有利だ。つまり予算があれば有利なのだ。予算が足りないと、打つ手が自ずから狭まっていく。その結果、さらに不利になっていく。こうして、ポジティブ・フィードバックがかかるのだ。そして初期条件や外乱などの結果として、プラスかマイナスか方向が決まっていく。

しかし、だとすると、やっかいな問題が一つ出てくる。プロジェクト・マネージャーの能力はどう計るべきか、という問題だ。明らかに、仕事の結果(採算の数字)だけで能力を判断するのは不合理だ。それは、どんな案件にアサインされたかで、かなり決まってしまうと思われた。不利な条件で受注したプロジェクトに任命されたプロマネは赤字拡大の結果を叱責され、有利な仕事にアサインされた者はたくさん稼いだと賞賛される。それでは、運が良かった者を誉め、運がわるかった者を罰するのと同じではないか。つまり運・不運を計っているにすぎない。でも、そもそも運・不運とは何だろうか?

考えているうちに気がついたことがある。それは、問題が生じたときに、プロジェクト組織がどう対応するかであった。プロジェクト・チームによっては、外部からの攪乱はすぐに抑えこみ、内部は情報が透過的で、プロマネが隅々まできちんと把握している。一方、別のチームでは、外乱が内部で増幅され、しかも内部もバラバラでノイズを発している。わたしは前者のような組織を『ダンパー』、後者を『アンプリファイヤー』とひそかに名付けることにした。

e0058447_2357149.gif


そして言うまでもなく、ダンパーの方がトラブルへの対応能力が強いのだった。自転車にたとえれば、ひどい山道でも転ばずに運転する能力といえようか。アンプリファイヤーの方は、ちょっとした小石にも躓いて倒れてしまう。

つまり、運・不運というのは、こういう事だ。次の不等式:

 外乱 > 対応能力

が成立するようなとき、人は「運・不運」を意識するものらしい。

逆に言えば、われわれが運・不運の奴隷になりたくなければ、『対応能力』を大きくするしかない。その対応能力の上限とは、いわば組織の“降伏点”=それ以上の力がかかるとバネが復元できなくなる点を示している。あるいは、組織の『レジリエンシー』(抵抗力)と呼んでもいいだろう。レジリエンシーの範囲内ならば、外乱は押さえ込むことができ、プロジェクトは安定して進むことができる。そしてプロジェクト・マネージャーの能力とは、すなわち、組織のレジリエンシーの大きさによって測るべきなのである。

ところで、もう一つだけつけ加えることがある。勝負事や競争の中では、このライバルのレジリエンシーを、意図的にくじく戦術があるのだ。これは学生時代、マージャンをやっていたときに、あるクレヴァーな先輩に聞いた話だが、その人は4人で卓を囲むときに、早い段階で誰かに狙いをつけて「落とす」ことにしているという。つまり、その相手の邪魔をして、つまらぬミスを誘うのである。そうして相手が気分を害してクサればしめたものだ。マージャンは運・不運の要素が比較的強いゲームだ。そして、クサった者はなぜか運がつかない。4人のうち一人が落ちれば、自分はそれだけ有利に勝負を進めることができる、というのである。

なんだかあまりフェアなやり方には聞こえないが、まあ、一理はある。クサると運がつかないのは、気分的に落ち込んで適切な判断ができなくなるからであろう。つまり、競争相手のレジリエンシーを砕いてしまう戦術なのである。

わたしが「勝ち組・負け組」という言葉を好まないのは、この理由による。この言葉は、じつは「負け」と感じている人々の気分を阻害して、レジリエンシーを砕く機能があるからである。こうして、この言葉は、人々の二極分化を固定化する方向に作用する。困ったことに、この社会には賃金の二極分化を好ましいと計算する者たちも、一定数、存在するのだ。

わたしはこの世に、偶然の片寄りがある程度つづいて起こることは否定しない。人生は有限で、自分の能力だってかなりの限界がある。そしてわれわれの社会は、どうにも不確実で制御不安定だ。それでもわたし達には、もって生まれたレジリエンシーがあるのである。それをお互いに砕き合う愚は、避けた方がいい。自分達の小さな翼で、なんとか自力で飛び続けなければならない。それが、あの災害を生き延びた者の義務だと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-04-09 23:54 | リスク・マネジメント | Comments(1)

失敗の無限ループから抜け出すマジックナンバー「5」

物事はなかなか自分の願うとおりには行かない--これは、たいていの人に共通の感覚だろう。「よかれ」と思ってやったことであれ、自信に満ちた賭けであれ、結果に裏切られるのはしばしばだ。気張って受けた試験は落ち、やっと得た職場は退屈で、意中の人には見事にふられ、生まれた子どもの性別は期待に反し、買った株や宝くじでも儲けたためしがない。これが普通の人生で、全ての賭に勝ち続けている人にはまだ、お目にかかったことがない。それでもわたし達は「次には良いことがあるかもしれない」という希望をかかえて、おぼつかない道を歩いていくのだ。

もっとも、負けず嫌いの人や夢を強く抱く人の中には、同じ失敗の無限ループにはまりこんでしまう場合がある。そこで『ストップ・ロス・オーダー』という撤退のための知恵が必要になるのだが、にもかかわらず、経済学でいう埋没コストの原理を持ち込むと、かえってループから抜け出すことができなくなってしまうことを、前回書いた。

このことを分かりやすく説明するために、こんな賭けの例を考えてほしい。ここに白と黒の碁石を入れた袋がある。あなたは、100円払うと、袋の中から碁石を1個、取り出すことができる。そしてもし、それが白石だったら、300円をもらうことができる。もし、黒石だったら何ももらえない。この賭けは、黒が出続けている間は何度でもトライできるが、白が出たら賞金が出て、その回でおしまいになる。ちなみに、取りだした石は袋に戻さないが、袋は十分大きいので、何が出ようと次の確率にはまず影響しない。

さて、あなたはトライしてみるが、1回目はあいにく黒だった。2回目は・・残念ながら2回目も黒だった、としよう。すでに200円使ったことになる。あなたは、もう一度この賭けにトライするだろうか? あるいは、こう訊ねてもいい。あなたは、最大で何度までこの賭けを続けるだろうか? この先を読む前に、ちょっと考えてみてほしい。

ふつうは3回目くらいから、逡巡する人が出始める。4回、あるは5回でやめる人が多いが、10回という人もいて、わたしが聞いた中で最大は20回(!)という人がいた。この人は国際的に活躍しているビジネスマンで、さすがリスク・テイカーなんだなあ、と感心した。

この問いが難しいのは、実際に袋の中に入っている碁石の白と黒の比率が分からないからだ。普通だったら半々のはずのに、「当たったら300円」という賞金の出し方が怪しい。そう考える人も多いだろう。でも、それは胴元が必ず勝つ不正な賭けをやっているのでは、と疑うからで、胴元だって本当は知らないのかもしれない。

実際の比率がわからない場合、確率を考えるとしたら、場合の数が二つなのだから、他に根拠がない限り50%ずつと仮定するのが素直なやり方である。必要な費用Cが100、勝った場合の収入Sが300、失敗のリスク確率rが0.5だから、賭けの期待値は、(1-r)S - C = 300 x 0.5 - 100 = 50円のプラスということになる。あなたはすでに200円使ってしまった。でも、次の賭けの期待値は50円だ。だから3回目もトライして、200円のロスを少しでも解消したいと思うだろう。うまく白が出れば、差し引き200円儲かるから、いままでの分がチャラになる。でも、全く同じ論理で、n回続けて黒をひいても、n+1回目に賭けるのが合理的、ということになる。これが、無限ループの泥沼の理由だ。間違ってほしくないのだが、人は頭がわるいからというよりも、むしろ合理的だから同じような失敗を何度も繰り返すのである。

では、どうしたら良いのか。経済学におけるストップ・ロス・オーダーの研究から、何かヒントが見つかるのではないかと考えて、調べてみた。しかし、一応それなりに手を尽くして調べてみたつもりだが、あいにくはっきりした指針になるような論文は何も見つからなかった(むろん、わたしは経済学の専門家ではないから、有名な研究をすっぽり見落としている可能性もある。もし“それにはこの定理を使えば良いんだよ”と教えていただける専門の方がおられたら、ぜひご連絡いただきたい)。

しかたがないので、自分で考えることにした。上に述べたリワークのパラドックスを解消するためには、失敗のリスク確率rを、過去続けて失敗した経験に基づいて見直すしかないはずである。といっても、これを説明するとなると情報量基準だとか最尤モデルだとかの話をしなくてはならない。読者の皆さんはくわしい数式は興味がないだろうから、得られた結果だけ書こう。その答えはマジックナンバー「5」だ。もしあなたが、成功も失敗も半々だと信じる賭けに5回続けて失敗したら、もう、その確率は五分五分ではないと考え直した方がいい。その場合、成功の確率は、最善でも1/6以下と見るべきである。

先の碁石の賭けでいうならば、もし5回続けて黒をひいたら、もう黒と白の比率は半々ではないと考えるべきだ。白は、よくても6個に1個しかない。だとすると、次の回の期待値は、300 x (1/6) - 100 = -50 だから、もう手を出すべきではない。撤退の時期なのだ。

この考え方は、広く使える。何であれ、自分が五分五分と考えている期待が、5回続けて裏切られたら、確率はもう五分五分よりかなり低い(17%以下)と思った方がいい。むろんそれでも、成功時収入Sと費用Cの比が、S/C > 6 だったら、まだ続けてもよい。でも、その場合でも、使った費用の総額がSを超えた段階で、撤退するのをお勧めする。

前々回に書いた電車の例についていえば、わたしはこう考えた。「停止してしまった電車の運行は、15分くらいで半分は再開するようだ。だったら、15分 x 5 = 1時間15分は、このまま電車に座って復旧を待とう。それでも見込がなければ、別の手段を探すことに決める」 そして、その通りに実行した。結果がどうだったかよりも、こう決めたことで気持ちの落ち着きを取り戻せた事が、とても重要だったのだ。

ちなみに「15分で再開が半々」というのは、無論、主観的なものである。それでもいいのだ。そもそもわたし達が人生で直面する賭けのほとんどは、ただ一度のことで、「主観確率」しか立てようがない。それでも、繰り返し試行した結果としての「統計的確率」とどちらが説明力が強いかを比較検証することができる(数式的なことに興味のある方は、佐藤知一:「製品開発プロジェクトにおける継続と撤退の合理的基準」化学工学会第74年会発表(2009)を参照されたい)。

このマジックナンバーが気に入らない方は、ご自分で別の基準を立てることをお勧めする。それがどのような基準であれ、とにかく線引きをすることが大事なのだ。なぜなら、タイムリーな自発的撤退こそ、じつは「現実から学ぶ」ための最良の契機だからである。そして、だからこそ、難しい。でも、撤退をしなければ、どうなるか。その結果をわたし達は、あちこちの閑古鳥の鳴く地方空港を見て知っている。そして、どんな赤字の責任からも逃れ、うまく立ち回って昇進や栄転した人たちを。彼らは、一番大事な「学び」の機会を、社会から奪ってしまったのだ。

先日、ある小さな集まりに呼ばれていろいろお話しをした時、「佐藤さんがこれまでやって一番楽しかったプロジェクトは何ですか?」とたずねられた。そんな質問は考えた事もなかったが、これまで関わった百以上のプロジェクトの中から、その時まっ先に思い出したのは、ある国内向けの仕事と、南米での仕事の二つだった。どちらも10年以上前のものだが、そんなに楽しかったのかというと、じつはやっていた時は苦しくてならなかった。どちらも納期に遅れて客先には迷惑をかけ、片方では盛大な赤字を出して会社にも迷惑をかけた。

しかし、辛かった思い出も年月が経てば忘れる。いつまでも忘れないのは、そのプロジェクトで学んだことだ。度重なる失敗と思いもよらぬ外乱で、自分は優秀だとの思い込みは微塵に砕けたけれど、そのかわり痛い思いをした分、学ぶものも大きかった。それはその後の自分を変える契機にもなった。だから今では良い経験だったと思うのだ。全てに成功する人間はいない。ならばせめて、失敗から上手く学べるようになるためにも、きちんとした「撤退学」をつくるべきだと信じるのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-15 22:33 | リスク・マネジメント | Comments(1)

埋没コストの原理、または撤退の判断はなぜ難しいか

前回は、落雷で止まってしまった電車の中で、再開を待ち続けるか別のルートを探しに行くべきか、という状況に絡めて「ストップ・ロス・オーダー」という概念を紹介した(「ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵」参照)。じつは、この言葉を知ったのは古いけれども、別に株式投資やFXをやる訳でもないわたしにとって、しばらくは縁の薄い概念だった。あらためてこの問題を本気で調べ始めるようになったのは、プロジェクトの撤退判断、すなわち『Go or no-go問題』を考えるようになってからである。

エンジニアリングや受託開発のSIerなど、受注型プロジェクトに主に従事している会社にとっては、プロジェクトの中断撤退判断など、通常は問題にならない。赤字を出そうが納期に遅れようが、歯を食いしばって何とか最後の納品までたどりつくのが当然の事だ、とみな信じている。なぜなら、納品できなければ支払も得られないからだ。仮に今、予算を100として実績コストは150使ってしまっていたとしても、なんとか納品して100の収入を得られれば、赤字は50にとどまる。これを、途中でバンザイしてしまって撤退したら、150全部が自分の持ち出しになってしまう勘定だ。いや、それ以前に、継続的なつきあいを大事にする日本の商慣習では、途中で逃げてしまったりしたら以後永久にその顧客から(下手をすればその業界全体から)出入り禁止になるだろう。

『Go or no-go問題』が大事になるのは、自発型のプロジェクト、とくに新製品開発のような、大きなコストがかかり、かつ失敗確率の高いプロジェクトである。医薬品企業においては、その業績自体が製品開発段階での『Go or no-go問題』の上手な判断に依存している、との研究もある(書評「不確実性のマネジメント」参照)。

もっと別の例を挙げれば、公共事業として行われる社会インフラ関連プロジェクトもそうだ。国内に数多く作られた地方空港、あるいは、一昨年来問題となっているダム建設プロジェクトなどである。一般にこの種の公共投資事業は長い年数がかかり、その間に経済環境等が変わってしまって、期待した効果が上がりそうもなくなることが、しばしばある。だが『no-go』の再判断が重要であるにもかかわらず、官僚機構の中では誰も、いったん走り出したプロジェクトを止められない。こうしてただでさえ不況なのに、さらに国や地方の借金が積み上がっていく。

『Go or no-go』の判断がうまくできないのは、“プログラム・マネジメントの不在”に根本的な責任がある。プログラムはプロジェクトの上位概念であり、プロジェクトの発進や、プロマネの任命や権限委譲、そして継続判断などはプログラム・マネージャーの責任だからだ。ただし、そのようなマネジメント・システムを整備する場合、継続と撤退の基準はどう決めるのが適当なのか、という問題が相変わらず残る。仮にあなたが、問題プロジェクトを配下に抱えるプログラム・マネージャーだったとしよう。あなたは、何を基準にプロジェクトの『Go or no-go』を決めるのか? たとえば、予算が倍以上かかったら中止に決める、という案もあろう。でも、長くて暗いプロジェクトという名のトンネルの先に、かなりバラ色の光が見えているとしても、それでもあなたは無慈悲に中止をプロマネに命令できるだろうか。しかも、これまでそれだけの予算追加をあなたが承認(あるいは黙認)してきたことを認めた上で?

不振なプロジェクト/プログラムからの撤退はなぜ難しいか。その理由は主に三つある。まず第一に、これまでそれを進めてきた組織や人のメンツがある。華々しく出航してきてしまったのに、いまさらどの顔しておめおめ港に戻れるか、という感情的な理由。むろん、撤退後の譴責や処分も考えるにちがいない。とはいえ、さらに航海を続けて、もっと被害を広げたら、責任はさらに大きくなってしまうだろう。だから、実際にはメンツは継続と撤退の両面に働きかけると考えていい。

撤退が困難な第二の理由は、未来のバラ色の見込みを変えにくいことだ。何度失敗しても、くじけずに夢に取り組む。そうしたことを、わたし達の社会はずっと賞賛してきた。気合いと根性さえあれば、必ず難問は解決できる。わたしはほとんど未見だが、有名な「プロジェクトX」という番組も、この種の事例をTVで次から次へと紹介し続けたようだ(余談だが、あの番組はプロジェクト・マネジメント理論の専門家の間では『プロジェクト×(バツ)』と呼ばれていたらしい。計画も方法論もリスク対策も抜きのまま、リーダーの根性&成功ストーリーに仕立てる例が多かったからだという)。ともあれ、“失敗にくじけず夢を見続ける”ことが、“見通しを途中で冷静に見直す”ことに優先される習慣がこうして形成されてきた。

そして三番目の理由が、過去のこれまで投入した努力にひきずられる、という事である。すでにこれだけの金と労力をつぎ込んだんだ。撤退したら全てパー、水の泡になるじゃないか。これはもう戦略的投資だ、後へは引けぬ。使ったお金を活かすには、事業に成功するしかない、という訳だ。もし失敗したら、ROIを低下させたといって株主にも責め立てられるだろう・・・

使ってしまったお金に対して、一種の資産価値ないし執着を感じる。このような判断上の矛盾をさけるためには、『埋没コストの原理』という考え方が必要になる。

『埋没コストの原理』とは、すでに使ってしまったコストは、現時点での判断に組み入れるべきではない、という経済学上の原理である。もはや過去という時代に埋没したコストは忘れて、この先の事だけを見て判断する。過去の苦難も(栄光も)忘れて、冷静に現在と将来を考えろ。これが経済学の要請である(たいていの経済学の要請と同様に、ふつうの人間には従うことが難しいが)。ともあれ、この原理に立てば第三の理由は回避できる、はずである。

ところが。この『埋没コストの原理』を認めると、逆に困った矛盾が生じてしまうのだ。今、プロジェクトがある技術的困難に直面したと考えてほしい。そうした時、たいていのプロマネがとる方法は、直前のステップに一歩戻って、代替手段を探すことだ。すなわち、リワークである。もし成熟した技術分野なら、失敗の原因を分析して取り除けば、先に進める。もし、まだ不確実性の高い分野なら、あるいは本質的に試行錯誤的なアクティビティならば、ともあれほぼ等価と考えられる試行を繰り返すだろう。Aという材料でダメなら、Bの材料で試してみる。BもダメならCと、竹フィラメントにたどり着いた発明王エジソンが百回以上も試したように、試行のループを繰り返すだろう。

そして、埋没コストの原理に従うならば、一歩前の原点に戻った際、それまで使ったコストは忘れていい。となると、考えるべきファクターは、成功した時の期待利益Sと、再度の試行に必要なコストC、そして失敗するリスク確率rである。それがもし

 (1 - r)S - C > 0

の条件を満たしているなら、プロジェクトは進む価値があるはずだ。いま、上の条件を満たしたとしよう。そして再試行する。ところが、また失敗してしまった。出発点に戻って、もう一度リワークしようか考えてみる。ところが前回の失敗コストは忘れていいことになっている。次回のコストCも、期待利益Sも、そして(等価な代替手段なのだから)リスク確率rも、前回と同じままである。だから、上の条件式はまた成立してしまう。そして、再々試行に進むことになる・・・

これが、プロジェクトが泥沼の無限ループに陥っていく状況なのである。判断者が合理的で、すべてを数字で判断し、かつ経済学の『埋没コストの原理』に従うと、かえって撤退の判断ができなくなっていく。たとえプロジェクトを全て自分の手金でやっていて、財布の底をついたとしても、まだ誰かに金を借りてでも続けようとするだろう。適正なストップ・ロス・オーダーなど、存在しないことになる。これをわたしは、「リワークのパラドックス」と呼んでいる。

「リワークのパラドックス」が生じる根本原因は何だろうか。それは、上記の第二の理由、つまりバラ色の見通しを捨てられないことにある。でも、誰もが一度失敗しただけで諦めていたら、技術に進歩も何もなかったことは明白である。だとしたら、何度繰り返し失敗したら、手を引くべきなのだろうか? じつは、答えがあるのである。次回は、その「マジックナンバー」について述べる。

(この項もう一度続く)
by Tomoichi_Sato | 2011-09-08 22:34 | リスク・マネジメント | Comments(0)

ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵

渋谷から東横線の各駅停車に乗った。たしか都内での研究会か何かの帰りだったと思う。ふだんは急行か特急に乗るのだが、その夜は何だかくたびれていたので、多少すいていた各停で座って帰ろうと思ったのだ。ところで、渋谷では穏やかな夜空だったのに、電車が5つめの都立大学駅に着く頃から、雷とともに急に激しい雨が降り始めてきた。折りたたみの小さな傘しか持っていない。でも、初夏の夕立だろう、いずれすぐやむにちがいない、と高をくくっていた。

しかし、電車は都立大の駅に停車したまま、ちっとも動き出さない。ホームに降り注ぐ雨は、しぶきとなって開け放たれたままのドアから車内にも吹き込んでくるようになった。しばらくしてから車内アナウンスで、「信号系統への落雷のために、全線がストップしております。復旧作業中ですが、まだしばらく時間がかかる見込です」という。外は相変わらずのひどい雨が続いている。ほんの通り雨という感じではなさそうだった。時計は9時半を回っていたように思う。さて、どうするか。

わたしの家は横浜近くの各駅停車の駅が最寄りだ。ちゃんと電車が動き出せば、30分足らずで着く。このまま座って帰れるのが一番良い。しかし、復旧の見込は不明だという。他のルートに乗り換えたいところだが、あいにく乗換駅でもない。せめてもう一つ隣の自由が丘駅までたどり着いていたら大井町線に乗り換えてJRに出られるのに、と思ったが、どうしようもない。あいにく手元不如意でタクシーという手段は考えられなかった(それに、こんな天気の時はタクシーはつかまらない)。

首都圏のロジスティックス事情に詳しい方ばかりではないだろうから、念のために書くと、東京方面から横浜に行くルートは5本ある。東急東横線と、JR(京浜東北線・東海道線・横須賀線)、京浜急行線だ。東横線は渋谷から、他の4ルートはすべて品川から横浜に向けて走っている。渋谷と品川は山手線でつながっている。正確に言うと、この他に日比谷線(中目黒発)と湘南新宿ラインの一部(恵比寿・大崎発)があるが、これらは途中からそれぞれ東横線と横須賀線に乗り入れている。

考えられる唯一の代替案は、今、ここで駅をおりて、バスを探し、渋谷か目黒か品川か、とにかく東京方面の他の線の駅に戻る事だ。ただし、バスがこの時刻に走っているかは定かでなく、戻ったとしても、JRや京急が動いている保証はない。困った事に、こういう時に限ってiPhoneは電池切れである。状況を知る手立てがないのだ。だが、この雨が単なる夕立ではなく、南関東を突如襲った集中豪雨だという感じは強まってきた。

もう一度、整理しよう。このまま乗り続けるか、それとも降りて別の可能性を探索するか。二つに一つだ。あなたなら、どうするだろうか? 続きを読む前に、ちょっと考えてみてほしい。

わたし達が直面する意思決定は、ほとんどの場合、不確実な状況下で行わなければならない。しかも、限られたリソースしかない局面でだ。それでも、明るい見通しのある選択肢からの決断だったら、まだ楽しめる。休暇は海に行こうか山に行こうか。天気や混み具合の不確実性はあるが、どちらを選んでも、多少はプラスだろうと感じられる。

難しいのは、ネガティブな選択肢からの決断である。それも、選択肢の中に「現状のまま」というのが入っている時が最も難しい。今のままではじり貧に思える。でも、代替案の中にも確実性はない。今よりひどくなって、「フライパンから火の中へ」飛びこんでしまう可能性もある。こういう時に、わたし達はどう決断したらよいのだろうか。

ストップ・ロス・オーダー』という言葉をわたしが知ったのは、デール・カーネギーの著書「道は開ける」の中だった。彼は「悩みに歯止めを設けよう」という章で、あらゆる賭けをする際に、あらかじめ「歯止め」をかけておくことを推奨している。ストップ・ロス・オーダーは元々、相場師の用語で、$50で株を買う時、(たとえば)$45のストップ・ロス点を設定しておく。そして株価が$45を切ったらすぐに売却し損切りするのである。彼はこの考え方を他の悩み事にも応用するよう勧める。

たとえば、時間にルーズな友人と一緒に昼食をとる約束をしたとする。彼は、友人を待つ時のストップ・ロス時間を10分に設定するのである。そして「君が10分以上遅れたら、昼食の約束はなしにして帰るよ」、と相手に告げるのである。

このストップ・ロス・オーダーがなぜ優れた知恵かと言うと、撤退という難問に、即断すべき基準を作ってくれるからである。意思決定の時、一番いけないのは、何も決断せずにずるずると先延ばしにしていく事だ。それは損失を広げていくばかりではない、何よりも自分の心理的エネルギーを消耗させ奪っていくのである。そうなると、ちゃんとした判断さえできなくなっていく。ストップ・ロス基準があれば、継続であれ、撤退であれ、"Go or no-go"をタイムリーに決断できる。そして決めたら、それが結果として正解となるよう、努力する。こうすれば、心的エネルギーをプラスの方向に使う事ができる。

その夜、わたしがとった決断は、こうだった。「まず、1時間15分は、この電車に座って、信号系統の復旧を待つ。それでも動く見込がない場合は、外に出て他の手段を探す。」そして、本を読みながら10時45分過ぎまでじっと待った。そして、まだ復旧のアナウンスがないので席を立ち、小さな傘を差して駅から近くの国道まで歩いた。そして幸い、恵比寿行きのバスを見つけて飛び乗った。JRの駅に着いたのは11時20分頃だったろうか。案の定、湘南新宿線は止まっていたが、京浜東北は動いていた。山手線で品川まで回り、なんとか横浜に戻ったのだった。ちなみに東横線が復旧したのは夜の1時近かった事を、後になってニュースで知った。

だが勘違いしないでほしい。結果がオーライだったから、わたしの決断が正しかった、と言っているのではない。ある方針を決めて、それで動けた事が良かったのだ。もし結果が失敗だったら、それが何回も続いたら、ストップ・ロスの基準を見直せばいいのである。それが『学び』というものではないか。どんな決断の場合でもそうだが、一度きりの結果で良否を評価するのは愚かだろう。それは1打席だけ見てバッターの能力を評価するようなものだ。

では、そのストップ・ロス基準はどのように決めるべきか? たとえば、わたしはなぜ、1時間15分という中途半端な数値を設定したのか? それについては、長くなったので、機会を改めてまた書こう。いつもわたしは余談が多くて長くなりすぎる。ここらへんでストップしておくのが、読みやすさの点でもいいと思うのだ(笑)。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-03 14:05 | リスク・マネジメント | Comments(0)