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意外性に動じない心を持つために

大学3年生の時、専門科目の学生実験があった。わたし達の班は「流動層の伝熱測定」という課題が与えられた。流動層というのは、丸い円筒形の容器の中に、細かな粒子(粉体)を半分くらいまで入れて、容器の底のノズルから気体を送り込んでやる装置だ。気体の流量がある点を超えると、それまでは単なる粉の集まった固体のように見えた層の中に、急に泡が生じて、全体がまるで液体のようにふるまい出す。これを流動化開始速度と呼ぶ。中で起きているのは、固体と気体とが混じり合って、液のような乱流を示す現象だ。化学プラントでは、細かな触媒粒子を使う化学反応で、反応熱が大きいときに、よくこのような装置を使う。中が良く混ざるので、熱がホットスポットのように集中しないですむからだ。

さて、わたし達の班は指定された運転条件で実験装置を動かし、得られたデータを元に計算した。ところが、教科書に載っている伝熱係数の推算式と、結果が3割も違う! どうしようか。皆で相談したが名案もなく、また実験を最初からやり直す時間もなかった。わたし達は、結果の面接を担当するK教授のところに、おそるおそる行った。K先生は当時、学会長をされていた著名な学者である。にこやかな方だが、学生から見るとちょっとコワい。どうなるだろう。もしかしたら居残り再実験を命じられるだろうか・・?

ところが、K先生はわたしたちの班のレポートのグラフを見て、一言「良く合っているじゃないですか」と講評された。え、良く合ってる? だって3割もずれてしまったんですよ。すると、K先生は笑いながら、その後わたしが一生忘れない言葉を口にされた。「これだけ複雑な現象の挙動を推算する式なんだから、精度はそんなものですよ。」

わたしの専門は化学工学だ。英語で言うとケミカル・エンジニアリング Chemical Engineeringである。これは化学プラントの設計論なのだが、そうか、その中心となる反応装置の設計の精度って、ときには3割も違うことがあるのか。もちろん、わたし達の実験が拙劣だったという事情もあるだろう。だが、両対数グラフでばらつく点群から、むりやり相関をとった推算式なのだ。1〜2割程度ずれても、意外ではない。いやむしろ、これほど複雑な現象に対して、なんとか1〜2割程度の誤差で推測できるモデル式を作れる工学の力が偉大なのだ。

帰り道に、班の仲間がいった。「それにしても、電気・電子工学の連中がきいたら驚くだろうな。電気回路の実験なんか、3割どころか3%ずれたって大目玉だろ。それだけ精密な分野なんだもの。」 わたしも考えた。「彼らは、結果を正確に予測できる分野にいるのだ。あいにくぼくらは、違う。」

その後、エンジニアリング会社で働くようになったわたしは、何年かして奇妙なことに気がついた。わたし達の業界では、プロジェクト・マネージャーという職種が一番大事である。プロマネは偉い。個人が偉いのではなくて、プロマネという職種が、あらゆることの最終決定と責任を持つエラい『役割』なのだ。ただ、わたしの勤務先には百人単位のプロマネたちがいるが、有能な人、業界で名を知られて上位に上がっていく人たちには、ある傾向が見えた。

それは、有能なプロマネにはなぜか、化学工学と土木工学の出身者が多い、という事実だ。わたしは直接、統計的なエビデンスを示すことはできないが、経験的にそう感じる。エンジニアリング会社というのは工学のデパートみたいな所で、機械・電気・建築・制御・・と、ほぼありとあらゆる分野の専門技術者がいる。他方、日本には「プロジェクトマネジメント学科」をもつ大学は事実上1校しかない状態で、プロマネのキャリアは普通、別の専門技術を学んだ者がなっていく。だから、あらゆる専門の出身者がプロマネにいて良い訳だし、中には文系出身者だって立派にいる。

それなのに、なぜか先の二つの工学の出身者が、プロマネの中ではいやに目立つのである。わたしの業界には俗に「御三家」と呼ばれる大手3社があるが、何年か前は、3社の社長がそろって土木技術者、それも東北大学の土木科出身だったことがある。皆、プロマネ経験者である。国内だけではない。海外の同業他社でも、優秀なプロマネのキャリアを見ると、ああ、この人もシビル・エンジニアかケミカル・エンジニアだったんだ、と感じることが多いように思う。

(念のため言い添えておくが、この2分野だけからプロマネが出ている、などと主張しているのではない。機械出身の優秀なプロマネや電気出身の有能なプロマネだって知っているし、いろんな出身者が事実いる。だが、化工屋と土木屋がなぜか他より少し目立つのだ)

これは、なぜだろうか?

断言していいが、大学の化学工学科は、マネジメント教育にあえて力を入れたりはしていなかった。少なくともわたしの時代はそうだ。わたしは今、出身学科に頼まれて、年に2コマだけプロジェクト・マネジメントを教えているが、たぶんそれで全部だ。ではなぜ、プロマネを多く輩出できるのか?

たしかに化学プラントのプロジェクトでは、基本設計を担うのは化学工学出身者だ。プロセス産業では、最初の基本設計をプロセス設計とよび、これを担当する技術者をプロセス・エンジニアないしプロセスシステム・エンジニアという。しかし、基本設計の担当者だからプロマネになれる、というほどこの分野のプロジェクトは単純なものではない。それに、土木はどうなのか? こういっちゃ失礼に聞こえるかもしれないが、土木設計はプラント設計の中心とは、言いがたい。必須で、とても大切な仕事だ。だが、機器や配管を支えるための架構や土台の設計で、むしろ縁の下の力持ちに近い。なぜ、ここから有力なプロマネが輩出するのか?

模範的な答えは、たぶん、「シビル設計と工事は、プロジェクト全体のクリティカル・パスに乗ることが多いから」かもしれない。たしかに、架構や基礎は、最後に設計が決まって、最初に施工しなければならない。設計というのは、ふつう上から下に進む。上物の重量や位置が決まって、はじめて下の設計ができるからだ。そして工事というのは、下から上に積み上げて進むしかない。だから、シビル工事はつねに最後まで図面が決まらず、最初に手をつけなければいけない。クリティカル・パスに乗りやすいから、彼らはプロジェクト全体を見て仕事をする経験を積むことになる・・

たしかに、その通りだ。だが、クリティカルになりやすいといえば、配管だとか回転機だとかだってそうだし、制御弁だって空冷熱交だって受電設備だって、そうではないか。機械工学や計測工学や電気工学にだって、チャンス(?)はほぼ、公平なのだ。なのになぜ、化工屋と土木屋なのか。

わたしの推測は、「化学工学と土木工学では、意外な事態が出現しても、あまり動じないから」ではないか、というものだ。結果が3割違っても、化学工学者が驚かないことは、最初に紹介した通りだ。では土木は? 土木の世界では、「しょせん掘ってみないと分からない」という言葉が表している。土木工学は地面とその下を相手にする仕事だ。理論はある。推測もある。だが、地面を掘ったら何が出てくるか、じつは分からない分野なのだ。でかい石塊かもしれない。岩盤かもしれない。遺跡だったりすることもある。だが、それに一々驚いていては、シビル屋の仕事にはならない。

理論はある。推測式もある。だが、意外な事態に動じない。内心、驚きはするだろう。だが、そこからすぐに回復する。推測が当たらなかったからといって、「こんな推測はナンセンスだ」などと言いもしない。だってモデル化と推測は工学の命綱なのだ。それを捨てたら、ほんとに何の根拠もないバクチになってしまう。工学と博打は違う。似ているように見えるかもしれないが、違うのだ。

マネジメントという仕事の要件について、わたしはずっと考えているし、人に教えたりもしている。マネジメントという仕事の中核には、「人を動かす」という行為がある。他人に働いてもらって、共通の目的を達すること。自分で直接、手を動かすことはマネジメントとはいわない。このことは、本サイトでも繰り返し書いている。しかし、それと並んで、必要なことがある。それは、「先読み」と「決断」の能力である。

先を読んで、手を打つこと。これがマネジメントとして重要だ。先を読まないマネージャーなんて、何のためにいるのか分からない。ダメなマネージャーは、ただ目の前の問題つぶしだけにかかずらう。目の前のボールを反射的に追いかけるだけの、ダメなサッカー・プレイヤーのように。先を読むということは、計画を立てるということだ。計画はマネジメントの重要な一部で、だからこのサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』なのだ。

だが、「決断」については、もう一つ、死活的に重要なことがある。それは、予想外のことが起きても動じない、ということだ。リーダーは、簡単にうろたえてはいけない。たとえ驚いても、感情的にアップセットしてはいけない。なぜなら、ネガティブな感情に動かされているときは、決して良い判断ができないからだ。

意外性に動じない心を持つために、大事なこと。それは、先読みの予測が当たらなくても、あまり驚かないこと。とくに自然現象ではなくて、人々を相手にしたときには、なおさらだ。人を動かすことの複雑さ・予想のつかなさは、流動層の比ではない。自分で予測はするが、予測の精度について限界をわきまえていること。土木と化工の二つの分野は、たぶん、こうした覚悟を早い時期から身につけざるを得ないのだ。それが、良きプロマネを生み出す土壌になっているのだろう。・・これがわたしの想像である。そういえば、GEの伝説的経営者ジャック・ウェルチも、化学工学出身だったな。

だからといってわたしは、企業がもっと土木や化工出身者を重用すべきだ、などといっているのではない。それにこのわたし自身、化学工学の出だが、業界に名の知れたプロジェクト・マネージャーという訳でもない。出身だけでは、動じない力は決まらないのだ。

では、どうしたらいいのか? 動じない心、といえば、度量の大きな人物の特徴である。まるで西郷隆盛か誰かみたいな。だが、西郷さんのような器量の大きな人物に生まれつかなかったわたし達は、どうしたらいいのか?

わたし自身が動じやすい人間だから、ここから先は、推測である。

まず、「ああすれば、こうなる」式の予測は当たらないこともある、という認識を身につけること。これは最低条件だろう。

その上で、たぶん大事なプラクティスが三つある。まず第一に、推測・予測には精度があり、その有効範囲があるということを、きちんと意識し共有することだ。工学的な推測だけではない。法律上の、あるいはビジネス上の予測についても、同様だ。当たらない可能性は1〜2割あるな、といった判断を、意識の上にのぼらせること。あるいは言葉にしておくこと。精度がわるいときには、フォールバック・プランとか保険をかけるとかいったことも、手を打っておく。そうすれば、意外な事態に驚いても、動揺は小さくなる。

二番目に、リスク・マネジメントをきちんと実施すること。とくに、事前のリスク・アセスメントを、複数の仲間で一緒に行うこと。計画している事柄について、起こりうる事象を、よってたかって洗い出し、その発生確率や影響度を、ラフでもいいから数字で考えてみる。これは一人でやるより、複数の目で見る方が、絶対に有用だ。こうすれば、想定外な事象は少なくなる。

三番目。これはなかなか難しいことだが、自分の感情をコントロールする訓練をつんでおくこと。感情筋を鍛える、とでもいおうか。リーダーにとって、一番まずいのは感情的になること、つまり自分の感情に自分が乗っ取られる事態だ。部下から見て、感情的なリーダーほど始末におえないものはない。それは誰しも経験があるだろう。

自分の感情をコントロールするにはどうしたらいいか。それには、まず、「自分は今、どのような感情を持っているか」を自覚することが大切だと、心理学は教える。自己チェックすることで、自分の感情を対象化できるからだ。対象化したからといって、すぐにその感情が消え去る訳ではないが、それでも無意識に振り回されることからは、多少避けやすくなる。こうした感情のトレーニングは、若いときに、意識して訓練をしておく方がよい。自分の経験でも、管理職に就く中年になってからでは、遅いと思う。

感情をコントロールするとは、決して感情を押し殺すことではない。また感情を表に出さぬよう、能面のように我慢することでもない。そうした無理は、むしろ害がある。感情はわたし達の生活を豊かにする、一種の資源である。わたし達はむしろ、感情を豊かに育てる必要がある。そうすることで、妙に歪んだり暴発したりしないようにできるのだ。

まあ、こんなことは、わたし達の文化や教育の中には、あまり根付いていない。わたし自身、だいぶん遅くなるまで気がつかなかった(おまけに短気だし気が小さいし、ずいぶん人に迷惑をかけたろうと思う)。ただ、一つ方法がある。それは、ネゴシエーション=交渉の練習をすることだ。交渉は感情的になったら負けだし、感情を読まれるだけでも不利になる。絶好のトレーニングの機会なのだ。だからこそ、わたしは自著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」の最後の章に、あえてネゴシエーションの練習風景を入れたりしたのだ。

世の中のことは、なかなか、はかりがたい。余計なことだが、昨今は、海をはさんだ隣国の権力者の、予見しがたい判断や行動に、大勢が右往左往しつつあるように見える。法律や道徳やルールで権力者に枠をはめ、その行動の予見可能性を高めようとすることは、人類社会の知恵だと言っていい。予測可能にしておくことは大切だ。

だが、予測が外れたときにも、動揺して自分の判断が狂わないように、自分の心のレジリエンシーを高めることも必要なのだ。そこの重要性が、どうもわたし達の社会では、あまり認識されていない。「ああすれば、こうなる」の類いの、決まり切った予見、正解、公式ばかりが闊歩しているように見える。それはあまり安全なこととは、いえない。国家レベルのことはともかく、せめてわたし達の身の回りだけでも、もう少し「動じない心」を育てたいではないか。


<関連エントリ>



by Tomoichi_Sato | 2017-02-07 23:12 | リスク・マネジメント | Comments(1)

アカウンタビリティとは「命令責任」である

RACIチャート」というものをはじめて知ったのは、90年代半ばのことだ。当時使っていたアメリカのERPコンサルタント会社が、要件定義段階での役割分担をRACIチャートの形にまとめてきて、なるほど、こういう整理の仕方があるのかと知った次第だ。ついでにいうと、「サプライチェーン」という言葉も、同じ時にはじめてきいたのだった。まだ日本ではほとんど知る人のいない概念だった。

RACIチャートとは、業務の上での役割分担と責任範囲(Role and Responsibility)を、分かりやすく整理するための表である。ふつう横軸の欄には、関係者や部門の名前が並び、縦の行には業務を構成するアクティビティが続く。そして、どのアクティビティは誰がどのような役割で関わり、責任はどこが持つかを書く。このとき、
R: Responsible
A: Accountable
C: Consulted
I: Informed
の4種類の関わり方で表すため、頭文字をとってRACIチャートと呼ぶ。

ところで、いつもいっていることだが、知ることと分かることは違う。RACIチャートを見たときには「なるほど」と思ったが、自分で書こうとすると、なかなか上手く作れない。それでわたしは、しばらくの間、RACIチャートから遠ざかってしまった。また使うようになったのは、会社の中で多少なりとも組織論に関わる立場になってからである。

RACIチャート作成がなぜ、むずかしいか。それには二つの理由がある。一つ目の理由は、ConsultedとInformedの役割の違いが分かりにくいためだ。「相談される」のと「知らされる」のは、似たようなものではないか? どうやって使い分けるのか。前者は双方向のコミュニケーションだが後者は一方向だ、と解説する人もいる。だがTV放送じゃあるまいし、ビジネスにおいては、文書やメールで伝達したって、相手が意見や質問を返すことが可能だ。本当に一方的な、問答無用な伝達というのは滅多にあり得ない。

じつは両者の違いは、タイミングの違いなのである。
  • C: Consulted とは、事前に相談される
  • I: Informed とは、事後に知らされる
つまり何らかの仕事のアウトプットを出す最中に、また何かの決断の際に、意見をきいて取り入れる相手がConsultedであり、出たアウトプットを渡したり決断の結果だけを伝える相手がInformedなのだ。この区別を知れば、CとIで悩むことはなくなる。

ところでRACIチャートを難しくする二番目の問題は、もう少しシリアスだ。それはR: ResponsibleとA: Accountableに正確に対応する概念が日本語の中にない、という問題である。ConsultやInformには、相談・伝達という訳語があって、その点では迷いはない。しかし、Accountableという英語に対応する訳語が、少なくとも’90年代半ばには、明確でなかった。辞書を引くと、「責任」とある。だがResponsibleとの違いは何なのか? たとえば研究社の「新英和中辞典」には、AccountableもResponsibleも「責任のある」と書かれているのだ。訳語がないとは、つまり日本文化の中にないということだ。

知り合いの米国人にたずねたが、どうやら彼には当たり前すぎるらしくて、かえって説明を聞いてもよく分からなかった。ただ、一つのヒントになったのは、予算権限に関係するときはどうやらAccountableらしい、ということだった。まあ、この言葉は語源的にははcount(勘定)からきているのだから、関係はありそうだ。他方、Responsibleはrespond(応答)から発生している。

さて、ご存じの通り、アカウンタビリティという言葉は、今世紀に入ってから、なぜかメディアで多少の脚光を浴び、その結果「説明責任」という訳語が登場した。苦心の訳語だったろうと想像する。だが、この言葉が流通するに及び、かえって日本文化では奇妙な誤解が広まったように、わたしは感じる。たとえば「説明責任を果たせ!」を他人を指弾したり、攻められた方は「記者会見で説明したから、説明責任を果たした」などと答える、へんてこな事態が生じた。記者会見の席上で30分間、頭を下げて、意地悪な質問にも耐えたから「責任は果たした、あとは無罪放免だろ」という理屈は、明らかに英米のAccountabilityの概念とかけ離れている。

じつは、AccountabilityとResponsibilityとは、「命令責任」と「実行責任」の区別に対応している。前者は命じたことへの責任で、後者は最後までやり遂げることへの責任である。Accountableな人は承認したり、NOといったりする最終権限を持つ。他方、Responsibleな人は、実行に関する権限や判断をある程度、まかされる。こう理解すると、両者の違いはすっと納得できよう。

え? すっと納得できない? では例を挙げよう。今日は、お母さんの誕生日である。お父さんと、二人の子ども(姉と弟)は、お母さんに感謝するため、バースデーケーキを内緒で買ってきてプレゼントしようということになった。お父さんはお財布を出して、小学生の息子に、街のケーキ屋さんから買ってこい、と指示する。息子はしかし、どんなケーキを選んだらいいか分からない、という。すると中学生の娘が、お母さんはこの間、タルトタタン(リンゴのパイの一種)を見て、美味しそうねえといっていたから、あれがちょうどいいんじゃない、という。そこで息子はお札を握りしめて、ケーキ屋さんまで走って行く。

ところがしばらくたって、息子から父に電話が入る。「たいへんだ・・ごめんなさい、お父さん!」という。「何だ。どうした?」「あのね。道でうっかりしてケーキの箱を落としちゃったの。箱をちょっと開けたらグチャグチャになっていて・・どうしよう。」「どうしようって、落としたものはしかたがない。店に戻って、もう一つ買ってきなさい」「お金は?」「あとでお父さんが払いに行く。念のため、店に名前と家の電話番号を書いておいてきなさい。お父さんからもお店に電話しておくから」「わかった・・。」

息子が神妙な顔でケーキを持って家に帰ると、父親は落としたときの状況を問いただす。どうやら、スマホのゲーム画面に熱中しすぎて、近づいてくる自転車に気づかなかったらしい。危ないじゃないか! ケーキならともかく、自動車だったらお前の命が危ないんだぞ! 今度から歩きスマホは厳禁だ、と言い渡し、息子はシュンとなる。

かくて、すったもんだはあったが、夕食の後で、娘と息子はかくしておいたバースデーケーキを取り出し、驚いているお母さんの前に差し出す。お母さんはよろこんでロウソクの火を吹き消し、お皿とナイフを取り出し、紅茶を入れて皆に配る・・。

さて、この話のRACIチャートは以下のようになる。
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「プレゼントを買う」アクティビティについては、知恵を出した(C)のが姉、承認してお金を出した(A)のが父、店に買いに行く作業をした(R)のが弟、そして(時間差はあるが)結果を知らされる(I)当事者が母だ。

次の、ケーキを運ぶ最中のトラブルについては、ケーキを道に落とした弟は店に戻って「買う」という作業を完遂する責任(R)を負う。本当は、重大な過失なのだから、お金も自分で弁償する義務がある。もし高校生だったら、父はそう言っただろう。しかし小学生では経済的にも責任能力がないので、父が再度お金を出して事態を収拾する(A)。ただし、父はトラブルの再発防止策を息子に指示する。

バースデーケーキを取り出して祝うのは、姉と弟の仕事だ(R)。母はうれしいサプライズに驚く(驚いてみせる)役柄を演じる(I)。ただしお皿やナイフを出して切り分けるのは母だから、まあ実質的な仕事も分担しているので、あえて(+R)と表記した。このアクティビティには判断もコストも伴わないので、とくにAccountableな役割がないことも注意してほしい。

日本語の「責任」には、「責めを任ずる、になう」という意味が含まれ、どこかネガティブなニュアンスがある。英語のResponsibleはもう少しポジティブで、仕事を完遂する義務を負うかわりに、仕事上の問題解決に関する判断の権限を任されている。では、Accountableは何かというと、仕事の結果生み出される価値と、その仕事に投入するコストや時間や資源とのバランスを評価し判断する権限を持っている。つまり、仕事上の結果が生み出すアウトカムについて、賞賛も責めも引き受ける、ということだ。

Accountableな人は、実質的な仕事を誰かに任せて、Responsibilityを委譲することができる。しかし、結果に対する賞賛を受ける権利、責めを受ける義務は自分の元に残る。これを権限委譲の原則と日本語では呼ぶ。結果への権利を持つからには、委譲して任せた相手の仕事ぶりをちゃんとウォッチして、自分の意図したとおりに仕事してくれるような仕組みをつくらなければならない。これゆえ、Accountabilityを「結果責任」とか「監督責任」と訳す人もいる。わたしはかつて「面目責任」と訳したらどうかと考えた。だが、今は「命令責任」と「実行責任」が分かりやすいと思うようになった。

独立した権限を持つ人が、自分の利害に沿って行動するように仕向けることを、『ガバナンス』と呼ぶ。つまり、Accountableな人は適切なガバナンスを行う義務がある訳だ。逆に言うと、ガバナンスの仕組み作りを怠ったら、不作為や放置の責めを受けるべきである。つまり、「そんなことは自分が知らぬ間に担当者がやったことだ」などという弁解はきかない、ということである。

ま、ここではRACIチャートの説明が目的だから、AccountabilityとResponsibilityを明確に分けたが、英語の実際の場面では、似たような意味で使われていることも案外みかける。ただ、いずれにせよ、仕事のアウトカムをもとに人を評価したり責めたりする際には、その人が自分から行った決断や行為をもとにすべきだと、わたしは考えている。何の権限もなく、ただ命じられたことだけを実行する人、あるいは、自分の決断や行為に無縁な外的環境によって結果を左右される立場の人は、結果の責めを負わされるべきではない。より責められるべきは、命令した側である。アカウンタビリティというカタカナ言葉が普及すると共に、こうした原則への理解も広まってほしいと、切に願う。


by Tomoichi_Sato | 2016-11-05 20:10 | リスク・マネジメント | Comments(0)

トラブルには技術的原因と、マネジメント的原因がある

トラブルの原因分析について、このところ2回にわたって考えてきた(「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」・「経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について」 )。原因分析の手法にこだわっているのは、それが「学び」と「成長」の鍵だからである。自らの能力を向上させ、成長するためには、仕事の結果(成果)から学ぶべきだと、わたしは信じている。個人も、組織集団も、である。

仕事の結果としてトラブルが生じたら、そこから素直に学ぶ。成功からも学べるが、失敗から学ぶ方が、記憶に強く残るからだ。そして(当然ながら)すべてに成功できる人なんていない。あの本田宗一郎だって、「自分は失敗ばかりしていた」と言っているくらいだ。他人から見たら成功でも、自分ではそこに足りない点を見る、というのがこの経営者の卓越した点だったのだろう。

さて、繰り返すが、『根本原因』Root Causeとは、トラブル事象を因果関係で最上流までさかのぼって、「わたし達がコントロールし改善できる要因とみなせる事柄」を言う。自分が改善できない範囲の要因を、根本原因ととらえてはいけない。たとえば「不況のせいだから」とか「経営者がアホだから」というのは、根本原因にはならない(居酒屋談義ではよくきく説明だが)。

わたし達の意志の及ばない範囲のことは、ふつう「環境」とよぶ。市場環境とか自然環境とか職場(内部)環境といった言葉である。環境はわたし達の行動に影響を及ぼして、仕事の結果(成果)をけっこう左右する。「行動」と「環境」が成果を決める二大因子なのだ。

成果 = 行動 + 環境

そして、わたし達の行動は、実際には、わたし達が持つ「能力」と、「道具」と、わたし達の「意志」(決断)によって決まる。

行動 = 能力 + 道具 + 意志(決断)

能力とは潜在的なもので、多くの場合は結果を達成した確率から間接的に測られる。野球の打率のようなものだ。確率になるのは、環境がそのたびごとに変動する(相手の投手だとか体調だとか球場だとか)からである。以前の記事で、「チャレンジ行動」と「冒険的行動」を区別して書いたが、じつはどちらも確率的なものであって、単に失敗のリスク確率がリーズナブルか非常に大きいかの違いでしかない。リスク確率が高くて、無謀に思える冒険的行動をとるのは、「意志」(決断)でそう決めたからだ。もちろん、能力は使う道具にも依存する(良い道具を選んで使いこなすことは能力の一部である)。
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さて、トラブル事象の原因分析をしていくと、原因には大きく二種類あることに気がついてくる。第一は、直接の技術的原因(きっかけ)である。それは、

(1) 能力に関わるもの:単純ミス、担当者の能力の低さ
(2) 道具に関わるもの:道具の故障、不適切な道具の使用
(3) 人間の意志(判断)に関わるもの:問題行動、悪意
(4) 環境に関わるもの:危険な環境、無理な制約

といったことだ。いずれも、上の方程式にある項目と関連している。

ところが、大きなトラブル事象の場合、直接の技術的原因(きっかけ)以外に、「マネジメント的な原因」が存在するのが常である。マネジメント的原因とは何か。それは、技術的原因(きっかけ)で生じかけたトラブルが、そのまま仕事の成果に出ないような「仕組み」を作ることを怠った、あるいは仕組みが機能しないのに放置していた、ということである。

たとえば、上記(1)の単純ミスについて考えよう。人間はミスをおかす生き物である。ミスをしない人はいない。だから、ポカよけ・多重チェック・インターロックなどの仕組みを講じるべきなのだ。乾電池を逆向きに入れられない形に設計する、といった工夫がポカよけであり、外側の扉を閉めないと内側のドアが開かない暗室の入り口のような仕組みが、インターロックである。一般に、人間のミスや誤判断を防ぐ仕組みを総称して「フールプルーフ」とよぶ。

また、(2)道具や機械は必ず故障するものである。故障が生じたとき、それが重大事故や製品の欠陥に結びつかないようにする仕組みを「フェイルセーフ」とよぶ。本質的安全設計、多重化・冗長化、バックアップ、ニンベンのついた自働化、工程内検査(自工程完結)などがその例だ。

(3)の人間の問題行動については、たとえばルール・契約・教育研修などによって低減できる。「無知」というのは問題行動の大きな源泉だが、まさに過去のLessons Learnedから「学び」を共有することが、最大の対抗策である。

(4)の危険環境については、人間が危険な環境(作動中の機械なども含む)に直接触れないよう、防護柵を設置するなどの「セーフガード」が必要である。「作業環境」を清潔・快適に保つことが大事なことは、言うまでもない。また自然災害についても、発生を極力リアルタイムに検知・予測できるような仕組みをつくる、あるいは保険をかけて事後の回復を容易にする、などの手段がある。

トラブルや問題発生の可能性を予見して、フールプルーフ・フェイルセーフ・訓練・保険・セーフガードなどの対策を講じること。これを、一般に『リスクの事前対策』とよぶ。リスクの事前対策は、トラブル発生時の事後対応、そしてトラブル終結後の原因分析・学びとならんで、リスク・マネジメントの三本柱である。

大きなトラブル事象の原因分析をすると、たいていの場合、上に記したリスクへの事前対策が適切にとられていなかったこと、つまり「マネジメント的原因」が見つかる。逆にいうと、大きなトラブルは、直接の技術的原因(きっかけ)と、マネジメント的原因が同時に組み合わさったときに起きるのだ。もちろん、マネジメント的原因を見つけるためには、仕事の仕組み(システム)を見とおす能力がいる。

トラブルに学んで成長するためには、まず、起きた事実を、利害や好き嫌いなどの感情を離れて、できるだけ客観的に見る必要がある。そして現実と、意図した結果(約束や目標)からの乖離を見る訳である。ここが曖昧だと、原因分析のプロセスが起動しないため、何も学ぶことができなくなってしまう。また、かりに原因分析をしたとしても、マネジメント的原因の方を見過ごすと、一切の責任は、直接のきっかけを作った担当者にかぶさってしまう。あるいは不運な環境のせい、ということになってしまう。そして次のトラブルの根本原因は残ったままだ。だから担当者が変わっても、いつも似たようなトラブルの繰り返しということになる。いつも似たトラブルを繰り返すときは、「マネジメント的原因」の存在を疑うべきである。

今回の話は、ここで終わりにしてもいい。しかし(いつものくせで)もう一言だけつけくわえておこう。じつは、こうした「学びのサイクル」を阻害するものが、身近にあるのだ。思考習慣の上の問題、あるいは組織のOSのバグと言ってもいい。

それは、仕事の成果を、すべてリーダーの人格だけで説明する議論である。「あの仕事はうまくいった、それはリーダーのAさんが立派だったからだ。」「この仕事は失敗だ、なぜならリーダーのX氏がダメな奴だからだ。」・・こうした議論は、実質的に何も生まない。そもそも人の性格なんてすぐには変えられないのだから、結局、「リーダーを取り替える」しか、処方箋が出てこない。

こうした議論は、派閥や権力争いのある場所で生じやすい。そういった人間集団では、トラブル事象は、つねに「敵を攻撃する材料」としてとらえられる。結果として、不都合な事実やトラブルは、しばしば隠されることになる。こうした状況を皆さんはご覧になったことはないだろうか? たしかに人間集団には、権力争いがつねにつきまとう。だが、こんな組織で学びや成長がありうるだろうか?

こうした不都合を防ぐために、『ガバナンス』の仕組みが生まれたのである。ガバナンスとは、マネージャーをマネジメントする仕組みである。あるいは、リーダーの勝手気ままを牽制する仕組みといってもいい。

ガバナンスの仕組みでは、ルールや目標を明文化し、リーダーの恣意的判断や結果への言い逃れを防ぐ。ルールによって、リーダーや組織全体の行動の予見可能性を高めるのである。また記録をとり、第三者によるチェックを可能にすることも重視される。無論、必要に応じてはリーダーその他のポジションを入れ替えることもある。株主総会と取締役会というのは、代表的なコーポレート・ガバナンスの仕組みだが、まさにこういう仕掛けになっている。

こうしたガバナンスを構築することは、たしかにめんどくさいし、余計な間接業務が増える。日本版J-SOX と内部監査とで、いらん仕事が増えたと感じている向きも多いだろう。現在のJ-SOXのあり方を、全面的に弁護するつもりなど、わたしにもない。また、あれだけ守っておけばガバナンスは十分だというつもりもない。上に縷々述べたとおり、ガバナンスの仕組みとは、組織が学んで成長するために必要な、後戻り防止装置なのである。

わたし達は、お殿様が何でも独り決めできた、昔の時代に生きている訳ではない。ガバナンスは、組織の現代化には必須の仕組みなのである。かつての時代、殿様が無能だと、組織は何も学べなかった。わたし達は違う。仕事の成果を客観的に見て、目標値と比べて評価し、問題があれば原因分析を行って、仕事のシステムを改善することのできる時代に生きている。こうした仕組みこそ、やれ戦略だとかなんだとかいう前に押さえるべき、基本中の基本なのである。

<関連エントリ>
 →「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」(2016-06-15)
 →「経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について」(2016-06-23)
 →「ハイボールと、本質的安全設計の教え」(2014-01-19)
by Tomoichi_Sato | 2016-07-09 15:48 | リスク・マネジメント | Comments(0)

経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について

1973年、第四次中東戦争が勃発した。イスラエルに対してアラブ国側が先制攻撃をしかけて始まったこの戦争は、緒戦段階でエジプト軍の地対空ミサイルが効果を上げ、イスラエル空軍機を多数撃墜した。戦争は結局、米国の後押しを得たイスラエル側が、ある程度まで押し返して、わずか2週間ほどで終わる。ただ、この時の余波で第一次石油ショックが起こり、油価の暴騰とエネルギー供給危機に、日本を含む西側諸国は大きな動揺を経験する。

イスラエルの側も、それまで過去の戦争ではアラブ側を圧倒していたのに、大きく面目をつぶした。とくに空軍の損失は甚大で、しかも損失の出方は偏っているようにみえた。たとえば、同じ基地から飛び立った二つの飛行中隊のうち、片方は4機を失ったが片方は無傷だった。このため、損害を被った飛行中隊のどこが悪かったのか見つけようと、調査が開始されていた。しかし一方の中隊がとくにすぐれていると考えるべき理由はなかった。作戦にも違いはなかった。かくして、調査はパイロット一人ひとりの生活や態度に向かっていった・・。

しかし、後にノーベル経済学賞を受賞することになるダニエル・カーネマンは、この調査をやめさせるようイスラエル空軍に進言した。カーネマンはもともと心理学者である。ただ、かれのアドバイスはもっと単純なものだった。「この違いの説明について、最もあり得る答えは『偶然』である。あるかどうかも分からない原因を求めて調査するのは意味がない上、パイロットたちには、自分や死んだ戦友に落ち度があったのではないかと感じさせ、さらによけいな重荷を背負わせることになるだろう」、と。

この話は、D・カーネマン著「ファスト&スロー 〜あなたの意思はどのように決まるか?」に書かれているエピソードである(邦訳上巻・p.171)。ところで、彼のこのアドバイスの意味は、お分かりだろうか? わたしも、最初ちょっとよんだときには理解できなかった。だが、これは統計の大数の法則を思い出してみると、分かるようになる。たとえば、いま、サイコロを振って、出た目の数が5〜6なら○、1〜4の間なら×、だとしよう(○が出る確率は1/3だ)。では、次の二つのうち、どちらがより珍しい事象だろうか?

(1) サイコロを4回振って、全部○が出る
(2) サイコロを10回振って、全部○が出る

誰だって、(2)の方が起こりにくいことは知っている。サイコロをふって、1/3の確率が4回続くのと、10回続くのでは、当然ながら10回の方が珍しい。

これを逆に言うと、4回振って全部○になる(1)の方が、10回セットの(2)よりも起こりやすい訳だ。母数が少ない場合には、偏った結果の出る確率が高い。大数の法則とは、「試行の回数が多いほど結果は平均値に近づく」というものだが、「母数が少ない場合は、平均値よりもずっと偏った結果の出る確率が、相対的に高い」と表現することもできる。カーネマンは、だから、小数の飛行中隊のサンプルから、むりに差を見つけようとするのはやめた方がいい、と進言したのである。

カーネマンの著書には、さらにこんな例も紹介されている(p.160)。「全米にある3,141の郡部で、腎臓の重篤な病気の出現率を調べたところ、顕著なパターンが発見された。出現率が低い郡の大半は、中西部・南部・西部の農村部にあり、人口密度が低く、伝統的に共和党の地盤である」--これをよんだ人は、「いなかのきれいな環境のおかげで腎臓の病気が少ない」と、つい考えやすい。

では、その病気の出現率が高い郡はどこか。正反対の環境にあるところ、すなわち東海岸や西海岸の大都市・近郊で、人口密度が高く、民主党支持層の多いリベラルな地域だろう、と普通は考える。しかし、答えは正反対である。じつは、出現率が特に高い郡もまた、「中西部・南部・西部の農村部にあり、人口密度が低く、伝統的に共和党の地盤」にあるのだ。

これは一体どういうことなのか? 病気の出現率が特に高い地区も、特に低い地区も、似たようなところにあるとは。いなかの環境は健康にいいのか、悪いのか?

説明は簡単である。人口密度の低い郡は、つまり母数となる人口が少ない地区である。だから、平均値よりもかなり外れた統計値(高低いずれも)が現れる確率が高いのだ。もっと人口の多い郡では、ずっと平均値に近づく。ちょうどサイコロを4回振るのと10回投げるのでは、後者の方が平均的結果に近づくように。それ以外の因子、たとえばロケーションや農業や政治的スタンスは、あまり腎臓に強い関連性はないらしい。

わたし達の脳は、ちょっとした出来事にもパターンを見つけ出す能力を持っている。その一方で、確率というのは、直感的に分かりにくい概念である。その結果、わたし達はしばしば、偶然のゆらぎがもたらす確率的な現象を、何かの必然性がもたらした結果だと考えやすい。

病気に対する投薬の効果も、確率的なものである。「8割の方の症状が軽減しました」というような広告を、よく目にする。それはつまり、「効かないケースも2割くらいある」訳で、つまり人間に対する薬の効果は確定的ではないのだ。患者の身体には一人ずつ個性があるからだろう。だが、「医師たちにおいては不確実性よりも自信を示す方が好まれる」(同書p.50)。このため、患者が健康を回復したのはこの薬が効いたのだ、と素人は思い込みがちだ。

もう一つだけ例を挙げよう。男性は女性より背が高い、という命題を考えてみる。一般論としては、たしかにそうだ。ただ、男性も女性も背の高さの分布には幅がある。だから個別にはもちろん、奥さんより背の低い旦那さんだっていくらも存在する。任意の成人男女のペアを取り出した場合、男性の方が背がつねに高い訳ではなく、90何%かの確率で高い、としかいいようがない。このように、統計的分布の中から個体をとりだして比較する場合、状態を表す命題も確率で表現することになる。背の高さばかりではない、世によく言われる「男は女よりも○○だ」という命題も(性別でなく人種や出身地でも)、基本は確率的である。

さて、原因分析とは、
(1) AならばBである、という知識と、
(2) XはBであった、という事実から
(3) Xの原因はAだろう、と推論すること、
である。さらにそこから、
(4) ××の状況ではAすべき(あるいはAを避けるべき)と学ぶこと
が、いわゆる教訓(Lessons Learnt)であり、これが組織のPDCAサイクルを支えている。

ところで、(1)の「AならばBである」、の多くは、確率的なゆらぎを伴う事象である。したがって原因分析も確率的な推論になるべき、ということになる。

物知りな方は、ここで「ベイズ推計」という手法を思い出すだろう。ベイズの定理の説明などは省略するが、結果に対する情報から、その原因となる仮説の「確からしさ」を確率で計算する手法である。通常の確率は、サイコロを繰り返し投げるようなときに、特定の状態が将来起きる頻度を推定するものだ。つまり将来の予測である。どれくらいの頻度で起きるかを論じるので、頻度論ともよばれる。ところがベイズ推計の確率は、過去どういう状態だったのかを推定するもので、同じ確率といっても意味が違う。「Xの原因はAだ」という仮説の確からしさ=信頼度を、ゼロから1までの値で示している。これを『主観確率』という。

ちょっと分かりにくいので、簡単な例を挙げて占めそう。新製品ライン設置のプロジェクトは、設計・製造・据付の三つの工程をへて遂行される。ただし新規の仕事なので、各工程で20%の確率でミスが発生する危険性がある。前工程でミスが生じても、次工程の側では気づけない。さて、今この新製品ラインを試運転したところ、うまく動かないないことが分かった。このとき、不良発生の原因が製造工程のミスだった確率はいくらか?

直感的に考えると、三つの工程どこでも等しくミスが発生するのだから、その確率は1/3 = 33.3%じゃないかと思える。あるいはもう少し注意深い人なら、「最初の設計工程でミスが発生しない確率は4/5だ。次に製造工程で不良が発生する確率は1/5。だから第2工程が原因である確率は4/5 x 1/5 = 4/25 = 16%だ」と計算するかもしれない。

だが、どちらも間違いである。「上流から不良が送られてきたら、次工程は不良の根本原因にはならない」のだから、三つの工程は平等はでないはずだ。二番目の推論は、「この新製品ラインが正しく動かない」という結果情報をすでに得ていることを無視している。

正しくは、こうなる:ラインが正しく動く確率は、4/5 x 4/5 x 4/5 = 64/125だ。逆に言うと正しく動かない確率は 1 - 64/125 = 61/125 である。他方、製造工程で最初にミスが発生する確率は4/25である。したがって、「トラブルが発生した際に、製造が不良の根本原因だった」(=最初に不良が発生したのは製造工程だった) 確率は、4/25 ÷ 61/125 = 20/61 = 32.8%で、1/3よりは少し小さい。

過去の事象は、すでに確定している。このプロジェクトの失敗が製造工程で生じたのか、真実はYesかNoか、ゼロか1かの、いずれかだ。だがその真実は、わたし達には知り得ない。わかるのは、「ミスは製造工程で生じた」という関する仮説の確からしさ(主観確率)で、それがこの場合、32.8%なのである。

主観確率とは奇妙な概念だが、それでも数学的には確率の公理論を満たせるので、確率とよばれる。頻度論とちがい、一度限りの事象に関する仮説の確からしさを、周辺の観測事実を援用しながら計算し更新していくので、主観確率の概念はプロジェクト・リスク分析などにも用いられる。プロジェクトは個別でユニークな仕事であり、そこで起きる事象はつねに一度限りだからだ。プロジェクトの事後に行われる原因分析も、だから本当は確率的な推論なのである。

しかし、わたし達の思考習慣は、そういう風になっていないことが多い。たとえば、一般に法律論は確定的な因果律を求めたがる。「AはXの原因と断定できるか」が、法律家の問いだ。そして断定できなければ無罪放免とする。「疑わしきは罰せず」の原則である。これは法制度の安全弁となっている訳だが、その代わり、昔の公害と疾病発生のように、因果関係が立証できないと、免責されがちになる(放射線量と健康被害の議論などもその同類で、確定的な因果関係があるとも、ないとも、断定するのは困難だろう)。法的責任がからむと、そもそも客観的事実を共通認識する事自体が難しくなる。

だから、という訳ではないが、これが組織ではしばしば逆転して「疑わしきは原因を探せ」「疑わしきは担当者を責めろ」の原則(?)が生まれる。原因分析の推論は「責任追及」に支配されがちとなるため、「疑わしき」リスクは排除する方向に、皆が動く。さもないと自分が責任を問われ、組織から排除されかねないからである。こうした習慣は、わたしが「安全第一主義」と名付けた組織文化をもつところでは普通に行われている。「前例」を求める役人、「完璧」を求める購買担当者、「大手」にしか発注しないIT部門、皆このたぐいだ。トラブルが発生したら、疑わしき部門や担当者を必死に探し出し、皆が自分以外の誰かの責任だといいたてる。こんな組織では人々が防御的・責任回避的になるだけで、失敗の経験から本当に学ぶことは難しい。

そこまでひどくない場合でも、トラブル事象が起きると、性急にその「原因説明」をしたがる人は多い。新製品ラインがトラブった。詳しく調べると製造工程の人の判断ミスだった。やっぱり! 前にも似たトラブルはあったなあ。子会社化されて以来、工場のやる気が落ちているんじゃないのか? そこで担当者を含む部署に訓示が出され、チェックを徹底するよう指示が出された・・

これで安心するのは早計である。人はミスをする存在だからだ。そしてミスは上流工程ほど影響が大きい。先ほどの計算の続きをしめすと、失敗が生じたとき、根本原因が設計工程にある確率は41.0%、製造工程起因が32.8%、据付工程起因が26.2%だ。たまたま今回は製造で問題が生じたが、つぎに問題が起きたら、設計から疑ってみるべきである。わずか1、2回の経験で原因を決めつけるのは性急に過ぎるのだ。
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教訓は単純である。それは、確率的なゆらぎが絡む問題については、学びは長期的・統計的でなければならない、ということだ。個別の結果に対して、すぐ原因を特定して性急に学ぼうとしてはいけない。それは初動で戦友を失った空軍のパイロットをさらに詮索するようなものだ。野球では強打者でさえ、打率は3割程度である。だとしたら、イチローが個別の打席で凡打だった原因を毎回議論して役に立つか、ということだ。少なくとも数試合、傾向を見なければ調子は論じられない。

ゆらぎのある事象の原因分析においては、大きな傾向・パターンを見るべきである。人は確率的存在だ。そして一定確率でミスをする。それを防ぐにはシステムが必要で、システムを考えるには時間をかけた観察が大切だ。経験から性急に学びすぎない態度が肝心なのである。

(追記)
上記の3工程の問題は、その昔、早稲田の入試に出たという問題を下敷きにしたものだ。元の問題は「5回に1回の割合で帽子を忘れるくせのある人が、正月にA、B、Cの3軒を順に年始回りをして家に帰ったとき、帽子を忘れていることに気がついた。2番目の家Bに忘れてきた確率を求めよ」
だった。計算すると、
- Aの家に忘れてきた確率=41.0%、
- Bの家に忘れてきた確率=32.8%、
- Cの家に忘れてきた確率=26.2%
になる。だから、帽子を忘れてないかを最初にたずねるべきは、Aの家だということになる。三つの家は同じ条件のなのに、確率が違うのは直感的に奇妙に思えるだろう。だが、いったん前の家で帽子を忘れたら、次の家ではもう忘れようがないのだ。わたし達の直感は、かくのごとく確率的事象に惑わされやすいのである。

<関連エントリ>
 →「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」 (2016-06-15)
by Tomoichi_Sato | 2016-06-23 22:19 | リスク・マネジメント | Comments(0)

熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて

熱気球は今やいっぱいに膨らみ、空に飛び立とうとしている。乗員が地面との係留ロープをとき、重りの砂袋を一つまた一つと、放り捨てていく。やがて気球のカゴはゆらりと地を離れ、5つめの砂袋を捨てたところで、ゆっくりと、そして次第に勢いをつけて舞い上がっていく・・

昔、北海道の十勝平野に熱気球レースを見に行った。空にたくさんの、カラフルな球体が浮かぶ、とても幻想的な光景が忘れがたい。何とかと煙は高いところに上りたがる、という諺があるが、少しでもいいからのってみたいと、わたしも思った。それで、家族で体験できるミニ気球に乗せてもらった。もちろん乗員付きだ。それでも気球から見下ろす地上は、なんだかすがすがしくて、小学生だった子どもも大喜びだった。

さて、気球はなぜ、浮かび上がったのか。5つめの砂袋を捨てたことが、気球の飛び立った理由ではない。誰でも知っているように、まわりよりも軽い熱気を溜めた丸い袋が、飛び上がる力の源泉だ。まさに煙は高いところに上りたがるのだ。5つめの砂袋は「きっかけ」の一つである。たまたまそれが、その時にはきっかけになるめぐり合わせだったのだ。

もちろん、それがきっかけになるためには、それ以前に4個の砂袋が、地上に落とされていなければならない。また条件によっては、きっかけは6個目になることも、4個目だったこともあるだろう。一つ落とすごとに、少しずつ気球全体は浮力を増す。ただ、それは係留ロープの張力という、目に見えにくい事象にあらら割れるに過ぎない。そして、ある限界を超えたとき、その瞬間に浮上という劇的な出来事が起きるのである。

何か劇的な出来事を目撃したとき、その原因は何かを詮索しようとするのがわたし達の通性だ。しかし、わたし達が出来事の「真の原因=真因」を探ろうとするとき、わたし達の目はしばしば、わかりやすいきっかけを探すことになる。とくに、ことが企業の業績などになると、その「浮力」(競争力)の構造的変化は、外的にはなかなか見えにくい。一方でメディアも一般の人々も、「分かりやすい物語」を好む。だから、5つめの砂袋がV字回復のカギだった、という物語が流布しはじめる。『5の数字』の書いてある砂袋を探せ、と叫ぶ者まで出てくる。

わたし達の社会では、メディアは「知情意」のうち、「情」に訴えかける物語性を好む。理知に働きかける、多角的・構造的な分析と説明は、敬して遠ざけられがちだ。そのことが、わたし達が劇的事象の真の原因を探る力を、落としていることに多くの人は気づかない。

もう一つ、例を挙げよう。今度はトラブル事象の例だ。

仏教の創始者・釈尊は最晩年、旅で寄ったパーヴァー村で、チュンダという名の鍛冶屋の子が捧げた食べ物を食べて、重い食あたりになる。そしてほど遠からぬクシナガラの地で臨終を迎えることになる。伝説によると、師が重い病気になったと知ったチュンダは、沙羅双樹の下に横たわる尊師の前にいき、自分の捧げた食物が原因で死病を招いたことを深く後悔し、許しを請うた。しかし、釈尊はチュンダにこう答える。

「嘆くな、チュンダよ。わたしはお前の食物を食べたから、死ぬのではない。わたしは、この世に生まれてきたから、死ぬのだ。」

チュンダの食物は、きっかけでしかない。生あるものは、すべて死す。それが道理であると、釈尊は教える。つまり、釈尊の死の根本原因は、「生まれてきたこと」自体にあると、考えることができる。チュンダの捧げた食べ物は一説にはキノコ料理だったというが、詳細は不明である(托鉢僧は基本的に、もらった食べ物は好き嫌いをいわず、食べなければならない)。ただ、キノコ料理を食べるもの全てが死ぬ訳ではない。しかし、生まれてきたもので、死ななかった者はない。

(1) Aという事実があるとき、Xという事象が必ず起きる
(2) Bという事実があるとき、Xという事象が起きることがある

この二つを比べて、Xの真因はBだ、と断じるのはたしかに無理があろう。

とはいえ、変死事件があり、警察が呼ばれたとき、「原因はガイシャが生まれてきたことにあります」では刑事は納得しまい。被害者が高齢であった上に、傷んでいた食べ物を食べた。直接の死因は食中毒にある、と医師は鑑定し、食事を作ったものに疑いの目が向けられる・・

では、やはり食物が真因なのか。しかし釈尊は一人で旅していた訳ではないのだ。アーナンダほかの弟子を伴っていた。彼らはたぶん同じものを食べたが、死ななかったのだろう。ならば仏陀入滅の、真の原因は何か?

おちついて考えてみれば分かる。釈尊はすでに高齢だった(臨終の言葉に、「29歳で出家して以来50年間・・」という部分がある)。そして各地をめぐる遊説の旅。高齢というフラジャイルな内部環境に、疲れと傷んだ食べ物という外因が働きかけて、死に至る食中毒症状が引き起こされた。「高齢・疲れ」+「傷んだ食べ物」、という組み合わせが原因なのである。

わたし達は何かトラブル事象が起きたときに、その原因は「一つ」に特定できると考える。だが、多くのトラブルは、二つ以上の複数が同時に組み合わさることで、発生する。一つだけなら、発生しない。

右手と左手を打ち鳴らしたら、音が出る。右手だけでは、音は鳴らない。左手だけでも、ならない。ふたつの手が必要なのだ。このとき、「原因は右手ですか、左手ですか?」と問うのは愚かだ。

ながながと何の話をしているのかって? わたしはずっと「学び」について考えているのである。本や教師から知識を得るだけが「学び」ではない。自分が遭遇した出来事から、何かを「学ぶ」ことで、わたしたちは成長する。だが、事象を見たときに、その真の原因をきちんと把握しなかったら、正しく学べないだろう。5という数字の砂袋を無意味に探し回るだけになってしまう。

ところで、わたし達は「事象の原因を探る」ための方法論について、遺憾ながら十分な訓練を受けていない。あなたは高校や大学で、原因分析という授業を受け、試験を通りましたか? 少なくとも、わたしは受けていない。それどころか、まことに驚くべき事だが、そもそも21世紀の現代社会にあっても、原因分析にはまだきちんとした哲学的・科学的方法論が、十分確立していないというのが、最近のわたしの仮説である。

こういうと、抗議する人もたくさん出てきそうだ。安全工学にはRCAがあるじゃないか、信頼性工学のFTAはどうなのか、と。だが(賭けたっていいが)RCAやFTAが何の略号か知らない人が、世間の98%を占めるだろう。刑事や検察官なら、99.9%以上かもしれない。事故で専門家が呼ばれもせず、世間で普通に使われもしない技術は、社会的に確立しているとはいえない。血液型やDNA鑑定の技術なら誰でも知っている。だが原因分析の技術は、そうではない。そんなものはいらない、と多くの人は考えている。なぜなら、自分でできるからだ、と。

果たしてそうだろうか。もしそうなら、わたし達の社会は、事故や経験から学ぶ能力がとても高いはずである。では、最近わたし達を襲った大きな社会的災害や困難から、国民的な知見として何を共通に学んだのか。それはどの報告書のどこに明記されているのか? 経験から学ぶことは、万人に必要なスキルである。だが万人が身につけてつかえる方法論は、今のところ欠けていると、わたしはいいたい。そうでなければ、経済状況や経営問題について、世間ではなぜ、「浮上の原因は5つめの砂袋」のごとき表層的な分析や、「分かりやすい」だけの無責任な説明がまかり通っているのか。

熱気球の浮上も、釈尊の病没も、いずれも二つ以上の『原因』がかかわっている。熱気球の場合は、バルーンの空気による構造的な浮力に加えて、複数の重りの砂袋を捨てるという、きっかけの動作。釈尊の場合は、高齢と遊説による体力低下という構造的な不安定と、腐った食べ物の摂取という、いささか危ない(冒険的な)きっかけの行動。熱気の浮力や高齢はいずれも内部状態(内部環境)に関することだが、これは強風や酷暑といった外部環境であっても、同様なことが起きただろう。つまり、一般化すると、こう定式化できる:

「良好な環境」+「チャレンジ行動」→ 成功事象
「危険な環境」+「冒険的行動」  → トラブル事象
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いずれも、二つ以上が同時に起きることが、事象の発現には必要だった。それぞれ一つずつは必要条件だが、十分条件ではなかった。傷んだ食べ物をとる程度のあぶない(冒険的)行動の場合は、ふつう、システムの自己防御作用が発動して、正常に戻る。だが、内的環境の不安定な変化に、外的なインパクトが一つ以上加わることで、そのシステムは『レジリエンシー』を失う。

おシャカさんの話をしていたのに、ここで急に「システム」という言葉が出てきて驚いたかもしれないが、人間の身体は非常に精密なシステムである。長い進化の過程を経て、驚くほど精妙かつ安定な仕組みにできあがっている。動的(自発的に動く)なのに、平衡や免疫その他の多重防御装置がきちんと作動して、安定に存続し続ける。むろんレジリエンシーには限界があるので、たとえば誰かが銃弾を撃ち込むような問題行動をすれば、システムは動作を(単一の原因で)停止するだろう。だからそんなことが簡単に起きないように、人間は、社会という名の、もう一つ上のレイヤーのシステムを作って、さらに防御をはかっている。

おい、熱気球はシステムなのか、って? あれも、砂袋とバルブ(熱気を排出する)という、安定化制御のための仕組みをもった乗り物である。そして複雑な情報処理機能を持つ乗員が操作している。人間はこわがりだから、単純に見えるバルーンにだって、二重にも三重にも防御の手立てをセットしている。だから、もし熱気球に事故が起こったら、それは二つ、あるいは三つ以上の原因が重なったケースがほとんどのはずだ。それがシステム的なものの見方、システムズ・アプローチによる原因分析である。

そして複数ある理由のうち、自分たちがコントロール可能な要因をみつけ、そこに対策を講じる。わたし達がコントロールできる原因を、真因Root Causeとよぶ(これがRCA=Root Cause Analysisでの定義だ)。老齢はコントロールできない。食べ物はできる。だから食べ物について対策を考える。それも個別に毎回どうするかを考えるのではない。たとえば、若い弟子から先に毒味をしていくルールにするなど、システムとしての方策を講じるのである。

わたし達は機械的なものの見方になれているために、単一の原因を探してしまうことが多い。それが現代の原因分析の、一つの限界だ。しかし、世の中の少なからぬ物事は人間を含む系(システム)として動いている。もしも組織の中に『学び』の能力を根付かせたり、あるいは最近はやりの用語でいえば『教訓』(Lessons Learned、あるいはLessons & Learns = L&L)を活かしたかったりしたら、複数の原因の組み合わせを探るという思考の習慣(OS)を身につける必要がある。それが、リスク・マネジメントとかナレッジ・マネジメントといわれる活動の根本なのではないか。

現代の原因分析には、もう一つ弱点がある。それは確率的事象の原因論である。だが、例によって長くなりすぎた。この続きは、回を改めてまた書こう。

<関連エントリ>
 →「トラブル原因分析を、責任追及の場にしてはいけない」 (2014-11-09)
 →「なぜなぜ分析は、危険だ」 (2014-04-26)
by Tomoichi_Sato | 2016-06-15 05:52 | リスク・マネジメント | Comments(0)

わたしが花粉症の薬を飲まずにすむようになった、1日3分の簡単な習慣

今年は暖冬だったせいか、早くから花粉症がひどい、という声をよく聞く。さすがに4月に入ってピークは過ぎたと思うが、人によっては連休の頃までつらい思いをしている。わたしも例年そうだった。

ところで、今年に限って、わたしは1回も花粉症のアレルギー薬を飲んでいない。

昨年までは花粉症の季節が近づくと、耳鼻科医院にかかって薬をもらうのが常だった。わたしの場合、涙や鼻づまりもあるが、一番こまる症状は頭痛だった。だいたい昼頃からぼんやりと頭痛の予感が始まって、午後から夜まで続く。偏頭痛と違って、頭の深部ではなく表層に近いところが締め付けられるように痛むのだ。目も疲れる。おかげで半日、仕事にならなくなる。そうした症状は春だけでなく、秋にもアレルギー気味になる時期が短いけれどもあって、その時にも飲んでいた。薬箱を見ると何種類もためした跡が少しずつ残っている。エバステルとかエピナスチンとか。最後に飲んでいたのはフェキソフェナジンだったかな。あまり眠くならないのを探していたのだ。

今年、そんな薬を全く飲まずに過ごせているのは、1日わずか3分間の簡単な習慣のおかげだ。夜ねる前に、蒸しタオルで鼻を温めるのである。

わたしはこの方法を、整体師の先生から教わった。きっかけは昨年秋も深まった頃だった。海外出張から帰って今ひとつ体調が優れず、以前ぎっくり腰気味になった時に見てもらった野口整体の先生を、再び訪れたのだ。先生はちょっとわたしの背中や後ろ頭を見たり触ったりしてから、おもむろに「鼻が乾いているせいで、頭の血行が悪くなっていますね」という。え? 鼻が乾いてる? 「ええ。とくに左の頭の血行がとどこおっています。症状はそのせいです」

左頭っていったら、論理脳じゃないか! それで俺は数学が苦手なのか? いや、それは高校生の時からだし・・。ただ、右に比べて左の鼻が詰まりやすい傾向にあるのは事実だった。「どうしたらいいんでしょう?」

施術の後で、先生は言った。「寝る前に、蒸しタオルで鼻を温めてください。」それだけ? 「ええ。」

半信半疑だったが、ともあれ帰ってから、少しの間ためしてみた。しばらくは頭痛も出ず、楽だった。でも季節が過ぎたからかもしれない。冬の間は、とくに何もしなかった。そして1月も後半から、また周囲で敏感な人がアレルギーになりだした時期に、また寝る前に蒸しタオルで鼻を温めることを再開した。

蒸しタオルと言っても、まあ、おしぼりのようなものだ。ただ、普通の湯沸かし器の40℃くらいのお湯では、ぬるくてすぐに冷めてしまう。60℃くらいがいいようだが、お湯をいちいち沸かすのは面倒なので、わたしは電子レンジで1分前後チンすることにした。そして熱くなったタオルを、仰向けの顔の上にのせる。最初、鼻が乾いているというから、湯気が鼻腔を通るようにする必要があるのかと思ったが、鼻筋が温まって血行が良くなることが大事らしい。わずか3分。タオルを用意する手間をふくめても5分だ。

そして、最初はおっかなびっくり過ごしていたが、2月になり3月が過ぎても、いつもの頭痛がほとんど全くないので、これは本物だなと感じるようになった。外を歩くときはマスクをしている。花粉の多い日は眼鏡もかけて歩いている。くしゃみや涙もまあ、出るけれど、それほどひどくはない。でも頭痛がないことがわたしには一番ありがたい。

今年は花粉がひどいので、強い薬を飲んでいる、という人に会うと、最近はこの話をするようになった。もちろん、アレルギーは人それぞれだから、症状がこれでおさまるかどうかは分からない。ただ、たとえ20人に一人でも、それで楽になるのだったら、伝える価値はある。かりに効かなくても、ただの蒸しタオルだから、別に害にはなるまい。そう思うから、計画にもマネジメントにも全然関係ないけれど、ここに書くことにした。

ついでにいうと、(関係があるかどうか分からないが)整体師の先生のアドバイスがもう一つあった。「冬の間は水を飲みなさい」というのだ。え、水? 寒いのに生水ですか?
「そうです。水分を補充するんです」
水のかわりにお茶とか、ジュースとかじゃダメですか?
「ダメです。それじゃ乾きはおさまらない。」
あの、ビールとかは? わたしは希望を込めてたずねた。
「お酒はかえって身体が乾きます。だからアルコール類を飲むときは、必ず一緒に水も飲んでください」

これも、半信半疑ながら冬の間、実行した。毎日、机の上にはミネラルウォーターのペットボトルを置いた。今でもそうしている。

まだ花粉症に悩む方がおられたら、1週間くらい蒸しタオル法を試してみることをおすすめしたい。もちろん、これは一種の民間療法である。有効だという保証は何もない。だからat your own riskでトライしてください、と念のために書いておこう。それでも、たとえ20人に1人、いや2千人に一人でも、これで楽になる人が出るなら幸いである。わたしはこれを無償で書いている。だから、たった一人でも役に立ったという読者がいるなら、このサイトには十分に費用対効果がでるのだ。
by Tomoichi_Sato | 2016-04-07 22:16 | リスク・マネジメント | Comments(2)

トラブル原因分析を、責任追及の場にしてはいけない

新製品の出荷を2ヶ月後に控え、新しい製造ラインの試運転前調整に入っていたある日、工務部門の担当者であるあなたのところに、ライン設置工事を請け負っていたエンジニアリング会社のプロマネから、とんでもない知らせが舞い込んできた。その会社の技術者が機械の操作ミスをしたらしく、製造機械の一部が破損してしまったというのだ。さっそく現場に飛んでいって様子を見てみる。残念ながら機械カバーがねじ曲がり、内部もダメージを受けている。幸い、人がけがをするようなタイプの破損ではないので、労働災害はなかったが、明らかに修理・再製作が必要だ。

エンジ会社のプロマネは装置のメーカー技術者を呼んで調べさせたが、いったんラインから取り外して、自社の工場に持ち帰る必要があるという。まずいことに、その装置はラインの中核近くにあり、周囲の機械設備をとりはずさないと動かせない。あなたは搬出と再製作にどれくらい時間がかかりそうかたずねた。業者の答えは「早くて1ヶ月以上かかります」だった。

現在すでに、出荷までの作業スケジュールの余裕はゼロだ。ということは、2ヶ月後の新製品の出荷は絶対に間に合わなくなる。この新製品は、重要顧客に部品として納める予定だ。だとすると、その顧客の生産計画自体に影響を与えることになる。あなたは、自分が工場長と営業担当常務につきしたがって、顧客に頭を下げにいくシーンを想像する。いや、もしかすると社長が直々に謝りに行かなければならないかもしれない。新製品の出荷が1ヶ月以上遅れることで、顧客に与える損失は何十億円にもなるだろう。

それにしても、なぜこんなトラブルが生じたのか? 操作ミスが原因としても、単純な操作ミスですぐ機械が破損するようでは、設計自体に問題がある。調べさせたところ、どうやら原因は、ある操作に伴うインターロック機構が、設計書通りに作動しなかったためとわかった。制御系は、別の自動制御メーカーが担当している。その制御システムの仕様書には、当該箇所にもインターロックが明記されている。にもかかわらず、制御システムの出荷前立会検査(FAT)で、そのテストが漏れてしまっていたらしい。そのわずかなテストの漏れが、何十億もの被害をもたらしたのだ・・

さて、この問題の責任は誰にあるのか? 工務の製造ライン担当者であるあなたか、詳細設計と工事を請け負ったエンジ会社のプロマネか、それとも誤操作をした担当者か、制御システムを実装した自動制御メーカーか? あるいは、あなたの上司である工務部長か工場長、いや、最終的には社長にあるのか? そしてあなたの会社は、この問題に対して、どう責任をとり、何をするべきなのだろうか。

——先に答えをいってしまおう。あなたの会社が真っ先になすべきことは、ただ一つ。できるだけ早く顧客に製品を出荷できる策を講じることだ。それは製造ラインの復旧・立ち上げを最大限、急ぐことかもしれないし、あるいは新製品に代わる代替製品を、どうにかして提供することかもしれない。その次にやるべきことは、このトラブルの根本原因(Root Cause)を分析して、再発防止策を明らかにすることだ。

トラブルが生じたとき、その影響の波及を極力抑える手立てを、「避難処置」(ないし「応急処置」)という。そしてその原因分析から得られた対策を「再発防止策」とよぶ。トラブルが生じたら、第一に「避難処置」、第二に「原因分析」を行わなくてはいけない。

そして、多くの人が間違うのが、この「原因分析」の段階なのである。ここで、「このトラブルは誰の責任だ?」という問いの立て方をするから、間違うのだ。

トラブルの原因分析には、じつは3種類ある。
1.「責任者の処罰」を行うためのもの
2.「賠償責任」を問うためのもの
3.「再発防止」を目的とするもの

この三つは、じつはまったく異なる作業である。「責任者の処罰」のための原因分析は、刑事事件ならば警察の仕事である。「賠償責任」の原因分析なら、弁護士の仕事だ。

あなたが技術者としてやるべきなのは、「再発防止」が主目的でなければならない。もし、責任者の究明が先行すると、どうなるか。その場合は、事実隠蔽が行われかねず、真の再発防止に役立たない事もありうる。 だから、「誰の責任?」という問いの立て方自体が、危険なのである。大きなトラブルの場合、原因を「個人の意識・資質」に求めず、フェールセーフを含む「システム」の綻びと考えて改善するべきなのだ。 あなたのケースでは、たぶんそれは、工場立会検査のあり方、あるいは試運転調整手順の仕方の改善、ということになりそうだが。

「誰の責任?」という問いが不毛なのは、じつは、「責任」という言葉が多義語だからである。以前も書いたことだが、日本語の「責任」の意味するところには、英語で言うLiability, Responsibility, Accountabilityの三つの語義が混じっている。Liabilityは法的責任(主に賠償責任)、Responsibilityは最後まで任務を完遂する実行責任、そしてAccountabilityは出処進退を伴う説明責任を意味する。ところが「説明責任」というのは(苦心の訳語だったろうと思うのだが)、最近ではいつのまにか意味するところが矮小化されて、「説明という行為をする責任」という風に使われることが多い。

Liability(賠償責任)についていえば、新製品の出荷が遅れることで顧客が被るかもしれない数十億円を、あなたの会社は、工事を請け負ったエンジ会社に請求できるだろうか。契約の内容にもよるが、請負契約の常識から考えると、ふつう「間接損害」までは請負側は責を負えない。第一、そんな金額は工事請負額自体を超えてしまうだろう。だから、かわりに納期遅延のペナルティ条項(LD)が一定比率で課される、というのが通常のケースだ。

もちろん、請負でやっている以上、機械の再製作も、周囲の撤去と修復もすべて、エンジ会社が、追加費用なしでやらなければならないだろう。これらは「直接損害」であり、彼らに原状回復の「実行責任」がある。自動制御メーカーの選定も、出荷前検査の立ち会いも、そして問題の誤操作も、彼らが主体となって行ったことだ。言い訳の余地はあるまい。

では、あなたの会社と顧客との関係ではどうか? これも顧客との販売契約内容によるが、あなたの会社は顧客に対する数十億ものLiability(賠償責任)はないだろうと思われる。あなたの会社だって、間接損害を青天井で受けるような契約は交わすまい。

この件では、ただ、「道義上の責任」は生じるし、信用失墜はまぬがれまい。顧客から見れば、そのエンジ会社を選んで任せたのは、あなたの会社である。事態の大きさから見て、おそらくあなた個人が頭を下げてすむ次元ではない。役員か社長レベルがAccountableであろう。そして、取引継続のためには、「できる限り早期の製品納入」と「再発防止策」を約束せざるを得ないだろう。だからこうして、最初の答えに戻ってくるのである。ちなみにあなたの会社で「責任者の処罰」が行われ、社長が辞任しようが工場長が左遷されようが、それは顧客にとっては何も関係がないことだ。トラブルの迷惑が社会にかかった場合も、株主に迷惑がかかった場合も同じ。社会や株主が求めるのは、まず「避難処置」、つぎに「再発防止策」の実行である。責任者の処罰は、やるとしても、その後だ。

もう一度繰り返す。トラブルが生じたとき、まず「誰の責任か?」と考えたら、それは問題設定自体が間違っている。「避難処置」と「再発防止策」は何か、と問わなくてはならない。

このような間違った問いかけは、トラブルは誰か個人の責任である、という考え方にたっている。逆に言えば、トラブルなく成功した場合の功績も、誰か個人に帰する、という発想だ(前回記事「Key Success Factors - 成功理由を説明する10の方法」参照のこと)。そうした発想方法は、組織的・システム的なリスク対策と、改善の契機をうばってしまうだろう。

この話は、ここで終わりにしてもいい。だが、あと一つだけ指摘しておきたいことがある。

それは、ビジネスにおける政治的な動きが強い状況だと、「誰の責任?」という問いかけがすぐに生まれやすい、ということだ。ここでいう「ビジネスにおける政治的な動き」とは、ビジネスの経済合理性よりも、個人や徒党の利害・権力争いを優先させる態度、をいう。経済的に合理性があるのはAという決断でも、自分(たち)に不都合ならばBを優先させる、という態度のことだ。『政治的』といっても、別段、国レベルの政策論争やら支持政党の有無などとは、まったく関係がないことに注意してほしい。

組織の中の政治的な動き、権力闘争がはげしい場合には、何かトラブルが生じた際に、すぐさま「誰それの責任だ」という攻撃合戦になる。そうして「敵の首を取る」ことが最大課題になる。再発防止策は、というと、「無能な奴を権力のある地位から追い出したことで、問題の再発は防止される」となってしまう。わたしはこれは、非常に危険なことだと思う。

もちろん人間は社会的存在だから、政治的な態度は誰にも大なり小なり備わっている。しかし、それが過度にはたらきすぎると、システム的なものの見方や、システム改善の動きをつぶしてしまう。誰かの「首を取った」ら、それで問題解決となってしまう。そういう組織では、「失敗からの学び」ができなくなってしまう。そして結局は、環境変化に適応できぬまま、沈没への道をたどることになる。

成功にせよ失敗にせよ、過度に誰か個人のせいに帰するのは危険な態度である。だからトラブル原因分析を、個人の責任追及の場にしてはいけないのである。


<関連エントリ>
 →「『責任』には三つの意味がある」 (2011-06-06)
 →「Key Success Factors - 成功理由を説明する10の方法」 (2014-11-03)
by Tomoichi_Sato | 2014-11-09 19:47 | リスク・マネジメント | Comments(0)

なぜなぜ分析は、危険だ

「なぜなぜ分析」は、品質管理や労働安全管理などの分野で、よく用いられる手法だ。発生した問題事象の根本原因を探るために、「なぜ?」「なぜ?」とくりかえして掘り下げていく。この問いかけを“5回はくりかえせ”と、よく指導しているため、別名「なぜなぜ5回」とも呼ばれる。元々、トヨタが発祥の地であり、トヨタ生産方式の普及とともに、他の業界や分野でも使われるようになった。

図は、トヨタ生産方式の生みの親である大野耐一氏の著書から一例をとって、図示したものだ。工場内のある生産機械が故障してとまったとき、「なぜ機械は止まったか?」の問いに、「オーバーロードがかかって、ヒューズが切れたからだ」と答えただけでは、じゃあヒューズを交換して再起動すればいい、という答えしか出てこない。

しかし、なぜオーバーロードがかかったのか?→
 (2)軸受部の潤滑が十分でないからだ、とほりさげ、
さらに
 (3)潤滑ポンプが十分組み上げていない→
 (4)ポンプの軸が摩耗してガタガタになっている→
 (5)ろ過器がついていないので切り子が潤滑油に入った。
まで徹底していくと、問題の真因がわかる。そこで、ルーブオイル循環系統にフィルターを設置すれば、機械がたびたびストップするトラブルを根治することができる。これが、大野耐一氏のいう、事実にもとづく科学的態度の威力である。

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このように「なぜなぜ分析」は強力なため、最近では多くの企業で使われているばかりか、たとえば部品サプライヤーなど外部企業に対しても、納入部品に品質問題が発生した際に「なぜなぜ5回」のレポートを義務づけるところがあるときく。

ところが、この「なぜなぜ5回」、使い方を間違えると大変危険だ、という話をしたい。たとえば、次のような例(これ自体は架空の例だが)を考えてみよう:

ある企業で、製品の中の一部品が摩耗・破損しやすい、とのクレームが複数の顧客から入った。たしかに、送り返された部品を見ると摩耗している。しかし、設計図面を確認し、設計者に質問しても、その部位がとくに摩耗しやすい理由が分からない。ただ、さらに調べていくと、ユーザ向けの運転保守マニュアルにある、その部品周囲の取付図と手順が、現物と異なっており、間違っていることが判明した。ユーザはこのマニュアルをみて保守点検・再組立したのだが、それが結果として摩耗を引き起こしたわけだ。

無論、マニュアルは修正しなければならない。しかし、なぜこのようなミスが起こったのか? そこで、なぜなぜ5回が行われることになった。以下は、そのサマリーである。

(1) なぜ部品が磨耗しやすいのか? → ユーザの保守点検時に取り付け順序を間違えるからだ
(2) なぜユーザは取り付け順序を間違えるのか? → 運転保守マニュアルの記述が間違っているからだ
(3) なぜ運転保守マニュアルの記述が間違っているのか? → 設計担当者が別製品から単にコピペしたからだ
(4) なぜ別製品からのコピペが修正されていなかったのか? → 設計担当者が見落としたからだ
(5) なぜ設計担当者は見落としたのか? → 多忙で睡眠不足が続き、注意力が落ちていたからだ

これが真因であるとされ、「担当者はきちんと休息をとり、当該部門の上司は部下の月間残業時間が上限を超えていないか監視するよう、注意喚起」が行われた・・。


はっきりいって、このような「なぜなぜ分析」は、やるだけムダである。なぜなら、前提が間違っているからだ。

どこが間違っているのか? 上の例の(4)から(5)を見直してほしい。ここには、「担当者がミスをして低品質のマニュアルが出荷された」→「担当者がミスをしないよう、注意力のレベルを上げる」という論理がある。つまり、この“問題は個人のミスに起因する”という認識なのだ。それでは、担当者が休息をとり十分睡眠をとっていれば、ミスの発生は完全に防げるのか? 

そんなことはあるまい。絶対にミスをしない人間などいないからだ。人間は、どんなに主観的に注意し努力しても、必ずミスをおかす存在である。これが、品質管理の基本前提なのだ。だから、担当者一個人のミスが、そのまま製品の欠陥につながり、出荷されてしまうとしたら、そのシステム自体がおかしいのだ。制度設計が間違っているのかもしれないし、運用に無理があるのかもしれない。(念のために書いておくが、マニュアルは「製品」の立派な一部である)

ともあれ、(4)から(5)で問われるべきは、「なぜ一担当者のミスがそのまま顧客に出て行ってしまったのか?」でなければならない。ノーチェックだったのかもしれない。あるいは、一応チェック体制があるのだが、メクラ判だったのかもしれない。

技術者なら知っていると思うが、たいていの設計図面には、「担当・検討・承認」の捺印欄があるものである。ではなぜ、こんな二重・三重のレビュー体制を敷いているのか。その答えは、数学的には単純である。人がミスをする存在だとしても、二人・三人が同時に同じミスをする確率はずっと小さくなるからだ。かりに設計者が10回に1回ミスをするとしても、二重にチェックすれば不良の発生確率は100分の1に、三重にチェックすれば1000分の1になる。もし、ミスの発生が100回に1回ならば、三重にチェックすれば設計不良は百万分の一になる理屈である。

設計図面における、こうした「担当・検討・承認」の習慣は、かつて日本が欧米から先進技術を輸入した頃に、一緒に入ってきたものではないかとわたしは想像している。昔のお城の建築図には、担当・検討・承認の判子が並んでいるのを見たことがないからだ。あるいは、“欧米人特有の性悪説によるものだ”と考える人もいるかもしれない。だが、それは違うと思う。欧米は一足先に工業化社会に入っていて、そこで発生する設計不良は、マニュファクチュア(手工業)社会よりもはるかに影響が大きかったからだろう。逆に言うと、もし多重チェックを怠る企業があるなら、その会社はいまだに「マニュファクチュアと職人芸の時代」の頭のまま、ビジネスをやっていることになるだろう。

ここでは、設計技術者のミスの例をひいたが、これが製造マンのミスでも、物流や営業のミスでもまったく同じである。一個人、一担当者のミスが、直接、不良として顧客に損害を与えることは、極力防げるよう、システムをつくらなければならない。くりかえすが、人間はミスをおかす存在だからである。そして、「不良が出たら、やった個人の責任」という前提の元では、なぜなぜ分析など、益よりも害が大きいだろう。下手をすれば、むしろミスや不良を隠す方向に動きかねない。

もっとも、そんなことを言われたって、自分は会社のシステムを設計したり直したりできる立場ではないし、「なぜなぜ5回」は会社のルールで決められていて、自分は命じられたことをやるしかない、と反論される方もおられるかもしれない。もっともなことである。その場合はせめて、真因追求の段階において、なるべくシステムの側に視線を向けられるように、因果の鎖をつないでいくべきだろう。

たとえば上記の例でいえば、(4)のつづきとして、

(4) なぜ運転保守マニュアルは正しく修正されなかったのか? → 設計担当者が多忙で睡眠不足が続き、注意力が落ちていたからだ
(5) なぜ設計担当者は寝る時間もないほど多忙だったのか? → 製品が出荷期限ギリギリに完成したからだ

という風に展開できるなら、話は変わるはずだ。少なくとも対策は「担当者の休息・睡眠」ではなく、「納期に余裕を持った製品の完成」になる。すなわちリードタイムの短縮であり、これは設計・購買・製造のシステムの問題だからである。もちろん、その対策は決して簡単ではあるまい。設計陣が手薄なのは、ギリギリまで人減らしした結果かもしれないし、あるいは逆に、急拡大しすぎて人が足りないのかもしれない。

まあ、「もっと実現可能な対策課題を持ってこい」とあしらわれて、やはり元の(5)みたいなものに変えられる可能性も、あるかもしれない。その場合は結局、なぜなぜ分析など、セレモニーにすぎぬ、ということになる。誤解してほしくないのだが、わたしは決して、「なぜなぜ分析」自体に反対しているのではない。それは良く切れるナイフのようなもので、正しく使えば、役に立つ。しかし、「人間はミスをおかす存在である」「品質は個人レベルの努力ではなくシステムで担保する」という前提がない組織で、ナイフを振り回したって、弱い個人が傷つくだけである。


by Tomoichi_Sato | 2014-04-26 17:01 | リスク・マネジメント | Comments(9)

アメリカン航空に乗るおじさんの日記 - サービス業の本質とリスクについて

ロス・アンジェルス空港についたのは朝の10時過ぎだった。デンバーへの接続便は午後3時前の予定だ。待ち時間が数時間あるが、接続ではありがちなことだ。時間を過ごすため、わたしは同僚のFさんと一緒にアメリカン航空のラウンジに入った。飲み物をとって椅子にくつろぎ、まだ時差ボケの頭でとろとろと過ごしていた。

午後になり、飲み物をもう一回取りに行くついでに、大型ディスプレイをチェックした。発着便の予定時刻とゲート番号が表示されている。ここのラウンジでは静けさを守るため、一々のアナウンスはしていない。最近はこういう所が多い。ところで、デンバー便を見て驚いた。On TimeとかDelayedとかステータスを表示する欄に、赤い文字で"CANCELLED"とあるではないか。

あわててFさんと一緒にカウンターに行き、担当者にたずねる。キャンセルとあるが、どういうことか。相手は(白人の中年女性だったが)、"Yes, it was cancelled."と平然としている。理由は"Mechanical"だという。機械トラブルだ。あのね、そういうことくらいはアナウンスしてくれなきゃ、こまるじゃないか。相手はごく普通な調子で、つまりとくに恐縮したふうでもなく謝るでもなく、代わりの便を見つけましょう、と端末を操作する。あいにく、今日の夜の便はもう満席です。でもUS Airwaysになら、夕刻の便で2席空いています。

(これから先、航空会社の固有名詞をいくつか出すが、それはどこかの会社をホメたりクサしたりする目的ではない。ここでは、米国でたまたま経験した、サービス業の本質について書きたいのである)

アメリカン航空はUS Airwaysと合併することを発表している。それで、同社の便をまず探してくれたらしい。それはいいけれど、予約までは自分はできない。3/31までは別会社だから。でも、(と、ここで3m横のカウンターの別の女性をさして)彼女はUS Airwaysの社員で、彼女の端末からなら予約できるから、あとはあそこのカウンターで話してくれ、という。顧客サービスのために、合併前だが、US Airwaysの係員をこのアメリカン航空のラウンジにも置いているのです、サンキュー。

なぜ彼女は自分でやってくれないで、すぐ隣りにいる別の担当者にわざわざ客を回すのか。べつに、不親切な性格だからではあるまい。米国では、仕事には必ず職務記述書Job Descriptionという書類がついてまわる。職務記述書には、その仕事の権限と責任範囲とが明確に、事細かく列挙されている。Work scopeと呼ぶ。雇用契約と給料は、そのWork scopeにもとづいて決められている。たとえ顧客サービスとか親切心とかであっても、自分の責任範囲を超えたことをすると、処罰される可能性が高い。そういう風に、米国のビジネス文化はできあがっているのだ。

われわれは言われたとおり3mほど横に移動して、US Airwaysの女性係員にもう一度事情を話した。せめて話しくらい通してくれよな。ともあれ相手はてきぱきと事務的に端末を操作して、夕方の便はフェニックス乗り換えで到着は夜12時近くなるが、かまわないかとたずねてくる。我々は明日、デンバーの企業と打合せがあるのだ。夜中着でもしかたないから、とってくれ。

彼女は、チェックインした荷物がないか聞いた。わたしは全部機内持ち込みだが、Fさんはスーツケースを1個、預けていた。本来であれば、午後のアメリカン航空便に乗せられるはずで、今はこのロス・アンジェルス空港のどこかにあるのだろう。では、その荷物もUS Airwaysのフェニックス便に乗せてもらう必要がある。Baggage Change Orderを発行する、と彼女は言った。Change Orderとは変更指示で、我々の業界では顧客から追加費用をもらうために耳慣れた用語だった。でも、物流ハンドリングでも、やはり変更オーダーと呼ぶのだな。へんなところで感心した。

さてGentlemenよ、ここはアメリカン航空の第4ターミナルである。貴兄らはUS Airwaysのある第1ターミナルに移動してもらわなければならない。But, don't worry. 空港内シャトルを使えば、もう一度セキュリティ検査を通る必要はない。

ご存知の通り、空港は客が自由に出入りできる一般エリアと、飛行機のゲートに通じるセキュリティエリアに分かれている。他のターミナル建物のゲートにいくためには、一度、一般エリアにでて移動してから、再びセキュリティチェックを通る必要がある。米国では9.11事件以降、「愛国法」の施行によりチェックがかなり厳しく、靴も上着もベルトも脱ぎポケットの中身も全部だして、へんてこな機械の中で「手を挙げろ」の姿勢でスキャンを受けなければならない。とうぜん、どこも長蛇の列である。それを再通過せずにすむのはありがたい。わたし達は言われた場所にいって、シャトルバスに乗り込んだ。滑走路と同じ場内を走るバスである。

ところが、そのシャトルバスは、少し走り出してから、停車したままになった。5分たち、10分たっても、動き出す気配はない。前にも車が何台も並んでとまっている。運転手は無線で誰かと大声でスペイン語で怒鳴りあっている。米国では、単純労働者など下積みの仕事は、いわゆるヒスパニック系の人が多い。だから仕事の会話の多くはスペイン語で行われる。何かトラブルがあって、通常のルートが止められているらしい。間に合うのかな、と心配になった。乗り合わせた別の客もUS Airwaysのターミナルにいくという。フェニックス便だというから、きっと同じ運命にあったのだろう。しかし、彼女は何故か平然としている。「フェニックス便も遅れているって聞いたから。」

業を煮やしたバスの運転手は、かなりの遠回りをして、とにかく我々を隣のターミナルに運んでくれた。奇妙な非常階段をあがって、裏口からゲートにたどり着く。ところが、せっかくたどり着いたら、申し訳ないけれどゲートを変更するから移ってくれとアナウンスがある。飛行機が遅延した時に、よく行われることだ。すでに表示板にもDelayedとある。

夜6時過ぎに出発するはずのUS Airways便が、搭乗案内を開始したのは8時を過ぎてからだった。しかし、こんなに遅れてはフェニックスで乗継できないのではないか? ゲートの係員(これも女性)にたずねると、うん、たしかにもう無理かもしれない、という。ど、どうするのだ? 彼女は、フェニックスに夜遅くついてもホテルはないと思う、明日の朝10時のデンバー便に空きがあるから、今夜はHotel Voucher(利用券)を出してやろう、という。つまり、このロス・アンジェルス空港内のホテルに泊まれということだ。でも、預けたバゲージは? -それはもうtoo lateだから、明日、デンバーで拾ってくれ、サンキュー。

ホテルについたのは9時過ぎである。二人とも疲れきっていたから、簡単な夕食を食べてすぐに眠った。

翌朝、またセキュリティの列を通ってUS Airwaysのゲートにいく。10時のデンバー便を待っていたら、何と! 9時40分になってから、「この便はキャンセルされました」とアナウンスがある。・・神はまだこの上、試練を与え給うのか。カウンターの係員の女性は、居並ぶ怒った乗客に小さな紙切れを渡していく。紙切れには、無料通話のコールセンターの番号が書いてある。ここに電話して、代わりの便を探してくれ、という。

何たる不親切か、と一瞬腹が立った。が、考えてみるとある意味、合理的な対応ではある。客は100人以上いる。ゲートの端末は2台程度だ。これでは待つだけで何時間もかかるだろう。全米相手の予約センターの方がずっと係員は多い。まわりを見渡すとみんな携帯電話にかじりついている。しかたなく無骨なアメリカの公衆電話をみつけて、予約センターを呼び出す。そして、騒がしく聞き取りにくい環境の中、20分以上の押し問答をへて、ようやく午後3時のUnited Airlineの便を予約してくれた。わたし達がその便でデンバーについたのは夕方の6時だった。ロス・アンジェルスからデンバーまで、都合、30時間以上かかった訳だ。

デンバーの空港ビルは新しくて美しい。そして、とても幸いな事に、Fさんの荷物はきちんと見つかった。見つけるまでに、アメリカン航空とUS Airwaysとユナイテッド航空と3箇所をまわらなければいけなかったが、とにかくちゃんとあったのだ。

ホテルに向かうタクシーの中で、つくづく思った。本当にひどい遅延だった。打合せ相手の企業にも迷惑をかけた。しかし、どの航空会社のどの係員も、自分がするべきことだけはきちんと果たした。けっしてにこやかでもない。謝りもしない。英語は早口で、態度はがさつで、施設はしばしば古くて汚れている。しかしシステムができあがっており、それはどれも機能するのだ。ファンクショナルであること、これが第一優先され、そして途中のプロセスや人の「気持ち」はともあれ、結果だけはきちんと出る。わたしは数多くの先進国・新興国を歩いてきたが、米国のこの点だけは尊敬していいと思っている。

航空産業はサービス業である。サービス業というのは、つらい仕事だ。飛行機は、時間通りに飛んで当たり前。荷物は出てきて当たり前。その「当たり前」の期待から外れた時だけは、ひどく文句を言われる。とくに航空産業がむずかしいのは、天候という変わりやすい、予測の難しい外部要因に直接、左右されることだ。つまり、リスクの高いサービス業なのである。

飛行機のリスクというと、普通の人はみな、墜落事故を思うだろう。マレーシア航空の便がミステリアスな失踪をとげた後だから、なおさらだ。しかし、航空産業の本当のリスクは、悪天候や機材のちょっとした故障にある。「稀に起こる危機」ではなく「ありふれたトラブル」の方が問題なのだ。なぜなら、飛行機というのは多数の便が接続し合いながら、全体で巨大なネットワーク・システムをつくっている。どこか一か所でトラブルが起きると、あっというまに遅延が伝播していくのだ。

わたしは、航空会社のサービスの質を決めるのは、第一に、その会社が作り上げた「システム」の信頼性であり、第二に、地上職員の質であると思う。便が故障なく当たり前に飛ぶこと、預けた荷物がちゃんと目的地で見つかること。それが最低限の条件である。だが、リスクの高いサービス業では、その当たり前がときどき働かなくなる。そのときに、地上職員がいかに機転を利かせることができるか。それが、顧客から見た重要な評価ファクターなのである。いったん飛行機に乗り込んでしまえば、あとは食って寝るだけだ。機内食が美味しいかとか、アテンダントが美人かどうかなどというのは、本当に順位の低い評価項目なのだ。だが、システムとかリスクとかをよく理解していない人は、サービス業というのを平常の接客レベルだけで判断しがちである。

あれはエル・パソの空港だったろうか。10年以上前のことだが、悪天候のために乗っていた便が緊急着陸してしまった。空港建物の中で、わたしは、他の乗客20人ほどと一緒に、目的地にいく次の便のゲートに急いだ。しかしあいにく、次の便には空席が10席しかないことがわかった。ゲート前の、恰幅のいい中年女性の係員は、われわれ20人の乗客から、10人をどういう基準で選ぶのか。わたしは幸いにも、国際便への乗り継ぎがあるという理由で乗せてもらえることになった。他にも乗継便のある客を優先した。

あとは? わたしは彼女の采配に注目した。とても難しい判断である。全員に権利があるのだ。彼女は、大量の機内持ち込み荷物をもつ男性客たちを退けて、スペースの効率を考えながら乗客を瞬時に選んでいった。はずされた乗客は文句を言ったが、彼女は決してゆるがない。わたしは内心、舌を巻いた。この時の航空会社はContinentalだったが、機体も古く、食事もたいしたことのない同社が、全米の顧客満足度第一位に当時なっていた理由を、わたしは心底納得したのである。

<関連エントリ>
 →「JALに乗るおじさんの日記」 (2010/02/27)
 →「休めない人々」 (2011/03/12 - あの3.11の翌日に書いたエントリです)
by Tomoichi_Sato | 2014-03-30 22:18 | リスク・マネジメント | Comments(1)

『ポジティブなリスク』の正体をさぐる

リスクという言葉は、今日、非常に広く使われているが、じつはかなり多義的な概念である。そのため、「リスク」について人と話すとき、同じことをしゃべっているつもりで、けっこう理解がずれていることがある。「リスク学」ないし「リスク・マネジメント学」はまだ発展途上の学問で、あらゆる分野で共通した用語定義は、まだ確立していない。

しかし実務の世界では、今やリスクの話題を避けて通れない。リスク・マネジメントをコンサルティングの仕事にしている人たちも大勢いるし、資格認定制度も出現してきた(それも複数ある)。そしてプロフェッショナルを任ずる人たちは、たいがい“自分の流儀が普遍的に正しい”と主張したがる。だから、リスクの話を聴いた人は、ふうん、そんなものか、と理解する。とうぜん、誰から最初に話を聞いたかで、同じ会社でも違うリスク概念が共存することになる。その結果、「リスクについて語ること自体がリスキー」な状態になると、以前このサイトでも書いたとおりだ。

今回は、その中でも、最近はやりの「プラスのリスク」「ポジティブ・リスク」について論じてみよう。リスクというのは、結果に対するネガティブな可能性を言う、というのが普通の理解である。では、ポジティブなリスクとは何を意味するのか? タバコの火の消し忘れで火事が起きる、というのが普通のリスクだが、タバコの火の不始末のおかげで家が立派になる、なんて可能性があるというのだろうか?

この話を理解するには、“リスクの歴史”を考えてみなければならない。時計を少し巻き戻す。今から約20年前の1995年、阪神淡路大震災が日本を襲った。恐ろしい規模の災害は、日本経済にまだ多少は残っていたバブルの余熱を、完全に消し去るほどインパクトがあった。神戸を中心に、大企業も中小企業も被害にあった。このとき注目を集めるようになったキーワードが、「危機管理」だった。今ならば、BCP(事業継続計画)とかレジリエンシーとか呼ぶだろうが、当時は危機という言葉がビビッドだったのだ。

危機管理という用語が、しだいに「リスク・マネジメント」というカタカナ言葉に置きかわっていくのは、2000年頃からだろうか。なにせ、四文字熟語=オジンくさい、外来語=カッコいい、という淘汰の法則は、われらが文明開化以来、150年間を貫く潮流である。これは当然の流れだ。

ところで'90年代の後半、海外のリスク研究の主流は、安全・環境・医療・防災などの分野であった(Health Safegy & Environmentの頭文字をとって、HSEと略すことも多い)。こうしたHSEの分野では、基本的にリスクはネガティブ・リスクのみである。たとえば、1999年の安全に関する国際規格「ISO/IEC Guide 51:1999」では、リスクとは

 「危害の発生確率と危害のひどさの組合せ」

と定義されている。

ところが、2000年ぐらいを境目に、リスク・マネジメントの世界に、金融工学の影響が大きく及ぶようになる。2000年と言えば米国ではドットコム・バブルの時代である。そして企業買収がビジネスの花形のようになっていた。

金融の世界でのリスク概念は、安全・環境・医学などの分野とはかなり違う。金融では、原則として「リスク」と「リターン」が、ワンセットの概念になっている。たとえば、株に投資した場合を考えよう。株には値上がりの可能性も、値下がりの可能性もある。もともと、完全市場では商品価格はランダム・ウォークする、というのが経済学の理論だ。そのランダム・ウォークの程度の激しさ、ばらつきの強さを、リスクと考える。だから、暴落で手ひどい目にあうのもリスクだが、値上がりでウハウハ、というのもリスクなのである。

金融工学の影響は、経営学やビジネス論の分野にも大きく及んだ。この流れの中で、「リスクにはプラスとマイナスの両面がある」という思想が広まる。もう少し正確に言うと、「リスクとは不確実性のことであって、それゆえプラスにもマイナスにもばらつく」、となる。「だからマイナス・リスク(脅威)は避けて、プラスのリスク(好機)はつかめ」というような指針が出てくる。2009年に制定された、ISO 31000:2009の「リスク・マネジメント-原則と指針」では、

 「目的に対する不確かさの影響」

がリスクの定義とされる。明らかに、プラスもマイナスも含む書き方だ。同じISOの標準規格の間でも、10年間の間に、ずいぶん違ってきたことが分かるだろう。

リスクについての二つの態度を区別するために、本サイトでは、「リスクにはプラスもマイナスもある」と考える立場を『対称型リスク』概念とよび、「リスクはマイナスのみ」と考える立場を『非対称型リスク』概念と呼ぶことにしよう(「両側リスク」と「片側リスク」と呼ぶ人もいる)。金融分野では対称型、健康・安全などHSE分野は、非対称型でものを考える傾向が強い。

さて、ここから先はわたし個人の意見であるが、生産マネジメントやプロジェクト・マネジメントでは、どちらの立場で考えるべきなのか。ISO 31000の方が「新しい」から、あるいはISO/IEC Guide 51などはもう古くて「時代遅れ」だから、対称型をとるべきと単純に考える論者もいる。だが、ちょっと待ってほしい。両者の違いは、単なる思潮の新旧だけなのだろうか。

図を見てほしい。いま、仕事に関する何らかの成果指標に注目しているとする。速さでも、生産性でも、リードタイムでもいいだろう。これは、仕事に内在する問題や外乱のために、ばらつきが生じる。横軸は成果の尺度で、縦軸はその頻度である(図1)。現実には、こんなきれいなつりがね型の正規分布にはならないものだが、ここでは分かりやすく描いている。

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リスクに対する「対称型」の立場とは、平均的な期待値を中心に、両側に対するばらつきをリスクととらえる(図2)。他方、「非対称型」の立場では、達成可能な最善値から逸脱する可能性を、リスクととらえる(図3)。つまり、この二つの立場とは、最善の状態と平均(普通)の状態、どちらを主眼と見るかの差だということが分かるはずだ。数学的な意味では、両者はほぼ等価に見えるだろう。

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たとえば、外注制作を依頼する系列会社があったとしよう。100個を作らせると、早ければ4週間で上がるが、たいていは遅れがちで平均5週間かかり、ひどいと7週くらいかかとしよう。1週間あたりの生産性で見ると、平均値=20個、最善の値=25個、最低値=14.3個である。この工程のリスクを洗い出すときに、「対称型」の立場では、プラスのリスク(5個分)と、マイナスのリスク(5.7個分)がある、と考える。「非対称型」では、平均して5個分の生産性低下リスクがある、ととらえる訳だ。もちろん、どちらの立場でも、計画立案においては「標準値+リスク」で計画するから、数字的にはかわらない。

では、どちらの立場をとっても同じなのか? いや、そうではない。マネジメントにおいては、非対称型の立場の方が、ずっと有用なのである。それは、リスクがゼロになったときのことを考えてみれば分かる。

平均的な状態を基準にとって、そこからのばらつき(変位)をリスクととらえる場合、もし幸運にもリスクがなくなったら、達成される結果は、平均値でしかない。しかし、最善の状態を主眼として、そこからの逸脱をリスクととらえる立場では、リスクゼロとは、最善の状態を意味する。リスクを抑え込めば、最善の結果を得られる。これが「非対称型リスク」の見方なのだ。

非対称型リスクの立場では、リスク要因とは、最善の結果を妨げる可能性である。それを分析し、コントロールし、とりのぞこうとする活動は、必然的に改善指向になる。次回はもっと良い結果を得よう、そういう気持ちに人を導く。他方、平均的状態を基準に考えると、次もまた、その標準に留まる可能性が高い。

ここが、純粋に理論の世界である数学と、人を動かすためのマネジメント論とのちがいなのだ。だから、上の例では、週25個を目標値に設定し、結果が未達だったら、リスクの原因を分析して、改善のためのPlan-Do-Seeサイクルを回すようにするべきである。

もっとも、これが生産ではなく、配当利回りのような金融収入的な項目なら、対称型でリスク分析してもいい。そうしたものは純粋に市場(外的条件)で決まり、自分達のコントロールや改善がおよぶものではないからだ。ただし、その場合は、リターンとセットで評価すべきである。

わたしは以前、対称型と非対称型の二つの立場の対立を止揚するために、両者に共通するリスクの定義を提案した。それは

 「目指すべき目標値ないし理想状態から逸脱する可能性があり、かつ、その影響をリアルタイムに回避・抑制できないような事象(群)を、リスクと呼ぶ

というものだ。医学・環境学系の立場では「安全性」が理想状態であり、金融工学では「確実性」(=ばらつきゼロ)を理想状態ととらえる。そして、何が理想状態(あるべき姿)なのかを、議論の出発点として明確にしてから、リスク・マネジメントを進めよう、と書いた。

リスク・マネジメントの目的は、リスク評価(アセスメント)を行って、事前に回避したり、リスクを小さくすることだけではない。それはやるべきことの半分に過ぎないのだ。事後のリスク要因分析をして、現実を理想に近づける努力が残りの半分である。リスク・マネジメントとは、わたしたちが現実を直視して、そこから少しでも学んで賢くなるために行うのだ。もちろん、ISOのような世界標準に対して、わたしの声は微力である。しかし、最善の状態を主眼として、そこからの逸脱をリスク要因として分析するほうが、仕事の改善と人の成長のためには役に立つと信ずるのである。


<関連エントリ>
 →「安全と危険の境目をはかる」(2011-04-11)
 →「リスクという言葉自体がリスキーである」(2010-10-02)


by Tomoichi_Sato | 2014-03-11 22:44 | リスク・マネジメント | Comments(0)