2017年 06月 17日 ( 1 )

怒りやすい人びと・怒っていると気づかない人びと

近所の通りを歩いていたら、信号が黄色から赤に変わりはじめたのに、交差点に突っ込んできた乗用車があった。強引に右折して進んでいく。歩道近くの歩行者たちは、あわてて身をひき、皆がひやりとした。車のドライバーは、年配の男性だった。みたところ団塊の世代くらいか。車種はそれなりの中型車だった。

何を怒っているのだろう。わたしは思った。あきらかに、何かに腹を立てているかのような、乱暴な運転だった。別に渋滞でもなく、忙しい通勤の時間帯でもない。だから別のことに腹を立てているのだ。

それにしても、彼は何に怒っているのか。立派な車も持ち、たぶんきちんと家庭もあり、年齢から見て、日本の高度成長の栄光と共に生きてきたはずだ。年金だって、それなりにもらっているだろう。多くの若い人から見れば、うらやむべき境遇ではないか。

もちろん、日常生活には腹の立つ場面はたくさんある。出がけに夫婦げんかでもしたのか、あるいは、好きなチームが夕べ大敗したのか。それとも愛する日本が国際競争力ランキングで先進国中、最下位になったニュースでも見たのか? だが怒りの原因が何であれ、いったん人前に出たら、それに飲まれない分別を身につけているはずの年配ではないか。別のところで腹いせするなど恥ずかしい——それが大人だろうに。

別の経験もある。会社帰りにある店に入ってカウンターに座り、好きなギネスの黒ビールを頼んで、本を読んでいた。すると突然、近くにいた男性(彼もたまたま団塊の世代のようだった)が、「貴方は明るい方ですか、暗い方ですか?」とわたしに問いかけてきた。わたしは一瞬、訳が分からず目をぱちくりしていたと思う。冗談めかしていたが、難詰する口調だ。すぐに、“こんな洒落た店なのに一人で暗く本なんか読みやがって”、と相手が思っているらしいことが見て取れた。余計なお世話ではないか。するとマスターが(その店のマスターが英国人だった)割り込んできて、「この人はこうして静かに飲むのが好きなんでしょう」と取りなしてくれた。

この男性も、わたしに腹を立てたらしい。だが、なぜ? 飲み屋で一人、本を読むのは彼の美学には適わないかもしれないが、迷惑をかけた訳でもない。彼は本当は何か別のことに怒っているのに、はけ口を、たまたまわたしに向けたのだ。

話を、ちょっとだけビジネス方向に向けよう。以下に紹介するのは、ITエンジニアが好む話題=『生産性』をめぐる問答だ。好むといっても、わたしの体験では、多くのITエンジニアは生産性というモノサシを信じていない。かわりに、「できる奴はできない奴の10倍、生産性が高い」「いや、30倍だ」「100倍だよ」「できない奴はゼロなんだから、無限大さ!」と言う風に、モノサシの客観性を無力化する会話を好む。仕事に費やす時間と成果は無関係、天才画家が一瞬のひらめきで創作するようなものだ、という逸話がいいらしい。

——生産性が人によって10倍違うというお話ですけれど、では、参考までに具体的に測った個人別の数字かグラフを見せていただけませんか?
「そんなものは別にありませんよ。こういうのは感覚論ですから。」
——そうですか。でも感覚論だけでは、こまる事もありませんか?
「ま、人の評価というか査定はね、やはり主観で決めるしかないと思いますよ。でも特に不都合はありません。」
——査定はそうでしょう。ですが、顧客が画面を10枚追加しろと急に追加要求してきたとき、生産性の基準が無かったら、どれくらい余計に時間がかかるのか、現有人数で足りるのか、答えられますか?
「そういうのもケースバイケースですね。経験の問題です。」
——ははあ。でも以前から、FP(ファンクション・ポイント)法とかCOCOMOとか、定量的見積手法が提案されていると聞いていますが
「そんなの実務には使えませんよ。ブレが大きすぎてね。」
——うーん・・では、どうやってプロジェクト全体の期間や工数の見積をされるんですか。
「教えてあげましょうか。それはね、ウチの場合、営業マンが上の者と一緒に、表を作るんです。横軸に月数をとって、基本設計や実装といったフェーズごとに、毎月何人くらい動員するか、サブチーム単位で人数を記入して、掛け算すれば工数が出ますから。」
——ああ、マンニング(配員)の表ですね。しかし、その表を作るにしても、システム規模から見て基本設計は3ヶ月でいいとか、設計SEは10人で足りるだろうとか、何か推算はされているはずです。その基準は何ですか?
「(とつぜん怒り出して)そんなの知りませんよ! 営業が勝手に見越して決めてくるんだ! こっちがどんなに苦労しているか知りもしないで、競争に勝てないからって無理に値引きまでして。いい加減にしてくれってんだ!」

日頃から我慢にガマンを重ねて不合理に耐えつつ、そのことを口に出せずに過ごしている人は、あるきっかけで急に怒り出すことがある。怒るなら、本当はその理不尽な上司だか営業だかに向かって訴えればいい。だが組織人ゆえに、感情を押し殺している。自分の気持ちを、見て見ぬふりをしている。そうすると、憤懣の感情が圧縮されたガスのように溜まっていて、直接関係ない方向、本来の理路を指摘した第三者に向けて、突然吹き出すのだ。

エンジニアの生産性を測定するのが難しいのは、事実である。そして多くの知的作業従事者は、自分の生産性を他者に規定されたくないし、ましてや、測って給与を査定してもらいたいとも、思うまい。

しかし、だから生産性は定義できないのだとか、測定しなくていいと考えるのは、プロジェクト・マネジメントの観点からは、全く別である。作業対象の規模のスケールと、生産性の基準が無ければ、工数の見積ができない。見積れなければ、マネーを稼ぐことができず、安定したビジネスが成り立たない。ビジネスが成り立たなければ、エンジニアが落ち着いて技術に打ち込む仕事ができないのも、道理ではないか。もし営業部門がバカでなかったとしたら、見積のブレは逆に、技術屋の側にふりかかってくるのだ。

だが、どこかで、そういった「不都合な論理」は自分の心からシャットアウトして、考えないようにしてきたのだろう。自分の中でひそかに『思考停止線』を引いている人びとは、しかし、いつのまにか次第に、この世は理不尽だ、自分は不当に扱われている、と思い始めていく。

あるとき聞いた精神科医の講演によると、怒りには実は三種類あるらしい。3つのモード(様相)があるのだ、という。それは、一過性の普通の怒りと、蓄積された抑鬱性の怒りと、冷えた軽蔑の怒り、である。

最初のタイプの怒りは、イライラやムカッとした感情で、放っておくといつかは発散し沈静化する。これは普通の感情で、誰にでもあるし、生きものとして正常な防御反応であるとも言える。何か問題が生じていることを、自分や周囲に気づかせるのだ。

二番目の怒りは、とくに朝、顕著に生じるものらしい。ああ! また一日がはじまるのか。なんでこの世はこんなにしんどいんだ! 起きるとそう感じて、うめき声を上げる。継続的な恨みや怒りが原因となる抑鬱、暗さである。これは普通、怒りとは意識されない。また、起きて活動するのが非常に億劫である。だいたい鬱の傾向のある人は、朝が辛い。朝は調子いいのに、毎日午後から暗くなっていく人は、まず、いないのだそうだ。

三番目は、やたらと他人をバカにする軽蔑である。日常的・習慣的な軽蔑の態度が、薄められた怒りの一種であることは、はじめて知った。軽蔑は誰にもありうる感情だが、これは心の体温を下げていく性質がある。怒っているのに、自分が怒っていることに気づかせない、いつわりの感情らしい。そして心の病態としては、要注意なのだという。

こうした病態を持つ、怒りやすい人びとには、病識がない。つまり、自分の怒りがこじれてしまっていることに、自覚がない。この人達の心の中には、おそらく、自分は社会から正当に扱われていない、という怒りが伏流しているように思われる。(もっとも、「自分は社会から十分すぎるほど正当に評価されている」と感じる人など、世の中にほとんどいないと思うが、そこは程度の問題だ)

そして、少しずつ他者への攻撃性が高まっていく。普段の日常では栓をして押さえ込んでいるが、何かの機会で噴出する。聞いた話だが、ある種の不祥事を起こした企業がいると、そこの代表番号めがけて、直接被害を受けた訳でもない人びとから、大量の抗議の電話がかかってくるものらしい。とくにTVワイドショーなどで取り上げられると、クレーム電話は一層エスカレートする。なんであれ、他者に「不正義」があり、非難してもいい理屈がつくと、群がる人達がいるのだ。道徳や正義の顔をした、一種のいじめである。

それで、どうしたらいいのか。わたし達が怒りをこじらせないためには、何か手立てはあるのか。

わたしは専門家ではないし、人それぞれに状況は違うと思う。そこで、これから書くのは、わたし個人の考えであることをお断りしておく。

まず、自分の感情に注意を向けることが、第一歩だろう。あ、自分は腹を立ているな、と気づくことだ。これは、言うほど簡単ではない。強い感情の波は、たいてい自分自身を巻き込んでしまい、客観的な味方を難しくするからだ。それでも、練習すれば、少しずつは気づけるようになるのではないか。

また、そのためには、他人の感情にもよく気づくよう、練習するのも一法ではないだろうか。他人の感情に気づきやすくなれば、自分の感情に対する感度も上がるに違いない。

なお心理学者によると、女性の方が男性より感情的に見えるが、案外、自分の感情を見ているもう一人の自分が、心の中にいたりするらしい(わたしは女性の心理は全く不案内なので、受け売りである)。

そして、「感情は育てるものである」という認識を持つことが、第二歩ではないか。こういうことを、わたしは子どもの頃に教わったことがない。だが知的能力が育てるべきものであるのと同じように、感情も大切な心の働きであり、やはり育てるべきものなのだ。情操教育という不思議な言葉があるが、大人になっても、自分の情操を豊かにすることは、必要なのである。

そして三歩目。それは「感情をコントロールする能力」を身につける・・ではない。ここが、一番のキモなのだ。わたし達の文化では、感情は押し殺すものだ、と繰り返し(無言で)教え込まれる。義理や社会の掟に従うために、腸が煮えくりかえりそうでも、それを表に出さずに堪え忍ぶのが立派である、と。そういうドラマを、歌舞伎の「寺子屋」から東映ヤクザ映画まで、いろんなバリエーションで繰り返し提供される。

おまけに、西洋、とくにアメリカ流の近代市民社会の倫理が、「感情より理性」「感情的になってはいけない」と教えている。これをわたし達は近代に、直輸入してしまった。先生方はいまでも、学校でこの建前を教えている。さらに最近の米国流「ポジティブ・シンキング」は、怒りというネガティブな感情を忌避する傾向に、輪をかけている。

だが、わたし達は、あまりにこうした教えに従順すぎたのではないだろうか。押さえ込み、無視した感情は、心の深層に潜り込み、いつか爆発する時を待っているのではないか。わたし達は上手に感情をコントロールできるほど、まだ大人ではないのではないか。それを、素直に自覚すべきではないか。

怒るべきときには、怒るべき相手に、ちゃんと怒る方がいい。それがわたしの考えである。直接相手にぶつけるのが社会的に無理なら、そのあと一人になった時でも、あるいはその日、寝る前でもいい。心の中で、いったん止めてしまった感情を追体験する。正しい対象に対して、ちゃんと感情を解き放つ方が、人間らしい。そうすれば感情は一過性の波として、心の中を去っていく。変に感情を抑えようとすると、むしろろくな事にならない。

それでも気持ちがざわつくときは、ときに短い瞑想をすると効果的だ。心を落ち着かせ、短くても静かな時を過ごすことは、わたし達に心のレジリエンシーを回復させてくれると感じる。

わたしがこんな事を書くのは、わたし自身が、短気で怒りやすい人間だからである。とくにわたしは、利口なふりをして底の浅い会話、論理的なふりをして理屈の通らない説明が、大嫌いである。そういう場面にあたると、つい、強い尋問口調の問いかけをしてしまう。つまり怒ってしまうのだ。だが、自分が怒っていることを自覚できない。自分は正当なことを言っているつもりでいる。

でも、論理的なつもりで、じつは感情的になっている人間ほど、はたから扱いにくい者はない。こうして無用に、人間関係を傷つけてしまう。これで人生、どれだけ損をしたことか。まったく頭を抱えたくなるほどだ。

こうした感情的欠点に気づくようになったのは、本当につい最近のことだ。もっと前に理解していれば、もう少し尊敬される人間、いや、せめてもう少し親しみやすい人間になっただろうに。だから怒りについて、自戒を込めて書いているのである。

成長に価値を見いだせる人は怒りにくい、という。そうだろうな。怒ること自体は、わるいことではない。だが、上手な怒り方と、間違った怒り方があるのだ。目の前のことに怒るのではなく、自分の本当の問題原因に対して怒る方がいい。わたし達は情緒的な文化を持っているのだから、もっと感情という資源を大切にすべきだ。そしていつわりのそして感情に自分が振り回されるのは、避けた方がいい。だからわたし達は、感情に関する小さなスキルを身につけるべきなのである。自分の感情を、ひどくこじらせてしまう前に。


by Tomoichi_Sato | 2017-06-17 09:24 | 考えるヒント | Comments(0)