2017年 03月 13日 ( 1 )

「理屈を言うな」という理屈

15歳の時の4月。高校の入学式を終えたわたし達・新入生は、各クラスでの挨拶と簡単な自己紹介のあと、体育館に集められた。「オリエンテーション」という行事があると言うことだった。どういう行事かの説明はなかった。

新入生ばかり400人あまりが集められた後、体育館の扉が閉められたが、中には先生達の姿はなかった。壇上には学ランを着た屈強な上級生達が十何人か立って、両手を後ろに組み、胸を反らして立って、わたし達新入生をにらみつけた。どうやら『応援団』という存在らしかった。その中の団長格とおぼしき人が壇上の中央に立って、上半身を腰から前にかがめ、わたし達に向かって、かすれた声で

「ウース」

という声を発した。いや、正確には文字化が難しいのだが、とにかく強引に文字にすると、そういう音声だ。何事か、と驚いてきょとんとしているわたし達に向かって、壇上の、そして左右通路の応援団員達が、わたし達に口々に「返事はどうした!」「声が出てない!!」と大声で怒鳴りつけはじめた。どうやら壇上の人は「押忍(オス)!」とわたし達に呼びかけているのであり、わたし達はそれに対し、同じく「オス!」と大声で答えなければいけないのだ、という理屈が飲み込めるまで、たぶん10分くらい混乱の時間があった。

わたし達がようやく「オス」と声を揃えて返事することができるようになると、今度は校歌斉唱を命じられた。何人か固まって座っているブロックが指名され、校歌の一節ずつを歌え、というのだ。伴奏は応援団の大太鼓だけ。校歌と言っても、わたし達には簡単な歌詞のプリントが、入学手続きのときに、手続き書類の束と一緒に、渡されていただけだった。当然誰も歌えないし、覚えてもいない。無体な要求である。

だが立たされたものの口もきけずに黙っている新入生達に対し、応援団員は怒鳴った。「オリエンテーションまでに覚えろと書いてあったはずだ!」 たしかに配られたその紙をもう一度よく見ると、「オリエンテーションで校歌斉唱の練習をするので、その時までに覚えてくるよう、諸君と約束しておく」と書いてある。だが志望校合格に浮かれている新入生で、そんなものをまともに受け取った者はほとんどいなかった。

応援団員は恩着せがましく、では、一節ずつ我々が歌って示すから、お前たちはそれを復唱して繰り返せ、と指示した。かくて順繰りに新入生達は立たせられ、数節ずつ歌わされた。声が小さかったり、歌詞を間違えたりすると大声で叱られ、良しとされるまで、何度も何度も繰り返させられた。その間、回りの生徒がよそ見をしたり上の空だったりすると、すぐに通路の団員がとんでくる。体育館の扉は閉められ、出口にも守りを固めるように団員が立っている。実際に暴力がふるわれた訳ではないが、ほとんど脅迫的な雰囲気である。このような拷問に近い時間を、あとどれくらい過ごさなければいけないのだろうと、わたし達は思った。

ところで、あるブロックにさしかかって、うまく歌えないといって叱られた中の一人が、勇敢にも壇上の応援団員に向かって、必死の声を上げた。「たしかにプリントには『諸君と約束しておく』と書いてありますけれど、僕たちはとくに約束した訳ではありません。」 こうした火に油を注ぐような口答えに、応援団はどう反応するだろうかと固唾をのんだ。はたして、壇上にいる団長格の人は怒って、

理屈を言うな!

と一喝した。全員がしんとなる。そのとき、横に立っていた、もっと小柄で温和そうな人が彼を手で制して、言った(後で知ったが、実はこの人が団長なのだった)。

「たしかに理屈だ。だが、入学したら校歌を覚えるのは当然ではないか。君たちには春休みの長い期間があったはずだ。そんなに大変なことを、君たちに要求した覚えはないし、君たちから『約束できません』と言われた覚えもない。」

こう言われると、誰も反論できない。結局、オリエンテーションは2時間ほど続き、わたし達は校歌の1番はなんとか全員で歌えるようになった。だが校歌は全部で3番まである。明日もまた放課後にオリエンテーションの続きがあるのだ。わたし達はくたくたの心と体を抱えて、家路についた。

それにしても、理屈を言うな、という世界があるのか・・。帰り道、わたしは思った。本サイトの読者はお分かりと思うが、わたしは理屈っぽい人間である。だがわたしの高校は男子校だった。進学校ではあるが、古い高校で、バンカラの気質も残っていた。男社会で、しかも上級生下級生のタテ型序列の強い世界では、理屈を言うな、というセリフが通ってしまうんだ。理が通っても、力でねじ曲げられてしまう場所があるのだ。15歳のわたしは、このとき大きな教訓を得たと思う。

前回、「設計の『なぜ』を考える」で、わたし達は「なぜ」を問いかけたり答えたりするのがヘタだ、と書いた。だが、そもそもわたし達は、議論という行為自体が下手だ。そして、それは文化に多少根ざしたものだと、わたしは思う。理屈を言うな、は普通のノーマルな日本語である。賛成するにせよしないにせよ、意味するとことは誰にも通じる。だが、このセリフを外国語で言えるだろうか? とても難しいと思う。英語なら、”Don’t tell me your reasoning."といった感じだろうか。だが、あまりしっくりこない。イタリア語やロシア語で、これに類する言い方は可能なのか。アラビア語で、あるいはヒンディー語ならどうか。もしかしたら中国語や韓国語なら、似た言い方はあるのかもしれないが。

もちろん、どこの国に行っても、無体な要求、非道な連中は存在する。ただ西洋や中洋のように文化の根底が理屈っぽい社会では、そういう連中でも、自分たちが道理を蹂躙している、という自意識はあるのではないか。意識してやるのと、無意識にやるのでは、大きな違いがある。

理屈を言うな、というセリフは、どんなときに発せられるのか。それは、自分たちが共有している意思や熱情や気分に、水を差すな、という時ではないかと、わたしは考える。場を壊すな、といいかえてもいい。というのは、理屈というのは、自分と対象とを引き離すはたらきがあるからだ。『客観化』と呼んでもいい。自分と対象、自分と相手がほとんど一体化しているときには、理屈は無用で、入り込むスキマはない。たとえば恋愛に理屈はない。あるいはスポーツや勝負事で皆が一丸となっているとき、その行為の中に理屈を持ち出すのはヤボだ。そしてもちろん、上下関係の中にも。

理屈、つまり道理というのは、誰に対しても通用する。つまり公平である。万人に公平に与えられているのが、論理だ。こういうものは、上下関係の中の対話には、いささか邪魔なのだ。たとえば男子校の運動部のような場所では。あるいは一般に、タテ社会の中では。わたし達の社会における運動部(体育会)というのは、ある種、軍隊の中の人間関係を再現、ないし予習するための場所である。そこでは論理より熱情が優先される。

そして身分や立場の上下がある間柄には、議論はふつう成立しない。議論は一応、「対等」な間で行うものだからだ。

では、そもそも「議論」とはどのようなものだろうか。わたし達エンジニアが仕事の上で議論するとき、それはどのようなプロセスをとっているか、考えたことがあるだろうか? わたしの理解では、(少なくとも西洋社会では)議論は以下のようなプロセスを経る:

(1) まず参加者の共通の前提や目的を確認する。
(2) 議論の対象となる事実について、客観的・多面的に検討する。
(3) 問題となっていることや対策に関し、相互の意見を出し合う。
(4) 互いの視点や意見を組み合わせて発展させる。
 (ここで揉めたら、(1)や(2)に立ち戻って考え直す)
(5) 合意点を見つける。

つまり議論というのは一種の共同作業であり、一緒になにか建物を建てるような仕事なのである。まず(1)で共通の地盤を固める(ここが無いとそもそも議論にならない)。ついで(2)で、議論という建物の土台をつくる。事実というのはたいてい多面的で、見る人の視点によって見え方が異なる。だからここの部分は念入りに進める必要がある。そして、どちら側も「この上に建てて大丈夫」という風な認識を得るべく、客観的にものごとを記述することをつとめる。そして、このステップには自分の熱情や思い込みを持ち込めない。この『客観化』こそが、対象と自分を切りはなすような、“水くさい”部分なのだ。

その先も一応、順番に意見を応酬し合う、一種の共同作業である。互いにブロックを積み上げ合うような行為だ。そして互いに合意できる結論にたどり着く。それは建物の最上階に見晴台を築くのに似ている。これが議論のプロセス、あり方である。

だから、こうした議論では、基本的に「勝ち負け」がない。対等な立場同士の、共同作業だからだ。また通常の個人間の議論のみならず、学問上の論証も、ビジネスの交渉も、いや刑事裁判でさえ、こうした枠組みの中の『議論』の一種である、というのが西洋風のとらえ方だ。

まあ、議論に勝った負けたはないと言っても、もちろん人間だから、それぞれ途中や結果に対して不満もあり得よう。優位に立った方が、勝ち誇るような態度をとることもある。だが、原則として、議論は勝負ではない(和解に至らぬ民事訴訟やディベートという一種のスポーツは別として)。そしてもちろん、議論とは、どちらが頭がいいかの優劣を決める場でもなければ、言葉による喧嘩や暴力(口げんか)でもない。

こういう認識が文化(OS)の中で共有されていないと、意味のある議論ができなくなる。とくに、議論は口げんかではない、ということは早くから子ども達に教える必要がある。また、自分の意見に意固地にこだわらず、議論を通じて、オープンに変えていけるような態度を身につけさせなければいけない。

そして、議論とは広い意味で「学び」の一部である。なぜなら、「学び」とは考え方や知識や意見の変更をもたらすものであり、議論とはまさにそうした結果を生むためにするものだからだ。議論がきちんとできない組織では、認識も深まらないし、学びも行われない。そうした組織では、きっと同じような思い込みが受け継がれ、同じようなミスが繰り返されるだろう。

人間集団はいろいろな形で、不可避的に「上下関係」「優劣の順位」を作りたがる。それは一種、本能の一部なのだろうし、組織に一定の規律や効率をもたらすといってもいい。ただ、上の意見が下に対して絶対で、「理屈を言うな」という言葉で上下間での対等な議論を抑制してしまうと、組織は硬直化していく。理屈を含む議論はその解毒剤なのだ。少なくともわたしは、そう信じている。

私の高校が今でもあんなオリエンテーションという行事をやっているのかは知らない。たぶん、あんな野蛮なやり方は、今の時勢に合わないだろう。だが、15歳の記憶力はたしかに絶大だった。同窓会で集まると、いい歳したおっさん達が声を揃えて、今でも「こーしゃの、いーしずえ、動きなき〜」と校歌を歌うことができる。それと同時に、わたしはあの「理屈を言うな」という一言を忘れていない。あの一言はわたしに、偉大な教訓を与えてくれた。それは逆説的な仕方でわたしに、道理というものが弱い立場の者をまもる武器にもなりうるのだと、教えてくれたのだ。


<関連エントリ>
 →「設計の『なぜ』を考える」http://brevis.exblog.jp/25540003/ (2017-03-07)


by Tomoichi_Sato | 2017-03-13 22:16 | 考えるヒント | Comments(3)