2017年 02月 20日 ( 1 )

Pushで教育し、Pullで成長する

子どもがまだ小さかった頃、よく「きかんしゃトーマス」を一緒に見た。このイギリス製の人形劇は、どうやら英国社会を引き写しているらしく、階級制になっている。機関車はおおむね真面目で勤勉だが、彼らに引かれて走る客車はいつも適当な連中で、機会があればサボることを考え、しょっちゅう脱線事故などの面倒を引き起こす。つまり機関車(Engine)は、技術者(Engineer)のような中産階級を連想させ、客車はすぐにストやサボタージュをする労働者階級を思わせる、という具合だ。
あるとき主人公のトーマスが、例によって客車にトラブルを起こされ、手を焼いていた。すると、となりの線路をゴードンという機関車がちらとトーマスを横目で見て、「人生は勉強だな」といって通り過ぎるシーンがあった。きかんしゃゴードンは中年男を思わせる横柄なキャラなのだが、この台詞はなぜかぴったりと役にはまっており、見ていたわたしと連れ合いはその後しばしば、小さなトラブルに遭遇するたびに「人生は勉強だな」と言い合って笑ったりした。

人はいくつになっても成長できる。逆に言えば、人は一生、学び続けなければならない。ゴードンの名台詞はこのことを表している。ところで、英国のコンサルタントであるMarcus Buckinghamの説によると、人間の学習スタイルには、「分析型」、「行動型」、「観察型」の三つのタイプがあるのだそうだ。それによると、
・分析型は事前の学習時間を十分とる
・行動型は早く未経験の環境に置く
・観察型は手本になるベテランの傍らで、仕事を俯瞰的に見ながら模倣させる
というのが、それぞれOJTのやり方としてふさわしいらしい。このことは、稲山文孝氏の「アプリ開発チームのためのプロジェクトマネジメント」http://brevis.exblog.jp/24117407/ という本で読んだ。

なるほど、とは思ったものの、上記の3タイプはあくまで英米人の類型かな、とも感じる。わたし達の社会なら、このほかに「感情型」だとか「競争型」とかを付け加えたくなる。感情型は好きな人を手本にして感性や情に訴えて学ばせる、「競争型」は試験を課して成績で競わせる、と言う具合だ。

まあ人間の類型論は医学・心理学から社会学まで、いろいろなバリエーションがある。だが、学びという点で見ると、大きく「受動型」と「能動型」に二分できるのではないかと、よく感じる。というのは、この区分は、育成・訓練におけるマニュアル整備の是非の論議に、しばしば登場するからだ。マニュアル論議といういうのは、仕事について伝えるべき一切合切、なるべくすべてをマニュアル化すべきか、という論争である。いや、親切すぎると相手の「学び」が働かなくなるのでは、という疑念や、緊急時対応はどこまでマニュアル化できるか、といった疑問もこれに近い。マニュアルがないと対応能力が下がる。しかし、あまりすべてをマニュアル化すると、今度は「想定外」に対応できなくなるパラドックスが生じる。

こういう議論では、どうも意見に世代間ギャップがあるな、とわたしは感じている。おじさん世代(わたし自身を含む)にとって、知識は稀少資源だった。わたしが社会人になった頃は、パソコンというものすら存在していなかった(きっと日本昔話みたいに聞こえるだろうなあ)。知識はほぼ全て、紙の中にあった。そして、知識情報は自分の個人的資産として「囲い込む」(机の中にしまっておく)ものだった。人が知らないことを知っているのが、自分の優位性だ——そういう感覚が強かった。

その時代、「技術は盗むもの」と信じられていた。教えすぎてはいけない、と。教えなくても優秀な人は、自然に身につけるものだ。何より、生まれつきのセンスが一番大事で、あとは「やる気」、気持ちの問題だ。つまり、自分から知識を取りに行く(Pull型)の態度が主流だったのだ。

ところで、このような態度は時代とともにかわっていく。若い世代(定義は難しいがバブル時代以降か)にとって、知識は世界に氾濫しているものだ。知識はネットでふんだんに流通している。あとは自分で好きに探せばいい。知識は他者から与えられ(Push型)、選び取るものになった。情報整理とフィルタリングの感度が自分の優位性だ、と感じているのではないか。

このギャップは、世代間で知識情報を伝達する「教育研修」において、重大な影響を与える。シニア世代は、若手が取りに来るのを待っている。若手は逆に、シニアが教えてくれるのを待つ。つまり「教育のデッドロック現象」が起きているのだ。こうなると、組織的な「学び」が働きにくくなる。それは、同じような間違いやトラブルを繰り返す原因になるだろう。

このところPMの教育について、ずっと考えている。マネジメント能力の育成は、知識教育だけではまったく不十分だと、わたしは思う。そもそもマネージャーとは、教育すべきものなのか、それとも自己成長なのか? 「俺の背中を見て育て」というおじさん世代にとって、マネジメント能力は自分から取りに行く(盗む)のが当然という考え方が強い。おまけにその世代は、マネジメントの仕事を伝達可能な形で言語化していないことも多い。

もちろん、マネジメントの能力には、言語化できる部分とできない部分がある。つまり属人的なソフト・スキル(技能)の部分と、軽量化し伝達可能なマネジメント・テクノロジー(技術)の部分とがある。そして後者は、先ほど述べたマネジメントの「マニュアル化」の議論につながりがちだ。どこまでマニュアル化できるのか、またマニュアル化すべきなのか?

こうした育成をめぐるPushとPullの議論が混乱する理由は、いろんなレベルの知識情報をごっちゃに話していることにある。そこで知識のレベルを「基本」と「応用」に分けて考えてみよう。

(1) 基本レベル

仕事に必要な基本的知識は、伝える側=先輩が、受け手=後輩に教えこむべき(Push型伝達)ものだろう。そうでなければ、組織として効率がわるすぎる。基本レベルとはつまり、テクニカルで伝達可能な知識やハード・スキルである。そして、そのためには知識に関するPushのシステム(仕組み)を作り上げる必要がある。つまり、教科書化・マニュアル化する訳である。あるいは昨今ならば、 ITツール(e-Learning)も活用することになる。

システム(仕組み)である以上、教える側の体制も構築しなければいけない。なぜなら、「人に教える」こと自体が学びにもなるからだ。組織としては、それを評価褒賞にも組入れる必要がある。

(2) 応用レベル

これに対し、応用的な知識やスキル(主にソフト・スキル)は、受け手が自分から学びに行く(Pull型)べきものである。そうでなければ、能力として本当には身につくまい。そのためには、Pullの知識獲得のための態度・思考習慣(OS)を持つことが必要だ。また、応用レベルは一般にマニュアル化に向かない。範囲が広く例外事象が多いため、教科書・マニュアルでカバーするには効率がわるすぎるからだ。

そこで中心になるのは、学ぶ事自体の面白さだ。身につけば、仕事の幅を広げるのに役に立つ。いや、直接すぐに役に立たなくても、いつか役に立つ潜在的可能性があればいい。そして応用レベルの問題には、必ずしも正解はない。だから、自分の頭で考え、自分のスタンスや価値観を持つ態度が求められる。


以上の二つのレベルのあり方は、ちょうど、学校教育でも実現されている。小中学校の基本レベルは、義務教育であり、先生が生徒に知識をプッシュで教え込む。子どもの側は、なんでこんなことを覚えなけりゃならないのか、などと疑問を持つこともあるが、そこは問答無用ということになっている。これに対し、大学・大学院というところは、(本来は)応用レベルを学ぶ場所だ。そこではいちいち、手取り足取り、教えたりしない。自分の頭で考えて、レポートや卒論などにまとめることが要求される。

ただし、(1)の基本レベルと、(2)の応用レベルを結ぶために、大事なことがある。それは、基本レベルを教える過程の中で、同時に「自分で学びに行く態度」を育てなければならない、ということだ。これがあるからこそ、応用レベルで自ら成長していけるのだ。そのためには、教え手が見本(モデル)となって示す必要がある。質問されたら、誠実に答える姿。難しい問い(つまりよい質問)に対しては、必ずしも全知ではない姿。そして自分も新たに学んだ、学べて面白い、という姿を、見せること。これがあってはじめて、基本レベルの生徒にも「学ぶ態度」が少しずつ身についていくのだ。
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しかし現実を見ていると、どうやら「学ぶ態度を教える」ことが、ミッシング・リンクとなって 欠けていることがある。そうなると、基本レベルから応用レベルに壁を越えてジャンプできない。学校教育でも、高校から大学へはジャンプがある。これにつまづくと、昔なら五月病にかかった。今は、大学自体がPush型中心の、手取り足取りやたらと面倒見のいい(?)教育に、重心を移してきている。そうなると今度は、社会に出たときがジャンプになってしまう・・

そこで大切になるのが、知識のナビゲーター(水先案内人)を組織の中にたてることではないだろうか。まだ十分にPull型の「学ぶ力」が身についていない人を、知識のある場所や、よく知っている先達に適切に導く役柄だ。わたしのこの小さなサイトも、及ばずながらマネジメント・テクノロジーへの水先案内役をしているつもりだ。

もう一つ。これもわたしの仮説だが、Pull型を習慣化し身につけるのは、一人の意思だけでやるのはしんどい。そこで、上級レベルへと学ぶ人のためのコミュニティがいるのだ。その証拠に、だから大学はゼミ方式になっているではないか。

思うに、Push型の教育は、ビジネス化できる。世に沢山、予備校だとか塾だとか資格学校だとかがあるのを見れば明らかだ。ところが、Pull型の成長は、ビジネスになりにくい。「学びに行く態度」を教えるには、マンツーマンの部分が必要であり、マスプロ教育の大量生産に比べるといかにも効率がわるいからだ。

それと同じことで、今の世間のPM教育には「応用」への道筋が欠けているように感じられる。基本レベルは、たとえばPMBOK Guide(R)でカバーできる。そこには有用な知識情報がライブラリ化されている。そしてPMP資格のための教育プロバイダーも多い。だが、本当は「PMBOK以降」への準備が同時に必要なのではないか。PMPは出発点に過ぎない。PMBOK以降も自分で考え、学び続けるための方法と場所がいるはずだ。だからこそわたしは、研究部会の仲間とともに、PMを学ぶためのオルタナティブな仕組みを構想しているのである。

最近、職場の大先輩が語っていたのだが、仕事はあるところから面白くなる、という。最初のうちは覚えることも多いし、担えるのは小さな役割に過ぎない。しかし基本レベルをマスターして、うまく先に進めると、Pushで与えられた専門の枠を超えて、周囲も巻き込んで大きな仕事をつくれるようになる。そして複利計算的に、自分を拡大再生産できるようになる。学ぶ能力自体が資産になるのだ。この大先輩は、基本から応用にジャンプするための、Pullで学ぶ力を身につけたからだろう。

学ぶ力とは、潜在的な能力をみずから獲得するための力である。すなわち学ぶ力とは、能力を得るための能力だ。それを身につけることは、単なる「即戦力」などの教育よりも、ずっと大切なことなのだ。

「教育の目的は、自分たちが聡明ではないことを教えることである。」(アラン・ケイ)


<関連エントリ>
 →「学ぶ時間をどうつくるか」http://brevis.exblog.jp/24292367/ (2016-04-10)


by Tomoichi_Sato | 2017-02-20 23:04 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)