2016年 12月 14日 ( 1 )

書評:「AさせたいならBと言え」 岩下修・著


AさせたいならBと言え」 岩下修・著  明治図書・教育新書(Amazon) 


人を動かすのは難しい。

マネジメントという言葉はいろいろな意味を持つ多義語だが、中核には「人を動かす」という行為がある。自分が直接手を動かして、成果物やアウトプットをつくり出すことは、立派な仕事だが、マネジメントではない。人に働いてもらうことが、マネジメントである。わたしがプロジェクト・マネジメントを人に教えるときには、最初にそのことを力説する。

現実にはマネジメントだけに専念する人は少なく、たいていは自分も手を動かしているだろう。わたし自身だって、職場ではそうだ。ただ、自分でやることと、人に頼んで動いてもらうことは、頭の中で明確に区別している。後者の場合は、計画を立て、作業分担を決め、アウトプットを指定して、やってもらわなければならない。

ところが、これが難しい。

あれほどきちんと伝えたはずなのに、ぜんぜん動いてくれない。あるいは、こちらの思ったこととは全く別のことをやろうとする。やってくれるのはいいのだが、必要以上に暴走する。問題が生じても隠してしまう。結局しかたなくプロダクトを引き取って、ほとんど一から自分で修正したりしてすると、“何のために人に頼んだんだろうなあ”、などと思わずつぶやくことになる。わたし達の問題のかなりの部分は、人が思ったように動いてくれないことから生じるなと、よく感じている。

マネジメントの第一歩は「言葉にすること」だ。これもわたしが講義などでいつも強調することである。マネジメントが人を動かすことである以上、(テレパシーでも使えない限り)わたし達は相手に、言葉で伝えなくてはならない。だから、言葉にするためのスキルが必要である、と。人に教えているくらいだから、自分でも自覚していて、それなりにはっきりと言葉にして伝えたはずなのに、なぜ相手は思ったように動いてくれないのだろうか?

マネジメントに似た概念に、『リーダーシップ』がある。リーダーシップとマネジメントの違いは別の所に書いたから繰り返さないが、ともに<人を動かす>点では共通である。ただ、リーダーシップの場合は、ふつう同じ職能集団の中で人をリードするため、影響力を行使するしかない。命令権はないのが普通だ。むしろ、自分が本来は命令できないような相手を動かす力を、リーダーシップの発揮とよぶ。

一方、マネジメントは通常、上司部下などの関係があり、業務命令や給与査定など強制力を発揮できる。従わせる力があるのだ。である以上、相手が従わないとなると、むしろ相手の態度を疑うことになる。あるいは、理解力を。

そう。この問題に対する一番簡単な解釈は、「相手は頭がわるい」と考えることだ。愚かだから、こちらの言ったことが分からないのだ。あるいは、従わないとどうなるか、考えもできないのだ、と。だが、それで問題が解決するだろうか? 右見ても左見ても、世の中馬鹿ばっかりだ、というのは真実だろうか。真実だとしても、それで自分のやりたい仕事をうまく達成できるだろうか?

そう思い悩んでいたとき、ふと、大きな書店の教育書の棚で、この本を見つけたのである。「AさせたいならBと言え」。タイトルはどういう意味だろうか。著者は小学校のベテランの先生だ。たしかに相手が小学生なら、理解力はそうとうに低いに違いない。先生という職業は、学童生徒から見ると、おおきな「権力」を持った存在である。そして毎日、理解力の足りない生徒に指示を与えなくてはならない。ここに、何かマネジメントの悩みにヒントがあるのではないか。

早速買って読んでみた。そして驚いた。序文の中で、著者は、自分の娘(小学3年生)が友達の家に遊びに行くというとき、“車に気をつけて道を渡りなさい”というかわりに、こうたずねたというのだ。

「さゆりちゃんの家に行くまでに、いくつ道路を渡るの?」(p.17)

娘さんは頭の中で道順をたどりながら、「三つ」と答える。そこで「三つ渡るんだね。気をつけて渡りなさいよ!」と送り出したらしい。こうすれば実際に道路に出てからも、やりとりを思い浮かべながら、あ、一つめだ、などと思いながら渡っていくだろう。単に“気をつけて”と指示するよりも、ずっと「言葉に中身が入ったのだった」(p.18)

わたしは舌を巻いた。単に命じずに、たずねる。そうして、相手の頭の中に、想像という知的な働きを巻き起こす。これによって、命じられたことをする、あるいは、しない、よりも別の次元に、行動を引き上げるのである。自分で考えたことは、自分自身の主体的な行動になる。

もう一つ例を引こう。朝礼のとき、並んだ子ども達を先生の方を向かせるため、まっすぐに立たせようとするとき、

「目をこちらに向けなさい」「前の人の頭を見なさい」

などとよく言ったりするが、これはあまり役に立たない。なぜなら「内面の働きがゼロだからだ」(p.41)。しかし、

「先生の後ろの1年生の教室を見なさい。部屋の中に何があるか探してください」

というと、顔が急に「知的」になる。「一年生の教室」が子どもの好奇心、遊び心をゆさぶったのである。視線を前に向けると、身体もリラックスしてくる。子ども達に、自ら思考を展開できる状態が生じる。「前の人の頭を見なさい」では、視線が統制され、次の思考の構えができない(p.93)という。

これが、『AさせたいならBと言え』の根幹である。Aさせたいときに、Aしろ、と命じても大して役に立たない。Bを問うて、頭の働きを呼び起こす。このとき、「説明・指示の言葉は、ハッとさせるような比喩の言葉を用意しよう」(p.60)という原則を、著者は提示する。これが、人を動かすときの勘所らしい。

指示だけでなく、質問を出すときも同様である。どこかに見学や旅行に行ったとき、子ども達に、気がついたこと・学んだことを、そのままたずねてもダメだ。なぜなら、目に見えないコトは、単純な心の持ち主である子ども達には理解しがたいからだ。いきなりコトを聞いても、子どもは考える手がかりがつかめない。そこで、

「一番良かった場所をいってください。その場所で、とくに心に残っていることを言ってください」(p.160)

とたずねる。つまり、抽象的なコトではなく、具体的な場所や人を手がかりに、きくべきなのである。

ちなみに、朝礼の場面では、

「おへそをこちらに向けなさい」(p.32)

というのも有効だ。顔や目(A)ではなく、おへそ(B)を向けろ、という。子どもは、小さなモノに注意が向く(p.127)からだ。

それにしても、この原則を、『AさせたいならBと言え』という単純かつ忘れがたい言葉に凝縮した点が、著者の知恵であろう。そしてBの言葉の中に、「ゆれのないモノ」の提示をせよ、という。「ゆれのないモノ」とは、具体的には、「物・人・場所・数・音・色」であるとして、種々の例を挙げる。この本はそうした、100以上の魅力的かつハッとする例がのせられている。たとえば、

合唱の時に、「(タクトの代わりをしている)先生の人差し指の爪を見なさい。ここに、みんなの声をぶつけてください。」(p.128)

体育館でざわついているとき、「みなさん、雨の音が聞こえますか。雨の音をじっと聞いてください。」(p.202)

といった具合だ。とくに著者は、「ゆれないモノ」を選ぶ基準として、地を背景に明確に浮かび上がる「特異点」としてのモノを提示せよ(p.128)という。「おへそ」などはまさに、そうした特異点である。だから子ども達の注意をひくのだ。

ただし、こうした特異な指示の言葉は、半年に一回程度しか使えない。「子どもを動かすのにいかに有効な言葉も、使いすぎると、たちまち、力は弱くなる。どんな『図』もすぐに色あせ、『地』に向かう」(p.208)からである。

そういう意味で、『AさせたいならBと言え』のBを探すためには、指示を出す側もつねに頭を使って、考え続けなければならない。「物・人・場所・数・音・色」は一種の定石、ないしガイドラインなのである。

繰り返すが、Aさせたいときに、「Aしろ」というだけでは、相手の中に知的で主体的な働きは起こらない。とくに相手が子どもではなく大人、それも「自分は知的だと信じている」大人であるときこそ、うまく言いかえなくてはならない。知的と言っても、たいていは決まり切った枠組みや方向にしばられているから、それを解きほぐすような、ハッとする比喩や意外な質問を探す必要がある。

だから、この本に出ている例は、そのままいつでも引用して使える「正解集」ではなく、わたし達の側が、頭を絞って言いかえるための題材集なのである。読者に正解(A)を言うのではなく、具体例(B)を与えて、読者の側の思考を引き起こす。おお、まさにこの本自体、『AさせたいならBと言え』という構造になっているではないか! なんと素晴らしい(^^)。


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by Tomoichi_Sato | 2016-12-14 06:56 | 書評 | Comments(0)