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情報をデータにおとし込む

以前、丸谷才一のエッセイを読んでいたら、「順調だった議論がこんぐらがるのは、たいてい比喩のところからだ」と書いてあるのをみて、なるほど、と思った。他人に論点をわからせようとするとき、われわれはよく比喩を使う。たとえば、“在庫とは時間のかんづめのようなものだ”とか、“(海外からの)技術導入は麻薬のようなものだ”といった言い方である。前者は、在庫物品があらかじめ進められた調達/製造工程の結果であることを言い表しているし、後者は、技術導入の成果は翌日からでもすぐ商品になるが、先々ずっと依存し続けることになる事情を示している。しかし、こうした喩えはインパクトが強いが、もとの事象をおおざっぱに表しているだけなので、どうしても異論が出やすいのである。議論のさなかに比喩を使うときは、かなり注意して用いる必要がある。

もうひとつ議論を混乱させやすい因子としてあげられるのは、形容詞である。「大きい」「小さい」「高い」「低い」といった形容詞をわれわれはしばしば使うが、これが結構、異論の元となりやすい。というのは、こうした形容詞はその裏側に評価というものがはり付いているからだ。「在庫が小さい」といえばポジティブで、「製造のコストが高い」といえばネガティブに聞こえる。そこで、異論を持つ人からすぐ、“いや、一概に小さいとは言えない”とか“営業経費だって小さくない”と反論が来る、という次第である。

ところで、形容詞による議論の混乱は、簡単な解決方法がある。それは、「大きい」「小さい」といった言葉の代わりに、具体的な数字でいってみることである。「在庫は1.2億円分ある」とか、「製造のコストは5年前に比べて40%上がっている」と言えばいい。そうすると、議論は1.2億円という数字がどの程度正確か、またその数字をどう評価するか、という方向に進んでいく。事実認識の問題と価値評価の問題を分けて考えることができ、議論のクラリティ(明晰度)が上がるのである。

そういえば、私は若い頃、先輩から「エンジニアは数字で話せ」と教えられた経験がある。技術屋だったら、多い・少ないの『言葉』ではなく、10%なのか90%なのか数字で示せ、という訳である。逆に、数字に落とし込めない議論は、どこかにゴマカシがあるかもしれない、とさえ感じるようになった。議論する前に、まず事実を見ろ。事態の評価に飛びつく前に、まず事態を客観的に把握しろ--先輩の教えは、そういうことだった。

前回、『データを情報に変える』(「考えるヒント」2009/02/14)で、「情報とは、人間にとって意味をもたらすもので、ふつうは言語のかたちをとっている」と書いた。「データとは中立なもので、それ自体は価値を持たない」とも。つまり、先輩の教えとは、情報レベルでのやりとりで混線したくなければ、まず情報をデータに落とし込め、といいかえられるのかもしれない。この方が、伝達や再利用での可能性が広がるからである。

ここでいう「データ」とは、別に「電子データ」の意味ではないことに注意してほしい。客観的で定型化されている数字や文字の並び--それがデータである。だから、パソコンの中に、ワープロのファイルが山ほどちらばっているけれど、いちいち中身を開けてみないと何がなんだか分からない、といった状態はデータの用をなさない。効率よく探し出せなければデータとはいえないからだ。

われわれはオフィスでメールや電話のかたちで、日々かなり大量の情報のやりとりをしている。そして、そうした情報は基本的に非定型である。一方、オフィスワークは誰がやっても合格点のレベルで仕事が動くよう、(判断を含めて)プロセスの標準化が求められる。「需要が大きそうだと課長さんが判断したから在庫を増やしました」というレベルでは、組織としての一貫性は保てない。「この先3ヶ月間で必要な在庫費用は60万円だが、欠品の機会損失は100万円以上になりそうなので在庫しました」というレベルの判断が望ましい。

この「判断の標準化」、あるいは「判断の見える化」に必要なことが、数字とデータにもとづく判断基準なのである。そのためには、人間が発する非定型的な意味情報を、いったん定型化してデータに落とし込み、蓄積したり集計したりする作業が必要になる。そして、そもそもITとは、そのためのツールであるはずだった。情報をデータの形にして機械に処理させ、機械のもつデータから情報を取り出す。このサイクルをうまくつくることこそ、IT利用の最大の勘どころなのだ。

たとえば請求書を手書きの伝票で送るのと、ワープロの手紙で「200万円お支払いください」と書いて送るのと、どっちがIT化に近いだろうか? ワープロの方だと思う素人は、少なくあるまい。ところがIT屋の目から見ると、手書き伝票の方がずっとデータに落とし込みやすい。形式が完全に決まっているからだ。宛先があり、日にちがあり、品目と数量と金額が一行ごとにあって、最後に合計と振込先がある。どこをみればどの項目か迷うことがない。他方、ワープロのファイルを開いて、文章の中から金額をつかまえるのは容易ではない。

ごく単純で機械的な作業で処理できるようなものを定型的という。非定型的な情報は、高度な知的判断を必要とする。ワープロのファイルは非定型だからデータではないが、手書き伝票は定型化されているからデータである。データに落とし込むためには誰かがはじめにその形式をうまく考えて定義してやる必要がある。その形式化をおろそかにすると、データとしての取扱いの難しい、非定型な情報ばかりが行き交うことになる。

データから情報をくみ上げ、また情報をデータに落とし込むサイクルを構築することこそITの能力であり、こうしたことを教えることこそ、真の情報教育だと思う。にもかかわらず、情報とデータに関する基本的理解が足りないまま、情報技術をほんの表層だけつかっている状態がいかに多いことか。お金を計算機にかけながら、実際にはその半分の価値も引き出していない「IT未満」型利用者が多すぎる。

IT未満な人たちは、ワープロや表計算なんかのITツールを、もっぱら『清書用の道具』としてとらえる傾向が強い。だから帳票類を電子化するときも、罫線や図形を神業的に駆使して、紙と見た目そっくりにすることに命をかける。その結果、たいていは入力も面倒、データとしての再利用にもひどく不便、なものになってしまう。それどころか、管理職経由で電子メールで送ればすむものを、わざわざプリントアウトして判子をつくことを強制したりする。こういう病はあちこちではびこっている。

各人のスキルないし職人芸的判断に任せる部分が大きく、仕事の流れが定型化していないところでは、みなが高度な知的判断をしなければならなくなる。日本企業がこうした部分を放置したまま、目先の「合理化」のために人減らしをしているうちに、後ろから中進国に追いつかれ追い抜かれたりする状態にならないことを、私は切に願うのである。
by Tomoichi_Sato | 2009-03-15 23:11 | 考えるヒント | Comments(0)
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