一年の計は

2009年の仕事のサイクルが今週からまた、はじまった。それにしても1年前と何というビジネス・シーンの違いだろう。年初にあいさつしたベテランのプロマネは、ある自動車会社トップの昨年初と昨年末の発言の比較映像をTVで見て、同じ人とは思えない、と驚いていた。似たようなことは、エコノミスト達の発言にも感じられる。予測が当たらなくてもとくに給料に影響がないのがエコノミストという職業らしいが、たまには1年後の株や為替の予想について採点帳でもつくったらいいと思う。何が起こるか分からないのが実社会なのに、この人達はいつも自信を持って未来を予測したがる。

一年の計は元旦にあり、という諺は誰でも知っている。しかし、この『』が計画の計をさしていることは、案外忘れられているようだ。今年一年間の計画を年初に立てよ。希望を持って計画的に生きろ。--そう、この諺は言っている。ところで、そのかんじんの計画とは、どういうものだろうか? 前にも書いたが、私は計画立案という行為を、次の式で表している:

計画=予測+意志決定

計画とは、現時点から見てこの先どうなるか、という予測をまず行い、その上でいくつかの可能性や選択肢を評価して決断を下す仕事である。計画立案には、必然的に予測という行為がつきまとう。見積とか推定と言ってもいい。来月この製品の需要が増えそうだ、とか、あの分量の検査をこなすにはこれだけの人数と期間が必要だろう、といった予測があって、だから素材は来週手配しておこう、あるいはテストツールはこれだけ用意しよう、といった決定が定量的に行われる。「定量的に」というところがミソで、そこが抜けてしまうと願望もしくはスローガンになってしまう(“できるだけ頑張ろう”)。これが計画という作業の本質である。

そして、達成すべきことが決まったら、(1)必要なタスクを洗い出し、(2)タイムテーブルを作成し、(3)リソースを割り当てる、というスケジューリングの定石ルーチンに持ち込めばよい。ここまでは、従来からある生産管理とかプロジェクト・コントロールの世界の話である。

ところが、昨今は計画の背後にある目標設定自体が揺らいできている。先が見えない状況の中で、皆が自信喪失状態になり、少なくとも去年までの延長線上では無効だと感じているからだ。このような時代では、与えられた目標達成について"How"のみを考える「傭兵隊長」型のリーダーシップだけではダメで、自ら"What"の目標設定を行える「プログラム・マネージャー」型の行動が必要になってくる。

そもそも、私たちの一年の仕事の目標・ゴールとは何だろうか。ゴール、目的、目標・・・こうした言葉を、私たちはあまり区別無く使っているが、本来これらは別のものである。そして、これらを正しく識別することから私たちは再スタートしなければならない。

ゴールとは、いうまでもなく、それを達成すると仕事が完了となる条件である。それは何らかの製品であったり、あるいは設計図という成果物であったり、あるいは結果を伴うサービスであったりする。これに対して、目的とは、その仕事を行う本来の意図を指している。たとえば、展示会への出展を考えよう。開催期間の3日間ブースを借り、パネルを作ってパンフレットを配る、というのがゴールである。しかし、展示会の目的は、新製品のプロモーションであり、販売機会の拡大にある。目的はたいていゴールよりも大きく、ハイレベルのことがらである。

では目標とは何か。これは、達成の度合いを客観的に検証できるような形に表現したものだ。たとえば、パンフ2千枚を配布し、名刺200枚を収集する、あるいは製品認知度を5%向上する、といったものが目標である。目的と似ていて混同しがちだが、目標はつねに基準や尺度とワンセットになっている。「この製品の販売目標は・・」とはいうが、「販売目的は」とはいわない。これが違いである。

したがって、重要なのはこの「目的」のとらえ方にある。一年の計を考えるときには、数量だけの目的や、Be動詞であらわされる目的はかかげない方がよい。つまり、「売上10億円達成」だとか「業界シェアのトップになる」といった目的はやめておこう、ということだ。数字だけなら目標にすぎない。“~になる”というのはゴールでしかない。私たちはまず、はっきりとした意図にもとづく、ブレの無い目的を持つ必要がある。

とはいえ、組織の中のサラリーマンは、根源に立ち戻っての「そもそも論」が苦手である。会社組織といえども「パンのみに生きるにあらず」と私はつねに言ってきたが(「コンサルタントの日誌から」2002/2/08)、実際には“存続だけが自己目的化した組織”があちらにもこちらにも存在しているからだ。

目的を明確にし、ゴールを決めて計画を立てたら、目標を公言するべきだろう。予測という行為の下にある仮説を意識し、共有するのである(つまり、皆で“賭ける”わけだ)。先のことは分からない。分からないから、仮説を立て、計画する。皆が同じ仮説を持って仕事をすれば、個別の出来事にはブレずに、目標に向かって進めるようになるからだ。

多くの人は(例のエコノミスト達も含めて)この点を誤解している。先のことは分からないから、計画がいるのだ。見通せるから計画する、あるいは、見通せないから計画しない--たいていの場合は、この二分法に惑わされている。計画するから、主体的な意図を持って進めるのだ。見通せないから、自由度を確保して適応能力をあげる必要があるのだ。

×見通せるから、計画する = 計画のみの戦略(すなわち現実の変化に弱い)
×見通せないから、計画しない = 適応のみの戦略(自分の意志で変革できない)

それでも予想外のことが起こったら、どうするか。コンティンジェンシー・リザーブの範囲を超えたらどうするか? 

そのときは、「覚悟はできている」と口にしてみるのが良いかもしれない。これは養老孟司の口真似だが、空疎な『予測可能性』に立脚するリスク・マネジメントにしがみつくよりは、ずっと精神の健康には良さそうだ。先のことなど分からない、と思っていれば、予期せぬ思いがけない出会い、セレンディピティーとめぐり会う可能性もうまれてくる。先のことは予測できる、と信じている人は、この可能性を最初から閉ざしているのだ。

この正月、久しぶりに家族皆で過ごせた人も多かったと思う。現代の家庭は、普段はなかなか一緒に夕食もとれない。パパは残業で、ママもパートで忙しく、子どもは夜も塾に通っている。幼稚園からの競争社会だ。そしてよい学校に入り、よい学歴を得て、よい企業に就職し、さらに競争に打ち勝てば、順風満帆の人生が待っている・・そんな風に信じている親も多いらしい。だが、本当にそうですか? そんなに先のことがなんで分かるの? 自信を持って未来を予測する人ばかりそろったアメリカ金融界から、危機は始まったのではなかったか。

さて、私個人の、プライベートな今年の抱負をかいておこう。ここ数年間つづけてきた、また折にふれて発表してきた「リスク確率にもとづくプロジェクト・マネジメントの研究」をまとめて、世に問うことである。どんなプロジェクトのアクティビティにも、未知のリスクが付随している。そのことを前提として認めたら、プロジェクト評価の方法はどのように変わるか。従来のDCF法やコスト基準に基づくマネジメントの方法とどこが違うか。そして最適なプロジェクト予算は存在するのか。そうしたことを、できれば明らかにしていきたいと考えている。むろん、本業がそれを許せば、であるけれども。
by Tomoichi_Sato | 2009-01-07 23:56 | ビジネス | Comments(0)
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