時間、売ります

まだ大学生の頃のこと。サークルの部屋に、卒業した先輩が遊びに来た。役所に勤めて、ぱりっとした背広を着込んだ彼が、こう言うのだ。「働いてみたら、『就労とは自分の労働時間を売ることだ』という経済学のテーゼは、実感とは全然ちがうことがわかったよ。」--つまり仕事とは、使命感をもってするものであって、給料のために自分の時間を売買取引することではないのだ、というのが彼の説明だった。またそうでなければ、とても良い仕事なんてできやしない。そう語った彼の言葉を、今でも覚えている。

やがて、自分も就職した。同業のライバル会社に入社した同期の友人とあったら、彼は「部署に配属になったら、まずタイムシートなる表を説明された。毎日、どの仕事で、何時間働いたかを逐一記入させられる。エンジニアリング会社って、こんなところまで人を管理するのか! とあきれた。」と憤然としていた。これも忘れられないセリフだ。

ところで、私自身の感覚は少しちがった。私は働いた時間をタイムシートにつけることに抵抗はなかったし、自分は会社と契約関係にある、とも思っていた(今でもそう思っている)。たぶんこの二人に共通していて、私に欠けていたのは、“仕事とは使命感ややりがいをもってなすべき創造的活動であり、それに従事している人間は労働時間などで事細かに計って管理されるべきではない”という信念だったのだろう。自分の仕事に対する自負心、といっていいかもしれない。私が『時間管理術』という本を書いて、主人公を新米のマーケティング・マンに設定したとき、じつは最初に思い出したのがこの議論だった。

「ホワイトカラー・エグゼンプション」の議論が最近かまびすしい。ホワイトカラーは裁量範囲の多い、知的で創造的な業務についているのだから、仕事の成果で給与を測るべきであり、工場労働者のように残業したから時間給をいくら、と払うのにはそぐわない--これがホワイトカラーの“エグゼンプション(適用除外)”の主張だ。近年、フレックスタイムや年棒制、裁量労働制などの事例が増えてきたが、それをもっと徹底して、何時間働こうが残業代は一切なし、きまった給料のみ、というやり方である。成果主義とも通底する思想だ。

ところで、このホワイトカラー・エグゼンプションの主張は、上にあげた二人の考えに、内容的に共鳴することをお気づきだろうか。創造的な業務であり、細かい管理にはそぐわない。だからタイムシートなど不要だ、となる。それでは、自分たちの仕事の『成果』はどのように量るのだろうか。本当に計れるのだろうか? まさか仕様書や建議書のページ数が尺度ではないはずだ。

じつは私も新入社員の集合研修で、ある言葉を聞いた。それは、「わが社のエンジニアは、マンアワーという単位で仕事量を計り、その価値を7,500円という値段で顧客に請求してビジネスをしている」という説明だった。「だから諸君。この部屋に100人以上集まって、1時間私の話を聞いているということは、会社は100万円近くのコストとひきかえに、君達の教育に投資しているんだよ。」と言葉は続いた(値段は当時)。

労働者は会社に時間を差し出して時給をもらっている。しかし、会社もエンジニアの時間を売って商売にできる、という感覚は、そのときまで私にはなかった。でも、考えてみれば弁護士なども同じビジネスモデルではないか。勝ち負けの成功報酬や書類のページ数で料金を決めるわけではない(事実、弁護士もふつうタイムシートをつけている)。以来、私は時間を売っているという感覚から離れられない。

医師だって、本来はそうであるはずだ。診察料とは、医師の時間に対する費用のチャージである。その頃から問題になっていた「薬漬け医療」は、結局、医師の診察料が安すぎるために、薬の差益で医療ビジネスを成り立たせざるをえないことから発生していた。もし医師がきちんと診察料を得られる保険の仕組みになっていれば、ていねいに患者を診てもちゃんと引き合うはずなのだ。

およそ『プロフェッショナル・サービス』、プロと名前の付く専門職の仕事とは、そうしたものなのである。成果ではなく、時間を売る。いいかえると、モノではなく、知恵とアドバイスを売る。なぜか。それは結局、その知恵を自分の問題解決につなげられるかどうかが、それを受け取った者に依存するからなのだ。知的な仕事の成果に価値があるかどうかは、作り手だけの問題ではない。じつは作り手と受け手の共同責任なのだ。この点を、多くの議論は忘れている。忘れたまま、見かけだけの成果主義に走っている。

(ちなみに、今どき工学部出の技術者なんて二束三文だが、古代ギリシャでは、医師と法律家と技術者は3大プロフェッションとして尊敬されており、同時に高い倫理も求められていた)

それでも、たいていの会社は成果主義や年棒制に走るのを止めないだろう。1日24時間の限られた持ち時間の中で、どう会社の求める「成果」を発揮するのか、考えなくてはならない時代になったようだ。そのとき大事になるのが、(本の中にも書いたように)「長さとしての時間」と「量としての時間」の区別である。あるいは、質としての時間と量としての時間、といいかえてもいい。今回はこの問題を議論するつもりだったのだが、例によって長くなりすぎてしまった。この続きは、次回書こう。
by Tomoichi_Sato | 2007-04-10 23:42 | 時間管理術 | Comments(0)
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